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モスクワ近くのクラスノゴルスクにあるクロッカス・シティ・ホールが3月22日に襲撃され、銃撃と火災で140名以上が死亡した。ホールで観客を自動小銃で殺傷した4名を含む相当数の共犯者がロシア国内だけでなく、トルコやタジキスタンで逮捕されている。 ロシア国家反汚職委員会のキリル・カバノフ委員長によると、実行グループが残したデータは、彼らがウクライナの特殊部隊/ネオ・ナチと連絡を取り合っていたことを示しているようだ。それが事実なら、自動的にアメリカやイギリスの情報機関、つまりCIAやMI6につながる。本ブログでは繰り返し書いてきたことだが、西側が犯人として扱っているダーイッシュ-ホラサン(IS-KP、ISIS-K)は他のイスラム系武装集団と同じように、CIAやMI6の傭兵だ。 こうしたイスラム系武装集団の仕組みは、1970年代にズビグネフ・ブレジンスキーがアフガニスタンで始めた秘密工作にともない、築かれた。イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは05年7月、「アル・カイダ」についてCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだと説明している。なお、クックはこの指摘をした翌月、保養先のスコットランドで心臓発作に襲われて59歳で死亡した。 ダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)もこの仕組みから生まれた武装集団。そうした集団の出現をアメリカ軍の情報機関DIA(国防情報局)は2012年8月、ホワイトハウスに警告していた。オバマ政権が支援している反シリア政府軍の主力はアル・カイダ系武装集団のAQI(イラクのアル・カイダ)で、アル・ヌスラと実態は同じだと指摘、その中心はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団だとしているのだ。2012年当時のDIA局長はマイケル・フリン中将である。 また、すべてのNATO加盟国には秘密部隊が存在していることも知られている。1960年代から80年代にかけて爆弾テロや要人暗殺を繰り返したイタリアのグラディオは特に有名だが、NATOに加盟していないウクライナのネオ・ナチがこのネットワークに組み込まれていることは本ブログで指摘済みだ。 ダーイシュが出現したのは2014年1月。イラクのファルージャで「イスラム首長国」の建国を宣言、6月にはモスルを制圧している。その際にトヨタ製小型トラック、ハイラックスの新車を連ねたパレードが行われ、その画像が世界に流されたのだが、このハイラックスを購入したのはアメリカの国務省だとも言われていた。こうした戦闘集団の動きをアメリカの軍や情報機関は偵察衛星、無人機、通信傍受、人間による情報活動などで知っていたはずだが、反応していない。 そのダーイッシュを含むイスラム武装勢力は2015年9月にシリア政府の要請で介入したロシア軍によって壊滅させられた。その際、アメリカの軍や情報機関がダーイッシュなどの幹部をヘリコプターなどで救出している。行くへは不明だったが、アフガニスタンへ運んだと言われていた。 その当時、FSB(連邦安全保障局)のアレクサンダー・ボルトニコフ長官は、ダーイッシュのメンバー約5000名がアフガニスタン北部に運ばれ、中央アジアの旧ソ連諸国を脅かしていると語っていた。 ウクライナでネオ・ナチを率いているひとりのドミトロ・ヤロシュは2007年からOUN-B(ステパン・バンデラ派)系のKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)のリーダーになり、そのタイミングでNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。 ヤロシュはチェチェンやシリアで戦ったサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)などイスラム系の武装集団と関係があり、2007年5月にはウクライナのテルノポリで開かれた欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議で議長を務めている。こうした関係もあり、イスラム武装勢力はウクライナでも戦闘に参加してきた。 中央アジアの中で戦略上、最も重要国はカザフスタンだろう。そのカザフスタンで2022年1月2日から暴力的な反政府活動が始まり、暴動化して救急車やパトカーだけでなく市庁舎も放火される事態になる。外国人を含むジハード戦闘員2万名ほどが銃撃戦を始めたという。 カシムジョマルト・トカエフ大統領は外国が介入していると非難し、CSTO(集団安全保障条約)に平和維持部隊を派遣するように求めた。この部隊によって事態は沈静化、1月6日にはカザフスタンの安全保障会議で議長を務めていたカリム・マシモフが解任され、反逆罪で逮捕されたと伝えられた。暴動にはヌルスルタン・ナザルバエフ前大統領の甥も参加していたと言われていたが、ナザルバエフはトニー・ブレア元英首相からアドバイスを受けていた人物。1995年から投機家のジョージ・ソロスもカザフスタンへ食い込んでいた。 なお、ダーイッシュはタリバーンによってアフガニスタンから追い出され、タリバーンと外交的に連携していないタジキスタンへ移動したと言われている。
2024.03.31
ロシアのセルゲイ・ナルイシキンSVR(対外情報庁)長官は3月25日から27日にかけて朝鮮を訪問、同国の李昌大国家安全保衛相と会談したという。敵対国によるスパイ活動や破壊工作に対処する方策について協議したようだ。軍事的な緊張が東アジアで高まっている中、昨年9月11日に朝鮮の金正恩労働党委員長はEEF(東方経済フォーラム)へ出席するためにウラジオストクを訪問、ウラジミル・プーチン露大統領とも会談して関係の強化をアピールしている。 こうした動きより先行して動いてきたのがアメリカ。東アジアでアメリカを中心にした軍事同盟を強化しつつあるのだ。 最近ではフィリピンのフェルディナンド・マルコス・ジュニア(ボンボン・マルコス)を取り込み、JAPHUS(日本、フィリピン、アメリカ)を編成しているが、その前にアメリカはオーストラリア、インド、日本とクワドを、またオーストラリアやイギリスとAUKUSを組織、そこに緊張を高める仕掛けとして台湾が加わる。NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月にオーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言した。しかし軍事同盟の中心はアメリカ、日本、韓国で編成されている三国同盟だろう。 中国やロシアと経済的に強く結びついていた韓国を引き込む上で重要な役割を果たしたのは尹錫烈だ。2013年2月から韓国の大統領を務め、中国との関係を重要視、THAADの配備に難色を示していた朴槿恵を怪しげなスキャンダルで排除した。 尹錫烈は文在寅政権でソウル中央地検の検事正になった人物。李明博元大統領や梁承泰元最高裁長官を含む保守派の主要人物を逮捕して文大統領の信頼を得て検事総長に就任、次期大統領候補と目されていた趙国法務部長官(当時)に対する捜査を開始した。英雄を演じ、大統領選挙で勝利するのだが、その後、尹の指揮で検察は民主党の李在明党首を収賄容疑で捜査している。大統領になった彼がアメリカに従属する政策を打ち出しているのは必然だろう。その尹大統領と日本政府は手を組んでいる。 アメリカの軍事戦略は国防総省系のシンクタンク「RANDコーポレーション」の報告書で説明されている。すでにアメリカはロシアの周辺にミサイル網や生物化学兵器の研究開発施設を張り巡らせているが、中国の周りにもミサイルを配備しはじめている。GBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲するというのだ。 日本はこうしたミサイルを容易に配備できるのだが、「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約がある。そこでアメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにし、ASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたとされている。 こうした戦略に基づき、2016年には与那国島でミサイル発射施設を建設、19年には奄美大島と宮古島、そして23年には石垣島。その間、2017年には朴槿恵政権がスキャンダルで機能不全になっていた韓国でTHAAD(終末高高度地域防衛)ミサイル・システムの機器が強引に運び込まれている。 また、中国福建省の厦門から約10キロメートルの場所にある台湾の金門はアメリカにとって軍事的に重要な拠点。そこにはアメリカ陸軍の特殊部隊「グリーンベレー」が「軍事顧問」として常駐していることがここにきて判明した。中国に対する何らかの工作が始まっていたとしても驚かない。 2022年10月には「日本政府が、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」の購入を米政府に打診している」とする報道があった。亜音速で飛行する巡航ミサイルを日本政府は購入する意向で、アメリカ政府も応じる姿勢を示しているというのだ。自力開発が難しいのか、事態の進展が予想外に早いのだろう。 トマホークは核弾頭を搭載でる亜音速ミサイルで、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートルという。中国の内陸部にある軍事基地や生産拠点を先制攻撃できる。「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約は無視されていると言えるだろう。 そして昨年2月、浜田靖一防衛大臣は2023年度に亜音速巡航ミサイル「トマホーク」を一括購入する契約を締結する方針だと語ったが、10月になると木原稔防衛相(当時)はアメリカ国防総省でロイド・オースチン国防長官と会談した際、アメリカ製の巡航ミサイル「トマホーク」の購入時期を1年前倒しすることを決めたという。当初、2026年度から最新型を400機を購入するという計画だったが、25年度から旧来型を最大200機に変更するとされている。 こうした好戦的な政策をアメリカで推進しているのはネオコン。1999年3月にNATO軍を利用してユーゴスラビアを先制攻撃して国を破壊、2008年8月には南オセチアをジョージア軍が奇襲攻撃したが、ロシア軍の反撃で惨敗している。 ジョージアは2001年からイスラエルの軍事支援を受けていた。武器弾薬を含む軍事物資を提供するだけでなく、将兵を訓練している。後にアメリカの傭兵会社も教官を派遣した。事実上、イスラエル軍とアメリカ軍がロシア軍に負けたのだ。 ウクライナではネオ・ナチを使い、2013年11月から14年2月にかけて暴力的なクーデターでビクトル・ヤヌコビッチ大統領の排除には成功したが、資源が豊かで穀倉地帯でもある東部、重要な軍港があるクリミアの制圧には失敗した。そこからアメリカ/NATOは内戦を始める。 アメリカ/NATOは2014年から8年かけてクーデター体制の戦力を強化、その間に要塞線も築いた。そして本格的な軍事攻勢をかける直前、2022年2月24日にロシア軍はウクライナ軍に対する攻撃を開始、大きなダメージを与えた。月末の段階でウクライナ軍の敗北は決定的で、イスラエルやトルコを仲介役として停戦交渉が始まり、仮調印まで漕ぎ着けた。それを潰したのがアメリカとイギリスの支配層だ。 それ以降も戦場でロシア軍と戦ったのはウクライナ軍だったが、武器弾薬を供給、情報を与え、作戦を指揮するのはアメリカ/NATO。その仕組みがここにきて限界に到達し、ロシア領に対するテロ攻撃やNATO軍の投入が言われはじめた。 3月22日のクロッカス・シティ・ホールに対するテロ攻撃では襲撃グループの携帯電話を早い段階で回収できたこともあり、逃走経路だけでなく、支援システムや指揮系統も明らかにされつつある。3月26日にはロシアのFSB(連邦安全保障局)のアレクサンダー・ボルトニコフ長官はメディアに対し、クロッカスのテロ攻撃にはアメリカ、イギリス、ウクライナが関与していると語っている。アメリカとイギリスの名前を口にしたということは、アメリカやイギリスとの戦争をロシアは覚悟したのだと考えられている。ナルイシキンの朝鮮訪問はそうした流れの中での出来事だ。
2024.03.30
4月19日に予定している「櫻井ジャーナルトーク」の予約受付は4月1日午前9時からですが、下記のEメールへ変更になりました。makato@luna.zaq.jpなお、開催場所に変更はありません。東京琉球館http://dotouch.cocolog-nifty.com/住所:東京都豊島区駒込2-17-8 ところで、3月22日に実行されたクロッカス・シティ・ホールに対するテロ攻撃を実行したグループは、3月8日にイスタンブールからモスクワへ戻っていたことが判明しました。 アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官は3月5日、ビクトリア・ヌランド国務次官が数週間以内に退任すると発表し、3月7日から8日にかけてアメリカとイギリスの駐露大使館はモスクワでテロの可能性があるため48時間は大きな集まりに参加しないようにと警告していますが、「奇妙な符合」だと言えるでしょう。 ロシアでは3月15日から17日にかけて大統領選挙が実施されました。その前に攻撃を予定していた可能性が指摘されています。ロシアの大統領選挙を吹き飛ばしてしまおうということになるでしょうが、選挙前は警戒が厳しいために断念したのかもしれません。 アメリカ政府の作戦中止命令に背いてテロ攻撃を実施したと推測する人もいます。その推測が正しいならば、テロ攻撃の黒幕にとってクロッカス・シティ・ホールの事件はロシアだけでなくアメリカでのクーデターでもあるでしょう。櫻井 春彦
2024.03.29
クロッカス・シティ・ホールに対する3月22日の襲撃では銃撃と放火で140名以上が殺され、4人の実行犯がウクライナに近いブリャンスクで逮捕された。アメリカの元情報将校でUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めたスコット・リッターによると、ロシア当局は襲撃現場で実行犯の携帯電話を回収、そこに記録されていたデータを利用して追跡、ウクライナで実行グループと連絡を取り合い、逃走を支援していた共犯者も特定したという。 実行犯に居住場所や移動手段を提供していたモスクワの支援網関係で11名、今回のテロ事件のためにトルコで戦闘員を募集、訓練、兵站を準備するなどしていた40名も逮捕されたという。そしてSBU(ウクライナ安全保障庁)のバシーリー・マリューク長官に関しても逮捕令状を発行できるだけの証拠があるともいう。 すでに本ブログでも書いたことだが、SBUはGUR(国防情報総局)と同じように、2014年2月にクーデター体制が成立して以来、アメリカのCIAの指揮下にあり、イギリスのMI6(SIS)からも大きな影響を受けている。SBUがテロの指揮系統に入っているということは、必然的にアメリカやイギリスの情報機関が関与していることを意味する。 アメリカ政府をはじめ、西側ではウクライナ政府は無関係で、実行したのはダーイッシュ-ホラサン(IS-KP、ISIS-K)だという宣伝が繰り広げられているが、本ブログでもすでに書いたように、この武装集団はアメリカやその同盟国によって使われている傭兵の集まりで、カルトの信者ばかりではない。今回の実行グループはウクライナへの逃走を図っている上、シャハーダ(信仰告白)の際に左手を使うというイスラム教徒ならありえない行動も確認されている。 アメリカ政府の動きも奇妙な点が指摘されている。例えば3月7日にアメリカの駐露大使館はモスクワでテロの可能性があるので、48時間、大きな集まりに参加しないようにとすると警告を出している。つまり、この警告は3月9日で期限切れ。もし危険な状態が続いているとアメリカ政府が判断しているなら、公式ルートを利用して新たな警告を出す必要があったはずだ。 アメリカ側からロシアに対する挑発的な発言もあった。例えば、統合参謀本部議長を辞めて間もないマーク・ミリーの昨年12月4日における発言。ロシア人は夜中に喉を切り裂かれるのではないかという心配で眠れなくなると語っている また、国務副長官代理を務めていたビクトリア・ヌランドは1月31日と2月22日、ウラジミル・プーチン露大統領はウクライナの戦場で驚きに直面するだろうと発言、アントニー・ブリンケン国務長官は3月5日に彼女の「退任」を発表した。ヌランドは責任を回避するために逃げたのか、ヌランドたちのテロ計画を察知した政府の誰かが解任したのか、あるいは別に理由があるのか、不明だ。 ウクライナでの戦闘でアメリカ/NATOが使ったネオ・ナチ軍はロシア軍に負けた。さらに戦いを続けたいなら、NATO軍をウクライナへ侵攻させるか、米英情報機関が第2次世界大戦後に築いた破壊工作を目的とした秘密組織のネットワークを使うしかなかった。別の地域へ戦乱を広げる手もあるが、可能性が高いのは東アジアだ。
2024.03.29
クロッカス・シティ・ホールが襲撃され、140名以上が殺されたテロ事件の背景が徐々に判明してきた。ロシアの監視網を逃れ、武器を調達するためには西側の情報機関が必要で、逃走ルートも綿密に計画されていたようだ。 すでにロシア側はウクライナの役割を指摘しているが、ウクライナの情報機関GURや治安機関SBUは2014年2月以降、CIAの指揮下にあるほか、イギリスのMI6(SIS)も大きな影響力を持っている。アメリカの元情報将校でUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めたスコット・リッターによると、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領はイギリスの対外情報機関MI6の命令で動いている。 アメリカのCIAとイギリスのMI6は、いずれも金融資本との関係が深い。両機関を誰が作り上げたのかを調べれば、金融資本との関係は容易に理解できるだろう。 MI6が創設されたのは1909年。本ブログでは繰り返し書いてきたように、第1次世界大戦にロシアを引きずり込むために有力貴族のユスポフ家との関係を築き、戦争に反対していたグリゴリー・ラスプーチンを暗殺している。暗殺犯はフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの弾丸を発射したのはユスポフとオックスフォード大学で親しくなったオズワルド・レイナーだった可能性が高い。勿論、レイナーはMI6の工作員だ。 ロシア工作を進めていたイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、そこにはユスポフ家の宮殿で生まれたというスティーブン・アリーやレイナーが含まれていた。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013) イギリスでは1940年、ウィンストン・チャーチル英首相の命令で破壊活動を担当するSOE(特殊作戦執行部)を創設している。「ベーカー街の不正規兵」とか「チャーチルの秘密軍」とも呼ばれていたが、この組織も金融資本との関係が深い。チャーチルはロスチャイルド金融資本と関係が深いが、1942年からSOE長官を務めたのはハンブロー銀行のチャールズ・ハンブローだ。 1942年にアメリカではイギリスのアドバイスに従い、戦時情報機関としてOSS(戦略事務局)が設置され、ウォール街の弁護士だったウィリアム・ドノバンが長官に就任した。アメリカ版SOEとしてOSSの内部にSO(秘密工作部)を設置、ドノバンは弁護士仲間のアレン・ダレスをその責任者に据えている。ダレスがウォール街で親しくしていたひとりがプレスコット・ブッシュにほならない。 ところで、MI6の正式名称は「秘密情報局(SIS)」である。イスラエルの情報機関「モサド」をイギリス式に表記するとISISだが、現在、「ISIS」と書くと、それはダーイッシュを意味する。 クロッカス・シティ・ホールのテロ攻撃を実行したのはダーイッシュ-ホラサン(IS-KP、ISIS-K)だと西側では宣伝している。9/11の時と同じように、事件の詳細が不明な段階でアメリカ政府はISIS-Kの犯行だと断定したのだ。ISIS-Kは犯行声明を出しているが、それを裏付ける証拠はない。 ダーイッシュのデビューは2014年のことだ。その年の1月にイラクのファルージャで「イスラム首長国」の建国が宣言され、6月にはモスルが制圧された。その際にトヨタ製小型トラック、ハイラックスの新車を連ねたパレードが行われ、その画像が世界に流された。こうした戦闘集団の動きをアメリカの軍や情報機関は偵察衛星、無人機、通信傍受、人間による情報活動などで知っていたはずだが、反応していない。 そうした武装集団の出現をアメリカ軍の情報機関DIAは2012年8月の時点でホワイトハウスに警告していた。オバマ政権が支援している反シリア政府軍の主力はアル・カイダ系武装集団のAQI(イラクのアル・カイダ)で、アル・ヌスラと実態は同じだと指摘、その中心はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団だとしているのだ。2012年当時のDIA局長はマイケル・フリン中将である。 報告書の中で、オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフィ主義者の支配地域を作ることになるとも警告、それがダーイッシュという形で現実になったわけだ。そしてダーイッシュは残虐さを演出、アメリカ/NATOの介入を誘ったわけだが、2015年9月にシリア政府はロシア政府に軍事介入を要請、ロシア軍がダーイッシュなど傭兵部隊を一掃していく。 ダーイッシュもアル・カイダ系武装集団も傭兵だという点で同じ。リビアの戦闘で地上部隊の主力として活動したLIFGはアル・カイダ系だが、1996年の段階でMI6の手先として活動していたとする証言がある。 この年、LIFGはムアンマル・アル・カダフィの車列が通りかかるタイミングで爆弾を炸裂させたのだが、失敗している。この事件に絡んでカダフィ政権はオサマ・ビン・ラディンに逮捕令状を出したが、MI5(イギリスの治安機関)の元オフィサー、デイビッド・シャイラーは暗殺計画の黒幕をMI6だと語っている。協力関係にあったLIFGへMI6が資金を提供したというのだ。 LIFGとアル・カイダとの関係はカダフィ体制が倒された直後に広く知られるようになった。反カダフィ派の拠点だったベンガジはアル・カイダ系武装集団の拠点でもあり、カダフィ体制が倒された直後には裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられたのだ。この様子を撮した映像はすぐにユーチューブへアップロードされ、イギリスのデイリー・メール紙も大きく取り上げている。(Daily Mail, November 2, 2011) カダフィ体制を倒した後、アメリカなど侵略国は戦力をシリア攻撃に集中させるが、シリア軍は手強い。そこでバラク・オバマ政権は傭兵部隊への支援を強化するのだが、そうした行為は危険だとDIAが警告したのだ。 ちなみに、アル・カイダは1970年代にズビグネフ・ブレジンスキーがアフガニスタンで始めた秘密工作の一環として創設された。イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは05年7月、「アル・カイダ」についてCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだと説明している。 コンサート・ホールの襲撃は西側の情報機関が協力しなければ実行できなかっただろうが、西側が責任を押し付けようとしているダーイッシュは彼らの手先なのである。
2024.03.28
