全48件 (48件中 1-48件目)
1

まず、八幡山城の地図を引用させていただきます。(資料1ほか) [探訪時期:2012年12月]西ノ丸から本丸への道の途中にこの「龍神堂」という小さな小祠があります。由緒説明板によると、八幡山御守護の大杉龍神だとか。新たに御神体「大杉秀雲龍神」像を彫り、昭和62年4月に「祠」建立に至ったようです。直ぐには思い出しませんが、山頂に龍神を祀るという例は何カ所か出会ったことがあります。この点も調べてみると、おもしろいかもしれません。 山上としては壮大な本丸の石垣裾を回って、本丸の虎口に向かいました。 現在、本丸の場所は村雲御所瑞龍寺門跡で、近江湖東二十七名刹霊場第二十番となっています。日蓮宗唯一の門跡寺院です。 内側から見た山門 虎口にある山門から石段を上がった先の平坦地奥に「本堂」が建ち、その右側に「瑞興殿」があります。 その手前に「開山塔」が建てられています。本丸の平坦地全体を歩き回ることはできません。本丸から二ノ丸に少し下ります。二ノ丸には展望台の建物が建っていて、1偕が土産物店、2偕が展示室になっています。八幡瓦製作過程のパネル写真説明、発掘調査のパネル、発掘品瓦などの展示、秀次公絵伝記第ニ巻(複製品)の展示などがありました。展示の1枚に「豊臣秀次のまちづくり」という具体的な説明パネルも掲げてあります。 一時的に山を覆っていたガスがきれ、八幡の水郷の方向や城下町を二ノ丸から眺めることができました。二ノ丸から東側の尾根伝いに山を下ります。 地図の大平あたりだと思います。 そして、小平を通り、日牟礼八幡宮の裏側から境内を見下ろしながら、日牟礼八幡宮の東南の参道近くに下山しました。ここで一旦、昼食休憩のための解散です。午後の集合時刻まで日牟礼八幡宮と八幡堀の一部を食事後に個人探訪してみました。 本殿祭神は、誉田別尊(ホンダワケノミコト)・息長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)・比売神(ヒメカミ)です。本殿は、三間社流造千鳥破風向拝付で、間口三間、奥行三間の建物です。(資料2,3)「古代、八幡山の山麓一帯は大島郷と呼ばれ、『延喜式』式内社の大島神社があったが、日牟礼庄の開発後、11世紀初めに八幡神社が勧請された。中世には、近江守護佐々木氏のもとで八幡神は武神としての信仰を集め、室町時代には日牟礼八幡宮の名称が使われたようである」(資料2)とのこと。そして、日牟礼八幡宮は八幡商人の熱心な信仰の対象となっていったといいます。 本殿の前にある拝殿の一隅に金色のつがいの鳩像が。 拝殿横の石段傍の石灯籠傘の苔生した風情がいいです。 「拝殿」は入母屋造で、 間口三間三尺 奥行三間三尺の建物です。(資料3) 拝殿の前面の右側にも金色のつがいの鳩像が。 手水舎の龍さんがちょっと違っていておもしろい。手水舎の近くの建物に、 八幡祭(4月中旬)の松明が奉納されています。応神天皇が行幸の折り、舟で現在の南津田に上陸したそうです。住民が葭(よし)で松明を作って道案内をしたという伝承があり、それが八幡祭の第1日目の松明祭のいわれになっているようです。この松明祭では、第1日目の夜、各町でつくられた巨大な松明に、その年定められた順に従って点火されるとか。第2日は大太鼓の渡りがある太鼓祭になるとか。(資料2,3) こども左義長・一基松明が奉納されていました。日牟礼八幡宮での左義長祭は3月中旬に行われます。「八幡の左義長は、1585(天正13)年八幡城が築城された頃、安土(現、安土町)から移住してきた町民が始めたと伝える」(資料2)「左義長は藁で三角錐の松明を作り、そこへ赤紙を中心とした紙製品で飾り付け、自由な変装をした踊り子が神輿のように担ぎ回る。日曜日の夕、くじの順に奉火する。」(資料3)とあります。 日牟礼八幡宮の楼門この楼門についてネット検索していて得た情報ですが、1359年佐々木六角氏が建立、猿の御門と称されているとか。1855年に焼失し、1858年に再建されたものだそうです。 この門、木鼻をはじめ彫刻装飾が見事です。小雨で傘をさしながらだったので、じっくりと写真を撮ることができませんでした。また、あらためてお天気のよい時に再訪したいと思っています。つづく参照資料1) 埋蔵文化財活用ブックレット12(近江の城郭7)『八幡山城跡 -天下を継ぐ城-』 作成 滋賀県教育委員会2) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会 山川出版社 p7-93) 日牟禮八幡宮 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺 関心事項の波紋を拡げてみて・・・・瑞龍寺(近江) :ウィキペディア日牟礼八幡宮 ホームページ近江八幡 左義長まつり :「ROOM 1 琵琶湖の風物詩」 楼門の情報もこのサイトでご教示いただきました。近江八幡 左義長まつり 2012年3月17日、18日 :YouTube近江八幡・左義長まつり(平成24年) :YouTube左義長まつり 滋賀県近江八幡市日牟禮八幡宮 :YouTube左義長まつり(近江八幡市) :YouTube近江八幡 八幡まつり(太鼓まつり) :YouTube平成22年八幡祭(松明祭)宵宮宮入 :YouTube平成22年八幡祭(松明祭)宵宮松明奉火 :YouTube平成22年八幡祭(松明祭)宵宮松明奉火2 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -1 秀次館跡と秀次像、西ノ丸 へ探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -3 八幡堀 へ探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -4 洞覚院・八幡別院・近江商人屋敷ほか へ探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -5 かわらミュージアムと町名 へ
2017.05.31
コメント(0)

八幡町絵図2012年12月22日(土)、小雨の降る中での探訪でしたが、近江戦国探訪の企画(滋賀県教育委員会文化財保護課)の一つに参加しました。その時の記録としてまとめていたものを、ここに再録し、改めて八幡山城跡と城下町の探訪結果をご紹介します。鶴翼山(八幡山)には過去数回登り、城跡を見ていますが、地元の方にガイドをしていただき、山城跡や城下町を探訪するのはこのときが初めてです。今までに見られなかった場所や新たな目で見られた場所もありました。小雨の中で傘をさしながら撮ったデジカメ写真ですが、ご覧いただければうれしいです。この探訪は、八幡山裾にある八幡公園に9:30AM集合の一日コースでした。まず八幡山城跡を廻ってから、城下町のいくつかの史跡を探訪し、かわらミュージアム前で解散。かわらミュージアムは探訪参加費として企画に組み込まれていて、解散後の個人見学という組み合わせでした。こういうのはマイペースで拝見できるのでいいですね。当日、探訪資料として、『八幡山城跡 -天下を継ぐ城-』というブックレットをいただきました。探訪でのガイドさんの説明ほか諸情報などを参考にして、まとめてみます。(資料1)ブックレットには、八幡山城下町の絵図が掲載されています。同種の古地図がネットから得られないか?それが冒頭に引用した画像です。(資料2)八幡堀と組み合わされた碁盤目状の町割りがきれいです。ブックレット掲載の絵図とは異なりますが、併せて見るとおもしろいものです。「城下町は縦12筋、横5筋の碁盤目状に町割りされ、八幡堀によって城と隔絶されています。八幡堀は東を北之庄沢から西の湖へ抜け、西を津田内湖から琵琶湖へ抜けるように掘られています」(資料1)さて、今回は次の行程のご紹介です。 八幡公園~光秀館跡~光秀像~八幡山城跡へ~西ノ丸八幡公園で光秀館跡に行く途中まず見たのがこの2つです 西村太郎右衛門供養塔 右側が高田義甫(よしなみ)の碑太郎右衛門は、蚊帳・木綿を扱う八幡商人・綿屋(西村家)二代目の次男として慶長8年(1603年)に生まれました。20歳の時に角倉了以の御朱印船で安南(ベトナム)に渡り、25年後に長崎まで戻ったときには、鎖国の世。上陸を許されず、再び安南に戻り、彼の地で没した人物。兄が供養塔を屋敷内に建立。それがこちらに移されたのです。(説明板参照)八幡商人が外国、安南の地にも足跡を残していたというのを初めて知りました。鎖国という方針で、日本に再上陸出来なかった人々が他にも沢山いるのでしょうね。高田義甫は、干鰯肥物を商う「納屋嘉兵衛」8代目として弘化3年(1846)に生まれた人ですが、青年期に国学や漢学を学び、勤王派として活動。私塾を開くなどしたそうです。知りませんでした。説明板によると、明治になってからは、法律相談所開設、水産会社の会長就任、新聞社や銀行の設立など多岐にわたって活躍したとか。八幡商人にもこんな人物がいたのです。 公園の山側には石垣が、そして、整備された階段を登って、秀次館跡を探訪です。位置関係をご理解いただくために、ブックレット所載の地図を一部引用させていただきます。(資料1)市立図書館のすぐ上側のところが八幡公園です。ここから地図左手にある階段を登ります。階段を登っていくと、秀次館の石垣が現れます。大型の石が積まれています。 虎口の左側 右側の石垣です。石段を鍵形に折れ曲がって館の平坦地に出る形です。灌木や草が生い茂り、虎口の先の平坦地に少し入ったところまでしか行けませんでした。この秀次館は山頂から延びる2つの尾根に挟まれた谷部にあります。約6,000㎡の平坦地を造成して、西寄りの館を建てていたことが発掘調査でわかったとか。発掘時に、大量の瓦の上に、堅く叩きしめられた粘土の層が館跡を覆い尽くすように堆積していたそうで、意識的にそいういうことをしたのだろうという話でした。大量の瓦の中に、秀次の馬印である沢潟(おもだか)を図案化した金箔瓦も出土したのです。かわらミュージアムにその一部が展示されていました。石垣の前面に今は竹藪が生い茂っていました。これらが無ければ、城下町からは館の石垣が壮大に見えたことでしょう。 館側から階段を眺めたところ。一直線に下っています。階段傍。今は八幡公園の西端ですが、段段状に平坦地が作られている様子が見えます。当時はこのあたりには家臣団の屋敷が連なっていたことでしょう。五輪塔が集められた一隅がありました。この八幡山には4ヶ寺の天台系寺院の存在が知られていたとか。秀次館の虎口を入って、右側奥の方に寺院跡が発掘されているという説明を聞きました。ブックレットには、「秀次館とその家臣団屋敷の平坦地は、寺院跡地の平坦地を拡大・補修して造成されていったと考えられます」と記されています。 公園に建つ秀次像秀次が謀叛を企てたという理由で切腹させ、その妻妾、若君等30余人を処刑したのは秀吉の命令だと言われています。秀次の肖像画はほとんど残されていないそうです。数少ない肖像画を参考にしてこの像の顔貌が作製されているとか。なかなかきりっとした顔立ちです。史料的価値は低いようですが、小瀬甫庵著『太閤記 下』(岩波文庫)を参照すると、巻17で、「・・・・天下之御家督を請給ひてより、御行跡みだりがはしく、萬あさはかにならせられ、・・・・」という書き出しから始まり、「秀次公御若君姫君井御寵愛之女房達生害之事」の項で終わる形で、その顛末が語られています。まあ、これは秀吉の視点での資料をもとにまとめていることなのでしょうけど。ネット検索し、複数のサイト記事で秀次の辞世の句に辿りつきました。(資料3) 磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦 月花を心のままに見つくしぬ なにか浮き世に思ひ残さむ また、こんな言葉も。 十方仏土の中とある時は、方角は入らざるものなりさて、これからが山頂の八幡山城跡探訪です。八幡公園から山道を登って行きました。 途中に不動明王の提灯を掲げた献灯の鳥居(?)の下を潜ります。その先に一部ごつごつした岩が山道にあります。ガイドさんが、その一部の石に、 矢穴があることを教えてくださいました。それがなければ、その石を足下に踏むか、あるいは避けて登って行っただけでしょう。なぜ矢穴のある石が道の中央にあるのか・・・この道とこの石の関係はわかりません。 この簡単な入口から山城跡の主郭部に入ります。途中に山頂案内図がありました。まずは、お願い地蔵堂の傍を通って、西の丸に行きます。 本丸石垣下を通ります。その途中の道に、数多くの石仏-たぶんお地蔵さん-が並べられています。 西の丸からは、当日は残念ながら何も見えませんでした。晴れていると、琵琶湖のすばらしい景色が眺められるのに・・・・・残念!2009年3月にウォーキングの同好会で西の丸からの眺めは・・・ 探訪案内チラシを印刷して持参した地図の該当部分図つづく参照資料1) 埋蔵文化財活用ブックレット12(近江の城郭7)『八幡山城跡 -天下を継ぐ城-』2) 『八幡町絵図』を文化財指定 平成21年3月24日第15296号 :「滋賀報知新聞」3) 豊臣秀次 :「戦国ガイド」 戦国武将の辞世の句 :「日本史はくぶつかん」 撰集 辞世の句 :「野山をのんびり」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺 関心の波紋が広がって・・・・こんなリストになりました。豊臣秀次 :ウィキペディア聚楽第の2代目の主・豊臣秀次の生涯 :「聚楽第 豊臣家の夢の跡」 このサイトの管理人さんに、2011年夏、聚楽第跡を案内していただいたのが、 聚楽第跡をめぐった最初でした。駒姫 :ウィキペディア秀吉 豊臣秀次の女子供39名を処刑 京都・瑞泉寺.wmv :YouTube瑞泉寺 :「邪馬台国大研究」(遺跡・旧跡めぐり) このサイト、「瑞泉寺縁起について」の説明板写真を掲載されています。角倉了以 :ウィキペディア小瀬甫庵『太閤記巻十七』:国立国会図書館デジタル化資料 28/70から、処刑された光秀の妻妾たちの辞世句が記されています。豊臣秀次とその妻たち 江のふるさと滋賀 :「滋賀・びわ湖」[矢穴に関連して]稲取の築城石丁場を訪ねる :「下田街道」 矢穴のある石の写真や、「矢割り」の説明(後半に写真あり)が紹介されています。 城の石垣にも興味が湧くことでしょう。富山城の石垣 :「富山城研究」コーナー 一覧ページの中に、この項目があり、詳細な解説が載っています。 こんなサイト記事はほんとにありがたいです。城に対する興味がますます強まります ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)拙ブログ記事でも、次の探訪記を再録しています。こちらもご覧くださいね。スポット探訪 [再録] 京都・上京 瑞泉寺 -1 瑞泉寺の縁起、展示室兼休憩所、地蔵堂スポット探訪 [再録] 京都・上京 瑞泉寺 -2 豊臣秀次公と一族の墓所探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -2 村雲御所(本丸)、二ノ丸、日牟礼八幡宮 へ探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -3 八幡堀 へ探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -4 洞覚院・八幡別院・近江商人屋敷ほか へ探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -5 かわらミュージアムと町名 へ
2017.05.31
コメント(0)

[探訪時期:2017年4月]新殿神社の参道から京奈和道の高架下を潜り、少し西に歩いて右折し、坂道を登って行くと、結構大きな池の傍に出ます。いくつかの池が連続してあります。地図に「四ツ池」という名称がありますが、その東寄りの2つの池の辺りに出るのです。貯水池として造られた池でしょうか。下図に水色の丸を付けた右あたりです。 こちらが一番東の池。この辺りからは下り道に入っています。そして、道路の東側には「京都府立南山城支援学校」の入口、銘板が見えます。 四ツ池の北隣に「柏谷池」があり、道路の東側には「木津浄水場」があります。道なりに下って行くと、 道路の傍に、朱塗りの反り橋が目に止まります。その先の白壁の築地塀のところが、「大宮神社」です。地図に赤丸を付したあたりです。 大宮神社はその前を通り過ぎるだけになりました。この神社は崇道天皇(早良親王)と誉田別尊(=応神天皇)を祀る神社だそうです。(資料1)北東の方向に、近鉄京都線の「木津川駅」が遠くに見え始めます。 「新池」の傍を通りますが、池の東方向に「木津川駅」が目に入ります。「吐師七つ塚古墳群」のエリアに到着です。地図にマゼンダ色の丸を付けたあたりです。この古墳群は、前方後円墳4基と方墳からなる古墳群なのですが、1・2・6・7号墳はこの地域の開発で消滅しています。これは北側に位置する4号墳の全景です。南の方には、5号墳があります。こちらは後円部が径25mほどの帆立貝形の古墳のようです。4号墳は全超6m、後円部径28m程で帆立貝形の前方後円墳だそうです。このズームアップした画像の盛り上がった部分が、帆立貝形の部分が一部残存しているところだとか。4号墳の西側に周濠の一部が見えます。この4号墳の東側を北方向に進みます。 東側の周濠部分が見えます。 後円部の先端側を眺めつつ、府道の方に向かいます。右の画像は、記憶が正しければ方墳の3号墳です。4号墳の東隣に位置します。 府道に出る手前に位置した円墳の2号墳・7号墳は消滅し、開発されて平地になってしまっています。そして、府道22号線沿いにしばらく北上します。「菅井」地区にはいります。 府道の傍に「天王神社」が見えます。上掲の地図に青い丸を付けたところです。 道路から西方向に参道が延び、石灯籠が両側に並んでいます。その先には、割り拝殿があります。それに拝所が連なります。 本殿は鮮やかな朱塗りの社です。祭神は、建速須佐之男命と阿智之岐高彦根命と案内板にあります。素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、『古事記』では建速須佐之男命と表記されます。天王神社⇒午頭天皇⇒「素戔嗚尊=建速須佐之男命」というつながりです。手許の本には、記紀神話の男神として、大国主神の御子に「阿遅鉏高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)」が登場します。音で捕らえると、阿智之岐=阿遅鉏、高彦根=高日子根という関連性がみられますので、たぶん、この大国主神の御子を意味するのでしょう。(資料2) 現在の天王神社の境内は比較的小規模なのですが、本殿の近くに境内社が沢山並んでいます。時間がなくて境内社の写真を撮るだけになりました。入口に近い位置ですが、参道の北側回ると駒札が見えました。 近づいて見ると、井戸があり、駒札には「菅井(清すが井)の由来」と記されています。「伝承によればその昔この辺りを稲荷山とも荒山とも呼ばれ滾滾(こんこん)と清水の湧く処あり人々は清清(すがすが)井戸とあがめ大切にした。時の移るにつれ清井戸-清ノ井-菅ノ井とよび遂に村の名称までになったという。 また一説には菅原道真公が京に上る道すがら立寄り清ノ井の水を愛飲したのが因(もと)で菅ノ井になったとも言はれている。このように由緒深い井戸であり古くから天王神社の神水に供されてきた。 菅井の歴史を知る会」(駒札を転記)この天王神社は「もとは菅井集落東側の小字古里に在ったが、集落の移転と共に移転したようである」(資料1)とのことです。移転後がここになったということでしょう。神社とは別に、この辺りには清い水が湧き出る井戸が古くからあり、それが地名になったということでしょうか。 境内の東端、府道の傍にこの記念碑が立っています。後日に画像を拡大して碑文を判読してみますと、「当区ハ古来ヨリ水質飲料ニ適セス水量鈔ナク防火用水亦乏シ」という書き出しから始まっていて、菅井簡易水道組合を結成し、工事を実施し、水量と水質の確保ができるようになったことを記念してこの碑が昭和33年後半頃に建立されたことがわかります。すると、上記駒札と矛盾するように思うのですが、この碑自体が移設されてここに設置されたのかもしれません。地区全体の観点と、古来から清水が湧き出る場所がスポットとしてあったと考えれば両立することかもしれません。探訪してみると、いろいろ考える材料があって、おもしろいものです。この後、西方向に転じて、畑ノ前遺跡に向かいました。つづく参照資料1) 「京都の歴史散策33 ~祝園を歩く~」龍谷大学REC ( 2017.43.22 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成 )2) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房補遺京都府埋蔵文化財情報 第2号 pdfファイル 京都府埋蔵文化財調査研究センター 「府下遺跡紹介 3.吐師七ツ塚古墳」(p54-56)の記事が載っています。精華町菅井天王神社の勧請縄 :「愛しきものたち」 木津町の名所・旧跡ー7 吐師七つ塚古墳群 :「家庭菜園・園芸・テニス・旅行」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・精華町 祝園を歩く -1 樋ノ口遺跡・新殿神社 へ探訪 京都・精華町 祝園を歩く -3 畑ノ前公園・如来寺・来迎寺(石仏塔・お千代半兵衛菩提所)・常念寺ほか
2017.05.30
コメント(0)

さて、今回の主目的である講座「平清盛とその時代」の内容です。 3つの講義を聴講しました。 [観照まとめ:2013年2月時点]「平清盛とその時代」 木戸雅寿氏「近江の緑釉陶器と日宋貿易」 畑中英二氏「平家物語と祇王-妓王寺と祇王井-」 行俊 勉氏木戸、畑中両氏は滋賀県教育委員会文化財保護課、行俊氏は野洲市歴史民俗博物館所属の専門職の方々です。当日、「近江水と大地の遺産2」として発刊されたばかりのこの A4サイズの冊子が 講座資料として配付されました。「その時代」とは「近江の平安時代」に焦点をあてるという意味で、滋賀県の史跡、歴史紹介が講座内容でした。簡単にご紹介します。<< 平清盛とその時代 >>木戸講師は、この配布冊子の概略案内という主旨で、平清盛の時代において近江が関わった史実と史跡を紹介されました。講義に出てきた関係人物と近江の関連史跡をまとめると、ほぼこんなリストになります。*西行(=佐藤義清、元北面の武士) 近江にある西行伝説 西行水と泡子塚(米原市醒ヶ井)、西行屋敷跡(大津市、現瀬田小学校敷地内)*源義朝 平治の乱の際、敗走し途中で武運長久を祈った神社 還来(もどろき)神社(大津市) 白羽鏑矢を献じたという。ここで頼朝と合流。*源頼朝 平治の乱で敗走する頼朝が逃げて身を隠した寺 大吉寺(長浜市)この後、池禅尼による清盛への歎願で伊豆への流刑にとどまる。*平重盛 日本海と琵琶湖を結ぶ運河計画を抱いたのだとか。久安6年(1150)ころ。 深坂峠と深坂地蔵(長浜市)*源義経 遮那王と呼ばれていた牛若が、比叡山を脱し、奥州平泉をめざします。 義経元服池、白木屋(=義経宿泊の館)、烏帽子掛けの松、義経元服の盥 鏡神社 (すべて、竜王町・鏡の里)*祇王・祇女 清盛が寵愛した白拍子の姉妹の故郷、祇王伝説 祇王井、妓王寺、祇王屋敷跡、土安(てやす)神社 (すべて野洲市)*木曽義仲 寿永2年(1183)に上洛、朝日将軍と称されるが、1184年頼朝軍に敗れる 義仲寺、今井兼平の墓 (ともに大津市)*平宗盛・清宗父子 平氏の終わりは壇ノ浦ではなく、近江が平氏終焉の地 宗盛胴塚(野洲市・近江国篠原宿)、清宗胴塚(草津市・「勢多」(野路))私は2011年来、近江探訪の企画に結構参加してきましたので、史跡探訪は数カ所を残すだけになりました。<< 近江の緑釉陶器と日宋貿易 >>畑中講師の講演は、前段として唐三彩と奈良三彩の話。そして緑釉陶器の話に展開されました。8世紀、奈良時代の終わりころから11世紀前半にかけて緑釉陶器が造られていたそうです。近江では平安時代中期(10世紀)、主に食器を量産していたようです。それが11世紀前半になるとぱたりと消滅します。それはなぜか。平忠盛(=清盛の父)が日宋貿易を始め中国から陶磁器を大量に輸入したためだそうです。おもに青磁の代替品であった緑釉陶器が中国製陶磁器の大量輸入により、その存在意義を失うのです。この日宋貿易による蓄財が、平家勃興の主要因になったのだといいます。甲賀市春日北遺跡出土の緑釉陶器の紹介や、大津市関津遺跡出土の輸入陶磁器その他の実例紹介がありました。私は、京都国立博物館の常設展示品で唐三彩そのものをよく見ていたのですが、深くは考えていませんでした。唐三彩が墓に埋葬する副葬品目的で造られたものであることと、20世紀に発見されるまで、その存在があまり知られていなかったということを今回初めて知りました。唐三彩と奈良三彩の識別法を教えていただいたのが興味深いことでした。<< 平家物語と祇王-妓王寺と妓王井- >>行俊講師は、レジュメを準備されており、それにそっての講演でした。いくつか要点をご紹介します。*祇王、妓王、義王のいずれも様々な文献での表記に使われているとのこと。 大字○○という8つの地域が明治22年(1889)に町村合併して「義王村」が誕生。明治27年8月、「祇王村」に改称されたのだとか。*白拍子としての舞姫時代に「妓王」を使い、尼に出家した以降に「祇王」を使うのが多いイメージがあるようだとのこと。*「ぎおう」は実在したのか? 伝後白河法皇宸筆の「現在過去牒」(長講堂所蔵)、建暦2年(1212)源智造立の阿弥陀如来立像の像内納入・結縁交名にも名が記されている(浄土宗所蔵)。やはり実在したのでしょうということ。*京都の祇王寺は真言宗大覚寺派の尼寺。野洲市中北の妓王寺は浄土宗の尼寺。*現在は「祇王井川」と呼びますが、本来の呼び方は「祇王井」なのだとか。 用水のことを「ユ」または「イ」と呼ぶのだそうです。 野洲川を水源とし、三里(約12km)の長さのある古くからの用水で、地元では大井とも呼ばれているのです。 本来は、この地域の荘園の治水のために開発されたものではないか。限られた水量を村々が共有・分有せざるを得なかった歴史と祇王伝説が重ねあわされた上で、祇王井として維持管理されてきたのではないかというご説明と理解しました。この他、現地を探訪して見ていた北村季吟の句(石碑)や、平家終焉の地についても具体的な説明がありましたが、省略します。この講演を聴き、祇王と祇王井について、過去の見聞の再整理ができてよかったと思っています。講座は予定どおり終了し、この後、博物館2階にある企画展示室で、野洲市教育委員会文化財保護課の花田氏から、テーマ展「木部天神前古墳と御明田古墳」について、展示品の解説をお聞きしました。これらの古墳発掘調査からわかるのは、この野洲において、御上神社がある山側と、これら発掘古墳のある湖岸側と、それぞれに大きな勢力を持った人々がいたのではないか。それが御上神社と兵主神社という大きな神社が現存していることにつながるのではないか。また、湖西の方で勢力のあった人々のことは記録に残っているのだが、湖東のこの地域は記録がほとんどないけれども、考古学的な発掘結果が歴然と大きな勢力を有した人々の存在を裏付けている。これは私が受けとめた要点ですが、具体的なご説明を興味深く拝聴しました。大岩山から発掘された銅鐸群と併せ、大規模古墳があったこの野洲という地域に一層のロマンを感じる次第です。このあたりで、今回の観照記録とします。ご一読ありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺唐三彩 :ウィキペディア唐三彩 :「考古用語辞典」施釉陶の出現-奈良三彩 :「日本の陶芸史」三彩有蓋壺 :「文化遺産オンライン」(77)奈良三彩と唐三彩 :「奈良文化財研究所」須恵器と緑釉陶器 :「大坂大学考古学研究室」平安期の緑釉陶器 田中愛子氏時代別 平安時代 :「陶器の歴史」緑釉四足壺 :「文化遺産オンライン」野洲市にある古墳 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -1 弥生の森 へ観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -2 博物館ロビーと展示室 へ
2017.05.29
コメント(0)

池の東側から西方向に博物館建物が見えます。JR野洲駅構内(改札口を出た左側の先)に野洲案内資料のコーナーが設置されています。そこで得た「楽しく体験 どうたく博物館」というリーフレットには、「銅鐸博物館・弥生の森歴史公園」という表記がありますので、この博物館も弥生の森の中にあるととらえる方がよいようです。 [観照まとめ:2013年2月時点] 弥生の森には、「スイレンの池」があります。もう一つの竪穴住居の入口側から撮ると背景(西)に博物館が入ります。 竪穴住居の傍のウメの木が芽ぶいていました。『萬葉植物事典』(大貫茂著・馬場篤[植物監修]・クレオ)を参照しますと、『万葉集』にはウメを詠んだ歌が119首あるようです。しかし、ウメは原産地が中国で万葉時代前期頃に日本に渡来したと記されていますので、弥生人は竪穴住居の傍でウメが咲くのを見ることはなかったのでしょう。 スイレンの池には、池中にこんな舞台が造られています。池の名のとおり、この池に睡蓮が満開になるとしたら、この舞台からの眺めはまたいいでしょうね。(これは未確認です)池を眺めた後、いよいよ博物館に入りました。勿論、入館料が必要ですが(大人200円)。 入館の際いただいた三つ折りリーフレットです。その時、ロビー部分は写真に撮ってもOKということでした。ちょっとご紹介しておきましょう。ロビーには、 弥生人のイメージ壁面が左手に、正面に大きな銅鐸のレプリカが置かれています。(2013年時点ですので、今はエントランス付近もリニューアルされているかもしれません。)鋳型で成型された銅鐸は、本来こんな色調のきらきら輝いたものだったのですね。私は京都国立博物館で古色蒼然とした緑青色の銅鐸しか見たことがなかったので、かなり前ですが初めてこれを見たときは、その色合いにちょっと驚きました。卑弥呼の時代の銅鏡もその輝かしさから受ける感じはほぼ同じです。こちらは、ある展覧会で復元された銅鏡の展示を見たときにそう思いました。弥生時代の人々は、この銅鐸を初めて目にしたとき、金属が成型されてできたもの自体にその技術力を含めて、畏敬の念を感じたのではないでしょうか。また、人工で生み出された銅鐸の音、響きにも・・・・。まさに、神のなせる業との思いがあったかもしれません。右方向には、中庭に面したところに、弥生時代の衣服や土器が並べられていました。触ってもOKと書かれていたと思います。展示室に向かう通路の壁面には、「空から見た野洲市」の全景写真のパネルが展示されています。さて、この後は講座が始まるまで少し時間がありましたので、展示室を順番に鑑賞しました。写真を撮れないので、画像でのご紹介ができなくて残念です。私の感想を含めて、少しご紹介させていただきます。展示のベースは銅鐸専門の博物館ですので、一度お訪ねください。<< 常設展示室1(1階) テーマ『銅鐸の謎』 >>銅鐸の誕生、銅鐸の造り方がよくわかります。銅鐸を復元するための製作工程の説明・製作作業中の写真、銅鐸製作の型などが展示されています。なぜ、銅鐸の身の上方に孔があり、銅鐸の身の下縁に凹みがあるのかもよくわかります。銅鐸は中が中空ですから、金属を鋳込んであの形にするのに「外型」としての鋳型と「中子」と言われる中の鋳型が必要なのです。その両方の間に溶けた金属を流し込む為には両方の鋳型に一定の隙間を保たなければ製品が出来ませんから、支える箇所が必要になります。身の上半の孔も下縁の凹みも型持ちのために必要な孔なのですね。鋳型の展示実物を見ると一目瞭然です。鋳型造り、溶融金属の鋳込みなど、その工程がよくわかります。この鋳型、小さいサイズの頃は石の鋳型、大型化して土の鋳型に変化していったとか。 銅鐸が小さな形状から大きな形状のものに変遷していきます。考古学者の佐原真氏は、銅鐸の吊り手(「鈕(ちゅう)」)の変化から大きくは4段階(Ⅰ~Ⅳ)に分類されています。勿論それが、研究過程でさらに細分類されているようです。そして、Ⅲ式(中段階)のある段階までは、銅鐸を叩いて音を出す「古い聞く銅鐸」で、それ以後の段階では「新しい見る銅鐸」に変化して行ったようです。「見る銅鐸」というのは、見たときに格好いい大きな飾り立てられた非実用的な銅鐸です。大きく2つの時期に分けることは、佐原氏の意見に基づきながら、田中?氏(奈良国立文化財研究所所長)が提唱されたのだとか。水野正好氏(奈良大学学長)が「大岩山銅鐸の発見・その後」という講演の中で触れられています。(『徹底討論 銅鐸と邪馬台国』銅鐸博物館編・サンライズ出版・1999年10月刊)展示パネルではこの変遷が年表形式を利用して、簡単にわかるようになっていました。 << 常設展示室2(1階) テーマ『大岩山銅鐸』 >>ここがある意味、この銅鐸博物館創設の原点なのです。野洲の小篠原・大岩山から出土した銅鐸がこの展示室に展示されています。そして、大岩山から大量の銅鐸が発見された経緯も説明されています。併せて、滋賀県下で発掘された銅鐸の展示もありました。前掲書の水野氏の講演記録には、昭和37年に銅鐸10個が発見された経緯がリアルに語られています。文化財関係の滋賀県職員となって2ヵ月ばかりの水野氏が、上司からの連絡で現地に行き、発見物の確認から携わられた経緯ですので詳細です。明治14年(1881)8月に、地元の少年が山遊びのときに偶然発見したことがきっかけで14個の銅鐸が発見されていました。そして昭和37年にはJR東海道新幹線の道床用の土取り現場から作業中の人が発見されたのです。発見者の言では、大中小3つの銅鐸が入れ子状態でセットになっていたのだとか。それが3組と別途1つの発見があったことで、計10個です。この10個は発見後、水野氏他の尽力で滋賀県の所蔵となり、当初は湖上に建つ琵琶湖文化館の前の土地に小さな建物を建て保管されていたそうです。昭和63年秋に、銅鐸博物館が大岩山出土地の近くに建設され、晴れて現在の形で陽の目を見たということになります。そのためには、様々な人々の努力、尽力があったことでしょう。明治14年発見の14個は、その内2個は現東京国立博物館の所蔵となり、12個は地元に払い下げられたのですが、いつのまにか散逸したとか。水野氏の言では、昭和37年時点に地元には1つもない状態だったそうです。『県史25 滋賀県の歴史』(畑中誠治他共著・山川出版社)によると、行方が追跡された結果、国内に7個、アメリカに3個、ドイツに1個あることが判明しているとか。1個は依然行方不明だといいます。文化財保護の理念と方針、文化財保護の認識の重要性を感じる次第です。水野氏の講演記録で興味深いのは、その後、銅鐸がまとまって発見されている遺跡も出現していますが、「聞く銅鐸」の分布地域と「見る銅鐸」の分布地域が明瞭に別れているようです。「聞く銅鐸」:島根県、広島県、香川県、徳島県、和歌山県北部、名古屋、福井県 島根県荒神谷遺跡(6鐸)、島根県加茂岩倉遺跡(39鐸)「見る銅鐸」:静岡県、愛知県、滋賀県、和歌山・徳島両県南部、高知県ところが、この大岩山発見の銅鐸計24個にはその両方が一緒に出土しているのです。特異な土地柄なのですね。古代史へのロマンをかき立てられますね。なぜ、銅鐸がまとまって発見されるのか? これには2つの考え方があるようです。*小林行雄氏の仮説:銅鐸戦利品説「周囲の国を統一・征服していく過程の中で最後に最も強力な人物のもとに集まった」前掲の『滋賀県の歴史』もこの説を紹介しています。*水野正好氏の仮説:配布説「銅鐸は女王国が配るものだ」「配布する人」が保管していた場所が銅鐸大量発見の場所だとする考え方です。水野氏はこの配布説の考え方で邪馬台国との関係を説き明かしていかれます。興味深い講演記録です。銅鐸の形状とその分布が古代王権の存在場所や勢力圏の状況に及んで行く・・・・文献史学と考古学史論のアプローチの違い、両者の一致点と矛盾(対立)点・・・・古代史にますます引き込まれていきそうです。つづく【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺銅鐸 :「東京大学総合研究博物館」 このサイトでも、銅鐸を打ったときの音を聞けますよ。6 銅鐸(岡地船渡1号銅鐸) :「東京大学総合研究博物館」銅鐸 (国宝):「東京国立博物館」袈裟襷文銅鐸 :「文化遺産オンライン」銅鐸分布考銅鐸出土地名表 pdfファイル銅鐸出土地地名表 古代の謎へ <銅鐸> ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -1 弥生の森 へ観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -3 講座聴講と企画展示室 へ
2017.05.29
コメント(0)

4月下旬に「京都の歴史散策」の講座に参加し、かつては相楽郡祝園郷と呼ばれた地域を探訪しました。その復習と整理を兼ね、まとめてみたいと思います。冒頭の画像は、近鉄京都線の山田川駅で、ここが集合場所です。 [探訪時期:2017年4月]この地図は当日のレジュメに添付の散策経路を含むこの地域の古墳・遺跡の分布図から探訪経路周辺部分を切り出した部分図です。(資料1)赤丸が集合場所かつ出発点の山田川駅です。黒い太線が散策経路になります。黄色い丸を付けた新祝園駅が帰着点となります。近鉄京都線の山田川駅を地図でみますと、現在の行政区分でいえば、京都府精華町と木津川市の境界線上でプラットホームが南北に跨がっています。北半分が木津川市、南半分が精華町になるというおもしろい立地です。近鉄京都線は、駅の南を東西に流れる「山田川」を横断し、川の南側にある「荒神塚池」の西側を南進していきます。線路の西側のある改札口を出て、駅前の少し南を東の方に回り込むと、 山田川に架かる橋があります。左の画像は、橋から東、木津川市方向の景色です。山田川は東に流れ、木津川に合流します。この探訪では、山田川駅前広場の西を南進する府道22号線を横断し、アル・プラザの傍を通りすぎ、京奈和道の高架道路の近くまでまず移動しました。マゼンダ色の丸を付けたところ。 高架道路の下は土塁状に土が盛り上げられてフェンスで囲われています。この土盛地を含めて、このあたり一帯が「樋ノ口遺跡」だそうです。説明されなければ単に通りすぎるだけの場所です。上掲地図にマゼンダ色の丸を追記したところです。この辺りからは、施釉瓦の破片、三彩・二彩・灰釉・緑釉などの彩釉陶器片が出土しているそうです。その出土品中に恭仁宮段階の瓦が含まれることから730年代に始まり、中国製白磁の出土品から平安時代初期に至る遺跡だと推定されています。発掘範囲からは南北方向に瓦葺きの築地と2棟の掘立柱建物跡が検出されているそうです。楼閣状の建物と推定されています。そこから、現在はこの辺りに「山田寺」があったという意見と、孝謙天皇が行幸した離宮があった跡という意見が論じられているそうです。(資料1,2) すぐ北のなだらかな丘陵地の東端に「新殿神社」が位置し、額を掲げた石鳥居と参道入口の側面が見えます。これは正面側に回り込んでから撮ったものです。上掲地図の青い丸のところです。 参道には石灯籠が点在し、2つめの鳥居の前に狛犬像が配されています。 3つめの石鳥居 手水舎 本殿までは、境内地が一段ずつ高くなっていきます。 石段の上の境内地にある「舞殿」これは室町時代に建立された能舞台だといいます。「金春流の能や狂言が奉納されている。当社では鎌倉時代から能の奉納が始まったと伝えられ」(資料3)ているのです。氏子の間で「翁講」が作られ、現在も2年に1度、4月に能舞「翁」などが伝統行事として奉納されているとか。”平成9年(1997)に金春流能楽師の黒嵜章次宮司が隔年の開催として復活させ、伝統を守り続けている。能舞「翁」では、黒嵜宮司の孫で金春流能楽師でもある同神社神職の黒嵜博文氏が翁の装束をまとい、面をかぶって舞う。伝統を引き継いだ華麗な舞い姿は、地元の方や観光客らも無料で見学することが出来る。”(資料3) この舞殿に向かって境内地の右方向にあるもう一つの参道の傍に、この「十三重石塔(重文)」があります。 石塔の軸部、初層の塔身には四方仏が半肉彫りされています。 基壇の側面には、塔建立関係者の名前でしょうか、判別できませんが並記されていて、その中に「三界万霊」という文字が判別できました。「基礎に延徳三年(1491)銘がある」ことと、覆鉢と宝珠は後補されているのですが石塔が完全な形で残っていることから、石塔の建立年代を評価するための基準石塔としても貴重な存在だといいます。(資料1) 延徳3年は室町時代です。百万遍念仏供養のために建立されたそうです。(資料3) 拝殿は横長で、「割り拝殿」の形式です。石段を上がり、本殿の手前で草鞋に履き替えて参拝する形です。割り拝殿の先に、朱塗りの本殿が見えます。 本殿は一間社流造で、天文16年(1547)の棟札が残っているそうです。木鼻はごくシンプルで白く塗られています。「江戸時代には植樹神とも称し、田辺町(現京田辺市)の朱智神社(牛頭天王)からの勧請と伝わる」(資料1)そうです。つまり、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。本殿に扉が2つ設えてありますので、調べてみると、配神として、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)がまつられているそうです。(資料3) 本殿の左右に境内社があります。境内は、シイやカシなどの常緑広葉樹の繁る鎮守の杜となっています。新殿神社は、「京都の自然200選・歴史的自然環境部門」に選ばれています。(資料3,4) 本殿に向かって、境内を左方向の奧に進んで行くと、箱型石仏が並ぶ寂れた築地塀が一部残り、それが一つの境界となっていて、その向こう側に御堂があります。神社の境内地に「薬師堂」が現存します。 正面の左壁面上部に、「西国十六番京清水寺」と御詠歌が記された扁額が掲げてあります。 格子のガラス扉から堂内を拝見すると、中央の厨子に薬師如来坐像が祀られています。江戸時代の作だとか。新殿神社に隣接して、神宮寺として医王寺の名前が残っているのです。薬師如来坐像はこの寺の本尊だったそうです。左右に閉じられた厨子が見えます。弘法大師坐像と観音像が安置されているといいますので、正面の扁額はその観音像と関係するのでしょう。(資料1,4)因みに、京都の清水寺の本尊は十一面観音菩薩立像です。京奈和道の高架の下を通り抜けて振り返ると、T字路の南西隅に、社号石標が立っています。少し先を右折して、北方向に丘陵地の坂道を上って行きます。大宮神社から七つ塚古墳群へと進みます。つづく参照資料1) 「京都の歴史散策33 ~祝園を歩く~」龍谷大学REC ( 2017.43.22 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成 )2) 飛鳥・奈良時代の京都 離宮か、寺院か? pdfファイル 井野近富氏3) 神殿神社 :「京都府神社庁」4) 新殿神社 :「京都府精華町」補遺山田川流域の里を歴史と文化財の謎を探りながら歩く pdfファイル朱智神社 :「京田辺道中記」(京田辺市観光協会)朱智神社(京都府京田辺市) :「京都風光」山城(綴喜郡)の式内社/朱智神社 :「戸原のページ」京都の自然200選 :「京都府」 京都の自然200選 新殿神社音羽山清水寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・精華町 祝園を歩く -2 大宮神社・吐師七つ塚古墳群・天王神社 へ探訪 京都・精華町 祝園を歩く -3 畑ノ前公園・如来寺・来迎寺(石仏塔・お千代半兵衛菩提所)・常念寺ほか
2017.05.28
コメント(2)

2013年2月17日(日)、野洲市にある銅鐸博物館(野洲市歴史民族博物館)に行きました。主目的は「平清盛とその時代」という講座を銅鐸博物館内の研修室で聴講するためでした。副次的な目的は、2012年に希望が丘文化公園西口から天山に登るためにこの博物館の傍を歩いていたとき、その傍に古代建築物らしきものの屋根をちらっと見かけたのでそれを確認してみたい、それと久振りに館内展示を鑑賞したかったからです。この時にまとめたものを、ここに再録し、ご紹介します。以前この博物館を訪れた時にはこの古代建築物らしきもののことは気づきませんでした。運動を兼ねたウォーキングとして、野洲駅からJR傍の道路、野洲図書館傍の道路を経由して銅鐸博物館に行きました。私の歩くペースで30分ほど、軽いウォーキングには適当な距離です。 まず目に入るのが、巨大な石造りの銅鐸碑です。この銅鐸碑の左手すぐのところに駐車場があります。緩やかなジグザグと曲折するスロープを歩むと、 銅鐸博物館の正面に向かいます。この博物館の建物の北北東方向前方(銅鐸碑の裏手奥)に、「宮山二号墳(国史跡)」があります。こちらは以前に、2度訪れていますので今回パスしました。銅鐸博物館に入館してからかと思っていたら、目当ての建物へは博物館建物の正面近くから自由に出入りできるオープンスペースでした。訪れて一目であ!そうか・・・・竪穴住居だったのです。このエリアは「弥生の森」と名づけられており、いくつかの施設が復元されていました。まずは、この弥生の森をご紹介しましょう。まず最初に見えるもの・・・・それは竪穴住居です。背後の坂のような斜面のところが、実は希望が丘公園に向かう道路です。 竪穴住居の入口から中を覗くと、こんな感じです。 右手奥にある別の竪穴住居の先には、別の建物、高床式倉も建てられています。こちらの竪穴住居の中に入ってみました。 内部で屋根を見上げたら・・・中央には床に土器類が置かれていて、右手に説明板がありました。説明板には「竪穴式住居」として、こう記されています。「この建物は弥生時代の一般的な住まいです。地面を約1m堀り下げて床とし、4本の柱を据えて棟を上げ、屋根を覆います。形は様々ですが、弥生時代中頃(約2000年前)は円形のものが多く、後半には方形のものが多くなります。また、住い中央には食物の煮炊や暖房のために炉を設けていました。 この住居は、野洲市三宅で発掘された弥生時代の住居を参考に、見学しやすいよう、当時の生活を復元したものです。」 高床倉庫も復元されています。 こちらの屋根も見上げると・・・・屋根の先に、小さいけれど氷柱ができていました。弥生時代にも、冬場、氷柱ができていたのでしょうね。その奥に、「赤米水田」の場所が復元されています。「銅鐸のまつりが行われた弥生時代は稲作が盛んになった時代です。ここでは、古代米の一種といわれる赤米を栽培しています」と案内板が記しています。夏には緑の稲、秋には黄金色の稲が多分ここで見られるのでしょう。「風の丘」石標が立つ「野焼の原」を歩いて行くと、 「石舞台」が設えてあります。その傍に、 「山の神」への簡素な鳥居が。さらに奥に進んで見ました。 山の神(と刻された大きな石碑)が鎮座しています。 山の神(石碑)のところに、一対の素朴な男女を形象した形代が二組置かれていました。 山の神(石碑)の傍に、この石標が建てられています。男の形代がその陽根を屹立させ、女の形代の陰が明確にされています。これはまさに、子孫繁栄、五穀豊穣の素朴なシンボライズなのでしょう。この「山の神」の石碑の手前に架けられているものを「山の神の長持ち」と称するようです。「ベンベラコウー」がどういう意味なのだろうかという関心からネット検索してみて、「山の神の神事(滋賀県野洲市辻町)」という情報を得ました。知りたかったことのかなりの部分を学べました。このブログ記事はこちらからご覧ください。(「つれづれ旅日記」[きょうたろうさん])「ベンベラコウー」は、呪文あるいは囃子ことばの一種でしょうか。その意味は未だわかりません・・・・。この場所が「山の神のお旅所」になっているようです(上記ブログ及び補遺に掲載の写真と一致します)。古代の信仰は、山の神、川の神、淡海の神・・・・など、一般的な素朴な自然崇拝から始まったのでしょうね。それが連綿と継承されているということなのでしょうか。静かな「弥生の森」で、講座の始まる前の一時を過ごしました。弥生時代に思いを馳せて・・・・つづく【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館) :「野洲市」 博物館利用のご案内縦穴式住居 :ウィキペディアたて穴式住居ってどんな家? :「群馬県埋蔵文化財調査事業団」高床式倉庫 :ウィキペディア三内丸山遺跡とは? 縦穴住居跡 :「三内丸山遺跡」公式ホームページ三内丸山遺跡・竪穴住居(復元) :「遺跡・史跡アラカルト」吉野ヶ里遺跡 北内部 :「吉野ヶ里歴史公園」近江へのアプローチ「8. 近江における玉造りをめぐって」 中村智孝氏 この中に、「市三宅遺跡」という語句がでてきます。 『紀要』第9号最古の割竹形木棺か? 滋賀・市三宅東遺跡 :「歴史・考古学の宝箱」辻町(三上神社)の山の神村の鎮守さま 三上神社 野洲市辻町 :「万葉集を携えて」新年互礼【三上神社のビフォー・アフター】(滋賀県野洲市辻町):「つれづれ旅日記」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -2 博物館ロビーと展示室 へ観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -3 講座聴講と企画展示室 へ
2017.05.28
コメント(0)

