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境内地の南側にある社務所で、宝物館の拝観券を購入し、初めてこの回廊の間に設けられた通り抜けできる入口を通り境内地の南側を探訪しました。 本殿を囲む透かし塀(瑞垣)とこの回廊は逆V字形で繋がっています。社務所側の建物と本殿を往復するこの回廊は結構な長さがあります。その途中に、通り抜ける入口が設けられていて、この先が有料区域という訳です。 通り抜けると、右側にごく簡易な竹垣と中門がありその向こうに庭園が設けられています。 竹垣の少し先に、枝折戸があります。斜め前方に建物が見えます。 建物の手前の東面の雰囲気からは、茶室を備えた建屋の様に思えます。いただいた「拝観のしおり」には記載がありませんので不詳です。 振り返った景色 竹垣で仕切られた庭園の南東隅には、木立の間に十三重石塔が置かれています。神社境内のこの石塔は、旧方広寺趾の名残でしょうか。その背後の竹林の南側は、京都国立博物館の平成知新館があります。竹林が丁度遮蔽壁の役割を果たしています。 石畳の通路沿いに進むと「宝物館」が西に向いて建てられています。大正14年(1925)に開館され、外観を桃山風造りにした宝物館です。(資料1)「設計は武田五一によるものとされ、桃山時代風の日本の伝統的なデザインを踏襲した外観をもつ。構造は鉄筋コンクリート造で、我が国で最も古い時期に建てられた貴重な近代建築でもある。」(資料2)と説明されてもいます。 唐破風下部の正面の蟇股には七五桐紋がレリーフされた図柄の一部に組み入れられています。 開いた扉の正面内側に「鉄燈籠」が据えてあります。”天下一”辻与二郎実久作で重文に指定されています。慶長5年(1600)に鋳造したものだそうです。(資料1,3)これは元は豊国廟下の休鎮座地にあったものを移し、本殿内左右に設置されていたようですが、その後この宝物館に再移設されたのでしょう。(資料3)館内は薄暗く宝物館としても年代物という印象を拭えません。内部に入ると中央部は黒い幕で遮蔽されていて、ぐるりと館内を一周する形で壁面と中央側に陳列ケースが設けられています。西面、正面扉の左右に、狩野内膳筆「豊国祭礼図屏風」(重文)が一隻ずつ置かれています。そして、南面には併せて、「豊国祭礼図屏風」の高精細な複製屏風が平面状に壁面に展示されていて、屏風絵の全景を眺めることができます。この有名な屏風については、補遺をご覧ください。この宝物館には、豊臣秀吉や秀頼に関係した文書・武具・茶道具・什器類等約80点が展示されているようです。この豊国神社の復興にあたり当神社に寄贈された豊臣家関連文書などの展示も含まれています。鉄斎筆「豊公嫁を娶る図」も寄贈品の一つとして展示されています。上記六曲一双の屏風の他で、特に私が関心を持ったのは、「慶長四年豊臣秀頼公創立豊国神社之図」、「豊国築所聚楽城之図」という図です。展示品の拝見中にケース越しに展示品を眺めつつ、意識しなかったことがあります。それは、後で関連情報を検索していて知ったことです。「当ケースには開館当時からそのままの貴重な大正ガラスが嵌め込まれている」(資料2)とのこと。京都市内の由緒ある寺などで、時折廊下越しに庭を拝見するとき、ガラス戸に昔のガラスがそのまま使われて残っているのに気づくことがあります。この宝物館の展示ケースのガラスがその類いであったとは、気づきませんでした。宝物館を出て、周辺の探訪に移りました。 回廊越しに見えるのは本殿の屋根のようです。 境内にぽつんと井戸があります。旧方広寺に設けられていたものでしょうか。宝物館の背後、東側に回ってみると、そこは駐車場として利用されていましたが、その東南の隅に大きな五輪塔が見えました。 それがこの五輪塔。方形の少し大きい基壇の上に、この五輪塔が建立されています。高さ約2.5m。傍に、何の表示もありません。これが「馬塚」と称されるものでした。なぜ、馬塚と呼ばれるのか? そこには諸説があるようです。この五輪塔は江戸時代に建立されたもの。元和元年(1615)豊臣家が滅亡すると、徳川家康は阿弥陀ヶ峰の旧豊国社・豊国廟を取り壊してしまいます。そして、慶長5年(1600)に智積院玄宥が家康に愁訴していた願いを受け入れて、豊臣秀吉が早世した長子鶴松(捨君)の菩提を弔うために建立した祥雲寺や豊国社領であった土地建物を彼に寄進したのです。智積院玄宥は徳川氏の庇護を得て、この地で智山派の再興に邁進していくことになります。現在ある智積院の創建です。一方、大仏殿・蓮華王院(三十三間堂)・後白河法皇御影堂・新日吉社の管理はすべて、天台宗延暦寺派に属する別院の妙法院門跡に委ねられることになります。徳川氏は政策的にそれまでの豊臣色を一掃してしまうのです。勿論、参道は塞がれてしまいます。徳川幕府の執政下で、秀吉を慕う京都の民衆が、旧方広寺内のこの場所に代拝所として建立したのがこの五輪塔という次第です。人々はひそかにここに参詣したといいます。この場所から少し東に南北の通り、東大路通があり、この通りを少し北に行くと、渋谷通と交差します。この交差点は「馬町」と言い、往時の地名が残っています。この辺りでかつて馬の市があったために馬町と呼ばれるようになったそうです。この地名に因んで、この代拝所としての五輪塔を「馬塚」と称したという説があるのです。一種のカモフラージュということでしょうか。一書に「秀吉御馬塚」と記します。この場合は字句通りだと秀吉が馬の供養塚を設けたという意味にもなりそうです。(資料1,2) 五輪塔を観察すると、五大に対してそれぞれ梵字が刻まれています。地輪に刻まれた梵字の左右に文字が刻されていますが、摩滅もしていて判読できません。 入口に戻る時にぽつねんと石仏が置かれているのが目に止まりました。 定印を結ぶ阿弥陀如来坐像と見受けます。 唐門に向かって左側、境内の北端に境内社があります。 本殿を囲む透かし塀の北面に隣り合って覆屋が設けられています。 中には、「槙本大明神」と墨書された赤提灯が吊り下げられた小祠があります。稲荷社が祀られています。 小規模ですがなかなか整った建物です。蝦虹梁が目に止まりました。木鼻はごくシンプルな造形です。 豊国神社境内地の探訪できる範囲は凡そ拝見しましたので、正面の石鳥居からどちらの道をとるか。やはり正面通を西に抜けて、JR京都駅に向かうことにしました。そこで行程の一部を最後に併せてご紹介します。 正面石段下を約30m西に下って行くと、南側に高さ約7mの小高い丘陵状の上に五輪塔があります。この五輪塔の五大にそれぞれ梵字が刻まれています。「耳塚(鼻塚)」と称されています。「史跡方広寺石塁および石塔」として史跡指定されています。 16世紀末、豊臣秀吉が命じて行った暴挙である文禄・慶長の役に関連する遺跡です。「秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる『耳塚(鼻塚)』のはじまりである。」(説明文一部転記)上記の「馬塚」も案内板に記載の「史跡指定地位置図」によれば、この史跡指定の一部となっています。北西側から眺めた景色 正面通をそのまま西に進むと、川端通に出て、鴨川に架かる「正面橋」を渡ります。 これは、橋の傍から川端通東側の正面通を眺めた景色です。豊国神社石段下の道路幅と比べて、どれくらい道路幅が狭まっているかが対比できます。 橋を渡りさらに西へ直進すると、高瀬川に架かる「志よめんはし」(しょうめんばし)を渡ることになります。この橋を渡れば、少し先が河原町通です。河原町通の西側は東本願寺の「渉成園(枳穀邸)」という史跡庭園の築地塀です。渉成園の西に烏丸通、烏丸通に面して東本願寺がその西側にあります。河原町通から東本願寺の背後(西側)までの区間、正面通は途切れます。その先で正面通が再びつづきます。ここにも、徳川幕府の政策的意図が表出しています。この「渉成園(枳穀邸)」についても、拙ブログで既にご紹介しています。話が逸れました。この探訪では、高瀬川沿いに南に進み七条通に出て、JR京都駅まで歩くことにしました。高瀬川沿いの方がしばらく静かな散策ができますので・・・・。これでこの探訪記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 「豊国神社 -参拝のしおり-」 宝物館拝観の際いただいたリーフレット2) 豊国神社・宝物館 高度博物館学教育プログラム :「國學院大学大学院」3) 『昭和名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p113-114補遺豊国祭礼図屏風 :「文化遺産オンライン」豊国祭礼図屏風(左隻):「文化遺産オンライン」京都・豊国神社の重要文化財「豊国祭礼図屏風」の高精細複製を制作 :「DNP」最新技術で重文「豊国祭礼図屏風」複製 汚れなど…原本と違わぬ高精細 京都で公開 :「産経新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 豊国神社 ふたたび -1 唐門・石灯籠・社殿ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 2回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -4 智積院観照&探訪 京都・東山 「海北友松」展と智積院拾遺スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 2回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。
2019.03.30
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京都国立博物館の正門は大和大路通に面しています。太閤石垣を見ながら数分北に歩むと、「豊国神社」の大きな石鳥居の前です。 「豊國大明神」と記された青銅製の扁額が掲げてあります。石段を上り、境内に入ると、左側(北側)に手水舎があります。 手水鉢の正面には、五七桐の紋がレリーフされています。太閤桐を描いた水指様の陶器から突き出た青竹が水の注ぎ口になっています。よくある青銅製龍像を使っていないところがおもしろい。手水舎傍の場所から参道を振り返ると、石鳥居の先に延びる道路が正面通です。この幅の広い正面通は最初に本町通と交差します。それから先は急激に道幅が縮小する形で、正面通が河原町通まで続き、そこから先は分断され途切れる箇所がありますが、正面通は西に延びています。その理由は以前のブログ記事に書いていますので略します。 参道を進むと、左側に石灯籠が立ち、竿に「豊國神社」と刻されています。背面のかなり摩耗した記載から明治14年4月の献備と読み取れそうです。 (2019.3.15時点)すぐ傍に、「蜂須賀桜」と記された駒札が立つ桜の木はかなり開花していました。 参道の前面には大唐門が偉容を示しています。入母屋造、檜皮葺、前後に唐破風が付されています。四脚門です。(資料1)参道の右側に駒札が見えます。 現在の豊国神社は、明治13年(1880)に明治天皇の沙汰により別格官幣社として、ここに復興されました。唐門は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺金地院を経て、ここに移築されました。国宝に指定されています。国宝の三唐門と称されるものの一つになります。後の2つは、西本願寺と大徳寺の唐門です。(駒札、資料1,2) これは江戸時代に出版された『都名所図会』(1780年刊)の挿絵です。(資料3)ここは、旧方広寺大仏殿の跡地です。江戸時代のこの絵にみられる通り、かつては方広寺の太閤垣と繋がる形で南に塀が延びていて、三十三間堂も含めた境内地になっていたのです。では、神社はどこにあったのか。豊臣秀吉が62年の生涯を伏見城で終えると、遺命により東山連峰の一つである「阿弥陀ヶ峰」の頂上に埋葬されました。そして、慶長4年(1599)阿弥陀ヶ峰の中腹に、壮大な社殿が造営されて、秀吉を祭神とし「豊国社」と呼ばれたのです。その場所は、豊国廟太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれています。豊国廟は拙ブログで既にご紹介しています。唐門の細部拝見に移りましょう。 この唐門に、石鳥居に掲げられた扁額の文字のオリジナルが掲げてあります。この「豊国大明神」という神号は後陽成天皇が与えられたもので、この神額はその宸筆によるもの。旧豊国社伝来の勅額だそうです。(資料1,2)扁額の背後、本柱の頭貫上の欄間は二羽の鴻(こう)の鳥の丸彫りを中心にした装飾彫刻で飾られています。この鴻の鳥は左甚五郎作といわれているとか。門の装飾は従来の枠にとらわれない自由奔放さで派手やかさ豪華さを表現していて、この唐門が桃山時代の代表作であることが頷けます。 手前の頭貫の中央には巨大な桐唐草模様の蟇股が見えます。 垂木の先端は金具で覆ってあります。 木鼻はシンプルな造詣ですが飾り金具で覆われています。一箇所の木鼻が何を表象しているのか定かではりません、これだけは装飾金具が使われていません。 五七桐紋が飾り金具の中央に組み込まれています。飾り金具が装飾彫刻とともに豪華さを生み出しています。唐門は総欅造りです。この門の創建当時は彫刻等に金箔が施してあったと伝えられています。(資料2) 唐門前に立つと、拝殿とその奥に本殿が見えます。本殿に並び、向かって右側(南隣り)に、見えるのが摂社の「貞照神社」です。貞照神社は大正14年に創建され、祭神として豊臣秀吉の正夫人、従一位北政所(きたのまんどころ)吉子を祀るそうです。いわうる「おねねの方」です。(資料2) 桟唐戸の門は上部は花狭間で、中央には幾何学文様の浮彫が施され、下部には流水を遡る鯉が浮彫にされています。 鳥害除けにネットが貼られていて見づらいですが、四脚門の側面を見上げると、豪華な草花文様の彫刻で欄間が飾られています。飾り金具が一層壮麗さを加えるようです。 柱の釘隠しに施された線刻文様の中に、よく見ると菊花紋に加え七五桐紋も描かれています。 瓢箪型の絵馬が千成り瓢箪状に吊り下げてあります。瑞垣の透かし窓のところにもかなり吊り下げられています。 透かし塀の前には、火袋が六角型の石灯籠が並べてあります。唐門前の参道の左右に並んでいたという説明がいくつかの資料に見える石灯籠がこれらに相当するのでしょう。「高さ8尺2寸5分(約2.5m)。秀吉恩顧の諸大名が奉献したもので、竿に大野修理大夫治長の名も見える」(資料1)。かつては阿弥陀ヶ峰に立てられていたものでしょう。 屋根の獅子口には、七五桐紋が施されています。豊国神社のこのあたりは自由に拝見できます。境内地の南側に社務所があります。その東の奥に、宝物館がありますが、こちらは有料です。今回、初めてそのエリアを拝見しました。つづく参照資料1)『昭和名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p113-1142)「豊国神社 -参拝のしおり-」 宝物館拝観の際いただいたリーフレット3) 都名所図会 6巻. [3] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 13/88コマ、14/88コマ補遺豊国神社 ツイート豊国神社 :ウィキペディア豊国神社 :「玄松子の記憶」大仏殿 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 豊国神社 ふたたび -2 庭園・宝物館・馬塚・境内社と耳塚・正面通 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 方広寺と豊国神社、そして京博の庭からスポット探訪 京都・東山 阿弥陀ケ峯と豊国廟
2019.03.29
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京都国立博物館(以下、京博と略す)の正門です。この門は現在団体入口として利用されています。一方、七条通に面した南門から入館し、この正門を通り抜けて大和大路通に退館することはできます。はや終了しましたが、特別企画「中国近代絵画の巨匠 斉白石」の後期展示と特集展示「雛まつりと人形」を鑑賞に行った後、正門から退館する時に眺めてみました。大和大路通からこの門までは緩やかな斜面に石敷のかなりゆったりとしたアプローチになっています。この煉瓦造のレトロ感溢れる風趣に私は魅了されています。以前にも一部ご紹介していますが、一度全体のご紹介をしたいと思います。京博の構内全体図は、京博ホームページの「施設案内」をこちらからご覧ください。正門から正面(東方向)を眺めますと、噴水のある庭の向こうに、「明治古都館」が見えます。明治古都館も煉瓦造の建物です。煉瓦造のこの建物に併せて、正門と袖塀が煉瓦造で建てられたというべきなのでしょう。明治古都館と正門は、明治28年10月に竣工しました。設計者は宮内省内匠寮技師片山東熊(かたやまとうくま)博士です。今では明治中期洋風建築の貴重な建造物となっています。「明治古都館」(旧陳列館)が平屋建・煉瓦造のフレンチ・ルネサンス様式ということですので、この煉瓦造の正門や袖塀も同様式といえるのでしょう。昭和44年(1969)に「明治古都館」とともに、この表門、札売場及び袖塀も重要文化財に指定されています。 門の傍のドーム型屋根のある建物部分が、入館のための札売場になるのでしょう。 門柱の上部が層塔風で重厚な装飾が施され、その頭頂部に外灯が設置されています。 この屋根の飾りが優雅です。 正門の両側(南北)は相似形になっています。正門北側を異なる角度で眺めた景色です。 正門は中央の観音開きの門扉の両側に、脇門があります。勅撰と曲線の幾何学的文様を組み合わせてデザインされた鉄扉です。 脇門の門柱部分上部と円筒形建物壁面の接合部の装飾 門の傍の建物は円筒形と立方体形を組み合わせています。煉瓦造だからできる建物の形状と言えるのかもしれません。 この松の伸び方がおもしろい! 煉瓦塀の内側に落葉した枝振りが三角形状ですくっと屹立している樹木も景観として私の好きなものの一つです。 北側に目を転じてみます。 北側は煉瓦塀が太閤石垣と接続する形で建てられています。京都国立博物館は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけては、豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿があったところです。太閤石垣はその遺構です。 煉瓦塀の内側に見えるのが「平成知新館」です。 これは私のお気に入りの樹木を平成知新館内部の東側通路から眺めた景色です。 平成知新館の入口東側辺りから樹木を眺めた景色です。この写真を撮っている位置あたりは、かつて方広寺の建物の礎石趾が発掘調査で確認されている近くです。明治古都館と正門・煉瓦塀は、明治中期という時代を感じるための格好の建造物だと思います。傍に立って眺めてみてください。この日、正門から退館しましたので、豊国神社を採訪してみました。別稿として、ご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料京都国立博物館 ホームページ『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p109-113補遺片山東熊 :ウィキペディア片山東熊 :「近代建築写真館」第16回日本近代建築の夜明け :「本の万華鏡」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 京都国立博物館 -2 庭を眺めて ← 2018.12.30 掲載記事スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 ← 2017.2.5.掲載記事探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア ← 2016.8.19 掲載記事
2019.03.28