モスクワに近いクラスノゴルスクにあるクロッカス・シティ・ホールが襲撃され、約140名が殺されたテロ事件で、銃撃犯の4名を含む11名がウクライナに近いブリャンスクで拘束されたと発表され、その際の映像も公開されているが、本ブログでもすでに触れたように、自動小銃を乱射した襲撃犯のひとりは現場で観客に拘束されている。この点をCIAの元分析官であるラリー・ジョンソンは指摘していた。当初、11人の中に含まれていると考えていたのだが、全員、ブリャンスクで逮捕されたとされている。そうなると計算が合わない。 実行グループはダーイッシュ-ホラサン(IS-KP、ISIS-K)に所属、ウクライナ政府は無関係だと宣伝されている。9/11の時と同じように、事件の詳細が不明な段階でアメリカ政府はISIS-Kの犯行だと断定、ISIS-Kは犯行声明を出しているのだが、それを裏付ける証拠はない。これだけ短時間に事件の内容を把握できるはずはないのだ。事前にシナリオができていたのでない限り、こうした発表をできるはずはない。 アメリカの国務省は事前にロシアへ警告したとしているようだが、駐米ロシア大使館側はアントニー・ブリンケン国務長官からこの件について説明を受けず、駐露アメリカ大使館はロシア側に情報を伝えてもいない。しかもNSC(国家安全保障会議)のジョン・カービー戦略広報調整官はウクライナ人が関与したという「兆候は見られなかった」と述べ、テロ事件に関する捜査に関してアメリカはロシアに協力しないとしている。アメリカ政府はすでに義務を果たしたというのだ。 拘束された襲撃の「容疑者」はテレグラムを通じ、50万ルーブル(約80万円)で雇われたと証言している。本ブログでは繰り返し書いてきたように、アル・カイダ系武装集団やダーイッシュはアメリカなどが使っている傭兵だ。この武装集団がイスラエルを攻撃しない理由はそこにある。 襲撃グループを雇った人物はサーモン・クラサニ。この人物はCIAとダーイッシュ双方と緊密な関係にあるという。また襲撃犯の一部はラーナモ・バ・フローソンというチャットルームでインターネットを利用した「洗脳」を受けているとも報道されている。 イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは05年7月、「アル・カイダ」についてCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだと説明している。この仕組みが作られたのはアメリカがアフガニスタンで工作に利用するため。アラビア語でアル・カイダはベースを意味し、データベースの訳語としても使われる。西側ではシティ・ホールを襲撃したのはISIS-Kだと宣伝しているが、これは傭兵集団なのであり、雇い主を特定しなければ意味がない。 このテロ事件ではアメリカ側に奇妙な言動が見られる。例えば、統合参謀本部議長を辞めて間もないマーク・ミリーの昨年12月4日における発言。ロシア人は夜中に喉を切り裂かれるのではないかという心配で眠れなくなると語っている。 国務副長官代理を務めていたビクトリア・ヌランドは1月31日と2月22日、ウラジミル・プーチン露大統領はウクライナの戦場で驚きに直面するだろうと発言、ブリンケン国務長官は3月5日に彼女の「退任」を発表した。 3月7日から8日にかけてアメリカとイギリスの駐露大使館がモスクワでテロの可能性があるとすると警告、18日にはバラク・オバマ元米大統領が突如ロンドンを訪問し、リシ・スナク首相やキア・スターマー労働党党首と会談、そして3月22日の襲撃だ。 事件後、日本の某大手放送局のキャスターは「自作自演仮説」を口にしていたが、ウクライナの情報機関GURも同じことを主張していた。状況から考えて可能性はゼロに等しいのだが、もし容疑者が逃亡に成功していたなら、西側でそうしたプロパガンダが大々的に展開されていた可能性がある。 SBU(ウクライナ安全保障庁)は2014年2月のクーデター以来、CIAの下部機関として個人に対する破壊工作を担当している。3月25日から26日にかけてロシア軍はドローンやミサイルでキエフ、オデッサ、ミコライフ、ケルソン、ザポロジエの軍事施設、主要インフラ、飛行場が攻撃されたと伝えられている。その中にはキエフにあるSBUの本部も含まれているという。 キエフの場合、極超音速のジルコン・ミサイルも使われ、防空サイレンが鳴ったのは攻撃の後だったという。言うまでもなく、ウクライナだけでなく西側にはこのミサイルを迎撃する能力はない。
2024.03.27
厚生労働省は3月26日、今年1月分の「人口動態統計速報」を発表した。「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」の接種者数は少ないものの、死亡者数は15万6650人と水準はまだ高い。
2024.03.26
4月19日午後7時から駒込の「東京琉球館」において「米国の世界制覇計画が挫折し、広がる混乱」というテーマで「櫻井ジャーナルトーク」を開きます。予約受付は4月1日午前9時からとのことですので、興味のある方は東京琉球館までEメールで連絡してください。東京琉球館住所:東京都豊島区駒込2-17-8Eメール:dotouch2009@ybb.ne.jp 1990年代以降、シオニストの一派、いわゆるネオコンがアメリカの外交や安全保障政策を主導してきた。1991年12月にソ連が消滅すると彼らはアメリカが「唯一の超大国」になったと考え、ポール・ウォルフォウィッツが中心になって世界制覇計画を作成しました。 日本の場合、「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が発表された1995年からその計画に組み込まれているのですが、その前年から衝撃的な出来事が立て続けに引き起こされています。つまり、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃されている。8月には日本航空123便の墜落に関する記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載されたのですが、その中で自衛隊が関与していることを示唆されています。「戦争する国にするな」と主張したいなら、1990年代前半に行動しなければならなかったわけです。 ネオコンがNATOを利用してユーゴスラビアに対する侵略攻撃を始めたのは1999年3月のこと。その2年後の9月11日にはニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、ネオコンに担がれたジョージ・W・ブッシュ政権は2003年3月にアメリカ主導軍でイラクを先制攻撃、中東全域に戦乱を広げていきます。 そして2008年8月、北京オリンピックの開幕に合わせてジョージア軍は南オセチアを奇襲攻撃しました。奇襲攻撃の約8時間前、ジョージアのミヘイル・サーカシビリ大統領はロシアとの関係強化を求める南オセチアの分離独立派に対話を訴えていました。 ジョージア軍はロシアとの戦争に備え、2001年からイスラエル軍の将校(予備役)2名と数百名の元兵士が教官として受け入れていましたが、訓練だけでなく、ドローン、暗視装置、対航空機装置、砲弾、ロケット、電子システムなどの提供をイスラエルから受けています(Tony Karon, “What Israel Lost in the Georgia War”, TIME, August 21, 2008)が、それだけでなくNATOの新加盟国が小火器を、ウクライナが重火器と対航空システムを提供しているとも伝えられていました。(Jerusalem Post, August 19, 2008 / Ynet, November 5, 2009) アメリカの場合、傭兵会社MPRIとアメリカン・システムズが元特殊部隊員を2008年1月から4月にかけてジョージアへ派遣していたことが知られていますが、それだけでなく、攻撃の1カ月前、国務長官だったコンドリーサ・ライスがジョージアを訪問、奇襲攻撃の直後にもライスはジョージアを訪問してサーカシビリと会談しています。 ソ連消滅後、アメリカの支配層はロシアや中国を簡単に捻り潰せると考えていたのですが、南オセチアへの奇襲攻撃失敗でその判断が間違いだということが明確になリました。 ところが、ネオコンは現在に至るまでアメリカの国力を過大評価、ロシアや中国を過小評価、世界制覇計画は実現できるという妄想から抜け出せていないようです。 2014年にネオコンはウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒しました。クーデター体制は欧米支配層の意向に添い、ロシアとEUの経済的な関係を断ち切り、双方の経済力を弱めようとしたのですが、ロシアは中国と戦略的同盟関係を結びました。ロシア/ソ連と中国を分断するというアメリカの戦略が崩れてしまったのです。 中国のビジネスとアカデミーを支配しているアメリカは、中国がアメリカから離れることはないと信じていたようですが、ロシアと中国はパイプライン、鉄道、道路、海路などで結びつきを強めています。中国政府はアメリカが自分たちの生存を脅かす戦略を持っていると認識した可能性が高いでしょう。 ネオコンはその戦略を隠していません。1992年2月にネオコンが作成した世界制覇計画、「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」ではドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われています。旧ソ連圏は勿論、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないとしているのです。 ネオコンの世界制覇計画は米英金融資本が19世紀に建てた長期戦略に基づいて作成されていますが、その長期戦略作成の中心にいたセシル・ローズは1877年6月にフリーメーソンへ入会した後、アングロ・サクソンが最も優秀な人種であり、その優秀な人種が住む地域が増えれば増えるほど人類にとってより良いことであり、大英帝国の繁栄につながるとしています。 ローズを中心とする支配グループはトーマス・マルサスの『人口論』やチャールズ・ダーウィンの進化論、ダーウィンの従兄弟にあたるフランシス・ゴールトンの優生学の影響を受けていました。そこから、劣等な人種の処分という考え方が出てきます。その危険性を中国政府も認識するようになったのかもしれません。世界制覇計画を主導してきたネオコンだけでなく、そのネオコンに従属してきた人びとは窮地に陥っています。
2024.03.26
モスクワに近いクラスノゴルスクのクロッカス・シティ・ホールが襲撃され、137名以上が殺された。ロシアの治安機関であるFSB(連邦保安庁)のアレクサンドル・ボートニコフ長官によると、銃撃犯の4名を含む11名を拘束したというが、捜査は継続中のようだ。 4名の襲撃犯を乗せたルノーの白いクリオシンボルはブリャンスクへ向かい、そこでウクライナへ逃げ込もうとしたというのだが、そこには地雷原がある。ロシアの捜査当局は追跡しにくいだろうが、危険。ここから逃走しようとしたということは、彼らがウクライナや西側の情報機関から支援を受けていたことを示している。地雷原に関する正確な情報を持っているならば、逃げられる可能性は高くなるだろう。 クロッカスでの虐殺に合わせるように、フランス、ドイツ、ポーランドから相当数の正規軍兵士がキエフの南にあるチェルカッシーへ鉄道や航空機を利用して入ったこと、クリミアに対する大規模な攻撃が実施されたことも注目されている。 本ブログでは繰り返し書いてきたが、西側が犯人役に使っているダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)はバラク・オバマ政権の時代に作られた西側の傭兵集団。その出現を2012年8月、ホワイトハウスに警告したのはマイケル・フリン中将が率いるDIA(国防情報局)だった。 襲撃の直前、3月20日にジェイク・サリバン国家安全保障補佐官は予告なしにキエフを訪問しているが、サリバンの同志で国務次官を退任したビクトリア・ヌランドはロシア政府に対して「サプライズ」を約束している。これはロシア領で破壊工作を実行するという脅しだと捉えられていた。
2024.03.25
ウクライナは2022年3月の段階で戦闘を自力で続けることは難しい状態になっていた。アメリカ/NATOから兵器や資金を投入することで継続してきた。戦死者が膨れ上がり、外部から傭兵を入れていたが、ここにきてフランス、ドイツ、ポーランドの正規軍がキエフ周辺に到着したと伝えられている。ウクライナ軍はゾンビのようの状況なのだが、それでもビクトリア・ヌランドなどネオコンはロシアとの戦争を継続、エスカレートさせようとしている。ルビコンを渡った彼らは後戻りできないのだろう。 ところで、ソ連消滅後の1999年3月にアメリカはNATOを利用してユーゴスラビアに対する攻撃を開始、ロシア侵略の突破口を築いた。2008年8月に南オセチアをジョージア軍が奇襲攻撃しているが、ロシア軍の反撃で惨敗している。ジョージアは2001年からイスラエルの軍事支援を受けていた。武器/兵器を含む軍事物資を提供するだけでなく、将兵を訓練している。後にアメリカの傭兵会社も教官を派遣した。事実上、イスラエル軍とアメリカ軍がロシア軍に負けたのだが、ここからアメリカはロシアに対する侵略を本格化させ、ウクライナでの戦乱につながった。 ところで、アメリカは先住の「インディアン」を虐殺し、生き残りを「居留地」へ押し込めて空いたスペースに建設された国だ。1898年にはキューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインの爆沈を口実にしてスペインと戦争を始め、勝利してラテン・アメリカを支配下に収め、アラスカ、プエルトリコ、グアム、フィリピンも手に入れている。 次に狙われた場所は「新たな西部」、つまり中国東北部。その案が実現したなら、中国東北部にウクライナ、あるいはイスラエルのような国が出現しただろう。なお、のちに日本はそこへ「満州国」を建国している。 スペインとの戦争を主導したセオドア・ルーズベルトは1880年にハーバード大学を卒業しているが、その2年前に同大学を卒業している金子堅太郎は知人の紹介で1890年に知り合い、親しくなったという。スラブ系のロシアを敵視していたセオドアは日露戦争の後、日本はアメリカのために戦ったと書いている。金子は1904年、ハーバード大学でアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説した。同じことを金子はシカゴやニューヨークでも語っている。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015) 1923年9月1日に東京周辺が巨大地震に襲われた後、日本はアメリカの金融資本、いわゆるウォール街の影響を強く受けるようになる。復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンに頼ったのだ。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。その後、日本の政治経済はJPモルガンからの影響を強く受けるようになる。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年) この支配構造を象徴する人物が1932年から駐日大使を務めたジョセフ・グルーである。グルーのいとこ、ジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻であり、しかもグルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。秩父宮雍仁もグルーの友人として知られている。 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、グルーは翌年の6月に帰国した。離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007) ニューディール派で反ファシストのフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死するとホワイトハウスの実権はウォール街が奪還し、豊下楢彦によると、降伏後の日本はウォール街と天皇を両輪として動き始めた。その下で戦後日本の支配構造を作り上げる上で重要な役割を果たしたのがジャパン・ロビーだ。その中核グループであるACJ(アメリカ対日協議会)はウォール街を後ろ盾としてワシントンDCで設立された。その中心人物はジョセフ・グルーにほかならない。戦前も戦後も基本的な支配構造は変化していない。 大戦後にアメリカではCIAが創設されたが、これは金融資本の強い意向があったからだ。CIAの前身であるOSSはイギリスの情報機関MI6の協力で設立されたが、MI6はイギリスの金融資本と関係が深い。 1943年1月にドイツ軍がスターリングラードでソ連軍に降伏するとイギリスのウィンストン・チャーチル首相は慌て、その月にフランクリン・ルーズベルト米大統領やフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談して善後策を講じた。その際、戦争を引き延ばすために「無条件降伏」が出てきたという。 そして1944年、イギリスとアメリカの情報機関によって編成されたのがゲリラ戦部隊のジェドバラ。コミュニストを主体とするレジスタンスに対抗するためだった。 このジェドバラ人脈は大戦後、アメリカでは特殊部隊とOPC(1950年10月にCIAへ吸収された)につながる。OPCは1952年8月にCIAの破壊工作部門「計画局」の中核になった。 この人脈はヨーロッパに破壊工作機関のネットワークを構築、NATOが創設されると、その秘密部隊として機能し始めた。中でも有名な組織がイタリアのグラディオだ。アメリカ支配層にとって好ましくない勢力を潰すために極左グループを装って1960年代から80年代にかけて爆弾テロを繰り返している。アルド・モロの誘拐殺人、シャルル・ド・ゴールの暗殺未遂、そしてジョン・F・ケネディ暗殺でも名前が出てくる。 この秘密部隊のネットワークにウクライナのネオ・ナチがつながっていることは本ブログで繰り返し書いてきた。 ネオ・ナチを率いているひとりのドミトロ・ヤロシュはドロボビチ教育大学でワシル・イワニシン教授の教えを受けたことが切っ掛けになってOUN-B(ステパン・バンデラ派)系のKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)に入る。この人脈はソ連消滅後に国外からウクライナへ戻り、活動を始めている。2007年にヤロシュは指導者になり、そのタイミングでNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。 ヤロシュはチェチェンやシリアで戦ったサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)などイスラム系の武装集団と関係、2007年5月にはウクライナのテルノポリで開かれた欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議で議長を務めた。
2024.03.25
クロッカス・シティ・ホールで自動小銃を乱射した4名の内ひとりは現場で観客に拘束され、ロシア当局は先手を打てたようだ。4名のタジク人を乗せた逃走車両はウクライナへ向かったのだが、国境の近くで全員が逮捕されたという。ウクライナへ入れば安全だと認識、つまり「殉教者」になる意思はなかったと言えるだろう。 カルトの信者ではないということだが、ウクライナでロシア軍との戦闘に参加しているダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)のメンバーもカルトの狂信者ではない。傭兵だ。 公表された容疑者の映像を見ると、50万ルーブル(約80万円)という報酬で雇われ、半額はすでに彼のデビットカードに振り込まれていると主張している。比較的わずかな金額で雇われ、無差別殺戮を行ったということだ。雇用主はテレグラムを利用して容疑者に接触、武器も手配したとしている。 元CIA分析官のラリー・ジョンソンによると、この作戦の計画は熟練したプロの仕事ではない。襲撃グループは現場への往復に同じ車両を使い、建物内での動きは接近戦の訓練を受けていないことを示し、自動小銃の扱い方も熟練していなかったようだ。ダーイッシュの犯行声明は、襲撃の計画者が事前に用意した犯人役のように見える。 3月1日に公開された音声によると、ドイツ空軍幹部がアメリカ太平洋空軍司令官と「タウルスKEPD 350」ミサイルによるクリミア橋(ケルチ橋)攻撃を計画していたが、アメリカ空軍はその計画を知らなかったように聞こえる。アメリカ軍の中にビクトリア・ヌランドのようなロシアとどうしても戦争したいグループが存在しているのかもしれない。
2024.03.24
モスクワ近郊、クラスノゴルスク市にあるクロッカス・シティ・ホールを襲撃に直接関与した4名を含む11名を拘束したとFSB(連邦保安庁)のアレクサンドル・ボートニコフ長官がウラジミル・プーチン大統領に報告したと発表された。共犯者を特定するための捜査は継続中だという。 時間が経過するにつれ、興味深い事実が明らかになってきた。たとえば事件の舞台になったクロッカスの所有者はドナルド・トランプと非常に親しいアゼリー系ロシア人だ。 ダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)が犯行声明を出しているようだが、この武装集団は決してイスラエルを攻撃しないアメリカの傭兵。2014年1月にイラクのファルージャで「イスラム首長国」の建国を宣言、6月にモスルを制圧するという形で登場してきた。 モスルを制圧する際、トヨタ製小型トラック「ハイラックス」の新車を連ねたパレードを行い、その様子を撮影した写真が世界に伝えられたのだが、その際にアメリカ軍が反応しなかったことも注目された。偵察衛星を運用、地上にも情報網を持っているアメリカが気づかないはずはない。 そうした武装集団の出現をアメリカ軍の情報機関DIAは2012年8月の時点でホワイトハウスに警告していた。オバマ政権が支援している反シリア政府軍の主力はアル・カイダ系武装集団のAQI(アル・ヌスラと実態は同じだと指摘されていた)で、その中心はサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団だと指摘しているのだ。2012年当時のDIA局長はマイケル・フリン中将である。 アル・カイダ系武装集団のAQI(アル・ヌスラと実態は同じだともしている)の名前も報告書の中に出している。報告書の中で、オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフィ主義者の支配地域を作ることになるとも警告、それがダーイッシュという形で現実になったわけだ。ダーイッシュは残虐さを演出、アメリカ/NATOの介入を誘っていた。 ダーイッシュにはサダム・フセイン体制下の軍人が参加したとも言われているが、サラフィ主義者やムスリム同胞団が多く、チェチェン、ウクライナ、ウイグルなどからも来ていた。そこで戦闘の経験を積み、帰国、テロ活動を広めるわけだ。ウクライナへもシリアで経験を積んだ戦闘員が入っている。 ダーイッシュの母体になった「アル・カイダ」について、イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは05年7月に説明した。「アル・カイダ」はCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだとしている。この仕組みが作られたのはアメリカがアフガニスタンで工作に利用するためだ。アラビア語でアル・カイダはベースを意味、データベースの訳語としても使われる。 シリアで欧米支配層のためにシリア政府と戦っていた頃から言われていたことだが、ダーイッシュはイスラムとの関係が薄い。イスラムでは神聖な月であるラマダーンの金曜日にイスラム教徒が非武装の市民を虐殺するのは奇妙だとも指摘されている。 クロッカスでの虐殺に合わせるように、フランス、ドイツ、ポーランドの正規軍兵士相当数がキエフの南にあるチェルカッシーへ鉄道や航空機を利用して入った。事実上、NATO軍がロシア軍に対して宣戦布告したということになる。当然、ロシア軍は全面戦争の覚悟をしなければならない。 本ブログでも書いたが、2月19日にドイツ空軍の幹部はリモート会議でクリミア橋(ケルチ橋)を「タウルスKEPD 350」ミサイルで攻撃する相談をした。その幹部とはインゴ・ゲルハルツ独空軍総監、作戦担当参謀次長のフランク・グレーフェ准将、そして連邦軍宇宙本部のフェンスケとフロシュテッテ。その音声は3月1日、RTによって公開された。 ゲルハルツらは昨年10月の時点で計画の内容をアメリカ太平洋空軍司令官だったケネス・ウイルスバックに伝えていることも判明している。ウイルスバックは2023年5月、航空戦闘軍団司令官に指名され、今年2月に就任した。 ウイルスバックの後任としてケビン・シュナイダーが太平洋空軍司令官になったのは今年2月9日。問題のリモート会談が行われる10日前のことだ。その時点でシュナイダーはウクライナでの攻撃計画について知らなかったようである。アメリカ軍幹部の一部とドイツ空軍幹部など限られたグループがロシア軍と本格的な軍事衝突を目論んでいる可能性があると推測されていたが、今回の襲撃はこの推測と符合する。 ウラジミル・プーチン大統領は2022年2月以降、戦争は始まっていないとしてきたが、モスクワ近郊での市民虐殺やNATO軍のキエフ近くへの派兵はロシアに開戦を強いることになるかもしれない。ドンバス周辺にアメリカ/NATO軍が構築していた要塞線はすでに突破されているのでNATO軍を投入せざるをえないのかもしれないが、通常兵器の戦いでロシア軍に勝てるとは思えない。今後、生物兵器や核兵器が問題になりそうだ。
