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バス停「辻町」前を集合地とする「近江の歴史散策」と題するREC講座に参加しました。その時に撮った写真の整理と事後学習を兼ね、探訪記としてご紹介します。バス停で下車した少し先にはこの標識が立っています。右側が国道8号線で、左側の少し下がる道路を進み、右折していくと「銅鐸博物館、弥生の森歴史公園」に向かいます。 この地点からは国道をはさみ、南側に正面の石鳥居と社号碑が見えます。「三上神社」です。今回の探訪外ですが、調べてみました。天御影命を祭神とし、天児屋根命 宇賀御魂命を配祀神とする神社です。この神社の由緒に次のことが記されています。”住吉は、「三上大明神」と称された。現在の御上神社の氏子で、同社を氏神と仰いで来たが、ある年に相論が起きて同社から離れ、その後篠原氏、中原氏等が奉祀していた篠原神社の氏子となったが、再び相論がおきて、天徳二年辻町阿部氏の地に社殿を建立現在に至っている。”(資料1) (引用文冒頭の「住吉は」は意味不明。「往古は」の誤記がもしれません。)境内社として春日神社・篠原神社・野神神社が祀られているそうです。今回の探訪の最後に「御上神社」(野洲市三上838)を訪れました。勿論、祭神は同じになります。このあたりの地図(Mapion)はこちらから御覧ください。地図を見ますと、この三上神社の背後(南)に「銅鐸博物館」(野洲市歴史民俗博物館)が所在し、背後の山が「大岩山銅鐸出土地」なのです。その南に、甲山・妙光寺山・そして三上山が位置します。もう一つ気づきました。妙光山と三上山の間にも「三上神社」(野洲市妙光寺1)があります。幾度か三上山を登っています。その時、一度こちらの三上神社を訪れていたことを思い出しました。当然ながらここも天之御影命が祭神です。由緒に「社伝には三上山麓に天之御影命が降臨になったと伝えている。古来から御上神社の外八社の一社が奉斎されていた。現社殿は寛文六年に造営された。同時期に築造された約一町歩の田用水源である妙光寺池の守護と産土神である。」と記されています。(資料2)『近江国與地志略』の巻66に、「三上天神社 妙光寺村にあり」と記されているのがこちらの三上神社に照応するのでしょうか。(資料3)横道に逸れました。戻ります。 振り返ると、道路は坂道で下って行きます。この道を下り探訪が始まりました。 坂道の左手にこの石碑が見えました。「下馬」と刻されているようです。この坂道が三上神社への参道で、ここからは徒歩で歩めということなのでしょう。今では国道が参道を分断していますが。 最初に訪ねたのは「西徳寺」です。山号を「長流山」と称する浄土宗のお寺です。山門の左側に鐘楼があります。 山門前の右側には、「円光大師廿五霊場 第十九番 西徳寺」の石標が立っています。ネット検索で入手できる「法然上人二十五霊場」には入っていません。これと同趣旨で、かつて近江国の中で設定された霊場巡りなのでしょうか。交通の不便な時代には、「写し霊場」という発想での霊場巡りが行われていたそうです。(資料4)その復興の一例が滋賀県甲賀地域に見られます。「甲賀組第一部法然上人二十五霊場」という霊場巡りです。(補遺参照) 門前の案内板 本堂は近年に立て直されたのでしょう。真新しさを感じる立派な建物です。延徳3年(1491)浄誉による開基と伝わるお寺です。(資料5,6)本尊は12世紀造立と推定されている定朝様の阿弥陀如来坐像で、案内板には像高88cm、桧の寄木造りで漆箔を施されていると記しています。「三上山麓にあった東光寺の子院吉祥寺から移座したものと伝わる」(資料6)仏像です。 写真を撮れなかったのが残念。余談です。ここに出てくる東光寺ですが、江戸時代の書『近江與地志略』を見ますと、「妙光寺村にあり。縁起に曰、抑江州野洲郡三上庄妙光寺村日陽山東光寺は、慈覚大師の開基なり」と記され、「四の谷に百有余の坊舎甍をならべ」という状態だったようです。そして「爰に信長公浅井備前守合戦の時、兵火の為に焼失しけるにより」という説明が後半に記されています。(資料3) 「勢至丸さま お旅立ちの像」勢至丸(せいしまる)は法然上人の幼名です。お旅立ちということですから、9歳のとき、父時国が夜襲をうけ不意打ちで殺害された後、菩提寺で終業していた勢至丸が、15歳(一説には13歳)で比叡山に登り剃髪受戒するために美作国(現在の岡山県)から京に上る出立をさすのでしょう。(資料7) 本堂前に、少し形のおもしろい形の石灯籠が立っています。竿の正面に「御寶前」と刻されています。 本堂に向かい左側にある池庭です。 庭の一隅に、五輪塔などが見えます。塀際には、石塔様に彫刻した板碑のようなものも見えます。 門前の両側には、説明を受けてなるほどと思ったのですが、この近辺の古墳で利用されていたような石材が並んでいます。数多く存在した古墳が後に開発で削平されたりしたときのものがここに集積されたのかもしれません。 この道は旧中山道にあたるそうです。振り返って撮った景色です。 次に、辻町の集落内にある「辻町子安地蔵堂」を訪れました。ここは西徳寺が管轄されています。 門前そばに、この案内板が設置されています。 地蔵堂に本尊が祀られていますが、案内板に記されている通り、普段は秘仏となっていていて拝見はできません。毎年1月と8月の縁日に開扉されるそうです。珍しいことに、極彩色で等身大、蓮華座に左足を垂下して坐る姿、つまり木造地蔵菩薩半跏像であることです。レジュメの写真を見ますと、右手に錫杖をとり左手に宝珠をのせ、目は彫眼です。12世紀の造立で、吉祥寺から移座したものと伝わるそうで。(資料6,案内板) 地蔵堂の左隣りには、石仏像を円形階段状に並べた石仏群があります。中央の一番高いところに、合掌した石造地蔵菩薩座像が安置されています。 双体像の石仏も散見します。いずれもお地蔵さまとして祀られていた半肉彫り石仏像です。 左の山状角柱にレリーフされた石仏が目にとまりました。 表門を入っると、境内の左奥側の一画に「子育水子地蔵尊」が祀ってあります。 石造地蔵菩薩立像の錫杖のそばで起ち上がり地蔵菩薩にすがりつく幼児がいます。そして、雛段状に奉納された水子地蔵が祀られています。この後、史跡大岩山古墳群のある「桜生(さくらばさま)史跡公園」に向かいます。 路傍で目に止まった長方形に彫り込まれた窪みのある石板碑です。窪みには「愛宕」という文字が読み取れる小剣札が納めてあります。愛宕大神を祀ってあるということでしょう。こういう形で縄が懸けてあるのを初めてみました。何と呼べばいいのでしょう・・・・・。やはり、注連縄の一種でしょうか。つづく、参照資料1) 三上神社 :「滋賀県神社庁」2) 三上神社 :「滋賀県神社庁」3) 『近江国與地志略 下』寒川辰清 著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 64コマ目参照4) 法然上人二十五霊場写し霊場とは :「法然共生」5) 西徳寺 :「湖国寺探訪」6) REC「近江の歴史散歩42 ~野洲を歩く~」 2019.2.19 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)7) 法然上人とお念仏 :「知恩院」補遺法然上人二十五霊場 ホームページ甲賀組第一部法然上人二十五霊場(滋賀県) :「法然共生」総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ近江輿地志略(寒川辰清 自筆本) :「滋賀県」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -2 桜生史跡公園(史跡大岩山古墳群)へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -3 寶樹寺・桜生城跡・日吉神社 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -4 福林寺跡磨崖仏・真福寺 へ探訪 滋賀・湖南 野洲を歩く -5 稲荷神社・三上陣屋跡・悠紀斎田・御上神社ほか へ
2019.02.28
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六条院春の御殿の寝殿を西廂側に回り込みますと、西側の簀子と西廂を使い、この案内パネルのテーマ「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」でミニチュア化された精巧な装束が作られて展示されています。冒頭に、「かさね色目」とは、「幾枚も重ね着した装束の襟元や袖口に見られる色のグラデーションやコントラストのことで、多くは女性の装束に用いられ」た美意識の表出と説明されています。794年に平安京遷都が行われ、平安時代の幕開けとなります。100年後、菅原道真の進言で894年9月に遣唐使派遣が中止されます。隋・唐という中国文明・文化の導入、唐様の導入に学ぶ時代から、吸収したものを独自の文化に変容させて、和様の文化が育まれてきます。この頃から国風文化が発展していきます。10世紀に入る頃には、『竹取物語』『伊勢物語』などが生み出されます。最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が作られたのは905年です。10世紀後半から摂関政治の全盛期が始まり、藤原道長が摂政となる頃(1016年)が、藤原氏の全盛となります。それは『源氏者物語』が創作された時代です。清少納言や紫式部の生きた時代には、「かさね色目」に美意識を表現し、自らのセンスをアピールしたのでしょうね。 松かさねそれぞれの「かさね色目」の装束に、解説パネルが設置されています。要点をきします。詳細は、是非展示品とパネルをご覧いただきながらご鑑賞ください。着用時期 四季通用・祝いに着る色。色目の類推 萌黄色:松の常緑葉 千歳の変わらぬ美しさ 蘇芳色:松の雌花 子孫繁栄 雪の下かさね着用時期 旧暦11月~春頃色目の類推 白色:積もった雪 紅梅:春を待つ紅梅 青(緑):新芽 白撫子(しろなでしこ)かさね着用時期 旧暦4月~6月色目の類推 白色:夏の草むらに可憐に咲くしろい撫子の花重ねの中で、白色が幾枚も間に挟まれていますね。撫子の古名は「常夏」。夏から秋にかけて咲き続けることからそう呼ばれたとか。唐撫子という品種があるので、大和撫子という名がついたそうです。それが転じて、日本女性の美称として使われるように・・・・。 捩り紅葉(もじりもみじ)かさね着用時期 旧暦10・11月頃色目の類推 紅葉する木々の色合い「表裏違う色を組み合わせることで紅葉が錦の様に美しく表され」ているというもの。 梅かさね着用時期 旧暦11月~2月色目の類推 早春に咲き競う紅梅の様々を表すかさねの一番内側は濃紫です。 菖蒲かさね着用時期 旧暦4月~5月色目の類推 青(緑):菖蒲の葉 紅梅 :菖蒲の根本の色 白: 白く長い根菖蒲の葉の形が剣を連想し、菖蒲=ショウブ=尚武・勝負という共通音連想から端午の節句という男の子の成長を祝う行事に結びつくようです。 装束上のかさね色目の配色法は時代的なちがいがやはりあるそうですが、平安時代末には源雅亮が『満佐須計(まさすけ)装束抄』を著しているとか。この書から平安期のかさねの色目を知ることができるそうです。さらに、室町時代応永の頃に、一条兼良の著とされる『女官飾鈔』、天文の頃には伝聖秀尼著『曇華院殿装束抄』という書がまとめられているそうです。かさね色目に着目し研究し記録する人々がいたのです。近世に入ると研究書がかなり出てくるそうです。(資料1)寝殿の西側は、この展示フロアでは別区画になっています。 ここには等身大の人形に衣裳を着せた形で展示されています。「晴れの日の正装」と題して、時代順にその時代の正装が展示されています。 これは奈良時代(710~784)の正装です。飛鳥時代の末期、701年に大宝律令が撰定され、翌年施行されました。唐の法制・文化を取り入れた律令制度の集大成でした。平城京遷都後、718年には新たに養老律令が定められます。養老律令の衣服令により、大陸風の服制が定められたのです。左は、四位の命婦(みょうぶ:女官)の礼服。女子皇族だけでなく女官や庶民の服制も規定されているとか。右は、二位の文官礼服です。この礼服は、正月元旦の朝賀や即位式などの限られた儀式の時にだけ着用された礼服だと言います。それに対し、普段の朝廷への出仕の際の装束は朝服(ちょうふく)と呼ばれています。ここで、一つの変化がもたらされました。「それまで衽(えり)のかさねは左衽だったのを、この時右衽に改めました。以来、現在の呉服に至るまで右衽となっています。」(解説パネルより)こんなところに、着物の着方での一つのルーツがあったのですね。平安時代、遣唐使派遣中止により、国風文化が開花していくということを上記しました。それまでの唐様を変化させて日本独自の装束が完成します。 公家女房の晴れの装いです。つまり、「宮中における成人婦人の正装」の姿で、「女房装束」「唐衣裳」姿ともいわれるそうです。しかし、私たちは「十二単(じゅうにひとえ)」と言い慣れています。この装束の成立時期は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられています。 解説パネルにこのイラスト図と部位名称が記載されています。切り出して引用します。ここの展示ではすべての正装に、詳細な解説文とイラスト図を併載した解説パネルが備えてありますので、日本の服飾史に触れる良い機会です。来館されることをお薦めします こちらは、武官束帯です。この武官の袍は二位・三位の色として定められている浅紫の闕腋(けつてき)です。次のイラスト図をみれば別ランクということが一目瞭然です。 こちらは五位の緋の闕腋袍。一方、文官束帯も決められています。文官の束帯が武官と異なるのは腋の部分が縫われていることだと言います。武官の場合は、腋があいた構造で、動きやすいようになっているのです。「また、平安時代に成立した当初の柔装束の束帯は、平安時代末期より生地に糊をつけて硬化した『強装束(こわしょうぞく)』へと変化し、着装時に儀式的な硬い線を作って威厳を示ようになりました。」