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今年も無事に暮れようとしています。皆さま、一年間本当にお疲れさまでした。当ブログ管理責任者もライターも、おかげさまでどうにかこうにかここまで続けてこれました。ブログ立ち上げ時には張り切って更新して来た記事ですが、ここへ来て停滞ぎみです。理由をあげればキリはなく、まずは長く続けていくということはそういうことなのだとご理解いただければ幸いです。 それにしてもこの一年間、ストレスの多い毎日でした。そんなのは今年に限ったことではない、とおっしゃる方もたくさんおられるでしょう。私自身そうです。ストレスは昨年だって毎日感じ続けていましたから。ただ、人間という生きものは、直近のことに敏感になる動物なので、過去の記憶を塗り替えて今をかみしめてしまうものなのかもしれません。 最近、機会があって、心療内科医として一線で活躍されている海原純子医師の手記を読みました。それにはストレス時代を生きるための三つの方法が紹介されていました。ここにその三つの方法を引用させていただくことにします。 ・自分自身をストレスに対して強くしていく・仲間をつくっていく・自分の物の見方をもう一回点検していく いろんな解釈の仕方があるとは思いますが、難しく考えず、そのことばどおり実行していくのがベターだと思いました。 「ストレスに対して強く」するというのは、ストレスに弱い自分を受け入れ、気付くことで、落ち込んだ後の回復力を作っていくということ。「仲間をつくる」というのは、やたらだれかと群れるという意味ではなく、痛みや辛さを共有できる友だち、あるいはざっくばらんに話せる人をつくることでストレスを軽減させるというもの。「物の見方をもう一回点検」するというのは、自分なりの考えや思いを否定することではなく、頑なだった思考を今一度柔軟性を持って再構築してみるということ、、、なのでは? とにかくストレスは溜めないことです!!給料日後の週末に、お気に入りのカフェでコーヒーとケーキに舌鼓を打つのもいいし、気になっていた新作映画を見たり、コンサートに出かけるのもいいと思います。大切なのは、日々ストレスで痛めつけられている自分にやさしくしてあげることです。大人になったら誰も褒めてはくれません。せめて自分だけでも頑張っている自分にご褒美をあげたいものです。 本年も吟遊映人のブログをご愛読いただきまして、本当にありがとうございます。今後も急がず、焦らず、自分の速度で一歩一歩あゆんで行きたいと思います。どうか皆さま、良いお年をお迎えください。皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
2016.12.30

【島本理生/ナラタージュ】湧き上がる哀しみを追い越してさらに強い快感をもたらす今年はあまり映画も見なかったし、読書もいま一つだった。年の瀬は社会派ミステリーとか、ギトギトした人間ドラマには触手が動かない。何かどっぷりと浸ることのできる恋愛小説でも読みたいと思って本屋さんに出向いたら、島本理生の小説に目がとまった。この作家の作品はまだ読んだことがなかったので、半分は興味本位でもあった。帯のキャッチコピーが衝撃的で、ちょっと生唾を呑み込みたくなるような文だった。 「お願いだから私を壊して、帰れないところまで連れていって見捨てて」 一体どんな過激な恋愛が展開するのだろうかと期待も込めて、結局、購入を決めた。 一読する前に『ナラタージュ』についてその意味を調べてみた。「映画などで主人公に過去のことを物語らせながら場面をそれに合わせるという手法」 ※三省堂 新明解国語辞典より引用ふむふむと納得しつつ、読み進めた。 著者の島本理生は、立教大学文学部を中退している。十代のころよりその才能を開花させ、さまざまな作品で頭角をあらわしている。代表作に『リトル・バイ・リトル』などがある。『ナラタージュ』は、「この恋愛小説がすごい!2006年版」にて第一位を獲得しており、新人ながらベストセラーをたたき出した。 あらすじは次のとおり。大学1年生の工藤泉は、高校時代より、演劇部の顧問をしていた葉山先生のことをずっと慕い続けていた。あるとき、ケータイに葉山先生から連絡があり、卒業生にも部活の助っ人として参加して欲しいという要望があった。泉の他にも同級生で元部長をやっていた黒川、そして志緒にも声がかけられた。こうして泉は、淡くせつない想いを封印するつもりでいたにもかかわらず、再び葉山先生と顔を合わせることになった。泉にとって葉山先生は特別な存在だった。高校時代、いわれのない理由でいじめを受け、死にたいとまで思った泉を全力で救ったのが葉山先生だった。そしてまた、葉山先生にとっても唯一泉だけが弱みを見せ、信用し、無防備に自分をさらけ出してくれる存在であり、お互いがお互いを必要としていたのだ。