馬頭観音堂は標高590m、金勝寺は標高550mです。25分程度、金勝寺林道を下って行きます。山上の地形に幾段にも石垣積みの敷地が築かれた境内は、生け垣の境界があるだけで築地塀のようなものは見えません。 [探訪時期:2014年10月]この画像の右方向に志納所(受付所)があります。 拝観手続きを終えて、境内を進むと、「仁王門」まで真っ直ぐに山腹を上がって行く石段です。この石段にはちょっと特徴があります。寺社の参道は幅の広狭にかかわらず、側面が一直線となっているのが普通です。その石段が矢尻の先のような形に組まれているのです。ここでは「山型配石参道」と称されています。(資料1)拝観の折にいただいたリーフレットの表紙と対比すると、石段の形状は同じに整備されるとともに、中央に手すりが設置されたようです。ここにも時代の波が寄せているようでおもしろい。 仁王門に近づくと、両脇に全身朱色に塗られているからなのか、その眼が目立つ仁王立像が見え始めます。防護網で覆われていないのがうれしいですね。 間近で撮った両脇の仁王立像金勝寺のある寺域一帯は、栗東八景の一つ「夏清の幽玄」~金勝寺と森林浴の森~と称されています。金勝寺境内は、仁王門を入ると、 正面方向に「本堂」(赤い屋根のお堂)が一段高い境内にあり、 本堂に向かって左側に「虚空蔵菩薩堂」(白壁のお堂)が配されています。仁王門を入ると、右側に「二月堂」があり、本堂の右斜め背後に「御香水館」があります。また、虚空蔵菩薩堂の正面は本堂の側です。それに対し、虚空蔵菩薩堂の背後の山腹のさらに一段高い境内部分に、「金勝寺遺跡」の遺構があります。金勝寺の山号は「金勝山」。現在は天台宗のお寺(平安時代後期以降)ですが、開創の時は法相宗だったようです。由緒によれば、天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、平城京の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として、良弁(ろうべん)僧正が開基したとされるお寺です。奈良の平城京との関係と聞き、少し驚いた次第。 このことに関連しては、聖武天皇が近江に紫香楽の宮を造営し、そこに大仏を造立し遷都するという計画の実行もわずか3年足らずで頓挫し、平城京に戻ってから東大寺の建立をしたという経緯があります。白洲正子氏の随筆に「金勝山が都の鎮護とされたのも、紫香楽の宮なら合点が行く。それは信楽の北側にあり、金勝族の根拠地であってみれば、名実ともに『鎮護』の名にふさわしい。」(資料2)という記述に納得感が生まれるのがおもしろいところでした。また良弁が「一説には、金勝山の麓で生まれた、百済系の帰化人の子孫であったという。東大寺にある良弁の彫像は、どことなく外国人らしい風貌を伝えており、近江はもともと帰化人が多い土地だから、これはおそらく事実に違いない。」(資料2)とも記しています。そうだとすれば、この地での金勝寺の創建がうなずけるところです。良弁僧正は金粛菩薩と称されたので、この寺を「金粛(こんしゅく)寺」とも称したそうです。また「興福寺官務牒疏」には、鎮守神は三上・兵主(ひょうず)・山津照(やまつてらす)・飯道(いいみち)の四神、僧房山上に三六院、衆徒三六口、侍二六人、養老元年(717)良弁開基とも記されているそうです。(資料3)8世紀中頃には25別院を総括する寺(法相宗興福寺の仏教道場)になっていて、金勝山大菩提寺と称されたといいます。弘仁6年(815) 嵯峨天皇の勅願により、興福寺の伝燈大法師願安が伽藍を建立し中興天長10年(833) 仁明天皇により「定額寺」に列せられ「金勝」の勅額を受ける。これ以降、金勝山金勝寺と称するようになったそうです。(資料1,3)最後の探訪地のをご紹介を順次続けましょう。まずは「二月堂」から見仏して行きました。二月堂には巨大な「木造軍荼利(ぐんだり)明王立像」(重文)が安置されています。平安時代・10世紀の作だそうです。像高3.64m。 一面六臂の巨像です。6本の手には、鉾・輪宝・三鈷杵(さんこしょ)・金剛鉤(こんごうこう)を持ち、大?印(だいしんいん)という印相を表しています。 頭は炎髪が逆立ち、上歯で下唇を噛みしめ、怒りの眼が睨みつける激しい相貌です。檜の一木造りだそうです。軍荼利明王は五大明王の一尊で、中央の不動明王に対し南方に配される明王です。「五大明王像は平安時代から盛んに信仰され、五壇法が行われ、五大堂が各寺に建てられるようになった」(資料4)といいます。かつては、この金勝寺に五大明王像が安置されていたのでしょうか。この大きさの像が5躰配されていたら・・・・・壮観ですね。そんな想像をしてみたくなります。 本尊は木造釈迦如来坐像(重文)で平安時代・12世紀の作。檜材の寄木造り。後補で漆箔が施されているようです。 本堂前面を眺めますと堂前に鰐口が吊されています(左)。木鼻は象頭の形をシンプルに表現しています。(右)蟇股が使われる場所には大瓶束(たいへいつか)と呼ばれる円柱を使った「笈形」という形です。左右の装飾が蟇股のような形で下方向に広がっていく形ではなく、上部の桁を支える様な装飾になっています。笈形は「鎌倉時代以降、大仏様・禅宗様の様式にあらわれている」(資料5)そうです。天文18年(1549)の大火で本堂ほか諸堂が焼失し、約400年前に仮堂として建てられたものがそのまま現在の本堂として使われているとのことです。また、二月堂は文治元年(1185)の失火後の金勝寺再興の時に建立された建物だとか。(資料1) 本堂の右側を回り込み、坂道を少し上がると、「御香水館」があります。連子窓から中を覗くと、井戸のようです。ここの清水は「明治3年(1870)まで毎年正月15日、九重御祝小豆粥の水として、京都御所へ献上していました」(資料1)とのこと。『大辞林』(三省堂)を引くと、九重について「(昔、中国で王城の門を幾重にも造ったことから)皇居、宮中」という説明があります。正月15日に御所でお祝いとして小豆粥を食する行事が行われたということでしょう。「小豆粥」は俳句の季語にもなっています。歳時記には「1月15日に小豆を入れて炊いた粥のことで、餅も入れる。これを食べれば、その年の邪気、疫病を祓うという」(資料6)と記されています。いくつかの歳時記を繙くと、小豆粥よりも七草、七草粥を季語とした句の方が多く詠まれています。小豆粥を季語として詠んだものをいくつか引用しさせていただきましょう。 明日死ぬる命めでたし小豆粥 高浜虚子 頼みあふいのちふたつや小豆粥 吉井莫生 ほのぼのと山辺なりけり小豆粥 綾部仁喜『有職故実 上』を繙くと興味深いことが記されています。行事の変遷です。(資料7)「正月上の子の日に、内蔵寮、並びに内膳司から若菜を供じ、羹(あつもの)を調じて天皇に差し上げる儀」(p207)があったそうです。羹というのは熱く煮た吸い物のこと。子の日の宴で、春草の若苗で食用に堪えるものを吸い物にして食べ、長寿を祝うこととしたようです。これが正月七日に春の七草を羹にして食べることに変更となったようです。『枕草子』には7日に七草の若菜を食べる記載が出ています。一方で、「正月十五日、主水司(もいとりのつかさ)から七草粥を献上する儀」に関連したことが『延喜式』に記されているそうで、もともと15日に七草粥が食されたのだとか。嵯峨天皇(809~823)の頃には定まった行事としての記録がみられるそうです。それが、『枕草子』(堺本)には「十五日は、もちがゆの節供参る。」とあり、7日が七草粥、15日が望(もち)の粥の風習になっていくようです。『枕草子』は1001年頃成立したとみられています。そして、「江戸時代には、民間では15日に食べる粥、即ち望(もち)の粥というのを訛り『餅の粥』と誤り、小豆の粥に餅を入れて食することが行われるようになった」と考証しています。脇道に逸れました。戻ります。 御香水館の前の山道を本堂の背面を見おろしながら上ると、 「金勝寺遺跡」 ここは「大講堂跡」に比定されているそうです。 昭和60年(1925)の遺跡所在調査で、梁行5間、桁行9間(推定)の堂舎跡。露出している礎石は整備に伴う復元だとか。(説明板より)大講堂跡と比定される場所は標高549m付近の尾根の斜面に造られた平坦面ですが、もう一箇所標高538m付近の尾根を掘り切り平坦面を造って、三間四面の建物を建てていたと推定できるそうです。また、「遺跡からの出土遺物には瓦が極めて少なく、屋根は檜皮(ひわだ)や柿(こけら)により葺かれていたと考えられます。出土した土器類には9世紀後半~10世紀初頭の遺物が多く含まれています。」とのこと。(資料8)「虚空蔵堂」は昭和に新しく建立されたお堂です。木造虚空蔵菩薩半跏像(重文)が安置されています。平安時代、10世紀の作だそうです。 お堂側面の窓の格子の間から垣間見える菩薩の尊顔 この後、山型配石参道を下っていき、石垣の中に、年号の刻された石が組み込まれているのを目にしました。志納所を出て気づいたのが、「良弁僧正お手植大杉」の案内板「六根清浄散策路」と名づけて整備された周回路の一角にあります。六根とは眼、耳、鼻、舌、身、意の六根のことです。つまり、人間の身心を清らかにするための散策路ということでしょう。 この巨木となった大杉がお手植えの杉だそうです。さてここからは、林道を歩み「こんぜの里」に下りるだけです。次のような各種標識を下山の途中に見ました。これを逆順に御覧いただくと、「こんぜの里」からの上り道の景色ということになります。 道の駅「こんぜの里」の隣に「県民の森」が広がっています。「こんぜの里」の建物に近い方の入口近くに、 この古墳のようなイメージの小丘が作られています。生け垣に囲まれた頂上までの石段を上ると、 北の方向に「県民の森」が広々と眺められます。なかなかいい景色です。ここは昭和50年(1975)に全国植樹祭が行われた跡地なのです。そこが「県民の森」となりました。この景色は、栗東八景の一つに選ばれ、「陽春の風光」と称される景色です。 この森の一隅を少し散策すると、「全国植樹祭」の折の昭和天皇の記念植樹の碑が建てられていました。「ひのき」を植樹されたそうです。 その碑の後の方に、植樹された時に詠まれた歌が大きな歌碑として建立されています。 金勝山 森のひろばにあれかしと いのりはふかし ひのきうえつつ植樹の「ひのき」が大きく生長していました。その「ひのき」もはや40年余の年輪を刻んでいることになるのですね。最後に、白洲正子氏の「金勝山をめぐって」というエッセイは、金勝山ハイキングとそこに点在する史跡を味わうのに有益です。金属を扱う人々の集団・金勝族という説やその人々が金勝山の神を奉じていたという説にもふれています。金勝族と良弁の関係も語り、金勝山・金勝寺・狛坂寺などに対してロマンを喚起させるものです。かなり昔に読んだもの-ほとんど記憶の底に沈殿していただけ-です。この探訪の後で改めて読み直してみて、文庫本を携えて行っていたら・・・・と、ちょっと残念な思い。 ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「金勝山金勝寺」 拝観時にいただいたリーフレット2) 『かくれ里』 白洲正子著 講談社文芸文庫 p99-1103)『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25』 平凡社4) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社5) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p1796) 『改訂版ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 p497) 『有職故実 上』 石村貞吉著 嵐 義人校訂 講談社学術文庫 p267-2788)「探訪[大地の遺産] 金勝山に大磨崖仏を訪ねて」 当日の配付資料 滋賀県教育委員会 協力:栗東歴史民俗博物館、栗東観光物産協会【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺国宝 良弁僧正坐像 :「東大寺」良弁忌の東大寺開山堂 :「奈良の宿大正楼」良弁 689‐773(持統3‐宝亀4)金鷲優婆塞 :「コトバンク」東大寺 金鷲と執金剛神 増尾正子氏 :「奈良の昔話」軍荼利明王 :ウィキペディア仏に関する基礎知識:五大明王(ごだいみょうおう):「高野山霊宝館」本尊五大明王 :「江寄山常福寺」虚空蔵菩薩 :ウィキペディアこんぜの里 ホームページ湖南山地をめぐる渡来文化への視座 高田氏 :「近江歴史回廊倶楽部」近江富士三上山 御上神社 ホームページ兵主大社 :「滋賀県観光情報」山津照神社 :「滋賀県神社庁」飯道神社(イヒミチ) :「滋賀県神社庁」飯道神社 :「滋賀県観光情報」山津照神社古墳 pdfファイル 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -1 オランダ堰堤・逆さ観音・狛坂磨崖仏 へ探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -2 国見岩・重岩・白石峰・茶沸観音・龍王山・馬頭観音堂 へ
2017.05.27
コメント(0)

狛坂磨崖仏から国見岩に向かう途中で、巨岩の間の細い山道を通ります。右の画像は通過後、振り返った景色です。 [探訪時期:2014年10月] 次々に奇岩・巨岩を見つつその傍を通り、 大岩を回り込み 岩の近くを上に登ると、一挙に展望が開けます。ここが「国見岩」です。 真っ直ぐに眺め渡すと遙かに山並みが折り重なり、 岩場の先端近くから眼下を望むと、まさに近江国が一望の下に広がるのです。その名の通り、国を見る岩の上という絶景展望地です。 北の方向を遠望すると、三上山が視野に入ってきます。 ズームアップしてみました。国見岩の近くの道標には、「KS・2」というコールポイントの表示が付いています。これは、万一、事故等が生じ救助を求める場合に所在を伝えるポイントを示す記号です。龍王山への尾根道を進むと、 「重岩」の奇岩が忽然とあります。こんな形の岩の積み重なりがどのように形成されたのか不思議です。ふと見ると、下岩の側面に石仏が線刻されています。 「白石峰」は四方向への分岐点です。金勝山ハイキングコースの重要なルートポイントです。数多くの拠点表示がなされています。山行の目安として大変便利です。傍には「金勝山ハイキングコース案内図」もあります。 白石峰からの眺め 龍王山山頂への途中にある「茶沸観音」石仏岩を舟形に穿ったくぼみ(龕)に、石仏像が厚彫りされています。この石仏は、鎌倉時代に作られたと推定されています。実は観音立像ではなく、蓮華座の上に立つ如来立像だそうです。なぜ「茶沸観音」なのか? ここで参詣者に茶のもてなしが行われていたことから、この名の由来があるそうです。(資料1) 龍王山の山頂ここには2つの小社が祀られています。右側の小祠には「金勝寺八大龍王本殿」の石標が立っています。左側の小祠には、左側に駒札があり、大野神社の境外社だという説明が書かれています。こちらには「天之水分神」が祀られているそうです。八大龍王社は金勝寺を開いた僧・良弁が金勝寺の開創と同時に、この金勝山の最高地点になるこの龍王山山頂に八大龍王を祀ったといいます。そして、旱魃の折にはこの社前が雨乞い祈願所となったそうです。社前において法華経が読誦されたそうです。雨乞い祈願は近年まで行われていたようです。(資料2)大野神社は、嵯峨天皇の勅願により僧願安が金勝山連峰に狛坂寺を建立した時、その守護神となって狛坂天神と称されたということにその起源があるそうです。そして、寛平九年権大納言菅原道真が、金勝寺に勅使として参向の折、大野神社に滞在したという縁由をもって正一位於野宮天満宮と称されたことから、天満天神を祭神とするに至ったといいます。(資料3)狛坂寺との関係でこの境外社が祀られていたということでしょうか。大野神社は現在は全く別の次元で有名神社になっているようですが・・・・。いずれも農業に必須の水の恵みに関わる神が祀られているのですね。雨乞い祈願。ここは金勝山の分水嶺・龍王山である旨の説明が駒札の末尾に記されています。 山頂近くからの眺め 山頂の四等三角点の石標。傍に登山者の登山記念表示板が樹木に掛けられています。そして、下りに入ります。目指すのは馬頭観音堂です。馬頭観音堂の傍が、金勝山ハイキングコースの一つの入口になっています。ここまでは金勝寺林道が自家用車通行可能であり、ここに約10台の駐車スペースがあるのです。馬頭観音堂は駐車場からは少し高みにあり、こんな掲示がでています。 「馬頭観音堂」 ここで昼食休憩となりました。市内を一望できるエリアが広がっていて、散開して思い思いに休憩タイムをゆったりと過ごせる場所でした。 のんびりと市内を眼下に遠望していました。 休憩タイムに見つけた蝶々 休憩後は金勝寺林道を下り、最後の探訪先「金勝寺」に向かいます。つづく参照資料1) 狛坂磨崖仏・栗東市荒張 :「滋賀文化のススメ」2) 地域の歴史文化・名所 :「大戸川ダム工事事務所」3) 大野神社 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺八大竜王 :ウィキペディア八大竜王とは :「八大竜王豆知識」大野神社 :「滋賀県観光情報」「嵐」の聖地は栗東の大野神社 2013/05/08 :「徒然草」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -1 オランダ堰堤・逆さ観音・狛坂磨崖仏 へ探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -3 金勝寺・金勝寺遺跡・こんぜの里・県民の森 へ
2017.05.26
コメント(0)

今回の探訪の集合場所、上桐生のバス停の先にある桐生キャンプ場入口あたりの景色です。近くに一丈野駐車場があります。ここからはじまる一丈野地区は滋賀森林管理署が昭和48年(1973)に「近江湖南アルプス自然休養林」として設定した区域で、ハイキングやキャンプ等の森林レクレーションの場となっています。 このあたりの山々は古代から宮殿・社寺造営用木材の伐採地であり、またその後燃料採取などのための乱伐で江戸時代には禿山となっていたそうです。明治時代に治山事業の一環として築かれたのが「オランダ堰堤(えんてい)」です。2014年10月26日に、滋賀県教育委員会の文化財保護課が企画され、栗東歴史民俗博物館と栗東市観光物産協会が協力された探訪[大地の遺産]の一企画に参加しました。具体的な探訪名称は「金勝山に大磨崖仏を訪ねて -金勝寺遺跡・狛坂遺跡-」でした。この探訪では、上桐生を出発点に、金勝山ハイキングコースの一ルートを歩きながら史跡を巡りました。栗東市のホームページに掲載されている「金勝山ハイキングマップ」が便利です。こちらからご覧ください。pdfファイルなのでダウンロードもできます。今回の探訪ルートをこのマップから切り出して利用させていただきます。 金勝山ハイキングルートは、左の赤色の四角:上桐生を出発し、右のマゼンダ色の四角:道の駅・こんぜの里りっとうが終着点です。この行程中にある史跡と金勝山の景観を満喫するという探訪でした。なお、金勝山というのは、湖西にある比良山と同様に、特定の山ではなくて、龍王山、鶏冠山、阿星山という山々の総称なのです。この探訪に参加した後でまとめていたものを再録し、ご紹介いたします。まずは最初の行程「上桐生~オランダ堰堤~逆さ観音~出合~狛坂磨崖仏」から始めます。最初に、金勝山と金勝寺という名称ですが、山の方は「こんぜやま」と呼び、お寺は「こんしょうじ」と称されています。「こんぜの里」というのは山の呼び方から取られているようです。ところで、「金」は音読みの漢音で「キン」、呉音で「コン」なのですが、「勝」という漢字は「ショウ」という音なのです。辞書・本やインターネット情報もいろいろ調べてみましたが、この文字を「ゼ」と発音するルーツがわかりませんでした。音読みでも訓読みでもなく、中国語や朝鮮語・ベトナム語の発音でもなさそうなのです。(資料1)白洲正子氏は「金勝山をめぐって」という随筆に、金勝山にある金勝寺(550m)まで、「昔は五十町の険しい坂道を歩いて登ったので、こんな所へは、二度とは『コンゼ』と人はいったという」とおもしろく書いています。(資料2、p100) キャンプ場入口のモニュメントの傍の彫刻像があるところから、「大津市桐生若人の広場」(教育キャンプ場)の傍を通り、まずは「オランダ堰堤」に向かいます。このあたりは、既に拙ブログ記事「探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生) -4 オランダ堰堤」で少し詳しくご紹介しております。こちらをご覧いただけるとうれしいです。この堰堤は鎧のコザネが連なっている感じに見えることから「鎧堰堤」とも呼ばれるようです。資料から見るかぎりでは、明治19年(1886)に着工、明治22年(1889)に竣工。当時内務省の技師だった田辺義三郎氏設計によるものだそうです。当時、明治政府により内務省土木局に招聘されたオランダ人、ヨハネス・デ・レーケが西洋の土木技術を日本で指導し、様々な地域を巡視したそうです。「残念ながら、明治6年(1873)に草津川流域に巡視に来た記録が残っているものの、それ以上に、デ・レーケが、この堰堤の計画に関わった記録は残されていない」のだとか。(資料3)オランダ堰堤の名称は、このデ・レーケに由来します。この堰堤の右側にある山道を登っていきます。途中、上流側に作られたこんな堰堤を眺めながら進んで行くと、 この道標が最初の分岐にあります。天狗岩線の方にいけばその途中に「一丈野キャンプ場」があります。今回の探訪は右の方向に谷川沿いに進みます。 「さかさ観音(三尊石仏)」なぜか石仏の前に、まだ新しい感じの説明板が建てられています。登ってくると眺めを遮っているのがちょっとおしいなあ・・・というところです。 説明板の横を回って傍で眺めた「逆さ観音」なぜこの三尊石仏像が逆さになっているのか、その説明も記されています。実は山上の大岩に磨崖仏として彫られていたのですが、その大岩の一端が下流で眺めてきた「オランダ堰堤」築造の石材として割り取られたことに一因があるとか。大岩がバランスを失い、ずり落ちて逆さになったそうです。「阿弥陀三尊石仏」なので脇侍は「観音菩薩・勢至菩薩」です。そこから「逆さ観音」と呼ばれるようになったそうです。「観音様」が一番親しみ易いせいでしょうか。 側面から眺めたところこの逆さ観音を見た白洲正子氏は、上掲の随筆に、(金勝寺・狛坂寺間の往来にふれて)「・・・昔はしきりに往来したようで、二つの峰の間には、たくさんの石仏や石塔が、人知れず残っていると聞く。その一つは、ここからあまり遠くない所に、さかさまに倒れたままで、むざんな姿をさらしていたが、その他にもどれほどあるか知れないという」と書き加えています。(資料2) 道標を見ながら、谷川沿いに進むと、「上桐生バス停」「竜王山・狛坂磨崖仏」「桐生辻」という三方向への道が出合う地点「出合」に至ります。ここから北東方向に進みます。進行方向からは左折することになります。 すこし登ると、ごつごつした岩や道標が見えます。 「狛坂磨崖仏」が見え始めます。磨崖仏のある場所の全景です。高さ約6.2m、幅約4.5mの巨大な花崗岩に、北面する形で厚肉彫りされた三尊像です。中央に如来坐像、両脇侍に菩薩立像が陽刻されています。 磨崖仏に近づいて行きましょう。中央の台座に坐る本尊の如来像は像高3.08m。尊名は阿弥陀仏・弥勒仏・毘盧舎那仏など諸説があるようです。(資料3,4)見る角度によって如来坐像の雰囲気、景色が変わります。両足は交差した形で彫られています。衲衣は翻波式の文様で彫られていて、平安時代初期の特徴がみられます。また、朝鮮半島の彫刻の技法が磨崖仏の彫刻の様式に見られるようです。「はっきりとした目鼻立ちに肩を張ったどっしりした作風から、統一新羅の彫刻の影響を受けたものと見られている」(資料4)のです。 脇侍は像高2.3mの菩薩立像頭に宝冠をいただき、蓮華座に立ち、如来坐像に近い方の手を胸元に置き、もう一方の手を下げています。腰を少しひねり微笑みを浮かべた立像です。よく見ると、手の指が表す形が左右の菩薩像で微妙に異なり、天衣や裳の文様表現も微妙に異なります。 如来像の体躯は大きくて逞しさがあり、お顔は大らかさの中に微笑みを浮かべた、どことなく大陸的な雰囲気が窺えます。 上部には2組の三尊像と3体の菩薩像が陽刻されています。三尊像の下部には、格狭間(こうざま)入りの須弥壇が陽刻されています。(資料3) 巨岩を側面から見るとこんな感じです。この磨崖仏像の姿と類似の磨崖仏が韓国の磨崖仏像にみられるそうです。このことからもこの地に渡来系の人々が住んでいたと推定できるようです。全景画像に見える磨崖仏の左手側にある小ぶりな岩にも、三尊石仏がレリーフされています。 磨崖仏の近くにはいくつも石仏が岩の上や傍に。この狛坂寺跡には、この磨崖仏の周辺に段々に造成された坊跡や石垣の遺構もあるそうですが、今回は時間的に周辺を探訪する時間がなくて未確認です。狛坂寺跡は龍王山の中腹にあり、最後に訪れる金勝寺の別院として平安時代の初期に建立されたと伝えられています。当日説明を受けた内容・主旨を、ネット検索していて入手しました。次の説明です。「嵯峨天皇の弘仁年間(810~823年)、蒲生郡狛長者の娘によって壇林皇后に献上された金銅の観音像を、嵯峨天皇は奈良・興福寺の名僧、願安に下賜した。この観音像を願安は初め金勝寺に安置したが、金勝寺を中心とする金勝山は女人結界(禁制)の山だったため、金勝寺の西方の山中に女人たちも詣でることができる別院、狛坂寺を建立し、ここに観音像を安置したといわれる。狛坂寺は平安時代から中世にかけておおいに栄えたが、文保2年(1318年)と永世12年(1515年)に焼失し、寺勢は一時衰えた。江戸時代の天保9年(1838年)に本堂や坊舎が再興され、再び参拝客らで賑わったという。しかし明治維新以後、廃寺となる。」(資料4)この地はまだ本格的な発掘調査はされていないそうですが、7世紀末から8世紀初頭(白鳳期)の瓦が出土しているそうです。そのため堂宇の建立は平安期以前に遡るかもしれないという見方もあるようです。(資料3,4)白州正子著『かくれ里』は1971年12月に刊行されています。これは1969年1月から「芸術新潮」に2年間連載されたものをまとめた本と年譜からわかります。白州正子氏は、平野から桐生へ出て、そこから林道を登った情景の後に、こう記しています。「・・・・左手の藪の中に『狛坂廃寺』という立札を見つけた時はうれしかった。磨崖仏は、そこから20分ほど登ったところにあるが、ほとんど道らしい道もなく、水の中を渡ったり、笹藪をわけたりで、若いお嬢さんについて行くのは骨が折れる。だが、金勝山を、いわば裏側から眺めるこのあたりの景色はすばらしい。・・・」(資料2、p108)1970年前後がそんな行程だとすると、ハイキング・コースとしてかなり整備されてきたということがわかります。狛坂磨崖仏のある地点は標高450mです。ちなみに私たちの出発点の上桐生は標高260m。そのあとに、こんな文章がつづきます。「磨崖仏は、聞きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく、美しい味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとりまいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のある石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中に、山全体を台座とし、その上にどっしり居座った感じである。周囲には、僧坊の石垣の跡が残り、かなり大きな寺だったことがわかるが、金勝山の別名が狛坂寺であることを思うと、ここが奥の院であったかも知れない。狛坂というからには、帰化人が領した土地で、朝鮮の景色も、私は知らないがこの辺の岩山に似ているのではないだろうか。」(資料2、p108-109) こんな標識が近くにありました。入手したリーフレットによれば、上桐生から狛坂磨崖仏までは、3.7km、標高差190m、往路120分、復路90分です。(資料5)この後、国見岩を経由して龍王山(604.7m)に向かいます。金勝ハイキングコースのピークであり、この行程は奇岩を眺めつつ歩める絶景スポットなのです。つづく参照資料1) 勝 :「ウィクショナリー」2) 『かくれ里』 白洲正子著 講談社文芸文庫3) 「探訪[大地の遺産] 金勝山に大磨崖仏を訪ねて」 当日の配付資料4) 狛坂磨崖仏・栗東市荒張 :「滋賀文化のススメ」5) 「金勝山ハイキング」PRリーフレット 栗東市経済観光振興課 2010.08発行【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺金勝山ハイキングコース情報 :「栗東市」竜王山 :「滋賀県」金勝山 :「tabico」慶州市南山 七仏庵磨崖石仏 大伽耶・新羅の旅 :「万葉集を携えて」4年ぶりに七仏庵を訪ねる :「韓国山中隠遁留学記」世界遺産・慶州南山の人気の磨崖仏 釜山ナビ BUSANNAVI.JP :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -2 国見岩・重岩・白石峰・茶沸観音・龍王山・馬頭観音堂 へ探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -3 金勝寺・金勝寺遺跡・こんぜの里・県民の森
2017.05.25
コメント(0)

矢倉小学校のすぐ南に国道1号線の野路町交差点があります。この交差点で一旦「かがやき通り」に入り、再び旧東海道に入ります。冒頭の「教善寺」というお寺が見えて来ます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 [歩く&探訪時期:2015年12月」 浄土宗のお寺で、本誓山来迎院教善寺という名称です。「びわ湖108霊場」の第101番札所であり、「近江湖南二十七名刹霊場21番札所」でもあります。本尊は阿弥陀如来立像です。(資料1,2)『近江国與地志略』には、野路村にあり、承応二癸巳年建立、知恩院の末寺だと記載されています。(資料3)鐘楼前の道路脇に、「草津歴史海道 東海道」の説明板があります。矢倉地区から野路地区に入ってきたところです。 教善寺の近くで見かけた建物教善寺の西に進むと、旧東海道に面して「遠藤権兵衛家」があり、この民家の庭に「平清宗」胴塚と伝えられる供養塔があるのです。 平清宗は父宗盛とともに、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いにおいて義経により生け捕りとなります。鎌倉まで連れて行かれるのですが、このとき頼朝は義経が鎌倉入りすることを認めず、追い返します。近江まで戻ってきた義経の命により野洲篠原で宗盛が首を刎ねられ、この野路において文治元年6月21日、清宗は堀弥太郎景光により首を刎ねらたと伝えられています。清宗は17歳だったといいます。その首は京都六条河原に晒されたのです。(説明板より)遠藤家のご好意で、庭に入りこの供養塔を拝見することができます。よく見ると、宝篋印塔と五輪塔の残闕を組み合わせて供養塔にした感じです。宝篋印塔の塔身は普通は立方体ですが、この供養塔には五輪塔の水輪にあたるものが塔身に使われているからです。宝篋印塔において格狭間のある基礎の下に、少しサイズの小さい方形の石が置かれていますが、ひょっとしたら五輪塔の地輪にあたる石なのかもしれません。これはあくまで私の印象ですが。いずれにしても、上記の伝承がある故に、特に諸行無常の一端を感じる供養塔です。この野路町にも史跡・遺跡案内板が設置されています。歴史探訪者にとては重宝する情報提供となっています。その先に「新宮神社」の鳥居があります。鳥居の手前左右に、「新宮神社」「都久夫須麻神社」石標が立っています。この神社は今回通り過ぎるだけになりました。都久夫須麻神社とは「竹生島神社」のことです。この都久夫須麻神社は「新宮神社」の境内社の一つという位置づけです。竹生島から勧請されたのでしょう。新宮神社の祭神は、速玉男命・事解男命 です。(資料4)ここからは旧東海道を離れ、立命館大学のびわこ・くさつキャンパスを目指しました。 草津市野路東に立命館大学のキャンパスが誘致される折りの発掘調査で「木瓜原(ぼけわら)遺跡」が確認されました。木瓜原の中心部である製鉄炉の部分が「製鉄炉地下保存施設」として、キャンパス内にある上掲の総合グラウンドの下に、地下保存遺跡として保存されています。大学に事前申請しておくと、その地下保存施設を見学できるのです。今回はJR草津駅からロクハ公園に歩く途中で迂回して、この遺跡の見学できるように今回のウォーキングのリーダーが行程を企画し、見学の手続きをしていてくれました。かなり前に、この遺跡のことを新聞で知り、一度見学してみたいと思っていたのでうれしい限りでした。これは当日キャンパスでいただいたリーフレットです。広げるとA3サイズよりも一回りおおきなものになり、片面には折りたたんだ表紙の写真の遺跡区域が当時の復元想定図として描かれています。そしてこの「木瓜原遺跡」の簡略な説明が記載されています。この遺跡は7世紀末~8世紀初頭のものだそうで、副題にあるとおり「古代の製鉄コンビナート」ともいうべき総合生産遺跡だとか。製鉄、製陶(須恵器すえき・土師器はじき)から梵鐘の鋳造まで生産していたと推定されています。このキャンパス域での発掘調査は13万㎡に及び、周辺に分布する一部の木炭窯を除いては、ほぼ遺跡の全体が調査されたそうです。(資料5)ここは琵琶湖との比高が50mほどあり、なだらかな瀨田丘陵の一画になります。南西に方向4kmほどには近江国庁が位置します。この瀨田丘陵地帯では、他に製鉄遺跡として源内峠遺跡、野路小野山遺跡が確認されています。私は源内峠遺跡を一度探訪に行ったことがあります。製鉄遺跡の一部遺構の状況が復元されていました。これは保存施設を出る際に階段を撮った画像ですが、グラウンド傍にある「製鉄炉地下保存施設」は結構深いところに位置します。 階段を下りきったところにこのイラスト図が掲示されています。保存施設は、製鉄炉遺跡の周囲に回廊が巡らされていて、この通路を周回して遺跡を見学できるのです。 これはリーフレットに掲載の施設図を引用させていただきました。これは入口側とは反対の北北西地点、上掲設備図の上辺側通路から眺めた調査用トレンチです。この製鉄遺跡の内部構造を調査するために掘られた調査溝です。合計5本のトレンチが掘られています。 南東寄り、つまり設備図下辺の通路端近くからの全景見学を終えて、キャンパスから目的地のロクハ公園に向かいます。名神高速道路を挟み、北側に位置します。JR南草津駅との位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 ロクハ公園 南ゲート 「ロクハ」というのが何に由来するのかと調べて見ると、この地は昔は「緑波」と記されていたそうです。木々の緑を映して静かに水面が波打つ「緑波池」があり、この名前が由来となっているのです。緑波→リョクハ→ロクハという形で訛って変化をしたといいます。(資料6) 南ゲートの傍に駐車場エリアが西に、お花見広場が東側にあります。ロクハ池の西から北方向に、キャンプ広場、ピクニック広場、多目的広場、室内・屋外プールとつづくゆったりとした公園です。右の写真は、南ゲートの近くにある案内図。この公園のエリアガイドはこちらをご覧ください。入口から少し中に入っていくと、ロクハ池が樹木越しに見えます。かなり大きな池です。 公園の一隅に「愛こそが平和をかなえる」という一文の銘碑を置いたモニュメントが建立されています。公園内のバーベキュー広場の一隅で、同好会恒例の闇鍋会を実施。宴を終えた後は、正面ゲートの方からJR南草津駅に向かいます。 正面ゲートの近くにある花畑 川原池 正面ゲートのそばにこの池があります。 「若人」と名づけられた彫刻像が目にとまりました。 東矢倉南の交差点 JR南草津駅が今回のウォーキングの終着点でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 第百一番 本誓山来迎院 教善寺 :「びわ湖108霊場」2) 教善寺/滋賀 :仏像ワンダーランド3) 『近江国與地志略 上』 :「近代デジタルライブラリー」 173/214 コマ目上段に見出し項目があります。4) 新宮神社 :「滋賀県神社庁」5) 「木瓜原遺跡」 立命館大学 当日いただいたリーフレット 6) ロクハの由来 :「草津市公園事務所・ロクハ公園」補遺木瓜原遺跡古代製鉄炉の見学受付 :「草津市」木瓜原遺跡 :「立命館大学 学園通信RS」木瓜原遺跡 :「立命館大学 秘密の扉 +R」技術者の系譜~古代近江の金属生産~ 栗東歴史民俗博物館瀨田東文化振興会・源内峠遺跡復元委員会新近江名所圖会 第23回 源内峠遺跡-甦った古代の製鉄遺跡- :「滋賀県文化財保護協会」野路小野山遺跡発掘調査概報 :「全国遺跡報告総覧」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -1 旧東海道沿いの史跡点描 へ探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -4 近江国庁遺跡他 へ
2017.05.25
コメント(0)

2015年12月、ウォーキング同好会の例会でJR草津駅前に集合し、ロクハ公園を目的地とするルートを歩きました。この時の行程において目に触れたもの、また立ち寄り少し探訪した史跡などを点描しつつ、まとめたものを再録しご紹介します。冒頭の写真は、草津駅前の商店街を抜けた道で見かけた道標です。地蔵尊の小祠が旧草津川のトンネルまでにもう一つありました。旧草津川は有名な天井川です。現在の旧東海道にはトンネルを抜けて繋がっています。 旧草津川のトンネル内壁画です。旧街道筋の風景、草津川の渡し、萩の玉川が描かれています。草津川の渡しは、歌川広重が「木曽海道六拾九次之内草津追分」として描いています。(資料1)トンネルを抜けると、東側には中山道と東海道の分岐点の道標が立っています。「追分道標」と称され、ここはかつては草津宿の追分見付と呼ばれていた場所です。1816年に建てられたもので、「街道を往来する諸国定飛脚の宰領中から寄進された火袋付きの常夜灯」なのです。(資料2)現在の火袋は木製ですが、『栗太志』(文政4年[1821]頃の作成)には、当時は銅製だったことが記されているそうです。(資料3)かつてのトンネルはアーチ型のものだったのです。「写真で見る滋賀の20世紀」に「草津川トンネル付近」、1962年頃の写真が公開されています。こちらからご覧ください。これは明治19年、馬車や人力車が通行できるように掘られ、アーチ型レンガ造りの隧道だったそうです。この当時の隧道の扁額が現在は追分道標の傍に保存されています。追分道標から道路を挟んで向かい側に、かつての「高札場」が再現されています。そのすぐ傍に草津市民センター(草津公民館)があり、その前のスペースに見るべき物がいくつかあります。6143,6142最初に目にとまったのが左の写真のポストです。「書状集箱」という文字が見えます。でも、これは現役のポストなのです。傍に立つ駒札には、「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業時使用していたものと同じ型のものです」と説明されています。ここに投函されたものも、他のポストと同様にちゃんと取り集めされるのです。もちろん、その点も付記されています。その右側に、歌碑と「草津歴史街道」として「東海道」についての説明板があります。「草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った」という経路でした。「草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほか多数の社寺が立ち並び、70軒を超える旅籠をはじめ500軒以上の町家があった」(説明板より)そうです。また、歌碑に刻まれた歌は、 近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ何處ともなき室町時代の歌人堯孝法師(1390~1455)が詠んだ歌で『覧富士記』に所載だそうです。頓阿の曾孫で、応永21年(1414)には二条派の中心歌人だったとか。永享4年(1432)に、将軍足利義教(よしのり)のお供をして富士を見に行く途上で、この草津に来て詠んだと言います。「近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ」という歌意です。(説明板より)裏返せば、室町時代には既に、草津は交通の要衝地としてかなりの賑わいの町となっていたということでなのしょうか。 説明板の南隣りに彫刻作品があります。これはこのポケットパークにある街角彫刻。鈴木典明作「時の旅人」と名づけられた平成10年製作の作品です。調べて見ると、草津市の「人と環境にやさしいまちづくり」の一環として、街角に設置された28基の彫刻の一つです。「本作品は、人体とその軌跡は過去から旅を続け、人が行き交う時間性を表現しています。また、過去から現在、そして未来へと人が通い発展していく草津市を作者の願いとして表現しています。素材としては、ステンレスを使いステンレス棒の集積で人体とその軌跡を表現し、それぞれに行き交う人が一部交って、その時間の経過を同時に表現しています。」(資料4)という意図が込められているようです。草津市はこの東海道と中山道が交わる地です。まさに多くの人々が絶えることなく互いの目的地をめざして行き交ってきた地点。今も、これからも、行き交う場所、接点です。一瞬の人々のすれ違いはどれだけの数になることでしょう。互いに認識することなく、再びこの場所で行き交うことの可能性も無限に低い行きずりの機会という接点が集積・凝縮されているように感じます。流動感があり、おもしろい造形です。素材が青銅という金属でなく、ステンレスというのも行き交うだけという無変質性・無機質性に繋がる感じを生み出しています。旧東海道を西に進みます。 草津宿本陣 徳川家康は、慶長6年(1601)に「五街道整備」に着手し、「宿(しゅく)」を制定します。これにより、江戸・日本橋から京都・三条大橋に至る宿駅が53ヵ所、つまり東海道五十三次が誕生するのです。徳川幕府は実際には京都-大坂間の街道も一体整備していきます。草津は五十三次でいえば、江戸より数えて52番目になります。東海道松並木や一里塚は慶長8年に整備されます。参勤交代が制度化されるのは1635年で、三代将軍家光の時代、武家諸法度の改正によるもののようです。しかしその前例は、慶長7年(1602)前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い事例となるそうです。参勤交代の制度化が、大名の泊まる宿の常設整備を必然化したのでしょう。(資料4,5)尚、休泊施設としての宿を「本陣」と称するようになった起源は、「室町幕府の二代足利義詮が上洛に際して、その旅宿を本陣と称し宿札を掲げたことに求められます。」(資料3)天保14年(1843)の「宿村大概帳」には、この草津宿には2軒の本陣、2軒の脇本陣が記載されていて、この画像の本陣は、「田中七左衞門本陣」だそうで、寛永12年(1635)に本陣職を拝命したと言います。明治3年(1870)に本陣が廃止になるまでは、代々本陣職を勤めたそうです。(資料3)史跡草津宿本陣の館内図はこちらをご覧ください。(ホームページの「館内紹介」) 登録有形文化財に指定されている「吉川芳樹園店舗兼主屋」江戸末期の建造物だとか。「平入り正面上部の虫籠窓の意匠や漆喰で塗り込められ出桁(だしけた)などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には文政13年(1830)の銘がみられます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直交するT字形の屋根の形式となっており、草津宿の町屋に見られた特徴を持っています。」(登録説明銘板より)また、この家は「脇本陣藤屋与左衛門家」にあたるそうです。こちらは「草津宿街角交流館」です。近江関係の浮世絵を主体とした中神コレクション、全国の記念切符や駅弁の掛け紙、観光パンフレットなどを中心とする山口正コレクション、そして道中案内記・古文書類などの館蔵品が見られるようです。(資料7)その先にあるのが、「太田酒造 道灌蔵」です。江戸城築城の祖と言われる太田道灌を祖先にもつ太田家は、東海道と中山道が交わり、琵琶湖の水運とも関わる要衝の地であるこの草津で関守を務めてきたそうです。廃藩後、明治7年に近江の良質な米をもとにした酒造りを始めたのだとか。現在は、ワインから日本酒・焼酎まで幅広く手掛ける「日本一小さな総合酒類メーカー」だそうです。清酒のブランド名はズバリ「道灌」なのです。(資料8,9) 道灌蔵の先、旧東海道と県道141号線の交差点が立木神社前です。小川に架かる橋の先が「立木神社」です。 朱塗りの橋を渡ったところに、御神鹿の像が配されています。立木神社の縁起によると、称徳天皇の時代・神護景雲元年(767)に武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、常陸国(現在の茨城県)にある鹿島神宮を白鹿に乗り旅にでて、諸国を巡った後、この地に至り、手にしていた柿の鞭を現在の社殿近くに刺されたそうです。その柿の鞭が木としてこの地に生え育つならば、奈良の三笠山に鎮まろうと告げられたとか。刺された柿の鞭が、柿の木として生え根付き、枝葉が茂って行ったそうです。里人はこの木を崇めたのだとか。神殿を建てて社名を立木神社と称したと伝わるのです。(資料10)境内を入った近くに、県内最古の石造道標が移設されています。傍に説明板があります。そこにこの道標の刻銘が原文通りに記されています。それによると、画像に見える正面が南面でそこに左・東海道伊勢道、西面に中山道多賀道を意味する文字が刻まれています。この道標は、「東海道と中山道との分岐点である草津宿の中央部に位置する追分の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分に建てられている文化13年銘石道標(1816年)の前身のものと推定されます。」(説明板より)また道標の刻銘内容から、京都壬生村のあしだの行者万宝院という人が、伊勢神宮と京都・愛宕神社に7年間毎月参詣し、その記念に延宝8年(1680)11月に建立したということがわかるのです。南面上部には、不動尊を示す種子カーンの梵字が刻まれています。道標の斜め後には、「自然公園 立木の森」という石碑が見えます。境内の東面、旧東海道に面する側の石造鳥居です。 こちらが神社の正面です。 鳥居の手前に石造の狛犬が配されています。6175,6176鳥居をくぐって石灯籠の並ぶ石畳の参道を歩くと、そのさきに築地塀と楼門が見えます。先ほどの朱色の鳥居から境内に入ってきた場合の先がこの石畳のところになり、「手水舎」がその間に位置していることがおわかりいただけるでしょう。手水舎の右斜め手前に建立されているのが、日本の新聞学研究の開拓者とされる「小野秀雄」(1885~1977)の顕彰碑です。傍にこの説明銘板が設置されています。小野秀雄はこの立木神社の中臣家第38代宮司の子息だそうで、新聞学研究の礎を築き、日本で最初の新聞発達史を出版したといいます。1955年に研究の功績に対し、日本新聞協会から新聞文化賞を授与されたそうです。築地塀と楼門の間には空間があります。楼門は四脚門です。この門は、室町時代・長享元年(1487)に9代将軍足利義尚(よしひさ)が栗太郡鈎村に在陣した時に、武運長久を祈願し奉建したものと言います。(資料10)楼門にも扉がありませんので、境内の中にある一種の結界という感じを受けます。幕に記されているのは立木神社の神紋です。手許の本に載る紋章の一覧では九条藤と呼ばれる紋章によく似ています。 拝殿と境内にある末社群 本殿本殿は屋根しか見えませんが、三間社流造で間口三間・奥行三間の建物です。祭神は武甕槌命。「延暦(えんりゃく)20年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を祈願され大般若経一部を寄進しました。この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。」(資料10)ウォーキング行程での立ち寄りでしたので、末社群や本殿などの細見ができませんでした。 立木神社の先には、現在の草津川が流れ、矢倉橋が架かっています。橋を渡ると、「矢倉」地区です矢倉にも、草津の地酒銘柄「天井川」の蔵元があります。この銘柄は「地元・草津市内産無農薬有機栽培の日本晴で醸し、名前も市民からの公募により決めた地元に根付いたお酒。地元の酒屋や飲食店に並ぶ分だけを仕込むという、まさに地域限定酒」(資料11)だとか。 その先に、「瓢泉堂」があり、その建物の傍に道標が立っています。「右矢橋道」とあり、近江八景の一つ「矢橋帰帆」は歌川広重の絵で有名です。琵琶湖岸の港町として栄えた「矢橋」です。「矢橋道」の終着点になります。琵琶湖と東海道がこの道で繋がっているのです。(資料12)道標には「これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻されています。廿五は二十五です。また、お店の正面の窓のところに、「矢倉立場」の説明板が掛けられています。「東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の『うばがもち』を売る店があった。この地にそのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や『東海道名所図会』『伊勢参宮名所図会』などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る『矢橋の渡し』の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に”瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅”と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で”急がば回れ”の語源になったところでもある。」(説明文転記)そして、末尾に『醒睡笑』に載る 武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋 を引用して、「近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したのである。」と「急がば回れ」の出典とその意味に言及しています。『醒睡笑』は京都の僧侶・安楽庵策伝が庶民の間に流行した話を集めた笑話集で、落語の原典になったとも言われる本です。京都所司代・板倉重宗の依頼でこの書をまとめたと言われています。京都の三条通に比較的近く、新京極通の繁華街の真ん中に京都誓願寺があります。慶長18年(1613)にそのお寺の55世となった著名な僧侶です。(資料13)また、浮世絵は歌川広重筆「東海道五十三次草津」。うばがもちやの店先風景です。瓢泉堂は、江戸時代より酒や水を入れる容器として使われてきた瓢箪を、現在は縁起物、装飾品として商われているお店です。隣にある駐車場の傍に、この地元風景の案内板が掲示されています。 矢倉地区の東海道沿いには、愛宕神社や稲荷神社も祀られています。 また、矢倉小学校の正門が旧東海道に面していて、校門近くの柵に「東海道」の木札が掛けられています。つづく参照資料1) 史跡 旧草津川(天井川) :「草津まるごとガイド」2) 史跡 追分道標 :「草津まるごとガイド」3) 草津宿・本陣について :「草津宿」4) 街角彫刻作品 :「草津市」5) 東海道 :ウィキペディア6) 参勤交代 :「コトバンク」7) 館蔵品紹介(草津宿街道交流館) :「草津宿」8) 太田酒造 道灌蔵 :「滋賀・びわ湖 観光情報」9) 太田酒造株式会社とは :「太田酒造株式会社」10) 「立木神社」ホームページ11) 特別純米原酒 天井川 :「蔵元女将に憧れる日本酒好きライター」12) 矢橋 :ウィキペディア13) 安楽庵策伝 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺草津宿 ホームページ草津宿 :ウィキペディア 歌川広重の『東海道五十三次・草津』『木曽街道六十九次・草津』両方の浮世絵が載っています。古川酒造有限会社 :「彼処にあの酒、此処ににこの酒」滋賀県の酒蔵 :「滋賀 地酒の祭典」矢橋 :「コトバンク」瓢泉堂(株)瀬川元 :「草津まるごとガイド」瓢泉堂 ホームページ醒睡笑 :ウィキペディア東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] : 「古典籍データベース」(早稲田大学図書館) 巻2の26コマ目が「矢橋」港、同30コマ目にうばがもちや・立場の絵が載っています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録」 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -2 平宗清の胴塚・木瓜原遺跡・ロクハ公園ほか
2017.05.24
コメント(0)