(江戸後期の解説パネルより) 江戸時代後期の公家装束が展示されています。 正装の公家女房(十二単)です。 「室町時代に起きた応仁の乱(1467~1478)の後、公家の儀式や装束のしきたりが不明となり、十二単に特別な形が産まれました」と解説パネルには記されています。この姿は、天明年間(1467~1478)頃から天保14年(1843)の正装で、江戸時代独特の形状だとか。素人でも一見して分かるのは、平安時代の垂髪とのちがいです。「この頃京の町衆に流行した鬢(びん)を大きく張り出すいわゆる燈籠鬢が宮中の儀式にも取り入れられ」たとのことです。その結果、「現在の雛人形の髪型である『太すべらかし』が作られるに至りました。」(解説パネルより) 織り柄だけでなく、煌びやかに刺繍が施されるなど装飾性が高まっていますね。 公家装束:文官束帯です。平安時代に成立した束帯が江戸時代においても正装だったそうです。ただし、冠が小型化し、その冠を頭に留めるため懸緒(かけお)を使うようになったのです。パネルにはさらに詳しい説明が加えてありますが、ご興味のある方は来館して御覧ください。 最後が近代の正装です。 女官袿袴礼服と勅任官太礼服明治に入ると、女性も儀式に出て公務交際を果たすために公衆に顔を見せるように、行動も変化していきます。そこで、長袴スタイルから短い切袴を着用した「女官袿袴礼服(にょかんけいこらいふく)」が正装になったそうです。さらに「明治20年(1887)には宮中の女装を洋装化することが発表され、原則としてはフランス式のドレスが太礼服として扱われることになります。」(解説パネルより)という形に変貌したそうです。なお、「袿袴姿は現在も宮中で用いられている装束です。」(同上)明治政府は近代化・西欧化を積極的に進めました。断髪令から始まり、服装も洋装化が進展します。服制の大転換が実行され、「勅任官太礼服」が規定され、どの儀式等で着用するかも明記されたのです。官人のそれまでの装束は神事専用になったそうです。ここ1箇所で具現化された正装の姿を間近にして装束変遷史を大枠で通覧できる面白さがあります。最後に、今回の展示のテーマ「平安時代のスポーツ」に関連する展示がここにも加えてあります。 これで、2月から始まった展示のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*展示フロアの解説パネル*当日入手したパンフレット「平安時代のスポーツ -2020年東京オリンピックの寿ぎ-」 風俗博物館1) 『新版 かさねの色目 平安の配彩美』 長崎盛輝著 青幻舍補遺風俗博物館 旧ページ ホームページ 代表的な襲色目(かさね色目) 装束(男性) 装束(女性)有職の「かさね色目」 :「綺陽装束研究所」服制の歴史 :「綺陽装束研究所」現代語訳「養老令」全三十編(HTML版)十二単と束帯 :「有職文化研究所」満佐須計装束抄 :「コトバンク」雅亮装束抄 ::「国立国会図書館デジタルコレクション」女官飾抄 :「国立国会図書館デジタルコレクション」曇花院宮餝抄 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -2 蹴鞠(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -3 騎射と打毬 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -4 冷泉帝の即位 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 2018年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 2014年の展示を鑑賞しました。3回のシリーズでご紹介しています。
2019.02.26
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蹴鞠の後、源氏は宴席を紫の上の居所である東の対の南座敷に移します。「若菜上」には、次の描写があります。(資料1)”大殿ご覧じおこせて、「上達部の座、いと軽々しや、こなたにこそ」とて、対の南面に入りたまへれば、みなそなたに参りたまひぬ。宮も、ゐなほりたまひて御物語したまふ。次々の殿上人は、簀子に円座召して・・・・”この本文の鍵括弧の内容は、猫が驚いて御簾の端を上げてしまい、三の宮の姿がさらされたことに関係しています。大殿(源氏)はその状況を見て、憂慮し声を掛けたのです。ここで上達部は夕霧と柏木をさし、寝殿の南階に坐っている状況をさしています。「上達部の席がそんな所では端近すぎないか。こちらへどうぞ」とおっしゃって、対の南面に入って行くのです。当然みなそれに従い移ります。兵部卿宮も席を改めて、世間話をされる。それ以下の殿上人は簀子に円座を敷かせてすわるという形になります。つまり、宴席の場が、東の対(紫の上の居所)の南面に移るのです。冒頭の場面は、透渡殿(すかしわたどの)を通り、椿餅(つばいもち)などを箱の蓋に盛り合わせたものを女房たちが運ぶ姿です。ここも展示の傍に解説パネルが掲示されています。これは対の南面へと女房たちが運ぶ姿を具現化しています。当日頂いた資料には、次の説明が記されています。(資料2) 椿餅 文献上最古の純国産の菓子「椿餅とは、甘葛(あまずら)で甘味をつけた餡(あん)のない餅菓子で、椿の葉で挟んだものであり、多く蹴鞠の折に食べるのが例とされた」甘葛を辞書で引きますと、「つる草の一種の古名。今のアマチャヅルかといわれる。古代、液をとり甘味料にした」(『日本語大辞典』講談社)とのこと。 梨と柑子 「梨は持統天皇の飛鳥時代より植栽を勧める詔(みことのり)が出されており、平安時代は各地より宮廷に貢進されていた。 梨は大嘗祭(だいじょうさい)で大膳職より調進されたり、御斎会などの仏事の供養料として用いられている。塩漬けを食する場合もあった。」「柑子は柑子蜜柑のことで、実は蜜柑より小さく、日本で古くから栽培されていたものである。」本文には続きに、次の記述があります。(資料1)”わざとなく、椿餅、梨、柑子やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもにとりまぜつつあるを、若き人々そぼれとり食ふ。さるべき干物ばかりして、御土器まゐる。”「わざとなく」は「無造作に」という意味です。「若い人々ははしゃぎながら取って食べている。適当な干物ぐらいを肴にして、お酒の席となる。」と訳されています。 東の対の東側に回り込むと、L字形の建屋の角のところにある展示です。 「京都御所清涼殿西廂に見る室礼」の一部で、「台盤所」に見立てた具現化展示です。清涼殿は天皇の日常生活の場でした。隣室が「朝餉間(あさがれいのま)」です。天皇が朝食を召し上がる部屋です。それに対し、台盤所は、御膳を整える場所です。女房の詰所でもあります。 ミニチュアの調度品も精巧に再現されています。 平安時代の遊びの一つ「偏つぎ」が具現化されています。これは「主として女性や幼い子が漢字の知識を競い合った遊びで、偏と旁(つくり)に分けた札を使った遊び方」(資料1)をするものです。例えば、1)漢字の旁に偏を付けて文字を完成させる遊び2) 漢字の旁を出して、これに様々な偏をつけた文字を考えさせる遊び 続けられなかったり、読めないと負けになるのです。 ここから、六条院の日常生活の一コマ場面が展示されています。東の対の局の部屋です。 伏籠伏籠(ふせご)は竹製の籠です。「装束に自分好みに調合した香りを焚きしめる」目的で使われたそうです。火取で薫物(たきもの)を燻(くゆ)らせ、火取の上に伏籠をかぶせて、籠の上に衣服を掛けています。香は趣味の良さを相手に伝える手段の一つだったと言います。様々な香りが漂っていたのでしょうね。「自らの所作の後にどのような香りを残すか、それぞれが心配りをしていました。」(解説パネルより) 吊衣桁(つりいこう)の左側に、「吊香炉」が見えます。こちらも薫物を燻らせるための道具です。この吊香炉は、「二重のジャイロスコープによって炉の水平を保つように工夫された香炉」です。袖の中に香を焚きこめるために吊香炉の小さいものが使われたそうです。(資料2) 平安時代の容姿の美しさ、美人の条件として重要視されていたのは美しくて長い黒髪だったと言います。身嗜みとして黒髪の手入れをすることは、日常生活でとても大事だったのでしょう。孫引きですが、『大鏡』には黒髪にまつわる逸話が記されています。村上天皇女御芳子が、「牛車に乗っても髪の末は母屋の柱のもとにあるほどの長さで、その髪一筋は陸奥紙(みちのくがみ)に置くと隙間がなかったと賞賛され」ているとか。『源氏物語』では、「帚木」中の有名な雨夜の品定めの箇所をはじめ、「末摘花」「初音」に髪に関わる記述が出て来ます。(資料2)『枕草子』第79段「返る年の二月廿よ日」の段では、「若やかなる女房などの、髪うるはしくこぼれかかりて」ならこの場の情景も風流で見所があるだろうが、自分にような盛りを過ぎた者は、「髪などもわがにはあらあねばにや、ところどころわななき散りぼひて」と記し、「くちをしけれ」と結んでいます。かもじを用いているのでしょうね。「髪なども自分のものではないかして、所々ちじれ乱れて」と書き、「情けない次第だった」と、黒髪の対比をしています。また、第242段「ないがしろなるもの」(投げやりなもの)の筆頭に、「女官どもの髪上げ姿」(下級の女官たちの髪上げ姿)を記しています。つまり、髪を頂きに結い上げる姿は、清少納言にとっては論外なことだったのでしょう。(資料3)つやつやした長い黒髪がさらりと垂れさがっている姿にこそ、美を感じていたんでしょうね。 女房たちが薬玉を準備している場面です。平安時代には、端午の節句の習慣に「薬玉(くすだま)」があったそうです。中国で「続命縷(しょくめいる)」ともいわれた「薬玉」の習慣が我国に取り入れられたのでしょう。辞書には「端午の節句に、不浄や邪気を避けるために柱などにかける飾り物。錦の袋に香料を入れ、ショウブなどを結び付け五色の糸を下げる」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。解説パネルはさらに詳しく記されています。五色の糸は青・赤・黄・白・黒の五色で、古代中国の思想「五行」(木・火・土・金・水)の色に対応してます。この五色が宇宙を象徴するのです。「五色はいかなるものにも打ち勝つ色と信じられ、使われた色」だそうです。柱に吊すだけでなく、互いに贈り合ったり、肘にかけたり」(資料2)もしたとか。『枕草子』第36段「節は、五月にしく月はなし」で始まる文に、薬玉のことも記されています。現代語訳でご紹介します。「去年の九月九日の節供の菊を、粗末な生絹(すずし)の切れに包んで献上したのを、母屋の同じ柱に結び付けて今まであったのを、今日、薬玉と取り替えて捨てるのが例になっているようだ。一方、この薬玉は、今度は九月九日の菊の時まで保存しておくべきものなのだろうか。けれども、この薬玉の方は、その垂れた糸をみんな引っ張って取って何か結ぶのに使ったりするので、すぐなくなってしまう」(資料3)また、「見物は」という第208段には、「・・・・菖蒲の蔵人、容貌よき限り選りて出されて、薬玉賜はすれば、拝して腰に付けなどしけむほど、いかなりけむ」(資料3)「いかなりけむ」は「どんなにかすばらしかったことであろう」という感歎です。薬玉を腰に付けるということもしたということです。当時の様子が窺えておもしろい。 几帳の向こうは何? これは「六条院夏の御殿の華やぎ」だといいいます。夏の御殿の寝殿に住まうのは花散里です。西の対には養女として引き取られた玉鬘が住んでいました。夏の御殿の馬場殿で騎射が行われる前に、源氏が花散里に見にいらっしゃいと声を掛けたことは既に触れました。その見物のために、花散里のところの若い侍女たちが中門廊に集り、そこから見物します。侍女たちは端午の季節に相応しい優美な装束に身を包み、騎射に華やぎを添えたのです。ここでは、向かって左に花散里方の女童、右に玉鬘方の女童を具現化しています。 その向こうに居るのは花散里方と玉鬘方の侍女たちでしょう。さて、このフロアーの北東隅には「竹取物語」の場面を具現化展示が設けてあります。今までにもご紹介していますが、違うアングルから撮ったものをご紹介します。以前のものと重ね合わせて御覧いただけると、三次元的イメージ補強として相乗効果があるかもしれません。 大空から雲に乗り降り来て『竹取物語』の最終段階では、次のような文が記されています。(資料4)「宵うち過ぎて、子の時ばかりに、・・・・・望月のあかさを十(とを)合わせたるばかりにて、・・・・・大空より人雲に乗りており来て、地より五尺ばかりあがりたるほどに立ち連ねたり。」月の都より、百人余の天人を従えて、大空から王が降りて来ます。「立てる人どもは、装束の清らなること物にも似ず。飛ぶ車一つ具したり。羅蓋さしたり。その中に王とおぼしき人、家に、『造麻呂まうで来』いふに・・・・」と。王は、罪を作ったかぐや姫を翁の所に居させたのですが、罪の期限が終わったので、迎えに来たのです。歎いていても仕方のないことだから、はやく返してほしいと告げます。 地上の邸から王を見上げて柱の陰に坐って歎き悲しむのは媼(おうな)です。かぐや姫の両側に天女が舞い降りています。天女は筥に入れて持ってきた天の羽衣をかぐや姫に着せます。「ふと天の羽衣うち著せ奉りつれば、翁をいとほしかなしとおぼしつる事も失せぬ。この衣きつる人は物思ひなくなれば、車に乗りて百人ばかり天人具して昇ぬ。」かぐや姫は天の羽衣を着せられると、翁への思いも全て消え失せ、一切心の悩みがなくなってしまい、天に昇っていくのです。昇る直前の姿が表されています。 竹取物語の具現展示のところに衣裳変遷史を示すイラストパネルが設置されています。奈良時代から平安時代にかけて公の装束がどのように変化してきたかが通覧できて興味深いものです。それでは、展示の最後の箇所をご紹介します。このフロアーを巡る順番でいえば、エレベータから降りて、六条院の寝殿正面の展示を眺めた後の公式の順路で進めば最初に鑑賞する箇所になります。つづく参照資料1) 『源氏物語 4』(若菜上~幻) 新編日本古典文学全集 小学館2) 当日入手したパンフレット「平安時代のスポーツ -2020年東京オリンピックの寿ぎ-」 風俗博物館3) 『新版 枕草子』 上・下 石田穣二訳註 角川文庫4) 『竹取物語 付現代語訳』 中河與一訳註 角川文庫補遺若菜上 本文 :「源氏物語の世界」 現代語訳ナシ :ウィキペディア柑子 :「コトバンク」竹取物語 :「コトバンク」竹取物語 和田萬吉 :「青空文庫」竹取物語 [かぐや姫] ― 全文全訳(対照併記) :「学ぶ・考える.com」『竹取物語』について9の考察!かぐや姫の正体や作者の意図をネタバレ解説! :「ホンシェルジュ」風俗博物館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -2 蹴鞠(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -3 騎射と打毬 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -4 冷泉帝の即位 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 2018年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 2014年の展示を鑑賞しました。3回のシリーズでご紹介しています。
