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ルースターズってバンド、ご存知ですか?80年代の日本のロックバンドなんですけど。とっくに活動してないんですけど。好きなんですよ、私。今まで、特にファンと自覚したことってないのですが、よくよく過去を振り返ってみると、それはもう、しょっちゅう聴いてるんですよ。80年代から今に至るまで。ロックのバンドでは、一番たくさん聴いてるかもってくらい。ルースターズは、なんだかね、聴いてて、すっごく、気持ちいいんですよ。好きなタイプのロックっていうかね。どの曲聴いても、あーかっこいいなあ・・・って感じでね。飽きないんですよ。世の中の人みんなにオススメしたいバンドです、ほんと。今日の一曲『FOOL FOR YOU』ルースターズ
2003年02月28日
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ナンバー1になりたいよ、私は(笑)SMAPの歌を聞くたび、思う。小学校の頃、なんでもナンバー1っていうのを、みんなで決めたことがあった。「算数ができる人」とか「ドッヂボールがうまい人」「プラモデルがうまい人」「おもしろい人」「優しい人」「がんばりやさん」などなど。たくさんの数のいろんな種類のナンバー1。クラスの全員が、なんらかのナンバー1になっていた。(きっと先生が操作していたんだろう)私は「教科書を読むのがうまい人」のナンバー1だった。今、思えば、ぱっとしないナンバー1だったけど、その時は、嬉しかった。自信がついたし、もっと上手になりたいなって思った。そんなふうに、どんなことでもいいから、なにかナンバー1を持てるのって素敵なことだと思う。「みんな平等」が行き過ぎちゃうと、(SMAPの歌はそういう意味じゃないけど)そういうことまでなくなってしまいそうで、ちょっとつまらない感じがしてしまう。ナンバー1の椅子が、たくさんあれば、「みんな平等」で「みんな(違うことでの)ナンバー1」ってふうに、なるんだもの。ケチケチしないで、ナンバー1の椅子を、いっぱい用意すればいいと思うの、みんなして。
2003年02月27日
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会話の中で、「私、バカだからー」などと自虐的な言葉を連発されると、耳ざわりだなあと思ってしまう。「いやいや、そんなことないよ」と、いちいち答えるのも面倒なので、試しに「ほんとだね」とかって言ってみると、ムッとされたりして。「私、バカだからー」の、中途半端に開き直った感じが、どうもいやだ。どうせなら「バカで悪いか」「バカ万歳」くらいまで、開き直ってくれてれば、聞いてて気持ちがいいのに。私は人間誰でもバカな部分を持ってると思っている。完全なバカなんかいないし、少しもバカじゃない人もいない。つまりは、みんなある意味バカなんだから、みずから改めて強調しなくたっていいのに。正直、「私って、バカだからー」を連発されると、私は「だから、なんなのさ」と思ってしまう。だから、なんだっていうのさーっ
2003年02月26日
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見ましたか、マイケル。私は最初、「今のマイケルの顔」が見たくてチャンネルを合わせたのだけど、番組が流れていくにつれて、だんだんと、せつなくなってしまいました。洋楽にあまり興味がない私は、これまで特にマイケルに対して思い入れを持ったことはなくて、サルのバブルスくんの方がよっぽど気になる存在で、だから過去のマイケルのインタビューなんかも、ほとんど見たことがないのだけど、昨日の番組を見た限りでは、「ナイーブで優しい人」って感じがしました。いや、正確には、「ナイーブで優しすぎて、壊れかけてる人」なんかねえ、あまりにも痛々しくて、見てはいけないものを見ている気がして来ちゃいました。噂の、子どもに対する性的虐待があるのかないのかわからないのだけど、私には、マイケルは、そういう意味の暴力的な部分はないように見えたなあ。ほんとに「ただ一緒に寝てるだけ」なんじゃ?わかんないんだけど。正直なところ、私が、マイケルに関して、もっとも気になっていたことは、なんで白くなったの?どうやったの?ってことだったんだけど(笑)この際、そんなことはどうでもよくなりました。あんなに、痛々しい姿を見ちゃったらね・・・。ナイーブで優しすぎるから、壊れちゃったマイケル。という感想を言ってたら、彼が言いました。「おまえはほんとに騙されやすい奴だよ・・・」そ、そうかな。 今日の一曲『スリラー』M・ジャクソン
2003年02月25日
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マウスが壊れてしまいました。すっごくやりにくいです。それでも今は、面倒ながらもなんとか使えてるけど、近いうちに本格的にダメになってしまいそう。なので、先に、宣言しておくことにしました。いきなり、私、しばらく休むことになるかもしれませんが、そうなったなら、マウスのせいだと思ってください(笑)近いうちに新しいマウスを買って来なくちゃ。どうせなら可愛いマウスにしたいなあ。
2003年02月24日
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親しい人に自殺されたなら、私は裏切られた気持ちになってしまうだろう。その人にどんな理由があったにせよ、みずから私と付き合うことを断ち切ってしまったわけだから。冷たいと思われるかもしれないけれど、私も自分の心からその人の存在を断ち切ってしまいたいって、気持ちになる。正直に言えば、死ぬ権利ってあると思っている。親や先祖が繋いできた命を切ってしまうことの罪はあるけれど、生きることでの苦しみを親や先祖が肩代わりしてくれるわけじゃない。たいていの宗教では、自殺は悪いこととされているけれど、宗教なんてものはそれを信じていない人にとっては、なんの制約にもならない。私は自殺することはみずから運命に負けを認めることだと思うし、自殺って自分を殺すってこと、一種の殺人とも思う。それに、生きていればいいことがあるっていうのは真実だと思っている。だけど、それが、誰にでもあてはまる考えと言うつもりはない。なので、保護しなくてはならない存在がいる時や、やらなくてはならない仕事がある時に、それを投げ出すことは無責任なことだけれども、そうでない状況ならば(そうでない状況ってあんまりないけど)死ぬことを選ぶのは、本人の自由だと思う。本人の自由。私は自殺という行為を否定はしない。自殺が善か悪かの問題じゃなくて、自分とその人の関係を勝手に終わらせられてしまったことが、いきなりいなくなってしまったことが、私には大問題。もう会えないことに、悲しくなる。裏切られたな、と感じて、傷つく。頭に来る。病気を苦にしての自殺だったらともかくとして、それ以外の理由なら、「いい人だった」なんて言うもんか。お墓にだって行きたくない。もし遺書があったとしても読みたくない。勝手に死にやがってバカヤローだ。死ぬ権利はあると思う。だけど、自殺をするってことは、のこされた人をそういう気持ちにさせるってことなのだ。そして、誰にでも、そういう気持ちにさせてしまう存在はいるんだよ。
2003年02月23日