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バス停に戻ると、乗る予定時刻までまだ少しゆとりがあるので、じっと待っているよりも・・・・・と、天龍寺の方向に少し歩いてみることにしました。すると、目にとまったのがこの石仏群です。 双体の道祖神像です。お顔の表情が愛らしい。 観音菩薩立像がその隣りに。向かって右の小さな像は、道祖神像の現代版でしょうか。あるいは、わらべ像? 三者三様のお地蔵さま。笑顔が素敵です。わらべ地蔵のカテゴリーに入るのでしょうね。私がすぐに連想するのは、大原・三千院の庭にいらっしゃるわらべ地蔵と、東福寺の塔頭・霊源院の山門から正面に見える六躰のわらべ地蔵です。 これらの石仏を見ながら、その少し先には、 側面に四方仏を浮彫にした水鉢風のものが置かれています。 さらに、石の大黒さんも。 その傍に、「三秀院」という木札が門柱に掲げてある簡易な門が開いていて、右側に「東向大黒天」と刻された碑が見えます。境内を訪ねてみました。参道を歩むと、左側前方に門が見えます。 手前にこの石碑が建立されています。 上部に文が刻されていて、下部に観音菩薩坐像が線刻されています。 (2015.9.10)こちらは以前に探訪で天龍寺に来たとき撮った写真です。天龍寺の境内には、南北に塔頭が並んでいます。「三秀院」はその塔頭の一つで、北側の塔頭の並びの東端に位置します。つまり、天龍寺の総門を入ったすぐ右側です。それで、天龍寺門前の南北方向の道路からも、三秀院境内への簡易な門があったわけです。天龍寺は後醍醐天皇の冥福と南北朝の戦の犠牲者の霊を慰めるために、足利尊氏が夢窓国師を請じて建立したお寺です。臨済宗天龍寺派の大本山です。(資料1)また、歴史を遡れば、鎌倉時代、後嵯峨上皇の造営による仙洞亀山殿、それ以前は既にご紹介した平安時代初期、檀林皇后ゆかりの檀林寺跡に繋がって行きます。この三秀院は、南北朝時代、貞治2年(1363)に夢窓国師の法嗣(後継者)不遷法序を開基として創建されたと言います。不遷上人の号が三秀だそうですから、寺名はそれに由来するのでしょう。当初の境内地は、霊庇廟の南だったとか。その後荒廃し、江戸時代、寛文年間(1661~1673)に後水尾天皇によって中興されたそうです。しかし、幕末、元治元年(1864)の禁門の変に際し、天龍寺が長州藩兵の屯営となったことで、幕府軍の攻撃を受け一山焼亡します。明治の廃仏毀釈でさらに寺運は衰微。その後に、天龍寺の整備復興が進み、今日に至ります。三秀院は、明治5年(1872)に塔頭養静軒を合併して現在地に再建されたのだそうです。(資料2,3,4) 山門の傍だったと思いますが、稲荷大明神と福徳辨財天が祀られているのが目にとまりました。 参道を真っ直ぐに進みますと、手水舎が左側に見えます。 参道の正面にお堂が見えます。 「東向大黒天」が祀られるお堂です。正面に「東向大黒尊天」と墨書した赤提灯が吊されています。 宝船の扁額が掲げてあります。 堂内を眺めますと、大黒天像の一部だけが垣間見えます。以前に掲載した天龍寺の探訪記でご紹介していますが、「天龍寺七福神」を巡ることができます。三秀院(大黒天)-弘源寺(毘沙門天)-慈済院(弁財天)-松厳寺(福禄寿)-永明院(恵比須神)-寿寧院(不動明王)-妙智院(宝徳稲荷)という具合に。尚、天龍寺の七福神は布袋、寿老人の代わりに不動明王と稲荷となっています。(資料5) 少し手前で、参道を右折しますと、北方向に本堂が見えます。 この本堂は昭和40年(1965)に再建されたもので、天井には彫金の鳳凰図が飾られているそうです。(資料4) 資料拝見できないのが残念。 境内の西辺に各種の石塔が並んでいます。 南端に一番大きい十三重石塔が建立されています。 塔身には四方仏が浮彫されています。これは東面ですので、浮彫にしてあるのは阿閦(あしゅく)如来です。 参道を引き返すとき、左側に「仏足石」があることに気づきました。 仏足石にもお賽銭が布施されています。三秀院を出てバス停に戻り、当初の予定通り集合場所・愛宕念仏寺門前に向かうため、京都バスに乗車しました。最後に、この探訪日の一番最初に立ち寄った先をご紹介します。 JR「嵯峨嵐山」駅から、「トロッコ嵯峨」駅の建物傍の道を進み、野宮神社に向かう途中、嵐山高架橋の下を通り抜けたところにある「平成院(へいじょういん)」です。真言宗大覚寺派のお寺で、「亀峰山(きほうざん)」を山号とするお寺です。実にオープンな境内地ですので、少し拝見してみました。 そのきっかけはこのお地蔵様。4人の幼児を抱いている坐像です。子育て地蔵というところでしょうか。あるいは、水子地蔵? もう一つは、弘法大師立像や六地蔵が道路側から目に止まり、境内の北方向に石塔が見えます。いずれも近年奉納されたもののようで、このお寺自体がまさに平成時代に開山されたのかな・・・・と思えたことです。調べてみると、「平成院は真言宗大覚寺派、御本尊を如意輪観音様とする、比較的新しいお寺です。JR嵯峨嵐山駅から徒歩6分のところにございます。毎月10日は御詠歌、28日は護摩行を行っております。」(2015.2.17)とツイートされています。(資料6) 七重石塔の塔身には四仏の梵字が刻まれています。基礎には格狭間が刻まれ、蓮華や瑞鳥が浮彫してあるようです。 小規模な境内に比し、相対的に大きな石造物---地蔵菩薩立像、観音菩薩立像、五輪塔など---が奉納されています。そのコントラストがおもしろい。 境内の南西隅で、道路際に「御剱大明神」と神名を刻した碑があり、覆屋が設けられています。今回はこの神名碑と赤い鳥居の関係が理解できないままに終わりました。道路から入ると、すぐ左側に神名碑があり、鳥居は南面して立ち、北方向に立つ建物(たぶん本堂)を目指すことになりますので・・・。ちょっと気になるおもしろそうなお寺です。 これで今回の探訪記を終わります。記録として整理していて、幾つか課題が残りました。いずれまた嵐山奥嵯峨を再訪することになりそうです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p298-299,2) 天龍寺三秀院 :「いこまいけ髙岡」3) 不遷法序 :「コトバンク」4) 三秀院 :「京都通百科事典」5) 天龍寺七福神 :「京の霊場」6) 亀峰山平成院 ツイート補遺観光ルート:天竜寺七福神めぐり :「京都観光Navi」天龍寺 ホームページ三千院のご案内 :「三千院」霊源院について :「霊源院」仏足石 :ウィキペディア仏足石 2005年4月 今月の法話 :「浄教寺」仏教豆知識 仏足石 :「三井寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) 5回のシリーズで天龍寺とその界隈をご紹介しています。
2019.03.26
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野宮神社の前の道を北方向に進みますと、JR嵯峨野線の踏切があります。その踏切の少し手前、右側(東)に小柴垣の前にある案内碑が目にとまりました。 それがこの案内です。オープンな入口から中を覗くと、苑地の中に石碑が点在しています。それほど広くはないのですが、散策しつつ一周できるように通路が設けられています。それなりに観光客が立ち寄っています。勿論、苑地をしばし散策してみました。 秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ 天智天皇 小倉百人一首 第1番 この天智天皇歌碑の書は日比野光鳳と傍の案内文に記されています。(以下同様敬称略)小倉百人一首の撰者は藤原定家と言われています。その撰歌のソースを意識することはあまりなかったのですが、「古今集から続後撰集に至る十種の歌集」だそうです。上掲の案内碑から学びました。ここには、『後撰集』から撰ばれた七首の歌碑を建立して紹介されています。『後撰集』は天暦5年(951)に村上天皇の勅命により編纂された勅撰和歌集。撰者は「梨壺の五人」と総称されます。大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城です。歌撰所が照陽舎(梨壺)に置かれたことで、「梨壺の五人」と称されるそうです。天暦9年(955)前後に成立、撰歌数約1,400首で、『古今集』を基準とした配列。相対的に歌はくだけた感があるとか。恋の贈答歌が多いという特徴があるそうです。(案内文より)大中臣能宣・清原元輔・源順の3人は、平安中期に藤原公任が選んだ「三十六歌仙」に含まれる歌人たちです。そして、清原元輔は清少納言の父親。三十六歌仙の一人・紀貫之の子が紀時文。同様に三十六歌仙の一人・坂上是則の子が坂上望城です。(『日本語大辞典』講談社)天智天皇歌碑の上部が平らなためか、小石の塔がいくつもできています。誰かが始めるとそれに倣う人がいるのでしょう。何か祈願をしたのでしょうか。山で登山者のみちしるべに作られるケルンのミニチュア版にも見えます。一方見方を変えると、賽の河原の石積み・・・・も連想します。 これやこの 行(ゆ)くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 蝉丸 第10番 書 石田静子 つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵(ふち)となりぬる 陽成院 第13番 書 池田桂鳳 わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる みをつくしても あはむとぞ思ふ 元良親王 第20番 書 山本万里 名にしおはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかずら 人に知られで くるよしもがな 三条右大臣(藤原定方) 第25番 書 不詳「奈良絵本 百人一首」より 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける 文屋朝康 第37番 書 柴山持豊「文化5年版本」より 浅茅生(あさぢふ)の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 参議等(源等) 第39番 書 三宅相舟 今回の個人探訪でもう一箇所訪れることができました。それはバス停から野宮神社に向かう道にあったのです。この案内図に「新勅撰集」と赤字で記されている場所です。バス停に戻る時に立ち寄りました。 こちらの小倉百人一首文芸苑には、鉄製門扉が設けてあります。バス停や民家にほど近い立地だからでしょうか。 『新勅撰集』からは、藤原定家の歌を含め4首が撰ばれています。貞元元年(1232)後堀河天皇の勅命による勅撰和歌集です。藤原定家が文暦2年(1235)に撰者となりました。撰歌数約1,400首。承久の乱後の最初の勅撰集であり、撰歌には政治的配慮をせざるを得なかったというもの。歌風は平淡優雅さに特徴があるとか。(案内文より) 世の中は つねにもがもな 渚(なぎさ)こぐ あまの小舟の 綱手かなしも 鎌倉右大臣(源実朝) 第93番 書 大脇双琳 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり 入道前太政大臣(藤原公任) 第96番 書 不詳 こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ 権中納言定家(藤原定家) 第97番 書 冷泉為人 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける 従二位家隆(藤原家隆) 第98番 書 木村道子上掲の屋外展示施設の案内図に記されているとおり、この2箇所以外に、さらに3箇所に百人一首文芸苑が設置されていることがわかります。長神の杜 新古今集・詞花集嵐山公園亀山地区 古今集・拾遺集・後拾遺集嵐山東公園 続後撰集・金葉集・千載集この続きを探訪する課題が残りました。まだまだ、嵐山・奥嵯峨を楽しめそうです。次回が今回の探訪記の最後です。つづく参照資料 『百人一首 全訳注』 有吉保著 講談社学術文庫補遺小倉百人一首 :「コトバンク」百人一首 :ウィキペディア百人一首全首一覧と意味、解説。小倉百人一首人気和歌ランキングベスト20も! :「四季の美」小倉百人一首 - 一覧(歌番号順) :「学ぶ・教える.COM」百人一首 簡単に暗記について :「百人一首-簡単暗記-」跡見学園女子大学/図書館所蔵百人一首コレクション東洋大学百人一首貴重書コレクション〔12月1日~1月31日〕 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.25
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個人探訪の続きで、野宮神社周辺のご紹介に移ります。野宮神社を出ると、「亀山公園道」の道標の立つ分岐点から、「竹林の小径」に入ります。 道を進むと、「六尊坊墓地」の掲示板がある入口の傍に様々な形式の石仏が並び、石造地蔵菩薩立像が安置されています。 道の南側に「臨済宗天龍寺 専門道場」という大きな木札を掛けた門があります。竹林の小径の南側は天龍寺の境内です。 築地塀の先に建仁寺垣が続きます。 その先に「天龍寺北門」があります。この門のあることをは知りませんでした。 竹林の小径は、観光客で満ちていました。静寂を漂わせる竹林の道の風情を撮ることはよほど時間帯を選ばないと不可能な感じです。道を進むと突き当たりがT字路になっています。左折し南方向に向かえば亀山公園、右折すれば「トロッコ嵐山」駅の傍を経由し、小倉池に向かいます。まずは小倉池方向の探訪に。 右折するとほどなく「大河内山荘」の石標と入口のスロープが見えます。竹林の小径の突き当たり西側一帯は「大河内山荘」です。ここをかなり昔に一度訪れたことがあります。この先は下り坂になります。「渡月橋1.0km 落合3.7km」と表示した道標が立ち、この道が東海道自然歩道に組み込まれていることがわかります。「トロッコ嵐山」駅の建物を右方向に眺めつつ、坂道を下りますと、 「小倉池」の畔に至ります。下ったところに、「御髪神社」の標識が立っています。 池の西側手前に、神社が遠望できます。池を左方向に回り込んで、この神社を探訪しました。 北側に社務所があります。参拝客が居ましたのでその部分は撮りませんでしたが、神社の全景です。小倉山の麓、小倉池に面してひっそりと存在する神社です。 これは後で、小倉山の中腹に登ったときに、設置されていた説明板に掲示の広域地図を切り出したものです。これで位置関係がご理解いただけるでしょう。マゼンダ色の丸あたりが、野宮神社で、青い丸を付けたところが「御髪神社」、赤丸を付けた場所が、この地図の掲示されていた神社背後の小倉山の中腹です。この辺りの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。まずは、「小倉山」からご紹介をしましょう。大堰川を隔てて、南側の嵐山と相対して北側に小倉山があります。海抜292mという低山で緩やかな山容です。「をぐらやま(小倉山・小椋山)」は古来から歌枕になっていて、「『小暗し(をぐらし)』という意を掛けてよまれる場合がほとんどであった」(資料1)そうです。 大堰川浮かべる舟の篝火にをぐらの山も名のみなりけり 後撰集・雑三・業平 篝火により「小暗い」はずの小倉山が実施は明るく照らされている・・・ 名前だけになっている、と詠んでいます。 いかにせむ小倉の山のほととぎすおぼつかなしと音のみぞ鳴く 後撰集・夏・師尹 まわりが小暗いのでほととぎすがはっきりと見えずつかみどころがない・・・ と嘆く心境を詠んでいます。一方で、紅葉の名所として小倉山が詠まれています。常寂光院境内の歌碑でご紹介していますが、世に親炙している歌は、「百人一首」に撰ばれた歌です。 小倉山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびの行幸(みゆき)待たなん 拾遺集・巻十七・雑秋 貞信公 延喜7年(907)宇多上皇が大堰川遊覧の御幸の時、山の紅葉があまりにも 美しいので、醍醐天皇も行幸されるべきだと感想をおっしゃったと言います。 それに対して、藤原忠平(貞信公)がこの歌を詠んだそうです。紀貫之は小倉山の鹿を題材に歌を詠んでいます。 小倉山峰たちならし鳴く鹿のへにけむ秋を知る人ぞなき 古今集・物名 小倉山の峰を幾度となく歩き巡り過ごしてきた鹿に思いを馳せています。 夕づく夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ 古今集・秋下出家後、ある時期二尊院の近くに庵を結んだ西行法師もまた、小倉山を詠み込んだ歌を作っています。 牡鹿なく小倉の山のすそ近みただひとりすむわが心かな 山家集・上・秋歌 わが物と秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより 同上 小倉山麓の里に木の葉散れば梢に晴るる月を見るかな 新古今集・巻六・冬歌なお、歌枕の「をぐらやま」は大和の国の小倉山にもあてはめられ、万葉集の時代から詠まれていると言います。(資料1)業平の歌から類推できますが、古くは嵐山も含めて小倉山と称されていたようです。「しかるに後嵯峨上皇が亀山殿を造営し、吉野より桜を移植して嵐山とよばれてより、大堰川北岸の山のみを小倉山と称するようになった」(資料2)と言います。 神社の鳥居には、「御髪神」と記された扁額が掲げてあります。 小振りな本殿には覆屋が設けられています。一間社流造りで銅板葺きです。 「御髪(みかみ)神社」の由緒が鳥居の傍に掲示されています。祭神は、藤原鎌足の末裔の一人、藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき)だそうです。実在人物の神格化ということでしょう。由緒は興味深いところがあります。藤原基春の子で三男にあたる政之が下関で髪結職として生計を立てることになり「髪結業の始祖」になったということのようです。京の藤原氏係累の息子がなぜ? 亀山天皇時代に父の基春が宝物係であったが所管の宝物が紛失した責任をとり、その探索のため諸国行脚の旅に出たからだとか。下関に居を構えたということは、探索の万策が尽きて諦めた時に下関に居たということでしょうか。三男の政之が髪結織を地方で行っていて、その力量が京に伝わり、政之は京に戻ってその力量を発揮したということでしょうか。疑問が湧きます。そこで少しネット検索して調べてみると、次のことがわかりました。(資料3)*下関の亀山八幡宮境内に「床屋発祥の地」碑が平成7年7月に建立されている。*三男政之は新羅人の髪結職からその技術を学び、下関で我が国初の結髪所を開いた。*結髪所の奥には、亀山天皇と藤原家祖先を祀る立派な床の間(とこの祭壇)が設けられていた。 「床の間のある店」⇒「床場」⇒「床屋」の屋号 ⇒「床屋」の由来に*政之は髪結所で生計を立てる一方、紛失した宝刀の探索を継続し、その後遂に見つけて宝刀を朝廷に返還した。*政之は、後に鎌倉に移住し京都風の結髪職として幕府に重用された。要点をまとめましたが、引用に留まります。御髪神社のホームページに「御髪神社とは」のページがあります。上記と同趣旨の説明がさらに詳しく記されています。御髪神社が、全国理容生活衛生同業組合連合会(東京都)により、2018年8月20日に「理容遺産」に認定されたという報道記事を見つけました。 (「京都・御髪神社「理容遺産」に 理容業の歴史伝承を象徴」2018.8.22付報道、京都新聞)その記事によりますと、「1931年に京都市内に理容学校を創立した故児玉林三郎さんらにより、御髪神社は61年に建立された」とのこと。昭和時代に神格化されるに至ったのです。小説の素材になりそう・・・・・・。(尚、内容について検討されている郷土史研究家のブログ記事も見つけました。補遺をご覧ください。)下関市の亀山八幡宮では県内の理容業者らの参加で毛髪供養祭が行われています。 (毎日新聞2017年12月5日地方版報道) 正面に幕が吊されていますので、頭貫の木鼻が見づらいのですが、蟇股はよく観察すると雲龍の透かし彫りです。小さな境内ですが、一隅に「髪塚」が建立されています。平安時代の女性の長い艶やかな黒髪そのものが美人の基準でもありました。髪は「遺髪」という言葉がある様に、人が生前に残す事ができる分身ともされたものです。その髪を「副神として納祭し祈拝」する塚だとされています。「針塚」「包丁塚」などと同様に、これもまた一種の供養碑なのでしょう。 なぜか境内に毘沙門天立像と思われる石像が安置されています。右手の持物は京都・鞍馬寺藏の毘沙門天立像(国宝)の持物と同種で矛の一種でしょう。鞍馬寺の毘沙門天は左手を頭にかざすポーズなのですが、こちらは多聞天像に一般的な小塔を左手に携えています。毘沙門天は護国・戦勝神と言われます。平安時代頃から多く造られ、武士の信仰対象になった尊像です。(資料4) 近年奉納された感じですね。だが、なぜこの神社に・・・・・。 この句碑も近年建立奉納されたように見受けます。 御髪神社 ひっそりと 山眠りけり 圭宙(と判読しましたが、まちがっているかも・・・・)歳時記を繙くと、「山眠る」が冬の季語です。春の「山笑ふ」に対して用いられるそうです。「竹林の小径」や「野宮神社」での観光客の盛況ぶりからはスピンアウトしたかのように、この小倉池や御髪神社の空間は静けさがありました。逆に、ほっとする感じです。大切な「髪」にまつわる神社という意味で、小倉山に少し足を向けることとあわせて、知る人ぞ知る神社、嵯峨野で静かに祈願できるいわば穴場の神社といえるかもしれません。3月でもそういう隠れたスポットですので、真冬にはまさに一段と眠っているような景色になるところでしょう。余談ですが、歳時記には次の句が載っています。一部引用します。(資料5) 噴煙の眠れる阿蘇と思はれず 井尾望東 端正に山は眠りに入らんとす 永倉しな 天竜へずり落ちそうに嶺々眠る 鈴木半風子 白妙の御岳かこみ山眠る 和田錠女 眠りたる山の深さに踏み入りし 黒米松青子 山眠る中に貴船の鳥居かな 高浜虚子元に戻ります。 御髪神社の南側にある階段の山道 登る途中で振り返った景色です。 木々の間から、嵯峨野の町並を見下ろせます。 その先に登ると、階段の山道が終わり、そこから先はふつうの山道が続いています。 この説明板が設置されていました。上掲の広域地図は小さめに、 この「未来のすがた」イラスト図が大きく描かれています。「小倉山再生プロジェクト」が「景勝・小倉山を守る会」により取り組まれているというメッセージです。ホソバオキナゴケ・コスギゴケ・ハイゴケなど苔の育つ森づくり活動に取り組まれているそうです。10年後、20年後は小倉山のこの辺りの景観がさらに緑豊かな昔の姿に近づいているかもしれません。 この中腹地点から、山を下りました。塀の向こう側、南側は大河内山荘の敷地です。大河内山荘は、昭和初期に時代劇俳優として活躍した大河内伝次郎が、昭和7年(1932)以来、30年の歳月をかけて営んだ山荘です。広々とした回遊式庭園があり、景色の眺望もすばらしいところです。約2万㎡に及ぶ広大な敷地だそうです。(資料2)小倉池の傍から坂道を上り、再び大河内山荘の入口傍を通り過ぎ、真っ直ぐ道沿いに南東方向に進みます。 この表示の場所に至ります。「嵐山公園亀山地区」つまり、公園の入口です。小倉山の南東部を占める緩やかな丘陵上に緑地公園が広がっています。嵐山公園は、大堰川を挟み、南北両岸にある府立公園です。亀山・中ノ島・臨川寺という3つの地区で構成されています。亀山地区が最も古く、明治43年(1910)葛野郡の事業として開設され、最初は亀山公園と呼ばれていたそうです。(資料1)亀山地区の西側は保津峡を見渡せる眺望に優れ、東側には後嵯峨天皇以下三天皇の火葬塚があるそうです。(資料6)この亀山地区に角倉了以の銅像があります。その公園の入口近くでその標識を見ましたが、そろそろ集合時刻に間に合うバスの時刻が近づきまさひたので、この亀山地区の入口付近を眺めただけで、バス停に向かうことになりました。「竹林の小径」を通り、小倉池・御髪神社に向かう前に、野宮神社の反対方向を少し探訪しています。つづく参照資料1) 『歌枕歌ことば辞典増訂版』 片桐洋一著 笠間書院 p473-4752) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p298-299,3) 床屋発祥の地碑 境内散歩 :「関の氏神 亀山八幡宮」4)『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p98-995)『改訂版ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 p7876) 嵐山公園・嵐山東公園 :「京都府」補遺御髪神社 ホームページ京都・御髪神社「理容遺産」に 理容業の歴史伝承を象徴 :「京都新聞」 2018.8.22 報道記事 理髪業発祥の地で毛髪供養祭 下関に関係者70人 :「山口新聞」 2017.12.5 報道記事Vol. 床屋発祥の地で毛髪供養祭 亀山八幡宮(山口県):「全国理容生活衛生同業組合連合会」床屋の発祥地は…~そして床屋という名称の由来~ :「全国理容生活衛生同業組合連合会」気になるコレを調べてみた件。「床屋発祥の地」:「かんもんノート」床屋発祥の地、下関 :「日本の歴史と日本人のルーツ」髪結職分由緒書 :「元寇長門襲来説」理容遺産 :ウィキペディア京都府立嵐山公園(京都府京都市) :「PARKFUL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.24
