全48件 (48件中 1-48件目)
1

長尾天満宮の鳥居前の南北の通りを南に向かうと、醍醐寺の「仁王門」の前に至ります。醍醐寺のホームページに掲載の「醍醐寺略縁起」の冒頭に「醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。」と記されています。江戸時代に出版された『都名所図会』の「深雪山醍醐寺」の項では、次のように説明しています。「当山を醍醐と号(なづ)くる事は聖宝尊師仏法相応の霊地を得んが為、一七箇日祈念しければ五色の雲当山の峰に聳ゆ。則ち山に昇りここかしこを巡るに独(ひとり)の老翁来たりて清泉を褒め、これこそ醍醐味なりといひて尊師に与へ、それこの山は古仏練業の洞、諸天衛護の砌(せつ)、前仏の遊処、名神の所居なり。われはこれ地主の神横尾明神なり。永くこの地を尊師に献(たてまつる)べし。」山上に湧く清泉が醍醐味であるという横尾明神の言から寺名が由来するという伝承です。前回ご紹介の醍醐天皇との関係でとらえると、延喜7年(907)に醍醐天皇の勅願寺となり、同13年に定額寺となったのです。「山科盆地に勢力を持つ宮道氏の孫娘胤子が醍醐天皇の母となることから、醍醐天皇の御願寺となった」(レジュメより)という経緯のようです。醍醐天皇陵が醍醐寺により維持管理されてきたのも頷けます。 この仁王門(西大門)、仁王さんに金網が張られていないのがいいですね。仁王門は豊臣秀頼により、慶長10年(1605)に再建されたもの。仁王像は、もとは南大門に祀られていたものだそうで、長承3年(1134)に仏師勢増・仁増が造立した像と言われています。 仁王は二王と同じで、金剛力士です。「本来、金剛杵をもった夜叉の像である。偉大な力をもつ金剛杵を手にし、二体ならんで寺門の入口を守るので、二王(仁王)とも呼ばれ」(参照1)るのだとか。門に向かって右側に口を開く阿形、左に口を閉じた吽形の力士立像が安置されています。重文で藤原時代の作。阿形が359.0cm、吽形が363.5cmと記されています(参照2)。参照両書によると、阿形の方を、密迹(みつしゃく)金剛、吽形の方を那羅延(ならえん)金剛とよぶこともあるそうです。ただし、はっきりした区別はないのだとか(参照2)。一方、参照1には、「本来、密迹金剛で、密迹とは仏に近侍して秘密の奇跡を知るという意味である」という説明もあります。日本最古の二王像は、やはり法隆寺の中門に安置されたものだそうです(参照1)。仁王門から通りに面した山門を眺めると、4月になれば、この参道も両脇の桜の花が咲き誇ります。画像の右手(北側)に三宝院、左手(南側)に霊宝館があります。 仁王門の前の道を南に下ると、左手に「伝法学院」の建物が静まっています。そして、南門が広い境内の南の境界になっています。 善願寺に向かう途中で、「火防稲荷社」の石標をみかけました。西に向かう細い道の奥に、通りからそれらしきものの部分が見えます。ちょっと立ち寄る時間がありませんでした。稲荷社もいろいろあるのですね。ネット検索すると、「火防」は「ひぶせ」と読むようです。「火防稲荷神社(ひぶせいなりじんじゃ)は、旧奈良街道沿い和泉大橋より北の路地に立つ神社。醍醐寺の南西に位置し裏鬼門として、火・災害を防ぎ、五穀豊穣を祈願されてきたといわれる」(「京都通百科事典」)各地に、火防稲荷神社があるようです(たとえば、東京都新宿区神楽坂、千葉県勝浦市勝浦、熊谷市津田など)。善願寺の少し手前で、西の方に醍醐御霊ケ下町という地名があります。発掘調査でこのあたりに醍醐廃寺(醍醐御霊廃寺)があったという説明を受けました。旧奈良街道に面した「善願寺」。山号は誓弘山で天台宗。私は、「腹帯地蔵」という名前で記憶していて、寺名とは最初結びつきませんでした。昔から何度も傍を通り過ぎていたお寺! だったのです。 もとは行基が地蔵尊を本尊として建立したそうですが、現在の場所に999~1003年頃に恵心僧都源信が再興し建立したという伝承のあるお寺でした。現在の建物は弘化3年(1846)に再建されました。 境内にある小さな石塔撮影禁止だったので、拝観の際いただいたリーフレットの表紙を引用し、ご紹介させていただきましょう。(写真:高野晃輔氏) 上が本尊の地蔵菩薩坐像。重文で丈六像(像高268.2cm)、平安時代後期の定朝様の仏像。リーフレットによれば「平重衡の安産を祈願して七条仏所の仏師により造立されたと伝わる」仏像とか。地蔵尊でこれだけ大きな像であること、地蔵尊では当然と思う錫杖を執らずに宝珠をもち右手が与願印であること、そして「腹帯地蔵さん」として親しまれる原因になった、腹部に裙(クン・もすそ)の結び目が彫刻されて見せていること、などがめずらしい特徴です。この裙の結び目の状態が腹帯をまいているように見えるところから、安産祈願の「腹帯地蔵」として有名なのです。丈六の大きさに圧倒されますが、なかなかよいお顔です。下の不動尊像は、まさに「見てビックリ」の部類です。樹齢1000年を超える神木・榧(かや)の木の太い幹そのものに不動尊が彫刻されているのです。生の立木に彫られた仏像です。この種の仏像は初めて拝見しました。まさに一見の価値ありと感じた次第です。「昭和30年頃、当時の住職の懇請を受けた西村公朝師によって彫られたもの」だそうで、「現在少しずつ表皮が仏像を巻いてきているため、『いずれはお隠れになるのでは・・・』と心配されている」とリーフレットに記されています。堂内には、岸派の画家による「飛天図」や本堂内陣天井の「花卉図」が拝見できますし、大仏師・西村公朝作「ふれ愛観音像」も触れることができる観音樣として安置されています。 門前の南側に荼枳尼天(だきにてん)堂があります。一見で、お稲荷さんを連想・・・。そうなのです。梵語でダーキニーといわれるダキニ天は稲荷明神の天神といわれているのです。リーフレットには、「非常に神通力の強い密教の善神でその姿は宝珠と宝剣を持ち玄孤という狐にまたがった天女である。のちに稲荷の神と習合して共に『稲荷さん』と呼ばれて信仰されるようになった」と記されています。一般に白狐に乗る天女の姿で表現されるとのこと。ウィキペディアでは、「今日、寺院の鎮守稲荷の多くは荼枳尼天を御神体とする。」と説明しています。 その後、もと醍醐寺境内だったところだそうですが、「栢之杜遺跡」を訪れました。ここも高度経済成長期後半の宅地造成が進展する最中、発掘調査で発見された貴重な遺跡だとか。今は小高い丘陵地の斜面にしか見えませんが、鎌倉時代の寺跡。 この区域に、八角円堂や四間四方堂などが南北に並んで建っていたのです。四間四方堂は、重源が建立した播磨浄土寺浄土堂と同一規模のものだったそうです。重源はあの東大寺の再建に尽力した中心人物です。 当日のレジュメによると、『醍醐雑事記』には、「栢杜大蔵卿堂」関連の記述があり、この地に九躰丈六堂が建っていて、その建物を重源が造事しているとのことで、重源との関わりが深い遺跡でもあるようです。このあたりは現在の醍醐寺の南ですが、西方に面する丘陵斜面に、壮麗な寺院群が建っていたのですね。西方浄土を観想するのにふさわしい荘厳さの満ちた場所だったのかもしれません。 最後の探訪地、住宅地の一角に何気なく立つ石標今は、住宅地内の公園地風に整備されていました。「伝重衡墓」です。『都名所図会』には、「重衡の塚」という見出しで載っています。「日野村茶園の中にあり」と記されています。江戸時代後期には、このあたり一体は茶畑だったのですね。重衡は木津川で誅されたあと、「骸(かばね)を東大寺の聖俊乗坊より申しうけて近き法界寺にて烟となし、骨を高野へ送り、墓をこの所に築きしなり」と説明を付記しています(p94.参照3)滋賀県野洲の大篠原に「平家終焉の地」として平宗盛の胴塚があります。この経緯が『平家物語』の巻十一の最後に出てきます。その次、巻十二の冒頭に「重衡の斬られの事」の項として物語られているのです(参照4)。事後学習として調べていてわかりました。本三位中将重衡が狩野介宗茂に預けられ伊豆国に留められていたのです。平氏が東大寺を焼いてしまいましたので、南都・奈良の怒りは大きかったのです。南都の大衆の強い要求で、重衡は奈良に渡されることになります。都に立ち寄ること無く、大津-山科-醍醐路-日野-木津川、と辿ります。この日野に、重衡の女房が身を寄せていたのです。そこで、重衡が日野辺りで護送警護の武士に女房・北の方大納言佐局に最後に一度逢いたいと歎願するのです。そのやりとりと重衡・佐局の対面がこの項の語りどころ、聞かせどころであり、聴衆の涙を誘うのでしょう。「・・・最後に今一度、芳恩蒙りたき事あり。われは一人の子なければ、浮世に思ひ置く事なし。年来契りたりし女房の、日野と云ふ所にありと聞く。今一度対面して、後生の事をも云ひ置かばやと思ふはいかに」と宣へば、武士どもも、岩木ならねば、皆涙を流いて、「まことに、女房などの御事は、何か苦しう候べき。・・・」ということで、二人が対面できることになります。重衡の姿がしおれている・・・ということで、衣裳を着替えさせ、もとの衣裳が形見にもなるという次第。そして、筆の跡をも形見にと、歌のやりとりをします。 重衡 せきかねて涙のかかるから衣後の形見に脱ぎぞ替へぬる 北の方 ぬぎかふる衣も今はいかがせん今日を限りの形見と思へば南都の大衆は重衡を受け取ったら、その大罪にどう報いるべきか、どのような刑罰が相応しいか詮議します。結局、「僧徒の法に穏便ならず・・・・木津の辺にて斬らすべし」となり、最後は木津川の畔で重衡の首を武士に斬らせるのです。後半は斬首するまでの経緯を具体的に語っていきます。斬首の後、首は般若寺の門前に釘付けにし、「これは、去んぬる治承の合戦の時、ここにうつ立つて、伽藍を焼き亡し給ひたりし故とぞ聞えし」。躯は河原に捨て置かれるという仕儀となります。上掲『都名所図会』は、この平家物語のこの項の末尾のところを引用説明として加えているのです。『平家物語』「重衡の斬られの事」の末文は、「北の方、やがて樣をかへ、濃き墨染にやつれはてて、かの後世菩提を弔ひ給ふぞ、あはれなる。」としめくくっています。ここで、この探訪の訪問地は終了です。地下鉄石田駅のところで解散となりました。こちらの地図(Mapion)で大凡の位置をご理解いただけるでしょう。 栢之杜遺跡は、この地図で、醍醐上山口町の町名記載・「口」字の上あたりです。 伝重衡墓は、醍醐外山街道町 京都市辰巳市営住宅の近くです。(1/3000の地図に切り換えると町名が出ます)生まれ育った京都市伏見区の地、現在の居住地(宇治市)からもさして離れていない身近な地域でした。何度も訪れていたり、傍を通っていても、深くは知らずに過ごしてきたことが、如何に多いことか・・・・を再発見した機会でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1)『図説 歴史散歩事典』(井上光貞監修、山川出版社)2)『図説 仏教巡礼事典 新訂版』(久野健[編]、山川出版社)3)『都名所図会 下巻』(竹村俊則校注、角川文庫)4)『平家物語 下巻』p226-231(佐藤謙三校注、角川文庫ソフィア)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺醍醐寺 公式ホームページ定額寺 :ウィキペディア火防稲荷 道ばた史料館 :「京都新聞」善願寺(腹帯地蔵)(京都市伏見区) :「京都風光」 詳細な説明文が載っている京都寺社案内のサイト。勉強になります。荼枳尼天 :ウィキペディア荼枳尼天(ダキニ天)とキツネ…仏教系稲荷 :「神使の館」立木仏 :「コトバンク」立木佛、生き木佛とは? :「鍛冶屋浩兵衛」山口県下の生き木佛を巡りました。 :「鍛冶屋浩兵衛」金塔山 恵隆寺 立木観音 :「会津六詣出」立木観音 :「滋賀県観光情報」立木仏の画像栢之杜遺跡 リーフレット京都 :「京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館」栢ノ杜遺跡 :「京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館」山城栢杜三重塔跡(史跡) :「日本の塔婆」(←「がらくた置場」)(87)平重衡の首洗池と不成柿(木津川市木津):「ふるさと昔語り」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・伏見 醍醐を歩く -1 2つの天皇陵・赤間薬師堂・長尾天満宮 へ
2017.11.29
コメント(0)

2013年3月8日(金)の午後、RECの「京都の歴史散策」講座に参加して、醍醐を歩きました。醍醐寺の周辺地域の歴史散策・探訪です。この講座では醍醐寺そのものは境内を通過しただけですが、ここは9世紀中頃に建立された醍醐寺の門前・周辺集落という歴史のある地域です。現在の地名では、京都市伏見区の一部になります。探訪結果をまとめたものをここに再録しご紹介したいと思います。(再録理由は付記にて)京都市営地下鉄・東西線の小野駅改札口に集合し、そこから醍醐の地を歩きました。今回の探訪コースをまず記しておきます。小野駅→醍醐天皇陵→朱雀天皇陵→赤間薬師堂→長尾天満宮→(醍醐寺境内) →善願寺→(一言寺)→栢之杜遺跡→伝平重衡墓→石田駅小野駅から地上に出て、交差点を渡り、東の方向に道を行くと随心院の北側傍を通ります。このあたりまでが山科区です。その先に東進すれば、醍醐北団地に入り、この辺りから伏見区となります。住宅地域の一角で、冒頭に掲載した景色、醍醐天皇陵の裏手部分がまず見えました。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 そこから西側の周囲を巡り、南側に出ると御陵参道です。その突き当たりが御陵。「醍醐天皇後山科陵」と称されています。この講座で拝聴した説明と当日のレジュメ並びに復習の際に入手した情報を交え、まとめていきたいと思います。天皇陵が比定され整備されていったのは明治になってからです。○○天皇陵と比定された多くの御陵がその通りなのかについては不明なものが多いというのが実情のようです。その中で、この醍醐天皇陵は、醍醐寺が陵の管理と祭祀を継続してきたということから、平安時代前・中期の天皇陵の中では唯一被葬者が確実と考えられているものだそうです。御陵が現状のように整備されたのは明治以降だとか。醍醐天皇は右大臣菅原道真を用いて治績をあげ、後に「延喜の治」と呼ばれています。醍醐天皇は摂政・関白を置かない政治を行った人物。また道真を太宰府に左遷(901)することにせざるをえなくなった天皇でもあります。藤原氏が貴族政治の基礎を固めていく時代で、藤原氏が道真をおとしいれ排斥に成功するわけです。文化の側面では、「日本三代実録」や「古今和歌集」が撰集され、遣唐使を廃止し、国風文化が台頭し始める時代です。一方、武士の台頭が始まる直前の時期でもあります。家永三郎氏は、「醍醐天皇の時代は、いわば律令政治の総決算の行われた時期と言えよう」(『検定不合格日本史』・三一書房・p37)と評しています。歴史書の記録によれば、醍醐天皇は延長8年(930)に46歳で没し土葬されたそうです。外部構造として墳丘は造られず、「陵上には卒都婆3基が建てられ、翌年、周溝と外堤をめぐらせた」かたちだったようです。「山陵の埋葬主体は一辺3丈、深さ9尺の土壙の内に、一辺1丈、高さ4尺3寸の『校倉』(槨)をおさめ、さらにその中に棺を入れたものであった。副葬品としては、硯・御書三巻・黒漆筥・琴・笛・和琴が納められた。」といいます。 そこから少し南に下ると「朱雀天皇陵」、地図には「朱雀天皇醍醐陵」と記されています。930年に8歳で即位、946年に弟(村上天皇)に譲位し、952年30歳で没。遺体は火葬され、醍醐天皇陵の脇に埋められ、祠が造られたようです。それが、「元禄11年(1698)に現在の地が『御廟』として江戸幕府により認定され、元治元年(1864)の改修によって拡張・整備された」のだとか。朱雀天皇の代は、伯父藤原忠平が太政大臣そして関白となり、摂関として政治を取り仕切った時代です。そして、関東では平将門の乱(935~940年)、瀬戸内海では藤原純友の乱(936~941年)が起こり、「承平・天慶の乱」と称されています。富士山が噴火した時代(937年)でもあります(その前は貞観大噴火[864.6~866初期]で、その後は999年に噴火)。この御陵からほんの少しのところの道路脇に、「赤間薬師堂」への道標が建っていました。醍醐御陵東裏町です。 この赤間薬師堂は、地元の町の人々が維持管理されている御堂です。町の集会所にもなっています。歴史散策講座ということで、地元の方のご協力により、堂内に入り薬師如来座像を拝見することができました。この薬師堂の庭にも石標が建てられています。 衣紋表現や顔相などから平安後期の造立と推定されている仏像です。専門家によると「西林寺像、称名寺像、満願寺像や宇治蔵林寺像との類似が指摘され」ているようです。江戸時代の地誌には、赤間関(下関)から源平の争乱を避けてこの地に移されたものと記されているとか。[山州名跡志(正徳元年・1711)] 引用:「山州名跡志」古典籍データベース・早稲田大学図書館この付近に醍醐三水の一つといわれる「赤間水(威独水)」が湧くことでも知られているようです。上醍醐の山上に湧く名水・醍醐水(閼伽井とも言います)は知っていましたし、上醍醐に登ったとき、何度か醍醐水を味わっています。しかし、この講座を受講して、赤間水というのを初めて知りました。この赤間という地名が赤間関の赤間と結びついていったようでもあります。 薬師堂の前の道を東に進むと、長尾天満宮への裏参道につながっています。 参道の途中にお稲荷さんの小祠が祀られています。さらに少し上ったところで、長尾天満宮の本殿の建物が見えました。長尾天満宮本殿。本殿の装飾がなかなか技巧豊かです。もとの彩色はかなりきらびやかだったのでは・・・と思わせました。本殿両脇の狛犬像が、保護のためなのでしょうが、立方体の金網囲いの中に入れられていたのが、もの悲しい・・・。 本殿外周を拝見しましたが、本殿外廊の両奥の仕切り衝立の透かし彫りは見ごたえのあるものです。 拝殿の右手側手前に、大きな臥牛像が奉納されています。醍醐の産土神です。長尾天満宮は江戸後期に焼失し、文政4年(1821)に再建されたとのこと。上掲拝殿を撮った参道の位置から右手の背中側に、 この「衣装塚」があります。手前の説明板には「衣裳塚略記」が記されています。引用してみましょう。管公此の地(醍醐)に遊覧の折聖宝尊師に曰く「吾薨する後墓を此処に築くべし」と其の後延喜三年(903)二月二十五日太宰府に於いて薨ぜられし後使者を遣わし管公の衣裳や遺物を持ち帰り、醍醐寺第一代座主観賢僧正は先師の約束を違えず墓を此の地に築かれた。今此の墓の上には宝篋印塔が置かれ、俗に衣裳塚という。傍の碑に「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」の歌が刻まれている。 この長尾天満宮は醍醐寺境内の北東側に位置しています。醍醐寺の仁王門の前の南北の道を北方向に行けば、右手に一の鳥居と石標が見えます。表参道と石段が真っ直ぐに延びているのが眺められます。石段を上り詰めた右手奥側に衣裳塚があります。左折して丘上の参道を進むと拝殿、本殿です。『都名所図会』(秋里籬島著・安永九年版、角川文庫)を繙くと、「深雪山醍醐寺」の項に、「開基は聖宝尊師(理源大師と諡す)延喜四年の建立にして醍醐・朱雀・村上の三代帝王の御願なり」という一行が記され、また、説明文中に、「長尾天満宮(本堂の北なり。祭は九月九日にして神輿二基あり。醍醐鄕中の産沙神とす)」という一文も載っています。竹村俊則校注として、「旧村社。祭神菅原道真。例祭は四月三日」とあります。「醍醐天皇陵は三宝院の北、人家の東にあり。」「朱雀天皇陵は同所陵町にあり」という項目も載っています。安永九年は1780年なので、上記の江戸幕府の「御廟」認定、改修・整備の中間時点で出版された江戸時代のガイドブックです。この書に赤間薬師堂のことは載っていません。「醍醐」について、頭の整理をしておきたいと思います。歴史散策の途中で解説があったのですが、メモをしていなかったので、レジュメに加えて少し手許の本やネット検索をしてみました。*この醍醐の地、旧山城国宇治郡だったそうです。私はこの辺りも宇治郡だったとは思っていませんでした。昔は宇治川を境にして京の都側つまり北側が宇治郡で、宇治川の南側は久世郡だったそうです。そのため平等院のあるところは、久世郡宇治郷だったのです。「三州名跡志」には、山城国の郡地図が載っています。東が上になっているので、頭の中で縦横90度回転させてイメージすることが必要ですが・・・・。 [古典籍データベース・早稲田大学図書館から引用]その経緯はウィキペディアに詳しく載っていました。豊臣秀吉が文禄年間に伏見城築城のときに、宇治川の流れを改修し付け替えたこと及び江戸時代の地域編入のやり方にその原因があるようです。京都、宇治に住み暮らして来ながら、このあたりの郷土史の認識がなかったので、そうなのか・・・という思いです。「宇治に宇治なし、久世に宇治あり」などと皮肉な言い回しもあったとか。今は、宇治川の両岸領域を含めて宇治市で、京都市伏見区と隣接していますが。*「醍醐」を日本語大辞典(講談社)で引きますと、仏教語であり、「牛乳を精製して仕上げた濃厚で甘みのある液。この世で最高の美味とされ、薬用などにする。また、仏の尊い教え・涅槃・仏性などのたとえにも用いる」と説明しています。 『暮らしのなかの仏教語小辞典』(宮坂宥勝著・ちくま学芸文庫)によれば、「インドにおける乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味の五味の一つ。・・・極上の乳製品、バターのこと。したがって、醍醐味はバターの味、転じて、極上の味。この上もない美味なものをいう。すぐれた仏法の味わいを醍醐の法味というのにあやかった用例だと思われる。」と述べられています。「醍醐味」という言葉は「醍醐」に由来するのです。 また、『涅槃経』という経典に「諸薬中、醍醐第一。善く衆生の熱悩乱心を治す」と出てくるようです。ここから薬用として使用されていたことが窺えます。 原語のサンスクリット語は一定した定説はなく、いくつかの言葉が対応するようです。その一つがサルピス・マンダだとあり、おもしろいエピソードが記されています。「カルシウムとサルピス・マンダとを合わせてカルピス(嗜好飲料)と名づけたのは、渡辺海旭(高楠順次郎とともに大正新脩大蔵経を監修)であるというのは、有名な話である」と。つづく参照資料*RECコミュニティカレッジ 「京都の歴史散歩24 ~醍醐を歩く」 (講師:龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成) 当日配布のレジュメを参照並びに部分引用しました。*山州名跡志.巻之1-22 /白慧 撰 :「古典籍総合データベース」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺醍醐天皇 :ウィキペディア朱雀天皇 :ウィキペディア醍醐三水 :「古都、醍醐名所名跡誌」 ネット検索で見つけたサイトの一項目です。大変参考になります。山城国 :ウィキペディア宇治郡 :ウィキペディア久世郡 :ウィキペディア山州名跡志(白慧(坂内直頼) 撰) :「京都府立総合資料館デジタル展覧会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・伏見 醍醐を歩く -2 醍醐寺仁王門・善願寺・栢之杜遺跡・伝重衡墓 へ
2017.11.28
コメント(0)

丸太町通を東行し、熊野神社を通り過ごし、東山丸太町の交差点を越えます。その先で、通りの南側に位置する武道センターの西側の通りを南下して、冷泉通を左折しし平安神宮の応天門に到ります。岡崎まで来たのは、序でに「2012 女流陶芸」展を見てから帰ろうと予定していたからです。 京都市美術館北のグラウンド傍から 平安神宮の交差点にて 京都市美術館の庭2017年現在のことを追記します。京都市美術館は平成29年4月10日より、京都市美術館再整備工事が始まり、3年間の予定で計画が進行しています。掲載したこの秋景色が過去の記録になってしまうかもしれません。「京都市美術館の再整備のあり方について」(pdfファイル)という資料が公開されています。こちらからご覧ください。 京都市美術館の庭から眺めた疏水端疏水端にみつけた秋は多分今も3年後も相似た姿を見せているのではないかなと思います。美術館内の樹木が伐採されないならば・・・・・。 東山の山並み 仁王門通から白川に沿い 檀王法林寺楼門 (三条大橋の近く) 檀王法林寺本堂元は天台宗の寺院だったそうですが、文永年間(1264-75)に川端通三条上ルのこの地に移転した折に、浄土宗に改宗したお寺です。応仁・文明の乱などで衰退し、慶長16年(1611)に袋中(たいちゅう)上人が再興し、「朝陽山栴檀王院無上(ちょうようさんせんだんおういんむじょう)法林寺」と称します。2世良仙團王が寺地を整備したといいます。團王上人が、「恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊(現在の御本尊)として阿弥陀堂(本堂)を建立し、寺域も現在の広さにまで拡大」させたそうです。川端通と三条通の絶え間ない交通量と雑踏からほんのわずかに奥まっているだけで、境内では静かな秋のたたずまいを感じることができます。 檀王法林寺境内2012年秋の一日。京都市内をけっこうよく歩いた一日でした。その記録をここに併せて再録しました。この後、三条京阪から京阪電車にて帰宅しました。この2017年もまた洛中の遠近に深まり行く秋を、木々の日々の変化する紅葉と落葉に感じられることでしょう。 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同ご覧いただきありがとうございます。参照資料『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 壇王法林寺の歴史 :「壇王法林寺」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺平安神宮 公式サイト京都市美術館 ホームページ 京都市美術館再整備 京都市美術館再整備基本計画 概要版壇王法林寺 境内案内観照 京のまちでみつけた秋 -1 京都国立博物館の庭 へ観照 京のまちでみつけた秋 -2 京都国立博物館・茶室 堪庵にて へ観照 京のまちでみつけた秋 -3 蓮華王院南大門築地塀・後白河天皇御陵・養源院参道 へ観照 京のまちでみつけた秋 -4 京都御苑・堀川通・丸太町通(再録)へ
2017.11.27
コメント(0)

上品蓮台寺を出て千本通を下って行くと、千本通廬山寺手前で西側の商店街に、空地が見え壁の傍に「小野篁御霊跡 千本えんま堂 引接寺」と刻された寺号石標が建てられています。山門はなくそのまま境内となり正面にお堂が見えます。 お堂の正面に「引接寺」の扁額が掲げられていて、屋根の丸軒瓦には「引接寺」の文字が記されています。「光明山歓喜院引接寺」と号するお寺です。本尊として閻魔法王が祀られています。そこから「千本えんま堂」という通称で呼ばれ親しまれているお寺です。ここには個人的に既に探訪し、拙ブログでご紹介していますので、併せてこちらからご覧いただけるとうれしいです。 [スポット探訪 京都・上京 千本えんま堂(引接寺) 閻魔法王・紫式部供養塔・地蔵供養池ほか]できるだけ重複を避けてご紹介します。11世紀に叡山惠心僧都の法弟、定覚上人が創建し、13世紀に再興されたといわれています。定覚上人は「二十五三昧を行い、蓮台野に墓所を設けた人は皆、仏により浄土へ導かれるよう発願したとする伝承が鎌倉時代には確認できる」(資料1)そうです。浄土へ導くことを「引接(いんじょう)」ということから寺名が付けられたのです。引接は「引導」と同じ意味合いだとか。駒札には「諸人化導引接佛道」の道場として開山された旨が記されています。応仁の乱で当初の閻魔法王が焼失し、長享2年(1488)に仏師定勢(じょうせい)が造立した二代目の閻魔法王が現在安置されているものだそうです。堂内は撮影禁止でした。引接寺のホームページに本尊の写真が載っています。こちらからご覧ください。お堂は閻魔王宮を模しているといわれていて、正面中央に高さ2.4mの大きな閻魔法王、右脇に司令尊、左脇に司録尊が安置されています。両脇の背後の壁面には、地獄の様子を描いた板絵があるのですが、歳月を経ているせいでかなり見づらくなっています。また、日本を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがこの寺を訪れ、閻魔法王と壁画を見聞した印象を記しているそうです。フロイスの観点からは、嫌悪すべき像を多数の人々が参詣しているという風に見えたのだとか。(資料1,2,3)どういう風に記しているのか、読んでみたいものです。閻魔法王等を拝見した後、境内を巡ってみました。冒頭に載せたお堂の正面左に、逆円錐形の石柱が見えます。その背後、お堂側にこんな像が置かれていたことに今回気づきました。涙を流す童像。何を暗示しているのでしょうか。賽の河原で泣く童でしょうか・・・・。「賽の河原地蔵和讃」には、こんな一節があります。(資料4) 河原に明け暮れ野宿して 西に向いて父恋し 東を見ては母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり 悲しき骨身を透(とお)すなり お堂の背後の境内地に「地蔵供養池」が設けられています。数多くの様々な地蔵石仏がびっしりと池の傍に安置されています。8月には、この供養池で水塔婆を流し迎え鐘をつく「お精霊迎え」の行事(8/7~8)が行われます。「お精霊送り」の行事(8/16)も行われています。 この池の北隣にこんな像が並んでいます。左の方は大黒様と恵比寿(夷)様の石像。右側には童女風の紫式部立像が建立されています。紫式部像は、その北側にある石塔に関連があるからでしょう。 境内の西北隅に「紫式部供養塔」と伝えられる九層石塔が建立されているのです。この石塔は至徳3年(1386)に円阿上人の勧進により建立されたという刻銘があります。「初層には裳階が中間に入り、上部は別材の柱を設け、内部には鳥居形の中に胎蔵界四仏の種子を刻み、下部には顕経四方仏を陽刻するが、弥勒は菩薩形となる。基礎には地蔵菩薩をめぐらしている」(資料1)という形式になっています。そしてこの石塔をおおい包むように4月半ばに白い花を咲かせる「普賢象桜」の名勝の地としても知られているのです。「この桜の色は淡く、花弁の中から茶の芽のような双葉が出、茎が長く垂れさがるのが、あたかも普賢菩薩の乗る白象の鼻のようであることから呼ばれるに至ったという。一説に鎌倉の普賢堂にあった名木を移し植えたので、一に普賢堂桜と称するともいわれる。」(資料2)と手許に本には記されています。反射して見づらいですが、こんな説明も傍に掲示されています。説明文の要点を抜き書きしてみましょう。*「普賢象桜」には古来二種ある。一種は嵯峨小倉山の「二尊院ふげん」(山桜系) もう一つがここの「えんまどうふげん」(里桜系)。普賢象桜発祥の地である。*この桜は房ごと落ちるために実も種も取れない。一種の突然変異種である。*室町時代には多くの公達たちがこの花を見に訪れたという。*応永15年(1408)の春、足利義満の北山殿に招かれた後小松天皇が途中でこの引接寺に立ち寄り休息したおり、寺僧がこの桜の枝を手折ってきて天皇に差し上げた。桜の見事さに感嘆し、その後義満にこの桜を見に行くことを勧めたという話があるとか。*相国寺の僧・横川景三が漢詩を詠んでいる。 七年不見普賢堂 七年普賢堂を見ず 蹀亦東西難過墻 亦東西を蹀して墻を過ぎ難し 乱後逢花春似夢 乱後花の春に逢うは夢に似たり 一枝晴雪満衣香 一枝の晴雪衣に香を満たす漢詩を我流で読み下してみました(素人読みですので、間違っているかも・・・・・)。横川景三は室町時代の中期から後期に生き応仁の乱の最中に壮年期を送った禅僧です。7年もの間普賢堂桜(普賢象桜)を見ることができなかった。西軍からの防御のために東軍が設けた垣根を越えて、東から西のここまで足を延ばして歩いてくることもまたできないことだった。応仁の乱が終わり、花の咲き誇る春にここで巡り逢えるのは夢をみている思いがする。晴れた日の雪のように淡くて白いこの一枝の花が、私の墨染の衣をその香りで満たしてくれる。そんな夢心地の思いを詠じたのでしょう。 (文脈から考えて、説明文中の漢詩の「蝶」は「蹀」だろうと解釈しました。)境内の北東側に鐘楼があります。この梵鐘も円阿上人の勧進により作られたそうです。 南北時代の康暦(こうりゃく)元年(1379)の銘とともに、平安創建・鎌倉再興の来歴が鐘の池ノ間に記されているそうです。また大工藤井國安が製作したとの刻銘もあるそうです。(資料1,2)(鐘の側面の写真も何枚か撮ってみましたが、斜め下からでは文面を判読できるような写真がうまく撮れませんでした。)ここでは、毎年5月1~4日に、京都の三大念仏狂言の一つである「ゑんま堂狂言」(京都市登録無形民俗文化財)が公演されます。ここの狂言は、ほとんどの演目にセリフがあるというのが特徴だとか。狂言は四十数種目あるようです。「花盗人」がえんま堂狂言特有の狂言と言われています。一度拝見したいものです。あとの2つは、壬生寺と嵯峨釈迦堂(清凉寺)の狂言で、無言の狂言です。千本えんま堂を出ると、千本通を東に横断して、「浄光寺」を訪れました。浄土宗のお寺です。所在地は寺之内通千本東入ル北側、新猪熊町です。ご住職がおっしゃっていましたが、「浄光寺」というよりも、「池大雅の寺」と呼ばれることが多いとか。現在は小規模なお寺です。山門から正面にお堂が見えます。本尊は阿弥陀如来坐像で、平安末期の造立と推定される半丈六(142cm)の仏像です。本堂でご説明を拝聴し、池大雅が書写した「一代起請文」を掛軸仕立てにされたものを併せて拝見しました。「一代起請文」は法然上人が弟子の源智の願いにより最晩年に記した一文です。本堂を左に回り込むと背後が境内墓地です。墓地への入口の突き当たりに、 覆屋の設けられた「池大雅墓」があります。屋根の正面丸瓦に「大雅堂」と陰刻されています。 墓石の表面には二行書きで「故東山画隠 大雅池君墓」と記されています。この墓は大雅が没した翌年、安永6年(1777)6月に建立されたことが、側面に細かく刻まれた銘文からわかるそうです。銘文は未確認です。 門前には、この駒札が立っています。 境内の片側に歴代住職のものと推測する卵塔列が目にとまりました。 ブロック塀で仕切られた境内墓地の入口両横に、まだ真新しい石造の鎮守社らしきものと、石標があります。 境内には微笑ましい二体の寄り添う石仏や、市中からこちらに移されたのかと思う石仏たちも集まっています。 山門屋根の鬼瓦 市中の小寺らしからぬこの山門、メモしていなくて正確には記憶していませんが某宮邸の門を移築したものとか。そう言われると、花狭間が設けられた桟唐戸が普通のお寺で使われていることはありませんので、ナルホド・・・・と思った次第です。池大雅の住居は、現在の円山公園にある円山音楽堂の近くだったということと、そこに碑が建立されているのを昔、見たことがあったのですが、墓がどこに所在するのかは知りませんでした。今回の探訪での一つの収穫です。この辺りの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。つづく参照資料1) 「京都の歴史散策34 ~千本釈迦堂周辺を歩く~」龍谷大学REC講座 当日配付のレジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波隆宏氏 作成)2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 「千本えんま堂 参詣のしおり」 当日拝観の折にいただいたリーフレット4) 【賽の河原地蔵和讃】亡くなった子ども(水子)と地蔵菩薩の物語 :「禅の視点-life-」補遺千本ゑんま堂 引接寺 ホームページ横川景三 :ウィキペディア横川景三 :「コトバンク」千本閻魔堂大念仏狂言「いろは」 :YouTube千本ゑんま堂狂言保存会 ホームページ千本ゑんま堂大念仏狂言 :「京都通百科事典」池大雅 :ウィキペディア池大雅 :「コトバンク」池大雅美術館 :「京都じっくり観光」池大雅《楼閣山水図屏風》憧憬の音が聞こえる──「出光佐千子」 :「artscape」『大雅堂画法』1巻 京都大学附属図書館所蔵 3巻まで公開されています。池大雅 天衣無縫の旅の画家 :「京都国立博物館」 特別展覧会予告 2018年4月 7日 ~ 2018年5月20日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛中 千本釈迦堂周辺を歩く -1 紙屋児童公園・上品蓮台寺 へ
2017.11.26
コメント(0)

京都・上京のまちなかも色づいていました。 今出川から見た京都御苑 2012年秋に京都市考古資料館主催の史跡ウォーク「聚楽第」に参加したまとめは先般、再録しご紹介しました。この史跡ウォークの参加の前後に、京のまちでみつけた秋を写真に撮っています。今回の京都国立博物館主催「国宝」展への往還のおりに「京のまちでみつけた秋」のつづきとして、そのまとめを一部修正編集して再録しご紹介します。「年年歳歳花相似」の詩句のように、ゆったりとした歴史の流れの中にあるスポットでみつけた秋ですので、5年の時の隔たりを感じさせない場所ではないかなと思います。(再録理由は付記にて) 御苑の築地塀越しに 今出川御門 今出川御門を御苑の内から 銀杏の黄葉した落葉が絨毯となって 今出川御門をはいると 踏み往けばかさこそと音を伴い 堀川通 南方向 かつての藩邸跡地に落葉が積もる 中立売通常福寺東入る南側 堀川・元誓願寺橋下流にて 堀川・元誓願寺橋この近く、元誓願寺通の南には晴明神社があります。そして、晴明神社の南に一条通があり、堀川に架けられた橋が、有名な「一条戻り橋」です。 堀川・中立売の下流にて 堀川通沿いの並木が紅葉しています。 堀川通の歩道にて 丸太町通 府庁前の通り 丸太町通から堺町御門を通過して、再び京都御苑に京都御苑は、まちなかの秋の風情をゆったりと満喫できる憩いの場所になっています。もともと平安時代の天皇の居所は、現在の千本丸太町交差点の北東に「内裏」として設けられました。その後、内裏がたびたび火災に遭い、天皇が里(さと)内裏を居所とするようになり、平安時代後期には里内裏が実施的にも政治の中心になります。摂関家など高級貴族の邸宅が里内裏として利用されたのです。南北朝時代になると、東洞院土御門内裏が北朝の皇居となり、その後この場所が御所のもととなって行きます。そして、焼失・再建、荒廃・再建の歴史が繰り返されます。最終的に、現在の御所は江戸時代、安政2年(1855)に再建されたものだそうです。当時はこの御所の周囲に公家屋敷が取り囲んでいた訳ですが、明治2年(1869)に明治天皇が東京に遷御するに伴い、公家屋敷の多くが東京に移転します。御所周辺の公家屋敷が撤去され、京都府が整備した結果できたのが、御所周辺の京都御苑です。公家屋敷の庭園部分などもそのまま残されているエリアもありますので、その景色には南北朝時代からの継承箇所もあるかもしれません。京都御所を中に含む京都御苑は、東西700m、南北1280mの規模の大きさです。 鴨川・丸太町の橋上から北西方向この後、丸太町通を東行し、岡崎公園にむかいました。つづく参照資料『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。観照 京のまちでみつけた秋 -1 京都国立博物館の庭 へ観照 京のまちでみつけた秋 -2 京都国立博物館・茶室 堪庵にて へ観照 京のまちでみつけた秋 -3 蓮華王院南大門築地塀・後白河天皇御陵・養源院参道観照 京のまちでみつけた秋 -5 岡崎公園・壇王法林寺(再録)へ
2017.11.25
コメント(0)

私は交通機関の便宜性から、JR東福寺駅で下車して、本町通を少し北に上がり、その一筋東の通りを上って、三十三間堂の傍を通り過ぎて、京都国立博物館まで歩くことにしています。昼間はほとんど人通りのない静かな道を歩むことができます。JRの線路が谷底にあるように見える架橋を渡り、細い通りを抜けると、突き当たりが「蓮華王院・南大門の築地塀」です。右折した通りを南大門に向かいます。南大門の傍に大きな銀杏の木が色づき、また境内の木々が見え、秋の深まりを感じました。築地塀沿いに東に歩き、二色の紅葉する木々を築地塀越しに正面から眺めてみます。門に近づくと、一本の大銀杏が屹立しています。この銀杏の木の東側から築地塀の上に見える紅葉した木々を眺めて行くと、築地塀の西端のずっと先に、蝋燭型の京都タワーが見えるのです。もしこの時、蒼空だったら、一層色調のコントラストが美しかったかもしれません。 南大門を通り抜け、三十三間堂の南東隅にある鉄柵の門扉の間から、境内の紅葉を少し眺めてみました。三十三間堂の広い境内を南端側まで来る観光客は比較的少ないのかもしれません。北の入口から比べると、秋の木の葉のグラデーションを楽しめるスポットになっています。三十三間堂の連子窓のある東塀から通りを隔てて、東側には南に法住寺、北隣に養源院が並んでいます。その間に御陵「後白河天皇法住寺陵」への参道が東に延びています。入口の扉が開けてありましたので、久しぶりに御陵参道を歩んでみました。両側が築地塀の参道を右折すると、参道の先に小さな秋が見られます。静けさの中に、一木の紅葉が映えています。塀で囲まれた陵域の中央に瓦屋根が見えます。法華堂だそうですが、この中に後白河法皇の像が安置されているそうです。御陵正面の北側にも少し濃くくすんだ紅葉を見せる大樹が歳月を経た塀板の黒ずみとうまく調和している感じでした。 参道を戻るとき、法住寺と養源院のそれぞれ白い五本の定規筋が引かれたモノトーンの築地塀に、明るさと華やぎを感じさせる紅葉が良い感じです。静寂の中に、今ひとときの鮮やかさが際立っていました。ここには静寂だからこその美がありました。続きに、北隣の「養源院」の山門をくぐってみました。東の奧の方にお堂があるのですが、門前の近くから参道の紅葉を少し眺めたくて入ってみました。山門を入ると、すぐ南側に石鳥居と境内社があります。その西隣に方形の池があり、池端の紅葉が見事でした。まるで狛犬がこの樹木の警護をしているかのように・・・・・。十数人の人が近くに見えました。人待ちの観光客や写真を撮るためにたたずむ人々など。 その間隙に、撮ったのがこの景色です。御陵の紅葉具合とはまた違った色調を味わえました。山門を入ると、北側に手水舎があり、北に延びる参道があります。その傍にも紅葉した木がありますが、東奧のお堂への参道の紅葉ほどにはこちらは人気が無さそう・・・・。参道を北に進み、振り返って石鳥居を背景に撮ってみました。参道の上を覆うように紅葉した枝が伸びています。この一木の枝葉の様々な色調を言葉で明確には識別できません。一木の葉の色の変化相の中に一つの世界があるようです。それも一瞬たりとも留まらず変化し続ける世界が・・・・・・。連山の紅葉の見事さも素晴らしいですが、まちなかにみる秋の紅葉の変化も様々な味わいを見せてくれています。帰路は再びJR東福寺駅に戻ります。午後5時を過ぎようとしていましたので、もう観光客もまばらだろうと思い、東福寺の境内域に足を延ばしてみました。通天橋の景色を見られる臥雲橋のところまで。 臥雲橋上から通天橋を眺めて 午後5時15分頃に撮った景色です。臥雲橋の所も、昼間の観光客の大混雑を避ける為に今は撮影禁止の措置がとられています。この時刻はもうその対象外と考えていいでしょう。写真を撮る人、景色を眺める人を数名はみかけました。一方で、係員(?)の人がまだ居て、一般観光客らしき人に対応していました。というのはこの時刻からでもまだ東福寺の境内に入れて、通天橋の方に行き拝観できると思っている人が居たのです。一般観光の拝観時間帯は外れていましたが、バスツアーの団体客の予約拝観は受けつけられているのでしょう。ガイドさんの掲げる旗に従って、臥雲橋で止まることなく、一群の人々が東福寺の山門方向に向かってぞろぞろと連なって行く姿に出会いました。次回は、過去に京のまちでみつけた秋を再録により付け加えて、ご紹介したいと思います。2012年に見つけた京の秋の景色です。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という詩句があります。この詩句を連想しましたので、ネット検索で調べてみると、唐代の詩人、劉希夷(651~680?)の詩の一節です。5年前の京のまちなかの紅葉は今年も相似ていることでしょう。仮に違いがあればそれがなぜか、現地で考えていただくのもおもしろいかもしれません。つづく参照資料『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 (唐詩選) 法話と禅語 :「臨黄ネット」観照 京のまちでみつけた秋 -1 京都国立博物館の庭 へ観照 京のまちでみつけた秋 -2 京都国立博物館・茶室 堪庵にて へ観照 京のまちでみつけた秋 -4 京都御苑・堀川通・丸太町通(再録)へ観照 京のまちでみつけた秋 -5 岡崎公園・壇王法林寺(再録)へ次の拙ブログ記事もご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- スポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵スポット探訪 京都・東山 養源院スポット探訪 京都・東山 東福寺・文月にふたたび -3 洗玉澗・月下門・愛染堂・芭蕉句碑スポット探訪 京都・東山 東福寺・文月にふたたび -4 東福禅堂、楼門、開山堂・昭堂と庭園スポット探訪 京都・東山 東福寺・文月にふたたび -5 普門院と庭園、回廊スポット探訪 京都・東山 東福寺・文月にふたたび -6 通天橋と洗玉澗スポット探訪 京都・東山 東福寺・文月にふたたび -7 臥雲橋と道沿いの塔頭群
2017.11.25
コメント(0)

京都国立博物館の「東の庭」の北側に、建仁寺垣で囲われた茶室「堪庵」があります。この画像は、東の庭との仕切りになっている垣です。この左手前に茶室の入口への通路があります。こちらが「堪庵」の入口です。2016年7月に博物館を訪れた時に撮った写真です。今回は紅葉の秋の風情を眺めに行きましたので、茶室の庭の木々を主体に撮りました。この茶室「堪庵」自体のご紹介は拙ブログ記事でご紹介しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。 [ 探訪 京都国立博物館 建物と庭 -4 東の庭(茶室「堪庵」)]入口を入り、茶室の庭の方に回ったのは16時50分すぎでした。公開中の茶室を閉じる作業を係員の方が始めておられました。茶室前の石敷の道の南は白砂が小川のように巡っていて、その南に庭が東西方向に広がり、常緑樹の中に、紅葉した木々が艶やかさを加えています。冒頭の建仁寺垣の外側からの眺めに対し、茶室前から庭を眺めた秋の紅葉の風情がこちらの景色です。垣の外の常緑樹が庭の紅葉を引き立ててくれているようです。紅葉を眺めて戸締まりの邪魔にならないように早々とでようとすると、呼び止められました。難だろう・・・・と思ったら、裏手の紅葉も見事ですよ。こちらにどうぞ・・・・と教えていただきました。茶室の敷地の北側は板塀でした。板塀の瓦屋根越しに見える紅葉は竹垣越に見える眺めとまたひと味雰囲気が異なります。 北側の塀際の紅葉の赤さも見る角度により色合いが微妙に変化する感じです。一層赤みが加わっている印象を受けました。塀際のこの紅葉した木々は、茶室側からは見えなかったと思います。ふと、振り返ると、東大路通の東側に、博物館側の紅葉した木々を前景として妙法院の山門が見えます。堪庵の秋を眺めた後、博物館を出ました。次回は博物館に来るときに、みつけた秋のご紹介です。京都国立博物館の紅葉の景色はあとしばし楽しめることでしょう。つづく観照 京のまちでみつけた秋 -1 京都国立博物館の庭 へ観照 京のまちでみつけた秋 -3 蓮華王院南大門築地塀・後白河天皇御陵・養源院参道観照 京のまちでみつけた秋 -4 京都御苑・堀川通・丸太町通(再録)へ観照 京のまちでみつけた秋 -5 岡崎公園・壇王法林寺(再録)へ
2017.11.24
コメント(0)