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私はどんなに落ち込んでても、しっかりご飯を食べる。空腹に耐えられないの(笑)で、そんな時、「心がどんな状態でも、体は生きる意欲満々なんだなー」って不思議な気分になる。体さんてば立派な心がけだねえ、と思う。中学生の頃、母から、「せっかく産んでやったのに。 あーあ、産まなきゃ良かった」というようなことを言われて、「産んでくれって頼んだわけじゃないよ」と答えて、こっぴどく叱られたことがあった。今、思い出しても、自分より母の方が失言なんじゃ?って気がするのだけど、その時もそう思ったので、とても頭に来た。だけど、大人になるにつれて、あることに気がついた。自分は、何億もの仲間たちを蹴落として、卵子にたどりついたわけなのよね。その当時はまだ精子(笑)だったんだけど。とにかく、みずから、生まれる権利を勝ち取ったわけだ、私は。母が「産む、産まない」を決める以前に、生きる意欲満々の一匹の精子だった私。それを思うと、かつて私が言ったあの売り言葉に買い言葉の台詞はともかく、「好きで生まれて来たわけじゃない」って言葉は、ちょっと違うんじゃないかなって気がしてしまう。心がいつから体に入るのかはわからない。でも、とりあえず、今、私の心が入っているこの体は、細胞レベルの頃に、生まれることを望んだのだ。体はそんな頃から、生きる意欲に満ちていた。生まれてからも、生きる意欲に満ちている。ケガしても病気になっても、白血球を動員したりしてせっせと死なないよう活動してるし、落ち込んでてもおなかがすくし。ほんとにもう、どんな時でも驚くほど生きることに前向きな体さんなのだ。好きで生まれて来たわけじゃないって台詞。口に出したことはないけど、考えたことなら何度もある。考えてしまうことはどうしようもない。だから、考えてしまう自分をことさらに責めたりしないけど、でも、この体は、好きで生まれて来たわけだから、私の心はこの体を住処としているわけなんだから、「どうして私を産んだのさ。産んで欲しくなかったのに」と親を責めてしまうのは、間違っていると思うわけなんです。
2003年02月22日
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「私はどんどん人を褒めるんだ」って言ってる人がいた。私はつねづね、わざとけなしあうコミュニケーションも面白いんだけど、そればっかりになっちゃってる人って多いかも・・・そればっかりじゃ寂しいなーいいなと思う時は素直にほめたりしあえる関係がいいよねーというふうなことを考えてたので、同じ考え方の人と出会えて嬉しいことよ、と思った。だけど、よくよく話を聞いてみると、全然、違ってたのだった。「服とか髪型とか、なんでもね、 内心、なんだそれ?と思っても褒めちゃうの、私。 それで相手がいい気持ちになるなら安いもんじゃない?」モヤモヤモヤ・・・。そういえばこの人、私のこともいろいろ褒めてくれたっけ。あれも、そういうことだったのかなあー?と、疑惑が生じてしまい、その後、彼女に褒められても、素直に喜べなくなってしまった。そんなわけで、なんとなく疎遠になって行った。いいねと思ったら、素直にいいねって言いたい。でも、いいねと思わないのに、いいねなんて言わない。私は、素直な気持ちで、人と付き合いたいし、相手にもそうして欲しい。だから、「なんでもいいから褒めておけばいいんだよ」なんてふうな人とは、ソリが合わないや。誰だって、いいとこ、持ってるんだからさ。心にもないお世辞なんか使わなくたって、いいね、素敵だねって言葉は使えるはずだよね。彼女みたいな考え方の人も、世の中には少なくないとは思うんだ。そうして、別に、悪くはない気がする。ギスギスした人間関係よりは、多少の嘘があってもいい雰囲気の方がいいものね。私は、人間関係には、個と個のつながりを求めてて、どうでもいい付き合いなら別になくてもいいんだよね的な部分があるので、嘘ついてまでっていうのはやだねって思うけど、たくさんの人と和やかに付き合っていきたいっていうことを、一番に求めているのだとするなら、彼女みたいなやりかたも「あり」でしょ?だから、彼女を否定するつもりはないんだけど、ただ・・・人に言っちゃいけないね。「なんでもいいから褒めておけば、 相手はいい気持ちになるんだから」なんてさ(笑)ある意味、とても正直な人だったのかもしれない。
2003年02月21日
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日本はアメリカに逆らえない。日本の安全を守るためには、アメリカにくっついてるしかないから。アメリカの保護がなくなれば、日本は丸腰状態。特に今は、北朝鮮問題が深刻なわけだし。小泉総理がイラク問題でアメリカに意見しないことの背景には、そういう事情がある。意見しないのではなく、意見できない。私はアラブ諸国に対するアメリカの態度は傲慢だと思っているし、イラクの脅威というより石油狙いでしょ?と疑っている。それでなくても、物事を武力で解決しようとするのはやめてよ、とも思っている。戦争反対。大反対だ。これは大声で言える。でもね、「ちょっと小泉さん、日本は戦争反対って立場を明確にしてよ」と大声で言う気にはなれないのさ。もし明確にしたら、日本はどうなる?って考えちゃうから。自分でもずるいと思う。自分さえよければ他人はどうなってもいいのか、ってことだから。これって。だけど、正直なところ、見知らぬイラクの人々と、自分や自分の親しい人の命を天秤にかければ、大切なのは親しい人の命の方なのだ。それをごまかして、きれいなことを言う気にはなれない。というわけで、私は、ここ数日、この話題が気になっていながらも日記に書くのを躊躇していた。でも、答を出せずにいるということも、一つの意見かもしれないなと思ってね。日本のアメリカへの態度を怒っている人は、国がはっきりと「反米的な意見」を打ち出したのち、日本が置かれる状況に対する覚悟ができているんだろうか。私はそれを知りたいと思ったんだ。そして、もうひとつ、前から思っていたのだけれど、日本が武器や軍隊を持つことに反対し、自衛隊の存在すらも反対し、そのうえアメリカとの関係にも反対している類の平和主義者たちは、それ全部実現したのち、もし日本が他国に攻められたならどうするつもりなんだろう。おとなしく死ぬ覚悟なんだろうか。平和への意思をまっとうする意味で、黙ってやられるつもりなんだろうか。私はそんなのはいやだ。日本をアメリカに対してきちんと意見を言える国にしたいなら、アメリカなしでも平和を維持できる国に変わらなければいけない。このまま自国の手は汚さずに平和を維持したいのなら、情けないけどアメリカについて行くしかない。いいとこどりってわけには行かない。理想はとても大切なことだけれども、理想ばかりでは、守れない。国も大切な人たちも。
2003年02月20日
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忙しくないと余計なことばかり考えて、考えなければ気がつかなかったようなことが気になりだして、憂鬱な気分に落ち込んでしまったりする。なので、忙しい方が、気持ち的には楽。だけど、忙しすぎると、考えなくちゃいけないことまでどうでもよくなったりする。「あとで」って先延ばしにし続けて、はっと気づいた時には手遅れ、とかね。ほどほどの忙しさが理想だなあ。でも、ほどほどの状態って、なかなかないものだよね。うまくいかないもんだなあ。なにごとも、ちょうどいい感じって、なかなかないね。
2003年02月19日