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「野宮神社」の近くに設置されていた案内図から始めます。現在位置と中央に記されたところです。「野宮」で「ののみや」と読みます。一に「野々宮社」とも記されます。前回の常寂光寺からは、赤いドットを追記したルートを通り、つまり嵯峨公園経由で野宮神社に至りました。この探訪では、講座時間の制約もあり、野宮神社前で当社についての説明を聞く形でその後、青いドットの道を辿りJR嵯峨嵐山駅前(青い丸のところ)にて終了しました。今回の探訪の起点は愛宕念仏寺前集合でした。そこに行くためのバスに乗車するのが、茶色の丸を付けた位置のバス停でした。そこで、集合時刻より数時間早く来て、野宮神社とその周辺を個人的に探訪していました。そこで、この探訪の最後の箇所から、個人的な探訪をご紹介します。JR嵯峨嵐山駅から、青いドットの道を進み、野宮神社に向かいましたので、その形でのご紹介として、探訪記を続けます。嵐山のメインストリートにあるバス停の左側の道を進んでいくと、 嵯峨野のイメージである竹薮の道が始まります。 道を右折する辺りで、正面の墓地入口の先に南西方向に天龍寺の境内と亀山公園方向が遠望できます。一方、角を曲がると右側に門がありますが、立入禁止です。その門前から眺めた東方向への竹薮道です。立入禁止なのですが、時折この道で人力車利用者が写真を撮っていました。竹薮道の使用提携でもしているのでしょう。 それはさておき、この道標が前回ご紹介したものです。ここから西方向が「竹林の小径」です。一方、目的の「野宮神社」はすぐ近くです。 観光客(参拝客)が多くて、全景をとれませんでしたが、「野宮神社」で有名な「黒木鳥居」です。黒木鳥居とは、「樹皮のついたままの櫟(くぬぎ)の自然木で組んだ鳥居」です。鳥居の両袖が小柴垣です。小柴垣は「柴を束ねて並べ、割竹でとめたごく簡素な垣」のことです。『延喜式』には、「柴を以て籬(まがき)となし、木を編んで門となす」という規定があるそうです。この野宮神社の鳥居はそれに則っているのです。(資料1) この黒木鳥居を見た時、少し違和感を抱いたのですが、傍に設置されたこの説明板を読み、違和感の原因がわかりました。 鳥居をくぐり境内に入りますと、左方向に大石の上部を舟形に刳り抜いた手水鉢があり、その側に手水鉢に注ぐ水を汲み上げる井戸があります。しかし、使われている様子は見えません。ちょっと不思議・・・・。 覆屋の柱に「竜神」がこの井戸に鎮まると記された木札が付けてあります。井戸の右側背後に、木樽が置かれています。ここは「禊祓清浄御祈願」をするスポットです。「迷惑行為など祓いたい清めたい事柄をご祈祷用紙に記入し水面にコインを乗せて浮かべてください」と側の木札に記されています。用紙に書かれた文字が消えて沈んだら願いが聞き届けられるそうです。 手水鉢の背後、境内地の南端部分です。苔蒸した所が少し盛り上がり、石が置かれています。何かの意味があるのでしょうか・・・・・。説明はどこにもありません。 境内奥の中央に、「野宮大神」を祀る社、野宮神社の本殿があります。野宮大神は、天照大神を意味しています。 正面からは本殿の一部しか見えません。興味深いことに、本殿の階段前に神輿が置かれています。境内案内の駒札には、野宮大神を学問の神と表示されています。 本殿に向かって左側に「白峰弁財天」が祀られています。 その名称の通り、財運・芸能の神とされています。 本殿に向かって右側に「愛宕大神」の扁額が掲げてあります。愛宕社の小社が奥に見えます。この三社は同じ形式で本殿・小社の手前に切妻形の屋根だけの建物が立っています。拝殿の役割を担っているのでしょう。 この屋根の飾り金具の形式が統一されているようです。愛宕社の方も同種です。上掲の白峰弁財天社と龍神の鎮まる井戸との間に、 「神石(亀石)」と「野宮大黒天社」があります。この大黒天はえんむすびの神と案内駒札に記されています。おもしろい。 神石の側に絵馬所がありますが、愛宕社の瑞垣の北側にも絵馬所があります。いくつかの図柄が見られる中で、右の図柄の絵馬が目に止まりました。愛宕社の右方向は境内地が少し北に広がっています。 これは神輿なのでしょうか。初めて見る形式のものです。注連縄が張られていますので、神具の一つであることは明かです。 北側に、「白福稲荷社」があります。白福稲荷大明神の扁額が掲げられ、提灯が吊されています。 その北隣りに「大山弁財天社」があります。小社の前に吊された提灯には「大山主大神」と墨書されています。弁財天という表記がないところが、逆に興味深いところです。 境内地の端にもう一つの稲荷社の小社が祀られています。 境内北側に位置する境内社の前、東側には苔蒸した庭が広がっています。「斎宮旧趾」と刻されているようです。(旧は旧字体で記されています。) 苔庭を神社の外、道路から眺めた景色 この広い苔庭の南端に置かれた石灯籠。あまり見かけない形態の灯籠です。蓮華寺形灯籠の変形バージョンでしょうか。 苔庭の北辺の近くにある歌碑です。 野宮の竹美しや春時雨 古郷嵯峨野俳句会が嵯峨野主宰村山古郷師を顕彰して昭和61年(1986)4月に建立されたもの。 野宮神社にこの駒札が立っています。 あわせて、「源氏物語ゆかりの地 野宮(野宮神社)」という案内板も併設されています。伊勢に下向して伊勢神宮に奉仕する斎宮には未婚の内親王が選ばれました。斎宮は宮中の初斎院、野宮と二段階で各1年潔斎生活をするという準備期間が決められていたそうです。天皇の代毎に、斎宮は卜定され、野宮には宮城外の清浄な場所が卜占により選ばれたと言います。伊勢斎宮のための野宮は主に嵯峨野の一帯に設けられ、建物は天皇一代毎に造り替えられる仮宮だったそうです。つまり、場所と建物はその都度変わることになります。(資料1,2)斎宮制度は、「崇神天皇の皇女豊鍬入姫命からはじまり、後醍醐天皇の皇女祥子親王まで74代にわたってつづけられたが、中世の兵乱によって廃絶した」(資料1)そうです。(資料1,2)上掲の駒札は、垂仁・景行天皇時代の倭姫命としています。これらはいずれにしても「伝承の時代の斎王」であり、天武天皇時代の大来(おおく)皇女が史実としての始まりになるそうです。(資料4)この野宮神社の地は、いずれかのときの野宮なのでしょう。伊勢斎宮のことが人々によく知られるようになったのは、『源氏物語』の「賢木(さかき)」で源氏が六条御息所を野宮に訪れる場面が描写されているからだと思います。ここにも源氏物語の影響力がでています。御息所の娘が斎宮として野宮で一年間の潔斎生活を送り、いよいよ伊勢に下向しようとします。御息所も娘と一緒に伊勢に下るのです。この御息所の娘が後の秋好中宮です。「賢木」には、源氏が野宮に出かけたときの嵯峨野の秋の景色を描写したあとに、次の文がつづきます。(資料5)「御心にも、などて今まで立ちならさざりつらむと、過ぎぬる方悔しう思さる」(君ご自身のお心にも、なぜ今までしげしげと通わずにいたのだろうと、むなしく過ぎてしまったこれまでが悔やまれてならぬお気持になられる)と源氏の心境を描写し、源氏が野宮を眺めた様子を描き込みます。「ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなめり、黒木の鳥居どもは、さすがに神々しうみまわたされて、わづらわしきけしきなるに、・・・・」(これということもない小柴垣を外囲いにして、板葺の家がそこかしこに、ほんの一時の作りといったふうに建ち並んでいる。黒木の鳥居のいくつかは、それでもさすがに神々しく眺めわたされて、忍び歩きのはばかれるたたずまいであるが、・・・・)とつづきます。ここに、小柴垣と黒木の鳥居が記され、建物が「いとかりそめなめり」と仮宮であることをはっきりと述べています。一方、この野宮神社の黒木鳥居と小柴垣は、野宮の構成要素の可視化により『源氏物語』のこの場面をイメージする助けになりますね。手許の1983年出版の書には、「旧地はその後久しく荒廃し、民家の後方、竹林中に小祠としてとどめていたが、明治6年(1873)村社になり、近年有志の人々によって社殿を修築されるに至った」(資料1)と記されています。昭和の時代に入り、現在の神社の姿ができあがったものと推測します。 この駒札も目にとまりました。「謡曲『野宮』と野宮神社」と題した駒札です。厳密にいうなら、謡曲「野宮」と『源氏物語』の野宮の関係ということになりますね。後醍醐天皇は南北朝の始まりとなる天皇であり、この時点で斎宮制度が廃絶しています。室町時代の三代将軍足利義満が世阿弥を厚遇し、世阿弥が猿楽を幽玄な能(夢幻能)に高めて大成させます。この『野宮』は世阿弥の作とも金春禅竹の作とも言われているようです。金春禅竹は世阿弥より少し後に活躍した金春座中興の能役者・能作家です。いずれにしてもその頃にはたぶん野宮の姿はなかっただろうと推測します。(資料6)上記の黒木鳥居や小柴垣が再現されているという点で、現在の野宮神社によすがをしのべるというところでしょうか。さて、この辺りで野宮神社のご紹介を終えて、野宮神社周辺のご紹介という事前の個人探訪に移りたいと思います。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂2) 『京都を楽しむ地名・歴史事典』 森谷尅久著 PHP文庫 p3153) 斎宮 :「コトバンク」4) 歴代斎王一覧 :「齋宮歴史博物館」5) 『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p85,866) 野宮 :「コトバンク」補遺野宮神社 ホームページ野宮神社 斎宮行列斎宮行列(野宮神社出発)、御禊の儀(保津川) :YouTube齋宮歴史博物館 ホームページ野宮 :「かんぜこむ」演目事典 野宮 :「the能.com」野宮 曲目解説 :「銕仙会~能と狂言~」世阿弥 :ウィキペディア金春禅竹 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.22
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二尊院を出て、常寂光寺に向かう途次、最初に目に止まったのがこの「長神の杜」と刻された碑です。この辺りが歴史的風土特別保存地区であり、その地にふさわしい自然景観の保護と人々が親しめる散策路や植栽の園地が設けられていると記されています。この辺りが旧字長神であるところからこう名づけられたそうです。現在の地名では嵯峨二尊院門前長神町です。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。常寂光寺は二尊院の南に位置します。「小倉山常寂光寺」と刻した石標の傍に、詳しい境内案内図が掲示されています。日本語版と英語版が並んでいます。 「常寂光寺」の表門です。この山門前の左側には、「勅願所」の石標が立ち、右側にはオブジェ風の生花が置かれています。 参道を西に歩むと、この歌碑があります。 小倉山みね乃の紅葉(もみじば)こころあらば今ひとたびの御幸またなんこの歌は、「百人一首」に撰ばれた一首、貞信公(藤原忠平)の詠んだ歌です。歌の左に、「定家山荘跡」と刻されています。藤原定家は鎌倉幕府の武将である宇都宮頼綱から別荘のふすまに貼る色紙書きを依頼されました。一人一首の代表的な歌を撰び、色紙に書くという仕事です。これを藤原定家は小倉山山麓にあった山荘で行ったそうです。これが『百人一首』の原形となったと推測されています。宇都宮頼綱は、定家の息子のお嫁さんの父にあたる人です。(資料1)江戸時代の『都名所図会』には、「京極黄門定家卿の山荘」という見出しがあります。「あるひは時雨亭と号(なづ)くる旧跡。ところどころにあり。かの卿の詠歌(よみうた)により、または少しき因みになづみて後人これを作ると見えたり。 『後拾遺』 偽りのなき世なりせば神無月誰がまことより時雨れ初めけん 定家 」(資料2)この歌から時雨亭と称されるようですが、時雨亭旧跡は二尊院にあったとされている一方、この常寂光院にもここに山荘があったとされています。この境内にも「時雨亭跡」碑があります。(今回その石碑の場所には訪れていませんが。) その先に「仁王門」があり、ここから参道は石段になります。この仁王門は本圀寺客殿の南門を移したものと伝えられ、貞和年間(1345~1349)に建立されたものを元和2年(1616)に移築したものだそうです。(資料3,4,5)萱葺屋根です。仁王門としては珍しいと思います。常寂光寺のシンボルでもあります。 仁王像は、 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたもので、寺伝では伝運慶作だそうですが、不詳です。(資料6)門の両側には、草鞋が吊されています。旅の無事を祈願する類いでしょうか。 仁王門を通り抜けると、右側に北方向への石段の坂道(末吉坂)が延びています。庫裡あるいは休憩所に向かう道です。真っ直ぐ正面の石段を上がります。 本堂。伏見城客殿の材を利用して建立されたと言われています。(資料3) 正面に掲げられた扁額には「御祈禱處」と記されているようです。本尊は法華題目で、釈迦如来像と宝生如来像が安置されています。(資料4)日蓮宗の日禛(にっしん)上人が本圀寺を出てここ小倉山山麓に隠栖しました。そこには一つの背景があります。文禄4年(1595)、豊臣秀吉が東山に建立した方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐり、京都の本山が二派に分裂したそうです。そのとき、日禛上人は不受布施の宗制を守り、千僧供養に出仕に応じなかったのです。その後本圀寺を出て隠栖したという次第です。日禛上人は角倉了以の従兄である角倉栄可から寺の敷地の寄進を受け、寛永年間(1624~1644)に寺に改めて、角倉栄可・角倉了以・小早川秀秋・小出秀政ら上人に帰依する人々の助力で寺観を整えたそうです。「この地が清浄閑寂たあること常寂光土の如しということから」(資料3)常寂光寺と号したと伝えるとか。 (資料2,5) 本堂近くで目にした句碑 落葉ふんで道新しくひらけたり 義生少し調べてみますと、義生は俳名で、本名は高桑義孝(1894~1981)。大正・昭和期の小説家で、一方、日活京都撮影所脚本部長となり、昭和の名優長谷川一夫の「鳴門秘帖」や「無法松の一生」などを手がけたとか。京都旧蹟研究の権威にもなり、また俳句会「嵯峨野」を主宰した俳人でした。小説のほか「嵯峨の土」という句集や「新・京都歳時記」などの著作もあるそうです。(資料7) 本堂を左に回り込むと、「妙見宮」が祀られています。 傍に「妙見菩薩縁起」が掲げてあります。妙見菩薩は北極星または北斗を象徴した菩薩です。妙見尊星王、北辰妙見菩薩などとも称されるとか。京都にある日蓮宗のお寺では境内に祀られているのを見かけます。中世には地方の豪族たちは守護神として帰依し、近世には藩主をはじめ、豪商や大衆の信仰へと広がったそうです。この寺の妙見菩薩は、慶長年間(1596~1615)の保津川洪水の際、上流から流れてきたのを一船頭が見つけ、角倉町の集会所に祀られていたそうです。それを享和年間(1801~1804)に当地に遷座されたと言います。(縁起より)ここは御所の西方向に当り、「西の妙見菩薩」として知られてきたそうです。縁起中には、御所の紫宸殿より十二支の方角に妙見菩薩が祀られていて、洛陽十二支妙見が江戸時代中期より信仰されれいたことも記されています。「洛陽十二支妙見」という表現をこの縁起を読み、初めて知りました。 本堂の南面の庭に立つ層塔 南側の庭の南西隅にこの三重石塔が置かれています。塔身の南面には扉の形がレリーフされています。 そして塔身東面には扉が開いていて蓮華座に二尊が並び坐す姿が浮彫にされています。『妙法蓮華経』の見宝塔品第十一・「塔の出現」に、大宝塔の中から多宝仏(プラブータ=ラトナ如来)が釈迦牟尼仏(シャーキャムニ如来)にこちらにきて坐りなさいと言い、その獅子座の半分を譲るという場面が描かれています。そして、釈迦如来と多宝如来の二人の如来が大宝塔の真中にある獅子座に並んで坐って、空中に浮かんでいるのが見られたと記されています。これは、まさにその場面を表現しているのでしょう。(資料8) 竹林を眺めつつ、小倉山斜面の石段を登りますと、 「多宝塔」(重文)が見えます。方三間、重層、宝形造りで屋根は檜皮葺き。 江戸時代初期、元和20年(1620)に京都町衆の寄進により建立された上円下方形の塔です。 塔内には、釈迦如来・多宝如来の二仏が安置されていて、「並尊閣」と称されています。 総高約12m余、下を見ると白く膨らんだ漆喰が見えます。亀腹の上に立ち、下層四方に擬宝珠高欄を設けた縁が廻っています。中央は桟唐戸で、左右に連子窓が設けられ、蟇股の上、軒桁下には蛇腹形の支輪が見られます。斗栱と円柱などは唐様でそこに和様を組み合わせているそうです。内部は非公開。均斉のとれた美しい姿は、滋賀県大津市にある石山寺の多宝塔と比肩されるものです。(資料5) 多宝塔の北側に、「開山堂」が2004年に建立されています。それ以前は、手許の本の境内図と対比するとここに日禛上人墓があったようです。今回の探訪では対象外でしたが、「謌僊祠(かせんし)」(歌仙祠)があるそうです。この地が藤原定家小倉山荘址という伝承に因んで、定家・家隆の二歌人を祀った祠堂が仁王門の北にあったと言います。それを寺の建立にあたって、山上のこちらに移したと伝えられています。(資料3)その祠堂が1994年に改築されて現在に至ります。富岡鉄斎による扁額が掲げられています。定家650年祭の折に富岡鉄斎が「謌僊祠」と命名したとか。(資料6,9)その傍に、上記の「時雨亭跡」碑が設けられています。そこには、「昭和初期に台風で倒壊するまで建物が存在していた」(資料5)と言います。その建物の由緒は不詳ですが・・・・。 開山堂の手前に「宝塔」があります。 塔身のこの部分には開いた扉が陽刻されているようですが、判然とはしません。 開山堂の近くに、笠塔婆の一種になるのでしょうか、「南無高祖大菩薩」と陰刻された石塔が建立されています。日蓮上人を意味するのでしょう。背後には「高祖日蓮大菩薩第七三七遠忌報恩謝徳」と記されている塔婆が立ててありますので。 同様に、開山堂の近くに、角倉栄可の供養塔が建立されています。供養塔自体は撮り忘れましたが、昭和54年10月朔日の日付が入り、文学博士林屋辰三郎氏の撰文による顕彰碑が立っています。「古来歌枕の名所として知られた小倉山のこの地は、今を去る384年前、文禄4年10月朔日に、嵯峨土倉角倉家の当主、吉田栄可が、京都本圀寺日禛上人の需めに応じてその領地を寄進して、常寂光寺の創建に助縁したゆかりの所である」という文から、縷々角倉家と栄可の貢献が、造塔の由来として記されています。 本堂の背後(西側)から庫裡の傍まで、池が造られています。 石段を下るときに気づいた三重石塔最後に余談ですが、この寺が「軒端寺(のきばでら)」とも呼ばれることをご紹介しておきましょう。 忍ばれんものとはなしに小倉山軒端の松に馴れて久しき藤原定家が詠んだこの歌に由来するそうです。常寂光寺の山門を出て、東に進みます。 「落柿舎」を北方向に遠望できます。芭蕉の門弟で、十哲の一人、向井去来が隠居所とした閑居を明和7年(1770)になって、ここに再興したものだとか。茅葺、平屋建の小さな建物ですが、風情を感じます。「落柿舎ははじめ嵐山渡月橋畔、臨川寺の西辺にあったとつたえ」(資料5)られています。松尾芭蕉は元禄4年(1691)4月18日に落柿舎に去来を訪ねています。5月5日まで滞在し、『嵯峨日記』という随想を残しています。(資料4) 通り過ぎるとき、右側(南)に「MUSEUM 李朝」という表示のある建物があります。かなり昔、この辺りを散策したときにはありませんでした。 ちょっと驚いたのはその玄関の東側にこのブロンズ像があったことです。 傍に置かれた碑文など。少し先で右折して南進しますと、公園があります。 京都市嵯峨市営住宅の区域とは道路を挟み西側にある「嵯峨公園」です。何の変哲もない公園になっていますが、この辺りは、かつて広大な寺域を持ち、平安時代後期に廃絶となった「檀林寺跡」の一部でした。今回の探訪の最後の行程での探訪というか立ち寄り地点です。平安京への遷都後は、桓武、平城、嵯峨と皇位が継承されました。平安時代初期の嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子は、この地に唐の国で当時先端の宗派となっていた禅宗を日本に導入しようとしたそうです。唐の禅僧義空を招聘し開山として尼寺・檀林寺を建立したのです。ここから、橘嘉智子は檀林皇后と称されるようになります。(資料3)「檀林」という言葉は、「栴檀林」の略で、「僧侶が集まって学問をする場所。また、寺院」(『日本語大辞典』講談社)という意味だそうです。先端の禅宗を学ぶ尼寺をスタートさせたのですが、当時の日本では禅宗は普及しなかったようです。義空は数年後に唐に帰国したとのことです。檀林皇后の没後、檀林寺は衰微していきます。 嵯峨公園の先に、野々宮神社があります。野々宮神社に至る前に、道の分岐点に「亀山公園道」の道標が立っています。この道標を実は当日の集合時刻前に早めに来ていてこのあたりを散策していたのです。しかし、その時、気づかなかったのが、道標の下に記された箇所です。「此附近 檀林寺の旧地」と刻されています!かつての檀林寺は、野々宮神社から天龍寺のあたり一帯までの広さを有したといいます。さて、探訪行程の最後は野々宮神社でした。つづく参照資料1) 『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人著 PHP文庫2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫3) 龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)4) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂5) 「常寂光寺」 拝観の時にいただいたリーフレット6)常寂光寺 :ウィキペディア7)高桑義生 :「コトバンク」8) 『法華経 中』 坂本幸男・岩本裕訳注 岩波文庫 p188-1899)常寂光寺 謌僊祠(歌仙祠) :「いこまいけ高岡」補遺常寂光寺 ホームページ嵯峨野 落柿舎と長神の杜 :「京都を歩くアルバム」常寂光寺(京都市右京区) :「京都風光」洛陽十二支とは :「洛陽十二支妙見めぐり」角倉了以 :「コトバンク」<了以伝> 商売への関心と従兄・栄可の存在 :「保津川下りの船頭さん」檀林寺跡(京都市右京区) :「京都風光」落柿舎 ホームページ嵯峨日記 トップページ :「芭蕉文集」特定非営利活動法人MUSEUM李朝 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 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2019.03.20
