遊心六中記

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2019.04.21
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カテゴリ: 探訪
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久我 (こが) 橋西詰傍の久我バス停で下車すると、お寺の屋根が見えます。
桂川の河川敷を少し歩いた後、集合時刻までにまだ時間があったので、このお寺を訪ねてみることにしました。
久我バス停の西に 府道123号線との交差点「久我」 があります。この交差点から府道に左折して少し南に歩めば、冒頭の石標が立っています。
道路に面して、「道元禅師 誕生寺」と 寺号が記されています。その石標の 背面を見ますと、「誕生山妙覚寺」
道元は久我氏の出身で、この久我の地で誕生したと伝わる そうです。

寺号標の立つ道を東に入ると、門があります。お寺の西門です。門のところに脚立風のものが置かれていましたので、正面の門に向かってみることにしました。
その結果わかったのは、 久我橋西詰から堤防を南に入り、寺横の坂道を下ると山門前に至る ということでした。

              桂川畔の坂道の途中から眺めた誕生寺


               山門右前にも「誕生寺」の寺号標があります。

 山門の正面から境内を眺めた景色
  山門に「妙覚山」の扁額が掲げてあります。

              山門を入り、南西側から眺めた本堂


              舟形水盤の傍に、観音菩薩立像が安置されています。

本堂に向かって、右斜め前に 「道元禅師幼少像」 が建立されています。
右側の顕彰碑文を読みますと、 道元禅師生誕800年記念として 、その法会の日、平成11年(1999)5月1日に除幕されたようです。
碑文には、道元が幼少4歳で李嶠の百詠を、7歳で毛詩左傅を読まれたと言います。14歳で出家され、諸方で修行ののち、曹洞宗の宗祖となられた旨が冒頭に記されています。


本堂の正面には、 「誕生寺」の扁額 が掲げてあります。

手水舎の傍に、この 「誕生寺の由来」説明板 が設置されています。
前回最後にご紹介していますが、ここ久我は中世には村上源氏の流れ・久我家の所領でした。この地は久我家の屋敷址といわれているそうです。明治初年に久我家が東京に移住後、久しく荒れていたとか。 大正8年(1919)永平寺の66世貫首・日置黙仙禅師が、道元禅師の遺跡顕彰のために、ここに誕生寺を建立 されたという次第です。その際、 越前(福井)武生の妙覚寺をその尊像・寺号とともにここに移した のが始まりと言います。 大正9年5月に仮本堂で入仏遷座の式が行われた そうです。しかし、同年9月に黙仙禅師の遷化により、誕生寺の整備は頓挫。 現在の姿は、昭和57年(1982)~平成12年(2000)にかけての復興計画による整備の結果 だとか。 (資料1,2,説明板)
この結果、「誕生山妙覚寺」が「妙覚山誕生寺」と改称されるに至ったようです。

本尊は千手観音菩薩像で、道元自作と伝える坐像等を安置するそうです。(堂内は拝見していません) 


大棟の正面、獅子口や軒丸瓦の瓦当には、曹洞宗の宗紋がレリーフされています。また開花した姿の飾り瓦が置かれています。


           本堂正面の貫には、深い線彫りの意匠が目に止まります。


向拝の木鼻は、正面側に首を捻った獅子像が彫刻されています。初めて見る意匠です。

蟇股は雲形だけの比較的シンプルな意匠です。


本堂の左前には、 「ブッダガヤの仏足跡」 が置かれています。インドをくまなく歩かれた仏陀の足うらの形を石の上に彫りつけたものです。

インドの初期仏教では仏像を作ることは畏れおおい考えであり、法輪・菩提樹・塔・高座などが仏の標識として、礼拝の対象とされていました。仏足石には仏陀の足うらに、千輻輪宝・金剛杵・双魚紋などが彫られています。 (資料3)
ここの仏足跡には6種の図柄が線刻されています。 



南面する本堂の西側には、 稲荷堂 があります。
ここには 豊川稲荷尊天が勧請されています 。当初の誕生寺建立後の整備計画が頓挫していた時期に勧請されたそうです。お堂は二層造りのように見えます。上階には連子窓が設けてあるようです。

お堂屋根の獅子口や軒丸瓦の瓦当には宝珠がレリーフされています。

唐破風の兎毛通は亀と亀を取り巻く動物の頭部が彫り込まれています。

唐破風の蟇股は、龍が宝珠を抱える姿が彫刻されています。

        木鼻は波濤文を彫刻しながら、外形は象の頭部を連想させるおもしろい意匠です。


                   稲荷堂の南に、この石碑があります。

西門の南東側に大きな石造の観音菩薩立像が建立されています。


境内の南西隅に鐘楼 があります。その北隣りの建物が上掲の説明板の記載と対比していくとおそらく座禅堂だろうと思います。庫裡は本堂の東側の建物のようですので。

この誕生寺は講座の集合時刻までに拝見したのですが、講座での歴史散策の行程の途中でこの誕生寺に立ち寄ることになりました。ここでその部分を先取りしてご紹介しておきます。

参加した講座で、直接の対象となったのが、稲荷堂と本堂の間のこの石塔群の中にありました。


それはこの 宝篋印塔 です。 ここにあるのは模刻石塔 ですが、元の宝篋印塔は、道元の母・藤原伊子の供養塔で、鎌倉時代後期の建立と言います。 鶴の塔という通称があり、古式の宝篋印塔 です。京都にある北村美術館が所蔵され、その「四君子苑」と称される庭園に置かれています。 (資料4)



笠の隅飾突起には蓮華座がレリーフされています。
塔身の4つの角には鳥が丸彫りされ、四仏が各面に肉厚彫りされています。塔身の下部には仏の下に蓮華座が薄くレリーフされています。
基礎の格狭間は、一面が3区画にされ、それぞれ月輪のなかに種字が彫られています。

宝篋印塔の西側に並ぶ五輪塔は、道元の父・源(久我)通親の供養塔を1997年に復元建立されたものと言います。

道元禅師の生誕については諸説あるようです。 (資料2,5,6,7)
父は内大臣久我通親 (こがみちちか) 、母は摂政関白藤原基房の女 (むすめ) 伊子 (いし) と言われています。そして、通親の子道光 (みちてる) の異母弟になるといいます。
道元の生誕地がこの久我地域にあった屋敷というのが、誕生寺がここに建立された理由になります。一説に、源通親と太政大臣藤原基房の娘の子ですが、宇治木幡で生まれたと言います。宇治は現在私の地元ですが、松殿山荘と称される場所と伝わっています。
尚、一説に源通親の次男・通具 (みちとも) と藤原基房の娘の子とも言います。
いずれにしても、道元は上級貴族の家に生まれました。3歳で父を、8歳で母を亡くしたと言われています。

そろそろ、講座の集合時間になり、久我バス停に戻ります。
講座の始まりです。
つづく

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p173
2) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p250
3) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房
4) ​ 四君子苑概要 ​ :「北村美術館」
5) ​ 道元禅師のご生涯 ​ :「曹洞宗近畿管区教化センター」
6) ​ 道元 ​ :「コトバンク」

補遺
道元 ​ :ウィキペディア
宝篋印塔の変遷と刻經の内容(福山市内三寺院を比較して) ​:「備陽史探訪の会」

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Last updated  2019.04.29 22:51:54コメント(0) | コメントを書く


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