《櫻井ジャーナル》

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2015.09.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 イスラエルのテレビ局「チャンネル2」の取材に応じたとして、同国の警察と治安機関シン・ベトはモルデカイ・バヌヌを9月10日に逮捕した。バヌヌは1977年から8年間、技術者としてイスラエルの核施設で働いた経験があり、その経験に基づいて86年に同国の核兵器開発を内部告発した人物だ。

 内部告発後、イスラエルはイギリスの治安機関MI5とのトラブルを避けるため、ロンドンにいたバヌヌをローマへ誘き出し、そこで拉致する。バヌヌの居場所は、彼が接触したオーストラリアやイギリスのメディアからイスラエルへ通報されていた。イスラエルで1988年に懲役18年を言い渡され、すでに出所しているバヌヌだが、現在でも「自由の身」にはなっていない。イスラエルの支配層が恐れる秘密をバヌヌはまだ持っている、少なくともイスラエルの当局はそう考えているのだろう。

 ディモナにある核施設でバヌヌが担当していたのは原爆用のプルトニウム製造。生産のペースから計算するとイスラエルは150から200発の原爆を保有していることが推定されるとしていた。水爆に必要な物質、リチウム6やトリチウム(三重水素)の製造もバヌヌは担当、別の建物にあった水爆の写真を撮影したという。また、イスラエルは中性子爆弾の製造も始めていたとしている。

 イスラエル軍情報局のERDに所属した経験があり、イツハーク・シャミール首相の特別情報顧問を務めたこともあるアリ・ベン・メナシェもイスラエルは水爆を保有していると語っている。彼によると、1981年頃にイスラエルはインド洋で水素爆弾の実験を実施、その時点で同国が実戦配備していた原爆の数は300発以上だったという。イスラエルが保有する核弾頭の数は400発だとする推測もある。

 ディモナを含むネゲブ地方の地質調査が始まったのは1949年で、52年にはIAEC(イスラエル原子力委員会)が創設されて核兵器の開発が始まる。この開発で重要な役割を果たしたひとりがフランスのCEA(原子力代替エネルギー委員会)で1951年から70年まで委員長を務めたフランシス・ペリン。1956年にはシモン・ペレスがフランスでシャルル・ド・ゴールと会談し、フランスは24メガワットの原子炉を提供することになった。

 イスラエルの核兵器開発には欧米の富豪、例えばエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアブラハム・フェインバーグが資金を提供していたと言われている。いずれもシオニストで、フェインバーグはハリー・トルーマンのスポンサーとしても知られている。

 1958年になるとアメリカの情報機関もイスラエルが核兵器を開発している可能性が高いことを認識する。CIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ったのだ。

 そこで、CIA画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。ランダールが大統領へ報告する場合、通常はアレン・ダレスCIA長官やジョン・フォスター・ダレス国務長官が同席したようで、両者も調査の続行を要求しなかった可能性が高い。この時期、アメリカではソ連に対する先制核攻撃の準備が始まっていた。

 核兵器の開発には重水が必要だったのだが、この 重水をイスラエルはノルウェーからイギリス経由で秘密裏に入手

 コラムニストのチャールズ・バートレットによると、フェインバーグは1960年の大統領選でジョン・F・ケネディに対し、中東の政策を任せてくれるなら資金を提供すると持ちかけている。現在ほどではないにしろ、当時でも選挙戦は多額の資金が必要で、資金力のある個人や組織に頼らざるを得ない仕組みになっている。その提案をケネディは呑み、任期の途中、約束は守られたとされている。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” 1991, Random House)

 しかし、ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んだことも事実のようだ。同国のダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディ大統領は送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)

 1960年には西ドイツのコンラッド・アデナウアー首相もイスラエルの核兵器開発に手を貸している。この年の3月、アデナウアー首相はニューヨークでダビッド・ベングリオン首相と会談、核兵器を開発するため、1961年から10年間に合計5億マルク(後に20億マルク以上)を融資することを決めた。その後、ドイツは5隻のドルフィン型の潜水艦をイスラエルへ提供、あと1隻の契約も成立しているという。この潜水艦は核ミサイルを搭載でき、ドイツは中東の不安定化に貢献していると言える。

 アデナウアーとベングリオンが会談する前月、1960年2月にイスラエルの科学者はサハラ砂漠で行われたフランスの核実験に参加、その直後にはイスラエル自身が長崎に落とされた原爆と同程度の核兵器を所有している。1963年にはイスラエルとフランス、共同の核実験が南西太平洋、ニュー・カレドニア島沖で実施された。1967年の第3次中東戦争、つまりイスラエル軍がエジプトとシリアを奇襲攻撃、エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原などを占領した。

 戦闘の最中、イスラエル軍は偵察飛行を繰り返した後、アメリカが派遣していた情報収集船「リバティ号」を攻撃、乗組員34名が死亡、171名が負傷した。リバティ号の通信兵は寄せ集めの装置で第6艦隊に遭難信号を発信、救援のために戦闘機が離陸するのだが、ロバート・マクナマラ国防長官は第6艦隊に対し、戦闘機をすぐに引き替えさせるようにと叫んでいる。そのため、救援は大幅に遅れた。(Alan Hart, “Zionism Volume Three”, World Focus Publishing, 2005)。

 ここにきて注目されているのはイスラエルの中性子爆弾。1980年代にイスラエルが中性子爆弾を製造していたとバヌヌは証言しているが、最近では小型化が進み、実戦で使われていると主張する核兵器の専門家もいる。例えば、2013年5月や14年12月におけるシリアであった爆発や 今年5月にイエメンであった爆発 。天津のケースも疑い濃厚だと見られている。CCDカメラに画素が輝く現象(シンチレーション)があったり、爆発の状況から可能性は高いとされている。





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最終更新日  2015.09.14 21:20:29


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