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新しい職場で働き始めた。教えてくれるのは、とても親切な人。失敗してもイヤな顔せず、いいよいいよ、気にしないでね、と微笑んでくれる。「できなくて当たり前だから」難しい要求もない。「いいよ、いいよ、私がするから」「どうせわかんないでしょ?気にしないでまかせて」いい人だなあと思う。でも、なんとなく面白くない。すごく不愉快なわけじゃないし、その人に腹が立つってことでもなくて、胸の奥に小さな黒雲が浮かんでるって感じなんだけど。親切にされて面白くないなんて、私ってイヤな性格だなあと思うし、なんでだろう?って不思議にもなった。で、思い出した。ちょっと前の自分のこと。そこでは私が先輩格で、今のその人のように教える立場だった。自分で言うのもなんだけど私は親切な先輩だった。まるで、今、私に教えてくれている人のように、新しい人に接していた。別に心根が優しいからじゃなくて、そうすべきだと思っていたからなんだけど。その人の分もやってあげたり、失敗してても「いいよ、気にしないでね」って明るく微笑んで見せたり。言ってる言葉まで、ああ、ほんと、同じだ。今、親切にされる立場になって、なんとなく面白くないのは、あの頃の私の中に、ほんとは、相手を少し見下す気持ちと、私はこんなにできるんだよ、と、ひけらかしたいような気持ちがあったからなんだと思う。今、その人がそんなふうに思っているかどうかはわからない。まるで自分を見てるような気がするくらい、言動が似てるので、そういう部分がいくらかはあると思うけど、もしかしたら、本当にいい人なのかも。とにかく、私は、自分がそうだったから、なんだかバカにされてるような気分になってしまったんだと思う。バカにしないでよ。できないって決め付けないでよ、みたいなさ。あー性格悪いな(笑)できないくせに何言ってるんだ。ほんと、自己嫌悪だ。過去の自分への自己嫌悪も感じてしまう。この自己嫌悪から脱出するには、仕事ができるようになるしかない気がする。なので、頑張る。きっと、私は、以前、誰かをイヤな気分にさせてたんだろうなあ。親切だったり寛容だったりするのはいいことなんだけど、相手のプライドを傷つけるような部分が、あったんだろうなあと思ってさ、反省。気がついただけでも良かった良かった。今度、先輩になる日が来たら、「どうせわかんないだろうから、やってあげる」じゃなくて、「説明するから覚えてね」で行こう。
2003年02月18日
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本屋さんに行く度、気になる存在。それは柳美里の小説本『石に泳ぐ魚』これって例の裁判で、出版差し止めだった筈じゃないのか・・・?どうして売ってるんだろう。私はもともと柳美里の作品が好きじゃなかった。こういう考え方にはなじめないと思ったし、単純に、つまらなかったからだ。とは言え、こういうのは個人の好みの問題なので、私はイヤだけど好きな人もいるんだろうからいいんじゃない?と、他の好みじゃない作品に対するのと同じ程度の気持ちでいた。でも。彼女が作品以外の媒体で発言するようになってから、いいんじゃない?が、何様だ、柳美里!に変化したのさ。はっきり言ってしまえば、嫌いだ。柳美里は、自分の人生は文学のためにあると言い、自分と自分をとりまく人々とのことを、赤裸々な私小説として発表することで知られている。ご存知ない方のために説明すると、例の裁判とは、『石に泳ぐ魚』という作品において、事前に何の相談もなく、勝手にモデルにされた、柳美里のかつての友人が、プライバシー侵害で訴えたというもの。出身大学、家族構成などのプロフィールをありのままに、それでもって、こっちの方が重要なのだけど、「顔に腫瘍がある」こともありのままに書かれている。でも、ここまでなら、もしかすると、その友人は訴えなかったかもしれない。柳美里の描写が、友人に対する温かみのかけらもなく、侮蔑的、グロテスクな書き方であったということが、なおさら彼女を傷つけ、怒らせたのだと思う。大体、許可なく、書いたわけだし。そんなわけで、原告側の訴えは、「プライバシー侵害」それを受けて、柳美里は、「原告は顔を隠すことなく生活していた。 隠してないんだからプライバシーの侵害にはあたらない」というようなことを言い、敗訴の際には、「これは作家個人の問題を超え、 日本における文芸作品の可能性はもとより、 表現の自由を著しく侵害するもの」と発言した。私はそれを聞いて「は?」と思った。作家個人の問題を超えてない、超えてない。日本における文芸作品の可能性とか、表現の自由とか、以前の問題でしょ、今回の裁判って。柳美里、とんちんかん過ぎる。さらに言わせてもらえば、私は、彼女が「文学」を権威的なものとして位置付けつつ、自分の作品を「文学」と呼ぶのを聞くにつけ、あんたが書いてるのはそれほどのものか?という気持ちになる。私はそもそも文学に権威があるなんて思っていない。だから、どんなに優れた大作家だとしても、文学を権威的なものとして位置付けてるような発言をしたら、白けた気分になってしまう。なので、それは文学なのかね?と言いたくなるような作品を書いてる柳美里が、そんなこと言ったら、ほんと、あんた何様?って感じになっちゃうのだ。一応、書いておきますが、読んでないのに文句言うわけに行かないので、ちゃんと目を通しています、柳美里作品。全部じゃないけど。私は柳美里が書くものをダメだと言うつもりはないです。好みじゃないのは確かだけど、だからってダメだなんて決めつけるつもりはないからね。ただね、文学って言われると、違和感感じちゃうんだよね。芥川賞作家に向かって失礼だけどさ。まあ、みんなで「柳美里嫌いだ運動をしよう」って持ちかけてるわけじゃないし、柳美里ファンにどうこう言うつもりもないので、一個人のボヤキ程度に読み流してくださいね。
2003年02月17日
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「せっかくだから」「どうせだったら」という言葉をよく使う。口に出さなくても何かと頭の中にその言葉がよぎる。貧乏性なのかも。生きてること自体、せっかく生きてるんだから、どうせだったらいっぱい楽しい気持ちを味わいたい、って感じ。なんでもかんでも、そういう感じ。せっかく仲良くなったんだから、どうせだったらもっともっと楽しく付き合いたい。せっかく旅行に来たんだから、どうせだったらあれもこれも見ておきたい。せっかく大人になったんだから、どうせだったら子どもの気持ちも持ってる大人になりたい。せっかくが抜けることもある。望んだわけじゃないけど生まれて来ちゃったんだから、どうせだったらとことん生きて、思う存分幸せにならなくちゃ。望んだわけじゃないけど女なんだから、どうせだったら女だからこその楽しみも特権も、めいっぱい享受しなくっちゃ。望んだわけじゃないけどチビなんだから、どうせだったらチビをチャームポイントにしてしまえ。みたいな感じでさ。どうしようもないことってある。でもどうしようもないと嘆いているより、どうしようもないなりに楽しくした方がお得な感じ。貧乏性だな、やっぱり。でも、自分のこういう所は、結構好きなの。
2003年02月16日
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教習所の先生がこんなことを言っていた。「恋人でも夫婦でも、 心のバイオリズムがあってるっていうのが、 長続きする組み合わせだよ」価値観が一緒とか、趣味が同じとか、それよりなにより、心のバイオリズム。私の親と同年輩のその先生が、長い結婚生活を経て悟ったことは、それだったらしい。片方が寂しい気分の時、相手も寂しい気分。お互い寂しい気分、だからお互い「一緒にいたい」気分。片方がそうでもない時、相手もそうでもない。お互いそうでもない気分。だからお互い、相手が自分以外のことにかまけてても平気。片方が「抱きしめたいな」って時に、相手もそんな気分。だからどっちかがイヤがることなく、いちゃいちゃしてお互い幸せな気分。と、まあ、こういうことだ。「そんなの一致するわけないですよー」と言うと、「いやいや、うちは一致してるよ。はっはっは」と笑っていた。というわけで、おのろけですか先生って感じだったのだけど、その言葉だけはなんとなく心に残ってて、時々ふっと思い出していたのだけど、何回か目に思い出した時から、先生の言ってたのって、何かが起きたことによって心が揺れ動くっていうのは抜きの、「なんとなく寂しい」とかって感じの、自分でもどうしてかよくわかんないような、特に理由もないのに揺れ動く心のバイオリズムだったんだろうなあ、と思うようになった。そういえば、先生は、体と同じで心のバイオリズムも周期的なものなのだと、バイオリズム専門家でもないのに、断言していた。きっと自分なりに研究したんだろう。素人研究家の見立てが正しいかどうかはなんとも言えないけれど、ありえない話でもない気がする。そうして、もしそうなのだとしたら、確かにそれが合う組み合わせが最高の組み合わせだろうなと思う。気持ちが元気な時はたいていのことが気にならないものだし、気持ちが下降気味の時は些細なことにも敏感になる。この敏感な時期に相手が飄々とデリカシーのないことを言うと、大喧嘩になったりするわけだ。しかも、相手はこんなことで何故相手がそんなに傷つくのかわからないので、「まあいいや」と放っておかれちゃったりするわけで、挙句、ますますひどいことになるんだわ。私と彼の心のバイオリズムはどうだろう。そんなに一致していないような気がするぞ。退屈しないから、ま、いいか。