2024.03.24
モスクワの北西にクラスノゴルスク市がある。そこのクロッカス・シティ・ホールという音楽ホールが3月22日、自動小銃で武装した一団に襲撃され、60名以上が殺され、爆発音の後に火災が発生したという。その日、ホールではロックバンドのコンサートが予定されていた。襲撃グループの行方は不明だ。 3月20日にジェイク・サリバン国家安全保障問題補佐官がキエフを突如訪問して人びとを驚かせたが、アメリカ大使館が3月7日に出していた警告も話題になっている。これはコンサートを含むモスクワの大規模な集まりを標的とする差し迫った計画を立てており、アメリカ市民は48時間、大規模な集まりを避けるようにアドバイスしていたのだ。 元CIA分析官のラリー・ジョンソンはこの警告について、大使館の判断で発せられたものではないと説明している。通常、アメリカが何らかの情報を入手していたならロシア政府へ伝えているはずだが、ロシア側はそうした情報を受け取っていないとしているようだ。 アメリカ国務省が爆破事件発生から2時間以内に声明を発表したことにもジョンソンは注目している。情報が明確になっていない段階で国務省が声明を発表したことから、アメリカ側は事前に知っていた疑いがあるという。つまり、アメリカがロシアへ情報を提供したとしても、ロシア側に伝えなかった情報があったことを示唆していると指摘している。 襲撃のあった日にジョー・バイデン政権はウクライナの「無許可の大胆な行動」を嘆いて見せていたことも注目されている。襲撃にウクライナ政府、あるいはウクライナで戦闘に参加しているダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)が関係している可能性が高いと見られているが、そうした情報が出てきた場合に責任を問われないように先手を打ったのではないかというのだ。アメリカ政府はガザでの虐殺でもイスラエル政府の暴走を嘆き、虐殺を可能にする武器をイスラエルへ供給し続けている。 ウクライナの現体制を生み出したのは、2013年11月から14年2月にかけて実行されたネオ・ナチを主体とするクーデター。ネオ・ナチを率いていたひとりのドミトロ・ヤロシは「右派セクター」を2013年11月に設立、そのグループが中心になって親衛隊の「アゾフ大隊」が14年5月に創設された。一時期、ヤロシュはウクライナ軍最高司令官の顧問を務めている。 ウクライナのネオ・ナチはステパン・バンデラを中心に組織されたOUN-Bの流れに属すが、そうしたひとつのグループにワシル・イワニシン教授が率いていたKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)がある。イワニシンの後継者がヤロシュだ。KUNの指導者になったタイミングでヤロシュはNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。 このネットワークの中で最も悪名高い存在がイタリアのグラディオ。イタリアはアメリカにとって戦略的に重要な国なのだが、コミュニストの支持者が多かった。コミュニストを含む左翼を壊滅させるためにグラディオは1960年代から80年代に爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画している。 ヤロシュは2007年5月にウクライナのテルノポリで開かれた欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議で議長を務めた。クーデター後の2014年3月にヤロシュは声明を発表、その中でチェチェンやシリアでロシアと戦ったサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)などイスラム系の武装集団への支援を表明している。
2024.03.23
シリアやウクライナでアメリカの侵略戦争を失敗させたロシアは中国と戦略的な同盟関係にある。1980年にミルトン・フリードマンが北京を訪問、中国で新自由主義が広がり、中国とアメリカとの関係は緊密化したのだが、その関係は2014年に変わった。 現在、東アジアでは戦争勃発の可能性が高まっている。アメリカ支配層が暗躍しているのだが、これはアメリカとイギリスの支配層が19世紀から続けている世界支配戦略の一端だ。この戦略に基づき、ロシアや中国を切り刻んで富を吸い尽くそうとしている。 ところで、現在、アメリカやEUはロシアを屈服させるため、同国の資産を凍結している。中国とアメリカの対立が強まれば、同じように資産を凍結させるだろうが、それはアメリカにとって自殺行為に他ならない。アメリカを中心とする金融システムは信頼できないと認識されれば、ドル体制は崩壊し、アメリカを中心とする支配システムも崩れ去る。 もし、そうした展開になった場合、ロシアや中国は自分たちの資産を凍結し、没収した国に対して報復するだろう。アメリカへは重要な資源や製品が入らなくなる。製造業や農業が生きているロシアや中国は生き残れても金融帝国のアメリカやイギリスは難しい。 ウクライナでアメリカはロシアに敗北し、米英支配層の戦略は揺らいでいる。ウクライナでのプロジェクトを指揮してきたビクトリア・ヌランド国務次官が退任した。その一方、きな臭さが強まってきたのは東アジア。今年2月には東アジアで軍事的な緊張を高めてきたカート・キャンベルが国務副長官に就任しのも不吉だ。 アメリカの支配層は1991年12月にソ連が消滅した後、自国が「唯一の超大国」になったと考え、92年2月にネオコンは国防総省のDPG(国防計画指針)草案という名目で世界制覇計画を作成した。国防次官を務めていたポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げられたことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。それ以降、アメリカは他国に配慮することなく好き勝手に行動し始めた。 そのドクトリンではドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないともしている。 ところが、日本の細川護熙政権はアメリカの戦争マシーンに組み込まれることを嫌い、国連中心主義を主張。そうした日本政府の態度に怒ったネオコンのマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得して国防次官補のジョセイフ・ナイに接触、ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表した。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が主張されている。 現在、アメリカは日本の軍事力を増強、核弾頭を搭載できる巡航ミサイルの「トマホーク」を発射する施設を自衛隊の軍事施設という形で建設している。2016年には与那国島、19年には奄美大島と宮古島、そして23年には石垣島だ。その間、2017年には韓国でTHAAD(終末高高度地域防衛)ミサイル・システムの機器を強引に運び込んだ。こうしたミサイルと一体化させる形でアメリカは海兵隊を追加配備するのだともいう。 中国福建省の厦門から約10キロメートルの場所にある台湾の金門はアメリカにとって軍事的に重要な拠点である。そこにはアメリカ陸軍の特殊部隊「グリーンベレー」が「軍事顧問」として常駐している。中国に対する何らかの工作が始まっていたとしても驚かない。 アメリカと中国との関係を変えたのはバラク・オバマ政権のロシアや中国に対する攻撃的な行動だ。同政権は2013年11月から14年2月にかけてウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒し、14年の9月から12月にかけては香港で「佔領行動(雨傘運動)」と呼ばれる反中国政府の運動をイギリスと共同で仕掛けているのだが、こうした出来事を見た中国政府はアメリカの危険性を認識したのだ。 アメリカにとり、最も警戒すべき潜在的ライバルは中国だが、中国とアメリカは経済金融の面で強く結びつき、特にビジネスやアカデミーの世界に対するアメリカ支配層の影響力は強い。軍事的にはアメリカが中国を圧倒しているとアメリカ支配層は考えていた。 中国の新自由主義化を推進した趙紫陽。1984年にロナルド・レーガン米大統領とホワイトハウスで会談しているが、新自由主義はインフレを招き、貧富の差を拡大させていく。その結果、労働者の不満は強まって社会は不安定化して胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥った。胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任せざるをえなくなり、89年4月15日に死亡した。 そうした中、1988年にミルトン・フリードマンは8年ぶりに中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談したが、中国政府はその年に「経済改革」を実施している。労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正したと言えるだろう。 その方針転換に学生は反発、新自由主義を支持する学生らは1989年4月15日から6月4日まで、天安門広場で中国政府に対する抗議活動を展開した。この活動を指揮していたのは体制転覆の仕掛け人として知られているジーン・シャープ。背後には体制転覆のスポンサーであるジョージ・ソロスもいたとされている。5月には戒厳令が敷かれた。 1989年1月からアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ。父親のプレスコットはウォール街時代、ナチスへ資金を流すために創設された金融機関の重役で、ウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しくしていた。ジョージ・H・W・ブッシュは1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務め、76年1月から77年1月まではCIA長官だが、エール大学時代にCIAからリクルートされたと言われている。そもそも父親がCIAに君臨していたダレスの友人だ。 大学時代にブッシュが親しくしていたジェームズ・リリーは1951年にCIA入りしたと言われている。そのリリーは1989年5月に中国駐在アメリカ大使に就任した。このCIAコンビの時代に天安門事件は引き起こされた。
2024.03.23
アメリカの支配層がソ連消滅後に始めた旧ソ連圏での侵略戦争はウクライナで大きな山場を迎えている。この戦争におけるアメリカ/NATOの敗北が決定的な状況になっているのだ。 1990年代、西側の有力メディアはビル・クリントン政権に対して軍事力の行使を要求したが、当初は動かなかった。1997年に国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリーン・オルブライトへ交代すると侵略戦争へ向かって動き始めている。 オルブライトは1998年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明、99年3月から6月にかけてアメリカが主導するNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施した。4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅、また5月には中国大使館がそれぞれ爆撃されている。ソ連が消滅、「唯一の超大国」になったアメリカの行動を止められる国は存在しないという傲慢さのなせる業だと言えるだろう。 そして2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、その衝撃的な出来事を利用してアメリカ政府は2003年3月、イラクを手始めに中東で大規模な侵略戦争を始めた。 一方、旧ソ連圏ではウクライナで2004年から05年にかけて新自由主義の手先を大統領に据えるために「オレンジ革命」を実行され、元ウクライナ国立銀行総裁のビクトル・ユシチェンコが大統領に選ばれた。この「革命」を指揮していたのはアメリカ政府で、現地の拠点はアメリカ大使館だ。 しかし、ユシチェンコの新自由主義は米英の巨大資本やその手先であるウクライナ人に富を集中させ、大多数の庶民を貧困化させた。ウクライナは石油会社や穀物メジャー、それらを支配する金融資本に蝕まれていく。それに反発したウクライナの有権者は2010年に実施された選挙でビクトル・ヤヌコビッチを選んだ。オレンジ革命で西側支配層が排除した政治家だ。このヤヌコビッチを再び排除するために仕掛けられたのが2013年11月から14年2月にかけてのクーデターにほかならない。 アメリカを戦争へと導いてきたシオニストのネオコンは、アメリカが軍事力を行使してもソ連/ロシアは対応できないと1990年代から信じていたが、2013年から14年にかけてのクーデターでもロシアは動かなかった。 そして始まった今回のウクライナにおける戦闘だが、西側に支援されたクーデター政権が反クーデター派が支配する東部のドンバスへ大規模な軍事攻勢を始めようとした矢先、2022年2月24日にロシア軍はウクライナに対するミサイル攻撃を開始、ドンバス周辺に集まっていたウクライナ軍を壊滅させてしまった。その際、アメリカの国防総省がウクライナに建設していた生物化学兵器の研究開発施設も破壊、機密文書を回収している。ここから始まるロシア軍による攻撃でアメリカ/NATOによるロシアを征服する計画は破綻した。 ネオコンが2003年3月に始めた中東での侵略戦争も彼らの想定通りには進まず、アメリカの「同盟国」だったサウジアラビアがイランやロシアに接近している。2020年1月3日にはサウジアラビア政府に対するイラン政府の返書と携えてイラクのバグダッド国際空港へ到着したイスラム革命防衛隊の「コッズ軍」を指揮していたガーセム・ソレイマーニーをアメリカ政府はイスラエルの協力を得て暗殺したが、それで流れを変えることはできなかった。サウジアラビア、イランは中国の仲介で国交正常化で合意、2023年3月10日にサウジアラビア、イラン、中国は北京で共同声明を発表している。 その中東では現在、アメリカやイギリスの軍事支援を受けたイスラエル軍がガザでパレスチナ住民を虐殺している。イギリスからキプロスを経由してイスラエルへつながる兵站線が存在、それにはアメリカも関係している。アメリカやイギリスがその気になれば虐殺はすぐに止まる。 イスラエルの「建国」が宣言されたのは1948年5月14日。アラブ系住民が住んでいた場所に新たな「国」を作るため、その先住民を排除するため、シオニストは1948年の4月上旬に「ダーレット作戦」を開始、ハガナから生まれたテロ組織のイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺した。 襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、住民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005) こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国連は1948年12月11日、パレスチナ難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。 その間、1948年5月20日に国連はフォルケ・ベルナドットをパレスチナ問題の調停者に任命した。彼は6月11日から始まる30日間の停戦を実現したものの、7月8日に戦闘が再開され、9月17日にはスターン・ギャングのメンバーに暗殺された。 イスラエルをパレスチナに「建国」する計画は19世紀から始まっている。ロシア嫌いで有名なベンジャミン・ディズレーリは1868年2月から12月、74年2月から80年4月まで首相を務めているが、その間、75年にスエズ運河運河を買収している。買収資金を提供したのは反ロシアのライオネル・ド・ロスチャイルドだった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018) 1880年代に入るとエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。 ロスチャイルド家を含むイギリスの支配層は金融資本であり、シティを拠点にしている。その金融資本の手足として活動してきたのがイギリスの情報機関MI6にほかならない。このMI6をモデルにして創設されたOSS/CIAは事実上、ウォール街の機関だ。MI6は19世紀からロシア支配層の内部にネットワークを築いていたが、そのキーパーソンは有力貴族のフェリックス・ユスポフだ。 ユスポフを中心とする貴族グループは資本家と手を組み、ドイツとの戦争を推進しようとする。それに反対したのが大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士である。 戦争反対の皇后は戦争回避の方策を相談するため、1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。 しかし、参戦してもラスプーチンが復活すれば戦争を辞める可能性がある。そうした中、1916年12月16日にラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になった。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾を打ち込んだ銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。 暗殺現場にはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運んだのである。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになる。そこでソ連とドイツはナチスが台頭するまで関係は良かった。 MI6を動かしていたイギリスの支配層の中心にはセシル・ローズの人脈が存在していた。ローズのスポンサーだったナサニエル・ド・ロスチャイルドはライオネル・ド・ロスチャイルドの甥にあたり、NMロスチャイルド&サンズを経営していた。ローズはNMロスチャイルド&サンの融資を受け、ダイヤモンドや金が発見されていた南部アフリカへ1870年に移住、財を成した。 1890年にケープ植民地の首相となったローズは96年にレアンダー・ジェイムソンを使ってトランスバールへの侵略戦争を始めたが、失敗。ローズは失脚し、イングランドのサウスハンプトンに戻ってナサニエル・ロスチャイルドと会い、ジョセフ・チェンバレンからのメッセージを渡した。このチェンバレンが侵攻作戦を秘密裏に承認した人物だといわれている。ロスチャイルドはウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、そしてアルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)と緊急会談を開いて対策を練った。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013) ロスチャイルド、ステッド、ブレット、ミルナーのほかサリスバリー卿(ロバート・ガスコン-セシル)、ローズベリー卿(アーチボルド・プリムローズ)らへローズは1890年、アングロ・サクソンを中心とする世界支配のアイデアを説明している。 ローズはアングロ・サクソンを最も高貴な人種だと考えていた。彼は1877年6月にフリーメーソンへ入会するが、その直後に『信仰告白』を書き、その中でアングロ・サクソンが住む地域が広がれば広がるほど良いと主張している。領土を拡大して大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877) こうした考え方は当時のイギリスでは珍しくなかったようで、A・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ・シリーズのひとつである『独身の貴族』で、「われわれ子どもたちがいつの日かユニオン・ジャックと星条旗とを四つに区切って組み合わせた旗のもと、同じ世界国家の市民になることを妨げるものではない」とホームズに言わせている。 ローズの後、イギリスの支配グループを率いたのはアルフレッド・ミルナー。この人物はRIIA(王立国際問題研究所、通称チャタム・ハウス)を創設した人物としても有名で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」も彼を中心に組織されたという。(Carroll Quigley, “The Anglo-American Establishment”, Books in Focus, 1981) イスラエルの「建国」にもこの人脈が関係している。1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送るが、この書簡が大きな意味を持つ。その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。 同じ人脈は19世紀に東アジア侵略も開始している。その手始めが中国(清)を狙ったアヘン戦争だが、海戦で勝っただけで内陸部を支配できない。そうした時に始まったのが日本に対する工作だ。イギリスは長州や薩摩を支援して徳川体制を倒し、「天皇制官僚体制」というカルト国家を建設することに成功した。明治体制下の日本はイギリスやアメリカの代理人として東アジア侵略を始めている。当初、最も大きな影響力を持っていたのはシティだったが、関東大震災以降はウォール街の影響が強くなった。 アングロ・サクソンの戦略は19世紀からロシア、パレスチナ、東アジアをひとつのものとしている。
2024.03.22
