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神奈川県の本屋さんで、中学生がマンガを6冊万引きし、店主が警察に通報したため、慌てて逃走した中学生、カンコン鳴ってるにもかかわらず遮断機に入り込み、電車にはねられて亡くなってしまいました。で、その後、本屋さんの所には、「人殺し」「配慮が足りない」などの中傷・苦情が相次ぎ、とうとう閉店してしまったらしいです。というニュースを見て、私は、ものすごーく、もやもやした気分になった。亡くなった中学生は気の毒だと思う。でも、そのことで本屋さんを責めるのはお門違いだ。もとはといえば、万引きが悪いんだから。逃げたから、こうなったんだから。特に、インタビューで中学生くらいの子どもを持ってそうな、主婦らしき人々数名が、「あの年頃はキレやすいんだからねえ」とか、「警察呼ぶなんてひどいわよ」とか言ってるのには、驚いた。母親がそういう認識なわけ?「あの年頃は遊び感覚で万引きしちゃうのよー」「悪いことだってことがよくわかってないのよー」なんて変な理解を示しさないでよ。確かにあの年頃は、遊び感覚で万引きをする。私が中学生の頃も、万引き大流行だった。しかも仲間内じゃ「こんなの万引きしちゃったよー」と、威張ったりするんだ。私は、しなかったけど、したことない人の方が少ないんじゃないかって思うほど、みんな、やっていた。今とそう変わんないくらいにね。でも、誰一人、「万引きが悪いことなんて知らなかった」なんて間抜けはいなかった。みんな、悪いと知っていて、やっていた。ばれたら警察を呼ばれるかもしれないこともわかってて、スリルを楽しむためにやっていた。無邪気に万引きしてるわけないじゃん。だから大人は、たとえ心の中で理解を示そうとしているのであっても、表面的には断固として「悪い」で行くべきだと思う。「遊びだろうがなんだろうが、 あんたの気持ちがどうとか理由がどうとか関係ないんだよ。 万引きした時点で100%あんたが悪いんだ」でいいと思う。したことに見合った罰を与えることも、胸の痛みを押さえてでもやるべきだと思う。万引きは泥棒です。警察呼ばれて当たり前。インタビューに答えてた主婦らしき人々、ああいう言葉を公共の電波に流してる暇があったら、自分の子どもに「万引きするな」と叩き込むべき。私がどうして一度も万引きしたことがないかって?小さい頃から、母親に、「ものを盗むのは悪いこと、恥ずかしいこと。 みっともないこと。バカがすること。情けないこと。 あんたがもしそんなことしたら警察連れてくからね」って、厳しく叩きこまれたからに決まってるじゃん。母、それは、言いすぎじゃないか?って気もするけど、言いすぎなくらいで調度いいんじゃないのかね。こういうことは。
2003年01月31日
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考えを押し付けるのも、押し付けられるのも、嫌いだけど、自分の考え方を話すのは好きだし、人の考え方を知るのも、とても好き。だからいろんな人といろんな話をしたいし、いろんな本を読んだりもしたい。自分の中にたくさんのモノサシを持っていたいから。もちろん、自前のモノサシを一番贔屓するんだけどね。当たり前だのクラッカーだ(・・・くだらなくてゴメン)随分前に、「ココナツって人の意見をとりいれないよね」と言われたことがある。「話は聞いてくれるけど、聞いてるだけなんだよな。 せっかくアドバイスしてるのにさ」そういうあんたも私の意見をとりいれてないじゃーんと思ったけれど、私は、自分の考えを人に押し付けるのは嫌いなので、余計なことを言って誤解されても面倒だから言わなかった。相手が彼氏なら言ったかもしれないけど。そんなわけで、その人は、「言うだけ無駄って気がしてきた」とブツブツ言っていた。じゃあ言わなきゃいいのにと答えたような答えなかったような。でも、本当は私、無駄じゃないんだけどね・・・って思っていた。その人のモノサシを私はすぐには使わないけれど、しっかりしまっておくんだからさ。実際、私は、その人と会わなくなってから、その人の言ってたことをふと思い出したりしてるのだ。その人が特別ってわけじゃない。いろんなモノサシの中の一つでしかない。でも、物事を考える時に、その人のモノサシを取り出すこともあるのだ。ま、わかりやすく言っちゃえば、その人の言葉はちゃんと私の心に刻まれてるんだ。ね、無駄ではないでしょ?過去には反発を感じたモノサシが、時を経て自前のモノサシと融合してる場合もあるわけで。そんなことからも、押し付けって意味のないことのような気がしてしまう。わざわざ押し付けなくても、受け入れられる言葉はいつか自然に受け入れられるわけで、受け入れられないとしても、ちょっとしたひっかかりとなって、その人が物を考える時にふと思い出されたりしているわけで。即、受け入れられるかどうかになんか、こだわんないで、否定されたらどうしよう?なんて心配もしないで、喧嘩したけりゃしてもいいんだし、そんなことはどうでもいいから、気楽に話をしようよって思うんだ、私はいつも。 今日の一曲『しようよ』SMAP
2003年01月30日
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平井堅が、今日の「うたばん」で、感動したドラマとして「スクールウォーズ」の名前をあげていた。ちょっとびっくり。いや、かなりびっくり。最初、冗談を言ってるのかと思った。平井堅と私、そんなに年齢変わんないんで、世代のギャップとは違うと思うんだけど。私のまわりでは、「スクールウォーズ」に感動してた人っていなくて、むしろみんな笑って見ていたような気がする。モノマネしたりして。イソップってネーミング自体、笑えるし。なので、平井堅って変なのーと思ったのだけど、中居くんも真面目な顔をしてそれを聞いていたので、別に変じゃないのかもしれない、「スクールウォーズ」に感動するのって。もしかして「不良少女とよばれて」とか、「スチュワーデス物語」なんかにも感動してたんだろうか。私や私の友達はこれらのドラマも「スクールウォーズ」同様、笑いのネタにしていたし、今でもこのドラマの話をする時は、「ねえねえ、あのシーン笑ったよねー」って感じなんだけど。てっきりみんなそうだと思ってたんだけど。そっか。違うのか。どうでもいいことなんだけど、ちょっとしたカルチャーショックだったので書いてみた。 今日の一曲『NEVER』MIE オマケにもう一曲『楽園』イエローモンキー
2003年01月29日
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底の浅い人間賛歌みたいなのって嫌いだ。人が言ってる分には、特に文句は言わないけれど、自分じゃやりたくないし、賛同もしたくない。けれども、たとえば、絶望に近いような思いを味わった人が語る希望には、心をうたれる。そういう人の口からこぼれる人間賛歌や、人生って素晴らしいって言葉には、ひねくれ者の私といえども、微塵も反発の気持ちは沸き起こらない。ズタボロの経験をしたことなんかなく、その立場になって考えてみたこともない人が、偉そうに語ることほど、うさんくさいことってない。そのうえ、押し付けてきたりなんかしたら、私はそいつに、心の中でケリを入れてやる。今日の一曲『シリコンボーイ』ムーンライダース