2003年02月15日
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私は不器用な女だ。編み物、縫い物、ダメダメダメ。やってやれないこともないけれど、そもそも興味がないので、やりたいと思わない。その流れで、お菓子作りなんてものにも、まったく関心がなく、中学生になっても、クッキーひとつ焼いたことがなかった。料理はね、結構できるんですよ。「男の料理」みたいに大雑把だけどさ。で、中学生時代、付き合っていた男の子とはじめてのバレンタイン。「俺、手作りに憧れてるんだよね」と言われた。渋い顔をする私に、彼は、「いいよね?手作りチョコレート」と、にっこり。そのうえ、「ついでになんか編んでくれたらもっと嬉しいな」・・・手袋は、初心者にはとても難しかった。ぼっこ手袋というやつにすればそんなでもなかったんだけど、当時の私は「男たるもの、ぼっこはいけない」と思い込んでいたのさ。今なら、可愛いんじゃない?って思うんだけど。マフラーを編むには時間が足りなかった。セーター?冗談じゃない。手袋やマフラーで無理なのに、できるわけない。なので、悩んだ末、靴下にした。思いついてみると、靴下ってありきたりじゃなくていいじゃない?と、我ながら良い選択だと思ったし。そして、せっせと、編み物編み物。はっきり言って苦痛以外の何者でもなかったけれど、せっかく彼が欲しがっているのだ。しかも「下手でもいいよ、 苦手なことをやってくれるってことが感激なんだよ」とかなんとか言ってるのだ。感激させたいじゃないか。けれど、気持ちに技術がついていかない。さっぱりできやしない。編み物が得意の友達と母親に教えてもらいながらやったのだけど、あまりに飲み込みが悪いので、2人ともイライラして、「いいから、貸しな。やってやるっ」と怒り出す始末。それでもなんとかバレンタインに間に合わせ(死ぬかと思った)そこで、はっと気づいた。チョコのこと忘れてた!!こっちも手作りだ。Oh,No!!だ。慌てて手作りチョコに挑戦するという友達に、「ねえ、一緒に作ろうよー」と甘えて、なんとか解決。チョコなんか作ったことがない私たちは、「溶かしてかためるもんだ」ということを知らず、勘で作った。いや、溶かしてかためればいいってことは、考えついたのだ。でも、手作りチョコなのに、そんな簡単でいいのか?良くないだろう、という結論になり、お菓子専門店で買った、やけにかたくて、しかも値段の高いチョコレートの塊を、(安くてそんなにかたくない板チョコでもいいのに)ガリゴリガリゴリ削って削って削りまくり(ミリ単位。でもそこまでしなくてもできます)ちゃんと湯せんにかけて溶かして(レンジでやると簡単。タイミングがポイントだけど)そこにグラニュー糖をぶちこんで、かきまぜて、用意していた可愛いアルミカップに入れて、その上にこれまたお菓子専門店で買って来たトッピング類で、飾りつけたのだった。で、もう一種類、さらに頑張ってトリュフを作った。チョコ(グラニュー糖は入れない)に、生クリームとラム種を入れて丸めて、固まったら、まわりにチョココーティングして、フォークでつんつんさせるってやつね。削り作業で疲れた私たちは、「おなかすいた」と思わずトリュフをつまみ食い。それがもうやたらめったらおいしくて、おかげで、あげられる分はちょっぴりになっちゃったんだけど。そんなわけで、バレンタイン・デー。彼はとっても感激してくれて、苦労した甲斐があったよ、と私も感激。ついでに友達も、「ほとんど自分があげたような気持ちだよ」と感激。数日後、彼にチョコの感想を聞いてみた。「すっごくおいしかったよ、あのつんつんしたやつ」「それトリュフっていうんだよ。 うんうん、あれはおいしかったよねえ。で、もう一つのは?」「・・・不思議な食感だった・・・ざらざらっていうか」ざらざら。「ああいうチョコレート食べたの初めてだよ。 おいしかったけど、甘すぎて歯が痛くなっちゃった。 ハハハ、で、あれはなんて名前のチョコレートなの?」知らないよ。名づけるならグラニュー糖スペシャルだよ。と思ったけれど、「なんて名前だったかなあ、フランスでは有名みたいだけど」とかなんとか答えておいたような。・・・味見しておけばよかった。その後、毎年毎年、手作りのチョコレートを作り続けた私。もうグラニュー糖は入れなかったけど。相変わらず、ただ溶かして固めるのはいやだったので、トリュフのほかに、ブラウニーとか、チョコタルトとか、ムースっぽいのとか、いろんなものを作った。編み物は、手袋、セーターと作り、縫い物じゃクッション、リュック、手を変え品を変え、いろんなものを製作した。工作は得意だったので、入れる箱は勿論手作りだ(笑)我ながらよくやったなあと思う。いつも死に物狂いだった。「私にも手作りのもの、ちょうだいよ。椅子とかさ」と頼んでみればよかった。せっかくだから。その彼と別れ、今の彼と付き合って、はじめてのバレンタイン。「やっぱ、手作りだよな」と思って、自信作のチョコをプレゼントしてみたけれど、今の彼、口先ばかりでたいした嬉しそうじゃなく、おまけに食べやしないので、なんとなくチョコレート作りはやめてしまった。そんなわけで、もうずっと、手作りチョコレートは作っていない。編み物、縫い物もしていない。苦手なことだからそりゃあたいへんだったけれども、大好きな人に感激してもらった時の、あの嬉しさといったらたまらなかった。今の彼は「買った方がキレイ」とか言うからな。つまんない人だよ、まったく。でも、苦難から解放されて良かったかな?とも思う私です。 今日の一曲「想い出がいっぱい」 この歌は、 ある女の子の名前をタイトルにしたアニメの主題歌で、 それが私の名前だったということもあって、 ちょっと特別な思い出のある歌だったりします。 少女だったと懐かしく振り向く日が来るなんて、 思いもしなかった頃の。
2003年02月14日
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はじめてバレンタインのチョコをあげたのは、小学校4年生の時だった。友達3人組で、みんなして好きな人に告白しよう!と決めて、放課後、3人で順番に好きな人の家をまわることにしたのさ。一番手は私。相手は、教室でいつもふざけ合って遊んでる仲良しの男の子。陽気でおさるみたいな男の子。チョコレートは、さんざん考えたあげく、あえて、ちょっとふざけた感じの安めのチョコにした。ドキドキドキ。友達2人に、ちょっと離れた場所に待っててもらって、ばくばくしてる心臓を押さえつつ、ピンポーン。出てきたのは彼の妹だった。「お兄ちゃん、いないよ」と言われたので、じゃあ渡しといてねと頼んで立ち去った。とりあえずチョコを渡したということで一応の達成感。まだ興奮状態のまま、私は、2人のもとに走った。「さ、次はどっちに行く?」すると2人、顔を見合わせて、「いや・・・やっぱやめようかって話してたんだけど・・・」なにー!?「やっぱ、恥ずかしいよぉ」「よく考えたらチョコなんかあげて意識されたらやだもん」かくして、友達に裏切られ、チョコを渡したのは私一人だけ。家に帰ってから、ちょっと思った。