ロシアでは3月15日から17日にかけて大統領選挙が実施され、有権者の77%以上が投票、ウラジミル・プーチンが87%以上の得票率で勝利した。さまざまな世論調査でプーチンが国民から支持されていることは明らかで、そうした事前の調査と同じ結果が出たと言える。西側の有力メディアは罵詈雑言を浴びせようと必死だが、犬の遠吠えにすぎない。 この選挙を撹乱するため、アメリカ/NATOはウォロディミル・ゼレンスキー政権を隠れ蓑に使い、ウクライナに面したベルゴロドなどの民間人を標的にした攻撃を繰り返し、破壊活動を試みたが、成功しなかった。 アメリカやイスラエルの支配層は「脅せば屈する」と信じている。例えば、何をしでかすかわからない国だと思わせれば自分たちが望む方向へ世界を導けるとリチャード・ニクソンは考え、イスラエルは狂犬のようにならなければならないと同国のモシェ・ダヤン将軍は語っている。その信仰に基づき、ロシアや中国を攻撃しているのだ。 現在のウクライナ体制は2014年2月、ネオ・ナチのクーデターで成立した。その体制はアメリカ政府が支えてきたのだが、その一方、クーデター後に軍や治安機関メンバーの約7割が離脱、一部は反クーデター軍に合流したと言われている。クーデター体制の戦力を増強するため、西側が「ミンスク合意」で時間を稼がなければならなかった理由のひとつはここにある。 クーデターで排除されたビクトル・ヤヌコビッチが支持基盤にしていた東部や南部の住民はクーデターに反発、中でもクリミアは特に反クーデター感情が強かった。1990年にウクライナ議会がソ連からの独立を可決するとクリミアでは91年1月にウクライナからの独立を問う住民投票を実施、94%以上が賛成しているのだが、1991年12月にソ連が消滅した後、クリミア議会は住民の意思を無視してウクライナに統合されることを決めてしまった。「民意」は無視されたのだ。その民意が実現したのは2014年のことだ。 オデッサでは反クーデター派の住民がクーデターの主体だったネオ・ナチのグループ(右派セクター)に惨殺されたが、東部のドンバス(ドネツクやルガンスク)では戦闘が始まる。当初は反クーデター軍が優勢だったが、ミンスク合意で戦況は変化した。 オデッサの虐殺から1週間後の2014年5月9日にクーデター軍の戦車がドネツクのマリウポリ市へ突入し、住民を殺傷している。9日はソ連がナチスに勝ったことを記念する戦勝記念日で、街頭に出て祝う住民がいた。そうした人々を攻撃したわけだが、その際、住民はクーデター軍の戦車に怯んでいない。その様子はインターネットを通じて世界へ発信された。その後、ネオ・ナチを中心に編成された親衛隊のアゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)がマリウポリを制圧、住民を人質にし、地下要塞に立てこもった。 右派セクターは2013年11月、ネオ・ナチのドミトロ・ヤロシュやアンドリー・ビレツキーが組織し、クーデターでも重要な役割を果たしている。この組織が中心になり、2014年5月に「アゾフ大隊」が正式に発足したのだ。 ヤロシュは2021年11月2日、ウクライナ軍最高司令官を務めていたバレリー・ザルジニーの顧問に任命されたと公表、注目されたのだが、参謀本部は情報の開示を拒否、その一方でそのポストは廃止されてヤロシュは解任されたという。 ヤロシュはネオ・ナチであると同時に、チェチェンやシリアでロシアと戦ったサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)などイスラム系の武装集団と関係しているが、彼がネオ・ナチと結びついたのは大学時代だとされている。ドロボビチ教育大学でワシル・イワニシン教授の教えを受けているが、この教授はKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)の指導者グループに所属していたのだ。 KUNを組織したのはOUN-B(ステパン・バンデラ派)の人脈で、その指導者はバンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコ。その妻にあたるスラワがKUNを率いていたが、ヤロスラフが1986年に死亡してからOUN-Bの指導者にもなった。スラワは1991年に西ドイツからウクライナへ帰国している。 スワラは2003年に死亡、イワニシンは2007年に死亡する。イワニシンの後継者に選ばれたのがヤロシュ。そのタイミングで彼はNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。2007年5月にウクライナのテルノポリで開かれた欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議で議長を務めた。ジハード主義者とはサラフィ主義者やムスリム同胞団を中心とする人びとだ。 NATOの秘密部隊は第2次世界大戦の終盤にアメリカとイギリスの情報機関が組織したゲリラ戦部隊「ジェドバラ」を源流とする。大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニスト。ジェドバラはレジスタンス対策で作られたのだ。その人脈は大戦後も生き続け、西側連合秘密委員会(CCWUまたはWUCC)が統括していた。 大戦後、アメリカの情報機関OSSは解散になるが、やはり人脈は生き続けて極秘の破壊工作機関OPCになる。OPCで活動した重要人物のひとり、ジェームズ・バーナムはネオコンが誕生する際に重要や役割を果たした。1952年にはその機関を核にしてCIA内部に「計画局」が設置された。その後、この秘密工作部門は肥大化、CIAを事実上乗っ取る。 その一方、アメリカやイギリスの支配層は1949年4月、ヨーロッパを支配するためにNATO(北大西洋条約機構)を創設した。創設時の参加国はアメリカとカナダの北米2カ国に加え、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国だ。 NATOの初代事務総長に就任したヘイスティング・ライオネル・イスメイはウィンストン・チャーチルの側近で、NATO創設の目的について「ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえつける」ことにあると公言している。ヨーロッパですでに作られていた破壊工作部隊はNATOの秘密部隊として活動し始めた。 秘密部隊は全てのNATO加盟国で設置され、それぞれ固有の名称がつけられている。イタリアのグラディオは有名だ。こうした秘密部隊は活動すべてが米英の情報機関、つまりCIAとMI6がコントロール、各国政府の指揮下にはない。 ウクライナの軍事組織に大きな影響力を持つヤロシュが所属していると言われているNATOの秘密部隊は各国政府の指揮下にはなく、ゼレンスキーが指揮しているわけでもない。米英情報機関の命令で動くということだ。 極秘だったNATOの秘密部隊が露見するのは1972年。イタリア北東部の森に設置していた兵器庫を子どもが発見、その1週間後にカラビニエッリと呼ばれる準軍事警察の捜査官が近くで別の複数の武器や弾薬の保管庫を発見している。その中にはC4と呼ばれるプラスチック爆弾も含まれていた。 武器庫が発見された翌月、ペテアノ近くの森で不審な自動車が見つかる。その自動車をカラビニエッリの捜査官が調べはじめたところ爆発して3名が死亡、その2日後に匿名の電話が警察にあり、「赤い旅団の犯行だ」と告げている。多くの人はこの情報を信じた。 誰が容疑者であれ、当局は捜査しなければならないのだが、途中で止まってしまう。その事実をフェリチェ・カッソン判事が気づいたのは1984年のことだ。そして判事は捜査の再開を決め、使われた爆弾がC4だということが判明、イタリアの情報機関SIDと右翼団体のON(新秩序)が共同で実行したことがわかった。 SIDは1977年に国内を担当するSISDEと国外を担当するSISMIに分割され、情報の分析を担当するCESISが創設された。そのSISMIの公文書保管庫の捜査をジュリオ・アンドレオッチ首相は1990年7月に許可せざるをえなくなる。 その保管庫でグラディオという秘密部隊が存在していることを示す文書をカッソン判事は見つけ、アンドレオッチ首相はグラディオの存在を認めざるをえなくなる。そして1990年10月、首相は「いわゆる『パラレルSID』グラディオ事件」というタイトルの報告書を公表し、この組織が活動中だということも認めた。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005) アンドレオッティ内閣の報告書によると、グラディオが正式な組織に昇格したのは1956年。幹部はイギリスの情報機関で訓練を受け、軍事行動に必要な武器弾薬は139カ所の保管場所に隠されていた。そのひとつが偶然、見つかってしまったわけだ。秘密工作を実行するのは独立した部隊だが、これらを統括していたのはサルディニア島のCIAで、活動資金を提供していたのもCIAだ。 ギリシャのアンドレア・パパンドレウ元首相もNATOの秘密部隊が自国にも存在したことを確認、ドイツでは秘密部隊にナチスの親衛隊に所属していた人間が参加していることも判明した。またオランダやルクセンブルグでは首相が、またノルウェーでは国防大臣が、トルコでは軍の幹部がそれぞれ秘密部隊の存在を認めている。スペインの場合、「グラディオは国家だった」と1980年代の前半に国防大臣を務めたアルベルト・オリアルトは言っている。(前掲書) グラディオのような破壊工作部隊は全てのNATO加盟国に存在、アメリカやイギリスの情報機関からの命令に従い、活動している。その活動の中には米英支配層にとって都合の悪い政治家の暗殺やクーデターも含まれていると言われている。そのネットワークにヤロシュも含まれていたのであり、ウクライナ政府もそのネットワークに操られていると考えるべきだろう。そのネットワークがロシアに対するテロ活動を活発化させている可能性が高い。 米英支配層はウクライナ人とロシア人を戦わせ、共倒れにさせたかったのだろうが、ロシア軍の圧勝で彼らの思惑は崩れ、自分たちも厳しい状況に陥った。ジョー・バイデン政権を含め、少なからぬ反ロシア国の政府は敗北の責任をゼレンスキーに押し付けて逃げようとしているのだが、フランスのエマニュエル・マクロン大統領だけが自国軍をロシア軍と直接戦わせようとしている。
2024.03.21
これまでもイスラエル政府はパレスチナ人を不当に拘束、拷問してきた。ハマスをはじめとするパレスチナ系武装グループが10月7日にイスラエルを攻撃してからも少なからぬパレスチナ人を拉致しているが、イスラエルの新聞ハーレツによると、スデ・テイマンやアナトットの軍事施設で拘束されていた27人が殺されたという。 拘束された人びとが長時間にわたって手錠をかけられていることは保釈された人の手首などに残る傷跡などで明確になっている。UNRWA(国連難民救済事業機関)の報告書によると、ガザに解放された被拘禁者は殴打され、衣服を剥ぎ取られ、性的暴行を受け、医師や弁護士への面会も妨げられたという。ナチスの強制収容所を彷彿させることがイスラエル軍によって行われているのだ。 勿論、イスラエル軍は収容施設の外でパレスチナ住民を虐殺し続けている。殺された住民の数はすでに3万数千人と言われ、そのうち約4割が子ども、女性を含めると約7割に達し、その中には約300人の医療従事者も含まれている。現地の状況を取材しているジャーナリストも狙われている。 ガザでは病院が包囲され、爆撃で破壊され、36病院のうち「部分的に機能」しているのは11病院のみ。「戦争の巻き添え」で子どもや女性が殺されているのではなく、イスラエル軍は意図的に子どもや女性を殺している。 ハマスが10月7日にイスラエルを攻撃した直後、「ハマスが赤ん坊の首を切った」というすぐ嘘だと発覚するような作り話には飛びつき、扇情的に伝えた西側の有力メディアだが、現実の悲惨な状況をきちんと報道しているとは思えない。「パレスチナ人は残虐だ」、「イスラエル人は人道的だ」というストーリーに合う材料を彼らは探しているだけであり、そのイメージを広げることには成功した。 そのイメージを利用してイスラエル軍はパレスチナ人を虐殺しているのだが、そうした残虐行為を可能にしているのはアメリカやイギリスをはじめとする西側諸国に他ならない。 そもそもイスラエルはイギリス支配層の戦略に基づいてシオニストによって作られ、アメリカを後ろ盾としてにしている国である。そのイスラエルはパレスチナ人虐殺の口実に使っているハマスはイスラエルの治安機関であるシン・ベトによって創設された。 シン・ベトはムスリム同胞団に所属していたシーク・アーメド・ヤシンに目をつけ、1973年にムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立させ、87年にはイスラム協会の軍事部門としてハマスは作られる。 バラク・オバマ大統領は2010年8月に「PSD(大統領研究指針)11」を承認、ムスリム同胞団を利用して「アラブの春」を仕掛けたが、この同胞団の創設にはイギリスが関係している。 ムスリム同胞団は1928年にハッサン・アル・バンナが創設したが、その源流は汎イスラム運動にあると言われている。イギリスの情報機関や外交機関の人間がペルシャ系アフガニスタン人の活動家と1885年にロンドンで会談したのが、その運動の始まりだという。帝政ロシアに対抗する汎イスラム同盟を結成が話し合いのテーマだった。 エジプトのムスリム同胞団は1930年代に戦闘員を訓練するための秘密基地をカイロの郊外に建設したが、教官はエジプト軍の将校が務めていた。第2次世界大戦の際にムスリム同胞団は秘密機構を創設し、王党派と手を組んで判事、警察幹部、政府高官らを暗殺していった。 1945年2月、そして48年12月にムスリム同胞団はエジプトの首相を暗殺、49年2月には報復でバンナが殺された。その直後に同胞団のメンバーは大半が逮捕され、組織は解散させられたのだが、アメリカとイギリスの情報機関は組織解体から2年半後に復活させている。CIAが新生ムスリム同胞団の指導者に据えたサイード・クトブはフリーメーソンのメンバーで、ジハード(聖戦)の生みの親的な存在だという。こうした1940年代に同胞団と密接な関係にあったひとりがアンワール・サダトである。 エジプトでは1952年7月にムスリム同胞団を含む勢力がクーデターで王制を倒して共和制へ移行、自由将校団のガマール・アブデル・ナセルが実権を握った。イギリスはこの体制を好ましくないと考え、倒そうとしたが、CIAは自由将校団を利用してコミュニストを抑え込もうとしている。 権力構想でナセルに敗れたムスリム同胞団は1954年にナセル暗殺を目論む。その暗殺計画で中心的な役割を果たしたひとりはサイド・ラマダーン、同胞団を創設したハッサン・アル・バンナの義理の息子だ。ナセルはラマダンからエジプトの市民権を剥奪したが、この計画の黒幕はイギリスだと見られている。 ラマダンはサウジアラビアへ逃れ、そこで世界ムスリム連盟を創設、西ドイツ政府から提供された同国の外交旅券を使い、ミュンヘン経由でスイスへ入った。そこで1961年にジュネーブ・イスラム・センターを設立した。この当時、スイス当局はラマダンをイギリスやアメリカの情報機関、つまりMI6やCIAのエージェントだと見なしていたという。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005) ムスリム同胞団の創設にはイギリスが、ハマスの創設にはイスラエルが関係しているわけで、2009年に首相へ返り咲いたネタニヤフがハマスにパレスチナを支配させようと計画したのは不思議でない。そのために彼はカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたと言われている。 しかし、時の経過とともにハマス内部に変化が生じ、2017年にはムスリム同胞団から脱退したとされている。ベイルートでハマスの政治部門における第2代司令官のサレハ・アル・アロウリがイスラエル軍によって暗殺された。彼はムスリム同胞団に反対し、カタールから追放されていたというが、ハマスの全幹部がムスリム同胞団と関係を断ったわけではない。 そのハマスを殲滅するという口実でイスラエルとイギリスはアメリカと同様、パレスチナ人を虐殺している。ウクライナでロシア系住民を弾圧、消し去ろうとしたのと同じだ。ガザやヨルダン川西岸からパレスチナ人を消し去るつもりだろうが、ウクライナと同じように裏目に出る可能性もある。
2024.03.20
台湾の邱國正国防相は3月14日、アメリカ陸軍の特殊部隊「グリーンベレー」が台湾の離島に駐留していることを確認したという。軍事サイトのSOFREPは3月8日、2023年国防授権法(NDAA)の規定によりアメリカ軍の顧問が金門と澎湖にある台湾陸軍の水陸両用司令部に常駐するようになり、グリーンベレーは台湾の部隊と定期演習の中でUAV「ブラック・ホーネット・ナノ」の使用訓練を実施すると伝えられている。金門は中国本土から10キロメートル弱しか離れていない。 今後、アメリカ軍は第1特殊部隊群第2大隊アルファ中隊の小チームを駐留させる計画で、台湾の第101水陸両用偵察大隊と空挺特殊サービス中隊の基地で継続的な共同訓練任務を担うと同時に軍事顧問として活動するとされているのだが、訓練だけで止まるとは思えない。中国の侵攻に対抗するともされているが、攻撃的な何らかの工作を実行する可能性もある。ジョー・バイデン政権は中国と戦争する準備を整えている。 繰り返し書いてきたように、自衛隊はアメリカの戦略に基づいて南西諸島にミサイル発射基地を建設してきた。2016年に与那国島、19年には宮古島と奄美大島、そして昨年3月には石垣島だ。その目的をアメリカ国防総省系のシンクタンク「RANDコーポレーション」が詳しく説明している。 報告書によると、彼らはGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲する計画を立てている。そうしたミサイルを配備できそうな国は日本だけだと分析されているのだが、日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約がある。そこでASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにし、ASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたという。 ところが、2022年10月、「日本政府が、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」の購入を米政府に打診している」とする報道があった。亜音速で飛行する巡航ミサイルを日本政府は購入する意向で、アメリカ政府も応じる姿勢を示しているというのだ。自力開発が難しいのか、事態の進展が予想外に早いのだろう。 トマホークは核弾頭を搭載でる亜音速ミサイルで、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートルという。中国の内陸部にある軍事基地や生産拠点を先制攻撃できる。「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約は無視されていると言えるだろう。 そして昨年2月、浜田靖一防衛大臣は2023年度に亜音速巡航ミサイル「トマホーク」を一括購入する契約を締結する方針だと語ったが、10月になると木原稔防衛相(当時)はアメリカ国防総省でロイド・オースチン国防長官と会談した際、アメリカ製の巡航ミサイル「トマホーク」の購入時期を1年前倒しすることを決めたという。当初、2026年度から最新型を400機を購入するという計画だったが、25年度から旧来型を最大200機に変更するとされている。 日本でのミサイル網建設と並行してアメリカ軍は韓国へTHAAD(終末高高度地域防衛)ミサイル・システムの機器を持ち込んだ。2017年4月のことだ。 2013年2月から韓国の大統領を務めた朴槿恵は中国との関係を重要視してTHAADの配備に難色を示していたのだが、朴大統領がスキャンダルで身動きできなくなり、アメリカはミサイル・システムを搬入できたのである。結局、朴槿恵は失脚した。
2024.03.19
日本に限らず様々な国に犯罪組織が存在するが、権力システムに組み込まれていることが珍しくない。例えばアメリカの場合、1943年7月にアメリカ軍とイギリス軍がシチリア島へ上陸する際、アメリカ海軍のONI(対諜報部)がイタリア系犯罪組織の大物ラッキー・ルチアーノ(本名、サルバトーレ・ルカーナ)の助けを借り、大戦後にはCIAが手先として利用するようになった。 ONIとルチアーノの仲を取り持ったのはユダヤ系ギャングの大物だったメイヤー・ランスキー。ふたりは子ども時代からの友人で、いずれもアーノルド・ロスティンの子分だった。シチリア島で影響力が強かったコミュニストを抑え込むため、ONIはマフィアの手を借りようとしたのだ。 ルチアーノはカロージェロ・ビッツィーニを紹介、ビッツィーニの要請で島内のボスはイタリア軍やドイツ軍に関する情報をアメリカ軍に提供したうえ、破壊活動にも協力した。戦争が終わってからシチリア島ではマフィアのボスが行政を支配するようになる。そして1946年2月、ルチアーノは「好ましからざる人物」という名目で刑務所から出され、国外に追放された。 日本の場合、敗戦直後まで広域暴力団のような存在はなかったと言われている。存在していたのは「博徒」や「テキ屋」だった。広域暴力団を出現させる発端を作ったのは法務総裁(後の法務大臣)を務めていた木村篤太郎だ。 木村は左翼対策として1951年に「反共抜刀隊」を構想、それまでバラバラだった博徒やテキ屋を組織化しようとしたのだ。1950年6月にアメリカは朝鮮戦争を始めているが、日本はアメリカ軍の重要な兵站拠点であり、労働者にストライキされては戦争を継続できないからだ。木村の構想は途中で挫折するが、広域暴力団に発展する下地になった。 朝鮮戦争は中国でアメリカが支援する国民党軍が敗北して1949年10月に中華人民共和国が成立、その前に極秘の破壊工作機関OPCは拠点を上海から日本の厚木基地などへ移動させた。 その1949年に国鉄で怪事件が続き、労働組合弾圧の口実に使われている。7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。労働組合は大きなダメージを受け、ストライキで物流が止まる可能性は低くなった。OPCは1950年にCIAの内部へ入り込む。 陸での輸送は国鉄が重要だが、朝鮮半島へ運ぶためには船を使わなければならず、港湾労働者を抑える必要が生じる。GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は大手倉庫会社のみに船内荷役を許可、劣悪な環境で働かされていた労働者は組合を結成して闘争を展開。物流を止めないための仕組みが必要になったのだ。 そして1952年に山口組の田岡一雄組長は「港湾荷役協議会」を創設して会長に就任、56年になると彼は「神戸港港湾労働組合連合」を設立する。さらに「港湾荷役協議会」を解散したうえで「全国荷役湾荷振興協会(全港振)」を組織した。 全港振設立の際に話し合った相手は横浜笹田組の笹田照一、東海荷役の鶴岡政治郎、そして藤木企業の藤木幸太郎たちで、会長には藤木が就任、顧問には当時の建設大臣、河野一郎が納まった。この後、田岡が神戸港で、また藤木が横浜港で大きな影響力を発揮していくことになる。 それだけでなく、アンダーグラウンドの世界の秩序を維持するために警察が広域暴力団を利用してきたことも否定できない。そうした仕組みを象徴するのが警視庁と関東の暴力団との関係だ。 溝口敦によると、「関東勢は警察と深いらしいですわ」と前置きしたうえで、「警視庁の十七階に何があるか知らしまへんけど、よく行くいうてました。月に一回くらいは刑事部長や四課長と会うようなこと大っぴらにいいますな」と「山口組最高幹部」は語ったという。(溝口敦著『ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年) 山口組は本拠地の神戸で悪さはしなかったと言われているが、堅気に手を出すということは支配システムに歯向かうことを意味し、存在意義を失うことにつながる。その仕組みを理解せず、組員に堅気を殺傷させる仕組みを作っているような広域暴力団は排除されることになるのだろう。もし排除できないなら支配システムが崩壊して無法状態になる。
2024.03.19