2003年01月28日
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いわゆるメッセージ色の強い歌っていうのが、実を言うと、昔からあまり好きじゃない。愛や夢などの言葉を多様した歌や、前向きソングなんか。ブルーハーツ、ナガブチ、ミスチルなんていうのは、私にとって別格なのだ。それというのも、この人たちの歌からは、リアルな痛みを感じるから。自分の言葉で語ってる感じがするから。だから、本来は好きじゃない系統なのに、胸に響く。本来は好きじゃない系統なのに胸に響くからなおさらに、好きだなと思う。もっとも、ばりばり元気な気分の時には、そんなに聞きたいと思わないし、学生時代なんかには、聞いてみようともしないような感じだったんだけど。ミスチルも初期の頃には苦手だったしね。寄せ集め、どこから借りたような言葉。自分の言葉ではないような、うすっぺらい前向きソングなんか大嫌いだ。そんな歌詞なら、むしろ、ない方がいい。思い切り、遊び感覚の無意味な歌詞の方がずっといい。私が一番最初に好きになったバンドはサザン。小学校の頃から今に至るまで、ずっと好きだ。熱烈にサザン大好き!じゃなくて、日常的にあって当たり前のなじんだ音楽、それが私にとってのサザン。もともとどこにビリビリ来たかといえば、メロディ。そして声。歌詞ははっきり言って意味不明。サザンの歌というのは、ラブソングと言われるものほど、そんな感じで、ところどころ気になるフレーズがあるけれど、どう考えても語呂あわせとしか思えないフレーズが多いし、全体としてみると、?な感じ。あの『いとしのエリー』ですらそうだ。だからこそちらっと現れる「気になるフレーズ」が際立つんだけど、それは別として、桑田佳祐の歌にはメッセージ色がほとんどない。と言うより、彼の場合、そもそも、「音楽が大好きさ、音楽って気持ちいいよね」くらいしかメッセージってないんじゃ?という感じがする。あとは「女好き」ってことくらいか(笑)ある意味、恋愛賛歌か。いや、欲望賛歌?サザンは、メロディや声で、心を揺さぶってくれる。いい気分にさせてくれるのは勿論、哀愁やせつなさまで感じさせてくれる。しかも、遊び心満載。押し付けがましさがまるっきりないのもいい。そんなところが私の好みに合っている。単純に曲調が好みっていうのが一番大きいんだけれども(笑)ところで、サザン、25年も活動しているので、さすがにここ数年の曲は、「自分の歌のパクリかよ?」っていうのがほとんど。どの曲も目新しさや刺激には欠けてるんじゃないかと思う。大ヒット曲の『TSUNAMI』なんかも、昔からのファンからすると、「こういう歌、アルバムになかったっけ?」って感じだろう。なので、比較的最近にサザンを知り、定番っぽさがどうも好きじゃないという、普通じゃないもの好きの面々には、90年以前のアルバムを聴いてみてもらいたい。サザンって普通じゃない、むしろ変、でもなんでもありで、かっこいい!ということがよくわかることうけあい。それ以降も勿論いいのだけど、曲の幅が狭まったようだし、(ファンが求める歌を歌うようになった結果だろう)遊び心も薄らいだ感じなので。ちなみに、桑田佳祐名義のソロ作品は、それはそれでいいんだけど、サザン作品とは違うと私は思う。 今日の一曲『思い過ごしも恋のうち』サザンオールスターズ
2003年01月27日
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小学校5年生から中学2年にかけて、友達だった恭ちゃんのことを、急に思い出した。恭ちゃんは、私が、これまでの人生で、唯一の、自分から「友達やめる」と宣言し、実行した相手だったりする。あの頃、私たちは、毎日のように一緒に遊んでいた。はたから見れば「親友」だったかもしれない。もっとも、基本的には仲良し4人グループ。4人で遊ぶ日もあれば、3人の日も2人の日もあったわけで、いつも2人だったわけじゃない。でも一番多くの時間を一緒に過ごしたのは恭ちゃん。恭ちゃんは意地悪だった。ワガママでもあった。私は3日に1度くらいは、恭ちゃんに本気で腹を立てていた。おかげで他の子たちから、「ココナツってすぐ怒るー」とバカにされるようになったほどだ。相手が恭ちゃんだから怒ってただけなんだけど。喧嘩ばかりしてたような気がする、ほんと。しかも恭ちゃん、他の人には、そういう態度をとってなかったので余計腹が立った。そういういきさつなので、その後、絶交したのは、自分でも納得の展開。最近ふいに恭ちゃんのことを思い出した時も、今まで出会った友達の中でもっとも頭に来る人だったなあということを、まっさきに思い出したほどだ。でも恭ちゃんの思い出をたどって行くうちに、あることに気がついたのだった。「もしかして私たちって似たもの同士だったんじゃ?」恭ちゃんは今考えてみると、偽悪的な子だった。そして当時の私は、情けないけれど、偽善的だった。基本的な核の部分は、よく似ていたのかもしれない。そうでなければ、あんなにいつも一緒に遊んでなかっただろう。私たちはバカみたいな遊びばかりしていた。山だとか公園だとか海だとか、いろんなところに連れ立って行っていたのだけれど、どこに行っても、探検隊になってみたり、遭難した外国人になってみたり、はたまた貧乏人になってみたり、アイドル歌手になってみたり、つまりは「なりきりごっこ」ってやつを、いきなり始める二人だった。そんな時は、あうんの呼吸で(笑)どっちかが突然に「うう、苦しい」と言ったら、「どうした?蛇にかまれたか?」とすぐさまノリのいい返事が返って来るみたいな感じだった。人の噂話や悪口を言わない所も似ていた。恭ちゃんは目の前にいる私に対しては、相当な毒舌を吐いていたのだけれど。私たちは2人とも、他人のことがあまり気にならないタイプだった。そんなことより目の前の面白いことに夢中だったのだ。短気なところ、泣き虫なところ、必要以上にプライドが高い所もそっくりだった。そういえば、1度、恭ちゃんに、「ココナツは私のライバルなんだよ」と言われたことがあった。「ココナツには負けないよ」もしかしてこれって、恭ちゃんにしてみたら、最大の友情を表す言葉だったのかもしれない。あの「絶交」は、私にしてみたら当然のことって感じだったけれど、恭ちゃんにしてみたら、「裏切り行為」「驚きの展開」だったのかもしれないな。今頃気づいても遅いけど。なんとなく思うのだけど、もし今、あの頃の恭ちゃんに会ったなら、こういう人って好きだなーと感じるような気がする。毒舌で、いい人ぶらず、むしろ偽悪的な恭ちゃん。今の私はこういう人が結構好きなのだ。
2003年01月26日