だが、どれほど泉が葉山先生に好意を寄せようとも、それは叶わぬ恋だった。葉山先生には妻がいた。わけがあって別居はしていたが、離婚する気はなかった。だが心の底ではだれよりも泉を欲していた。泉も葉山先生を忘れたくて必死にもがいていた。自分を好きになってくれた同い年の小野と付き合うことにして、体も重ねてみたものの、やはり葉山先生を忘れることなどできなかったのである。 この作品を、当時20か21歳だった島本理生が書いたとはにわかに信じられない気持ちだ。というのも、作風が大人びていて、冷静で、それなのに若さゆえのイライラ感やら焦りなどが見事に表現されているからだ。世間には教師と生徒との恋を扱った作品はあまたあるけれど、この小説はちょっとそういう路線とは違う。やさしさゆえにズルイ教師と一途な女子大生が、どうしようもない恋愛をして、未来のない恋に絶望しつつも、あきらめるよう努力するという作品なのだ。愛した人をずっと胸の奥底に秘めて生きていくという悲恋だが、恋愛をめんどうくさがる最近の若い人なら、かえって興味をそそられるに違いない。小説の世界だからこそのドラマは、架空のこととはいえ、一時のメリハリを提供してくれる。もう私ぐらいの年齢になると、あまりに繊細でキレイ過ぎて、内容よりも文章テクニックの凄さの方が気になってしまう。体を重ねるシーンを描いた場面だけは、その当時、著者が実際に体験済みだったか、あるいはまだ乙女で空想をもとに表現したのか、微妙なタッチに思われた。(私はどうも後者のような気がしてならないが・・・) クリスマスを一人で過ごす人に読んでもらいたい小説だ。 『ナラタージュ』島本理生・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.25

【宮本輝/錦繍】元夫婦が年を経てお互いの生き様を認め合うプロセス私は幼いころより手紙を書くのが大好きだった。学生時代には、雑誌の文通コーナーで知り合った相手と長らく文通もしていた。今思えば内容なんてつまらないものだ。ひいきにしているミュージシャンの話とか、映画の批評とか、くだらない芸能情報などをつらつらと飽きもせず書いていたに過ぎない。あのころはパソコンもスマホもない時代なので、友だちと連絡を取る手段といえば、自宅の固定電話の他に、交換日記をしたり、手紙のやりとりをすることであり、それは決して珍しいことではなかった。大人になってからも、私は文通を続けていた。四十代も半ばになった今となっては、さすがにそれも叶わなくなってしまったが、、、 宮本輝の『錦繍』は、元夫婦だった男女が、年を経て偶然出くわし、手紙のやりとりが始まるという書簡体の体裁を取る小説である。リアルの世界ではここまで細かくはつづらないであろうと思われる内容も、手紙という形で表現されている。読んでいるうちに「これはもしや復縁する展開か?」と推理するのだが、見事にはずれた。ラストはハッピーエンドではない。宮本輝がこの小説で一体何を表現したかったのか?私は私なりに考えてみたが、いつものようにしたり顔では言えないのが残念。 話の流れは次のとおり。亜紀は、脳性麻痺の8歳の息子をつれて、蔵王に旅行に出かけたところ、元夫である靖明とばったり出くわす。それは十数年ぶりの再会で、あまりにも偶然で意外すぎて、お互いろくに会話することもなく別れる。亜紀はすでに再婚し、一児をもうけながらも、靖明のことが忘れられず、人づてに住所を聞き、長い手紙を出すことにした。二人の離婚の原因は、靖明の浮気と心中騒ぎであった。靖明は、中学2年のときから想いを寄せていた女とねんごろな関係になったところ、女はだんだん靖明に本気になっていった。一方、靖明の方は女を愛する気持ちに変わりはないが、家庭を壊す気はなく、不倫関係を続けていく気でいた。そんなある日、二人はいつもの逢引き宿で逢瀬を楽しんだあと、女が寝ている靖明に斬りつけ、女自身も自らを突き刺し、自殺するのだった。このとき女は死に、靖明は一命を取り留めた。結局、そのことが原因で亜紀と靖明は別れることになった。亜紀は、靖明への未練からなかなか立ち直れないでいたが、父の勧めもあり、大学の助教授をしている男と再婚することとなった。そしてその男との間にできたのが脳性麻痺の息子・清高であった。一方、靖明にも長らく同棲している女がいた。地味だが愛嬌があり、ろくに働かない靖明によく尽す女であった。靖明は亜紀から届く長い手紙を読んで、自分の心境を語ることにした。その返事もまた長いものとなるのだった。 作中、靖明が中学2年生のとき両親を亡くしたことで、舞鶴に住む親戚に引き取られる場面が出て来る。この舞鶴という地は、京都の北端にあり、日本海に面した町なのだが、驚くほど的を射た表現である。 「初めて東舞鶴の駅に降り立った際の、心が縮んでいくような烈しい寂寥感です。東舞鶴は、私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした」 私はこの舞鶴にほんの数カ月もの間、住んでいたことがある。