長寿寺を後にして、湖南三山の3つめの「善水寺」までは、まさにウォーキングの同好会本来の「歩き」です。 [歩く&探訪時期:2015年9月]長寿寺のバス停を東に少し行った交差路を左折し、北方向に緩やかな傾斜路を下って行きます。東寺地区、柑子袋(こうじぶくろ)地区を通る道を歩き、旧東海道に至ります。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。あとで地図を確認すると、冒頭の標識は、広野川落合川緑地と記された場所の少し手前、南柑子袋のバス停近くで目にしたことになります。その近くに、まださほど年月を経ていない感じの石碑があります。松尾芭蕉の句碑です。 句碑 山路来て何やらゆ可しすみ禮草 山路来て何やらゆかし菫草傍にまだ設置されて間のない説明板が立っています。石碑は平成6年(1994)に旧甲西町が公園を整備する時に建立されたようです。説明板は「平成躑躅社中(270名)」が設置されたもの。俳句の団体なのでしょう。句碑に刻された草書体を私は判読できませんが、説明板に枠囲みで記されたものが、上記の句碑と冒頭に記した方の句です。下の句はわかりやすく書き直したもの。説明板を一読し、この句がなぜここに建立されているのか要領を得ないまま、通過しました。川沿いの道を進むと、対岸の森に見えたのが「上葦穂(かしほ)神社」の石鳥居です。ここは通過点になりました。調べてみると、祭神は伊邪那岐命と国常立命です。由緒は「孝徳天皇の白雉元年二月に阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀と伝えられている」とか。明治44年に現在の社号に改称される前は「白雉神社」と称されていたようです。(資料1)そして、旧東海道に出て、ここからまずは、JR草津線甲西駅にほど近い針756番地にある「北島酒造」をリーダーが立ち寄り地点にしていました。柑子袋地区の東隣・平松地区の旧東海道沿いの民家前にあったのが、この「高木陣屋跡」の説明板です。元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が文化年間(1804~1817)に建てた宏壯な二階建て陣屋があった場所だという説明です。「北島酒造」は創業文化2年(1805)という地元の蔵元です。(2014.9.13撮影)今回のリーダーがここに立ち寄る試飲タイムを設けました。この蔵元で醸造された各種のお酒をその場で試飲して、気に入ったものを即購入できます。参加メンバーには、勿論即決購入者も何人かいました。余談ですが・・・・。JR甲西駅から善水寺までの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。針から夏見地区の中間地点あたりで左折し、野洲川に架かる甲西中央橋を渡って岩根西口バス停を経由して、岩根地区にある「善水寺」をめざします。旧東海道の「夏見一里塚」の位置標識のタイルが道路の端に埋め込まれています。今回この「夏見一里塚」の説明板が新しく建てられていることに気づきました。 夏見一里塚の反対側に、少し奥まってこの石碑が建てられています。左の画像は、三雲城跡の探訪(2015年2月)に参加した時、この夏見を通過するときに撮ったものです。右の画像は、今回近くから石碑を撮ってみました。ここは、地元の方が「愛宕さん」と称されるものだとか。石碑には、鳥居が刻み込まれていて、鳥居の中に木札が嵌め込まれています。何が記されていたのか全く不明ですが、祭神名あるいはお札なのかも知れません。京都の総本宮・愛宕神社のお札なら「阿多古 祈符 火迺要慎」が有名です。明治より前の神仏習合時代ならば、ここは愛宕大権現を祀り白雲寺として知られていたところです。現在は本殿に祭神として、「 伊弉冉尊(いざなみのみこと)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、豊受姫命(とようけびめのみこと)」の五神が祀られているようです。(資料2)まずなによりも火付せ・防火に対する霊験が信仰されていることでしょうから、祈符かなと推測します。デジカメのバッテリーの予備を持参していませんでしたので、この後やむなく善水寺までの行程は写真を撮るのを止めました。野洲川の眺め、善水寺を中腹に抱く岩根山の全景など、道中何カ所か撮りたい景色がありましたが、また訪れる機会に・・・と断念。「正栄寺」への石段前の鋪装道路を上ってくと、善水寺への標識があり、山道を登って行きます。正栄寺は浄土宗のお寺です。調べてみると、「甲賀組第一部法然上人二十五霊場(滋賀県)」の第3番のお寺で、本霊場が十輪寺でその写し霊場という位置づけのようです。本尊は阿弥陀如来像です。(資料3)善水寺を中腹にいだく岩根山(標高405m)は、「十二坊」という通称で知られています。天正年間(1573~1592)に、この山に12の僧坊があったことに由来するそうです。(資料4)ウォーキングですので、ちょっと急な坂道もある最短ルートを登ったことになりますが、現在は善水寺の本堂から5分程度のところに駐車場がありましたので、車なら岩根山の中腹までそのまま来て、平地感覚で本堂にアクセスできます。このお寺はもともと、奈良時代和銅年間(708~715)に元明天皇の勅願により、鎮護国家の道場として草創され、当初は和銅寺と号したといいます。(資料5,6)そして、平安時代・延暦年間に伝教大師最澄が、延暦寺ができる前に、ここに居住していたそうです。その時の最初の伝承が、医王山の頂上で最澄が行ったという薬師仏を本尊としての請雨祈祷です。さらに「平安時代初期、最澄が桓武天皇の病気平癒祈祷を和銅寺で行い、薬師仏の水を天皇に献上したところ病気が治ったことから、『善水寺』という号を賜ったと伝えられる」(資料4)のです。薬師仏の水というのは、山中のお堂の東側に百伝池(ももづてのいけ)があり、「池中より一寸八分、閻浮檀金の薬師仏を勧請され、その薬師仏を本尊とされ」ていたのです。この霊仏が出現された池の水を以て祈祷を行われ、その霊水を天皇に献上したということを意味しているのです。(資料5)閻浮檀金(えんぶだんごん)というのは、「閻浮樹の大森林を流れる川の中から出るという、美しい砂金」(『大辞林』三省堂)のことです。閻浮樹は「インドに自生する、深紫色の果実をつける落葉小高木の名」(同書)です。平安時代に、藤原俊成が「家集」に岩根山を詠み込んだ歌が収載されているようです。 行末を思ふも久し君か代は岩根の山の峰の若松また、百伝池は岩根の池とも称されていたのです。「万葉集」の時代に既に歌が詠まれているようです。 百伝の岩根の池になく鴨をけふのみ見てや雲かくれけむ 万葉集巻三 また次の歌も紹介されています。(資料6) 汲て知る人もあらなし思ふこと岩根の池の言し出ねば 右近 堀川次郎百首 くちなしにいかては匂はん百伝の岩根の池の山婦喜の花 公朝 夫木集 かくとたに岩根の池にせく水の深きにつけてもらしかねつも 頓阿 草菴集お寺の山号は「岩根山」。この岩根山に由来するのでしょう。江戸時代には、「岩根山医王院善水寺」と号したそうです。医王院は天和2年(1682)に東叡山輪王寺が与えた号なのだそうです。(説明板、資料6) 本堂(国宝)桁行7間、梁間5間、入母屋造、檜皮葺の建物です。常楽寺や長寿寺のような向拝はありません。現在の建物は南北朝時代・貞治5年(1366)に建立されたものです。諸資料ではこの年で説明されています。ただし説明板には貞治3年(1364)の建立と説明されています。 本堂正面には「善水寺」の扁額が懸けられていて、中央の一間だけが桟唐戸で、左右の各三間は内開きの蔀戸(しとみど)が嵌められています。正面の左端の一間の蔀戸が内側に開けてあるのがおわかりいただけるでしょう。 このズームアップでわかりやすいと思いますが、組物は斗栱が一手先物、つまり出組の様式です。長押の上には間斗束がのっています。堂内の拝観は、正面を左側に回り込み、廻縁の反対端で靴を脱ぎ、廻縁伝いに正面の桟唐戸の入口から入ります。本堂内は残念ながら撮影禁止です。入ったところが桁行七間・梁行二間の礼堂(外陣)です。外陣と内陣の間は、長寿寺と同様に、格子戸と菱欄間によって仕切られています。内陣は桁行五間・梁間二間で、両脇は桁行一間ずつの脇陣となっています。背後に、奥行き一間の後戸(後陣)があります。堂内でお坊さんが説明をしてくださいました。外陣には左右に、木造金剛力士立像(平安時代作、国重文)があり、印象深いです。本来は仁王門に配されていたのでしょう。内陣は中央の須弥壇の上に入母屋造・柿(こけら)葺きの大きな厨子(室町時代作、本堂の附指定の国宝)に秘仏の薬師如来坐像が安置されれています。後陣には、木造の増長天と持国天の立像(ともに鎌倉時代作、国重文)、木造の兜跋毘沙門天立像・僧形文珠坐像・不動明王坐像(いずれも平安時代作、国重文)、金銅誕生釈迦仏立像(奈良時代作、国重文)などが安置されています。本尊並びに諸尊は、「善水寺」のホームページでご覧になれます。こちらからご覧ください。 本堂正面の左側の庭園(一部)2668本堂正面の右側に「百伝の池」があります。中島に弁才天が奉安されています。「百伝弁才天」です。(資料5) さらに右側には「善水元水」という駒札が立ち、「善水寺と善水の由来」碑が建てられています。由来は上記の主旨が記されています。その善水が湧き出て百伝の池となっているのです。「百伝の池前、50m下の岩石ばかりの中を3ヶ月の月日をかけ掘削し汲み上げた清淨水」がここで頂けるようになっています。平成4年(1992)に掘削寄進されたと記されています。 汲み上げられた水が注ぐ傍の石段の先には、「六所権現」の堂があります。善水寺開創より鎮守の神として祀られているのです。伊勢、春日、加茂、熱田、鹿島という六所の神々がここに奉安されているそうです。延文5年、元禄2年の善水寺の炎上のおりにも、この六所権現は幸いに残ったといわれています。(資料5,6) 元水より右側に「元三大師堂」があります。本尊は元三慈恵大師良源大僧正の等身大像が祀られています。大師の自作なりとの伝承があったようです。古昔大師堂の跡に、江戸時代・正徳3年(1713)に再建されました。(資料5,6) 鐘楼堂江戸時代・寛文3年(1663)に鐘楼が建立され、天保5年(1834)に石垣が新調されたとか。(資料5)今回、拝見して回る時間がなかったのですが、観音堂・地蔵堂・行者堂などもあります。観音堂の傍に、磨崖仏があるのです。これを見たかったのですが・・・・。駐車場に近いところに、こんな案内板が建てられています。善水寺、探訪すべき場所が残りました。次回探訪の課題です。善水寺の駐車場までの車道を、もちろん歩いて下ります。下って行く途中にあるのが「不動寺」。清涼山不動寺と号します。本尊は不動明王で、大きな自然の岩に磨崖仏として刻まれたもの。磨崖不動明王尊。この画像の観音立像の背後に見えるのが、舞台造り(懸造り)の本堂で、間近に建てられた堂内からから磨崖仏を拝むことができるようになっているようです。階段を上ってみましたが、扉が閉じられていました。お堂の下の周囲を回ってみると下から見上げる形で、磨崖不動明王尊を拝見できました。バッテリー切れで写真は撮れず! 残念。磨崖仏の左の脇に「建武元年三月七日卜部左兵衛入道充乗是造之」の銘が刻まれているそうです。建武元年は1334年。鎌倉時代の作です。後は、ひたすら山を下り、JR三雲駅に向かいました。最後に脇道に逸れる蛇足ですが、上掲の芭蕉の句についてです。後智恵で調べ直してみたことを、覚書にしておきます。手許にある岩波文庫の『芭蕉俳句集』(中村俊定校注)、『芭蕉紀行文集』(中村俊定校注)を参照した程度の感想です。『野ざらし紀行』は、芭蕉が貞享元年(1684)8月中旬に江戸を出立し、翌2年4月下旬に江戸に帰着した旅の紀行です。『野ざらし紀行』が芭蕉著・月下編として出版されたのは「明和5年刊」となっています。明和5年は1768年です。貞享元年には、伊勢~伊賀上野~大和・竹内村~吉野山~今須・山中~大垣~伊勢・熱田~名古屋~熱田と巡り、故郷の伊賀上野で芭蕉は越年します。「やまとより山城を経て、近江路に入りて美濃に至る」という文は、貞享元年に吉野山の「先後醍醐帝の御廟を拝む」と記し、句を載せた直後の一文です。貞享2年には、伊賀~奈良・二月堂~京都・鳴滝~伏見・西岸寺~水口~名古屋という風に巡って行きます。 句碑に記された句は、伏見の西岸寺を訪れた時の句の次に、「大津に出る道、山路をこえて」と記して、 山路来てなにやらゆかしすみれ草と句を詠んだという記載です。この句の次は、「湖水の眺望」という前書きで 辛先の松は花より朧にてと詠み、「水口にて二十年を経て、故人に逢ふ」と続けていきます。芭蕉がこの句を詠んだ場所は全く違うようです。句のイメージをこの甲西の地になぞらえたということなのでしょう。もう一つ、手許の『芭蕉俳句集』によれば、芭蕉の『野ざらし紀行』の「山路来て」の句は、この同句形、つまりこの字句通りに『甲子吟行』に載せて安永9年(1780)に出版されているのです。一方で、 白鳥山 何とはなしになにやら床し菫草 (皺筥物語) 何となく何やら床し菫草 (三冊子)が併記されています。校注者は「原則として年次の最も古い出典の句形を最初にあげた。句形に異同や変遷の認められるものについては、出典や従来の諸説を参考として適宜配置した。また、初案・再案・後案のあきらかなものについては、成案をはじめにあげ、初案・後案の順に配置した」を句形についての3つの方針の1つとして設定しています。 『皺筥物語』は元禄8年(1695)跋であり、『三冊子』は安永5年(1776)序のある出版です。併記されている二句と『野ざらし紀行』の句との関係はどうなるのでしょう?野ざらし紀行の句は、他二句を踏まえた成案なのでしょうか? それとも、野ざらし紀行の句の後に、変遷を経た発句なのでしょうか?野ざらし紀行では「すみれ草」であり、「菫草」ではないというのも興味深いところです。植物は同じかもしれませんが・・・・。さらに、石碑にある文字の使い方は、どこかに出典があるのでしょうか?白鳥山は、「飛騨山脈(北アルプス)後立山連峰の最北端にある標高1,287mの山」として存在します。山梨にも白鳥山(標高567.7m)があります。宮崎県のえびの高原にも白鳥山(標高1363m)があります。愛知県にも白鳥山(標高968m)があります。(資料7)探せば、まだ同名の山があるかも・・・・。芭蕉はどこの山を見ていたのでしょか。この一句だけからも、様々な波紋が広がります。ご一読いただいた貴方も、句碑と説明板の内容を併せて、考えていただいてはいかがでしょうか。これでこの湖南三山のウォーキングと探訪のまとめ、ご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 上葦穂神社 (カシホ) :「滋賀県神社庁」2) 愛宕神社 :ウィキペディア3) 甲賀組第一部法然上人二十五霊場(滋賀県) :「法然共生」4) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社5) 善水寺 ホームページ6) 近江國與地志略 下 :「近代デジタルライブラリー」 12コマ/241コマ 7)白鳥山 :ウィキペディア 白鳥山森林公園(しらとりやましんりんこうえん) :「富士の国やまなし」 えびの高原 池めぐりコースの紹介 -池巡り自然探勝路 Nature Trail (IKEMEGRI)- 池巡り自然探勝路 Nature Trail (IKEMEGRI) :「Mihazaki Sightseeing Photograph Collection」 白鳥山 :「トレッキング愛知」 2015.11.2 19:00 付記 『近江國輿地志略』で寒川辰清が、万葉集巻三として引用している歌について 改めて、岩波文庫『新訓 万葉集 上巻』(佐佐木信綱編)を参照すると、416番に次の一首として収載されています。手許にある折口信夫著『口譯萬葉集(上)』も同じ字句です。 ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 両書とも大津皇子が死罪となった時に悲しんで作られた一首という意味の詞書が付されているのです。この歌だと「磐余」は、「奈良県桜井市西部から橿原市・高市郡にかけての古地名」(日本語大辞典)になります。 万葉仮名の字句解釈の相違によるものなのか、詞書の有無を含めて参照写本に差異があることなのか、寒川辰清の誤りなのか・・・は分かりかねます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺東叡山輪王子(別称:開山堂・両大師) :「天台宗東京教区」浮世絵ギャラリー :「近江歴史廻廊」 石部宿を描いた浮世絵が集められています。 湖南市(石部) :「近江歴史廻廊推進協議会 近江東海道部会」 昔の面影を残す数多くの文化財を訪ねて総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ国宝 善水寺 :「iwane-web」 善水寺に向かう経路(徒歩・車)が詳しく説明されています。善水寺・岩根山不動磨崖仏 :「近江石仏巡り」滋賀県 湖南三山 善水寺の紅葉 :YouTube路線バス情報 善水寺 湖南市コミュニティ不動寺 :「日本の懸造り」 私が眺めた角度からの磨崖仏も載っていて、参考になる記事です。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -1 JR石部駅から常楽寺に へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -2 常楽寺・三重塔と三十三所石仏観音めぐり へ歩く&探訪 [再録] 湖南三山への道 -3 長寿寺・白山神社・十王寺・勧請縄吊ほか へ
2017.05.23
コメント(0)

ウォーキングで常楽寺を訪れる時に通りすがりに撮った「三聖神社」です。こちらは長寿寺に向かう途中で見た「西教寺」の本堂。 [歩く&探訪時期:2015年9月]後で調べて見ますと、三聖神社は、もとは「天台宗常楽寺の境内にあって、山王三聖と称される日吉大社の上七社のうち大宮(西本宮)二宮(東本宮)聖真子(宇佑宮)を祀り三聖権現と称し同寺の護法神であった」(資料1)という神社です。祭神は「伊弉諾尊 速玉之男神 事解男神」だそうです。西教寺は天台宗のお寺で山号は常楽寺と同じ「阿星山」。寛平2年(890)十行法印により開山され、もとは庵だったところが、回向寺院となったようです。長年常楽寺住職がこの寺を兼務されているといいます。現在の建物は平成15年(2003)に茅葺きから瓦葺き屋根に改修され、景観も回復された結果、通りからこのように本堂だけのお寺ですが眺めることができる状態になったそうです。(資料2) キバナコスモス エーデルワイス西教寺の前を通り過ぎ、道端に咲く花々を楽しみながら、長寿寺に向かった道は緩やかな下り坂となっていきます。常楽寺から長寿寺への地図(Mapion)はこちらからご覧ください。わかりやすい道筋です。 カワノギク 途中で栗も・・・。2563,2567歌碑が建立されている傍を通過。 契るとも逢ひみんことやかたからん 石部の山の松の千年は 香川景継香川景継は、江戸時代中期に元武士で出家し、宣阿と改名して二条派の歌人となった人のことでしょうか。(資料3) 「ひろのはし」を渡ります。 田園風景の中の彼岸花 長寿寺のバス停のところに、「長寿寺」への道路標識が立っています。道を左折したところでみかけた民家。江戸時代にタイムスリップするようなイメージを抱かせてくれる屋敷構えです。 長寿寺門前山門には「阿星山」の扁額が懸かっています。バス停から約100mほど進んだところにあります。常楽寺が西寺と称されるのに対し、「長寿寺」は「東寺」とも呼ばれます。山門を入り、拝観受付所を通ってすぐ左側に、「長寿庵」と掲げられた門があります。 建物玄関までの前庭に石臼をオブジェ風に並べてあるのがおもしろい。その隣には、「内佛堂」という扁額が懸けられたお堂があります。 堂内には「子宝祈願の石」が厨子に収められて祀られています。霊験あらたかそうな感じ・・・・・。「子宝開きます」ということばがいいですね。参道を少し先に進むと、進行方向左側は一段高くなり、「白山神社」の石鳥居があり、神社への参道となっています。右側が長寿寺本堂に向かう真っ直ぐの参道です。参道の両側がモミジの並木になっていますので、ここの紅葉はすばらしいです。ここは紅葉の季節に、一度訪れたことがあります。 受付所のすぐ傍にある、たぶんもとは燈籠。火袋内に小さな地蔵菩薩石仏が置かれています。この参道の両脇には小物の飾りを含めて、いろんなものが置かれていて、実に遊び心があって、楽しいのです。 こんな具合に・・・・。これは一部なんです。参道の途中、右側に「日本大最大級」と銘打った「石造多宝塔」が安置されています。鎌倉時代の多宝塔だそうです。多宝塔への参道右側には、五輪塔が一列に並んでいます。五輪塔の建立時期はかなりの幅がありそうです。 正面に本堂が見え始めると、手前に石灯籠が参道の左右に立ち、右の石灯籠の傍に、 鐘楼があります。 本堂(国宝)鎌倉初期の建造で、桁行と梁間がともに五間の寄棟造・檜皮葺、和様建築の建物です。本堂の正面には三間の向拝があります。境内の説明板によると、「内部は内外陣にわかれて礼堂造(らいどうづくり)の名残をとどめ、構造・意匠的に質の高い密教本堂の代表建築」なのです。 白山神社の境内からの眺め 正面から見て左側面本堂右手奥の小高いところにある収蔵庫側からの眺め 正面から見て右側面側と背面が見えます。こちらから屋根を見ると、寄棟造であることがよくわかります。建物正面は、向拝の三間分が桟唐戸の入口、その左右は上部が連子窓になっています。 建物の両側面には二間に桟唐戸、背面には中央一間に桟唐戸が設けられていて、建物の周囲に高欄付きの廻縁がめぐらされています。この向拝部分は後世に付け加えられたとも考えられているようです。 向拝の頭貫の先端部はそのまま組物の一部となっています。蟇股の意匠もシンプル!建物本体の組物は平三ツ斗の形式です。そのため外観はいたって簡素です。長寿寺の開創伝承では、奈良時代に活躍した無名の山林宗教者が存在していたのが基となり、良弁または禅師と称された古代山林宗教者が開創した寺だそうです。聖武天皇に皇子がない時、陰陽師の占いで近江路に勅使が派遣され、阿星山の中で修行僧に皇子誕生の祈祷が懇願されたと言います。その効験があったのか、皇女が誕生したそうです。そこで、聖武天皇が「安穏谷(あんおんたに)に七堂伽藍24宇の坊舎を建立され、行基菩薩に命じて5尺の地蔵菩薩を造らせ、天皇自ら長寿寺を号し給うた」といいます。長寿寺と常楽寺は、聖武天皇が紫香楽宮に遷都の時に建立され、鬼門守護の寺という位置づけでもあったようです。(資料4)本堂内部は手前が礼堂(礼拝を行う外陣)で、格子戸と菱欄間で区切られた奧に内陣があります。内陣が礼堂より一段低くなる平安時代の様式を残しているようです。内陣はもとは土間形式だったらしくその痕跡が残されているそうですが今は板張りです。貞治5年(1366)に改造されたと推定されています。(資料4)堂内で上を見上げると、礼堂・内陣ともに天井ははられていなくて、棟木や垂木がそのまま見える化粧屋根裏となっています。さらに、礼堂の屋根組は寄棟で、内陣の屋根組は切妻という方式です。お寺のガイド嬢が説明してくださいました。内陣には、須弥壇上に春日厨子が置かれ、その中に本尊の子安地蔵尊(秘仏)が祀られています。本尊は50年周期で開帳されるだけ。この春日厨子は、墨書から文明12年(1480)に建立されたことがわかるそうです。厨子に向かって右側に木造阿弥陀如来坐像、左側に木造釈迦如来坐像が安置されています。これらは平安時代の作で、ともに国重文です。(資料4,5) 堂内は撮影禁止です。 弁天堂(国重文)本堂に向かって右側に池があり、その中に弁天堂が設けられています。天文19年(1550)の建築です。一間四方、入母屋造・檜皮葺きで正面に軒唐破風がついています。(境内説明板、資料5)ちょうどアメジストセージが咲き誇っていました。 三重塔跡本堂左後方の高台にここに三重塔があったという場所で、礎石が残っているだけです。この長寿寺の伽藍配置は常楽寺(西寺)と同じであったそうですから、常楽寺での本堂と三重塔の位置関係をイメージしていただくとよいでしょう。三重塔は信長により、安土に移築されてしまったのです。摠見寺に三重塔が現存します。本堂の右後方の高台には、最近になって建てられた収蔵庫があり、ここには丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。3mほどの大きさで、金箔が貼られているので全身黄金色です。開扉されていますので外から拝見できました。本堂内と同様に、ここも撮影禁止でした。本堂正面に向かって、左側には石段があって、少し高台になっています。 本堂と横並びの状態で、この高台に白山神社がありますが、高台からさらに石段で一段高い位置に社殿が建てられています。 石段下からズームアップして撮ってみました。祭神は白山比咩神(しらやまひめのかみ)です。もとは長寿寺の鎮守社として建てられた神社です。 白山神社の拝殿拝殿の屋根の棟の瓦は、お寺の本堂の棟の積瓦の様式とはことなり、私の見聞の範囲ではめずらしい形です。鬼瓦もちょっと異色な感じです。おもしろい。比較的ゆっくりと拝見した後、最後の善水寺をめざすことになります。長寿寺に入るときは気づかなかったのですが、山門を出て、道路の反対側が同じく天台宗の「阿星山十王寺」です。後で調べて知ったことですが、十王寺と長寿寺は同じご住職が兼務されているのです。十王寺は神亀元年(724)行基菩薩が開基されたお寺。寺名は、十王経にのっとり、本尊脇に十王像が祀られていることに由来するそうです。本尊は阿弥陀如来像。天慶2年(938)に憲際上人が、村中の減罪寺とされたのだとか。その主旨からすると、こちらが現在は地元の人々の日常に直接結びつくお寺なのでしょうね。(資料6) 十王寺の門前にある石仏群左の方に三体の石仏が並び、右の方は箱仏群となっています。一体が彫られた箱仏と二体が彫られた箱仏が混在しています。長寿寺の本尊のことを考えると、これらの石仏はたぶんすべて地蔵菩薩像だろうと推測します。興味を持ったのは、右側中央の坐像石仏の台座に、「六十六部」という語句が彫られていることでした。調べてみると、回国巡礼僧を意味する言葉のようです。「法華経を六六部書き写し,日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には,諸国の寺社に参詣(さんけい)する巡礼または遊行(ゆぎよう)の聖」(『大辞林』三省堂)(資料7)だそうです。ここから、善水寺に向かいます。 長寿寺からしばらく歩いたとき、道路に跨がってこんな飾りが吊されています。道路の左端に、石標があり、説明も付されています。これは、「勧請縄吊」と称するものだそうです。次の様に説明がされています。「集落の結界に位置し五穀豊穣、村内安全、病気祓いなどを願う注連(しめ)縄として現在に至る」ネット検索でリサーチすると、湖東から湖南地域にかけて、「勧請縄」年頭行事として受け継がれているそうです。(資料8)さらに、京都や奈良でも「勧請縄」を吊るしきたりが維持されているところがかなりあるようです。例えば、京都新聞で「サカキ飾り勧請縄作る 長岡京・走田神社」、「勧請縄の木札へ石投げ息災願う 滋賀・近江八幡でまじゃらこ」という記事が載ったことがあります。 (掲載当時にネット検索で入手した情報ですが、記事へのアクセスが切れています。)一つのきっかけが波紋を広げていきます。おもしろいものです。つづく参照資料1) 三聖神社 :「滋賀県神社庁」2) 西教寺 :「天台宗滋賀教区」3) 宣阿 :ウィキペディア4) 本堂内に掲示されている3つの額に入れられた説明資料5) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p171-1726) 十王寺 :「天台宗滋賀教区」7) 六十六部 :「weblio辞書」8) 近江の祭礼行事 左欄のシリーズ一覧参照 :「サンライズ出版」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺三聖神社 村の鎮守さま :「万葉集を携えて」長寿寺・湖南市東寺 :「滋賀文化のススメ」 堂内の写真が1葉掲載されています。湖南三山 長寿寺 ぶらりこなんTV :YouTube 本堂と収蔵庫に安置されている仏像が動画に一部登場しています。長寿寺本堂 :「閑古鳥旅行社」長寿寺本堂 滋賀県 鎌倉時代前期 社寺建築逍遙 :「日本建築の底流」悪霊追放と家内安全を願う奇祭「鬼ばしり」 長寿寺(東寺) :「滋賀の風景」滋賀県 湖南市(旧甲賀郡石部町)東寺 長寿寺石造多宝塔 :「石造美術紀行」摠見寺 :「近江の城郭」 このブログ記事に、三重塔の写真が掲載されています。「六十六部」とは何か :「徳島県立博物館」十王経 :「コトバンク」十王経物語絵図(冥途旅行絵物語) :「奧三河の古刹・釣月寺」木津川市銭司・春日神社の勧請縄 :「歴史探訪京都から」京都府和束町 白栖の勧請縄 :「愛しきものたち」京都近辺の勧請縄 滋賀県の勧請縄 :「Tagawa3の自転車と一緒」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -1 JR石部駅から常楽寺に へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -2 常楽寺・三重塔と三十三所石仏観音めぐり へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -4 旧東海道(夏見)、善水寺ほか へ
2017.05.23
コメント(0)

この画像は三重塔を石段下から眺めたところです。 [歩く&探訪時期:2015年9月]三重塔を近くで見るために、本堂から石段に向かったとき、石段下の近くで石仏に出会いました。西国三十三観音霊場の第一番「那智山青岸渡寺」の石仏観音像でした。如意輪観世音菩薩です。傍の立て札には、石段を上がると、そこに第二番の石仏観音が祀られ、三重塔の山側斜面の道を右回りに巡ると、三十三観音を巡ることができるようになっていると説明があります。ここの石仏観音像は江戸時代の作だそうです。坂道ですが、15分ほどで巡ることができると記されています。三重塔もまた様々な角度から眺めることができ、近辺の風景も眺めることができるので、勿論三十三の石仏観音の拝見を試みました。今回は、こちらをご紹介します。この各札所については、ネット検索で調べた後掲のサイトにアクセスいただき、参考にしていただければと思います。尚、「西国三十三所巡礼の旅」というサイトで紹介されている各札所のページとここでご紹介する石仏観音を繋がせていただきたいと思います。ご関心があれば、各札所の名称をクリックしてみてください。(資料1) 第二番 金剛宝寺 十一面観世音菩薩金剛宝寺は別称が「紀三井寺」です。こちらの方が良く知られている気がします。この石仏観音は、本堂を背景にしています。本堂の屋根が間近に見えます。石段を上がると、正面に三重塔が聳えています。右の画像は一層部分の正面です。中世の天台宗寺院では、本堂より少し高い場所に三重塔を配置する伽藍形式をとっていたそうです。ここ常楽寺もその通りの伽藍配置だということになります。初重は中央の間が板唐戸で、左右の間は上半分が連子窓の形式です。上部の組物は三手先の構造です。三重塔の傍にある説明板によると、木造釈迦如来坐像が祀られ、「来迎壁に釈迦説法図が描かれている」のです。お寺の三重塔でも五重塔でも、インドで仏舎利を安置するために建てられたストゥーパが原型です。インドのサーンチー第1塔(1世紀初)が特に有名です。そのストゥーパが中国を経て日本に来た段階で、奈良・法隆寺の五重塔の形となり、その形が様々なバリエーションで各地に伝播して行ったのでしょう。「天台宗では法舎利(釈迦の根本教典の法華経を仏舎利の替わり)を安置して法華経の功徳による国家安穏、護国豊穣を願った」と説明されています。それでは石仏観音めぐりを致しましょう。山道を登り始めます。 第三番 粉河寺 千手千眼観世音菩薩 第四番 施福寺 十一面千手千眼観世音菩薩 第五番 葛井寺 十一面千手千眼観世音菩薩この石仏観音の右方向に、三重塔の全景を間近に眺めることができます。前回に少し触れていますが、初重は三間四方で幅は約5mあり、総高は22.8mと説明板に記されています。二層、三層目も組物は三手先の構造です。この三重塔は、室町時代の応永5~7年(1398~1400)に再建されたものだそうです。応永5年に記された勧進状の文書が残っていて、調査によると屋根瓦に応永七年というへら書があったことから建立年代が特定できたのだとか。屋根の緩やかな曲線が美しい塔です。相輪の部分をズームアップしてみました。この画像で見える部分は、下から宝輪(九輪)、水煙、竜車、宝珠です。水煙はシンプルな意匠です。 第六番 南法華寺 十一面千手千眼観世音菩薩 第七番 岡寺 如意輪観世音菩薩 石仏観音の近くに、紫陽花が咲いていました。 第八番 長谷寺 十一面観世音菩薩石仏観音の背景に三重塔を眺め、石仏の右方向には、樹間から西寺地区の集落が見えます。このあたりから紅葉を眺めるとかなりきれいだろうと思います。 第九番 南円堂 不空羂索観世音菩薩像 第十番 三室戸寺 千手観世音菩薩山道は三重塔を眺めながらその周囲を回っていくことになりますので、さらに少し上ります。三重塔の角度が変化する景色を眺める楽しさが石仏観音参拝の副産物としてあります。 第十一番 上醍醐 准胝堂 准胝観世音菩薩 第十二番 正法寺 千手観世音菩薩 第十三番 石山寺 如意輪観世音菩薩この辺りでは、三重塔と本堂の屋根を見おろす俯角になります。山腹からの全景が楽しめます。 第十四番 三井寺 如意輪観世音菩薩三重塔の屋根の二面の美しいカーブ全体が見おろせるところです。また、相輪部分全体も間前に見えます。屋根の上に露盤がまず置かれ、その上に伏鉢が載っています。この伏鉢は、奈良の法隆寺と同じ形式のようです。九輪には、法隆寺にある風鐸の飾りがなくてシンプルです。蒼空に紅葉だと、まさに絶景なのですが・・・・・。 第十五番 今熊野観音寺 十一面観世音菩薩相輪の水煙から上部をズームアップしてみました。水煙の図柄がちょっと見づらい・・・角度でした。 第十六番 清水寺 十一面千手千眼観世音菩薩 第十七番 六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩 第十八番 六角堂 頂法寺 如意輪観世音菩薩右の景色は、巡り始めて最初に眺めた方向の反対側に来て、三重塔を眺めるあたりになります 第十九番 革堂 行願寺 千手観世音菩薩 第二十番 善峯寺 千手観世音菩薩 第二十一番 穴太寺 聖観世音菩薩 第二十二番 総持寺 千手観世音菩薩三重塔の正面側が眺められるようになります。このあたりも、常緑樹の緑と紅葉のコラボレーションの中に佇む三重塔の景色がいいでしょうね。第二十三番 勝尾寺 十一面千手観世音菩薩 このあたりは遠景を望むのにいいところです。 第二十四番 中山寺 十一面観世音菩薩 第二十五番 播州清水寺 十一面千手観世音菩薩 第二十六番 一乗寺 聖観世音菩薩 第二十七番 圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩 第二十八番 成相寺 聖観世音菩薩本堂の屋根が手前になり、三重塔の左側に三十三観音めぐりの最初の山道部分が見えています。 第二十九番 松尾寺 馬頭観世音菩薩 第三十番 宝厳寺 千手千眼観世音菩薩(観音堂) 第三十一番 長命寺 千手十一面聖観世音菩薩三尊一体反対側の本堂の屋根が間近に見え、本堂の背面も眺められるところです。 第三十二番 観音正寺 千手千眼観世音菩薩 第三十三番 華厳寺 十一面観世音菩薩番外として、一体の石仏観音が祀られています。前回ご紹介した収蔵庫の奥側にあるのが「薬師堂」です。この画像の左下角にほんの一部写っているのが、第三十三番の石仏観音像です。 薬師堂の左側、山の斜面には、数多くの地蔵菩薩石仏や宝塔などが集められて祀られています。常楽寺のある西寺地区で、1980年から1990年にかけて、大規模な整備事業が行われたそうです。そのおりに整備地に祀られていたものをここに安置されたといいます。室町時代から江戸時代にかけての地蔵菩薩石仏などだそうです。本堂正面の右端の前に、この立て札があります。「照千一隅(しょうういちぐう)」その背後に「一隅を照らす木」という木札が架けてあります。素直に見ると「千」という漢字に見えます。ルビ「う」で漢字変換すると「于」という漢字があります。墨書をよく見るとハネがありますので、やはり「千(せん)」ではなくて「于(う)」なのでしょう。一画目が少し左下がりなので・・・・・しかし超微妙です。出典は天台宗の伝教大師・最澄が「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に書いた文に記された一節なのです。(資料2)なお、この「于」という一字については議論があるようです。ここではふれないでおきましょう。ご関心のある方は、補遺をご参照ください。常楽寺を出る前に、本堂前境内の違う位置から本堂を眺めてみました。本堂の全景は木々の後になります。ここが紅葉していて、青空だったら・・・・そして、人が居ない静寂そのもののだったら・・・・そんなシーンをついイメージしています。ふと思い出したことです。石山寺は西国三十三所観音霊場の第十三番札所です。石山寺の境内でも三十三所巡りができるのです。石山寺を一人探訪した折に知って巡ってみました。拙ブログで既にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。この後、再びウォーキングに戻り、まずは近くの長寿寺に。つづく参照資料1) 三十三所MAP :「西国三十三所巡礼の旅」2) 一隅を照らす人になろう :「天台宗 一隅を照らす運動」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺西国三十三所巡礼の旅 トップページマイカーで行く三十三ヶ所巡り 三十三ヶ所の地図 ホームページ西国三十三所古道地図 特定非営利活動法人「西国古道ウォーキングサポート」西国三十三所巡礼の旅:「旅と散策 思い出のアルバム」洛陽三十三所観音巡礼 ホームページ近江西国霊場33ヶ所 一覧表 :「湖国寺探訪」近江三十三観音霊場巡礼の旅へようこそ! グーグルマップお寺ネット 巡礼研究室 目次奈良の塔 法隆寺 :「日本の塔」一隅を照らす人、千里を照らす人 井上宏氏 :「心学明誠舍」 ~最澄「山家学生式」における「照于一隅」説と「照千一隅」説について~ 「一隅を守り、千里を照らす。これ則ち国宝なり(照千一隅此則国宝)」 :「Bontakaのブログ/from Duesseldolf」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -1 JR石部駅から常楽寺に へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -3 長寿寺・白山神社・十王寺・勧請縄吊ほか へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -4 旧東海道(夏見)、善水寺ほか へ
2017.05.22
コメント(0)

この画像は、JR草津線石部駅前にある「石部宿のモニュメント」です。ここは江戸時代、東海道五十三次の石部宿が栄えたところです。2015年9月下旬、この駅前を起点にウォーキングの同好会で湖南三山(常楽寺・長寿寺・善水寺)のルートを歩きました。この3ヵ寺を拝観しながらのウォーキングなので、私には二重に有意義でした。以前に整理してまとめたものを、ここに再録しご紹介します。 白壁の築地塀の内側に、時計台が建てられていますが、その傍で築地塀の手前には、この幼い二人の子供像の彫刻があり、石柱の台座に「道」と刻されています。右方向にある黒塗りの冠木門が冒頭の画像。門を入った斜め前方に、「歴史のまち いしべ」の説明板があります。その説明によれば、古くは伊勢までの街道として栄え、江戸時代に東海道五十三次の宿が整備されると五十一番目の宿場町となったのです。当時は「京立ち、石部泊まり」と言われたようです。 ネット検索で調べると、石部から京都までの距離は約九里五町であり、当時の旅人には一日の平均行程になるそうです。天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると、石部宿の町並は15町3間、人口1,606人、家数458、2つの本陣と32の旅籠屋があったと記録されているとか。(資料1)石部の町の北側に野洲川が西方向に琵琶湖に流れ、南側には阿星山があります。その山麓に、湖南三山のうちの常楽寺と長寿寺が位置します。一隅に、この万葉歌碑が建立されています。 白眞弓石辺の山の常盤なる 命なれやも恋ひつつ居らむ 巻11 2444この歌に詠まれている石辺は、この石部の地をさすという説があるようです。そうだとする石辺の山というのは阿星山あたりをさしているのでしょうね。詠み人は未詳です。尚、手許の『新訓万葉集 下巻』(佐佐木信綱編、岩波文庫)を参照しますと、「石邊の山」と表記して、「いそべ」とルビがふられています。一方、『折口信夫全集第五巻 口譯萬葉集(下)』(中公文庫)を参照すると、折口信夫は「磯邊の山」という表記をしています。そのため口語訳は「岩濱のいつ迄も変わらぬ、石のやうな命でありたいものだ。さうして何時迄も、恋ひ続けてをらう」としています。 JR石部駅 駅舎の一角には、近江東海道の道筋を案内するパネルが掲示されています。水口~土山の道筋です。浮世絵とともに、要所の史跡が写真入りで紹介されています。この画像の上から大津、草津~栗東、石部~甲西の道筋です。 石部駅からまずは「常楽寺」をめざします。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。石部駅から南東方向、3kmほどに位置します。主要道路の交差点で言えば、西庁舎前~石部中央~宝来坂~石部高校前に至る道路沿いを進むことになります。私たちは、それと併行する南西側の道に入り、川の方向に近づき、途中から川沿いの遊歩道側を歩きます。 フサフジウツギ途中は、様々な草花が満開でした。まずは、花々を眺め、こんな写真を撮りながらのウォーキングです。花の名前を手許の図鑑やネットで調べて見ましたが、わからないものも・・・。わかる範囲でこれかなと思う名前を付記します。間違っていたら、教えてください。 半八重のピュアデライト ムクゲ遊歩道沿いのそこかしこに、花、花、花・・・。 ブッソウゲ ルドベキア石部西2丁目あたりで眺めた花々です。 その後、遊歩道から再び市道沿いを歩きます。この道標があり、その傍の道路には「いしべえどん」というキャラクターが出迎えてくれます。「宝来坂」の道路標識のある交差点近くです。 スイフヨウ 石部中学校が見え始め、その先に「雨山文化運動公園」に向かう橋が架かっています。橋を渡ったところに、このゲートがあります。この坂道を登って行くと、運動公園の手前に、「東海道石部宿歴史民俗資料館」があります。今回ここはパスです。このあたりは「雨山生活保護保全林」ゾーンになっているようです。橋の片側にこの表札が出ています。 雨山文化運動公園への橋の前を通過し、川に沿う道路の端を歩き始めると、川向うのすぐ傍に右の画像の石や、少し離れた樹林の間に石碑見えます。左の画像が好奇心からズームアップしてみた石碑です。「山林愛護彰徳碑」と刻されています。その碑名の上には、少し小さく細めの文字で「故笹倉重五郎氏」と刻されています。2421「石部高校前」交差点で左折して、石部高校の正門前を通過。石部高校は丸山地区にあり、この先が西寺地区です。この交差点手前の道標には、常楽寺まで1.5km、長寿寺まで2.3kmと距離が併せて表示されています。 西寺地区に入ると、稲の稔った田や畑が見えてきます。彼岸花が真っ赤に咲いていて稲の黄色とのコントラストがきれいでした。集落の屋根の先に塔の上層の屋根が見えて来ます。いよいよ「常楽寺」です。 板塀の先にある拝観受付所 受付所に近いところにある鐘楼 境内を進むと、本堂(国宝)が見え、左奧に塔の上部が見えます。 本堂正面には、「常楽堂」の扁額が懸けられています。常楽寺は湖南三山の一つで「西寺」とも呼ばれるそうです。栗東市と湖南市にまたがる阿星山(あぼしやま、693m)の麓にあります。天台宗のお寺で、山号が「阿星山(あぼしさん)」です。近江西国三十三番札所の第一番でもあります。奈良時代、元明天皇の和銅年間(708~715)に金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)に霊地を開き、阿星寺(あせいじ)を創建したとされています。数宇の殿堂を構え、僧坊が甍を並べる山岳寺院があったのです。この阿星寺は魔風のために火災に遭遇し、衰退に向かいます。今は、山腹に「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づけられた寺院遺跡が残るだけになっているようです。金粛菩薩は、東大寺の建立に尽力し初代別当となった良弁僧正であり、良弁が金粛菩薩の異称を持つと一般的には言われています。しかし、『興福寺官務牒疏』の諸寺開創伝承によれば、金粛菩薩は良弁とは別人で、文武・元明・元正朝(697~724)に活躍している人物という説もあります。阿星寺は良弁と金粛菩薩と称する行者とが開山したとする見方です。いずれにしても、当時は東大寺とこの地の山岳地帯の関係が深かったことがわかります。阿星寺が火災に遭遇したとき、本尊の千手千眼観音像がこの常楽寺に飛んできたという伝承(『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」)があるそうです。(資料2,3)常楽寺は当初法相宗のお寺だったようですが、平安時代初期、延暦年間(782~806)に天台宗に改めたそうです。そして、「阿星山五千坊」と称された中で中心寺院として栄え、阿星寺の由緒をひくお寺なのです。また、紫香楽宮の鬼門を守護する寺としても位置づけられていたようです。この常楽寺は南北朝時代、延文5年(1360)に落雷によりすべての堂塔を全焼。しかし、その年に僧観慶(かんぎょう)を中心とした勧進により、再建されたのがこの本堂だといいます。そして、鎮護国家の道場としての役割を継承したのです。入母屋造、檜皮葺で桁行7間・梁間6間で向拝3間の建物です。内部は礼堂(外陣)、内陣、後戸(後陣)に3区分されています。内陣に置かれた厨子の中に、秘仏の本尊・木造千手観音菩薩坐像(国重文)が収められています。厨子の両側の脇壇には鎌倉時代末期作の二十八部衆立像と雷神像がまつられています。後戸には、木造釈迦如来坐像と普賢菩薩・文珠菩薩の二像が安置され、仏具類が展示されています。(資料4)常楽寺が全焼した折、仏像は僧侶達によって何とか持ち出されたことにより難を逃れ、今に伝わるのです。二十八部衆立像は小ぶりなものですが、見応えがあります。江戸時代に出版された『東海道名所図会』の巻二には、石部のところで、常楽寺は「西寺」という名称で記載されています。なぜか「本尊如意輪観音」と説明しています。(資料5) 本堂前の境内にたつ石灯籠銘は未確認ですが、「応永13年(1406)」銘が残ると手許の本に説明がある石灯籠はたぶんこれでしょう。形の良い燈籠です。今回は、同好会のリーダーが事前に拝観の予約をしてくれていたおかげで、本堂内の仏像を拝観できました。常楽寺は秋の特別公開期間以外は予約が必要ですので、ご注意ください。 本堂建物の構造部分をクローズアップしておきましょう。向拝の頭貫に木鼻はなく、三間向拝の屋根部分を支える組物の一部に組み込まれています。尾棰の部分をみると、出組は二手先の形式になっているようです。この建物の軒の支輪と呼ばれる部分が目に付きました。他所で観てきたものとは少し異なり、特徴的な気がします。 本堂正面左の斜め前方側から眺めるとこんな感じのお堂です。建物の正面には、格子造りの蔀戸(しとみと)がはめられ、左右が連子窓になっています。建物の側面は柱二間分が桟唐戸(さんからと)となっていて、廻廊がこの桟唐戸のある二間で終わっています。これは近江にある天台伽藍の特色に一つでもあるようです。左の植栽の前にあるのが、この詞章碑です。 自然の恵みをうけて 花は咲き鳥は唱う そんな四季が 好宗一と記されていますが、誰でしょうか? 少しネット検索してみましたが不詳です。 本堂の左奧にあるのが、三重塔です。 真っ直ぐに長い階段を登った一段高い場所に、室町時代に建立された三重塔(国宝)が立っています。高さ23m、幅4.5mの塔です。(資料6)本堂と三重塔をぐるりと囲むようにして、三十三体の観音石仏が祀られています。三重塔をいろいろな角度から眺めながら、観音巡礼のお参りができるというスポットです。この散策路は次回、ご紹介します。本堂正面の右側面に堂内への参拝入口が設けてあります。 この本堂の右側境内には、行者堂と普賢堂という説明札の懸けられたお堂があります。その奥に収蔵庫と思われる土蔵風の建物もあります。一番奥には、山肌の前に石仏群があります。これも次回、ご紹介します。つづく参照資料1) 近世の石部 東海道における石部宿 :「湖南市立石部南小学校」2) 古寺と阿星寺 :「湖南市立石部南小学校」3) 常楽寺本堂と三重塔・湖南市西寺 :「滋賀文化のススメ」4)『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p1705) 東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] :「古典籍総合データベース」 早稲田大学図書館蔵 巻2の38コマ目参照。6) 常楽寺 :「ぶらりこなん」(湖南市観光ガイド)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺郷土歴史 総合目次 :「石部南小学校」ホームページ 石部の郷土歴史について詳細な説明ページが作成されていて、秀逸なページです。 学ぶことが多いです。常楽寺 公式ホームページ滋賀県 湖南三山 常楽寺の紅葉2 三重塔 :YouTube常楽寺(湖南市) :ウィキペディア 常楽寺本堂 常楽寺三重塔 :「閑古鳥旅行社」東海道石部宿歴史民俗資料館 :「湖南市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -2 常楽寺・三重塔と三十三所石仏観音めぐり へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -3 長寿寺・白山神社・十王寺・勧請縄吊ほか へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -4 旧東海道(夏見)、善水寺ほか へ
2017.05.22
コメント(0)