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誕生日、です。他の人はどうなのかわからないのだけど、私は「誕生日は私の日」みたいな感覚がある。自分記念日というか。私が他の誰よりも大ハッピーでいて良い日、みたいな。冷静に考えると、図々しい気もするけれど、まあいいじゃないか、年に一度なんだし。なので、普段しない贅沢もしちゃう。と言っても、ささやかで、普段高くて買えずにいた本を買うとか、おいしそうだけど高いから勇気が出なかったものを食べるとか、そんな程度のもんなんだけど。いや、正直に言えば、普段もそんなに我慢してるわけじゃないんだけど、誕生日の時は開き直って罪悪感みたいのがゼロなわけだ。「自分のお祝いして何が悪い?」的な。私はふだん、自分の欲求に罪悪感を感じるタイプなので、年に一回の、自分の欲求解禁日みたいなものでもある。おめでとう、自分。ついでにおめでとう、江守徹と嵐の桜井くん。この思いこみの激しさが、不幸の原因になる場合もあるんだけど、まあそれはそれとして。うちの両親は、絶対に、祝ってくれる。いまだに。父は、毎年カレンダーを買うと、即、大事な人たちの誕生日や記念日を書き込むような人。相手の誕生月に入るともう、「プレゼントは何がいいかな?」と考え出すような。昔は、男のくせに細かくてイヤねと思っていたけれど、今は、こういうところ、温かい感じがして、とても好き。母は、毎年、記念になるようなものをくれる。○才になったから、一生使える辞典とか、○才になったから、その年齢に見合うアクセサリーとか。そんなことの積み重ねがあるからなんだろうけど、今年は私、自分記念日におきまして、親への感謝みたいなものを、すごく感じてしまった。子どもの頃はあんまりしっくり行ってなかった親子関係。でも、年々、良くなっていて、年々、親の愛情の確かさを感じるようになっていて、なんだか、今が、普通の人で言うところの子ども時代みたいな、私と親との関係。「あの年齢の時も、この年齢の時も、ありがとう。 今まで見守ってくれてて、ありがとう」って、そんな気持ち。今日の一曲『ハッピーハッピー・グリーティング』Kinki kids
2003年01月25日
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日本人のクローン赤ちゃんが生まれたらしい。人間のクローン・・・まるで手塚治虫のマンガみたいな展開。私は、たとえば、子どものできない夫婦が、自分のクローンを子どもとして育てるとかいう場合には、構わないんじゃないかという気がしている。だけど、自分が病気になった時に臓器をもらうためのクローンだとか、今回のように亡くなった子どもを甦らせるという意味でのクローンには、とてもとても抵抗がある。つまり、私は、一人の普通の人間して生きていける環境があるのなら、クローン人間を作ってもいいんじゃないかって感じなのさ。神さまの領域に人間が踏み込むということには、抵抗がない。それを言ってしまえば、最新医療だってどうなんだろう?っていう気がするから。でも、クローン人間が一人の普通の人間として暮らせる環境が、今、整っているとは、思えない。今回のニュースでいえば、あの例の怪しい団体の関係者は、インタビューで「亡くなった子を甦らせる」という言い方をしていた。「ご両親が子どもを甦らせたいということでしたので」ってふうに。甦らせるっていうのはおかしい。今回生まれた赤ちゃんは、遺伝子的には、亡くなった子どもと同じだけれど、心は違うんだから。心が違うってことは別の人間だ。わかりやすく言えば一卵性双生児みたいなものだ。双子はそれぞれ別個の人間だ。クローン赤ちゃんは、亡くなった子どもじゃない。愛情は確かにあるかもしれないが、亡くなった子どものスペア扱いをされ、この子はクローンなんだからそれが当然でしょっていう認識を持たれながら、育って行かなくてはならないのだとしたら、それはとてもひどいことだと思う。一番その子を愛すべき親がそうなのだということを考えると、祖父母など身近な親戚や、ましてや他人、社会全体の中では、さらに、「どうせあいつはクローンなんだから」と人権を軽んじられる境遇に置かれてしまうような予感がする。今回の赤ちゃんに限定して考えないとしても、まだ社会も人間も、クローン人間を、普通の人間として受け止められるような所には、行っていないと思う。私自身はSFに、なじんでいるせいか、当たり前のように、生まれ方は違っても普通の人間でしょ?って思っているのだけど、こういうのはきっと少数派だと思う。今後、多数派になるかどうかも怪しい。クローン人間が、クローンでない人間を上回る数にでもならない限り、無理だろう。私は最初に、子どものできない夫婦が自分の子どもとして、クローン人間を作るのだとしたら構わないんじゃないかと書いた。けれど、その場合には、夫婦自身が、認識を改めなくてはならないし、差別を避けるため、本人が傷つかないために、周囲や本人には「クローン」であることをひた隠しにしなくてはいけないと思う。そうしないとクローン人間は不幸になってしまう。不幸になるために生まれて来るなんてダメだ。それも自然にではなく、わざわざ作るのだとしたら、ますますダメだ。そんなわけで、クローン赤ちゃんのニュース、複雑な気持ちで見てしまいました。なんとなく怪しい団体のようなので、実は嘘だった、なんていう結末が待っていそうな気もするのが、救いといえば救い。
2003年01月24日
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私は電気屋さんのオーディオコーナーに長時間いられない。大通り(札幌の街の真ん中)の道を歩いているとくたびれる。子どもがいっぱいいる場所にいるのもくたびれる。何故って、いろんな音がまじりあっているというのがダメなのさ。生理的にダメと言ってもいいかもしれない。そういう場所にいると、イライラする。疲れる。たぶん、私の脳は、必要ない情報を無意識にシャットアウトするのが、下手くそなんだと思う。簡単に言えば、気が散りやすいんだ、私は。図書館で本を読むこともできない。勉強なんかもってのほかだ。他の人の音が気になって集中できない。音楽をかけながら読書、なんていうのもダメ。もちろん静かな所でしか寝られない。高校の時の修学旅行ではずっと、みんなが寝静まるまで眠れず、睡眠不足で最後の日に気絶した。小学生くらいの時にはもう、「自分はうるさいのがダメらしい」と気がついたので、ダメな状態にならないように工夫するようになった。自分の都合なので、自分で工夫しないことにはね、やっぱり。うるさい場所にいなくちゃならないなら自分も騒ぐ、とか。自分の声に消されて雑音がそんなに気にならないのさ。余計な雑音をなくすために大きめの音で音楽をかけるとか。大音量って結構好きだ。それしか聞こえなくなるから。集中できない場所なら集中しようとしない、とか。女子より男子と遊ぶ方が好きだったのも、男子の方が、音的に、静かだったからだったりする。そんなわけで、修学旅行はともかく、このことで特に苦労はして来ていないし(しないようにしてるから)、逆に「人の声」に気がつきやすいと褒められたりして、短所は長所なわけだと思ったりもしているのだけど、まだ自分の弱点がわかってなかった幼少時は、とてもたいへんだった。その頃って他の子みんな騒がしいから。幼稚園なんか、3分の1しか行けなかった。自分でも理由がわからないながらも、いやでいやで。たまに行った時には、誰もいない場所、たとえば園庭の隅とか、階段とかに一人でいたものだ。先生たちは「あら、お友達がいないのね」と、親切に輪の中に入れて、というか、無理に引っ張って行こうとするのだけど、それがなおさら、私はいやでいやで。「帰りたい」と思った。泣いて逃げたりした。人見知りするとか、そういう対人間の問題じゃなく、うるさいのが問題だった。そんなの周囲の大人としては、気がつかなくて当たり前のような感じもするけれど、気がついてもらえていたならいろいろ楽だったような気もする。それはともかくとして、短大の頃、同室が、テレビをかけながら、音楽を流し、その中で勉強するような人だった。私はどうせ人がいると勉強できないので、別に腹は立たず、ただただ、すごいなあーと感動したのでした。