2019.02.25
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『源氏物語』の「澪標」に「あくる年の二月に、東宮の御元服のことあり」で始まる場面があります。源氏29歳の2月です。それに続く本文は次の記述です。(資料1)「十一になりたまへど、ほどより大きにおとなしうきよらにて、ただ源氏の大納言の御顔を二つにうつしたらむやうにみえたまふ。いとまばゆきまで光あひたまへるを、世人めでたきものに聞こゆれど、母宮は、いみじうかたはらいたきことに、あいなく御心をつくしたまふ」この元服した東宮は源氏と藤壺宮の間に生まれた不義の子です。表向きは源氏の父である桐壺帝の子であり、朱雀帝の弟という立場です。源氏の顔をそっくり写し取ったような東宮の元服を世間の人々は賞賛しますが、母である藤壺宮はいたたまれない気持になり、心を痛めています。「同じ月の二十余日、御国譲りのことにはかなれば」という事態になります。二月二十日すぎに、朱雀帝が譲位の沙汰をにわかに行ったのです。太后は狼狽しますが、朱雀帝は、「かひなきさまながらも、心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり」(生きがいのないこの身ながらも、これから先ゆったりとした気持でお目にかかれるようになりたいと考えるのです)と思いを伝えておなだめした。その結果、元服したばかりの東宮が天皇に即位します。冷泉帝の誕生です。桐壺帝(源氏の父)-朱雀帝(源氏の兄)ー冷泉帝(表向きは源氏の弟・実は源氏の子)と帝位が継承されるということになります。冷泉帝の即位に伴い、東宮には朱雀帝の皇子が立つことになります。そして、源氏は大納言から内大臣となりますが、幼い冷泉帝の摂政となることは、力不足を理由に避けます。それで致仕の大臣(葵の上と頭の中将の父。63歳)が太政大臣に就くということになります。『源氏物語』では、これらを記すだけで冷泉帝の即位の儀式そのものには言及していません。ここでは、「『源氏物語』に描かれていない冷泉帝の即位式について、冷泉帝が天皇の礼服(らいふく)である袞冕(こんべん)十二章を着て、即位式が行われる大極殿へ向かう姿」を具現化しています。礼服とは、「即位や朝賀といった大儀に着用した服装」(資料2)のことです。 宝剣を携える剣内侍(けんのないし) 続くのは神璽(しんじ)を携える璽内侍(じのないし) 譲位され、即位式に向かう11歳の冷泉帝の姿平安時代から江戸時代末まで天皇の即位式の礼服となっていたのが「袞冕十二章」だそうです。これは「嵯峨天皇の時代の弘仁11年(820)に初めて天皇の装束について定められた」(資料2)と言います。 袞龍の刺繍 この「袞冕十二章」の詳しい解説パネルが側に掲示されています。会場で具現化展示を眺めながらお読みいただくとよいでしょう。”袞冕十二章という名前の由来は、「袞衣」・「冕冠」、そして袞衣に刺繍された12種類のシンボルの総称によるものである”(資料2)とのこと。 源氏 即位式に向かうこの場所は、御所の「清涼殿」にある「夜御殿」に見立てられています。 この解説パネルが掲示されています。夜御殿は天皇の寝所であり、即位式に着用する礼服はこの場所で着替えが行われたそうです。その「夜御殿」の間が具現化展示されています。 江戸時代前期の第113代東山天皇の即位式における儀式の進行を解説したパネルも併せて掲示されています。これは、京都国立博物館の特集展示として「天皇の即位図]の初公開が行われているのと照応しますので、ご紹介します。 明治時代になると、それまでの中国風の天皇の礼服を廃し、日本風に改めるということが行われました。 これがその解説パネルです。上記の平安時代、嵯峨天皇の時に、黄櫨染(こうろぜん)という色彩の袍(ほう)が諸儀式や外国使節謁見の際に用いる装束として決められていたそうです。この「黄櫨染の御袍」が即位式のときの装束に格上げされることになったのです。それでは、平安時代の日常生活、つまり六条院の生活に関する今回の展示を眺めていくことにしましょう。つづく参照資料1) 『源氏物語 2』(葵~朝顔) 新編日本古典文学全集 小学館 p281-2832) 当日入手したパンフレット「平安時代のスポーツ -2020年東京オリンピックの寿ぎ-」 風俗博物館補遺澪標 本文 :「源氏物語の世界」 現代語訳即位の礼 :ウィキペディア即位礼正殿の儀 :ウィキペディア天皇陛下 即位の礼 正殿の儀 [高画質ノーカット] Enthronement of the Japanese Emperor, Akihito (with English commentary) :YouTube新天皇の即位の礼に使われる高御座などが皇居に到着(18/09/26) :YouTube「即位の礼」と「大嘗祭」って何? 詳しく解説(18/03/30) :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -2 蹴鞠(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -3 騎射と打毬 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 2018年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 2014年の展示を鑑賞しました。3回のシリーズでご紹介しています。観照 京都国立博物館 特別企画「斉白石」展と「初公開!天皇即位図」
2019.02.22
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東山区の東山七条にある京都国立博物館で特別企画として、中国近代絵画の巨匠「斉白石」の作品が展示されています。併せて、特別展示として、「天皇の即位図」が初公開されています。 こちらを風俗博物館の展示ご紹介の間に挟む形になりますが、ご紹介したいと思います。 特別企画展のPRチラシです。日中平和友好条約締結40周年記念として企画されたそうです。 この人が斉白石(1864~1957)さんこのチラシから引用します。若い頃、故郷の湖南省湘潭で大工仕事に従事し、指物師として生計を立てていたと言います。その斉白石が中国近代水墨画を代表する画家として活躍し、晩年には「人民芸術家」の称号を授けられ、現代中国の著名人となるに至ります。この斉白石の作品は、以前に平常展示で須磨コレクションの一部としていくどか鑑賞したことがありました。戦前の中国に外交官として駐在した須磨弥吉郎(1892-1970)が現地で白石の作品に感動し、その作品のコレクションをするとともに、白石と親交を深めたと言います。その須磨コレクションが京博に寄贈され、その作品の一部をみ観たことがありました。1957年に、中国の大きな美術アカデミーの一つとして北京画院が成立したそうです。そのとき、斉白石は初代名誉院長として迎えられたのです。その関係でしょうか、北京画院が斉白石の作品を数多く所蔵されているそうです。北京画院所蔵の斉白石作品が上記の記念として来日し、その名品を一堂に展示する特別企画が実現したのです。平成知新館2階の1~4展示室が展覧会場になっています。名品ギャラリー(平常展示)では須磨コレクションの斉白石作品もあわせて展示されています。PRチラシは、この「松鷹図」の鷹部分を切り出して使われています。鷹と松の幹・大枝は太い線でさらりと描かれる一方松の小枝と葉は細密に描き込まれていてコントラストが相乗効果を出しています。今回は、斉白石の生涯の作品展ということで、動植物を細密に描いた作品から中国文人画の伝統を感じさせる洒脱な作品、近代水墨画という新たな境地の作品、篆刻作品など、その幅広さから、須磨コレクションの一部展示では見えなかった側面を鑑賞できました。須磨コレクション自体への再認識につながった次第です。 これは図録の表紙です。図録のタイトルは中国語・日本語並記となっています。この表紙の作品はかなり緻密に描かれています。「墨梅図」の部分です。この作品は、上部に七言詩の讚が記されています。白石は尹金陽が描いた清らかで麗しい梅に対して、「私はそれにそれに同調したくなかったので、枯淡の趣きで描いてみた」と述べていたそうです。この図録は、中国語・日本語を並記した解説文が付されています。180.00元と裏表紙に印字されています。中国で印刷された図録です。勿論、館内売店で日本円での購入です。 左図は、「工中画冊」として様々な虫を描いた画帳の第一図「白花と鳳蛾」です。花が簡略というかラフに描かれているのに対し、蛾は凄く細密に描き込まれています。右図は、「穀穂蝗虫図」で、こちらも同様に蝗虫が細密に描かれてます。PRチラシの裏面からの引用です。前期展示では「工虫画冊」の第一図~第四図が展示されていました。当日会場で入手した出品一覧によれば、2月26日からの後期展示では、第五図~第八図に展示替えの予定です。右図は同様に「穀穂蟷螂図」に展示替えになるようです。小さな虫たちが光彩を放っている印象を強く受けました。 緻密、細密な描き方の作品から、この「葡萄松鼠図」のように文人画様の大らかに場面をさっと切り取った感じの水墨画まで見られて、斉白石の作品の広がりと奥行きを感じました。 館内で入手したこの「京都国立博物館だより」の表紙にも部分図が利用されています。 この左図「雁来紅八哥図」は前期展示でしたので鑑賞できました。右図は後期展示の作品です。雁来紅はハゲイトウという植物です。その特徴をとらえ、さらりと描いた側に、八哥鳥(ムクドリ科の鳥)と岩が同様に描かれています。文人画好みのタッチという感じです。中国では縁起の良い鳥だとか。 通期展示の「桃花源図」この作品は、斉白石が至った近代水墨画の一境地のように思います。白石のイメージした桃源郷なのでしょう。(「京都国立博物館だより」からの引用)「葡萄大鶏図」という作品を眺めながら、伊藤若冲の絵を連想しました。「書斎」というセクションには白石の画稿が展示されています。「臨金農賞梅図」「臨金農風来図」が前期展示ですが、絵の構想を描いているからかも知れませんが、まったく異なる筆法で、マンガ的な感じで面白く眺めていました。 これは当別展示のPRチラシです。天皇の交代を間近に迎える時期となってきました。それに照応する形での一種の温故知新でしょうか。かつての「天皇の即位図」が初公開されています。詳細な説明を加えたチラシです。PRチラシだけでも入手されると、良い参考資料になると思います。狩野永納筆「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」が展示されています。 右隻は霊元天皇(第112代)即位の場面です。PRチラシからの引用です。 左隻は後西天皇(第111代)譲位の場面です。これは、江戸時代の寬文3年(1663)年正月26日に、仮内裏(近衛邸)で後西天皇が譲位され、識仁親王が新内裏で受禅して即位。そして、その約3カ月後の4月27日、新内裏で霊元天皇の即位式が行われたそうです。仮内裏、新内裏という言葉が出てくる理由は、万治4年(1661)正月に関白二条光平の室・賀子内親王の邸から出火し、この火が広がって禁裏御所、仙洞御所、新院御所、女御御所など御所一体が焼失するという大事件が生じていたそうです。それで、火災を免れた近衛基熈邸が仮内裏にされ、1662年から御所の造営が実施されたという背景があったようです。 白描画として、上掲屏風の模本が制作されていたそうで、これも展示されています。礼冠(玉冠)をはじめ他にも何点か関連展示があります。通覧しただけですが、このチラシを参考にしながら屏風絵を詳細に見ていけば結構時間がかかると思います。私はまず屏風等の展示品の実物を一通り観て置いて、後で詳細を学んでいます。頻繁に展示される類いの屏風絵ではありませんので、一見の価値・意義はあるかと思います。 既に、こちらの展示が始まっています。こちらも鑑賞したいので、斉白石の後期展示期間に再訪したいと思っています。その際に、改めて「天皇の即位図」も再見してみるつもりです。最後に京博を出るときの景色をご紹介しましょう。 この時は、正門(西側の門)から京博を出ました。来館者を写すことなく景色を撮れそうだったからです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料「斉白石」展、「天皇の即位図」 PRチラシ「京都国立博物館だより」 2019年1・2・3月号図録『中国近代絵画の巨匠 斉白石』北京画院・東京並びに京都国立博物館 編補遺京都国立博物館 ホームページ 日中平和友好条約締結40周年記念 特別企画 中国近代絵画の巨匠 斉白石 特集展示 初公開!天皇の即位図 斉白石 :ウィキペディア斉白石 :「コトバンク」斉白石 :「秋華洞 日本美術家事典」東京国立博物館 特別企画「斉白石」 :YouTubeピカソが称賛「中国のピカソ」 158億円画家・斉白石 :「朝日新聞 DIGITAL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.02.21