そうだよなあ、変に意識されたらいやだなあ。そして翌日、彼は、何もなかったかのような態度だった。昨日までとまったく同じ調子。良くも悪くも、さっぱり意識されず、私としては肩すかしくらった気分。しょうがないから、数日後、「ねえねえ、チョコおいしかった?」と聞いてみた。「小さくて味なんかわかんなかったぞ。 もっとでかいのにしろよなー、ケチくせえぞ、おまえ」「・・・で?」とは聞けず、結果はホワイト・デーまで待とう、と思った私だった。ところが、なんと、私は、3月に入った途端、水ぼうそうになり、学校に行けないまま、3学期を終えてしまったのだった。3月14日。学校に行ってたら、どんな「こたえ」があったのかなあ。なんとなく心にしこりを残したまま、春休み。まだ水ぼうそうが治っていないから外には出られず、両親はお仕事でいない。家で暇だなあと思いながら教育テレビを見ていたある日、突然、玄関のチャイムが鳴った。そこに立っていたのは、例の男の子。「暇だから遊びに来てやったぞ」「水ぼうそう、うつるかもよ」「大丈夫だよ、俺もこいつももうやったから」見ると横にもう一人、クラスの男の子。その男の子は、私の友達が好きだと言ってた男の子だったので、さっそく彼女も呼んで、春休みいっぱい、毎日のように、4人で遊びまくったのだった。みんなでゲームやお菓子を持ち寄って。それは、とっても楽しい春休みだった。新学期、私と彼は、また同じクラスになった。相変わらず、からかいあったり、追いかけあったり、ふざけてばかりの間柄だったけれど、相変わらずの仲良しで。だけど、新学期が始まってすぐの5月、私は転校してしまい、それっきり。好きだと言ってもらえたわけじゃないし、晴れて付き合ったってわけでもないし。今考えてみれば、きっと、彼は私のことを、女の子として好きっていうのではなかったのだと思う。もしかすると、チョコレートなんか迷惑だったのかも。それでも、普通に、それまでと同じ態度で、友達でいてくれた。「あいつ、俺のことが好きなんだって」って言いふらしたりもしなかったし。そういうことを振り返ってみると、私、我ながら、いい男の子を好きになったじゃん、と思うのだった。だからまあ、はじめてのバレンタインは大成功!!ではなかったのだけど、とてもとても、いい思い出です。・・・でもさあ、小学校4年生くらいじゃ、チョコなんかもらったってどうしていいかわかんないよね(笑)あげた私も、その後のことなんか考えてなかったし。付き合うったって、どう付き合ったらいいんだか。 今日の一曲「メロディ・フェア」ビージーズ
2003年02月13日
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ちょっとしたことがきっかけで、心がすれ違ってしまった私たち。そんな或る日、彼は、「他の女の子に買い物に誘われてるんだけど行っていいかな?」と言った。私は、「あなたが行きたければ行けばいいし、 行きたくないなら行かなければいいじゃない。 そんなの、私に聞くことじゃないでしょ?」と答えた。そりゃあ、止めて欲しいんだなってことくらい、わかってた。だけど、行かないでなんて言いたくなかった。行かないでと頼んで行かないでもらうんじゃなくて、私が行かないでと言わなくても、彼の意思で行かないでくれることを望んでいたから。彼は私の返事に怒ったみたいな顔をして帰って行った。それから一週間ほど経って、「あの女の子に告白された。付き合おうかと思う」と言われた。「その人のことが私のことより好きになったの?」「わからないけど・・・ その人の方がきみよりも俺を必要としてると思う」そこで、わんわん泣いてすがれば、違っていたんだと思う。彼はまだ彼女に返事をしていないと言っていたし。でも私は、「私はあなたを好きだよ、必要としてるよ。 けど、あなたがそう感じるのなら、そうなんだと思う」と言い、「あなたが私と別れてその人と付き合いたいならしょうがないよ。 だってそれは私が決めることじゃなくて、 あなたが決めることだから」なんてふうにも言った。意地なんかはってなくて、それはすべて本当の気持ちだった。「自分はあなたを好きだ。 でもあなたがどうするのかはあなたが決めることだ」私は、彼の意思で、私を選んで欲しかった。お願いしたり、すがったりして、無理やりこちらを向かせたくなんかなかった。いくら引き止めるためとは言え、したくないことをするのは嘘をつくようでイヤだった。そしてその根底には自分のポリシーみたいなものがあったのさ。つまり、 人はみんな自分のことは自分で決める権利があるじゃん、みたいなさ。それを侵すのはイヤだったんだ。かくして私たちは別れた。(それから1年後また付き合い出したのだけど)何が言いたいのかというと、その後も、今書いたような失敗を私は何度も何度も繰り返しているのさ。「あなたが決めることだから」「あなたがしたいようにするべきだ」という言葉を、「こいつ、それほど俺を好きではないらしい」というふうに誤解されてしまう。好きならそんなことを言ってられないはずだ、って思うんだろうな。でも、なんで?私は相手の意思を尊重したいんだ。好きであればあるほど、尊重したいんだけどな。そうして自分の気持ちもちゃんと言ってるのにな。それを信じるかどうかは、あなたの判断にまかせるというスタンスではあるけれど。そういうタイプの人間もいるんです。
2003年02月12日
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文庫とハードカバーなら、絶対、文庫の方が好き。文庫の方が、安いからっていうのもあるのだけど、私の場合、実はそれってあんまり重要じゃなくて、小さくて場所をとらないっていうのが最大の理由。しかも解説(たまに作者の後書きも)がついてるというのが、お得な感じでいいのさ。新刊だと読みたい気持ちを押さえきれず、ハードカバーを買ってしまうことが多いのだけど、なるべくなら、それを売っぱらって文庫で買いなおしたい。私は本に関してはコレクター的なところがあって、好きな本、もう手に入らなそうな本、資料的な意味で持っていたい本、一応押さえておきたい名作本などなど、数えたことないけど、蔵書、ものすごい数なのだ。うちに来たらびっくりすると思う、ほんと。普通の人とは思えない本の量だから。でも、まだまだ欲しい本はいっぱいあるのさ。本の中身に対するコレクターなので、初版だとか美本だとかにはまったくこだわらなくて、古本屋の投売りコーナーが大好き(笑)もっとも自分では汚さないけどね。本を粗末に扱うということが嫌いだから。まあとにかく、ハードカバーよりも文庫が好き。ついでにもうちょっと本について語ると、出版社によるカラーってある。正確には、その出版社の人や抱えている作家のカラーなんだろうけど。なにごとにも例外はあるので全部が全部というわけじゃないけれど、傾向っていうのはある。たとえば幻冬社。ここはおしゃれっぽく流行に敏感であることを意識していると思う。なので中身的に薄く、10年後にはカス本の可能性高し、みたいなものが結構ある。集英社はやっぱり漫画の会社かなあ?って感じ。小説に関しては、同じ作家のものでも、他社で出してるものに比べて水準が低い作品が多いような気がする。新潮社は幅広い。海外ミステリー・ホラーの重鎮を押さえてるし、国内外の名作と呼ばれるような作品もほとんど網羅。現代作家の作品もジャンル幅広く、水準も高い。ついでに値段もお高い。東京創元社。ミステリー、SF。海外古典ミステリーもいっぱい。本が本当に好きだという人に向けて出版しているという感じで、通好みの、しかも、時代を経ても読みつがれて行きそうなタイプの小説が多い。徳間書店は、アニメ系はともかくとして、小説はおしゃれじゃない通俗小説が多い。どうも、おじさんがターゲットではないかと思われる。装丁がなんとなく野暮ったいのも特徴。扶桑社は、軟派なイメージ。今更文庫にして誰が買う?と言いたくなるような国内作品の文庫が多いけれど、現代海外作品だと、かなりいいものを出している。かつて、この分野は、早川書房だけが目立ってたんだけど。角川書店は、かつては今の幻冬社みたいな位置にいたけれど、(角川が分裂して幻冬社ができたんだから当然か)今はエンターテイメント(特にSF、ホラー、ファンタジー)に、的をしぼっているようで、その種のファンには嬉しいところ。小学館は、名前が小学館なだけに、お子様向け、または「勉強くさい」イメージ。でも青年向け漫画ではそんなことなく、かなり高水準。宝島社と太田出版、洋泉社。みっつともサブカル、アンダーグラウンドに強い。雑誌やムック本だと、この三社のがとびきり面白い。あんまり広告に遠慮してないしね。で、最後に、私のお気に入りの出版社。はい、講談社です。ついでの方が長くなっちゃった(笑)