あと数日、京都国立博物館では、「国宝」展が続いています。22日に第Ⅳ期を見るために再び出かけました。第Ⅱ期の折は待ち時間なしで会場に入れたのですが、水曜日の午後にも関わらず、40分待ちという状況でした。冒頭の画像は、博物館の噴水のある庭の傍に建てられていたものです。第Ⅱ期で訪れたときは、噴水の方には行かなかったので、これには気づきませんでした。第Ⅰ・Ⅱ期に展示されていた雪舟筆「慧可断臂図」です。面壁坐禅する達磨の顔の部分が抜けています。記念撮影用に設置されたのでしょう。どれだけの人がここで記念写真を撮ったのでしょうか?鑑賞後に、庭を散策してみました。秋をみつけるために・・・・・・。背景は平成知新館です。ロダン作「考える人」の北側あたり。噴水のあるエリアです。噴水のあるエリアの南側、「西の庭」には様々な秋の風情が漂っていました。この石標だけを撮ると、まさに西から山城の国に足を踏み入れる境界の秋の風景です。山城国というのは、古代の行政区分です。山城国の北西は丹波国、南西は摂津国、南は河内国と大和国。主要道なら山陰道での境界あたりでしょうか・・・・・。 銀杏の落葉が地面にカーペットのように広がっています。石造不動明王像 どこかの寺の境内に居るような・・・・・。常緑樹の下に坐す石仏の傍らには、日々変化する紅葉が生々流転、無常を示します。明治古都館の東にある「東の庭」も訪れてみました。 東の庭への石段を上がったあたりです。しかしこの景色だけですと、朝鮮半島の某所と言われても納得してしまうかも・・・・・。というのは、この東の庭は、朝鮮半島の石造遺品があしらわれた庭園が設けられているからです。明治古都館の東隣の建物傍の銀杏の木。この木の傍を茶室に向かいます。それは次回に。東の庭から七条通に面した南門付近の景色 木々が様々な色合いで協奏しています。京都国立博物館は、明治30年、1897年に「帝国京都博物館」として開館されました。120周年を迎えたのです。ここは、古くは、豊臣秀吉が建立した方広寺の旧境内の一画です。明治になり恭明宮が一時期設けられた跡地です。明治の神仏分離で、それまで御所黒戸に安置されていた歴代天皇の位牌などを遷す必要性と東京に遷らない女官の居住施設を兼ねたそうです。この恭明宮は明治9年(1876)に廃止されたそうです。時代の変遷とともに、名称と所管が変化してきています。京都国立博物館という名称になったのは昭和27年(1952)です。それ以降も、その運営所管は、国所管⇒独立行政法人国立博物館(2001)⇒独立行政法人国立文化財機構という風に、三度変化してきているようです。つづく参照資料『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社観照 京のまちでみつけた秋 -2 京都国立博物館・茶室 堪庵にて へ観照 京のまちでみつけた秋 -3 蓮華王院南大門築地塀・後白河天皇御陵・養源院参道観照 京のまちでみつけた秋 -4 京都御苑・堀川通・丸太町通(再録)へ観照 京のまちでみつけた秋 -5 岡崎公園・壇王法林寺(再録)へ追記2016年にまとめた次の拙ブログ記事もご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)
2017.11.24
コメント(0)

RECの「京都の歴史散策」講座で11月11日(土)に千本釈迦堂周辺、つまりかつて「蓮台野」と呼ばれた地域を探訪しました。その記録のまとめを兼ねてご紹介します。一部は個人的に再訪の箇所もありますが、異なる視点で眺めることもできました。冒頭の画像は今回集合場所となった千本北大路の交差点です。集合場所は交差点の南東側、ローソン千本北大路店の前あたりです。ここを起点にして北大路通を3筋西に進み、南に左折して、しばらく南進します。千本通から西に2筋目と3筋目の間辺りに、南北方向に御土居が築かれていたそうです。この南進している通りが丁度御土居の外側になるようです。つまり洛外となります。この通りの東側の市民掲示板に「北区紫野花ノ坊町」と地名が記されています。しばらく歩いていると、空地があり東側が一段高くなっています。御土居跡地がそのまま住所地になっていった部分のようです。最初の辻を西に右折します。 通りの先が一段低くなっていて、「紙屋児童公園」の表示が見えます。公園の西端の先に、紙屋川が流れています。紙屋川が形成された河岸段丘を利用して、御土居が築造された地点であり、土塁斜面が崖線として残る場所と言われています。(資料1)紙屋川は北野天満宮の西を流れるあたりから「天神川」と呼ばれるようになります。グーグルの地図では、このあたりも天神川と表記されています。つまり、この景色は御土居の内側から外側(洛外)を下方向に眺めていることになります。ここから、、通りを逆に東に戻り千本通まで出て、左折します。 千本通に面して「光明山真言院」の山門があります。 山門を眺めると、屋根を支える側面の蟇股と木鼻はごくシンプルな形です。頭貫の上の蟇股は、雲形文の上に象らしき動物が厚彫りされていて、反対面を見ると一面雲形文です。私には、この彫刻造形は初めてみるものです。 この真言院の山門を入ると、石畳の先は空地になっていて、現在はお堂がありません。手許の本には、昭和59年(1984)8月の日付が記された上品蓮台寺の絵図が載っています。それには真言院のお堂が描かれています。それ以降に何らかの事情で建物が消滅したことになります。今は北側に墓地が残されているだけで、この塔頭は南側にそのまま境内地が繋がる「上品蓮台寺」の子院の一つです。つまり、現在は上品蓮台寺が管理されている境内なのでしょう。(資料2) 境内地南側から眺めた山門 瓦屋根の付いたブロック塀で墓地が仕切られています。その墓地入口の内側には、左右に石仏がいくつか並べられています。割と体躯を厚く彫り込んだ石仏です。この墓地で、大きな五輪石塔を拝見しました。高さ約2.5mあるようです。これは空海の生家阿刀氏の墓と伝わる石塔だそうです。(資料2,3)嵯峨野の広沢池の南、南野町に阿刀神社があります。そこが阿刀氏の氏神社とされているとか。阿刀氏は、山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)や摂津国、和泉国を居住地としていたとか。(資料4)この墓地の西端に大きな木(椋の木)があり、駒札が立てられているのが目にとまりました。 近くまで行くと、駒札には平安時代の武将「『源頼光朝臣』塚」と記されています。源頼光は酒呑童子や土蜘蛛退治伝承の主人公となった人物です。 駒札に記されていますが、一名「蜘蛛塚」ともいわれるそうです。この「蜘蛛塚」は明治初年までは塔頭宝泉院の背後にあったそうで、その場所が千本鞍馬口西入ル北側、紫野郷之上町だとか。それを昭和7年頃にここに移したと伝えるようです。(資料2)ところが、北野天満宮の二の鳥居の西にある観音寺(東向観音寺)にも源頼光を悩ました土蜘蛛が棲息していた塚を移したというものがあるのです。こちらは七本松通一条上ル「清和院」西門前に、かつては墳丘があり、そこが土蜘蛛の塚とされていたそうです。明治31年(1898)にその墳丘は開拓に伴い破却されたといいます。それが大正13年(1924)に東向観音寺に移されたのです。(資料2,5)北野天満宮の北と南に伝承地があることになります。おもしろいものです。 真言院から上品蓮台寺の境内側に、地続きで移動します。途中に西側に朱色の鳥居が立っています。通行止めが置かれていますが、調べてみると「歓喜天堂」への鳥居のようです。 大師堂 大師堂の南に千本通に面して山門があり、ここに大きな石造の寺号標が立っていますが、この前には柵が設けてあり、普段は閉められているようです。画像の左側が本堂です。 山門より南に鐘楼が見えます。「上品蓮台寺」は船岡山の西麓に位置し、北区紫野十二坊町に所在します。そこで、まず「蓮台野」というかつての地名からご紹介です。かつての平城京は、現在の千本通が朱雀大路(幅83m)というメインストリートがあった位置です。この朱雀大路を中央にして、東西には西京極大路~東京極大路、南北には一条大路~九条大路が平城京の都市空間として想定されていて、大内裏の北側が一条大路であり、それは現在の今出川通より南でした。最後の探訪先となる千本釈迦堂(大報恩寺)が、千本今出川通より北に位置しますので、この頃には、千本釈迦堂の場所すら京外でした。そして、当時の人々にとり、東の鳥辺野、西の化野(あだしの)と並び、船岡山より西、紙屋川に至り、千本釈迦堂周辺より北の地域は「蓮台野」と称されていて、平安時代から中世にかけての葬送の地だったのです。(資料2,3)上品蓮台寺は、現在は真言宗智山派に属する別格本山です。蓮華金宝山と号しますが、別名「九品三昧院」「十二坊」とも称されます。現在の町名の由来はこの十二坊にあるようです。創建については諸説があり、聖徳太子創建とも、弘法大師創建とも伝わります。また10世紀に、宇多天皇により創建ないしは再興されたとも考えられているようです。寺伝では、聖徳太子創建、宇多天皇による再興と伝わるそうです。村上天皇(在位:946-967)より上品蓮台寺の勅願を賜ってより、真言宗の道場となったとか。この寺の立地から、「はじめは蓮台野墓地に於ける皇室の香華寺として建立されたものであろう」(資料2)と考えられています。江戸時代に出版された『都名所図会』は、「開基聖徳太子なり。其後僧正観空住職して真言宗とあらたむ。・・・・」と説明しています。(資料6)応仁の乱でこの寺は焼失しますが、豊臣秀吉が再興し、子院12箇所を持つようになったのです(資料3)。別称十二坊はこのことを意味するのでしょう。現在は子院は3箇所だけだとか。この寺は、入宋した東大寺僧奝然(ちょうねん)が、寛和3年(987)に帰国したとき宋からもたらした釈迦如来像を最初に安置したところだそうです。その像は3年後に嵯峨の清涼寺(嵯峨釈迦堂)に移されます(資料3)。三国(インド・中国・日本)伝来の釈迦像と言われ、「清凉寺式釈迦」として有名な仏像です。本尊は延命地蔵菩薩です。所蔵の「絵因果経」は国宝です。先般、拙ブログ記事で京都国立博物館の特別展覧会「国宝」に触れています。第Ⅱ期-この期間に限定-にこの「絵因果経」が出展されていました。このまとめを作成していて思い出しました。また、後で調べていてここが「紅しだれ桜」の名所にもなっているのを知りました。 本堂の屋根の鬼瓦、屋根の降棟の獅子口北側の「本堂」を回り込み南側の「宝泉堂」との間の通路を西に歩むと、本堂の背後に境内墓地があります。その墓地への入口、北側に「仏師定朝墓」があります。宇治にある平等院鳳凰堂に祀られている阿弥陀仏坐像が、定朝の作品です。定朝様式を確立した仏師ですが、その作品として現存するのは、この一仏だけだとか 題目笠塔婆の正面に「日本仏師開山常朝法印康口」と記されています。もとは蓮台寺の南にあった塔頭照明院よりこちらに移したといわれています。ところで、この「仏師定朝墓」の関連で、寺町通に面した廬山寺の境内墓地の一隅に、「先祖定朝法印」と刻された墓があるのです。これは、以前に廬山寺を訪れた時に、境内墓地を拝見して知ったのです。こちらから拙ブログ記事をご覧いただければうれしいです。 (探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -4 廬山寺(御陵・墳墓)・御土居 その2)宝泉堂の傍の南門を出て千本通を下り、千本閻魔堂(引接寺)に向かいます。つづく参照資料1) 御土居マップ 千本北大路西側地域 :「グーグル・マップ」2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 「京都の歴史散策34 ~千本釈迦堂周辺を歩く~」龍谷大学REC講座 当日配付のレジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波隆宏氏 作成)4) 阿刀神社 :「神旅、仏旅、むすび旅」5) 蜘蛛塚 :「京都通百科事典」6) 上品蓮台寺(蓮台寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」補遺上品蓮台寺 :ウィキペディア上品蓮台寺 :「京都観光Navi」絵因果経(京都 上品蓮台寺所蔵) 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」京都07 土蜘蛛?上品蓮台寺の頼光塚 :「週刊長野記事アーカイブ」曲目解説 土蜘蛛 :「銕仙会」演目事典 土蜘蛛 :「the能.com」能『大江山』の酒呑童子について :「粟谷能の会」曲目解説 大江山 :「大槻能楽堂」定朝 :ウィキペディア定朝 :「コトバンク」定朝 :「京都通百科事典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.24
コメント(0)

「秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、・・・・・」と清少納言は記していますが、あの時代には美術館や博物館はありません。現代はやはり、芸術・文化のひとつの凝縮が「展覧会の秋」であり、交通機関が発達したお陰で、観光と「紅葉を愛でる秋」かもしれません。勿論、「紅葉狩」という言葉がありますから、あの時代の人々も紅葉の秋は楽しんだことでしょう。京都国立博物館は開館120周年を迎えたことを記念して、「国宝」展をこの秋、開催しています。4期に分けて、一部展示替えを行いつつ、あと少しの期間開催中です。第Ⅱ期に鑑賞に出かけました。ズラリ、国宝の展示・・・・・さすがに見応えがありました。 当日購入した図録です。尾形光琳筆「燕子花図屏風」の部分図が表紙の両面に使われています。この屏風は第Ⅳ期の展示なのでこの時は見られませんでした。現時点(2017.11.26まで)では展示中でしょう。第Ⅱ期で特に印象深かったのは、「天寿国繍帳」(中宮寺所蔵)、俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(建仁寺所蔵)、雪舟筆「慧可断臂図」(斎年寺所蔵)、釈迦如来立像(清涼寺所蔵)、火焔型土器(十日町市所蔵)でした。間近に見られる機会は得がたいものです。午後5時を過ぎてから会場を出ました。西門を背景に風神雷神図がPRパネルとして設置されています。記念撮影用スポットにもなっているのでしょう。一方、奈良国立博物館では、恒例の「正倉院展」が開催されていました。こちらは会期が終了しました。今年は第69回でした。 今年(2017)の入場チケットです。 購入した図録の表紙です。チケットに使われているのがやはり出展品中のハイライトの一つでしょう。北倉の「羊木臈纈屏風(ろうけつ染めの屏風)」です。図録の表紙には、中倉の「緑瑠璃十二曲長坏(ガラスのさかづき)」です。表紙の表には、中倉の「碧地金銀絵箱(献物箱)の蓋の図柄が使われ、表紙の裏には、同じく中倉の「最勝王経帙(経巻のつつみ)の表面の図柄が使われています。今年の展示品の中で、私にとりこれら2点の他で特に印象深かったのは大きな2枚の「八角鏡」と「玳瑁杖(べっこう飾りの杖)」でした。正倉院展を鑑賞した後で、興福寺の特別公開の「阿修羅 天平乾漆群像展」を併せて拝見してきました。 拝観券は興福寺国宝館のものが使われていました。展示場所が現在「仮講堂」と称されているお堂でした。 仮講堂東側面 仮講堂南面これが仮講堂の建物です。現在「中金堂」が復元再建中です。この建物は興福寺の中金堂北の講堂跡に旧薬師寺金堂を移建したものです。今までは「仮金堂」と位置づけられていました。中金堂の復元再建が来年に落慶予定ですので、「仮金堂」の役目を終えて、いずれ「講堂」としての役目を果たすことになるそうです。そこで、現時点では「仮講堂」と称されているそうです。 このチラシを入手したのです。国宝館が来年リニューアルオープンのために、ここ1年間休館でしたので、この機会を捉えて、「西金堂内陣の宗教空間イメージを一部試みに視角化する」という形で特別公開されていたのです。 仮講堂内で、この図にある空間配置で諸仏像が構成されて安置されていました。これは拝観時にいただいたリーフレットからの引用です。かなり以前に国宝館を拝見したことがあります。このお堂内のような空間構成はやはりその環境の醸し出す雰囲気が、あくまで保存・展示の国宝館とはやはり次元を異にします。全体空間との関係性の中での見応えがあります。一方、国宝館の場合は、博物館と同様にごく間近で諸仏像を拝見できるという良さがあります。仏像鑑賞という観点では、ある意味で一長一短ということになるのですが・・・・。興福寺の境内に、こんな感じで上掲の掲示が置かれていたのです。この辺りの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。では、JR奈良駅と博物館の往還に撮った「紅葉の秋」の一端を最後にお楽しみください。興福寺の境内と奈良公園の常緑樹の間に眺める木々の紅葉の姿から、奈良の山並みに広がる紅葉のグラデーションを想像してみていただければ幸いです。北円堂に近い興福寺境内に、商店街の通りの中ほどから東に入る坂道を上って遠望した五重塔 北円堂南側の景色こちらは上掲の仮講堂の入口付近(南面)から眺めた北円堂です。東側からの遠望(夕刻に)境内地、南大門跡東側の築地塀。五重塔はすぐ近くです。 五重塔の北側の道を奈良公園に向かう途中にて会津八一の歌碑が建てられています。 はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり ほとけ の には に はな さく らし も (春来ぬと今かもろ人行き帰り仏の庭に花咲くらしも)この秋艸道人歌碑建立除幕式典は平成19年(2007)3月に行われたそうです。 奈良公園にて。右側に礎石が見えます。博物館を出た後、「阿修羅 天平乾漆群像展」拝見のため再び興福寺の境内に。 東金堂と五重塔 仮講堂を出て、復元建築の中金堂の南に復元されている基壇の東側、つまり東金堂前の境内地から「南円堂」を遠望した夕刻の景色です。 三条通に面した興福寺境内の南端石垣と、通りを挟み一段下に広がる「猿沢池」の畔 三条通の坂道を下ります。 「奈良県里程元標」がある傍に、「定」「道行目安書」などの制札が数多く立てられています。背後は興福寺の築地塀です。興福寺境内を通り抜け、奈良国立博物館に向かうために、この前を昼間に通り過ぎることが多く、ライトアップされているのを見たのは初めてです。ご一読ありがとうございます。参照資料 会津八一の歌 :「会津八一の歌と解説」補遺京都国立博物館 ホームページ奈良国立博物館 ホームページ興福寺 ホームページ会津八一 :ウィキペディア会津八一 :「コトバンク」五十二段と采女を想う歌 :「奈良公園」新潟市 会津八一記念館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.22
コメント(0)

京都市考古資料館 2012年11月24日(日)に、京都市考古資料館主催の史跡ウォーク「聚楽第」に参加しました。ボランティア・ガイドさんによる案合・説明という方式でした。私はこの年の夏に、ネット情報から通称・真田勘兵衛弘明さんにリクエストして、聚楽第史跡を一度案内していただきました(後記)。これが2度目になるのですが、私有地の中の関連場所もこの折に見ることができ、よい機会になりました。この時まとめていたものを一部編集して再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)当日入手の地図は写真にすると小さくて見づらくなるので、ネット公開情報をリンクします。こちらの地図をご参照ください。後述の大凡の位置関係をご理解いただけると思います。「聚楽第とは 聚楽第のあった場所」という地図(岡本正二氏作成)です。京都市考古資料館(今出川通大宮東入る)を出発した後、 まず名和公園(一条通大宮下がる)に立ち寄りました。ここは南朝の功臣・名和長年戦死の地として伝えられている場所です。 一方、このあたりは、源氏物語ゆかりの地・一条院跡でもあります。大宮通の拡幅された場所を見て、その理由をお聞きしたあと、一条通松屋町に行きました。目的はその近くのマンションの敷地を訪ねること。その途中、一条通大宮西入南側に明治の頃、「壺宗アメ」という水アメ屋さんがあり、「幽霊アメ」という別名で評判だったという興味深い話を聞きました。余談ですが、東山の六道珍皇寺、六道の辻傍には、幽霊飴ともいわれる「みやこ幽霊子育て飴本舗」のお店があるのを説明を聞きながら思い出しました。 聚楽第北ノ丸北堀跡石垣(マンションの裏手、北側にある隣地の石垣)勿論これは後世の補修が加わったもののようですが、この石垣の高さが一条通の南側に堀があったことを示しているとのこと。マンションの建っている場所が、聚楽第のあった時は堀だったのです。(私有地であり普段は非公開。一条通松屋町西入北側)発掘調査の結果では、北堀の幅は13mだったことが確認されたとのことです。中立売通に出て、この東西の通りを西に歩きます。裏門通との交差点に至ります。 交差点の南西角に立つ石碑(正親小学校の傍)そして、そのすぐ隣に「平安宮大蔵省跡」石碑と「平安宮大蔵省跡・大宿直跡」だったという説明板があります。中立売通から土屋町通の南方向を眺めると、道路が下っていく状態であることがわかります。通りの左手(東側)は南北の堀があったところなのです。中立売通から左折し、南北の土屋町通に入ってすこし南に下がると、 通りからこの石垣が見えます。ここが聚楽第の西外堀跡(南北方向)の北端辺りのようです。土屋町通も南方向へ道路が下がっていきます。南北方向の西外堀がL字型に東西方向に変わる場所の外側あたりに、「聚楽第武家地 豊臣秀勝邸跡伝承地」の石標があります(出水通土屋町上る)。この場所は、「平安宮内裏蘭林坊跡」でもあるそうです。土屋町通を左折し、出水通を東に歩き、裏門通との辻を右折します。 裏門通に入り、南を眺めると突き当たりが松林寺の山門です。道路は下っていきます。 松林寺山門の左横にこの石標が建っています。 山門内側(境内)の景色つまり、寺の境内は、聚楽第の南外堀の中に位置しているのです。その結果、山門より低い所に本堂があるという一見奇妙な立地になっています。このあたり、源氏物語ゆかりの地としては、「平安宮内裏東限と建春門跡」になるとのこと。もう一度出水通に戻り、東に歩くと、松屋町通の手前に、「鵲弘法大師堂」があります。史跡ウォークということで、特別に堂内を拝観できました。普段は弘法さんの日だけ開扉する形で地元の方が維持されているようです。 中には、弘法大師像を戦火から守るために底に沈めたという伝えのある井戸があります。 出水通を左折し、松屋町通を少し上がると、「松永稲荷」が祀られています。常夜燈の右にある石標が、「聚楽第鵲橋旧跡」の石標です。聚楽第南堀に架けられていた鵲橋の故地と伝えられているところです。この稲荷には、鵲大明神と白玉大明神が祀られているとか。昔はこの松永稲荷の南側(画像では右側)を幅1mほどの小川が松屋町通を東から西に横切る形で流れていたと言います。この辺りから北にかけて、松屋町通に沿い東側が堀だったようです。この通りから少し東に入った小路で、東西の上長者町通と下長者町通の丁度中間あたりに、伝承「梅の井跡」があります。ちょっと侘びしい感じになっています。地元の人が聚楽第内にあったというこの「梅の井跡」を守ってこられたとのこと。しかし、発掘調査結果では、どうもこのあたりは堀の中になるようです。松屋町通を北に歩き、右折して上長者町通に入り、そこから再び大宮通で左折します。そこを北上して中立売通の手前まで。 大宮通中立売下る西側に現在、西陣公共職業安定所(ハローワーク西陣)があります。右手に職安の建物。大宮通りの南方向を撮ったもの。通りの右手側が当時は堀でした。ここは、聚楽第東堀跡(南北の堀)です。発掘調査により、この地から金箔瓦が約600点出土したそうです。東堀は地表面から8m以上もの深さがあったとか。ハローワークの表の掲示板の一角には、金箔瓦出土の説明文が掲示してありました。大宮通中立売北入る西側の石標。ここも堀跡の位置です。これで、史跡「聚楽第跡」ウォークは終わりましたが、周辺ガイドとして堀川の一部を案内していただきました。 まずは中立売通の堀川に架かる「堀川第一橋」、通称は「中立売橋」石造りのアーチの橋ですが、この橋は二条城と御所を結ぶ公儀橋として明治6年に架橋されたとのことです。 少し下流側に、レンガ積みの橋台が残っています。昔、市電堀川線が走っていたころの遺構です。 堀川に下り、川底に作られた遊歩道を歩いて、一条戻り橋まで少し北上しました。 伝説の橋「一条戻り橋」は、いまでは様変わりしています。1995年に橋の位置を少し南に移動し、拡幅されて現在の橋になったようです。この「一条戻り橋」の伝説には、様々なものがあります。平安時代の三好清行文章博士の死に関わる伝説、安部晴明の式神についての伝説、渡辺綱に関わる鬼の伝説、そして安土桃山時代の伝説、千利休に関わるもの。想像力をたくましくさせる橋ですね。ロマンに満ちています。この一条戻り橋で史跡ウォークは公式に解散となりました。序でに・・・・・・市販地図やネットの地図で、「北は元誓願寺通、東は堀川通、南は押小路通、西は千本通」に囲まれた地域を見て頂くと、現在の地名からでもいろんなことがわかります。たとえば、東西の上長者町通と南北の知恵光院通の交点(上長者通知恵光院と呼びます)の辻の周辺をご覧いただくと、山里町、須浜池町、須浜町、須浜東町、下山里町、東堀町などの町名が見えます。ここからだけでも聚楽第の本丸あたりが想像できそうです。そして、その周辺をぐるりと時計回りでみていきますと、弾正町、如水町、飛騨殿町、常陸町、藤五郎町、吉野町、浮田町、中村町、福島町、信濃町、伊勢殿構町などがあります。部将がその辺りに屋敷を構えていたのでしょう。淺野長政(通称、弾正大弼)、黒田官兵衛孝高(如水)、蒲生氏郷(飛騨守)、木村重茲(通称、常陸介)、長谷川秀一(通称、藤五郎)、豊臣秀長・秀保(領地が大和国吉野)、宇喜多秀家、田中吉政、福島正則、鍋島勝茂(信濃守)、島津義弘(伊勢兵部小輔)という具合です。(真田勘兵衛弘明さんの「聚楽第城下町の大名屋敷地図」ページを参照)ご一読ありがとうございます。== ご参考情報 ==「聚楽第観光案内」をまずは、手始めに御覧いただくとよろしいでしょう。 初めて聚楽第跡地の史跡碑などを廻ったのは、このサイトを知ったことから。 「『剣客商売』道場」の管理人、通称・真田勘兵衛弘明さんが案内人です。 聚楽第について深く研究されていて、いろいろ学ばせていただいております。参照資料*『聚楽第と周辺ガイド』 A4サイズのブックレット 当日の配布資料*「聚楽第と周辺ガイドマップ」 A3サイズ 当日の配布資料『京都 秀吉の時代 つちの中から』 監修:京都市埋蔵文化研究所 発行:ユニプラン 写真や地図が豊富なビジュアルな本で、読みやすく参考になります。 聚楽第、伏見城、淀城、二条城、方広寺などを取りあげています。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺聚楽第 :ウィキペディア聚楽第の造営 :「月刊 京都史跡散策会」 「聚楽第造営」についての総論的に詳述されているサイトです。「18 聚楽第と御土居」(制作:京都市歴史資料館) pdfファイル聚楽第(京都市上京区) :「京都風光」聚楽第跡-天下人の象徴- リーフレット京都 No.213 (財)京都市埋蔵文化研究所・京都市考古資料館 聚楽第を歩く リーフレット京都 No.214 『都名所図会』巻一から 一条戻橋(戻橋):「国際日本研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.21
コメント(0)

2014年12月4日(木)、小雨がちでしたが久しぶりに神戸・三宮に出かけました。主目的は神戸市立博物館で「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」展を鑑賞するためでした。このときにまとめたものを神戸の町の散策・探訪主体に再編集し、再録し、ご紹介します。 (一部を除き展覧会の内容をまとめていた箇所はほぼ削除しました。)JR三の宮駅を出た後、神戸朝日ホールの東側の道路から博物館の方に行きました。博物館の裏側になりますのでぐるりと回ることになってしまいました。しかし、です、ここで思わぬ発見! それが冒頭のビルの谷間に・・・・・。三井住友銀行のビルの傍だったと思います。なんと、ここが「宮城道雄生誕の地」だったのです。「春の海」の演奏が流れていました。この日はルミナリエ開催初日の午後ですので、この点灯前のゲートを眺めました。普段なら見られない町並の景色です。歩いていて気づいたのが歩道上のマンホールの蓋です。ルミナリエが1995年に始まったことがいつでも想起できるようになっています。今までにも何度か展覧会を見に神戸に来て、町を歩いていますが、このとき初めて気づきました。2つめの発見です。 神戸市立博物館の入口 入口付近の拡大ポスター博物館の1階フロアーの正面にはこの時、記念撮影用の背景スペースを兼ねたウエルカムスペースが作られています。古代エジプトの被り物や上衣が撮影用小物として自由に着用できるように幾組か置かれています。前に立ち記念写真を撮る人、準備された衣裳を身に着けてそれらしくポーズを取る人、衣裳を手にとって話し合っている人と、様々です。展覧会で購入した図録の表紙。「ハトシェプスト女王像の頭部」です。図録の説明では、「アメン神礼拝堂の本殿北側にあった2体の像の破片を合わせて復元された」だとか。ハトシェプストはトトメス1世と第1王妃イアフメスの娘として生まれた人。彼女はトトメス2世の第1王妃となり、夫の死後トトメス2世の第2王妃が産んだ息子、トトメス3世が8歳と幼少だったので、第1王妃であったハトシェプストがまずは摂政として君臨し、その後、王の称号と実権を手中にしたのです。第18王朝中期の約20年間、主たる統治者として君臨し、エジプトの女王の中では最も成功したと言われている人です。この像のとおりだとすると、ハトシェプストは美人だったのでしょう。それとも、やはり美化するという脚色があるのでしょうか・・・・。通りの街灯に展覧会の垂れ幕が見えます。ルミナリエの飾りも。「古代エジプト展」を鑑賞後、「南京町」をぶらりと散策しました。南北のメリケンロードに面した「南京町」の東端の入口「長安門」神戸に「南京町」という地名はないのですね。そのロケーションを覚えていたために、地名であるのかどうか、今まで意識していませんでした。このまとめの元を作った時点で調べていて認識を新たにしたのです。「南京町」は南京町商店街振興組合が維持管理されている商店街の名称であり、この地域の通称なんだということを!!メリケンロードに面したこの長安門から西端までは東西約270m、南北はこの長安門の立つ通りを中心軸にして北は本町通、南は栄町通の間約110m、という地域が「南京町」と呼ばれています。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。また、この「南京町案内図」はこちらをご覧ください。(「南京町」のホームページで見つけました。)この巨大な石像は「布袋」様でしょうか? 特に説明は出ていなかったと思います。「長安門」は夜になるとライトアップされるそうです。神戸の南京町は、横浜中華街・長崎新地中華街とともに、日本三大中華街に数えられています。チャイナタウンの雰囲気を醸し出すエリアです。 この長安門の柱の彫刻を見た瞬間に、日本の鳥居や門との歴然とした相違を感じます。中華文化の入口!という感じを受けます。この「長安門」は昭和60年(1985)11月19日に竣工されたもので、「中国が海外へ輸出を許可した第1号の漢白玉楼門」だそうです。高さ9085m、幅7.4m。1995年の阪神淡路大震災の折には、この南京町においても、「全壊8戸、半壊と一部損壊は全体の5割、長安門も半壊し、兵馬俑は全壊した」のだとか。半壊した長安門は、翌1996年(平成8年)10月1日には、再建を祝って「長安門復興祭」が開催され、現在の姿に復活したそうです。(資料1) こちらは長安門をくぐってから振り向き、見上げた景色早々と来年(2015)2月の「春節祭」の垂れ幕が掲げられています。この2017年の12月も、同様ではないでしょうか。この南京町には、「春節祭」、「中秋祭」、「ランターンフェア」、「興隆春風祭」という年中行事が行われており、「春節祭」は1997年に神戸市地域無形民俗文化財に指定されているそうです。長安門の傍に、「南京町案内図]が設置されています。ここが「南京町広場」。二層式の屋根、朱色の柱の建物が「あづまや」です。「あづまや」は昭和58年(1983)4月29日に完成。高さ6.8m、直径3mです。(資料1)この「あづまや」のある南京町広場をほぼ中心にしてあづまやの左の道が「南京北路」、写真を撮っている位置とここまできた長安門との間が「南京東路」、逆に西側が「南京西路」で、ここの十字路から南が「南京南路」と称されています。広場を横切るように長蛇の列が出来ているのは、南京北路の反対側にある老舗「老祥記」をお目当てにしている人たちです。振り返って、南京南路の南端に立つ「海榮門」をズームアップで撮ってみました。 こちらが南京西路です。 南京町の中央十字路で、訪れた時間帯にたまたまシャッターの閉じているお店がありました。中華街ムードを横溢させてくれるシャッターです。前面一色のシャッターよりも、グンと町の雰囲気が盛り上がりますね。楽しくなります。よく見ると、「南京町 まちかど壁画プロジェクト」という活動の一環のようです。 南京西路を進んで行きます。 西の入口が「西安門」(せいあんもん)。上掲案内図によると、「中国で商業が最も栄えた北宋時代の門がモデル」になっているようです。 こちらの門は柱の装飾の様式が全く異なります。東西の門の対比もおもしろい見所です。この門の柱には、ちょうど「ランターンフェア」の期間に入った旨の立て看板が置かれていました。12月4日~12月15日の12日間の「神戸ルミナリエ」よりも10日間ほど期間が長いのです。この「ランターンフェア」は「神戸ルミナリエ」の協賛イベントとして、第1回が1996年に開催され、年中行事になったようです。(資料1) 南京西路から確か麒麟街の通路(北方向) 西安門を背にして南京西路の東方向の景色前回訪れた時と「神戸コロッケ」の雰囲気が変わっていました。お店をリフォームされたみたいです。そして、再び「あづまや」の前に戻ったところ、行列の方向を変更されて、あづまやがスッキリ見えるようになっていました。やはり、こういう配慮は大切ですね。 「あづまや」をぐるりと囲む形で、ドラゴンが・・・・。これは「龍舞」に使われるもの。もともと龍は中国において、「神様の使者」、「皇帝の紋章」と考えられていたようですが、現在では春節、中秋など季節の節目に龍が世界中のチャイナタウンで舞うそうです。この南京町には、この町のオリジナルとしてオス龍(ロンロン)とメス龍(メイロン)が設定されているようです。この写真の龍はどちらなのでしょう?(資料2)さらに、日本の獅子舞の原型となっている中国の獅子舞も華やかに舞い踊るといいます。最後に、なぜこの場所に「南京町」ができたのかについてです。安政5年6月19日(1858.7.29)に江戸幕府がアメリカとの間で日米修好通商条約を締結しました。それを契機にこの1858年にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約をそれぞれ締結します。それが安政5カ国条約と通称されるものです。この結果、神戸港が慶応3年(1867)12月7日、開港されるに至ります。そして1868年1月1日~1899年(明治32年)7月16日までの契約で、当時の神戸村つまり現在の神戸市中央区に「外国人居留地」が治外法権の領域として開設されたのです。ここが諸国との貿易、西洋文化輸入の入口の一つとなりました。慶応4年(1868)は同年9月8に明治元年に改元されて明治時代が始まるのですから、神戸港自体は、江戸幕府末期の段階で開港されたのです。この時、中国は清国の時代で、日本との間で条約は締結されていません。そのため、華僑の人々は外国人居留地に住むことができなかったのです。外国人居留地の西側に隣接する土地に居を構え、雑貨商、豚肉商、飲食店などを始めたのだそうです。中国人が多く住む町として「南京町」「南京街」と称されるようになったと言います。外国人居留地の外側は雑居地とも呼ばれていたとか。(資料1,3,4,5)「神戸の開港と同時に長崎在住の清国人10数人がただちに神戸にきて、主として海産物を清国に輸出して神戸での経済活動の基盤を築きました。とくに明治30年以降、広東・福建省の人々が大坂から神戸に移住し、神戸での活動がますます活発となりました。中国の人たちは明治20年代以降神戸の基盤産業のひとつとなっていたマッチを、中国をはじめアジアの国々に輸出し、神戸経済の発展の基礎を築きました。また、南京町は、食料品や日用品を売る露店が数多く並んでたいへんにぎやかだったといいます。」(資料5)横浜と長崎では、第二次世界大戦後「中華街」に改称されたのですが、ここ神戸は「南京町」という名称が既に世間に広く認知されているとして、名称を変更する動きもなく現在に至るようです。(資料3)南京町を実感するには、季節季節に応じて一度訪れてみる必要がありそうです。そして、三宮センター街を通り抜けてJR三宮駅に向かうときに気づいたことが3つめの発見です。 道路の中央、足元を眺めると、なんとアーティストの作品が一定間隔で途中までいくつも展示されているのです。ちょっと奇抜でおもしろい試みです。何気なく歩いていて、ふっと気づいたときのおどろきと、何か?と見つめる好奇心・・・・芸術の原点に通じる局面かもしれません。アーケードを見上げると、そこにはクリスマスの季節に相応しい飾りが吊されています。 「古代エジプト展」(2014年時点)への誘いも・・・・・・。エジプト関連展覧会鑑賞目的の久しぶりの神戸行、新しい発見がありました。ご一読ありがとうございます。参照資料図録『メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神』 発行・朝日新聞社1) 南京町の歴史 :「南京町」2) 南京町公式ガイドブック pdfファイル :「南京町」3) 南京町(神戸) :ウィキペディア4) 神戸外国人居留地 :ウィキペディア5) 神戸開港140周年によせて 神戸歴史年表 :「神戸市文書館」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ハトシェプスト :ウィキペディアハトシェプスト女王葬祭殿 :「旅日記と遺跡れぽ~と」エジプト第18王朝 :ウィキペディア南京町 ホームページ神戸華僑歴史博物館 ホームページ布袋 :ウィキペディア龍舞 :YouTube神戸南京町 獅子舞と竜舞♪ :YouTube神戸『春節祭2010』獅子舞/Chinese New Year festival2010 in Kobe.Lion dance. :YouTube神戸『春節祭2014』獅子舞/Chinese New Year festival2014 in Kobe.Lion dance.:Youtube 2012年 横浜中華街 春節娯楽表演<龍舞>兵庫商業高 龍獅團 :YouTube[春節] 2014 LION DANCE in Shau Kei Wan 中国獅子舞 in 香港 Vol.1 :YouTube2014 Chinese New Year (CNY), Jing Wo Lion Dance at TPot Calgary LWT 2.0 HD :YouTube安政五カ国条約 :ウィキペディア神戸旧居留地の歴史 八ヶ代信行氏 みなとまちづくり生涯学習講座 シリーズ 開港都市「神戸を語る」part2華僑 :ウィキペディア横浜中華街 :ウィキペディア長崎新地中華街 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.20
コメント(0)

「文化のみち二葉館」の前から教えて貰った路線バスに乗り、名古屋城の方向に向かいます。どこで下車するかもまあ適当なところで・・・と。結局下車したのはテレビ塔が見えて来たので、名古屋テレビ塔のバス停で下車することにしました。二葉館からこのあたりまでの地域地図はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。地図その他で後付けしながら、整理してまとめたものを再録しご紹介します。(2015年12月初旬時点)名古屋の人々には当たり前になっているのでしょうが、「大通り」としてしか知らなかった通りが「久屋大通」という名称なのですね。地図上では幅の広いグリーンゾーンを挟んで左右に久屋大通という名称が記されています。このグリーンゾーンが「久屋大通公園」です。この幅全体が一つとなって「久屋大通」ということなのでしょう。太平洋戦争で名古屋も空襲により被災し、戦災復興計画の一環として「100m道路」を含む道路計画を当時の市助役・田淵寿郎が発案し、その結果名古屋市にはこの久屋大通と若宮大通が建設されたそうです。(資料1) オアシス21のシンボル「水の宇宙船」(大屋根)下車したバス停の近くにこの巨大な楕円形の屋根にもなっている建造物が見えます。「オアシス21」は2002年10月11日に正式にオープンした複合施設です。公園やバスターミナルなどの公共施設と商業施設が複合されているようです。バスターミナルは地下1階にあります。 近づいてみると、12月初旬だったからでしょうか、地下1階部分にスケートリンク「トヨタホームリンク」(命名権により)がオープンしていました。ここはオープンスペースになっていて、このように地上からリンクを見下ろせます。「銀河の広場(吹抜公園)」と称されています。当日、見た感じオープンなアイススケートリンクかと思っていたのですが、このリンクは特殊プラスティックにワックスを塗ったものを使っているそうです。マスコットキャラクターは「いやしす」です。恐竜をモチーフにしたゆるキャラだとか。(資料2,3)東側の久屋大通を渡って、久屋大通公園を北上してみることにしました。オアシス21の西側になる公園のエリアは「セントラルパーク」と称されているようです。 「希望の泉」大きな噴水の南側に命名碑があり、そこに記されているのが: 希望の詩 噴水之讃 希望は平和なことである 陽光照噴泉 希望は明るいことである 希望湧毎盡 希望は健康なことである テレビ塔に向かうと、手前に彫刻像が見えます。テレビ塔を賛歌している風です。 池が作られています。 名古屋テレビ塔平成25年(2013)7月12日に、このテレビ塔は「日本夜景遺産」の「第二類・施設型夜景遺産」に認定されています。日本夜景遺産とは、夜景資源による観光活性化を目指す国内初の認定ブランドだとか。一方で、2008年9月には「恋人の聖地プロジェクト」により「恋人の聖地」に認定されています。(資料4)高さは180m。100mにスカイバルコニー、90mにスカイデッキが設けられています。1954年6月19日に竣工し、翌日に開業・電波の発射を開始したテレビ塔です。日本で最初に完成した集約電波塔だそうです。設計者は内藤多仲氏。(資料5,6) テレビ塔の北側に、「蕉風発祥の地」の文学碑と「名古屋三俳人句碑」が建立されています。(昭和45年[1970]12月建立)芭蕉が貞享元年(1684)の冬、「野ざらし紀行」の途中で名古屋に立ち寄り、この地(宮町筋久屋町西入南側)で七部集の第一集「冬の日」の歌仙を興行したのです。「冬の日」がことばの遊戯だった俳諧を初めて芸術の域にまで向上させる契機となった句集だといわれています。このテレビ塔東北の脚のあたりにあたると推定されている場所だとか。 笠は長途の雨にほころび紙衣はとまりとまりの あらしにもめたり侘びつくしたるわび人我さへ あはれにおぼえけるむかし狂歌の才士、此國に たどりし事を不圖おもひ出で申侍る 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉 たそやとばしる笠の山茶花 野水 (呉服豪商・町役人 岡田行胤) 有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮 (医者 山本周知) かしらの露をふるふあかむま 重五 (材木問屋豪商 加藤善右衞門) 朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜國 (元米穀商 坪井庄兵衛) 日のちりぢりに野に米を刈る 正平 (紀州和歌山の人、不詳)文学碑に刻されているのは「冬の日」の歌仙の冒頭部分です。『竹斎』というのは烏丸光広作の仮名草子本の題名で当時ベストセラー本だったようです。内容は藪医者が下男を連れて諸国行脚をするという物語だとか。芭蕉の発句は、芭蕉が自らの旅の姿とその思いを竹斎の風狂になぞらえたものと言います。(資料7)手許の本を見ると、『野ざらし紀行』の本文中に、 名護屋に入道の程風吟ス。 狂句木枯の身は竹齋に似たる哉 草枕犬も時雨るかよるのこゑ と記されています。芭蕉が名古屋に赴いたのは10月下旬の頃だったようです。また、脚注には、”『泊船集』『三冊子』に後に「狂句」の二字を除いて改めた旨をしるす」と付記されています。(資料8)芭蕉の心境の転機になる場所がこのあたりにあったとは・・・・。今回の探訪での大きな副産物です。歩けば出くわすものがあるんですね。 桜通に架かる陸橋を渡ります。 陸橋上及び渡りきり、テレビ塔を眺めて渡りきった所は「ロサンゼルス広場」です。中央に二段に石組みされた池があります。名古屋市がロサンゼルス市と姉妹友好都市であることの掲示が出ています。池の向こうに見えるものが、1979年に姉妹都市提携20周年記念として寄贈された「フレンドシップパターンズ」(ドラ・デ・ラリオス作)という現代芸術の抽象作品です。池の近くに、アメリカ合衆国の国章に描かれているハクトウワシをかたどった彫刻像があります。この鷲像も1984年寄贈のモニュメントのうちの一つのようです。また、池の手前の煉瓦敷きの間に見える星形の連なりは「ウォークオブフェイム」(有名人の道)の複製で、1990年の寄贈によるもの。ハリウッドにあるという有名な観光スポットです。通り過ぎてしまっただけでゆっくりと確認していませんでしたが、オードリー・ヘップバーン、シルベスター・スタローンなど25人の名前が刻まれた星形の複製品が埋め込まれているそうです。私の見落としたものがありました。中部カリフォルニア産「アラバマ丘陵の石」(1977年寄贈)、1億8000万年前の石と言われているもの。「マンズシアタープレート」(1984年寄贈)、これもハリウッドの有名観光スポットからの複製品。「戯れの天使」(2009年寄贈)、これはウエイン・ヒーリーの作品だとか。(資料9,10)さらに北に進むと、メキシコ広場(別名、いこいの広場)です。 そこに「アステカの暦」(1978年寄贈)があります。名古屋市がメキシコ市と姉妹都市提携を行った記念にメキシコ市から寄贈されたものだと銘板に記されています。「メキシコに古代国家を築いたアステカ民族の暦で、中心に太陽を配した複雑な図柄の中心に、同民族の宗教的宇宙観とすぐれた天文学的知識が表現されている。実物は1790年メキシコ市で発見され、先スペイン時代のアステカ文化を象徴する貴重なモニュメントとして、メキシコ国立人類学博物館に所蔵されている。重さ2トン、直径3.58メートル。」(資料10、銘板より)今回このセントラルパークを歩いてモニュメントを見ていて気づいたのが名古屋市の市章が丸の中に八の字を入れたものだということです。これも初めて知ったこと。尾張德川家の合印として使われていたマークが市章になったそうです。合印とは、「丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。また元治元年(1864年)、14代藩主・徳川慶勝が上京した際には、藩令で随伴の者に丸八印の木札を腰に下げることが命じられ、同時に家臣の提灯に同様の紋を付けることも定められた。」ものだとか。(資料11)そしてこれらのモニュメントも。 「月の女神(コヨルシャウキ)」(1980年寄贈)で、古代アステカの都・テノティトランの大神殿にあったもの。 「トウーラの戦士像」(1978年寄贈)トルテカ王国(11~12世紀)の都・トウーラのピラミッド上に建つ神殿の天井を支えていた柱状の戦士像で、その複製品です。「羽毛の頭飾り、胸にはトルテカ文明特有の蝶の紋章をつけ、武具と装身具を手に持ち、背面のベルト締め具は太陽神の顔です。」(資料10)魚ノ棚通を横切り、「リバーパーク」と地図に明記される区域の入口に立つモニュメントです。名古屋市と中国の南京市が友好都市を結成していて、1979年に名古屋市が久屋大通公園内に南京広場を建立したそうです。それに対して、友好の象徴として南京市から贈られたのがこのモニュメントだという主旨が銘板に記されています。 「南京六朝華表」(1980年寄贈)の複製品一対。「華表とは、古代中国の記念建築の一種で、宮城や陵墓等に設置された2本1対の石柱のことです。日本の鳥居や狛犬にあたるもので、石柱の上部では魔を払う霊獣・辟邪が睨みをきかせています。」(資料10)リバーパークの並木の間を進みます。 外堀通に出る少し手間、公園の最北端に「シドニー広場」があります。そこにあるモニュメントがこの碇です。名古屋市はオーストラリアのシドニー市とも姉妹都市の提携をしているのです。その提携10周年を記念してシドニー市から贈られたものだとか。これは、英国船シリウス号の碇の複製品だそうです。シリウス号はイギリスからオーストラリアに渡った最初の移民船団を護衛した軍艦(旗艦)だったと言います。(資料10、銘板より)公園の北端まできましたので、帰京するための時間的ゆとりも少なくなってきました。名古屋城の天守閣だけでもちょっと眺められないかと、名古屋城の濠端まで北上しました。 外堀通を西に大津橋の交差点まで行き、「大津橋」を渡ります。外堀の遺構と思えるのを眺めてすすむと、市役所前のバス停。徳川家の家紋、天守閣などの絵が目にとまります。 空堀の石垣を眺め、大津通に面する虎口から城内に入ります。 道沿いに西方向に進んで行き、城門前までの道を辿りましたが、残念ながら樹木の遮りもあり、南側の通路沿いから天守閣を見ることはできませんでした。そろそろ名古屋に留まるには時間切れです。ここから後は地下鉄を利用して名古屋駅に戻り、帰京しました。思いつくままの日帰りでの「源氏物語絵巻」鑑賞とスポット探訪は、いくつか失敗や時間ロスをしながらも、一方でそれ故に思わぬ発見もあり、有意義な一日でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 100m道路 :ウィキペディア2) オアシス21 :ウィキペディア3) 施設 :「オアシス21」4) 認定証 夜景観光コンベンション・ビューロー5) 名古屋テレビ塔 ホームページ6) 名古屋テレビ塔 :ウィキペディア7) 冬の日 芭蕉七部集 :「芭蕉DB」(伊藤洋氏)8) 『芭蕉紀行文集』 中村俊定校注 岩波文庫 p199) アメリカ合衆国の国章 :ウィキペディア10) 姉妹友好都市記念広場 :「名古屋姉妹友好都市協会」11) ご存じですか? 八マーク :「名古屋市」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺オアシス21 ホームページ日本夜景遺産 ホームページ恋人の聖地プロジェクト ホームページ内藤多仲 :ウィキペディア田淵寿郎 :ウィキペディア【名古屋復興の父】田淵寿郎(たぶち・じゅろう)・愛知の偉人/広島の偉人 :「偉人録 郷土の偉人」俳諧七部集 :「コトバンク」国立人類学博物館 :「遺跡ときとき猫」月の女神発見30周年 :「メキシコ情報」アステカ文化 :「コトバンク」アステカ神話の過去4つの世界と太陽。そして、現在の太陽トナティウの時代の終わりは :「In Deep(旧)」マヤ、アステカハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム :ウィキペディアHollywood Walk of Fame From Wikipedia, the free encyclopediaList of stars on the Hollywood Walk of Fame From Wikipedia, the free encyclopedia ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社に へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2 へ
2017.11.20
コメント(0)