ウクライナをクーデターで乗っ取るため、アメリカやイギリスの私的権力はネオ・ナチを利用したが、それを可能にしたのは第2次世界大戦当時から続くウォール街やシティとファシストとの繋がりだ。ウクライナの戦乱を理解するためにはこの事実を知る必要がある。 アメリカでは1932年の選挙で現職のハーバート・フーバーを破って当選したフランクリン・ルーズベルト大統領は反植民地、反ファシズムを掲げていたが、ウォール街は植民地を放棄する意思はなく、親ファシズムだった。ルーズベルトが大統領に就任した1933年から34年にかけて金融資本が試みたクーデターである。計画の詳細は名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将の議会における証言で明らかにされた。 バトラー少将によると、1933年7月に在郷軍人会の幹部ふたり、ウィリアム・ドイルとジェラルド・マクガイアーが少将の自宅を訪問したところから話は始まる。在郷軍人会を改革するため、シカゴで開かれる会の集まりへ数百人の退役兵士を引き連れて参加し、演説して欲しいというのだ。 ふたりは演説の原稿を置いて帰ったが、その原稿には金本位制への復帰を求める文言が含まれていた。訪問者は退役軍人の福祉を説得の材料にしてきたが、金本位制がそれに役立つとバトラーには思えず、疑問を抱く。そこでバトラーは参加する素振りを見せて情報を取ることにしたのだ。 その結果、スポンサーがウォール街の大物たちだということを聞き出し、彼らがドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていることをつかんだ。「クロワ・ド・フ」のような将校や下士官で構成される50万名規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ごうとしていたのだ。 こうしたクーデターを計画していたウォール街の中心的な存在だったJPモルガンは関東大震災以降、日本に対して強い影響力を持っていた。1929年7月に誕生した浜口雄幸内閣は金本位制の即時断行を主張していた。その浜口政権で大蔵大臣を務めた井上準之助はJPモルガンと緊密な関係にあった。浜口内閣は1930年に金本位制への復帰を決めている。 この内閣の政策は新自由主義的なもので、不況は深刻化、庶民は経済的に厳しい状況におかれる。東北地方で娘の身売りが増えたのもこの頃のことだ。そして1930年11月、浜口首相は東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡した。1932年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。 その1932年にフーバー大統領は日本へ大使としてジョセフ・グルーを送り込んだ。この人物のいとこであるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。つまりウォール街は大物を駐日大使に据えたわけだ。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人だが、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーにほかならない。 ウォール街はクーデターの指揮官としてバトラーを選んだのだが、JPモルガンが考えていた人物は陸軍参謀長のダグラス・マッカーサーだった。 この軍人が結婚した女性はルイス・クロムウェル・ブルックス。その母、エバ・ロバーツ・クロムウェルが再婚した相手、エドワード・ストーテスベリーはJPモルガンの共同経営者で、マッカーサーはJPモルガンの人脈に属していたのだ。それにもかかわらずマッカーサーが選ばれなかったのは、軍隊内部においてバトラーはそれだけ人望を集めていたということである。そのバトラーは最後の局面でカウンター・クーデターを宣言、クーデターを実行したなら自分も50万以上を動員して対抗すると警告した。 そのウォール街はナチスを資金援助しているが、そのためにUBC(ユニオン・バンキング)を創設している。重要な資金源のひとつだったブラウン・ブラザーズ・ハリマンのプレスコット・ブッシュやW・アベレル・ハリマンはドイツ企業との手形交換業務を行う名目でUBCを作ったのだ。 プレスコット・ブッシュが結婚した相手の父親はウォール街の大物として知られていたジョージ・ハーバート・ウォーカー。プレスコット自身もウォール街の人間で、年齢が近く、ウォール街で弁護士をしていたアレン・ダレスと親しかった。プレスコットの息子、ジョージー・ハーバート・ウォーカー・ブッシュがCIA長官になるのは必然だった。 第2次世界大戦の勝敗は、ドイツ軍がスターリングラードで降伏した1943年1月に結していた。ソ連の敗北を予想、傍観していたイギリスのウィンストン・チャーチル首相は急遽、モロッコでルーズベルト大統領と会談、シチリア島とイタリア本土への上陸を決めた。またソ連対策の準備をするために戦争を長引かせるため、「無条件降伏」を要求している。 計画通りに同年7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸。ハスキー計画だが、この際、コミュニスト対策でアメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。 この頃にはナチスの幹部とアレン・ダレスたちは秘密裏に接触、善後策を練っていた。そしてナチスの高官や協力者を南アメリカなどへ逃亡させ(ラットライン)、そうした人びとを国務省やCIAは雇い(ブラッドストーン作戦)、同時にドイツの科学者やエンジニアを雇った(ペーパークリップ作戦)。 戦争中、ナチスと手を組んでいたウクライナのステパン・バンデラ派(OUN-B)は1943年からUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始めて11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立。大戦後の1946年4月に反ボルシェビキ戦線はABN(反ボルシェビキ国家連合)へと発展、APACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)と合体してWACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の母体になった。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014) 2014年2月にウクライナでビクトル・ヤヌコビッチ政権をクーデターで倒したネオ・ナチにはこうした背景がある。ドイツがソ連へ攻め込んだ当時からナチズムの信奉者をアメリカやイギリスの私的権力は手先として利用してきたのだ。 そのクーデターで米英支配層はクリミアを制圧してロシア海軍に壊滅的な打撃を与えようとしたのだが、それには失敗した。クリミアやドンバスはソ連時代、正規の手続きを経ずにウクライナへ割譲されたこともあり、住民はその後も自分たちをロシア人と認識していた。 1990年にウクライナ議会がソ連からの独立を可決すると、クリミアでは91年1月にウクライナからの独立を問う住民投票を実施、94%以上が賛成しているが、ソ連消滅後、クリミア議会は住民の意思を無視してウクライナに統合されることを決めてしまった。また「民意」は無視されたのだ。その民意が実現したのは2014年のことだが、それを西側の「リベラル派」は批判している。憲法を否定したクーデターを支持、民意の実現を否定しているのが彼らだ。
2024.03.18
クリミア橋(ケルチ橋)を「タウルスKEPD 350」ミサイルで攻撃する相談をドイツ空軍の幹部は2月19日にリモート会議で行った。その幹部とはインゴ・ゲルハルツ独空軍総監、作戦担当参謀次長のフランク・グレーフェ准将、そして連邦軍宇宙本部のフェンスケとフロシュテッテだ。その音声は3月1日、RTによって公開されたが、ディルク・ポールマンとトビアス・アウゲンブラウンの分析によると、ゲルハルツらは昨年10月の時点で計画の内容を太平洋空軍司令官だったケネス・ウイルスバックに伝えているという。 ウイルスバックは2023年5月、航空戦闘軍団司令官に指名され、今年2月に就任した。ウイルスバックの後任としてケビン・シュナイダーが太平洋空軍司令官になったのは今年2月9日。問題のリモート会談が行われる10日前のことだ。その時点でシュナイダーはウクライナでの攻撃計画について知らなかったようだ。グレーフェによると、シュナイダーは彼が何を話しているのか理解できていなかったという。 計画を知らなかったのはシュナイダーだけでない。ドイツのオラフ・ショルツ首相やボリス・ピストリウス国防相も知らなかった。つまりアメリカ軍幹部の一部とドイツ空軍幹部など限られたグループがロシア軍と本格的な軍事衝突を目論んでいる可能性があるが、この計画でドイツ側が主導権を握っている可能性は小さいだろう。そして3月19日にシュナイダー太平洋空軍司令官はアラスカでドイツ宇宙軍航空作戦センターの「フロルシュテット」と会談するという。 ウクライナにおけるロシア軍との戦闘に太平洋空軍司令官が積極的な理由は中国を抑制するためだとも言われているが、そうなると、アメリカ軍の下部機関と化している自衛隊は勿論、日本政府も無関係ではなくなるだろう。 ネオコンなどアメリカの好戦派は自分たちの力を過大評価、ロシアや中国を過小評価し、攻撃をエスカレートさせていけばロシアや中国は屈服すると信じているのだろうが、これは1990年代から続く彼らの「信仰」にすぎない。その信仰を危険だと考える勢力がアメリカの軍や情報機関の中にもいるはずだが、ドイツ空軍幹部の会談を盗聴したのはアメリカの電子情報機関だとする情報がある。欧米の好戦派は「窮鼠猫を噛む」状態になっているのかもしれない。
2024.03.17
アメリカが中東で侵略戦争を本格化させる切っ掛けは2001年9月11日に引き起こされたニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)に対する攻撃だが、その直前、ジョージ・W・ブッシュを担いでいた勢力は厳しい状況に陥っていた。その状況を9/11が逆転させたのである。 この攻撃では世界貿易センターの南北ツインタワーだけでなく、攻撃を受けていない7号館(ソロモン・ブラザース・ビル)も爆破解体のように崩壊している。 このビルで最大のテナントは金融機関のソロモン・スミス・バーニー(1988年にソロモン・ブラザースとスミス・バーニーが合併してこの名称になった)で、47階のうち37階を占めていた。それ以外には国防総省、ニューヨーク市のOEM(緊急事態管理事務所)、シークレット・サービス、CIA、SEC(証券取引委員会)、IRS(内国歳入庁)、FEMA(連邦緊急事態管理局)が入っていた。 タワーに航空機が激突した直後、7号館の23階に入っていたOEMに人がいないことをニューヨーク市住宅局に勤めるバリー・ジェニングスと弁護士のマイケル・ヘスは確認しているが、その際、ビルの中で正体不明の人物からすぐ立ち去るよう言われたと話している。当日、OEMにいたルドルフ・ジュリアーニ市長によると、南北両タワーが崩壊するという警告が午前8時46分から9時59分の間にあったとABCニュースのインタビューの中で答えている。調査委員会によるとOEMの職員が避難したのは9時30分、NISTによると9時44分頃。ジェニングとヘスの証言が正しいなら、サウス・タワーに旅客機が突入する前にいなくなっていたことになる。 ジェニングスとヘスのふたりは階段で降り始め、8階にたどり着いたときに大きな爆発があったという。そのとき南北タワーは崩壊していない。その後、ヘスは爆発があったとする当初の証言を取り消し、ジェニングスは2008年9月に直線道路で自損事故を起こして死亡した。 10時45分にCNNは世界貿易センターで「50階建てビル」が崩壊すると伝え、16時54分になるとBBCのジェーン・スタンドレーは肩越しに7号館が見える状態でそのビルが崩壊したとレポートしている。これは有名な映像で、見たことのある人は少なくないだろう。実際の崩壊は17時20分だ。 当時、ブッシュ陣営の「財布」的な存在だったエンロンの破綻は不可避の状態で、シティ・グループとワールドコム倒産も表面化していた。そうした問題に関連した文書が7号館で保管されていたのだが、ビルの崩壊で無くなってしまった。金塊も消えたと言われている。 2001年9月10日にドナルド・ラムズフェルド国防長官は2兆3000億ドルの行方がわからなくなっていると発表しているが、その関連文書はペンタゴンに保管されていた。ラムズフェルドがその発表をした翌日、世界貿易センターとペンタゴンは攻撃されてビルが崩壊、重要資料はなくなっている。 この頃アメリカでは少なからぬ「イスラエル人美術学生」が逮捕されている。イギリスのテレグラフ紙によると「9/11」の前に140名のイスラエル人が逮捕され(Telegraph, March 7, 2002)、ワシントン・ポスト紙によると事件後にも60名以上が逮捕されている。(Washington Post, November 23, 2001 )合計すると逮捕者は200名に達する。 捜査が始まる切っ掛けは、2001年1月にDEA(麻薬捜査局)へ送られてきた報告で、イスラエルの「美術学生」がDEAのオフィスへの潜入を試みているとする内容だった。遅くとも2000年にはそうした動きが始まっているとされている。別の報告では、多くのDEA職員の自宅をイスラエル人学生が訪問している事実も指摘されていた。どこかでDEAに関する機密情報がイスラエル側に漏れている疑いが出てきたわけだが、この「美術学生」の正体は不明だ。 拘束されたイスラエル人の中にはモサドのメンバーも含まれ、ポラード事件以来の重要なスパイ摘発だと言われたが、こうした出来事も9/11によって吹き飛ばされた。 アメリカのFOXニュースが2001年12月に放送した番組によると、1997年にロサンゼルスで麻薬取引やクレジット・カード詐欺などの捜査が行われた際、捜査官のポケットベル、携帯電話、あるいは自宅の電話が監視されていることが発覚、イスラエル系の電子通信会社アムドクスが疑われた。9/11の後に逮捕されたイスラエル人の1割はアムドクスの社員だったという。 会社側は情報の漏洩を否定しているものの、1997年にベル・アトランティックがホワイト・ハウスに新しい電話回線を設置した際、アムドクスも協力している。そこで、米政府高官の電話がイスラエルに監視されている可能性がある。 現在、ガザで繰り広げられている虐殺の序章は昨年4月に始まっている。イスラエルの警察官が4月1日にモスクの入口でパレスチナ人男性を射殺、4月5日には警官隊がそのモスクに突入したのだ。 ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/昨年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃し、ユダヤ教の「仮庵の祭り」(昨年は9月29日から10月6日)に合わせ、10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。 そして10月7日にハマスを中心とする武装勢力がイスラエルへ攻め込んだのだが、このハマスはイスラエルがPLOのヤセル・アラファト対策で創設した組織だ。 ムスリム同胞団のメンバーだったシーク・アーメド・ヤシンは1973年にイスラエルの治安機関であるシン・ベトの監視下、ムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立し、1987年にイスラム協会の軍事部門としてハマスは作られた。 2004年にヤシンとアラファトは暗殺されているが、シーモア・ハーシュによると、09年に首相へ返り咲いたネタニヤフはPLOでなくハマスにパレスチナを支配させようとした。そのため、ネヤニヤフはカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。 その後、ハマスの内部に反イスラエル色の濃いグループも誕生し、昨年10月7日の攻撃の数カ月前、ハマスはヒズボラやイスラム聖戦と会議を開いていたと言われている。こうした組織は戦闘情報を交換していたようだ。 こうした状況の変化はあるが、ハマスの攻撃をアメリカやイスラエルは事前に知っていたことをうかがわせる動きが見られた。 例えば武装グループが突入した数時間後に2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動しているのだが、事前に情報を持っていなければ、こうした迅速な動きはできなかっただろう。 また、ガザはイスラエルが建設した事実上の強制収容所。巨大な壁に取り囲まれ、電子的な監視システムが張り巡らされている。人が近づけば警報がなり、地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっている。 バイデンのシオニスト発言やこうした状況を考えると、10月7日の攻撃の前にバイデン政権とネタニヤフ政権が事前に打ち合わせをしていた可能性も否定できない。彼らには西側の有力メディアという強力なプロパガンダ機関が存在していることもあり、新たな偽旗作戦が用意されているのではないかと推測する人もいるのだ。(了)
2024.03.16
ジョー・バイデンを含むネオコン、つまりアメリカの好戦的なシオニストはウクライナでロシアに敗北、イスラエル軍によるガザでのパレスチナ人虐殺の共謀者として批判されている。この状況を逆転させるためには衝撃的な、ネオコンの表現を借りるならば「新たな真珠湾攻撃のような壊滅的な」出来事が必要だと考える人もいる。「偽旗作戦」だ。 ベトナムに対する本格的な軍事介入を実現するためにでっち上げられた1964年8月の「トンキン湾事件」も有名である。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとリンドン・ジョンソン大統領は宣伝して好戦的な雰囲気を高め、1965年2月には「報復」と称して本格的な北爆を始めている。 ベトナムはフランスの植民地だったが、1954年5月にディエンビエンフーでフランス軍はベトミン軍に降伏しているが、その直前の1月にアメリカの国務長官だったジョン・フォスター・ダレスはNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、国務長官の弟であるアレン・ダレスが率いるCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。 ところが、ケネディ大統領はアメリカの軍隊をインドシナから撤退させると決断、1963年10月にNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出した。1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させるとされていた。アメリカ軍の準機関紙と言われるパシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。 言うまでもなく、このNSAM263は実行されていない。ジョンソンは1963年11月26日、つまり前任者が殺されて4日後にNSAM273を、また翌年3月26日にはNSAM288を出して取り消してしまったのだ。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Carol Publishing Group, 1996) ベトナム駐在のヘンリー・ロッジ大使と「大統領」は11月20日にホノルルで話し合い、「南ベトナムに関する討議」の内容を再検討してNSAM273を作成したとされている。この「大統領」がケネディだということはありえない。 トンキン湾事件の前にもアメリカ軍は偽旗作戦を計画している。ソ連に対する先制攻撃を国民に容認させる雰囲気を作るために秘密工作を実行しようとしたのだ。 その計画の中には、キューバのグアンタナモ湾に浮かぶアメリカの艦船を爆破、その責任をキューバに押しつけて非難するほか、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンで「爆弾テロ工作」を展開してキューバのエージェントを逮捕、事前に用意していた書類を公表、さらに民間旅客機の撃墜も演出しようとしていた。「ノースウッズ作戦」だ。その先にはソ連に対する先制核攻撃計画が存在している。 この撃墜作戦で拠点になるのはフロリダ州にあるエグリン空軍基地。CIAが管理している民間機のコピー機をこの基地で作り、本物の航空機は自動操縦できるようにする。その上でコピー機にはCIAの管理下にある人びとをのせて離陸、途中で本物と入れ替え、コピー機はエグリン基地へ降りる。無人機はフライト・プランに従って飛行、キューバ上空で救助信号を出し、キューバのミグ戦闘機に攻撃されていると報告、その途中で自爆するというシナリオになっていた。そのほか、数機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。(Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962) この計画をライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長は1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)、その数カ月後にレムニッツァーは大統領を説得するため、キューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと説明するが、これは無視された。 そして1962年10月にケネディ大統領はレムニッツァー議長の再任を拒否する。その時、レムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがシチリア島上陸作戦以降、彼を出世街道へ乗せたハロルド・アレグザンダーだ。イギリスの貴族階級に属する軍人で、イギリス女王エリザベス2世の側近として知られている。 ケネディ大統領だけでなく議会の中にもこうした好戦的な軍人を懸念する人物がいて、上院外交委員会では軍内部の極右グループを調べはじめる。その中心になっていたのがアルバート・ゴア上院議員(アル・ゴアの父親)だ。調査の結果、そのグループにはレムニッツァーのほかエドワード・ウォーカー少将、ウィリアム・クレイグ准将が含まれていることが判明する。 ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいたことが知られている。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディ大統領は送付、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007) 言うまでもなく、イスラエルはその後も核兵器の開発を進め、1986年10月5日付けのサンデー・タイムズ紙に掲載された内部告発者のモルデカイ・バヌヌの話よると、イスラエルが保有する核弾頭の数は生産のペースから推計して150から200発。水爆の製造に必要なリチウム6やトリチウム(三重水素)の製造を担当していたバヌヌは水爆の写真を撮影している。また中性子爆弾の製造も始めていたとしている。(The Sunday Times, 5 October 1986) ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺された後、副大統領から昇格したジョンソンのスポンサーはアブラハム・ファインバーグ。アメリカン・バンク&トラストの頭取を務める親イスラエルの富豪だ。ジョンソンの中東政策はこの人物のアドバイスに従っていたという。この大統領交代でアメリカ政府のイスラエルに対する姿勢は大きく変わった。 現在のアメリカ大統領、ジョー・バイデンは自らがシオニストだと言うことを公言、世界ユダヤ人会議から政治的シオニズムの創始者にちなんだ賞を授与されている。昨年10月にはイスラエルでベンヤミン・ネタニヤフ首相らと会談した際、バイデンは「シオニストであるためにユダヤ人でなければならないとは思わないし、私はシオニストだ」と発言していた。また2007年には「シャロームTV」のインタビューでも自分はシオニストだと主張、息子のボー・バイデンがユダヤ系のハリー・バーガーと結婚したとも語っている。このジョー・バイデンがイスラエル、そしてベンヤミン・ネタニヤフ政権に厳しい姿勢で臨むことは考えにくい。(つづく)
2024.03.15