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境内図の引用から始めます。「小倉餡発祥之地」碑、「四条流包丁塚」碑のある辺りから先は、背後の墓所域へ北辺の通路を登っていきます。黒いドットを追記した坂道です。 二尊院の最後は墓所域での史跡等の拝見です。部分図として拡大し、追記しました。(資料1)最初の探訪先は山の斜面の一番高みで北端近く、つまり境内墓地の西北端の場所(赤丸を付けたところ)です。北辺の通路から墓所正面の石段を上って行った先にある、 「三帝陵」と称されるところです。3つの石塔が建立されています。石垣の左手前に案内板があり、「右より 土御門天皇・後嵯峨天皇・亀山天皇」と表示。湛空上人が戒師となった後嵯峨天皇・土御門天皇、叡空上人が戒師となった亀山天皇の墓塔とされています。(資料1,2)これら3石塔は鎌倉時代後期の作と推定されていて、かなり時間的な隔たりがあるこの三帝の時期とは整合しているようです。 元は十三重塔の形式ですが、上部を欠いて十重の層塔になっています。後嵯峨天皇(1220-1272)の墓塔。 塔身には四仏が陽刻されています。 五重塔。土御門天皇(1196-1231)の墓塔。基礎には格狭間が見られます。 五重塔の塔身も四仏が陽刻されています。通常は、中央の大日如来を含む金剛界五仏の内の四仏を意味するようですので、阿閦如来(東)、阿弥陀如来(西)、宝生如来(南)、不空成就如来(北)です。 宝篋印塔。亀山天皇(1249-1305)の墓塔。塔身には、蓮華座上の月輪内に金剛界四仏の種子が刻されていて、隅飾には月輪内に梵字アが刻まれています。(資料2) 上部の相輪は横に置かれていました。尚、寺伝とは別に、現在十重の層塔を嵯峨天皇、五重塔を土御門天皇、宝篋印塔を後奈良天皇と伝える説もあるようです。(資料3)嵯峨天皇は平安時代初期、後奈良天皇は室町時代後期ですので、上記の石塔の推定年代との整合が難しくなりますが・・・・・。 墓所域は山の斜面が階段状に開削されています。石段を下り、最初の幅の広い通路を左折します。この墓所の左端の卵塔様の墓が角倉了以の墓だそうです。手前に石標が立っています。(マゼンダ色の丸の近辺) 平坦な通路を南に歩みます。二尊院は角倉家一族の菩提所です。豪商の角倉家は二尊院の檀家として寺運が栄えることに貢献したことでしょう。 ちょっとめずらしい形の墓も。 この3つ並んだ墓石の中央の板碑形の墓が和算家・吉田光由(1598-1672)の墓と推定されています。(紫色の丸をつけたあたり)吉田光由は寛永4年(1627)に和算書『塵劫記』を発刊しています。この書名は「長い年月が経っても替わらない真理」を意味し、天龍寺の僧・舜岳玄光が命名したと言います。江戸時代最大のベストセラーになったとか。(資料4) 傍に駒札が立っています。吉田徳春が吉田家の祖とされ、三代目宗忠の子の光治が吉田家を継承。他に弟の宗桂と光茂がいて、宗桂の子が了以で角倉家を興します。その子が素庵です。光茂を起点に三代目周庵の子の一人が吉田光由だそうです。余談ですが、角倉了以の兄弟である宗恂の孫娘(那倍)と伊藤良室との間で生まれた子が伊藤仁斎です。伊藤仁斎は儒学の大家、京都学派を形成した人物として有名です。伊藤仁斎の墓もこの二尊院にあるそうです。(資料4) 今回こちらは拝見していません。 このあたりまで、角倉・吉田一族の墓所のようです。一方、旧公家たちも二尊院を菩提所としています。境内図によるとこの石段を上った先に鷹司家墓があるとか。 石段の南側に「嵯峨家」の大きな家形墓所があります(青色の丸をつけたところ)。一族の集合墓でしょうか。詳細は不詳。嵯峨家は、19世紀、江戸時代末期に正親町三条家から分立しています。(資料5)三条西家との関係は深いようです。14世紀中期の三条西公時の父が 正親町三条実継という関係で系譜がリンクします(資料6)。この墓域にあることが理解できます。 その南隣りは三条西家の墓所です(空色の丸をつけたところ)。一族の五輪塔等が林立しています。 一番手前に3基の墳墓があります。右端の五輪塔が三條西実隆、中央の形が違う石塔が三條西公條、その左の五輪塔が三條西実枝の墳墓だそうです。傍に駒札が立っています。 その北側にも3基の五輪塔が並んでいて、左2基には同様に石標が立っています。左端の五輪塔は公保、中央の五輪塔は公國の墳墓と判読できそうです。三條西家の一族なのでしょう。三條西実隆は、応仁の乱で二尊院が全焼した後、後奈良天皇の戒師となった第16世恵教上人のときに、諸国に寄付を求めて本堂・唐門の再建を行ったと言います。 三條西家墓所の南側に、「湛空廟」があります。前回ご紹介した鐘楼傍の石段を登ってくると、このお堂が正面に見えます。 堂内には、墳上に「湛空碑」が立っています。この碑は建長5年(1253)、中国系の石工により制作されたと考えられています。(資料2)花崗岩製で、高さ1.37m。基壇には複弁反花座が刻まれ、側面にも格狭間や反花座の連弁が刻まれいます。そして、碑には湛空上人の経歴行状が漢文で刻まれているとか。大宋国慶元府の石匠梁成寬の作とも。(資料3)二尊院中興開山となった湛空上人(1176-1253)は左大臣徳大寺実能の孫で、法眼円実の子息だとか。天台の比叡山にて、顕密二教を修学しましたが、後に聖道門を離れ、法然に帰依して専修念仏に努めたのです。「法然とその門弟の長老である信空から、それぞれ円頓戒を相承されていて、事理の二戒を相伝したといわれる。土御門天皇に授戒をし、その遺骨を嵯峨の二尊院の塔に納めたとされる」(資料7)そうです。『七箇条制誡』の法然門下190名の署名には名を連ねていないのですが、建永2年(1207)に法然が配流された折には随従したとされているとか。 (資料7)湛空上人は、建長5年(1253)7月27日、78歳で示寂します。(資料3,7) お堂の扉は花狭間の桟唐戸で、南北に花頭窓が設けられ、正面の欄間の透かし彫りは蓮華唐草文様でしょうか・・・・・(間違っているかも)。湛空廟に関連して、微妙な表現の文章を引用しておきましょう。作家・五木寛之氏の「二尊院」についての巡礼エッセイ中に出て来ます。「知恩院の廟所を比叡山の僧徒が攻撃し、法然の遺骸を掘だそうとしている、というおそろしい噂が流れたのである。 そのため、門弟たちは急遽、法然の遺骸を嵯峨に移して火葬する。このとき、法然の高弟で二尊院を中興した湛空が、荼毘に付した法然の遺骨の一部を分骨して持ち帰った。そして、二尊院に廟所を建てて法然を祀ったのだった。そのため、この廟は湛空廟ともいわれている」(資料8)境内図は「湛空廟」と記すだけです。「湛空碑」と上記しました。手許の一書には、この碑について、「空公行状碑(鎌倉)」という名称で説明しています。そして脚注に次のことが記されています。「なお、『空公』を『源空』と解し、法然上人源空の廟といわれたことがあった」と。(資料3)すると、歴史の謎になります。この廟を墳墓とすると、埋葬されているのは、湛空上人なのか? 法然上人なのか? あるいは、師の法然と弟子の湛空という二上人が埋葬されているのか? 「湛空廟」と称するからには、湛空上人の墳墓、廟と考えるのが論理的です。すると、湛空上人が法然の遺骨を祀ったという廟所は何処に、ということになります。歴史の謎、想像する歴史のロマンになるのでしょうか・・・・・・。 湛空廟正面の石段を下ります。振り返って御廟を見上げた景色です。 御廟から3段下になる開平された墓地域の北側に二条家の墓が並んでいます。(緑色の丸をつけたところ)そこに「二条家」と表示された家形の墓所が見えます。こちらはたぶん後継者一族の集合墓なのでしょうね。詳細不詳。 そして、「しあわせの鐘」のところに戻ってきました。よく見ると、鐘楼の北西隅に梵鐘が置かれています。これが慶長9年(1604)に鋳造された梵鐘です。 ここに戻って来て、鐘楼の傍にこの碑があることに気づきました。 「藤原定家卿七百年祭記念」と刻されています。藤原定家(1162-1241)は鎌倉時代前期の歌人・古典学者で、13世紀半ばに没していますから、700年祭といえば19世紀半ばに行われたことになります。戦時下で行われたことになりますね。日本史の年表を見れば、1937年7月、日中戦争(盧溝橋事件)おこる。1941年太平洋戦争開始。という時期ですから。どういう風に記念祭が行われたのでしょう・・・・。藤原定家は、19歳の時、『明月記』に「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と記したと言います。かつてこの言葉を目にしたことがあったのですが、今回この章句に再会しました。(資料8) これは源平争乱の時期に日記に記されたものです。戦いは私と関わりがないことと断言している言葉だと思います。700年祭は時代が大きく異なるとはいえ、戦時の最中に挙行されたのでしょう。定家の記した「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と通底する立場で、粛々と行われたのでしょうか。かなり以前に友人と共にこの二尊院を訪れたことがあります。今回は探訪の対象外でしたが、山の中腹から回り込んで行くと、「藤原定家時雨亭跡」と称される場所があります。上掲境内図に黄色の丸をつけたところです。記憶では礎石らしきものがあり、木札が立てられていたと思います。今はどうなのでしょう。案内板などが整備され変化しているのでしょうか。黒門から出て、桜の馬場に戻ります。 往路で眺めたいくつかの碑を再び見つつ総門に向かいます。二尊院を後にして、次は常寂光院です。つづく参照資料1) 「小倉山二尊教華臺寺 二尊院」 拝観時にいただいたリーフレット2) 龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)3) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p300-3044)「京都域粋63号 『角倉一族』」(2006年9月1日)5) 正親町三条家・嵯峨家(大臣家):「世界帝王事典」6) 三条西家(大臣家) :「世界帝王事典」7) 湛空 :「新纂 浄土宗大辞典」8)『百寺巡礼 第九巻京都Ⅱ』 五木寛之著 講談社文庫 p86-87補遺吉田光由 :「コトバンク」吉田光由 墓碑発見に至る経緯 吉田光由WEB資料館 :「そろばん館」江戸時代のベストセラー『塵劫記(じんこうき)』の著者・吉田光由について:「豊後高田市」塵劫記 :ウィキペディア伊藤仁斎 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.18
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本堂は入母屋造りで寝殿造り風の建物です。平成28年(2016)、「平成の大改修として本堂が再建され」たと言います。現在は天台宗延暦寺派のお寺です。「小倉山二尊教院華臺寺」が正式な寺名です。(資料1,2)この本堂前庭は、「竜神遊行の庭」と称されているそうです。前回ご紹介した竜女池にまつわる故事にもとづいて名づけられたとか。(資料1)この本堂中央の厨子内に、本尊として阿弥陀如来立像と釈迦如来立像が祀られています。「二尊院」という寺名はこの二如来像に由来します。(資料2)両立像は重文で二尊一対で造立されています。此岸で衆生を教導する(発遣)釈迦如来と彼岸で衆生を迎える(来迎)阿弥陀如来が対応する形です。現在の両仏像は二尊院中興期(13世紀中頃)のものと推定されているそうです。(資料3)二尊院のトップページのスライドの中で本尊両如来立像の写真が現れます。こちらからご覧ください。嵯峨天皇の勅願により第三代天台座主・慈覚大師円仁が平安時代・承和年間(834~848)に華臺寺を建立したと伝わります。823年に嵯峨天皇は譲位しています。承和は仁明天皇の時代なので、嵯峨上皇の頃に建立された寺ということになります。その後、華臺寺は荒廃し、この地はその址になります。(資料2,3)専修念仏に対する圧力が強まった頃、元久元年(1204)に、法然上人が専修念仏の修行を促すために弟子達に求めた「七箇条御制誡」とそれに対し弟子たちの署名した文書が二尊院に残されています。(資料4)『法然上人行状絵図』第三十一には、「上人の門徒をあつめて、七箇条の事をしるして起請をなし、宿老たるともがら八十余人をゑらびて連署せしめ、ながく後証にそなへ、すなはち座主僧正に進ぜらる。件起請文云、・・・・・」(資料5)と記されています。『都名所図会』には、「当院第二世信空上人をはじめ西山上人等百八十九人起請に同ぜられる」と説明しています。(資料5)この文書が本堂の南側に展示されています。一方、法然が天台座主真性にあてた起請文があり、「送山門起請文(そうさんもんきしょうもん)」と称されています(資料7)。上掲行状絵図に「又座主に進ぜらるる起請文云、・・・・」として文面が記されています(資料5)。この頃、法然上人はこの地に住していたそうです。鎌倉時代に、正信坊湛空が師の法然上人の遺跡を慕い来住し、二尊院の再興につとめたのが現在に繋がることになるようです。(資料3,6)湛空上人は、土御門天皇(在位1198-1210)と後嵯峨天皇(在位1242-1246)の戒師となります。戒師は仏門に入るときに戒を授ける師僧を意味します。(資料2)そして、次の叡澄上人の時に、天台・真言・律・浄土の四宗兼学道場として二尊院は興隆します。皇室の帰依あつく、叡澄は後深草・亀山・後宇多・伏見の四帝の戒師となります。(資料2)ところが、室町時代、応仁の乱(1467-1477)の兵火で二尊院の諸堂は全焼するに至り、再び荒廃します。永正15年(1518)頃、三条西実隆らの尽力で再興されます。江戸時代には、二条・鷹司などの公家や角倉などの豪商が檀家となり栄えることになります。(資料1,3) 境内図全体から切り出したこの部分図で、赤丸のところが本堂です。本堂正面の回縁で本尊を拝見し、反時計回りに回縁を巡ります。 北側に回り込むと、「御霊屋」が北隣に南面して建てられています。(マゼンダ色の丸のところ) 本堂の背後に回りますと、山の斜面に「六道六地蔵の庭」(緑色の丸のところ)が作庭されています。 全景のまず手前に見えるのが「地獄道」のお地蔵さま。 「餓鬼道」のお地蔵さま 「畜生道」のお地蔵さま「修羅道」のお地蔵さま 「人間道」のお地蔵さま「天道」のお地蔵さま 花頭窓の先に「六道六地蔵の庭」が広がっています。 本堂背後の南西角近くの樹木の根元に鬼瓦が置かれています。ここを西端として、 この枯山水式の南庭があります。 南側回縁から南方向を眺めると、茶室「御園亭」が見えます。手前に立つ駒札には、元禄10年(1697)に御所より移築されたと記されていて、元は、後水尾天皇と東福門院の間の第五皇女である賀子内親王御化粧間と説明があります。本堂を出て、境内の北側に設けられた山側へ上る坂道に向かいます。ここではそれまでに目に止まったものをご紹介していきましょう。 本堂の北側の西寄りには上掲の「御霊屋」があります。本堂の並びでさらに北にあるのが「弁天堂」です。(青色の丸のところ)ここには弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神が祀られています。弁財天を祀る由来は、「二尊院縁起」に記されているそうです。また、このお堂には、大日如来、不動明王、毘沙門天等の諸像が安置されているとか。(資料2)今回は、お堂への石段下を通り過ぎるだけになりました。 目に止まったのがこの「渓仙賛歌」と題した歌碑です。3つの歌が刻されています。 よろずはの春秋かけてたまごむる筆のあととわにあらんとおもへど 佐々木信綱 渓仙の墓をもとめて言葉なくわれらのぼりゆく落葉のみちを 吉井 勇 ここにしてきみがゑがけるみやうわうのほのほのすみのいまだかわかず 秋艸道人(=会津八一)この二尊院には、日本画家・富田渓仙の墓があるそうですので、墓参した三人が渓仙への賛歌を詠んだのでしょう。富田渓仙とこの3人の間にはどのような交遊関係があったのでしょうか。 山側斜面に真っ直ぐに延びる石段の北側に、鐘楼が見えます。(空色の丸のところ)石段を上がって行くと墓地域で、石段を上りきった正面に、後にご紹介する「湛空廟」が位置します。この鐘楼は「しあわせの鐘」と称されています。(資料2)元の梵鐘は「慶長9年(1604)天命の鋳物師大川忠右衞門の鋳造したもの」(資料1)とのことですが、現在は「平成4年(1992)に、開基嵯峨天皇1200年御遠忌法要記念として改鋳」(資料2)された梵鐘がつるされているそうです。。 鐘楼の少し手前北東側に「角倉了以」のブロンズ像が建立されています。、 こんな碑があります。(紫色の丸のところ) 「小倉餡(あん)発祥之地」だそうです。裏面には碑文が刻されています。「日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの820年のことであります。 当時このあたり小倉の里に和三郎という菓子職人がいて亀の子せんべいを作っていましたが、809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作り、これを毎年御所に献上されました。その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになりました。 和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々がその功績をたたえて小倉中字愛宕ダイショウの里に一社を建て、朝廷の允許を得て、屋号が亀屋和泉でありましたので、和泉明神としてまつられるようになりました。 その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ、子孫も絶えて、只古老の伝承として伝えられてきました」(碑文転記)この伝承が昭和23年3月に嵯峨商工研究会の席上にて諸氏から確認されたそうです。そこで、井筒八ッ橋本舗さんが創業200年を記念し、今後さらに「小倉餡の歴史が解明する端緒となれば」(碑文転記)と願い、この碑を建立されたと記されています。 そこからほど近いところに「四条流包丁塚」が建立されています。辞書を引きますと、「四条流」について「膳部料理の流派の一。藤原山蔭(822頃~888)が、開祖とされ、儀式料理の形式を保っている」(『大辞林』三省堂)と説明しています。また、「包丁道」という言葉は「料理に関する諸作法。四条流・大草流などの流儀がある」(同上)とのことです。藤原山蔭は四条中納言とも称されます。「包丁師(/庖丁人)」という言葉もあり、「料理を巧みに作る人。料理人」(同上)を意味します。「包丁式」は包丁師により執り行われる儀式で、烏帽子・直垂、あるいは狩衣を着用して、大まな板の前にて、右手に包丁、左手にまな箸を持ち、食材に直接手を触れずに切り分けて並べるというパフォーマンスを披露するものです。(資料8)「針塚」という言葉がある様に、この碑は、四条流の儀式料理を継承する料理人の人々が包丁を供養するために立てられた碑なのでしょう。ネット検索してみると、各地に同趣旨の包丁塚が建立されています。さて、ここから墓域に向かう境内北端の階段状の通路を登ります。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p300-3042) 「小倉山二尊教華臺寺 二尊院」 拝観時にいただいたリーフレット3) 龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)4) 七箇条制誡 :「新纂 浄土宗大辞典」5) 『法然上人絵伝 (下)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 p56-636) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p392,3937) 送山門起請文 :「新纂 浄土宗大辞典」8) 包丁式 :ウィキペディア補遺六地蔵 :「コトバンク」六道とは?六道輪廻の解脱方法 :「仏教WEB入門講座」富田渓仙 :ウィキペディア富田渓仙 :「東京文化財研究所」高瀬川開削400年-角倉了以と素庵 :「京の風物詩 鴨川納涼床への誘い」四条流包丁道 :ウィキペディア四條司家食文化協会 ホームページ藤原山蔭 :ウィキペディア包丁式 四條祭 :YouTube高家神社 庖丁式 フルムービー :YouTube式包丁(京都の有職料理の老舗 萬亀楼さん) :YouTube式包丁 家元 一條流庖勝兼道「菊と大根」 :YouTube包丁塚 :「宮島観光旅行まとめブログ」包丁塚と包丁供養 :「コウジ菌のブログ」包丁塚 氷川神社 :「トリップアドバイザー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.17