鶴山児童公園から通りを挟み、南側は寺町通の名にふさわしく、お寺が隣り合って並んでいます。その最初が「光明寺」です。ここは通過点になりましたが、後で調べてみると、浄土宗のお寺で、天文5年(1536)性誉宗鎮和尚が創建したそうです。本尊は阿弥陀如来ですが、宇都宮頼綱ゆかりの「抱留之弥陀(だきとめのみだ)」として知られているとか。(資料1)その南隣が「阿弥陀寺」です。ここも門前で説明を聴くだけの通過点になりました。蓮台山と号する浄土宗のお寺で、本尊は丈六の阿弥陀如来です。織田信長と縁のあるお寺です。もとは清玉上人により坂本に創建され、織田信長の帰依を受け、洛中の上立売大宮に移りました。本能寺の変が発生した後、清玉上人は信長・信忠父子の遺灰を集めて埋葬したと言われています(資料2)。豊臣秀吉の都市改造の一環で天正15年(1582)にこちらに移転したそうです。(資料3,駒札)本堂の屋根の棟にある獅子口の側面をズームアップしてみると、織田の家紋である五葉木瓜が見えます。以前に寺町通を歩いた折のまとめと非公開寺の特別公開でこの阿弥陀寺を拝見した折のまとめをそれぞれ再録していますので、そちらもご覧いただけるとうれしいです。 境内の南側、寺町通に近い場所に鐘楼があります。 南西側から眺めた本堂 阿弥陀寺の南にある「十念寺」。華宮山寶樹院と号する西山浄土宗のお寺です。ここも山門前での説明を聴き、通過点となりました。 永享3年(1431)に、油小路一条上ルの元誓願寺通小川に所在した誓願寺内に、真阿上人に帰依した足利義教が住坊として建てた一宇が寶樹院と称されたとか(資料4)。これが十念寺の始まりだそうです。この寺もまた、天正19年(1591)にこの地に移されたのです。(資料2、駒札) 山門から北側に見える庫裡は、オーソドックスな建物です。一方、山門から正面に見える本堂は、平成5年(1993)に建立された近代的な寺院建築です。現代の建築家で、大阪にある一心寺の住職でもある高口恭行氏の設計によるものです。本尊は阿弥陀如来坐像ですが、東山の旧雲居寺にあった平安時代の仏像といわれています。 本満寺の境内墓地から眺めた十念寺の本堂上部十念寺の南隣が「仏陀寺」です。 駒札 山門屋根の鬼瓦この寺の山門前北側に地蔵堂があります。「王城地祭地蔵尊」の扁額が掲げられています。洛陽四十八霊場第21番と記された御詠歌の額も掲げてあります。今回は、この仏陀寺を拝観することができました。本堂の正面には、「世雄」の扁額が掲げてあります。向拝の頭貫上の蟇股。この意匠も初めて目にします。鶴に乗る翁が誰を表すのか未詳です。本堂内に「大蔵院」の扁額が掲げてあります。仏陀寺は「大蔵院」と号し、現在は西山浄土宗のお寺です。平安時代に村上天皇が先帝・朱雀天皇の遺志を継いで大蔵院を建立し、その法号に因んで仏陀寺と称されたのが本寺の起こりといいます。室町時代にお寺は萬里小路春日の北(今の京都御苑東南)にあったそうですが、応仁の乱の折に戦火により炎上。文明8年(1467)に後土御門天皇の帰依を受け、暁堂邦諌(又は妙諌)上人が、土御門西洞院(今の上長者町西洞院)に寺を中興されたそうです。このとき、勅願所となるとともに浄土門西山西谷流を伝える寺となったのです。この寺も、永西4年(1507)の戦火で灰燼に帰したとか。その後、二世融国正孝上人が諸国勧進の末、一条烏丸に伽藍を再建されますが、天正19年に、秀吉の命を受けてここに移転するという経緯を経ているそうです。この地においても、万治4年(1661)と天明8年(1788)の大火で焼尽したため、現在の堂宇はその後の建築によるものだとか。(資料5)本尊は阿弥陀如来坐像です。撮影可でしたので、ご紹介できます。「定朝様で平安後期の造立と推定されるが、やや肉厚な体躯、大衣端の松葉形衣文、翻波式衣文のような表現など古様を見せる」(資料2)像で、「寄木造金箔押、高さは約90糎(cm)で、上品中生の説法印をむすぶ姿」(資料5)です。本尊に向かって右側に、観音立像が安置されています。書院の一室に天女像が掛けてありました。 書院の東側に庭が広がっています。 山門を入ると、北側に鐘楼があります。縦帯の部分に「梵鐘 玅音(みょうおん)響流十方」と記され、一方の池ノ間には飛翔する天女像がレリーフされていて、他方の池ノ間にはこの梵鐘の奉納に関わった人々の名前が記されているようです。その末尾には「鋳匠 京都 岩澤徹誠」と記されています。仏陀寺を出て、寺町通を南に下ります。少し民家が軒を連ねた先に、再び定規筋の入った築地塀があり、通りに面して「本山 本満寺」と刻した大きな寺号石標が建てられています。参道が東に延び、かなり奧に山門が見えます。山門の手前、左(北)側に、「妙見宮」の扁額が掛けられた石造鳥居があります。本満寺の境内地の一部になるのでしょう。「洛陽十二支妙見」の木札がお堂の左側の柱に掛けてあります。 通りからは奥まった場所に建つ本満寺の山門山門を入ると、左側に「七面大明神」と記された提灯が吊されたお堂があります。 その先に本堂が見えます。本堂の正面には山号「広布山」の扁額が掲げてあります。日蓮宗本山の一つです。この寺は、応永17年(1410)、六老僧日持を開山として、日秀上人が今出川新町(今の元本満寺町)に一宇を建立し、広宣流布山本願満足寺を開基したのが始まりだそうです。日秀上人は近衛道嗣の子で、父の邸内に一宇を建立したのだとか。寺は興隆したそうですが、天文法華の乱で寺が焼亡し、堺に退転します。1539年に関白近衛尚道が現在地に移して再興し、後奈良天皇の勅願所となったそうです。江戸時代には、僧日鳳が将軍徳川吉宗の病気平癒を祈願し霊験があったことから、徳川家累代の祈願所となったといわれています。(資料2,3,6) 屋根の丸軒瓦には「本満寺」の文字が陽刻されています。獅子口に付けられているのは寺紋でしょうか。近衛家の家紋が近衛牡丹のようですから、近衛家の家紋が寺紋になっているのかもしれません。(資料7)本堂の右側を回り込むと境内墓所があり、その入口に六体地蔵尊が建立されています。北方向に、子を抱く大きな石造観音菩薩立像が立っています。 その北側に、一段高いところに、石塔が横一列に建立されています。歴代の住職の墓碑なのでしょう。その東側に石垣が見え一段高くなったところが見えます。この境内の位置と地形からみて、御土居の土塁が残された部分のように思われます。六体地蔵尊の所から真っ直ぐ南に歩むと、本滿寺の西門があります。これは西門を振り返って撮ったものです。この門から退出し、出町柳に向かいました。本滿寺の南側の通りは、賀茂川に架かる葵橋の西詰になります。葵橋の一つ南の橋が出町橋です。 出町橋の西詰北側に「鯖街道口」の道標が建てられています。鴨川を渡り、八瀬~大原~朽木~若狭へと抜ける街道が「鯖街道」と称されています。賀茂川と高野川が合流し、その下流で「鴨川」と呼ばれるようになります。2つの河川が合流する付近の中州は「葵公園」となっています。一方、鴨川(賀茂川)の西岸は「鴨川公園」として、川沿いに長い公園として整備され、憩いのスペースになっています。 賀茂川の上流方向高野川寄りから、南方向、鴨川の景色です。今出川通に架けられた賀茂大橋が見えます。手前の右側の緑地が中洲の先端部です。橋を渡ったところで、この探訪の終点となりました。京阪電車の出町柳駅がすぐ近くです。この辺りの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 光明寺 :「京都通百科事典」2) 龍谷大学REC「京都の古寺社を巡る 33 ~寺町北部の寺社~」 2017.10.14 当日の配布レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)3) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p47-504) 十念寺(京都市上京区) :「京都風光」 十念寺 :「京都通百科事典」5) 「佛陀寺沿革」拝観時にいただいたリーフレット6) 『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p109-1137) 近衛家 :ウィキペディア 補遺浄土宗西山深草派 総本山誓願寺 ホームページ上京区の史跡百選/阿弥陀寺 :「上京区」上京区の史跡百選/十念寺 :「上京区」上京区の史跡百選/仏陀寺 :「上京区」上京区の史跡百選、誇りの木/本満寺、ソメイヨシノ :「上京区」近衛家旧邸址 :「京都市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -1 御土居跡・上善寺 へ探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -2 天寧寺・西園寺・出雲寺 へ上記でふれた拙ブログはこちらからご覧いただけるとうれしいいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -1 寺町頭、阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺ほか へスポット探訪 [再録] 阿弥陀寺 織田信長の本廟所 へ
2017.11.19
コメント(0)

螺旋状階段を上ると、2階の三方向にある室それぞれのドアが見えます。わかりやすいように、回廊の北側から撮ったのが冒頭の画像です。まずは右(西)側の部屋に進みました。平面図では展示室6の部屋です。元は寝室として使用されていたそうです。 部屋に入ると、南側の壁には「城山三郎 著作一覧」「城山三郎 略年譜」のパネルが掲示され、展示ケースが置かれています。部屋の北東側区画には、作家・城山三郎の書斎が再現されています。この二葉館で城山三郎が使用していたことのある書斎の雰囲気を知ることができるとは思ってもいませんでした。これもまたラッキー! 北側の壁には、書架の左に書斎に居る城山三郎の写真が掛けてあり、その上に「城山三郎の書斎」と掲示されています。「美女の館」と題するエッセイは、書斎机の右端に置かれたパネルを撮ったものです。このエッセイは、この「文化のみち 二葉館」が移築復元された事に関連し、このあたりの地域や歴史の断片について一文です。写真の文字が小さいので、エッセイで触れられている要点をメモしておきます。*城山三郎自身が名古屋市中区の栄近くの商家で生まれたこと。*二葉館に、前の仕事場の机や蔵書などを寄贈したこと。⇒これがこの書斎の品々一式*この地域は尾張藩の「碁盤割」の整然とした区画割りがなされていて、中級武士や御用商人の住む区域だったこと。*このあたりが明治維新後に経済人の邸宅地になったこと。*福沢桃介は名古屋電燈の社長に請われて名古屋に来たこと。そのとき、愛人の川上貞奴を連れてきたこと。*「二人は派手な身なりをして名古屋一の目抜き通りの広小路を手をつないで歩いた。傾城(スター)上がりの貞奴は美しく、保守的な名古屋の人は度肝を抜かれた。」(原文引用)*二葉御殿は桃介派(新興財界人)の夜毎の社交サロンめいた場になったこと。*もう一つのサロンが矢田績の「橦木倶楽部」であり、若い財界人や新聞記者の談論風発の場となったこと。*性格の異なる2つのサロンが中京財界発展の淵源なのかもしれないこと。*矢田績は私財をなげうち「名古屋公衆図書館」を開いたこと。*城山三郎が愛知教育大学で景気論の教師をする傍らで、本名で『中京財界史』を書いたことが作家生活のスタートとなったこと。様々な情報が盛り込まれていて、おもしろい一文です。原文を読んでみてください。経済小説の開拓者でもある城山三郎の作品は、伝記小説や歴史小説も含めて読んでいますが、名古屋出身だったことをこの二葉館で遅まきながら知りました。作家の書斎を再現したものはいくつか拝見していますが、それぞれ個性があって興味深いものです。この部屋にはもう一つドアがあり、旧寝室から旧書斎(展示室7)に繋がっています。ドアの西側は張り出していますので、その箇所の南の壁にステンドグラスが嵌め込まれています。これが展示室7のアクセントになっています。 ここは川上貞奴の説明パネルや展示品の置かれた展示室1(旧食堂)の2階部分になるところです。北側の壁面には作り付けの書棚があり、名古屋を中心とする郷土ゆかりの文学者の著作などが置かれています。城山三郎(直木賞)の他に、坪内逍遥(近代文学の祖)、小谷剛(芥川賞)、江夏美好(田村俊子賞)、春日井建(迢空賞)などの文学者が該当するそうです。(資料1)左にあるドアは北隣に連なる2つの和室への廊下に繋がっています。 回廊側の本来のドアからこの部屋を出ます。廊下から振り返ると書棚が見えます。 廊下の東端から窓越しにベランダが見え、南側には展示室8(旧支那室)があります。拝見した時は、空室のままでした。そのため、床面の木組みの意匠がよく見えます。その意匠が変化していておもしろい。大広間や展示室7の床と比べてみてください。床面にもこだわっていたのですね。 展示室5(旧浴室、旧洗面所、旧化粧室)ここは現在は東西に長い一つの長方形の部屋にして、郷土ゆかりの文学資料が展示され、パネルでの説明が掲示されています。閉館時間の関係でざっと眺めただけでした。ゆっくりパネルを読みや展示品を見ていたら、文学好きにはこの部屋だけで1時間くらいはあっという間に経つかもしれません。 左の画像は、東のドア側から西方向の室内を撮ったもの。 右の画像は、西のドア側から東方向の室内を撮ったもの。 再び回廊に出てから、和室の方に向かいます。北面のガラス窓の左側、開口部から先が和室への廊下になっています。ガラス窓から見おろした現在の事務室の南東隅 和室1(旧婦人室) 和室2(旧次の間、旧仏間) 北側にある和室2は東の小さな部屋に続いています。珍しいのはこの部屋の天井部分が、網代天井になっていることです。網代天井は茶室の天井としてよく見かけるものです。さりげなく贅を尽くすというところでしょうか。洋館に和風をまさに折衷している極めつきかもしれません。網代はわが地元に流れる宇治川で昔の漁労に使われていたという網代につながります。百人一首にある64番目の堤中納言定頼の歌がよく知られていると思います。(資料2) 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたる瀬々の網代木「網代天井は、枌板(へぎいた)の編み方に、矢羽編(やばねあみ)、石畳編(いしだたみあみ)、市松編(いちまつあみ)、籠目編(かごめあみ)、莚編(むしろあみ)などがあります。」(資料3)とのこと。二葉館の網代天井は矢羽編による天井です。(資料4,5)和室の西側にも廊下があり、この廊下が展示室7(旧書斎)の張り紙がしてあったドアにつながているのです。ある意味で贅沢な間取りにしてあるなあと感じます。書斎を軸に考えると、部屋を移動する動線としては便利な構造です。 和室前の廊下から見おろした中庭にある蔵 これでほぼ2階の全体を拝見したことになります。後は螺旋状階段の美しさを楽しみながら降りることになります。 この後、名古屋城の近辺に立ち寄ってみたいと、尋ねたらバスの時間をみて、わざわざ表に出てバス停を教えていただけました。親切な受付係の方でした。付記しておきたいと思います。ありがとうございました!ご一読ありがとうございます。思いつきで行動した探訪記、次回で終わり名古屋・・・・です。参照資料1)「文化のみち二葉館」 当日いただいたリーフレット 2) 今回の歌 :「百人一首講座」3) 網代天井 :「茶道入門」4) 網代 :「吉兵玉井銘木店」5) 網代・竹網代・網代天井 :「梶本銘木店」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺城山三郎 :ウィキペディア坪内逍遥 :「コトバンク」坪内逍遥 作家別作品リスト No.141 :「青空文庫」小谷剛 :ウィキペディア江夏美好 :ウィキペディア田村俊子賞 :ウィキペディア春日井 建 :ウィキペディア春日井建歌集 :「松岡正剛の千夜千冊」春日井建百首選(大塚寅彦選) :「短歌」迢空賞 :ウィキペディア茶室の天井 :「岩崎建築研究室」茶室案内 :「桑山美術館」中野家住宅茶室 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社に へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1 へスポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く へ
2017.11.18
コメント(0)

思い付きでの観光・探訪行動(2015年12月初旬時点)により、遠回り・寄り道を重ねながら、旧川上貞奴邸、つまり「文化のみち二葉館」に再び戻ってきました。右の画像は入館の折りにいただいたリーフレットです。これも参照しながら、まとめていたものを、再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)私は時間的なゆとりの問題から、二葉館だけ拝見したのですが、左の画像に表示されている「文化のみち橦木館」との共通観覧券というのもあります。詳しくは補遺に載せたホームページをご覧ください。 二葉館の外観交差する道路の北東側にあり、南面している正面玄関へのアプローチです。この外観を見るだけで中に入ってみたい気にさせます。 南北の道路側から眺めた外観平屋建て部分の建物の北面にも、北側の入口があります。この平屋建ての建物は、旧台所などがあった部分のようですが、現在は集会室、貸室として利用できるようにされています。リーフレットに掲載の地図を引用します。この地図の北端に「旧川上貞奴邸跡地」という記載があります。元々は、東区東二葉町の約2,000坪の敷地に、日本初の住宅専門会社「あめりか屋」の設計により、この和洋折衷の斬新で豪華な建物が建てられたのです。そのため「二葉御殿」と呼ばれていたそうです。そしてここが政財界人や文化人の集まるサロンとなっていたと言われています。その建物が80年余を経てこの橦木町3丁目に移築・復元されたのです。平成17年(2005)春から、「文化のみち」の拠点施設として展示公開されているのです。「この建物の復元にあたってはできるだけ当時の材料(構造材やステンドグラスなど)・工法を用い、創建当時の姿を再現しました」(資料1)とのこと。 館内に設置された建物平面図右にある黒い三角印が正面玄関の入口です。玄関を入ったところがホールになっています。右側にある受付で入場券を購入。いよいよ建物内を拝見です。 ホールの東側に設けられている入口(内側) ホールからの「大広間」(旧大広間)の眺め真っ先に正面のステンドグラスの華やかさが目に飛び込んできます。この入口の左側に受付があります。 このステンドグラスは、日本的感覚での意匠を取り入れたものでしょう。西洋の教会建築で馴染みのあるステンドグラスを日本風にアレンジして取り入れられているように思います。後日調べていて見つけたのですが、「松本ステンドグラス製作所」がステンドグラスの復元を担当されたようです。(資料2)ステンドグラスで飾られたこの大広間への入口は西面になります。下の画像は建物の外側から眺めた景色です。 ドアを入って左側を向くと、こちらは異国情緒のあるステンドグラスの窓が華麗です。タンバリンを手にした踊り子はどんな曲で踊りを披露しているのでしょう・・・・。 南面するファサードの左側に位置するこの窓の外観 大広間はまさにダンスを楽しめるスペースが広がっています。ステンドグラスの窓の西側に建物が半円形に張り出し城の塔風のイメージを与えていますが、ここにゆったりした半円形のソファが設えられていて、休憩・談話スペースになっています。これは創建当時のソファを当時の材料や工法に倣い、木組みやスプリングは当時のものを再利用しながら解体修理し・復元して、元の位置に戻されているのです。(展示説明より)この大広間のフロアーの木組みがすばらしい。立体感のあるだまし絵的意匠が施されていておもしろい。 ソファ側から大広間を眺めると正面に暖炉があり、左のドアは旧食堂(展示室1)に繋がり、右側には2階への螺旋状階段があります。 まずは、展示室1に進みます。 展示室1内からの大広間の眺めです。展示室1の北壁には、川上貞奴の若き日の肖像写真と年表が掲示されています。 日本の女優第1号となった人。最初は東京・日本橋で芸者「奴」となるのですが、「オッペケペー」節で名を馳せた川上音二郎と結婚。川上一座で女優「貞奴」として活躍し、欧米での公演で有名になったのです。海外公演から女優不足を痛感した結果、川上音二郎が、「明治41年(1908)に貞奴を所長にして、帝国女優養成所を開いた」のです。この養成所は後に「新設された帝国劇場に譲渡され、帝国劇場附属技芸学校と改称され」ることになります。そして、多くの女優が育っていきます。帝国劇場が松竹傘下となり、新派に合流されていったようです。(資料3)川上音二郎・貞奴がその源流を創り出したのですね。音二郎の死(1911年)後、「貞奴一座」を率いて各地で講演活動をした後大正6年(1917)に引退表明。そして、大正7年(1918)に名古屋の大曽根で「川上絹布(株)」を設立し、実業家の道を歩み始める一方で、東京に「川上児童楽劇団」を結成、同養成所設立などを行っているのです。晩年には岐阜県各務原市に「貞照寺」を建立(1933年)し、その門前に別荘「晩松園」も建築したと言います。名前だけは知っていたのですが、こんなすごい女性だったとは・・・・再認識しました。(年表より) その隣に、福沢桃介の肖像写真と年表が掲示されています。前回、「旧豊田佐助邸」を探訪した折りに、パネル掲示にこの福沢桃介が財界人の一人として挙げられていたのです。補遺には触れませんでした。こちらでこの年表を見ていたからです。福沢桃介は大正期に「電力王」と呼ばれたと読み、最初はあれ!という思い。「電力王」という言葉で私が即座に連想したのは松永安左エ門です。「電力の鬼」とも称された松永安左エ門については知識が少しあったのですが、なぜ福沢桃介が「電力王?」。ここの年表と説明を読み、ナルホドと理解できました。現在の中部電力のルーツの一つが東邦電力なのですが、さらに遡ると名古屋電燈が源流となり、福沢桃介が大正2年(1913)から名古屋電燈に常務取締役就任として関わっていたのです。ここから福沢桃介が木曽川水系の電力開発を軸に、電力事業への関わりが拡大展開し、電力王と呼ばれるまでに至るのです。電力事業の経営を介して、福沢と松永の関わりが深くなっていき、福沢から松永へのバトンタッチという流れになるようです。(資料4,5,6)少し、調べてみると、福沢桃介はかなり波乱万丈の生涯を送った人物ですね。武蔵国(埼玉県)生まれの岩崎桃介が慶応義塾に通っていて、福沢諭吉の目に止まり、諭吉の次女・房の婿養子となり、福沢姓を名乗るようになったそうです。諭吉が桃介の海外留学費用を出すという条件が出されていたと言います。福沢家の養子となった後に、アメリカに留学し、帰国後に福沢房と結婚。戸籍上の分家となる。北海道炭礦鉄道勤務時代に、肺結核を患い療養。療養中に株式投資で大儲けする。貿易商「丸三商会」の設立と失敗、株式投資の暴落経験と成金経験。そして電力事業への参入。一方で政界にも進出。木曽川水系での電力開発が福沢桃介の成功人生へと繋がって行ったのです。上記した帝国劇場(株)については、その設立当初から福沢桃介は関与し、1926年4月には大倉喜八郎の退任後に帝国劇場の会長に就任しています。(資料5,6、年表)それでは、川上貞奴と福沢桃介がどう関わるのか?貞奴が売れっ子芸者「奴」だった当時、慶応義塾の学生だった桃介が「奴」を野犬の群れから助けたという逸話があるそうです。(資料5)ここに二人が恋に陥ったと言う説もあるようです。それが、桃介が諭吉の次女と結婚する前だったと言います。だが、その後貞奴は音二郎と結婚、桃介は房と結婚し、一旦は別々の人生行路に。ところが、音二郎の死去の後に、電力王への道を歩む福沢桃介と川上貞奴の間に、事業パートナーという側面での関わりができて行ったのでしょう。貞奴が女優を引退し、名古屋に移り住みます。「二葉御殿」での貞奴と桃介の同居が始まるのです。桃介は房とは離婚していませんので、公然とした愛人生活が始まったという次第です。貞奴は49歳、桃介は52歳のころのことです。川上貞奴の年表で見るかぎり、二葉御殿での二人の生活は5,6年の期間だったようです。「桃介が財界から引退した後も、東京永田町の桃介の別荘『桃水荘』にてともに暮らしている」(資料6)ということもあったようです。福沢桃介と房の関係はどうも冷め切っていたようですが、ここに触れている資料はあまりないようです。ネット検索してみても片言程度です。プライバシーの世界でもあります。ただ二人が離婚していないという事実は残っています。「1932年(昭和7年)には家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居している。1937年(昭和12年)2月15日、東京渋谷の本邸にて死去。満69歳没。死因は脳塞栓であった」(資料6)とのことですので。脇道に逸れました。 展示室1の窓側を眺めると、窓が緩やかな円弧を描き、窓の上部には山脈をデザインしたステンドグラスが輝いています。この部屋を外から眺めた建物の外観の画像を併せてここに載せておきます。 展示室1には、貞奴に関する資料やこの写真等の品々が展示されています。 北隣には、和室が並んでいます。旧婦人室(展示室2)、旧茶の間(展示室3)と旧書斎(展示室4)です。この和室スペースは創建当時のままだそうで、この部分は国の文化財として登録されているそうです。調度品などで当時の室内を再現し、貞奴愛用の品などが展示されています。(資料1) 廊下の一部に、「創建当初の煉瓦基礎」の復元状況が見られるようにしてあります。こういうのが直に見られるというのは興味深いものです。ぜひ現地でご覧ください。 もう一つ、創建当初の配電盤が展示されているのです。大正時代初期の配電盤の大きさに驚くとともに、当時としては最新の電気設備が施工されていたのだろうなと感心します。それとともに、その後の科学技術の進歩・進展の驚異を・・・・。配電盤の設置・展示されている傍から、建物の東側にある中庭の蔵が見えます。「木造及び鉄筋コンクリート造2階建、瓦葺、建築面積22㎡」というもので、1920頃に建築され、1938に改造、2004年に移築された建造物として、登録有形文化財に指定されています。(資料7) 冒頭に北側の入口に触れています。これがその入口です。純和式の玄関です。この入口側から大広間の方向の廊下を撮ったのが右の画像です。左手前に旧台所他の部屋があります。そこが今は貸室として利用可能な集会室に。左側は旧事務室・旧女中室だったところですが、現在の当施設の事務室として使われています。廊下天井の2つめの電灯の先にみえる仕切りのところを左に折れると、上掲配電盤があります。1階部分で見応えのあるものが、もう一つあります。この螺旋状の階段です。ホールから大広間に入って右側にこの優美な階段があります。壁にパネル展示ケースのあるところまで行き、端から大広間を眺めると、階段がこんなカーブを描いて延びています。 階段の上り口から眺めるとこんな感じ・・・・。手摺のカーブが何ともいえず良いですね。階段には赤い絨毯が敷かれています。それでは、2階の拝見と参りましょう。つづく参照資料1) 「文化のみち二葉館」 当日いただいたリーフレット 2) 2004 名古屋市 旧川上貞奴邸ステンドグラス復元 松本ステンドグラス製作所3) 新派の歴史 :「劇団新派公式サイト」4) 東邦電力 :ウィキペディア5) 人物紹介 川上貞奴 福沢桃介 :「文化のみち二葉館」6)福澤桃介 :ウィキペディア7) 旧川上貞奴邸蔵 :「文化遺産オンライン」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺文化のみち二葉館 ホームページ名古屋市旧川上貞奴邸条例 :「名古屋市」川上貞奴 :ウィキペディア川上貞奴 :「コトバンク」川上貞奴 明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓 :「歴史くらぶ」【転載】<むかし外国へ渡った日本人>川上貞奴=久保田雅子:「穂高健一ワールド」Sada Yacco From Wikipedia, the free encyclopediaCategory:Sadayakko Kawakami日本の電力王 福沢桃介(1868-1938) 佐賀原正江氏 :「神奈川県立の図書館」 木曽川開発の歴史 福沢桃介年譜 :「関西電力」創業者 福沢 桃介 :「大同特殊鋼 創業100周年特設サイト」福沢桃介 日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家 :「歴史くらぶ」福沢桃介記念館 :「南木曽町」福沢桃介 :「九十九研究所@企業コレクション~じゅげむ本店」 松永安左エ門 :ウィキペディア成田山貞照寺 ホームページ貞照寺(福沢桃介) :「木曽川下流河川事務所」旧川上貞奴別荘(萬松園) :「SAKURAHILLS」川上音二郎・川上貞奴・福沢桃介の大ロマン物語 ---- 茅ヶ崎・名古屋・犬山・南木曽を訪ねる :「西田進のホームページ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社に へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2 へスポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く へ
2017.11.18
コメント(0)

ここは、名古屋市の「町並み保存地区」内に位置する「旧豊田佐助邸」の入口です。最初に何とか辿り着いた「旧川上貞奴邸」を訪ねると、「旧豊田佐助邸」の閉館時間がここより早いので、先にそちらをご覧になってから戻ってこられても時間はありますよ、という助言をいただいたのです。そこで、まずはこちらを捜して訪れました。次回にご紹介する「旧川上貞奴邸」は現在、正式には「文化のみち二葉館 [名古屋市旧川上貞奴邸] 」と称されています。後で入手したこの「文化のみち」(名古屋市発行)のリーフレットを二葉館で最初に入手していれば、もう少し容易に「旧豊田佐助邸」に行きついたのですが、手許の古い簡単な地図で捜したので少し時間を取られました。後手に回った時間ロスを経ながらも何とか訪れることができました。探訪の整理を兼ねてまとめていたものを再録してご紹介します。(再録理由は付記にて) この「文化のみち」に掲載されているマップを引用します。大凡の位置をご理解ください。地図の北西にあるのが名古屋城です。地図の点線上に黄色くマーキングを付記した区域が「町並み保存地区」で、北東寄り方向に「徳川園」が位置します。そして、この地図から町並み保存地区地図を切り出してみました。「文化のみち二葉館」は、保存地区の東側の道路を隔てて道路に面して建物・敷地があります。この地図に記載の通り名で場所がわかりやすいと思います。豊田佐助と豊田佐吉を私は最初錯覚していました。豊田佐助は、豊田佐吉の弟さんです。兄佐吉を支えた実業家だったそうです。ここを訪れて初めて、佐助という弟の存在を遅ればせながら知ったのです。(敬称は省略) この豊田佐助邸は、大正時代に建てられた白いタイル貼りの洋館と広い間取りの和館が接続された建物として構成されています。洋館・和館ともに木造二階建です。洋館は道路に面した門から幅の広い砂利道のアプローチの先に玄関が見え、塀を仕切りとして西側にある広い庭に和館が面している形です。訪れた日は、たまたまボランティアの皆さんの会議が和館の一部の部屋で行われていたのですが、それ以外の場所は拝見できるということでしたので、内部を拝見しました。入館料は無料です。 まずは、洋館1階にある応接室です。「豊田佐助と旧豊田佐助邸」の案内が掲示されていました。 説明の中央に図示されている建物の平面図がこれです。洋館の玄関を入り、すぐ左側の洋間が応接室です。上掲の説明によると、豊田佐助(1882~1962)は豊田家の長男・佐吉、次男・平吉、そして三男にあたります。静岡県湖西市に生まれ、実家で15歳までは父親を手伝うという暮らしの後に兄・佐吉を支援するために名古屋に出て来たのだとか。兄・佐吉が発明活動に専念できるようにすることが目的だったようです。兄平吉とともに、「工場経営にあたり、豊田織布菊井工場や菊井紡織(株)の責任者として佐吉発明の自動織機の営業試験に尽力の後、佐吉を継ぎ豊田紡織(株)の社長となる。戦後は、名古屋ゴム(株)(現豊田合成(株))社長に就任するなどグループ企業の基盤確立に貢献した。兄佐吉と張り合うことなく控えめの性格であったと言われている」(説明より)そうです。この建物は1970年にアイシン精機(株)に所有権が移転され、1995年にアイシン精機(株)から名古屋市が借り受けて、1999年から一般公開されているそうです。和館1階の和室で会議が行われていましたので、2階部分を拝見。 庭側の和室 2階の廊下からガラス戸越しに眺めた庭の全景 4つの和室は周囲が廊下になっています。 洋館2階から見た和館2階の正面外観 洋館の側壁 木造建築であることがわかります。 一室には、鴨居の所にパネル展示があります。 3枚のパネルには「近代名古屋の財界人・実業家-地域ゆかりの人物-」が肖像写真入りで説明されています。光の反射で、パネルの内容がうまく撮れませんでした。現地でご覧ください。 石塚文左衛門(1844~1910)、井元為三郎(1874~1945)、大隈栄一(1870~1950) 鈴木政吉(1859~1944)、森村市佐衞門(1839~1919)、滝兵右衛門(1843~1918) 西川秋次(1881~1963)、林市兵衛(1859~1926)、春田鉄次郎(1868~1933) 福沢桃介(1868~1938)、盛田昭夫(1921~1999)、盛田善平(1863~1937) 祖父江重兵衛(1851~1910)、矢田績(1860~1940)、アニー・アンドルフ(1827~1902)という人々です。アニー・ランドルフはこの町並保存地区にある金城学院高校や同大学にゆかりのある人のようです。アメリカ生まれで、結婚し夫の没後に宣教師となって海外布教に出た人。中国から帰国の途次に名古屋に来たり、この地で女子教育を志し、自宅を学校にして私立金城女学校を生徒3名で発足させたと言います。 洋館2階の廊下 洋館2階の窓から眺めた庭の隅と玄関へのアプローチ 庭を眺めて旧豊田佐助邸を後にして、「文化のみち二葉館」に戻ります。途中で、こんな説明板が目にとまりました。この「町並み保存地区」ゆっくり全部見歩いたらけっこう時間がかかりそうです。ご一読ありがとうございます。参照資料「文化のみち」リーフレット 名古屋市旧豊田佐助邸 邸内展示説明パネル【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺石塚文左衛門 :「石塚硝子バーチャルタウン」陶磁器輸出の巨商 井元為三郎 :「橦木倶楽部通信第5輯」明治名古屋を彩る どえりゃー商人 :「愛知千年企業」 ボンボン時計の国産化に成功した林市兵衛 大隈栄一 四代目滝兵右衛門(タキヒヨー) バイオリンの国産化に成功した鈴木政吉森村市佐衞門 :ウィキペディア西川秋次 :ウィキペディア盛田昭夫 年譜 :「Akio Morita Library」盛田善平 :「愛知エースネット」祖父江重兵衛 :「コトバンク」矢田 績 :「愛知エースネット」Anne E. Randolph (1827-1902):Pioneer of Women's Education in Nagoya Leading to Kinjo Gakuin :「日本基督教団公式サイト」旧春田鉄次郎邸 :「文化のみち二葉館」橦木町町並み5 元矢田績邸 :「東区を歩こう!」財団法人名古屋公衆図書館の設立者・矢田績(やだせき)について知りたい。また、名古屋市図書館所蔵の矢田績関係資料にはどのようなものがあるか。 :「レファレンス協同データベース」福沢諭吉と矢田績 pdfファイル :「名古屋市図書館」文化のみち 堀美術館 ホームページ魅力ある東区の町並み~文化のみち~ ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社に へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2 へスポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く へ
2017.11.18
コメント(0)

「国宝源氏物語絵巻」の特別展と德川園を鑑賞・探訪後、どうしようか・・・・。真っ直ぐ名古屋駅に向かうのもおもしろくない。家人が持っていた大昔の名古屋案内の小冊子をちょっと参考に持ってきていたので、この近くに探訪できるところはないかなと参照しました。小冊子の簡単な周辺地図にある「旧川上貞奴邸」に行くことにしたのですが、その地図上での名称表記の位置で場所を錯覚して、思わぬ遠回りをすることに。後で考えると、南方向にまずかなり行き過ぎてしまったのです。その途中で、地元の人に尋ねて、方向修正することに。その結果「建中寺」を途中で拝見するということになりました。 私にとっては思わぬ、禍(=方向ミス)転じて福(=史跡)となすという結果に! それが、冒頭の「建中寺 総門」の発見です。持参の地図を見ていた時には、実は意識もしていなかったお寺です。現地を訪れて、ラッキーでした。ちょっと驚いたのは総門を入ったところが、何と公園でした。地図には「建中寺公園」とでています。こちらの地図(Mapion)をご覧ください。総門は三間薬医門、本瓦葺きで創建当時のものだとか。総門を入ると、石畳の道が真っ直ぐに延び、その両サイドが「三門」の前の道路まで公園なのです。こちらが「三門」です。名古屋市指定文化財(1985年指定)。説明板と後日に調べてみてわかったのですが、慶安4年(1651)創建当時の建築物で、総檜造りの三間一戸重層、本瓦葺きの楼門です。この三門楼上には釈迦牟尼仏坐像と脇侍像、十六羅漢坐像が安置されています。普段は非公開のようです。(資料1) 門扉に德川家の紋章が輝いているのを最初に見たとき、さすが名古屋だなという思いです。ここは尾張藩主第二代德川光友が慶安3年(1650)に逝去した初代・義直の菩提を弔うために建立し、成譽廓呑上人を招請し開山としたお寺であり、尾張德川家の菩提寺だったのです。名古屋の人々にはたぶん良く知られたお寺なのだと思います。お寺が開創された慶安4年の境内敷地は約五万坪(165,000㎡)もあったそうです。建中寺のホームページで説明されていますが、天保15年(1844)に発行された『尾張名所図会前編』の第二巻に当時の建中寺の絵図が掲載されています。引用します。(資料2,3) この絵図の左端に三門、右端に総門(惣門と表記)が描かれています。この絵図を見ると、現在の建中寺公園の南端中央に位置する総門を入ると、すぐ東に番所があり、東側には、南から全順院・誓安院・甲龍院・宗心院が隣り合い、西側には同様に養寿院・光寿院・正信院が隣り合うという風に、ずらりと塔頭があったのです。そして、山門を入ると、東に鐘楼が建ち、その北に輪蔵があります。輪蔵に向かって境内の西に開山堂が位置します。本堂の背後、北側に御内佛殿があり、また本堂は東側にある大書院・小書院・庫裏などの建物群と廊下で繋がっていたようです。大書院には大玄関・中玄関があり、方丈門が山門の東側に設けられていたのです。現在の説明板には、山門の東側には「御成門」が設けられていると表示されています。この探訪の折りには確認していません。「四脚平唐門、本瓦葺、華やかな小門」(説明板)とあります。17世紀後半に建てられた門のようです。上掲でご紹介した地図(Mapion)を一部切り出して引用し、当時の境内敷地を空色の太線で囲んでみました。五万坪という広さが少しイメージできるかもしれません。赤色の丸印の位置が総門、マゼンダ色の丸印の位置が山門、そして青色の丸あたりが本堂です。(資料1,2) 鐘楼 名古屋市指定文化財(1985年指定)現在の鐘楼は天明7年に再建されたもの。入母屋造り本瓦葺きで、台形の袴腰のついた鐘楼です。梵鐘には林道春(羅山)の銘が刻まれているそうです。そのため、第二次世界大戦の折りの金属供出を免れたといいます。(資料1)この鐘楼のそばに、現在は「建中幼稚園」があります。鐘楼の北にある「経蔵」です。裳階(もこし)のある一重宝形造り本瓦葺きです。棟札によると文政11年(1828)の創建された建物。上掲の図会には、「輪蔵」と記されています。見た目で新しい感じを受けるのは、平成16年(2004)に平成の大修理が完成したという経緯によるのです。経蔵の内部には八角論蔵が安置されています。回転させることのできる八面で構成される経典保管庫となる建造物が安置されているのです。その輪蔵には鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められているとか。思わぬところで、私の地元、宇治市にある黄檗山万福寺との接点が立ち現れました。ちょっと親しみを感じます。現在、この経蔵には、昭和8年(1933)に岡田天孝仏師作で日本に伝わる十三宗の祖師像が安置されているそうです。(資料1) 本堂 名古屋市指定文化財(1999年指定)元の本堂は、天明5年(1785)の大火で類燒し焼失。その時、本尊阿弥陀如来はいち早く持ち出されていて無事だったそうです。この本堂は大火後、1787年に再建された建物と言われています。入母屋造り本瓦葺きの木造建物。間口15間(27m)、奥行14間(25.2m)、建坪210坪(700㎡)の大きさで、木造建築物では名古屋市内最大のものだそうです。「本尊阿弥陀如来は、開山廓呑上人が結城弘経寺から招来された、止利仏師作と伝えられる中品中生の印を結ばれた大変貴重な仏像」(資料1)といいます。建中寺は浄土宗のお寺。江戸時代は無本寺(別格本山)として、明治5年(1872)以降は知恩院の末寺となっているようです。 向拝の唐破風屋根の鬼板には、ここにも三葉葵の紋章が陽刻されています。兎毛通には瑞鳥の彫刻が施されています。鳳凰でしょうか。本堂の真後に、「御霊屋」(徳川家霊廟)があり、本殿・合間・拝殿の三棟構成の仏教式の権現造りだそうです。渡り廊下で繋がれているとか。(資料2、説明板)また、現在は徳川光友の墓所(源正公廟)だけが、この建中寺境内にあり、名古屋指定有形文化財になっています。唐門のある築地塀に囲まれて、墓1基と石灯籠1対が立つ廟所のようです。その他三代以降歴代藩主の廟所も元は境内に建立されていたそうですが、現在は平和公園にすべて移されているといいます。本堂の東には書院(客殿)があります。名工大竹利左衞門の設計により、昭和39年(1964)に再建された建物だとか。書院の東には建中寺寺務所・庫裏他の建物群が見えます。その中には、かつての名古屋商業会議所本館として建てられ、この建中寺に移築されて、「建中寺徳興殿」と称される建物もあるのです。(資料4) 開山堂 名古屋市指定文化財(2000年指定)棟札によると、天明の火災で焼失した後の天明6年(1786)に再建された建物。寄せ棟造り桟瓦(さんがわら)葺き総欅造り。本尊阿弥陀如来、開山上人と中興上人の木像他歴代住職の位牌が祀られているお堂です。 明王殿(不動堂)昭和44年(1969)に再建された建物。「本尊不動明王は、江戸時代から尾張徳川家戦勝祈願の秘仏として伝えられてきた大変貴重なもの」(資料1)で秘仏として安置され、御前立像がその正面に安置されているそうです。 手水舎明王殿は山門を入って、左側のありますが、その手前に手水舎があります。 明王堂と開山堂は南北に隣り合っています。両建物の中間くらいの位置で、建物より多少手前にこの巨大な一見装飾過多と思えるほどの豪華な石燈籠が建立されています。傍に、「龍巻奧ノ院春日燈籠」と刻された石標が立っています。石灯籠の総丈は15尺。1尺=30.303cmですから、約4.5mの高さです。 まさに石灯籠の竿を昇龍が巻き上がっています。総門のところには、「徳興山建中寺」という碑が建てられていますが、こちらには「徳興山崇仁院建中寺」という碑銘になっています。「崇仁院」の由来は何でしょう? 少し調べてみた範囲では、解明できませんでした。ご存じの方がいらっしゃればご教示ください。 「陳元贇墓所」の石標を山門脇で見かけました。「尾張名所図会」には、開山堂の西側に墓所が明記されています。陳元贇(ちんげんぴん)は、江戸初期の帰化人で、「元和5年鳳翔に従って来日。長門国の萩や江戸に滞在したのち、尾張藩主徳川義直に六十石で客事。書・医薬・菓子に知識をもち、中国の製陶法を伝えて元贇焼を残し、また拳法起倒流を興した。詩を能くし、僧元政との応酬は『元々唱和集』に収める。林羅山・石川丈山らとの交わりも深い」(資料5)という人物だそうです。尚、現在墓石は平和公園の建中寺墓地にあるそうです。また、建中寺の境内西側に馬頭観音像石碑と並んで、元贇の賛文石碑があるそうなのですが、探訪時点では予備知識が乏しかったため、元贇の賛文石碑について私は境内で確認していません。(資料6)事後のリサーチで数多くのことを学ぶ機会となりました。機会があれば、時間のゆとりをもって再訪し、拝観できる建物内部も見てみたい史跡の一つです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 建中寺 ホームページ2) 建中寺 村上真瑞住職に聞く :「Network 2010」3) 『尾張名所図会 前編』2巻 4) 建中寺徳興殿(旧名古屋商業会議所本館) :「文化遺産オンライン」5) 陳元贇 :「コトバンク」6) 陳元贇 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺建中寺 :ウィキペディア建中寺徳興殿(旧名古屋商業会議所本館) :「文化財ナビ愛知」徳川義直 :ウィキペディア徳川光友 :ウィキペディア尾張藩 徳川(尾張)家 :「江戸三百藩HTML便覧」弘経寺(結城市) :ウィキペディア弘経寺 :「じゃらん.net」[地誌] 尾張名所図会 貴重和本デジタルライブラリー :「愛知県図書館」 7巻の図会で、pdfファイルとして公開されています。ダウンロード可能です。尾張名所図会. 後編 / 岡田啓,野口道直 遺稿 ; 小田切春江 図画并補綴 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)尾張名所図会. 附録 巻1 :「近代デジタルライブラリー」「建中寺についての資料」 :「木村さんちの四方八方はなし」徳川宗春公の墓へ :「知見紀行」墓地移転・・・平和公園が生んだもの なごや戦災復興の物語 歴史紀行応夢山定光寺 ホームページ定光寺 :ウィキペディア尾張德川家の菩提寺と墓 定光寺にある藩祖「徳川義直」の廟定光寺公園 :「せと・まるっとミュージアム」(瀬戸市観光情報公式サイト)紅葉始まる「定光寺」瀬戸市ー愛知県ー :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社に へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2 へスポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く へ
2017.11.17
コメント(0)