2003年01月23日
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幼い頃、大きくなったら何になりたいと思ってた?私は前に日記に書いたとおり「お姫さま」そんな実現不可能な間抜けな願いは当然だけど、実現可能な願いを持っていた人たちも、きっと子どもの頃の夢を叶えた人って少ないんじゃないかと思う。諦めた人もいるだろうけれど、その多くは、きっと、諦めたのではなくて、夢の形が変わったからなんだろうな。よく「たいていの夢は諦めなければ叶う」という。私はそれはただ単に、諦めなければいいってことではなくて、「実現させるための努力をし続ける」ってことなのだと思う。そうして、「好きだから努力が苦にならない」って人が、夢を叶えられるんじゃないかと思う。なんていうか、その情熱が「夢を叶える才能」ってやつなんだろうな。夢の形は人それぞれ。人から見ればささやかなことでも、なんでもいいと思う。もちろん、変化したっていいし。今はなくても、無理やり作る必要はないと思う。自然にあふれて来るものが「夢」なんだもの。あった方が楽しいけど、なくたって別に困らない。ある種の夢には年齢制限があるけれど、期限は死ぬまでって夢もあるんだしね。私の夢も「お姫さま」から形を変えた。まだ叶えられていないけれど、諦めていない。だってまだちゃんと情熱があるからね。ところで私は今でも、無意識に「大きくなったら・・・」って思っていることに気づいて、自分で自分にあきれてしまうことがある。大きくなってから随分たつっていうのにー。まだまだ大人の自覚が足りないな、こりゃ。反省。今日の一曲『大きくなったら』フライングキッズ
2003年01月22日
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それしかやってないので見ました、貴乃花の引退会見。言ってることがとても潔くて、「やっぱりかっこいいな、この人」と思いました。甘さがないっていうのか。もっと早く引退しても良かったのに、諦めなかったところとか、今場所の、なりふり構わない戦いぶりもね、逆にかっこいいなあと。この人ってずっと相撲以外のことは語らなくて、花田ファミリーにすったもんだがあった時も、宮沢りえとの婚約破棄の時も、余計なことは一切言わなくて、言い訳もしなくて。そういうところに好感を持ってました。だからってファンってわけじゃないし、相撲に興味がないので、戦ってるところはほとんど見たことがないんだけどね。で、私は、兄の若乃花がどうも好きじゃないんです。彼は「お兄ちゃん」じゃないですか。相撲よりお兄ちゃんな人。そういうところが、いい人そうで好き、という見方があるのはわかるのだけど、スポーツマンとしてはどうなのさ、という感じがしちゃって。ま、とにかく、横綱らしい横綱だったと思います、貴乃花。今日の一曲『NO SIDE』松任谷由実
2003年01月21日
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この前、友人が、ある芸能人の奥さんと仕事の関係で出会い、仲良くなったという話をしていた。それで「へー」と面白がって聞いていたところ、ふいに彼女が、「こんな話、あんたにしかできないよ」と言い出した。別に恥ずかしい話でもないのに変なことを言うなあと、思っていたら、「こんな言い方いやなんだけどさ、 あんた、私が芸能人の奥さんと仲良くなろうが、 ブランドもののバッグをいっぱい持ってようが、 会社の仕事でしょっちゅうハワイに行ってようが、 ちっとも羨ましいと思わないでしょ?」思わない。って言うか、思うか?「だからあんたには普通に話せるんだけど、 世の中にはこういう話をすると、 自慢してると受け取る人がいるわけよ」そんなにたくさんはいないと思うんだけど、彼女は私みたいなタイプの方が少ないと言った。たぶんいろいろイヤな思いをしているうちに、人を見ればドロボーと思えみたいになっちゃったんだろう。ちょっとたとえが変か。まあでも、確かに彼女の言うような人もいるんだろうとは思う。「羨ましい→嫉妬→自慢しちゃってさ→やな女」みたいな思考回路になっちゃうような人。「ココナツも気をつけた方がいいよ。 世の中、嫉妬深い人だらけなんだからね」かなり疑心暗鬼になっているようである。「うーん。でも、気をつけるのもめんどくさいねえ。 私はいいや、嫉妬されても、自慢げと思われても」だってそんなふうな人と付き合ったって楽しくないじゃん。かなりめんどくさそうだ。しかも乗り越えたい類のめんどくささでもないや。ねえ?でもそれ以前に、嫉妬されるようなことも、自慢らしいことも、とりたててないんだから、そもそも気をつける必要自体なさそうな私だった。今日の一曲『スターな男』ユニコーン
2003年01月20日
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頭にきたっあーーーーー!!!いやあ、さっき日記を書いたんですよ。長いやつを。それで、良い気分で『日記を書き込む!』を押したところ、ログイン画面に飛んじゃって、とりあえずパスワード入れたんですが、次に出た画面はトップページ。日記、書き込まれていやしません。画面戻しても、履歴で探しても、ないのは何故。何故、何故、何故。錯乱して、変な外国人みたいに、「ワータシノー、ニッキ、ドーコデースカー」呟いてしまいました。きっと別の時空に飛んで行ってしまったんですね。なわけはないですね。ただ単に消えたんですね。あーもう。そもそもログインしてたじゃないかーっログインしてないのに日記書けるわけないさ。知らないうちにログアウトされちゃってたわけかい。なしたんだべか。おっといけない、うっかり訛りが。まったく、人生、一寸先は闇でございます。今日の一曲『どぉなっちゃってんだよ』岡村靖幸
2003年01月19日