目川の一里塚道標からつづきを始めます。[探訪時期:2013年1月]ここから少し先に、目川立場が賑わったころ、田楽茶屋が軒を並べていた場所の史跡碑や説明板が見えます。田楽茶屋三軒の史跡碑があります。それらは手原から草津に向かう東海道の右側に並んでいます。 最初が伊勢屋(岡野屋)。ここの主人岡野五左衛門さんは文人画家でもあったとか。史跡碑の隣に、当時の領地の西境界を示す道標も新たに建てられています。 その隣が、古志ま屋。この志に濁点が打たれていますので、小嶋屋(寺田家)です。 そして一番草津寄りが京伊勢屋(西岡家)です。こちらのお家には当時の藤棚がそのままあるようです。 左は前回引用してご紹介した目川立場の絵図。上方の説明文の拡大が右の画像です。(資料1)菜飯田楽が有名だったようです。菜飯田楽についてはこちらをご覧ください。私たちが比較的イメージしやすいのは味噌田楽の方でしょうか。 この先、道路が左にカーブして草津川(天井川)の堤防下沿いの道になります。しばらく歩くと、伊勢屋のところで見た西境界に対して、領地の東境界を示す道標がありました。 草津宿に近いこの場所に、「老牛馬養生所」が天保12年(1841)4月に設立されたのです。説明板には、「老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけて」と記されています。『広辞苑』(第1版・岩波書店)を見ると、「うちはぎ(打剥)」として、「往来の者を脅かして衣類金品を奪う賊」と説明しています。説明文の文脈とこの辞書の語義を重ね合わせると、老いさらばえた牛馬がまだ息のある臨終前において、強引に牛馬の皮革を剥ぎ取る作業に入るという意味合いでしょうか。そう解釈すると、「その残酷さに驚き」という記述もよく理解できます。和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が老牛馬に静かに余生を暮らさせようとして、発起人となり養生所を設立したそうです。 天井川に架かる橋を渡るために堤防上への緩やかな坂道を上り、橋を渡ると対岸の橋の傍に、 お堂があります。 道路の反対側斜め前に、文化13年(1816)3月に、日野の豪商中井氏の寄進によって建てられたという「火袋付石造道標」が建てられています。このあたりが、江戸の方から草津宿への入口だったのです。草津川が関門的な機能を持っていたようです。江戸時代、「この草津川は砂川で歩行渡りであった」(資料2)ようです。天保7年(1836)の『膳所郡方日記』には既に天井川の兆候が記されているといいます。享和2年(1802)には草津川上流での堤防決壊で大洪水があったとか。その後、草津川の堤防補強、川浚えのための費用として、草津宿では、川幅13間の草津川を渡る旅人から橋銭を徴収するようになったようです。天保3年(1832)の「橋銭川越賃定書」があり、川水のない場合は橋銭一人前3文を徴収したそうです。橋銭徴収の定着で川越人足の専業化し、天保3年には二組の川役組が存在したといいます。(資料2) 草津宿の通りを進んで行くと通りの角にある建物・草津市民センターの道路傍に「草津町道路元標」という石標と「水準点」という赤字の表示板が立っています。そして、向かいの草津川(天井川)傍に、 東海道と中山道の分岐点を示す「草津追分道標」があります。傍の石碑には、ここが草津宿のほぼ中心だったことと、この道標が文化13年(1816)に寄進により建立されたことが記されています。 『東海道名所図会』に掲載の「草津追分」図を引用させていただきます。道標の上に猿回しの猿が乗っているのがおもしろい! (資料3) 草津について、広重がこんな風景を描いていますので、引用します。(資料4) また、広重画にこの風景が描かれています。こちらの絵の方がポピュラーだと思います。(資料5)草津川に沿って、通りの反対側には、 草津宿高札場が復元されています。この草津川(天井川)のトンネルを北方向に抜けて行く通りが中山道です。 トンネルを抜けると、この道は現在草津の商店街通りになっていて、草津駅に出るまでに、「草津歴史街道」の説明板がありました。中山道について説明がされています。 序でに、歌川広重は『木曽街道六十九次』の中で、「木曽海道六拾九次之内 草津追分」として描いています。ウィキペディアから引用しました。(資料6)これで、手原-草津間の東海道探訪並びに、中山道の起点としての草津追分のご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料 1) 東海道名所図会 巻之2/ 秋里籬嶌 [編] :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 『図説滋賀県の歴史』 p2103) 東海道名所図会 巻之2/ 秋里籬嶌 [編] 寛政9[1797]) :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 『東海道五十三次』 栄文堂刊 大正9年 :「近代デジタルライブラリー」5) 『東海道五十三駅風景続画』 岩波書店刊 大正8年:「近代デジタルライブラリー」6) 草津宿 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺目川の歴史 :「目川.おこしやす.com」切手になった目川立場と草津 ← (4)庄野~京都 :「FUKUSHI Plaza」菜飯田楽 :「コトバンク」味噌田楽 :ウィキペディア石部宿 田楽茶屋 :「湖南市」木曽街道 :ウィキペディア【浮世絵画像集】中山道広重美術館「雨の中津川」など展示、9/29まで。 名所絵『木曽街道六十九次』 :「NAVER まとめ」草津追分 切り絵 :「さくら工房」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -1 鈎陣所跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -2 手原・上鈎・目川 へ
2017.05.21
コメント(0)

(資料1)鈎の陣探訪に行く道は、実は旧東海道を歩いていたのです。 [探訪時期:2013年1月]その時のレジュメに掲載の図がこれです。実線が前回ご紹介した現地探訪のルートです。一部実線と重なりますが、破線の付された道が旧東海道になります。そこで、探訪のオプションとして歩いた東海道の手原~草津間を、Part 2 としてまとめる形で、JR手原駅近くの東海道から始めたいと思います。この「手原」という地名の由来はなかなか興味深いです。ネット検索で知りました。女が手を産み落としたという「手孕み伝説」が手原の地名の由来になったといいます。一方、同じ手孕み伝説でも、こういう由来もあるようです。村造(むらみやっこ)の布佐という人が、男の子を授かりたいと願い、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀り、土地の守り神でもあった天ツ神(あまつかみ/天津神とも)に願いごとをしたそうです。毎日妻の腹の上に手を当ててお願いしたところ、願いが通じて男子が生まれたとか。この子供を手孕児(てはらみこ)と呼び、神の不思議な力を称たえたのだとか。この故事「てはらみこ」が「てはら・手原」になったとしています。手原駅前正面の通りを南に少し歩くと、東西方向に交差する東海道が通っています。 南東角に「稲荷神社」があります。右折し東海道を少し歩くと、 左手に「旗本渡辺領代官猪飼邸」の立派な門構えが見られます。 手原村には東海道に面して桶屋さんがあったようです。 その先にこんな経度標識が建てられています。 東海道の道標の傍に、かつては「すずめ茶屋」と称する田楽茶屋があったのですね。ここから前回ご紹介した足利義尚歌碑は僅かの距離です。 ゆかりの地石碑と歌碑のある公園の先の十字路が「上鈎東」です。右折すると鈎陣所跡へ。このオプションとしての東海道歩きは、この交差点を渡ってそのまま直進です。手原村から上鈎村に入ります。 道路沿いに、油屋や米屋という屋号の表示が出ていました。 かつてここに存在したお店でしょう。 旧東海道のこのあたりは「県道116」に名を変えています。 道なりに進むと、T字路の突き当たり。正面にま新しい道標が建てられています。 左に行けば中郡街道、東海道は右折です。この標識の側面には、次の説明が刻まれていました。「坊袋・中世には治田鄕青地の荘域。江戸時代に坊袋村となり山城淀藩領。明治22年治田村大字坊袋となる。役場、小学校等があり、現在も治田学区の中心地。大日堂に市指定文化財、石造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代作)西へ約200m」 そのそばに、少し古い道標があります。正面の「東海道」という文字の下には、「やせうま坂」という文字が刻まれています。側面には「金勝寺 こんぜ」と刻まれています。白州正子さんのエッセイに「金勝山をめぐって」があります。その中で、金勝寺は今は無住の寺であること、奈良の都の鎮護の寺でかつては狛坂寺と呼ばれたこと、『続日本紀』によると天平5年、聖武天皇が良弁に命じて創立されたことが記されています。この良弁については、「一説には、金勝山の麓で生まれた、百済の帰化人の子孫であったという。」とも記しています。金勝山の別名が狛坂寺であるとか。著者はこのエッセイの中で、金勝山について、「昔は五十町の険しい坂道を歩いて登ったので、こんな所へは、二度とは『コンゼ』と人はいったという」というおもしろい一文も記していておもしろい。(資料2) 東海道を進むと、「浄土宗延命山地蔵院」の石標がありました。その後にある説明板には、境内にある石碑について説明しています。 左の画像が説明板に記載の石碑。右の画像の立派な石塔も境内に建立されています。多宝塔のように見うけますが、私には識別しかねます。上段の塔身には「南無阿弥陀仏」下の塔身には「浄土三部経塔」と記されているようです。基壇部分には「三界萬霊」と記されています。「三界」について、辞書は「(1)生死流転する迷いの世界。欲界・色界・無色界。(2)三千世界。全世界」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。こじんまりしたお寺でしたが、昔は大きな寺院があったのかもしれません。そして、目川村に入ります。ここにも、東海道沿いに飴屋という屋号のお店があったのです。通りの反対側にこんな牛馬の細工物が展示されていました。おもしろかったので写真に撮っておいたのですが、ネット検索してなぜなのかがわかりました。このあたり、往時は「目川立場」と呼ばれたところです。そこで現在、「ほっこりまつり」が毎年行われるようになったようで、この牛馬の細工物はその時の出し物になったものなのです。補遺の「ほっこりまつり」をご覧いただくと、説明が出ています。お楽しみに!「立場」とは、「街道などで人夫が駕籠などをとめて休息する所。明治以降は人力車や馬車などの発着所、または休憩所。」(『広辞苑』・第一版 岩波書店)「江戸時代、かごをかつぐ人夫などがつえを立てて休んだ道端の場所」(『日本語大辞典』)と説明されています。つまり、宿場町を出立した人が丁度一休みする距離くらいの場所に、立場茶屋が営業していたのでしょう。この目方立場もその一つだったようです。歌川広重が「東海道五十三次之内」の52として、「石部<<目川ノ里>>」を描いています。こちらからご覧ください。(文化遺産オンラインのサイトに木版画が載っています)この同じ茶屋が、『東海道名所図会』にも登場します。引用させていただきます。(資料3)一方、『伊勢参宮名所図会』には、お店の中が絵図に描かれていて、おもしろいです。こちらも引用によりご紹介します。 その少し先に、「一里塚」の道標がありました。次回、目川の後半から始めたいと思います。つづく参照資料1) 連続講座「近江の城郭 城・寺・街~中世近江の自治の世界」 第3回 鈎の陣 鈎陣所跡 講義資料2) 『かくれ里』 白州正子著 講談社文芸文庫3) 東海道名所図会 巻之2/ 秋里籬嶌 [編] 寛政9[1797] :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 伊勢参宮名所図会 巻之2-5 / [蔀]関月 [編画] ; [秋里湘夕] [撰] :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺栗東歴史民俗博物館 ホームページ手原稲荷神社 :「ばりかん!滋賀」手孕説話 :ウィキペディア男の子、授かります!? “手原”の伝説:「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」地名のルーツ~手原~ :「自然体で、興味を持ったことを・・・・」東海道ほっこりまつり・あかりの演出 :「滋賀・びわ湖 観光情報」栗東市 東海道「目川立場」ほっこりまつり(2)ほっこり祭 :YouTube一里塚 :ウィキペディア東海道の一里塚 :ウィキペディア 「118里 - 目川 (滋賀県栗東市目川)」と載っています。金勝寺 → 金勝山ハイキングマップ 実盛物語 さねもりものがたり (「源平布引滝」):「歌舞伎見物のお供」「源平布引滝」あらすじ :「以良香の文楽・浄瑠璃メモ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -1 鈎陣所跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -3 目川立場・草津追分 へ
2017.05.21
コメント(0)

2013年1月26日(土)に、滋賀県栗東市に所在の「鈎(まがり)の陣 鈎陣所跡」探訪に参加しました。当日は、JR草津線手原駅13:30までに集合です。JR手原駅のすぐ隣が、講義の会議室がある「栗東商工会館」でした。応仁の乱後にあった「鈎の陣」の戦いについての講義を聴講してから、現地探訪をするという形です。この講座終了後、折角の機会なので、手原から草津まで旧東海道沿いに個人的に歩いてみました。この2つのテーマで学んだことの振り返りと整理を兼ねてまとめブログに載せていたものを、こちらに再録し、ご紹介したいと思います。13:30からの講義、15:00からの現地探訪というスケジュール。まずは次のテーマでの講義聴講です。「応仁の乱と将軍の近江親征」 松下 浩 氏 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課)「鈎の陣と上鈎寺内」 藤岡英礼 氏 栗東市教育員会文化体育振興課・城郭談話会松下講師は、応仁の乱が戦国時代の幕開けとなっていく歴史的な背景と室町幕府の状況、そして応仁の乱が近江でどのように影響を及ぼしていたかの観点から、歴史の潮流を説明されました。応仁の乱の後、将軍義尚による六角高頼征伐としての近江親征が行われ、さらに将軍義材による第二次六角征伐に連なるという説明でした。後半は初耳の内容でした。一方、藤岡講師の講義は、将軍義尚の六角征伐における「鈎の陣」に焦点を絞り、その意義と性格、陣の終焉過程について詳細な史料を踏まえた説明でした。その後1時間ほど、鈎陣所跡と比定されている「上鈎寺内の遺構」の現地を探訪し、藤岡講師から発掘調査状況や現状についてお聴きしました。中学・高校時代に、日本史で応仁の乱については習った記憶があります。しかし、「鈎の陣」という言葉は今回の講座案内で初めて知りました。探訪後にレジュメを読み直し、少し復習してみました。学生時代の教科書は遙か昔に処分済み。ふと、10年近く前に購入した市販の高校生対象の教科書風の本を繙くと、義尚についてはその誕生、義材は第10代将軍になったが細川政元から追放された(明応の政変)こと、それぞれ1行ほどの記述があるだけです。大型書店で一般歴史書の応仁の乱関係記述箇所を数冊チェックしてみましたが、やはり載っていませんでした。しかし、今回探訪に参加して、応仁の乱との繋がりがわかり、戦国時代の始まりの状況に一層関心が深まるとともに、面白く感じるようになりました。私の理解を織り交ぜながら、まとめてみます。誤解が含まれるかも知れませんが・・・応仁の乱は幾つもの要因が複雑に錯綜していく人間関係とそれぞれの欲望の中で起こっているようです。畠山氏の家督争いに山名持豊(宗全)が関わって行くという要因。足利将軍家において、8代将軍義政が、弟・義視に将軍職を譲ろうとし、固辞していた義視が受諾しようとした翌年に、義政の妻・日野富子が義尚を生むことで、その継嗣争いが起こってきます。また、斯波家の家督争いに義政が関わって行くなど・・・様々な家督争い、領地争いが同時進行で絡み合っていきます。細川勝元が義視の後見人的立場になり、一方山名宗全が義尚の後見人的立場になります。細川と山名が陣を置いた場所の関係で、その対立は当初義視派が東軍、義尚派が西軍と称されることになります。全国的規模でみると、有力守護家の家督争いなども、このいずれかに加わる形で全国が二分した状況になり、争いが拡大していきます。そこには、鎌倉時代からの守護地頭という体制と機能が崩れ、守護が力をつけ専制化していくという時代背景が進展していたのです。戦国大名化への変質です。そのころ近江では、佐々木氏が六角氏、京極氏と分立し、対立している状態でした。その中で六角氏の三兄弟間の内紛が起こり、久頼が家督を継ぐのですが幕府や京極氏が介入して、久頼が自害し、幼少の亀寿丸が六角氏を嗣ぐことになります。京極持清は東軍に、六角亀寿丸(のちの高頼)の一党は西軍に加わります。一方、義政が応仁2年に我が子義尚を将軍に擁立することに動き出すと、西軍が今度は義視の方を受け入れて新将軍に位置づける形に変化するのです。替わらないのは東軍が幕府軍、西軍が反幕府軍という関係です。現体制維持派と独立専制化指向派の対立ということでしょうか。応仁という年号は3年間で文明という年号に替わり、応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)という長丁場の戦になります。文明5年に山名宗全と細川勝元という両巨頭が続くように死去し、翌年4月に孫の山名正豊と細川正元が和睦することで大きな終結への動きを生み出したのでしょう。近江ではこの時期に六角高頼が成長し、徐々に家督を確定していくのです。京極持清は、応仁2年末に六角高頼を伊賀に走らせ、近江一国を制圧し、文明元年5月に近江守護に任命されますが、文明2年に64歳で病没します。すると、今度は京極家で跡目相続の分裂が始まります。その機に、今度は六角高頼が江南の地を回復し、文明4年に近江一国を平定するのです。六角高頼は西軍(反幕府軍)側でした。近江国には寺社本所領が数多く存在したのですが、高頼を盟主として味方する近江国の国人は、寺社本所領への侵略を行い自分たちの領土拡大を狙います。つまり、六角高頼による寺社本所領の横領です。東軍(幕府軍)は中央権力の維持体制のために寺社本所領の保全を第一に考えて行く立場です。西軍は逆にその侵略をなかば公認しているので、高頼にとっては権力確立に都合がよいことになります。入手情報を読み進めると、文明5年と同7年の二度、幕府は延暦寺をも動員して六角征伐軍を起こしていたようです。しかし、埒が明かなかったのか、文明10年(1478)に幕府と高頼間で和解が成立。高頼が近江守護職に任ぜられます。ところが、国人による寺社本所領の侵略は止まらなかったので、この和解は短期間で破綻するのです。こんな背景が、「鈎の陣」へと繋がっていきます。寺社本所領の所有者はたまったものではないでしょう。当然、幕府にその回復を要求するはず。一方、その頃、義尚は将軍にはなったものの実権はない状態だったようです。父・義政は銀閣寺つまり東山山荘の造営に夢中であり、政務の実質権力は保持し、幕府は管領や母・日野富子が押さえています。そんな中で、義尚が自らの将軍権力基盤の強化を目指して、統制を無視する高頼に対し六角征伐としての親征をはかるのです。自らの地盤固めの契機にしたかったのでしょう。長享元年(1487)9月12日、義尚が出陣します。まず近江・坂本に向かいます。9月末に野洲河原での戦い。それが大規模に至らなかったのは、高頼が正面衝突を回避し、いち早く甲賀に逃走するからです。義尚は10月に安養寺へ、その後10月27日に鈎、真宝館に陣所を移します。頂いた史料を読むと、記録者により、曲之真宝坊館、真法館、下鈎真宝館、勾真法館などと様々な表記がなされています。素人目にはおもしろいものです。ちょっと、前置きが長くなりましたが、こんな経緯と理解しました。 最初に訪れたのが、この碑が建てられた「歌碑公園」です。 この碑の傍に、義尚の詠んだ歌や返歌の歌碑が並んでいて、こんな歌が詠まれています。 父・八代将軍義政公へ 長享元年十月四日 義尚着陣の時 坂本のはまちを過てなみ安くうやしなふ寺に住とこたへよ 義政公の返歌 長享元年 都より やがてはや國治まりて民安くやしなう寺も立ちそかへらん 中納言入道宋世 義尚へ 鈎へ陣かへ 霜月廿日 かへりねと志賀の浦浪たたぬ日も君を都にまたぬ日はなし 中納言へ義尚の返歌 霜月廿日陣所 思ひとけは浮世なり見しかの蜑の業もしつへき旅の日数を 陣中の歌会で義尚 長享二年正月十五日 三冬つきはるきにけらし乙女子か袖ふる山にかすみたな引歌のやりとりができる位、ある意味で緊迫感に欠ける断続的な戦だったのでしょう。信長時代のような戦ではないということですね。石碑は堤防のような斜面の傍に建っています。斜面の階段を上ってみると、かなり大きな池でした。ネットでマピオンの地図を見ても池の名前が載っていませんが、検索してみると「上鈎池」という名称です。 その堤から「三上山」が眺められました。なぜ、鈎という土地に陣所を移したのか。それは高頼が甲賀の地に逃げたからです。甲賀方面との戦に対してその入口での陣構えなのです。当時は、既存の寺や施設を利用した分散型で陣を構えて行ったようです。義尚の陣所がどこにあったのか? それは古文書などから「上鈎寺内」であり、現在の永正寺のある場所が陣所だったと比定されています。 当日のレジュメから「上鈎寺内復元図」を引用させていただきました。 地図のBという記号の場所が、この画像のあたりなのだそうです。説明を受けないと単なる田圃というだけに終わってしまうところです。永正寺に向かう道傍に竹藪が残っています。中には遺構の一部があるようです。 「永正寺」の門の傍に「土塁」が残されています。濠もあったそうです。 それが北西側の部分にぐるりと繋がっています。その土塁の上を歩いてみました。 土塁の切れたところから、Bの場所方向を見た眺め 山門の傍らに建てられた説明板 この上鈎寺内だったところを歩きました。幅は狭いのですが、かなり堀が巡らされています。講義のレジュメには、「4か所で行われた発掘調査では、13世紀代から遺構や遺物を見るが、現景観や稲葉家絵図の原型は、16世紀後半~であり、天正期以降の寺内建設で把握するのが妥当」とされています。永正寺は鈎の陣の故地とされてきましたが、その後にこの場所で真宗の寺内形成が行われたということなのです。義尚は、長享元年の10月に真宝館に移るという諸記録が残されているのですが、その翌年からの各種文書の記録は、鈎之陣所、鈎の御所、勾御所などに変化しています。高頼との戦の長期化は、義尚にとって長期間に渡って構える「張陣」という形になり、同道の奉公衆や奉行衆は将軍の御所を中心に分散して陣を構えたのです。義尚はこの地で自らの権力基盤を形成しようと試みたのですね。鈎御所では、政治・裁判・宴会が行われていたようです。井沢氏は、「都から陣中に公家を招いて歌会を開く始末である。義尚はこの他にも、連歌の第一人者であった宗祇を招いて講義を聞いたり、中国の史書『春秋左氏伝』の勉強会を開いたりした」」と著書に記しています(後掲書p181)。正面衝突を避けた高頼の戦略により、義尚は労せず近江国を一旦平定します。寺社本所領や近習・奉公衆所領を回復した後、寺社本所領の大半を奉公衆・近習に兵糧料として分け与えようとします。また、義尚は近習出身の結城尚豊を守護職に任じたのです(後掲井沢氏著書p175)。まず自らの権力基盤の強化を意図したのでしょうが、当然ながら寺社本所領の荘園領主が黙ってはいないはずです。そのため義尚は自らの考えを断念しなければならなくなります。そして、失意の中で酒と女に溺れていったとか。義尚はわずか25歳で、延徳元年(1489)3月26日、鈎陣所にて没します。鈎陣所・御所は約1年5ヵ月で終焉してしまうのです。高頼は義尚との正面衝突は避けて、ゲリラ戦を中心にしたようです。講義ではあまり話に出なかったのですが、ネット検索での入手情報では、このゲリラ戦が、甲賀忍者の活躍の始まりと説明されているのがいくつかあります。延徳元年7月、はやくも幕府は六角高頼の赦免を決定しています。この和解も高頼側の重臣の反対で短期間で終わります。一旦獲得した領地を手放すなんて国人にすれば、当然反対でしょうね。それが、第10代将軍義材による延徳3年(1491)8月の第二次六角征伐の近江出陣となります。この場合も高頼は甲賀に逃走。それで、合戦らしきものもあまりなくて義材は近江平定したようですが、近江一国を「御料国」(将軍直轄領)としたのだとか。ならば、所領を没収された人々の反発が出てくるのは必然でしょう。明応2年(1493)4月に管領細川政元がクーデターを起こし、義材を追放する挙に出ます。明応の変です。そして、六角高頼は幕府から4度目の赦免を得るのです。高頼の戦略勝ち、国人の欲望を掌握し、時代を読む力量があったということでしょうか。戦国時代幕開きでの守護としての権力確立へのしたたかさを感じます。鈎の地名についてですが、「栗東郡志」によると、由来は「古事記」に見える小俣王を祖とする勾君の一族が住んでいたからだとか。平安期には餉(かれいの)荘、鎌倉期には鈎御園と称され、戦国期に鈎という地名で記されているようです。(『角川地名大辞典』)この2回にわたる六角征伐の将軍親征とその対処が、室町幕府終焉の加速度を増すことに繋がったのではと思う次第です。上鈎寺内を巡った後、現地解散となりました。そこで、歌碑公園の場所まで一旦戻りました。 池を半周したところから、歌碑の方向を眺めたものです。パート2として東海道ウォーキングを次回はまとめていきたいと思います。つづく参照資料*連続講座「近江の城郭 城・寺・街~中世近江の自治の世界」 第3回 鈎の陣 鈎陣所跡 講義資料*『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』 角川書店*『図説滋賀県の歴史 図説日本の歴史25』 責任編集 木村至宏 河出書房新社*『逆説の日本史 室町文化と一揆の謎 8中世渾沌編』 井沢元彦 小学館文庫【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺りっとう再発見(66) ~「鈎の陣」と室町時代の「陣」~応仁の乱 :ウィキペディア足利義尚 :ウィキペディア足利義視 :ウィキペデイア足利義材 → 足利義稙 :ウィキペディア 寺社本所領:ウィキペデイア押領 :ウィキペディア守護 :ウィキペディア地頭 :ウィキペディア国人 :ウィキペディア御家人 :ウィキペディア奉公衆 :ウィキペディア長享・延徳の乱 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -2 手原・上鈎・目川 へ探訪 [再録] 滋賀・湖南 鈎の陣と東海道(手原-草津) -3 目川立場・草津追分 へ
2017.05.20
コメント(0)

三条通から新京極通に入り、少し下がると東側にMOVIX京都という建物が通りを挟んで南北に並んでいます。この建物の間の通りに左折しそのまま東に歩むと、突き当たりに冒頭の石標「山脇東洋解剖碑所在墓地」が門の右手前に立っています。ここが誓願寺墓地のあるところです。 参拝、見学して見たいと思った動機は、既にご紹介していますが、「六角獄舎跡」の所在地を訪れたとき、「日本近代医学発祥之地」石標と、石標の後の塀の内側に建立されている「日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」という顕彰碑に出会ったのがきっかけです。墓地入口の門は閉じられていました。そこで、前回ご紹介した手続きを経て、墓地内に入り、参拝できたのです。 (誓願寺の檀家以外の方で参拝・見学を希望される方は誓願寺寺務所で手続きをして許可が必要ですので、ご注意ください。)そして、ここに安楽庵策伝上人その他の墓もあることを知った次第です。ここにご紹介します。門を入ると目の前に家があります。墓守をされている管理の人に場所を尋ねました。墓域は左折して進んだところにあります。墓地の門に近く、家の北側のところに誓願寺住職の墓碑が集合している場所があり、その少し北方向に参拝目的のお墓がありました。 墓碑のある一画はこんな景色です。 山脇東洋墓には覆屋が設けられ、南面に案内板が掲げてあります。歳月が経ち、残念ですが判読しづらくなっています。 墓石には「法眼東洋山脇先生墓」と刻されています。山脇東洋(1705~1762)は丹波国亀山の生まれで、宮中の医官山脇玄修に学び、その養子となったのです。後藤艮山(こんざん)に古医方を学んだそうです。漢方医学では、中国元・明時代の医学を重んじるのが当時の流れであったのに対し、古医方は臨床実験を重視する漢代の医術に戻ろうとする考え方だったとか。山脇東洋は実証主義的な立場をとる医師となり、宝暦4年(1754)閏1月7日に、当時の六角獄舎の地で、官許を得て日本で初めて人体解剖(人体解屍観臓)を行ったそうです。江戸で杉田玄白・前野良沢らが1771年に死刑囚の解剖見学(観臓)をする17年前になります。杉田玄白・前野良沢はその結果、西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』の翻訳を行い、1774年に『解体新書』を出版します。山脇東洋は、その後も人体解剖を重ねて、5年後に『臓志』として、日本最初の解剖図録を刊行したのです。(資料1,2,3,4,説明版、顕彰碑)山脇東洋墓の南東に、山脇家が人体解剖を重ねた際の遺体14柱の供養碑も建立されています。日本の近代医学の曙に貢献することに連なった人々の供養碑と言えます。戒名の末尾に信士、信女とありますので、男女の両方の死刑囚が人体解剖されたようです。 山脇東洋墓の傍近くに、山脇家の系譜並びに門流と推測できる人々の墓碑も建立されています。家の北側に、擬宝珠の付いた欄干で囲われた基壇の上に、この墓域では一番大きい無縫塔が建立されています。 東側が正面となっていて、これが「安楽庵策伝上人」の墓です。一隅に、「安楽庵策伝上人略記」の説明板が設置されてあります。かつて『醒睡笑』を知った時、安楽庵策伝上人が誓願寺の住職だったということは知っていたのですが、その墓がどこに建立されているのか、考えたことがなかったのです。お陰で策伝上人のお墓も参拝し合掌することができました。略記に記されていないことをいくつか補足します。*竿の部分に刻されている「日快」は策伝の諱です。*天正年間には山陽地方で活躍し、7カ寺を次々に建立、再建されたそうです。文禄3年(1594)、堺の正法寺に入り、次いで美濃の浄音寺(立政寺の末寺)の住職となるという経過を経られているとか。慶長14年(1609)56歳で美濃の西山禅林寺派檀林立政寺を数カ月預かるということも。(資料5,6)*策伝は古田織部門下であり、茶人、文人としても著名だったそうです。狂歌、発句なども行ったといいます。松永貞德、小堀遠州、松花堂昭乗らと親交を深めたそうです。(資料5,6)*広島県にある誓願寺には、安楽庵好みの八窓の茶室が再現されているといいます。 (資料6) 策伝上人墓である無縫塔の傍の一画は、様々なスタイルの墓が並んでいます。この一画は誓願寺の歴代住職などのお墓が建立されているようです。お寺によっては、歴代住職が無縫塔(卵塔)形式で統一されて整然と並んでいます。多様な形式と大きさで並んでいるのも興味深いところです。ここにご紹介する墓碑名は 補山善慶上人、及山善以上人 教山誉公上人、(不詳)末尾に大姉 と判別できそうです。私の判読ミスがあるかもしれません。 墓地内の表示に導かれて、もう一つ参拝したのが、「お半・長右衞門」の墓です。浄瑠璃・歌舞伎の「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」のモデルとなったことで名を残す人たちだそうです。墓の前の円柱石に「乕(とら)石町」と刻され、側面の石銘板の端に「乕石町有志者」という文字も見えます。調べて見ると、これは現在の京都市中京区柳馬場押小路下がる虎石町のことだとか。ここに住んでいた『帯屋』という呉服関連の店の主である長右衛門と、親子ほど年の差が離れたお半の二人が、江戸中期の1761年に桂川で死体となって発見されたという事実があるそうです。長右衛門がお半を大坂に奉公に連れていく道中で何者かに襲われて不遇の死を迎えたのではないかと推測されているそうですが、事件は迷宮入りとなったようです。(資料7)この事件をヒントに狂言作家たちが様々に脚色して話を作ったのです。歌舞伎の「桂川連理柵」は、安永5年(1776)菅専助作の世話物浄瑠璃が原作で、さらに主人公たちの設定を修正したものといいます。分別盛りの四十男である長右衞門と十代の娘お半が恋に陥るという話。お半は柳馬場の信濃屋の娘。長右衛門はお絹という妻のいる隣家帯屋の養子。義父繁斉は好人物だが後妻のおとせとその連れ子は悪賢い輩。お半は乳母と丁稚長吉を供に伊勢参りをします。その帰路、石部の宿で帯屋長右衛門と出会い、同宿となるのです。お半に惚れている長吉は、この機会にと深夜にお半の部屋に忍び入るのです。お半はなんとか逃れて、長右衛門の部屋にかくまってくれと頼み込みます。ところが、それが縁でその夜、はからずも二人は結ばれてます。だが、その結果、お半は妊娠してしまいます。一方、長吉は長右衛門がお屋敷から預かっている刀を自分の道中差しとすり替えるという意趣返しをします。お半は妊娠を恥じて一人で死ぬ覚悟を決めます。長右衛門は預り物の刀を紛失した咎めもあり、お半の覚悟を知ると、長右衛門はお半の後を追い、二人は桂川で心中して果てる・・・・というストーリー展開に。(資料8)浄瑠璃、歌舞伎の世話物、心中噺(ばなし)のモデルになって、後世までも語り継がれている二人は、どんな思いでいることでしょう。世代間ギャップでしょうか。歌舞伎に多少の関心を持っていても、この「桂川連理柵」は知らなかった演目です。誓願寺墓地を参拝見学して知った歌舞伎知識の副産物です。後日、入手資料を読んでいて、ここ誓願寺墓地には、次の人々も眠っておられるそうです。私は知らなかった人々ばかりです。歴史に関わった人々は幅広く、限りないですね。 渡邊勘兵衛: 戦国時代の武将 小笠原監物忠重: 松平忠吉(徳川家康四男)の家臣 堀 元厚: 鍼灸医学の基礎理論を研究した医師。本居宣長の師 服部中庸: 江戸後期の国学者。平田篤胤の師 穂井田忠友: 江戸後期の考古・古典学者。正倉院文書整理の先駆者さて、最後にもう一つ、私は予期しなかった副産物を拝見できました。 それが「六地蔵石幢(せきどう)」です。覆屋が設けられていて、傍に説明板が掲示してあります。この形式の六地蔵を拝見するのは初めてです。六面体の角柱の上部に蓮華座に立ち、舟形光背を彫り込んだ地蔵菩薩が浮彫に彫刻されているのです。 上部が欠損しているのでよく見えますが、幡身部上部のこの穴部分に納経し、その上に笠石を置いたと考えられているそうです。(説明板より)これは、誓願寺墓地にある最古の石仏だと言います。この六地蔵石幡は室町初期、永享11年(1439)の造立だそうです。この石幢を拝見して、墓地を出ました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社2) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p298-2993) 山脇東洋 :ウィキペディア4) 山脇東洋 :「コトバンク」5) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p206) 落語の祖 策伝上人 :「総本山 誓願寺」7) (214)お半長右衛門(京都市中京区) ふるさと昔語り :「京都新聞」8) 『歌舞伎鑑賞辞典』 水落 潔著 東京堂出版 p53補遺山脇東洋解剖碑所在墓地(駒札) :「京都観光Navi」山脇東洋 日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人 :「歴史くらぶ」蔵志. 乾,坤之巻 / 山脇尚徳 著 ; [山脇]侃 校 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)[閲覧注意]江戸時代に書かれた日本画調の人体の解剖図や骨格図いろいろ :「DNA デイリィ・ニュウス・エイジェンシィ」江戸時代に描かれた人体解剖イラスト(画像45枚):「mirojoan's Blog」杉田玄白の解体新書 動画 :「NHK」解体新書 :「国立国会図書館デジタルコレクション」策伝庵 茶室の復元 :「紫雲山光照院誓願寺」安楽庵策伝 :「紫雲山光照院誓願寺」国宝 六面石幢について :「普濟寺」多宝千仏石幢 :「e國寶」石幢(せきどう) :「石仏と石塔」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 誓願寺 -1 本堂・安楽庵策伝・北向地蔵尊・扇塚ほか へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.05.20
コメント(0)

3月下旬(2017.3.29)に新京極三条下ル東側に所在する「誓願寺」を訪れました。新京極通の三条に近い広場のあるところに位置するお寺と言えばわかりやすいかもしれません。新京極通の門前に立って本堂を眺めると、本堂が高い位置にあるため、本尊の阿弥陀如来坐像を通りから拝することができます。そのため境内に入ることがなかったのです。3月に訪れたのは、誓願寺の墓地に、江戸時代の医師・山脇東洋の墓があることを知ったからというのが直接の動機でした。京都幕末動乱期の史跡を折りに触れ探訪してきた一環で、「六角獄舎跡」を探訪しました。このことは、既に拙ブログでご紹介しています。その時、日本初の人体解剖を行った医師・山脇東洋の顕彰碑があることを始めて知ったのです。後で調べていて、山脇東洋のお墓が誓願寺にあることを知ったのです。それがきっかけで、誓願寺をあらためて探訪する機会となった次第です。本堂の所在する境内地と誓願寺の墓地は離れています。その辺りは後述するとして、まとめという視点で、まずは本堂のある境内からご紹介します。門前に向かって右側に、この駒札が立っています。冒頭の画像では駒札の背後に隠れていますが、大きい「総本山 誓願寺」と刻した寺号碑が立っています。誓願寺は、深草山と号し、浄土宗西山深草派の総本山です。洛中に位置するために、度重なる火災に遭遇し、現在の本堂は二階建の鉄筋コンクリート造りとして、昭和39年(1964)に再建されたものです。私は現在の境内地と本堂の状態からしか記憶には残っていません。最後の焼失が昭和7年(1932)で、その後、仮本堂の状態が続いていたと言います。(資料1,2)冒頭の画像で、山門の左側に「迷子みちしるべ」と正面に記された石柱が立っています。これは、当時の街頭告知板の機能を担ったそうです。右側に「教しゆる方」左側に「さがす方」と彫ってあります。その当時、落し物、迷子などについて、教える人は右側面に、捜す人は左側面に、紙に書いて貼りだすのに利用したとか。「まだ警察のなかった江戸末期から明治中期、迷子が深刻な社会問題となり各地の社寺や盛り場に建てられたそうです。 月下氷人(仲人)役の石ということから、別名『奇縁氷人石』とも呼ばれます。」(資料3) この図は、江戸時代に出版された当時のガイドブック『都名所図会』から引用させていただきました。(資料4)表門は寺町六角、裏門(北門)は三条通に面し、三重塔が建てられていた様子がわかります。当時境内は6500坪ほどの広さだったそうです。この図会では誓願寺の寺伝を引き、当寺の沿革を説明しています。誓願寺は元は天智天皇の本願により、推古天皇時代に入唐した学問僧である恵隠僧都が開基となって、三輪宗のお寺として建立されたそうです。それが、桓武天皇による平安京遷都の後に、上京元誓願寺通小川の西に移転します。源信僧都がしばらくこの誓願寺の住した時期があるようです。21世蔵俊僧都の時に法然上人に帰依し、浄土宗に改宗されたと言います。中世には不断念仏の道場として発展したようです。天正19年(1591)頃に、豊臣秀吉の京都改造計画の一環で、秀吉に命じられ現在の地に移転したのです、秀吉の側室松の丸殿(京極竜子)の発願援助により伽藍が再興されたといいます。その結果、当時は塔頭子院十八宇を有する大寺となったそうです。明治5年(1872)、当時の京都府参事・槇村正直が新京極通りを開設し、京都の復興への手がかりとして一大歓楽街を作ることにしたそうです。その結果、6500坪の境内地を有した誓願寺は、4800余坪の土地を没収される事になり、寺域が縮小したのです。その当時、誓願寺境内と四条寺町上ルにあった金蓮寺(時宗・四条道場)境内には、芝居小屋、見せ物小屋が集まっていたという背景があったと言います。(資料1,5,6)この探訪後に諸資料を読み、少し誓願寺の沿革が理解できました。 門を入ると、左側に手水舎があります。本堂は2階建で、階段で2階部分に上がる形です。階段の右側に、石標が立っていて、「圓光大師霊場第二十番 誓願寺」と表記されています。円光大師つまり法然上人二十五霊場の一つです。本堂正面の内陣には、本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。本堂内撮影の許可が得られましたので、ご紹介できます。 現在のこの阿弥陀如来坐像は、石清水八幡宮で、八幡神の本地仏として安置されていた像を、明治2年に、神仏分離令が実行される中で、誓願寺に移安されたといいます。「木造、寄木造布貼で丈六の坐像で平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代の頃の作」(資料2)と推定されています。 向かって右側の外陣の奧には、「十一面観世音菩薩像」が祀られています。洛陽三十三観音霊場の第一番札所、新西国三十三観音霊場の第十五番札所となっています。本堂内には、誓願寺第55世安楽庵策伝上人(1554~1612)の絵像が掲げられています。策伝上人は、近世落語の祖と称される人です。それは、八巻千余話からなる笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』を編んだことによります。この書はわが国の滑稽文学の代表的作品となっています。京都所司代板倉重宗の依頼でこの大笑話集を完成させて、重宗に献じたのです。「寛永5年3月17日、重宗は本書の奥書を書いて、その咄(はなし)の面白さを讃えた」そうです。(資料7) 本のケース 背表紙昭和39年11月に東洋文庫の一冊として、七百余話を現代語訳(鈴木棠三訳)した本が平凡社から出版されています。副題が「戦国の笑話」とされています。手許にあるのは昭和47年発行の初版第8刷ですが、「はじめに」の冒頭に、次のような説明があります。「単に話数が多いだけでなく、質の上から見ても、戦国・桃山時代の闊達自由な気風を反映した線の太い、古朴で格調高き笑話満載して居り、わが国滑稽文学中の巨篇と言うにふさわしいばかりでなく、説話研究上の好資料でもある」と。 掲載後に気づいたことを追記します(2017.5.20)。 2014年2月に講談社学術文庫から、『醒睡笑 全訳注』(安楽庵策伝著 宮尾輿男訳注)が出版されています。誓願寺の行事として、毎年10月初旬の日曜日に、「策伝忌」が執り行われ「奉納落語会」も行われているそうです。(資料8)山門と本堂の間は今や狭い境内ですが、いくつか見るべきものがあります。 山門を入った右側、山門と並ぶように西辺にあるのが「扇塚」です。「扇塚の由来」という駒札が立っています。伝世阿弥作の謡曲『誓願寺』は和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語るという趣向の作品です。そこに、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れるのです。そこから舞踏家の間で、和泉式部信仰が生まれ、誓願寺へ参詣する関係者が増えたと言います。この「扇塚」に芸能上達を祈願して扇子を奉納するということに繋がっているようです。また、安楽庵策伝上人-醒睡笑-落語の祖-落語-扇子というのも連想、象徴としてそこにも絆が生まれているとか。(駒札、資料8)境内南辺に「北向地蔵尊」の小祠が一段高い位置に設けられています。階段を上る形になります。考えて見ると、本堂の阿弥陀如来坐像が安置されている髙さに近くなっているのかもしれません。上記の境内側から眺めたた山門はこの階段上から撮ったものです。 「北向地蔵尊」の扁額が掲げられた下には、雲流文の中に卍を配した透かし彫りの外枠のない蟇股が設けられています。頭貫の文様はごくシンプルですが、木鼻はしっかりと獅子が彫刻されています。 格子扉のあいだから拝見し、撮らせていただきました。境内の北辺には、二階部分に相当する位置に「鐘楼」が設置されています。その近く、地上で目に止まったのがこの地蔵菩薩群像です。 「南無地蔵大菩薩」と基壇の正面に陽刻されていて、その上に三方向に地蔵菩薩が背中合わせに立たれていて、さらに2つの面には、地蔵菩薩の頭部の間に小像が彫られているという地蔵菩薩群像です。この後、誓願寺墓地を参拝しました。実は、インターネット検索して、山脇東洋の墓がこの誓願寺の墓地に祀られていることを知って、まずその場所に行ってみたのです。すると、墓地の入口が閉じられていました。そこで、本堂の方に行って、山脇東洋の墓のあることを知ったので参拝できるか尋ねてみたのです。すると、一旦山門を出て、周囲を巡って、本堂の背後の誓願寺寺務所で見学の許可手続きをすれば可能であると教えていただけたのです。係の女性が親切に連絡をとっておきますとおっしゃっていただきました。これが本堂の背後、東側に門がある寺務所の建物です。見学申込みの手続きをして、すぐに許可をいただきました。所定の用紙に住所氏名を記入するのです。ということで、この後、いよいよ山脇東洋の墓を参拝に行きました。その近くに安楽庵策伝上人墓もあったのです。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p277-2782) ご本尊と宝物 :「総本山 誓願寺」3) 誓願寺あれこれ :「総本山 誓願寺」4) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第1冊 40コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p89-946) 誓願寺の歴史 :「浄土宗西山深草派 総本山誓願寺」7) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p208) 「誓願寺」当日本堂でいただいた案内リーフレット補遺法然上人二十五霊場 ホームページ洛陽三十三所観音巡礼 ホームページ新西国霊場 -新しい巡礼の旅 ホームページ浄土宗西山派 証空 :「コトバンク」 西山浄土宗 :ウィキペディア 浄土宗西山深草派 :ウィキペディア 浄土宗西山禅林寺派 :ウィキペディア落語の祖 策伝上人 :「誓願寺」安楽庵策伝 :ウィキペディア安楽庵策伝 :「コトバンク」資料386 安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之一 :「小さな資料室」資料402 安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之二 :「小さな資料室」資料405 安楽庵策伝著『醒睡笑』巻之三 :「小さな資料室」寛永版 醒睡笑 :「駒澤大学総合教育研究部・情報言語学研究室」新出資料による安楽庵策伝の出自と交流の再検討 :「中外日報」 愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏 2017.5.3誓願寺 :「謡曲をよむ」平成29年和泉式部忌法要 奉納謡曲『誓願寺』のご案内 :「誓願寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 誓願寺 -2 誓願寺墓地に眠る人々と六地蔵石幢 へ
2017.05.19
コメント(0)

この探訪の最後は守山市吉身に所在する「慈眼寺」のご紹介です。 [探訪時期:2014年5月]旧中山道、加宿吉身の町中にいまはひっそりと本堂が構えられているという感じです。この石標にあるとおり、「帆柱観音」の名で知られているそうです。秘仏の十一面観音立像なのです。 この三尊の中央の立像が帆柱観音です。秘仏ですので写真で拝見しました。当寺縁起によると、伝教大師最澄の自作と伝わるものです。最澄は延暦23年(804)に入唐求法し、翌年帰国します。帰路の海上で激し嵐に遭遇したのです。その時、「最澄が十一面観音に祈りをささげると、尊像が海上に現れ、風波が平穏となって無事難を逃れることができた。最澄は帰国後、航海安全の結縁として、折れた帆柱で海上に出現した十一面観音を自ら刻み、帆柱観音と名付けた。そして像とともに小堂を建立し、寺名を慈眼寺とした」のだとか(資料1)。 現在の慈眼寺は本堂と鐘楼だけの小規模なお寺です。正式には「住吉山興福院慈眼寺」と称するそうです。かつては、吉身にある馬路石辺神社の神宮寺でもあったといいます。(資料2)堂内での写真を撮らせていただけたのでご紹介しましょう。 中央の内陣には帆立観音像の安置された厨子と御前立ちの像が安置されています。正面に向かって左の間に、今回のハイライトである薬師如来坐像他が、右の間には十二神将のうちの一像他が祀られています。駒札の記載によれば、弘仁元年(810)この吉身の地に、水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として安置されたのが起源のようです。織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちの際に、伽藍が兵火で焼失したと言います。ご本尊は村人たちが地中に埋めて災禍から守ったそうです。江戸時代にお寺が再建されたそうで、江戸時代に編纂された『近江輿地志略』には、「当時、慈眼寺には帆柱観音を安置するお堂のほかに、薬師堂、如意輪堂、地蔵堂などの諸堂が存在していた」と伝えているとか(資料1)。かつては、かなりの規模のお寺だったのでしょう。江戸時代に再建された本堂も歳月を経てかなり荒廃したそうです。現在の本堂は平成21年に地元の人々の努力で再建されたものといいます。(資料3) 厨子と御前立ちの十一面観音立像 こちらが今回ハイライトとなった薬師如来坐像です。両脇の日光・月光菩薩立像とともに守山市の指定文化財になっています。 中央のこの薬師如来坐像が、「ヴェールを脱いだ仏像」なのです。当日、学芸員の方にこのパネルなどを使った詳しく説明を拝聴することができました。損傷が目立ったために平成18年(2006)より保存修理事業が行われたのです。修理前は像の表面を厚く漆箔が覆っていたのです。この修理の過程で過去3度の修理が行われている事実がわかったそうです。平成の修理に入る当時の仏像頭部はこんな相貌だったのです。ところが、漆箔を除去してみると、この薬師如来の本来の姿が現れました。第2回目の室町時代かと推定される時期に、素地の上に布貼り漆箔を施す修理がなされ、第3回目の江戸時代に再度漆箔がほどこされていたのです。造像当時は木の聖性を意識した素地仕上げの像だったということが判明したそうです。そして、関係者の人々との相談の結果、造像時の素地仕上げ像として修理を終えて、現在の姿で安置されるに至ったのです。仏像の修理にも、時代の好みが反映していくということでしょうか。 日光・月光菩薩立像をクローズアップしてみました。指定文化財になっている「鬼瓦」が右の脇の間に置かれています。かつて本堂左側にあった薬師堂の鬼瓦。文禄3年(1594)の銘が入っているそうです。厨子に納められた小さな(たぶん・・・)大国天像も安置されています。 まず目を留めたのは、この一躰の十二神将像でした。「毘羯羅(びから)」像と説明されています。薬師如来の眷属を務める12の夜叉の1つ。護法神です。「12神それぞれが7000人の配下を率いて、薬師如来を敬う衆生を護り、大願を成就させてくれるといいます。」(資料4) この部分画像で鮮やかな彩色のほどこされた状態がおわかりいただけると思います。極彩色の立像だったイメージがよくわかります。奈良の新薬師寺所蔵の国宝・十二神将立像が特に有名ですが、現在は表面が剥落してグレーの塑像の姿です。あの十二神将像も、この毘羯羅大将像と同様に、かつては極彩色に彩られていたそうです本堂の左側には、石仏像を集めて祀られています。双体のものがいくつか目につきます。村境に祀られていた道祖神なのでしょうか。村から市への都市変遷の結果なのかも知れません。 境内の一隅に、「豪恕塔」と刻された石塔や「森先生墓碑」があります。「豪恕塔」という表記はここで初めて目にしました。少しネットで調べてみると、豪恕というのは、たぶん延暦寺の執行探題職に就いた豪恕大僧正のことと推察します。(資料5)森先生墓碑については不詳です。慈眼寺を出た後は、JR守山駅に戻るだけです。 途中で美戸津川(水戸津川)に架かる小さな橋を渡ります。この川が「守山ゲンジボタル発生の地」だったというのを、橋の傍の説明板で知った次第です。その先には「油池」という道路標識を今は見るだけですが、「油池跡」と言われる地域を通り抜けました。かつては、野洲川の伏流水による湧水池の一つとして「油池」がこの辺りにあったそうです。慈眼寺から油池交差点のあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 油池の交差点から南西方向の一つ先が「梅田町」交差点で、JR守山駅の正面になります。これで今回の守山中心市街地の史跡巡りが終わりました。最後に、ネット検索していて見つけたマップをご紹介しておきましょう。 守山市内の寺社仏閣(ご紹介) 市内寺社仏閣MAP :「守山市」 地図のpdfファイルはこちらをクリックしてください。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「探訪[近江水の宝] 醴泉の里をゆく~慈眼寺~」 当日の配布資料2) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著3) 中山道の道標(3) :「旧街道に残る道標」 4) 『仏像の見方 ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p1025) 豪恕 平安人物志(文政5年版) :「人物情報」 金剛輪寺 愛荘町立歴史文化博物館の春季特別展 祈りと美「金剛輪寺経典の世界」 平成23年4月29日(金) 第15943号 :「滋賀報知新聞」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺慈眼寺 :「守山市」 pdfファイルのダウンロード近江水の宝 慈眼寺 リーフレット 滋賀県新薬師寺編 薬師寺のガードマン、十二神将のプロフィール:「東海旅客鉄道株式会社」馬路石邊神社 :「滋賀県観光情報」馬路石邊神社 :「幻松子の記憶」”あまが池”とは → あまが池プラザ・あまが池親水緑地のご案内 :「守山市」ホタルの住むまちづくり :「守山市」守山市ほたるの森資料館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ
2017.05.19
コメント(0)