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時計回りの方向で寝殿の北側に行きますと、今回のテーマ「平安時代のスポーツ」の続きになります。フロアーの北辺を馬場に見立て、そこに馬を知らせる埒(らち:柵)が設置されています。その埒の西端には、左近衛の官人(射手:いて)が一番端に待機し、今騎乗した夕霧(左近中将)と侍者たちが居ます。 夕霧は矢を入れた胡簶(やなぐい)を背に負うています。侍者が弓を手渡す準備をしています。馬場本(ばばもと:出発地点)で夕霧が射手としての準備をする場面です。 少し先には、正に的を射んとする左近衛の官人(射手)がいます。 馬を走らせて馬上から的を射る競技「騎射(うまゆみ)」が催されているシーンです。射手(いて)は的懸(まとがかり)の木を目印に的を見つけて射るのです。的は3つ設置されていたそうです。騎射は、「平安時代の和製アーチェリーと馬術」(資料1)による競技といえそうです。 胡簶に入れられた矢に菖蒲が結び付けられています。 馬場のさらに前方、少し離れた場所に「騎射」の世話係が待機しています。新たな的を手に持ち、的を替える役(的立:まとたて)と、幣を手に持ち、矢が的に当たると幣を上げて的中を知らせる役を担う人(的申:まともうし)が見えます。「的を替える役は出番が多いため、容姿端麗な者が務めるように定められている。的に中てた数は記録されており、射手は的中させた数だけ褒美が与えられた」(資料1)そうです。 胡簶の形状が異なります。 他の一隅に「騎射」に参加する人々が観覧あるいは待機しています。手前に置かれた物は的を射た射手に対するご褒美でしょうね。 騎射についてのこの説明パネルが備えてあります。下辺の絵は『年中行事絵巻』巻三です。埒の間を疾駆し的を射る射手が描かれています。馬場の右側、人々が多く集まっているところが馬場本(スタート)です。パネルに説明が付記されています。「通常、騎射の射手は近衛府の将監以下の官人(将監のほか、将曹、府生、舎人など)が務めるが、六條院夏の御殿の馬場殿で行われたこの騎射は、中将(夕霧)や少将など、公の行事では参加しない公達が参加したので、常にない華やかな様子であった」(資料1)という次第です。 寝殿の北側は、この場面では六条院の夏の御殿(おとど)にある馬場殿に見立てられています。『源氏物語』の「蛍」には、源氏が五月五日に玉蔓のもとを訪れた後、花散里の所に顔を出し、「中将の今日の衛府(つかさ)の手結(てづかひ)のついでに、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心したまへ。まだ明かきほどに来なむものぞ。・・・・」と語る記述があります。源氏36歳、夕霧(左中将)15歳の夏、端午の節句の一コマです。「衛府の手結」とは、左近衛府の騎射の取組のことで、旧暦5月5日に行われた行事です。夕霧がこの騎射の行事のついでに、男たちを引き連れて、六条院を明るいうちに訪れて、夏の御殿の馬場で騎射を披露するということを、源氏は花散里に伝え、そのつもりで見物にいらっしゃいと誘うというところです。本文はその少し先に、「馬場殿は、こなたの廊より見通す、ほど遠からず。」(馬場の御殿は、こちらの廊から見通しのきく、あまり遠くない所にある。)と記しています。「こなたの廊」は花散里の御殿の廊を意味しています。(資料2)端午の節句らしく、馬場殿野屋根には菖蒲が葺かれたといいます。ここでは蔀の上部に菖蒲が葺かれています。 馬場殿からは源氏や、蛍兵部卿宮(源氏の異母弟)をはじめとする親王たちが騎射を観覧しています。 中央に坐して観覧しているのが光源氏 向かって左側に蛍兵部卿宮が居ます。 こちらは誰? 「蛍」の本文には「兵部卿宮など」「親王たち」という記述だけです。(資料2) 蛍兵部卿宮に向かって左側に置かれた几帳を隔てて、左側には親王たちが並んで観覧しています。 この説明パネルが置かれています。 こちらは花散里や女房たちが、御簾越しに観覧している場面でしょう。夏の御殿の寝殿に住む花散里に仕える侍女や女童たちは東中門廊から騎射を見物します。「廊の戸口に御簾青やかに懸けわたして、いまめきたる裾濃の御几帳ども立て渡し」と本文は記しています。西の対に住む玉蔓に仕える女童や侍女たちも見物にくるのです。(資料1,2)平安時代の騎射は、武家が行う流鏑馬(やぶさめ)という競技に進展して行ったのでしょう。例えば、京都の下鴨神社では5月3日に「流鏑馬神事」が年間祭典の一つとして行われています。(資料3) 騎射の隣には、打毬(だきゅう)という騎馬で鞠(まり:球)を打つ平安時代のスポーツの場面が具現化されています。「平安時代の和製ポロ・ホッケー」(資料1)です。当時、徒歩の打毬も行われていて、こちらは鞠打(まりうち、「ぎっちょ」とも読む)と呼ばれて、年少者を中心に行われたと言います。徒歩の打毬は現在のホッケーに相応します。打毬は元々大陸から伝わった競技です。余談ですが、これに関連する一例をご紹介します。拙ブログ記事でご紹介していますが、京都国立博物館に六曲一双の「韃靼人狩猟・打毬図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館所蔵)が綴プロジェクトにより高精細複製品として制作され、展示されています。原本は伝狩野宗秀筆です。桃山時代に描かれた作品ですが、このスポーツが大陸から伝来したことを認識していたことになるでしょう。(資料4)騎射の観覧を描写した後、「蛍」の本文には、風変わりの趣向もはなやかに日暮れまでつづくと述べ、女には競技の内容はわからないのだが、「舎人どもさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞをかしかりける。」と記されています。これがどうも打毬の競技風景を描写しているものと私は推測しています。「身を投げたる」を『河海抄』は「身を捨てて勝負したる也」と解しているようです。「手まどはし」には「種や仕掛の分からないような秘術」と頭注にあります。(資料2) これは「身を投げたる」に繋がるシーンでもあります。勿論、騎射も的を射る瞬間は「身を投げたる」の如き様子にもなるでしょうし、本文の記述のつながりは悩ましくもあります。 こちらは競技の場に向かう様子の一コマでしょうか。 打毬の始まる前の待機でしょうか。まさに「舎人どもさへ艶なる装束を尽くして」を表しているのかもしれません。「古くは、打球は宮廷行事として端午の節会の際に、競馬(くらべうま)や騎射の後に行われたことが『西宮記』や『宇津保物語』に記されている」(資料1)とのこと。「蛍」には、この端午の節句の日、六条院で、打毬(と私は解釈)の折に舞楽の「打毬楽」(唐楽)や「落蹲」(高麗楽)が奏されたことも記されています。 この説明パネルが掲示されています。 几帳 几帳の右側に置かれたこれらの色鮮やかな布地は騎射で的を多く射た射手への褒美なのでしょう。 打毬に使用する球です。「球は29個用意され、近衛府の次将(中将や少将のこと)が球を大臣の座の前に置き、大臣が球を投げて競技が開始される」(資料1)そうです。近衛府や兵衛府の官人たち40人が左右に分かれて対戦し、南北に立てられた球門(鞠門)に球を入れてゴールを決める競技だそうです。競技が行われている時に、打毬楽という伴奏曲が演奏されたと言います。 蛍兵部卿宮の側に置かれた角高杯には五種類の菓子様のものが盛られています。源氏の側に置かれているのは、また少し異なる物のように見えます。これらが何かは不詳です。六条院の日常生活の側面は後に回して、今回のトピックの一つ「冷泉帝の即位-平安時代の御世がわり-」の具現化場面を次にご紹介します。つづく参照資料1) 当日入手したパンフレット「平安時代のスポーツ -2020年東京オリンピックの寿ぎ-」 風俗博物館2) 『源氏物語 3』(少女~藤裏葉) 新編日本古典文学全集 小学館 p203-2073) 流鏑馬神事 5月3日 :「下鴨神社」4) 拙ブログ記事(2018.12.29)中に「韃靼人狩猟・打毬図屏風」の写真掲載 観照 京都・東山 京都国立博物館 -1 亥づくし・中国陶磁(松井コレクション)・京の冬景色補遺蛍 本文 :「源氏物語の世界」 現代語訳 第21回 『年中行事絵巻』巻八「騎射」を読み解く :「ことばのコラム」(三省堂辞書ウェブ編集部によることばの壺)年中行事絵巻 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」流鏑馬神事 :「近江神宮」秋大祭・流鏑馬神事 :「大阪天満宮」笠懸神事 :「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」打毬について :「宮内庁」2015加賀美流騎馬打毬 競技風景映像 :YouTube190年の節目、八戸の騎馬打毬勇壮に :YouTubeポロ :ウィキペディア第7回『年中行事絵巻』「毬杖」を読み解く 倉田実氏 :「ことばのコラム」(三省堂辞書ウェブ編集部によることばの壺)ホッケーとは :「日本ホッケー協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -2 蹴鞠(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -4 冷泉帝の即位 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 2018年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 2014年の展示を鑑賞しました。3回のシリーズでご紹介しています。
2019.02.19
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『源氏物語』の「若菜上」で、「三月(やよい)ばかりの空うららかなる日、六条院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という書き出しで始まる箇所に、六条院の蹴鞠の遊びが描かれています。この日の朝、夕霧(右大将)が六条院に来て、東北の町で大勢の人に蹴鞠をさせてそれを眺めているということを知った光源氏(准太上天皇)は、春の御殿の方に来て蹴鞠をしてはどうかと伝えさせます。そこで、夕霧と若君達といった人々がやってきます。寝殿の東面の遣水(やりみず)などの流れ合う所が広場になっているので、そこで蹴鞠の技量の優れた人々が蹴鞠を披露するということになったのです。(資料1) このとき蹴鞠に参加したメンバーですが、本文には次のように記されています。「太政大臣殿の君たち、頭弁、兵衛佐、大夫の君など過ぐしたるも、また、片なりなるもさまざまに、人よりまさりてのみものしたまふ」(太政大臣の子息たちの、頭弁、兵衛佐、大夫の君など、多少年をとったのと、まだ一人前とはいかないのとさまざまであるが、ほかの人たちより蹴鞠の技量はとびぬけていらっしゃる。)(資料1)頭弁、兵衛佐、大夫の君は柏木の弟たちです。蹴鞠が活気を呈してくると、我慢しきれず弁の君が参戦します。源氏は夕霧や柏木にも蹴鞠に参加することを促します。 寝殿の東面の簀子から蹴鞠の様子を観戦しているのは光源氏(左)と蛍兵部卿宮です。二人は立烏帽子を被っています。「朝服に対し冠を用いるのに対し、平服には烏帽子を用いる」(資料2)とのことですので、この二人は日常の気軽な普段着ということなのでしょう。直衣や狩衣姿の時に烏帽子を被り、人前ではこの烏帽子を脱がないのが礼儀だったそうです。直衣の下に指貫をはいています。朝服とは「朝廷に出仕するときに着用する正服。役人の階級・種別によりその形式・色彩が異なる。朝衣。」(『日本語大辞典』講談社)を意味します。 蹴鞠をしている左側の人が柏木の弟・頭弁(とうのべん)です。 鑓水の傍には、蹴鞠に参加するために沓をはく準備をしている冠・直衣姿の公達がいます。『年中行事絵巻』にこの姿絵が描かれています。 東の対の簀子にも、蹴鞠を観戦する人々が並んでいます。 「蹴鞠 ~平安時代のサッカー~」という説明パネルが備えてあります。このパネルの下辺に描かれているのは左側に蹴鞠、右側に闘鶏の図です。『年中行事絵巻』巻三(田中家所蔵)に描かれた絵です。蹴鞠は中国伝来の遊戯で8世紀に日本に入ってきたようです。平安時代に入り、盛んに貴族たちの間で楽しまれた遊びです。蹴鞠は、「数人で輪をつくり鹿革の鞠を足の甲で蹴り上げ長く続ける」(資料2)というやり方です。ボールを足の甲で蹴る点は現代のサッカーと共通しますが、大きな相違点があります。サッカーはチームに別れてゴールにボールを入れて勝敗を決します。一方、蹴鞠は「地に落とさないように長くラリーを続け、鞠を落とした人が負けるというルール」(資料3)があります。当初は複雑な規約・規定はなく大らかに行われていたようです。つまり、服装・人数・場所・動作などに複雑な規定はなかったとか。直衣や狩衣など、その時着ている服装で蹴鞠に興じていた様子が絵巻にも描かれています。しかし、院政期から鎌倉時代に蹴鞠の形式が整えられていき、現代につながる蹴鞠道として完成されてきたと言います。(資料3)「通常は『懸(かかり)』と称する競技場で行い、3~4間を隔てて、四方に柳(東南)・桜(東北)・松(西北)・楓(西南)を植えて区切り、懸の中には砂などを敷いて埃がたたず水はけがよいようにした。鞠は懸の木の下枝より高く蹴り上げることを続け、また受けて地に落とさないようにし遊びであった。」(資料3)四方の木は「元木」(もとき)と称し、梅を用いることもあったとか。蹴鞠の形式が確立してからのことと思いますが、やり方について次のような説明がなされています。”競技者を「鞠足」といい、元木のもとに二人ずつ八人が立って、競技に参加した。ほかに、懸の外に出た鞠を内に蹴り返す「野伏(のぶせ)」という補助者が四人いた。また、審判役は数人の「見証(けんぞ)」が務めた。・・・・・・平安時代末期の藤原成通は蹴鞠の名手として著名である。”