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祇王寺から坂道を下り、愛宕参道の道なりに南に歩みますと、T字路のところに数多くの道路標識が出ていて、その傍にこの寺号碑が立っています。この道を南に進みます。 二尊院の北側に、「妙祐久遠寺」があります。地図には久遠寺で表記されています。この寺の創建等は不詳です。かつて久遠寺は下京区にあり、1914年に東山区にあった上行寺と合併し、妙祐久遠寺と改められ、その後に現在地に移ったといいます。顕本法華宗のお寺で、本尊は十界曼荼羅だそうです。(資料1) 二尊院の「総門」角倉了以が伏見城より移したと伝える薬医門です。切妻造り、本瓦葺の桃山風の門です。(資料2)祇王寺からこの二尊院までの地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。 総門の右手前にこの駒札が立っています。 総門の斜め左手前の築地塀傍に「大界下相」と刻された境界を表示する結界石があります。「仏教の出家教団(僧伽(そうぎゃ))は団体生活をしたから、会議のときには一定の地域内の僧は特定の場所に集合した。この地域の限界を大界(たいかい)といい、また摂僧界(しょうそうかい)という。大和(やまと)国(奈良県)の室生(むろう)寺や東大寺戒壇院などに大界の外相を示す結界石が残っている」(日本大百科全書)そうです。この結界石もそれにあたるのでしょう。(資料3) 二尊院の境内全景図が掲示されています。 こちらは拝観時にいただいたリーフレットに掲載の境内図です。引用します。(資料4)両方を併せてご覧いただくと、一層イメージしやすいでしょう。 総門の木鼻に装飾はなく、太い角柱は面取りが施されています。厚みのあるがっしりとした板蟇股が目にとまります。重厚さを感じさせる門です。 総門を入ると、受付所の少し先、左側に「西行法師庵の跡」と刻された石標が立っています。その傍に、西行法師の詠んだ歌が記されています。 我ものと秋の梢をおもふかな小倉の里に家居せしより少し調べた範囲では、西行法師がいつ頃どれくらいの期間、この二尊院の傍に庵を構えていたのかは不詳です。総門からは西方向に幅の広い平坦な参道が続き、その先に緩やかな石段になります。平坦な参道のところは「紅葉の馬場」と称されています。 紅葉の馬場をさらに歩めば、右手(北側)に句碑が建立されていて、駒札が立っています。丸山海道・佳子夫妻の句が刻まれています。 春深し佛の指の置きどころ 丸山海道 萩咲かす二尊に触れて来し風に 丸山佳子「1920年11月、鈴鹿野風呂・日野草城を中心に長谷川素逝らが加わり『京鹿子』を創刊、爾来86年を迎える。主宰も鈴鹿野風呂から丸山海道に引き継がれ、豊田都峰に至る。」と第二次世界大戦中までの結社史に記されています。一時期『京鹿子』を主宰された俳人です。(資料5) 石段上から振り返った景色。春は桜、秋は紅葉で映える参道です。 石段を上りきる手前、左側(南)に高浜虚子の句があります。 散紅葉ここも掃きいる二尊院高浜虚子(1874-1959)は正岡子規没後、『ホトトギス』を主宰した俳人です。歳時記を開いて気づいたことです。散紅葉(ちりもみじ)は紅葉散ると同類で、冬の季語だそうです。「紅葉且(かつ)散る」が秋の季語で、紅葉しながら散る風情・光景をさし、一方「時雨にあい、北風にあいして、本格的に散るのは初冬」だからと説明されています。紅葉散るは散るさまの風情・光景であり、散紅葉は地上に散り敷いたさまを言うそうです。その美しさを表象するようです。(資料6)何となく秋の景色と思い込むところでした。 石段上の境内地を左に行けば、手前に「黒門」その先に「勅使門(唐門)があります。この探訪では、まず右方向(北)に行きました。 「八社宮」というかなり古い社を訪れるためでした。現在の二尊院の建造物では最古の部類に属するのでしょう。覆い屋が設けられているのでこの社が維持できている感じです。その名の通り、扉の上部の桁に勧請された神社名の木札が八社掲げてあります。右から松尾神社・愛宕神社・石清水八幡宮・伊勢皇大神宮・熱田神宮・二星神社・八坂神社・北野神社です。 木鼻は少し線彫りがあるだけのシンプルな形で、長い肘木が使われています。 側面を眺めますと、維持していく上での修復が施されているようです。装飾がほとんどありません。 八社宮の北東方向の境内端に地蔵堂があります。 地蔵堂の北隣には、石仏・石塔が集められ安置されています。八幡大菩薩と刻した石碑も安置されています。 地蔵堂のすぐ傍に宝篋印塔が建立されています。基礎の正面には、種字を挟み「宝篋印陀羅尼塔」と彫り込まれて言います。二段の基礎には反花座がつき、塔身の四面には種字が刻されています。基礎の上段には江戸時代・明和2年(1765)に造立されたと刻されています。隅飾突起が反りかえり開いているところに、江戸時代の特徴が現れています境内の北辺を彎曲しながら山の斜面を上る坂道の入口にあたり、ここが背後の山の斜面に設けられた墓地への入口になっています。 黒門前を通り過ぎ勅使門に向かいます。 勅使門の前の通路を隔て、西側は一段低くなり、そこに「竜女池」が見えます。 正面に唐破風形のある屋根です。四脚向唐門の形式です。「勅使門」の門扉が開いており、ここから入ることができました。 木鼻はシンプルです。頭貫の組み合わせ方がおもしろい形です。 正面控柱の頭貫上の蟇股は板蟇股に少し線彫りを加え、中央に三つ巴の文様を浮彫にしただけです。本柱の頭貫上の蟇股はもまた板蟇股に近いものですが、中央の円形にはヤブツバキ文様の浮彫で彩色されています。周囲がシンプルだけに、この彩色文様が際立ちます。内側の控柱の蟇股の造詣は正面のものと同じです。 門扉の上部は花狭間になっています。 勅使門を本堂側から眺めますと、門を入り左側(南)に築地塀で仕切られて書院が見え、築地塀前に庭園が造られています。 本堂前庭に作られた庭園部分と連続性を持った作庭になっているようです。 黒門側つまり北東側から眺めた本堂・弁天堂あたりと本堂前庭の全景です。ここで、竜女池にまつわる伝承を『都名所図会』から引用しておきましょう。(資料7)二尊院の説明の中で、括弧書きとして記されている内容です。「いにしへの額は小野道風の筆にして、二尊教院と書して四足門にかくる。しかるに門前の池より夜々霊蛇登りて額の文字を嘗(な)める。これを防がん為に額のかたはらに不動の像を書かせけれども、いまだ止まず。正信上人かの蛇の執を救はんために、みずから円頓戒の血脈を書きて池にしづめらる。しかるにかの池より千重の白蓮花一もと生ず。これぞ誠に竜女成仏の証なりとて、かの花をとりて什宝とす。今にあり。池の汀の弁才天の社は竜女を勧請しけるなり」と。竜女池は弁天堂と繋がっていたのです。たぶん総門に掲げられた木札「九頭龍辨財天」とリンクしていくことになるのでしょうね。この後、本堂の拝見になります。つづく参照資料1) 久遠寺(京都市右京区) :「京都風光」2) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p300-3043) 結界 :「コトバンク」4) 「小倉山二尊教華臺寺 二尊院」 拝観時にいただいたリーフレット5) 京鹿子(きょうかのこ) :「関西現代俳句協会」6) 『ホトトギス新歳時記 改訂版』 稲畑汀子編 三省堂7) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p392,393補遺二尊院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.15
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愛宕参道(府道50号線)から右折した道の突き当たりが「祇王寺」です。 前回最後に触れた石仏群の近く、道路の南端にも石仏群があります。 石段を上っていくと、「祇王寺」と記した扁額を掲げた参拝口があります。 順路が設定されています。入口からすぐ近くに、最後に巡る石塔をまず遠望しました。 秋の紅葉した木々と落葉に埋もれた祇王寺の庭景色が定番になっていますが、今は苔の庭として、様々な色合いの緑が美しい眺めになっています。萱葺き屋根の草庵全景が樹間に見えます。まずは庭を巡回します。 庭の門の萱葺きの屋根が苔蒸しているのが良い感じです。遮蔽垣沿いに通路を進むと、 墓前灯籠風の石灯籠が目にとまります。 庭を回り込んで行きますと、遮蔽垣の形態が変わります。すると景色の印象も変化します。 落葉した幹と枝だけの苔庭の樹林が寒々としている反面、庭を明るくしています。 庭の一番奥まった北西側の一隅に、「祇王寺の苔」が展示されていました。苔類が幾種類もこの庭に生息しているのです。 こちらの一画で、また遮蔽垣の形態が変わります。 これはこの景色の手前にある歌碑に関連した顕彰碑です。奈良に生まれ、東京・新橋にて技芸の道で名を馳せた女性が昭和11年(1936)7月に仏心をおこしてこの祇王寺に隠棲しました。その人が智照尼です。33年に平家の哀史に残る祇王寺を永遠に伝えるために祇王の詠んだ歌の碑を建立されたのです。この石板碑は智照尼を顕彰する碑文が記されています。手前の歌碑には、次の歌が刻されています。 萌えいずるも枯るるも同じ野辺の草いずれか秋にあわではつべき『平家物語』巻一の第三段「妓王の事」にこの歌が載っています。白拍子の妓王は太政入道(平清盛)に寵愛されます。そこに加賀国出身で16歳の白拍子の仏御前が清盛の別邸である西八条殿に「当時都に聞こえ候ふ仏御前が参って候」と言い現れるのです。清盛は怒りを発します。それを妓王は取りなして、仏御前が清盛と対面ように計らいます。「髪姿より始めて、眉目かたち世に勝れ、声よく節も上手なりければ、なじかは舞ひは損べき。心も及ばす舞ひすましたりければ」という仏御前に、清盛はころりと心を移してしまいます。そして妓王に去れと言います。いずれそういう時が訪れると思っていた妓王も、それが今日明日とは思いもよらないことでした。「妓王、今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にやと思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌そ書き付けたる」ということになります。その障子に書き残された歌が上記の歌です。(資料1)手許の『平家物語』では、「妓王」という語で記されています。また『都名所図会』では「妓王寺」と小見出しで記されていて、その説明の文に祇王、祇女と記されています。(資料2)つまり、妓王、妓王寺が、いつしか祇王、祇王寺と変遷していくようです。あるいは、漢字の表記にあまりこだわらなかったのかもしれません。 草庵内の控の間に設けられたこの吉野窓は、上掲の歌碑・石板碑などと竹林を側面から眺められる位置にあります。庭を撮っていると探訪時間の関係で草庵(本堂)内に上がって仏壇等を拝見する時間がありませんでした。庭の通路から草庵内の仏間を垣間見るだけになりました。仏間の仏壇には、本尊大日如来を中心に各木像が横並びに安置されています。 母刀自・祇王・平清盛・大日如来・祇女・仏御前こういう配置で安置されていたように思います。(間違いがあるかもしれません)祇王・祇女の木像は作者は不詳ですが、玉眼入であり鎌倉時代の作の特徴を表すと言います。(資料3,4)祇王寺のホームページにて、「草庵に安置された妓王たちの仏像」を拝見できます。こちらからご覧ください。そこで、祇王祇女から始まる祇王寺の経緯です。淵源は『平家物語』に描かれた妓王の出家から始まります。該当箇所を抽出すると、次のように記されています。「『・・・・・かくて都にるならば、又も憂き目を見んずらん。今はただ都の外へ出でん』とて、妓王二十一にて尼となり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念仏してぞ居たりける。」これを聞いた妹の妓女はお姉さんがそのなら私も一緒にと、十九で姉と一緒に奥嵯峨に籠もり、一心に後世のことを願うのです。このことを聞いた母の刀自は、「若き娘どもだに様をかふる世の中に、年老いた齢衰へたる母、白髪を付けても何にかはせんとて、四十五にて髪を剃り、二人の娘とろともに、一向専修に念仏して、後世を願ふそあはれなる」と。その後、この出家した妓王・妓女・母刀自の3人の住む庵に仏御前が訪れて、彼女も又17歳で出家するということになります。『平家物語』はその結果、「四人一所に籠もり居て、朝夕仏前に向ひ、花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそあれ、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし」と結んでいます。その上で、「されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・仏・とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。」と最後に書き加えています。(資料1)妓王らの住んだ庵は嵯峨の奥なる山里です。この妓王・妓女が出家したのが往生院だったそうです。(資料5)西京区大原野にある三鈷寺の前身名が往生院であり、源算が平安時代の1074年に小庵を設け往生院と名づけたと言います。往生院に天台宗の観性法橋が1162年に入り再興したそうです。清盛が太政大臣になったのが1167年2月ですから、年代的にこの往生院が祇王の出家に関係するのかもしれません。入手資料からの私の推測ですが・・・・(資料2,6,7)そして出家した祇王たちは嵯峨の奥に小庵を設けて住んだのでしょう。 そこで、この駒札に関連してきます。この地の往生院は鎌倉時代に法然上人の弟子念仏坊良鎮により興された念仏道場だったそうです。(資料5,8)寺伝とは言え、駒札に記載の平安時代とは整合しなくなります。往生院の流れとして祇王たちが住んでいた小庵(祇王寺)の地に念仏道場が興され、往生院の名が継承されたと推測できそうです。祇王寺は往生院の一院という位置づけになったのでしょう。私の推測が入っています。この念仏坊が興した念仏道場・往生院は中世に廃絶となったと言います。(資料5)そして、再びささやかな尼寺が残され、祇王寺と呼ばれるようになったそうです。(資料7)江戸時代、安永9年(1780)上梓の『都名所図会』には、「妓王寺 は浄土宗にして往生院となづく。いしへは西の山上にあり。後世今の地にうつす。本尊は阿弥陀仏にして、脇士は観音・勢至なり。清盛入道浄海の塔、祇王(二十一歳)祇女(十九歳)仏(十七歳)刀自(妓王・妓女の母四十五歳)の塔も、庵室の南にあり。」と説明しています。江戸時代に、『平家物語』に登場する祇王・祇女・仏たちの哀話が有名になり、祇王寺が再興されたというつながりになるのでしょう。ここに記された「今の地」が嵯峨鳥居本小坂町で現在の祇王寺が所在する場所です。 見開きでこの図絵が載っています。「三宝寺 は祇王寺の南に隣る。ここも往生院となづく。」と説明しています。(資料2)ところが、この江戸期の往生院は、明治初年(868)に廃寺となったのです。(資料1,7)「残された墓と仏像は旧地頭大覚寺によって保管され」ます。(資料3)明治28年に、当時の京都府知事北垣国道が祇王の話と再建計画を聞き、嵯峨にあった自分の別荘内の茶室を寄進され、それが現在の草庵(本堂)となります。大覚寺の塔頭・往生院祇王寺として再建されたのです。現在は、祇王寺が往生院の名を継承していることになります。大覚寺は真言宗のお寺ですので、本尊は大日如来像が祀られているということでしょう。そして、昭和の時代に入り、1935年、39歳の時に、奈良県にある真言宗久米寺で得度した智照尼が寂れていた祇王寺の庵主となり、この祇王寺を復興させたと言います。智照尼は1994年(平成6)に寂、享年98歳だったと言います。(資料9)智照尼は、瀬戸内寂聴著『女徳』のモデルになった人としても知られているそうです。 本堂前からの庭の眺め 一隅に、歌碑らしきものが目にとまりましたが、私には判読できません。残念。 草庵から、参拝口を入り最初に遠望した石塔の場所に向かいます。 右側にある五輪塔が平清盛の供養塔と言われています。鎌倉時代の作です。この球状の塔身(水輪)に金剛界四仏の梵字が刻まれていて、珍しい部類になるそうです。(資料1)余談です。『平家物語』巻六には「五 入道逝去の事」という段があり、京の六波羅で清盛が没すると、「愛宕(おたぎ)にて煙になし奉り、骨をば円実法眼、首にかけ、摂津国へ下り、経の島にぞ納めける」と記されています。その経の島については、「付 経の島の事」の中に、「福原の経の島築いて、上下往来の船の、今の世に至るまで、煩ひなきこそめでたけれ」(資料1)とあり、現在の神戸市兵庫区の兵庫港あたりにあった港の近くの人工島だとか。一方、兵庫区切戸町に十三重石塔「清盛塚」があるそうです。塚は墳墓を意味しますので、墓と伝えられてきたのでしょう。しかし、道路拡張工事が必要となり、この「清盛塚」移転に伴う調査で墳墓ではないことが判明しました。「一方、『吾妻鏡』には、遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められたと書かれています。播磨国山田は、現在の神戸市垂水区西舞子町の山田川付近にあたり、明石海峡を望む景勝の地です。」(資料10)とか。元に戻ります。 向かって左側に安置されたこの三重石塔が、「祇王、祇女、母刀自の墓」と言われています。 「四方仏を陽刻し、四隅面取りした塔身と初層・二層の笠石が鎌倉時代のもの」(資料5)だそうです。まとめていて、ふと疑問が湧きました。仏御前の墓はどこにあるのでしょう。手許の本や入手資料、当日いただいたリーフレットには、それについて言及したものがありません。ネット検索で調べてみると、その一端がわかりました。仏御前は、「1176(安元2)年、故郷である原に帰って小庵にこもり、余生を送りました。現在は仏御前をしのぶ3基の墓石が建っています。」(資料11)と判明しました。その場所は「石川県小松市原町208-2」だそうです。『平家物語』は、上記の通り「遅速こそありけれ、皆往生の素懐を遂げるとぞ聞こえし」と語るのみです。この物語は史実を踏まえているとはいえ、あくまで語り部の物語ですから、脚色された部分もあることでしょう。祇王たちと仏御前はどのような別れとなったのでしょう・・・・。 これらの石塔を眺めて、祇王寺を出ました。プラスαとして触れておきます。一つは、上掲の三宝寺のことです。ここも往生院となづくとあるように、往生院の子院の一つだったそうですが、この寺も明治維新の折に廃亡してしまいました。『平家物語』には、建礼門院の雑司女(ぞうしめ)横笛との恋愛を父から反対され、「十九の年髻(もとどり)切つて、嵯峨の往生院に、行ひ澄ましてぞいたりける」と記された斎藤滝口時頼の話が巻十の「八 横笛の事」に出て来ます。彼は平重盛(小松殿)の家臣でしたが、平安時代末期の養和元年(1181)山城法輪寺で出家し、嵯峨の地で修行したようです。その後、滝口時頼入道は高野山に登ります。(資料12)『都名所図絵』は、三宝寺の項で、「本尊は阿弥陀仏、また滝口入道・横笛の像を安置す。開基は良鎮上人なり」と記しています。門の前に歌石があり、ここが滝口入道の縁の地とみられていたようです。(資料2)現在、祇王寺の南隣りに「滝口寺」があります。ここは「昭和のはじめ頃、長唄の杵屋佐吉によって再興された」そうで、「小倉山と号し、真言宗大覚寺派に属し、本堂には滝口入道と横笛の坐像を安置する」(資料13)とか。この寺は今回は訪れていません。この滝口寺門前の南に新田義貞首塚があり、その碑が立つそうです。前回の石標・道標が林立する写真に写っている「新田公首塚碑道」にここでつながります。もう一つは祇王寺に関係する歌や句を取り上げておきたいと思います。祇王寺でいただいたリーフレットには、智照尼作の四季の四句が載せてあります。(資料3) まつられて百敷春や祇王祇女 短夜の夢うばうものほととぎす 五十年の夢とりどりの落葉かな 祇王寺と書けばなまめく牡丹雪手許の本には、次の句が載っています。智照尼の句集「竹」があるそうです。(資料13) 奥嵯峨に住みて一人や春の月 奥嵯峨や尼住むところ雪深し 美しき人みな悲し祇王寺に祇王を思ひ君に及びぬ (京洛遊草) 吉井 勇 世のさがの秋にあはずば女郎花花の操も知られざらまし 税所敦子 祇王を思ふ うつそみの嘆きに堪へて生きし人もつひの姿は静かなりけり (柳園詠草)清水千代別書から四季の句をご紹介します。(資料14) 手の甲に消えて淡雪祇王の忌 宮下由紀子 祇王寺の春の氷を割りし杓 梶山千鶴子 祇王寺の竹の中なる今年竹 遠藤若狭男 羅を着て祇王寺に用のあり 後藤比奈夫 羅(うすもの) 祇王寺は明日ゆくとせりかぶら蒸 藤田あけ鳥 祇王寺の庫裡より入りて炬燵の間 千原 叡子 炬燵(こたつ) 初雀ほいほいと呼ぶ白拍子 福本須代子最後に能に触れておきます。仏御前を題材にして世阿弥は「仏原(ほとけのはら)」という三番目物を創作しています。この後、二尊院に向かいます。つづく参照資料1) 『平家物語』上巻・下巻 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p386-3883) 「京・奥嵯峨 祇王寺」 拝観当日いただいたリーフレット4) 祇王寺 ホームページ5) 龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)6) 観性 :「コトバンク」7) 往生院 :「浄土宗大辞典」8) 念仏坊 :「浄土宗大辞典」9) 髙岡智照 :ウィキペディア10) 平清盛のお墓はどこにあるのですか :「神戸市」11) 仏御前屋敷跡・仏御前墓 :「ほっと石川 旅ねっと」12) 斎藤時頼 :「コトバンク」13) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p317-32114) 『名所で詠む 京都歳時記』 京都名句鑑賞会編 講談社ことばの新書 p170,171補遺祇王寺 :ウィキペディアTERUHA (Albums) :「flikr」『都名所図会』巻四 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 7/70コマ目 祇王寺の紅葉 / Giou-ji Temple / 京都いいとこ動画 :YouTube曲目解説 仏原 :「銕仙会~能と狂言」仏原 :「謡曲をよむ」 [さとしの独断人物伝]仏御前虐殺事件の謎-祇王と仏御前- その2 :「さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り」 大変興味深い考察をされているブログ記事をみつけました。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 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2019.03.12