中山道街道文化交流館 [探訪時期:2014年5月]この建物は明治初期の町家(旧筆忠)です。現在は「守山宿」や中山道街道などについての情報発信センターです。 企画展示ということだったかもしれませんが、交流館の二階にはこの交流館の前に所在する天満宮所蔵の「天満宮三十六歌仙絵」がずらりと説明文付で展示されていました(2014年5月時点)。間近に見られるのはいいですねぇ・・・・。 展示説明によると、滋賀県内で三十六歌仙絵が完全に揃っている唯一の例だそうです。平成9年(1997)4月に守山市の文化財に指定されています。「縦49.3cm、横35.1cm、厚み1.8cmの板の上に和歌を墨書し、その下半に歌人を彩色しています。」36枚の内の1枚(中務)の裏面に、明治11年9月に記された墨書があり、この時に奉納された三十六歌仙絵です。三十六歌仙絵についても、説明文が掲示されています。ミニチュア人形による大名行列の姿が展示されていて、江戸時代の参勤交代のイメージを浮かべられます。その他様々な中山道関連情報や地産土産もここでご覧いただけます。月曜日が休館ですが、普段は10:00~17:00の開館、トイレもありますので、観光客には便利な交流館です。守山宿の町絵図説明はじめ、当時の文化の情報発信がなされています。今回はこの交流館周辺のご紹介です。 交流館の少し東が、守山宿の「本陣跡」推定地です。駒札と石標が建てられています。 交流館の前あたりに天保4年(1833)の宿場絵図に記載されているという井戸跡があります。そして、この「本陣跡」石標のすぐ近くに、井戸の上部石組を移転して保存されています。 中山道の南側に交流館、北側が「天満宮」の境内です。もとは天徳3年(959)に東門院守山寺の境内に鎮座していたそうですが、天文15年(1546)焼失したのだとか。「明治5年(1872)中村清右衞門(旧中村茶舗)らが菅原道真の子孫で京都高辻家屋敷内の社殿社宝を購入し近在の人達の努力によって明治11年(1878)9月15日、旧宿場の馬継所を中心(現在の地)に遷宮されました。」(資料1)天満宮の石造鳥居の西側、道路傍にこの駒札「稲妻型屋敷割りの道」が建てられています。 駒札の左に掲載の図を切り出したものです。守山宿は街道筋の町並の距離が長い街村(がいそん)で、この天満宮・交流館のあるあたりの道幅が最も幅広く高所になっている地域だそうです。そして、このあたりの道路に沿った民家は、平坦に列をなしているのでなく、一戸毎に段違いになり、その敷地の一端の段違いの長さがおよそ2~3尺(約60~90cm)と、稲妻型に建てられていたのです。私は見過ごしましたが、現在の道路の側溝にその名残があるようです。機会があれば、また確認してみたい次第です。 天満宮の北に、源内塚(薬師堂)が所在します。お堂の傍に文字が判然としなくなってきた石標が建てられています。平治の乱(1159年)で敗れた源義朝ら一行が敗走する途中、源頼朝が一騎はぐれて守山に入ったそうです。その頼朝の首を獲ろうと役人の源内兵衛真弘らが襲いかかったのです。しかし、源内は逆に頼朝の名刀「鬚切り」で両断されたといいます。村人は源内を哀れみ、ここに首塚をつくって供養したのです。そこにこのお堂が建てられたようです。 堂内から見た源内塚 画像の手前に写っている丸い石が駒札に記された「伺い石」です。この後、町家「うの家」に立ち寄りました。平成24年(2012)1月にオープンしたばかり。入手したリーフレットには、「江戸末期から明治初期に建てられた主屋、造り酒屋の趣を残す蔵などを改修し、展示室、ギャラリー、飲食店を整備しました」というスペースです。 見所は、主屋から小間の廊下でつながった文書蔵を利用した「森口華弘氏展示」です。文書蔵は証文等の文書を保管する蔵で、蔵としては格が高く、何重もの扉を持つ頑丈な構造です。蔵の雰囲気を残して、森口華弘の作品数点とグラフィックパネルが展示され、解説映像も見られます。生い立ちや功績などを知ることができます。中庭に面したガラス戸の間の柱には細長い板に「非理法権天」という語句を特殊な字体で刻した作品が掛けられています。この書体に関心を抱きました。これは南北朝時代の楠木正成が旗印にした言葉だとか。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ」というフレーズと言います。人事は結局天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない、という意味だそうです。 和室の襖と中庭もちょっと興味を惹かれるところがあります。「うの家」を出て、中山道を吉身西の交差点に至るまでに、 この道標が目に止まります。「高野郷新善光寺道」は栗東市の新善光寺へ、「すぐいしべ道」は東海道石部宿(湖南市)への案内です。新善光寺はここから25町と明記されています。中山道からの分岐先を示しています。このあたりが守山宿(本宿)の東端になるそうです。右の画像は道標の位置から南方向へ分岐する道です。この道を南下すると、JR守山駅の駅前の通りに至ります。それまでに金森川を渡りますが、そのあたりに「ほたる地蔵」があるようです。道標を見つつ、今探訪のメインであり、最後の探訪地となる慈眼寺に向かいます。 つづく参照資料1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著2) 「故きを温ねて新しきを知る うの家」入手リーフレット3) 「守山市中心市街地 歴史散策マップ」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺高辻家 :「Kotobank.jp」三十六歌仙 :ウィキペディア三十六歌仙 藤原公任撰「三十六人撰」による :「千人万首-よよのうたびと-」大名行列 :ウィキペディア箱根の大名行列 そのルーツを尋ねて :「箱根全山」謡曲「望月」 :「能面と謡曲」演目事典 望月(もちづき) :「the 能 .com」髭切(ひげきり) :ウィキペディア源氏の宝刀 ~髭切と膝丸 :「月に叢雲花に風」by 土原ゆうき氏新善光寺 ホームページ新善光寺 :「滋賀県観光情報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.18
コメント(0)

JR守山駅から北西に延びる「語らいの学び舎通り」と旧中山道が交差する「守山銀座西」から中山道を北に約50m歩むと、この「東門院」(とうもんいん)が所在します。 [探訪時期:2014年5月] 山門の南東方向、中山道沿いに、「明治天皇聖蹟」碑と、その傍に明治天皇がこの東門院を2回、御小休所(おこやすみしょ)として利用したことを説明した碑が建てられています。 また、「中山道守山宿」についての駒札も建てられています。古来、東山道と称された道が江戸時代に中山道に改称され、寛永19年(1642)に守山宿は中山道の正式宿場としての制札を許可されたのです。中山道は江戸(東京都)・板橋を一番宿として六十七次目の最終宿場です。日本橋・守山間は127里16町で約508kmだそうです。近江の中山道としての距離は草津~柏原が15里半、約61kmといいます。(資料1)さらに、正徳4年(1714)に、守山本町だけでは規模が不十分ということで、今宿と吉身が加宿(かじゅく)となったそうです。(資料2)京都から中山道経由で江戸に向かう「東下り」(あずまくだり)の旅人にとり、京都三条からこの守山までは8里6町(約34.4km)で、「京だち守山泊まり」の距離だったようです。当時の旅人の一日の行程は8~10里(約40km)だったとか。 正式名称は「比叡山東門院守山寺」と言います。寺の縁起には、延暦年間(782~806)に比叡山延暦寺の東門として創建されたのが始まりと伝えられているそうです。延暦4年(785)最澄が比叡山の開創にあたり、四境に構えた四門の内の東門にあたるのです。東の鬼門を守るためだとか。(資料3)そして、「比叡山の東門として山を守る」ことから、「守山」と名づけられたと言われています。地名の由来がここにあるそうです。(資料4)しかし、資料としてわかるのは、室町時代以降で、観音信仰の霊場として発展したようです。山門には「近江西国三十三ケ所霊場 第二番」の木札が懸けられています。門前の石標には、「田村将軍護持本尊 観音大士霊場 比叡山東門院」と刻されています。延暦14年(795)、東国から凱旋した坂上田村麻呂が伽藍を建立して延鎮作の千手観音像を安置したといいます。(資料3)石標はこのことを意味しているのでしょう。 山門を入ると、すぐ左側に、子蛙を背中に乗せた大きな石造の蛙像がおかれています。これはちょっとめずらしい・・・・。 右手に手水舎、その手前に、右の写真の小ぶりな石仏像が安置されています。 石畳の参道を歩むと正面が本堂です。 本堂の向拝所の柱には、「近江湖南二十七名刹霊場 第二十三番」(びわ湖百八霊場会)の木札が懸けられています。昭和61年(1986)12月、本堂出火により重文の十一面観音立像、毘沙門天立像など多くの文化財が焼失しています。(資料1,2)山門を入って、右手方向には、2つのお堂があります。 石畳の参道が分岐し、奥の方にあるお堂が不動明王を祀るお堂です。 扉の格子の間から拝見した不動明王坐像。重要文化財に指定されている像がこれでしょうね、たぶん。 山門を入って左手方向に行くと、3つの石塔が並んでいます。中央にあるのが、様式から判断して鎌倉時代の造立と考えられている石造五重塔です。 石造五重塔の初重の塔身正面には船形の輪郭の中に阿弥陀仏坐像が彫り込まれていて、背面は釈迦とみられる仏坐像が彫刻されています。この初重、前後2枚の石で構成されています。こういう形式を私は初めて見ました。 五重塔の左の石造宝塔と右の石造宝篋印塔はともに重要美術品に指定されているそうです。いずれも鎌倉時代の作。東門院に関連した史実・伝説をいくつかご紹介します。(資料1,2,3)*最澄の従者7人が門前に住み、茶店を設けたところから「七軒在家」と呼ばれ、この7軒を中心に門前町ができていったのだそうです。*鎌倉時代、源頼朝が上洛の折に、東門院近辺の青柳の水を愛馬に飲ませたという伝説があるそうです。「青柳の清水」は御茶会の御用水に使われるほど、良質の水だったとか。*東門院は江戸時代、しばしば「観音堂」として記述されていて、「近江名所図会」巻4にも「守山観音堂」として載っています。*「比叡山東門院守山寺」の名称は、享保19年(1734)の『近江輿地志略』に記載されているのが初見だそうです。*東門院は江戸時代には朝鮮通信使の高官の宿泊所として利用されました。東門院を出てから、旧中山道沿いで見た板看板と格子造りに風情を感じます。東門院から少し北に歩むと、三叉路になっています。その東端に道標が建てられています。右方向が中山道で美濃路に向かい、左方向に進めば45丁で錦織寺に至り、琵琶湖の木浜(このはま)港へも通じるという道案内です。45丁は約4kmの距離。 この道標には大津西念寺の講中が延享元年(1744)霜月に建立したと明記されています。講中が真宗木辺派本山錦織寺と木ノ浜への道しるべとして建立したものであり、石柱道標としては江戸時代でもっとも古いものと言います。(資料1)旅人にとって、こういう道標は大変ありがたいものだったことでしょう。また、この場所は江戸時代、高札場が設けられていたところでもあるそうです。つづく参照資料1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著2) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社3) 『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社 p4674) 『近江歴史回廊 近江中山道』 淡海文化を育てる会編 SunRise p60【 2014.9.30追記 】江戸時代に刊行された『木曽路名所図会』の第1巻に、東門院の絵が掲載されています。「守山観音堂東門院」と表示されています。早稲田大学図書館の古典籍データベースから引用させていただきました。第1巻の全ページはこちらをご覧ください。引用は33コマ目です。文章は37コマ目ですが、内容は『近江名所図会』と同文です。『木曽路名所図会』の全体はこちらからご覧ください。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺東山道/中仙道/中山道 → 中仙道の歴史 :「中仙道」東山道 :ウィキペディア中山道 :ウィキペディア*『近江名所図会』巻四の見開きで4ページ目に「守山観音堂」の項目があります。 滋賀県立図書館の「近江デジタル歴史街道」の検索ページにある「注目のキーワード」内の「名所図会」をクリックし検索していくと便利です。 近江西国三十三箇所 :ウィキペディア近江西国霊場33ケ所 一覧表近江湖南27名刹びわ湖108霊場 ホームページ坂上田村麻呂 :ウィキペディア高取町出身である最初の「征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍真宗 西念寺・大津市 ← 寺院紹介真宗木辺派 本山錦織寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.18
コメント(0)

[探訪時期:2014年5月]山本家(町家)を拝見した後、旧中山道を北に進みます。ほどなく、樹下神社境内への案内板が左側にあります。神社への参道入口の南側に建てられてます。その傍に石標が2基ありますが、後でご紹介します。 参道右側には樹下神社の石標が建てられていて、参道の両側にはまだ真新しい石灯籠が林立しています。地元の人々の神社への信仰が篤いのでしょう。石造鳥居をくぐった南側に大きな常夜灯が建てられています。 石積み檀を含めると高さ4mの大きな石造常夜灯です。笠の部分は唐破風造の屋根を象った屋形形式の石灯籠。四角柱の竿部分には、東面に「太神宮」、南面には「瑜伽大権現」、北面には「金比羅大権現」の太い文字が刻まれています。参道入口に立つまだ新しい常夜灯の説明文付き石標 竿の西面には「願主 天保二年辛卯九月 伊勢屋佐七」と刻まれています。天保2年は西暦1831年です。この常夜灯の傍に、説明碑が新しく建てられています。この常夜灯は平成11年(1999)に市文化財に指定されたそうです。(資料1)説明碑によりますと、この常夜灯はもともとは、樹下神社の北側に西流する吉川の左岸にあったのです。吉川を利用する船便や、吉川に架かる土橋を渡り中山道を往来する人々の安全を祈願して建立されたものです。河川の氾濫などで常夜灯が崩壊した後に、神社境内に移設されたのです。願主佐七は、ここ守山宿を拠点にしていた旅商人だったと推定され、今宿町超勝寺の檀家だったことが記録に残っているそうです。基壇には、南側面に守山宿内で常夜灯の建立に協力した人々の名前が刻されています。また佐七の商人仲間が分散していた地域の旧国名が西側面に刻されています。 武州(東京)、三州(愛知)、濃州(岐阜)など9つの地名が列挙され、「惣身内中」と刻されています。人名の方は堅田屋喜一郎をはじめ14人に及ぶようです。 一つ下の台石には、明治期に補修を施したことも記録してあります。 樹下神社の社殿 現在の祭神は稲田姫命。1987年の修理に際に木簡が発見されたそうで、そこには延久3年(1071)創建と記されていたとか。(資料1)本来は坂本にある日吉大社・山王七社の一つである「十禅師宮」と称されていたそうです。栗東市にある大宝神社(祭神:素戔嗚尊、稲田姫命)から分祀された小祠だとか。明治初期の廃仏毀釈の影響で、仏教色のある名称を「樹下」と改め、明治15年(1872)に現在地に整備されたのです。社殿に向かって右側斜め奥に祀られている境内社 社殿に向かって左側斜め前に「安産の石」があります。平石が安置され、その由来書の駒札がたてられています。その要点は、*菅原道真が左遷された時、その息女も連座で配流の途中、守山宿に至った。*通称どばし河の叢の平石あたりで息女は産気を催す。村人の看護の効なく入滅した。*息女は死に臨み女人の安産を平石に祈祷した。村人はその地に女天神塚を設けた。*現今宿町一番地守山小学校運動場に一隅に所在したものをこの境内に安置した。ということです。日本の信仰の中には、禍の事実を逆に福の源に転じるという発想が濃厚なようです。怨霊を祀ることから御霊信仰への展開に進展しているのと同じですね。112こんな掲示がしてあります。社殿に向かって左側斜め奥に小祠が並び、朱の鳥居も見えます。時間が無くて個々の小社を識別している時間がありませんでした。天満宮、天照皇太神宮、石清水八幡宮、権大夫大神、愛宕大神の五神が祀られているそうです。 拝殿 境内の一隅に、少し大きめの石仏の周りに整然と石仏が並べられています。中央の石仏も地蔵尊のようだと思いました。 別の一隅には、この「停車場道」道標が移設されて保存されています。傍の板壁に説明掲示が丁寧にされています。JR守山駅が明治45年(1912)に営業開始した時に、その完成記念として、中山道から駅への入口(現 今宿町交差点信号)の右側に建てられていたそうです。一つの神社を軸にいくつもの歴史の断章が織りなされています。中山道を軸にと言うべきかもしれません・・・・。 「土橋」(どばし)今はこれら画像に見るとおり、川幅4mほどのところに架かるコンクリート製の橋になっています。川は吉川という名称です。かつては境川であり、本宿守山と加宿今宿を結ぶ橋、そして昭和16年(1941)までは栗太郡と野洲郡の境界となる川でした。(資料1,2) 樹下神社の参道入口に建つ左の石標にある説明と、土橋の傍に建てられた駒札が、かつての吉川(境川)と土橋の姿を語っています。古代においてはこの吉川は、野洲川本流の旧河道であり、扇状地烏丸半島をつくったほどの大きな川だったそうです。『日本書紀』巻28・天武天皇には、元年(672)秋7月13日の条に、男依(おより:村国連男依)らは安河の辺の戦いで大勝した、という記述があります(資料3)。この戦いの推定地がこの土橋のあるあたりのようです。江戸時代は幕府公儀の御普請橋の一つで、瀨田唐橋の改修時の古材でこの橋が築かれていたそうです。当時は長さ20間(約36m)、幅2間(約3.6m)という大きな板橋であり、その上に土を盛っていたといいます。それが土橋という名の由来だとか。この橋の袂に、上掲の常夜灯が建てられていたのです。広重が「木曾街道六十九次」守山宿として描いたのはこの土橋からの眺めだと言われているようです。(資料2)当時、大川だった吉川に架かる土橋は、江戸幕府にとって、戦略的に重要な橋の一つだったのでしょう。公儀御普請橋とする理由があったのです。橋を渡り、今宿から本宿守山に入ります。最後に、広重の描いた守山宿の眺めをウィキペディアから引用させていただきます。(資料4)つづく参照資料1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著 2) 『足のむくまま 近江再発見』 國松巖太郎・北脇八千代共著 新評論 p1453) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟著 講談社学術文庫 p2554) 守山宿 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺十禅師 :「Kotobank.com」山王権現 :ウィキペディア大宝神社 ホームページ大宝神社 :「滋賀県観光情報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.17
コメント(0)

[探訪時期:2014年5月]勝部神社から楓三道を南下していく途中で、この標識を歩道脇で見かけました。守山市が勝部町地区の歩道の設置整備を行うにあたり、市民への市道の愛称募集を初めて行って、この「楓三道」という名称がついたそうです。(資料1) 南守山街道を西進し、閻魔堂町交差点で左折して中山道を少し南に向かうと、「住蓮坊母公の墓」の石標が建てられています。この石標の左の細い通路を少し奥に入ったところに墓地があります。 お墓の全景このお墓、現在は市村家の屋敷内の私有地に所在していて、市村家の人々が丁寧に供養されているそうです。今回の探訪会ということで、拝見させていただきました。 こちらのお墓が住蓮房母公の墓だそうです。前方の石塔の前に、右の画像の石標が建てられています。こちらは側面の銘文によると、大正2年10月に住蓮坊の700周忌の法要が行われ、母公の墓も修理されたようで、それを記念して大正6年春にこの供養塔が建立されたのです。住蓮は安楽とともに法然上人の弟子で、若くて美しく、彼らの浄土礼賛声明が評判となるほどの僧でした。この二人が、法然や親鸞が流罪となる「建永の法難」の直接原因となるのです。勿論、それは法難の一要因に過ぎないと思いますが・・・・。安楽と住蓮は鹿ヶ谷の草庵で「六時礼賛」念仏会を行っていました。後鳥羽上皇が熊野詣でに出かけ都を離れていた間に、上皇の女房二人がこの「六時礼賛」に参加します。この二人の願い出を聞き入れ、安楽が鈴虫姫を住蓮は松虫姫を剃髪、出家得度させたのです。尚、松虫姫、鈴虫姫という名は後代、室町時代に命名されたようです。熊野詣でから帰洛した後鳥羽上皇は、このことを知り、許しも無く二人の侍女がとった出家という行動に激怒したのです。その結果、建永2年(1207)、安楽は六条河原で、住蓮は近江国馬淵村で処刑されることに。さらにそれが法然の土佐国への配流、親鸞を越後国への配流という処断に連なって行ったのです。息子住蓮が捕らえられ、処刑されることを知った母親は、住蓮に一目会いたいと中山道を馬淵村(現近江八幡市馬淵)の方に急がれたのだとか。ところがこの守山まで来とき、既に処刑されていることを聞き、悲嘆して焔魔堂の池(尼ケ池)に入水自殺したといいます。その住蓮の母公を弔うお墓をこの地に作り、供養されてきたのです。「住蓮を打った刀は市村家が所蔵されていたが、延宝5年(1677)大宝神社に奉納された」(資料2)のだとか。脇道に逸れますが、それでは、住蓮・安楽と松虫・鈴虫の墓はどこに?京都市左京区鹿ヶ谷に住蓮山安楽寺というお寺があります。現安楽寺の所在地から少し離れますが、かつては法然上人の如法念仏の道場があり、そこに弟子の住蓮房・安楽房が住んでいたのです。そしてその道場で松虫・鈴虫が落飾します。上記の経緯です。この道場は、その後荒廃してしまいます。江戸中期の延宝9年(1681)に住蓮・安楽の菩提を弔うために、伽藍を建てられたのが安楽寺の起こりと伝えられています。江戸時代の『都名所図会』は、「年経て念仏弘法の旧跡なれば寺となし、住蓮・安楽の二師を開山とす」と記しています。(資料2)一方、法然上人が帰洛後、二人の弟子の菩提を弔うために再び草庵を建て「住蓮山安楽寺」と名づけたとも、室町時代末、天文年間(1532-1555)に再興されたともいわれています。(資料3)松虫姫と鈴虫姫は、上皇を激怒させたのですが、尼になった後は瀬戸内海の生口島の光明坊で念仏三昧の余生を送ったといいます。(資料3,4)後世になって作られた供養塔があるのです。 境内右手に、供養塔への石標があります。住蓮・安楽の辞世の歌でしょうか・・・・歌碑が境内にあります。 極楽に生まれむことのうれしさに 身をば佛にまかすなりけり 住蓮 今はただ云う言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏のみ名のほかには 安楽 松虫・鈴虫の供養塔。向かって右側が松虫姫、左側が鈴虫姫の石塔です。住蓮・安楽の供養塔。向かって右側が住蓮上人、左側が安楽上人の五輪塔です。(2012年6月に探訪)元の探訪に戻ります。「住蓮房母公の墓」の石標のところから数十メートル南に進むと、「十王寺(閻魔堂)」があります。焔魔堂町という地名の由来になったお寺(尼寺)です。正面の左の石柱には「五道山十王寺」、右の石柱は「閻魔法王小野篁御作」と読めます。 門前から眺めたお堂十王堂は背後の建物でしょうか。それは室町時代の建物だそうです。ボランティアガイドさんの説明を聞き漏らした・・・・のかも。小野篁の開基したお寺と伝わっていて、具生神(ぐしょうしん)像、十王像、閻魔大王像などが祀られているそうです。残念ながら拝観はできませんでした。五道山の五道とは、人間の善悪の結果、悪業の結果として輪廻する5つの世界(五悪趣、五道)を意味しているそうです。地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の各世界です。六道輪廻という場合には、五道にさらに阿修羅が加わります。十王とは三途の川の向こうにおいて、冥途で亡者の罪を裁くと伝えられる10人の王です。その中で一番よく知られているのが閻魔王、閻魔大王です。(資料5)弘安2年(1279)に一遍上人がこの十王寺の前で念仏を称えて布教したことが、「一遍上人絵伝」に載っているとか。(資料6,7)十王堂内の「南无阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」の額は一遍上人(いっぺんしょうにん)の真筆と伝わるようです。(資料8) 十王寺の前、旧中山道の反対側は、「諏訪神社」の境内です。 この境内の北西隅にこの石柱が建てられています。「これより南は淀領」と淀藩領の境界を明示する石柱です。江戸時代、近江国は数多くの藩領に分割されていたようです。藩の飛び地としての領地が錯綜していた地域があるようです。この石柱もボランティアガイドさんのお話では、数百メートル離れた場所に建てられていたものがここに移されたということのようです。まあ、この辺りに淀藩領の飛び地が継続して存在したのは事実なのでしょう。藩地変更があれば、当然こんな石柱は消滅させられているはずですから。 2014.9.28 追記 この境界を示す石柱を「傍示石」と称するようです。 「これはもともと焔魔堂村と今宿村の境界に建っていたもので、焔魔堂村が 山城淀領の領地であったことを示したもの」だったそうです。 (『近江歴史回廊 近江中山道』 淡海文化を育てる会編 SunRise)この後、折り返して旧中山道を北上します。 これが「今宿一里塚」。現守山市今宿町に所在します。 五間四方の塚です。滋賀県下に唯一現存する一里塚として貴重な史跡です。江戸日本橋を起点として、街道の一里毎に設けられていました。榎等が植えられていて、この一里塚が馬や籠などの駄賃の目安に利用されたそうです。この今宿一里塚は江戸から約128里、つまり128番目の塚です。「現在の榎は二代目の脇芽が成長したもの」(資料3)だそうです。この探訪会で後ほど訪れた「中山道街道文化交流館」で購入した小冊子の表紙にもこの様にこの一里塚が使われています。この小冊子、守山宿の歴史と史跡の概要を知るにはとても便利です。この探訪記を整理する上でも、大いに参照させていただいています。この一里塚の前には、かつては守山町役場が所在した場所だとか。一里塚からさらに北に歩いていくと、右手に本像寺があります。日蓮宗のお寺。今回は訪れてはいません。この本像寺の前にある立派な町家(山本家)を拝見する機会を得ました。 主屋は街道に面した切妻造二階建てで平入の建物です。 玄関を入った建物内部の中央部分は昔の姿のままで維持保存されています。豪壮な感じでちょっと圧倒されました。これが町屋?って感じでした。土間部分を通り抜けて、お庭も拝見。 池があり、石橋を渡って池の向こう側を回遊できるようになっています。 そして、庭の植栽の木々の間に、こんな藩領境界の石柱が建てられています。多分何処からかこちらに移設され、庭の景色に加えられたのでしょうね。「濱松領」「宮津領」という藩名が刻されています。藩替えなどで不用になった石柱でしょうか・・・・。江戸時代には守山宿で然るべき立場、役割を担われていたのでしょう。そんな印象を抱いた町家拝見でした。この後、しばらく旧中山道沿いの史跡を訪れます。つづく参照資料1) 17 楓三道 滋賀県・守山市 pdfファイル 2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p312 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p903) 安楽寺(左京区) :「京都風光」4) 光明坊[真言宗] :「尾道観光協会 おのなび旅行社」5) その10:十王寺 :「閻魔堂町自治会」6) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著 7) 焔魔堂城 :「近江巡城録」 8) 焔魔堂とは :「焔魔堂町自治会」ホームページ【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺建永の法難 ← 承元の法難 :ウィキペディア住蓮 :ウィキペディア安楽 ← 遵西(じゅんさい) :ウィキペディア六時礼賛 :ウィキペディア建永の法難は美声が原因・安楽寺 :「京都観光旅行のあれこれ」十王 :ウィキペディア閻魔 :ウィキペディア十王経物語絵図(冥途旅行絵物語)仏説地蔵菩薩発心因縁十王経一遍上人絵伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」安楽寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.17
コメント(0)

この画像は、2014年5月下旬に参加した探訪会のタイトルです。滋賀県教育委員会文化財保護課による「近江水の宝」という企画の中の一つの探訪です。地元のボランティアガイドさんたちのご案内で、守山市の中心市街地にある数多くの史跡を巡りました。そのまとめをここに再録し、ご紹介します。「醴泉の里をゆく」というタイトルの「醴」という見慣れない漢字は、音読みだと「レイ」、訓読みだと「あまざけ」だそうです。この「醴泉」はなんと『日本書紀』巻三十、持統天皇の11月14日の条に次のように記載されているのです。(資料1) 「十四日、沙門法員・善往・真義らを遣わして、試みに近江国益須郡(やすのこおり:野洲郡)の醴泉(こさけのいずみ:醴酒のような美泉。甘美の味わいあり)の水をお飲ませになった」と。益須郡の都賀山で醴泉が発見されたとしています。この場所がどこなのか、とうことになります。「輿地志略」は醴泉を守山村大光寺の南に位置する甘香池に、都賀山を三宅村東の小山にあてているそうです。しかし、吉身町の南東に岡の地名があること、その周辺に古墳の多いことから都賀山を岡にあて「塚山」の意味ととり、醴泉を野洲川伏流水の噴出地に比定する説があるようです。(資料2)中山道67宿の67番目だった「守山宿」は、現在のJR守山駅の北西側(琵琶湖側)で、現在の守山町・吉身町・今宿町の地域に所在しました。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。そして、この守山宿の地域が現在の守山市中心市街地となります。 今回の探訪会で参考資料として入手したこの「歴史散策マップ」の地域でもあります。 最初に探訪した場所がわかりやすいように部分拡大して引用させていただきます。最初に訪ねたのは守山駅からほど近い「最明寺」です。「鎌倉山」という山号が冠されていますが、開基は鎌倉幕府執権の北条時頼と伝えられていて、時宗のお寺です。 本堂に入っていくとこんな感じです。 内陣正面の欄間の透かし彫りが煌びやかです。上部に天女図が描かれ、欄間には十六羅漢が彫り込まれているようです。 最明寺で注目すべきものがこの石造五重塔でした。現在は本堂南側にあります。傍にこの駒札が建てられています。寺伝には「最明寺入道時頼が建長2年(1250)に寺とともに建立した」と記されているそうです。重要文化財指定されています。 初重の軸部に四方仏が刻まれた鎌倉時代の作です。 境内の鐘楼の蟇股や木鼻の彫刻も見応えがあります。この最明寺から西に約100mほどいくと、勝部神社です。勝部神社の境内には この石鳥居を通り東側の側面から入りました。 勝部神社社殿 本殿は三間社流造の形式で、屋根は檜皮葺、前流れが長くなっています。祭神は、物部布津主神(もののべふつぬしのかみ)、宇麻志摩遅命(うましまじのみこと)、天火明命(あめほあかりのみこと)の三神です。 現存する社殿は応永6年(1399)に造営され、近江国守護佐々木高頼が明応6年(1497)に補修・再興したと伝わるものであり、その後幾度も補修・修理が繰り返され現在に至るようです。文禄3年(1594)には、豊臣秀次が社殿を修理しているようです。 神社由緒や本殿説明板に記載されていますが、「この地は、1941(昭和16)年までは栗太郡物部村に属し、勝部神社も物部神社と称された。創建は649(大化5)年、物部宿禰広国によると伝えられ、物部氏の祖神を祭祀した総社であったと考えられる。」のだとか。(資料3)また、慶長2年(1597)の奥書を持つ『勝部大明神紀』には、この地が栗太郡物部荘玉岡郷勝部里と記されているそうです。勝部は『和名抄』の「物部(毛乃倍)郷」に属した地で、物部氏の領したところであり、ここがその中心的存在だったようです。(資料4)さらに、祭神が武神、その本地が地蔵菩薩であり、勝軍地蔵として武将の信仰を強く集めたといいます。近江国守護佐々木氏は軍陣の幡竿に当神社の竹を用いたという伝承があるようです。近江一向一揆の折には、元亀3年(1572)、織田信長の家臣佐久間信盛が金森・三宅の本願寺勢力を攻めたときに、当神社が陣所となっており、織田信長は周辺130ヵ村余りに、社前で本願寺に味方せず、背かない旨を記した起請文を作成させ、当神社に奉納したそうです。(資料3,4)この画像にあるとおり、無形民俗文化財「勝部の火まつり」が有名なようです。「火まつりは、大蛇になぞらえた直径約3mの大松明を16本並べ、いっせいに点火するもので、土御門天皇が重病のとき、大蛇を退治して焼き払ったところ、病気が治ったと伝えられる」。(資料3) 社殿に向かって左側には、祓所、小祠が並び、そのさらに左側に、「勝部の火まつり」の大松明が展示されています。現在は松明組に属する人々が、正月3日から松明づくりの準備にかかり、8日に16基の松明ができあがるのだとか。手許の本には16基と記されていますが、境内の説明板には12基を境内に担ぎ入れると記されています。この差は数が減らされた・・・・ということでしょうか? (資料3,4) 本殿の前。境内の中央辺りから、境内に入ってきた最初の鳥居の方角を眺めた景色 右の忠魂碑の傍にあるのは顕彰殿で、郷土出身の戦没者慰霊のために戦前に建てられたものだとか。(資料5) 手水舎この大鳥居が勝部神社の表になります。境内敷地の南西角に位置します。この大鳥居の傍を南北方向に通る道が「楓三道」と称される道路です。歩道上にこんな表示が出ています。わかりやすくて便利です。この道沿いにしばらく南下し、南守山街道で右折して西に向かいます。つづく参照資料1) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 著 講談社学術文庫 p3392) 『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社3) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社4) 『日本の神々 神社と聖地 5 山城・近江』 谷川健一編 白水社 p413-4155) 勝部神社 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺時宗 :ウィキペディア北条時頼 :ウィキペディア最明寺 :ウィキペディア勝部の火祭 :「滋賀県観光情報」勝部神社の火祭り、住吉神社の火祭り、物部氏 :「~小麦粉から惑星まで~」 これら2つの記事では、やはり大松明12基と紹介されています。勝部の火祭り 2012-01-14 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.16
コメント(0)

[探訪時期:2012年11月]解散後に個人オプションとして、10分少々の距離にある「常念寺を」訪ねました。末尾の探訪行程図に赤丸を付けたあたりにお寺があります。お寺の山門が開いていたので、本堂までの境内を勝手に拝見した次第です。山門を見てびっくり。まるで平城城郭の外周を思わせるような石垣です。帰宅後に、ブックレットを開くと、ちゃんと「常念寺」の項が簡略ですが記載されていました。再録にあたり、少し調べてみた内容を加筆し、ご紹介します。「天台宗から浄土宗に転宗し、永正3年(1506)に永原城主永原重秀が堂舎の造営を援助して以降、永原氏の菩提寺となりました。」と記されています。(資料1)これを読んでなんとなく納得です。応永3年(1396)に常誉真厳上人が寺を再興し、浄土宗に改宗したそうです。戦国時代には、天正8年(1580)に安土城の城下に寺地を移し、信長の没後、天正13年(1582)に現在地で再建されたとか。江戸時代には幕府の庇護を受け、寺領5石が安堵されたと言います。(資料2,3)山門に向かって左手の石垣傍の一本の木が。見事な紅葉で出迎えてくれました。寺を取り囲む石垣は永原城の遺構だといいます。(資料4)山門をくぐり抜けた右手にも、 石灯籠の傍の紅葉が見事でした。境内では数少ない紅葉の樹木故に、緑葉樹とのコントラストが良かったのかもしれません。堂々とした本堂がありました。入母屋造で三間の向拝、本瓦葺きの建物です。見渡した範囲には説明板を見かけませんでしたので、御堂の前面部分を拝見したにとどまります。本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作で、1967年4月5日に国指定の重要文化財となっています。(資料5)ここには、永原氏の菩提寺として、歴代の墓などがあるようですが、それは後ほどブックレットから知ったこと。現在、当寺は永原氏関係の史料も所蔵されているようです。屋根は新しく葺き替えられたものですが、私は外観として、まずはこの屋根瓦に興味を持ちました。 最初、大棟の鬼瓦が目に入りました。そしてこの鬼瓦。それぞれ表情がいいですね。鬼瓦の上端に突き出ている鳥衾の紋章はお寺の紋なのでしょうか。16弁の菊の中心に5弁の一重桜がデザインされているようです。 特に興味を惹かれたのがこの鬼瓦です。3つの方向を睨むように、三面が一体になっている!こういう形式のものを見た記憶がありません。なかなかおもしろいです。 これも顔面の上半分だけで、ちょっとユーモラスです。この軒瓦の紋章は、ネット検索で見つけた大徳寺の丸軒瓦の紋章と同じです。補遺に載せた「国宝建造物にいる鬼瓦」で見られる「東寺五十塔の鬼瓦」の軒瓦とも同種です。3714本堂の斗栱(ときょう)部分を眺めいて、ちょっと興味深く思ったのは、梁と交差する木組みの上の部分に紋章が彫られていたことです。今までいろいろ木組みを見てきていますが、こういう箇所に紋章があることに気づいたことがありません。桐紋系統のデザインに思えます。こういうのは初めてです。なぜこんなところにあるのか、理由はわかりませんが・・・・他所で木組みを眺めるときに、同様のものがあるか、今後注意してみようと思いました。境内には「石造層塔」があります。鎌倉時代の作。正応元年の銘があるといいます。高さ約3m。1948年4月27日に国の指定を受けた重要美術品だそうです。(資料2,3,4)ネット検索でこの層塔について詳しく考察されている記事を見つけました。有益です。こちらからご覧ください。(滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか :「石造美術紀行」)また、永原氏の菩提寺という関係でしょう。寺宝となっている紙本着色の絵画3点、「永原筑前守重頼像、永原筑前守重頼側室像、永原越前守重虎像」が、1975年3月3日に野洲市の指定文化財になっています。(資料5)3721山門に戻って、ゆっくりと山門の木組みをみていてビックリしました。木鼻の上に巨大な蜂の巣が出来ていたことです。テレビ番組の映像でみたスズメバチの系統の巣のように感じました。素人目ですので、間違っているかもしれません。これまたおもしろいといえばおもしろかったもの。(2017年の現在では多分取り除かれていることでしょうね。たぶん)木鼻は象と獅子でしょうか。しっかり彫られています。ここから野洲駅まで歩いて戻ることに決めました。 歩き初めてしばらくしてから眺めた三上山最初、県道2号沿いに歩いていたのですが、川と交差する所から川の堤防上に散策道が作られているので、そちらを歩くことにしました。あまり意識せず、歩いていたのですが、見た景色がでてきました。中ノ池川と祇王井川の分岐点です。桜並木の堤防散策道から三上山が眺められました。その後はJRの線路が見えてきて、野洲駅に迷うことなく無事帰着。これで、今回の探訪、無事終了。天気に恵まれてよかった一日でした。これで、この探訪記録を終わります。参照資料1) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 滋賀県教育委員会2) 常念寺 :「湖国寺探訪」3) 野洲市:常念寺 :「滋賀県:歴史・観光・見所」4) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p159-1615) 野洲市の指定文化財 :「野洲市」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺 ネット検索で、有益な情報を発掘できました。以下、紋章と瓦関連でさらに見つけたものです。求めよ、さらば・・・です。こつこつと探してみました。家紋 :ウィキペディア家紋図鑑 :「家紋World」鬼瓦 「三州瓦豆事典」:「weblio辞書」鬼瓦のルーツ :「富岡鬼瓦工房」国宝建造物の鬼瓦 鬼瓦 第38号 :「日本鬼面瓦保存会」 アーカイブで、バックナンバーの閲覧できるページがあります。鬼瓦写真館 :「富岡鬼瓦工房」鬼瓦の種類 :「日本瓦屋根研究会『和の心』~京都瓦工事ロマン~」鬼瓦 社寺建築型 :「淡路瓦工業組合」 「いぶし瓦の種類」のページもあります。各種鬼瓦 :「株式会社マサヨシ」 日本家屋の屋根の形状に合わせた鬼瓦のシミュレーションができます。 「鬼瓦ってなんだろう?」というページもあります。菊間瓦の種類 :「菊間町窯業共同組合」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -1 円光寺・祇王井川・生和神社・亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -2 季吟の句碑・妓王屋敷跡碑・妓王寺 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -3 土安神社・永原御殿跡・菅原神社 へ
2017.05.16
コメント(0)

妓王寺を後にしてまず訪れたのが「土安神社」。小さな神社です。 [探訪時期:2012年11月]土安にふりがなが付いています。この名称を「てやす」と読める人はたぶん少ないでしょうね。駒札には祭神が「祇王井川開拓の神童子命」と記されています。 ,社の扉の彫刻がなかなか素晴らしいものでした。ブックレットは、一つの伝説に触れています。ご紹介しましょう。「伝説によると、祇王井川の流れを決められずにいたところ、一人の童子が現れました。そして『私が引く縄にしたがって川溝をつけよ』と言うとおりに縄印に従って川を掘ると、一昼夜のうちに祇王井川が出来上がったといいます。西祇王井川に合流する童子川の名前はこの伝説に由来し、土安神社には童子がまつられています。」(資料2)また、土安神社の傍にある野洲市観光物産協会の設置された説明板には、「工事の途中で蹉跌した時、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したもので、上流を妓王井川下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀ったのでありました。」と記載されています。ブックレットの地図に、「西祇王井(童子川)」と記されている意味が理解できました。また、西妓王井川は中ノ池川でもあるのです。「妓王と清盛さんのおかげ祭」という野洲市観光物産協会のパンフレットに掲載の「平家妓王の里めぐりコース」の地図の中に、「中の池川(西妓王井川)という形で載っていました。上流側ということでしょう。もう一神、「開拓工事奉行の瀬尾兼康命」というのが記載されています。「瀬尾兼康」という人名でネット検索すると、ウィキペディアに「妹尾兼康」、また岡山県総合文化センターニュース掲載の「妹尾兼康」をみつけました。ひょっとすると、この人物が土安神社で神格化されたのかもしれません。記事に記載の事績からも関係が深そうです。これはあくまで、想像の域をでませんが・・・・ この後、「史跡永原御殿跡」に立ち寄りました。朝鮮人街道から西に約700m入ったところです。 2009年10月、『近江城郭探訪』(滋賀県教育委員会編)を片手に、一度来ていますが、そのときには説明板がありませんでした。少しずつ観光客には便利になってきているようです。現在は私有地だとかで、中には入れません。こんもりとした竹藪になった御殿跡を外観するだけでした。しかし、説明板に掲載の復元模型図で御殿イメージがふくらみました。『近江城郭探訪』によれば、永原御殿は、慶長6年(1601)-寛永11年(1634)の期間に三代の将軍が計10回(家康7、秀忠2、家光1)利用したそうです。家光が利用するのに備えて大規模な整備が行われてたようで、その広さは1万459坪に及んだとか。「御茶屋御殿指図」という記録が残っているようです。ブックレットでは、家光が寛永10年に上洛するにあたって、約6倍の規模に拡大整備したのだそうです。(資料1,3)前回載せた浄専寺の門以外に、草津市の芦浦観音寺の書院(重文)が御殿廃止後、ここから移されたものと伝わっています。朝鮮通信使が通行した道ということから、朝鮮人街道という名称がついています。しかし、この道は慶長5年(1600)に関ヶ原合戦で勝利の後、京都へ向かうのに使ったことから、上洛道として尊重されるようになったのです。そのために、この街道そばで、入京前夜の宿所として、永原に御茶屋屋敷設置したとのことです。堀、土居、石垣で囲まれた堂々たる城郭だったのですね。このことをブックレットで学びました。(資料1)御殿の石垣の一部が残っています。探訪の最後に、菅原神社を訪れました。源頼朝の勧請によるとの伝えがあるそうです。祭神は勿論、菅原道真です。江部庄3村の産土神ともされているとか。この檜皮葺き四脚門はこの地の永原城永原氏が建てたものと推定されています。 菅原道真を祀る天満宮に牛の像は付きものですが、ここにも勿論社殿前に。お参りする人が願をかけ、触るのでしょう。牛の鼻の上辺りがテカテカ光っています。 社殿応永26年(1419)、明応7年(1498)の社殿修築の棟札が残っていて、それには永原城主永原氏一族の名が記されているとか。社殿に向かって、右手側にこんな干支台が。信楽焼の十二支像。 おもしろい!北の山本眞二朗氏が年毎に奉納されたのだとか。そこで、神社が「積年の赤心を称え顕彰」するために設けたそうです。(説明板より)地元ガイドさんが、たまたま境内に出ておられた神主さんにリクエスト。お陰で神社の由来、火渡り神事などのことを神主さんから直接説明を拝聴しました。 この神社のご神木は桧です。ご神木が桧である神社はまことに珍しものだとか。火渡り神事は素足で山積みの護摩木を燃やした後のその燃えがらの上を歩き渡るのだとか。「神道での火渡りは全国唯一です。」 知る人ぞ知る・・・・だそうです。境内で写真付きで説明されたものが掲示されていました。 境内の歌碑これは、配流され幽閉の身だった菅原道真が詠んだ歌だそうです。 歌碑の傍に、歌意説明の石板が建てられています。ここの境内に、北村季吟の詠んだ歌が歌碑として建立されていました。この和歌は、季吟が江戸から帰省参詣の時に詠んだものとか。 神垣やここも北野の名にし負わば栄うる梅の影も変らじ境内の説明板の一つに、「神社には永原千句が残されています。宗祇も来訪しています」と記されています。ブックレットによると、この菅原神社では「永原千句」という連歌興行が戦国時代からさかんに行われていたのだとか。その興行主は永原氏だったのですが、永禄11年(1568)以降は、永原氏の家臣だった北村氏へと継承されたのです。つまり、北村季吟に繋がっていくことになります。神社には北村季吟の書簡も現存するとか。ここ菅原神社の瓦に描かれた梅鉢の紋はこれ。牛の像の腹にも紋が付けてありますが。そこで、ふと思って神社の紋をちょっと調べてみると、同じく天神樣を祀る神社がそれぞれ違った意匠の梅花紋を使用されていました。太宰府天満宮、湯島天神、北野天満宮、それぞれ少しずつ違うのですね。初めて知った次第です。おもしろい! 神社もそれぞれ由緒来歴あり、自己主張の一環でしょうか。(資料2)今回の探訪としては、家棟団地バス停まで歩き、そこが終着点で解散です。大半の参加者は、ここからバスで野洲駅に戻られました。たまたま、地元ガイドさんから、そのバス停から近い「常念寺」の名前が出ました。そこで、オプションとして個人的に訪ねてみることにしました。つづく参照資料1) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 滋賀県教育委員会2) 当日に資料として配付されたリーフレット3) 『近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く』 近江歴史探訪マップ7 滋賀県教育委員会編 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺祇王・祇女から思わぬところの横道に入りますが・・・・・ 犬も歩けば棒にあたる、の伝で、波紋が広がってしまいました。こんなにあるよ!梅の紋章(家紋) 「なんでも梅学」:「梅の月向農園」 『歴史探訪に便利な日本史小典3』(日正社)を見ていて、武家の家紋で前田家が「梅鉢」 なので、なぜだろう? と思ったのですが、このサイトの説明でなるほど、でした。 だけど、梅一つでこんなに家紋のデザインがあるなんて、スゴイです。苗字が菅原で家紋が梅鉢だったら菅原道真の子孫の可能性はどれくらいありますか?... おもしろいQ&Aです。参考になりました。宗祇 :ウィキペディア連歌 :「日本文化いろは事典」永原千句 :「国際日本文化研究センター」野洲 菅原神社 :JAPAN-GEOGRAHIC.TV 火渡り神事を克明にレポートされています。撮影/文 中山辰夫氏 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -1 円光寺・祇王井川・生和神社・亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -2 季吟の句碑・妓王屋敷跡碑・妓王寺 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -4 常念寺 へ
2017.05.15
コメント(0)