(資料2)余談ですが、戦国時代の今川氏真(義元の嫡男)は、桶狭間の戦いで敗れた後に今川家を継ぎますが、今川家滅亡の道をたどります。氏真は武士としてよりも、京の都に憧れて文化に傾倒し、和歌や蹴鞠の会を多く催したと言います。蹴鞠の名手でもあったようです。戦国時代小説で描かれた氏真は芸は身を助けるの事例として描かれていたのが記憶に残っています。氏真は徳川家康の庇護下に入ることで、後に旗本に加えられ、生涯を全うした人です。また、京都に「白峯神宮」があります。スポーツの守護神として有名な神社です。この神社は慶応4年(明治元年)9月6日に社殿が現在地に新造されました。この境内地は和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅地跡です。私は以前白峯神宮を探訪した時に、このことを知りました。境内には、飛鳥井家が代々邸内に祀り尊崇してきたという鞠の守護神「精大明神」が祀られています。蹴鞠碑も建立されています。(資料4)『信長公記』巻八・天正3年(1575)には、蹴鞠に関連した記録が2件あります。その一つは、3月4日に信長が相国寺に寄宿した時期に関係します。信長の所に、「3月16日今川氏真御出仕、百端帆を御進上。・・・・今川殿鞠を遊ばさるる由、聞こしめし及ばれ、3月20日、相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、春日井殿父子、・・・・、烏丸殿。信長は御見物。」と記録されています。ここに、今川氏真と飛鳥井父子が登場しています。また、7月3日の箇所に「禁中において親王様御鞠遊ばさる」という書き出しの条があります。そこに「御鞠の次第」つまり蹴鞠を実施したことの記録が記されています。御黒戸御所で行われ、参加した人々について記録されています。そこに、「飛鳥井大納言殿 かみ色紫 御くづ袴」、「飛鳥井中将殿 かみ色玉むし 同(=御くづ袴)」という人名と装束(中央は直衣の特徴を記す)が記されています。これらは信長時代の飛鳥井家の人々に該当するのでしょう。(資料5)元に戻ります。 反り橋の傍にも、立ち並び蹴鞠を観戦する人々がいます。 直衣の色がとりどりで鮮やかです。足下をみると草履を履いています。左の直衣は淡紅梅色、右の直衣は丹色(にいろ)と思われます。(資料6) 童装束は、小狩衣とも言われる半尻(はんじり)で、紅色と思われます。(資料2,6,7) 観戦する大人たちは、冠を被っていますので、朝服姿なのでしょう。この二人の直衣は白色と思いますが、重ねた色目で微妙に見た目の色が変化しているということでしょうか。足下を見ると、わずかに見える指貫の色や模様がかなり違います。このあたり、隠れたお洒落を表しているのかもしれません。それでは今回のメインテーマの続きを先にご紹介することに致しましょう。騎射と打毬という平安時代のスポーツ場面です。つづく参照資料1) 『源氏物語 4』(若菜上~幻) 新編日本古典文学全集 小学館 p136-1382)『源氏物語図典』 秋山 虔・小町谷照彦編 小学館 p87,p1403) 当日入手したパンフレット「平安時代のスポーツ -2020年東京オリンピックの寿ぎ-」 風俗博物館4) 白峯神宮 ホームページ 5) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p169,p179-1816) 『新版 かさねの色目 平安の配彩美』 長崎盛輝著 青幻舍7)『有職故実 下』 石村貞吉著 嵐義人校訂 講談社学術文庫補遺風俗博物館 ホームページ 今川氏真 :ウィキペディア「今川氏真」今川滅亡の憂き目にあった義元の嫡子 :「戦国ヒストリー」飛鳥井家 :ウィキペディア蹴鞠 :「宮内庁」蹴鞠 蹴鞠保存会蹴鞠 :「日本文化いろは事典」蹴鞠について :「談山神社」蹴鞠 :ウィキペディア下鴨神社で蹴鞠始め :YouTube下鴨神社・蹴鞠初め :YouTube平安貴族みたいに蹴鞠したい(とことんサーチ) :「日本経済新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -3 騎射と打毬 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -4 冷泉帝の即位 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 2018年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 2014年の展示を鑑賞しました。3回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 京都・油小路通を歩く -3 白峯神宮細見 (1) このシリーズの中で、No.3,4の2回でご紹介しています。
2019.02.16
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風俗博物館(源氏物語六条院の生活)では、2月から「平安時代のスポーツ-2020年東京オリンピックの寿ぎ-」というテーマで2019年が始まりました。展示が始まったところです。今年も出かけてきました。記録の整理を兼ねて、ご紹介します。展示フロアーに入ると、手前に朱塗りの反り橋があり、六条院春の御殿の寝殿前東側で「蹴鞠(けまり)」が行われています。 反り橋の架かる小川には水が流れていて臨場感を演出しています。 准太上天皇となった源氏は41歳の3月末に、六条院の春の御殿で蹴鞠を行いました。蹴鞠に興じる人々を、寝殿の御簾の陰から覗き見る女性が見えます。偶然にも御簾の端が跳ね上げられるといハプニングが生じたのです。前年に朱雀院(源氏の異母兄)の愛娘・女三の宮が源氏の正妻として六条院に降嫁し住まっています。御簾の陰から蹴鞠を覗き見ていたのは、この女三の宮でした。その姿を柏木が垣間見ることになります。これは『源氏物語』「若菜上」に描かれる場面です。 西から東方向に簀子を眺めたところです。簀子に何かが居ます。 御簾の端が跳ね上がったのは飛び出した子猫に付けられた綱のせいでした。 実は、大きな猫にびっくりして、子猫が御簾の端から飛び出てしまったのです。「若菜上」には、次のように記述されてています。「唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きな猫追ひつづきて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎてそよそよと身じろきさまよふけはひども、・・・・猫は、まだよく人になつかぬにや、綱いと長くつきたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこじろふほどに、御簾のそばにいとあらはに引き上げられるをとみに引きなほす人もなし」最後の部分は「綱がとても長くつけてあったのを、物にひっかけたのに巻きついてしまったので、逃げようとして引っぱっているうちに、御簾の端が、内部のまる見えにまるくらいに引き開けられられたのを、気づいてすぐに直そうとする人もいない」(資料1)と訳されています。 この説明パネルが掲示されています。猫は元々日本には存在しなかったそうです。奈良時代に中国から経典が輸入される際に猫が乗船していて、経典とともに来日したと言います。日本に将来される経典が渡航中にネズミに囓られるというような害から守るために猫が使われたためだとか。平安時代の猫は中国から輸入された舶来の「唐猫」で、高級な愛玩動物として宮中や上流社会で飼育されていたそうです。多くは綱をつけて家の中で飼われていたと言います。(資料2,パネル説明)有名な一条天皇の飼い猫「命婦のおとど」は五位に叙されて殿上猫となったのです。『枕草子』第六段の冒頭に、「上にさぶらふ御猫は、かうぶり得て命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、・・・・」と書き出されています。「上」は一条天皇のこと。かうぶり得て」は五位に叙せられること。「命婦」は五位に叙せられた女房の称で、「おとど」は婦人の敬称」です。この続きに、猫の世話係として、「乳母の馬の命婦」という名前が記されていて、「命婦のおとど」をおどかすつもりで、翁丸という犬にこの猫をかめと命じるというおさわがせが記されています。その結果馬の命婦は世話係から外されるという話すらでてくるエピソードです。(資料3,パネル説明)上掲の説明パネルには、第84段に猫に付けられた綱の事についての文章が引用されています。 この桜の木、リアル感がすばらしい!この場面を飛び出してきた猫の側から目線を移していきましょう。 御簾を少し巻き上げて、十二単衣(唐衣と裳)を少し簀子側に出してその美をみせつつ、階に腰掛ける公卿と語らうという場面です。 白地臥蝶文・桜かさねの直衣に冠の姿は夕霧(右大将)です。 一段低く階に坐るのは、柏木(衞門督)です。柏木ははからずも女三の宮の姿と貌を垣間見たのです。源氏にとり因果応報となっていく事件のきっかけがここから生まれていきます。「若菜上」には、女三の宮を垣間見た柏木について、次のように記しています。「ましてさばかり心をしめたる衛門督は、胸ふとふたがりて、誰ばかりにかあらむ、ここらの中にしるき袿姿(うちきすがた)よりも人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、心にかかりておぼゆ」と。(なおさらのこと、あれほど宮に心を奪われている衛門督は、胸がいっぱいになって、あれは宮以外のどなたでもない、大勢の女房たちのなかではっきり目立つ袿姿からあみても、ほかの誰と見まちがわれようはずもなかったそのお方のお姿など、心にかかって離れようがないのである)(資料1)なぜその判断が可能なのか? 袿姿は「貴族女性の平常の装いでくつろいだ姿で女主人だけに許された姿」(説明パネル)だからなのです。女三の宮に仕える女房たちは、所謂十二単衣の姿、つまり礼装でお仕えしていたそうです。礼装では袿に唐衣と裳が加えられることになります。この違いを識別して、柏木は心を奪われている女三の宮を偶然にも見る機会をえたのです。それは一層柏木の恋心・思いをかき立てることになるのです。 寝殿の東側から室内を撮ってみました。当時は長い艶やかな黒髪が美の象徴の一つとなったようです。 寝殿を飾る襖絵もミニチュアサイズできっちりと描かれています。 几帳と唐櫃 寝殿内部を垣間見した景色です。これらがどのあたりの展示かを当館にてご覧ください。それぞれの場面で、詳細な説明パネルが備えてあります。その説明が当日いただいたパンフレットにほぼ盛り込まれています。 これがもう一つの説明パネル事例です。当館でじっくりと読みながらこの場面を鑑賞すると、源氏物語の世界に一歩深く誘われることは間違いありません。それでは、女三の宮がひそかに眺める蹴鞠の方に目を転じていきましょう。つづく参照資料1)『源氏物語 4』(若菜上~幻) 新編日本古典文学全集 小学館 p140,p1422) 当日入手したパンフレット「平安時代のスポーツ -2020年東京オリンピックの寿ぎ-」 風俗博物館3)『新版 枕草子 上 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫補遺風俗博物館 ホームページ 風俗博物館 旧ページ 袿姿 院政時代の公家女房晴れの装い 公卿夏の冠直衣若菜上 本文 :「源氏物語の世界」 現代語訳源氏物語絵色紙帖 若菜上 詞菊亭季宣 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -2 蹴鞠(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -3 騎射と打毬 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -4 冷泉帝の即位 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 2018年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年の展示を鑑賞しました。4回シリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 2014年の展示を鑑賞しました。3回のシリーズでご紹介しています。
2019.02.15