ウクライナを舞台にした戦闘でアメリカ/NATOはロシアに敗北したことは決定的で、残された道は限られている。3月9日にはローマ教皇フランシスコもウクライナ政府に対し、敗北して物事がうまくいっていないと分かった時、交渉する勇気を持たなければならないと語った。 教皇は国を「自殺」に導かない勇気を持てと言っているのだが、それをアメリカやイギリスの支配層は許さず、ここまで事態を悪化させたのである。米英支配層はウクライナ軍に「バンザイ突撃」を繰り返させ、ウクライナ人に「総玉砕」を要求してきた。 その要求に従ってきたウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は勿論、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長も教皇の意見を拒否、軍事的支援を強化するべきだとしているのだが、それはウクライナ人に対して「玉砕」しろと言っているに等しい。最後までロシアを疲弊させることに徹しろということにほかならない。 そもそも、ウクライナでの戦闘は1992年2月にネオコンがアメリカ国防総省のDPG(国防計画指針)草案という形で作成した世界制覇計画から始まったのだ。その時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になってDPG草案は書き上げられたことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 そのドクトリンではドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないとしているのだ。 ドクトリンが作成された直後からアメリカの有力メディアは旧ソ連圏諸国を悪魔化する作り話を宣伝、軍事攻撃を始めるように煽ったが、当初、ビル・クリントン政権は戦争に消極的。状況が変化するのは1997年に国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリーン・オルブライトへ交代してからだ。オルブライトと親しいヒラリー・クリントンも夫にユーゴスラビアを攻撃するよう説得していたという。オルブライトやヒラリーと親しいビクトリア・ヌランドもビル・クリントン政権でユーゴスラビア破壊を煽っていた。 オルブライトは1998年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明したのに対し、ユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領は98年10月の終わりにコソボからの撤退計画を発表する。 しかし、KLAは軍事的な緊張を高めてNATO軍を戦争へ引き入れるため、セルビアに対して挑発的な行動に出た。これはアメリカ側の意向を受けたものである。決して親セルビアとは言えないヘンリー・キッシンジャーでさえ、1998年10月から99年2月までの期間で、停戦違反の80%はKLAによるものだと語っている。(David N. Gibbs, “First Do No Harm”, Vanderbilt University Press, 2009) そして1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施、4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅が、また5月には中国大使館も爆撃されている。勿論、この攻撃で多くの市民が殺され、建造物が破壊された。侵略戦争以外の何ものでもない。 そして2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、その衝撃的な出来事を利用してアメリカ政府は大規模な侵略戦争を始めた。 ウクライナでは2004年から05年にかけて新自由主義の手先を大統領に据えるために「オレンジ革命」が実行された。この工作を指揮していたのはアメリカ政府で、現地の拠点はアメリカ大使館だ。 新自由主義は富を外国の巨大資本やその手先に集中させ、国民を貧困化させるが、ウクライナでもそうしたことが起こった。そこでウクライナの有権者はビクトル・ヤヌコビッチを大統領に選ぶのだが、それをアメリカやイギリスの支配層は受け入れることができない。そこでバラク・オバマ政権は2014年2月にクーデターを成功させた。 そのクーデターで実働部隊として利用されたネオ・ナチのメンバーは2004年からバルト3国にあるNATOの訓練施設で軍事訓練を受けていたと伝えられている。またポーランドの外務省は2013年9月にクーデター派の86人を大学の交換学生を装って招待、ワルシャワ郊外にある警察の訓練センターで4週間にわたり、暴動の訓練を受けたとも報道されていた。 そうした訓練だけでなく、オバマ政権はCIAやFBIの専門家数十名を顧問として送り込み、傭兵会社「アカデミ(旧社名はブラックウォーター)」の戦闘員約400名もウクライナ東部の作戦に参加させていた。2015年からはCIAがウクライナ軍の特殊部隊をアメリカの南部で訓練しているのだが、それでも戦力は反クーデター勢力に劣っていた。 ヤヌコビッチの支持基盤であり、ロシア文化圏でもある東部や南部の住民はクーデター体制を拒否、クリミアはロシアの保護下に入り、ドンバス(ドネツクやルガンスク)では内戦が始まった。クーデター後、軍や治安機関メンバーの約7割が離脱、一部は反クーデター軍に合流したと言われている。ドンバスを制圧する戦力がないと判断した西側は「ミンスク合意」という形で停戦という形を作るのだが、キエフ政権は合意を守らなかった。 それから8年かけてアメリカ/NATOはクーデター体制の戦力を増強するために武器を供給、兵士を訓練、さらにドンバスの周辺に要塞線を構築、アゾフ大隊が拠点にしたマリウポリ、岩塩の採掘場があるソレダル、その中間に位置するマリーインカ、そしてアブディフカには地下要塞が建設された。 ウクライナの政治家オレグ・ツァロフは2022年2月19日に緊急アピール「大虐殺が準備されている」を出し、キエフ政権の軍や親衛隊はこの地域を制圧、自分たちに従わない住民を「浄化」しようとしていると警鐘を鳴らしている。その5日後にロシア軍はウクライナに対するミサイル攻撃を始めた。 攻撃の際、ロシア軍はウクライナ側の文書を回収、それには親衛隊のニコライ・バラン上級大将が1月22日にドンバスへの攻撃命令書へ署名し、ドンバスを攻撃する準備が始まったとされている。2月中に準備を終え、3月に作戦を実行することになっていたという。ウクライナでの戦闘を「ロシアによるウクライナ侵攻」という表現は正しくない。戦争に反対している風を装いながらアメリカを支持しているにすぎない。 ロシア軍が負ければ西側は好き勝手な物語を語ることができたのだろうが、ウクライナの要塞戦が突破され、ロシア軍の勝利は決定的になった。 フランスの雑誌「マリアンヌ」によると、フランス国防省の分析でもウクライナ軍の敗北は決定的。西側で宣伝されていた「反転攻勢」は泥と血にまみれて泥沼化、いかなる戦略的利益も得られなかったとしている。将兵の訓練が不十分で、3週間も訓練を受けていない状態でロシアの防衛ラインに対する攻撃に駆り出され、死傷者の山を築いた。 それに対し、ロシア軍は部隊が完全に消耗する前に補強し、新兵と経験豊富な部隊を融合させ、後方での定期的な休息期間を確保し、不測の事態に対処するために常に予備部隊を用意していると指摘している。現実は西側の有力メディアや「専門家」の主張とは全く違うのだ。フランス国防省もウクライナ軍の勝利は不可能と思われるとしている。 その報告を見てマクロンはパニックになり、ゼレンスキーを支援するために軍隊を派遣するかもしれないと発言したのかもしれないが、それで戦況が変わるとは思えない。 スコット・リッター元国連兵器査察官もアメリカ国防総省の幻想は崩壊しつつあると語っている。ウクライナでの惨状を作り出したのはウクライナ政府に戦闘を強要したアメリカ政府であり、ウクライナ政府がアメリカの戦術的アドバイスを聞かなかったからではない。「国防総省はウクライナの巨大なファンタジーが崩壊しつつあるため、政治的な隠れ蓑を作ろうとしているのは間違いない」とリッターは分析している。 アメリカやイギリスの好戦派がNATOの大陸諸国を操り、ロシアと核戦争させて共倒れにしようとしているのかもしれない。マクロンは、ロシアがこの戦争に勝つのを阻止するためならフランスはあらゆることをすると述べた。正気ならこうした主張に同調しないだろう。
2024.03.14
東北地方の太平洋沖で発生した大規模な地震によって東電福島第1原発が破壊され、全電源が失われて炉心が溶融したのは13年前の3月11日だった。「過渡期現象記録装置データ」から地震発生から約1分30秒後に冷却水の循環が急激に減少し、メルトダウンが始まる環境になったと元東電社員の木村俊雄は指摘していたが、同じように推測している専門家がいる。「津波」はその事実を隠蔽するために考えられた物語だとしか考えられない。 事故前に原子力安全基盤機構が作成した炉心溶融のシミュレーション映像を見ると、全電源喪失事故から30分ほど後にメルトダウンが始まると推測している。約1時間後には圧力容器の下にデブリ(溶融した炉心を含む塊)が溜まり、約3時間後に貫通して格納容器の床に落下、コンクリートを溶かしてさらに下のコンクリート床面へ落ち、格納容器の圧力が上昇、外部へガスが漏洩し始めるというシナリオだ。 日本は地震国であり、しばしば大規模な地震が起こってきた。地震が起こらない場所はないだろう。そうした場所に建設された原子力発電所が地震で破壊されることは必然であり、炉心溶融のような大事故が引き起こされるのは時間の問題だった。だからこそ少なからぬ原子力や地震の専門家が原発の危険性を訴えていたのだが、彼らも危機が迫っているとは考えていなかったようだ。 ところで、日本の原発は核兵器開発と密接に関係している。日本の核兵器開発は第2次世界大戦中に始まった。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究は1943年1月にスタート、海軍も京都帝大とF研究を検討していた。仁科グループは1944年3月に濃縮実験を開始、福島県石川郡でのウラン採掘を決めている。海軍は上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを手に入れたという。 その日本へドイツは1945年の初め、1200ポンド(約540キログラム)の二酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、5月1日にアメリカの軍艦に拿捕されてしまう。その際、潜水艦に乗り込んでいた日本人士官は自殺、そのウラン化合物はオーク・リッジへ運ばれたとされている。アドルフ・ヒトラーの側近、マルチン・ボルマンはこのUボートに対し、アメリカの東海岸へ向かわせ、暗号などを除く積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命じていたという。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011) 大戦後、日本は核開発を再開する。1954年3月に中曽根康弘は原子力予算(2億3500万円)を国会に提出、修正を経て予算案は4月に可決された。その背景には1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言があり、日本もその主張を踏襲しているが、実態は違った。 岸信介は1957年5月に参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、59年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張。岸の弟、佐藤栄作が総理大臣に就任すると、日本の核武装が具体的に検討され始めた。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983) NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。こうした日本側の発言に対し、ジョンソン政権は日本に対し、思いとどまるよう伝えたという。 佐藤は1967年に訪米した際、「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守ると言うことを期待したい」と求め、ジョンソン大統領は「私が大統領である限り、我々の約束は守る」と答えたと言われている。この年、「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立された。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日) シーモア・ハーシュによると、1969年にスタートしたリチャード・ニクソン政権で大統領補佐官に就任したヘンリー・キッシンジャーは日本の核武装に前向きだった。彼はスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991) 佐藤政権で核武装を目指し始めたグループは、10年から15年の期間で核武装できると想定、具体的な調査を始める。その中心は内閣調査室の主幹だった志垣民郎。調査項目には核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などが含まれ、技術的には容易に実現できるという結論に達している。原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていたという。志垣らは高純度のプルトニウムを年間100キログラム余りを作れると見積もっていた。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日) 内閣調査室は1952年4月に創設され、国警本部警備第1課長だった村井順が初代室長に就任している。後に綜合警備保障を創設する人物だ。 村井は1953年9月から3カ月の予定で国外に出ているが、その名目は中曽根と同じようにスイスで開かれるMRA大会への出席だった。MRAはCIAの別働隊で、村井が国外へ出た本当の理由は西ドイツのボンに滞在していたアレン・ダレスCIA長官に会い、新情報機関に関する助言を得ることにあったとされている。 核武装については自衛隊も研究していたことが明らかになっている。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたと告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日) 1972年2月にリチャード・ニクソン米大統領は中国を訪問したが、それまでの交渉過程でキッシンジャーは周恩来に対して日本の核武装について話している。シーモア・ハーシュによると、アメリカと中国が友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したというのだ。日本の核武装はアメリカの共和党政権にとって、中国と交渉するうえでの重要なカードだった言える。 ジミー・カーター政権がスタートした1977年に東海村の核燃料再処理工場(設計処理能力は年間210トン)が試運転に入った。2006年までに1116トンを処理、その1パーセントのプルトニウムが生産されるとして10トン強、その1パーセントは誤差として認められるので、0.1トンになる。計算上、これだけのプルトニウムを「合法的」に隠し持つことができる。 しかし、カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったと言われている。アメリカが疑惑を深めた一因は「第2処理工場」を建設する際の条件だった「平和利用」が東海村の処理工場にはついていなかったことにもある。 日本が核武装を目指していると信じられている一因はリサイクル機器試験施設(RETF)の建設を計画したことにある。RETFとはプルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。常陽やもんじゅで生産した兵器級プルトニウムをRETFで再処理すれば、30発以上の核兵器を日本は製造できるということだ。 アメリカ政府が東海村のRETFに移転した技術の中に「機微な核技術」、例えば小型遠心抽出機などの軍事技術が含まれていることがわかっている。この事実は環境保護団体のグリーンピースも1994年に指摘している。(Greenpeace International, "The Unlawful Plutonium Alliance", Greenpeace International, 1994) ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、東京電力福島第1原子力発電所で炉心が溶融する事故が起こった2011年当時、日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”) 日本の核兵器開発が進む切っ掛けは、CRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画の挫折。1987年に議会はクリンチ・リバーへの予算を打ち切るのだが、そこで目をつけられたのが日本。トレントによると、この延命策を指揮することになったリチャード・T・ケネディー陸軍大佐はクリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売ることにしたのだ。 日本のカネを利用するというプランに国務省やエネルギー省は賛成した。核武装した日本はアジアにおけるアメリカの軍事負担を軽減させると考えた国防総省もプルトニウムや核に関する技術の日本への移転に反対しなかったという。 その後、毎年何十人もの科学者たちが日本からクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入る。中でも日本人が最も欲しがった技術はサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関するもので、RETFへ送られた。 アメリカのエネルギー省と動燃(現在の日本原子力研究開発機構)との間で取り交わした協定では、核兵器級のプルトニウムをアメリカの同意なしに第三国(例えばイスラエル)へ輸出したり、アメリカの事前承認なしに核燃料を再処理してプルトニウムを取り出したりすることが可能だった。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”) ちなみに、福島第1原発で警備を担当していた会社はイスラエルのマグナBSP。セキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラが原発内に設置、事故時、スタッフを訓練していたとエルサレム・ポスト紙やハーレツ紙が伝えている。 核兵器を保有し、それを使って周辺国を脅せば自分の思い通りになると信じている人たちが日本にはいる。そのひとりが石原慎太郎だった。2011年3月8日付けのインディペンデント紙に石原のインタビュー記事が掲載されているのだが、その中で日本の核兵器保有について語っている。 石原によると、外交とは核兵器で相手を脅すことであり、これさえ保有していれば中国も尖閣諸島に手を出さない。彼に強国と知性で渡り合うという芸当はできず、「暴力手段」を欲しがるわけだ。石原は中国、朝鮮、ロシアを「敵」だと表現、その「敵」を恫喝するために核兵器は必要だと考えている。発想がネオコンと同じだ。 ところで、「核の冬」に匹敵するダメージを敵国に与えられる兵器をアメリカ国防総省は開発しているとロシア国防省は主張している。ロシア政府が昨年4月に発表した報告書によると、兵士だけでなく動物や農作物にダメージを与え、相手国を完全に破壊して生態系に影響を与える「万能生物兵器」をアメリカの研究者がウクライナで研究開発していたとしている。昆虫、哺乳類、野鳥を利用して人間を攻撃する病原体の伝播に特別な注意を払っているという。この「万能生物兵器」を西側では「ワクチン」と呼んでいるのではないだろうか。 ジャーナリストのディリヤナ・ゲイタンジエワによると、アメリカ国防総省はドニプロ、ミコライフ、リビフ、ウジホロド、テルノポリ、ビンニツヤ、キエフに研究施設を2010年から13年の間に建設したとしている。 また、サーシャ・ラティポワは情報公開法によって入手した文書を分析した結果、COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動はアメリカ国防総省がバラク・オバマ政権の時代に始めた作戦だという結論に達したという。日本の「ワクチン」政策は国防総省の命令に基づいている可能性がある。
2024.03.13
ガザにおけるパレスチナ住民の虐殺に対する怒りは全世界に広がり、アメリカの大統領選挙にも影響を及ぼし始めた。ミシガン州の予備選挙では虐殺への抗議で「未投票」が13万人に達し、ジョー・バイデン陣営としても無視できなくなってきたようだ。が、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ大統領はガザでの住民虐殺を止めようとしていない。 イスラエルは「建国」以来、パレスチナ人を弾圧してきたが、今回の虐殺は犠牲者が多い。すでに3万1000人以上の住民が殺されたと推測されている。しかも約4割が子ども、女性を含めると約7割に達すると言われている。「戦争の巻き添え」で子どもや女性が殺されているのではない。子どもや女性など非戦闘員が狙われている。こうした実態を世界の人びとが知りつつあるのだ。 ガザでの戦闘はハマスを中心とするパレスチナ系武装グループが10月7日に実行したイスラエルに対する軍事作戦から始まるのだが、イスラエル政府やアメリカ政府は事前にハマスの攻撃を知っていた可能性が高い。 アメリカ側の動きで目につくのは空母の動き。武装グループが突入した数時間後に2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させている。事前に情報を持っていなければ、こうした迅速な動きはできなかっただろう。 また、ガザはイスラエルが建設した事実上の強制収容所。巨大な壁に取り囲まれ、電子的な監視システムが張り巡らされている。人が近づけば警報がなり、地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっている。 しかも、ハマスはイスラエルによって作られ、資金もイスラエルから提供されていた。イスラエルにとって目障りな存在だったヤセル・アラファトの影響力を弱めるために組織されたのだ。 イスラエルの治安機関であるシン・ベトはムスリム同胞団のメンバーだったシーク・アーメド・ヤシンに目をつけ、1973年にムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして1976年にはイスラム協会を設立させる。ハマスは1987年にイスラム協会の軍事部門として作られた。2009年に首相へ返り咲いた時、ネタニヤフはハマスにパレスチナを支配させようと計画、そのためにカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。 ハマスなどによる軍事作戦の名称は「アル・アクサの洪水」。これはイスラムにとって重要な世界で第3番目の聖地だというアル・アクサ・モスクに対するイスラエル人による冒涜行為に対する怒りという意味がある。 例えば、イスラエルの警察官が昨年4月1日にモスクの入口でパレスチナ人男性を射殺、4月5日には警官隊がそのモスクに突入、ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/今年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃し、ユダヤ教の「仮庵の祭り」(今年は9月29日から10月6日)に合わせて10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。言うまでもなく、イスラム教徒に対する挑発行為だ。 10月7日の攻撃の際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされ、その後1200名に訂正されたが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装グループを壊滅させるため、占拠された建物を人質もろとも砲撃、あるいは戦闘ヘリからの攻撃で破壊したという。イスラエル軍は自国民を殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。 しかし、攻撃直後、イスラエル政府はパニックになっていたように見える。攻撃を予想はしていたが、展開が予想通りでなかったのかもしれない。ガザでイスラエル軍は苦戦、ネタニヤフ政権は停戦するわけにはいかない状況だともいう。 この状況が続くとネタニヤフ政権とバイデン政権の関係が難しくなる可能性がある。アメリカやイギリスが軍事支援を止めてしまえばイスラエルは戦闘を続けられないわけだが、支援を止められないとも言われている。イスラエルの背後に存在する19世紀から続く帝国主義の権力システムが許さないと考えられている。
2024.03.12