2003年02月11日
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オヤジギャグ、わりと好きです。特に、駄洒落が好きで。自分じゃ思い浮かばないので言わないのだけど。とっぴょうしもない時に、言われると、もうたまんないです。くだらなければくだらないほど、私、大喜び。ちょっと考えないと笑えない駄洒落はダメ。この前「くまもと県のなぞなぞは、熊も解けん」っていうのを聞いたのだけど、こういうのはあんまり面白くないですね。「トイレに行っといれ」くらいが調度いいです。駄洒落は日本語遊びというれっきとした文化なのだ、なんてことなど、どうでもよく、ただ、単に、そのしょうもなさが好き。オヤジギャグ、何がいいって、言ってる本人が一番楽しそうなのがいい。世の中にはオヤジギャグ大嫌いな人が結構多いので、しーんとした中、一人で肩震わせて笑っている私です。
2003年02月10日
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インターネットを始める前の私は、いろいろとこの世界に偏見を持っていた。出会い系サイトや、メル友募集、あとは2ちゃんねるみたいな怖いトコなんかのイメージ。しか、なかったみたい(笑)匿名性と、いつでも消えることができるがゆえの、無責任でお気楽、本能うずまく世界、というような。でも、入ってみると、決してそんなこともなくて。いや、そういう人や、そういう場所もあるのだけど、そうじゃない人もいっぱいで。つまりは、現実の世界と、たいして変わりなかった。意地悪な人はどこにいても意地悪なんだろうし、優しい人はどこにいても優しいのかも。そりゃあ「演じてる」も、いるんだろうけれど、人間そうそういつまでも演じきれるもんでもないし。それに、たとえば普段陽気で賑やかだけど、ネットでは弱さや脆さを解放してる人。反対に普段はおとなしくて人付き合いが下手だけど、ネットでは明るく社交的な人。どっちも「本当のその人」なんだと思う。現実ではうまく表せずにいるだけで。結局のところ、違いって、肉体があるかないかの違いでしかないのかもしれない。インターネットの世界は、心(魂)だけの人間関係。こう書くと、まるで霊界みたいだけど。肉体がないって、性別や年齢、立場を超えられるってことかも?って思う。それと、無責任でお気楽にもかかわらず、しっかりと向き合ったり、友達でい続けられるのって、逆に現実社会のつながりよりも、純粋なのかもしれないなーという気もする。インターネットを始めてから3年近く、いろんな人と出会ったり、別れたりして来た。たまたま忙しい時期に出会ってしまい、あんまり深く知り合うことができずに途切れてしまったけれど、時間があったならもっと仲良くなれたかもしれない人。お互いの興味の方向や、相手への気持ちの温度なんかがズレて行き、自然に距離ができてしまった人。決して頻繁に連絡をとりあうわけではなくても、なんとなく自然な感じで途切れてしまうことなくいられた人。現実の世界と同じように、毎日のように出会いがあって、時に別れもあって、続いて行けるつながりもあって。なんていうか、大切にしていたいなと思う。出会えた人たちとの間に生まれた何か。これから生まれる何か。 今日の一曲『浪漫飛行』米米クラブ
2003年02月09日
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最近の私、気がつくと、いつもその人を目で追っている。春だから新しい恋でもしちゃったかなー?なんてことではなく、なんだかやけに似ているのだ、その人は。かつて私が大好きだった人に。初めて見た瞬間、大好きだった人の名前を思い出してしまったくらいに。気がつけば、その人を目で追っている。顔の造作は違うのにどうして似ているように感じるのかが、気になってしょうがない。 笑った時の目の感じ?仕草?醸し出す雰囲気?そうして、その度に、大好きだった人の、あんな表情、こんな表情が頭をよぎり、なんとも言えなく、せつなくなっている。それなら見なければいいのに、見ずにはいられない。いくら似ているからって、その人に恋をするなんてことは絶対にないと思う。せつなく懐かしいからといって、昔の彼本人に会いに行ってしまうなんてこともない。何故なら、大切な人がちゃんといるから。そしてもうひとつ、「あの頃の彼」は、もうどこにもいないと知っているから。どうしたいわけでもなく、どうにもしようのない胸の痛みにかられて思うのは、神さまって意地悪だなあってこと。無理やりタイムマシーンに乗せられたみたいな気分。ほんと、神さまは意地悪だ。「あの頃の彼」の面影をまのあたりにさせられるくらいなら、本人にばったり会ってしまう方がまだましだ。「あの頃の彼」じゃない彼を見る方が、 ずっとずっと、せつなくないじゃないか。今日の一曲『水の影』松任谷由実
2003年02月08日
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普段、別に、好きじゃないのに、急にそれが食べたくなるってこと、ないですか?「甘いものが食べたいっ」とか、「野菜が食べたいっ」とか。これって、きっと、体がその栄養を求めてるんですよね。今日、私は、いてもたってもいられないくらい、野菜サラダが食べたくなってしまいました。で、キャベツや、キュウリ、トマト、レタスにブロッコリー、缶詰コーン、香りづけにレモンもね。がんがん野菜を買い込んで、家に帰り、ご飯時、さあ食べよう!と、野菜たちを切ってお皿に盛ったところで、はっと気がついたのでした。ドレッシングがない・・・。マヨネーズ?いやそういう気分じゃない。フレンチドレッシングならあるけど・・・これも気分に合わない。今日、私は、どうしても、中華ドレッシングでサラダを食べたかったのさ。そいじゃ作るか。と思ったけれど、ゴマ油すらなくて。ゴマ油がなくちゃ中華ドレッシングじゃないっ仕方ないから、近所のお店に買いに行きました。お風呂上りなもんだから、途中で、髪の毛凍っちゃいました。ブルブルブル。というわけで、風邪ひきそう(笑)サラダでたっぷりビタミンとったから、大丈夫かなあ?大丈夫だったらいいんだけどな。それにしても、キュウリ、瑞々しくておいしかったな。キリギリスの気持ちがわかった気がするよ。
2003年02月07日
