貴方の仮面を身に着けて

貴方の仮面を身に着けて

2005/11/21
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カテゴリ: 燃える指(完結)
なにゆえにその子は~15 years ago~


時々、すべての音が苦痛になる。

そんな時は大好きなスタインウェイのピアノの音色さえ拷問になる。
普段の僕なら、半ば恍惚とした表情でうっすらと口を開け、その口で語るよりも雄弁に、僕の感情、僕の思想、僕の精神を、その鍵盤の上に表現する事が出来たであろうけれど。こんな時はシーツにくるまって、雨だれの響きにすら、神経のふちをこすられる様な不快感に耐えなければならないのだ。

たったひとつの音をのぞいては。
それは「彼」セバスチャンの声だった。

アナトール・・
彼が僕の名を呼ぶ。

四分の一が日本人、半分がドイツ人、残りの部分はきっと天使で出来ているような彼。僕と同じく混じり合った血を持つ彼はどこの国境にも心を分断される事はなかった。堀河・アナトール・亜津佐、それが僕の名前。あづさと呼ぶ者も多いが、彼はいつもアナトールと呼んだ。今の僕は半分が人間、半分が悪魔。僕の魂は切り裂かれてしまった。どうして僕は選ばれなかったのだろう、壁を守る為に。セバスチャンと一緒にいたかったのに。僕の方が強いのに、どうしてあんな女を選んだのだろう。ミセス・ハツコの血縁とはいえ、僕の呪縛ひとつ祓えないのに。



まだ夜はそれほど深くないのに。

恵美子は読んでいた本から目を上げた。薄黄色の簡単なサマードレスは夜用におろしたもので袖なしだが、今の季節の夜に寒さを感じさせるものではない。けれども全身を悪寒が包みこんでゆく。何がどう、という事はわからない2DKのアパートに、邪悪さが密度を高めていく。ある種の人間ならそれを「呪術」と呼ぶだろう。普段ならそんなものは入って来られないはずなのだ。この部屋の主の結界を突き破るだけの強さを持つ力など、そんなには存在しない。けれども彼は今ここにいない。

私一人で何が出来るだろう。中途半端な感受性と身につけた護符と、わずかに習い覚えた方法など、こんな強力な力の前ではライオンとウサギより分が悪い。だが、やらねばならない。東側に扉がある。そちらを向いて寝室の中央に立ち、恵美子は目を閉じた。意識を集中する。頭上に描いた光の球から滝の様にエナジィが流れ込んで来た。最初の聖なる名が恵美子の口から発せられる。
「そんなもので、OKだと彼が教えたの?」
聞き覚えのある声・・目を開くと、そこには金色の髪の少年が立っていた。
「あなたは・・」
「彼の大切な人なら、もう少し出来るものかと思っていたよ」
少年は夜だというのに一分の隙もない薄色の背広姿で、口の端だけ持ち上げる独特の微笑をしてみせた。その独特の微笑・・恵美子は思い出した。あれは半年ほど前、季節はまだ冬だった・・

午後の陽射しが柔らかく差し込むサンルームの中までは、寒さはやって来なかった。独逸製のピアノは古き良き時代の音色のままで、西洋と東洋の出会いが生んだ少年の指先から流れ出していた。
「素敵ね」
恵美子はうっとりと同じソファの傍らにいるセバスチャンにささやきかけたが、彼は黙ったままだった。ピアノを弾く少年アナトールと彼は旧知の仲らしかったが、この再会をお互いに心から喜んでいないらしい雰囲気があった。アナトールは彼の最初のピアノの教師がセバスチャンだったと語った。もっと専門的に学ぶ為に今は他の教師に代えたのだと。けれどもそれだけではない何かが二人の間にはあった。



「あなたはあの時の」
「そう、僕はアナトール。彼が見捨てた仲間の一人です」
「見捨てた?」
「何も知らないんだね、彼の事」
青年の笑顔は一変して恐ろしい形相になった。