祇王井川から別れ、県道2号に向かう途中、青空の下に近江の北から北西方向の山が見えます。 [探訪時期:2012年11月] 「江部」の標識 県道2号にて県道を横断すると、いよいよ目的地・祇王祇女の里に近づきます。 南東の方向でしょうか。遠くに三上山が見えます。現在、浄専寺の門になっているこの門は、永原御殿から移築されたものと伝えられています。永原御殿の跡は後程訪ねることになりますがブックレットによれば、「家光以降は使用されず、貞享2年(1685)の廃止に伴って、建物は入札によって売り払われてしまい」ます。(資料2)浄専寺のあるところは野洲市北です。近江国野洲郡北村と称された土地。江戸幕府の歌学方についた北村季吟の生地です。途中の建物の軒屋根の上に、小さな鍾馗さんの像が据えてあります。魔除けのお守りの意図でしょうね。京都の町屋の軒上にてよく見かけますので、目にとまりました。浄専寺から少し先の北自治会館の通りを挟んだ反対側にこの季吟の句碑が建立されています。その背後は墓地の一角になっていました。句碑には、 祇王井にとけてや民もやすごおりと刻まれています。句碑傍の説明板には、この句について、「妓王のおかげで掘られたさらさらと流れる祇王井川を枯水に悩んだ野洲の民が田用水として使い心を安らかに暮らすことができるであろう」という解釈が記されています。句碑の傍に、説明板があります。ブックレットとこの説明板の記載を参考にまとめてみます。北村季吟は寛永元年(1624)12月11日、この地(現地名は野洲市北)に誕生。漢方医だった北村宗龍の孫です。医学を修める一方、松永貞徳らに俳諧を学び、飛鳥井雅章らに和歌、歌学を学んだといいます。国文学者であり、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわしました。元禄2年(1689)に幕府歌学方につくことになり、幕府によばれ66歳にして江戸に下ります。我が子湖春とともに江戸に行ったとか。松尾芭蕉も季吟の弟子だったのです。季吟は82歳で生涯を閉じます。句碑から少し歩いたあたりに、このこんもりとした森があります。私有地で居住者もおられるようですが、土塁の跡も残っている土豪の邸地だったとか。ここを半周した先に、木立に囲まれた「伝妓王屋敷跡」が見えました。 この地には、「妓王屋敷跡碑」が建てられていました。近江国野洲郡江部庄です。この後、妓王寺を訪れました。この寺の所在地の現在の地名は野洲市中北です。 村人が祇王の威徳を偲んで建立したお寺と言われています。一時期は庵主が居られたようですが、今は住職のおられない寺で、地元の人々が守り続けておられるようです。 境内に妓王・妓女の塔と呼ばれる供養塔 堂内の本尊阿弥陀如来座像の両脇に厨子があり、その中に祇王と祇女、刀自と仏御前、が安置されています。左厨子の扉上部、左扉に祇女、右扉に祇王、また右厨子左扉に刀自、右扉に佛、と名前が記されています。「毎年8月25日には妓王の命日として、祇王井川に恩恵を受けている旧の10か村(現在の12の自治会で構成する大井十ケ村会)の自治会長や関係者が集まって、妓王らに感謝する法要がおこなわれます。」(資料1)堂内でのガイド・妓王さんの説明では、この日に祇王他の木像が拝見できるとのこと。祇王・祇女のことや妓王寺のことを、訪問者をリラックスさせながら、わかりやすく説明してもらえました。テレビドラマに取りあげられてから、観光訪問が増えたためか、妓王寺紹介のプレゼン動画も短いものですが準備されていました。横道にそれますが、このガイド・妓王さんの衣装は、当時の白拍子の姿をイメージしたものだという説明でした。『平家物語』を見ますと、「そもそも我が朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり。昔は水干に立て烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中頃より、鳥烏帽子・刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とはなづけけれ」という文章が「妓王の事」に出てきます。この本の校注には、白拍子について、「中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女」という注が載っています。(資料3)堂内欄間のところに、木像の写真が飾ってあります。 左から、祇女、祇王、刀自、仏御前のそれぞれの木像です。木像の前に置かれた筒状の袋地の前に名前が記されているので識別ができました。木像写真の左手の欄間には、妓王屋敷跡碑の碑文文章が全文掲載されています。妓王寺の門の屋根を見上げると、鬼板に部分に「丸に橘」と思われる紋章が付いていました。武家なら井伊家の紋章なのですが・・・・、手許の入手資料類には何も情報がありません。当日、門の傍で、地元のご婦人方が地産品を紹介・販売されていました。これで、妓王寺を拝見したいという第一の目的は達成しました。『平家物語』には、妓王が清盛の寵愛を受け始めた歳を明記はしていません。しかし、「かくて三年と云ふに、又白拍子の上手一人出で来たり。加賀国の者なり。名をば仏とぞ申しける。年十六とぞ聞こえし。」と記しています。その仏が、清盛の別邸(西八条殿)に呼ばれもしないのに単独で推参したのですから、ある意味度胸のある女性だったのでしょうね。清盛が呼んでもいないのに勝手にくるとはと怒ったのに対し、妓王が「遊び者の推参は常の習ひでこそ候へ。・・・・」と取りなしてやるのです。しかし、それがいずれ仇になります。清盛の寵愛が妓王から仏御前に移っていくのですから。三年間住み馴れた所を去るに際し、妓王は障子に歌一首を書き付けたといいます。 もえいづるも枯るるも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべきそして、「妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念仏してぞ居たりける」と出家してしまいます。それは、清盛の許を去った翌年、清盛から「仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、仏慰めよ」という呼び出しを受ける立場になったからです。「身を投げん」とまで思った上で、母の言葉を聞き届けた上での選択でした。妓女19歳、母とぢ45歳で一緒に剃髪することになります。(資料3)この文脈から見ると、妓王は18~20歳の3年間、清盛の寵愛を受け、21歳で出家したのです。仏御前も17歳で後を追うようにして出家剃髪します。『平家物語』には、「今年はわづかに十七にこそなりし人の、それ程まで、穢土を厭ひ浄土を願はんと、・・・」と仏御前のことを記しています。一方、『平家物語』は妓王の没年には触れていません。いただいたリーフレットには、「建久元年(1190)妓王は38歳で往生を遂げました」と、記しています。(資料1,3)「妓王寺略縁起」にそういう記載があるのでしょうか。原典を確かめられる方法があればいいのですが・・・・京都・嵯峨野の妓王寺の墓地入口にある碑には 「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、 往生院現住、法専建之」 とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八年十五日寂」と刻まれ ているのは祗王のことと思われます。という記載が祇王寺のホームページにあります。推定文になっていますので、多分それ以外に確たる資料がないということが想像されます。(資料4)もしこの推定通りならば、祇王の没年がまた調査研究課題になりますね。歴史のおもしろいところでしょうか。祇王寺のHPの記載によると、「安永の祇王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって保管された。」とあり、明治28年に当時の京都府知事の建物の寄付で現在の祇王寺が復興されたようです。それを考えると、江部庄の妓王寺が廃寺になることなく連綿と維持され続けてきたということは、地元の人々の思いがそれだけ深いということでしょうか。 (資料1)つづく参照資料1) 当日に資料として配付されたリーフレット2) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 滋賀県教育委員会3) 『平家物語』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア4) 祇王寺について :「祇王寺」(公式ホームページ)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺1)『平家物語』の「妓王の事」は次の末文で終わります。「されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・佛・とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。」(p38)2)北村季吟 :「コトバンク」 北村季吟 :本居宣長記念館 北村季吟の句 :「俳句案内」 新玉津嶋神社(京都市下京区) :「京都風光」 3)祇王井川探索マップ目次 :「写真ステージ 近江富士」 祇王井川について、必見のサイトの再掲です。 4)鍾馗 :ウィキペディア 鍾馗樣 :「我羅里ibudhi」 鍾馗の物語 :「SUZUKI collaboration」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -1 円光寺・祇王井川・生和神社・亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -3 土安神社・永原御殿跡・菅原神社 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -4 常念寺 へ
2017.05.15
コメント(0)

2012年11月25日(日)に、滋賀県教育委員会が主催し、地元のボランティア・ガイドさんが協力される標題の探訪に参加しました。当日の探訪記録のレビューと整理を兼ねてまとめていたものを、ここに再録にてご紹介します。冒頭の画像は、その折、JR琵琶湖線・野洲駅北口に設置されていた看板です。今回は祇王祇女とその土地関連の史跡巡りという形でした。史跡巡りの流れから4回にまとめてみます。(1)祇王井川に沿って、(2)妓王寺と祇王祇女の里、(3)永原近辺の史跡、(3)番外編です。まずは、「妓王井川に沿って」歩いた周辺史跡を再録として、ご紹介します。参加した班は、この探訪参加者募集案内に掲載の地図(一部切り出し)では、野洲駅集合の後、番号の大きいものからほぼルートに沿って巡り、家棟団地バス停のところで解散となる予定でした。当日のガイドさんの説明と当日の配付資料その他を参照しながらまとめます。(資料1,2)北口から歩き始めます。県道2号に合流し、県道155号との交差点西側に円光寺があります。まずは、ここを訪れました。 天台真盛宗のお寺です。この本堂がすこし珍しい様式のものです。本堂は康元2年(1257)の建立で、もとは長福寺(天台山門派)の本堂だったのが円光寺に統合されたのです。正式には「歓喜山長福院円光寺」という名称で、本堂の全面には「歓喜山」の扁額が懸けてありました。昭和の解体修理の時、この画像のように切妻造に復元されたのです。興味深いのは前屋根が神社のように長く延びでた流造になっていることです。以前一度訪れたことがありますが、そのときゆっくり眺めていず、今回あらためて気づきました。内部を拝見できなかったのが残念。面白いのは鐘楼が小高いところにあること。なんと、これは古墳の上に建てられているのだとか。ちょっと驚きです。本堂より鐘楼が高い位置なんです。 山門と本堂の中間・南西側にある重文・石造九重塔康元の銘文があり鎌倉時代のものだとか。もとは十三重だったといいます。この後、国道155号を横切り、朝鮮人街道に沿ってしばらく歩きました。江戸時代、朝鮮通信使が江戸に行く途中で通過した道です。この街道沿いに祇王井川が流れています。ここで、お気づきでしょうか。「妓王寺」と書き、「祇王井川」と書いています。この日探訪する目的地の一つが、滋賀県にある「妓王寺」です。京都の嵯峨野にあり、昔から多くの観光客が訪れるのは「祇王寺」です。しかし、妓王と祇王、なぜ?と疑問を抱きません?2012年前半に、あるきっかけから気になり、一度ネット情報や大学図書館の文献などをリサーチして、どちらがどう使われているかを調べてみました。両方が併用されているのが実態でした。明確な決まりはなさそうです。つまり、かつては、音に漢字を当てはめるにあたり、違う漢字を当てることにこだわらなかったようです。一応、使われている通りに、そのまま使い分けてまとめていきます。(リサーチの結果は、<関心事項の検索調査について>を御覧下さい。)妓王の父(橘次郞時長)が保元の乱(1156年)で亡くなり、妓王16歳の頃に、母と妹・妓女と共に京の都に上洛し、妓王は白拍子になります。そして、平清盛の目にとまり、清盛に寵愛されるのです。手許の本には、「五 妓王の事」として、「京中に聞こえたる白拍子の上手、妓王・妓女とて、おととひあり。とぢと云ふ白拍子が娘なり。しかるに姉の祇王を、入道相国寵愛し給ひし上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜めならず」と記しています。(資料3)『平家物語』には記載がありませんが、妓王寺には「妓王寺略縁起」という文書が伝わっているようです。現物は見ていませんが、野洲の銅鐸博物館である期間出展されるというチラシを見たことがあります。見に行けなかったのですが。妓王が清盛から望みはないか、と尋ねられたとき、生まれ故郷・江部荘では人々が水不足で苦しんでいるので、水路を引いてほしいと希望を述べたそうです。すると、清盛がその願いを聞き入れて水路開削を命じ、出来た水路が今に伝わっているのだとか。難関工事の末、承安3年(1173)に完成。この水路の開削のお陰で、田畑が潤い、米どころとなったとのこと。村人は妓王に感謝し水路に妓王の名を付けたのです。それで現在、「祇王井川」と呼ばれています。野洲川の三上地先から琵琶湖野田浦までの約12kmと伝えられています。現在に川幅は、ところによって広狭が大きく変化します。川と呼ぶにふさわしい幅のところから、溝じゃないかと思うくらいに幅が狭くなっているところまで、様々です。当日のガイドさんの説明では、幅6mほどの水路だったとか。祇王井川は、清盛の妓王に対する寵愛が一時期はどこまですごかったかを証すものとして今に残っていると一面では言えるのかもしれません。祇王井川が中ノ池川と分岐し、その先で街道を外れていきます。 (生和の森修景整備のところ、振り返ってみて)しばらく川沿いに北東方向に進むと、東祇王井川、西祇王井川にさらに分岐します。これが分岐地点。この画像の左方向に進むと、こんな水門が作られています。西祇王井川に沿って歩きました。きれいな紅葉が見られました。 西祇王井川は、中ノ池川に合流してしまいます。これは合流後の中ノ池川を見たところ。この合流地点は、地図の番号8の下の分岐の位置です。このあたりは大岩山古墳群(17基)と総称されている地域に入っています。この川の分岐点の近くに、 亀塚古墳があります。説明板によると、この古墳は「大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上に築造され」たもので、古くから土取り場となっていたようで、古墳の形状がかなり崩されてしまったのだとか。「江戸時代には、項円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名称が生まれました。」この近くには、亀塚古墳の南西に古冨波古墳、県道2号を越えた西側の先に冨波古墳が点在しています。ブックレットによれば、「この当時、野洲には百済や上毛野(かみつけぬ)と深いつながりをもった人物がおり、継体政権の有力者であったことがうかがえます。その人物とは、古事記や日本書紀にみえる古代氏族・安直(やすのあたえ)の一族であったと考えられています。」(資料2) この後、先にその境内の東側を川沿いに歩いていた「生和神社」に立ち寄りました。野洲市高木に創建(1009年)された神社が、1262年にこの地に移転したのだとか。本殿、末社ともに重文で、本殿は南北朝期の建立です。同じ野洲市にある大笹原神社の本殿より、こちらの本殿の方がやや古式の様式だと判断されています。手水舎の水の注ぎ口は龍のところが多いですが、ここは亀の形でした。亀を使っているのはめずらしいと思います。近くに亀塚があるのと関係があるのでしょうか。なぜでしょう・・・・手水舎一つも、対比的に見ていくとおもしろいものですね。2010年の秋に訪れた兵主大社の手水舎も亀が使われていました。思いだして、記録写真で確認しました。先月(2017.4)ご紹介した壬生寺の手水舍も亀です。再び、朝鮮人街道を歩きます。ただ、この辺りを流れる東祇王井川は、街道から少し離れて平行して流れているのですが、西側を流れる川がある地点で街道の東側になります。川と街道が交差するのです。冨波地区を通る街道の途中で、こんな門構えの屋敷があります。良い眺めです。 その少し先に、「屋棟神社」の石標が見えました。このあたりは家棟川の旧流路だったところのようです。冒頭の地図のように、川筋は大きく変化しています。この神社の参道を少し入ったところが、祇王井川の一つの特異スポットです。 説明がないと行き止まりの溝/小川に見える場所です。しかし、よく見ると水は奥の行き止まりの箇所から手前に流れてくるのです。実は、祇王井川に埋樋(うずみひ)という工法を使った場所だったのです。家棟川旧水路の土地の中に伏せて埋めた樋を通じて、つまり、街道の東側を流れていた川の水が一旦地中の埋樋を流れて、再びここに川の姿を現しているのです。よく見ると、水が湧き出している感じのところが見えました。ガイドさんが、ここの場所を調査した当時の写真を見せながら、丁寧に説明をしてくだいました。今や貴重な写真です。川が「家棟」、神社が「屋棟」と称するのもおもしろいところです。 祇王幼稚園の近くにて街道の脇を祇王井川が流れる箇所は、こんなに川幅が狭くなっています。このあたり家並みに風情が感じられる場所です。このあと、「コミセンぎおう」で昼食休憩となりました。 ここで興味深かったのは、これです。妓王でも、祇王でもなく、「義王」という名前が使われている!丁度ここで、逆ルートのA班と一時合流しました。A班のガイドさんの説明も聞けましたが、なぜ「義王」かは不明だとか。ガイドさんが、私見として、「妓王」と「祇王」の使い分けをこうおっしゃっていました。昔の人は漢字で書くときいろいろな書き方を平気でしていたようです。いわば当て字。「ぎおう」も白拍子であった時代は「妓王」が「妓」の言葉の意味合いからも一致する。出家して後亡くなり祀られるようになってから「祇王」という言葉を当てるようになったのではないかと勝手に解釈していますと。それなりにおもしろい解釈だなと思った次第です。この画像の少し左側にあるもう一つの電信柱のところに、「800年以上流れ続ける 祇王井川」という立て看板が設置されていました。そして、左下に少し小さめの文字で、「(撮影スポット)」という親切な説明まで記入されています。そう言われると、このあたり、歩いて来た中では風情を残す家並みが川に沿って残っています。撮影位置やアングルを考えたりしてじっくり撮っている時間がなくて、これまた残念でした。この小さな橋のところで左折し、祇王井川とは別れて、いよいよ江部地区に向かいました。つづく参照資料1) 当日に資料として配付されたリーフレット2) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 3) 『平家物語』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。◎関心事項の検索調査について◎興味からリサーチしてみて、京都の祇王寺についても「ぎおう」の表記が本によって違うの確認しました。(少し、マニアックに・・・・:ハイライト文字列をクリックしてみてください)<< 妓王寺と表記する本、あるいは妓王・妓女の表記 >>『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 (安永9年、秋里籬島執筆) この本では、寺名を「妓王寺」とし「浄土宗にして往生院となづく」で載っています その中の説明では、「祇王(二十一歳)祇女(十九歳)刀自(妓王・妓女の母四十五歳)の塔も・・・・」となっているのです。 そして校注に「祇王寺、真言宗大覚寺派」と注記されています。『雍州府志』では、往生院の説明の中で、 「妓王妓女并佛尼等之所棲也」「妓王妓女寺」「三尼并刀自女塔」という記述が漢文体の文章中にあります。早稲田大学 古典籍データベース 都名所車 / 東籬亭主人 補撰 池田 東籬, 1788-1857 出版書写事項:文政13[1830] 花説堂, 三条通富小路東へ入(皇都) ここでは、「妓王寺という」と記し、説明のところでは、「祇王祇女」と記しています。 洛陽名所集. 巻之1-12 / [山本泰順] [撰] 出版書写事項:万治元[1658]序 [出版者不明], [出版地不明] 和装 印記:鑒水,湖泊堂 藤野古白旧蔵 第10冊 カット 21,22、23にて 往生院の項目で、妓王・妓女と表記京都の長講堂に保管されている後白河法皇直筆の過去現在牒には神武天皇から安徳天皇までの歴代天皇、平清盛入道源為朝、為義、義行(義経)、妓王、妓女、佛御前の名も記されています。 サイト 後白河法皇 長講堂 平清盛ゆかりの地 in京都 その8 長講堂 :「散策とグルメの記録」日本古典文学摘集 平家物語 目次 ここでは「妓王」の項目として<< 祇王寺と表記する本、あるいは 祇王・祇女の表記 >> 『京都府の歴史散歩(下)』山本四郎著 山川出版社 1982.8.10 1版8刷 『京都・観光文化検定試験公式テキストブック』 淡交社 『京都発見 一 地霊鎮魂』梅原猛著 新潮社「祇王寺」の公式ホームページがあります。もちろん「祇王寺」表記です。 ここの「祇王寺の歴史」のページ ここを読むと、祇王寺墓地入口にある碑には、「妓王妓女仏刀自・・・・」と表記されている そうです。 かつては、「妓王」という表記を使っていた時代があったということでしょうか。岩波書店 日本古典文学大系 底本 龍谷大学図書館所蔵本 祇王、祇女、とぢ岩波書店 新日本古典文学大系 底本 東京大学国語研究室蔵本(高野辰之氏旧蔵) 祇王、祇女、どぢ<< 義王、義女 >>平家物語 百二十句本(国会図書館本) ここで表記されているようです。平家物語 百二十句本(京都本) 同じくここで表記されているようです。序でに、こんな記事もネット検索で見つけました。:滋賀報知新聞「平家物語」のヒロイン 白拍子「祇王」は実在したか 平成23年1月2日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -2 季吟の句碑・妓王屋敷跡碑・妓王寺 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -3 土安神社・永原御殿跡・菅原神社 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -4 常念寺 へ
2017.05.14
コメント(0)

JR石山駅から立木観音(安養寺)境内まで歩いた行程を再録として前回ご紹介しました。 昼食・休憩後の復路は、第3選択肢のルートを歩くグループに加わりました。まずは立木山の頂上に登り、尾根伝いに展望台を経由してから袴越山に向かい、山を下り石山駅に戻るという行程です。この復路のご紹介をします。 [ウォーキング時期:2015年1月]冒頭の写真は、「国土地理院ホームページ」から歩いた地域の地図を切り出してみたものです。立木観音から尾根伝いに山歩きをした復路のポイントを地図にマーキングしています。(資料1)立木観音の境内を外れ、15分位山道を登ったところの少し広い場所で昼食休憩をしたことまでは前回説明しました。その後、まず立木山の山頂を目指します。 立木山山頂の三角点。近くの樹木に登山者が残された記録。標高305.6m。ここからは、尾根伝いに進みます。途中途中の分岐には、こんな標識が設置されています。 そして、展望のきく場所に出ました。「見晴台」と記された記念札が樹木に取り付けられています。 遠望先の場所を同定する一つのメルクマールが、膳所にある特徴のあるのっぽビル・プリンスホテルです。これで位置関係が把握しやすくなります。 瀬田川に目を転じると、その傍を歩いてきた瀨田川洗堰が遠望できます。 ハンディなデジカメのズームアップ機能をフルに使って、カメラを手持ちのまま、拡大で撮ってみました。瀬田川洗堰と保存されている旧南郷洗堰の一部もちゃんと捉えることができました。現在の瀨田川洗堰は、1961年に完成。全長約173m、ゲート10門。鋼製越流えつりゅう(溢流いつりゅう)式2段引上扉を備えたもの。「電力を用いた遠隔自動制御による全開閉は、30分で行える。また1992(平成4)年には、この東側に、水位低下時にも正確な水量を流せるバイパス路や、排水ポンプの設置工事が完成した。この水路は、低落差少水量の高効率水力発電設備を備えており、全国的にもめずらしい」(資料2)とか。旧南郷洗堰は2002年に土木学会より歴史的土木施設に認定されています。 瀬田川に突き出ているように見える小高い山が大日山(129m)。大日山古墳群があります。これがたぶん見晴台近く、341mのピークのところで撮った写真 袴越山の山頂。標高391mです。この袴越山北側の山下を、往路に歩いてきた赤川交差点近くで取水された河川水が「宇治発電所導水路」を経由し流れているのです。 袴越山から下る途中で眺めた景色 下山地点となる湖南変電所です。 再び眺めた膳所近辺と対岸の景色 南郷の住宅地と瀨田大橋 袴越山を下ったところが湖南変電所の傍でした。標識が出ています。ここから谷川沿いに、芋谷を下ります。後で調べていて知ったこと:この袴越山の北麓になる南郷には、南郷製鉄遺跡があるそうです(資料3)。関連して、こんな説明の資料にも出会いました。「瀬田川右岸の南郷から左岸の瀬田丘陵には、南郷・芋谷・源内峠・木瓜原・野路小野山遺跡など、7世紀中頃から末頃までに操業を開始した数多くの製鉄遺跡が分布しています。中でも大津宮時代頃の源内峠遺跡では、鉄を作る時に生じる鉄滓の量が遺跡全体では50トン以上と推定でき、大規模な操業が行われていたと考えられます。」(資料4) 南郷の住宅地の中を通過して、まずは瀬田川の畔まで出てしまいました。そして、堤防沿いに瀬田川上流、つまり琵琶湖方向・石山に向かいます。 山から眺めた瀨田大橋に近づくところ。 石山寺の近くに停留する瀬田川の遊覧船「瀬田川リバークルーズ」です。 「茶丈藤村」。和菓子と甘味のお店です。 瀬田川の下流方向のながめ。堤防の先に、係留されている遊覧船の前面が見えます。 京阪電車石坂本線の石山寺駅付近。河川敷に作られた池。右手奥に見えるのが瀨田唐橋です。手前は中の島・下流側先端。瀨田唐橋についても、拙ブログ記事で次の記録を再録し、ご紹介しています。「探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -1 JR石山駅~瀬田唐橋周辺」「探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -2 龍王宮秀郷社、雲住寺、橋守地蔵他」「探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生) -5 明治29年洪水標、瀬田唐橋」併せてご覧いただけるとうれしいです。この先もしばらく河川敷を歩いて、瀬田川沿いの道路に戻り、後はJR石山駅に直行しました。今回のウォーキングも結構歩きました。携帯電話内蔵の歩数計の記録は31,400歩でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 国土交通省国土地理院 ウエブサイト2) 『滋賀県の歴史散歩 上』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p1033) 鉄鉱石の発掘地と製鉄遺跡の関係についての試論 -滋賀県の事例を中心に- 大道和人氏 『紀要』第9号 1996.3 滋賀県文化財保護協会4) 「近江の飛鳥・白鳳時代、古代国家の誕生」 埋もれた文化財の話 28【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺立木観音 :「滋賀県観光情報」(3)立木観音と鹿跳(ししとび)伝説(大津市石山南郷町) ふるさと昔語り ;「京都新聞」瀬田川リバークルーズ :「石山寺」一番丸のご紹介 :「瀬田川・琵琶湖リバークルーズ」茶丈藤村 ホームページ立木観音から袴腰山のハイキング tnknboさん公開 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 滋賀・大津 JR石山駅・芭蕉像から立木観音(安養寺)・立木山 へ
2017.05.13
コメント(0)

2015年1月、ウォーキングの同好会でJR琵琶湖線の石山駅に集合し、立木観音のある立木山まで歩きました。帰路は、1)同じルートを逆に歩きで駅まで戻る、2)立木観音のバス停からバスを利用する、3)山の尾根伝いに袴越山・芋谷経由で瀬田川畔に出て駅まで戻る、というオプションでした。私は第3選択肢のグループに加わりました。この往路と復路の行程記録をまとめて載せていたものを再録し、ご紹介します。冒頭の像は、石山駅の駅前に立つ松尾芭蕉像です。石山は石山寺に縁のある紫式部だけでなく、松尾芭蕉にも縁のあるところです。現在の住所で言いますと、大津市国分2-5、国分山に「幻住庵跡」があります。今はここに往時を偲んで、大津市により新たに建てられた建物ができています。芭蕉の弟子、膳所藩士菅沼曲翠(すがぬまきょくすい:曲水)が、伯父の定知(さだとも:幻住老人)の旧庵を補修して、師・芭蕉に提供したと言われています。松尾芭蕉は元禄3年(1690)4月から7月までこの幻住庵に滞在したのです。そのときの生活の様子を『幻住庵記』として著しています。冒頭から寄り道してしまいました。まずは、駅前の市街地を通り、東海道の高架下から県道104号線に出て、鳥居川の交差点まで南下します。この鳥居川交差点からは南西角・長徳寺前の道に沿って、京阪電車石坂本線とほぼ平行する道を南に歩きます。御霊神社、地蔵寺、医王寺という寺社の傍を通ると、京阪電車の終点・石山寺駅の西側に至ります。このあたりの経路は拙ブログ記事「スポット探訪 [再録] 石山・蛍谷からJR石山駅への道」でご紹介しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。ここから、瀬田川沿いの歩道を進めば「石山寺」です。 石山寺の少し手前の歩道から入れるのが、この「郎澄大徳ゆかりの庭園」です。 没後は、「石山寺経蔵の一切経、並びに聖教を守護し、万民の降魔招福の為、鬼の姿となることを誓い」(説明板)、入滅されたのだとか。それでこの石像碑が建立されているのでしょう。石山寺の東大門前でちょっと休憩。境内には入りませんが、門前見物とトイレタイムです。 仁王像(木造金剛力士像)を撮ってみました。 この山門と瀬田川沿いの道路との間の北側は緑地になっていて、島崎藤村の詞章が刻まれた碑と、「琵琶湖八景 夕陽 瀨田石山の静流」と刻された碑が立っています。「瀨田の夕照(せきしょう)」は近江八景の一つとして有名です。琵琶湖八景は新た選定されたものです。(資料1)島崎藤村は22歳の頃、この石山寺門前あたりに2ヶ月近く寄宿していたそうです。石山寺の境内には、今は「東池坊光蔵院」と称される建物が移築されています。その建物が「島崎藤村ゆかりの家」なのだそうです。拙ブログ記事「スポット探訪 [再録] 石山寺細見 -2 比良明神影向石、くぐり岩、密蔵院、閼伽井屋ほか」をご覧いただけるとうれしいです。この碑は、島崎藤村の「石山寺にハムレットを納むるの辞」より採録されたものです。 湖にうかぶ詩神よ 心あらば 落ちゆく鐘のこなたに 聴けや 千年の冬の夜ごとに 石山の 寺よりひびく読経の こえ『文学界』第二号に掲載された一文のようです。(資料2)石山寺東大門のすぐ前に南に向かう道があります。瀬田川沿いの道路とほぼ平行して通る少し幅のせまい道路です。立木観音への石柱道標が立っています。 石段の先には「石山寺保育園」このあたりは「旧石山尋常高等小学校跡」なのです。少し南下すると岩間寺への道との分岐点です。道標があります。 「戸隠神社」の参道が西側(右手)に。 平津1丁目 その名の通り、信濃国の戸隠山に鎮座する戸隠神社から勧請された神社です。祭神は天手力雄命(あまのたじからおのみこと)この神社の西隣りが滋賀大学の教育学部のキャンパスです。 円照寺の前を通過。浄土真宗本願寺派のお寺。この先で、瀬田川沿いの国道422号線に出て、赤川の交差点を通過し、南郷公園に入ります。JR石山駅から南郷洗堰・南郷公園への地図(Mapion)はこちらをご覧ください。南郷公園の北端部にあるお堂と休憩所の合体した建物。 お堂の方には「神鯉」が安置されています。「神鯉のいわれ」の説明板が掛かっています。「大昔、天皇が病気になったとき、南郷でとれた大鯉を献上すると即座に病気が治ったとの伝えがある」のです。(資料3) 覗くと、木彫の大鯉が見えます。この鯉は、5月5日に「南郷鯉まつり」が行われるときに、全長3.2mの大きさの鯉みこしとして使われるもののようです。竹細工師・清水風外の作だそうです。(資料3,4) 南郷公園から少し先に、この石標が立っています。立木観音への参道入口です。南郷公園の前が、南郷洗堰です。こちらも拙ブログ記事「探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生)-3 旧南郷洗堰と瀬田川洗堰」でご紹介しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。参道は「立木山」に登る山道です。この参道(山道)は比較的ゆるやかですが、その分時間がかかります。約2kmで、1時間くらい歩くことになります。この石標の傍に、「立木観音 是より廿丁」と刻された石標もあります。その側面にはなんと、「月恭三百回記念」と彫られています。25年間連続とは実にすごいものです。八丁目にはごつごつとした岩があります。面白いのは左側の石標です。「町」という文字を左右分割して、縦に並べています。この字で「チョウ」と読ませるのでしょう。ATOKで手書き文字入力をすると、「町」の異体字として「甼」が登録されています。手許の『角川漢和中辞典』(初版)には、異体字としてすら記載されていません。「町」は尺貫法の長さの単位として使われると60間(けん)に相当し、メートル法換算で約109mです。大岩の上に立つと、このような景色が眺められます。 5丁目まで登ると、そこから瀨田川の景色が垣間見えます。 そして、1丁目の標識が見え、石段が見えました。この上が立木観音の境内です。立木観音前バス停脇の登り口から約800段の急な階段を20分ほど登ると境内に着くそうです。(資料5)正式には、立木山安養寺と称し、今は浄土宗のお寺。「立木山境内図」はこちらをご覧ください。(資料5) 手水 蟇股の意匠がおもしろい。懸魚のところに菊花が丁寧に彫られています。 山の上ですので境内地はそれほど広くはありません。左写真の一番奥に見えるのが本堂の建物です。「新西国三十八霊場」(三十三箇所+客番五寺)の第20番でもあるからでしょうか、団体の参拝者も多く見かけました。境内の中央に、鹿に乗った僧が合掌している少し大きい銅像が建立されています。そして、その傍に、金属製の灯籠と「厄除立木観世音略縁起」の銘板がはめ込まれた石碑もあります。 この略縁起と手許の本をあわせると、次の通りです。(略縁起銘板、資料6)弘仁6年(815)、空海は42歳の厄年で諸国を行脚していました。瀬田川の畔に来たとき、この山に光を放つ霊木があるのに目がとまったそうです。奇異に思っていると、白い雄鹿が現れ、空海を乗せて瀬田川を跳び渡り、立木山に導いたと言います。そして、雄鹿は観世音に変化したのだそうです。空海が、光明を放つ霊木に、立木のままで等身大の聖観音像を刻まれたのだとか。それが立木観音の始まりとされているのです。瀬田川の浅瀬を鹿が跳んだことから、麓の渓谷を「鹿跳」(ししとび)と呼ぶようになったそうです。立木観音の麓を通る国道422号線には南の方に「鹿跳橋」が架かっています。つまり、この僧が空海なのでしょう。空海像は三鈷を片手に持つ姿を見慣れていますので、合掌している姿はを私は初めて見る思いでした。 本堂の入口 瀬田川の 霧も立木の 観世音 峰吹く風に 晴るる身のうさ (御詠歌)「立木さん」「厄除けの立木観音さん」「立木山寺(たちきさんでら)」として親しまれているお寺です。「(弘法)大師はその後、高野山を開基されたので、立木観音は『元高野山』とも呼ばれています。」(資料5)とのこと。南郷公園から立木観音(安養寺)の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 本堂を反対側に抜けて行くと、宝篋印塔があり、その先の石段の山道をさらに登ったところに、「鐘楼」があります。ここでの休憩タイムにこの「鐘楼」までは参拝客に並んで訪れました。さらに石段を登っていけば、奥の院があるようです。「歩く」会なのでこちらは訪ねる時間がありませんでした。私たちは、この鐘楼の傍の道から、境内を外れて山道を登って行きます。少し広い場所で食事休憩を取り、その後、下山ですが、最初に述べたオプションで参加メンバーは分散しました。 立木山頂上の三角点第3の選択肢による復路については、次回にご紹介します。つづく参照資料1) 琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」2) 石山寺と島崎藤村 そして 茶丈藤村のこと :「茶丈藤村」3) 南郷鯉まつり :「大津市歴史博物館」4) 南郷鯉まつり :「瀨田川流域観光協会」5) 厄除 立木観音 立木山-安養寺- ホームページ6) 『滋賀県の歴史散歩 上』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p106-107【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺文学界 :ウィキペディア新西国霊場とは? :「新西國霊場-新しい巡礼の旅」 第20番札所 立木山立木山寺 立木山寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.05.13
コメント(0)

方丈庭園を拝見した後、阿弥陀堂の外観を眺めました。その後立ち寄ったことのない黒門坂まで北の境内を探訪したのが前回です。再び阿弥陀堂の前まで戻ります。前回の境内案内図に今回ご紹介する境内の南側に色の丸を追記しています。黒丸のところが阿弥陀堂の位置です。阿弥陀堂の南東方向に「手水舎」があります。冒頭の画像は手水舎の南東から撮ったものです。丁度その背後が阿弥陀堂になります。この手水舎では、水の注ぎ口が蓮形になっています。南側から撮りましたので、前回ご紹介した大きな石灯籠が北方向に見えます。右の白い部分が本堂の修理に伴う仮設塀です。 手水舎の蟇股は草花文の透かし彫りが施され、頭貫と木鼻は文様が少し深く彫られています。手水舎の床は石板が四半敷に敷かれています。幾何学的に美しい。手水舎の西、阿弥陀堂からは南に、この多宝塔があります。赤い丸を付けたところ。 「霊塔」と記された扁額が正面に掲げられています。調べてみた範囲では、いつ頃建立されたのか不詳です。資料がありません。 多宝塔は「法華経の見宝塔品の説に基づいてつくった塔」だそうです。(資料1)二重の塔に見えますが実は一重塔だとか。下は「裳階(もこし)」なのです。塔身は円形であり裳階は方形です。上下を白い漆喰の亀腹(饅頭形)が接続部分となっています。下層は方三間で、中央に板扉、左右は腰高連子窓が設けられています。宝形造りの屋根の四隅に宝鐸が吊られ、相輪の上部には水煙に代わり3段の花輪(かりん)が付けられています。手水舎の前を南に進むと、三門横の女坂を登りきった辺りの境内端になります。そこから南側は垣根があり中には入れません。(水色の丸を付けたところ) 垣根越しに境内地の景色を撮りました。東側に鎮守社があり、西側には拝殿が見えます。石畳の先に見える建物の入口に扁額が掲げてあるので、デジカメのズームアップで撮ってみますと、「真葛庵」と記されています。このあたりから南は「真葛が原」と呼ばれたことに由来するのかもしれません。 この境内地の異なる一隅に眺めた石碑です。左の画像の石碑の文字は私は判読できません。課題が残りました。右の画像の石碑は、私の好きな詩人の一人、坂村真民さんの有名な詩句です。 念ずれば花ひらく泰平亭(休憩所)の前を通りすぎ、境内を東側に歩むと、「寶佛殿」が北面する形であります(青色の丸を付けたところ)。境内を横切った北側には御影堂(本堂)が位置します。宝佛殿前を通り過ぎ、北東側から建物全景を撮ってみました。この建物が建造物として特に説明がないのは、平成4年(1992)に造立された納骨堂だからのようです。「堂内には阿弥陀如来像・四天王が安置されており、地下にはご遺骨が奉安されます」(資料2)。何度も見ていても、この記録整理をするまであまり考えていませんでした。 東には、池がありその石橋を渡り、石段を上がったところが、子どもの頃から知っている「納骨堂」です。 こちらは昭和5年(1930)に造立された御堂です。遺骨が合祀で納められている納骨堂です。池の傍から撮った「経蔵」です。(黄緑色の丸を付けたところ)本堂の東南に位置します。三門と同じく元和7年(1621)に建立されたそうです。(資料3)方三間、単層で裳階が付いた宝形造りの建物で、本瓦葺きです。この画像では分かりづらいですが、下層の外側に柱が建ち並び、裳階を支える吹き放しになっていて、基壇上の外廻廊になっています。非公開ですので内部は知りません。手許の本では、次のように説明してあります。「内部は鏡天井、床は瓦敷とし、回転式の輪蔵には宋版の一切経五千六百余巻が納められ、また長押・天井・板壁等には狩野山楽・主馬等の画家によって極彩色の唐草模様が描かれている」(資料4)と。知恩院のホームページには、この一切経が徳川二代将軍秀忠の寄付によるものであることと、八角輪蔵であることがわかります。他の大寺の輪蔵で説明を読んだのと同様に、「この輪蔵を一回転させれば、大蔵経を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれています」という一文が記されています。経蔵内部の画像がサイトのページに載せてありますので、アクセスしてご覧になるとよいでしょう。(資料3)イメージが膨らみます。八角輪蔵の事例は、三井寺を探訪した折に拝見しています。拙探訪記の再録でご紹介しています。勢至堂の前まで行きたかったのですが、閉門時刻になりました。またの機会に・・・・ということで、未探訪箇所と併せて、また訪れるつもりです。閉門時間間際になったため、女坂の方を下れず、寶佛殿傍の坂道(自動車道)を下り、三門前に出ました。 和順会館を左に眺めながら、三門まえの「知恩院道」を西に下ります。 知恩院に行くとしても、この道を利用することは少ないのです。「知恩院のムクロジ」という駒札が立てられているのを初めて知った次第です。京都あたりは、ムクロジの分布北限に近いとのこと。これほどの大木になることは稀だそうです。昭和58年(1983)6月1日に京都市指定天然記念物に指定されています。赤い丸を付けたところですが、「新門」が設けられています。 この新門は高麗門の形式です。4月にご紹介した「壬生寺」の表門がやはり高麗門の形式です。新門は東大路通から少し東に入った位置に建てられています。知恩院道から東大路通を横断して、少しだけ北にずれた道に入ると、そこは「新橋通」です。知恩院の総門はどこか? それは、この新門よりも北になります。前回ご紹介した「黒門坂」を下った先の「黒門」から神宮道を横断し、西に向かう「華頂道」の西端に「知恩院総門」があります。総門の門前を白川が流れていて、少し南で白川は北東から西に流路を曲折します。曲折した白川沿いの道が「白川北道」です。白川北道を西に進み、花見小路通で左折して少し、南進し、信号のある交差点で右折して白川南通に入り、少し歩けば「辰已大明神」に至ります。4月に白川の桜をご紹介した折に触れています。探訪記がリンクするところで、一旦「知恩院」のご紹介を終わります。いくつか残した課題は、機会を作ってまた、探訪したいと思っています。母に連れられて訪れ、子どもの頃から見知っている知恩院、されど知らないところが未だに多い知恩院です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p1562) 寶佛殿 ご納骨のご案内 :「知恩院」3) 経蔵(重要文化財、内部非公開) :「知恩院」http://www.chion-in.or.jp/04_meiho/ken/kyo.html4) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-241補遺裳階 :「コトバンク」裳階(もこし) :「社寺建築にみる建築組」多宝塔 :ウィキペディア多宝塔 :「Flying Deity Tobifudo」輪造 :ウィキペディア長谷寺 輪蔵 :「鎌倉の寺院古建築めぐり」輪蔵の画像検索結果 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -2 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -3 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 へ観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜 へスポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -1 表門・一夜天神堂・本堂・狂言堂観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟などスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -3 一切経蔵、唐院(灌頂堂、大師堂、三重塔、長日護摩堂)
2017.05.09
コメント(2)

[探訪時期:2013年2月]現在の天理市北部、櫟本町から和爾町は古代豪族和爾氏の本拠地だったところなのです。櫟本高塚公園(櫟本高塚遺跡の所在地)からいよいよ和爾町に入ります。入口に地域案内板がありました。『日本書記』巻三神武天皇の項にある「長髄彦(ながすねひこ)と金鵄(きんし)」という見出しのところ、己未の春二月二十日の条に、「また和珥の坂下に、巨勢祝(こせのはふり)という者があり、・・・」という記載があります。「和珥の坂下」が出てきます(参照1)。また、『古事記』の人代篇其の一、ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のところに、天皇が伯父オホビコに、邪心を起こしたオホビコの腹違いの兄タケハニヤスを討伐せよと指示する場面ででてきます。「~と言うて、丸迩(わに)の臣の祖であるヒコクニブクを副えて遣わしたのじゃ。オホビコはすぐに都をいで立っての、丸迩坂に神へのも捧げ物を据えて祈り、山代へと向かったのじゃ」(参照2)と。このワニ坂というのが、この場所だと考えられています。 町の坂道の傍に石標が建てられています。坂の上に「和爾坐赤坂比古神社」がありました。 「和珥下神社」という「下」という名称の付いた神社に対して、坂の上にこちらの神社があるのです。この神社について、当日のレジュメによると、『延喜式』に記載があり、天平2年(730)大和国正税帳には丸(わに)神と記載され、また、東大寺二月堂の神名帳にも和爾大明神と記載があるそうです。(資料3)もとは集落の東方の天神に所在したようで、共に願徳寺という古代寺院も存在したようです。 この神社もレジュメの説明では後期古墳の円墳の上に鎮座するとのことですが、形状という点ではよくわかりませんでした。祭神は「阿田賀田須命、市杵嶋比賣命」だとか。ネット検索で調べ、重ね合わせてみますと、『大和志料』に「祭神赤坂比古命、何神ナルヲ知ラズ、蓋シ和珥氏ノ祖神ナラン」という考証が載っているようです。和珥下神社とこの和爾赤坂比古神社は、やはり共に和爾氏の祖神祭祀と深く関係していたのでしょう。また、この神社は桃山~江戸期の「銅造薬師如来種子懸仏」を所蔵されているようです。御正体とも言われる懸仏で、表面に薬師如来を意味する梵字が記され、裏面に「天正14年(1586)、奉懸牛頭天王銘」と記されているものがあるようです(資料3、他から)。この神社前の道は突き当たりになっていて、変形T字路でした。 突き当たりにあるのが「善福寺」です。山門左手にも石標が建てられています。文明9年(1477)知恩院第14世助阿上人を開基とする浄土宗のお寺です。 山門を入ると、道の左右に夥しい数の石仏が並んでいました。本尊は阿弥陀如来座像(重文)で、めずらしく説法印を結ぶ仏像です。「円満相、流麗な衣紋は平安後期の特色。体躯の肉付きがよく、大和らしい像といえる」(資料3)仏像です。写真を撮り記録に残せなかったのが残念です。一木造の阿弥陀如来座像も別に安置されていました。 境内には六地蔵菩薩も並んでいます。和爾町の集落の近くで、今は田畑になっている地点で、発掘調査が行われた場所の一部について、調査資料の地図を参考にした説明を受けました。立ち止まって説明を受けた地点から、野田古墳の方向が眺められました。この後、最後の見学地への移動です。西へ向かう道路傍にある墓地の一角に大きな石仏を見ました。169号線を横断し、西行した先にある道標そして、集落の一角、櫟本公民館の傍に「長寺(おさでら)遺跡」の説明板が建てられていました。ここは櫟本町から楢町にかけて所在する遺跡で、弥生時代から平安時代にかけて続いた遺跡とのこと。 最後の探訪地が「髙良神社」です。櫟本町瓦釜地区に鎮座します。この石標から参道を少し入った左手の建物傍にも、長寺遺跡の説明板があります。このあたりが古代寺院の中心地だったと推定されているようです。長寺については、延久2年(1070)『興福寺雑役免帳』に記載があるとのこと。 髙良神社の社は小振りなものでした。長寺の鎮守社だったと考えられているようです。このあたりからは瓦が数多く出土し、白鳳期瓦も採集されているとのこと。長寺は日佐氏の氏寺(日佐寺)だった可能性も高いといいます。祭神は「武内宿禰(たけのうちのすくね)」という説明が見られる一方、高良玉垂神(こうらたまたれのかみ)であり、この神が武内宿禰のことでもあると記すサイトもあります。高良玉垂神がもともとの産土神だったのだろうと受けとめました。(神社で説明板を私は見かけませんでした。見落としていたのかも知れません。)この神社からJR櫟本駅までは、徒歩5分程度の近距離です。さて、蛇足的なことですが・・・・現在の宇治市の一地域(木幡の村)と和爾氏との繋がりに気づいたことに触れていました。ホムダワケ(応神天皇)がミヤヌシヤカハエヒメを見そめ、そしてウジノワキイラツコという御子が生まれたという話です。大君が歌ったという歌がこの話の中に記されています。おどけながら婚(まぐわ)いを言祝ぐ歌なのです。『古事記』人代其の五に載っています。三浦佑之氏の訳で関連箇所を引用します(参照4)。この長歌はこのカニは どこから来たカニ このかにや いづくのかにずっと無向の 敦賀のカニじゃ ももづたふ つぬがのかに から始まり、木幡の道端 出逢うたおとめご こはたのみちに あはししをとめうしろ姿は 小さな盾で うしろでは をだてろかも歯の並びざま シイの実ヒシの実 歯なみは しひししなすイチイの生えた泉のそばの 丸迩の坂なる赤土を いちひゐの わにさのにを 上面は はだが赤っぽいので はつには はだあからけみ底なる土は どす黒いので しはには にぐろきゆゑと続いていくのです。この中に「ワニの坂」が歌い込まれています。「ワニ坂」という土地。宇治のワニ氏とワニ坂というワニ氏の本拠地を結びつける形になるように重ねて行ったのかもしれないな・・・と勝手に想像しています。大君がワニ氏を認知しているということに繋がるのかもしれません。今回の探訪は、これで終了です。櫟本駅を起点にして反時計回りに各史跡を巡ってきたことになります。ご一読ありがとうございます。参照資料1)『全現代語訳 日本書記 上』(宇治谷 孟訳・講談社学術文庫) p106 2)『口語訳古事記 [完全版]』(三浦佑之訳・文藝春秋) p1623) REC「関西史跡見学教室(20) ~和爾~」 当日配布の講座資料レジュメ 2013.2.23 作成 松波宏隆・龍谷大学非常講師4)『口語訳古事記 [完全版]』(三浦佑之訳・文藝春秋) p235-236【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和爾坐赤阪比古神社 :「神奈備へようこそ」和爾坐赤阪比古神社 :「延喜式神社の調査」和邇坐赤坂比古神社 :「古代史レポート」秋祭り 「こうら神社」男神と「八幡神社」女神の逢瀬 :「櫟本小学校」和邇吉師と高良神社(その2):「談話室」梵字 神秘の文字 :「秘密の扉」3686平成12年度 特別展「神秘の文字-仏教美術に現れた梵字-」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -1 古墳と和爾下神社、柿本寺跡 へ探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -2 赤土岩山古墳・櫟本高塚遺跡 へ探訪 山辺の道・北辺(櫟本~帯解)-3 ワニ坂・和爾坐赤坂古神社・願興寺跡 へ
2017.05.08
コメント(0)