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オークション、固定価格、どっちでもいいんだけど、ネット上の個人取引ってしたこと、あります?私は某サイトで、ミニ古本屋の売り手として、また別のサイトでは、おもに落札者として、個人取引をしています。どっちも同じ数くらいかなあ。一番気にしてることは、相手がイヤな後味を残さないようにってことです。せっかくの取引なのにイヤな気持ちが残っちゃったら、悲しいものね。特に自分が売り手の時は、相手が買った本を見る度ため息つくようなことには、したくないな。なので、こっちが買い手の場合は、売り手の立場になって、売り手の時は、買い手の立場になって取引します。今のところ、運がいいのか、トラブルに巻き込まれたことってないのだけど、巷では結構いろいろあるみたい。入金したのに商品が届かないとか。表記していた以上のボロい商品が届いたとか。これは絶対、相手の評価を見てから買うべき。私はそれらしい評価のある人からは、どんなに他に良い評価がたくさんついていても、どんなに安くても、アプローチしません(笑)自分の身は自分で守らないとね。あと、あんまり高額のものは買わないことにしてます。もし変なのが届いても、「ま、いっか」と思える範囲にとどめとくっていうか。それに、やけに安い商品は、特に表記されてなくても、「確かにその値段の価値しかないな、こりゃ」って場合が多いみたい。売り手側として商品を出す時のトラブルは、「取引開始後、さっぱり連絡をくれない」「入金してくれない」が多いみたい。ヤ○ーなんかは、落札者側に問題があっても、キャンセルすると自分にもマイナス評価がついてしまうので、(これって、抜け道ないのかな?)変な相手にあたるとたいへんだろうと思います。キャンセルしなければ、手数料だけ損ってことになるし。これだけはどんなに気をつけてても避けられないリスクですね。私はこの手のリスクを背負いたくないので、ヤ○ーオークションには出品してません(笑)なので他のサイトでのことになっちゃうのだけど、基本的にキャンセル可能期間ギリギリまで待つことにしてます。多少遅れても、最終的に取引ができればそれでいいやって思ってるので、「ご連絡さえいただければ、 多少遅れても評価に影響することはないので、 ご安心くださいね」って書いちゃってるし。「キャンセルの場合は○日以内にご連絡お願いします」とかも。今まで、最長2週間音沙汰なかったことがあったけれど、事情があるのかもしれないなーと思って、催促とかはしませんでした。催促して不愉快になられてもいけないので。まあ、それでダメでも、損することはないからいいやって、割り切ってます。あと、売り手側のトラブルとしては、相手からのクレーム。私の場合は商品の説明を実際より少々悪めに書いてます。書かない方が売れる率は高いとは思うんだけど、評価で、「思ったよりずっとキレイでした」と書いてもらえたりするので、クレームに怯えながら売るより、結果的には良いかなと。あと「これは中以下の状態だ」って思う時は、状態悪いですの表記の他に、絶対、「状態の良いものをお探しの方はご遠慮ください」の一言もつけます。取引後にも、しつこく「いいですか?」と確認します。ちょっとでもトラブルの種になりそうなことは、あらかじめ公開しとくに限ります。返品・返金の手数料もバカにならないですから、ほんと。プレミアものの値段は相場を見てからつけます。大体、中間より少し安めに。それ以外は、送料入れて定価の半額になるくらいに。半額超えるんだったらブックオフで探した方がいい、と自分だったら思うので。最後に評価。売り手の時は100パーセント「良い」をつけます。買い手としても今までは全部一番いいものをつけてます。評価で「悪い」をつけると、必ずと言っていいほど、自分もつけられるみたいなので、もし「なんじゃ、こりゃ」取引だとしても、いきなり悪い評価はつけない方がいいと思います。まずはメールで。まあ、とにかく、ネットの個人売買はリスクを伴うってことを、つねに頭においておくことにしています。ふりかかっても「まあ、しょうがないか」と思える範囲に、とどめておいた方がいいです、ほんとにね。・・・結局、当たり前のことしか、書いてないや(笑)
2003年02月06日
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買っちゃった、やっぱり。宇多田ヒカルのマキシ・シングル。最近はほとんどレンタルご利用の私なのだけど、宇多田ヒカルだけは、買っちゃうのさ、どうしても。宇多田ヒカルの声は魔力のようだわ。お財布がピンチでも、レジに足が進んでしまうんだ。前にも書いたけど、私は宇多田ヒカルの歌も好きだけど詩も好きなのさ。しっくり来る考え方っていうかね。抽象的になっちゃうけど、広がってく感じがするのだ。等身大の自分を素直に受け入れて、落ち込んだり、あせったりしながらも、閉じてはしまわずに、自分の力で、自分のスピードで、自分の足で、進んで行く感じ。宇多田ヒカルの歌を聞いてると、どんな曇り空の日にも太陽はちゃんとあるんだよねって思えて来る。今日の一曲『COLORS』宇多田ヒカル
2003年02月05日
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中学校くらいまで、私は、毎晩9時に寝ていた。7時に起きてたから、睡眠時間10時間。土曜日は少し遅くまで起きてたけど、そのぶん、朝寝坊してたので、やっぱり10時間。睡眠不足に弱いのさ。その後、夜更かしするようにもなったのだけど、夜更かしするようになってからは、昼寝、夕寝をしてしまうようになった。とにかく、合計して8時間は寝ないと、どうも調子が出ない。無理していると、体調、崩れる崩れる。実は、寝つきが悪く「眠れなーい!!」の夜が結構あるのだけど、それを補うかのように、変な時間に寝てしまうのよね。休日、やたら寝続けるとか。18時間くらい寝続けたりさ。修学旅行じゃ眠れない毎日の末に気絶したし。子どもの頃に、やたら寝すぎたからなのか。あんなに寝てたわりに身長伸びなかったな。そんなことはどうでもいいか。そんなわけで、「私は睡眠時間、4時間でも平気」とか言う人を見ると、うわーいいなーと思う。なんだか、お得な感じ。訓練次第でどうにかなるのかな。
2003年02月04日
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環境が人間を左右してしまうのは、確かにそうなんだけれども、親がどうでも、社会がどうでも、しっかり生きてる人はいっぱいいる。親がどうとか、社会がどうとかを、言い訳にして、立ち止まっていても、どうにもならないんだから、どうにもならなくてつらいのは自分自身なんだから、そこから抜け出したければ、自分の力で、自分を取り巻く環境を変えて行くしかないと思う。親の愛情不足。この際、ないものはないのだと見切りをつけて、違う愛情を探した方がいい。わけわかんない理屈を押し付けて来る尊敬できない親。反面教師と割り切って、自分はそうじゃない大人になろうと思った方がいい。狂った社会に侵食されそうなら、自分のまわりからでも狂ってない社会にすればいい。みんなして、諦めてたら、社会はどんどん変になってくばかりだ。会社や学校、どんなにしてもどうもこうもなくて、このままじゃ自分がおかしくなるって所まで行っちゃってるなら、そんな環境捨てちゃって、新しい環境を作り出した方がいい。世界は閉じてない。自分次第で世界は広がって行く。たとえば社会がおかしいのだとしても、それはしょせん人間が作ったものなのだし、決して固定化したものではないのだから、諦めてしまうのも、おかしな話だ。環境の影響をはねかえすことは困難なことだけれど、できないことじゃない。だから私は自分がダメなことを、親や社会や時代や運命のせいにするのは好きじゃない。自分の人生は自分のもので、自分でプロデュースして行きたいから、○○のせいだ、で、可能性を、閉じてしまいたくない。「終わりなき日常」に憂いでいる人の本を読むと、なんだかむしょうにイライラしてしまう。その「諦めてる感じ」がどうも好きになれない。諦めることは悪いことじゃないさ。ぱぱっと見切りをつけるのは、時に潔いことさ。諦め続けることがいやなんだ。なんでもかんでも親や社会や時代や運命のせいにしたがる人の、その他力本願的な考え方をどうも好きになれない。それが他者に向けられるものならば優しさだろうけど、自分に向けたって、自分の世界は閉じてくばかり。つまらないじゃん、そんなの。せっかく生まれて来たのに、もったいない。 良くなってく可能性はゼロじゃないのに閉じてしまわないで。閉じた世界の中で、内へ内へと、つき進み、負の爆発を起こしてしまわないで。ネット、雑誌などで、宅間被告、宮崎勤、酒鬼薔薇、オウムなどの面々に、共感を感じる部分があると発言する人を見かける度に、こんな気持ちにとらわれる。