あのときの私の気持ちを代弁するかのような表現で、たまらなくなって泣きそうになった。三島由紀夫の『金閣寺』にも東舞鶴の場面が出て来るが、太平洋側に住む者にとって、ちょっと形容しがたい物哀しさを感じるのである。 『錦繍』を読むと、どんな辛い目にあおうとも、生きていることが重要なのだと気づかせてくれる。ある意味、死ぬことも生きることも大差ないのだとも言える。ただ、人間はつまらないことで道を踏み外すけれども、なんとかなるものだと思わせるくだりもあり、勇気づけられる。過去を振り返ってばかりでは前に進めない。今を大事にし、未来への一歩を踏み出すことの大切さを教えてくれる。・・・これは当たり障りのない大雑把な感想だが、本当はもっと違うところに意味があるのかもしれない。読者を選ぶ小説である。 『錦繍』宮本輝・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.17

【たまゆら/あさのあつこ】父を殺めて山に消えた男を追う、女の情念久方ぶりのブログ更新である。最近は読書から離れていたし、映画に触れることもなかった。朝起きて仕事に出かけ、帰宅したら息つく間もなく夕飯の仕度をし、お風呂に浸かって倒れ込むように寝る。きっと多くの人々がそういう追われた生活に半ば慣れ、半ば疲れ、あきらめているのだろう。 先日、書店に足を運んだ。少し行かないうちに、売れている本がガラリと変わった。ついこないだまで『火花』が売り切れていた。あるいは東野圭吾の本が山積みされていた。今回はいろんなジャンルの本が目に飛び込んで来て、あまり印象に残らなかった。本とは関係なく、来年の手帳が所狭しと並んでいるのに驚いた。そうか、もうそんな季節なのかと、しみじみ感じた。 そんな中、あさのあつこの『たまゆら』を読んだ。あさのあつこは岡山県出身で、青山学院大学文学部卒。代表作に『バッテリー』などがある。ヤング向けの小説家というイメージがあったのだが、『たまゆら』を読むと、そうでもなさそうだ。たまゆらというのは古いことばで、万葉集などに使われている音の形容を表すらしいのだが、この小説では犬の名前として扱われている。 カテゴリとしては恋愛小説とか、ファンタジー小説の部類に入るかもしれないが、私個人的には岩井志麻子の影響を受けているのでは?と思った。岩井志麻子も同じ岡山県出身の作家で、ホラー小説を書かせたらピカイチなのだが、岡山弁でけだるく語りかける文体がおどろおどろしい。あさのあつこもそれを意識してなのか、作中、岡山弁を駆使している。平成のことでありながら昭和を舞台にしているようにも思われ、何やら異次元の物語かと錯覚してしまう。 あらすじは次のとおり。すでに老境に入った日名子は、愛する伊久男とともに暮らしている。花粧山という山と、人の世との境界にもう何年も住んでいる。そこは臨界である。そこで人の世が終わる。そこから山が始まる。日名子と伊久男の住む家に立ち寄り、そのまま山へ入って二度とは帰らぬ者もいれば、数日して引き返して来る者もいる。ある雪の日。18歳の真帆子が訪れた。これから山に分け入るとのこと。真帆子は身を焦がすほどに惚れた陽介を追って、ここまでやって来た。だが、真帆子と陽介に肉体関係はない。真帆子は友達の紹介で初めて男を知った。だが、少しも感じることはなく、むしろ虚しさだけが残った。男を入れるため、食べ物を入れるため、二つの穴がついているだけの生き物なのではと、自分を恥じた。あるとき、陽介が事件を起こした。父親を殺してしまったのだ。愛しい男が犯した罪の深さを真帆子もそれなりに理解した。だがそれ以上に真帆子は欲した。陽介以外に欲しいものなど一つもなかった。陽介はブログに花粧山へ行くと残していなくなった。真帆子は身一つで陽介を追って行くのだった。 恋愛というものに、さほど幻想を抱かなくなった私には、リアリティ不足にも思えた。だが、十代二十代の若い人たちが読んだら、もっと違う感想になるだろう。これを「本気の恋」と言うのなら、ある種の信仰に近いものがある。(宗教といってもさしつかえない。)「山」という場所を神聖な域としてとらえ、癒しなど微塵もないと表現していることに、なるほどと思った。 「行の道は死と隣り合わせ。生より死が満ちている。覚悟もないまま、踏み込んではならない」 あさのあつこが表現する世界は、実はシンプルである。何やら複雑な異界を思わせるシーンが出て来るが、おそらくイメージの世界だと思う。青春小説から一歩離れたところにある恋愛小説なので、幅広い年齢層に支持されそうだ。島清恋愛文学賞受賞作品である。 『たまゆら』あさのあつこ・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.10
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