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80年代ブーム、まだ続いているようだ。年齢的に、80年代に10代を過ごしてる人たちが作り手の側に回ったから、という単純な理由なんだろうけど。私もまた80年代に10代を過ごした年代だ。というか、10代の全部が80年代だ。多感な時期を80年代とともに過ごしたってわけだ。完全なるエイティーズだ。・・・しつこい?(笑)そんな私は、10代の頃、いやな時代に生まれちゃったなと思っていた。流行するものがことごとく、自分の好みから大きくかけ離れていたからだ。私は70年代、60年代、さらには50年代にまで、憧れた。そして、マイナーなものが好きだった。もしや自分は、ただ単に、今を否定し過去を愛するタイプなのでは?それとも、流行に背を向けるひねくれ者?と、不安になったくらいであった。もっとも、90年代以降、次から次と、「今、流行してるものが好み」になってから、「あー単純に80年代が好みじゃなかったんだ」と、納得したわけなんだけど。80年代は、ヤンキーブームで幕をあけた。ヤンキーブームが落ち着いたと思ったら、今度は女子大生ブーム、ブランドブーム、もちろん社会はバブルで大はしゃぎ。その流れで、流行ったファッションは、ヤンキーファッションか、お水系ファッション。まあ、この二つは似たようなものなんだけどね。特徴は一言でいえば、だらしない感じか。「かったるいぜ」という言葉がよく似合う。もっとも、80年代後半には、信じがたい大きさの肩パットも流行ったわけだけど、あれはおそらく「かったるいぜ」の反動が、行き過ぎた結果だったんだろう。他にもピンクハウス系やサーファー系などなどもあったのだけど、そこまで語ると長くなるから省略。とにかく、全体を通して言えるのは「不自然であること」だった。ドラマはヤンキードラマか、中身がからっぽのトレンディドラマ。大映ドラマも流行っていたけど、これはむしろ、そのクサさを笑うためにあったと言っていいだろう。小説、マンガも、そんな感じ。音楽は、なんといっても消費の時代なので、多様だったわけだけど(それには救われた)流行大好きな人の間で人気があったのはディスコ系だろう。アコースティックな音が好きな人にとっては、肩身の狭い時代であった。ちなみに、歌詞なんかも、おバカさんぽいものが多かった。と言うか、ほとんどの人は歌詞なんか聞いちゃいなかったのかも。ノリがよければOKって雰囲気があった。とにかく、そんなわけで、私は80年代を、肯定的に見ることがどうにもこうにもできない。今、懐かしのドラマなんかを見ても、「おいおい、私はこの時代にいたことが恥ずかしいよ」と言いたくなるほどだ。つんくの作る音楽も、ダサい・・・と呟きたくなるほどだ。だ、同時に、最近、80年代の、間抜けな感じを、面白く思っているのも確か。ああ、なんてからっぽで、バカバカしくて、ダサいんだろう、と思いながらも、それをネタに笑うのが、なんだか楽しい。こんな間抜けな時代の人の一員であることを、面白い気分で受け入れられるようにもなって来た。80年代、当時、からっぽの時代と言われていた。「時代はめぐる、流行もめぐる。 けれど80年代だけはそうならないんじゃないか」なんてふうにも。世の中、わかんないものですね。今日の一曲『ビーナス』バナナラマ
2003年01月18日
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人のことばっかり気にしてる子だった。自分でも不思議なことに、「みんなに好かれたい」「人に嫌われたくない」っていう思いは、ほとんどなくて、傷つけてしまうのがイヤだったり、迷惑かけてしまうのがイヤだったり、そして誰かのために役に立ちたかったり、だったわけなのだけど。「幸福の王子」というお話が好きだった。誰かの為に自分を犠牲にするということを、気高く美しいことだと思っていた。自分さえ良ければという考え方を、さもしいものだと思っていた。今もそれは思っている。だけど、いつのまにか、自分をないがしろにしてまで、人のことを気にしている状況になっていて。自分も幸せじゃなくちゃダメなんだなって、思うようになった。誰かの為に自分を犠牲にするのは確かに美しいことだけど、犠牲って考えちゃうんじゃなくて、自分がそうすることを嬉しいって思えてのことじゃなくちゃいつか無理が増幅し、「なんで私が」「こんなにしてあげてるのに」ってふうになってしまうんだから。相手だって、「自分の為にこの人は犠牲になってる」と感じたら、負担になると思う。大体、こちらが相手の為にと思ってることと、本当に相手が望んでいることが一致してない場合も、結構よくあるわけで。自分の都合を優先することって、決して悪いことじゃないんだよね。それは、自分さえ良ければっていうのとは、大きく違うのだし、よく考えたら、当たり前のことだったんだよね。
2003年01月17日
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そりゃあ、理想形は、愛し愛されること。もちろんだ。でも、愛することと、愛されること、どうしてもどっちか一方しか選べないのだとしたら、絶対に、愛すること。私は生まれて来たことには意味があるという考え方は、受け入れていない。自分が今ここに生きていることは偶然の産物でしかない、と思っている。が、できるなら、「私が生まれて来たことには意味があった」と思いながら死んでいきたいものだと思う。ま、とどのつまりは、生まれて来たことの意味は、あらかじめ与えられているものではなく、自分で見つけ、自分で手に入れるものだという考え方なわけさ。で、その延長線上に、意味を持てるとしたなら、それは愛することだ、という思いがある。芸術家だったりしたなら、作品が意味ということもあるんだろうけど、私は普通の人なので、そういうわけに行かないしね。愛って、植物で言うなら太陽の光のようなものだと思う。太陽の光が足りない植物が、美しい花を咲かせることができないように、人は愛されることがなければ、本来の輝きを放つことができなくなってしまう。愛するって、誰かの小さな光になれるってことなんじゃないかな。それはものすごく素敵なことだと思う。自分の存在を愛しく思えるくらいに、素敵。そして、人を愛すると、優しさだとか、温かさだとか、自分の中のきれいな気持ちがどんどんあふれて来る。それはとっても気持ちの良いこと。だから、私は、愛する方が、いい。と、ここまで読んだ方は、「なんだよ、ココナツさんよー、 すべては自分のためかよ」と思うことでしょう。そうです。自分のためなんです(笑)自分が嬉しいから。自分が楽しいから。自分が幸せだから。しょせんは自分のためなので、見返りを求めるのはどうかと思う。しょせんは自分のためなので、相手が望んでいない時には撤退も必要かと思う。どこかに自分を必要としてくれる人がいるかもだし。光の種類を変えて、遠くから見守る月になるっていうのもありだけど。ところで、愛を恋愛に限ったならば、実は私は、恋という意味で人を好きになることが、とても少ないのだ。簡単に恋に落ちることがないタイプ。「いいな」と思っても、思いが大きくなるのには、時間がかかってしまう。だからこそ、好きになれた時には、本当に嬉しい。「好き」がどんどんふくらんで、愛になった時には、もっともっと嬉しい。こんなに好きにさせてくれてありがとうって言ってしまうくらい、嬉しいことなんです。今日の一曲『幸福論』椎名林檎
2003年01月16日