これは御影堂(本堂)と阿弥陀堂を繋ぐ渡り廊下を阿弥陀堂側から振り返って撮った景色です。方丈庭園の拝見を終えて、集会堂(法然上人御堂)に戻った時、廻廊部分を通ることができました。修理に入っている本堂部分には囲いがしてあります。廻廊は囲いの外になっていますので、通行できたのです。途中で、一部本堂の扉が取り外されているのを垣間見しました。渡り廊下からすぐ近くに大きな五輪塔が見えます。高さ約2.7mもある「無銘塔」です。この石塔は昔からここにあるそうで、誰の墓なのか不明。「一説に奈良極楽寺の忍性上人の墓とも、謡曲にみえる自然居士(じねんこじ)の墓ともいわれる。・・・・一に忌明塔ともいわれ、むかしは服喪の人が忌明けの日に参詣する風習があった。他に一条天皇中宮藤原彰子を大谷の地に於いて火葬したから、その供養塔だろうともいわれるが、いずれも未だに断定にはいたらない」(資料1)という五輪塔です。鎌倉時代のものと推定されています。 渡り廊下から阿弥陀堂側を眺めた景色。阿弥陀堂に近い廊下の北側には、鋳造製の「雲板」が掛けられています。輪部を雲形に形どるところからこの名がついたようです。基本は禅宗の法具です。「寝起き、食事や坐禅の合図などの告知に打ちならすもの」(資料2)なのです。下部の半円球の凸部が打ち叩く箇所になるのでしょう。その斜め上左右に、三日月と太陽(あるいは満月)が雲とともにレリーフされています。禅宗でなくても、時計のない時代には、時を報せる目的でも使われたのでしょうね。どんな音色で響くのでしょう・・・・。渡り廊下から阿弥陀堂の廻縁部に入り、北側面を見上げた景色です。斗栱は二手先の組物で、蛇腹のような支輪があり、頑丈そうな構造です。 扉は桟唐戸、廻縁には高欄が設けられています。 建物の北西隅側から北側面を東に眺めた景色です。桟唐戸が直線美を作ります。逆に、北東側から屋根裏を眺めると、棰(たるき)の二軒の直線と支輪の曲線が目にとまります。これは軒支輪です。支輪は「段違いの所に細木を縦に並べたもの」を言い、「組物の二手先・三手先組の場合、通肘木(とおりひじき)と丸桁(がぎょう)すなわち棰を受ける軒桁の間に二材を支えるようにして並べた樫木である。輪というのは蛇腹(じゃばら)ともいうように湾曲しているからであろう。また四周するのを輪と見立てたものか。」(資料3)この支輪には裏板をはるそうです。タルキの数に支輪が対応することから、一つの美が生まれていると言えます。北東隅を見上げると、建物の隅柱を基軸にした木造建築の木組みの面白さが楽しめます。木鼻は深く線刻されただけの簡素な形です。阿弥陀堂は正面が東で、東面しています。西方浄土の阿弥陀如来が東に向かって坐し、衆生を迎えられるために、御堂が東に向いているのでしょう。北東側から向拝を眺めて、手挟(たばさみ)の装飾性の豪華さに惹かれてしまいました。 手挟は「水平の木と勾配をなす斜めの記が合うところにできる三角形のあき間を埋める化粧板。向拝柱上部の肘木と?タルキとの間にあるものが最も多く見られる。」(資料3)というものです。鎌倉時代に創案されたそうです。この手挟が建物に華麗さや荘厳さを加えています。じっくりと現地で鑑賞してみてください。大工、職人さんの腕の見せ所でもある箇所です。こういう細部を楽しむのが大好きです。 阿弥陀堂の正面には、この扁額が掛けられています。まるで人間が組み体操をしている感じに見える文字です。私には判読できません。調べてみると、知恩院のサイトに説明がありました。(資料4) これは後奈良天皇の宸筆で、「大谷寺」と記された勅額だそうです。江戸時代に出版された『都名所図会』には、3つの宸筆による額があると記されています。その一つが、この「大谷寺」です。「本堂大谷寺の額は後奈良院の宸筆ぞ」と記されています。最初は本堂に掛けられていたということでしょうか。(資料5)序でに、後の2つですが、一つは三門に掲げられている「華頂山」の額です。これは霊元法皇の宸筆です。(資料5)もう一つが勢至堂で、知恩院のサイトでは、「堂内正面に掲げられている額『知恩教院』は後奈良天皇の宸翰であり」と説明されています。(資料6)勢至堂に掲げられた「知恩教院」の額は後柏原院の宸筆と『都名所図会』は記していますが、この書の校注者も自著では後奈良天皇の宸筆としていますので、同図会著者の誤記かもしれません。(資料1,5,6) 阿弥陀堂を正面から眺めた姿。周辺に駒札がなかったと思います。後で調べてみると、意外にも明治43年(1910)に建立されたそうです。それでもはや百年余が経っています。また、当初の阿弥陀堂は勢観坊源智上人が勢至堂の前に建立されたのですが、「宝永7年(1710)に現在位置に移築。明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され」(資料4)といいます。大きな石灯籠が、阿弥陀堂の北東方向、集会堂に向かう参道寄りに立っています。 石灯籠の近く、本堂を囲う修理工事用の仮設壁面に掲示してある境内案内図です。空色の丸を付けた集会堂から渡り廊下伝いに赤丸を付けた阿弥陀堂の廻縁を通り、正面から境内に戻りました。ここから、紫色の丸を付けた「四脚門」を再度通り抜け、集会堂よりも北側を少し散策してみました。知恩院には子どもの頃から幾度も来ていますが、本堂から北側は全くと言えるほど、足を向けたことが無かったのです。武者門の入口から、集会堂の玄関口をあらためて撮りました。その北隣には、「総本山知恩院 新玄関」という大標札が掛けられた玄関が見えます。ここが、大庫裏、小庫裏、対面所と東に並ぶ建物への玄関になるようです。 唐破風の玄関口を正面から眺めると、屋根の鬼瓦と唐破風の鬼板が視角により上下に一体となって見えます。また、正面は板蟇股です。シンプルそのもの。 鬼板には、大方丈の唐破風でみた鬼板とはまた異なるものですが獅子が造形されています。新玄関の北側につらなる「大庫裏」。花頭窓の連なりが美しい。大庫裏の西側面を眺めつつ、北に進むと門があります。 門を出ると、「黒門坂」と名づけられた曲折する石段道です。下まで降りませんでしたが、この画像から知恩院の境内の高さがイメージできることでしょう。石段の坂道を降りると、「神宮道」に面した「黒門」があります。 通り抜けてきた門の方に目を転じると、まさに城郭への登城口という雰囲気すら漂う構えです。この石垣、築地塀のところまで、徳川家康が境内地造成、伽藍建立に関与していたとすると、危急の折には知恩院を城塞代わりに転用する意図があったと言っても過言ではないでしょう。そんな気がします。豊臣秀吉が、京都改造計画を実行し、御土居を巡らした時も、京のお寺は寺町通を形成する形に集めたのも、危急の折には京への敵軍の侵攻の防御線を兼ねたというのですから、その意図は同様でしょう。そんな思いを抱きながら、境内が閉門される前に、南の方を少し散策してみることにして、再度戻ります。こちらは、通りぬけるのが3回目になる「四脚門」です。人物を入れずに撮れる時刻になっていました。左奧が、本堂の修理のために仮設された覆屋です。巨大なビル工事という雰囲気の外観です。門の正面先に見えるのが渡り廊下です。 この門の鬼瓦最後に江戸時代に出版された『都名所図会』に載せられた「知恩教院」の絵を引用します。(資料7) 上掲の境内案内図と対比できるように色丸を付けてみました。この図会が出版された安永9年(1780)時点では、本堂と阿弥陀堂の間に渡り廊下がなかったことがわかります。境内が閉門されるまで、あとわずかの時間になってきました。さすがに、観光客、参拝客を散見する程度です。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2412) 「第51回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック」京都市観光協会 p8-93) 『日本古建築細部語彙 社寺篇』 綜芸舍編集部編 綜芸舍4) 阿弥陀堂 建造物 :「知恩院」5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p282-2876) 勢至堂 建造物 :「知恩院」7) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍データベース」補遺知恩院 :「京都歩く不思議事典」47. 東山三十六峰漫歩 第二十一峰 華頂山(かちょうざん):「京洛そぞろ歩き」雲板 :「コトバンク」徳川将軍家墓碑総覧 秋元茂陽 :「Google Books」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -2 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -3 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -2 多宝塔・寶佛殿・納骨堂・経蔵ほか (2) へ観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜 へ
2017.05.07
コメント(0)

[探訪時期:2013年2月]和爾下神社古墳を周回してから、「赤土山(あかつちやま)古墳」に行きました。この古墳は別名アカンドヤマ古墳、あるいはアカトヤマ古墳と呼ばれているそうです。地図(Mapion)を見ると古墳の明記はありません。大体の位置関係がおわかりいただけると思いますので、こちらからご覧ください。現地に行ってみてわかったのですが、シャープ総合開発センターの敷地の西側に接する形で古墳がありました。 前方部を西に向け、前方部先端は2段築成され葺石があったと記されています。前方後円墳で全長106.5mだったようです。前方後円墳と確定するまでに、二転三転の議論があったとか。その点に触れたサイト記事もあります。上の説明板の位置あたりの南北に掘割があり、この画像の右側つまり西に2号墳があったようです。今はありません。 探訪時のレジュメから「赤土山古墳の墳丘と埴輪」の図を引用させていただきます。2号墳の位置がおわかりいただけます。(資料1)この図の下辺付近の丸印をご覧ください。「2号墳」と名記されています。 墳頂部と段築面にそれぞれ埴輪列が並んで居たようです。その復元埴輪が説明板の傍に2つ展示されています。 これだけの大きさの円筒埴輪が、下部を土の中に埋められてずらっと列になって並んでいれば壮観ですね。 そして、後円部東側に造り出しが造られていて、その南側から家形埴輪などの形象埴輪が出土したのです。その状態が復元されていました。 わかりやすい説明板が設置されており、「家型埴輪祭祀遺構」として説明と図が表示されています。 この遺構から南方向には天理市内が眺められます。 後円部の頂上から見た祭祀遺構 古墳頂上を後円部から前方部に歩いて行き、東方向を見たところ背景の白い建物群がシャープさんです。この赤土山古墳を含め、この櫟本町の東大寺山古墳群は和爾氏の祖先にあたる人物の墓だと推定されているようです。一方で、物部氏の勢力との接するあたりでもあるようなので、まだまだ論議の余地を残すところもあるようです。大枠としてはやはり和爾氏の本拠地域なのだと理解しました。この赤土山古墳は国史跡として2010年に整備が終わり公開されるようになったとのこと。補遺に挙げたネット情報によれば、「後円部の南側は、造営後、まもなく地震で崩壊し墳丘が半分なくなっている事」が判明しているようです。また、「古墳本体は自然地形で残し発掘調査で成果があった部分のみ復元整備されている」とのこと。 この後、和爾下神社の東側を通り、天理教城法大教会の敷地正門傍で少し説明を聞きました。(この探訪では時間の関係で説明だけでの素通りとなりました。)この教会の建物の奥に見える山の頂き部分に、東大寺古墳が位置するのです。当教会の了解を得ると、敷地内を通らせていただき、古墳に登ることができます。 [2017.5.7時点での追記] 2016年7月にこの古墳跡を探訪しました。既に拙探訪記を載せています。こちらをご覧下さい。 (探訪 山辺の道・北辺(櫟本~帯解)-2 柿本人麻呂の歌塚・柿本寺跡・東大寺山古墳群) この東大寺山古墳から続く丘陵の北端の高所に櫟本高塚遺跡が存在し、その場所を探訪するのが次の目標でした。画像の左手の丘陵部の一段低い上部あたりです。 教会前から山裾をくるりと時計方向に回る形になります。小さな溜池の傍を通りました。右の画像が、「鬼子母神社」です。自然石が祀られているのだとか。現在はその場所が削平されグランドになっていました。この場所の中空に古墳時代の建物跡が発掘されたのだとか。そして、6世紀後半に比定される多くの高坏と土師器が出土したそうで、祭祀関連遺跡の可能性が高いとのことでした。このあたりには、弥生時代からの集落遺跡が発掘されているようです。 今回の探訪地域は、まさに古墳、遺跡の集約した間を縫うように巡りました。位置関係を大凡ご理解いただくために記載図を部分拡大して切り出した図を引用し追加します。(資料1)この部分拡大図では地図の左下隅から外れたさらにもう少し左の位置にJR櫟本駅があります。 つづく参照資料1) REC「関西史跡見学教室(20) ~和爾~」 当日配布の講座資料レジュメ 2013.2.23 作成 松波宏隆・龍谷大学非常講師【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺赤土山古墳(あかつちやま) 国史跡 :「大和の古墳探索」赤土山古墳(第6・7次調査)現地説明会資料 天理市教育委員会大和の遺跡 東大寺山丘陵 :「奈良県立橿原考古学研究所付属博物館」赤土山古墳 :「文化遺産オンライン」土師器 :ウィキペディア埴輪 :ウィキペディア前方後円墳の形の変遷 :「前方後円墳入門」 トップページはこちら ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -1 古墳と和爾下神社、柿本寺跡 へ探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -3 和爾坐赤坂比古神社・髙良神社ほか へ
2017.05.07
コメント(0)

JR桜井線・櫟本駅小野氏が和爾氏の流れであることについて、先日の再録・ご紹介の中で触れています。その展開として、滋賀から奈良に場所を移し、和爾氏の本拠地についての探訪録に話を進めておきたいと思います。2013年2月23日(土)に、RECの学外講座(資料1)を受講しました。古代豪族和爾(和邇・和珥・丸)氏の本拠地を探訪するという目的です。史跡のある地域は奈良県天理市の櫟本(いちのもと)町・和爾(わに)町です。関連する神社、古墳、寺などを見学しました。この探訪の復習と記録整理としてまとめていたものをここに再録して、ご紹介したいと思います。今回の受講で、また一つ、歴史の網の目がつながり、点から面への広がりを感じ始めています。「ワニ」という言葉から、多分地名等での連想が働き出した方もおられるでしょう。さて、当日13:00の集合場所はJR桜井線・櫟本駅前です。JR天理駅の一つ奈良寄りの駅と言えば、大凡イメージが湧くかもしれません。東方向で少し離れてはいますが、JRとほぼ平行に、南北方向に山辺の道が通っています。 駅に掲示の周辺MAP 櫟本駅は鄙びた無人駅です。青色の太線がJR桜井線で、右側の緑の太線が山辺の道です。この間に、古墳や神社、寺が散在しています。電車マークからちょうど左側辺り、山辺の道までの中間地域です。そして少し上側辺りの地域が今回の探訪地でした。 駅前の道を少し東方向に進みます。この道、天理方向を撮ったものです。「当時の距離で正確に四里(一理は約530m)の間隔を保って並行に南北走する大道として作られた」(参照2)三本の古代道路の一つ、「上ツ道」に相当するのだとか。『日本書紀』巻第28・天武天皇に、壬申の乱の経緯記述のところにでてきます。「将軍が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々とやってきた。そこで軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配置した」(参照3)。この訳に出てくる上道のことです。駅から少し歩けば、もうそこには古代史との繋がりが様々に現れてきます。 先に行くと墓石が円丘部分に沢山並んでいました。何と、前方後円墳・「墓山古墳」の後円部が見えていたのです。その名の通り墓地に使われているのだからおもしろい。当日のレジュメによると、全長60mほどの古墳で出土品からの推定で中期末造営だとか。 169号線との交差点を横断し右折して少し南下します。 その先が、和爾下神社への参道でした。 右手側に「人丸神像」という文字の読める石碑も建てられています。人丸つまり、柿本人麻呂です。参道を入りすぐ北側の少し奥に小祠がありますが、詳細不明。(講師の説明が先にあったかも知れません。最後尾で写真を撮りながら歩いていましたので・・・・。付近に説明板は確かなかったように思います。)参道沿いに進むと、この説明板があります。このあたり、東大寺山丘陵の一角だそうで、櫟庄は奈良・東大寺の東大寺領荘園だったところでした。何と、和爾下神社は、前方後円墳の後円部の上に建てられている神社なのです。「和爾下神社古墳」という名称はそこから付けられているようです。 すぐそばに、逆光での写真になりましたが、『日本書紀』巻16・武烈天皇の即位前紀の箇所に載る長歌の石碑と説明板があります。影媛(かげひめ)が鮪(しび)が殺されるのを見て歎いた歌として書記の採取されているのです。『日本書紀』(参照3) を読みますと、こういう人間関係で記述されています。太子(=後の武烈天皇) 仁賢天皇の子。影媛を娶ろうと思う。影媛 物部アラカイ大連の女(むすめ) 書記の訳では、以前に鮪に犯されていた。鮪 大臣平群真鳥臣の子 仁賢天皇崩御後、真鳥臣が国政をほしいままにし、王となろうと欲したとする。仲人が介在したことで、影媛は海柘榴市(つばいち)の辻で太子と会う形になる。そこに鮪が現れ、太子とやりとりをする。太子は鮪が影媛と既に通じていたことを知る。真鳥臣と鮪という無礼な父子に怒り、大伴金村連に軍を出させて、奈良山で鮪臣を殺す。というような展開の中での影媛の歎きの歌です。政治的背景と太子の横恋慕が複雑に絡まった経緯ということなのでしょうか。さて、この先の平地に、神社の小祠が見えました。その近くが、柿本寺跡広場です。 この地に柿本寺があったといいます。レジュメには、延久2年(1070)『興福寺雑役免帳』に寺の記載があり、東大寺末で東大寺領荘園の荘衙の役割を担っていたと記されています。ここから奈良時代の瓦が採集されています。そして、広場には大きな板状の竜山石がありました。傍には「石室の天井石」という説明がなされています。長持形石棺の側石か石室天井石だろうという推定でした。『大和名所図会』巻二には、この柿本寺が櫟本村にあり、人丸塚があることが記されています。また、掲載絵図の端に柿の本という名称が記載されています。 石段を上ると、和爾下神社の拝殿・本殿があります。 この社殿が後円墳の上にあるのです。 本殿に向かい左側に末社若宮神社があります。一間社春日造で、本殿と同時期の建立と推定されているようです。本殿は拝殿の両横から覗いても見づらくて一部しか見えません。三間社切妻造で重要文化財に指定されています。本殿右側には和爾下神社と刻した石灯籠が建っていますが、若宮神社側で、本殿よりずっと斜め手前に、「治道宮」と刻した石灯籠が建っています。実は境内に数多く建てられている石灯籠も「治道宮」と記されているのが多いのです。 そのことが「和爾下神社」の説明案内板にも記されていました。『延喜式』には、「和爾下神社二坐」と記載されているとのこと。しかし、鎌倉時代や江戸時代には、「治道天王」と呼ばれていたようです。ネット検索で調べていて「東大寺要録」に記録があるということを知りました。説明板の冒頭に記載のことがここに載っているようです。神護景雲3年(769)に東部から南へ流れていた水路を北へ移動し西流する河川に造り替えて、道路も改修したのだとか。12月10日に工事を始め翌4年4月1日に竣工したときに、森を「治道の杜」といい、神社を「治道宮」といったそうです。寿永2年(1183)に藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が記した『柿本朝臣人麿勘文』には、「治道社」という名前で記されているとか。「春道社」とも書くようです。江戸時代の『大和名所図会』に「和爾下神社二坐」としての記載があります。こちらは絵図が載っていません。当時は柿本寺の方が有名だったのでしょうか。説明文のなかに「治道天皇と称す」という言葉が記されています。「治道天王」ということでしょう。治道宮といわれていたことと符節を合わせているように思います。明治初年に考証の結果、「和爾下神社」と社名が定まったようです。そして、祭神が「スサノオノミコト、大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命の別称)稲田媛命」に移ったのだとか。拝殿の前に牛の像が対で配置されています。スサノオノミコトの本地が牛頭天王(ごずてんのう)であり、大己貴命の荒魂が牛頭天王という説もあるようですので、牛神を祀る形になっているのでしょうか。それでは、旧祭神は? ということになります。明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑前がその筋に出したという記録には、旧祭神として「本社、天足彦国押命・彦姥津命・彦国葦命・若宮難波根子武振熊命」とあるそうです。そこで、再び『日本書紀』に戻っていきますと、孝昭天皇の項に、皇后ヨソタラシヒメが天足彦国押命と日本足彦国押人尊を生み、日本足彦国押人尊が皇太子となり、天足彦国押命が和珥臣らの先祖であると記されています。(参照5)どこまでが史実かは別として、そういう伝承が形成されたということでしょう。つまり、この神社が和爾氏の祖先神を祀る神社だったということになります。当日の講師の説明とレジュメによれば、「和爾氏は歴代大王に9人の妃を入れた氏族で、春日氏・柿本氏・小野氏などと同族と考えられる」とのこと。ここからも、かなり強力な古代豪族だったことが窺えます。柿本人麻呂や小野妹子などが、この和爾氏と同族関係にあるのですね。三浦佑之氏は「和迩・和珥などとも表記されるワニという名は、ハニ(赤土)の転訛だと言われるが信じがたい。大胆な推測をすれば、ワニとは、海の神として信仰されるワニ(海獣のフカ・サメをいう語)から来ているのではないか。かれらは、もともと海洋民で、日本海側の若狭から琵琶湖を経て内陸の倭に住みつくことになったのではないだろうか」(参照6)と著書の脚注に記されています。北の春日(奈良市東部)に勢力を広げ、春日氏となるようです。また、滋賀県の地名・氏族に関係して、一書に、「滋賀郡の和邇部臣・小野臣・近江臣・甲賀郡の甲賀臣についても、前二者が中央の有力豪族ワニ氏、後二者が同じく蘇我氏の同族・配下として、大和政権の一翼を占めていたと考えられる」(参照7)という見解が記載されていました。JR湖西線で、京都から向かうと、堅田を過ぎて、「小野」駅、「和邇」駅と続いているのもなるほどなあ・・・と感じる次第です。このあたり、和爾の勢力圏でもあったということになりますね。ここで、「和爾」という言葉が地理的に大きな広がりを持ち、頭の中で面的に繋がってきた次第です。いくつかの情報から『日本書紀』を繙き、例えば次の記載を見つけることができました。*開化天皇の項 (参照6) 次の妃の和珥臣の先祖姥津命(ははつのみこと)の妹姥津媛は、彦坐王を生んだ。*応神天皇の項 (参照6) 次の妃の和珥臣の祖、日触使主(ひふれのおみ)の女宮主宅媛(みやぬしやひめ)は、菟道稚郎皇子(うじのわきいらつこのみこ)・矢田皇女・雌鳥皇女を生んだ。*雄略天皇の項 (参照6) 次に春日の和珥臣深目の女があり、童女君(おみなぎみ)という。春日大女皇女を生んだ。『古事記』(参照7)にも、形を変えてですが、記載があります。*人代篇其の一 開化天皇の箇所 また、丸迩の臣の祖のヒコクニオケツの妹オケツヒメを妻としての、生んだ御子はヒコイマス、一柱じゃ。*人代篇其の五 応神天皇(=ホムダワケの大君)の箇所 大君は、そのおとめに、「そなたは誰の娘ごであるか」と尋ねるとの、おとめは、「丸迩のヒフレノオホミの娘で、名はミヤヌシヤカハエヒメと申します」と答えたのじゃった。・・・・・ こう歌うた後に、大君とヤハカエヒメは結びおうての、生んだ御子はウヂノワキイラツコじゃ。 → 何と、わが地元の宇治市の地域も古代には、和爾との関わりがあったのです! 点的知識が、繋がってきました。*人代篇其の十 仁賢天皇(オケの大君)の箇所 ワニノヒツマの臣の娘ヌカノワクゴノイラツメを妻としての、生んだ御子はカスガノヤマダノイラツメじゃ。探訪途中で、講師から説明があったのですが、今回の和爾氏とは別系統のワニ氏がいるのです。今回のテーマからは余分ですが、一応復習として確かめてみました。「王仁」と書くワニ氏です。これは記紀両方に記述されています。『日本書紀』では、巻10応神天皇に出てきます。百済王が阿直岐(あちき)を遣わし、応神天皇の許に良馬2匹を奉ります。この馬が飼育されたところが厩坂(うまさか)です。この阿直岐がウヂノワキイラツコの学問の師になります。天皇が阿直岐に「お前よりすぐれた学者がいるか」と質問されたのに対し、「王仁」がいると答えたのです。そこで百済から王仁(ワニ)が渡来し、ウヂノワキイラツコの師となったのです。「王仁は書首(ふみのおびと)らの先祖である」(参照9)ことになります。三浦氏は著書の脚注に、「ワニキシ(ワニ)は、列島の人々に大陸の『知』をもたらした人物として有名。ワニキシを祖とする『文の首』は、河内の国の古市(現在の大阪府羽曳野市辺り)を本拠地とし、文筆のことを技とする渡来氏族である」(参照10)と記されています。神社を下り、前方墳の側にぐるりと回ってから次の探訪地に移動しました。これが前方墳の方に踏入り、後円墳の方向を見たところです。神社への坂道を造るために、一部削平されていたりして残念ですが、前方後円墳の雰囲気はわかりました。和珥氏の系譜の入口を少し覗いた程度ですが、それでも古代史の面白さを感じ始めています。まずは、この辺りで・・・・つづく参照資料1) REC「関西史跡見学教室(20)」 当日配布の講座資料レジュメ 2013.2.23 作成 松波宏隆・龍谷大学非常講師2)『地図から読む歴史』(足利健亮著・講談社学術文庫)p79、p80に図あり。3)『全現代語訳 日本書紀 下』(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)p2584)『全現代語訳 日本書紀 上』(同上)p340-3415)上掲書(上) p1166)上掲書(上) p120、p210、p2857)『口語訳 古事記 完全版』(三浦佑之著・文藝春秋) p153、p234-236、p3488)『新・史跡でつづる古代の近江』(大橋信弥・小笠原好彦編著、ミネルヴァ書房)pⅷ9)上掲書(上) p217-21810)三浦・上掲書 p241【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和珥氏 :ウィキペディア和邇氏族概観 :「氏族姓氏概覧試論」和邇氏考 :「おとくに」・古代豪族和邇氏と考古学 :「談話室」続、和邇氏と考古学 :「談話室」天足彦国押人命・和邇氏もうひとつの王家説:「民族学伝承ひろいあげ辞典」大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 [著] ; 竹原信繁 画:早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 巻二 添上郡 に記載あり牛頭天王 :ウィキペディア和爾下神社由緒 ← 和爾下神社(上治道天王) :「神奈備」 東大寺要録のことをこのサイトで教えていただきました。和爾下神社(下治道天王) :「神奈備」 二坐のうち、横田村(=現横田町)の方の神社和珥下神社二坐柿本寺、人丸塚柿本寺・在原寺 絵図和珥坐赤坂比古神社 和尓村にあり ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -2 赤土岩山古墳・櫟本高塚遺跡 へ探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -3 和爾坐赤坂比古神社・髙良神社ほか へ
2017.05.06
コメント(0)

「二十五菩薩の庭」に佇み、北に目を転じると定規筋の入った築地塀越しに、一段高く宝形形の屋根の御堂が見えます。 ここが知恩院の境内地の北端になるのでしょうか、山の傾斜に沿って白亜の築地塀が登って行くのが見えます。門前に近づいてみました。左側斜め前に、この境内域は「権現堂」であるという駒札が立っています。 駒札「権現様影堂」がこの御堂の正式名称だとか。徳川家康は元和2年に75歳で生涯を終えると、遺言により久能山に一旦埋葬され、1年後に日光東照宮に移されました。祭神として神格化され「東照大権現」と称されていますので、権現様という名称となるのでしょう。(資料1)法然上人の寂滅後、遺骸が西山粟生野で荼毘に付され、法然の遺骨が門弟達に分有されます。遺弟の一人勢観坊源智上人が法然寂滅後22年目の文暦元年(1234)に旧地に伽藍を再興するという願いを許され、廟堂を修復して大谷寺と興し、境内に勢至堂を建てて、知恩教院と称したと言います。これが現在の知恩院の起こりとなります。浄土宗としては法然の寂後、鎮西派・西山派・長楽寺派・九品寺派という四流が形成されていきますが、この地は、九州の筑後国・肥後国を中心に布教活動を広げていた聖光坊弁長上人が源智上人から継承します。そして鎮西派がここを拠点とし、浄土宗の総括として機能していきます。この知恩院を庇護したのが徳川家康だったのです。徳川家康は浄土宗徒だったそうで、慶長8年(1603)生母伝通院の菩提を弔うために、この知恩院の寺域を拡張し、伽藍整備を行ったのです。知恩院の外護者となります。「併せて京洛に事あるときは藩兵を駐屯せしめて警備の本陣たらしめようと計った」(資料2)という政治的意図もあったのでしょう。「大谷の険阻な地を切り崩し、谷を埋めて平地とし、その地にあった常在光院、速成就院(太子堂)、親鸞上人の廟舎等を他に移し、前後7年を費やして諸堂が建てられた」(資料2)そうです。ところが、この伽藍は寛永10年(1633)の出火により多くの建物を焼失することになったそうです。それを三代将軍家光が復興したのです。そして、現在に至るのです。現在の三門は元和5年(1619)に二代将軍秀忠が建立したものが現存しますが、現在修理中の御影堂(本堂)は、出火で焼失後、寛永16年(1639)に家光により再建された建物です。(資料2)今回拝見した大方丈・小方丈は、ガイドブックによると大方丈は寛永18年(1641)に家光が創建し、小方丈も同時期に建てられたものと記されています。(資料3)この権現堂は権現様である家康と秀忠、家光の三代の霊をまつる廟堂として建立されているのです。 境内には入れませんので、門前から眺めるとまだ新しい廟堂の姿が眺められます。度重なる火災でこの御堂も焼失していたのを、昭和49年(1974)浄土開宗800年を記念して再建された故のようです。御堂の正面の蟇股をズームアップで撮ってみましたが、シンプルなものです。これは元の状態の復元なのか、再建により新たに造られたのか定かではありませんが。 門は四脚門の形式です。連子窓の桟唐戸の形式の扉となっています。 頭貫の上の蟇股はごく素朴な形です。梁を支える控柱の上部の形が少しお洒落な感じで、アクセントになっています。 木鼻も蟇股と整合してシンプルな形です。屋根の丸軒瓦や獅子口には、葵紋がレリーフされています。0035 ああ、徳川家という感じ。 権現堂の東側には石垣が積まれ、その上に白亜の築地塀が連なっています。 この地図に茶色の丸を付けたところが権現堂です。築地塀の東側は、勢至堂の背後になり、手許の本によれば墓地域になるようです。案内図には「濡髪大明神」という記入があります。「濡神祠(ぬれかみのほこら)」は知恩院の伽藍の鎮守として荼吉尼天を祀ったものとのこと。少し、興味深い説明が続いていますので引用してご紹介します。「一説に、濡髪童子という白狐を祀ったものともいう。寺伝によれば、寛永年中、ときの住職霊厳上人が当寺再建に際し、この地に棲んでいた白狐が棲家を追われるにを哀れみ、ここに祠を建て、知恩院の守護神として祀ったのが起りとつたえ、それより毎年1月と11月の25日にはお火焚がおこなわれる。濡髪堂の信仰は、その名称から男女縁結びに効験ありともてはやされ、祇園花街の姐さん達の信仰を集めるに至った」(資料2)この堂前の墓地には、千姫の墓があるそうです。案内図にも表記されています。 権現堂を後にして、戻る時に撮ることのできた「二十五菩薩の庭」の眺めについて、また違った景色をご紹介します。 植え込みの地面の白砂の流文が目に止まります。 小方丈(東面) 桁を支えるのは小さめの船肘木で、軒裏は細身の?タルキが二軒で平行に等間隔で並び、白壁との対比がすっきりと美しい姿を見せています。 大方丈は外の廻縁に高欄が設けてありますが、小方丈は廻縁だけです。立ち入らないようにということの標でしょうか、青竹が一直線に境界柵として置かれています。前回ご紹介した飾り金具の写真を戻る際に再び撮りながら、集会堂に戻りました。「京の冬の旅」としての特別拝観のご紹介はこれで終わります。ご一読ありがとうございます。この後、集会堂から廊下伝いに阿弥陀堂に巡ることができました。次回から、別稿でのご紹介としてまとめてみたいと思います。参照資料1) 由緒 :「日光東照宮」 日光東照宮 :ウィキペディア2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2413) 「第51回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック」 京都市観光協会 p8-9補遺源智 :ウィキペディア弁長 :ウィキペディア総本山 知恩院 ホームページ 法然上人と知恩院 年表 探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -2 へ浄土宗とは :「浄土宗」総本山・大本山・本山・特別寺院 :「浄土宗」西山浄土宗 総本山光明寺 ホームページ法然上人とその門流 浄土宗総合研究所編 pdfファイル ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -2 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -2 多宝塔・寶佛殿・納骨堂・経蔵ほか (2) へ観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜 へ
2017.05.06
コメント(0)

大方丈南面の庭から大方丈の東側に庭を廻り込み、北方向の小方丈に向かいます。この案内図で言えば、黄色い丸を付けたあたりからのご紹介です。 この画像の右端の平石が前回ご紹介した「慈鎮石」です。 慈鎮石に隠れたこちらの池端あたりから、目を移していくとこんな景色になります。大方丈の南から東側に回り込むと、東側に2つめの池が南北方向に広がり、この画像の左側が大方丈の東側になります。北に小方丈が見えます。 「三代将軍家光公 御手植の松(三代目)」という駒札の立つ松の木があります。 池の北辺からのこの景色が、小方丈の正面(南面)からの眺めになります。庭の景色から建物の方に目を転じてみます。大方丈の東側面を北側から撮った画像です。南東隅に板扉があります。 板扉の蝶番と飾り金具 彫金文様の美しさ 板扉の補強兼飾り金具 釘隠しの飾り金具 欄干の飾り金具 小方丈の桧皮葺きの屋根 小方丈の南東側から西の眺め大方丈と小方丈を繋ぐ廊下のある建物が先に見えます。 小方丈の南西側、外縁の板扉 板扉の補強を兼ねた飾り金具の彫金が繊細で素敵です。微妙にバリエーションができています。 釘隠しの飾り金具には菊花の紋が使われて。小方丈の正面(南面)前にこの案内板が設置されています。単層、入母屋造り、桧皮葺きの書院造りの建物で、正面22m、奥行き19m、6つの部屋からなる建物です。寛永18年(1641)に建立されたそうです。将軍が上洛したときにここに宿泊したのだとか。 (紫色の丸を付けたところ)廊下は二重で部屋の周囲を巡っています。正面では上段の間のところで廊下が一段高くなっています。小方丈は、大方丈とは対照的に、狩野派の画家たちに描かれた水墨山水の障壁画で飾られていて、趣がことなります。一室には、三門に掛けられた扁額の大きさの字の「華頂山」掛け軸が掛けてありました。廊下から眺めても巨大なサイズです。小方丈の上段の間は、狩野尚信筆の雪景を描いた障壁画で飾られています。(資料1,2)小方丈の南東隅を回り込むと、建物の東側には、山側に石垣が組まれていて、その前が「二十五菩薩の庭」と呼ばれています。(空色の丸を付けたところ)この庭の北側から眺めるとこんな景色です。 小方丈の南東隅近くに設置された案内板がこれです。「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」をこの庭に表出したそうです。「庭に配置されている石は阿弥陀如来と二十五菩薩を、植え込みは来迎雲を表している」(案内板より)のだとか。 視点を移動させて撮ってみました。来訪者が居て撮れないアングルがありました。 建物の側面です。獅子口の傍に見える金具は何なのでしょう・・・・・・。二十五菩薩の庭の北には権現堂があります。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2412) 「第51回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック」 京都市観光協会 p8-9補遺阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝) :「総本山知恩院」阿弥陀二十五菩薩来迎図について 法話集 :「天台宗」来迎 :ウィキペディア絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図 :「文化遺産オンライン」阿弥陀如来二十五菩薩来迎図 :「龍谷大学人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -3 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -2 多宝塔・寶佛殿・納骨堂・経蔵ほか (2) へ観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜 へ
2017.05.05
コメント(0)

[探訪時期:2014年12月] 小野神社の参道入口北角にある前回ご紹介の上品寺から道路沿いに少し北に行けば、和邇川があります。その川沿いに和邇公園が整備されています。 途中で、虹が架かっているのを目にしました。薄く虹の一部がご覧いただけるでしょう。 和邇川 和邇公園ここで昼食休憩となり、今回の小野神社周辺巡りはここで終了し、後は和邇駅までの道案内という説明を受けました。そこで主催者の了解を得、参加メンバーとは別れて、せっかくの機会なので、それほど遠くないということでしたので「天皇神社」に足を延ばすことにしました。延ばした甲斐がありました。 「天皇神社」 正面の石の鳥居鳥居の先に拝殿が見えます。本殿のところでいただいたリーフレットの境内見取図では、「水場」と記されています。 鳥居から見えていた「拝殿」拝殿の背後に本殿があり、境内社が、本殿に向かい左側に左方向に、樹下神社、松尾神社、三宮神社の三社。右側には右方向に若宮神社、大国神社の二社が一列に横並びとなっています。 「本殿」 小野篁神社・小野道風神社と同じ、切妻造檜皮葺です。 この形式の本殿は、滋賀県内ではここの本殿を加えて3棟だけだそうです。また、日本全国でみても希な建築形式だとか。それが3棟も1地域に集まっているのがおもしろい。重要文化財に指定されています。ここの本殿は桁行三間、梁間二間、一重、向拝一間の建物で、鎌倉時代・正中元年(1324)に建立されたそうです。小野神社職務歴代記に建立に関する記録があるそうです。小野神社の2棟とは違い、屋根の勾配が著しく緩い造りになっています。(資料1、説明板)祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。社伝によれば、村上天皇康保3年(966)の創始と伝えられているそうです。元は、「和邇牛頭天王社」と称された神社。京都八坂祇園の「牛頭天王」をこの地に遷したといいます。つまり、現在の八坂神社の流れですね。和邇中、今宿の産土神として崇敬されているのです。後でご紹介するように境内地社殿はこの地域のそれぞれの村の氏神として崇敬されており、さらにこの和邇荘全体の氏神として「和邇牛頭天王社」があるという構造にもなっていたようです。明治9年(1876)に「天皇神社」と改称されたのだとか。今までの各地探訪の折、幾箇所かで「天皇神社」を訪れています。一貫して「牛頭天王社」が「天皇神社」に改称されています。「牛頭天王は薬師如来の垂迹神で、素戔嗚尊と同体とされる」ことから、天皇神社と改称されるとき、「祭神も素戔嗚尊に改められたのであろう。本地仏を安置する薬師堂も境外に移され、現在は神社背後の乳守地蔵の脇にある」(資料2)とのことです。この薬師堂は今回訪ねていません。本殿・母屋の正面中央間と右側面が幣軸構板戸両開という形式の扉です。ここでもめずらしいと思ったのが正面の板戸の下部にある向かい合う人物像の装飾です。こういう意匠を初めて見ました。上掲の写真のように脇間は格子戸嵌殺の様式です。 頭貫の先端の木鼻は彫刻の装飾がありません。これもちょっとめずらしいと感じた次第。向拝の蟇股は残念ながら欠損しています。 本殿の背面、左側面の外観は白壁ですっきりしています。リーフレットによれば、境内社について、樹下神社、三宮神社、若宮神社の順に創立されたようです。以下ご紹介します。(資料1) 「樹下神社」 本殿に向かって左隣り後醍醐天皇正中2年(1325)「日吉十禅師社」の分御霊をこの地に奉遷。同年11月に遷宮。「和邇牛頭天王社」の摂社。中浜の産土神として崇敬されているそうです。祭神は鴨玉依媛命(かもたまよりひめのみこと)。現在の社殿は元禄3年(1690)に改造されたものとのこと。明治9年に「十禅師社」を「樹下神社」と改称されたのです。樹下神社で思い出したのが守山市街地、中山道沿いにある同名の神社です。後日再録してご紹介したいと思っています。こちらの神社の彫刻はなかなかのものです。玉眼を使っています。 蟇股の龍 向拝の木鼻の象 母屋側の木鼻は正面、側面ともに獅子が睨みをきかせています。 社殿の側面は板壁です。屋根の下に弓矢が奉納されています。神社本殿より規模は格段に小さいですが、装飾面ではかなり豪華な社殿です。 「三宮神社」 左端に位置します。後光厳天皇康安元年(1361)「日吉三宮」の分御霊をこの地に奉遷。同年11月に遷宮。同様に摂社であり、こちらは北浜の産土神として崇敬されているそうです。祭神は鴨玉依媛命荒御魂(かもたまよりひめのみことあらみたま)。現在の社殿は文明3年(1471)に改造されたとのこと。同様に、明治9年に「三宮神社」と改称されたのです。旧名は「日吉三宮社」だったようです。 木鼻はわりと良くみかけるタイプの意匠です。蟇股もシンプルなもの。 本殿の右隣りに位置する「若宮神社」後小松天皇明徳2年(1391)「日吉二宮」の分御霊をこの地に奉遷。同年9月に遷宮。同様に摂社であり、高城の産土神として崇敬されているそうです。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)現在の社殿は文化3年(1806)に改造されたとのこと。同様に、明治9年に「若宮神社」と改称されたのです。旧名は「日吉二宮社」だったようです。 三宮神社の右隣で、樹下神社との間にある「松尾神社」ここの木鼻は、三宮神社の木鼻よりも象の形象が立体化していて、本格的な象頭の彫刻への過渡期を思わせる造作の感じです。蟇股はシンプルなもの。また、蟇股など部分補修されているようです。祭神は大山咋神荒御魂(おおやまくいのかみあらみたま)神社名と祭神を考えると、京都の松尾大社の流れでしょうか。(資料3)一番右端の大国神社(祭神:大国主神)の写真を撮り忘れました。松尾神社と同規模の大きさのようですが、松尾神社とともに創立等は不詳です。境内地南隅にある宝塔 大津市「有形文化財」指定鎌倉時代の作品のようです。「法華経」を根本経典とする天台宗・比叡山延暦寺の強い影響が、この旧志賀町内の神社にあった影響だろうと考えられているようです。調べて見ると、この地域はかつて和邇荘であり延暦寺の寺領になっていたのです。日吉大社からの分御霊の奉遷が多いこともその影響かもしれません。日吉大社は天台宗延暦寺の護法神として位置付けられていましたから。(資料4)さらに興味深いのは、本殿としての「牛頭天王社」がそのまま存続し、末社として日吉山王社の神々が祀られたのは、古代からこの地に小野氏の勢力が存在したことのためか、「牛頭天王社」という京都祇園八坂との関係なのかもしれないというところです。それがこの神社の「和邇祭り」にしきたりとして残るそうです。「和邇祭り」は古来4月初申の日が祭日だったそうですが、現在は5月の第2日曜日に実施されているとか。そして、「祭礼時、天皇神社の神輿が『大宮』であるのにかかわらず、式典の中では、御供の献上、あるいは祝詞奏上の順は樹下神社の神輿が一番先となっている」のだそうです。(資料1)このあたりの事情を考えると、本殿の建物の形式に対し、樹下神社の社殿の豪華さがなるほどと頷けます。中世の勢力交代のしからしめる結果ということなのでしょう。上記の神社を崇敬した村々の名称は、現在もそのまま地名として残っています。こちらの地図(Mapion)をご覧いただくと、イメージが作りやすいと思います。JR和邇駅に向かう途中、榎町(えのきちょう)商店街の十字路角に、デンとこの大きな「榎」と刻された石碑があります。なんだろうと後で調べてわかりました。「かつては、ここにエノキが植えられており、一里塚とも天皇神社の神木ともされていた」ことを示す史跡なのだそうです。(資料2)この大きな石碑を見て、今回のオプションを加えた探訪が終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「天皇神社」 当日、本殿のところでいただいたリーフレット2) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p233-2343) 松尾大社 歴史・由緒 :「松尾大社」HP4) 日吉大社について :「日吉大社」HP【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和魂・荒魂 :ウィキペディア荒御魂と和御魂 :「伊勢参拝ナビ」牛頭天王 :ウィキペディア祇園信仰 :ウィキペディア八坂神社について :「八坂神社」HP八坂神社 :ウィキペディア「牛頭天王」に見え隠れする日本人のルーツ :「日本とユダヤのハーモニー」 ネット検索していて出会ったおもしろい解釈です。和邇祭 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」和邇天皇神社の祭 :YouTube和邇祭り :「西近江しんぶん」和邇氏考 古代豪族 :「おとくに」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -1 小野妹子神社・唐臼山古墳・小野道風神社ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -2 石神古墳群・石上神社・小野神社・小野小町の塔・小野篁神社・上品寺 へ
2017.05.05
コメント(0)

まず、JR小野駅前にあった案内図の部分図を載せておきます。小野道風神社から小野神社に向かう行程がお解りいただけるでしょう。 [探訪時期:2014年12月] 小野道風神社から少し先にこの標識が立っています。 途中に、石神(いわがみ)古墳群の標識が出ています。 「石神古墳群」の2号墳 石神古墳群は4基の円墳からなり、いずれも横穴式石室で古墳時代後半に築造されたものだとか。ここは昭和49年に発掘調査が行われ、主に須恵器の杯身(つきみ)、杯蓋(つきぶた)、提瓶(ていへい)などが出土したようです。1号墳は7世紀前半ごろの築造、そして2,3,4号墳は6世紀前半にさかのぼる築造と推定されています。(説明板より) 1号墳寄りに「石上(いわがみ)神社」が祀られています。すぐ傍に1号墳の石材が見えます。鳥居の左斜め奥の盛り上がった箇所が上掲の2号墳です。近くには「岩上神社」と刻された石標が立っていました。すこし先に進むと、道沿いの少し高いところに、「永富稲荷神社」が祀られています。 案内標識の先には白い築地塀と大きな木参道脇のこの樹木は、胸高周囲4mを超える県内最大級のムクロジだそうです。 小野神社・小野篁神社の石の鳥居 手水舎 手水舎の蟇股と木鼻の意匠がちょっと特徴的です。ここまで透かし彫りにしてあるのは初めて見た気がします。 鳥居をくぐり広い境内に入ったところからの眺め。左側が小野神社参道だという順路標識が見えます。 境内を流れる小川にかかる小さな橋を渡ると、左方向にこの歌碑があります。百人一首の11番に入っている小野篁の有名な歌です。 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣船 参道の石段を歩むと、途中に石造宝塔が見えます。 「小野小町塔」と表示が出ています。もう一つ石の鳥居があり、その先に社殿が2つ見えます。この鳥居の正面に見えるのが「小野神社」で、その右斜め前方に見えるのが「小野篁神社」です。 小野神社 石灯籠の代わりに鏡餅を載せたものが奉納されています。これは初めて見る景色です。 小野神社本殿祭神は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと):孝昭天皇の第一皇子 米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと) :上記第一皇子から七代目『日本書紀』を読むと、孝昭天皇の「29年春1月3日、世襲足媛(よそたらしひめ)を立てて皇后とした。后は天足彦国押人命と、日本足彦国押天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと孝安天皇)とを生まれた。68年春1月14日、日本足彦国押尊を立てて皇太子とされた。年20。天足彦国押人命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」(資料1)と記されています。和珥氏から小野氏が分かれているようですので、小野一族の祖となるのでしょう。『古事記』を典拠とした内容も説明板に記されています。手許の本では、「兄のアメオシタラシヒコは、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壱比韋(いちひい)の臣、大坂の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶(むざ)の臣、都怒(つぬ)の臣、伊勢の飯高(いいたか)の君、壱師(いちし)の君、近淡海(ちかつおうみ)の国造(くにのみやつこ)らの祖(おや)になったのじゃ」(資料2)と記されています。和珥臣が出てこずに、同族とされる「春日、大宅、栗田、小野、柿本、飯高」と枝氏の列挙として出てくるところが興味深いところです。(資料3)「祭神のうち米餅搗大使主命は、鏨着(たがねつき)大使主とも表記され、鍛冶の神とも考えられるが、『米餅搗』という用字から、いつの頃からか同神は餅や和菓子の神とされ、これにちなんだ祭が行われている」(資料4)のです。また、説明板に記された「小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた」という説明板の記述は、私には興味深くおもしろい発見でした。そういえば、京都には「匠・司」を関する老舗の和菓子屋さんがいくつもあります。この祭が、毎年秋11月2日に行われる「しとぎ祭」だとか。お菓子の祖神の祭として、全国から菓子業者が集まるそうです。(資料4,5)社殿の前の鏡餅の形の奉納に、なるほど!です。小野神社は『続日本紀』の宝亀3年(772)4月の記述から、奈良時代に存在していたことは明かなようです(資料4)。社記によれば延喜式明神大社です。(説明板、資料6)本殿は、神明造で間口一間二尺、奥行一間一尺。「平安時代には小野氏の氏神として崇敬され、小野氏のほか、大春日・布瑠・粟田の3氏に対して、小野神社の春秋の祭のおりに、太政官符を待たずに平安京と近江国滋賀郡とを往還することが許可されている」(資料4)状態だったそうです。大春日・布瑠・粟田は同族諸氏として共通の奉斎神としたということなのでしょう。 斜前方の北隣に「小野篁神社」の本殿があります。 この篁神社本殿の方が、一見では小野神社そのものと錯覚しそうです。小野神社より後世に建てられたことから、こちらがある時期はメインに尊崇されたのかも知れませんね。祭神は小野篁。私が小野篁で、まず想起するのは京都・東山に所在の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)境内にある篁堂の「小野篁立像」です。(資料7)それと、拙ブログで既にご紹介しておりますが、小野篁の墓と称されるもの。「スポット探訪 [再録] 京都・洛中 小野篁・紫式部墓」です。こちらからご覧いただけるとうれしいです。道風神社の本殿と同様に、こちらも切妻造・平入り・檜皮葺の本殿です。桁行三間、梁間二間、向拝一間。その様式から暦応年間(1338~42)の建築と考えられています。「社殿は暦応三年に佐々木六角により建立されたと伝えられる。」(資料6)とか、「社伝によれば、暦応2年(1339)に佐々木氏頼が篁・道風の両社を建立したとされており」(資料8)とか、複数の伝えがあるようです。 この本殿にも、内部に狛犬像が置かれています。 木鼻はシンプルで、蟇股が素朴というか奇妙な形象です。閻魔大王と繋がる・・・・これがもともとの形なのでしょうか? そうならば、おもしろい発想、奇妙な力強さを秘めている気がします。道風神社の蟇股と見比べてみてください。小野神社境内にある境内社。八幡神社と松尾神社の木札が掛けられています。正面の鳥居をくぐってきて、順路標識がなく、前方にこの石段とその先の本殿を眺めれば、こちらを小野神社の本殿とつい思いますよね・・・・。境内を流れる小川に沿って石の鳥居から再び白壁の築地塀沿いの参道に出て、「御神田」と木札の立つ水田に気づきました。参道を真っ直ぐに出て来てやっとわかったのですが、白い築地塀に囲まれたのは「上品寺(じょうほんじ)」です。調べて見ると、天台真盛宗のお寺です。承和4年(849)小野篁開基と伝えるお寺だそうです。JR和邇駅下車徒歩10分と説明が付いていますので、小野神社は和邇駅から来れば15分以内ということになります。(資料8) 天台真盛宗は坂本にある西教寺が総本山です。これがJR和邇駅の方から真っ直ぐに来たときの「小野神社」の参道への入口です。この「小野周辺史跡案内図」をご覧いただくと、小野周辺に古墳がいかに多いかがおわかりいただけるでしょう。この後、和邇公園に向かいました。すぐ近くです。つづく参照資料1) 『全現代訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 講談社学術文庫 p1162) 『口語訳 古事記 [完全版]』 訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋 p1493) 和珥氏 :ウィキペディア4) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p2375) 当日配付のレジュメ 「和邇~小野地区」6) 小野神社 (オノ) :「滋賀県神社庁」7) 六道珍皇寺と小野篁の不思議な伝説 :「六道珍皇寺」8) 小野篁神社 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」9) 上品寺 大津の歴史辞典 :「大津市歴史博物館」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ムクロジ :「緑の絵画館 私の植物図鑑」無患子 (むくろじ) :「季節の花300」小野 篁 :ウィキペディア小野篁の地獄通い :「読む・聴く 昔話」地獄往来、小野篁 :「お話歳時記」大津の歴史事典 地区:和邇 :「大津市歴史博物館」しとぎ祭・大津市小野 滋賀伝統文化再発見 :「滋賀文化のススメ」しとぎ祭り :「大津市歴史博物館」菓子・餅の祖神 小野神社 :「近江歴史回廊倶楽部」天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -1 小野妹子神社・唐臼山古墳・小野道風神社ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -3 和邇公園・天皇神社・「榎」碑 へ
2017.05.05
コメント(0)