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あだし野念仏寺を出て、愛宕参道の両側に鳥居本の町並を眺めつつ祇王寺へ下っていきます。前回ご紹介した通り、「嵯峨鳥居本伝統的建造物保存地区」(昭和54年・1979)に指定されていますので、愛宕神社の門前町の風情を残す町並を楽しむことができます。勿論、かなりの町家が観光客を対象としたお店になっています。 私好みで撮った町家の景色です。 町屋の入口傍に、こんな灯籠が置かれています。台座との組み合わせもおもしろい。 参道で見かけたお地蔵様の小祠です。 下って行く道の途中に後亀山天皇陵への参道を示す石標が立っています。右の写真は、石標の側面です。北に14町行くと「檀林皇后陵」、北に二里四町行けば「清和帝陵」があるという記載です。檀林皇后陵は「檀林皇后深谷山陵」で、「一の鳥居より左の水尾路を400m、さらに北へ300mばかり入り込んだ深谷山の幽𨗉な山中にある」(資料1)そうです。また、清和帝陵は「清和天皇水尾山陵」として治定されているところをさすのでしょう。(資料2) 少し参道に入り眺めると、御陵方向はこんな景色です。御陵は竹林におおわれているそうで、次の探訪先である祇王寺の正北100mの位置にあるそうです。嵯峨小倉陵と称されています。後亀山天皇は南朝最後の天皇です。明徳3年(1394)に南北朝の合一後、吉野より帰洛し、一旦大覚寺に入り、2年後の1394年2月に落飾し、小倉山東麓の小倉殿に隠棲されたとか。その後30余年奥嵯峨で閑居するという生涯だったそうです。 思い遣る人だにあれな住み慣れぬ嵯峨野の秋の露はいかにと 新続古今集、十七 忘れんと思ふ甲斐なく古事をまたいひ出でてしぼる袖かなという歌を残されています。(資料1) 御陵参道の入口から少し入ったところの民家の傍で目に止まった石像です。これを見て連想したのは、拙ブログで以前にご紹介した、京都国立博物館の東の庭に展示されている「李朝墳墓表飾石造遺物」の一部である文官像でした。 愛宕参道(府道50号線)を南進すると、南側に門がある「博物館 さがの人形の家」を眺めつつ通り過ぎます。その少し先は三叉路になっています。 三叉路の南側に沢山の石標、道標が立っています。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この三叉路で右折して、西に向かえば、突き当たりが祇王寺です。 右折して最初に目に止まったのがこの木標「山城国 一ノ寺 檀林寺境内」です。 坂道の北側に境内地が広いお寺があり、山門前には「檀林寺」碑もあります。 坂道を上り始めたところに石段と通用門風の門があり、道路脇にこの案内板が立っています。「檀林寺跡」を今回の講座では最後の行程で訪れました。檀林寺は嵯峨天皇の皇后で、檀林皇后と称された橘嘉智子(786-850)が建立した尼寺ですが平安時代後期には廃絶しています。(資料3)ここに所在する檀林寺はその由緒を踏まえて、昭和39年(1964)に創建されたそうです。最後の探訪行程の中で触れることにして、檀林寺跡地は、こことは直接関係なさそうです。(資料1)ここは通過点となりました。現在の檀林寺についてネット検索してみると、興味深いことが幾つか記されています。具体的には、それらの記事をご参照ください。補遺にも関連記事の検索結果を例示します。この檀林寺の門前から少し先が突き当たりとなり、祇王寺の境内地になります。 檀林寺門前の道路の南寄りに石仏群があります。 この二尊石仏の左側は錫杖がレリーフされているので地蔵尊でしょうが、右側は不詳。 石仏群の右端の石仏は、螺髪(らはつ)・肉髻(にくけい)が象られていて、阿弥陀如来像です。しかしこれらは多分全部お地蔵さまとして信仰されているようです。 この石仏群の傍に、祇王寺・大覚寺間の「歩きマップ」が掲示されています。それでは、祇王寺の探訪に移りましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂2) 清和天皇水尾山陵 :「宮内庁」3) 龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)補遺嵯峨鳥居本 :ウィキペディア後亀山天皇 :ウィキペディア後亀山天皇 :「コトバンク」後亀山天皇 嵯峨小倉陵 :「京都風光」清和天皇 :ウィキペディア清和天皇隠棲の地・水尾を歩く :「歴史と文学の旅」嵯峨天皇皇后 仁明天皇生母 太皇太后 嘉智子 嵯峨陵 :「倭は国のまほろば・・・・残された憧憬を訪ねて・・・。」嵯峨陵(嵯峨天皇皇后嘉智子嵯峨陵・檀林皇后深谷山陵)(京都市右京区):「京都風光」京都 さがの人形の家 ホームページ博物館 さがの人形の家 :「京都観光Navi」現在の檀林寺について :「本の虫」檀林寺 :ウィキペディア嵯峨野の変わったお寺・檀林寺 :「日々に感謝・感動♪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)
2019.03.11
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愛宕(おたぎ)念仏寺前の愛宕(あたご)参道を下って行くと、愛宕(あたご)神社の「一の鳥居」に至ります。この景色は一の鳥居をさらに下り「鳥居本」の町並側から撮ったものです。この景色から始めた方がイメージがしやすいでしょう。この一の鳥居から南に300mほど下ると、あだし野念仏寺(化野念仏寺)です。この鳥居を挟んで、江戸時代・享保年間(1716~1736)創業と伝える腰掛茶屋が二軒あります。(資料1) 鳥居を潜った北側にあるのが「平野屋」です。暖簾の平野屋と大きく白抜きされた屋号の右肩には「鮎司」と白抜きの文字が見えます。左の提灯の側面には「あゆよろし」と記されています。保津峡谷に近い立地を活かし、保津川水系で獲れた鮎を扱う鮎問屋を営む一方で、愛宕神社の起点であることから茶店を営んできたと言います。やがて、鮎料理も提供するようになり、現在に至るそうです。鮎茶屋と称され、今の女将は14代目で、15代目若女将とともに「今も昔からの赤前垂れ」でお客様のおもてなしが行われているそうです。(資料2) 平尾屋の北端前に注連縄の張られた大きな石があります。「亀石」と記した駒札が立っています。愛宕山麓にあるこの石は「上り亀石」とも称され、ここから5.5kmの山道を登った愛宕山山頂にも同様の石があり、「下り亀石」と称され、一対をなしているそうです。(資料1) 一の鳥居手前にもう一軒の腰掛茶屋である「鮎の宿 つたや」があります。こちらも同様に、愛宕山の門前町として、愛宕山に登る参拝者にお茶を出す店として始まったのです。「昔は保津川で採れる鮎を京都丹波・亀岡の方から京都まで天秤棒で運んでいたため、水の入れ替えに休憩所が必要でした。」そこで、こちらも新鮮な鮎を料理してお客に提供するようになったそうです。(資料3)「鳥居本」はこの一の鳥居から化野念仏寺を経て祇王寺に至る約650mの愛宕参道沿いにある集落を言います。愛宕参道の西側にある化野念仏寺に相対する位置に曼荼羅山(曼荼羅山)があり、そこは五山の送り火の一つ「鳥居形」が点火される山です。その送り火を奉仕する集落である所から、鳥居本が村名となり地名となったと言います。また、この鳥居本は室町末期頃、農林業中心の集落として形成されたようですが、江戸時代中期から愛宕神社の門前町としての性格が加わり、町家や茶店も立ち並ぶようになり、町並が形成されてきたそうです。 ここは現在、「嵯峨鳥居本伝統的建造物保存地区」(昭和54年・1979)に指定されています。その案内掲示が出ています。もう1箇所で別形式の案内板を見ました。 参道を振り返った景色 目にとまった民家 愛宕参道を祇王寺の方、つまり南から上ってくると、この緩やかな石段の上に、あだし野念仏寺(化野念仏寺)の入口があります。さきにお寺へのアプローチとしてご紹介しておきます。一方、一の鳥居から参道を下ると、右側に少し急な石段でお寺の入口に向かうことになります。 石段を上った正面にこの二尊仏が見えます。入口は右折した少し先です。向かって右には定印を結ぶ阿弥陀如来坐像、左には与願印(左手)と施無畏印(右手)の釈迦如来坐像が並んでいます。 側面から眺めると、掘り出された石仏の厚みがよくわかります。鎌倉時代に造立されたものと言います。(資料4) 入口を入り通路沿いに回り込むと左側に石仏群があります。 右側は苔蒸した庭が生垣の手前に広がっています。 この苔庭の一隅にある「虫塚」 苔庭の空間を右折して回り込みます。その時、生垣と樹木の間に合掌される吐夢(とむ)地蔵菩薩像と観音菩薩像が安置されています。吐夢地蔵は、近現代の映画監督・内田吐夢(1898-1970)ゆかりの地蔵尊像です。 回り込まずに、真っ直ぐに進めば、右側前方に、この塔門(トラーナ)が見えます。仏舎利塔への入口になっているようです。こちらは今回、探訪していません。 拝観時にいただいたリーフレットの一部を引用します。この境内図で位置関係がご理解いただけるでしょう。(資料5) 塔門を見て最初に連想したのは「サーンチー」の仏教遺跡です。ウィキペディアから写真を引用します。(資料6)ネット検索で調べて見ますと、あだし野念仏寺の塔門は、サーンチーの第3スツーパにある塔門により近くそれをさらに単純化した姿に見えます。補遺をご覧ください。 いよいよ、石垣で方形に囲われた「西院の河原」が目に入りました。境内の中央部を埋める石塔石仏です。石垣の外側から撮りました。(西院の河原内では撮影禁止です) この境内には、石塔・石仏が8,000体を数えると言います。これらは室町後期から江戸期のもので、この化野一体に葬られた人々のための墓で、長い歳月を経て散乱・埋没していたものを、明治36,7年頃に地元の人々の協力を得て、ここに集められたそうです。(資料1,4,5) 覆屋の設けられたお地蔵様。境内図を見ますと「お迎地蔵」にあたると思います。今回のテーマは「化野の寺社」です。このあだし野野念仏寺で初めて「化野」が出てきます。そこで少し脇道に入ります。化野(あだしの)という名称は、今やこのお寺も「あだし野念仏寺」と表記され、現在の地図にもそのように表記されていますので、直接には「嵯峨鳥居本化野町」という地名に名をとどめるだけのようです。しかし、かつての「化野」は嵯峨野の西北部、小倉山の東北麓一帯を意味していました。平安時代から東山の鳥辺野、洛北の蓮台野と並ぶ大墳墓地だった地域です。(資料1,4)『徒然草』第7段は、その冒頭に「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟(けぶり)立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は、定めなきこそいみじけれ」と記しています。(資料7)化野と鳥辺山を挙げていることで、葬送地になっていたことがわかります。「初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所」(資料5)です。一方で、嵯峨野は平安時代初期に、嵯峨天皇が「嵯峨院」という別院を造営し文化の中心地にしたことから、平安貴族の隠棲地にもなって行きます。鎌倉時代には小倉山の麓に藤原定家が小倉山荘を営みます。(資料4)元に戻ります。この「西院の河原」にある十三重塔は江戸時代のもので、小石塔は室町時代のものが多く、一部江戸時代に及ぶそうです。(資料1) これは北西角付近の石垣上に置かれた五輪塔です。散乱・埋没していた石塔の部材を組み合わせて五輪塔にしたものでしょう。石材の色合いから時代差があるようですし、火輪に当たる笠石の形状が、標準的な五輪塔の笠石とは異なり、層塔の笠石が利用されている感じです。格部材の大きさのバランスにも寄せ集めている感が窺われます。この西院の河原は、「極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある」(資料5)そうです。このあだし野念仏寺で良く知られているのは、引用した上掲境内図の左の写真に見られる「千灯供養」です。毎年地蔵盆の8月23日・24日に夕刻より、これら無縁仏の霊にローソクを御供えするという行事が行われています。 西院の河原の北西角の傍に「地蔵堂」があります。 東側の正面 延命地蔵菩薩座像が安置されています。 地蔵堂の蟇股です。漆喰壁で塗り込められているので、シンプルで繊細な美しいさを感じます。 地蔵堂の北に「本堂」が位置します。山号「華西山」の扁額が正面にかかげてあります。現在は、正式には「華西山東漸院念仏寺」と称し、浄土宗のお寺です。 本尊は阿弥陀如来坐像で湛慶の作だそうです。鎌倉彫刻の秀作と言われています。江戸時代に出版された『都名所図会』(1780年)には、「化野」という見出しの中で、その地域を「小倉山の北の麓なり」と記し、その続きに「念仏寺の本尊は阿弥陀仏にして湛慶の作なり」という一文の説明にとどめています。(資料8)当時はたぶん化野にある小規模なお寺という認識だったのかもしれません。一方、『拾遺都名所図会』には、江戸時代の化野念仏寺の全景が見開き2ページで描かれています。こちらからご覧ください。(国際日本文化研究センター:平安京都名所図会データベース) 駒札にも記されていますが、弘法大師空海がこの化野の地に葬られた人々の菩提を弔うために一宇を建立し、五智山如来寺と称されたのが始まりで、鎌倉時代に法然上人の常念仏道場となり、真言宗から浄土宗に改められて、念仏寺と呼ばれるようになったとされますが不詳。「おそらく化野の墓守り寺として創建されたものであろう」(資料1)という見方もあります。 本堂の傍で、この「東漸大師咒所」と刻された碑が目に止まりました。辞書を引くと、咒は呪の異字体だそうです。咒所をどう解釈するのが適切なのか・・・・・不詳です。調べてみますと、「東漸大師」とは法然上人の大師号の一つです。宝永8年(1711)法然上人の500回忌の時に中御門天皇より加諡宣下された大師号です。(資料8)正式な寺名にある「東漸院」という院号はこの大師号に由来するものと推測します。 本堂の南に、石柵で囲われ無縫塔(卵塔)が並ぶ廟所があります。当寺歴代住職の墓所でしょう。 正面中央の無縫塔には「中興開山寂道和尚墓」と刻されています。「現在の本堂・庫裡は、正徳2年(1712)11月、岡山より来た寂道和尚によって中興されたものである」(資料5)に照応します。 地蔵堂の傍にある青銅製の観音菩薩坐像本堂・寺務所前を通り入口に戻ります。 西院の河原を時計回りに廻り込み、東側から眺めた景色です。 境内地の東辺で目にとまったのが、鹿島鳥居形式の石鳥居が立つ社域です。 近づいて見ると、手前の左側にある小祠には石造不動明王像が祀られています。 覆屋の設けられた社は「天満宮」です。 入口側から眺めた天満宮のある東辺の景色です。あだし野念仏寺の探訪で、時間的な問題その他から課題が残りました。*仏舎利塔のある境内地南辺を探訪できなかったこと。*工事の関係で「竹の小径」が閉鎖されていて、この小径とその先に安置されている六面体地蔵を拝見できなかったこと。*竹林の中の一隅にあるという角倉素庵(1571-1632)の墓所を参拝できなかったこと。などです。最後に、あだし野/化野について数多くの和歌が詠まれています。調べてみた範囲でご紹介します。 暮るる間も待つべき世かはあだし野の松葉の露に嵐たつなり 式子内親王 『新古今集』巻十八、雑歌下 誰とても留るべきかはあだし野の草の葉毎にすがる白露 西行法師 『西行法師家集』723 『續古今和歌集』 1607 人の世は思へば並(な)べてあだし野の蓬(よもぎ)がもとのひとつ白露 後京極摂政前太政大臣(九条良経)『玉葉集』巻十七、雑歌四 あだし野の露は散りてもまたぞ置く消えてあひみぬ人ぞはかなし 後宇多院 『亀山殿七百首』 雑 あだし野や風まつ露をよそにみてきえんものとも身をば思はず 二条為道 『新後撰』 1501 あだし野の風になびくなをみなへしわれしめ結はむ道とほくとも 『源氏物語』宇治十帖「手習」 浮舟に惹かれた中将の贈答歌 769 序でに、西行法師が鳥辺野・蓮台野を詠みこんだ歌を『山家集』からご紹介します。 鳥辺野を心のうちに分けゆけばいぶきの露にそでぞそぼつる 757 鳥辺野や鷲の高嶺のすゑならんけぶりを分けて出づる月かげ 776 なき跡をたれと知らねど鳥辺山おのおのすごき塚の夕暮 849 露と消えば蓮台野にをおくりおけねがふ心を名にあらはさん 851あだし野念仏寺の入口を出ると、最初に載せた緩やかな石段を歩み、再び愛宕参道を下り、祇王寺をめざします。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂2) お店おご案内 歴史 :「平野屋」3) つたやの歴史 :「鮎の宿 つたや」4) 龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)5) 「開創千二百年 あだし野念仏寺」 拝観時にいただいたリーフレット6) サーンチー :ウィキペディア7) 『改訂 徒然草 付現代語訳』 今泉忠義訳註 角川文庫 p208) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 p3859) 法然上人に8つ目の大師号が加諡 :「法然共生」補遺あだし野念仏寺 ホームページサーンチーへの招待 :「イサーンの大地走行2000キロプラス」京都・化野念仏寺で千灯供養 :YouTube印相 :「Flying Deity Tobifudo 飛び不動」吐夢地蔵 :「京都シネスポット」内田吐夢 :ウィキペディア内田吐夢 :「コトバンク」角倉素庵 :ウィキペディア角倉素庵 :「コトバンク」第170回 「呪」と「咒」 人名用漢字の新字旧字 :「WORD-WISE WEB」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.10
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JRの「嵯峨嵐山」駅で下車し、南口からトロッコ嵯峨駅の建物の傍を西に進みます。徒歩5分で、渡月橋から北にのびてくる道路にある「野々宮」バス停に至ります。ここから京都バスで「愛宕念仏寺前」にて下車。愛宕念仏寺前が今回参加した史跡探訪講座(資料1)の集合場所です。今回の探訪行程での主なスポットは次のとおりです。、 愛宕念仏寺~鳥居本・化野念仏寺~祇王寺~二尊院~常寂光寺~檀林寺址・野々宮神社2時間弱早い目に嵯峨嵐山駅に降り立った時は天気が良かったのですが、まず個人的探訪をしていた途中から小雨もよいになりました。集合時刻(12:45)には小雨です。探訪の開始から終了までは雨が降ったり、止んだりという状況でした。さて、今回も事後学習と記録整理を兼ねてのご紹介です。レジュメと諸資料を参照しながらまとめてみます。 バス停はその名の通り、「愛宕(おたぎ)念仏寺」の山門前です。バスを降りると、山門(仁王門)に向かって右手前にあるこの石標と案内板がまず目に止まります。石標には、「洛陽第十六番愛宕寺」と刻されています。現在この寺の所在する北西には「愛宕山(あたごやま)」があります。現在は山頂に愛宕(あたご)神社がある山です。なぜ「愛宕」を愛宕山の近くに在りながら「おたぎ」と読むのか? その理由は、 この案内板の最初に説明されています。聖武天皇の娘・称徳天皇(生年718-没年770)により、現在の東山松原通の地に寺が建立されたそうです。この地は当時、山城国愛宕郡(おたぎごおり)と称され、愛宕郡に初めて建てられた寺だったので、「愛宕(おたぎ)寺」と名づけられたと言います。しかし、平安時代・醍醐天皇(即位897-退位930)の時代に鴨川の洪水で廃寺になりますが、その復興を命じられた天台宗の僧「千観内供(せんかんなぐ:918-974)が寺を中興します。そして、等覚山愛宕院と号する天台宗延暦寺の末寺となります。「千観は生涯念仏を絶やすことがなかったということから『念仏上人』と称され、寺の名前も後に愛宕念仏寺と言われるようになりました。」(資料2)江戸時代に出版された『都名所図会』には、「等覚山念仏寺」という小見出しで次の説明が冒頭に記されています。(資料3)「六波羅密寺の西にあり。(むかしはこの辺りを愛宕里といふ。今この名は当寺に止まりて、世人愛宕寺と称す)真言宗にして、開基は弘法大師、中興は千観内供なり」と。ここから建立当初真言宗のお寺が廃寺となった後、中興時に天台宗になったことがうかがえます。大正11年(1922)に堂宇保存の目的でこの地に移築されたのです。しかし第二次世界大戦中に無住寺となり、昭和25年(1950)の台風災害の被害甚大のため廃寺となります。昭和30年(1955)に仏像彫刻家西村公朝が住職となり、京都一の荒れ寺の復興が始まったと云います。後でその一部をご紹介する1200体に及ぶ羅漢石像は、復興祈願に賛同した参拝者により彫られた石像なのです。昭和55年(1980)からさらに本格的な復興事業が行われ、現在に至るそうです。(資料2)羅漢石像群は、今ではこの寺の一つの名物となっています。雨・風・雪に曝され、歳月を経て一部苔蒸した羅漢石像群が境内に味わいのある雰囲気を加えています。私がすぐに連想するのは、伏見区深草の石峰寺境内にある伊藤若冲の関係した五百羅漢石像群の景色です。 仁王門は江戸中期に建立された門で、1980年に解体復元修理されたそうです。三間一戸、単層、切妻造、銅板葺の楼門です。この仁王像は鎌倉時代の造立で、京都市指定文化財になっています。(資料2)京都市内では最も古い仁王像と言います。 仁王門を入ると、すぐ右側にこの「羅漢洞」があります。 入口手前に、風神・雷神の石像が置かれています。この建物は、中央が通路を兼ねていて今回は通り抜けただけになりました。