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茶色いサングラスをかけていたら、世界は茶色に見えるし、青いサングラスをかけていたなら、世界は青く見える。形のないサングラスってあるな、と思う。私のことでいえば、中学生くらいの頃は、とっても被害妄想で、いろんな人の態度でいちいち傷ついたりしてた。視線が冷たくない?他の人に対するのと自分に対する態度、違うくない?・・・私のこと、イヤなのかなあ?でも大人になってからは、そんなこと、ほとんど考えない。人間関係なんかどうもでいいやと開き直ったのではなく、鈍感になってしまったというのでもなく、単純に、私の目が、物事をそういうふうに処理しなくなったみたいだ。それは、意識的に変えたことではなくて、毎日の生活の中で、自分が、誰かから、「みんなに嫌われているような気がして」と悩みを相談された時に、「えっ!?それは考えすぎだ。大体、私はあなたを好きだ」と本気で思った、なんてことを繰り返しながら、自分自身に対しても、「あ、私も、この人と同じだったのかもなあ」と気がついたりなんかした中で、そして誰かと繋がりを築いて行けた中で、だんだんと、自然に、そうなって行ったことだったりする。サングラスの色は、意識的に変えられるってもんでもないのだと思う。かくいう私も、別の幾つかの場面では、自分のサングラスの色次第とわかっていながらも、どうにもできないことが、まだまだあるわけで。苦しんでいる人に、「あなたの被害妄想だよ」「見方を変えれば楽になるのに」「なんでそんなことでいちいち気に病んだりするの?」なんて言うのは簡単だ。ある意味、そのとおりではあるし。だけど、そんなこと、本人が一番よくわかってるんだと思う。わかってて、できないから、苦しいんだと思う。そんな知り合い、友達が、私の身近にも、何人かいた。「みんなが自分を嫌っているような気がして」と言っていた友達の一人は、たとえば私が、「そんなことはない、私はあなたが好きだよ」と言うと、ほっとしたような顔をして、納得したような返事をしてくれていたけれど、心の底の疑いを消すことはできなかったようで、会うたびに痩せて、髪の毛もどんどん減って、病院でもらった安定剤を飲んでさえ、症状は止まらなかった。彼女を心配している人は、もちろん私の他にもたくさんいたのだけれど、あえて言わせてもらえば、誰がどう元気づけようとしてもダメだった。頑張れなんて言葉は、おそらく誰も言わなかったと思う。それくらい彼女は誰が見ても、頑張っていたから。むしろ頑張りすぎだから悩んでしまうのだなというのが、誰の目にも明らかだったんだから。その彼女は、新しい職場に移り、元気を取り戻して行った。自分自身の目で耳で、仕事のやりがい、居場所、そういうものを見つけて行く中で、確かに信じられるものをつかんで行ったのだと思う。そしてサングラスの色が、変わって行ったのだと思う。私も含めて、周囲の人間が、何の役にも立たなかったとは思わない。少なくとも、彼女は、死んでしまわなかった。踏みとどまってくれた。たぶん、人が人にできることでは、それが精一杯のことなのだし、それで充分のようにも思う。サングラスの色が変われば目に映る世界は変わる。自分が何かを感じ何かを見つけることでしか、変えられないものではあるけれど、そうしたいと自分が思っているのなら、その時は、いつか必ずやって来る。世界が変わり、楽になれる時が、必ずやって来る。
2003年01月15日
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高校時代、仲間内で、「ココナツはさっぱり自分から連絡して来ない」「大体、あんたは、自分から誘うってこともしない」という話になったことがあった。「なんで?なんで?なんなの?あんた」例によって私は「へへへ」と笑いながら、いやーごめんごめんとかなんとか言っていたんだけど、ふと、ある人が、「みんなーココナツには悪気はないんだと思うよー」と、かばってくれた。「そうなんだよ、悪気はないんだよ」ここぞとばかりに身を乗り出した私に、彼女は言った。「ココナツはさー結局、ただ単に、 人並みはずれためんどくさがりやなだけなんだよね」なんか違う・・・。でも、何が違うのかわかんないしな、まあいいか。「そうなんだよー私は人並みはずれためんどくさがりやなんだよ」言ってみたら、全然違わない気がした。それ以来、私は『人並みはずれためんどくさがりや』として認知されることとなった。認知されるってことは気楽なものだ。味をしめたわけではないけれど、それ以降、私は自分のダメな部分を、ぽんぽん公表するようになったように思う。「私、ものすごい忘れっぽいからさー、 なんか忘れてたら指摘してね」「たまに無意識に人を怒らせること言っちゃってるらしいから、 ムカっときたらその場で文句言ってね」「それ苦手だから、完璧を求めるなら、自分でやってね」「一人っ子だから人との距離の取り方が下手なの、 違和感感じたら言ってね」「片付けができないの、 汚くていいなら遊びに来てね」別に開き直っているわけではない。自分のダメ部分が、時に人に迷惑をかけることは承知しているし、なるべく迷惑をかけないように気を配っている。できれば、直したいとも思っている。それなりに頑張ったりもしている(頑張りが足りないかもだけど)そのうえで、「苦手なの」「ダメなんだよね」と公表しているのだ。内心、頑張り、さらに表面的にも頑張ってたら、身が持たない。認めたほうが楽なら認めてしまえって感じだ。実際、ダメなんだから、ダメだと思われて結構なのだ、私は。だって事実だし。別にダメな所ばかりじゃないんだし。プライドは、「でも、私は、これなら自信あるよ」って部分に使いたい。こだわりは、「譲れない部分」「譲りたくない部分」にだけ、持っていたいのさ。ところで、ダメ部分を気軽に公表していると、まわりの人が親切に助けてくれちゃうことが多いので、結果的に「甘え上手」と呼ばれてしまう時がたまにある。なんかずるい人みたいで、ちょっとイヤだなと思う。だけど、そんなことはどうでもいいかって気もするので、「えへへ」と笑ってる私です。今日の本・『蕎麦ときしめん』清水義範今日の一曲『これが私の生きる道』PUFFY
2003年01月14日
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成人式。最初は例年よりも良い感じと報道されていたけれど、結局はあちらこちらでなんだかんだとあったらしい。またまた始まる、今の若い人は・・・のバッシング。私は、毎年、この時期、この手のニュースを見る度思う。「でもさー だからって新成人がみんなそうだってわけじゃないよねえ」いつの時代でも、ちゃんとした人とちゃんとしてない人がいる。暴れる人と暴れない人がいる。今、ワイドショーで、「最近の若者は困ったもんだ」と言ってる司会者、あなたの世代は若い頃、学生運動とヒッピーの世代。「日本の未来が心配ですよ」と語ってるコメンテーター、あなたの世代はシラケとオタクの世代。オタクは決して悪くはないけれど、宮崎勤やオウムに共感を覚えるというレポート、書いていたのは、この世代。「まったくですよね」と頷いてる私とほぼ同年代のアシスタント、あなたの世代はジュリアナで踊り狂ったり、夜の教室にしのびこんで窓ガラスを割ってた世代。ちなみにその横で微笑んでるお天気お姉さんは、援助交際やブルセラ、陰湿なイジメが話題になった世代。どの世代も、病んだ何かを抱えていたわけで。いつの時代も、みんながみんな病んでいたわけではなくて。だからね、「今時のハタチはダメですねー」じゃなくって、「今年も変なのがいましたねー」が、いいんじゃないのかな?私のハタチの頃ですか?やっぱりニュースに出てましたよ。「お行儀悪い、新成人って」ね☆今日の一曲『J・BOY』浜田省吾
2003年01月13日