上善寺が面する東西方向の鞍馬口通から南北方向の寺町通に入ります。上善寺の所在地は寺名に由来する上善寺門前町で、鞍馬口通を挟み南隣が天寧寺門前町です。これは「天寧寺」の山門に近づき正面を撮ってみました。門扉の開いた山門から境内の堂宇と樹木の先に比叡山を眺める形となり、あたかも四季折々変化する比叡山を額縁に入れたように収まっています。そこからこの山門が「額縁門」とも呼ばれているのです。「天寧寺」はもと奥州会津にあった天台寺院だったとか。戦乱で廃絶し、天正年間(1573-92)に祥山曇吉により曹洞宗の寺院としてここに再興されたそうです。万松山と号します。当時、このあたりは天台宗松陰坊の遺跡と言われていたようです。(資料1,駒札) 山門は寺町通から築地塀が凹形になり、山門前が枡形になっています。山門の北側には、江戸時代の茶人として知られる金森宗和の墓があることを示す石標が立っています。また背後に駒札が見えます。 金森宗和は飛騨国(岐阜県)高山城の城主金森可重の長男でしたが、何故か勘当の身となり、京都に移り、大徳寺に参禅して宗和と号したそうです。茶道に精進し、宗和流の開祖となった人です。その茶道は、禅味の千宗旦の茶風に対して上品な「姫宗和」と呼ばれたそうです。手許の本によると、この天寧寺の境内墓地に宗和の室栄の墓とともに、五輪塔二基が並ぶ形で墓が建立されているそうです。駒札にも記されていますが、天寧寺の善吉和尚の墓、慈野井家累代の墓もあるとか。善吉和尚は出家する前、赤坂政雅と称していた時に、十瀬長宗が創始した天真正自顕流を孫弟子として伝授された人で、彼はそれを東郷重位に伝えたといいます。この東郷重位が薩摩に帰国した後に自らの工夫を加えて示現流を創始したそうです。つまり、善吉和尚は示現流の淵源という位置づけになるようです。一説に善吉和尚の旧姓は寺坂政雅とも。(資料2,3,4,5,駒札)「金森宗和」石標の北東側、築地塀の傍に、「松陰坊遺跡」と正面に刻した石標があります。その側面には「天台宗比叡山延暦寺末 休憩法師 松陰坊遺跡」と二行書きで刻されています。 山門から境内北側を眺めた景色 少し角度を変えて山門からの境内の景色を撮ってみました。額縁絵としてはこちらの方が私の好みです。山門から真っ直ぐ延びた参道の先に石塔が見えますので、ズームで撮ると、九重石塔のようです。本堂には本尊として釈迦如来像、観音堂には後水尾天皇念持仏と伝える聖観音像と東福門院念持仏と伝える薬師如来像を安置するそうです。(資料3、駒札)ここは非公開寺でもあり、門前で由緒の説明を聴き、額縁門を眺めて先に進みました。 天寧寺の南隣が「西園寺」です。このお寺は高徳寺町にあります。宝樹山竹林院と号する浄土宗のお寺です。 西園寺家の菩提寺だそうです。承久の変後、元仁元年(1224)に北山の衣笠にあった別業に藤原(西園寺)公経が一宇の仏堂(北山堂)を建立し、西園寺を創建したのです。ここから西園寺という家名を使うようになったそうです。諸堂が建ち並ぶ規模にまでなったのですが、足利義満が北山殿を造営するにあたり、文和3年(1354)、室町頭に移転します。そして、天正18年(190)に現在地に三転することになったのです。豊臣秀吉による京都の都市改造の一環だったのです。(資料1,2)山門を入った正面に本堂が見えます。このお堂は天明の大火の後に再建されたものだとか。本尊は阿弥陀如来像です。山門から眺めると、北側には稲荷社と地蔵堂があります。地蔵堂には「槌留延命地蔵菩薩」と記され得た提灯が提げられています。北山西園寺の功徳蔵院の遺仏と伝えられる地蔵像が安置されているそうです。(資料2) 境内の南側には、山門の近くに鐘楼があり、本堂の南西側手前に十三重石塔が建立されています。西園寺公経から始まる西園寺家は子孫が栄えたそうですが、建武の中興後に衰微し、江戸時代の延宝年間(1673-81)に断絶したと言います。江戸末期に、公家・徳大寺公純の次男公望が西園寺家を継ぎ、西園寺公望(1849-1940)として、明治・大正・昭和の政界に重きをなします。(資料2,6) 山門は、西園寺も同様に寺町通より東奥に建てられています。門の頭貫の先端の木鼻は簡素な造形です。築地塀の丸軒瓦は一般的な三つ巴文様ですが、一方、棟の先端の跨鬼と山門屋根の丸軒瓦の三つ巴紋はその意匠が少し異なります。この意匠の三つ巴はあまり見かけない気がします。西園寺家の家紋が左三つ巴だそうですので、これがその家紋であり、寺紋なのかも。この探訪では西園寺も境内には入っていません。天寧寺門前町までが行政区域として北区になります。これから南の寺町通は上京区に入ります。序でながら、寺町通は京都御苑(京都御所)の南辺である丸太町通を境として中京区になり、四条通を境にして下京区に入ります。寺町通と上御霊前通の交差点から東の通りを眺めると比叡山が正面に見えます。逆に、上御霊前通を西に進むと、「上御霊神社」の境内が北側に見えます。この神社は「相国寺とその周辺を歩く」という記事をまとめた折にご紹介しています。寺町通をさらに一筋余下り、西に少し入った「出雲寺」を拝見しました。 山門の左手前に石標が立っています。正面には「厄除阿弥陀如来」、右側面に「聖徳太子御作 やくよけの如来 念佛寺」と刻されています。山号は「光明山」と号し、もとは「念佛寺」と称する浄土宗知恩院派のお寺でしたが、「出雲寺」と改称されたそうです。小規模なお寺です。山門を入り庫裡の左側を少し進むと、本堂です。正面に「出雲聖観音」の扁額が掛けられています。旧出雲寺の遺仏といわれる聖観音菩薩立像が本尊として安置されています。 この観音菩薩立像を拝見するのが、出雲寺探訪の主目的でした。像高190cmの巨像です。仏像の衣紋表現から鎌倉時代、13世紀の造立と推定されているそうです。本堂の規模とこの仏像の大きさとを考えると、この観音菩薩立像は旧出雲寺の遺仏を移されたものということが、なるほどと思えます。(資料1,2)写真撮影可でしたので、ご紹介できてうれしいかぎりです。旧出雲寺は、上御霊神社周辺に存在したお寺で、平安遷都以前からこの地にあったと伝わるのですが、平安末期には廃絶しています。しかし、『今昔物語集』にはその名前が出てくるのです。「今は昔、上津出雲寺といふ寺あり。建立より後、年久しくなりて、堂倒れ傾きて、殊に修理を加ふる人なし」という文から始まる話が、本朝仏法部、巻二十の第三十四として、出雲寺が出てきます。多分これが廃絶した出雲寺にあたるのでしょう。『今昔物語集』は平安時代の末、院政期に編まれた説話集です。(資料7)右手は説法印をあらわし、左手に蓮華を持たれています。顔容は理知的です。宋風が加わっているとか。かつては上御霊神社内に観音堂があり、そこにこの観音菩薩立像が安置されていたそうです。それが明治維新の神仏分離により、移されたという次第です。 こちらは左の脇陣です。 阿弥陀如来像が厨子に安置されています。併せて拝見しました。本堂の前庭、西側には小祠が祀られています。向かって左には、陶製白狐が一対置かれているので、稲荷社のようです。中央の小祠は不詳。右側は地蔵石仏でしょう。手前の石柱に「町内安全」と刻されています。石柱の上面は穿たれていますので、線香立てでしょうか。確認しているゆとりはありませんでした。 本堂の右手前、庫裡の側面には、石標が立ち、石仏が置かれています。奥の方の石標には「聖徳皇太子 四十二歳御作 阿弥陀如来」と記されています。手前の石標は上部の文字が判読できません。その下の文字は私には「いつもし観世音」と記されているように見えます。「出雲寺(路)観世音」の意味と思います。いずれにしても現在ここに安置されてる本尊を意味していることは間違いないでしょう。再び、寺町通に戻り、南に下ります。 次の交差路の北東角が「鶴山児童公園」です。その南側の道路からは、比叡山が道路の左寄りに見えるようになります。探訪中には意識しなかったのですが、探訪の事後復習をしていて、寺町通でお寺でもなさそうな鶴山という名称がどこに由来するのか? ふと関心が涌きました。調べてみると、やはり関心を抱いた人の記事を見つけました。江戸時代には、後にご紹介する本満寺より北方向で寺町通の東側は寺ばかりが建ち並び、正式の町名がなかったそうです。江戸時代には、寺町通の北の方に津山藩の京都屋敷があったところから、明治維新に町名をつけるときに、津山城が「鶴山城」と呼ばれているところから、その別名にあやかって「鶴山町」という町名が付けられたそうです。(資料8)関心を広げると、京都の歴史が結びついてきて、おもしろいものです。この道路の南側、寺町通の東側に北から慈福寺・阿弥陀寺・十念寺・本満寺がずらりと並んでいます。本満寺の南側に東西の道路があり、葵橋西詰になります。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「京都の古寺社を巡る 33 ~寺町北部の寺社~」 2017.10.14 当日の配布レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 天寧寺(京都市北区) :「京都風光」4) 天真正自顕流 :ウィキペディア5) 示現流について:示現流の歴史 :「示現流兵法所」6) 西園寺 :「公家類別譜~公家の歴史~」7) 『今昔物語集 本朝仏法部 下巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p413 出雲寺の別当、浄覚、父の成りし鯰の肉を食ひて現報を得て忽ち死ねる事 :「今昔物語・原文繙」8) 岡山県にある元祖・鶴山公園は大きい :「京極れきし再発見」補遺天寧寺 :「京都観光Navi」示現流 :ウィキペディア示現流兵法所 ホームページ 示現流資料館 東郷重位 ;ウィキペディア西園寺公経 :ウィキペディア西園寺公経 :「コトバンク」西園寺公経 :「千人万首」西園寺公望 :ウィキペディア西園寺公望 :「コトバンク」津山城(鶴山公園) :「おかやま旅ネット」(岡山県観光連盟) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -1 御土居跡・上善寺 へ探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -3 光明寺・阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺 へ上記でふれた拙ブログはこちらからご覧いただけるとうれしいいです。探訪 [再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪 [再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ
2017.11.17
コメント(0)

2015年12月初旬に「国宝源氏物語絵巻」の特別展を鑑賞する目的で「徳川美術館」を訪れました。京都からの日帰りで、鑑賞後の時間は思いつくままにという形での行動です。そのためそれぞれ個別の探訪としました。まずは北隣の「徳川園」を拝見しました。そのまとめを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)案内所で入園券を購入しようとすると、徳川美術館に行かれましたかと尋ねられ、「はい」と答えました。入場券を提示すると、この徳川園の入場割引があるのだとか。一般300円が割引で半額で入園できました。何か得した感じ・・・・。共通観覧になっていたようです。冒頭にその入場券を載せました。入場券購入の折りに、リーフレットをいただきました。そこから切り出して引用させてもたった園内図にマークを追記したのがこの画像です。園内の散策結果について、この図を使いご紹介したいと思います。入手したリーフレットを参照していきます(資料1)。案内所は冒頭画像の手前に幟「徳川園」が上がっている建物です。ここが赤い三角印がついている入口(黒門口)です。「蓬左文庫」の北方向に位置します。 入口を入ると、そこは池の南端側で橋が架けられています。これは橋上から北方向を眺めた景色です。龍門の瀧(番号2のところ)の上部、つまり滝口付近が小さく見え、その先に広がって行く大池が「龍仙湖(りゅうせんこ)」です。後ほどに・・・・。南東方向には建仁寺垣様の垣根越しに、徳川美術館の正面が見えます。橋を渡り、少し先を垣根沿いに眺めると、この簡素な門(黄色の丸印)が見えます。徳川美術館の開館待ちで並んでいる時に撮ったのがこの門とそれに続く竹垣の塀だったのです。 左方向に進むと、渓谷に見立てられた「虎の尾」(番号6)に掛かる「虎仙橋(こせんきょう)」です。檜造りの木橋が渓谷に架けられています。 橋からの眺め。5mほど下を虎の尾からの渓流が、龍仙湖に流れこみます。 一方、反対の東側に目を転じると、虎の尾が深山幽谷の渓谷を思わせる渓流沿いの散策路が見えます(赤い丸印)。 虎仙橋を渡って、虎の尾方向への道を進み、マゼンダ色の丸印を付したところで、渓流を渡って、渓流沿いの散策路を上流側に進みます。 ここから渓流沿いに遡ると、番号8に向かうのです。そこで、この上流側から渓谷を流れる水に沿って逆方向からご紹介をします。 虎の尾の渓谷を上りきると、そこは「大曽根の瀧」(番号8)があります。瀧上の傍に立つ駒札には、この巨木が東区の名木で生きている文化財・「スダジイ(ブナ科)」だと説明されています。樹高は26m内外、根本周りは4m内外あるそうです。大曽根の瀧は落差が6mある三段の瀧です。瀧を流れ落ちる水しぶきの白々と眺められる表情に高き瀧口から流れ落ちる水を髣髴とさせます。一旦滝壺まで流れ落ちた水は、谷間の渓流を流れくだり、所々の渓流の段差のある岩場で再び水しぶきをたてつつ、龍仙湖に注ぎ込むのです。この大曽根の瀧の背後は、この徳川園では最も高いところになります。龍仙湖の水面との標高差は11mあるそうです。 瀧のところから路沿いに歩むと、山上の高台が開け、梅や桃の木などに囲まれた中に、「四睡庵(しすいあん)」が建てられています。徳川園の中の隠里的な雰囲気を漂わせる休み処です。瀧から来ると回り込んでから撮った景色です。切妻造の四睡庵を滝の方から正面で見ると、柱間の空間に石灯籠が目に入ります。そこで、回り込んで石灯籠に近づくと、そこには「水琴窟(すいきんくつ)」が設えてあります。駒札にはこんな説明が記されています。「手水鉢(ちょうずばち)前の地下に穴を開けた常滑焼の瓶を逆さにして埋め込んでいる。水滴が穴から下に落ちると、瓶の中で反響し、澄んだ音を響かせる。 茶人小堀遠州が考案したつくばいの周りの排水装置『洞水門』が、起源とも云われる」手水鉢の傍に置かれた竹筒を手にして、その上端に耳を寄せると、澄み切った音がかすかに響いてきます。周りが静寂であるほど、趣が加わる場所です。「四睡とは、禅の境地を示す画題の一つで、豊干、寒山、拾得の三人が虎と寄り合って眠っている情景を表します。」(資料1)「紙本墨画四睡図」(重要文化財)が「e國寶」サイトで公開されています。こちらからご覧ください。寒山・拾得の二人は良く画題に取り上げられています。「豊干」は中国・唐時代に天台宗国清寺に住した禅師です。虎に乗って衆僧を驚かす奇行で知られていたそうです。この三人を描いた別の一例として、伝・狩野元信筆「豊干・寒山拾得図」(福岡市美術館蔵)があるのを見つけました。こちらをご覧ください。松尾芭蕉が天宥筆の「四睡図」に賛して、一句詠んでいます。(資料2) 月か花か問へど四睡が鼾哉 (いびきかな) 真蹟画賛 四睡庵のある高台の平地の端にこの歌碑が建立されています。傍に歌を記した駒札も立っています。この歌碑は昭和54年に建てられたものだとか。 うつりつつ静かに色をかえていく 豊旗雲の空のたなびき詠み人は浅野梨郷(りきょう)です。調べてみると、明治~昭和期の歌人で名古屋市出身です。明治42年に上京し、伊藤左千夫に師事し、「アララギ」の創刊に参加したそうです。名古屋市観光課長も歴任されていたようです。(資料3,4)この石畳の坂道は青色の丸印を付けた辺りです。山を下って行くイメージです。 池の畔に降りた地点を振り返った景色この景色を撮っている地点からは、南の方に池の中に堤として通路が南の方向へ一直線に延びています。 その堤には一箇所、石橋が架けられ、東側の池の部分と龍仙湖をつなげています。そして、石橋の東側には山形に屈折した橋が併せて架けられています。この石橋が、入場券に載せられています。 大曽根口に近い池の畔から東方向の全景はこんな景色です。石橋のところに番号4が付されています。この堤の全景を「西湖堤(せいこてい)」と称されています。それは「中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を縮景したもの」であるためだそうです。中国において古くから文化人の憧れの景勝地だった場所、その異国情緒をこの日本庭園に取り入れたというのです。西湖は現在、世界遺産に登録されています。杭州刺吏として赴任した白居易(白楽天)は、西湖の水を治めることに腐心し、「白堤」と称されるようになる土盛りした堤を築いたと言います。また、蘇軾(蘇東坡)も杭州に知事として二度赴任していて、二度目の折りには後に「蘇堤」と呼ばれる堤を整備したそうです。そして、「蘇堤」は「蘇堤春暁」として、「西湖十景」の一つとなっているとか。「白堤」の西に突き出たところにある八角亭のあたりは「平湖秋月」として十景に入り、また橋が架かるところが「白堤」の終わるところということから「断橋」という名前が付けられ、「断橋残雪」として十景の一つとなっているそうです。つまり、西湖の堤防は景勝地なのです。(資料5,6)西湖堤の全景を眺めた地点近くから、南の方を眺めると「龍仙湖」(番号3)の対岸側に小橋が見えます。最初に黒門口側の入口傍の橋の上から眺めた「龍門の瀧」から水が流れ落ちる先にある小橋を北側から眺めていることになるのです。この「龍仙湖」はこの徳川園つまり池泉回遊式庭園の中心的存在となる場所であり、海に見立てた水面でもあります。そして、まわりに様々な景観が見立てられて作り込まれ、見どころとなっているのです。西湖堤という縮景がその一例です。この龍仙湖は地下水を水源としているそうです。 上掲の案内図にある北側の大曽根口の案内所の近くに、船小屋のある渡し場が設けられています。また、地中に埋め込んだような石灯籠と手水鉢などもちょっとした風情を生み出しています。 黄緑色の丸印を付けた辺りの景色です。紅葉した木の右端に紫色の日傘と赤い着物姿が写っています。これは丁度結婚式を挙げたばかりのカップルが記念写真を撮っていたのです。この日、2組の姿を見かけました。徳川園の北西偶を園路沿いに回り込んでいきます。黄緑色の丸印から番号5の方向に進みます。「瑞龍亭(ずいりゅうてい)」と名づけられたお茶室の建物の西側の苑路をふりかえり、北方向を眺めた景色です。(空色の丸印あたりから撮影) 瑞龍亭の少し手前から龍仙湖側を眺めた景色尾張徳川家では、織田有楽斎を始祖とする尾州有楽流の茶道が重用されたそうです。この瑞龍亭には有楽斎好みの様式が取り入れられているとか。余談ですが、有楽斎の茶室としては国宝茶室となっている「如庵(じょあん)」有名です。現在は名鉄犬山ホテル敷地内の日本庭園「有楽苑」にあります。こちらをご覧ください。「瑞龍亭」に向かう通路(空色の丸印あたり)の入口に枝折り戸と細竹を編んだアーチが設えてあります。ひょっとしたら、季節によっては草花のトンネルになるのかもしれません。このアーチ状のところから、北方向にある茶室を眺めた景色。外露地を歩み、中門を通り、内露地に入るという形になっているのかも知れません。門外漢の推測にしかすぎませんが。 オレンジ色の丸印辺りから、つまり龍仙湖の南西端から北方向を眺めた景色です。訪れたのが12月初旬でしたので、「蘇鉄の菰掛け」の姿を眺めることができました。 「蘇鉄は南方系の植物で寒さに弱いため、冬支度として蘇鉄の幹全体に、菰、藁などを巻く防寒養生を行っています。日本庭園では冬の風物詩として欠かせないものになっています。土地に違う菰掛けの手法があり、菰掛けの違いを楽しんでいただくため、4種類の菰掛けを行いました。 ・名古屋(明治) ・名古屋(平成) ・京都(二条城庭園風) ・東京(浜離宮恩賜庭園風) 」 (駒札より) 少し大きめの石を敷き詰めた洲浜が半ば水面下に続き、水際を渡る大きな飛石が連なっています。 龍仙湖の南東側に見えるのが「観仙楼」です。ここにレストラン、ホール、ショップなどがあるそうです。今回、中までは入っていません。 水辺では鯉がゆったりと泳いでいました。観仙楼の北面傍の小橋上から南を眺めると、小川の先に「龍門の瀧」(番号2のところ)が見えます。「龍門の瀧」は中国の登竜門伝説に基づき作られる瀧の一形式です。「龍門瀑」とも言われるそうです。私が登竜門伝説で思い出すのは、祇園祭の山鉾の一つである「鯉山」と天龍寺の庭園に取り入れられている瀧の石組みです。拙ブログでも既にご紹介しています。かつて江戸時代に、尾張家江戸下屋敷(戸山屋敷)の庭園には「鳴鳳渓」と称された渓谷に龍門の瀧が設えられていたそうです。その「尾張家江戸下屋敷跡地にあった瀧の石を使用し」(資料1)、この徳川園に「龍門の瀧」が再現されたとのことです。戸山屋敷は現在の東京都新宿区戸山町辺り、現在の「戸山公園」はその下屋敷跡地の一部のようです。(資料7,8)そこで、手許の『新・江戸切絵図』を見ると、「牛込市谷大久保絵図」の切絵に「戸山尾張殿」として広大な白い区域が描かれています。同じ切絵中に中屋敷も中程度に広い区域で記載があります。この尾州徳川家の下屋敷には、「邸内に東海道を模した大規模な大名庭園があった」(資料9)と説明があります。 路沿いに進むと、虎の尾の渓谷、渓流沿いの路となり、「虎仙橋」(番号7)を下から見上げる形になります。虎仙橋に戻ってきたとき、結婚式後の別のカップルが橋上で記念写真を撮ってもらっていました。橋の傍に、入口に戻れる路が付いていましたので、その路を上り、徳川園を出ました。 徳川園の入口を出た近くに、この門があります。ここが「観山楼」への入口のようです。後であらためて案内図を見ると、徳川園の境界線の外側に位置する形になっています。入園することなく、この観山楼の中から龍仙湖及び東の虎の尾渓谷・山の全景を観望できるのです。最後に、リーフレットの沿革説明の後半部を引用・ご紹介しておきます。(資料1)「徳川園は、平成13年(2001年)から日本庭園として再整備を行い、平成16年(2004)に開園しました。 徳川園は、矢田川の河岸段丘を活かした高低差のある地形、既存の照葉樹の森、立体的に迫る大きな岩組みが特徴で、変化に富んだ景観を展開する構成としています。」四季折々、庭景色の風趣を楽しめるところです。徳川美術館を訪れ、それにプラスしてひとときを満喫できた絶景スポット散策でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「徳川園」 当日いただいた案内リーフレット 徳川園事務所2) 四睡図 :ウィキペディア3) 浅野梨郷 :「コトバンク」4) 名古屋歌壇の礎、浅野梨郷 :「文化のみち二葉館」5) 西湖(杭州市) :ウィキペディア6) 西湖十景 杭州の歴史 :「燕京雑考」7) 戸山公園 :ウィキペディア8) 戸山公園 :「公園へ行こう!」(東京都公園協会)9) 『嘉永・慶応 新・江戸切絵図』 古地図ライブラリー0 人文社 p94-95【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺徳川園 ホームページ杭州と言えば西湖 中国江南を歩く :「人生は旅 ナチュラルに!」西湖十景 :「ARACHINA アラチャイナ」如庵 :ウィキペディア小石川後楽園 pdfファイル :「東京都建設局」小石川後楽園 :ウィキペディア名勝縮景園 ホームページ縮景園 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)上記でふれた拙ブログの関連記事はこちらからご覧いただけるとうれしいいです。探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -2 天龍寺拝見(庫裡・大方丈・曹源池庭園・多宝殿ほか)へ観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -2 鯉山 へスポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社に へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2 へスポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く へ
2017.11.16
コメント(0)

2015年12月初旬、このチラシの「国宝源氏物語絵巻」全点一挙公開を鑑賞する目的で、一度は訪れてみたいと思っていた徳川美術館に行きました。京都からの日帰りです。このときにまとめたものを再録し、ご紹介します。(再録理由は付記にて)ここ数年、地元の宇治源氏物語ミュージアムで年間計画で実施されている源氏物語についての講座を受講しています。遅まきながら少しずつ源氏物語の面白さを知り始めたところです。講座の聴講の折に、2015年に10年ぶりに徳川美術館に上記の国宝源氏物語絵巻の全点が一挙公開されるということを知りました。現在、国宝源氏物語絵巻は、名古屋の徳川美術館と東京の五島美術館に分有されています。そこで五年毎に交互にいずれかの美術館で全点を揃えて公開されるということになっているそうです。それ以外の年はそれぞれの美術館でその所蔵の部分が適宜公開されているだけなのです。つまり、京都に住む私には相対的に近い名古屋で鑑賞しなければ、5年後に東京まで足を延ばさなければなりません。それでないと、10年後までは多分全点を一挙に鑑賞するチャンスは巡ってこないのです。そこで、思い切って2015年に名古屋まで出かけました。新幹線と中央本線を乗り継ぎ、JR大曽根駅(冒頭の画像)に降り立ち、そこから徳川美術館まで歩きました。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 開館までに時間がありましたので、少し遠回りになりましたが途中でこの機会にと立ち寄ったのが、「片山八幡神社」です。境内には東側の鳥居から訪れたのですが、上掲の画像は南側正面の鳥居です。継体天皇の時代、尾張国山田郡片山郷と呼ばれたこの地に鎮座したことに由来するそうです。古くは「大曽根八幡社」と称したそうで、これが大曽根という地名の由来だとか。戦国時代には頽廃し、一時は熱田神宮預けとなったようです。江戸時代に尾張徳川家の二代藩主・徳川光友により社殿が造営され、名古屋市中の鬼門除けの社として崇められ信仰されてきたと言います。社殿は元禄8年(1695)に再興されたと伝えられているようです。第2次世界大戦の折、昭和20年の空襲で被災し、現在の主要な社殿は昭和30年代に再建されたのです。(由緒書、資料1) 手水舎 境内の東側にある神輿の収蔵庫神輿行事は平成8年から始められるようになったようです。当神社再興の貢献者である光友が死後瑞龍院と称されたことに因み、「瑞龍みこし」と呼ばれています。まだ新しい感じの神輿だなと思ったので、後に調べてみてホームページを参照してわかりました。 本殿前の狛犬の基壇正面には橘の紋章がレリーフされています。これがこの神社の神紋なのでしょう。 拝殿 本殿はこの背後に鎮座します。祭神は、中央に誉田別尊(応神天皇)、左右に天照皇大神・菊理媛神です。 唐破風屋根の鬼板と、兎毛通の上の飾り金具にも橘の紋章が。木鼻の造形はシンプルですがなかなか良い感じです。 大瓶束の両側は波浪の造形でしょうか。蟇股は橘が図案化されているようです。左右対称のレリーフ。 拝殿に向かい東側の境内には、「御嶽神社遙拝所」があります。伊勢神宮の遙拝所ではないところがめずらしい! 興味深い・・・です。 遙拝所の瑞垣の傍に、手水舎があります。 北側にある「谷龍神社」祭神は闇淤加美神(くらおかみのかみ)だそうです。竜神であり、祈雨・止雨の神。やはり農耕には不可欠なのですね。「伊邪那岐神が火の神・迦具土神の首を、十拳剣を以て斬られたおりに、その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出て生まれた二神のうちの一柱。 奈良県吉野郡の丹生川上神社上社・下社を本源とする」(資料1)とされています。もともと、尾張徳川別邸(後で述べる徳川園の地)に鎮座していた「姫子龍神社」を1923年こちらに遷座したそうです。尾張徳川家別邸の「椎の木山に住む大蛇を慰めるために祭祀されたものである。その大蛇が昇天した池が、椎の木山の南一丁の地にあった龍神ケ池である。」(資料2)そうで、クラは谷の羲だとか。姫子龍神社は、谷に棲む龍神を祀った社だったようです。本殿に近いところに並ぶ六末社。左から以下の順で鎮座するとか。[]は本源です。 宗像社…奥津島比売命、市寸島比売命、多岐都比売命 [福岡県、宗像神社] 秋葉社…火之迦具土神 [静岡県周知郡、秋葉神社] 津島社…素盞鳴尊、大穴牟遅命(大国主命) [愛知県津島市、津島神社] 青麻社…天之御中主神、天照大御神、月読神 [宮城県仙台市、青麻神社] 金刀比羅社…大物主命(大国主命)、崇徳上皇 [香川県、金比羅宮] 愛宕社…火産命、日本武尊 [京都市、愛宕神社] (資料1)境内にある大樹 保存樹「ムクノキ」 指定番号(東)第23号 という標識が傍に。片山八幡神社の正面の鳥居のある交差点が徳川町です。ここから東に二筋目が徳川園の交差点です。 後で地図で確認したところ、ここが徳川園を囲む塀の北西角になります。南方向に進みます。緩やかな坂道を上っていくことになります。 坂道を上りつつ、振り返ると・・・・。 黒門(登録有形文化財)総けやき造りの三間薬医門で、塀と脇長屋が連続しています。明治33年(1900)に完成した尾張徳川家の邸宅の遺構。「昭和20年(1945)の大空襲による焼失の被害を免れた数少ない遺産」(資料3)だそうです。 ここが徳川美術館、蓬左文庫、徳川園への入口になっています。 黒門を入ると、巾の広い通路の正面に「徳川美術館」の建物があります。この案内図に追記した赤丸が、上掲の黒門を正面から撮ったところ。黒門のところから、マゼンダ色の丸を付けた美術館入口正面を撮ったものが上の画像です。 少し立ち位置を変え、蓬左文庫の建物寄りからの眺め 蓬左文庫の建物 敷地内にある説明板から切り出した拡大図です。ここは元尾張徳川家の二代藩主光友が元禄8年に自らの隠居所として、大曽根邸を造営したことが起源となっている場所だと言います。当時は敷地が約13万坪(約44ha)の広さがあったそうです。光友没後に家老職三家に土地が譲られ、その後明治22年(1889)からは尾張徳川家の邸宅となったのです。この拡大図はその頃の敷地と現在の敷地が対比されています。その後、第19代当主徳川義親が邸宅と庭園を昭和6年(1931)に名古屋市に寄付したそうです。そこが現在の「徳川園」となっているのです。一方、尾張徳川家19代義親の英断で、尾張家に伝えられてきた大名道具をはじめ歴代の遺愛品など1万数千件に及ぶ品々が寄贈され、昭和6年(1931)に公益財団法人徳川黎明会が創立されて、この財団法人が運営する私立美術館として、「徳川美術館」が昭和10年(1935)の秋に開館されたのです。この建物の外観デザインは公募によるものだとか。(資料4)開館の15分位前には入口近くに到着したのですが、後数日で開催期間が終わるためか、早くもかなりの人々が列を作っていました。入場券を購入するために待つ間に撮った徳川園の敷地の方の南側面外観です。黄色の丸のところ。 当日の入場券と、美術館でいただいたリーフレットです。リーフレットは日本語版(左)と英語版(右)では表紙も内容も違います。展示室の案内図と説明はほぼ同じですが、それ以外ではやはりニーズの違いを反映し、英語版は簡略になっています。例えば、尾張徳川家系図や徳川園の図、各種案内が日本語版では詳しくなり、逆に英語版では挨拶文のところで沿革などを含め少し詳しめに説明しているといったところです。 当日購入した図録の表紙リーフレットの表紙に使われているのは「柏木三」の場面です。源氏が薫誕生後五十日の祝いで、薫を抱いているところです。ご存知のとおり、薫は女三の宮と亡き柏木の間にできた不義の子なのです。源氏は心中の苦悩を隠しているという場面。この絵は修理の際に各種の写真撮影で分析がされ、下絵では薫が両手を源氏に差し伸べるように出している図になっていたことが判明したのです。会場には大きなパネル写真が掲げられ、説明も付されていました。もちろんこの図録にも収録されています。また図録の表紙は「宿木 三」の場面です。今回の展示を鑑賞し、もう一つ素晴らしかったのは、19面すべての平成復元模写が国宝のオリジナルと併せて展示されていたことです。これは冒頭のチラシの一部を引用してのご紹介です。平成10~17年に、「できうる限り原本と同一素材・同一技法で製作するという基本理念のもとに推進され」(図録)て甦った源氏物語絵巻です。現代の最新技術を駆使して分析され、かつ習作を繰り返したうえで復元模写がなされたのです。その製作過程の一部も展示されていました。国宝のオリジナルとともに対比もでき鑑賞できたことはすばらしいことでした。絵巻物が制作された当時の人々は少数だったかも知れませんが、こんな色鮮やかな絵巻の絵を鑑賞していたのか・・・・という思いです。会場内は撮影禁止でした。会場を離れて、館内からガラス壁面越しに外を撮ることはOKだということでした。その部分をご紹介します。 館内通路の一隅から眺めた一つの企画展示室建物の入口と前面の広場 入口前のアプローチ屋根の上にはこんな鬼瓦が。 坪庭 もう一つの坪庭とその庭越しに見える建物の屋根の鯱 さらにもう一つの坪庭それぞれに趣が異なっていておもしろい作庭です。この後、そのほかの展示空間を拝見して、徳川美術館内から続きに、隣接する「蓬左文庫」の展示室を拝見しました。こちらは「尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫」(資料4)です。蔵書数は現在約11万点だとか。尾張徳川家に継承された2000枚を越える絵図も所蔵されているそうです。閲覧室は無料で展示室は有料とのこと。展示室を拝見したときは、書籍だけでなく徳川美術館の大名道具も一部展示されていました。「蓬左」という言葉を不思議に思ったのですが、「蓬左」というのは江戸時代の名古屋の別称だそうです。「熱田神宮が伝説の蓬莱島にあたるとされ、その左方に位置していたことからこう呼ばれました」(資料4)とのこと。また、「名古屋城内尾張藩御文庫にあった書物をつたえる文庫という意味をこめて、大正初年に尾張徳川家の蔵書は『蓬左文庫』と命名されました」(資料5)。蓬左文庫は名古屋市により維持運営されています。特別展と蓬左文庫の展示品を鑑賞した後、「徳川園」を散策しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 片山八幡神社 ホームページ2) 片山八幡神社 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第10講 :「Network2010」3) 「徳川園」入園の折りに頂いたリーフレット4) 「徳川美術館」のリーフレット5) 「蓬左文庫」のリーフレット 徳川美術館で入手した資料【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺徳川美術館 ホームページ地誌 尾張志 貴重和本デジタルライブラリー :「愛知県図書館」名古屋市蓬左文庫 ホームページ五島美術館 ホームページ源氏物語絵巻に下描きの跡 徳川美術館、修復時に赤外線で :「日本経済新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1 へスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2 へスポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く へ
2017.11.15
コメント(0)

この場所は、烏丸北大路交差点の南西側を撮ったものです。地下鉄「北大路」駅に集合し、まずはこの地点に移動。ここが今回の探訪の起点となります。今回もREC「京都の古寺社を巡る」という探訪講座に参加しました。その折の記録整理を兼ねて、ご紹介したいと思います。烏丸北大路を起点に、かつては御土居があったと推定できる地に沿った道路を南に歩き、そこから寺町通沿いにあるいくつかの寺社を拝見・探訪して、出町柳近辺を終点とする行程でした。鴨川の西側堤防上は「加茂街道」です。鴨川と烏丸通のほぼ中間あたりに、加茂街道とほぼ併行する道路が南に延びています。この画像の白線の引かれた道路です。この道路がかつては御土居が築かれていた場所の一部と推定されているそうです。豊臣秀吉が京都を大規模に都市改造し、その一環として京都を防御するために天正19年(1591)に周囲に土塁(御土居)を築造しました。御土居の幅は20m前後、高さは4m以上もあったのです。(資料1)その遺構が主に洛北の各所に残っています。それ以外はすべて取り壊されて、その痕跡が道路として使われている所を除くとほぼ市街化して建物ができています。御土居跡の道路を南に進むと、幅の広い「紫明通」と交差します。この景色は紫明通から鴨川の流れる東方向を眺めた景色です。 紫明通を横断し、道沿いに南進すると、鴨川に架かる「出雲路橋」の北西方向に所在する「京都市交響楽団」の黒っぽい建物の傍に至ります。左の画像は歩んできた道を振り返った景色です。この鞍馬口通の北側の所で御土居は二重になる形で分岐していたそうです。右の細い道を進んだのですが、こちらは鴨川に近い方の土塁跡に残された通路です。鞍馬口通に抜けます。 細い通路を抜けると、鞍馬口通に出ます。道路の先に見えるのが「出雲路橋」で、西側の堤防上が南北の加茂街道です。橋方向には登りの坂道になっています。出雲路橋西詰の木の傍に、石碑が見えました。デジカメのズームアップで撮ったのが右の画像です。調べてみると、「師範桜碑」でした。「志波無桜碑」と刻されています。「賀茂川堤の桜は京都府師範学校教職員・生徒,同附属小学校児童による植樹に始まる」そうで、「賀茂川葵橋より御園橋に至る両岸の堤防に桜楓を植えることが職員会議で発議され」たと言います。発端は日露戦勝記念なのだとか。(資料2) 鞍馬口通を西に進みます。少し先に最初の探訪崎「上善寺」があるのです。その手前に、北に向かう道路が見えます(左の画像)。このあたりが二重の御土居の間あたりになるようです。南側(右の画像)には、通りに面して地蔵堂があり、浄土宗の「西光寺」のお堂が参道の奧に見えます。「上善寺」は鞍馬口通の北側で山門が南面していて、寺町通の北端に位置することになります。山門は通りから北に奥まって建てられていますので、門前には枡形の長方形の空間があり、鞍馬口通との境界に橋の幅は広く、長さは溝蓋程度という形の石橋を架けた形になっているところが、ちょっとおもしろいところです。この枡形の東端に「七番 地蔵尊」の石標が、西端には「贈正四位入江九一外七名首塚 アリ」と刻された石標が立っています。元治元年(1864)「禁門の変」の戦いで戦死した長州藩士の墓だそうです。(資料3) 駒札に記されていますが、ここは「千松山遍照院」と号する浄土宗のお寺です。その沿革は、貞観5年(863)、円仁により千本今出川の地に、天台密教の道場として創建されたことに始まると伝えられているそうです。文明年間(1469~87)に、後土御門・後奈良両天皇の戒師となった春谷盛信(しゅんこくせいしん)が再興し、後柏原天皇(在位:1521~1526)の勅願寺とされたことが、江戸時代の地誌に記されているとか。(資料1,3,駒札)文禄3年(1594)に寺域を現在地に移し、浄土宗に改宗されたと言います。豊臣秀吉が御土居の内側に諸寺を移転させて、現在の「寺町通」を作らせた一環だったのでしょう。山門を入ると、北に真っ直ぐ延びた参道の先に、南面する本堂が見えます。今回この本堂は拝観していません。本尊は阿弥陀如来坐像です。 頭貫上の蟇股 右側の木鼻山門を入ると、すぐ右側にこのお堂があり、比較的大きな石仏が祀られています。「天道大日如来」と墨書された提灯が提げられています。お地蔵様と同様に、前懸がいくつも掛けられていますので、全体像を見仏できないのがちょっと残念です。鎌倉時代の造立と推定される石造大日如来坐像です。(資料1)この小堂の北東方向で境内東端に、新旧2つのお堂が並んでいます。 この2つともにお堂としては地蔵堂です。新しいお堂は六角堂のようです。新しく建立された地蔵堂にこの扁額が掲げてあります。山門の大きな寺号標に刻された「第一番六地蔵尊」が安置されています。「鞍馬口地蔵」と称される京都六地蔵巡りの一つです。明治初年までは深泥池の辺に祀られていたものが、こちらに移されたといわれています。(資料1,3,駒札)ここでは、京都六地蔵巡りの8月22・23日のうち、22日夜に六斎念仏の奉納があるそうです。(資料3,4,駒札)拝観の折に、「八百年の伝統行事 卍 京の六地蔵めぐり」というリーフレットをいただきました。そこに「六地蔵縁起」(六地蔵大善寺所蔵)が説明されています。そこから要点を抽出してみます。*朝廷に仕える参議左大辨の小野篁は894年、48才の時、大病にかかり仮死状態になり地獄の世界を行き、地蔵菩薩に出会う。*小野篁は、大病から快癒後に地蔵菩薩の利益を末法の衆生にこうむらせることを発願し、木幡山の桜の一大木から六躰の地蔵尊像を刻み、伏見六地蔵の地に安置した。*後白河天皇が1157年に平清盛に勅命し、この六躰を都への街道の入口六ヶ所に六角堂を建てて分置くさせた。街道の入口六カ所というのが、奈良街道(伏見六地蔵)、西国街道(鳥羽六地蔵)、丹波・山陰街道(桂地蔵)、周山街道(常盤地蔵)、鞍馬街道(鞍馬口地蔵)、東海道(山科地蔵)です。つまり、保元年間(1156~59)に鞍馬口地蔵が深泥池の辺に祀られるようになったことになります。当時は「深泥ケ池地蔵(みぞろがいけじぞう)」と呼ばれていたようです。(資料4,駒札)こちらは南側にある古い方の地蔵堂です。 「観世音菩薩」の扁額が掛けられています。現在は観音堂として使用されているようです。お堂の正面奧に安置された「観音菩薩立像」です。その前に置かれた台の正面中央に「卍」の記しが見えます。卍のマークは地蔵菩薩と繋がりますので、このお堂は元は地蔵堂として使われていたのでしょう。体躯が厚く一木造で内刳を施されていて、衣文は浅く、12世紀の造立と推定されているのです。(資料1)この像に向かって右側に十一面観音菩薩立像も安置されています。 柱に掛けられた幡の陰になり部分的にしか拝見できないのが残念ですが、ズームアップで撮ってみました(撮影可でしたのでうれしいかぎり)。こちらも一木造だそうですが、内刳はしていない仏像だとか。平安後期の造立と推定されているそうですが、彫刻が全体的に少なくて、素朴な感じです。(資料1)その右隣りに、すごく素朴な合掌した立像が安置されています。ちょっと奇妙な取り合わせでもあります。しかし、素朴さの中に魅力がありますね。円空仏でもなさそうな気がします。どこにも説明がありませんでした。こちらのお堂の屋根の頂点部の露盤・伏鉢・宝珠は至ってシンプルです。これもまた珍しい感じを受けました。このお堂の手前南側にある覆屋は何かなと近づくと、井戸です。観音堂と井戸との間、築地塀の前に北面して、数多くの様々な石仏が安置されています。この石仏群をスポット撮りしましたので、ご紹介します。 左の画像は、中央の前に立つこのお地蔵様です。側面から見ると、かなりの厚みで背面近くまで彫り込まれています。古い時代に作られたもののようです。右の画像は、この石仏群の中にこれだけが「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだ碑だったと思います。最後列の中央左に地蔵菩薩立像が見えますが、その左側に、「十三仏」を彫りこんだものもあります。 様々な石仏をゆっくり眺めているゆとりはありませんでした。これらの石仏は他の寺と同様に、京都市内の地下鉄工事、道路工事、市内の再開発などで地中から出て来たものが多くあり、ここに集められて安置されたものが多いのかもしれません。上善寺を辞す前に、山門を眺めておきましょう。 屋根の棟と降棟の鬼瓦 屋根を支える蟇股は比較的シンプルな板蟇股が両端に使われています。左の画像の手前の部分の組物の名称が私にはわかりません。手許の本ですぐに一致して同定できる記載が見あたらず不詳です。課題が残りました。門扉は丸形と菱形の飾座金具が使われて頑丈そうな造りです。山門前に枡形の空間を作る築地塀が道路に面して側面を見せる屋根部分を眺めると、三つ巴の模様入り巴瓦と鬼瓦には跨鬼が使われています。上善寺を出て寺町通に入り、南に進みます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「京都の古寺社を巡る 33 ~寺町北部の寺社~」 2017.10.14 当日の配布レジュメ (元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 師範桜碑 :「京都市」3) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p514) 「八百年の伝統行事 卍 京の六地蔵めぐり」 当日入手の資料補遺天道大日如来 :「京都通百科事典」天道大日如来 :「烏丸かわら版」京の六地蔵めぐり :「京都観光チャンネル」観光ルート:六地蔵めぐり :「京都観光Navi」深泥池 :ウィキペディア深泥池 :「京都市情報館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -2 天寧寺・西園寺・出雲寺 へ探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -3 光明寺・阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺
2017.11.14
コメント(0)