悪鬼の如き顔は、すぐにまた笑顔に戻った。
「けれど、あんまりに手応えがなくて、拍子抜けしてね」
恵美子は不意に気がついた。
「どうやって入って来たの?」
「霊的には万全ですが、泥棒には駄目ですね。鍵は簡単に開きましたよ」
アナトールはあっさりと答えた。
「まあ」
先程の邪悪な気配が彼の送り込んだ物とわかっても、恵美子はどうも彼を悪く思う事が出来なかった。この神経質に見える細い体の少年の中には、悪意以上に何かがあった。悲しみなのか苦しみなのか。恵美子の目覚め始めた感性に、それはそこはかとなく伝わって来た。
「彼の大事な弟子をやっつけて、悲しませようと思ったけれど、どうやら僕の勘違いですね。門外漢を僕等の争いに巻き込んで、卑怯者のレッテルを貼られてもつまらないし。」


玄関の方で物音がした。セバスチャンが帰って来たのだ。彼は異変に気づいていた。奥にいるアナトールを見て険しい顔になった。アナトールは彼を見ても動じる気配はなかった。
「さすがは君のお弟子さんだね。身につけている物はすべて護符になっている。何気ない指輪もイヤリングもすべて・・」
「弟子じゃない」
アナトールは黒い瞳に皮肉の光を宿していた。セバスチャンの後ろに隠れる様に身を引いた恵美子の方を指差した。
「だけどみんな君の力を帯びている。ほら、あのペンダントも」
二人のやりとりを見ながら恵美子が無意識にいじっているのは、いぶし銀の鎖の先にトパーズを填め込んだメダイヨンが下がっている、古いが美しい物であった。
「最初は僕を守る為に彼女がいるのだと思っていた。だが僕の方が彼女を守る為にいるのだとわかってきたのさ」
「いいのかい、そんな事を僕に言って。僕を見捨てていった君を、まだ許していないかもしれないんだよ」
セバスチャンは答えなかった。
「あのペンダントの元の持ち主は僕等の先生だった人だと彼女は知っている?教えてはいないね。君は自分の事は何一つ、彼女には教えていないんだろうね」
セバスチャンはアナトールの黒く光る目を見据えた。彼の栗色の目の奥で怒りが燃えていた。見えない攻防がそこにあった。
「彼女に手を出すな」
「おやおや、恐いね。恋人・・じゃないね?でも、どうやら大切な人らしい」
アナトールは笑った。悪魔の笑いを。
「退散するよ、今日はね」

アナトールが出て行った後、セバスチャンはようやく表情を和らげて、恵美子を見た。
「怖い思いをさせてしまったようだね」
「いいえ、ごめんなさい。私が満足に何も出来ないから」
「いいんだ、そんな事は。彼の狙いは僕だから」
壁を守る役目にアナトールを選ばなかったのは、こうなると解っていたからだ。『奴等』に魅入られやすい、脆い心を持つ者だったから。今の彼は『奴等』の手先だ。この世界に干渉出来ない彼等に代わって、何かをする為に。アナトールは僕の手の内を知っている。
(僕のやり方が良くなかった。彼を悪い方へ行かせてしまった・・)
「識別は第一の美徳」であらねばならないのに。誤った選択がどこかでなされ、アナトールはセバスチャンの壁の向こうへ行ってしまった。

暗い部屋の中で、アナトールは身体を丸め毛布に包まっていた。先程の訪問の様子を記憶の中で振り返っていた。セバスチャン・・彼は僕の名前を呼ばなかった。僕はそれが聞きたかったのに。彼女の事なんて、本当はどうでもいいんだ。壁はすぐに壊れる。『奴等』がやって来る。この世界に不幸を運んでくる。それだってどうでも良い事だ。僕はずっと悲しくて、ずっと寂しいままだから。何も変わらない、変わることはない。僕の愛したもの、僕の守りたかったものがすべて消えてしまっても。遂に僕のものにならなかったものは消えてしまえばいい。僕にはみんな無いも同然なものなのだから。無くなってしまえばいいのだ、僕の目の前から。

誰か僕の名前を呼んで・・昔の彼のように。
優しいテノール、柔らかい響き。あの、独特の歌うようなアクセント。

アナトール・・・

誰か、誰か僕の名前を呼んで・・
壊れた魂の奥で、泣いている僕の為に。



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Last updated  2005/11/21 08:21:56 PM
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