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京都駅ビルの正面はガラスの壁面でその上部にガラスのシェルターが連続していきます。駅前はバスターミナル。ここから様々なルートの市バスと京都バスなどが発着し、一番西側には定期観光バスのターミナルがあります。 北西側から眺めた京都駅ビルです。東西に連接するビルは外観形状が異なり、非対称です。 京都駅ビルの中央改札口から中央コンコースを通り抜け、正面に出るところの外観がこれ。さしずめ駅ビルの中央の門と言えます。「JR 京都 Station」という表示がされている箇所は、南広場から眺めると∞形のおもしろい物体が置かれているように見えます。ここはまさに門柱だけの開かれた門です。 この駅ビル中央の正面に対し、東側から眺めていきましょう。 右寄りの凹部分が烏丸小路の門です。ここを切り撮った景色は前回ご紹介しました。京都タワーの実像・虚像の景色で虚像を映じていた場所が、正面からみると、4分の1円筒様のガラス多面体構造の側面にあたる部分になります。これって、単なる装飾なのでしょうか・・・・・。ホテルグランヴィア京都のエリアですので内部がわかりません。おもしろいものを付加してあるなって感じです。 外観として切り撮った東端側の景色です。上部はホテルの客室のようです。東端部の7Fまでは京都劇場のエリアです。 京都駅ビルの東端部にある地上から「京都劇場」へアプローチする入口です。実際の劇場入口はビルの2Fです。2Fはエントランスフロアで、京都劇場は2Fの入口からさらにエスカレーターで上階にまず上ることになります。 西側にはホテル入口へアプローチする空間がほぼ対になる形になっています。このエリアは広々としていて、開かれた空間です。北方向を眺めると、「羅城門」の復元縮小モデルが設置されています。 駅ビルの東側の柱に、こんなトリックアートが貼り付けてあります。 羅城門モデルの西側には、角柱状の建造物が建っています。これが駅ビルのレイアウトとしての装飾的建造物なのか、内部に何らかの機能を持たせているのかは不詳です。側面に京都市の大きな観光地図が掲示されているという意味でPR媒体機能を担っているのは明瞭です。 今、おもしろいのはこのトリックアートの存在です。これ、シートが路面に貼り付けてあるだけです。 京都駅ビルの正面のすぐ前には、地下街「Porta(ポルタ)」への入口が3ヶ所あります。こちらは京都駅ビルとPorta入口を西に向かって切り撮った景色です。ビルにガラス壁面が多用されていることもわかります。 中央口側のPorta入口と西から東方向を眺めた外廊部分の景色です。 京都駅ビル正面の上掲の門の西側には、「南北自由通路」(2F)があります。ビルの内部から北方向を眺めた景色です。ここも開かれた門と言えます。正面に東側と同様に角柱状の建造物が見えます。 こちらは西側のビルの正面です。ビルの左側、奥まった位置に見える開口部が室町小路の門です。 そして、東側のガラスの多面体とはまた異なった様相のガラスの多面体が作られています。これもまた奇抜な形です。もし色ガラスの多面体なら一気にキュービズムが沸騰しそう・・・・。こちら側は、さらに上部へ延びたガラスの多面柱状の出っ張りが加わっています。このビル壁面自体が現代アートなのかもしれません。 ジェイアール京都伊勢丹側の駅ビル側面です。 西側にあるPortaへの入口 京都駅ビルの西端側の景色です。駐車場(下層階)とジェイアール京都伊勢丹(上層階)が重層化してます。駅ビルの手前に道路を挟んで「京都中央郵便局」のビルがあります。西側には道路との境界にいくつか汽車の彫刻が設置されています。 まだまだ見落としている箇所があると思いますが、まずはこの辺りで、一旦細見を終えました。落ち穂拾いとして、いずれ未見の箇所を切り撮りして補足できればいいなと思っています。ご覧いただきありがとうございます。補遺京都駅ビル ホームページ ガイドマップ Porta 京都駅地下街-ポルタ ホームページ京都駅地下街ポルタ :ウィキペディア国鉄D51形蒸気機関車 :ウィキペディア蒸気機関車デゴイチ(D51)健在 :YouTube国鉄C62形蒸気機関車 :ウィキペディア蒸気機関車C62ついて :「銀河鉄道グループ」【<公式>JR西日本】京都鉄道博物館C62形2号機の1日 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.13
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空中径路からエスカレーターに乗り換えて、「東広場」(7F)に降っていくときに、北西側から俯瞰した景色です。コの字形に広場を囲むビル・エリアは、「ホテルグランヴィア京都」です。フロアガイドを見ると、京都駅ビルの東端側の1F~7Fに「京都劇場」が位置します。既に南遊歩道(3F)東端部のエリアという形でご紹介した箇所にリンクします。この景色の右側に見える階段とエスカレーターは、烏丸小路広場に出る経路です。 広場上空を見上げると、ガラスのシェルターの東端部とホテル・エリアの南北の建屋間を結ぶ空中径路が空間を区切ります。 エスカレーターを降りて、南に向くと広場の中央に建つ白亜のドームです。 ここにも、手前にトリック・アートのシートが床に貼られていました。 南側のビルのこの箇所の外壁は面白いレイアウトです。フロアガイドで確認すると、この箇所はホテルにあるチャペル「マカリオス」のようです。これでこの広場の一つの機能がこの広場に入った時の推測を裏付けました。そのガラス壁面に写った白亜のドームの虚像と北側の背景。この白亜のドームは、結婚式の後の記念撮影スポットになるのでしょう。 東広場の南東隅から北を切り撮った景色です。右側にはカフェレストランのようです。 このアングルから眺めると、けっこう奇抜な背景のユニークな記念撮影スポットになりますね。 東広場の西側には、こんなボックス型の建造物と列柱があります。列柱の背後に見えるエスカレーターが空中径路に繋がっています。 広場の西端部に位置するのが、このベルモニュメントです。「出発(たびだち)のプリエ」と称されています。そばに設置された案内板の説明を引用します。 「プリエはフランス語で『祈る』の意です。新郎・新婦をはじめ全ての人の幸せを 祈って命名されました。 2002年6月竣工」ここのチャペルでウェディングのセレモニーが執り行われると、このベルが高らかに鳴らされるのでしょうね、たぶん・・・・。単なるお飾りモニュメントではもったいないもの。あくまで想像ですが。このベル・モニュメントの金色の翼のような柱とベルが、烏丸小路広場や中央コンコースから遠望できます。 東広場(7F)から西方向を眺めたガラスのシェルターです。 広場を見下ろすと、彫刻「Space」と黄色のテントウムシ文様が見えます。 見上げると・・・・・。それでは、烏丸小路広場を経由して中央コンコースの細見に入りましょう。 烏丸小路広場から南方向の眺め。 空間が開放されています。余談です。烏丸通の南方向は、地下鉄烏丸線「十条駅」の少し南で、久世橋通に合流するところが南端になります。平安京の時代は、「九条大路」が一番南の東西の通りでした。その九条大路に南面する門を持つ「東寺」の境内が位置します。現在の九条通です。応仁の乱後の京都の市街地範囲の南限が九条通でした。豊臣秀吉が築いた御土居の南辺は現在の九条通の南側です。元に戻ります。烏丸小路広場の北端をご紹介していませんので、ここで追補します。 4Fにある広場ですから、開放された門といえども、北端はガラス越しにこの北に延びる烏丸通が見えるというに止まります。 見下ろせば、こんな景色が広がっています。 少し南に下がると門のイメージは感じられます。そして、ここでも京都タワーの実像と虚像を見ることができます。 振りかえて見上げた烏丸小路の門 京都駅ビルの正面を東から眺め、切り撮るとこんあ景色です。さて、中央コンコースに、エスカレータを使って降りて行きましょう。 (ここからは、2/5と2/9に撮った写真を混在さて編集します。) 烏丸小路広場のエスカレーター起点あたりはには、南側にこんなフォルムが見えます。広場の西端のこの電飾された縁のスペースには近寄れないようです。 黄色のテントウムシ文様の屋根のところは、レストランの雰囲気です。 振り返り見上げると、ガラスのシェルターは複雑に錯綜した姿を現出しています。その中央にあのベル・モニュメントが見えます。 西の大階段は、舞妓さんの顔に変化しています。 中央改札口に向かう南方向を眺めた中央コンコース 中央改札口の上部、南広場を見上げた景色 再度、振り返り。 こちらは南広場から見下ろした中央コンコースの西側。2Fの南北自由通路ならびに4Fの大階段前に至るエスカレーターが北側に見えます。鉄骨の柱がニョキニョキと起ち上がっています。中央コンコースを通過するとき、見上げないと気づきません。 烏丸小路広場から眺めた西側のエスカレーター階段を自力で上がる人よりも、やはりエスカレーターを利用する人が圧倒的に多い! ラクチンな方を誰しも選びますよね。 西側のエスカレータから眺めた中央コンコース エスカレーター上から南西側を見ると、これらのフォルムが見えます。遊び心の一つでしょうか。 中央コンコースを利用していても、このガラスのシェルターを見上げる人はそんなに多くはないでしょう。そんな暇なんてない!ってとこかもしれません。 一方、中央改札口の東側に設置されたこのディスプレイの順次変化していく京都の映像シーン案内を見上げる人はけっこう多いことでしょう。中央コンコースからエスカレータで上り、ホテルグランヴィア京都の入口に向かう通路に立って、 切り撮った景色。正面のガラス窓の先はホテルエリア、下層は中央コンコースから「京都劇場」に向かう通路になっています。 これで京都駅ビルは正面の外観を残す位になりました。つづく参照資料ホテルグランヴィア京都 公式サイト フロアガイド 京都劇場 ホームページ72.教王護国寺文書に見える御土居(おどい)の資料 :「東寺百合文書WEB」補遺史跡 御土居 :「京都市情報館」御土居 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.12
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9日に京都国立博物館に行った序でに、帰路京都駅に立ち寄り、5日に探訪・切り撮りしていなかった箇所を訪れてきました。それがここでご紹介する大空広場と空中径路です。冒頭の景色は、大階段の北側に設置されたエスカレーター上から切り撮った「大階段」です。 エスカレータの乗り継ぎ箇所の途中にある大階段の踊り場から東を眺めた景色です。ガラスのシェルターの西端部と空中径路が見えます。おもしろいと思ったのは、ガラス壁面が生み出す虚像です。 虚と実がコラボレーションした景色です。一瞬、イリュージョンを感じませんか? これは南遊歩道に設置されていた案内図です。ジェイアール京都伊勢丹は大階段の下層と大階段の両側がそのスペースになっています。B2Fから11Fまでフロアーがあります。その11Fの上が屋上で、「大空広場」と呼ばれています。 大階段は11Fのフロアーの高さが到着箇所です。広場から見下ろすと、L字を逆さにして建てたような4つの金属角柱が立っています。夜に行ったことがないので推測ですが、たぶん外灯的な機能も持っているのでしょう。 大階段から「大空広場」への階段を上り、入ったところには、「葉っぴいてらす Happy Terrace」と名づけられた樹木で囲われた空間ができていました。かなり以前にこの大空広場に来たことがありますが、当時はなかったと記憶します。 南東方向から眺めた景色です。たまたま対極の北西側に人が写っています。その後側はガラスの嵌め込まれたコンクリート塀になっていて、京都市内の北方向が眺望できます。この部分が「町尻小路の門」にみなされているようです。 南西側から「葉っぴいてらす」を北東方向に眺めますと、丁度京都タワーが見えます。ここから、「葉っぴいてらす」の西側を北方向に歩みます。この通路部分がさしづめ上掲の案内図に記された「町尻小路」に相当する位置関係になるのでしょう。 「町尻小路の門」のガラス越しに見下ろすと、西本願寺と東本願寺が目の前に見えます。東本願寺は烏丸通に東面し、西本願寺は堀川通に東面しています。 「葉っぴいてらす」の西方向の景色です。突き当たりは、ジェイアール京都伊勢丹への出入口です。 ドアから入り、西側のガラス壁面から眺めると、目の前のヘリポートの先に、京都市西部の景色が広がっています。 デパート内では、大階段の下層部分にエスカレーターが設置されていて、真っ直ぐな坂道のように延びて、各フロアーを繋いでいます。その最上階11Fのエスカレーターから真っ直ぐ先に階段があり、最西端からエスカレーターを眺めたのが左の景色です。こういう形で繋がっているのを、今回初めて知りました。 大空広場から京都市の南部を眺めるために引き返し、南側に回り込むとこのアートがありました。烏丸小路広場でご紹介したのと同じ主旨でのアート作品の展示です。 シートに描かれた絵が、三次元の立体的な形状に見えるトリックアートです。 南側のガラス越しに見下ろすと、正面眼下に近鉄のビルとJR京都駅のプラットホームの西端部が見えます。 阪神高速8号京都線の高架も見えます。その背後にある焦げ茶色の建物群が龍谷大学深草キャンパスですので、それとの位置関係で判断できます。 広場の一隅に建つ建造物。これも遊び心でしょうか。京都タワーが見えています。 こちらは虚像の京都タワー。下辺に見える窪みが10F「拉麺小路」への出入口です。 「拉麺小路」を部分的に通り抜けて「空中径路」に向かいます。両側の壁にはお店の紹介がびっしりと・・・・。先のドアが空中径路に誘います。 上掲の大階段上空で斜めに繋がる「空中径路」です。 大階段とエスカレーターが眼下に。 中央コンコースの上のガラスのシェルターのすぐ下に設置されている「空中径路」。斜めの空中径路から繋がっていて、西端から東方向を眺めたところ。 空中径路から眺めた室町小路広場(門) 空中径路を振り返ってみて切り撮った景色 空中経路の途中で北側を見ますと、まず目に入るのがやはり京都タワーです。 ここには、記憶では3箇所にこの展望景観の案内図が掲示してあります。 全景はこんな感じです。青空ならばかなり映えるとことなのですが・・・・。 東方向 ビル正面、バスターミナル側 ビル正面側。南東から見たガラス壁面の上部構造空中径路を歩むと、ガラスのシェルターの構造美が間近に見えてきます。 正面の位置からズームアップして。 空中径路から眺めた烏丸小路広場(門) 空中径路を振り返り、西方向を眺めた景色 空中径路の東端部にはエスカレーターが設置されています。この東端部から「東広場」までエスカレーターで下ります。勿論、こちらからエスカレーターで空中径路に入り、拉麺小路まで抜けて行くことができます。 このシリーズの最初に利用した案内図に黄色矢印を追記しました。案内図の青い実線が空中径路の連なりで、最後に茶色で示されたエスカレータで下りるという形で今回探訪し細見しました。それでは「東広場」に下りましょう。つづく参照資料京都駅ビル ホームページ ガイドマップ 観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.11