特別展「軍師官兵衛」を見る目的で出かけた日帰り観光のため、好古園を出た後はもうそろそろ帰路につく時間です。大手門茶屋でちょっと休憩し、JR姫路駅まで歩いて戻ることにしました。大手前通を真っ直ぐに戻るのもおもしろくないので、この機会に途中にある神社を訪ねてみました。参考にしたのは、姫路で入手した上掲画像のガイドブックです。中央のガイドマップから切り出して利用させていただくのがこの部分地図。冒頭の画像は、家老屋敷跡公園に現在「大河ドラマ館」が設置されていて、ちょうど通りを隔てて西側に位置する「姫路市立白鷺小学校・中学校」の校門です。姫路城の内濠と中濠の間に位置し、お城傍にある学校だからでしょうか、姫路城の別名「白鷺」が校名に利用されています。 この学校の前の通りを南に進むと、国道2号線です。石垣が東西方向に続いています。地図をご覧いただくと、船場川から東方向に、「埋門、鵰(わし/チョウ)門、中ノ門、総社門」という門の名称が連なっています。この国道2号線、姫路城の中濠を埋め立てて道路にした区画なのです。石垣がその名残といえます。国道を横断して、商店街の方向に進んでいく道路に埋め込まれた絵陶板。「ゆかた姿」の絵柄です。少し先に「長壁神社」(おさかべじんじゃ)があります。街角にある小さな神社です。その社殿の側面に、「長壁神社 ゆかた祭 縁起」の説明板が建てられています。この神社の御祭神は、「刑部親王とその王女・冨姫」の二柱だそうです。刑部親王は第49代光仁天皇の皇子の一人。「刑部」という文字は音読みでは「ギョウブ」ですが訓読みだと「おさかべ」となります。「長壁」は読みからの転換なのでしょうか・・・・説明のある資料を見付けていませんが。刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を廃されて、京からこの姫山の地に移り住み、この地で王女とともに薨去されたとか。国司の角野氏がこの二人を姫山の守護神として祀り、地主神としたことがこの神社の起源のようです。そして、姫路城内に鎮座し祀られていた神社だったとか。江戸時代の姫路城主で風流大名の榊原政岑が転封される折りに、その分霊を城下の堅町の長源寺境内に遷座することを行い、一般庶民が自由に参拝できるようにしたのだそうです。 (資料1)分霊を遷座させる時、「奉仕参列した人々達が清浄なる白衣の代わりにゆかたを着用した事により以来姫路では毎年この祭からゆかたを着るようになった」(縁起説明板)という縁起があるようです。二百数十年の伝統があるのですね。「戦後、6月の神事は、呉服商組合、観光協会、地元らの協賛でさかんとなり、ゆかたまつりとして今や姫路の代表的な祭りとなっています」(資料1)ということで、「ゆかた祭」はここが発祥の地であり、同種の祭が全国に広がっていったといいます。(資料2)長壁神社から姫路駅は近いのです。遠回りになりますが、お菊神社/十二所神社に立ち寄ることにしました。 十二所神社 石の鳥居に架けられた額も石造です。私の知るかぎりではちょっとめずらしいです。しかも陽刻された神社名の周辺に龍を浮き彫りして額縁にしているのが興味深いところです。これもまた、めずらしいのではないかなと思います。境内には「帆立の松」があり、大きな名称碑がその傍に建てられています。 本殿御祭神は少彦名大神です。由緒によると、「一千余年の昔、附近に疫病が流行し、里人等はたいへん苦しんでいた。ある時、一夜のうちに12本のよもぎが生えた。里人等は不思議がっていると、少彦名大神が現れ、このよもぎを煎じて飲めば、病はたちどころに治ると教えられた。里人等が教えのとおりにすると、世に流行している病はたちまちに癒えた。」と言います。里人達がその神恩に感謝して、12本の蓬が生えたことから、「十二所神社」と名づけて創建したとされています。(資料3)それが、醍醐天皇(897~930)の時代、延長6年3月に、産土神を祀って神社を創建したということなのでしょう。境内で見た「復興由来」の石碑によれば、かつては今の十二所前町50番地のところに官有地1085坪の神社境内の規模だったようです。昭和20年(1945)7月3日の戦災で建物ほか悉くが灰燼と化したのだとか。そして、戦後現在の忍町588番地の900坪の境内として復興されたようです。 戦後に復興された神社なのですが、本殿の唐破風屋根の兎毛通、虹梁の上の蟇股及び虹梁と頭貫の間にある透かし彫り、そして木鼻の獅子や像など、かなり見事なものです。本殿復興の折りの熱意や信仰心の発露でしょうか。人々の心意気を感じます。もっと簡略な造作もあり得るのですから。以前の本殿との対比ができると、興味深いのですが・・・・。本殿の右側には参道に「藤の棚」が作られています。藤の咲く季節にこの神社を訪れるのがよさそうです。藤の棚に導かれて、参道を歩んでいくと、もう一つ社殿があります。こちらは「お菊神社」の本殿です。十二所神社の境内社と位置づけられています。御祭神は菊姫命です。本殿の右側に神社の由来説明板が建てられています。そして、そのすぐ傍、石の鳥居の内側に「お菊神社の由来」石碑が建てられています。明治初年に「お菊神社」が造営され、十二所神社同様に戦災で灰燼と化し、昭和35年(1960)に再建されるにいたったそうです。この「由来記」の要旨をまとめてみます。お菊は姫路城伝説の一つ、播州皿屋敷に関係している人でした!! ・永正年間尼子十勇士寺本障子之介が、息女菊とともに姫路城下に亡命してきた。・菊は姫路城主小寺則職の寵愛をうけるようになる。・病弱の城主のために菊は十二所神社に日参し祈願する。・逆臣が城主暗殺・お家横領を企て、菊に察知されるのを危ぶみ謀計を立てる。・小寺家の家宝赤絵の皿1枚を隠蔽し、その罪を菊に転嫁。菊を城内古井戸に屠る。・菊は永正2年旧3月、21歳で殺される。(→伝説では、夜毎お菊の亡霊が現れる)・後年、城主が忠烈菊女を三菊大明神と敬い祭祀した。 こちらも道路に面して、石造鳥居がありますが、真っ直ぐ十二所神社に向かう藤の棚のある参道になっています。この鳥居の正面右側に「お菊神社」の本殿があるのです。この後は一路、姫路駅に向かうだけ。 姫路駅付近の景色です。上掲の部分地図と併せて見ていただくと、方向がおわかりいただけることでしょう。2014年6月時点では、陸橋にはこの幡がいくつも掲げられていました。今は、別の企画の意匠の幡が風になびいていることでしょう。再録のシリーズ記事はJR姫路駅に到着し終わりです。一日の旅が終わりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 長壁神社 :ウィキペディア 長壁神社 :「神奈備」 長壁神社(おさかべじんじゃ・刑部大神・刑部神社・小刑部宮) :「姫路城」2) 姫路ゆかたまつり :ウィキペディア3) 十二所神社 :「兵庫県神社庁」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺播州皿屋敷 姫路のお菊井戸 :「ひょうご歴史ステーション」播州皿屋敷お菊井戸 :「知識の泉」皿屋敷 :ウィキペディア姫路城に伝わる伝説姫路城にまつわる伝説 :「キンキサイン株式会社」第二十四回 「恐怖の人柱伝説&姫路城と松山城の天守にある珍しいもの」:「Rooftop」姫路ゆかたまつり 公式ホームページ姫路ゆかたまつり 露店数大幅減少で“地域のおまつり”に :「Kiss PRESS」 6月22日(日)~24日(火) 姫路ゆかたまつりの2018年の日程は?露店の出店日時は? :「明快情報ブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く(Y2014) -1 歴史博物館、シロトピア記念公園、美術館、姫路城の石垣 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -2 天守の庭、三の丸広場、大手門、好古堂跡 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -3 好古園(姫路城西御屋敷跡庭園):入口付近、御屋敷の庭 へ探訪 [探訪] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -4 好古園:流水の平庭、夏木の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -5 好古園:松の庭、花の庭、築山池泉の庭、竹の庭 へ
2017.11.13
コメント(0)

348これは「夏木の庭」と「松の庭」の境界となっている桂垣です。小川の幅が広くなり蛇行を重ねながら池に繋がっていきます。隣り合う庭の境を鯉がゆったりと往き来している姿はいいものです。 「松の庭」は瀬戸内地方のアカマツ林をイメージした庭園なのだそうです。(資料1) 「松の庭」は「花の庭」との間に、筑地塀と垣根をその境界としています。通路に沿っていくと「松の庭」の南側にオープンな開口部があり、「花の庭」に導かれます。「花の庭」から見れば、庭の北辺になります。 「花の庭」のほぼ中央には「花笠亭」と称される四阿があり、その周囲には季節に応じて咲く花が変化していき、その折々の見頃の花を楽しめるようです。江戸時代に親しまれた山野草が植栽された庭園になっています。 訪れた時に咲いていた花々「花の庭」の南辺は、好古園の入口前の道路に面しています。 こちらには門がありますが閉じられています。その傍に、「メグスリノキ」が植えられています。 黒田官兵衛の祖父が黒田家再興の礎となる財を生み出す手段となった黒田家伝来の目薬の原料となる樹木です。こんなところで実物を見られるとは思いませんでした。 好古園を出るときに入手したリーフレットの一部を切り出して、引用させていただきましょう。(資料2)門は閉じられていますので、「花の庭」を一周して、元の開口部に戻り、「松の庭」にある「長屋門」から次の庭に向かいます。 長屋門を庭側から眺めたもの 長屋門を屋敷が面する道路から眺めたもの長屋門から外に出ると、道を隔てて右斜め前に「築山池泉の庭」の門が見えます。右の写真は、この門の前から好古園の入口前の道路への南端に設けられた柵と屋敷町の間の道路の景色です。時代劇のロケ地としてピッタリの雰囲気です。門をくぐると、その先に姫路城が聳えています。瓢箪形の池で、中央の細くなったところに大きな石で飛び石の渡りが作られています。まずは門のところから左折して「竹の庭」を見にいきました。この「竹の庭」も一巡して、「築山池泉の庭」の門から退出することになるからです。 「築山池泉の庭」の池泉を回遊するための通路「竹の庭」を一巡する通路です。 「竹の庭」の南東区域と、ここにも「花の庭」同様、門は閉じられていますが、好古園の入口に通じる道路に面しています。この庭には15種類の竹類が植栽されているそうです。庭中央に築山がありその上に、八角の和傘をイメージしたとされる四阿「聞竹亭」が配されています。 回りには様々な種類の竹が見えます。 竹林の七賢人がこの四阿に集まれば、どのような論議・談話が繰り広げられることでしょうか。竹林を渡る風に竹を聴き、俗世をひととき離れて別世界に遊ぶ思索の旅には良い四阿です。日帰り観光ではその余裕もなくて、さらりと吹き過ぎる風のごとくに、一巡し、「築山池泉の庭」に戻りました。 池を南側から眺めた景色池端に近づくと、池の北側で池上にせり出す形で作られた茅葺(かやぶき)四阿「臨泉亭」が木立の間に見えます。 門の近くまで戻って来て、改めて眺めた臨泉亭と姫路城この池泉を回遊する時間がなかったので、詳しく見られませんでしたが、「池の北側に亀を、南側には鶴をイメージした岩島を配しています」とのこと。私には再訪の折の探訪課題がここでも残りました。好古園を訪ねられたなら、お見逃し無く、池を廻ってみてください。最後になりましたが、好古園の前からの眺めをこの項の締めくくりと致します。つづく参照資料1) 姫路城西御屋敷跡 好古園」パンフフレット 入園時にいただいた資料 こちらからダウンロードすることもできます。2) 好古園の管理事務所のところで入手したリーフレット 下部には茶室「双樹庵」広間の欄間についての説明と写真が載っています。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺メグスリノキ :ウィキペディアメグスリノキ 薬用植物一覧表 :「e-yakusou.com」メグスリノキの薬学的研究 南雲清二氏 星薬科大学軍師官兵衛にメグスリノキが出演しました! :「FUJI GREEN フジグリーン」「黒田家はなぜ目薬屋なのか?」 :「Nothing's gonna change my love for you」 こんな考察のブログ記事を見付けました。なかなか興味深い視点です。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く(Y2014) -1 歴史博物館、シロトピア記念公園、美術館、姫路城の石垣 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -2 天守の庭、三の丸広場、大手門、好古堂跡 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -3 好古園(姫路城西御屋敷跡庭園):入口付近、御屋敷の庭 へ探訪 [探訪] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -4 好古園:流水の平庭、夏木の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -6 中濠の石垣、長壁神社、十二所神社、お菊神社 へ
2017.11.13
コメント(0)

「御屋敷の庭」続きに「苗の庭」に入りました。後で見直すとその門はこの庭の裏門にあたります。冒頭の画像は、「苗の庭」の庭景色です。白い筑地塀の向こうに見えるのは「潮音斎」の屋根です。江戸時代に栽培された園芸植物を育成する庭園になっています。庭の一角にある「作業舎」を除き、表門と裏門を結び文字卍の一つの流れを逆転させた形に曲折してメインとなる通路が庭の中央を横切っています。その左右の庭一面に整然と栽培用の方形区画が配置されています。 訪れた時に咲いていた牡丹 庭のこの通路が、実はこの門に通じています。この門に「苗の庭」と記した門標が掛けられていますので、こちらが道に面する表門なのです。浅黄(うすき)色の筑地塀となり、この塀の向こうが後で確認すると「茶の庭」にあたるのです。見えているのはたぶん茶室「双樹庵」の屋根でしょう。この「茶の庭」はなぜか、訪れていませんでした。残念! 単なる見落としなのか、別の理由があったのかは不明です。パンフレットによると、茶室「双樹庵」を中心に玄関前の庭、広間の庭、小間の庭が配されているそうです。そして、飛び石・蹲踞(つくばい)・灯籠・腰掛け待合などが配置された茶庭になっているとか。茶室「双樹庵」は、裏千家家元の設計・監修で京都の数寄屋大工の技術で建てられたもの。茶室は姫路城天守閣に向かって建てられているといいます。(資料1)東西方向の道の北側に「茶の庭」、南側に「流れの平庭」があります。門の内側正面には、書院玄関の衝立に代わるかのように「建仁寺垣」がしつらえられ、目隠しの役割を果たしています。竹垣の間を回り込むようにして庭に向かいます。(資料2,3)ここの庭が興味深いのは、「流れの平庭」から水の流れが「夏木の庭」「松の庭」へと一続きに繋がり、蛇行する小川と小池を軸にしてそれぞれの庭が構成されているのです。この3つの庭はそれぞれ趣の異なる仕切りで截然と区分されています。そして、「松の庭」は「花の庭」に続いています。最初に目に止まったのがこの灯籠。「いけこみ形」灯籠のようです。(資料3)別に、「松琴亭」と称される形でもあります。(資料4)今まで見た記憶がない灯籠でした。この小池辺りが後から思うと、「流水」の始まりのようです。池の中、岸辺寄りに小さな岬灯籠が置かれています。小川の流れに沿って植樹され庭が展開していきますが、その側を同様に緩やかな孤を描く通路があります。 通路を真っ直ぐに行き、「夏木の庭」に向かうこともできるのですが、それではこの「流水の平庭」の良さが味わえません。やはり、小川の流れ間近を向こう岸に渡って、庭を楽しむべきでしょう。勿論、そうしました。 池から小川の流れへと変化し、小川がおおらかな孤を描き、流水に趣きを添えます。小川のこちら側の通路から少し外れた一隅に、「三光形」の灯籠がさりげなく置かれています。小川には、飛び石の渡りが作られ、軽やかで広がりを遮らないいい感じです。 緩やかな流水の岸辺に、四阿(あずまや)「流翠亭」(りゅうすいてい)が設けられています。 そして、ここが「流水の平庭」と「夏木の庭」の境界です。流水が2つの庭に跨がる池に流れ込み、その小池のうえに、池中の置き石を巧みに使いながら、立合い垣が庭を画しています。こういう発想の庭も意外性があり、かつ情緒があります。鯉は境と無関係に泳いでいます。 こちらが垣根の傍の出入り口から「夏木の庭」に入ったところです。立合い垣の反面の風情です。この庭は夏木(落葉樹)ばかりを配し、新緑から紅葉までの季節感をテーマにされています。(資料1)庭園名の通りですね。池に架かる石橋の向こうには、「流水の平庭」の通路の先に見た門が見えています。ごつごつとした岸辺の石組みで夏の強さを感じさせる小池が再び小川の流水となります。この「夏木の庭」はコンパクトにまとまっています。 通路を辿る先には、またひと味趣の異なる垣根が庭の境界となっています。つづく参照資料1) 姫路城西御屋敷跡 好古園」パンフフレット 入園時にいただいた資料 こちらからダウンロードすることもできます。2) 建仁寺垣とは :「三木竹材店」3) 『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社 p68, p274) 活け込み灯籠特集 :「杉本石材店」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺垣根 :ウィキペディア建仁寺垣結び方 :Youtube灯籠 :ウィキペディア石灯籠類 :「京都府造園協同組合」石灯籠の解説 :「杉本石材店」茶室解体新書~数寄屋建築のつくり方~ :「数寄屋大工-美を創造する匠-」竹中大工道具館巡回展 数寄屋大工 ―美を創造する匠― 数寄屋大工 ―美を創造する匠― :Youtubeもてなしの数寄屋住宅<vol.1> :Youtubeもてなしの数寄屋住宅<vol.2> :Youtubeもてなしの数寄屋住宅<vol.3> :Youtube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く(Y2014) -1 歴史博物館、シロトピア記念公園、美術館、姫路城の石垣 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -2 天守の庭、三の丸広場、大手門、好古堂跡 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -3 好古園(姫路城西御屋敷跡庭園):入口付近、御屋敷の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -5 好古園:松の庭、花の庭、築山池泉の庭、竹の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -6 中濠の石垣、長壁神社、十二所神社、お菊神社 へ
2017.11.13
コメント(0)

前回、好古堂跡をご紹介しました。このあたりは、姫路藩主下屋敷(西御屋敷跡)があった場所でもあったと言います。発掘調査結果を踏まえ、その史跡地に姫路市制100周年を記念して「好古園」と総称する庭園が作庭され、平成4年(1992)に開園されたのです。西御屋敷は、本多忠政時代・元和4年(1618)に造営されたそうです。播磨姫路藩の第3代藩主・榊原政岑は、寛保元年(1741)春に新吉原の三浦屋から高尾太夫を落籍して、西御屋敷に住まわせたといわれています。(資料1,3)庭園の入口近くの説明板は前回、ご紹介しています。庭園配置図を部分拡大してみました。西御屋敷跡、武家屋敷跡、町筋など、江戸時代の地割りは発掘調査結果をいかし、筑地塀の復元、屋敷門、長屋門などの配置も行われたそうです。大小9つの庭園群が作られています。この庭園は京都大学の中村一教授が設計監修されました。(資料1,2)それぞれが趣のある庭園となっていて、その風趣をひととき楽しめます。姫路城と併せて訪れてみることをお薦めできるスポットです。好古園入口のアプローチと「御屋敷の庭」を今回はご紹介します。冒頭の扁額が掛けられた入口を入ると、稲妻形に曲折したアプローチとなっています。路地の正面には屋敷門が眺められます。 路地を歩き始めると、お城の隅櫓が樹木越しに見えます。左側が西御屋敷跡で、手前に屋敷門、その先に筑地塀が続きます。木柵のある向こう側が内濠に沿った道路です。手前の道が西御屋敷と武家屋敷との間の道だったのでしょう。 屋敷門の側にある駒札「御屋敷の庭」に入りましょう。姫山原始林を借景とした池泉回遊式庭園になっています。(資料1)庭園の風情をお楽しみください。 通路を進むと、「活水軒」の建物が見えます。池の側に立てられた活水軒は、「渡り廊下」に繋がり、そこから「潮音斎」に行くことができます。「活水軒」は御屋敷の庭を眺めながら食事や喫茶を楽しめるレストランになっているようです。 ゆったりとした大池はその周辺を散策するにつれて、景色が様々に変化していきます。樹木が四季折々その色合いを変えていくことでしょう。 池の南側の大瀧から水が流れ落ち、岩に砕けた水が白く飛沫を立てています。深谷幽谷の景色を連想させる景色です。外廊下は池中に張り出し、ゆったりと鯉が泳いでいる景色を欄越しに楽しめます。 池中には小島があり、池を跨ぐ石橋が架かっています。 小島の先には、お城の櫓が見えます。渡り廊下で繋がれた建物が「潮音斎」です。玄関口には扁額が掛けられていました。この「潮音斎」は「中秋の名月を愛でるのに最良の方向に向けて建ててあります」(資料1)とのこと。大池は瀬戸内海をイメージしているそうです。そこで「潮音」という言葉が繋がっていくのでしょう。 「潮音斎」と筑地塀の間の幾分細い通路は屋敷門の方に回り込める道です。筑地塀の反対側が「苗の庭」。こちらに向かう前に、もう少し「御屋敷の庭」を散策しましょう。池に架かる石橋を渡る手前で踏み石伝いで池を渡る通路と分岐しています。 石橋を渡り、大池の対岸を少し廻ってから潮音斎を眺めた景色逆方向に戻り、「苗の庭」の筑地塀と上掲の踏み石道の見える景色 大池の北側にある築山から「御屋敷の庭」北端にある門を見下ろした景色 池の北辺を回って行くと、勧修寺形灯籠が配されています。勧修寺形というのは、京都市山科区にある「勧修寺」の庭にある燈篭です。それは水戸光圀が寄進したと伝わる雪見灯籠です。拙ブログで「勧修寺」をご紹介した際に画像を載せています。こちらの記事もご覧いただけるとうれしいです。そして、筑地塀に囲まれた「苗の庭」を訪れます。「苗の庭」への門の丸軒瓦には、八本骨源氏車の紋章が使われています。軒平瓦は最もシンプルな忍冬文様でしょうか。あくまで、たぶん・・・と思う程度なのですが。それでは、続きのお庭を訪れましょう。つづく参照資料1)「姫路城西御屋敷跡 好古園」パンフフレット 入園時にいただいた資料 こちらからダウンロードすることもできます。2) 由来とあらまし :「好古園」3) 榊原政岑 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺好古園 オフィシャル・ホームページ忍冬 ← スイカズラ :ウィキペディア忍冬唐草文 :「コトバンク」唐草文 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く(Y2014) -1 歴史博物館、シロトピア記念公園、美術館、姫路城の石垣 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -2 天守の庭、三の丸広場、大手門、好古堂跡 へ探訪 [探訪] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -4 好古園:流水の平庭、夏木の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -5 好古園:松の庭、花の庭、築山池泉の庭、竹の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -6 中濠の石垣、長壁神社、十二所神社、お菊神社 へ
2017.11.12
コメント(0)

前回ご紹介した井戸の傍の低い石垣に沿って、お城の石垣を眺めつつぐるりと回り、ちょうど反対側に行ったところで、この一角の意味が理解できました。それが「天守の庭」、冒頭の景色です。現在の「三の丸広場」の一角に、昭和の大修理の結果不用になった礎石をもとのように配置して、天守の平面形を再現したのがこの「天守の庭」だそうです。説明板は大天守の「昭和の大修理」における Before と After を説明しています。対比してみます。[Before] ・姫山に3.6m盛土した地盤に基礎柱石を据えていた。 ・総重量6000t近いため、地盤沈下が進み、礎石に高低差が生じていた。 ・大天守は東南方向に約44cm傾斜していた。[After] 地盤沈下を防止することを図る。 ・建物の重量を直接岩層に受け持たせる方式に変更した。 ・鉄筋コンクリートで十弁式定盤基礎を築く。この変更により、「建物の入側から内方の礎石が不用になり、この不用になった礎石をもとのように配置して天守の平面形を再現した」ということです。今回は現在の姫路城内見学はせずに、周辺景観を楽しんできました。この図で言えば、千姫ぼたん園への途中の通路、三の丸広場からの景観を眺めただけになります。 天守の庭近くからの景色 乾小天守をズームアップで 石段を上がり、千姫ぼたん園に続く道の入口から西の丸方向の景観 三の丸広場から 大手近くからの遠望(保存修理工事中)現時点なら大天守の優美な姿が眺められることでしょう・・・・。この景色もはや過去の工事記録の一写真になってしまいました。 大手門から入るとこれがまず目につくのでしょう。 大手門付近では足軽装束の人達がガイド役や記念写真のご協力です。 大手門で目に止まったのが、頭貫に並べられた家紋です。江戸時代に姫路城主になった家系の家紋ではないのがおもしろい。「五七の桐紋」です。「五七桐」は豊臣秀吉が使用した家紋の一つであるそうです。尚、桐紋は江戸時代には庶民から大名まで、使用層は広かったようで、「幕府の家臣や大名家含めて473家が使用した」ものだとか。(資料1,2)大手門口にある大手門、昭和13年(1938)に再建された「桜門」だそうです。「桐二の門」跡に建てられているといいます。(資料3) 大手門に向かうための、内濠に架かかる「桜門橋」から内濠を撮ってみました。大手門に向かって、左側(西)、橋、右側(東)の景色です。 桜門橋から東方向に内濠沿いに歩き、桜門橋を遠望した景色こちらの方向に向かったのは、「好古園」を訪れるためでした。入口の手前には、「姫路城西御屋敷跡庭園」の説明板が建てられています。この辺り元姫路城主の下屋敷があった場所だそうです。「好古堂跡」の石標があります。「好古堂」というのは、江戸時代最後の姫路藩主となった酒井家において、天保13年(1842)に、藩主酒井忠学がこの辺りに藩校を移転拡張したといいます。その藩校の名称が「好古堂」なのです。(資料4)次回は「好古園」探訪のご紹介です。つづく参照資料1) 姫路城主の家紋・家系 :「世界文化遺産『国宝姫路城』」 2) 桐紋 :ウィキペディア 3) 姫路城 大手門 :「K. Yamagishi's 城めぐり」 姫路城 :ウィキペディア 4) 由来とあらまし :「好古園」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺姫路城大天守 保尊修理工事 :「鹿島建設」姫路城 :「鼎&良家栄」 「報」(トピックス)の中に「姫路城」の項目を設け、「姫路城の生い立ち」から、 江戸、明治、昭和、平成の修理について、資料からの要約説明でまとめられていて 大変参考になります。伝統木構造とコンクリート基礎 :「姫路城英語ガイドのひとりごと」 「十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎」の写真が掲載されています。こちらも参考になります。特定非営利活動法人 伝統木構造の会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く(Y2014) -1 歴史博物館、シロトピア記念公園、美術館、姫路城の石垣 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -3 好古園(姫路城西御屋敷跡庭園):入口付近、御屋敷の庭 へ探訪 [探訪] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -4 好古園:流水の平庭、夏木の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -5 好古園:松の庭、花の庭、築山池泉の庭、竹の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -6 中濠の石垣、長壁神社、十二所神社、お菊神社 へ
2017.11.12
コメント(0)

2014年4月20日(日)に「特別展軍師官兵衛」のチケットを入手したので、姫路に出かけました。2014年NHK大河ドラマとの関連で開催された企画だったのでしょう。特別展を観た後、姫路城周辺と市内の一部を探訪しました。その時にまとめていたものを再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて)この時点では、姫路城が保存修理工事の最終段階でした。そういう意味で、現時点から見れば、ビフオー/アフターのビフォーのようなものです。2014年時点の記録としてのこのご紹介と現在の該当場所とを対比して見ていただくと、おもしろいかもしれません。保存修理後の大天守内の見学を含めていずれ再訪してみたいと思っています。JR姫路駅前の神姫バスターミナルから、「城周辺観光ループバス」に乗って、まずは駅前から「博物館前」まで移動です。1回乗車なら大人100円と手頃な料金設定です。冒頭の画像は「博物館前」の景色とループバスの後姿です。 まずは「軍師官兵衛」特別展を観るために、兵庫県立歴史博物館に向かいます。道路から少し奥まったところに建物があります。姫路城との位置関係で言えば、天守閣の北東方向で、内濠と中濠の間になります。玄関の上部壁面に大きく特別展の案内掲示が出ていました。 エントランスホールに設置の姫路城天守閣縮尺模型ここから会場内は撮影禁止でした。展示品でまずおもしろかったのは兜の形状です。黒田長政所用で、お椀を伏せたような形の「合子形兜」、母里友信所用の「桃形半月立兜」、黒田継高所用の「一の谷形兜」です。後者2つは被るとさぞ重たいのでは・・・・、ちょっと虚仮威し的な・・・という印象です。敵からすれば目立ちすぎでは・・・という気がしました。興味深かったのは、「播州三木城地図」、「肥前名護屋城図」といくつかの陣立表や陣取図です。こういう記録が、戦国時代の小説を書くベース情報になるのだな・・・と思いました。国宝の名物刀、あの「圧切長谷部」を観られたことが良かったことの一つです。この刀、どんなのか一度この目で見たかったのです。展覧会図録を購入して帰りました。特別展も終わっているのでこの位でスキップしましょう。 歴史博物館の西側は「シロトピア記念公園」になっています。博物館側からの入口付近。平成元年(1989)3-12月に、姫路市が市制100周年記念として「姫路百祭シロトピア」を開催し、そのときこの場所が「姫路シロトピア博」のメイン会場となり、パビリオン群が立ち並んだといいます。その成功を記念してこの公園が開設されたそうです。(説明板より)歴史博物館を出た後は、勿論姫路城に足を向けてみました。 「博物館前」バス停傍の案内図 この探訪関連部分を切り出してみました。 案内図に記された現在位置から撮った内濠と石垣内濠に沿い南方向に進みます。上掲の地図なら左方向です。姫路城の内濠の石垣と彦根城の内掘の石垣を対比してみるのもおもしろいかもしれません。拙ブログで「彦根城とその周辺」についてシリーズで再録しています。その第1回目をこちらからご覧いただけるとうれしいです。道路の反対側、赤レンガで外装された落ち着いた雰囲気の建物が「姫路市立美術館」です。ここも外観を観るだけで、このときの展覧会は観光優先でスキップせざるを得ませんでした。濠端を進んで行くと、濠はコの字形に折れ曲がっていくのです。ここは搦手になる「喜斎門」のあったところです。(資料1)内濠外から城内に入る虎口の縄張りの結果でしょう。折れ曲がらないと侵入できない仕組みです。門前の枡形がまず攻防戦の場になるのでしょう。今、ここの石垣には門はありません。歩んでいくと、題目「南無妙法蓮華経」の円柱碑が建てられています。いつ頃建てられたものかは不詳です。手許に情報がありません。 近くに、この石碑があります。背景にはまだ修復工事の鉄骨櫓が残っていました。ごく最近、鉄骨の覆屋が解体され、天守閣が久々に美しい姿を現したと報道されていましたので、今やこの写真は「Before」の画像となりますね。来年(2015)の春以降に天守閣の再オープンがなされるようですので、次回は是非とも同じ位置から「After」の画像を撮ってみたいと思っています。濠と石垣の景色を眺めつつ、城内に入っていきます。 南西方向に切り込まれた内濠を備前丸の側から眺めた景色 井戸曲輪から上山里曲輪への隅櫓と石垣あたりを見上げた景色石垣に沿って回り込んで行くと、上山里曲輪の外側、「下山里曲輪」に入ります。 そして、「上山里曲輪」の下段石垣傍に立つことになります。ここに石垣の説明板が置かれていました。 この「上山里下段石垣」は積み方や石材の加工等からみて「16世紀後半の天正8~9年(1580~81)に羽柴秀吉による築城の際に築かれたと考えられています」。そして、秀吉が「地域の事情に精通している黒田官兵衛に普請を命じていることから、現存している羽柴期の石垣は、官兵衛ゆかりの石垣と考えられます」(説明板)とのこと。説明板によれば、姫路城の石垣は5期に区分できるそうです。Ⅰ期 羽柴秀吉改築以後の豊臣時代。野面積み。隅角部の算木積が未発達。転用石多用Ⅱ期 関ヶ原合戦後。池田輝政のによる慶長6年(1601)以降。隅角部が「扇の勾配」にⅢ期 元和4年(1618)頃。本田忠政が西の丸を設けるのに合わせて築いた石垣Ⅳ期 江戸時代の補強・修理に伴う石垣Ⅴ期 明治時代以降の修理石垣上山里下段石垣の端、つまり下山里曲輪の端になりますが、五輪塔と小祠が建てられています。 下山里曲輪から「三の丸」の方に下っていきます。 こんな井戸が途中にあります。なぜか、石垣の傍に蓋のない石棺のような長方形の箱形石がぽつんと置かれています。不思議! 三の丸側から上山里曲輪の方向を見上げた景色姫路城は「白鷺城」とも称される総漆喰の白壁が美しいお城です。だがこの造形美を生み出す白壁も、戦時の防火対策という実用目的を持っていたのです。(資料1)姫路城は明治以降、数回修理が実施されてきています。明治43-44年(1910-11) 明治の修理昭和6年(1931) 豪雨による西ノ丸長局の一部石垣崩落の修理(文部省直営) この1931年に姫路城天守が国宝指定されました。同年、櫓・門・塀も追加指定。「昭和の大修理」昭和10~25年(1935~1950)第1期工事 櫓群や門・土塀の解体修理昭和25~30年(1950~1955)第2期第1次6ヵ年計画 櫓・門・土塀・石垣などの解体修理昭和31年(1956)から本格的に始まる。(第2期第2次の8ヵ年計画、1956-1964) 工事主任・加藤得二、棟梁・和田通夫の両氏の下で実行されたとか。 地上の城郭建造物を全て解体・撤去し、再び基礎から天守を組み立てる大事業そして、平成22年(210)から始まった平成の修理工事なのです。(資料2.3)法隆寺とともに姫路城が日本初の世界文化遺産に登録されたのが平成5年(1993)でした。つづく参照資料1) 『戦国の城』 学研 p114-1192) 「名城ふたたび ようこそ姫路城 ガイドブック」(開館30周年記念・特別展) 兵庫県立歴史博物館作成 同博物館にて入手した資料3) 姫路城 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺姫路城 ホームページInterview 素屋根の中の世界遺産 国宝姫路城が美しく生まれ変わる:「鹿島」姫路城、まばゆく復活 「平成の大修理」終える 2015.3.26 :「日本経済新聞」姫路城 CG復元姫路城 :「Team DigitalDaiku」兵庫県立歴史博物館 ホームページ姫路市立美術館 ホームページ銀箔押一の谷形兜 :「歴・美 戦国時代と美術のブログ」陣立書 :ウィキペディア備 :ウィキペディア大坂冬之陣両軍配布圖 :「飛騨の歴史・再発見!」富士居山~志田峠~関東ふれあいの道(雨乞山~津久井城山):「AYコーナー山ブログ」 「三増合戦場陣立図」を掲載されています。陣立図のイメージがつかめます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -2 天守の庭、三の丸広場、大手門、好古堂跡 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -3 好古園(姫路城西御屋敷跡庭園):入口付近、御屋敷の庭 へ探訪 [探訪] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -4 好古園:流水の平庭、夏木の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -5 好古園:松の庭、花の庭、築山池泉の庭、竹の庭 へ探訪 [再録] 姫路城の周辺を歩く (Y2014) -6 中濠の石垣、長壁神社、十二所神社、お菊神社 へ
2017.11.11
コメント(0)

極楽橋を渡ってから、内堀沿いに二の丸を南東方向に少し行くと、この案内板があります。赤い丸をわかりやすく現在位置に追記しました。その近くにあるのが「青屋門」です。内堀側からしか門を眺めていません。外堀側からの写真をネットで探すとありました。こちらをご覧ください。(資料1) 内側から門に近づくと、右側に石段があります。石段の上から青屋門を見たのが右の画像です。屋根の軒棰が全て漆喰で塗り固められています。武者窓には太い角材が使われているようです。 石垣上から眺めた門の上の櫓。全体が漆喰塗り。櫓に攻撃を受けた場合の防火を兼ねた強化策ということでしょうか。石垣の上から眺めた東側の外堀です。青屋門は大阪城二の丸の北側出入口となる「青屋口」にあります。ここは門の前が外側に張り出した「出枡形(でますがた)」になっていたのです。そこに外堀がめぐらされています。この青屋口は徳川幕府による大坂城改築工事により創建されたそうです。昭和20年(1945)の空襲で大破していたものを、昭和44年(1969)に残材を用いて大阪市が再建したものといいます。「青屋」という名称は、戦国時代この地に大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」があったことに由来すると考えられているようです。(資料1) ここは石垣の上に現在遊歩道が設けられるほどの幅で城壁部分が造られていたということでしょうか。このあたりは外堀と内堀との間が比較的狭いところです。 外堀の石垣上部から二の丸、内堀と本丸石垣を眺めた景色です。 二の丸に戻り、内堀沿いに東に進むと、「大阪城梅林」の石標が立っています。梅林は本丸の東側内堀と東外堀との間にあり、二の丸・三角地の区域に広がっています。咲く梅の花の姿を写真を撮に撮りつつ、花を愛で眺めて散策しました。 梅林に咲く花越しに天守閣が眺められます。 二の丸から眺めた本丸・天守閣の全景 右のこの画像は何の木なのか・・・・。 二の丸のもう一方の端にも「大阪城梅林」の石標が立っています。この梅林の地は、「市正(いちのかみ)曲輪」と呼ばれています。豊臣秀頼の後見人となった片桐東市正且元(ひがしいちのかみかつもと)の屋敷があったところとの伝承からこう呼ばれているそうです。江戸時代には、城を守護する任にあたった役職者の加番小屋(公舎)が置かれていたようです。片桐且元は、かつての賤ヶ岳七本鑓の一人です。豊臣政権の五大老の一人となり、秀頼の後見役となります。豊臣政権と徳川家康との間の外交役的機能を果たしたようですが、そのせいでしょうか、秀頼母子に疎んぜられる形になり、方広寺鐘銘事件の後に大坂城を去ります。大坂冬・夏両陣を通じ徳川方の武将として大坂城攻めに加わわった人物です。最後は徳川方になったのですから、市正曲輪という呼び方が江戸期に残ったとしてもおかしくはない気がします。 雁木坂の途中から眺めた二の丸の景色東側の内堀沿いは、現在は緩やかな長いスロープになっていますが、かつては南から急な下り坂となる長い石段(雁木)の坂道があったそうです。本丸を取り巻く二の丸は南側が高く、北側が低いという地形で、かなりの高低差があります。「雁木坂」の途中から眺めおろした二の丸の一画です。 雁木坂から眺めた天守閣雁木坂を上りきると左折して、本丸・天守閣からは南東方向の端に位置する「玉造口」に向かいます。 最初に目にとまったのが、「南無阿弥陀仏」名号碑と傍にある「蓮如上人碑」です。そして、この説明板が嵌め込まれた石碑も立っています。説明文から次の点が分かります。 1. 1496年に蓮如上人が生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。 2. 坊舎を中心に、周囲に土居と堀をめぐらす「六町の構」(寺内町)が形成された。 3. 1532年の山科本願寺炎上後は、本願寺がこの地に移され、教団の中心となった。 4. 寺内町には2,000軒に及ぶ町屋が立ち並び、堺とならぶ都市生活の地となった。 5. 秀吉が大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した。 6. 豊臣期大坂城の跡に、德川期大坂城が再建された。大坂(石山)本願寺の遺構は未確認でこの辺りと推定されるにとどまるだけです。 名号碑の少し東に、現在は覆屋が建てられて松の根がそこに残るだけなのですが、それが「蓮如上人袈裟懸の松」と伝えられています。すぐそばには、この漢文体の説明板が立っています。 さらにこの2つの説明板も近くに立っています。この切り株は大坂城の経緯を考えると、伝説的な史跡という感じです。これらは、冒頭の地図に紫色の丸を追記したあたりにあります。 青丸のさらに東側が「玉造口定番屋敷跡」です。江戸時代に2名の大名が大坂定番に任命され、そのうちの1大名が玉造口の守衛を主要任務としたそうです。玉造口の内側のこの地に屋敷(公邸)が置かれたというわけです。併せて大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐し、西日本の支配にも携わったといいます。もう1名は京橋口定番です。(説明板より) 現在、玉造口には部分的に石垣が残るだけで、枡形も残っていません。 石垣がなぜか円弧形になった箇所があります。明治時代に大阪城の地を管轄下に置いた陸軍が焼け残った玉造門や枡形を撤去してしまったことによるそうです。もとはここも大手門と同様に、城外側に高麗門、城内側に多聞櫓を備えた櫓門のある枡形構造だったそうです。興味深いのは、説明板の末尾に記載されている「玉造口」の由来です。古墳時代の「玉造部」の名称に由来するそうです。古代に朝廷のために勾玉(まがたま)をはじめとする玉類を作る部民(技術者集団)がこの南方に住んでいたと推定されているのです。(説明板、資料3)玉造口から外に出ると、「南外堀」の東端石垣のところに残る「一番櫓」(重要文化財)が見えます。寛永5年(1628)に創建された二重櫓です。二の丸南面の東端の隅櫓になります。玉造口枡形に関連する防御線として位置づけられているのでしょう。数度改修されていて、昭和39年(1964)に解体修理されたとのことです。(資料4)この後、左折して東方向に非常に幅の広い坂道を下ると、「市民の森」にある噴水池の傍に出ました。これで、大阪城の探訪ご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 大阪城青屋門:「O-TUBE」2) 片桐且元 :「コトバンク」3) 玉造部 :「コトバンク」4) 一番櫓 古建造物 :「大阪城天守閣」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺石山本願寺 :ウィキペディア寺内町 :「コトバンク」寺内町の成立と歴史(宗教自治都市) :「富田林寺内町の探訪」玉造 :ウィキペディア大坂城公園 :「京都・大阪スポットガイド」片桐且元 :ウィキペディア淀殿と片桐且元 :「戦国万華鏡」片桐且元~豊臣家に尽くすも徳川の「罠」にはめられた結末は?:「戦国武将列伝Ω」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -1 外堀・千貫櫓・大手門・空堀・桜門ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -2 本丸・天守閣ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -3 山里丸(刻印石広場・秀頼ら自刃の地碑)、極楽橋 へ
2017.11.10
コメント(0)

「山里口門」跡を出ると、なだらかなスロープの通路です。前方と左方向に「山里丸」が広がっています。左遠方にはクリスタルタワー、ツイン21などが建っている「大阪ビジネスパーク」のビル群が見えます。 この案内図は山里丸の中央あたりに設置されている案内図です。 スロープの南側には本丸の石垣にそって緩やかな石段があります。こちらがかつての通路でしょうか。ここ山里丸(山里曲輪)は天守の北側で一段低い区域になります。秀吉の時代にはこのあたりは山里の鄙びた風情をたたえ、茶室の建つ曲輪だったそうです。そして大阪城落城の際には、秀頼・淀殿らが自刃した場所と伝わる所です。この事は史書や小説で知っていたのですが、ここが江戸時代には山里加番として城を守衛する大名等が生活する場所になっていたということを今回の探訪で初めて知りました。 石段側から本丸石垣の側面を眺めると石垣に雑草が生え広がり、わずかですが古城の趣が加わります。 本丸石垣下から天守閣の北面が少し見えます。 この山里丸の一画は、現在「刻印石広場」として石垣の用材石が展示されています。諸大名は割普請により石垣の築造を分担して競うようにして工事にかかったのです。搬入する用材石に各大名が識別のための記号として独自のマークを石に刻印したのです。この広場には「市内から出土したさまざまな刻印石」を集めているのだそうです。(資料1) こんな風に、様々な刻印があります。矢穴が明瞭な石もあります。石垣好きには興味の尽きない場所かもしれません。「大阪城内ゾーン」の刻印記号説明の銘板を埋め込んだ石も広場に置かれています。山里口門から東に真っ直ぐ進むと、この道標があります。 その先の本丸石垣下の一画に、「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑が建立されています。 石碑の裏面平成9年(1997)に大阪市がこの記念碑を建てたそうです。あくまでこの山里丸のどこかの場所で・・・という程度の位置づけのようです。江戸期大坂城は拡張改築されてしまっているので、それ以上の解明・確定は多分難しいでしょうね。 記念碑より東側の石垣には、石垣に沿って石段が設けられていて、石垣の途中に開口された出入口に繋がっています。これは何なのでしょう? 一説には、大正時代に石垣を穿ち、天守の裏手に出るトンネルが造られたと言います。そうなら明治以降に大阪城跡を陸軍が使用する目的から造られたものでしょうね。(資料2)さらに東に進むと、本丸石垣の北東角に至り、東側の内堀に面する山里丸の石垣上部となります。 内濠が東から北に曲がるところに、かつては「東菱櫓」があったそうです。石垣上から北東方向、内堀の先に見えるのが「東外堀」に繋がる「青屋門」です。 「山里門」跡から出ると、枡形があり右折することになります。「極楽橋」が内堀に架けられています。天守閣の北側で内堀に架かり山里丸と二の丸を結ぶのは、この極楽橋だけです。 なぜ「極楽橋」なのか? 「『極楽』とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている」(説明板より)そうです。 極楽橋の途中で本丸の石垣を撮ったもの 極楽橋を渡って少し南側に進んだところで枡形虎口の方向を撮ったもの。天守閣をズームアップすると、最上階の伏虎の錺金具が煌びやかに見えます。 この後、内堀の外側を南方向に歩きます。つづく参照資料1) 石垣刻印と刻印広場 時の刻印 :「大阪城天守閣」2) 大坂城(摂津国/大阪府) 山里丸 :「日本の城、写真集」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺「金明水」井戸と「銀水」井戸の調査 :「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」大坂城跡山里丸発掘調査現地公開(終了)の案内ページ :「大坂文化財研究所」 発掘状況の写真が載っていますので、参考にはなります。「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュースを聞いて 2010年6月27日 (日) :「今日は何の日? 徒然日記」山里丸石垣の機銃掃射痕 :「O-TUBE」大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -1 外堀・千貫櫓・大手門・空堀・桜門ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -2 本丸・天守閣ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -4 青屋門、大阪城梅林、名号碑と袈裟懸の松、玉造口 へ
2017.11.09
コメント(0)

本丸のエリアに入ると、まず目にとまったのが大きなパネルです。多くの観光客でしたので写真はパーツに分解して撮りました。これはその1枚です。「大坂夏の陣」の屏風絵の写真版が掲示されています。その屏風絵に描かれた「初代大坂城」の箇所に、公開予定の石垣部分が明示されています。 そこに、「豊臣期大坂城」と「德川期大坂城」のイラスト図が掲示されています。二代将軍徳川秀忠が大坂城の規模を2倍にすると命じた結果の城の変貌がよくイメージできます。参考になる図です。大阪市立図書館のホームページに掲載されている「中世・近世の大坂」の解説ページにも載っていますが、ここでも断面図としてみた豊臣期と德川期の大阪城の対比が掲示されています。德川期には、秀吉の大坂城跡をすっかり覆い隠してその上に改築した大阪城を倍の大きさで現出し、徳川の威信を世に物理的に具体的に示したということなのでしょう。久しぶりに大阪城内を訪れ、その後で調べていていくつか再認識したことがあります。(資料1)1.大坂は徳川幕府の直轄地となりました。しかし、改築後の大坂城に3代将軍家光が訪れた後は、幕末の動乱期に14代将軍家茂が入城するまでの240年間、歴代将軍は大坂城を訪れていなかったということ。2.二代目の大天守閣は、竣工後39年目、寛文5年(1665)に落雷を受けて焼失したということ。以来昭和の天守復興までの266年間、大坂城は天守のない城だったということ。江戸時代、天下泰平の世になり、天守閣を再建するメリットは何もないご時世になりました。当然のことかもしれません。因みに、江戸城においては、「江戸城寛永度天守」が1657年の明暦の大火で焼失して以来、天守なしの城になりそのままで今日にいたります。(資料2)3.前回触れていますが、最後の将軍慶喜が大坂城を脱出し江戸に逃げ帰った後、大坂城は再び落城の城となり、城内の建造物がほとんど焼失してしまったということ。そして、明治以降は、大阪城跡が陸軍の軍用地に転換されて行ったということ。観光資源としては天守閣の意義が十分ありますが、城郭史的には德川期大坂城の縄張りを歩き回れるということの方にこそ意味があるのかもしれません。 本丸に入って眺めた天守閣平成の大改修の時に「車椅子に乗ったままで天守閣内に入れるよう身障者用エレベータが小天守台西横に新設された」(資料1)のです。それが天守の左に見える建造物です。これも時代の流れなのでしょう。天守の手前に「華神」の石碑が見えます。これは未生斎一甫150年記念として建立されたものだそうです。未生斎一甫は、関東の幕臣の家に生まれたそうですが、文化4年(1807)ごろに「浪華(大阪)の地に出、斎藤町に居を構えて未生流家元の門標を掲げ」(資料3)た人、つまり華道・未生流の創流者です。今回、このことも副次的に知ったことです。 少し天守に近づいて・・・・ もう少し傍から撮れば、前方の石垣が大きく見えます。当日は結構大勢の外国人観光客が来城していました。各国語が飛びかっています。一番多かったのはやはり中国語のようでした。天守閣の説明板を読み、興味深く思ったのは、「『大阪夏の陣図屏風』に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された」そうです。高さは約54.8mだそうで、姿は豊臣期の天守を参考にしながら、その高さは德川期天守閣に近いというところがおもしろいところです。江戸期の拡大された城郭に天守を復興するには、やはり江戸期天守閣の高さがバランスとして良いということからでしょうか。それはたまたま偶然の産物なのか・・・。「戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40m」と説明板の末尾に記されています。ということは、昭和初期の天守復興の折りには、そんな事実は未詳だったということなのでしょうね。城郭研究にも歴史的変遷があるようです。 天守閣前の石垣傍に、この石と「残念石」という石碑があります。説明によると、天領小豆島(香川県)は江戸期大阪城修復のための用材石調達地の一つとなったようです。そこで割られた石材で、大阪に運ばれることなく島に残置されているものが数多くあるとのこと。放置されたままの「残念な」石をこの場所に運び据えたのだとか。 天守閣の下を時計回りに回り込んで行きます。 天守の西側の石垣 天守閣の北側に回り込みます。天守閣の石垣の角は「算木積み」で、その稜線がシャープです、側面は「打ち込みはぎ」の石垣になっています。(資料4) 「姫門」の虎口を通ると枡形があり、「内堀」が石垣の直下に見え始めます。 枡形の外堀側石垣傍、天守閣の北西方向から眺めた天守全景 天守の最上階をズームアップしてみました。平成の大改修によって、錺金物の改修工事も行われ、燦然とした輝きを取り戻したのです。「大阪城の比類ない装飾的な特徴である伏虎と鯱は一時撤去の上、修理された純金箔を3度押し、その他の錺金物は2度押しされて改めてとりつけられ」たそうです。(資料1)ウィキペディアに鯱と伏虎の展示を撮った写真が掲載されています。こちらもご覧ください。「しゃちほこ」という表現で親しんでいる鯱(しゃち)は、想像上の動物です。魚の姿ですが頭は虎、尾ひれが天空に向かい、背には幾重にも鋭いトゲがついています。『和漢三才図会』には「魚虎」と表記されているそうです。大棟の両端に取り付けられます。火災に対しては水を噴出し消火するという守り神です。余談ですが、わが国には飛鳥時代に鴟尾(しび)の形が中国から伝わったそうです。法隆寺玉虫厨子金銅製鴟尾が有名な事例です。白鳳時代には装飾性が加わるようです。それが中世には魚形に変化していき、鯱の姿に転じたようです。(資料5,6)それでは、「山里丸」に進みましょう。つづく参照資料1) 波乱万城 大阪城歴史絵巻 :「大阪城天守閣」2) なぜいま、江戸城再建なのか :「江戸城再建 江戸城天守を再建する会」3) 未生流の歩み :「未生流」4) 切り込みはぎ、打ち込みはぎ :「大阪城天守閣」5) 鯱 :ウィキペディア6) 鴟尾・鯱 :「瓦歴史資料館」(石野瓦工業株式会社)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺天守台 :「千代田区観光協会」2020年までに江戸城天守閣の再建は可能なのか【コラムニスト木村和久】 2016.1.12 :「日刊SPA!」Story2早わかり!幻の江戸城天守 :「COCODOCO」鴟尾 :「コトバンク」鴟尾とは :「奈良の宿大正楼」魚虎 『和漢三才図会』中之巻 :「近代デジタルライブラリー」 207/787目に記載があります。国宝玉虫厨子 :「世界遺産1300年の歴史 法隆寺のことが全てわかる!」平成の玉虫厨子 :「茶の湯の森」国際シンポジウム報告書 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター pdfファイル 新発見「豊臣期大坂図屏風」の魅力、新発見「豊臣期大阪図屏風」を読む ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -1 外堀・千貫櫓・大手門・空堀・桜門ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -3 山里丸(刻印石広場・秀頼ら自刃の地碑)、極楽橋 へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -4 青屋門、大阪城梅林、名号碑と袈裟懸の松、玉造口 へ
2017.11.09
コメント(0)