ウクライナにはすでにNATO加盟国軍が入り、ロシア軍と戦火を交えている。その戦闘でロシア軍の勝利は確定的だ。そうした中、マニュエル・マクロン仏大統領は2月26日、ウクライナに西側諸国軍隊を派遣することは将来的に「排除」されるものではないと述べたわけで、この発言は間違っている。 ドイツ連邦軍参謀本部に将校として所属した経験のあるローデリヒ・キーゼベッター連邦議会議員は昨年5月、射程距離500キロメートルの「タウルスKEPD 350」をウクライナへ供給するべきだと発言したが、オラフ・ショルツ首相はウクライナへタウルス・ミサイルを送るというアイデアに消極的。タウルスを提供すればシステムを動かすため、イギリスやフランスと同じようにドイツ兵を派遣しなければならないと語った。イギリスやフランスは兵士を派遣しているということになる。 ロシアのメディアRTが3月1日に公表したドイツ空軍幹部の音声記録によると、ドイツも戦争を拡大させようとしている。ドイツ空軍のインゴ・ゲルハルツ総監、作戦担当参謀次長のフランク・グレーフェ准将、そして連邦軍宇宙本部のフェンスケとフロシュテッテは2月19日、タウルスをウクライナへ供給してクリミア半島とロシア本土を結ぶクリミア橋(ケルチ橋)を攻撃、破壊するというテーマで話し合っているのだ。彼らはロシア軍と戦っているとしていた。ドイツ首相は長距離ミサイルをウクライナへ供給することに消極的だが、軍幹部はすでに攻撃方法について相談している。 デイビッド・キャメロン英外相はドイツ紙のインタビューで、ドイツのタウルス供給を妨げている問題の解決にイギリス政府が協力する用意があると発言、ドイツ軍の背後にイギリスが存在していることを感じさせた。キャメロンはウクライナに和平を求めず、武力でロシアを屈服させるべきだという立場だ。ガザにおける虐殺と同じように、問題を引き起こしているのはイギリスとアメリカだ。 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領はイギリスの対外情報機関MI6の影響下にあると言われているが、そのゼレンスキーも軍事的暴走をやめられないでいる。ウクライナ陸軍のアレクサンドル・パブリュク中将は「反撃」を妄想しているようだ。「攻撃グループを編成し、反撃作戦を実施する」のだというが、再びウクライナ軍の死傷者が増えるだけだ。 1992年2月にネオコンが始めた世界制覇プロジェクトは、ソ連が消滅し、中国がアメリカに従属しているという前提で作成された。2001年9月11日に実行されたニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)に対する攻撃後に始められた侵略戦争は簡単に肩がつくとアメリカの好戦派は信じていたようだ。 しかし、ロシアがウラジミル・プーチンの下で再独立に成功、状況は大きく変化したのだが、フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された論文に書かれているように、アメリカのエリートはアメリカが近いうちにロシアと中国の長距離核兵器を先制第1撃で破壊する能力を持てると考えていた。その後、南オセチアやシリアでロシア軍が強く、ロシア製兵器が優秀だということが明確になってもネオコンたちは自分たちが優っているという考えを捨てられないでいる。ロシアの生産力も見誤った。しかも2013年11月から14年2月にかけてウクライナで仕掛けたクーデターはロシアと中国を接近させることになった。 アメリカやイギリスの支配層は自分たちが優秀だと信仰、ロシアや中国を軽蔑している。しかも自分たちの力が衰えていることを認めようとしない。沖縄を戦場にする一方、松代で大本営を建設していた当時の日本を思い起こさせる。知彼知己者、百戰不殆不知彼而知己者、一勝一負不知彼不知己、毎戰必殆(孫子 謀攻篇第三)彼を知り己を知らば、百戦して殆うからず彼を知らずして己を知れば、一勝一負す彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし
2024.03.11
アントニー・ブリンケン国務長官は3月5日、ビクトリア・ヌランド国務次官が数週間以内に退任すると発表した。文面から「解任」されたと推測する人が少なくない。 ヌランドはネオコンの重鎮であるロバート・ケーガンの妻で、好戦派のマデリーン・オルブライトやヒラリー・クリントンと親しい。2013年11月から14年2月にかけてウクライナで実行されたクーデターの中心グループに属していた。ホワイトハウスでクーデターを指揮していたのは副大統領だったジョー・バイデン、国家安全保障問題担当の副大統領補佐官だったジェイク・サリバンも重要な役割を果たしていた。この構図はバイデン政権になっても同じだ。 19世紀から始まる米英の帝国主義者の人脈にとってウクライナは戦略上重要な国。ロシアの喉元にナイフを突きつけることになるからだが、それだけでなく穀倉地帯であり、資源も存在する。2010年代に入ってからは生物兵器の開発にも使われ、医薬品メーカーの「治験」にも利用されてきた。 2022年2月にロシア軍がウクライナ軍に対するミサイル攻撃を始めた理由はウクライナ軍がドンバスで民族浄化作戦を始めることを察知したからだと言われているが、生物兵器の開発を懸念していたことも理由のひとつだとされている。 ロシア軍は生物兵器の研究開発施設も破壊、機密文書を回収、分析した。ロシアとの国境に近いウクライナ領内で生物化学兵器の研究開発を行っていることを知っていたのだ。ウクライナに建設された研究開発施設は、アメリカ国防総省のDTRA(国防脅威削減局)にコントロールされていた。 ジャーナリストのディリヤナ・ゲイタンジエワによると、ドニプロ、ミコライフ、リビフ、ウジホロド、テルノポリ、ビンニツヤ、キエフにも施設があり、各研究所は2010年から13年の間に建設されたという。ウクライナでクーデターが始まった2013年、アメリカ国防総省がハリコフ周辺にレベル3のバイオ研究施設を作ろうとしていると訴えるリーフレットがまかれ、実際、建設されている。 昨年4月には「万能生物兵器」をアメリカの研究者が開発していたとロシア政府は発表している。敵の兵士だけでなく、動物や農作物にダメージを与えることができ、相手国を完全に破壊し、民間人、食糧安全保障、環境にも影響を与えて「核の冬」に匹敵する結果をもたらそうとしていたとされている。アメリカは昆虫、哺乳類、野鳥を利用して人間を攻撃する病原体の伝播に特別な注意を払っているという。 こうした「万能生物兵器」の特性は「レプリコン・ワクチン(自己増幅型COVIDワクチン)」を連想させる。日本の政府、企業、大学はアメリカの万能生物兵器を日本で生産し、日本人を「マルタ」に使い、生体実験しつつあるように見える。 日本軍は第2次世界大戦中、中国の東北部で生物化学兵器を研究開発するために生体実験を行っている。そのために編成されたのが「加茂部隊」で、責任者は京都帝国大学医学部出身の石井四郎中将。その後ろ盾は小泉親彦軍医総監だったとされている。 加茂部隊はその後「東郷部隊」へと名前を替え、1941年には「第七三一部隊」と呼ばれるようになる。この極秘部隊は生体実験を行なっているが、その実験材料は捕虜として拘束していた中国人、モンゴル人、ロシア人、朝鮮人で、日本軍は「マルタ」と呼んでいた。研究開発の中心は軍医学校、東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部で、そこから若い研究者が「第七三一部隊」へ派遣されていた。大戦後、日本の生物化学兵器に関する資料はアメリカ国防総省へ渡され、研究員もアメリカへ渡っている。 サーシャ・ラティポワによると、COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動はアメリカ国防総省がバラク・オバマ政権の時代に始めた作戦であり、「第七三一部隊」からつながっている。 COVID-19騒動で「COVID-19ワクチン」と呼ばれるmRNA技術を利用した遺伝子導入剤が知られるようになった。その薬剤を販売している企業がファイザーとモデルナ。京都大学はファイザーと、東京大学はモデルナと手を組み、人類の存続を危うくする可能性が指摘されている薬物の研究開発を進め始めた。
2024.03.10
ドイツ連邦議会のローデリヒ・キーゼベッター議員はロシアに対する軍事攻撃に積極的な人物である。ドイツ連邦軍の参謀本部に将校として所属していたことがあり、議会では外務委員会のメンバー。軍縮軍備管理不拡散小委員会の副委員長でもある。 ウクライナ軍は一時期、ロシア軍が管理しているザポリージャ原発を攻撃していたが、キーゼベッターは昨年5月、射程距離500キロメートルの「タウルスKEPD 350」をウクライナへ供給するべきだと発言、7月には、原発がロシア軍に攻撃されたならロシアの飛地であるカリーニングラードをロシアの補給線から切り離すことを考えるべきだと発言している。 ロシアのメディアRTは3月1日、ドイツ空軍の幹部がロシアの重要なインフラを攻撃、破壊するプランについてリモート会議している音声を公表した。 2月19日に行われたその会議に参加していたのは、ドイツ空軍のインゴ・ゲルハルツ総監、作戦担当参謀次長のフランク・グレーフェ准将、そして連邦軍宇宙本部のフェンスケとフロシュテッテ。タウルスをウクライナへ供給し、クリミア半島とロシア本土を結ぶクリミア橋(ケルチ橋)を攻撃し、破壊するというテーマで、近代的なテクノロジーを駆使してロシアと戦争していると発言している。 イギリスやフランスがウクライナへミサイルを供給するにあたり、目標管制や目標管制の支援を行う要員を送り込んでいるとオラフ・ショルツ独首相は指摘、タウルスを提供すればシステムを動かすためにはドイツ兵を派遣しなければならないと語っていた。つまりイギリスとフランスはすでに自国の要員をウクライナへ送り込んでいることを認めたのである。 言うまでもなく、アメリカやイギリスも兵士や情報機関員をウクライナへ送り込んでいる。フランスのル・フィガロ紙のジョージ・マルブルノは、ウクライナでアメリカ陸軍の特殊部隊デルタ・フォース(第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊)やイギリス陸軍のSAS(特殊空挺部隊)も戦闘に参加しいるとしていた。ポーランドやバルト諸国からも戦闘員がウクライナへ入っているとも言われている。 ロシア軍は先日、ウクライナ北東部のスミにある国境警備隊部隊の司令部を破壊したが、そこにはCIAの訓練を受けたウクライナの特殊部隊がいて多くの死傷者が出たと噂されている。 その前、1月16日にロシア軍はハリコフを攻撃、ウクライナの軍事施設のほか、情報機関や軍関係者が滞在していた旧ハリコフ・パレス・ホテルを破壊した。その旧ホテルには200人い外国人傭兵が滞在、その大半はフランス人傭兵で、そのうち60名が死亡、20人以上が医療施設に搬送されたという。 マニュエル・マクロン仏大統領は2月26日、パリで開催された欧州首脳会議でこの問題が議論された後、ウクライナに西側諸国軍隊を派遣することは将来的に「排除」されるものではないと述べているが、すでにNATO軍部隊をウクライナでロシア軍と戦っている。 イギリスが供給したストーム・シャドウやフランスのスカルプ、そして類似品であるドイツのタウルス。射的距離が最も長いタウルスでも500キロメートルに過ぎない。それに対し、ロシア軍がシリア政府の要請で軍事介入した直後にカスピ海の艦船から発射した26基のカリブル巡航ミサイルの場合は約1500キロメートルに達する。シリアでは2.5メートル以内の誤差で命中したと伝えられている。 キーゼベッターにしろ、ゲルハルツにしろ、ロシア軍からNATO諸国への反撃はないという前提で議論しているのだが、射程距離が500キロメートルのミサイルをロシアへ撃ち込めば、射程距離が1500キロメートルのミサイルで報復される。 南オセチア、シリア、そしてウクライナでアメリカ/NATOの兵器はロシア製の兵器に比べて劣ることが明確になっている。中東での戦闘で注目された携帯式ミサイル・システムのスティンガーにしろ、すでに時代遅れ。パトリオット・ミサイルの無能さは2003年のイラクへの軍事侵攻で明らかになっている。M777榴弾砲やHIMARS(高機動ロケット砲システム)は壊れやすいことは判明している。 西側で「神風」の如く言われているF-16戦闘機は核ミサイルを発射する能力があるものの、すでに古い。また吸気口が地面に近いため、離陸時に滑走路のゴミを吸い込み、エンジン故障の原因になるという欠点もある。戦闘機の車輪を比較すると、一般的にロシア製に比べてアメリカ製のものは貧弱。綺麗に舗装され、整備された滑走路が必要だという。キーゼベッター議員やゲルハルツ空軍総監の発言はナチスを髣髴とさせる。 ちなみに、ロシアの十月革命からナチスが台頭するまでの期間、ドイツとロシア/ソ連の関係は良好だった。ソ連を率いることになるボルシェビキの指導部は二月革命で臨時革命政府が樹立されるまで収監されているか、亡命していてロシアにはいなかった。二月革命で臨時革命政府を樹立したのはフェリックス・ユスポフをはじめとする一部貴族、資本家、そして資本主義革命を望んでいた「リベラル派」の連合体で、イギリスの戦略通り、第1次世界大戦でドイツと戦争することを望んでいたのだ。 この勢力のライバルだったのは大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士。この勢力はドイツとの戦争に反対していた。ロシアの支配層が戦争をめぐって対立する中、1916年7月13日に戦争反対の皇后はラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。 参戦してもラスプーチンが復活すると戦争を辞める可能性があるのだが、1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になったと見られている。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。 その当時、ロシアにはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運ぶ。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになるのだ。 このソ連とドイツとの関係を潰したのがナチスであり、そのナチスの資金源がイギリスやアメリカの金融資本だということがわかっている。アメリカの金融資本は1933年から34年にかけての頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を中心とするニューディール派の政権を潰すためにクーデターを試み、スメドリー・バトラー退役少将に阻止された。金融資本はファシストの戦術を真似ようとしていたが、それだけでなくファシズム体制の樹立を目指すと記者に語っている。 戦争が終了した後に金融資本とナチスとの関係にメスが入ると見られていたのだが、ドイツが降伏する直前の1945年4月12日にルーズベルトが急死、ニューディール派は急速に力を失い、金融資本が実権を取り戻した。 1949年4月に北大西洋条約機構が調印されてNATOが誕生するが、初代事務総長のヘイスティング・ライオネル・イスメイはその目的を「ソ連を追い出し、アメリカを引き入れ、ドイツを抑え込むことだ」としている。この機構はヨーロッパをアメリカが支配するための仕組みであり、その手先になる秘密部隊のネットワークも存在する。 それに対し、西ドイツがNATOへ加入した1955年、ソ連は近隣諸国と「ワルシャワ条約」を締結、安全保障機構が設立された。ソ連の近隣国とはドイツがソ連へ軍事侵攻する直前に支配していた地域で、カトリックの影響が強く、大戦中、反ロシア感情からナチスと結びついていた人が少なくなかった。本ブログで繰り返し書いてきたように、ポーランドの反ロシア感情とイギリスへの従属が第2次世界大戦の引き金になっている。 ナチスを育て、支援した米英金融資本の戦略は19世紀に書かれた。その中心的なグループはビクトリア女王にアドバイスしていたネイサン・ロスチャイルド、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、そしてセシル・ローズらだ。 ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物。1877年6月にフリーメーソンへ入会、『信仰告白』を書いている。 その中で彼はアングロ・サクソンが最も優秀な人種だと主張、その優秀の人種が住む地域が増えれば増えるほど人類にとってより良く、大英帝国の繁栄につながるとしている。そのためには侵略し、先住民を皆殺しにする必要がある。そうした意味で、アメリカやイスラエルは彼らの戦略が成功した地域だと言えるだろう。 中東やウクライナ、そして日本でも多くの人が死ぬようなことをしているが、これは彼らの計画だと考えるべきだ。そうした計画を実現するためにはエネルギーと作戦本部が必要。秘密結社はその作戦本部だと考えられる。
2024.03.09
イスラエル軍がガザで行っていることはパレスチナ人の虐殺である。ハマスとの戦闘による「付随的な被害」ではない。そうした大量虐殺を西側の有力メディアは被害を小さく見せると同時に、イスラエル軍を擁護している。イスラエル軍を擁護する主張のひとつが「ハマスの戦闘員によるレイプ」という話だ。 この話について「紛争下の性的暴力担当国連事務総長特別代表」のプラミラ・パッテンが率いるチームが調査し、その報告書を3月4日に発表した。面談、写真や映像の分析を実施したというが、イスラエル側の主張を裏付ける証言や証拠は見つからなかったという。 キブツ・ベーリ攻撃の余波で家族とはぐれ、上半身が裸になった状態の少女が発見されたともされているが、報告書によると、現場はイスラエルの爆弾処理班によって改竄され、遺体は移動されていたと指摘されている。調査チームのメンバーはベエリでの性的暴力を確認できなかったと語っている。 チームが入手できた写真やビデオの医学的評価ではレイプの具体的な兆候は確認できず、性的な暴力行為を具体的に描いたデジタルの証拠はオープンソースで発見されなかったとしている。しかも調査チームはレイプの被害者をひとりも見つけられなかったことを認めた。 パッテンによると、彼女のチームはイスラエル政府系ロビー団体による「圧力」を受けて派遣され、彼女はイスラエルに15日間滞在したのの対象、パレスチナには2日間だけだったとしている。ナハル・オズ軍事基地、キブツ・ベエリ、ノヴァ音楽祭の会場、道路232号線などへの訪問はイスラエル政府の「支援」がある場合だけだったともいう。要するにイスラエル政府の管理下でなければ現場へ入れなかったということだろう。またパッテンたちはイスラエルの軍、治安機関のシン・ベト、国家警察と何度か会談しているという。レクチャーを受けたということだろう。 ハマス(イスラム抵抗運動)がイスラエルを攻撃したのは昨年10月7日だが、その直後、IDF(イスラエル国防軍)のデイビッド・ベン・シオンなる人物が記者に語り、その話を西側の有力メディアやイスラエル外務省、そしてジョー・バイデン米大統領が広めた。バイデン大統領は10月10日、ホワイトハウスにおけるユダヤ教の指導者たちに対する演説で赤ん坊に対する残忍な行為を描いた写真にショックを受けたと主張しているのだ。 しかし、アメリカ政府はすぐに大統領の発言を撤回、IDFも「公式には確認できない」と訂正する。 発信源のベン・シオンはヨルダン川西岸の違法入植者の指導者で、今年初めにはヨルダン川西岸でパレスチナ人に対する暴動を扇動したと伝えられている。今年2月、彼はパレスチナのフワラ村を一掃するように呼びかけていた。 ベン・シオンのような狂信的なシオニストは昨年4月1日、イスラエルの警察官がイスラム世界で第3番目の聖地だというアル・アクサ・モスクの入口でパレスチナ人男性を射殺。4月5日にはイスラエルの警官隊がそのモスクに突入し、ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/今年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃した。そしてユダヤ教の「仮庵の祭り」(今年は9月29日から10月6日)に合わせ、10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。 法医学的結論は訓練を受けていないボランティアが不正確で信頼性の低い結論を出しているとパッテンのチームは批判している。ハーレツ紙から死体を演出の材料と考えていると批判されているZAKAを指していると考えられている。 専門知識に欠ける人は肛門拡張を肛門貫通と解釈するが、広範囲の火傷損傷がある場合は肛門拡張になり、重度の火傷による体の姿勢は開脚など、やはり性的暴力の兆候であると解釈されることもあるという。ハマスがレイプしたという話を作り上げる材料を欲しがっている人はそのように解釈することになるだろう。 イスラエル政府や西側の有力メディアを欲求不満にしているパッテンのチームだが、決して反米ではない。 アメリカ/NATOが地下要塞を建設し、ネオ・ナチで編成された親衛隊のアゾフ大隊(アゾフ特殊作戦分遣隊)が拠点にしていたマリウポリをロシア軍が解放した際、彼女は「マリウポリでロシア兵が女性に対して性的な犯罪行為を軍事戦略として行なっていた」と発言している。 それに対してAFPの記者に証拠が示されていないと指摘。パッテンは自分がいたのはニューヨークのオフィスで、調査はしていないと開き直っている。今回のケースでは被害者も証拠も見つけられないまま、性暴力が10月7日に発生したという「明確で説得力のある」情報を発見したと主張している。
2024.03.08
ポーランド北部のコルゼニェボ近くに約2万人のNATO軍兵士が集結し、軍事演習「ドラゴン-24(DR-24)」を実施した。参加国はポーランド、フランス、ドイツ、リトアニア、スロベニア、スペイン、トルコ、イギリス、そしてアメリカだ。 NATOは「ステッドファスト・ディフェンダー-24(STDE-24)」と名付けられた約9万人が参加する一連の演習を実施しているが、DR-24はそれに含まれる。ロシアからの攻撃に備えての演習だとしているが、NATOの東への拡大(新バルバロッサ作戦)、そしてウクライナにおけるクーデターという流れはNATOの攻撃的な意思を示している。 RTのマルガリータ・シモニャン編集長は3月1日、ドイツ空軍のインゴ・ゲルハルツ総監や作戦担当参謀次長のフランク・グレーフェ准将を含む軍幹部4名がリモート会議している音声を公表した。4名はクリミア半島とロシア本土を結ぶクリミア橋(ケルチ橋)に対する長距離ミサイル「タウルスKEPD 350」を使った攻撃について相談している。 話し合いは38分に及び、その内容からウクライナでNATO軍の兵士が活動していることも確認された。すでにNATO軍はロシア軍と戦争しているということであり、STDE-24は防衛が目的だという弁明に説得力はない。攻撃の準備、あるいは威嚇だ。 長距離ミサイルを供給し、NATO軍をウクライナへ入れることはビクトリア・ヌランド国務次官が1年ほど前から要求していた。イスラエル軍によるガザでの住民虐殺はイラン攻撃を実現するチャンスだとも彼女は考えていた。そのヌランドをアントニー・ブリンケン国務長官は解任した。 ヌランドは一時、国務副長官の候補者として名前が挙がっていたが、実際にはカート・キャンベルが2月12日に就任した。ネオコンが1992年2月、国防総省のDPG(国防計画指針)草案という形で作成した世界制覇プラン(ウォルフォウィッツ・ドクトリン)に基づき、日本は1995年にアメリカの戦争マシーンへ組み込まれたが、その際、キャンベルは重要な役割を果たしている。このドクトリンではドイツや日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に組み入れ、「新たなライバル」の出現を阻止するべきだとしていた。 アメリカの戦争マシーンに組み込まれることを嫌がった細川護熙政権は国連中心主義を打ち出して抵抗、怒ったネオコンのマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはキャンベルを介して国防次官補のジョセイフ・ナイに接触、ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表する。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が謳われていた。 このレポートを日本に実行させる上で重要な出来事が1994年から95年にかけて続く。例えば1994年6月の松本サリン事件、95年3月の地下鉄サリン事件、その直後には警察庁長官だった國松孝次の狙撃だ。8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われるスターズ・アンド・ストライプ紙が日本航空123便に関する記事を掲載、その中で自衛隊の責任を示唆している。 1995年には日本の金融界に激震が走った。大和銀行ニューヨーク支店で巨額損失が発覚、98年には長銀事件と続き、証券界のスキャンダルも表面化した。証券界は日本経済の資金を回すモーター的な役割を果たしていた。つまり証券界のスキャンダルの背後には大蔵省(現在の財務省)が存在していた。大蔵省を中心とする日本の経済が揺さぶられたとも言えるだろう。 その後、日本はアメリカに従属する軍事国家へと突き進み、韓国とも軍事的なつながりを強め、台湾やフィリピンとも連携しつつあるが、こうした動きに対抗、中国やロシアは朝鮮とのつながりを強化、アメリカやその属国からの揺さぶりは効果がないようだ。