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4Fにある「烏丸小路広場」から南側の階段を3Fに下りますと、そこは「南遊歩道」です。冒頭の写真は見上げた景色です。 「南遊歩道」の南側のコンクリート壁は厚いガラスが嵌め込まれていて、所々に凸型に南に張り出した空間が設けてあります。この箇所で言えば、右端の立方体の部分がその張り出し部分です。その空間は京都駅ビルの南側外の景色を眺望できる場所です。 出っ張り部に入り、厚いガラス越しに南を見下ろすと京都駅のプラットホームの屋根の列と南端に一段高い新幹線のプラットホームの建屋の北側面が見えます。新幹線が停車しています。こちらは京都駅の奈良線8番ホームから眺めた京都駅ビルの烏丸小路広場という門から東側の建物部分です。西側が「京都グランビアホテル」で東側が「京都劇場」です。 (2019.2.9 撮影) 左の景色は建物の3F部分に設定された真っ直ぐな廊。右は上部階の建物の壁面より外側に設けられた廊です。外縁という方がぴったりかもしれません。この両方を併せて「南遊歩道」となっています。 外縁の位置から西を眺めた景色です。 まずは東方向に。京都劇場のエリアに行くと、柱の形状が円柱に変化します。建物の外観が施設毎に変化しています。このあたりが、私にはおもちゃばこ感覚で変化があっておもしろい。おもちゃばこにはいろんなものが入っているように、この駅ビル全体には、エリア毎に異質感がぶつけられている感じがします。柱という機能の外観の変遷を散りばめている感じとも受け止められます。 ここが南遊歩道の東端です。「烏丸中央口方面」への階段を示す標識。 厚いガラスの嵌め込まれたコンクリート壁から東を眺めると、京都駅から東に延びていく線路と陸橋が見えます。東国より来たり、また東国に去る人々を運ぶ線路がどこまでも延びています。次の駅は「山科」。 京都駅ビルの東側壁面 南遊歩道の東端から西に突き抜ける廊 遊歩道(外縁)を西方向に戻る途中で振り返った景色 遊歩道(外縁)から見上げると・・・・・。 (2019.2.9)プラットホームから眺めるとここだけにこの形状の突出部があるのです。遊び心でしょうか・・・。ちょっとアクセントに付けたそう・・・なんて。違和感が人目を惹きつけます。ホテル・エリア。 遊歩道(外縁)の東側から見上げて 遊歩道(外縁)の西側から 4Fの南広場から、南遊歩道(外縁)を東方向に見下ろした景色 ホテルの一画をクローズアップ プラットホームから眺めた外観 (2019.2.9)烏丸小路広場(門)の西側にも「ホテルグランヴィア京都」の宿泊エリア等が広がっています。 (2019.2.9)京都駅のプラットホームから眺めた京都駅ビルの西側の景色です。ホテルエリアの西端に、室町小路広場(門)の縦長の開口部があり、その西には「ジェイアール京都伊勢丹」のエリアとなります。 室町小路広場(4F)を見上げた景色 左は下の階(3F)に繋がる階段部分。右は3F側から眺めた西側ゲートの階段です。 南北自由通路には東西に「眺望GATE」という表示をした階段が設けてあります。 その階段が「南遊歩道」に繋がっているのです。これは東側のゲートです。 この「南遊歩道」の案内掲示は赤丸を追記した位置に設置されています。室町小路広場への階段の近くです。方位も追記しました。 この景色の東端には、2Fの南北自由通路部分の外観が見えます。南に見えるのは、近鉄京都線の京都駅があるターミナルビルです。 ビルから緊急避難する非常階段が備えられていて、南遊歩道(外縁)の上部を跨ぎさらに外側のエリアに避難できる形になっています。右側の非常階段の景色が見られるのは、最初に載せた写真のように、ここにも張り出し部があり、そこから西方向を見ていることによります。 張り出し部から南を見下ろすと、京都駅のプラットホームに入る直前の西側線路の列が見えます。 その張り出し部から西を眺めた景色です。 西側から東方向を眺めて。左側にビルの壁面に設置された緊急避難階段が見えます。 同様に西側からの眺め 東側からズームアップ 南遊歩道の西端まで来て、建物の西端から東を眺めますと、こんな景色です。ここの柱は四角注です。 南遊歩道の西端に、「烏丸中央口方面」に下りることができる階段があります。 ここが階段側からみた、南遊歩道の西端エリアです。 この西端エリアから西を眺めると、大阪方向への線路が延びています。西国の人々の往来が広がる幹線路です。 京都駅ビルの西側面。「JR ISETAN」と「The CUBE」の表示が壁面に掲げてあります。この西端側は「西第一駐車場」と「ジェイアール京都伊勢丹」が重層化しています。さて、これで南遊歩道の端から端まで細見しました。大階段の横にあるエスカレーターを使い、屋上を細見しましょう。つづく参照資料京都駅ビル ホームページ ガイドマップ 駐車場・駐輪場 補遺ジェイアール京都伊勢丹 ホームページThe CUBE 京都駅ビル専門店街 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.10
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「烏丸小路広場」に設置されている案内図です。案内図ではその名称が赤字表記になっています。4Fの広場スペースは茶色地で表示されています。南広場が東西方向に延びていて東側に回り込むと、「烏丸小路広場」です。その名称が示すように、こちらは「烏丸通/烏丸小路」への開かれた門になります。平安京の条坊制とJR京都駅の位置を重ねてみますと、駅は左京の西洞院大路と東洞院大路との間に位置します。そして、西洞院大路と東洞院大路の間には、東から烏丸小路、室町小路、町尻小路という小路が南北方向に設けられたのです。(資料1,2,3)現在の地図の表記で言えば、東洞院通、烏丸通、室町通、新町通(=町尻小路)、西洞院通という南北方向の通り名に相応します。 室町小路広場と同様に、南遊歩道から烏丸小路広場を切り撮ると、同様に正に開かれたもう一つの門がここにあります。 南広場から回り込んだ景色はこんな感じです。 この景色の正面部分を切り出しました。赤い矢印を付けた建物は京都タワーが上部にあるビルの南東角で、ビルの東面が烏丸通に面しています。つまり、正面の北方向の空間が烏丸通です。 東南側から北東側寄りから この広場に設置されている彫刻は、彫刻家・松阪節三作「Space」(1997)です。 烏丸小路広場で見たもう一つのアートです。石壁面に貼り付けられています。 その上部方向には空が見えます。 こちら(東側)にも、ガラスのシェルターと空中径路が見えます。 広場から西方向を見上げると、ガラスのシェルターが駅正面のガラス壁面に連接して行きます。 クローズアップすると、ガラスよりも鉄骨の機能美が目に止まります。 南広場側を眺めます。 前回の室町小路広場(西側)から、南広場側を眺めると、こんな切り撮りになります。JR中央口全体の空間として眺めると、こんな感じ・・・・。広々とした空間。黄色い円形屋根(?)に黒色の丸模様、テントウムシをついつい連想。さらに連想はアーティスト・草間彌生さんの作品模様に・・・・飛んでいきます。また、おもちゃばこの中には、こんな模様の積み木パーツがあるかも・・・・・。 駅正面のガラス壁面を眺めましょう。 壁面の鉄の骨格をクローズアップすると、南広場からの眺めの印象とは異質です。ガラス壁面を維持する堅牢性と幾何学的美が印象に残ります。この角度では壁面の開放感は消滅。それでは、広場から、南への階段を下り、「南遊歩道」を歩みましょう。つづく参照資料1) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社 p342)平安京の大きさは :「京都市埋蔵文化財研究所」 このページから「平安京図PDF」のダウンロードができます。3) 大路・小路 :「花の都」補遺平安京 :「京都市埋蔵文化財研究所」大路・小路について :「花の都」平安京と大路・小路の変遷 :「花の都」京都タワー ホームページ#松阪節三 :「Instagram Online」松阪節三/花"Fkower" :「@ART」松阪節三 《かがやき》 :「FOURSQUARE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.09
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「室町小路広場」の北端には、この円筒形と三角柱形の並ぶモニュメントがあります。京都駅ビルの北面、正面側で、前回ガイドマップに青色の丸を付けたところです。 北側から見ると、こんな感じです。おもちゃばこには積み木の一部としてありそうなフォルムです。西側は「ジェイアール京都伊勢丹」のフロアーとその西側が駐車場。 壁面の4F部分には多面体のガラス張り突出部の空間が作られています。 この出っ張り、遊び心でしょうか。 この広場から北東方向、目に前に、京都駅正面のガラス壁面に映じていた「京都タワー」があります。 広場北端から下を眺めると、西側には定期観光バスの案内所とターミナル、東側には市バスや京都バスのバスターミナルの屋根が見えます。ロウソクのような京都タワーもすっかり馴染んでしまいました。脇道に逸れます。この京都タワー、1964年に竣工しました。東海道新幹線が開通し、オリンピック東京大会が開催された年です。12月25日にタワービルが全館竣工。同月28日にタワー展望台が開業しました。京都タワーの工期は1年10ヶ月。建築家・山田守(1894-1966)の作品だそうです。高さは地上131m、展望室は4,5階で、その中間が地上100mにあたるそうです。2014年12月に50周年を迎えています。2020年の東京オリンピックの年は、56年目になります。半世紀余を経て、オリンピックが巡ってくるということですね。元に戻ります。 この案内図を再掲します。 この室町小路広場の北東角にこの記念碑が設置されています。京都駅ビルは、「JR京都駅改築設計競技」というコンペ形式でビルの設計が実施されました。その結果、設計者は原廣司氏に決定されたのです。ここにその設計コンセプトが記されています。”京都は、歴史への門である。京都駅の建築全体は、この短文の形象化でありたい。平安京の都市形態が、今日にも鮮やかにその姿を刻み込んでいるように、歴史はひとつに地理学的である。ここでの提案では、それ故、「地理学的コンコース」なる概念の具象化を門の表現の第一に据えた。多くの人々が、この幅員27m、高さ60mのしかし、長さにして470mのコンコースを通過していくだろう。このコンコースは、日本の伝統的美学である「境界があると同時にない」ことを表すガラスのシェルターで覆われるはずである。駅は、人びとが「空」を見いだす場面を持つ。門の形象化は、京都の空の設計でもある。「マトリクス」は、門を支える壇であり、空中の地層である。この上に、駅、複合商業、コンベンションホテル、文化、駐車場の5つの施設とさらに細分された諸要素が、相互に関連づけられつつ、同時存在する。ルネサンスに、万物の母胎マトリクスが構想され、それは新しい世界地図となり、やがては鉄道が走った。駅舎は、人びとが離合集散の舞台として、機械の時代の建築を代表した。この提案は「マトリクス」を京都の都市の母胎の切片として位置づけ、駅舎建築の伝統を現代的に解釈して継承しつつ、さまざまな出会いの経路を誘起する。北面のファサードは、いわば門の表層であるが、広場からみれば暗い陰の面になりがちである。提案では、明るく輝く立面を実現するべく、ほとんどガラス面として、建築はかつ消えかつ浮かんで、輸送された北の空と重なり、人びとは二度と同じ形象を見ることはない。”私にはこのコンセプト・メッセージの抽象度が高くて充分には理解できないのが残念!まあ、このビルを眺め、それぞれが体感すればよいのでしょう。平安京での条坊制という通りの骨格はほぼそのまま現在の京都に継承され、歴史が重層化されて、京都の市域が発展拡張しています。平安京には南に羅城門がありました。京都駅ビルの全体が、羅城門をアナロジーとした現代京都の一つの門に位置付けられるのかもしれません。羅城門は朱雀大路に入る門でした。しかし、羅城門は形式としての門にしか過ぎなかったと聞いたか読んだ記憶があります。その門の左右から延びて条坊制の街を土塀で囲むようなことはしていなかったと・・・・。豊臣秀吉が御土居を築くことで京都を初めて洛中と洛外に截然と仕切ってしまったにすぎません。その前の時代には、下京と上京はそれぞれが惣構(そうがまえ)として囲われていたと言うことを聞いた記憶があります。秀吉が急造した御土居も、秀吉没後は時代の変遷と都市の拡張とともに消滅し、今は一部の御土居跡の遺構を残すにとどまります。京都の門は境界を示すだけのものがあれば良かった。開かれた門だったのでしょう。そういう意味では、京都駅ビル自体が京都の北部域に対する単独の大きな門、開かれた風通しのよい門に見えます。京都駅の中央改札口は北に開かれた空間でまさにコンコースです。英語のコンコースの意味を辞書で引くと、第1義に「集合、合流、群集」、第2義に「(公園などの)中央広場、(駅・空港の)中央ホール」を意味するとあります。「競馬場、競技場」という意味も記されています。(『リーダーズ英和辞典』研究社)中央改札口が門の中央空間ですが、このビルにはさらに3つの門があります。 その一つがこの室町小路広場です。ここが「室町通/室町小路」に対応しています。 南北に開かれた空間になっています。 先に、南側から眺めましょう。室町小路広場はまさに開かれた門の一つです。これは後ほど切り撮る「南遊歩道」の位置から眺めた景色です。ここを見ると門のイメージがピンときます。 前回切り撮った「大階段」を下りてきたこの4Fの広場にこのオブジェが置かれています。清水久兵衛作「朱甲舞」で、平安建都1200年記念として制作・設置されたそうです。 (2019.2.9 追加) 広場から西側の大階段の上空を眺めると、そこには空が見えるとともに、鉄骨で組まれたガラスのシェルターが見え、空中通路が横切っています。 室町小路広場から中央改札口のある東側を眺めましょう。鉄骨がアーチ状に構築されて、”「境界があると同時にない」ことを表すガラスのシェルター”が天空の光を通過させています。東西方向はそのまま空に連接していくオープンな空間です。このシェルターの対極には「烏丸小路広場」が見えます。 室町小路広場から、その4Fつづきに「南広場」へ。「南広場」はJR中央口の上階部分になります。 南広場は中央部に一列の半円球ドームだけが並ぶ奇妙な空間です。 JR中央口の正面の上部は鉄骨が格子状に組まれたガラス面が光を通過させるとともに、刻々と変化する外部空間を眺めることができます。ガラス障子越しに見る外景色の風情と言えるかもしれません。 この部分を「切り撮る」と京都タワーが檻の中に入っている、あるいは、檻の中から京都タワーを眺めているとも連想できそう・・・・・。 下を眺めて景色を切り撮れば、JR中央口の北方向は開放された空間です。形だけの門(?)の上部には∞(無限大)を連想しそうなお飾りが置かれています。この出入口、一日にどれくらいの人々が往来するのでしょう? 西側の烏丸小路広場に抜けるまえに、柱の壁面に掲示されている案内図がこれです。南広場(4F)から1階下がった南側には、「南遊歩道」が一直線に延びています。では、烏丸小路広場に進みましょう。つづく参照資料京都タワー ホームページ 京都タワーについて京都駅ビル ホームページ ガイドマップ 補遺羅城門 :「コトバンク」羅城門 :ウィキペディア羅城門跡 :「京都観光Navi」清水九兵衛 :ウィキペディアモニュメント :「三栄金属工業所」 アルミニウム芸術家・清水九兵衛氏の作品が見られるページ山田守 :ウィキペディア没後50年で自邸公開! 建築家、山田守とは誰か。 :「Casa BURUTUS」原広司 :「コトバンク」【有名建築家紹介】原広司 :「建築デザインどっとこむ」〈建築理論研究 02〉──原広司『空間〈機能から様相へ〉』 :「10+1website」【建築】 原広司の建築作品 代表作 NAVERまとめ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.08