2016年2月初旬、新歌舞伎座で観劇した続きに大阪城を訪ねてみました。天守閣には上がらなかったのですが、大坂城内を何十年ぶりにぐるりと散策しました。その時に撮った写真の整理を兼ねてまとめていたものを再録し、ご紹介します。(再録理由は付記にて)2016年4月に、この楽天ブログに移転しています。その後同年の6月に「スポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開」をご紹介しております。そちらも併せてご覧いただけるとうれしいです。それでは始めます。上町筋に面する大手門前から大坂城内に向かいます。青丸を追記したところが起点です。現在地として赤い三角形の記号の場所に、この左の案内図が掲示されています。外堀手前には、「大阪 戦国武将の夢舞台」の幟が風になびいていました。甲冑と真田氏の六文銭紋が描かれています。NHK大河ドラマの影響なのでしょう。大坂夏・冬の陣は、豊臣秀吉が築いた大坂城を舞台とした合戦ですが、現在の大阪城は江戸時代に秀吉が築いた城のところに、新たに大坂城を築造したときの縄張図が基になっているようです。つまり、徳川の大坂城を介して秀吉の時代の大阪城を舞台とした合戦に想いを馳せることが必要になるということでしょう。それはさておき、現在残る大坂城の整備された城趾を探訪してみたいと思います。徳川時代の大坂城は慶応4年(=明治元年、1868)の鳥羽伏見の戦いの直後、最後の将軍徳川慶喜の大坂城脱出後に落城し、城内の建物がほとんど焼失しています。それが昭和3年(1928)に当時の大阪市長・関一(せきはじめ)の天守閣復興提唱が契機となり、当時の最新建築工法であった鉄骨鉄筋コンクリート造りで天守閣が復元されることになりました。そして、昭和6年(1931)11月7日、歴史上で三代目の大阪城天守閣が竣工したのです。第二次世界大戦末期における大阪の空襲においても天守閣は残りました。しかし三代目天守閣も老朽化が進んだため、平成7~9年(1995~1997)に平成の大改修工事が行われました。その結果、再び燦然と輝く天守閣となったのです。(資料1,2)豊臣秀吉の時代も江戸時代も「大坂城」と称されていましたが、明治以降は「大阪」と表記するようになりました。そのため、城名も「大阪城」と表記されます。以降のご紹介では、煩雑さを避けるために引用文の箇所以外は表記の書き分けをやめ、基本的には「大阪城」と表記していきたいと思います。 まずは大阪城外濠を分断し大手門へ通じる大手口通路の石垣です。 こちらは北側の外堀と城の石垣です。「千貫櫓(せんがんやぐら)」が見えています。北側の外堀の視点を少し西側にずらせると、千貫櫓のある城の石垣の先の連なりと外堀外側の石垣が見えます。城の石垣は西に折れ曲り張り出しています。「千貫櫓」の先に丁度、飛行機が飛び過ぎていくところでした。 城内の一隅に設置された「重要文化財 千貫櫓」の説明板ここは大手口を守る隅櫓で櫓の西側と南側が堀に面しています。大手門に向かう敵を側面から攻撃するための櫓です。これは元和6年(1620)小堀遠州の設計で造営された櫓といいます。その名称の由来は、説明板の最後の方に記されています。 大手門への坂道から南側の外堀の景色 「大手門」をくぐります。大手門(=追手門)は大阪城の正門。高麗門様式で寛永5年(1628)の創建です。天明3年(1783)の雷火の折りに焼け残り、幕末の嘉永元年(1848)に屋根が修復されたそうです。1956年に解体修理されています。(資料3、以下適宜参照し付記省略) 大手門を入った所は、枡形になっています。直進はできません。左折したところに、「多聞櫓」(重要文化財)が強固な防御線になっています。現在多聞櫓が残るのはここだけです。総高14.7m。1848年の再建によるもの。大手門と同時期に解体修理されています。「多聞櫓の名称の起こりは、大和国多聞城において松永久秀が城門を固める石塁の上にこの様式の櫓を創始したことによると伝えられている」(資料3)のです。この枡形口での圧巻は、大手門をくぐってきた正面に巨石が使われていることです。「大手見付石(おおてみつけいし)」と称されています。 この説明板が設置されています。 多聞櫓をくぐると、「二の丸」に入ります。二の丸から眺めた多聞櫓。ここの石も巨石の部類です。二の丸にある説明板から切り出しだ部分拡大図です。冒頭の案内図とは方向を変えて描かれていますのでご注意ください。 二の丸の東側には空堀があり、本丸の石垣が目の前に聳えています。部分案内図に黄色の丸印を追記した辺りから、北西方向の石垣の眺めです。北東寄りの眺めで、白い塀から北側が西の丸で「大阪城西の丸庭園」となっています。訪れたのが月曜日だったので、あいにく閉園日でした。 東方向の空堀で、正面に「桜門」への通路の石垣が見えます。二の丸に置かれた石垣の石。石を切り出す際の「矢穴」がミシン目のように並んでいます。 南仕切門跡・太鼓櫓跡本丸に入るには、上掲の桜門への通路に向かうわけですが、この石垣のところで、二の丸が西と東に仕切られていて「南仕切門」があったそうです。そして門の西側石垣の上に「太鼓櫓」と呼ばれる二層の櫓があったのです。寛永5年(1628)の徳川幕府による大阪城再築工事のときに創建されたと考えられています。明治維新の落城、大火で焼失したそうです。 六番櫓 南外堀に面した二重の隅櫓です。ここも寛永5年の創建です。昭和41年(1966)に解体修理が行われています。東側玉造口枡形の近くからこちらの西側大手口枡形の近くまでに、7箇所の隅櫓が設けられていたそうですが、現存するのは一番櫓とこの六番櫓だけになったといいます。1・2階とも天井が非常に高く作られていることと、「石落とし」や隠し銃眼などの軍備が施されているようです。 本丸の石垣越しに「天守閣」が見え始めます。 二の丸の東側の曲輪から眺めた「桜門」の全景 桜門に向かう坂道となった通路にこの石が置かれています。意図は不明。上下の画像は、この坂道からみた西側と東側の空堀と石垣の景色です。 桜門桜門の直前の場所で東側の石垣と空堀の景色。石垣が急傾斜である様がよくわかります。空堀を越えてこの石垣をよじ登るのは至難の技でしょう。本丸内からは防御としての攻撃が激しく行われるのですから・・・・・。 桜門は本丸の正面に位置します。この名称は豊臣秀吉の時代からの継承で、当時の二の丸に「桜の馬場」と呼ばれる場所があり、見事な桜並木があったことに由来する名称だそうです。 桜門の両側に続く白壁の土塀には、大手門と同様に、内側に岩岐(がんぎ=石段)があります。白壁と土塀下の笠石の両方に銃眼が穿たれています。デジカメのレンズ目線で覗くとこんな感じです。 桜門の内側には西側に「銀明水井戸の井筒」があります。本来は、本丸御殿の台所の裏手に位置していた井戸だったとか。本丸には5つの井戸が設けられていたようです。ここにあるのは、昭和初期の情勢・事情によりその井戸の井筒と周囲の敷石が現在地に移されたことによるのだとか。変な位置に井戸があると感じた理由が説明板を読んで理解できました。 桜門を入ると、ここも枡形の縄張りです。正面には石垣が設けられ本丸・天守閣への防御線となっています。ここに大阪城内No.1の「蛸石」と呼ばれる巨石があります。その左には。No.3の「振袖石」と称される巨石が並んでいます。この巨石の上に多聞櫓が建てられていたそうです。「蛸石という名は、 石の表面左端に酸化第二鉄による茶色い蛸の頭形のシミがあることから名付けられたものかと考えられている。」(資料3)余談ですが歴史年表を読むと、上町台地の北端にあたるこの地の変遷が浮かび上がります。(資料1,4)室町時代・明応年間の1496年 浄土真宗中興の祖蓮如上人がこの地に石山御坊を建立室町時代末・元亀元年(1570)9月 石山本願寺と信長の間で石山合戦が始まる安土桃山時代・天正8年(1580)3月 顕如上人と信長の和睦で終結します。 1582年6月 本能寺の変 1583年4月 賤ヶ岳の戦 天正11年(1583)6月 豊臣秀吉、大阪城入城 「秀吉の大坂城」は1583年から3年を要して完成。オランダ人が当時の城を描写。江戸時代 慶長19年(1614)10月 大坂冬の陣 元和元年(1615) 4月 大坂夏の陣 (豊臣氏滅亡) 元和 5年(1619) 大坂が幕府の直轄領となる 元和 6年(1620) 徳川秀忠が大坂城の改築工事を起こす。天下普請の始まり。 普請総奉行に藤堂高虎。3期に渡る工事となる(寛永5年が第3期工事)。 3代将軍家光の時代に改築が完成。この改築において秀忠は「石垣を旧城の2倍に、堀の深さも2倍に」するよう強調したとか。(資料1)改築工事は幕府の命を受けた諸大名が分担する徹底した割普請で相互に競わしたようです。割普請方式は秀吉が先例で行っていることですが。大坂城はこの改築で様変わりしたことでしょう。しかし、大阪の人々にとっては昔も今も太閤秀吉の大坂城という感覚があるのではないかな、という気がします。私自身も、大阪城は秀吉が造ったという感覚をずっと持っているだけでした。史実に触れて徳川の大坂城ということを併せ考えるようになったのです。 桜門枡形を右折して、いよいよ本丸の中心部に向かいます。つづく参照資料1) 波乱万城 大阪城歴史絵巻 :「大阪城天守閣」2) 大坂城 :ウィキペディア3) 時の刻印 大阪城史跡めぐり :「大阪城天守閣」4) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺矢穴-Ⅰ :「北畑都市設計」(3)矢穴を彫る 富山城の割石技術 :「『富山城研究』コーナー」石山本願寺 :「コトバンク」石山本願寺 :ウィキペディア信長はなぜ石山本願寺を攻め続けたのか?― 地形で解く日本史の謎 2014.2.7 竹村公太郎氏 :「PHP Onloine 衆知」石山合戦 :ウィキペディア中世・近世の大坂 :「大阪市立図書館」江戸時代の大坂 :「築山 桂」江戸時代の大坂 小澤紀夫氏 :「るいネット」世界一の分業制 秀吉の知恵 脈々 2013.5.15 :「YOMIURI ONLINE 関西発」割普請 :「ちっご(筑後)川便り」大阪 :ウィキペディア真田氏の家紋 :「真田氏の館 三代録」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -2 本丸・天守閣ほか へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -3 山里丸(刻印石広場・秀頼ら自刃の地碑)、極楽橋 へスポット探訪 [再録] 大阪城内細見 -4 青屋門、大阪城梅林、名号碑と袈裟懸の松、玉造口 へスポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -1 大手門・市多聞跡・多聞櫓 へスポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -2 千貫櫓・西の丸庭園・焔硝蔵ほか へスポット探訪 大阪城 櫓・蔵の内部特別公開 -3 石山本願寺推定地・蛸石・金蔵・本丸の石垣からの眺望ほか へスポット探訪 大手町(大阪城前) 豊臣期大坂城跡・舍密局跡・難波宮跡 へ
2017.11.08
コメント(0)

緑ヶ丘公園からまず西方向にある「瑞ヶ池公園」に向かいます。この道標が、次の池の左側、道路が交差する角に立っています。この池が「瑞ヶ池(ずがいけ)」です。周りが金網で囲われていて、道路沿いに歩きながら眺めると方形の感じに見えるかなり大きな池です。池の周囲が1.6kmのトリムランニングコースになっているそうで、公園の広さは19.3ヘクタールだとか。(資料1)かつては「摂津の国小池」として農耕のための池だったようです。それが昭和45年(1970)5月に水の公園として整備され現在は伊丹市の上水の水源として活用されている貯水池になっているのです。(資料2)池の左側を右折して回り込んで行きます。 少し前進したところで、彫刻の置かれた花園があり憩いの場所が広がっています。この彫刻像は公園の完成記念碑なのです。 「日米修好の桜」というのが植樹されています。伊丹産の桜がワシントンに植樹され、今度はその桜の苗木が里帰り桜として2003年に日本に贈られたのだと言います。この公園内には、「オオシマザクラ、ヤマザクラ、シダレザクラ、カンヒザクラなど10種類600本のサクラがあります。」(資料3) 花が咲きそっていると気持ちがなごみます。そして、「昆陽池公園」が1km余り先にあるのです。ウォーキングには最適のエリアです。この公園は、大きな昆陽(こや)池を中心にしてその周辺が散策路を配した公園になっています。おもしろいのは、昆陽池の中に、日本列島の形が作られているようなのです。もともと、この昆陽池は天平3年(731)に行基の指導により農業用のため池として作られたのだとか(天平5年/733年、行基65歳の時という説もあります)。昭和43年(1968)に伊丹市が一部公園し、その後段階的に拡張してきたそうです。農林水産省のため池百選に選定されています。現在の公園は、広さ27.8ヘクタール(そのうち自然池12.5ヘクタール、貯水池4.5ヘクタール)だとか。(資料4,5) 公園に入り、小川の流れる傍の小径を進んで行くと、「伊丹市昆虫館」があり、公園マップの案内板があります。昆虫館を横目に見ながら「ふるさと小径」を歩んでいくと、この公園で見られる野鳥の説明板などもあり、バードウォッチングの趣味人には楽しめる公園。関西屈指の渡り鳥の飛来地だそうです。さらに、その先には慈円(1155~1225)の歌碑があります。 ゑにかきて今唐土(もろこし)の人に見せむ 霞わたれる昆陽の松原山本紅雲筆「拾玉集」より写されたもののようです。 昆陽池内の日本列島の形になった島々らしきものを見られる展望箇所があります。しかし、その形は上空からみないと???です。ここでもまた蒼空を横切っていく飛行機を眺めました。このあたりも障害物がないので、上空を行く飛行機を撮るには良い場所になりそうです。飛行機の機内から、この池の日本列島が見えるかもしれません。 このスポットの近くに、「夏目甕麿の歌碑」も目に止まりました。自筆写本「七月の記」よりというもの。 遠つあふみ 入江の月の おもかけも 思ひそ出る 昆陽の大池 夏目甕麿という人をこの碑で初めて知ったのですが、江戸時代後期の国学者。「遠江浜名郡白須賀(付記:現・湖西市)の名主で酒造業を営む家に生まれた」そうで、本居宣長の門人にもなった人。 また様々な彫刻が置かれたエリアがあります。この公園は多目的に楽しめそうです。 さらに池に沿った小径を歩むと、公園内の展望が広々と開放的になります。大きく池を見渡せ、近くには大きな公園案内板が設置されています。夏目甕麿は地名の語学的研究や近畿の山稜研究を行ったそうです。この各地を転々とし、昆陽にも住み、1822年、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたという逸話が残るようです。享年50歳。(資料6)昆陽池についての説明板も別にあり、池中の日本列島を上空から撮った写真も案内板に載せてあります。誰がこんなアイデアを思いついたのでしょうか。この後はJR伊丹駅を目指します。その駅前にあるのが「有岡城跡」。今回のウォーキング最後の立ち寄りスポットです。途中、こんな彫刻が市中で目にとまりました。膝を抱えて座り込む二人の少女と一匹の犬、何を眺めているのでしょう・・・・。こんな建物も。「旧岡田家酒蔵」の表札が掛けてありました。平成4年(1992)に国の重要文化財に指定されています。 店舗・釜屋・酒蔵からなる建物。店舗は江戸時代・延宝2年(1674)の建築で兵庫県最古の町家であり、酒蔵は現存し年代が判明するものとしては日本最古なのだそうです。「江戸時代の伊丹の酒造家松屋与兵衛が建て、岡田家の所有となったのは明治33年。・・・解体修理を経て平成13年(2001)6月24日より一般公開」(資料7)に至っています。 史跡 有岡城跡 石段を上がったところに、説明板があります。発掘調査が行われ、ここを昭和58年度(1983)から始まり平成5年度に完了した史跡公園整備により現在の姿になったのです。この城は南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城です。天正2年(1574)に当時織田信長の武将だった荒木村重が伊丹氏を破り入城し、「有岡城」と改名します。そして、「総構」という城下町の地域全域を囲う巨大な土塁と堀を築いたのです。その総構は東端に本曲輪(本丸)があり、西に侍町が囲み、その西に町屋が広がり、北(岸の砦)と南(ひよどり塚砦)に砦を設けるという形です。その全周囲を、堀の深さ3~7m・幅7~18m、土塁の高さ3~5mで囲んでいたといいます。そして、危急時には本曲輪が領民の避難所にもなり、城籠りができるように造ったとされています。(資料8,9)現在、JR伊丹駅のすぐ前に残る城跡は、当時の本丸の10分の1位の規模にすぎないようです。明治26年に鉄道が開設されるにあたり、城跡の東側が削り取られたのです。昭和50年(1975)より発掘調査が行われ、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになったといいます。 石段を上がって行くと、左方向に見えるのが礎石と井戸の跡です。 右方向は本曲輪跡の広場です。 右方向に真っ直ぐに行くと、そこが現存する有岡城跡の石垣だと分かりました。その石垣をよく見ると、石積みの中には石塔の基壇石だったものも確認できます。発掘調査により出土した荒木村重時代の石垣を復元されたもののようです。 石垣側から眺めた礎石・井戸の跡がある方向 側面に土塁跡の表示があります。この本曲輪跡には、あらきたしが村重につかわした歌と荒木村重が返した歌の二首を一石に刻んだ歌碑が建てられています。 霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくづに あらきたし 思ひきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは 荒木村重「たし」は「ダシ」と読むそうです。この歌は『信長公記』巻十二の「伊丹の城にこれある年寄ども、妻子兄弟置き捨て退出の事」の条に記載された二人が歌のやりとりをしたものです。(資料10)織田信長の命令で塚口郷(丹羽長秀)をはじめ12ヶ所以上に有岡城に対する付城を築かせ、完全包囲作戦を実行している状況の中で、村重が尼崎城に夜陰にまぎれて脱出したのです。興味深いのは、この見出しが事実なら、完全包囲網が敷かれた状況の中で、なおかつ有岡城と尼崎城で歌の交換をするくらいの人の行き来が行われていたということです。『信長公記』にはその続きに、次の歌も記録しています。あこ → たし ふたり行(ゆく)なにかくるしきのりの道かぜはふくともねさへたへずばお千代 → 村重 此(この)ほどの思ひし花はちり行(ゆき)て形見になるぞ君が面(おも)かげ村重 → お千代 百年(ものとせ)に思ひし事は夢なれやまた後(のち)の代(よ)の又後の世は開城された伊丹城(有岡城)には、織田信澄が入城します。荒木村重が尼崎・花隅両城の開城説得に向かった荒木久左衛門の説得に応じません。そのため、村重の正室をはじめ一族37人は京に護送され、六条河原で斬殺されるに至ります。この洛中引き回しの上での処刑の状況が上掲書に記載されています。その前に、「たし歌あまた読み置き候」として、他の一族の人々の歌を併せて記載する冒頭に4首を記録しているのです。(資料10) きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりとはなる 残しおくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり 木末よりあだにちりし桜花さかりもなくてあらしこそふけ みがくべき心の月のくもらねばひかりとともににしへこそ行(ゆけ) 懐古園の石碑が建てられていて、その碑文の意訳説明板もその傍に立っています。この城跡の土地は何時の頃からか竹内という人の所有となり、その人が亡くなった後、未亡人の方が昔を偲ばれた思いを太田北山が書いた碑文だそうです。太田北山とは、小西酒造の小西新右衞門氏が私塾として「弘深館」を造ったときに招かれた初代の先生だとか。(資料11) 道路を隔てた反対側にも、有岡城の主郭部についての説明板が設置されています。こちらにも歌碑があります。 春秋の花と月とをときならて 見はてぬ夢の暁はうし 伊丹之親(ゆきちか) 有岡城とは直接関係がありませんが、伊丹駅前に「フランドルの鐘」の塔が建てられています。伊丹市と姉妹都市であるベルギー王国のハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られた「カリヨン」だそうです。国際姉妹都市提携5周年と伊丹市制施行50周年を記念して、1990年に寄贈されました。「フランドルの鐘」は一般公募で決定した記念塔の愛称だとか。「カリヨン(Carillon)」はラテン語で「4個で1組」という言葉を語源とする「組鐘」のことで、「教会の塔や鐘楼に設置された複数の鐘を巨大なシリンダー式のドラムで自動演奏したり、奏者が鍵盤とペダルで演奏する楽器」。この記念塔のカリヨンは「大小43個の鐘を手動バトン(鍵盤)により4オクターブの音色を奏でることができます。」(資料12)大阪空港駅前を起点としたウォーキングは伊丹駅を終点として終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 瑞ヶ池公園 :「伊丹市」2) 公園情報第3回 瑞ヶ池公園 :「いたみん」3) 伊丹瑞ケ池公園 花見特集 :「いつもNAVI」4) 昆陽池公園 :「伊丹市」5) 昆陽池公園 :ウィキペディア6) 夏目甕麿 :「本居宣長記念館」7) 旧岡田家住宅・酒蔵 :「伊丹市」8) 「村重一筋の郷土史研究家による『村重Q&A』」 当日、有岡城跡でボランティア・ガイドさんからいただいた資料集まとめ9) 有岡城跡 :「伊丹市」10)『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p275、p285-28611) 第十七章 伊丹の史跡と文化財 村上敏展氏 :「伊丹歴史探訪」(小西酒造)12)フランドルの鐘(カリヨン) :「伊丹市」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺2012年(兵庫県:伊丹市)瑞ヶ池公園の桜と「米国より贈られた里帰り桜」 :YouTub昆陽池公園パンフレット 伊丹市第三章 行基と昆陽の大池 ~行基の活動と足跡~ 藤井直正氏 :「小西酒造」(その60)課題「いけ(池)」ー文学苑庭「昆陽池公園」ー :「磯城島綜藝堂」昆陽池(こやいけ)公園にある文学碑を訪ねて… 伊丹<<再>>発見・・・その4夏目甕麿 :ウィキペディア 甕麿址・諸平生誕地 :「人力」荒木村重 :ウィキペディア第八章 近世の伊丹の姿 ~発掘でみる有岡城~ 川口宏海氏 :「伊丹歴史探訪」(小西酒造株式会社) 寛文9年(1669) 伊丹郷町絵図(八木 1982年に加筆)30年目の有岡城跡(国指定史跡) :「伊丹の歴史グラビア」 第四章 伊丹城の城主 伊丹氏 ~伊丹氏の足跡~ 伊丹 茂氏 :「伊丹歴史探訪」(小西酒造株式会社)加藤伊丹氏系図carillon From Wikipedia, the free encyclopediaWorld Carillon Federation ホームページ Travelling Carillonsは、可搬式カリヨンの実例がいろいろ掲載されるページ有岡城の戦い :ウィキペディア【特集】荒木村重と有岡城 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -3 伊丹市内へ(猪名野神社・白洲屋敷跡・緑ヶ丘公園) へ
2017.11.07
コメント(2)

「伊丹スカイパーク」の北エントランスを出たところで、大阪国際空港・南東方向側を東から西に半周歩いてきたことになります。飛行機が離発着するコース線上で一番接近できる絶景スポットから、メイン滑走路全体をを側面から眺められる伊丹スカイパークへと周り、2つの視点からの離発着を堪能できました。そこで空港を離れて、伊丹市内の史跡スポットをいくつか訪れて、JR伊丹駅をウォーキングの終着点とするコースとなりました。 冒頭の画像にある通り、北エントランスからまずは猪名川の堤防に出て、神津大橋からその北に位置する興津橋を目指します。右の写真は興津橋上から見た神津大橋です。興津橋から北方向の景色を遠望しながら、一旦福知山線の高架下をくぐり、 駄六川に架かる雲正橋を渡ります。橋のところの標識によると、この橋からJR伊丹駅は300mの距離のようです。ウォーキングとしてはこの橋から逆に北方向をめざしぐるりと回り込んでから終着点として伊丹駅にむかうことになります。この近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。「伊丹1」交差点を横断して、宮ノ前地区に入ります。金剛院の門前、市立図書館の前を北に歩むと、猪名野神社です。金剛院の門柱には「宇多天皇勅願所 真言宗御室派」という標札が片側に掛けてあります。山号は「有應山」です。 「猪名野神社」の石造鳥居の傍に、「御由緒略記」が掲げてあります。古くは野ノ宮、天王ノ宮と呼ばれていたそうですが、明治2年の神仏分離令の発布された折に、猪名野神社と改称されたようです。伊丹郷町の氏神として祀られてきた神社。 鳥居の前の狛犬はぎょろっとした目に特徴がある感じです。前懸がかけてあるのもおもしろい。こういうのはあまりみかけません。鳥居をくぐり真っ直ぐに進むと、本殿。 唐破風屋根の向拝の木鼻や蟇股はシンプルなデザインです。屋根の尖端隅に獅子があたかも鯱のような姿勢で置かれているのも興味深いところです。 兎毛通の中心に菊の紋が彫られています。 目に入った範囲の境内社はすべて石造鳥居が建立されているのも立派です。上の画像の左から順に、天満神社、厳島神社、猿田彦神社です。(資料1) 愛宕神社そして一隅に「鬼貫(おにつら)句碑」が建立されていました。 鳥ハ末 口もほとけず 初桜この句碑は嘉永7年(1854)に建立されたものだそうです。俳人・鬼貫の句碑は伊丹市内に14ヶ所、他地域に4ヶ所、少なくとも20ヶ所は建立されている模様です。(資料2)鬼貫の名前は知っていましたが、それほど意識したことがありません。この句碑をみて少し調べてみました。江戸時代中期の俳諧師で、1661年、摂津国川辺郡伊丹郷で酒造家・上島宗次(屋号・油屋)の三男に生まれ、1738年、大坂鰻谷で死去、享年78歳。享保3年(1718年)『獨言(ひとりごと)』を刊行し、その中で「まことの外に俳諧なし」と述べるに至ったと言います。「東の芭蕉、西の鬼貫」と称されたそうです。(資料3,4)資料併読で課題が残りました。一書には、「・・・8歳のころから俳句を始めた。西山宗因門で誹諧を学んだが、談林誹諧に飽き足らず、25歳の時『まことの外に誹諧なし』と悟って、伊丹風を樹立した」(資料6)と記されています。この記述と上掲の刊行本の記載事実を対比すると、鬼貫が「まことの外に俳諧なし」という考えを確立したのはいつ頃なのか? という疑問です。「13歳で松江維舟(いしゅう)の門に入り、16歳ごろには芭蕉にも影響を与えた西山宗因を尊敬するようになります。」(資料4)という記述から、松江維舟に入門したことが西山宗因門につながることなのだろうと理解しました。鬼貫が維舟門につらなる池田宗旦の俳諧塾・也雲軒で学び(資料4,5)、「鬼貫はしだいに遊戯的・享楽的な伊丹風俳諧に疑問を抱き、25歳ごろ、大坂に出ます。」(資料4)という説明があります。この点を考えると、「伊丹風を樹立」という表現は複数の使い方が実際にされているということでしょうか。文学研究的視点ではどういう解釈が一般的なのかという関心です。別の視点で興味深いのは、「明治36年、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が雑誌『ホトトギス』で、募集句の題を『鬼貫忌』として以後、秋の季語として定まりました。」(資料4)とあります。上掲歳時記には「鬼貫忌」を秋の季語として掲載しています。そこから上記の疑問が課題となったのです。一方、手許にある『改訂版 ホトトギス新歳時記』を繙くと、「鬼貫忌」は秋の季語に取り上げられていないのです。(資料7)これもおもしろいと感じました。現在、芭蕉ほどには鬼貫の名前すら目にする機会が少ないのはなぜか? これも新たな関心事に加わりました。鬼面の句をいくつかの情報源から集めてみました。見つけた順番での羅列です。 にょっぽりと秋の空なる富士の山 古寺に皮むく椶欄の寒け也 行水(ぎょうずい)のすてところなし虫の声 月なくて昼ハ霞むやこやの池 古城(ふるじろ)や茨くろなる蟋蟀(きりぎりす) 面白さ急には見えぬ 薄(すすき)かな 後の月入りて貌よし星の空 此塚に柳なくとも あわれ也 賃とらで象も田をかえす動き哉 春と夏と手さへ行きかふ更衣(ころもがえ) なでしこよ河原に石のやけるまで大きく脇道にそれました。軌道修正します。境内の裏手から「伊丹緑道」の道標が立つ道を、まずは伊丹坂の方向に向かいます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 その途中に歌碑や「白洲屋敷跡」という説明碑が目に止まりました。この説明碑の上あたりが、白洲次郎とゆかりのある地だったのです。白洲次郎は随筆家として有名な白洲正子の夫です。日本の実業家であり、吉田茂の側近であるとともに、様々な分野で活躍した人物。現在の春日丘4丁目あたりに、白洲次郎の父、白洲文平が4万坪の敷地に博物館付きの豪華な屋敷をたてていたところだったのです。白洲次郎もここに住んでいたことがあるそうで、妻正子との婚姻届は昭和5年に伊丹市で提出しているのだとか。 緑道を進む一方、見上げると蒼空を飛行機が横切っていきます。 「西国街道」の道標 六地蔵尊石像緑道の道標をみつつ、緑ヶ丘公園をめざします。 小道を進み、171号線を横断し、 「天満神社」の傍を通過して、 かなり大きな池の畔に至りました。この近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この池には、中国風の東屋が池の中に張り出して建てられいます。ちょっとした異国情緒に溢れる一隅です。近くまで行ってみました。 「賞月亭」という扁額が掛けられています。 この池の側に、「伊丹市公館 鴻臚館」という説明板の建てられた建物が一般公開されています。ウォーキング主体のため、今回はここも通過地点でした。池沿いに歩いて行くと、この案内板に行きつきました。現在地という白字抜きの赤い長方形の場所に立っています。裏手からこの公園の表入口に至ったのです。この案内板の左上に2つの建物の概説が記されています。亭(ちん)と記された「賞月亭」は伊丹市が友好都市締結をしている中国の佛山市から5周年記念の折に寄贈されたもの(平成2年/1990年)だとか。佛山市の中山公園内の「迎春亭」がモデルになった亭なのだそうです。なるほど・・・中国風ではなく、中国建築そのものでした。一方、「鴻臚館」は平安時代の外国の賓客接待施設として京都や太宰府に設置された「鴻臚館」の名前を使い、公館として建てられたものだそうです。「日本建築の伝統・技術の保存、継承のため、市内在住の大工、左官、建具師など技能功労者として市表彰された人たちの技術を結集して建設されました」(説明板より)のだとか。機会があれば拝見したいものです。 この入口傍には、「緑ヶ丘神社」という小祠と、「緑ヶ丘」を上の五に冠した句碑と思える碑があります。説明は付されていません。私には下部に記された文字を判読しかねています。ネット検索でこれも調べてみましたが、不詳。ここにも課題が残りました。そして、駄六川に架かる橋を渡って、「昆陽池」に向かいます。このあたりは駄六川の上流にあたるのでした。つづく参照資料1) 2 猪名野神社(宮ノ前) 伊丹の神社 :「我が町伊丹.jp」 2) 俳人・鬼貫 [5] 猪名野神社境内 句碑 :「我が町伊丹.jp」 3) 上島鬼貫 :ウィキペディア4) 俳人・上島鬼貫 :「伊丹市」5) 鬼貫の俳句短冊 :「池田市」6)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所 p8157) 『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 2002年1月1日 改訂3刷【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺俳聖・鬼貫 -生誕350年 :「伊丹の歴史グラビア」鬼貫の句碑 :「大阪再発見!」第六章 鬼貫と伊丹風俳諧 ~伊丹の文芸活動~ 瀬川照子氏 :「伊丹歴史探訪」鬼貫 句碑めぐり ツアー緑ヶ丘公園の梅 :「伊丹市」白洲文平 :ウィキペディア白洲次郎 :ウィキペディア白洲正子 :ウィキペディア白洲次郎 プリンシプルのない日本 :「松岡正剛の千夜千冊」白洲次郎と伊丹 :「伊丹再発見シリーズ」仏山市 :ウィキペディア佛山市の観光情報 :「楽旅中国」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -4 伊丹市内へ(瑞ヶ池公園・昆陽池公園・有岡城跡)へ
2017.11.07
コメント(0)

「こんなエリアがあったとは!」という驚きと童心に返る思いが湧き出た場所です。次々に離陸していく飛行機、その合間に着陸してくる飛行機・・・・・蒼空の気持ちよい下で、それらを眺める子供達は、将来あれを自分で飛ばしてみたい、操縦桿を握りたい・・・「パイロット」という職種を教えられ、「僕、パイロットになるよ」という夢を育むのではないでしょうか。冒頭の画像は、当日(2015.10.18)入手した「伊丹市スカイパーク」のリーフレットです。さて、前回の続きから始めます。千里川の橋を渡って、猪名川に並行する道路を進みます。空港敷地側には、原田下水処理場やクリーンランドなど、公共施設などがあります。 この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。途中で目に止まったのがこの建物名称「田能資料館」です。後ほど調べて見ると、この資料館のあるところは尼崎市になり、「国史跡田能遺跡の上立地しており、田能遺跡から出土した遺物を収蔵・展示して」いるところでした。(資料1) ここが「8翼の丘」への入口です。この南方向には「9南エントランス」があり、南駐車場があります。 翼の丘の休憩所前には、「ウィングデッキ」があり、その前方の一段低いところが「遊具広場」になっているようです。休憩所の前の通路から眺めると、メイン滑走路への待機中のJAL機が目に飛び込んできます。先ほどの滑走路南東端の絶景スポットとはまた違う角度からの姿が見えて、楽しいです。 離陸していく飛行機を眺めつつ、「7休憩の丘」「6星空の丘」と進み、「5中央エントランス」に至ります。 「星空の丘」の斜面にある坂道は、「スターライトパス(星空の小道)」と名づけられています。「夜になると美しく浮かび上がる幻想的な園路です。130mに及ぶその中にはLEDで表現した8つの星座が隠れいます。」(資料2) ここでちょうどお昼の食事および飛行機の離着陸をゆっくりと眺める休憩タイムとなりました。中央エントランスからの空港の眺めはこんな感じ・・・・。 離着陸する飛行機 「スカイテラス(展望施設)」から眺めた景色噴水を中央にして、南北に「だんだんテラス(石階段)」になっています。スカイパークの東に南北にメイン滑走路が見え、その向こうに補助滑走路と管制塔を始め空港の諸施設が水平に広がっているのが遠望できます。 着陸する飛行機 管制塔の周辺の眺め この花は「ブッドレア」(フジウツキ科)空港川の上に架かる「スカイウォーク(人道橋)」をわたり、「4つつじの丘」「3冒険の丘」「2大空の丘」を経由して、飛行機の離着陸を眺めつつ「1北エントランス」へ。つつじの丘のエリアは中央駐車場が設営されていて、斜面がつつじの丘になっています。花の咲く季節は色鮮やかでしょう。冒険の丘には「キューブアドベンチャー(立体迷路)」や「ローラーすべりだい」があり、子供にとっての遊び天国です。大空の丘は多目的広場として活用されているようです。 北エントランスの「パークセンター」この「伊丹スカイパーク」のレイアウト案内掲示が建物の前にあります。建物の背後が「北駐車場」になっています。このパークセンターの前を今回は通過しただけですが、建物内には、リーフレットによると「岩屋遺跡と神津の歴史展示」や「航空管制レーダー展示」があるようです。 こんな記念碑が北エントランスの入口近くに建てられています。エントランスの目の前が「伊丹スカイパーク・上須古」バス停です。つづく参照資料1) 田能資料館 :「尼崎市」2) 「伊丹スカイパーク」当日入手のリーフレット【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺田能遺跡 :「尼崎市」田能遺跡から出土した遺物 :「尼崎市」田能資料館 弥生時代・田能遺跡の出土品 :「邪馬台国大研究」岩屋遺跡の時代と周辺の遺跡岩屋遺跡の整備事業 :「伊丹市」管制塔 :ウィキペディアNo.062 航空管制塔で飛び交う隠語 :「That's 学」(雑学見聞録)世界の管制塔 :「Travel and Collection」ブッドレア :「新・花と緑の詳しい図鑑」ブッドレアの育て方 :「eグリーンコミュニケーション」(住友化学園芸) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -3 伊丹市内へ(猪名野神社・白洲屋敷跡・緑ヶ丘公園) へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -4 伊丹市内へ(瑞ヶ池公園・昆陽池公園・有岡城跡)へ
2017.11.07
コメント(0)

回数はそれほど多くはありませんが、大阪国際空港を何度か利用しています。しかし、それは飛行機に搭乗或いは着陸後のための通過施設という目で建物を眺めて利用するだけでした。今回はこの空港の施設内に入ることなく、空港の周辺をぐるりと歩いてみようというウォーキング同好会の企画で、2015年10月18日(土)に歩きました。冒頭の画像からもおわかりいただけるように、快晴の飛行場見物日和でした。このときにまとめたものを、再掲してご紹介します。(再録理由は付記にて)このウォーキングをしてみて、初めて大阪国際空港が3つの都市にまたがっているのを認識した次第です。私は通称の「伊丹空港」で聞き慣れていますので、空港がすっぽり伊丹市内にあると思っていたのです。空港敷地の大部分は伊丹市なのですが、北東区域の一部が池田市、東部から南東部にまたがるかなりの区域が豊中市になるのですね。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。当日は、大阪モノレールの大阪空港駅を出たところ、空港連絡橋口に9:30集合です。豊中市からの出発になります。まずは空港の建物沿いに南東方向に進み、豊中署のところから、阪神高速11号池田線の高架の傍を歩きます。空港の建物群を離れる前に目にまずしたのがこの飛行機。プロペラ機を間近に見るのは久しぶりでした。後で調べてみると、ボンバルディア DHC8 Q400 という機種のようです。(資料1)勝部の交差点あたりから右折して、西方向に進んでいきます。目的は空港滑走路の北東端が見える地点に向かうためでした。そこは飛行機マニアの垂涎の地点なんだとか。 途中でこんな可愛いい幼稚園送迎バスが停まっているのをみかけました。車体には「仏光幼稚園」と表示された幼児バスです。幼稚園児が喜びそうな楽しいバス! ある会社のフェンスのところに、朝顔がきれいに咲き、快晴の青空といい感じ・・・・。 滑走路区域にかなり近づいて行った途中で、道路を横断します。その辺りから、着陸してくる飛行機の機体が見え始めます。ちょっと楽しくなってきます。 そして、千里川沿いに進みます。川の北側が空港の敷地です。フェンスの先には生け垣になっていますが、その切れ目のあるところから滑走路上の飛行機が見え始めます。 そして、神明橋をわたります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この橋を空港敷地側にわたり、左折して堤防沿いにしばらく進むと、大阪国際空港のメイン滑走路南東端から数百メートルのフェンスの外側です。この画像は、メイン滑走路の東側の滑走路を進んでくる飛行機です。ここで一旦時間調整して、管制塔との後進でメイン滑走路に方向転換していきます。振り返ると、着陸態勢で進んでくる飛行機が間近に見えるのです。 離陸していったANAの旅客機は、機体に記された機体記号を手がかりにネット検索すると、この写真を撮られて詳しく記されているブログに出会えました。(資料2)それによると、ボーイング767のようです。ANAの旅客機が離陸していくのを眺めていると、補助滑走路には既に2機が待機しています。 その間にも、1機が着陸してきます。直近を撮りたくても、手持ちでの手頃なデジカメではシャッターチャンスを逃すだけ・・・。あっという間にランディング状態です。 これが先ほど待機していた2機上が「エンブラル170 EMBRARER170(E70)」下が「ボーイング767-346(ER)」 こちらも機体記号からネット検索してみました。(資料3)調べてみると777型でも、 777-300ER、777-300、777-200ER、777-200と4種類、767型にも、767-300ER、767-300 の2種類が就航しているのです。(2015年時点)737型は主翼の形状の違い、あるいはコクピットの外側にマークが付いているようなので対象外でしょう。こちらも、737-800、737-400と2種類が就航しています。(資料4) JAL機の離陸 着陸してきた飛行機こんなタイプの飛行機も蒼空の中に眺められました。ボンバルディアCRJ200(CRJ)という機種のようです。(資料4)これも着陸してきた JAL EXPRESS 機です。この絶好スポットを後に、堤防沿いにしばらく南下し、空港の西側に回り込んで行きます。どこに向かうのか? それは「伊丹スカイパーク」でした。つづく参照資料1) 機種・シートマップ :「ANA」2) 飛行機の撮影(2011年12月12日(月))@川崎・浮島町公園@羽田空港 :「西葛西の人」3) JA656J Japan Airlines Boeing 767-346(ER):「PLANESPOTTERS.NET」4) 航空機コレクション :「JAPAN AIRLINES」 航空機検索 「JALグループ航空機」の項目から検索してみてください。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大阪国際空港 ホームページ 空港見学について 大阪国際空港 :ウィキペディア大阪空港ライブカメラ :「USTREAM」機体記号 :ウィキペディア航空ファン :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -3 伊丹市内へ(猪名野神社・白洲屋敷跡・緑ヶ丘公園) へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -4 伊丹市内へ(瑞ヶ池公園・昆陽池公園・有岡城跡)へ
2017.11.06
コメント(2)