ここには、西村公朝師の制作による蓮華蔵世界の天井画、釈迦の壁画、十大弟子像が祀られているそうです。(資料2)また、改めて違う季節に訪れたいと思います。 お寺は山の斜面を数段に開平した境内地ですので、仁王門を入ると正面の先で右折し、ジグザクとした石段道を上ります。「羅漢道」と名づけられています。 階段の入口に、この「二王像」石像が置かれています。 石段傍で眺めた羅漢像 石段を上る途中で北東方向の道路側を眺め下ろすと、境内地の端に本堂側に向いて、つまりお寺の山門前の愛宕参道である道路に背を向けて、2箇所にびっしりと羅漢群像が見えます。 この境内地の南端側に「地蔵堂」が建っています。ここには、平安時代初期造立の火除地蔵菩薩坐像が祀られているそうです。(資料2) 境内地の山側には、びっしりと4段に羅漢さんが勢揃い。 この境内地の北端側には本堂があり、本堂から西側に石段でさらに山側の高みにある境内地につづいています。右に一部写っているのが本堂(重文)です。 本堂前面の中央部には半蔀(はじとみ)が設けられ、格子戸が嵌め込まれています。両側に板戸があります。(講座の説明が始まり全景が撮れませんでした。補遺のウィキペディアで全景をご確認ください。)建物はご覧のとおり、装飾性の少ない簡素な和様建築で、方五間、単層入母屋造、瓦葺です。「梁に文保二年(1318)の銘をもつ。須弥壇の格狭間には鎌倉時代の特色をみせる。内陣天井は二重折上小組天井。」(資料1)とか。本堂内は拝観できませんでした。本尊は十一面千手観音菩薩で、鎌倉時代の作で、リーフレットには「厄除け千手観音」と記されています。(資料2)『都名所図会』には、「本尊観世音は千観の作なり。左右の脇士は毘沙門・地蔵尊・千観内供自作の像を安んず」(資料3)と説明しています。この本尊は、江戸時代には六波羅観音として信仰を集めてきたそうです。(資料1)昭和時代に出版された『昭和京都名所圖會』には、「右に吉祥天女像(平安)、左に千観内供像を安置し、左右の脇壇上には二十八部衆を安置する」と記されています。(資料4)衰微の苦難を経ていますので、その間に変化が見られるようです。なお現在、木彫の千観内供座像(重文・鎌倉時代)は京都国立博物館に寄託されています。(資料5) 鬼瓦 本堂の左側の背後を眺めると、「天河大弁財天社」が祀られています。本堂左側の石段脇にも羅漢群像。 こんな感じの羅漢さんたち。 本堂と地蔵堂の中間で東端側に「ふれ愛観音堂」があります。 堂内には「手で触れて拝むために作られた観音さま」(資料2)が祀られています。このお堂は絵馬堂でもあります。 お堂の右側で目に止めた三者三様の羅漢さん。 お堂の左側の羅漢群像 本堂左側の石段の南側にも、羅漢、羅漢、羅漢さん・・・・。 石段を上がったさらに一段高い境内地には、「多宝塔」が建立されていて、 石造如来立像が安置されています。取り囲む形で羅漢さんたちが集まっています。 多宝塔の右側、近くに「愛染橋」が架かり、そこからさらに石段が続きます。 こちらは遠望しただけですが、石段の先のさらに高い境内地には、「虚空蔵菩薩立像」が安置されています。本堂に向かって左側には、一段低い境内地にこの屋根が見えます。上層の宝形造の銅板葺屋根上には鳳凰と思える像が載っています。こちらの楼側に降って行きました。 3つの鐘が初層に吊されていて、「三宝の鐘」と名づけられています。「仏法僧の三鐘としてその音律によって仏の心を自然界に伝えています。」(資料2)とのことです。 石段を降ると、入口に「鷹巣楼」という名称が右側に刻まれています。ということは、屋根の上の鳥は鷹像なのでしょうか。 境内崖下の一隅に石仏群があり、その左に石塔2つが立っています。右側は「南無阿弥陀佛」と刻された名号塔婆(室町)で、「清水寺の千日詣で結願供養塔としてつくられたもの」(資料4)と言います。永正9年(1512)の銘があるそうです。(資料1,4)左は「地蔵尊像を陰刻した板石塔婆(室町)である」(資料4)とか。陰刻状態を観察するゆとりはありませんでした。かなり不明瞭な感じです。 この後、最初にご紹介した羅漢洞の通り抜け通路を通って、仁王門に戻ります。余談です。江戸時代に出版された『都名所図会』には、上記の火除地蔵を「火伏地蔵」と記しています。そして、「毎歳正月二日、経を読みて諸人火伏の札を出す。これを天狗宴(てんぐのさかもり)と称す」と紹介しています。現在「天狗の宴」と称する行事は、秋の紅葉祭りとして行われ、「千観厄除札を授与。天狗様から厄払いの御加持が受けられます」という形で継承されているようです。(資料6) 雨降る中の仁王門全景をとりたかったのですが、参拝客が門前に集っておらあれたので、半分だけを撮りました。愛宕参道を鳥居本に降ります。つづく参照資料1) REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 「愛宕念仏寺」 拝観当日いただいたリーフレット3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫4) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p326,3275) 木造千観内供坐像 :「文化遺産データベース」6) 法要 :「天台宗愛宕念仏寺」補遺天台宗 愛宕念仏寺 ホームページ愛宕念仏寺 :ウィキペディア千観 :「コトバンク」西村公朝 :ウィキペディアNHK人物録 西村公朝 :「NHK」 「あの人に会いたい」の動画あり。十大弟子像の一部紹介も含まれています。吹田市立博物館2018年「西村公朝 芸術家の素顔」特別展 開会式 :YouTube西村公朝.特別展2018展示作品ご紹介 :YouTubeあの人の人生を知ろう ~ 西村公朝 :「文芸ジャンキー・パラダイス」西村公朝 ① Ngoマインド大学院=NMS=NGO MIND SCHOOL :YoyTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -2 鳥居本・あだし野念仏寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -3 鳥居本の町並・御陵参道・人形の家・檀林寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -5 二尊院 (1) 総門・紅葉の馬場・黒門・勅使門・前庭 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -6 二尊院 (2) 本堂・六道六地蔵の庭・弁天堂ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -7 二尊院 (3) 三帝陵・湛空廟・公家豪商の墓所ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -8 常寂光寺・檀林寺跡ほか へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -9 野宮神社 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -10 御髪神社・小倉山・小倉池と竹林の道 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -11 小倉百人一首文芸苑 へ探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -12 三秀院(東向大黒天)・平成院 へ
2019.03.08
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今回も最初に、講座レジュメに掲載の地図から切り出した部分図で、最後の探訪先の位置関係をイメージしていただければと思います。色のついた丸を追記しました。(資料1)地図の左上に赤い丸を付けたところがJR野洲駅です。右上に大岩山銅鐸出土地と福林寺磨崖仏・真福寺が位置します。真福寺境内を経由して国道8号線を南に進みます。 最終行程での最初の探訪先は、野洲中学校のすぐ南、国道8号線に面した「稲荷神社」(マゼンダ色の丸)です。この景色は、神社を出た後に国道を西に渡ってから撮った景色です。次の探訪先に向かう時に知ったのですが、この稲荷神社の正面参道が国道8号線により分断されてしまったのです。国道を渡った後、西方向に参道を進むと、 社号石標と一ノ鳥居がありました。 まずこの境内図を載せておきます。現在地と矢印の記されたところに設置されています。つまり、上掲の国道に面した石鳥居は二ノ鳥居になります。では二ノ鳥居から境内に入りましょう。 鳥居を潜ると、その先に狛犬が奉納されています。獅子・獅子型の一対のようです。台座の組み合わせがおもしろい。 参道を進むと、拝殿があります。入母屋造で、間口三間奥行三間。 拝殿を回り込むと、中門と透かし塀の瑞垣で囲まれた本殿が見えます。 瑞垣の手前に奉献された狛犬もまた、獅子・獅子型です。石像ですが眼・口・足の爪などに彩色の痕が残っています。 由緒によれば、この中門は享保14年に「松平家の京屋敷中門」が奉納移築されたもの。 本殿。一間社流造。間口五尺六寸、奥行五尺四寸。 (資料2)稲荷神社ですので、祭神は宇迦之御魂神です。この神社は、由緒によれば元禄16年8月に、元社地の字志礼の地から現在地字沢ノ口に遷座されたそうです。 境内に設置されているこの由緒案内により、福林寺のことが少しわかるとともに、稲荷神社との関係も理解が深まりました。福林寺については、「天智天皇壬申の乱に野洲川原で戦死した人々の供養及び鎮護国家を祈願し、石城村主宿弥が福林寺を建立」し、「のち永禄年間の争乱で福林寺の伽藍は衰亡し、・・・・・福林寺の一宇真福院のみが残った」とのことです。この稲荷神社との関係ですが、福林寺の守護神として天暦2年4月(948)に伏見稲荷大明神を寺域小篠原志礼の地に勧請して創祀されたと、神社縁起書が伝えるそうです。福林寺域小篠原氏神、つまり小篠原村の産土神として崇敬されてきたのです。(由緒案内、資料2) 本殿の回縁に木造狛犬像一対が安置されています。狐はここには見えません。本殿に向かって、左側に横並びにこの境内社が見えます。「古宮神社本殿」(重文)です。一間社流造、こけら葺です。組物、頭貫の木鼻、向拝の蟇股などの意匠から室町時代の建立と考えられています。昭和17年(1942)に解体修理されて、復原整備されたと言います。(資料1、二案内板)古宮神社の草創は鎌倉時代だとか。(古宮神社案内板) 禅宗様の木鼻と木組 唐草文様の蟇股 この古宮神社は、もと福林寺の鎮守だった十二所神社の建物を大正3年(1914)5月に移したものだそうです。(資料1,案内板より)「廃寺福林寺本堂の上座にあって一山の護法守護神として崇敬されていた」(由緒案内)と言います。 一方、本殿にむかって右側には、境内社として「若宮神社」が並んでいます。説明はありませんが、「古宮神社」(十二所神社)に対して「若宮神社」というネーミングなのでしょうか・・・。由緒には、「大正3年5月、十二所神社、三神社、大神社、岩神神社を合祀した」と説明されていますので、三神社、大神社、石神神社が併せてこちらに祀られていると推測します。参道でふと目を留めた石灯籠の竿に「三神宮」と刻されていました。その時は、これは何?と素朴な疑問を持ちました。後日に、講座の松波先生からeメールにて拝受した資料と、記録として撮った上掲の由緒案内で理解が深まりました。三神社=三神宮であり、この石灯籠は元文3年(1738)に奉納されたものでした。三神社がこの稲荷神社に合祀された際に併せて移設されたのです。(資料3)合祀された神社の祭神等の関係が少し明らかにできました。(資料2,3、由緒案内)滋賀県神社庁に掲載の当稲荷神社のページには「〔配祀神〕大山祇女神 土祖神 瓊々杵命 天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 大歳神 多力雄命」と記されています。由緒案内には、祭神以外の説明はありません。元々の配祀神があれば一般的には案内に明記されますので、無かったと解釈しました。そこで入手できた資料の範囲から整理しますと、次のようになります。 (間違いがあるようであれば、ご教示いただけるとありがたいです。)十二所神社 廃寺となった福林寺山内 祭神:瓊々杵命 「天神七代地神五代即チ十二柱神を齋奉リテ、福林寺ノ守護神とセラレタリ」(資料3) の記述も並記されています。瓊々杵命は地神七代の一柱に相当します。三神社 元山ノ脇村氏神 祭神:天津御中主神・高皇霊神・皇霊神 (資料3の神名で表記。高皇霊神=高皇産霊神、皇霊神=神皇産霊神と理解)岩神神社 妙光寺山中腹山上 祭神:多力雄命大神社については参照資料なく、元の所在地は不詳。限られた情報から消去法で絞り込みますと、大山祇女神・土祖神・大歳神が祭神に相当します。これらを大神社の祭神だったとすると少し強引な気がします。多分欠落している情報があるのでしょう。未解決の課題です。さて、境内を眺めて見ますと、 拝殿に向かって左側(北)に、末社として「愛宕神社」が勧請されています。 逆に右側(南)には、石鳥居と参道があり途中に朱色の鳥居が立ち、本殿と並ぶあたりまで奥まったところに、末社「薬弘稲荷社」が祀られています。別に改めて勧請されたのでしょうね。こちらは遠景として写真を撮っただけにとどまります。 手水舎の北側には、こんな化灯籠も立っています。稲荷神社を出て、最初に先回りしてご紹介した参道から一の鳥居を出ると、 そこは旧中山道にあたる道路です。しばらく、旧中山道を南下し、三上陣屋跡(空色の丸を追記した場所)に向かいます。途中、妙光寺山先端の小丘陵頂部には「越前塚古墳」が所在するそうですが、樹木が繁り古墳の存在はわかりません。全長52.5mの前方後円墳だとか。更に南に進むと、西方向には「塚越古墳」という径20m以上の円墳が確認されているとのこと。(資料1)国道8号線の歩道を歩き、「三上山登山道」の道路標識や「天保義民碑」石標の傍を通り過ぎた先に、「三上陣屋跡」が位置します。現地は道路脇に流れる水路が元陣屋の掘として利用されていたということが遺構として見えるだけでした。陣屋跡は民間の住宅地に変貌しています。 講座レジュメより、「三上陣屋復元概念図」を孫引きしておきます。「元禄11年(1698)三上藩主(1万石)となった遠藤氏の居城」だった場所だとか。(資料1)ここから、田圃の間の道を通り、御上神社(緑色の丸を追記したところ)に向かいます。 畦道を歩き始めると、左側にこの石標が立っています。田圃の西端を左折して田圃沿いに進むと、 神明鳥居の先に「悠紀齋田記念碑」という大きな記念碑が建立されていました。右側に「昭和大禮大嘗祭」と刻まれています。後で調べてみますと、「昭和3年の昭和天皇即位式に続いて行われる大嘗祭に供える米を作る田(悠紀斎田・ゆきさいでん)に野洲郡三上村(現在の野洲市三上)の大田主粂川春治氏が選ばれました。」ということでした。(資料4)これを記念して、昔ながらの衣裳で「お田植まつり」が5月に行われています。「悠紀」を辞書で引きますと、第一羲に「神聖な酒」とあり、第二義に「大嘗祭で、新穀を奉る国群の第一。あるいはその斎場。平安時代以降は近江国に一定。」(『日本語大辞典』講談社)と記されています。また、「悠紀」には対義として「主基(すき)」があるのです。こちらは「大嘗祭で、神事のための新穀を、一番目の悠紀の国に続いて二番目に捧げる西方の一国、あるいはその斎場。主基殿。」(同上)のことだと言います。余談です。因みに、大正天皇即位時の大嘗祭悠紀斎田は愛知県岡崎市中島町の田圃で、ここでもお田植えまつりが実施されているそうです。(資料5)また、平成天皇即位時の悠紀斎田は秋田県五条目町の田圃で、主基斎田は大分県玖珠町の田圃だったと言います。(資料6)昭和の主基斎田は、福岡県早良郡脇山村の田圃に決定したとか。(資料7)さらに遡り、大正の主基斎田は、香川県綾歌郡山田村(現在の綾川町山田上)の田圃に決定されたそうです。(資料8)元に戻ります。国道8号線を渡ると、 今回最後の探訪先「御上神社」に至ります。参道を歩いていた頃、一時的に雨風が強まりました。写真を撮るのには悪いコンディションです。 手水舎の向こうに社務所が見えます。 楼門前に狛犬像が奉納されています。ここの台座の組み合わせ方が上掲の稲荷神社の石鳥居傍の狛犬像の台座のモデルになったのでしょうか。どちらも同じ形式です。 楼門(重文)の正面をうまく撮れませんでした。これは楼門を通り抜け、内側から撮った景色です。三間一戸で一重屋根、入母屋造、檜皮葺の楼門です。上層間斗束裏面に康安五年(1365)の墨書が残るといいます。全体は和様ですが、上層頭貫に禅宗様木鼻が付けられているという混用がみられるそうです。(資料1,9)今回は細見している時間がありませんでした。できれば機会を改めて細見したいと思います。楼門を入ると、正面に拝殿があります。これも風雨の影響で撮るのを断念。 拝殿の奥に、本殿(国宝)があります。入母屋造の一重、檜皮葺で、向拝一間、漆喰壁と連子窓があり、仏堂的要素が融合した神社建築です。桁行三間、梁間三間。鎌倉時代後期の造立と推定されています。(資料1,9,案内板)入母屋造の神殿として、御上神社本殿はその最古のものといわれているそうです。手許の本では、「母屋1間四方を神座とし、仏堂に多いいわゆる一間四面堂建築である。本殿は3間四方で、前面、左右面に回縁をめぐらしている」と平面図を併せて説明しています。(資料10)祭神は天之御影命(あめのみかげのみこと)です。第七代孝霊天皇の六年六月十八日に天之御影命が三上山に降臨されたのが起源とされ、三上山が神体山、つまり、「清浄な神霊の鎮まる厳の磐境」(資料9)として祀られています。 『古事記』の開化天皇の段には、次の記述がでてきます。(資料11)「また、近淡海の御上の祝(はふり)がもちいつく天之御影神の女、息長水依り比売(おきながのみずよりひめ)を娶(めと)して生み子は、・・・・・」(また近江の御上の祝の人が清め祭っているアメノミカゲ神の女(むすめ)のオキナガノミヅヨリヒメを妻として生んだ子は、・・・・・)ここに、天之御影神が登場しています。 本殿に向かい、右側にこの案内板が設置されています。 漆喰壁と連子窓。木組みはシンプルです。 回縁の柱の縁束石には反花が刻まれているのは壮観です。 屋根の棟には、千木と堅魚木が取り付けてあります。棟に見える紋が神紋なのでしょう。御上神社の神紋は「釘抜紋」だそうです。(資料12) 本殿に向かって左側には、摂社「若宮神社本殿」(重文)が並んでいます。一間社流造、檜皮葺です。「低い浜床や蟇股の形状から鎌倉時代後期建立と推定」(資料1)されています。祭神として、伊弉諾命とともに、菅原道真命・天之御桙神・野槌大神が合祀されています。右の柱には、学問向上の守護神としての「菅原道真公」の木札が掛けられています。一番身近に知られているからでしょうか。祈願のニーズが高いのでしょう。 本殿に向かって右側には摂社「三宮神社」が並んでいます。こちらは県指定有形文化財です。一間社流造、檜皮葺。室町時代の建立です。「十禅師社」とも称したそうです。祭神は瓊瓊杵命です。(資料1,9) 屋根の棟には、本殿同様に神紋が光っています。 蟇股には牡丹の透彫が施されています。(資料1,9)最後の探訪地となった御上神社は、天候と時間の関係で細見までには至りませんでした。後で調べていて、次の記述を見つけました。「なお、御上神社には、国道と反対側の鳥居から入る参道もある。こちらの参道は、正面に三上山の山頂を仰ぎ、中山道にも近いことから、この参道のほうが古いと考えられる。」(資料12)この参道には気づきませんでした。季節と天気の良い時機に再訪してみたいなと思っています。今回の史跡探訪記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) REC「近江の歴史散歩42 ~野洲を歩く~」 2019.2.19 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 稲荷神社 :「滋賀県神社庁」3) 『小篠原のお寺とお宮さん』 野洲町発行 p41,p454) 悠紀斎田 お田植まつり :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 六ツ美悠紀斎田お田植えまつり :ウィキペディア6) 平成の即位礼のときの①悠紀斎田、②主基斎田は? :「レファランス協同データベース」7)昭和の主基斎田~福岡県の記録から~ :「福岡共同公文書館」8) 主基斎田(すきさいでん)のあらまし :「綾川町商工会」9)近江富士 三上山 御上神社 ホームページ10) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p11711) 『古事記(中)全訳注』 次田真幸訳注 講談社学術文庫 p75,p7712)御上神社 :「滋賀県神社庁」補遺天神七代 :「コトバンク」地神五代 :「コトバンク」大山祇神/大山津見神 :「コトバンク」悠紀斎田 お田植えまつり ( 野洲市 ) :「滋賀ガイド」昭和大礼悠紀斎田記録. 下 滋賀県 :「国立国会図書館デジタルコレクション」平成の悠紀斎田を訪ねて :「森田勇造の日々の随想」近江富士 三上山 御上神社 ホームページ三上山 :ウィキペディア釘抜紋 :「家紋の由来」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -1 三上神社・西徳寺・辻町子安地蔵堂 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -2 桜生史跡公園(史跡大岩山古墳群)へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -3 寶樹寺・桜生城跡・日吉神社 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -4 福林寺跡磨崖仏・真福寺 へ
2019.03.04
