《櫻井ジャーナル》

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2009.09.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 日本航空をアメリカの航空会社が支援する動きを見せている。デルタ航空とアメリカン航空が提携を持ちかけているのだが、その原因は日本航空の経営不振にある。業績悪化の原因はいくつかあるが、ひとことで言うならば、経営陣の無能だ。政治家や官僚に寄生され、衰弱したとも言える。こうした体質を示す出来事が1980年代の後半に起こった。

 長い間2000円台の前半で推移していた日本航空の株価が1984年から急騰、85年の夏には8000円を突破した。相変わらずの「政治銘柄」だということで、一儲けしようと「提灯をつける」人々が群がった。そうした浮かれた雰囲気を一気に冷やす事件が起こったのは1985年8月12日のこと。日本航空の123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落したのである。

 後部の圧力隔壁が損壊して尾翼が内部圧力で吹き飛ばされた結果、操縦系統も失われて墜落したということになっているが、この公式見解に疑問があることは 本コラム でも指摘した通り。事件直後に総会屋たちは安全を無視した経営方針が事故を引き起こしたと噂していた。利益を出すために整備部門のコストをカットしていたというのだが、確かにそうしたことはあった。

 実は、1987年度中に日本航空を「完全民営化」することになっていたのだが、無配に転落してしまう。そこで、1987年3月期には配当を復活したいと経営陣は発言していた。政府も復配を実現したいと思っていたはずである。

 言うまでもなく、復配すれば株価を引き上げる「材料」になる。株価が上がれば、大蔵大臣名目で保有されていた4089万9000株を高い価格で売却することができる。しかも、その先の1988年には700万株の時価発行増資を行うことがスケジュールに載っていた。

 123便が墜落した後、多くの証券関係者は仕手相場が終わったと考えたのだが、内情に詳しい人たちは「必ず上がる」と言って買い増ししていた。実際、墜落後に5000円を切るところまで値下がりした株価は、10月あたりから再び急騰、1987年には2万円を突破している。

 株価が急騰している時期、日本航空の社長は中曽根康弘首相と親しいと言われた高木養根が務めていた。実際に相場を実際に引き上げていたのは、仕手筋として有名だった三洋石油グループだったが、その背景に大蔵省や首相の影を感じる人は少なくなかった。

 日本航空の株価暴騰には「プラザ合意」も影響していた可能性が高い。つまり、1985年9月にニューヨークのプラザ・ホテルで開かれたG5でドル安/円高が決まった。この時期にアメリカの財務省証券を買いたがる日本人は少ないだろうが、アメリカの権力者に従うことで権力を維持してきた日本のエリートとしては、買わないわけにはいかない。大変な矛盾だ。



 そのクレージーな超長期予約を計画したのは1984年9月で、実際に予約を決めたのは85年8月だとされている。ドル安/円高へ進むことは避けられない中での決定なのだが、その裏では日本の金融機関が置かれた立場があった。つまり、ドル安になることがわかっても金融機関はアメリカの財務省証券などを購入(ドル買い)しなければならない。損を少なくするためには、ドルを「転売」しなければならない。日本航空が行った超長期の先物予約はありがたかったであろう。

 当然、日本航空は先物予約で大損することが見通されていたはず。だからこそ、株価を暴騰させ、時価発行増資を実行したのだろう。そうとしか思えない。そして今、日本航空はアメリカの航空会社との結びつきを強めようとしている。権力者の「おもちゃ」という同社の「伝統」は生きているようだ。





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最終更新日  2009.09.15 00:19:22


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