さて今回も、大国主神社での私にとっての余禄からご紹介しましょう。第8の余禄はこの冒頭の「木津勘助之像」です。木津川の開拓事業に尽力した人がいたのです。そして、寛永16年の大飢饉での無私の行動力・・・・知らなかった! 学校の教科書の歴史には出てこない人物。 第二次世界大戦の空襲で最初の像が燃えたため、昭和29年(1954)に再建された銅像です。 詳しくはこの説明板をご一読ください。 境内に建っていた顕彰碑 第9の余禄がこの歌碑と説明板です。釈超空・折口信夫の歌碑との出会いです。 春はやきこぶしのうれひさきみちて たゞにひと木はすべなきものをこの駒札を読み、ほう!と思ったのです。手許に中公文庫版の折口信夫全集がありますが、未だ部分読みしかしていません。折口信夫の生地を考えたことがなかったのです。この地域で生まれていたんですね。調べて見ると、「自撰年譜」では明治20年(1887)「2月11日、大阪市浪速区?町1丁目-当時、西成郡木津村市場筋-に生れる。家名古くより折り口。代々木津(御坊)願泉寺門徒。石山本願寺根来落ちに絡む由緒を伝へた百姓筋。三代前から生薬屋を営む。」(資料1)と記されています。鴎町1丁目が現在は敷津西1丁目と改称されているようです。地図を見ると、鴎町公園という地名が残っています。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。少し、脇道に入らせていただきます。(当初の探訪記載せた後に調べてみたことの追記です。少しリサーチで試行錯誤しましたが何とか原典を見いだせました。)釈超空(折口信夫)の歌碑の「反歌」からの波紋の関心として調べてみました。「反歌」を辞書で引くと、「長歌のあとにつけ加えられた歌。短歌形式で、一首または数首。かえしうた」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。歌碑傍の説明文には、「幼き春」の反歌と記されています。それでは、「幼き春」の内容は? という波紋です。全文を引用します。(資料8) 幼き春わが父にわれは厭はえ、我が母は我を愛(メグ)まず。 兄 姉と 心を別きて いとけなき我を 育(オフ)しぬ。 うるはしき人の立たして、 我を見て ほのぼの笑める-。 しばしばも わが見しことを- 今にして 思ひし見れば、 夢の如 その俤(オモ)薄れ はかなくも なりまさるなり。もの心つけるはじめに現(マサ)しくも 見にける人- 年高くなりぬる今し、思へども、思ひ見がたく いよゝなり行く 反歌 春早き辛夷の愁ひ咲きみちて、たゞに ひと 木は すべなきものを 詩を読んだ後に反歌を読むと、その歌だけを読んだときよりも、歌の語句に秘められた思いについて、奥行きが広がるように感じます。探訪の本筋に戻ります。四つ橋筋を北進し、右折、左折して南海本線沿いの道を歩き、南海難波駅の東にある大乗坊に至ります。 「日本橋毘沙門天」が祀られているお寺です。 崑崙山寶満寺大乗坊 元は寶満寺三十七院坊の一寺。寶満寺は四天王寺守護寺院の一端を担っていたとか。信長の石山本願寺攻め合戦の折りの兵火の結果、このあたりに大乗坊の草庵のみ再興されたのがその起点だそうです。本尊は秘仏で日本四大毘沙門天の一つと数えられていたもの。現在は5月と11月の第2日曜日に御開帳されているそうです。(資料2)御前立の本尊毘沙門天王は、鎌倉時代中期の造像と指定されており、立像の肩に鬼の面が彫り込まれているようです。(資料2)御開帳の折りに許可を戴いて写真を掲載したというブログ記事をネットで見いだしました。こちらからアクセスしてご覧いただくことができます。(資料3)再興後の堂宇も先の第二次世界大戦の折りに全焼し、現在のお寺は戦後の再建になるもの。今や繁華街のど真ん中に溶け込み、寺の外観をとどめた建物になっています。 道路から本堂入口までの小さな玄関先の庭ですが、手水舎のところに「清め不動明王」が、また、本堂入口に向かって、右側の一隅に「一願空鉢大龍王」の小祠が祀られています。空鉢は毘沙門天の分身で龍王となって出現したお姿だとか。そのほかにも数多くのお地蔵さまやお稲荷さんが祀られています。時間がなくて、撮りきれませんでしたが。この後、堺筋を北進して行きます。 途中で2ヵ所でしたか、「大阪の台所 黒門市場」への入口を見ながら歩きます。これはそのうちの1つ。後で地図を見て理解できたのですが、堺筋と平行した東側の通りが中軸になりながら、その通りに入る東西の通りも黒門市場の一部なのです。一度、ゆっくり黒門市場を見て歩きたいものです。京都の錦市場の通りと雰囲気を対比してみたい・・・・。 そして日本橋を渡ります。そこでの第8の余禄がこの「紀功碑」です。かつて何度か道頓堀通の一部を歩いたことはありますが、こんな石碑が建てられていることを知りませんでした。これを機会に安井道頓について、ネットでリサーチしてみました。「安井道頓道卜紀功碑 」というブログ記事を貴村恒氏が記されています。大変有益で参考になりました。ご一読いただくと良いのではないでしょうか。こちらからご覧ください。(資料4)私の関心事項を一部引用させていただきます。「大正3年11月に、大正天皇が大演習の統監のため大阪に行幸啓された際に、道頓道卜の功を御追褒あそばされ従五位を下賜されたとのこと。翌年には道頓翁三百年忌大法要が法案寺で行われ、大迫師団長や府市名誉職百名の参列を見て非常に盛儀であったとのこと。その法要に引き続き、沿岸有志の協議と大久保利武(大久保利通の三男)長官の発案により紀功碑を建立することになった」という経緯だとか。大久保利武は当時の大阪府知事だったと言います。「碑材はなんと、大坂城築城の際に四国から安治川まで運搬したものを誤って水中に落としてしまい、300年後に発見された石だそうです。府の収得となったものを大久保利武から紀功碑のために提供されたとのこと。」司馬遼太郎著氏が『けろりの道頓』(「おれは権現」収録・短編小説)を書いているのも知りました。手許に眠っている本の一冊なので、読んでみなければ・・・・と思う次第です。課題を与えてくれました。そして、はたと書きながら気づいたこと。法案寺って・・・・そう、七福神巡りの最後の探訪地だったのです。七福神の最後が弁財天です。真言宗志宜山法案寺の山門です。現在は真言宗高野派宝寿院の末寺となっています。「准別格本山法案寺南坊」の石碑と5本の線を刻む築地塀がお寺の由緒を伺わせます。 門柱の左右には、「摂津国八十八ヶ所第一番霊場」と「大阪七福神弁財天」の標札が掛けられています。山門を入ると、正面が本堂で、その右手前方に弁財天の祀られたお堂があります。 まずは、弁財天を拝見。小ぶりな木像が奥の壁際に安置されています。シンプルな木肌のままの二臂弁財天です。どんな曲を弾かれているのでしょうか。二臂の弁才天は天台、真言の密教で説かれる弁才天です。鎌倉時代に二臂で琵琶を弾く女神像が一般化したと言われています。金光明経で説かれているのが八臂の弁才天だそうです。(資料5)弁財天は知恵と財宝を授けていただける神様、福徳財宝の守護神として信仰を集めているのです。享和元年(1803)「摂陽奇観」に大坂で初めて七福神巡拝発起の節に、生玉南坊としてこの法案寺の弁天さまが登場するそうです。(資料6)弁才天(弁財天)の本源はインドにあります。インド神話の河川を神格化したものといわれているのです。サンスクリット語のサラスヴァティの訳で、様々な訳がありポピュラーなのが大弁才天・大弁才天女で、俗に弁才天。弁財天とも表記されるようになったのは鎌倉時代以降のようです。妙音天とも訳されますので、音楽の神、芸術の神、美の神でもあるわけです。ヒンズー教ではブラフマン神の配偶者とされています。この弁才天が仏教に取り入れられ天部の神様となり、吉祥天と同一視されるようにもなったようです。また、弁才天の信仰は裾野が広いようです。今回巡ってきた七福神の一人となり、室町時代以降に福徳財宝の神として信仰されています。観世音菩薩または愛染明王の権化、あるいは竜女、または如意輪観音の示現であると考える信仰もあります。宇賀神と弁才天を夫婦神として信仰する民俗もあります。弁才天が竜女あるいは宇賀神そのものの化身とする信仰もあります。頭に宇賀神としての白蛇を冠した弁才天像を拝見したことがあります。宗像三神の一柱・市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)という美貌の女神と弁才天が融合されて、厳島信仰の広まりにもなったようです。(資料5)弁財天(弁才天)信仰は現世利益を求めて、広く信仰されているようです。 こちらが本堂です。向拝所からデジカメのズームで撮らせてもらいました。本尊は中央の厨子に安置されている「聖観音菩薩立像」(重文)で制作は平安末期、12世紀までさかのぼるとされています。毎年1月元日から7日までの7日間、御開帳されるとか。本堂には別の厨子に秘仏「歓喜天」が安置されていて、「日本橋の聖天さん」と呼ばれて親しまれているという。この法案寺もまた動乱を生き抜いてきたお寺です。山号の志宜山は聖徳太子が鴫野(しぎの)で創建したとの寺伝に由来するそうです。元亀元年(1570)から始まる石山本願寺の合戦の頃は本願寺の隣地にあり、現在の生國魂神社の神宮寺であり、神社と寺院を総称して生玉宮寺と呼ばれていたとか。秀吉の大阪城築城で、現在の生玉町に移転。その後大坂の陣で灰燼に。江戸時代に再興され、法案寺を含めて生玉十坊と称される規模になります。明治維新の拜仏毀釈の法難に遭い、何とか島之内にお堂を構え再起の道に。そして、現在に至るようです。現在のご住職は32代だとか。(資料7) 山門を入った左側には、「志宜大将」という扁額が架かる朱色の鳥居が建ち、鴫野の守り神、榎稲荷大明神の小祠が配されていて、その右隣には「水掛け不動」が安置されています。この大阪七福神巡りのウォーキングは法案寺を拝観の後、門前で解散です。私にとって、第9の余禄は、解散後に道頓堀に戻ってふっと思いつき、道頓堀川を日本橋から木津川の合流点まで歩いてみるという機会となったこと。そして、第10は七福神について、このブログで写真と行程の整理・まとめをご紹介するという目的で、事後学習としての一つの整理ができたことです。今度は京都の七福神を探訪済を含めて、改めて探訪してみたいなとおもっています。一例ですが、「七福神巡りウォーキング」の地図はこちらでご覧ください。ご一読ありがとうございます。参照資料1)『折口信夫全集 第三十一巻 日記・書簡附年譜』 中公文庫 p3572) 大乗坊と毘沙門天王立像 :「浪速区」 大乗坊(大阪市) :ウィキペディア 3) 【再録】寄り道しながら大阪七福神・その3 大乗坊・法案寺 :「古今東西縁起堂」4)「徒然なるままに大阪散歩」 貴村恒氏 トップページ 5)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p463-464 『知っておきたい日本の神様』 武光誠著 角川ソフィア文庫 p135-1366) 法案寺で戴いた資料「大阪七福神巡りのお勧め」7) 法案寺で戴いた抜き刷りコピー資料 「島之内仏恩由来記 動乱を生き抜く。 法案寺」(『大阪人』2009年10月)8) 『折口信夫全集 第廿三巻 作品 3 詩』(中公文庫) 「古代感受集」の中で、3番目に載せられている詩です。(p19-23) 脚注を見ると、昭和12年1月『むらさき』第4巻第1号に発表された詩です。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺折口信夫の生誕地 投稿者・虎次郎 :「帝塚山通信」 折口信夫と大黒神社 :「切手と文学」 折口信夫(釈迢空)(1) 松木貞雄氏・坂口明生氏 :「日本の文学碑」 折口信夫(釈迢空)(2) 松木貞雄氏・坂口明生氏 :「日本の文学碑」 黒門市場 公式サイト 黒門市場 :「OSAKA-INFO ENJOY 大阪であそぶ」日本橋(大阪市) :ウィキペディア 安井道頓 :ウィキペディア 道頓堀の開鑿者 安井道頓 :「日本の墓」 道頓堀 :「大阪再発見!」 道頓・道卜の墓 :「大阪再発見!」 島之内 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 大阪の七福神巡りとその余禄 -1 三光神社(寿老神)、長久寺(福禄寿)、四天王寺(布袋尊) へ探訪 [再録] 大阪の七福神巡りとその余禄 -2 今宮戎神社(えびす大神)、大国主神社(日出大国神) へ
2017.11.05
コメント(0)

布袋尊からえびす大神に巡るウォーキング行程でのうれしい余禄から始めます。四天王寺・布袋堂から四天王寺南門前の交差点を25号線沿いに西へ歩きます。緩やかな坂道を下っていきます。左手南西方向に、一心寺の現代的な仁王像彫刻が見えます。以前に大阪市立美術館の方向からこのお寺を訪ねたことがあります。 目にとまったのが冒頭の安居天満宮の案内塔で、その傍に記された文言です。道路沿いに「真田幸村戦没地」の石標が建てられています。後で調べると、境内に石碑が建てられているようですが、このウォーキングでは境内まで立ち寄る時間がありませんでした。 道路側に目を向けて、「逢坂」の石標に気づきました。傍に立つ駒札の説明内容が興味深いです。このスポットが私には第4の余禄です。 その先の交差点にある陸橋の先に大阪名所・通天閣。目の前です。 交差点を渡り、「浪花名所 合邦辻閻魔堂」の石標に出会えたのが第5の余禄! 実は、一度この合邦辻の場所を訪れたいと思っていたのです。 なぜか? 人形浄瑠璃や歌舞伎に「摂州合邦辻(合邦)」という演目があるからです。 お芝居の舞台となった場所。左側に、「玉手の碑」とありますが、これは閻魔堂を庵室とした合邦道心の娘・辻で、玉手御前のことでしょう。検索すると、ネットにいくつか良い記事が掲載されています。補遺にあげておきます。 第6の余禄は通天閣をこの角度から眺めたこと。大阪市立美術館での展覧会を見るために何度も天王寺には来ていますが、通天閣とその周辺を丹念に歩き回ったことはありませんでしたので。 今宮戎神社 こちらの入口から境内に入りました。比較的正方形に近い境内の中央にでんと本殿が建てられています。 上掲の入口に向かって左方向に、石の鳥居があります。こちらは次の探訪地に向かうときに出口として利用。この鳥居の傍に、当神社の御祭神と由緒の説明板があります。祭神五柱のうちの「事代主命(ことしろぬしのみこと)」は大国主命の御子です。「事代主神」とも言われます。事代主神は、出雲神話の国譲り(天孫降臨)の段で中心をなす神の一柱です。この事代主命が「恵比寿様」の通称をもっているのです。というのは、「事代主神が釣り好きであることから、大鯛を小脇に抱いた福神が創り出され」「七福神の一人・恵比寿神に擬せられ」たということのようです(資料1)。「エビス像は、たいてい右手に釣り竿、左小脇に鯛を抱えた姿で描かれているが、像のモチーフは、記紀神話が元になっている。また、兄弟神のタケミナカタに比べ、極めて従順で平和主義的なところが、のちのち『エビス顔』の福徳神としての性格づけに大きく影響したと考えられる」(資料2)という説明もあります。えびす大神が事代主神という説に対して、蛭児(ひるこ)大神をえびす大神と同一視する信仰もあります。そちらの方は西宮神社です。(資料3)古典的イベントガールの一源流がどうもこの今宮戎神社のようです。「十日えびす」のあの「福娘」。商売繁盛の祭に華を添える重要な女性たちです。この「福娘」は昭和28年に神職の発案で始まったのだとか。当時の神職さんは時代に先駆けたアイデアマンだったのですねえ。「福娘として十日えびすを手伝うと、自分も福を授かれる(幸せになれる)」という、根強い信仰が存在するそうです。(資料2)今宮戎神社のホームページによりますと、平成26年度の福娘には約500名の応募があり、福娘40名を選出したそうです。この再録時点では、「平成30年度 福むすめ募集」中のようです。こちらからご覧ください。「入賞者40名に15万円と訪問着一着贈呈」とのことですよ。このエビス神にも信仰の広がりのおもしろさがありますね。海の神(海上守護・漁業神)→市場の神(魚の取引場所)→市場に集まる商人の信仰対象(商売繁盛の神)→室町時代末期の七福神信仰(七福神の一柱に)→商売繁盛・福の神こんな具合に庶民の間にも浸透していったようです。関西で、正月の十日エビスは有名です。地元京都では東山にある恵美須神社が賑わいます。兵庫県なら西宮神社でしょうか。「近世の江戸では、商家が十月二十日をエビスの日と定めて『二十日戎』と称し、これを祝うとともに安売りなどをした」(資料2)といいます。年間行事としてリサーチすると、この二十日戎が、10月に京都えびす神社では「二十日ゑびす大祭」(ゑびす講)として行われています。これと同趣旨と推測しますが、西宮神社では9月21-23日に、例祭「西宮まつり」が行事として行われています。(資料4)今宮戎神社では10月の第三土曜日に「なにわ七幸まつり」という行事が行われるのですね。こちらをご覧ください。 エビス(えびす)に対して、様々な漢字が使われているのは興味深いところです。戎、恵比須、恵比寿、恵美須、夷、胡子、蛭子、とまあこんな具合に。なぜだろうって・・・・そう思いません? なぜその漢字を使ったのか・・・これも一つの課題です。 今宮戎神社の境内でこの句碑が目にとまりました。阿波野青畝の句です。これが第7の余禄です。今宮戎神社から地下鉄四つ橋線「大国」駅に近いところに位置する「大国主神社」へ。鳥居の傍に掲示された絵看板で一目瞭然です。国道26号線(四つ橋筋)に面した側(東側)のこの鳥居から出入りしました。 「大国主神社」の本殿。鳥居から入って正面奥にあります。ご祭神は大国主命、「日出大国神」です。財福、福徳開運の神様。大国主命(おおくにぬしのみこと)の大国は「ダイコク」とも発音できます。大国→ダイコク→大黒という音の一致が、大黒天信仰と神仏習合していったのでしょう。大国主命と大黒さまが一つの神様になって、七福神の大国さまということに。 本殿前には、狛犬ならぬ狛鼠が対で安置され、阿吽の口許になっています。日本神話の中では、大国主命(=オホナムヂ)が根の国で素盞鳴尊(すさのおのみこと、スサノヲ)に試練を与えられます。そこに鼠が登場します。『古事記』で伝えられている話です。(資料5)スサノヲの居る根の堅州の国にオホナムヂが参ります。スサノヲは、鳴り鏑を大きな野の中に射入れて、その矢を探し採るようにとオホナムヂに指示します。オホナムヂが野に探しに入ると周囲から火をつけて野の周囲を焼きめぐらしたのです。困っているオホナムヂの足元に鼠が現れて鳴き、地下に洞穴があることを教えたことで、オホナムヂはその洞穴に身を潜め、火が焼け過ぎていくことを待ち危機を脱したのです。鼠が鏑矢をくわえて持ってきて、オホナムヂに奉ります。オホナムヂはその矢をスサノオに渡すというお話です。大国主命は鼠と縁があるのです。大国主命はいくつも名前を持つ神様です。鼠が持っている打出の小槌と米俵。この2つは大きな袋とともに大黒様のシンボル、定番ですね。堂内には大きな木像が安置されています。木彫りとしては日本一の神像だそうです。こちらが本来の神社本殿です。手前が唐破風造の向拝所になっています。後で調べると、南側に面した鳥居がどうも神社の正面のようです。(境内側からこの鳥居は見ていたのですが、鳥居の正面からは神社を見て確かめませんでした。)「敷津松之宮」の鳥居だそうです。つまり、大国主神社は敷津松之宮の摂社という位置づけなのです。江戸時代、1774年に出雲大社を勧請して大国主神社が建てられたのだとか。ここは「木津の大国さん」として親しまれています。(資料6) 木津というのは旧地名なのです。敷津松之宮のご祭神は、素盞鳴尊、大国主命、奇稲田姫命、事代主命、少彦名命です。 鬼板の紋が敷津松之宮の御神紋なのでしょう。その下方の蟇股に彫刻されているのは猫でしょうか。猫と鼠が境内に一緒なのがおもしろい。この地での余禄話は次回に。一例ですが、「七福神巡りウォーキング」の地図はこちらでご覧ください。つづく参照資料1)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 誠信書房 p130-1312)『欲望を叶える神仏・ご利益案内』 小松和彦他監修 知恵の森文庫 p30-383) 由緒・歴史 :「西宮神社」 4) 年間行事 :「京都ゑびす神社」 年中行事・祭典 :「西宮神社」5)『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦祐之訳・注 文藝春秋 p62-636) 敷津松之宮(しきつまつのみや)・大国主(おおくにぬし)神社 :「浪速区」 敷津松之宮 :ウィキペディア 大国主神社 :「大阪再発見!」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺今宮戎神社 ホームページ 京都ゑびす神社 ホームページ 西宮神社 ホームページ 大黒天 :ウィキペディア 七福神(大黒天) :「寺社関連の豆知識」 大国主 :ウィキペディア 摂州合邦辻 :「人形浄瑠璃 文楽」 摂州合邦辻 :「歌舞伎演目案内」『摂州合邦辻』ゆかりの地を尋ねて~日生歌舞伎通信Vol.2 :「歌舞伎美人」玉手御前の恋 ~「摂州合邦辻」 :「歌舞伎素人講釈」 通天閣 オフィシャルサイト 通天閣 :ウィキペディア 阿波野青畝 :ウィキペディア 高取町出身 昭和を代表する俳人 阿波野青畝 :「高取町観光ガイド」 阿波野青畝句碑巡り :「奈良県高取町の歴史散歩」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 大阪の七福神巡りとその余禄 -1 三光神社(寿老神)、長久寺(福禄寿)、四天王寺(布袋尊)へ探訪 [再録] 大阪の七福神巡りとその余禄 -3 大乗坊(毘沙門天)、法案寺(弁財天) へ
2017.11.05
コメント(0)

先月(2017.10)の中旬に、京都駅前に集合し、徳島県鳴門市の鳴門公園内に所在する「大塚国際美術館」への日帰りバスツアーに参加しました。「世界初の陶版名画美術館」として設立された美術館です。一度現地に行って眺めてみたいと思っていたところです。陶板に原寸大に焼き付けた複製画が地下3階から地上2階のフロアーに1000余点展示されているというところです。世界25ヶ国、190余の美術館から選りすぐりの名画(コピー)が展示されているという、その状況がどんなものなのかに関心があったのです。このバスツアーで私は明石海峡大橋を車上から眺めつつ横断する初体験をした次第です。冒頭の景色は、明石海峡大橋を横断し始めて少し経った頃に、明石市の方向を撮ったものです。神戸市垂水区の舞子と淡路島の北端に架橋された橋の先は高速道路として、淡路島をS字形に孤を描きながら縦断していきます。今まで意識しなかったのですが、改めて地図をみるとこの道路は「神戸淡路鳴門道」と明記されています。こちらから地図(Mapion)をご覧ください。拡大図にして各地をご覧いただくとイメージを重ねていただくことができるでしょう。バスから撮った景色を点描としてまずはご紹介です。 この景色の少し後で、ハイウエイオアシスまで2kmの道路標識を見ました。 津名一宮の道路標識が見える少し手前あたりです。 淡路島の南端・福良と四国徳島県の北東端・鳴門町土佐泊浦の間に架橋されたことで、本州-淡路島-四国が結合されました。それにより京都から日帰りでの四国入りが可能となり、便利になったものです。土佐泊浦に入るとすぐに車窓から美術館の建物の上部が見えます。この美術館は鳴門市の北東端近く、まさに四国への一つの入口間際に立地していました。事前に場所を地図で確認していなかったので、あっ!こんなところに位置したのか・・・・という感じです。鳴門公園内に立地するため、地上は2階までの建築制限があったとか。そこで、山の斜面の地形を利用し山裾に掘り下げる形で地下3階まで、つまり5階建ての美術館が建築されたそうです。高速道路側からは、地上部が遠望できるだけなので、この美術館の規模が想像できませんでした。鳴門北ICで高速から出ると、海岸沿いの道路を北上します。天気が良かったので、海岸を走るバスの車窓から、鳴門ー淡路島間の橋の景色を楽しめました。「大塚国際美術館」の正面玄関は地下3階より更に低い位置になります。この画像は正面玄関へのアプローチです。 円弧状の玄関前のスペースの先には、各国の旗が揚げられています。多分、この美術館に展示された絵画の原画を所蔵する国の国旗だろうと思います。掲揚された旗の先に見える建物は、地図を見ると大塚製薬潮騒荘です。当日入手したパンフレットによると、大塚製薬創立75周年記念事業としてこの「大塚国際美術館」が設立されたのです。入口カウンターを通過すると、長さ41mのエスカレーターに乗り、地下3階に至ることになります。余談ですが、建物内に入り私は2つの美術館を連想しました。一つは、山の中に包まれるような感じで建築された美術館として、滋賀県の信樂にある MIHO MUSEUM を思い浮かべました。MIHO MUSEUM を訪れたとき、設立経緯のビデオを拝見し、山を穿ち建物を建てて再び周辺を埋め戻し、山容を復元し、景観を損なわないということがなされたということを知りました。もう一つは、熱海にあるMOA美術館を訪れたとき、入口から美術館の展示フロアーまで山の斜面に設けられたエスカレーターに乗って上がるという体験をしたことです。本筋に戻ります。この大塚国際美術館の特徴は、地下3階から上階に順次上がっていく行程が、西洋美術史の変遷に併せた時代区分構成になっていることです。絵画鑑賞のプロセスで記しますと次の構成になっています。 地下3階 古代・中世 地下2階 ルネサンス・バロック 地下1階 バロック・近代 1 階 現代 、テーマ展示 2 階 現代 、テーマ展示全館を通して、基本的展示方法として「系統展示」の手法が採られ、西洋美術変遷史という視点で、名画を眺めて行くことができる仕組みです。地下3階から館内ガイドに沿って鑑賞していけば、西洋美術の歴史的アウトラインが理解できるのです。この形で原絵画を見るということは、各国に出かけても不可能です。また、美術書・図録の形で写真を介して名画を楽しむことができますが、原寸大複製画を介した視覚的な体感はやはりこの美術館の利点でしょう。美術学習館として機能しています。大型美術陶板である故に、展示絵画を触って感触で感じていただいてOKですという説明が美術館のガイド担当者からありました。ちょっと、驚きでもあります。いくつか触ってみました。もう一つの展示方法がこれです。 その一例が、「システィーナ・ホール」と名づけられたミケランジェロ作「最後の審判」ほか礼拝堂の空間全体の展示です。「環境展示」と称され、「古代遺跡や教会などの壁画を環境空間ごとそのまま再現」するという手法が採られているのです。このホールは、地下3階・2階を吹抜けにして、システィナ礼拝堂の内部を飾る絵画の原寸複製が行われているそうです。こちらは、地下2階から全体空間の上側を撮ってみました。システィナ礼拝堂は、イタリアの中に存在するヴァチカン市国、つまりキリスト教の總本山と言うべき国にあります。美術館並びに教会の建物が巨大なので、その一環としての「システィナ礼拝堂」の内部を現地で鑑賞した折には、その空間の大きさについて相対感覚で少し鈍っていました。このシスティーナ・ホールを見て、その空間の大きさを再認識した次第です。礼拝堂現地では、この地下2階部分の立ち位置、視角から眺めることはできませんのでその意味で違った臨場感もあります。 もう一つ、面白かったのはこれです。見上げる天井画の一隅に描かれた「デルフォイの巫女」は小さく見えますが、その原寸同形の絵陶板がその下のフロアーに置かれているのです。こういう展示は、インパクトがあります。地下3階には、環境展示されているものが、他に8箇所あります。その一つが、これです。「エル・グレコの祭壇衝立復元」です。「復元」という言葉があるように、エルグレコの作品をはめ込んだオリジナルのこの形での衝立はもはや存在せず、それら作品の所蔵先が分散してしまっているそうです。陶板による複製画ですが、この形で見られるのはこの美術館だけだとか。補遺に掲げた、ホームページから、展示フロアマップをご覧いただくと、「聖マルタン聖堂」から続く7箇所の名称をご確認いただけます。大型美術陶板といえども制作上のサイズの技術的制約があるため、例えば「デルフォイの巫女」を観察していただくと、大型陶板5枚でこの一つの絵を複製していることがわかります。ちょっと残念ですが、しかたがないことでしょう。環境展示による複製画の最大のメリットは、世界各国の現地に行かなければ見られない巨大な絵画、絵画群を手軽にこの美術館内で、臨場感を持って眺めることができるということです。勿論、個別の絵画作品も著名画家の代表作、名画がズラリと複製されています。これだけを個人が美術書として揃えようと思うと大変だと想像します。同様に、一つの独立した作品とはいえ、サイズが巨大すぎて、日本に搬入してきて展覧会に展示するのはほぼ不可能と思える絵画の複製も見られることです。その原寸大の臨場感はこの画像サイズでは感じ取れません。この画像をモニターのサイズ大で眺めたとしても、やはり無理でしょう。この絵は、地下1階の77号室という大きな部屋の壁面に掛けられているジャック=ルイ・ダヴィッド作「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの載冠」という作品です。原画は、6.21m×9.79mというサイズで、フランスのルーヴル美術館所蔵です。ルーヴル美術館を訪れれば、そんなサイズの絵もゴロゴロしているというくらい数多く展示されていますけれど・・・・。 たとえば、地下3階の古代のセクションには、古代系統展示についてのこんなパネルプレゼンテーションが行われています。各箇所にある説明ガイドです。「バベルの塔」展のご紹介の折、ピーテル・ブリューゲル1世がヒエロニムス風の版画を制作しているということに触れていました。そこで、ルネサンス期の画家、ヒエロニムス・ボスの名画にここで触れておきましょう。 ヒエロニムス・ボス作「快楽の園」という作品が展示されています。この3枚で一つの作品です。地下2階には、受胎告知、ヴィーナスに関連し様々な作家の絵がまとめて展示してあり、その表現の違いや類似パターンなども対比的に見られて楽しめます。ここには勿論、この作品も展示されています。ルーブル美術館では、正面に厚いガラスがはめ込まれ厳重に防御された空間に展示されているのを眺めた記憶があります。もう一つ、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の壁画が、その修復前と修復後の両方が複製されていて、向かい合う壁に展示されています。こんな形で眺めることができるのもここならではと言えます。写真を撮りたかったのですが、鑑賞客が多くて無理でした。ここでも、その壁画の大きさに改めて驚いた次第です。ミラノに旅行した折、教会に予約を入れておき指定時刻前に待機して、少人数単位のグループに加わり、鑑賞したのですが、壁面を見上げる形で眺めるため、どうしても大きさの感覚がぶれてしまいます。目も高さで数十cmの距離で眺めることのできる感覚は別世界という感じです。 地下2階の興味深い所は、建物の外に円形の池が設置され、その池の中央の島に壁面を設けて、モネの「大睡蓮」が描かれていることです。勿論、池には睡蓮が。この池庭の少し先を高速道路が通っています。地下1階では、環境展示として、 「ゴヤの家『黒い絵』」をご紹介しておきます。ここにも説明パネルがあります。ちょっと異質で、異様感を感じる部屋です。ここに展示のゴヤの絵をどこかで見たという記憶がありません。地下1階のテラスからの景色です。マドリードにあるプラド美術館所蔵、フランシスコ・デ・ゴヤ作の連作です。「裸のマハ」と「着衣のマハ」。鑑賞後に購入した2006年に京都であった「プラド美術館展」の図録を改めてみるとやはり他のゴヤ作品が来ていましたがこれらは含まれていませんでした.2011年、東京の国立西洋美術館での「プラド美術館展」ではこれらの作品が来日していたそうです。このときも40年ぶりだと言いますから、この2作が並ぶ展覧会を日本で見られることは多分当分ないのでは・・・・と思います。地下1階の「近代・バロック」では、ドラクロア、マネ。ルノワール、ミレー、ゴッホ、ミレイ、クリムト、ムンクなど多分一番知られている画家たちの名画を一堂に見ることができます。そして、1階です。庭園に出てみました。芝生の広々とした庭から高架の高速道路が見え、その先に海が広がっています。北東方向の山の上に、展望台のある「エスカヒル鳴門」の白い建物が見えます。 庭園の反対側は白い垣根の先は森になっています。 1階には、パブロ・ピカソの大作「ゲルニカ」が庭園に面したガラス壁を通して外部からも見える室内の壁面を飾っています。また、「ストゥディオーロ」と呼ばれる環境展示があります。 こんな空間表現を主体にした部屋もあります。2階にはピカソ、シャガール、パウル・クレー、モンドリアン、フェルナン・レジェ、モディリアーニ等々、現代画家の諸作品が並んでいます。複製画とはいえ原寸大の名画が展示されているのは壮観です。鑑賞ルートを普通に辿れば約4kmほど歩くことになるそうです。一通りほぼ鑑賞ルートに沿って鑑賞していくと、あっという間に帰路の集合時刻になってしまいました。途中、「淡路ハイウェイオアシス」に立ち寄り、ここがトイレ利用を兼ねたしばしの休憩タイムです。 道路沿いから撮った明石海峡大橋の景色大きな淡路島公園案内のイラスト地図が建物の壁面に描かれています。大橋上を走る車内の反対列側では、もっぱら夕焼けの景色を撮ろうと華やいでいました。車窓からの夕景と撮れない座席に居た私が撮ったのは、少しズームアップして垂水区の海岸沿いの景色です。大橋を渡りきった後は高速道路を走るバス任せで、帰路の暮れゆく景色を漫然と眺めていました。ほぼ、予定時刻に京都駅前八条口のターミナルに帰着。これは、京都駅正面側の東側に設けられた羅生門のミニチュアを撮ってみました。モニュメントとして作られていたことは新聞報道で知っていたのですが、見るのはこの時が初めてでした。京都駅の正面側に出向き、写真を撮ってみましたので、ご紹介しておきます。これで、秋晴れの日帰りバスツアーの探訪記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料*「大塚国際美術館 マップ&ガイド」 入館の折に入手したパンフレット* ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 :ウィキペディア* 裸のマハ :ウィキペディア* 着衣のマハ :ウィキペディア補遺大塚国際美術館 ホームページヒエロニムス・ボス :ウィキペディアエスカヒル鳴門 :「鳴門NAVI」エスカヒル鳴門 東洋一の長~い エスカレーター / 徳島観光 :YouTubeMIHO MUSEUM ホームページMOA美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.04
コメント(0)

この浮世絵はウィキペディアの「七福神」(資料1)から借用しました。大阪の七福神巡りの出発地点です。ウォーキング同好会の2014年1月の例会は、大阪の七福神巡りウォーキングでした。同好会幹事の一人が大阪の出身で、初春の例会として企画してくれたのです。京都の七福神もまだ探訪していないのに、大阪から七福神巡りを始めることになりました。予備知識を一切持たずに、大阪の七福神を巡りました。参加者として後を付いて歩いて写真を撮ったという形です。このときの探訪記をまとめたものを再録し、ご紹介します。(再録理由は付記にて)ネットで調べるといろいろと情報が入手でき有益です。いくつも掲載されている情報の中の一例ですが、「七福神巡りウォーキング」の地図はこちらでご覧ください。まず巡った順に、大阪の七福神の名称だけ列挙しておきます。 寿老神、福禄寿、布袋尊、えびす大神、日出大国神(大黒さま)、毘沙門天、弁財天 です。それでは、大阪の七福神を訪ね歩きましょう。JR環状線の玉造駅を起点にして、終点が道頓堀・日本橋の近くです。私たちは、概略で言えば、長堀通(西進)→谷町筋(南進)→25号線(西進)→南本線沿い(北進)→堺筋(北進)というルートでウォーキングしたことになります。玉造駅に近いのが、寿老神です。駅から向かった「三光神社」の石鳥居。石段を上った先の参道右側に本殿と末社が並んでいます。末社の一つ、武内宿禰社の祭神・武内宿禰が「寿老神」なのです。 参道左側の由緒略記と右側の本殿への石段脇の神社説明板 こちらが七福神巡りの末社。三社のうち一社が「武内宿禰社」なのでしょう。寿老人は富貴、長寿を授ける神。その信仰は中国の宋の時代に起こったようです。「長頭の老人で、巻物を付けた杖と団扇を持ち、鹿を連れている。中国では、福禄寿と同体異名の神といわれている。」(『日本語大辞典』・講談社)寿老人の別称は「南極老人」だとか。この長寿の神さまが、日本では一番長寿だったとされる武内宿禰と結びつき、武内宿禰を寿老神として祀っているようです。寿老人=長寿=武内宿禰=寿老神というつながりなのですね。 本殿 本殿に向かって右手に寿老神立像が建てられています。まだ建立されてあまり年月が経てない感じです。ここで私にとっての第1の余禄が早速ありました。 それが、この神社境内に「史跡真田の抜穴跡」があったことです。まるで石室入口のような感じですが・・・・。傍に、「真田幸村」の立像が建てられています。あの「大坂夏の陣」の戦いにおいて総構えの堀の外側に位置する「真田丸」がこの辺りにあったのです! 手許の本で事後学習しました。(資料2)長堀通という名称や空堀町という町名、交差点を通りましたので、まさにこの辺りは堀があった場所だったということなのでしょうね。谷町7丁目まで歩くと、通りに面して建つビルの正面玄関に「大圓山長久寺」という寺名と寺紋が掲げられています。玄関口の階段を上がった1階右手に「福禄寿」が祀られています。「福禄寿」はその名の通り、福・禄・寿の三徳を備えた神さま。「頭が長く背が低く、長いひげを生やし、人間の寿命を書いた巻物と付けた杖を持ち鶴をつれている」(『日本語大辞典』)という姿で表象されています。撮影禁止でしたので、ここの福禄寿をご紹介できません。 ウィキペディアより引用の「福禄寿」図です。(資料3)福禄寿と寿老人は、中国から伝わった道教の神様です。「11世紀半ば(北宋代)の中国に、長いひげをたくわえ『自分の年齢は数千歳であ、南極星の化身である』と自称する道士があらわれたことをきっかけに、中国で長寿の神として福禄寿をまつる習俗が広がったという。・・・・そのふくよかな顔をした老年の道士が、いずこかへ去っていったあとに福禄寿信仰が広まっていった。寿老人は、道教をひらいた老子の化身で、延命の神だとされている」そうです。(資料4)次に向かったのが谷町筋を南進して「四天王寺」です。その途中で第2の余禄です。道路沿いにこんな石像を見かけました。これもあるお寺の近くだったように記憶します。かわいらしくていいですね。第3の余禄がこのお寺です。通称「義士の寺」、「曹洞宗吉祥寺」です。赤い山門の門柱には「大阪義士会本部」といういかめしそうな銘板が掛けられています。境内に立ち寄りました。 山門を入った左手にまだ最近の建立という感じですが、「大石内蔵助像」があり、右手には、石段の両脇に「浅野内匠頭墓、義士四十七人碑」の石標が建てられ、一段高くした廟所が祀られています。前面の左傍に、「墓碑の由来」を記した駒札が建てられています。この吉祥寺は大阪における浅野家累代の菩提寺なのです。これでなぜという疑問が氷解です。赤穂浪士が討ち入りを果たした翌16年2月に四十七士が切腹します。そのあと「足軽寺坂吉衛門が四十七義士の遺髪遺爪鎖かたびらに銀拾両を添えて建碑を依頼したもので、江戸赤穂よりも魁けて建立されたといわれています」と駒札に記されています。 境内には討ち入りの状況を彫刻した群像が建立されています。浄瑠璃・歌舞伎の伝統を継承する大阪らしさを感じてしまいます。 境内には様々な仏像が安置されています。一度拝見するのをお勧めします。私の頭の中に、京都・大阪での赤穂義士関連の史跡がいろいろネットワークとしてできつつあります。拝見済みと一部未拝見を含めてですが・・・・。京都・山科 大石神社、岩屋寺(四十七士木像、大石良雄関連遺品)、山科の居宅跡京都・東山 法住寺(四十七士木像)、泉涌寺・来迎院(赤穂義士・大石義雄建立の茶室『含翠軒』)京都・岡崎 本妙寺(赤穂義士の寺。赤穂義士吉田中左衛・同沢右衛門および貝賀弥左衛夫妻らの墓、四十七士木像)京都・下京区寺町通 聖光寺(大石良雄の母、天野屋利兵衛の墓)大阪については、この七福神関連で検索していて、なんと、長久寺の境内墓地に、赤穂浪士の1人である「原惣右衛門の墓」があることを知りました。(資料5)ついつい脇道にそれました。「四天王寺」は谷町筋を歩いて行くと、その境内へは乾門、中之門、そして石ノ鳥居と3箇所の入口があります。我がウォーキングのグループは石ノ鳥居から四天王寺の境内に入りました。鳥居の先には丹色の「極楽門」、その先に「五重塔」の上部が見えます。極楽門の手前を右折すると、四天王寺の「布袋堂」です。手前に「乳布袋尊」の石標が建てられています。 これが四天王寺のほていさん 堂内に入り拝見すると、本尊は石像の布袋尊です。ちょっとユーモラスで大変親しみのあるお顔です。「聖徳太子の乳母をここにお祀りしたとの説もあり、世に乳布袋、ちちのおんばさんと称して、乳を望む婦人の信仰を集めてきた」そうです(説明文より)。もともと布袋堂は聖徳太子のうばをまつつたお堂なのだとか。布袋は、9世紀末から10世紀はじめ(後梁代)に中国で活躍した伝説的存在の僧のようです。「唐末に出た四明山の僧で、・・・吉凶・晴雨を予知したという。諱は契此(かいし)」という説明も一書(資料6)にあります。楽天的な性格の人で常に微笑しており、周囲の人々に親切だったそうです。「常に布の袋をかついで喜捨を求めて歩き、布袋和尚と呼ばれた」人(『日本語大辞典』)。この僧の「没後に、布袋和尚を弥勒菩薩の化身とする考えが広がり、福徳円満の相をもつ和尚が福の神とされた」(資料4)のです。そんなところから、財福の神様として信仰されているのです。ウィキペディアに紹介されている日本一の大きさの布袋尊像を引用します。(資料7)この像があるのは姫路の通宝山彌勒寺。そのホームページにも布袋さんの説明が載っています。こちらからどうぞご覧ください。つづく参照資料1) 七福神 :ウィキペディア 2) 『戦国合戦事典』 小和田哲男著 PHP文庫 p412 『真田太平記 (十)大阪入城』 池波正太郎著 新潮文庫 p395 「冬の陣・布陣図」が掲載されています。3) 福禄寿 :ウィキペディア 4)『知っておきたい日本の神様』 武光誠著 角川ソフィア文庫 p137-1385) 大圓山長久寺 :「大阪再発見!」 6)『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p4847) 布袋 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺七福神(福禄寿・寿老人) :「寺社関連の豆知識」 七福神(布袋) :「寺社関連の豆知識」 落語「福禄寿」の舞台を歩く :「落語の舞台を歩く」 四明山 :「コトバンク」 真田山三光神社 オフィシャルブログ こちらに、長久寺・福禄寿の写真が掲載されています。 真田丸 :ウィキペディア真田丸の戦い :ウィキペディア真田丸の攻防 :「大阪の陣絵巻」 赤穂浪士 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 大阪の七福神巡りとその余禄 -2 今宮戎神社(えびす大神)、大国主神社(日出大国神) へ探訪 [再録] 大阪の七福神巡りとその余禄 -3 大乗坊(毘沙門天)、法案寺(弁財天) へ
2017.11.04
コメント(0)

中之島にある国立国際美術館で、2017年7月18日から10月15日まで「バベルの塔」展が開催されていました。このとき、中之島から梅田まで歩いてみたときの記録を兼ねたご紹介です。冒頭の画像は国立国際美術館の入口です。この時は円筒形の入口部分の内側に、「バベルの塔」の画像が拡大されて、塔の中に迎え入れるかのように展示されていました。入口を入り、エスカレーターで地下1階に向かうと、受付の傍にも大きく拡大した絵が展示されています。これは展覧会を鑑賞後に購入した図録の表紙です。(資料1)ピーテル・ブリューゲルは父子がともに画家ですが、この「バベルの塔」を描いたのは父親のピーテル・ブリューゲル1世です。そして、この絵はボイスマン美術館に所蔵されていて、1568年頃に板に油彩で描いた作品です。この展覧会で、ピーテル・ブリューゲル1世が1569年に没する少し前、最晩年に描いた作品であることを知った次第です。この「バベルの塔」の絵の実物を一度直に眺めたかったのです。それがやっと実現しました。『旧約聖書』の『創世記』第11章の1節から9節に記されている話です。(資料2)ノアの洪水の後、ノアの箱舟で生き延びたノアの子らが、再び地上で諸民族の分かれ出でる祖となって行きます。ノアの洪水話の後にこの塔の話が出て来ます。『創世記』によると、このとき人々は同じ言語を使っていたとしています。そして、東の方からシナルの平地に移住し、「さあ、われわれは一つの町を建て、その頂が天に達する一つの塔を造り、それによってわれわれの名を有名にしよう。全地の面に散らされるといけないから」(4節・資料2)と巨大な塔造りを煉瓦と瀝青を使って築き始めたのです。シナルの地に来て最初に始めたのが塔づくりだと記します。これを天上からその在り様を眺めたヤハウエが、「今に彼らの企てる何事も不可能なことはなくなるだろう」とみて、地に降りていき、人々の言葉を混乱させ、全地の面に人々を散らされたと述べています。このとき、神の怒りが鉄槌を下し、塔を破壊し、「全地の言葉を乱し(バーテル)」し、人々を地球上に分散させたというのです。それが諸民族諸言語の起こりだと記すのです。「バベルの塔」の絵を本で見て、その出処を知りたくて、かつてこの章を読んだ時、世界に諸言語の違いがあることの起源を旧約聖書がこのように説明しているのが非常に印象深かったことを記憶します。そして、バベルの塔の大凡のイメージがピーテル・ブリューゲル1世の描いた絵のイメージで私には定着したのです。会場に東京藝術大学COI拠点複製画「バベルの塔」コーナーがあり、その研究のプロセスと成果の展示が併設展示されていて、興味深く見ることができました。それにより、一層この作品の緻密な細部の描写に着目することになった次第です。59.9cm×74.6cmという比較的小さなサイズの作品だったので、少し意外な印象もありました。もっと大きな絵のイメージがあったからでしょう。残念ながら展覧会は既に閉会となりました。これは、先日四国の入口、鳴門に所在する「大塚国際美術館」を訪ねた時に館内で撮ったピーテル・ブリューゲル1世のもう一つの作品です。この美術館は著名作品のレプリカを陶板で制作して展示しています。これは同じ画家により1563年に描かれた「バベルの塔」で、ウィーン美術史美術館所蔵のものです。上記「大凡のイメージ」と記したのは、私が最初に本で見た絵がどちらの「バベルの塔」だったのか・・・・・記憶が判然としないことによります。図録の解説によると、より広く親しまれ、画集に掲載される頻度が高かったのはウィーン美術史美術館所蔵の作品の方だそうです。今回の美術展で知ったのは、バベルの塔をテーマに様々な画家が描いていることと、ピーテル・ブリューゲル1世の作品が影響力を持っているということでした。もう一つ、この展覧会で印象深かったのは、ヒエロニムス・ボスの描いた数点の原画を見ることができたことと、この奇想画家の作品が原点となって、「ボスのように描く」という様々な画家が後に輩出してきたことです。そしてピーテル・ブリューゲル1世自身が、ヒエロニムス流の版画を数多く制作しているということでした。それは時代の要請、流行だったのかもしれません。館内には、こんな「撮影コーナー」が設置されていました。最近、展覧会に行き、こういう記念写真用特設コーナーの設置が当たり前になってきているな・・・と感じます。美術館を出た後、所用で梅田に行く予定があったので、JR大阪駅を目指して久しぶりに適宜写真を撮りながら「犬も歩けば」式に準備なしの探索ウォーキングをすることにしました。この後は、その折に発見したスポットを含めたご紹介です。美術館を出ると、北に田簑橋南詰まで行き、右折して中島通を一筋東の渡辺橋まで歩きます。ここで渡辺橋を北に渡ります。 堂島川を西に眺めると、阪神高速1号環状線の高架道路の橋脚が川に沿って林立し、同11号池田線の高架道路が川上を斜めに横切っていきます。川端には高層ビルが林立する大都会の無機質な機能美の風景です。堂島1丁目の交差点まで北上し、この交差点で今までに歩いたことのない道を歩いて大阪駅方向に行ってみようという意図だけで右折し、高層ビルの谷間の道に折れ曲がりました。そして、発見したのがこのミラーボールのような建造物。円形の池の中に四角い舞台があるので、好奇心からちょっと回り込んでみると、 黒っぽい門柱に「堂島薬師堂」と刻されています。ミラーボールのように見えたのがお堂でした。後で少し調べてみました。この傍に建つ高層ビルは「堂島アバンザ」という名称でした。このビルの東側に位置します。この堂島薬師堂は、推古天皇の時代からこの地にあったお堂だそうです。かつては洲の中にお堂が建っている状態で、海上を航行する舟からお堂がよく見えたことから、このお堂の建つ島が「堂島」と呼ばれ、地名の由来になったと言われています。「戦後、毎日新聞社が増築した際、敷地内に祀られていた薬師堂を敷地東向いの社有地に移設しました。そして、堂島アバンザを建設するにあたり、奈良・薬師寺と地元の堂島薬師堂奉賛会の要請もあり、かつてあった場所に戻ったのです。」(資料2)以前は瓦屋根の建物だったそうです。高層ビルの景観との調和を考慮し、お堂をミラーガラス127枚を使った直径7mの球状にデザインしたと言います。本尊は薬師如来像ですが、併せて地蔵菩薩、弘法大師像も安置されているそうです。お堂の前には、「合掌」をモチーフとした燭台アーチが設置されています。(資料2,3,4)あれ!これ何?と人目を引きつけておもしろいと思います。この近辺の地図(Mapion)はこちらからご覧ください。この堂島薬師堂では、毎年2月に「節分お水汲み祭り」が盛大に催されているそうです。ネット検索していて知ったのですが、今年(2017)が第14回だったのです。薬師堂でお水汲み並びに護摩苦厳修が行われます。一方で、龍の巡業や仮装行列が行われたり、北新地選考会で「北新地クイーン」が選ばれるという催しも行われているようです。土地柄の面白さを加えている感じです。(資料5)このすぐ近くで、もう一つの史跡を見つけました。「曽根崎川跡」という史跡です。これはその説明碑です。 傍に建てられた「蜆橋」の碑です。この川跡碑の設置された少し南に、堂島1丁目と曽根崎新地1丁目の境界道路が東西方向にあります。この道路の北側を堂島川から分流した川がかつては西方向へ孤を描きながら流れ、船津橋付近で堂島川に合流していたと言います。この付近では「蜆(しじみ)川」と呼ばれていた曽根崎川が存在していたのです。この蜆川(曽根崎川)は、旧淀川の支流、つまり自然河川の1本でした。「その名前の由来は、堂島シジミと呼ばれるシジミがとれたからとも、川幅が徐々に縮んだので、ちぢみ川から転訛(てんか)したものともいわれる」(資料6)とか。「元禄初期、河村瑞賢(かわむらずいけん)により改修され、曽根崎新地や堂島新地がひらかれ、茶屋がならび賑わった。明治42年北の大火後、焼跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、大正13年にはすべて姿を消した」(資料7、説明碑)そうです。この曽根崎川、この辺りで俗に蜆川とも呼ばれ、そこに「蜆橋」が架けられていたという次第です。(資料8、説明碑)近松門左衛門の「心中天網島」を読むと、下之巻の冒頭の語りに、「恋なさけ爰(ここ)を瀬にせん蜆川、流るる水も行き通ふ、人も音せぬ丑満つの、空十五夜の月冴(さ)えて・・・・」と、蜆川が語りに出てきます。そして、「名ごりの橋づくし」の冒頭の語りの後半部に、曽根崎川に関わる橋名が綴られているのです。「・・・・移香も何と冷泉流の蜆川、西に見て朝夕渡る此橋の、天神橋は其昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて太宰府へ、たつた一飛梅田橋、跡老松の緑橋、別れを歎き悲しみて、跡にこがるる桜橋、今に咄を聞渡る、一首の歌の御威徳」と(資料9)。蜆橋・梅田橋・緑橋・桜橋の橋名が組み込まれています。近くにタクシー乗車の制限の掲示の地図が掲示されています。これで位置関係がご理解いただけるでしょう。現在地の赤丸が記されています。川跡碑はこの場所の近くです。 大阪駅前ビル群の間を抜けて、 大阪マルビルの近くから、ビルの谷間の空間にこんな時計タワーを眺めつつ、JR大阪駅に至りました。無計画の大阪駅前ミニ探訪記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『BABEL ブリューゲル「バベルの塔」展』 当日購入した図録2) 堂島薬師堂 :「堂島アバンザ」3) 堂島薬師堂 :「eoおでかけ」4) 大阪駅徒歩圏内に1400年の歴史!堂島の地名由来の薬師堂 :「Travel.jp」5) 堂島薬師堂 節分お水汲み祭り :「OSAKA INFO」6)『大阪「地理・地名・地図」の謎』 谷川彰英著 実業之日本社7) 曽根崎川(そねざきがわ)跡碑 :「大阪市」8) 蜆橋 :「大阪市」9) 古典の部屋 直接pdfファイルが開くサイトです。補遺北新地の華、仮装で行列 堂島薬師堂「お水汲み祭り」 2017.2.4 :「産経ニュース」 曽根崎川 :ウィキペディア大阪駅の変貌~大火で消えた幻の曽根崎川 :「今日は何の日? 徒然日記」堂島アバンザ ホームページ平成28年 堂島薬師堂節分お水汲み祭り :YouTube堂島薬師堂お水汲み祭り :YouTube現代語訳 心中天網島 下之巻2 :「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」 名残の橋尽くしの現代語訳が冒頭に出てきます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.11.03
コメント(0)