JR湖西線・小野駅と近辺の景色です。2014年12月23日(火・祝日)に「小野妹子ゆかりの地をめぐる健康ウォーキング」に参加しました。NPO法人「ライティング心と未来」が企画され、「古都おおつ観光ボランティアガイドの会」の方がご案内くださいました。小野地域は、行政的には大津市ですが、イメージのしやすさから滋賀・湖西と記すことにします。この時の探訪まとめたものを再録し、ご紹介します。一度訪れてみたいと思っていた所なので、私には絶好の機会となりました。ボランティアの皆さんに感謝!です。当日の探訪ルートは大凡、 JR小野駅→小野妹子公園→道風神社→石神古墳群→小野神社・小野篁神社→JR和邇駅という行程です。実質2時間半程度の探訪ウォーキングでした。 JR小野駅前に、今回の探訪ルートをほぼ明示した詳しい案内板が設置されています。それをご覧になると便利だと思います。その部分図を切り出してみます。今回の近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。小野駅前の広場から駅前の道路を右折して北に向かいます。湖青1丁目のバス停の先の交差点で左折し、びわ湖ローズタウンの住宅地の中に残された丘陵に向かいます。水明1丁目です。丘陵地は「小野妹子公園」として整備されています。丘陵の西側に回り込んで行くと、「小野妹子神社」の石標と石の鳥居が見えます。ここから丘陵を上がって行きます。 ここは遣隋使として有名なあの小野妹子のゆかりの地です。 なぜここに小野妹子を祀る神社があるのか。実は、この場所が「唐臼山古墳」と称される地点で、「小野妹子墓」という伝承があるのです。 この地域は古くは和邇部氏が支配していたところです。京都洛北の愛宕郡小野郷(左京区上高野)に居た小野氏が後にこちらに進出してきて、8世紀の初めにはこの地域の主流になって行ったようです。(資料1)小野妹子の母は和邇部氏の出身であり、妹子は近江国滋賀郡小野で生まれたそうです。小野村を本拠とした小野氏の一族。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、妹子が小野村に居住したことにより、小野を氏の名としたと記されているとか。(資料2) 小さな本殿の後にこの写真のように封土が流出し石室の一部が露出した状態になっています。「近年の研究では、墳丘は方墳で、主体部は南側に開口する横口式石槨と考えられている。床には玉石が敷かれていたらしく、南端にわずかに小石が露出し、この上面から7世紀前半頃の須恵器の坏身(つきみ)、坏蓋(つきふた)各1点が発見されており、築造年代が推定できる」(資料2)ようです。『日本書紀』を繙きますと、推古天皇の15年に「秋7月3日、大礼小野臣妹子を大唐(もろこし隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした」「16年夏4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名づけて、蘇因高(そいんこう)とよんだ。大唐の使人裴世清(つかいはいせいせい)と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫についた。・・・・」と記されています。さらに、同年9月、「11日、客人裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子を大使(おおつかい)とし、吉士雄成(きしのおなり)を小使(そいつかい)とした。鞍作福利を通訳として、随行させた。」そして、17年「9月、小野妹子らが大唐(隋)から帰った。ただ通訳の福利だけは帰らなかった。」と記しています。小野妹子は第2次遣隋使として607年7月~608年4月に、608年9月~609年9月は送使として渡海したのです。(資料3)小野妹子の任務には「仏教を学ぶ」「書物を購入する」「礼制を導入する」という3つの目的があったようです。(資料1)小野妹子神社自体は、唐臼山古墳の存在が明らかになり小野妹子の墓という見解が生じた後、明治以降に創祀されたようです。1882年(明治15年)の『近江国滋賀郡小野村誌』には、唐臼山古墳の所伝は記載がないそうです。一方、1919(大正8)年には、「外交始祖大徳小野妹子」と刻まれた唐臼山古墳への道標が建立されてたと言います。(現在あるのは復元品)(資料2)なお、余談ですが、小野妹子墓と称されるのは、大阪府南河内郡太子町山田の所在の科長(しなが)神社の南側の小高い丘の上にもあるそうです。(資料4)唐臼山古墳のある残された丘陵の東端は琵琶湖の展望所になっています。 対岸に三上山が見え、彼岸と此岸を繋ぐ琵琶湖大橋・レインボーロードが眺められます。この後、北側・小学校のある方に下って行きます。 目指すのは「道風神社」です。道標が整備されていますので、わかりやすいです。この湖西にも古墳群が数多く在り、「曼陀羅山古墳群」への表示が出ています。進んで行く道の傍に、右画像の「小野古墳群」という石標を見かけました。 さらに、「小野道風神社」への道路標識 「小野道風神社」 祭神は小野道風(おののとうふう)。 この小野神社の飛地にある境内社という位置づけです。本殿は切妻造檜皮葺。一重で、桁行三間・梁間二間、向拝一間です。南北朝時代・暦応4年(1341)の建立だとか。 小野道風と聞くと、柳の枝に蛙が飛びつくイメージ、花札の絵柄にもなっている場面が想起されます。その姿を眺めて、小野道風が発奮し文筆の極致を極めるようになったというあの逸話です。道風は小野篁の孫であり、平安時代中期の書家。「日本三蹟」の一人として有名です。後の二人は、藤原佐理(すけまさ)と藤原行成(ゆきなり)です。小野道風は和様の書の創始者として有名。(資料1、説明板)余談ですが、それより先、9世紀の唐風文化の隆盛した時代に能書家で知られた人が、嵯峨天皇・空海・橘逸勢(はやなり)の3人で、「日本三筆」と称されています。(資料5)江戸時代には篁神社を大宮とするのに対して、こちらを二宮大権現などと称されたとか。また、道風神社は奈良~室町時代の大般若経を所蔵し、神社の南にある観音堂で転読されているようです。(資料2)本殿の左斜め前の樹木の傍にある境内社は「文殊神社」、本殿に向かって左側が「八坂神社」で、右側が「樹下神社」です。 本堂の格子扉の向こうに、狛犬が配置されています。 向拝の木鼻はシンプルですが、蟇股の透かし彫りの彫刻はなかなか堂々としています。向拝柱の上部の手挟みにもしっかり草花文様が彫刻されています。 そして、この後小野神社の方に向かいます。つづく参照資料1) 当日は配付のレジュメ 「和邇~小野地区」2) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p238-2393) 『全現代訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 講談社学術文庫4) 小野妹子墓 :「太子町」5) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p95【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺小野氏 :ウィキペディア和珥氏 :ウィキペディア小野妹子 :ウィキペディア小野妹子と華道 :「小野妹子.org」いけばな発祥の地 六角堂と池坊 :「池坊」小野妹子の子孫たち その1 :「小野妹子の子孫たち」小野道風 :ウィキペディア小野道風 :「古典書法」玉泉帖(ぎょくせんじょう) :「宮内庁」玉泉帖:伝小野道風筆 :「近代デジタルライブラリー」春日井市道風記念館 :「春日井市」道風神社 :「京都観光Navi」道風神社(北区) :「京都風光」花札の謎シリーズ 11月札『柳に小野道風』 :「京都 大石天狗堂」琵琶湖大橋 :ウィキペディア琵琶湖大橋有料道路 :「滋賀県道路公社」小野妹子墓 :「聖徳太子ゆかりの古墳」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -2 石神古墳群・石上神社・小野神社・小野小町の塔・小野篁神社・上品寺 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -3 和邇公園・天皇神社・「榎」碑 へ
2017.05.04
コメント(0)

「第51回 京の冬の旅」(非公開文化財特別公開)の最終日(2017年3月18日)の午後に、知恩院を訪れました。大方丈・小方丈・方丈庭園の特別公開が行われたため、この機会に拝見しました。知恩院の「三門」の桜が咲いた今年の景色は既にご紹介しました。こちらは逆転しましたが、2週間余前の三門の景色です。 三門の近くに、「浄土宗本山知恩院境内案内図」が設置されています。その境内案内図から今回の探訪関連部分拡大図を作り、関係箇所にマーキングしてみました。三門をくぐり、「男坂」の急な階段を上がると、「御影堂」(本堂)のある境内域に入ります。この国宝御影堂は、境内案内図に付記されていますが、平成24年(2012)より平成31年(2019)まで修理期間に入っています。「工事区域」として薄茶色で憑依されています。この修理期間は、集会堂が法然上人御堂として代用されています。この法然上人御堂(集会堂)は自由に参拝できます。今回の特別公開の箇所は、この集会堂内を経由して拝見に行く形でした。 阿弥陀堂の前を通り、四脚門を通り抜けると、右画像の「武家門」入口があり、「法然上人御堂」の木札が掛けてあります。門前に提灯が立ててあります。特別公開の看板も置いてありました。(赤丸を付したところ)「法然上人御堂」として使われている大きな集会堂内を通り抜け、仮設の拝観受付所に進みます。そして廊下伝いに「大方丈」と「小方丈」の各室内を廊下から拝見しました。建物内は撮影禁止でした。集会堂は俗に千畳敷とよばれるそうで、450畳敷の大集会所だとか。「本堂と集会堂と大方丈をつなぐ540mの長廊下は世に『鶯張りの廊下』とよばれ、歩けば板敷に妙音を発し、さながら春鶯のさえずりをきく思いがする」(資料1)というものです。知恩院のサイトの説明では550mです。大方丈入口の廊下の梁には、「大杓子」が置かれているのです。知恩院の七不思議の一つとなっています。名前の通り、長さ2.5m、重量約30kgといわれる大きな杓子です。(資料2) これは今回の拝観券の半券です。大方丈の「鶴の間」の一隅の襖絵が写真に使われています。大方丈は重要文化財となっていて、寛永18年(1641)、徳川三代将軍家光が創建したものだそうです。この「鶴の間」は54畳の広さだとか。他に「上段の間・中段の間・下段の間」や「菊の間」があります。この方丈内は狩野尚信、信政、興以という狩野派の絵師による金碧障壁画で豪壮に装飾されています。(資料1,3)「菊の間」にある「抜け雀」の襖絵は知恩院の七不思議の一つとして有名です。御堂の廊下の一画に、七不思議の展示説明がされていて、この「抜け雀」の模写画による説明展示もありました。これは武家門入口前の立て看板を撮った画像です。小方丈の「上段の間」の景色で、雪景を描いた狩野尚信筆の障壁画で飾られています。両方丈の室内を廊下伝いに拝見した後、方丈庭園を巡ります。庭園内を巡るとき、両方丈建物の傍に、室内の景色を案内板に一部掲示されていました。後で触れます。大方丈と小方丈はいずれも単層、入母屋造り、桧皮葺の書院造りの建物です。二条城の寛永行幸の際、城内の殿舎を移したものといわれているもので、豪華な客殿風の建物です。(資料1) 集会堂と大方丈の双方に繋がる建物の玄関は南面しています。唐破風の玄関です。 唐破風の屋根の鬼板にはダイナミックな龍が装飾されています。蟇股には瑞鳥草花文様が透かし彫りされていて華麗です。玄関に向かって左側は、法然上人御堂(集会堂)につながります。 法然上人御堂(集会堂)の鬼瓦 御影堂の境内域と大方丈との間は築地塀で仕切られていて、「唐門」が設けられています。(マゼンダ色の丸を付したところ)これは玄関側から唐門を撮りました。修理工事のために御影堂は巨大な覆屋が仮設されていますので無粋な背景になっています。しかたのないことですが・・・・。門の前後に唐破風が付けられ、獅子口には菊の紋がレリーフされています。兎毛通の彫刻装飾は比較的シンプルなものです。 大瓶束もすっきりとしています。一方、蟇股に施された彫刻は、ちょっと珍しく不思議な感じのものです。船に乗る人物はだれなのでしょうか? 何か寓意が秘められているのでしょうか。 入母屋造り、桧皮葺きの四脚門で、門扉は桟唐戸です。寛永18年(1641)に建造されたものだそうです。(資料1) 門扉の上部が緻密な花狭間窓になっています。この唐門は、建築の細部の豪華さを特長とする桃山様式の名残を漂わせています。方丈庭園は源氏塀で仕切られていて、唐門に向かって左側の塀傍に「佛足石」が置かれています。尚、普通仏足石は地面に平面状に置かれているのですが、ここでは立ててあるのが特徴的です。方丈庭園への門を入ると、源氏塀のすぐ傍に井戸があります。庭園の入口域は巨石と苔・樹木で構成される庭です。庭園内を回遊できる道が東側にあります。道を挟んで、大方丈と小方丈の庭空間に2つの池泉を中心として、様々な石組や石灯籠、刈込が配されています。(黄色の丸印のところ)この方丈庭園は、小堀遠州と縁のある僧・玉淵(ぎょくえん)の作庭と伝承されていて、東山山麓の地形を活かしており、2つの地泉で瓢箪形となっています。(資料3)また、「その地割からみて室町時代にこの地にあった常在光院の旧苑地を利用し、小堀遠州以下の庭師達が浄土庭園を現出せんとして、寛永年間より天和年間(1681-1684)にかけて回収されたものとみられる」(資料1)という説明もあります。その庭師の筆頭が玉淵だったのかもしれません。まず、大方丈の南に広がる池と庭空間を、少しずつ移動しつつ視点を変えて撮ってみました。 この池は、大方丈の東側面と小方丈の南面から眺められるもう一つの池に繋がっていきます。この結節地点近くにあるのが、 1.3m余の平石です。「慈鎮石」と記された札が立ててあります。もとは三門前にあった石で、慈鎮(慈円)和尚の坐禅石と伝えられるものです。慈円は天台宗の座主となった人で、青蓮院門跡でもあります。歌人としても有名で『拾玉集』を編んでいます。『愚管抄』の著者として有名です。関白藤原忠通の子。法然上人に帰依し、法然が『選択本願念仏集』をまとめるきっかけを作った月輪関白九条兼実の弟でもあります。(資料4)この石は天和年間(1681-1684)に所司代稲葉丹後守がここに移したとか。(資料1)右側に巨石が置かれ、その傍に、池に架けられた石橋が見えます。石橋をわたり、地泉を回遊するだけではなく、勢至堂の境内域に到る道も設けられているのかもしれません。その間は樹林が繁茂していますが、案内図には築地塀などで仕切られているようには描かれていませんので。勿論、この石橋への道の入口で立ち入り禁止となっていますので、想像だけの話です。庭の北側に振り返ると、大方丈の南面です。外側の廻縁は比較的幅が狭い作りです。その内側はかなり幅の広い廊下になっていたと思います。(青い丸印のところ)この大方丈の入母屋造りの屋根には、唐破風が設けられています。平成23年(2011)の法然上人800年遠忌にあたり、大方丈の屋根の桧皮が葺き替えられたといいます。(資料3) 唐破風の軒を見上げると、和棰(タルキ)が丈夫そうでしっかりした造りです。兎毛通は簡素ながら厚みがあります。板蟇股が使われていて、中央にワンポイントの草花文様が彫られていて、惹きつけられるところがあります。全体にシンプルさで統一されていて良い感じです。 それとは対照的に、唐破風の上部の鬼板は、咆哮する獅子の猛々しい姿が、この大方丈を守護しているかのようです。仏法を獅子吼するという風に連想が転換してつながっていくことになるのかもしれません。庭にはこの案内板が設置されています。大方丈の建物の大きさは正面30m、奥行き25mで、11の部屋で構成されているそうです。下部の写真を部分拡大してみます。 大方丈に仏間が設けられているようですが、拝観の折には襖を嵌めて閉じられ、たぶん襖絵を拝見する形になっていたと記憶します。仏像を遠目にでも眺めたという記憶がありません。右の画像「上段の間」は、廊下から室内を拝見しました。側面に武者隠しがあったと思います。伝狩野尚筆「山水人物図」15面が描かれています。天井は折り上げ格天井で、中央部がさらに折り上げ格天井という形で二層になっています。大方丈の建物を廻り込んで、2つめの池を眺めつつ小方丈側に歩みます。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2412) 大杓子 -仏のすくい :「総本山 知恩院」3) 「第51回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック」 京都市観光協会 p8-94) 『新・佛教辞典 相補』 中村 元 監修 誠信書房補遺知恩院の七不思議 :「総本山 知恩院」 鶯張りの廊下 -仏の誓い 抜け雀 -心をみがく 【 知恩院 】「七不思議」まとめ 〜 鶯張りの廊下・白木の棺他 〜【京都】 :「NAVER まとめ」慈円 :ウィキペディア慈円 :「コトバンク」慈円 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -2 へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -3 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 へスポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -2 多宝塔・寶佛殿・納骨堂・経蔵ほか (2) 観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜 へ
2017.05.04
コメント(0)

[探訪時期:2014年9月]小野篁・紫式部墓の続きに、せっかくここまで来たのだからと、一度訪ねて見たいと思っていた建勲神社にその場の思いつきで足を向けてみることにしました。冒頭の画像は「玄武神社」です。建勲神社に向かうため建勲通りに行く途中でこの神社が目に止まったのです。神社に立ち寄りましたので、この神社のご紹介から始めます。紫野雲林院町にあります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。建勲神社との位置関係もおわかりいただけるでしょう。石鳥居の先に唐破風屋根の拝殿や本殿の社殿がすぐに見える小規模な神社です。旧村社。境内の整備は行き届いています。唐破風屋根の正面、中央の飾り金具には菊の紋章がレリーフされています。現在の社殿は1963年に再建されたものだそうです。 駒札並びに手許の本によれば、祭神は惟喬(これたか)親王です。文徳天皇の皇子。「社伝によれば、元慶2年(878)大宮郷の郷士星野市正茂光が親王愛蔵の御剱を御霊代(みたましろ)とし、併せて王城北方の鎮護として祀ったのが起こりとつたえる」(資料1)駒札には、星野茂光が惟喬親王の末裔であり、御剱は親王の外祖父にあたる紀名虎が所蔵していたものと記されています。文德天皇は第55代で、在位は850~858年です。惟喬親王は第一皇子でありながら、皇位継承の対象から外され、第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が皇太子になるのです。悲運の皇子という境遇になった人。惟喬親王(844~897)の母は紀名虎の娘・静子(せいし)。一方、惟仁親王の母は太政大臣藤原良房の息女・明子(あきらけいこ)であり、文德天皇の即位(850年3月21日)後、5日目に誕生した第4皇子です。文德天皇には惟喬親王を立太子とする意向が強かったようですが、外祖父となった良房の権勢に屈せざるを得なかったのです。(資料2,3)紀名虎は、娘・種子を仁明天皇に上記静子を文德天皇にいれ、それでスピード昇進した人です。とはいえ、刑部卿に補任されたという官位(正四位)ですので、残念ながら良房には対抗できる力はなかったでしょう。(資料4) それは当時の紀氏と藤原氏の勢力差を反映していると言えます。藤原北家の冬嗣が娘を天皇の紀とし、外戚政策を推し進めて行きます。冬嗣の子、良房がそれを継承するのは当然でしょう。まず良房は息女・順子が仁明天皇との間の子である道康親王を強引に皇太子にします(承和の変)。その道康親王が即位して文德天皇となるのです。その次のステップが上記の行動です。その結果、惟仁親王が即位し清和天皇となると、藤原良房は天皇の外祖父として、実質的に摂政の役割を果たすようになります。ここから平安時代は藤原氏による摂関政治の世になっていくのですから・・・・。(資料5)脇道に逸れますが、調べてみると、惟喬親王墓と称されるものは大原にあります。こちらをご覧ください。(「大原地域案内」京都大原学院のサイトから引用)また、惟喬親王は木地師と深い関係があり、「木地師の祖」として仰がれている人物です。「惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案発明したと伝えられている」そうです。滋賀県の東近江市には「木地師の里」と呼ばれるところがあります。以前調べていて知ったことを思い出しました。(資料6)元に戻りましょう。神社名の「玄武」について、駒札にも記載されています。「玄武」は風水思想、陰陽道に関係している四神相応の守護神の一つで、北方の守護神。玄武は亀に蛇がまつわる姿で描かれます。平安京においては、船岡山を北玄武に宛てるという説があるようです。小規模の境内なのですが、社殿の左側に境内社が二社祀られています。一つは赤い鳥居のある「玄武稲荷社」。鳥居の額には「玄武稲荷大神」、御神灯には「玄武稲荷大明神」ときされています。白い鳥居が建てられているのは「三輪明神社」です。こちらは大和国一之宮である大神神社(おおみわじんじゃ)からの勧請なのでしょう。三輪山が御神体そのものであり、祭神が大物主神である神社です。三輪明神は別称ということでしょう。かつては4月10日、現在は4月の第二日曜日に鎮花祭(「玄武やすらい花」)の行事があるそうです。この鎮花祭の歴史は古いようです。平安時代の965年に都に大水が発生し、疫病が発生したのだとか。翌966年にこの玄武神社で勅令により鎮花祭が行われたことがその始まりのようです。現在の祭は1882年に復活したとか。(資料1,7)なぜ「やすらい花」なのか? 「古く平安時代に起源をもつといわれ、桜の花の散る頃になると、悪い病気が流行し人々が苦むので、疫病を退散させるため『花しずめの祭』を行ってきた」(資料7)というところにその名の起源があるそうです。YouTubeにこの「玄武やすらい花」の動画が掲載されているのを見つけました。赤い衣装で統一されていて美々しい感じ。鉦と太鼓を叩きながらの踊りと行列が行われています。こちらをご覧ください。動画(hellohellostadioさん)のご紹介です。こんな祭があることを知りませんでした。犬も歩けば棒に当たる・・・・でしょうか。(私の干支は犬じゃないのですが。)いつかは鎮花祭の様子を実際に見に出かけたいものです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂2) 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司著 講談社学術文庫 p52-533) 惟喬親王 :ウィキペディア 4) 紀名虎 :「コトバンク」5) 『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p986) 滋賀県東近江市「惟喬親王と木地師の里」:「古墳のある町並から」 「惟喬親王伝説」を追う 中島伸男氏 :「滋賀報知新聞」7) 玄武やすらい花(鎮花祭) :「玄武神社」(公式サイト)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺玄武神社 公式サイト惟喬親王 :「コトバンク」四神相応 :ウィキペディアキトラ古墳の玄武図 ← キトラ古墳 :「飛鳥歴史公園」風水 :ウィキペディア陰陽道 :ウィキペディア大神神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・洛北 小野篁・紫式部墓 へ 観照 [再録] 京都・洛中 廬山寺 源氏の庭に桔梗咲く へ
2017.05.02
コメント(0)

前回、「紫式部墓」を再録でご紹介しました。「廬山寺」については「寺町通を歩く」という探訪記のご紹介で触れています。それとは別の機会に廬山寺を訪れた折りの記録を再録していないことに気づきました。ここに再録して、ご紹介します。廬山寺を訪れた時に、「祇園祭の頃には『源氏の庭』に桔梗が咲いて見頃なのですよ」と聴いていました。そこで、2014年7月19日(日)、曇り空でちょっと小雨のときもありましたが、桔梗を観にでかけました。拝観できるのが午前9時から。9時半前後に廬山寺を訪ねたら、先客は1人だけ。やはり写真を撮っておられました。静けさの中で、しばらく桔梗の咲く源氏の庭を楽しみました。 パノラマ合成写真(源氏の庭)源氏の庭は、桔梗が咲くとこんな雰囲気に変化します。御仏殿(本堂)は南面していて、南に「源氏の庭」があります。 本堂外縁の西側、つまり本堂への入口近くからの南東の眺め目線の角度によっても、庭の雰囲気が微妙に変わります。白い桔梗の花も少しですが咲いています。白い桔梗を観るのは初めてでした。 本堂外縁の東側、つまり反対の端からの南西の眺め 今は「秋の七草」に桔梗が入っています。古来言われてきた秋の七草は「萩、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、朝顔の花」です。『万葉集』巻8には、この七草を詠み込んだ山上憶良の歌(1538番)が収録されています。この朝顔の花が桔梗のことだろうともいわれているようです。手許にあるいくつかの歳時記にはそんな説明が出ています。歳時記を開くと、秋の季語としての桔梗は結構、俳句に取り上げられています。しかし、桔梗を和歌に詠み込んだ歌は物名歌として、次の紀友則の歌一首のほかに一例あるだけのようです。 きちかうの花 秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく 『古今集』巻十、440山本謙吉は「あきちかう」「まがきちかう」という形で桔梗の古名「きちかう/きちこう」を詠み込んだ「これらの物名歌以外に、桔梗が和歌に詠まれた例を知らない」と記しています。(資料1)『紫式部集』に、朝顔を詠んだ歌は3首載っています(4,5,53)。この朝顔がいわゆるアサガオのことなのか、歳時記が記すように桔梗の可能性があるのかは、定かではありませんが・・・・。(手許の本は何も触れていません。)(資料2)4番目の歌に対する返歌としての5番目は、 いづれぞと 色分くほどに 朝顔の あるかなきかに なるぞわびしきまた、53番目の歌は 消えぬ間の 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな 歳時記から俳句もいくつかご紹介しましょう。私の好みの句を取り上げたにすぎません。 修行者の径にめづるききやうかな 蕪村 紫のふつとふくらむ桔梗かな 子規 八ケ岳雲にうかべる野の桔梗 秋桜子 桔梗やさわやさわやと草の雨 青邨 桔梗や男も汚れてはならず 波郷 桔梗のしまひの花を剪りて挿す 虚子桔梗から桔梗紋を連想し、思い浮かべたのは明智光秀、念の為にネット検索してみたら、安倍晴明も桔梗紋(晴明桔梗)が関係していますね。桔梗を「市の花」に決めている都市(自治体)も結構あるようです。(資料3)素人写真、ちょっと楽しんでいただけたらうれしいかぎりです。廬山寺「源氏の庭」で桔梗をご覧ください。植物の図鑑では、桔梗は7~9月がその季節と記されています。 年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず という漢詩句があります。2017年もはや5月に入りました。あとしばらくすると、廬山寺に再び桔梗が花開く時季が訪れます。廬山寺の縁に座し千年の時を遡り、紫式部に思いを馳せてみてください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『基本季語500選』 山本謙吉著 講談社学術文庫 p571-573 『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 p576-5782)『紫式部集』 南波 浩校注 岩波文庫 紫式部集 日文研・和歌データベース このデータベースでは53番目ではなく52番目です。 3) キキョウ :ウィキペディア 桔梗紋 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 補遺「紫式部の人生と源氏物語」(視点・論点) 山本淳子氏 :「解説委員室」(NHK)紫式部 :ウィキペディア紫式部 :「コトバンク」紫式部 :「知識の泉」紫式部(実紫 みむらさき) :「季節の花300」ムラサキシキブ(紫式部) :「ヤサイエンゲイ」代悲白頭翁 劉希夷~年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 :「漢詩の朗読」劉希夷 :ウィキペディア年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 (唐詩選) :「臨黄ネット」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・洛北 小野篁・紫式部墓 へ 廬山寺については、次の探訪まとめをご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -3 廬山寺(紫式部邸宅址)その1探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -4 廬山寺(御陵・墳墓)・御土居 その2
2017.05.02
コメント(0)

既に「相国寺とその周辺を歩く」と題して、再録した探訪講座に参加した日(2014年9月)に、時間があったので少し足を延ばして、「小野篁・紫式部墓」に行きました。ここは一度訪れてみたいと思っていた史跡です。その探訪記録の整理を兼ねてまとめたものを、再録によりご紹介します。所在地は、船岡山の東方、堀川通北大路下がる西側です。地名で言えば、北区紫野西御所田町2番地。島津製作所紫野工場が目印になります。その北東の一隅に位置します。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。紫野西御所田町の西隣りが紫野雲林院町です。つまり、この辺り一帯が紫野雲林院(天台宗の官寺)の寺域だったのでしょう。元は淳和天皇の離宮・紫野雲林院として造成されたところだとか。(資料1)堀川通沿いの歩道に面して冒頭写真の墓所への入口があります。 南側に「小野篁卿墓」と刻された石柱、北側に「紫式部墓所」と刻された石碑が建てられています。 西の方に少し奥まっていて、石畳の通路を歩みます。2001突き当たりには、小さな石仏像(地蔵尊でしょうか・・・)と「紫式部墓」という石柱が木の傍に見えます。北を向くと、 西側に紫式部墓と比定されている墓所、東側に小野篁墓が並んで居ます。 それぞれの墓前にたって眺めると、墓所はこのような雰囲気です。手前に「紫式部墓」「小野相公墓」と刻された石柱が建てられ、その北に小ぶりな墳丘があります。見た感じでの墳丘は北側でつながった一つの墳丘のように見えます。 そして、墳丘の上には五輪塔がそれぞれ安置されています。それぞれの五輪塔を観察してみましたが、特に何も刻されていないようでした。この画像は、紫式部墓の西側から眺めたところです。私が書物やネットで拝見した写真のイメージからすると、近年周辺の整備がなされているように見受けました。紫式部墓の石柱の背面を見ると、この石柱は明治32年3月に建立されたものと判読しました(誤読であるかも知れません・・・)。紫式部墓を小野篁墓の前から眺めると、こんな感じです。小野篁は様々な逸話のある有名な人物です。小野篁といえば、東山にある六道珍皇寺をまず連想します。ここにある閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。この寺に在る井戸と嵯峨野の福生寺(廃寺)の井戸を使って現世と地獄の間を行き来したという話が伝承されています。官位相当表を参照すると、位階が従三位以上正一位の場合に公卿と称することができます。小野篁は官位は従三位・参議となった人なので、「小野篁卿墓」と記されているのでしょう。小野篁は、異名として「野相公、野宰相」などと称されたようです。「小野相公墓」と記されているのはこの異名を後の人が使ったということになりますね。(資料2,3)小倉百人一首の第11首はこの小野篁の歌、羇旅歌です。 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣り舟小野篁は遣唐使団の一員に選ばれたのですが、渡航直前にリーダーである藤原常嗣と対立し、乗船拒否。遣唐使となることを辞退してしまいます。そして遣唐使のことを「西道謡」(さいどうのうた)という詩を作り諷刺したのだそうです。それが嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に流刑となります。かなりの反骨漢であり、一方文才に秀でて能力がある人物故に、流刑を許されて都に戻った後には、参議にまでなったのでしょう。流刑の途次に詠んだ歌が百人一首に採り上げられ、「参議篁」と載っているのですから、おもしろいものです。古今和歌集に六首入集されていますが、むしろ漢学者として著名な人物です。(資料4)小野篁は仁寿2年12月22日(853年2月3日)に没したそうですから、当然ながら小野篁の墓が既にあった隣りに紫式部の墓が作られたということになりますね。 小野篁墓の傍には、「参議小野公塋域(えいいき)碑」としるした顕彰石碑が建てられています。これは石碑文末に記されていますが、明治2年(1869)3月に加賀の横山正和という人が建立したものです。小野篁の後裔と称する元金沢藩家老だった方だとか。一方、紫式部墓の傍には、「紫式部顕彰碑」が平成元年(1989)春に建立されています。源氏物語の研究で著名な角田文衛博士の撰文による石碑です。角田博士はその著書でこの紫式部墓についても一文を書き、考証論究されています。(資料5)南北朝時代に四辻善成が著した源氏物語註釈本である『河海抄』(かかいしょう)巻一には、既に「式部ノ墓所、雲林院ノ南ニ在リ、小野篁ノ墓ノ西ナリ。宇治宝蔵日記ニモ、紫野ニ、雲林院有ルヨシ見エタリ」という一文(原文は漢文)が記されているそうです。江戸時代の地誌類、例えば『扶桑京華志』(巻ノ三、1665年刊)、『山州名跡志』(巻之七、1702年刊)、『山城名跡巡行志』(第三、1754年刊)その他にも、この地の墓に言及しているといいます。なお、やはり一方でこの紫式部墓について疑問を呈する人も居るようです。 紫式部についての概略説明文が掲示されています。この掲示の右側に掲載の写真は、雲林院、廬山寺、七尾社です。 通路の傍にある建物のところに、紫式部顕彰碑の文章内容も掲示されています。旧雲林院の遺蹟を継ぐ形で、大徳寺の一院として旧名を継いで建立された雲林院が、大徳寺の南門前、紫野雲林院町にあります。廬山寺は寺町通に面しており、紫式部の邸があった場所と角田博士が論証されています。七野社は櫟谷七野(いちいだにななの)神社で、大宮通芦山寺上ル西入ルに位置し、ここは紫野齋院址と推定されています。江戸時代の寛政7年(1795)、有志の人々が墓前に紫式部顕彰碑を建てようとしたそうです。しかし、何らかの理由でそれは果たせず、当時の大徳寺碧玉庵に建立されたのです。碧玉庵は明治維新に廃寺となり、大徳寺大慈院の本堂前庭に「紫式部碑」が移され、現在はここにあるとか。(資料6)私は未訪ですが、上京区にある引接寺、通称千本閻魔堂の境内に、紫式部供養塔(重文)と伝わる多層石塔があるようです。至徳3年(1386)僧円阿の勧進によって造立されたものといわれています。(『京都古銘聚記』)そのうち拝見に行こうと思っています。2012年12月に滋賀県の坂本を史跡探訪で歩いたとき、延暦寺慈眼堂傍の廟所の一隅に、紫式部の供養塔があることに気づきました。さらにその左側にはなんと、和泉式部、清少納言の供養塔が仲良く並んでいたのです。これは私には思わぬ発見でした。 その時に撮ったのがこの写真です。紫式部の没年は明かではありません。様々な説が乱立しています。たとえば長和3年(1041)春ごろか(有吉保、資料3)というもの。与謝野晶子は長和5年(1016)頃で39歳だったと推測しているそうです。また、近年の研究では、長元4年(1031)の正月中旬という説が有力だとか。そうなら享年54歳となるそうです。(資料7)最後に、『百人一首』に入集されている紫式部の歌でしめくくりましょう。 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かなご一読ありがとうございます。参照資料1) 雲林院 :ウィキペディア 雲林院(駒札) :「京都観光Navi」2) 小野篁 :ウィキペディア 3) 『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版4) 『百人一首』 全訳注 有吉 保 講談社学術文庫 5) 『紫式部の世界 角田文衛著作集7』 法蔵館6) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂7) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p247【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺紫式部 :ウィキペディア角田文衞 :ウィキペディア紫式部学会 ホームページ謡曲「雲林院」:「銕仙会~能と狂言~」櫟谷七野(いちいだにななの)神社 :「上京区」櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)廬山寺については、次の探訪まとめをご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -3 廬山寺(紫式部邸宅址)その1探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -4 廬山寺(御陵・墳墓)・御土居 その2同様に、坂本の慈眼堂周辺については、こちらを・・・・。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑
2017.05.02
コメント(0)

既にご紹介した「壬生寺」の特別公開を訪れた後、京の幕末動乱期と関わりのある「六角獄舎跡」の碑があるということ少し前に知ったので、この日(2017.3.16)に探訪しました。地図を正確に見ずに、大凡の方向感覚で歩き、少しロスタイムがありましたが、そのお陰で「武信稲荷神社」を先に訪ねるということになりました。後日に学んだことも含めてのご紹介です。六角獄舎跡碑関連の事項は、別途既にご紹介しています。六角獄舎跡は、その名前が示す通り、東西の通りである「六角通」を西に行きます。二条城の南にある「神泉苑」からは南西方向で、南北の「神泉苑町通」と交差する辻からさらに少し西に入ったところです。武信稲荷神社は、その六角獄舎跡碑からわずかの距離です。北西方向になります。神泉苑町通の一筋西側の通りに面しています。予備知識なしに訪れた神社でした。犬も歩けばなんとやらですが、私はこの武信稲荷神社で、神木から現出された龍、坂本龍馬とのゆかりおよび一寸法師とのゆかりという探訪したことからのプラスアルファー情報、一種の付録を得ることができました。なかなか興味深い稲荷神社です。道路に面して、石の鳥居が3つ並んでいます。中央の石鳥居が一番前にあり、西方向に一段下がって左右に石鳥居があります。そのため、3つの参道が西に延びています。中央の参道には、石鳥居の続きに朱色の鳥居がいくつか建てられています。正面に拝殿の一部が見えます。中央の参道を進むと正面にまず「拝殿」があり、その後に社殿が見えます。社殿は東面しています。拝殿の北側に見えるのが社務所の建物です。おもしろく感じたのは、拝殿の階段の両側に木製の台を設けて、七福神関連の小像と小さな白狐像が数多く並べて置かれているのです。こういうスタイルも私にはめずらしいものでした。拝殿の右斜め前に手水舎があります。北側の参道を通れば、この手水舎の前にまずそのままで到ります。普通の手水舎です。目にとまったのは、右側にある案内板です。 近づいてみると、「一寸法師と武信神社」と題した案内板です。「一寸法師」のお伽話は誰しも多少は子どもの頃に聴き知った、あるいは童話の本などで知ったはずです。私も多少は記憶にありました。しかし、です。一寸法師がこの武信神社とつながる側面を持つとは意外でした。 この案内説明に記されているのですが、一寸法師がお碗の船で京に到着し、住み込みで奉公するのが「三条の大臣殿」の屋敷ということになっています。三条の大臣とは藤原良相(よしみ)という想定になるようです。後で調べたことと合わせてご紹介をします。平安時代、藤原摂関政治が藤原良房によりはじめられたのが858年と日本史の年表に記されています。この当時、左大臣藤原冬嗣の子(五男)であり、良房の弟である良相は右大臣、正二位にいたった人です。良相の屋敷が三条通の西、つまりここより少し北にあったので、西三条大臣と号したのでしょう。当時、三条通の北に勧学院が設けられていました。藤原氏の学問所です。そして、三条通を挟んだ南側に藤原良相が延命院を建てたといいます。延命院は勧学院で学ぶ子弟のための病気療養所として建てられたそうです。そしてその管理は勧学院が行うことになっていたとか。(資料1,2)その延命院の鎮守社がこの武信稲荷神社であると伝えられているのです。当社の創祀由緒はあきらかではないようです。(資料2) 西三条大臣藤原良相⇒延命院開設⇒鎮守社(武信神社)⇒一寸法師の住み込み御伽話の世界でのゆかりということになります。源氏物語の古蹟を設定するのと同種の発想ですね。延命院はいつしか廃亡し、鎮守社だけが残ったのです。後世に藤原武信という人が鎮守社のあった旧地に近い現在地に勧請したのが、現在の武信稲荷神社の起りと伝えられているそうです。祭神は、宇迦之御魂・佐田彦・大宮能売(のめ)の三神。江戸時代、このあたりが摂津尼崎の青山播磨守の京藩邸となり、その邸内に神社があったそうです。明治の廃藩後神社だけが残り、この付近一帯の産土神として崇敬されることになり、現在に至るとか。(資料2) 本殿の南側には、平重盛が安芸宮島の厳島神社から苗木を移植したという伝承を持つ神木・エノキが聳えています。駒札とエノキの古木(神木)の間に、覆屋を設けてこの大きな枝が置かれています。大きな枝に龍が彫刻されているのです。 覆屋の南にこの2つの案内板があります。 「御神木から現れた龍」 左側の案内板がこれです。 これが私にとっては2つめの探訪付録!!この御神木は榎(えのき)で、樹齢850年に及び辨財天が宿ると信じられているそうです。その大枝(長さ十数m、太さ1.5m)が平成25年(2013)8月に折れて落下したと言います。その大枝を見たチェンソーアートの世界チャンピオンである城所ケイジ氏がそこに龍の姿を感得し、龍を現出させたというのです。神社側が城所氏に「この枝に宿る神の質(御霊)を引き出して欲しいと製作を依頼」されたことから大枝が変化(へんげ)したのです。 この彫刻の興味深いところは、龍の左側面が彫刻されていて、右面は大枝のままの姿が残されているのです。まさに御神木の大枝が龍に変化し、龍が現れ出でるというところでしょうか。龍の腹部にある炎のような文様は稲荷神社の神紋です。案内板によるとこの形が「もともとそこにあった」のだそうです。ぜひ、一度境内を訪れて、神木から現れ出でる龍を眺めてみてください。チェンソーアートという世界の存在を知ったのも私にはさらなる関心の波紋となっています。もう一つが、この境内で坂本龍馬に関わる話が拾えるとは思ってもいませんでした。 「龍馬の伝言 幹に刻み・・・・」という案内板です。江戸時代幕府直轄の六角獄舎に勤王の志士が多数収容され、禁門の変の折に多数が獄舎で殺されたということは触れました。この獄舎に「坂本龍馬の妻おりょうの父が勤王家の医師であったため捕らえられていた」(案内板より)時期があるそうです。その折、龍馬とおりょうは何度かこの地に訪れるが、龍馬は面会できる立場ではないので、この境内の大木の上から様子を窺ったことがあるとか。命を狙われる龍馬が身を隠したおり、生きて京都にいることをおりょうに報せる伝言として、「龍」の字を大木の幹に刻みつけたといいます。それを見たおりょうは龍馬の無事を知ったとか。しかし、これは勤王の志士が安政の大獄以降に数多く六角獄舎に留置され悲劇が起こったことから人々が生み出した後日譚なのかもしれません。おりょうの父楢崎将作は、青蓮院の宮の侍医であり、勤王家として安政の大獄で捕らえられますが、赦免後の1862年に病死しているそうです。残された家族は困窮し、その結果、おりょうは七条新地の旅館「扇岩」では働くようになります。おりょうの母と妹は、三十三間堂の近くの河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所で住み込みで働いていたそうです。この隠居所は土佐亡命志士の隠れ家になっていたところ。龍馬とおりょうは1864年頃に初めて出会っているようです。(資料3)慶応元年(1864)9月9日付の「おやべさん」への手紙の冒頭に楢崎家のことに触れています。「京のはなし然るニ内々ナリとし先年・・・・」という書き出しで始まり、「其頃其同志にてありし楢崎某と申医師、夫も近頃病死なりけるに、其妻とむすめ三人、男子二人・・・・・・右女ハまことにおもしろき女ニて月琴おひき申候。・・・・夫ニ乙さんのおびか、きものかひとすじ是非御送り、今の女ニつかハシ候。今の名は龍と申、私しニにており候。早々たずねしニ、生レし時父がつれ(ママ)し名よし。」と記しているのです。(資料4)勤王の志士が六角獄舎に留置されることが続いた事実から、坂本龍馬がこの辺りにも現れて、何らかの意図から「龍」という文字を大木に刻み込んだということがあっても不思議ではないでしょう。エピソードが生まれる条件はさまざまにあったのですから。これもまた、興味深い言い伝えといえます。このエピソードが3つめの探訪付録です。本殿の周囲を巡ってみました。 上掲案内板の西側、本殿の南側には、「伏見遙拝所」があります。これは伏見稲荷大社をこの地から拝むためでしょう。そして、太郎松、七石、白清という名の各大明神の小祠が境内社として並んでいます。 「能勢妙見山 常吉大明神」と刻された石標もあります。常吉大明神の前、御神木の背後に「宮姫社」があります。右の画像は本殿側から撮ったものです。宮姫社の正面側は見過ごしてしまいました。この宮姫社の祭神が辨財天です。エノキの漢字「榎」は「エン」とも読まれます。上記の通り、樹齢850年と伝えられるこのご神木、健康・長寿のシンボルでもあります。辨財天が宿るとされているそうですので、榎⇒エン⇒縁結びと絡み、宮姫社が恋愛の神様として知られているとか。パワースポットとして紹介されているサイトもありますね。(資料5) 私は後日に調べていて、そんな紹介もあるのか・・・・と知った次第ですが。 本殿の背面には、「武春大明神」と記された扁額が掛けてあります。説明は何もありません。 本殿を北側に廻り込むと、「金毘羅宮」と「天満宮」の小祠が覆屋の中に並んで祀られています。金比羅宮の左側にあるのがこの鬼板や丸軒瓦のモニュメントです。以前に使用されていたものの記念遺物なのでしょうか。まだ新しい瓦のようにも見うけます。透塀もまた、かつて玉垣として使われたものの一部が残されているのか・・・・あるいは、西側の通りに立つ石鳥居から入ったところですので、新たに透塀で一種の衝立の機能を持たせたのか、定かではありません。 本殿を北東側から眺めた景色です。後日に手許の本(資料2)を見ると、境内にはその他に絵馬舍や大黒社、神輿倉なども点在しますが、見過ごしています。また再訪してみようかと思います。神社所在地については、地図(Mapion)をこちらからご覧ください。二条城や神泉苑の続きに、少し南に足を運ばれるとこの武信稲荷神社があります。ここもまた、知る人ぞ知る神社なのかもしれません。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 藤原良相 :「コトバンク」2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p292-2943) 楢崎龍 :ウィキペディア 楢崎家跡 :「京都龍馬会」4) 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』 宮地佐一郎 PHP文庫 p111-1175) 武信稲荷神社 :「パワースポット神社へ出かけよう!」 補遺神社のススメ~神主のひとりごと~ 武信稲荷神社のホームページ藤原良相 :ウィキペディア9世紀、藤原氏邸周辺で仮名ブーム?京都・良相宅跡で墨書土器出土 2016.1.7 :「産経WEST」平安京右京三条一坊六町「西三条第(藤原良相邸)」出土品 :「文化遺産オンライン」平安京・藤原良相邸宅跡から仮名文字土器多数 :「民族学伝承ひろいあげ辞典」(168)武信稲荷神社のエノキ(京都市中京区) ふるさと昔語り :「京都新聞」CHAINSAW ART JAPAN・ケイジの仕事記録 ホームページ全日本チェンソーアート協会 ホームページチェンソーアート・ジャパン ホームページ チェンソーアートとは チェンソーアート~HIRO~ :YouTubeChain saw art :「Pinterest・世界中のおしゃれアイデアまとめ」Eagle chainsaw Carving :YouTubeEuropean Chainsaw speed carving Championships. :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 椰神社(元祇園社)・隼神社 へスポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -1 表門・一夜天神堂・本堂・狂言堂 へスポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -2 夜啼き地蔵・水掛地蔵・中院・三福川稲荷堂・句碑ほか へスポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -2 鐘楼・南門・千体仏塔・表門 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.05.01
コメント(0)
全48件 (48件中 1-48件目)
1