2003年02月03日
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池田小学校事件の宅間被告、精神鑑定において「責任能力あり」の結果が出たらしく、ほっとした。「なし」になって、精神病院に入院となったら、やがて退院して社会復帰してしまうわけだから。けれど、同時に、複雑な気持ちにもなった。精神の病気・障害と言っても、さまざまなタイプがあって、それによって症状も大きく異なる。そして、この種の病気・障害を抱える人の犯罪件数って、実は世間で言われているほど高くない。なので、この事件直後に一部で吹き荒れた、「そういう病気の人は危険だから、隔離して欲しい」みたいな乱暴な意見は、すごくいやだなと思った。が、同時に、病気・障害のタイプによっては、「悪いことを悪いと感じられない」「残酷な行為をすることに喜びを感じる」というような症状を持つ人もいるわけで、そういう症状の人は、その原因が病気・障害なだけに、今後も同じことを繰り返す可能性がとても高いということも気になった。今の日本の法律では、精神鑑定で障害が認められ、「責任能力なし」と判定されると、懲役(もちろん死刑も含めて)ではなく、精神病院に入院ということになる。入院後、投薬や治療を受けるわけだけど、やがて医師から回復したとみなされると退院だ。退院後は自己管理だ。薬を飲むことを怠ったら?元に戻るんじゃないか?しかも誰も監視しているわけじゃない。で、前と同じ衝動にかられたら?この法律がある限り、宅間被告が精神病であると判定されちゃ困る。が、宅間被告のような行為をする人間を、正常と言えるのか。私にはとてもじゃないが正常な人とは思えない。宅間被告は、十代の頃から、人を人とも思わないような行為を繰り返し、正気の沙汰とは言えないようなこともしていたそうで、周囲の人の多くが彼を危険視していたふうなふしがある。何度もの精神科への通院歴もある。精神科にかかっていた段階でなんとかできなかったのか、という気がすごくするけれど、それを言うと話がどんどんズレていくので、とりあえず、言いたいことだけ言うと、私は宅間被告は、一部で言われていたように、人格障害の可能性が高いように思う。だからといって、「宅間被告は障害ゆえにああいうことをしたのだから、 罪を軽くしてあげてほしい」なんてことは、少しも思っていない。私は、法律が変だと思うのさ。宅間被告を人格障害だ、責任能力に疑問、としちゃうと、法律上、普通に罪を償わせることができない。それじゃあ困るから、宅間被告は正常だ、責任能力はあった、というふうに、しちゃってるように思えてさ。そんなふうに事実を曲げて、辻褄を合わせるようなやり方には、違和感を感じてしまう。基本的に、私は、病気だろうがなんだろうが、罪を犯したら、それに見合った罰を受けさせるべきじゃないか、と思っている。厳しいようだけれど、最初に書いたように、現実に、精神疾患を持つ人の犯罪件数は、世間の人が考えているよりずっと低いという統計が出ているので、そうすることによって逆に、「精神疾患を持つ人は誰も彼もが危険」というような、乱暴な差別が減るのではないかと思うし、「平等」という意味でもそうした方がいい気がするからだ。けれど、実際問題として、精神疾患のある人が、そうでない人と同じように、刑務所生活ができるのか?という不安を感じるのも事実。宅間被告の場合は、罪に見合った罰となれば、死刑だろうから、別として。なので、精神疾患を持つ犯罪者だけが収容される、精神病院と刑務所をあわせたような施設があれば、一番いいんじゃないかと思う。ちなみにドイツにはそういうものがあるらしい。精神病を患っていたとしても、普通に、犯した罪に見合った罰を受けるための場所。日本でもそういうものを作れば、精神病と偽って、裁判を長引かせる卑怯者もいなくなるし、本当に精神病なのに、一般の刑務所に入れられて、生活に順応できなくて苦しんだり、他の囚人たちから、虐待されてしまうということもなくなるんじゃないかなと思う。あと、やっぱり、精神病院のあり方も問題。過去にたくさん、家族が「このままでは危険だ」と判断して、やむなく病院に連れて行ったにもかかわらず、病院側が「もう大丈夫ですよ」と退院させて、その直後に事件を起こした、なんてケースがあるから。家族の陰謀で、どこも悪くないのに精神病院に入れられる、なんていう恐ろしいことがあってもたいへんなので、どっちにしろ、精神科医がきちんとしてないと困るわけだけど。とにもかくにも、最後にはっきり書いておきたいのは、宅間被告が、人格障害であってもなくても、あの行為は絶対に許されるべきことではないってことだ。
2003年02月02日
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人様のことをとやかく言えるほど、自分はちゃんとした人間じゃないよなと思っているので、「じゃああんたはどうなのさ」という心の声が聞こえ(笑)人の悪口って、基本的に、口に出すのが恥ずかしい。それに、よくわからないこと、自分が経験したわけでもないことに関した場合には、見当違いの見方をしかねないわけで、あとで恥かくのは自分、と思うと、やっぱり、気軽に批判めいたことは言わない方がいいやって感じがする。あと、火山タイプな性格なものだから、不愉快になった時は、その次の瞬間に、面と向かって、「それどういうことさ」と怒っちゃってるから、わざわざ誰かに悪口言うほど引きずらないっていうか。身近な人はみんな、いやだななんて思ってないから付き合ってるわけだし、いやなら付き合わないし、付き合ってなければ、その人のことなんか考えないから、悪口言うも何も、忘れてるし。というわけで、結果的にそうなっちゃってるだけの話なんだけど、私って「人の悪口を言わない人」の印象があるらしく、「ココナツは人の悪口って嫌いだろうから、 こんなこと言ったらやな人と思われそうで心配なんだけど」というような前置きを聞かされることが、わりとある。でも私、別に、悪口って嫌いじゃない。いや、悪口は嫌いなんだけど。おいおい、どっちだよ?って思われちゃうか(笑)まあ、つまり、私とその人が信頼関係にあって、しかも、そこに「私は」の言葉がくっついてる時には、それは悪口ではないのでは?と、聞いてる立場としては思う。「○○にこんなふうにされ、私は不愉快、私は迷惑」という主旨の話。正直、本人に言うのが一番手っ取り早い気がするけど、仲のいい相手に愚痴をこぼしたい心境って誰でもあるだろう。こんな時に妙な正義感かざして何になる?って気がするし、聞いた私が口をつぐんでさえいれば、他の誰に影響を与えるわけでもないので別にいいと思う。「私は○○のここがイヤだ」人間誰しも好き嫌いや価値観の違いがあるわけで、あなたがそう思ってるのは事実なんだからしょうがないよねえ、という気がする。それで表面上はその相手に調子のいいことを言ってるんだとしたら、「げ」と思うけど。自分が同じことを言われた時に、急に、ひどいひどいと被害者面したなら、「へ?」と思うけど。個人の立場で、自分の言葉に責任を持ってるなら、いいんじゃないかね。信頼のおける関係じゃない人たちにまで、ベラベラと、自分はこう思う、の部分を抜いちゃって、無責任に人を悪く言うのが、悪口なんじゃないかなーと私は思う。そういう悪口は大嫌い。それこそ、あんた何様?なキモチになる。まあ結局、そんなにそんなに、悪口って言葉に敏感にならなくてもいいんじゃないかと思うんだけどってことなんだけど。悪口と、批判や苦情って違うと思うし。私だって、「じゃああんたはどうなのさ?」の心の声に、「大丈夫さ」と答えられる時は批判するしさ、「私はああいうのはキライ」って言い方もするしさ。
2003年02月01日
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