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江守徹には親しみを感じている。別に素敵とも面白いとも思わないが、「しょうがないなあ」という暖かい目で見てしまう。嵐の桜井翔にも親しみを感じている。特に好みじゃないしときめくわけでもないが、「きみもいろいろたいへんなんだろね」という目で見てしまう。何故なら、私と同じ誕生日、同じ血液型だからだ。1月25日、水瓶座のA型。私は星座や血液型の性格判断を、かなり信憑性があるんじゃないか?と思っているので(占いとしては信じてないけど)生まれ年は違えども、誕生日と血液型が一緒ってことは、性格的に近いものがあるのでは?という気がしちゃうのだ。なので、親しみを感じ、暖かい目で見守ってしまうというわけ。ちなみに、同じ誕生日の有名人には、ほかに、漫画家の石ノ森章太郎、松本零士、映画監督の森田芳光がいます。しかしこの人たちは血液型を公表してないので、そんなに親しみを感じてません。みなさんは、誰と同じ誕生日、同じ血液型ですか?普通はあんまり気にしないのかな、そんなこと。付記・同じと知った時は少なからずショックだった、江守徹。今日の一曲『散歩道』Judy&Mary
2003年01月12日
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というわけで、これでもかってくらいに中島みゆきを聴き、「もーゲップだわ」となりました。しめしめです。試しにサザンの『エロティカセブン』をかけてみたら、踊りだしたくなりました。(エロティカセブン→ノリノリの、とってもバカバカしい歌。 そもそもタイトルが既にバカバカしい)ばっちりばっちり。ここでさらに、ドリフの大爆笑でも歌って、テレビ見ながら、江守徹あたりのモノマネでもやっちゃえば、元気回復、間違いなしです。江守徹がいなけりゃ中尾彬でも可。別にデヴィ夫人でもいいけど。が、テレビかけたら『インデペンデンス・ディ』をやってたので、前にビデオで観て感動したっけなあ・・・でも、どんな話だったっけ?という感じで、見入ってしまいました。またまた感動しちゃいましたよ。忘れっぽいって便利ですね。同じ映画で2度感動。この映画、巷では、バカ映画扱いされていました。私は別にバカ映画フリークってわけじゃないんですけど、面白かったーと思ったものの多くが、バカ映画として評価(?)されているような気がします。つまりは「見る目がない」ってことですかね。でもね、彼と一緒に見ていたのですが、「この後、洪水になるんだよな?」「それはディープインパクト」「この後、変な音楽で宇宙人が死ぬんだよな?」「それはマーズアタック」「ところでブルース・ウイリスは?」「それはアルマゲドン」「結局、スプレーかけて宇宙人を殺すのか?」「・・・なんだ、そりゃ」ってな感じで、私以上に記憶力が危うく、しかもうるさかったので、感動半減でした。そんなわけで、元気になりました。イェーイ。今日の一曲『いい湯だな」ザ・ドリフターズ
2003年01月11日
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ここ数日、最低値まで気分が落っこちていた。私にとって心のおクスリは音楽。元気がない時は音楽を聴く。症状によって処方も違うわけなんだけど、今回のように最低値まで行っちゃった時はこれだ。中島みゆき。中島みゆきは暗いのだ。重いのだ。でも、だからこそ、どうしようもないくらい気分が落ち込んでしまった時にいい。私の場合。元気な時には自分の心の闇なんか見たくはないが、片足、闇に突っ込んでる状態なら、いっそどっぷりつかってしまえ、溺れ死にしそうになれば、這い上がる気力も出て来るだろう、みたいな感じなのだ。そんなわけで、普段は聴かないのだけれど、万一の場合に備えて中島みゆきのカセットが何本も、私の部屋には常備されている。今日、この歌を聴いていたら、涙が出た。今日の一曲『誕生』中島みゆき
2003年01月10日
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暇だーと言ってる人を見ると、なぜだーと思う。私は今まで「暇だ」と思ったことなんかないかもしれない。とにかく子どもの頃まで遡っても記憶にない。暇だったことなんか。やりたいことだらけだ。読みたい本もいっぱいあるし、観たいビデオもいっぱいあるし、会いたい人もいっぱいいるし。ほとんどいつも、「あー忙しい」「あー時間がない」と思っている。そういえば、子どもの頃、よく、自分としては「あーあれもこれもやりたい、時間がない」と思いながら、本を読んだりしていると、母に「暇なんだったら掃除でもしなさい」と怒られた。母からすると、本というのは暇な時に読むものらしい。今日の一曲『いばらの冠』中谷美紀
2003年01月09日
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恋が始まったばかりの頃は、相手の態度や言葉や、自分を見る目なんかで、「あーん、もう、私にラブラブなのね」ということが、ひしひしと伝わって来るものだけど、一緒の時が長くなるにつれて、そんなふうに感じることは少なくなって行く。それは愛情が少なくなったからというわけじゃない。愛情は違う形となってちゃんとある。たとえば「別れた方がいいのかな」という話になれば、相手は「ちょっと待て」と言うだろう。そう、それは、愛情の問題ではないのだと思う。同じ人と長く付き合うということは、二人が一緒にいることが、当たり前の日常になるということなのだから、いつまでも高いテンションでいられるわけがない。仕方のないことなんだと思う。そして、それは、ある意味素敵なことでもあるわけで。ということは、重々承知なのだけど、それでも私は、ふっと寂しくなってしまうのだ。相手の態度や言葉や、自分を見る目なんかで。長く付き合っていると、「もう、相手なんか空気みたいなものだよ」「そりゃあ好きだけど、ときめきとかはないなあ」「大切だけど、もう恋って感じではないなあ」ってふうになることが多いのだと思う。だけど私はそういうタイプじゃないのだ。たいていは最初にドカンと、「好き好き好き」なのかもしれないけれど、私は最初は小さくて、付き合いが長くなるにつれて、気持ちが育って行くタイプだ。なので、何年付き合っても、ふとした表情にドキドキしたり、ちょっとした言葉に感動したりしてしまう。手がふれただけでも心臓がバクバクしてしまう。1人でいる時に相手を思い出して、「あー好きだなあ」なんて、しみじみ思ったりしてしまう。だから、もう恋って感じじゃないなあなんて言われると、片思いをしているみたいな気分で、しゅんとなってしまう。自分でもめんどくさいタイプだなあと思う。思うけれど、性格なので、こればっかりはどうしようもない。釣った魚にエサはやらない、なんて困るなあ。お魚だってね、エサをもらえないと、死んじゃうんだから。何年たっても、可愛いよって言われたい。好きだよって言われたい。今日の一曲『愛する女性とのすれ違い』SAS
2003年01月08日