多賀大社の前から近江鉄道・多賀大社前駅傍にたつ多賀大社の石造大鳥居までの道路が「絵馬通り」です。 路傍の要所要所に小ぶりな石灯籠が建てられています(2013年6月撮影)。冒頭の部分図は既にご紹介した「多賀三社まいり」の資料から引用しました。こちらからその観光案内資料がpdfファイルとして入手できます。お試しください。この「絵馬通り」について、2013年6月の記録、「探訪 [再録] 滋賀・湖北 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -4 多賀大社の後、村山たか、真如寺、延命地蔵尊 」でご紹介しています。こちらを併せてご覧いただけるとうれしいです。多賀大社の大きな石造鳥居の前にあるお店や「村山たか女」の生家の場所と説明板・駒札は上記探訪でご紹介しました。写真が全く重複しますので、重複は避けたいと思います。 絵馬通りから多賀大社の西参道入口へ向かうとすると、朱塗りの壁で一部三階建ての木造建築があります。 その建物は、有形文化財として登録されている料理旅館「かぎ楼」です。元禄2年(1689)創業という料理旅館。江戸時代は「鍵屋」と称されていたとか。当時の民家で3階建て部分があれば、やはり目立った存在になったでしょうね。 絵馬通りの反対側には、「多賀風月堂」と会席料理の看板がかかっている「亀屋」が並んでいます。地図には「旅館かめや」と記載されています。どちらも昔の佇まいを留めた店構えです。レトロな雰囲気 ・・・・。 絵馬通りに立って、多賀大社の方向を撮ったもの。この辺りは町並としては昔の雰囲気・景観をまだ維持されている感じです。駅の方に進むと、一つの辻で、京道と多賀大社への道を示す石道標が建てられています。上記ブログ記事でも載せていますが、道標傍に置かれた花の鉢と遠くの木々の葉の色合いの変化で、雰囲気が少し変わるものだな・・・と感じます。そういう意味では、季節、訪れる時季を変えた再訪は楽しみが増えるものです。回り込んでみると、現在の道標は明治19年という年号が陰刻されています。地図(Mapion)をご覧いただくと、その位置と道がおわかりいただけるでしょう。小川長寿堂薬局さんの西角に建てられています。次の画像の道案内図と合わせて、三次元でのイメージを思い描いてください。絵馬通りに面した「真如寺」(浄土宗)の境内の東南角に「地蔵堂」が在ります。前回の探訪時には意識していなかったのですが、その東隣のフェンスにある道案内掲示が参考になります。この御堂の位置は、多賀大社前駅までは400m、多賀大社までは350mとあり、絵馬通りのほぼ中間あたりにあることがわかります。 真如寺(しんにょじ)の山門から眺めた本堂ズームアップで木鼻を撮ってみました。象がしっかりと彫刻されています。築地塀の前には、この寺の本尊となている木造阿弥陀如来坐像の由来説明が記されています。多賀大社の神仏習合が明治の神仏分離令によって、分離されることになった際、多賀大社にあった本地堂の本地仏阿弥陀如来坐像がこちらに遷されたということです。ところが、江戸時代の文化2年(1805)に出版された『木曽路名所図会』に多賀大社の絵が載っています。それを引用しますと、その時点では矩形で赤くマーキングした場所が「本地堂址」として礎石で描かれているだけです。大釜が残された德川幕府の大々的な造営・修復は、寛永年間と元禄年間、つまり1600年代のことです。200年も経過すると、多賀大社の状況も変化・盛衰があるということなのでしょう。本地堂にあった阿弥陀仏坐像は、大社境内の別の神宮寺に遷されていたということなのでしょうか。文化2年時点の絵では、八角堂、不動堂、宝蔵もその址の表記だけであり、代わりに不動院、不動という建物が描かれています。(資料1)真如寺と桜町延命地蔵尊との間に位置する辻でこの道標を見かけました。道標の下部が少し埋もれた形ですが「とりもと」と読めそうなので「鳥居本」への方向表示でしょうか。 桜町延命地蔵尊石標の下部に、「三途河姥」と「閻魔大王」という文字が刻されています。この地蔵堂は、天保年間(1830~1840)に、多賀名物となっている糸切餅を発案した北国屋市兵衛という人が、木之本地蔵の分身を請い建立されたと言われています。(説明板より)御堂の格子扉から撮らせて頂いた画像をご覧いただくと、冒頭の部分図中の説明にある通り、向かって左側に閻魔大王が鎮座するのが見えます。右側の三途河姥は上掲ブログ記事に載せた画像に写っています。 御堂の左側には石造地蔵尊坐像が鎮座します。 来迎三尊仏石像そして左側の覆屋には多くの地蔵石仏が並べて安置されています。その左端には飾り瓦のようです。私は初めて見た造形ですが、象とのセットと考えると普賢菩薩のイメージなのでしょうか。その傍には、2つの頭部だけが置かれています。これもまた、興味を惹かれるところですが・・・・。 「もんぜん亭」を通り過ぎると、多賀大社前駅がすぐ傍です。「もんぜん亭」とこの駅傍の大鳥居は、今回の探訪の集合時刻前に撮ったものです。これで、青龍山を反時計回りに周回しながらの「あるいてまいろう多賀三社まいり」が終了しました。快晴に恵まれた気持ちの良いウォーキング、歴史史跡探訪を満喫できました。関係者の皆様に感謝!ご一読ありがとうございます。参照資料1) 木曽路名所図会 巻之1-6 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画] 巻2の20コマめ :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館) 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺桜町延命地蔵尊 :「後藤奇臺の湖國浪漫風土記」三途川 :ウィキペディア奪衣婆 :ウィキペディア閻魔 :ウィキペディア普賢菩薩 :ウィキペディア普賢菩薩 :「e國寶」多賀大社の多賀参詣曼陀羅に隠された謎 :「Fukyo Taisaku」 古例大祭(多賀祭り)で神輿が太閤橋を渡る動画画面も登場。参考になります。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ
2017.11.02
コメント(0)

多賀大社境内の全貌を理解するには、多賀大社のホームページに掲載されている「多賀大社境内全図」をご覧になるのが一番わかりやすいと思います。こちらからご覧ください。今回は多賀大社境内に鎮座する摂社・末社について、探訪した目線でこの全図ページも参考にさせていただきながらご紹介します。冒頭の画像は、多賀大社の摂社「日向神社」で眺めた紅葉の風景です。それでは探訪で巡った順序をベースにして、摂末社を巡っていきましょう。前回ご案内した太閤橋(そり橋)と御神門との間、御神門に向かって左(西)に「天満神社」があります。言うまでもなく、祭神は菅原道真です。いまや学問と受験の神様。 小社の造りはシンプルです。傍に祈願した杓子を納める場所が設けられています。一方、向かって右(東)には、2つの境内社が祀られています。向かって左が「愛宕(あたご)神社」で、右が「秋葉神社」です。背後の紅葉がきれいでした。この二社はいずれも「火」に関わる神、カグツチ神が祭神です。カグツチ神は火産霊神(ほむすびのかみ)の名で祀られていることも多いそうです。愛宕神社は京都の愛宕山山頂に鎮座する神社で、愛宕信仰の総本社です。一方、秋葉神社は静岡県の秋葉山に鎮座する神社で、秋葉信仰の総本社。鎮火、火難除けという防火に関連する関東・関西の分霊が並んで祀られているわけです。建てられている駒札を見ると、愛宕神社は「火産霊神・伊邪那美神」の二柱と記されており、秋葉神社は「火産霊賀具都知(かぐつち)神」と記されています。御神門を通り、神楽殿の東回廊まで歩むと、ちょうど「寿命石」の背後に隠れるように2つの小社が並んでいます。向かって左の小社に3社、右の小社に2社が鎮座します。わかりやすいように左から順に神社名と祀られている祭神名を列挙します。熊野新宮 速玉之男神天神(あまつかみ)神社 天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神熊野神社 櫛美気野命(素戔嗚命)聖(ひじり)神社 少彦名命三宮(さんのみや)神社 天地開闢で出現した神々(神世七代の系統)天神神社と三宮神社は天地開闢(かいびゃく)によって出現したとされる神々の創生神話の2つの系統の神々が祭神なのです。三宮神社は国常立尊(クニノトコタチノミコト)から始まる神世七代の系統の神々です。木札に記された神名を並べてみますと、 ツノクイノミコト・イククイノミコト オオトノジノミコト・オオトマベノミコト オモダルノミコト・カシコネノミコトの三代になります。(木札の文字を手許の本を参照して判別してみました。)寿命石の右側(東)には、北方向に鎮座する「金咲稲荷神社」の鳥居と参道入口があります。その近くに、小社が鎮座します。ここにも二社が祀られています。「年神神社」と「竃神神社」です。小社には神社名だけが表記されています。手許の本を参照すると、大年神(おおとしのかみ:別称・大歳神)は、民俗信仰では年神(としがみ)とか年徳神(としとくしん)として知られる稲の稔りの神とほぼ同一なのだとか。「年」というのは祈年祭(としごいまつり)のトシであり、豊年をつかさどる霊力を象徴するようです。大年神は、『古事記』の中に、スサノオノミコトがオオヤマヅミノカミの娘であるカミオオイチヒメノミコトと結婚して、オオトシノカミとウカノミタマノカミを生んだとされています。竃神は荒神(三宝荒神/三方荒神)であるという信仰が民衆の中に根強く定着しているそうです。一方、神道では、オキツヒコ・オキツヒメの二柱を竃神とする考えがあるようです。今回、金咲稲荷神社の方は巡っていません。拙ブログの「探訪 [再録] 滋賀・湖北 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社」をご覧いただけるとうれしいです。前回ご紹介した文庫・神輿庫・鐘楼・太閤蔵の立ち並ぶ区域よりさらに境内の西を巡っていきました。 最初に目にしたのが「夷(えびす)神社」です。 石積みの敷地の上に小社が鎮座します。駒札に記されていますが、祭神は「事代主神(ことしろぬしのかみ)」です。大国主命(オオクニヌシノミコト)の御子で、出雲神話の国譲りで中心をなす神の一柱。七福神の一人・恵比須(えびす)神に擬せられている神でもあります。ここにはもう1つ駒札が建てられています。「般若院跡」を説明するものです。明治以前の神仏習合の時代には、多賀大社の境内に神宮寺があり、その一つがこの場所にあった「般若院」と伝わるようです。般若院は彦根藩主・井伊家の宿坊の機能を担っていたようです。つまり、その跡地に、夷神社が勧請されたということでしょう。神社に近づいて拝見し、その造作が立派なことにちょっとびっくりです。参道を通り過ぎるだけにせず、現地をご覧いただきたいと思います。その彫刻の技を部分拡大します。ご覧ください。 正面、向拝の頭貫上に施された龍の彫刻の豪華さ、木鼻の象の彫りとその姿 また脇障子の彫刻に圧倒されます。小社本殿の造立にかなりの思い入れがある感じです。信仰心の強烈さでしょうか。 屋根の拝み部分の懸魚の意匠が少しユニークです。 社殿側面の蟇股には兎の彫刻が施されています。私は小社の建物でこれほどまで彫刻により装飾性を加えたものを見たことがありません。見応えがありました。境内の一番西側に、摂社としての「日向神社」が鎮座しています。ここは他の境内社と少し雰囲気が異なります。 ここが多賀大社の西参道入口なのです。その参道を入った正面が「日向神社」です。鳥居をくぐると、左側に手水舎があります。この区域の境内はゆったりしたスペースでちょっと独立した雰囲気を感じました。 神社に近づいて、駒札を読み、なるほどと思った次第です。「日向神社」自体が延喜式内社だったのです。昭和9年になって多賀大社の摂社に設定されたという訳ですから、もとは独立した神社としての歴史があったことになります。祭神はニニギノミコトです。ニニギノミコトはアマテラスオオミカミの孫で、天孫降臨神話の主役になる神。『日本書紀』にはアマツヒコホノニニギノミコトと記されています。多賀大社がアマテラスオオミカミの親神を祭神としていますので、ここにひ孫の神が祀られていたということになります。天孫降臨神話としては、ニニギノミコトが地上の統治者となります。一方で、高天原から稲種を地上にもたらし、地上における稲作の起源になったとされています。この本殿の彫刻もなかなかすばらしいです。 こんな感じです。そう思いませんか?もともと独立した神社だったからでしょうか、本殿の傍に境内社があります。 子安神社祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)です。オオヤマヅミノカミの御女で、ニニギノミコトと結婚する女神です。ニニギノミコトとは一夜の交わりで妊娠したとされています。それがニニギノミコトの疑いをまねくことにも・・・・。生まれた御子が、海幸彦・山幸彦という名称で知っている神とホスセリノミコトの三神です。 神明両宮神明両宮とは、伊勢神宮の内宮と外宮を意味します。内宮の祭神は天照大神(アマテラスオオミカミ)です。神道では日本の総氏神とされる最高神という位置づけです。外宮の祭神は大受大神(トヨウケノオオカミ)で、伊勢神宮の御饌(みけ)の神だとされています。つまり、天照大神の食物の調達をうけ負った神様。稲の聖霊の神格化されたものと考えられているようです。そのため中世以降、農耕神として信仰される神です。この二柱が祀られていることになります。多賀大社の境内全体を眺めると、天照大神に関わる三代の神々-親・本人・孫-と、神々の創生神話時代の神々、系譜のつながる神々が集っておられることになります。分霊とはいえ、お多賀さんに参れば数多くの主要な神社を参拝するのと同じということになりますね。それに、稲荷神社も鎮座するのですから・・・・。後は、多賀大社から多賀大社駅前に向かう絵馬通りを通るだけです。つづく参照資料*『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部民夫著 PHP文庫*『知っておきたい日本の神様』 武光 誠 角川ソフィア文庫*『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺天地開闢(日本神話) :ウィキペディアかまど神 :ウィキペディア国常立尊 → 国之常立神 :ウィキペディアニニギ :ウィキペディア日向大神宮 :ウィキペディア京の伊勢 日向大神宮 ホームページニンイギノミコトとコノハナサクヤヒメの出会い :「ひむか神話街道」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.02
コメント(0)

「多賀三社まいり」として、胡宮神社・大瀧神社と歩いてきました。この冒頭の多賀大社が最終探訪地です。しかし、ルートマップでおわかりのとおり、大瀧神社から多賀大社に”歩いてまいろう”がためには、青龍山の山麓を東回りで半周していくことになります。大瀧神社前の県道226号線に沿ってしばらく歩き、滝の宮の道標があるところから、青龍山の方向に向かいます。まず目指すは「木中地蔵」です。オレンジ色の丸から空色の丸に向かいます。詳細な地図(Mapion)はこちらをご覧ください。ただし、寺名は地図に記載なしです。 その道程で要所要所でお地蔵様が祀られている小祠をみかけました。 青龍山を眺めながら、富之尾地区にある「富尾山瑞光寺」を訪れました。 境内に「延命木中地蔵尊」の石標が建てられています。今回は残念ながら、本尊「木造地蔵菩薩立像」を拝見できませんでした。約170cmの等身大の大きさで鎌倉時代の作のようです。「源頼朝が重い病気となった時に、この菩薩に祈願したところ、たちまち快復し、源頼朝はお礼に田畑や山を寄付した」(資料1)という伝えがあるそです。なぜ、「木中地蔵」なのか? これも伝承ですが、木ノ本町の「木之本地蔵」、岐阜県関市の「木ノ末地蔵」とを合わせて3体の地蔵が1本の木から作られたからなのだそうです。(資料1) 瑞光寺境内になるのかどうか定かではありませんが、本堂に向かって左側にある広い空地の端に、地蔵堂と思われる小祠と、ここにも八幡神社が鎮座しています。 そして、いよいよ青龍山の麓を南から東側に回っていきます。この辺りにあった道標には多賀大社まで3.7kmと記されています。 青龍山の東麓を歩みます。途中に、「野鳥の森 岩くら 頂上へ470M」「ここから さえずりのみち」という標識が出ています。横目に見ながら、国道307号線に出る道をひたすら歩きます。「胡宮神社前」というバス停の近くに出ることになります。ここから多賀大社まではわずかの距離です。国道に面して、駐車場と「多賀町観光案内所」の建物がある傍から、多賀大社の方に向かったのですが、多賀大社には東の方からアプローチすることになります。 ここでも途中で、多くの地蔵石仏と地蔵堂が目にとまりました。 ついに冒頭画像の多賀大社大鳥居に到着です。大鳥居の右側に、多賀大社境内全図や各種案内の掲示がでています。 鳥居をくぐると真っ先に目に入るのがこの「そり橋」です。「太閤橋」と呼ばれていますが、実際は「太鼓橋」。観光客がこの橋のそり具合を見て渡るチャレンジをしています。私もチャレンジしてみました。この橋は、本来は神橋なのですが・・・・。豊臣秀吉は、「母の病気平癒のため、1588(天正16)年に米1万石を寄進しており、これによって社殿整備がなされ、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという」(資料2)ことのようです。 築地塀には五本の白い横線が入っています。神社の格式がここにも顕れています。この白い横線は寺では定規筋と称されるようです。この筋塀は5本(5条)を最高位にして寺格を表す記号になっているのです。京都御所の築地塀は5本の白い横線が入っています。二条城の二の丸御殿に築地塀も同様です。(資料3)御神門に向かって右側に、大きな木造の屋形型灯籠が1基あり、その前には「夫婦桜」の駒札が立てられています。現在の社殿が、昭和7年(1932)に再建された折りに、延命長寿・夫婦和合の御神徳に因んで植えられた桜です。駒札末尾に記されているのが、次の短歌です。 延命の神の御前の花ざくら しだれしだれて今盛りなり 表門を入ると、左側に手水舎、 右側に神馬舎があり、その手前には多賀の名物、多賀杓子に願い事を記した杓子が架けられています。 神馬舎を正面から見て、近づいていくと、等身大の白馬像が奉納されています。 懸魚の造形が私には初めて見る形です。ちょっとユニーク。飾り金具には三つ巴紋が使われています。神馬舎の斜め左前に「さざれ石」が置かれています。手水舎のさらに左側には「絵馬殿」があります。 正面に見えるのが神楽殿と拝殿です。拝殿の向こうに、幣殿と本殿が縦に並んでいるのですが、残念ながら境内からは眺められません。祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)です。記紀神話では、この二柱は天照大神(アマテラスオオミカミ)の親神にあたります。有名な里謡(りよう)は「伊勢へ参らばお多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」というもの。「夫婦桜」にみるように、延命長寿・縁結びの神として古くから全国的に多賀信仰が広まっているのです。13世紀には神仏習合の多賀信仰が盛んだったといいます。「お多賀さん」として親しまれています。多くの戦国武将の崇敬も集めてきた大社です。 神楽殿に向かって右の東回廊の横には、「61歳の重源が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事願いが叶ったことを記念したもの」という石が置かれています。「延命石」と呼ばれているのです。今はそこに延命を祈願する人が、白石に名前等を記入して祈願奉納された石が多く積まれています。延命石のところから振りかえれば、南の方に「能舞殿」があります。 これが能舞殿鏡板に描かれた松の輪郭が何となくわかる感じに絵が風化してしまっています。 笈形と蟇股に深く刻み込まれた波紋文様には動きが感じられます。絵馬殿と社務所の間を西に進んでいくと、いくつかの建物などがあります。 最初に見えるのが「文庫」でその北隣に「大釜」を2つ並べた覆屋があります。この「文庫」は多賀大社大祢宜車戸宗功の邸内にあった建物で、宗功が長州や土佐の志士らと密議を行った建物だとか。明治維新前夜の秘史を物語る遺構として保存されているのです。「桜田門外の変」の後、彦根藩が勤王の旗印を明らかにする転向に際し、車戸宗功は後の伊藤博文ら勤王方と彦根藩老の仲介に奔走し大きな役割を果たしたとか。(駒札参照)「大釜」は、德川幕府が2度にわたって、大造営、大修復工事をおこない、多賀大社の社殿の荘厳を整えたそうです。「この2つの大釜は両度の正遷宮を記念して設けられた御湯神事の調度と言い伝える」ものだそうです。(駒札参照) 「大釜」の西には「神輿庫」、その隣りに「鐘楼」、さらに「太閤蔵」が並んでいます。今回訪れた時には神輿庫は閉まっていました。前回は扉が開けられていて、神輿を拝見しています。拙ブログの「探訪 [再録] 滋賀・湖北 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社」をご覧いただけるとうれしいです。多賀大社になぜ「鐘楼」が・・・?明治以前は神仏習合があたりまえで、神社の境内にお寺があったからなのです。明治の神仏分離令、廃仏毀釈の動きの中でこの「つり鐘」がお寺に移されることなく残ったということになります。境内にあった仏像等は町内のお寺に移されたそうです。しかし、このつり鐘は大きすぎて貰い手がなかったようです。室町時代後期の天文24年(1555)に鋳造されたつり鐘です。「天文5年から永禄6年にかけ室町幕府・佐々木六角氏・浅井氏らの奉賛のもとに社殿の大々的な修造を行ったので、このつり鐘もその修造事業の一つである」(説明板より)とのこと。説明板によると、その大きさは鐘身156.2cm、竜頭からの高さ209.2cm、口径127cmだそうで、「この時代以前のものは全国で380個が現存しており、大きさから言えば4番目に大きいといいます。」(資料1)0898「太閤蔵」は上述の秀吉による米1万石の奉納寄進により奥書院庭園などとともに行われた築造の一つだったのです。(駒札より)次回は、多賀大社境内にある境内社を巡ったまとめをご紹介します。つづく参照資料1) 「探訪 [近江 水の宝] 犬上川の源流をゆく-大瀧神社- 歩いてまいろう「多賀三社まいり」 当日配布資料2) 『滋賀県の歴史散歩 下 彦根・湖東・湖北・湖西』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p61-633) 築地塀 :ウィキペディア 二条城 築地塀と案内板 :「攻城団」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺多賀大社の一の鳥居 お多賀さんの一の鳥居は、なんと高宮町にあるのです。木之本地蔵大菩薩 木之本地蔵院ホームページ文化財の小径 整備、多賀大社参集殿前 :「しが 彦根新聞」 2013年3月27日水曜日寺院の塀に描かれている白い横線について知りたい。:「レファレンス共同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.02
コメント(0)

探訪ルート図では、薄緑色の丸を付けた「胡宮神社」を後にして、冒頭の画像に載せた「大門池」の傍を東側から南側に回り、黄色の丸を付けた「楢崎古墳」を経由して、オレンジ色の丸を付けた「大瀧神社」に向かいます。集落を通過する道路を歩いていて、「敏満寺」という地名表示をみて、敏満寺・東大寺領の歴史上の存在が、一層身近なものになりました。 地図(Mapion)の表記をご覧ください。冒頭に載せた「大門池」に向かう途中で目にとまったのが、名神高速道路にすぐ近い場所の「正覚禅寺」です。道路際の木の紅葉が見事でした。そして、大門池の東辺を通ります。この池の対岸から先の北西方向一帯が、かつては東大寺領だったのです。「現在の大門池は面積約6ha、水深約2m、貯水量9万立方mを誇る」ようで、古代からずっと灌漑用水としての重要な水源だったようです。「昭和20年(1945)の犬上川ダム完成以降は、主として防火用水として使用される」状況に変化しているそうです。(資料1)青龍山を背景にしながら田園風景の中を進みます。 大瀧神社に行くまでに気づいたことは、お地蔵様を祀る小祠・御堂や小さな石仏が数多いことと、八幡神社の鳥居のある小規模な境内があるのをいくつも見かけたことです。 犬上川沿いに歩き、金屋橋を渡ります。橋を渡った先が楢崎です。 金屋橋の上流側には「金屋頭首工」が設置されています。この施設は犬上川ダムとともに、湖東管内の基幹水利施設の一つになっているようです。(資料2)この金屋頭首工は、昭和7年の「犬上川騒動」を契機として、水利問題の抜本的解決のために、昭和8年(1933)に、一ノ井、二ノ井の合同井堰として設置されたといいます。(資料1)下流側の景色です。この下流側に「一ノ井堰之碑」が建立されているようですが、今回はウォーキング・ルート外のため見ることができませんでした。 町教委が実施した発掘調査(1995~1999年)によると、6世紀後半から7世紀中頃にわたって築造された古墳が61基確認されたそうです。発掘調査の1号古墳が、今は古墳公園として保存されているのです。古墳は犬上川左岸扇状地に分布しているそうで、出土品などから渡来系氏族と関係していたことが推定できるようです。(資料1,3)この古墳の傍にある説明板によれば、この1号墳は直径15.5m以上の円墳と考えられ、全長10.6mの横穴式石室が築かれているのだとか。楢崎古墳群の中で現存する唯一の古墳だそうです。『日本書紀』を読むと、推古天皇の23年秋9月に、犬上君御田鍬(みたすき)・矢田部造が大唐(隋)に遣隋使として派遣され、23年秋9月に帰国したという記述があります。また舒明天皇の2年秋8月5日、大仁犬上君三田耜(だいにんいぬかみのみたすき)・大仁薬師恵日(くすしえにち)が大唐に派遣され、4年秋8月に対馬経由で帰国のことが記されています。(資料4)この楢崎古墳群は、この犬上氏(犬上君)という古代の豪族と何らかの関係があったのでしょうね。そう想像すると、古代浪漫が広がります。その点について、当日入手の資料や現地での説明には触れられていませんが・・・・。こんな鳥居と社標のある八幡神社も目に止まりました。 川面に映じた紅葉紅葉速報で最初にご紹介したように、犬上川の源流へ近づいて行くと、「大瀧神社」に至ります。犬上川沿いに歩き、大瀧神社の境内に入ると、この建物がまず目に入ります。 その背後に、本殿と拝殿(と呼ぶのでしょうか)があります。一間社流造・檜皮葺の本殿の屋根部分が見えます。手水舎の傍に建てられた駒札に説明されていますが、祭神は高龗神(たかおおかみ)・闇龗神(やみおおかみ)が祀られていて、水分神(みずをわけるかみ)も祀られているとか。「高」は山、「闇」は谷、「龗」は水の神(竜神)を意味するとか。「滝の近くに鎮座し、雨をつかさどり、水脈を支配して農作物が繁茂するように大いなる恵みを授ける」(資料1)とされる神々です。江戸時代には「瀧ノ宮」と称され、多賀大社の奥宮に位置付けられていたそうです。現存する本殿(県指定有形文化財)は、寛永15年(1627)に德川家光の下知により造営されたもの。(資料1) 拝所の部分で見られる蟇股や木鼻はごくシンプルなものです。 石段の両側には小さな建屋が作られています。これは不詳。確認できず。 湯立釜と同屋根社殿に向かって右側に、手水舎があります。手水舎の右側が表参道なのです。 そこで、表参道側に行って見ました。表参道の入口で、石造鳥居があり、左側に「名勝 瀧之宮」の石標があり、右側には「大瀧神社」の石標が建てられています。この鳥居の前が県道226号線です。 この手前の石段(参道入口)の上が県道で、県道を挟んで反対側に、「犬胴松」があります。覆屋の中に見える枯れた松の大樹の幹です。この木には小石丸という犬の胴体を葬った塚に植えられたという伝えや、大蛇が稲依別王をねらった大樹であるとする伝えがあるそうです。入口の一ノ鳥居をくぐって表参道に入った正面の景色。紅葉風景の速報でご紹介した「下乗」碑はこの左側にあるのです。 表参道二ノ鳥居の少し手前の右側に「冨王稲荷神社」が鎮座します。建物扉の格子窓越しに中を拝見すると、お稻荷さんの小祠が鎮座していて、多くの白狐像が置かれているのが見えました。表参道からは、本殿の背面が見えます。この境内が昼食休憩タイムでしたので、境内の傍、谷間を流れる犬上川の源流の河原に下ってみました。大きな奇岩怪岩が折り重なるようになった間を水しぶきを上げながら水が流れていきます。紅葉した景色は見応えがあります。 大瀧神社に近づく途中で、犬上川を歩道から眺めた景色とはまたひと味違う景色です。谷の反対側の少し高みに小祠が見えます。以前は奇岩をつなげる形でコンクリートの橋が架けられていて、小祠の方に近づけたようですが、橋が消失していました。大雨増水のために破壊されたのかも・・・・。いただいた資料を見ると、「小石丸の首を鎮めた小祠」と伝わるようです。この「小石丸」という犬が、犬上郡名起源譚にかかわっているのです。『近江輿地志略』(享保19年/1734)に次の様な内容の伝説が記されているそうです。「むかし、この辺りに狩人が住み、犬を飼って狩りをしていた。ある時、大樹の下で休憩していると、犬が狩人に激しく吠えかかり、眠ろうとすると、ますます吠えて飛びかかり、衣服に噛みついて引っ張った。狩人は怒りに耐えきれず、剣を抜いて犬の首を切ってしまった。そうすると、犬の首は樹上に飛び上がって。大蛇の喉に噛みつき、大蛇といっしょに落ちて来て死んだ。狩人は驚いて、犬の忠死に深く感謝し、社を建て神として祀った。この犬を小石丸といい、上記の伝説から犬神もしくは犬咬が転じて犬上の群名がうまれたという」(資料1)と。この狩人が犬上君の祖稲依別王で、この大瀧神社の境内社・犬上神社として祀られているようです。本殿の傍、瑞垣の内に多分鎮座するのでしょう。私は周辺境内では見かけませんでした。 この後、表参道から県道226号線沿いに少し歩き、青龍山山麓の東側を回り込む形で、空色の丸「木中地蔵」を経由して、「多賀大社」に向かいます。つづく参照資料1) 「探訪 [近江 水の宝] 犬上川の源流をゆく-大瀧神社- 歩いてまいろう「多賀三社まいり」 当日配布資料2) 農業水利施設のアセットマネジメント :「滋賀県」3) 楢崎古墳 :「滋賀・びわ湖 観光情報」4) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p108,p128【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺犬上川ダム :「日本ダム協会」楢崎古墳 :「こころに残る滋賀の風景」楢崎1号墳の研究 細川修平氏 「紀要 第20号」(2007.3) 滋賀県文化財保護協会多賀町の楢崎古墳群が掲載されている資料を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」犬上御田鋤 :ウィキペディア犬上郡 :ウィキペディア稲依別王 :「せんせん」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.01
コメント(2)

探訪は多賀サービスエリアから裏参道を歩み、胡宮(このみや)神社の境内に入ります。ルート図では、青色の丸から薄緑色の丸に進む形です。境内を探訪の後、表参道から次の探訪地に向かいます。多賀大社前駅からだと、名神高速道路沿いに南へ1kmほどの距離になります。ここでは、表参道の鳥居を起点にして胡宮神社をご紹介します。この神社も、拙ブログで前回同様に再録してご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 滋賀・湖北 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -2 胡宮神社 )そこで今回も季節感の対比から取り上げる箇所を除いては重複をできるだけ避ける形で、ご紹介したい所存です。表参道の鳥居のあたりから、紅葉の美しさを堪能できました。この「胡宮神社」はもとは敏満寺の鎮守社だったのです。そこで、敏満寺の境内だったといわれる場所が、現在はこの神社の境内になっているのです。(資料1,2) 鳥居をくぐると、青龍山の北西麓にありますので、石段を上っていくことになります。参道両側の紅葉が様々な色のグラデーションになっていました。 石段を上がったところの右側は「御輿蔵」 この傍で見た紅葉と白い花とのコントラストが絶妙でした。 境内を北の方向に進んでいくと、「蓮弁の灯ろう台石」と「下乗石」を敏満寺の遺品として、並べて保存されています。 そして、説明碑も添えられています。ありし日の敏満寺の俤を伝えるものです。さらに石段をあがった、一段小高い境内に拝殿、さらに一段高くなった背後に本殿が所在します。 拝殿に近づき、中に入り本殿の方を眺めてみると、こんな雰囲気です。本殿が一段高い位置にありますので、ずっと近づかないと石段が見えるだけ。祭神は三柱です。 伊邪那伎命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト) 事勝国勝長狭命(コトカツクニカツナガサノミコト)多賀大社の祭神が、伊邪那伎命・伊邪那美命ですので、つながりが深く、多賀大社の別宮とされていたと言います。多賀二座の一とも伝えられています。青龍山山頂の「磐座」崇拝、巨石信仰がこの神社の起源といわれ、また敏達天皇の勅願によるともいわれているそうです。本殿は石垣積み、瑞垣のある一段高い境内ですので、本殿屋根を眺められるだけです。それでは境内を少し巡ってみましょう。拝殿の南には石段が2箇所あります。 拝殿正面から東にすこしずれた位置に、この一対の狛犬像がある方にも階段があります。拝殿に向かって右方向(東)に、「胡宮神社社務所庭園」の木札を掲げた立派な唐破風門があり、少し山道を辿っていくと一部庭が見えます。現在は拝観できません。この庭は、敏満寺塔頭の福寿院の庭だったそうで、明治時代前まで福寿院は胡宮神社の神宮寺だったそうです。来年(注記:2015年という意味)にはこの庭園が整備されるのだとか・・・・そんな説明をお聞きしたように思います。現在は(注記:2014[年時点)屋根が老朽化しているためか、テント地のカバーがかけられていてちょっと無惨です。 以前のご紹介とは違う箇所をご紹介します。 手前が裏参道に繋がる方向になる道です。 「胡宮神社のみ光を仰ぐ」という説明碑にも木々の紅葉が映じています。 この道の右側(西)に「絵馬堂」があります。そして絵馬堂の傍に石灯籠が2つ並んでいます。この石灯籠の傍に立つと、眼下に名神高速道路が見えます。 その一地点からの西の眺め左、つまり南側に大門池があり、その北側に集落が広がっています。大門池から北側一帯が、かつては東大寺領だったのです。現在、正倉院文書として東大寺近江国開田図というのが残っているそうです。それによると、この大門池は水沼池と記されているのです。本来は水沼村と呼ばれたところです。「水沼村参拾町」と「覇流(へる)村七拾町」が近江国司によって開発され、太政官の命令で東大寺に施入されたのです。敏満寺の大門がこの池の近くに位置していたので、大門池と呼ばれるようになったのだとか。さらに、「水沼」の音の転訛によって、「弥満」あるいは「敏満」と用字も変化したのだともいわれています。(資料1)合成すると、名神高速道路がカーブを描いたようになっていますが、これほどのカーブではなかったと思います。 重源上人が延命祈願をしてその願いが叶い、敏満寺に寄進したと伝わる銅製五輪塔(重文)を模した石造五輪塔と寄進文書の写しの陶板がともに境内に展示されています。 多賀SAからの道をくれば、境内で最初に目にとまるのが、この手水舎です。手水用の水槽を刳りぬいた大岩には、元治2年(1865)という年号が刻まれています。裏参道側にこんな大岩の手水舎があるのです。江戸時代にはかなりの参拝客が訪れたのでしょう。 この後、表参道の鳥居から大門池の方向に下って行きます。名神高速道路が建設されるにあたり、発掘調査が実施されました。現在は高速道路の高架下になるこの場所に敏満寺の仁王門があったのです。 つづく参照資料1)「探訪 [近江 水の宝] 犬上川の源流をゆく-大瀧神社- 歩いてまいろう「多賀三社まいり」 当日配布資料2) 胡宮神社 :「滋賀県観光情報」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺胡宮神社 (コノミヤ) :「滋賀県神社庁」観光地情報 神社・仏閣 :「多賀観光協会」シオツチノオジ :ウィキペディア大山積神の別名 :「あとんを探す」重源 :ウィキペディア俊乗房 重源 :「岡山人物往来」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.01
コメント(0)

前回は、「多賀三社まいり」11月下旬の紅葉風景を速報風にご紹介しました。それでは、本来の探訪内容のご紹介に入ります。 近江鉄道多賀大社前駅を出て眺めると、左手方向、目の前に大きな石造鳥居が見えます。「ようこそお多賀さん」という歓迎幕が貫(ぬき)の下に懸けてあります。鳥居に近づき一方の転び(柱)の下の方、亀腹の少し上に「石匠 多賀 永曾宇三郎」と陰刻されています。いつ頃の時代の匠でしょうか・・・・。パワスポ女子集合!いざ多賀大社へ「開運!近江の地獄めぐり」(全長700m)というPDFファイルを多賀観光協会さんが公開されています。今回の探訪目的の対象外ですが、序でに脇道としてご紹介しておきましょう。こちらからご覧ください。 まずは駅前にあるこの石のモニュメントの右側の道を回り込んで行きます。そして、この地図のルートを探訪ウォーキングしていくことになります。当日いただいた探訪資料に掲載の地図を切り出し、ルートに着色加工処理をしてみました。青龍山の麓をぐるりと反時計回りに探訪するのがおわかりいただけるでしょう。出発点が赤丸です。目指すは青丸のところ。これが多賀SAのすぐ傍なのです。このルートが「あるいてまいろう 多賀三社まいり」(多賀観光協会作成地図)のルートでもあります。今回のご紹介は、引用したこの部分図の「尼子・敏満寺・名神多賀サービスエリア」という文字が記されている辺りが該当ルートです。今回のこのルート箇所は、既にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 滋賀・湖北 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡) この時のブログ記事とできるだけ重複しない形で、別の眺めを中心にご紹介していきます。 まずは、太田川に架かる「よつやはし」を渡ります。橋詰めにはお地蔵様の小祠がありました。すぐ傍が名神高速道路で、高架下を抜けると、「尼子」地区になります。飯盛木(いもろぎ)の里です。高速道路のすぐ傍に「多賀大社御旅所 うちこ免の馬場」と記された大きな石碑が建てられています。その石碑あたりから西方向に「多賀道」が通っています。御旅所のところに、2つの小祠が鎮座しています。多賀道を眺めながら、左折していくと、多賀道との分岐点に建てられているのと同じこの表示が、上記ブログ記事で画像を載せているように、「多賀SAを経て胡宮神社」と記された道標の近くにも建てられています。緩やかな坂道を登っていくと、 その先が、後で上から撮ったこれらの画像に見える道路を上っていくことになるのです。上りきった上が、多賀サービスエリアに繋がっています。そして、このサービスエリアとなっている場所、そのものがかつては「敏満寺」を中心にしてその門前が宗教都市として発展していたのです。敏満寺が建てられていた場所は、次に訪れる現在の「胡宮(このみや)神社」の境内となっているところなのです。この2枚の画像の道路の向こう側辺りが、戦国期に城塞化した敏満寺の跡、つまり「敏満寺城跡」です。発掘調査(昭和61年・1986)が行われた後、現在は公園にして保存されています。「ぷらざ 多賀の湖」の石標が建てられています。かつては「新開城(しんがいじょう)」と呼ばれていたそうですが、発掘調査の後に「敏満寺城」と表記されるようになりました。土塁が周囲に廻らされています。この城跡まで上がってきた道路のところが、空堀だったところだとか。 永禄5年(1562)浅井長政、さらに元亀3年(1572)には織田信長の攻撃を受け、敏満寺は廃寺となってしまいます。永禄5年は敏満寺が久徳氏に味方したために、長政の攻撃を受け、大半の坊舎が炎上・焼失。元亀3年は織田信長の命令に従わなかったために、残る坊舎を焼き払われ、寺領も没収されてしまったのだとか。(資料1,2,現地説明碑) 敏満寺城跡から西方向の眺め サービスエリアの北端の建物の傍に「敏満寺遺跡」の説明碑があります。上段に説明文、見づらいですが下段には地図が描かれています。その傍も西方向に公園化されたスペースと東屋があります。ここも城塞化されていた一部なのでしょう。 敏満寺城跡側から眺めた標高333mの「青龍山」です。左峰山頂の磐座には、白蛇を神体とする小祠「竜宮」があり、水神信仰に彩られているそうです。青龍山そのものが敏満寺建立に先立つ信仰の対象となっていたのです。青龍山の南西麓には、「13~16世紀まで続く、現存するものとしてはわが国最大規模の中世墓群である石仏谷遺跡があります」(資料1)。国史跡になっています。この青龍山の北西麓の小台地上に敏満寺があったと推定されています。上記のとおり、そこが次の探訪地「胡宮神社」の境内地です。高速道路を跨ぐ高架橋を渡って、反対側に行きます。東側のサービスエリアの南端から、胡宮神社へ行く裏参道に繋がっています。高架橋の階段下には、胡宮神社への案内表示も出ています。多賀サービスエリア付近は、15~16世紀に城郭や町屋の遺構が大規模に展開していたところになります。 サービスエリアを外れたところに、「敏満寺遺跡」の航空写真入りの説明板があります。その背後は草原状になった平坦地が広がっています。 胡宮神社への裏参道はこんな感じです。 つづく参照資料1) 「探訪 [近江 水の宝] 犬上川の源流をゆく-大瀧神社- 歩いてまいろう「多賀三社まいり」 当日配布資料2) 『滋賀県の歴史散歩 下 彦根・湖東・湖北・湖西』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p61【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺敏満寺石仏谷墓跡 :「コトバンク」敏満寺石仏谷墓跡 :「文化遺産オンライン」青龍山(青竜山)333.1m :「MIHARUの山歩き」敏満寺遺跡発掘調査報告書 :「全国遺跡報告総覧」敏満寺遺跡・石仏谷墓石 :「多賀町立文化財センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.01
コメント(0)

2014年11月22日(土)に、滋賀県教育委員会の企画による探訪[近江 水の宝]の一環である「犬上川の源流をゆく-大瀧神社-歩いてまいろう『多賀三社まいり』」というテーマの探訪に参加しました。蒼空の秋空の下、近江・多賀での紅葉狩りとなった探訪記録です。まとめていたものを再録し、ご紹介します。先に再録しました異なる時季に参加した「俊乗坊重源の足跡を訪ねて」の探訪と併せてご覧いただけるとうれしいです。 (再録理由は付記にて)近江鉄道・多賀大社前駅10時10分に集合でした。今回の探訪は、 駅前~多賀SA(敏満寺跡)~胡宮神社~大瀧神社~多賀大社(現地解散) というルートで、標高333mの青龍山の麓を反時計回りにぐるりとウォーキングしたことになります。多賀観光協会・多賀町企画課の人々がご案内・サポートをしてくださいました。感謝! 多賀大社駅前と駅前にあるモニュメントです。多賀観光協会作成のリーフレットには、「叶♡多賀門」とネーミングされています。「願い事を絵馬に乗せて しあわせのスタートはここから!」というフレーズが・・・・。(資料1)まずは、11月下旬の今が見頃!の紅葉景色をご覧ください。 敏満寺遺跡多賀SAの場所は、かつては敏満寺があり、そこに宗教都市が形成されていたところです。戦国期には城塞化したところです。発掘調査されて、今は公園として整備されています。サービスエリアのすぐ傍です。 胡宮神社(このみやじんじゃ) 敏満寺があった場所に今は胡宮神社があります。 大門池 東端から西を眺めて 犬上川 金屋橋から上流方向の景色 犬上川の源流をゆく 大瀧神社の周辺にて 大瀧神社にて多賀大社 太閤橋の傍から秋葉神社を眺め 寿命石近くの紅葉とそこから眺めた社殿 菊華で「祝七五三」 社殿に向かって左側にて 絵馬殿の近くにて 大釜・神輿庫・鐘楼のあるエリア探訪ルート全体の紅葉狩速報はまずこの辺で・・・・・・。 駅前の案内板から切り出した関連エリア地図ご覧いただきありがとうございます。それでは、「多賀三社まいり」に歩いてまいろうではありませんか。つづく参照資料1)「パワスポ女子集合! いざ多賀大社へ」(多賀観光協会作成) ”開運! 近江の地獄めぐり”というおもしろいタイトルの見開きページ 参道あそびで厄落とし ここに記載のフレーズです。 2)「滋賀県多賀町ロードマップとあるいてまいろう多賀三社まいりコース」 (多賀観光協会作成) ウォーキングでの詳しい地図が載っています。道案内の道標が整備されています。 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺多賀大社 ホームページ胡宮神社 :「滋賀県観光情報」多賀観光協会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらも併せてご覧いただけるとうれしいいです。探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -2 胡宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -4 多賀大社の後、村山たか、真如寺、延命地蔵尊 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.01
コメント(0)
全48件 (48件中 1-48件目)
1