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前回引用した地図から始めます。桜生城跡の水掘傍を道沿いに西に抜け、黄色の丸を付けた道を南下して福林寺跡磨崖仏に向かう予定でしたが、通行止めになっていました。そこで野洲中学校の北側にある道を通ることになりました。(資料1) 緩やかな坂道を登ると、北側に地蔵石仏が並び、南側には道標が設置されています。フェンスの向こう側が緑色の丸を追記した位置にある「真福寺」です。そこから、黄色の丸を付けた道に出て、30mほど進むと、山側に入口があります。大凡で赤い丸をつけたあたりが磨崖仏や石仏が散在しているところです。JR野洲駅の南東約1.3kmのところにあり、ここまで徒歩で約30分ほどと紹介されています。(資料2) 山側に入り、進むと道標が設置されあり、探訪する上でも分かりやすいところです。山道もかなり整備されています。 石仏が何気なく土中に半ば埋もれています。細い小川を渡った先に、 この大きな岩が見えます。 回り込むと、磨崖仏の全景が見えます。福林寺跡磨崖仏の1箇所です。観音菩薩立像1躯と如来立像2躯が彫られています。 観音菩薩立像 如来像 二躯反対側からの眺め 少し離れた奥、山の麓の岩盤に地蔵菩薩立像13躯が平肉彫りされています。これら磨崖仏はどちらも、14世紀後半、つまり室町時代初期お造立と推定されています。 各面ごとに撮ってみました。 少し近づいて部分撮りしてみました。傘を片手に、ハンディなデジカメ片手撮りです。雰囲気だけ感じていただき、一度実物を現地でご覧ください。 地蔵菩薩立像が彫られた岩盤の少し先に、数多くの石仏が向き合ってまるで会議でもしているかの様な石仏群があります。衆生救済のために話し合っているのでしょうか・・・・。 少し山道を登ると、岩盤の傍に石仏が並べられています。 「史蹟 福林寺趾」の石標が立っています。 江戸時代・1733年に10年の歳月をかけて寒川辰清が完成させた『近江輿地志略』に、「福林寺跡」という小見出しで次のように記しています。(資料2)「同村(追記:桜生村)にあり、相傅。福林寺といふ寺有し地なりと。何宗の寺にして、何れの時代といふことをしらず。九輪の石塔あり。土俗は是を陵といふ。経石とて小石に文字ある石多し」と。「九輪の石塔」はどこかに移設されたのでしょうか? 磨崖仏は著者やその地の人々には関心がなかったのでしょうか? あるいは、あってもあたりまえのこととして意識に上ることがなかったということでしょうか? この辺りは、現在は「福林寺古墳群」としてとらえられていますので、当時人々が「陵」と認識していたのは頷けます。「福林寺は白鳳時代創建とされ、東寺末から園城寺末を経て戦国期まで存続した寺院」(資料1)だそうです。真福寺の木造地蔵菩薩立像(重文)は、現在野洲歴史民俗博物館に寄託されているようですが、「福林寺伝来とされ、12世紀造立と推定される」(資料1)仏像だそうです。 この案内板が設置されています。 後半の説明に着目すると、かつてはもっと石仏像などがあったのでしょう。それが富豪の家の庭の飾りなどとして持ち去られた様です。ならば、九輪の石塔などは真っ先にこの地から搬出されてしまったことでしょうね。福林寺磨崖仏と分岐する形で、「小磨崖仏群」という標識が出ています。上掲にその道標を載せています。そちらも勿論、廻ってみました。 それがこの大きな岩の磨崖仏だったと思います。一面に5躯の平肉彫りの地蔵菩薩立像が並んでいます。 これは左端です。この彫刻が一番整っている感じです。他はこれを手本にしているのでしょうか。やや見劣りのする稚拙さのある彫り加減です。その一方で、それぞれ個性がでていますが・・・。 上掲の岩の面を右側に回んだ面にはこのように3躯彫られています。 この面には平肉彫りの地蔵菩薩立像が5躯です。上掲5躯の彫られた面の左側の面に相当します。この岩の右端の形状をみるとさらに右側に続く岩の部分が切り取られてしまった感じを受けます。 左端の2躯 入口に戻ります。 これは妙光寺山山麓の方向を撮った景色です。 その後、通り過ぎてきた真福寺の境内にお邪魔しました。目的はこの石造物を見るためです。時代の異なる宝篋印塔の残闕等をうまく組み合わせて石塔にしてあります。違う位置から撮ってみたものを並べています。宝篋印塔の基礎の上に、大きさと制作年代の異なる笠が積まれています。一番上に載っているのは、多分五輪塔の上部(火輪・風輪・空輪)だと推測します。宝篋印塔の笠の隅飾突起の大きさと形状に時代差が反映しているそうです。手許の本によれば、鎌倉時代の隅飾突起は直立していますが、南北朝時代に反りが加わり、室町時代にはその反り具合が進み、江戸時代には反りかえりひらいてくるというという傾向を示すそうです(資料3)。つまり、わずかのちがいですが、上に載っている笠の方が時代が新しいものです。現地ではもう少し詳しく説明を聞きました。インターネットで調べてみると、わかりやすい解説をみつけました。引用します。「古式なものは隅飾りが軒先面と一体をなし垂直に近いほど時代が古いと見られるが、新式では隅飾りは軒先面よりわずか後退して立ち、室町時代以降は外側に傾斜する傾向が見られ、近世になれば積石の段数も増えたり、隅飾りが翼状に突出し逆ハの字の様に広がり、華奢で細身のものが多くなる。」(資料4)「備陽史探訪の会」というサイトの記事です。大いに学べる充実した内容です。 ここで、基礎の格狭間に前回触れた一例がありました。華瓶と三茎蓮文という装飾文がレリーフされています。この後、稲荷神社~御上神社の探訪という最後の行程になります。つづく参照資料1) REC「近江の歴史散歩42 ~野洲を歩く~」 2019.2.19 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 『近江国與地志略 下』寒川辰清 著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 63コマ目参照3) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p3334) 宝篋印塔の変遷と刻經の内容(福山市内三寺院を比較して) :「備陽史探訪の会」補遺近江輿地志略 (寒川辰清 自筆本) :「滋賀県」野洲市の指定文化財 :「野洲市」銅鐸博物館(野洲歴史民俗博物館) :「野洲市」福林寺古墳群 :「古墳のお部屋ブログ館」福林寺古墳群・滋賀県野洲市 :「アジアの涼風」宝篋印塔 :ウィキペディアお墓の歴史 鎌倉~室町時代 宝篋印塔 :「墓と語る」(金光泰觀墓相研究所) 図10-2 隅飾突起の変遷 のイラスト図が一目瞭然で便利!宝篋印塔(ほうきょういんとう)/転用石 :「姫路城」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -1 三上神社・西徳寺・辻町子安地蔵堂 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -2 桜生史跡公園(史跡大岩山古墳群)へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -3 寶樹寺・桜生城跡・日吉神社 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -5 稲荷神社・三上陣屋跡・悠紀斎田・御上神社ほか へ
2019.03.03
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桜生史跡公園を出た後道沿いに南下します。地図で見ると、桜生自治会館に行くまでの少し手前のところで左折し、国道8号線の下を通り抜けて少し先に「寶樹寺」がありました。史跡公園からみれば、国道を挟んだ南側になります。この記録整理をして改めて気づいたのですが、最初に訪ねた西徳寺と同様に、山門のすぐ左に鐘楼があります。ここも浄土宗のお寺で、山号が「桜生山」です。 講座のレジュメから遺跡周辺地形図の一部を切り出し引用します。(資料1)小さな赤丸を付けた場所が寶樹寺です。寺の南東方向に、桜生(さくらばさま)城跡や桜生古墳群が存在します。山号名がなるほどと理解できます。 探訪の眼目は、山門を入りすぐ右側にありました。石造阿弥陀如来坐像の隣りにある宝篋印塔です。 宝篋印塔の塔身に金剛界四仏の種字が刻まれているという石塔です。14世紀に建立されたと推定されるそうです。金剛界は胎蔵界とともに、両界曼荼羅の一つで、金剛頂経に基づくものだそうです。金剛界四仏とは、西:阿弥如来、東:阿閦(あしゅく)如来、北:不空成就如来、南:宝生如来が位置し、塔身中央部が大日如来として、金剛界五仏とも言われるそうです。(資料2)両界曼荼羅図は密教に関係しますので、比叡山天台宗の影響が及んでいたのでしょう。寶樹寺は、慶長元年(1596)久阿弥比丘中興だそうですので、衰微してしまった天台系寺院のあったところが、浄土宗のお寺として中興されて復活したということなのかも知れません。(資料3)また、宝篋印塔の基礎の格狭間には華頭曲線の凹みが見えますが、その中にレリーフはなさそうです。格狭間には装飾文がレリーフされているのを見かけます。川勝政太郎氏は近江式装飾文の文様群を提唱されているそうです。「実態としては蓮を用いた植物文様と孔雀等を用いた鳥獣文の二つの文様群を更に統合し概念化されたもの」と言えるそうです。徳源院京極家墓所にはずらりと歴代の宝篋印塔が並んでいます。この宝篋印塔群には、華瓶と三茎蓮文が装飾文として使われ、その三茎蓮文に多様なパターンが見られることに着目し、上垣幸徳氏がそれを分析し、5種類に類型化されています。(資料4)滋賀県内の宝篋印塔には、多様な装飾文のレリーフが見られるようです。余談です。徳源院京極家墓所宝篋印塔群は、史跡探訪で2012年10月に訪れたことがあります。しかし、その時はこの装飾文には気づきましたが細部までは充分に観察できませんでした。残念! これがその時撮った写真です。 手前の宝篋印塔の格狭間に装飾文がレリーフされているところを切り出してみました。これで少しイメージが湧くかもしれません。もとに戻ります。 大きな岩に寺号が刻されていて、その上に勢至丸(法然上人の幼名)が旅立つ像が建立されているのが目に止まりました。 これはお寺を出た時、生垣の角地で目に止まり写真を撮っておいたものです。その時は意識していなかったのですが、辻町子安地蔵堂の地蔵石仏群のご紹介をした一枚と共通する形式です。レリーフされている仏像が何なのか。阿弥陀仏座像のように見えますが・・・・・、私のは判断しづらいところです。 桜生城跡の手前で見た燈籠です。化灯籠(山灯籠)と称される部類の灯籠なのでしょう。自然石が利用されているので、見る位置により雰囲気が変わっておもしろいものです。 ここが山を背景にした「桜生(さくらばさま)城跡」の遺構だそうです。一辺50mの方形の郭を掘と土塁が廻っていて、澤氏の居館だったとか。景色の右側が方形の郭部分です。文禄2年(1593)に廃城とされたといいます。(資料1)この景色は西側の水堀と土塁ですが、他の三方は空堀・土塁で囲まれていたそうです。方形の郭の中には立派な民家が建っています。澤氏の子孫の方が現在もお住まいだとか。 南側から水堀の遺構を眺めた景色(これは、福林寺磨崖仏に向かう時に撮影) 桜生城跡の北側、すぐ近くに「日吉神社」があります。上掲地形図にマゼンダ色の丸を付けた場所です。 ここにも化灯籠が手水舎の傍にあります。手水鉢もまた、自然石の上部を刳り抜いただけのシンプルなものです。この調和がいいですね。 拝殿とその背後(北東側)に瑞垣・社殿が見えます。この神社の背後は大岩山になります。埋納されていた銅鐸24個が出土したところです。 この神社の狛犬は、両方とも獅子像のようです。台座に「二千六百年」という文字が刻されています。皇紀二千六百年という意味でしょうから、昭和15年(1940)を意味します。(資料5)この時に台座とともに狛犬一対が奉納されたとみるのが自然でしょうね。 本殿(重文)は一間社流造です。祭神は大山咋神です。口碑によれば天平14年(742)に坂本の日吉権現を勧請し、本殿を創建されたと伝わり、桜生村の産土神として祀られてきたそうです。建久2年(1191)に本殿を焼失し、弘安4年(1281)に再建され、その後再三修理が行われて来たそうです。昭和19年(1944)に国指定重要文化財となっています。(資料1,6) ズームアップして何とか撮れた写真を見ても、装飾がほとんどありません。逆にそれが特徴的です。 本殿の左右に境内社が祀られています。左右の社の方が装飾性に富んでいます。境内社は大神宮と野神社とのこと。(資料6)境内に説明の掲示がなかったので、どちらがどれなのか不詳です。 境内にはブロンズ製の神馬が奉納されています。胴に神社の神紋「左三巴」が象られています。この後、福林寺跡磨崖仏に向かいます。つづく参照資料1) REC「近江の歴史散歩42 ~野洲を歩く~」 2019.2.19 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2)『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p339, p356-3573) 寶樹寺 :「湖国寺探訪」4) 「徳源院京極家墓所宝篋印塔群の基本装飾文について -中世の石塔における装飾文の類型化の試み-」 上垣幸徳氏論文 『紀要』第21号 2008.3 滋賀県文化財保護協会5)紀元二千六百年記念行事 :ウィキペディア6) 日吉神社 :「滋賀県神社庁」補遺金剛界曼荼羅 :「MANDALA DUALISM」金剛界曼荼羅 :「コトバンク」3. 両界曼荼羅 :「真言宗泉涌寺派 大本山 浄土寺」宝篋印塔 :「Flying Deity Tobifudo 空飛ぶお不動さま」各部の名称などについて(その2) :「石造美術紀行」近江 桜生城 :「近江の城郭」桜生城 近江国(野洲) :「城郭探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -1 三上神社・西徳寺・辻町子安地蔵堂 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -2 桜生史跡公園(史跡大岩山古墳群)へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -4 福林寺跡磨崖仏・真福寺 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -5 稲荷神社・三上陣屋跡・悠紀斎田・御上神社ほか へこちらも御覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 滋賀・湖北 柏原宿から足を延ばして・徳源院(京極家の菩提寺)
2019.03.02
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野洲市小篠原には様々な古墳や古墳群があります。その一つが国史跡である大岩山古墳群です。その中に天王山古墳・円山古墳・甲山古墳が所在します。この3古墳を保存公開するために、「桜生(さくらばさま)史跡公園」が整備され、保存・公開されています。冒頭の家形石棺を象って「桜生史跡公園」と刻した表示が、史跡公園の入口にあります。史跡公園はJR東海道新幹線とその東側の国道8号線との間にある大岩山丘陵にあります。新幹線側の道路沿いに入口があり、エントランス広場・駐車場が設けてあります。 この建物が「ガイダンス施設」です。 建物前に、この案内碑が設置されています。大岩山古墳群は、宮山2号墳・円山古墳・甲山古墳・天王山古墳・大塚山古墳・古冨波山古墳・亀塚古墳・冨波古墳の8基の総称です。(資料1) まずガイダンス施設を見学しました。ここでA3サイズ両面にまとめた案内資料をいただきました。そこに掲載の公園全体図をまずご紹介しましょう。(資料2)赤丸が冒頭の家形石棺で公園名称の表示を目にしたところです。青色がガイダンス施設のある場所です。 L字型の建物の一方には、「甲山古墳の墳丘土層断面」が展示されています。 傍にこの案内掲示があります。 この展示室の入口の壁側に、出土品の一部が展示されていて、壁には3古墳の発掘に関連した写真と説明パネルが展示されています。 これは甲山古墳の盛土状況の写真と説明のパネルです。最初に「展示の土層は、甲山古墳の通路(羨道)の解体修理時に検出した盛土をそのままはぎとったものです」と記されています。1994年から年間発掘調査を行った結果、「盛土を石室天井から3.8mも積み上げた厚い墳丘が明らかになりました。花崗岩の岩盤を整地し、石室を組み上げ、この石室をおおう墳丘を造るために、有機質土・粘質土・砂質土を交互に版築状に突き固め、二重の白い粘土でおおっています。」と説明されています。 甲山と円山の古墳出土遺物の一覧パネルもあります。古墳別も含めてかなりの枚数のパネル展示がありますので、ここで一通りの情報を知ることができます。最初にぜひ、このガイダンス施設を訪れてみてください。 3つの古墳の構造を対比したパネルもあります。 史跡大岩山古墳群について、各古墳のロケーションを示すこの地形図パネルも展示してあります。それでは古墳を巡ります。 最初は、円山古墳の上に登りました。円墳の頂まで階段が設けてあります。 小雨の為に、西方向に見える平野部は薄いベールがかけられたようで、空との境も不分明です。 基準点が設置されています。 この案内碑が設けてあります。大岩山から北西に延びる丘陵上に位置します。小篠原字大岩山4番地の1、と所在地まで明記されています。円墳。直径28m、高さ約8m。6世紀前半の築造。 西に開口する横穴式石室があります。 鉄扉越しに内部が覗けるようになっています。玄室長4.3m、幅2.4m、高さ3.1m、羨道は長さ6、以上。入口から玄室床面に約1m斜めに下り、天井石も奥に向かい階段状になっているそうです。玄室の手前に、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式石棺(家形石棺:長さ2.85m、幅1.3m、高さ1.83m)があります。。その奥に大和二上山の凝灰岩製の組合式石棺(印籠形の受け部を持つ家形石棺)が発見されています。床面は玉石が敷かれ柱穴が検出されたとか。盗掘を受けていたようですが、それでもかなり多くの各種遺物が出土しています。(資料2,3、説明碑) 公園全体図でみれば、北西側の散策路から円山古墳に登り、横穴式石室を眺めて、この石標の立つ南側に回ってきたことになります。 次に向かったのは、天王山古墳です。ここも古墳頂上に登ることができるのですが、雨が降っているのでパスすることになりました。 古墳傍にこの説明碑が設置されています。資料類を読むと、次のことがわかります。北に前方部を向ける前方後円墳。全長50m、高さ約8m、前方部幅約25m、後円部径24m。前方部の頂きが標高119m、後円部の頂が標高119.2m。大岩山古墳群中唯一の前方後円墳。小篠原字天王山92番地の1に所在。この古墳は丘陵部を利用していて、盛土は比較的少ないことが判明しているそうです。5世紀末造営と推定される古墳。この古墳は、現状保存を行うこととされ、墳丘確認を目的とした地中レーダー探査と試掘調査にとどまるそうです。その結果、後円部からの明確な埋葬施設は未確認。前方部では、花崗岩の板石が露出していたそうで、西に開口部を持つ小さな横穴式石室があります。石室の大きさは長さ4.3m、玄室長2.9m、幅約1m。石室は板石状の花崗岩を積み上げて築き、入口を閉じているそうです。6世紀の追葬と考えられるとか。(資料2,3、説明碑)天王山古墳の傍を通り、 甲山古墳に向かいます。 甲山古墳は、天王山古墳北側の丘陵先端にあります。 ここは、外の鉄扉が開いて、石室に入った中にもう一つの閉じられた扉がありました、その扉越しに石棺を眺めることができます。 古墳傍に設置された説明碑 こちらは、ガイダンス施設に展示の説明パネルです。直径約30m、高さ8mの円墳で、6世紀前半の造営と推定されています。横穴石室は西南西に開口していて、玄室長6.6m、幅2.8m、高さ3.3m。通路は奥に行くに従い天井石が一石ごとに階段状に低くなる構造。玄室には水銀朱とベンガラが塗られた熊本宇土半島の凝灰岩製(馬門石製)の刳抜式家形石棺が納められています。蓋の長辺に各2個、短辺に各1個の縄掛突起が備わっています。石棺の大きさは長さ2.60m、幅1.90m、高さ.90m床面には玉石が敷かれ、その上に朱や雲母が散乱していたそうです。石棺は盗掘を受けていて、ガラス玉が2点出土しただけだとか。別に、副葬品は様々な遺品が出土しているそうです。(資料2,3、説明碑) 甲山古墳を見学後、ガイダンス施設前まで戻り、史跡公園を後にしました。この後、宝珠寺~日吉神社~桜生城跡を巡って行きます。つづく参照資料1) 大岩山古墳群 :「コトバンク」2) 「桜生史跡公園」 ガイダンス施設でいただいた案内資料3)REC「近江の歴史散歩42 ~野洲を歩く~」 2019.2.19 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)補遺桜生史跡公園 :「野洲市」滋賀県 文化財学習シート 一覧 :「滋賀県総合教育センター」 史跡023 大岩山古墳群野洲市の国史跡(大岩山古墳群)甲山古墳が掲載されている資料を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」野洲市の古墳・遺跡 [近江の遺跡] :「北村さんちの遺跡めぐり」大岩山古墳群 :「JAPAN-GEOGRAHIC.TV」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -1 三上神社・西徳寺・辻町子安地蔵堂 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -3 寶樹寺・桜生城跡・日吉神社 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -4 福林寺跡磨崖仏・真福寺 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -5 稲荷神社・三上陣屋跡・悠紀斎田・御上神社ほか へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 滋賀・野洲 銅鐸博物館にて -1 弥生の森 2回のシリーズでご紹介しています。
2019.03.01
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