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私の通っていた短大は、北海道なのだけど、半分くらいの割合で本州の人がいた。本州の人たちと仲良くなって最初に驚いたのは、みんなして語尾に「じゃん」をつけることだった。田舎育ちの私の周囲にも「じゃん」は何人かはいたけれど、どの人も無理して都会者ぶっている感じが濃厚で、とても不自然だったのに、彼女達には不自然さはまるで感じられなかった。「やるじゃん」とか言われた時は、やるにも「じゃん」をつけるのか、奥が深いな「じゃん」は、と感心したものだ。私は語尾に「っしょ」をつけていた。つまり、「言ったじゃん」なら「言ったっしょ」だ。上級バージョンとして「っしょや」がある。「言ったっしょや」本州から来た友達はこれに驚いていた。「しょ」は北海道弁として認識していたらしいのだけど、その前に小さな「っ」が、ついていることや、最後にさらに「や」までつけちゃうことまでは知らなかったらしく、「可愛い!!」と喜んでいた。可愛いかしら。あと、むやみやたらと語尾に「さ」をつけるのも面白がられた。「昨日、喧嘩したさ」「なしてさ」みたいなの。2年の短大生活の間に私は「じゃん」がすっかりうつってしまい、今じゃ知らないうちに「じゃん」を言ってるくらいになったが、基本はバリバリ北海道弁である。大好きなのだ、方言が。たまにこういうのも出る。「あれ?どうだったべか」方言大好きな私だけれども、この方言はちょっと、いや、かなり恥ずかしい。今日の一曲『おれの小樽』たぶん石原裕次郎
2003年01月07日
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母からよく「あんたは鈍感なんだから」と注意される。何気なく、「こんなことを言われたよ」と話すと、「鈍いね、それは遠回しに嫌味を言ってるんだよ。 何、のんきに、喜んでるのさ」と怒られたりする。父はよく「おまえは人がいいから」と嘆く。何気なく、「こんなことがあったよ」と話すと、「バカだな。おまえは。利用されてるのがわからないのか」と怒られたりする。で、二人して、「気がつかないってことは幸せなことだなあ」と言う。私は自分が鈍感だとも人がいいとも思っていないので、「なんでも深読みしちゃう人はたいへんだなあ」という気持ちで、それを聞いている。今日の一曲『ピンクスパイダー』hide
2003年01月06日
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あんまり好き過ぎると、重たがられ逃げられてしまうのではないかと思い、愛情表現を控えめにしていたら、「本当に俺が好きなのか」と言われた。なんだかその顔が寂しそうだったので、これは思いっきり好き好き好きでいってもいいらしいと安心し、どかんと愛情を表現していたら、相手もすっかり安心したらしく、他の女の子と浮気をしていることが発覚。頭から許してもらえると思っている様子にクラクラ。そうかと思えば、好きでもなんでもない人に急にもてて、誠実に断っても諦めてくれないので、面倒になって悪魔みたいにつめたくしていたら、なんだか相手はますます燃えて、「そういうところがいい」などと言う。そういうところって言われても、めんどくさくてどうでもいい態度をとってるところだ。しかも、そんなことをしている間に、天使にように接していた彼に裏切られ、「きみはなにも悪くない。俺が悪いんだ。ごめん」って。どうやら、悪魔的な女の子にクラッと来たらしい。恋愛って一体。匙かげんがどうもわからない。そうだよ、駆け引きなんかできないんだよ。私はいつでも、いっぱいいっぱいさ。余裕がないんだよっ(笑)注・例にあげたお話は、現在進行形の話じゃないので心配しないでね。今日の一曲『2枚でどうだ』宮尾すすむと日本の社長
2003年01月05日
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今、急に、具合が悪くなった。なんだろう。・・・ストーブのせいかも・・・。一酸化炭素中毒ってやつ!?キャーッ危険だ、危険だ。慌てて窓を開けた私でした。うっかり、いきなり、死にたくないですね。人に見られたくないものがいっぱいあるし、今日まだお風呂に入ってないし、箪笥の中がごちゃごちゃで恥ずかしいし、電話代、まだ払ってないし、ネットで買った商品がまだ届いてないし。幽霊になってから、じたばたしたくないですね。「それは見ないでー」と七転八倒しても、無駄なあがきになっちゃいますからね。どうせ死ぬならいろいろやっときゃ良かったよ、と後悔しちゃって、自縛霊になったりしても困るしね。だから、と言うか、まったく関係ないかもしれないのだけど、私はもしも不治の病にかかったとしたら告知して欲しいです。私は変に楽天的なので、自分がそこまでひどい病気だなんてたぶん考えないと思うんです。「胃潰瘍だ」と言われれば「ああ、そうなのか」って納得するようなタイプなんですよ。で、自分で歩けないくらいにどうにもこうにも体が弱ってから、「こ、これは、やっぱり・・・」と、ようやく気がつくんじゃないかと思うのですが、それからじゃ何もできないですから、そしたら私は、「なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ、バカバカ」と暴れてしまうと思います。今日の本・『空くんの手紙』小田空今日の一曲『楽園』イエローモンキー
2003年01月04日
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自分の中ではいつも何かがせめぎあっている。理想と現実が。本来の価値観と一般常識が。情熱と冷静が。私の都合と相手の都合が。プライドと利益が。やりたいこととやらなければいけないことが。心の中にあるものがどちらか一方だけだったなら、今よりももっと気楽に暮らしていけるのに。なんて甘えたことを考える。何よりも私を縛り付けているものは、いつだって自分で決めたルールだ。何よりも私を困らせるものは、どんな時も逃れられない自分の視線だ。自由になりたい。自分で作った檻を壊したい。けれど、この檻は、自分を守るものでもあって。・・・困ったものだね。今日の一曲『たどりついたらいつも雨降り』吉田拓郎
2003年01月03日
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子どもの頃に思い描いていた未来と、今の自分とのギャップ。普段はそんなことを考えたりしない。無意識に心を防御しているのかもしれないけれど。何気なく夜空を眺めている時なんかの、ふとした瞬間にそれはやって来て、すとんと悲しい気持ちに、私は落っこちる。闇が邪魔をして未来が見えない。夜のせいだ。夜の心は無防備だから。柔らかい毛布にくるまって眠ってしまおう。楽しい夢を見て元気を出そう。さあ、夜を乗り切って、明るい陽射しの中で明日からのことを考えよう。今日の一曲『サンキュ』Dreams Come True
2003年01月02日
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今年もたくさんの素敵なことが、あなたにも、私にも、降り注ぎますように。松任谷由実『A HAPPY NEW YEAR』を聴きながら。
2003年01月01日
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