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特定の対象物を取り上げて、その様々な局面/側面を「切り撮って」みました。細見してみるといろいろおもしろいこと、興味深いことに気づきます。ちょっとマニアックにこだわってみた様々な視点での部分撮りを楽しんでいただければうれしいです。いくつかの諸物細見ができましたので、このあたりでハブとなる一覧表を作成したいと思います。これからはこの一覧表を時折追加更新していきたい所存です。おつきあいください。観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ観照 諸物細見 -2 西本願寺 御影堂前の銅造灯籠 へ観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜 へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(1)ガラス面に映じた景色・大階段観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター 観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺観照 諸物細見 -6 大阪・中央区 南御堂難波別院の青銅製灯籠観照 諸物再見 -7 京都・因幡堂平等寺 薬師如来立像懸仏と昇降一対龍からの連想観照 諸物細見 -8 再び西本願寺に (1) 阿弥陀堂門を眺めて 観照 諸物細見 -8 再び西本願寺に (2) 手水舍 観照 諸物細見 -9 石仏:阿弥陀三尊像と大日如来像 (京都国立博物館西の庭①)へ観照 諸物細見 -9 石仏:不動明王立像 (京都国立博物館西の庭②)観照 諸物細見 -10 京都 七条大橋観照 諸物細見 -11 京都・上京 丸太町橋観照 諸物細見 -12 京都・洛東 二天門(大谷本廟/西大谷)観照 諸物細見 -13 京都 五条大橋とその近辺(牛若丸弁慶像、牛若ひろば、太田垣蓮月歌碑、扇塚ほか)観照 諸物細見 -16 京都 四条大橋(1) 橋と近辺のモニュメント観照 諸物細見 -14 京都 松原橋観照 諸物細見 -15 京都 団栗橋観照 諸物細見 -16 京都 四条大橋(1) 橋と近辺のモニュメント観照 諸物細見 -16 京都 四条大橋(2) 橋の変遷観照 諸物細見 -17 京都・伏見街道の石橋(第一橋~第三橋)観照 諸物細見 -18 京都・東本願寺 阿弥陀堂門観照 諸物細見 -19 京都・東本願寺 東本願寺慶長撞鐘観照 諸物細見 -20 京都・東本願寺 御影堂門 (1) 正面からの眺め観照 諸物細見 -20 京都・東本願寺 御影堂門 (2) 境内からの眺め観照 諸物細見 -21 京都国立博物館の庭にひっそりと集まる石仏たち観照 諸物細見 -22 京都国立博物館 東の庭 李朝朝鮮時代の石造物 -1 石人いろいろ観照 諸物細見 -23 京都・西本願寺 唐門 (1) へ観照 諸物細見 -23 京都・西本願寺 唐門 (2) へ観照 諸物細見 -24 レトロな建物 旧日本銀行京都支店観照 諸物細見 -25 レトロな銅像(二宮金次郎像)& レトロな建物(伝道院)観照 諸物細見 -25 レトロな建物(伝道院)(2)& 今も保たれる町並み
2019.02.08
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京都駅ビルが1997年9月にオープンして、はや20年余が経ちました。できた当初から京都駅を利用しながら、京都駅ビルの細見はしていないことに気づきました。そこで、この「おもちゃばこ」のようなおもしろさをもつビルを素人目線で「切り撮ってみたい」と思いました。 これは「室町小路広場」から撮った京都駅ビルの正面です。広場はビルの4Fにあります。2Fにある「南北自由通路」の上あたりです。これは京都駅ビルのホームページの「ガイドマップ」に掲載されていて、自由にダウンロードできるマップを引用しました。青い丸印を追記した場所の東端から冒頭の景色を切り撮りました。 この図もわかりやすいと思いますので利用します。「烏丸小路広場」に設置されている案内図です。まずは、「大階段」から。 2月5日、大階段ではこんな「グラフィカルイルミネーションPlus」が見られました。この図柄はバレンタインデイまでのおもしろさです。これは4Fに赤色の丸を付けた位置から撮ったものです。大階段は様々な映像で切り替わって行きます。 こちらは、「烏丸小路広場」から西側の大階段をズームアップで切り撮ったもの。 大階段は、4F~11Fまでの上りです。 北側に、エスカレーターが4Fから11Fまでのびています。大半の人々はやはりこちらを利用していますね。 冒頭の景色をもう少し視野を広げて切り撮るとこんな景色になります。つづく参照資料京都駅ビル ホームページ ガイドマップ 京都駅ビルについて観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(2)室町小路広場・南広場 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(3)烏丸小路広場とガラスのシェルター へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(4)南遊歩道と京都駅ビル南面外観 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(5)大階段から大空広場、そして空中径路 へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(6)東広場・中央コンコース へ観照 諸物細見 -5 京都駅ビルはおもしろい:切り撮る(7)ビル正面の外観と周辺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2019.02.07
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有田郡有田川町 粟生(アオ)、生石(オイシ)、奥(オキ)、修理川(スリガワ)、遠井(トイ) 土生(ハブ)、伏羊(ブヨウ)、明王寺(ミョウジ)有田郡広川町 唐尾(カロ)、河瀬(ゴノセ)有田郡湯浅町 -伊都郡かつらぎ町 笠田中(カセダナカ)、御所(ゴセ)、中飯降(ナカイブリ) 花園新子(ハナゾノアタラシ)、平沼田(ヒランタ)伊都郡九度山町 河根(カネ)伊都郡高野町 上筒香(カミツツガ)海草郡紀美野町 上ケ井(アゲイ)、初生谷(ウイタニ)、動木(トドロキ)西牟婁郡上富田町 朝来(アッソ)西牟婁郡白浜町 安居(アゴ)、安宅(アタギ)、上露(コウヅユ)、十九渕(ツヅラフチ) 日置(ヒキ)西牟婁郡すさみ町 周参見(スサミ)、防己(ツヅラ)東牟婁郡北山村 -東牟婁郡串本町 出雲(イツモ)、鬮野川(クジノガワ)、神野川(コノカワ)、吐生(ハブ) 東牟婁郡古座川町 一雨(イチブリ)、洞尾(ウツオ)、潤野(ウルノ)、蔵土(クロズ) 南平(ナベラ)、直見(ヌクミ)東牟婁郡太地町 -東牟婁郡那智勝浦町 井鹿(イジシ)、宇久井(ウグイ)、狗子ノ川(クジノカワ) 高津気(コウヅケ)、高遠井(コウドオイ)、粉白(コノシロ)、二河(ニコウ) 直柱(ヒタハシラ)、八尺鏡野(ヤタガノ)日高郡印南町 印南(イナミ)、印南原(イナンバラ)、皆瀬川(カイゼガワ)、上洞(カボラ) 樮川(ホクソガワ)日高郡日高川町 愛川(アタイガワ)、伊藤川(イトゴ)、弥谷(イヤダニ)、川原河(カワハラゴウ) 玄子(ゲンゴ)、小釜本(コカモト)、寒川(ソウガワ)、早藤(ハイクズ) 土生(ハブ)、平川(ヒユウガワ)、三佐(ミザ)、三百瀬(ミヨセ)日高郡日高町 荊木(イバラキ)日高郡みなべ町 晩稲(オシネ)、気佐藤(キサト)、埴田(ハネタ)日高郡美浜町 -日高郡由良町 吹井(フケイ)参照資料和歌山県の郵便番号関心を持った難読地名をいくつかネット検索してみた。南紀、熊野、ときどき漢字(2) :「ことばマガジン」安居(あご)の渡し :「わかやま観光情報」吐生村:紀伊続風土記(現代語訳):「KEYSPOT」吐生の滝 :「み熊野ねっと」八尺鏡野村:紀伊続風土記(現代語訳):「KEYSPOT」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県・和歌山県
2019.02.04
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近畿地方での最後、和歌山県に至りました。まずは都市部から始めます。有田市 -岩出市 荊本(イバラモト)、中迫(ナカブサ)、野上野(ノジョノ)、波分(ハブ)海南市 且来(アッソ)、扱沢(グミサワ)、重根(シコネ)、冷水(シミズ) 下津町鰈川(シモツチョウカレガワ)、下津町丁(シモツチョウヨロ)、船尾(フノオ)紀の川市 赤沼田(アカンタ)、猪垣(イノカケ)、麻生津中(オウヅナカ)、風市(カザシ) 勝神(カスカミ)、久留壁(クルベキ)、花野(ケヤ)、後田(シレダ)、杉原(スイバラ) 桃山町調月(モモヤマチョウツカヅキ)御坊市 熊野(イヤ)、湯川町財部(ユカワチョウタカラ)新宮市 相賀(オウガ)、熊野川町篠尾(クマノチョウササビ)、田長(タナゴ)、田辺市 熊野(イヤ)、上芳養(カミハヤ)、中辺路町温川(ナカヘジヌルミガワ)、北郡(ホクソギ) 真砂(マナゴ)、東伏菟野(ヒガシフドノ)、本宮町大津荷(ホングウチョウオオツガ) 小々森(コゴモリ)、神子浜(ミコノハマ)、橋本市 賢堂(カシコド)、柏原(カセバラ)、学文路(カムロ)、高野口町応其(コウヤグチチョウオウゴ) 神野々(コノノ)、胡麻生(ゴモウ)、須河(スゴウ)、谷奥深(タニオブカ)、向副(ムカソイ) 和歌山市 小豆島(アズシマ)、新内(アロチ)、伊太祈曽(イダキソ)、井辺(インベ)、吉礼(キレ) 神前(コウザキ)、永穂(ナンゴ)、吐前(ハンザキ)、弁財天丁(ベザイテンチョウ) 布施屋(ホシヤ)、六十谷(ムソタ)、森小手穂(モリオテボ)、参照資料和歌山県の郵便番号気になる地名を幾つか検索して得た関連情報を補記します。和歌山・熊野 獣防ぐ「猪垣」見応え(もっと関西) :「日本経済新聞」熊野(イヤ)神社 :「和歌山県神社庁」学文路 :「コトバンク」伊太祈曽神社 ホームページ吐前 :「日本姓氏語源辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県
2019.02.03
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員弁郡東員町 員弁郡(イナベグン)、穴太(アノウ)、長深(ナガフケ)、 北牟婁郡紀北町 道瀬(ドウゼ)桑名郡木曽岬町 西対海地(ニシタイガンジ)多気郡大台町 御棟(オムナギ)、唐櫃(カラト)、桧原(キソハラ)、久豆(クズ)、熊内(クモチ) 菅木屋(スガゴヤ)、明豆(ミョウズ)三重郡朝日町 埋縄(ウズナワ)、小向(オブケ)、縄生(ナオ)三重郡川越町 -三重郡菰野町 大強原(オオゴハラ)、神森(カモリ)、菰野(コモノ)、田光(タビカ) 南牟婁郡紀宝町 神内(コウノウチ)南牟婁郡御浜町 栗須(クルス)、引作(ヒキツクリ)度会郡大紀町 神原(コノハラ)度会郡玉城町 小社曽根(オゴソソネ)、上田辺(カミタヌイ)、長更(ナガフケ)度会郡南伊勢町 相賀浦(オウカウラ)、神津佐(コンサ)、礫浦(サザラウラ)、新桑竈(サラクワガマ) 慥柄浦(タシカラウラ)、内瀬(ナイゼ)、始神(ハジカミ)、道行竈(ミチユクガマ)度会郡度会町 度会郡(ワタライグン)、注連指(シメサス)、鮠川(ハイカワ)、平生(ヒロオ) 興味深いことに気づきました。一つは、滋賀県大津市内だけの地名かと思っていた「穴太」が員弁郡東員町にもあったことです。読み方も同じです。ルーツとしてつながりがあるのでしょうか・・・・。もう一つは、「始神」という地名に興味を持ち、キーワード検索すると、「始神峠」という熊野古道伊勢路の場所がヒットしました。「サンショウウオを意味する『椒』(はじかみ)が峠の名前の由来」だそうです。(資料1,2)椒⇒始神という転化がどうして起こったのでしょう?参照資料三重県の郵便番号1) 始神峠 :「観光三重」2) 始神峠 :「熊野古道伊勢路 幸結びの路」今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・三重県
2019.02.02
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