2024.03.07
アメリカのビクトリア・ヌランド国務次官が数週間以内に退任するとアントニー・ブリンケン国務長官が発表した。退任後、彼女の職務は一時的にジョン・バス次官が担当するという。 ヌランドは父方の祖父母がウクライナからの移民で、夫はネオコンの重鎮であるロバート・ケーガン、義理の弟はフレデリック・ケーガン、フレデリックの妻はISW(戦争研究所)を設立したキンベリー・ケーガン。マデリーン・オルブライトやヒラリー・クリントンと親しく、ビル・クリントン政権でアメリカをユーゴスラビア侵略へと導いた仲間だ。 オルブライトはチェコスロバキア出身で、ポーランド出身のズビグネフ・ブレジンスキーから大学で学んでいる。ブリンケンの父方の祖父はウクライナ出身だ。 ウクライナにおける戦乱は2013年11月から14年2月にかけて実行されたクーデターから始まるが、仕掛けたのはバラク・オバマ政権。その中で中心的な役割を果たしたのはジョー・バイデン副大統領、ヌランド国務次官補、国家安全保障問題担当の副大統領補佐官だったジェイク・サリバンだった。 このチームが始めたウクライナでの戦乱でアメリカ/NATOがロシアに敗北したことは間違いないだろう。その戦況は本ブログでも繰り返し書いてきた。この戦闘でロシアは経済が強化され、アメリカ/NATOを圧倒する戦力を保有していることを世界に示し、「グローバルサウス」から支持されるようになった。その一方、アメリカ、EU、そしてウクライナは経済が破綻し、戦力が絵に描いた餅に過ぎないことが発覚、世界で孤立しはじめ、空中分解しそうだ。ヌランドの退任はそうした状況を反映されているのかもしれない。
2024.03.06
イスラエル軍が戦車をレバノンとの国境近くへ移動させている。イスラムにおいてラマダーンが3月10日から始まるため、それに合わせてイスラエル軍はレバノンへ軍事侵攻するのではないかと懸念する人が少なくない。ウクライナではロシア軍がNATO軍を攻撃しはじめたとする情報も流れている。 レバノンにはヒズボラがいる。この組織には訓練された軍隊があり、イスラエルの都市を攻撃できるミサイルを保有、しかも強力な防衛線がある。イスラエル軍の地上部隊は2006年7月から9月にかけてレバノンへ軍事侵攻したが、その際にイスラエルが誇る「メルカバ4」戦車が破壊され、ヒズボラに敗北しているが、その時よりヒズボラは強くなっている。 欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の最高司令官を務めたウェズリー・クラークによると、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎が攻撃されてから10日ほど後、彼は統合参謀本部で見た攻撃予定国のリストを見たという。そこに記載されていた国はイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そして最後にイランだ。レバノンもネオコンの攻撃対象国リストに載っている。(3月、10月) イラクは2003年にアメリカ主導軍が軍事侵攻、同じ年にスーダンでは西部ダルフールの石油資源を狙ってシオニストの一派であるネオコンが介入している。1974年にアメリカの巨大石油会社シェブロンがスーダンで油田を発見したのだが、90年代の終盤になるとスーダンでは自国の石油企業が成長してアメリカの石油企業は利権を失い、しかも中国やインドなど新たな国々が影響力を強めていたのだ。 また、チャドが反スーダン政府のJEM(正義と平等運動)へ武器を供給して戦乱を拡大させたが、リビアのムアンマル・アル・カダフィによると、チャドの背後にはイスラエルが存在していた。言うまでもなく、シオニストとイスラエルは緊密な関係にある。ソマリアでは2006年にアメリカ軍の秘密部隊から支援を受けたエチオピア軍が軍事侵攻、戦乱で国は破壊されていった。 リビアは2011年2月からムスリム同胞団やアル・カイダ系武装勢力の攻撃を受けるが、その背後にはアメリカ、イギリス、フランス、イスラエル、サウジアラビア、カタール、トルコなどの外部勢力が存在していた。 リビアより1カ月遅れでシリアが軍事侵略されたが、その背景はリビアと同じだ。ネオコンは1980年代からイラクのサダム・フセイン体制を倒して親イスラエル体制を築き、シリアとイランを分断した上で両国を破壊する計画を立てていた。 本ブログでは繰り返し書いてきたが、イギリスはシオニストを利用してイスラエルを、またワッハーブ派を利用してサウジアラビアをそれぞれ「建国」した。サウジアラビアはアメリカ離れしつつあるが、イスラエルはアメリカやイギリスをはじめとする「アングロ・サクソン帝国」の中に含まれると考えるべきだろう。 その「アングロ・サクソン帝国」が現在、窮地に陥っている。ロシアを征服するためにウクライナで戦争を仕掛けて劣勢にあり、ガザでの虐殺は予想以上の反発を受け、「グローバル・サウス」と呼ばれる国々はロシアや中国の周辺に集まりつつある。その苦境から戦争で脱出しようとしているようだが、欧米の中から不協和音が聞こえてくる。
2024.03.06
ジェイコブ・ロスチャイルドが87歳で死亡したと2月26日に発表された。家族によると、ユダヤ教の慣習に従って埋葬されるという。 ビクター・ロスチャイルドとバーバラ・ハッチンソンの子どもとして1936年4月に生まれた彼はイートン・カレッジを経てオックスフォード大学へ進み、歴史を学んだ。 1963年からNMロスチャイルドで働き始めるが、投資信託のロスチャイルド・インベストメント・トラスト(その後、RITキャピタル・パートナーズ)の経営権を独立させ、1980年から活動の拠点にしている。彼がファミリー・ビジネスから離れた理由はエベリン・ロバート・ド・ロスチャイルドと経営上の対立が生じたからだという。 RITキャピタル・パートナーズは2012年5月にロックフェラー・ファイナンシャル・サービシズの発行済み株式のうち37%を取得した。ジェイコブ・ロスチャイルドはデイビッド・ロックフェラーと手を組んだのだ。 ジェイコブは2006年に倒産したロシアの石油会社ユーコスを所有していたミハイル・ホドルコフスキーの代理人を務めていたことでも知られている。 ホドルコフスキーは1963年6月、ユダヤ教徒の父親とロシア正教との母親との間に生まれ、ソ連時代に彼はコムソモール(全ソ連邦レーニン共産主義青年同盟)の指導者を務めていた。 ソ連時代の1989年、ホドルコフスキーはリチャード・ヒューズなる人物と「ロシア人モデル」をニューヨークへ送るビジネスを始めた。ミハイル・ゴルバチョフが始めたペレストロイカ(改革)のおかげなのだろう。この年にホドルコフスキーはメナテプ銀行を設立するためのライセンスを取得するが、違法送金やマネーロンダリングが目的だった可能性が高い。 このビジネスをソ連当局も怪しみ、モデルに対する出国ビザを出し渋るのだが、ホドルコフスキーはKGB人脈を持っていた。そのコネクションに助けられてビザを入手できたという。(Mark Ames, “Russia’s Ruling Robbers”, Consortium news, March 11, 1999) ソ連は1991年12月に消滅、ボリス・エリツィンが西側支配層の代理人としてロシアを支配するようになる。ホドルコフスキーはエリツィン政権を支える顧問のひとりに就任した。 ホドルコフスキーは1995年にユーコスを買収、中小の石油会社を呑み込み、その一方でモスクワ・タイムズやサンクトペテルブルグ・タイムズを出している会社の大株主になっている。 ユーコスは西側から資金を調達していたが、投資会社のカーライル・グループも調達源のひとつ。この投資会社にはジェームズ・ベイカー元米国務長官をはじめ、フランク・カールッチ元米国防長官、ジョン・メジャー元英首相、ジョージ・H・W・ブッシュなどが幹部として名を連ねていた。 その一方、彼はジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ財団」をモデルにした「オープン・ロシア財団」を2002年にアメリカで創設、その際にホドルコフスキーとロスチャイルドはこのプロジェクトに共同で資金を提供している。ホドルコフスキーはヘンリー・キッシンジャーやジェイコブ・ロスチャイルドを雇い入れている。 ホドルコフスキーはユーコスの発行済み株式のうち25から40%をアメリカの巨大石油会社、エクソン・モービルとシェブロンへ売り渡そうとしていたが、ウラジミル・プーチンに阻止された。プーチンの動きが少しでも遅れれば、ロシアは米英支配層の植民地になっていたことだろう。(Natylie Baldwin & Kermit Heartsong, “Ukraine,“ Next Revelation Press, 2015) プーチンが実権を握った後、少なからぬオリガルヒはロシアからイギリスのロンドンやイスラエルへ逃亡するが、ホドルコフスキーはロシアに残った。そして2003年10月、彼はノボシビルスクの空港で横領と税金詐欺の容疑で逮捕された。当時『サンデー・タイムズ』紙が報じたところによると、ホドルコフスキーのユーコス株の支配権は、先に結ばれた「取り引き」によってジェイコブ・ロスチャイルドへ渡っている。 ウクライナでビクトル・ヤヌコビッチ政権がアメリカ政府主導のクーデターで倒された後、同国の経済は破綻し、国債の価格は下落する。フランクリン・テンプルトンというファンドは額面総額50億ドルの国債を買い占めていたが、このファンドを操っているのはロスチャイルド家だと伝えられている。 破綻した国の国債を安値で買いあさり、満額で買い取らせるというのが西側支配層のやり口。ウクライナにはIMFがカネを貸しているが、そのカネでファンドの要求通りに支払うことができる。債権者になったIMFは債務者である破綻国の政府に対して緊縮財政を要求、庶民へ回るカネを減らさせる。規制緩和や私有化の促進で国の資産を巨大資本に叩き売らせ、大儲けさせてきた。 イスラエルとの関係が深いジェイコブは中東でも暗躍、2010年にはジーニー・エナジーの株式5%を取得している。この企業はゴラン高原一帯の独占石油採掘権を獲得したIDTコーポレーションの子会社で、取締役にはメディア王ルパート・マードック、ディック・チェイニー元米副大統領、ジェームズ・ウールジー元CIA長官、ヘッジファンド・マネージャーのマイケル・スタインハート、そしてロスチャイルド自身が名を連ねている。
2024.03.05
アメリカのバラク・オバマ政権はウクライナで2013年11月に戦争を始めた。この戦争でロシアが勝利するのは決定的である。西側でもそのように考えられている。それにもかかわらずウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領やアメリカのジョー・バイデン政権は必死に戦闘を継続させようと必死だ。 2014年2月にビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒すクーデターが仕掛けられたのだが、その手先はネオ・ナチ、黒幕はバイデンが副大統領を務めていたバラク・オバマ政権にほかならない。 そしてクーデター体制が出現したのだが、その新体制を支持する人は多くなかった。特にヤヌコビッチの支持基盤だった東部や南部ではクーデター体制への反発が強く、しかも軍や治安機関のメンバーのうち約7割が離脱し、一部は反クーデター軍に合流したと言われている。そこでクーデター体制の戦力を増強する必要が生じ、時間を稼がなければならなくなった。そこで登場したのが「ミンスク合意」だ。 オバマとバイデンはウクライナ人を使ってロシアを疲弊させ、その後で征服し、略奪しようとしたのだろうが、その目論見は失敗に終わりそうである。つまり、ネオコンの破滅に向かっているのだ。 ネオコンはソ連が消滅した1991年12月から世界制覇プロジェクトを始動させた。それが1992年2月にアメリカの国防総省で作成されたDPG(国防計画指針)草案、いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。その計画では、ドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込むと同時に、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないとしているのだ。 第2次世界大戦後、アメリカとイギリスの支配層はヨーロッパを支配するためにNATOを創設した。大戦中、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官を務め、NATOの初代事務総長でもあるヘイスティングス・イスメイはNATOの目的について、ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえつけることだとしていた。日本を含む非アングロ・サクソン国は潜在的なライバルだと彼らは認識している。ドイツをはじめヨーロッパ諸国は急速に衰退しているが、それは米英支配層の思惑通り。日本も同じことだ。日本の政治家、官僚、マスコミは米英支配層の命令通りに自国を破壊しつつある。
2024.03.04
イギリス労働者党(WPB)を率いるジョージ・ギャロウェイが補欠選挙で主要政党の候補者に圧勝、リシ・スナック首相や有力メディアから罵詈雑言を浴びせられている。イギリス政府がガザでの虐殺を支援していることに怒っている有権者によってギャロウェイは当選したと本人は考えているようだ。 ギャロウェイは元々労働党の党員で、2003年にアメリカが主導するイラクへの侵略戦争を批判、その年に除名されるまで労働党の議員を務めていた。その後、米英両国政府によって拘束されているウィキリークスのジュリアン・アッサンジを支援、最近ではイスラエルによるガザでの虐殺に反対している。 労働党は歴史的に親イスラエルだったのだが、1982年9月にレバノンのパレスチナ難民キャンプのサブラとシャティーラで引き起こされた虐殺事件で党内の雰囲気が変わり、親パレスチナへ変化した。 この虐殺はベイルートのキリスト教勢力、ファランジスト党が実行したのだが、同党の武装勢力はイスラエル軍の支援を受けながら無防備の難民キャンプを制圧し、その際に数百人、あるいは3000人以上の難民が殺されたと言われている。虐殺の黒幕はイスラエルだった。そしてイギリス労働党の内部でイスラエルの責任を問い、パレスチナを支援する声が大きくなったのだ。 そうした情況を懸念したアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めようと考え、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)である。アメリカとイギリスのエリートを一体化させることが組織の目的で、少なからぬメディアの記者や編集者が参加していた。 そうした中、イスラエルに接近していったのがトニー・ブレア。この人物はオックスフォード大学で富豪の息子が加盟できるブリングドン・クラブのメンバーだった。 ブレアは1994年1月に妻と一緒にイスラエルへ招待され、3月にはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真のスポンサーはイスラエルだ。 そのブレアが労働党の党首になるチャンスが1994年に訪れる。当時の党首、ジョン・スミスがその年の5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利して新しい党首になったのである。 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。1997年5月に首相となったブレアの政策は国内でマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義を推進、国外では親イスラエル的で好戦的なものだった。ブレアはイラクへの先制攻撃を正当化するため、偽文書を作成している。 ブレアはジェイコブ・ロスチャイルドやエブリン・ロベルト・デ・ロスチャイルドと親しいが、首相を辞めた後、JPモルガンやチューリッヒ・インターナショナルから報酬を得るようになる。 こうしたブレアのネオコン的な政策への反発に後押しされて2015年9月から党首を務めることになったのがジェレミー・コービン。労働党的な政策を推進しようとした政治家で、アッサンジを支援、イスラエルのパレスチナ人虐殺を批判している。 そうした姿勢に米英の支配層は怒り、アメリカやイギリスの情報機関はコービンを引きずり下ろそうと必死になり、有力メディアからも「反ユダヤ主義者」だと攻撃されて党首の座から引き摺り下ろされた。 そして2020年4月4日に労働党の党首はキア・スターマーに交代、イスラエルに接近し、自分の妻ビクトリア・アレキサンダーの家族はユダヤ系だということをアピールしている。彼女の父親の家族はポーランドから移住してきたユダヤ人で、テル・アビブにも親戚がいるのだということをアピールしていた。イスラエル軍によるガザにおける住民虐殺にスターマーは反対していない。 ギャロウェイが勝利したロッチデールでの補欠選挙はイギリスの現状を明確にしたと言える。有権者はガザでの虐殺に嫌悪し、その虐殺を支えているイギリスの政治家に嫌悪している。彼らは怒っているのだ。アメリカではガザでの虐殺を支援する政府に抗議して空軍の軍人、アーロン・ブッシュネルは彼のメッセージを世界へ届けるため、自らの体に火をつけた。そうした怒りが政策に結びついたなら、社会は変わるのだろう。 ドンバスでの民族浄化作戦を阻止するために軍事介入したロシア軍を西側の有力メディアは罵り、ウクライナのネオ・ナチ体制を賛美しているが、これも構造は同じだ。
2024.03.04
イスラエル軍による住民虐殺が続いているガザで、食糧を運んできた援助トラックの周辺に集まってきた人びとに対してイスラエル兵が銃撃を加え、多くの住民が死傷した。少なくとも112人が殺害され、数百人以上が負傷した事実が世界に発信されている。イスラエル軍の兵士が自動小銃で銃撃しただけでなく、戦車からも発砲されたという。現場の画像には血のついた小麦粉の袋が映っていることから、この出来事を「小麦粉虐殺」と呼ぶ人がいる。 虐殺はガザの南西側にあるアル・ラシード通りで起こった。犠牲者の多くは胴体や頭に銃弾を受けた状態で病院へ運ばれていることから、兵士は殺害を目的として銃撃していると言われている。イスラエル軍が公開した映像では銃撃による音声が記録されているが、音響分析から音はイスラエル軍が使用した自動小銃から発せられたものであることが特定されたという。兵士や戦車だけでなく戦闘機も銃撃したとする話が伝えられている。 アルジャジーラによると、援助物資を待っていた人びとに対して銃撃が始まり、発砲後、イスラエル軍の戦車が前進して多くの住民を轢いたとしている。 この虐殺をイスラエル側は否定していたが、軍が発砲したことは認めざるをえなくなった。それでも兵士らが住民に「脅威を感じた」からだと弁明、イスラエルのイタマール・ベン・グビル国家安全保障大臣は住民を「撃退」したイスラエル軍を称賛した。今回の虐殺に限らず、西側の有力メディアはイスラエル軍による大量殺戮を擁護、あるいは責任を曖昧にした話を流している。 イスラエルがガザでこうした虐殺作戦を継続できるのはアメリカやイギリスが支援しているからにほかならない。米英両国は自分たちの軍事拠点があるキプロスから物資をイスラエルへ運び込んでいる。この島にはイギリス空軍のアクロティリ基地があり、イギリス空軍だけでなくアメリカ空軍の偵察航空団も駐留しているのだ。 イスラエルのハーレツ紙によると、10月7日からイスラエルへアメリカ軍の大型輸送機が20機、そしてイスラエルと各国がリースした民間輸送機が約50機、物資を輸送している。その後、6機以上のイスラエル軍機がイギリスへ飛来しているとする情報が伝えられた。10月7日からイギリスのグラスゴー、バーミンガム、サフォークとオックスフォードシャーの空軍基地に来ているという。勿論、こうした動きは氷山の一角に過ぎない。 イギリスの基地を飛び立ったイスラエルの輸送機はネゲブ砂漠にあるベールシェバに到着している。そこあるネバティム空軍基地は兵站の拠点だ。 1948年5月に「建国」が宣言されて以来、イスラエルは虐殺を続けてきた。そのイスラエルを作り出したのはイギリスだ。そうした工作の過程でデイビッド・ロイド・ジョージ政権はパレスチナへ送り込む警官隊を創設している。その工作で中心的な役割を果たしたのが植民地大臣に就任していたウィンストン・チャーチルだ。 この警官隊はアイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーが中心になっている。この武装組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立され、弾圧の過程で違法な殺人、放火、略奪などを繰り返している。 イングランドは17世紀にアイルランドを侵略、住民を虐殺した。その時の指揮官がピューリタン革命で台頭したオリバー・クロムウェル。この人物は地主や富裕な商工業者に支持されていた独立派のメンバーで、革命の際に手を組んでいた小農民や職人層に支持されていた水平派を革命後に粛清している。 クロムウェルの侵略でアイルランドの人口は激減。虐殺前の1641年には147万人だったが、52年には62万人へ減っている。50万人以上は殺され、残りは「年季奉公」や「召使い」としてアメリカなどに売られたと言われている。 アイルランド侵略の21年前にピューリタンの一団がメイフラワー号でアメリカへ渡っている。いわゆる「ピルグリム(巡礼者)・ファーザーズ」だ。イギリスが植民した地域でピューリタンは「新イスラエル」を建設していると信じていたという。 イタリアのジェノバに生まれたクリストバル・コロン(コロンブス)がカリブ海のグアナハニ島に上陸した1492年当時、北アメリカには100万人とも1800万人とも言われる先住民が住んでいたと推測されているのだが、ウーンデット・ニー・クリークでスー族の女性や子供150名から300名がアメリカ陸軍第7騎兵隊に虐殺された1890年になると、約25万人まで減少していた。そして、生き残った先住民を「保留地」と名づけらた地域に押し込めるために「強制移住法」が施行される。 これが「自由と民主主義の国」だというアメリカの実態。1904年にアメリカのセントルイスでオリンピックが開催された際、並行して「万国博覧会」も開かれたのだが、その際、「特別オリンピック」で人種の序列が示されている。それによるとトップは北ヨーロッパの人びとで、最下位はアメリカ・インディアンだ。その時、アパッチ族のジェロニモが「展示」されている。(Alfred W. McCoy, “To Govern The Globe,” Haymarket Books, 2021) ところで、パレスチナでは1936年4月に住民は独立を求めてイギリスに対する抵抗運動を開始するのだが、39年8月に鎮圧されて共同体は政治的にも軍事的にも破壊されてしまう。その際、パレスチナ人と戦った勢力には2万5000名から5万名のイギリス兵、2万人のユダヤ人警察官など、そして1万5000名のハガナ(後にイスラエル軍の母体になる)が含まれている。 シオニストはイスラエルなる国を作り出すため、先住民であるアラブ系の人びとを追い出しにかかる。そして1948年4月4日に「ダーレット作戦」が発動された。この作戦は1936年から39年にかけて行われたパレスチナ人殲滅作戦の詰めだったという見方がある。 4月8日にハガナはエルサレム近郊のカスタルを占領、ハガナとの打ち合わせ通り、イルグンとスターン・ギャングは9日午前4時半にデイル・ヤシンを襲撃する。マシンガンの銃撃を合図に攻撃は始まり、家から出てきた住民は壁の前に立たされて銃殺され、家の中に隠れていると惨殺、女性は殺される前にレイプされた。 襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。ハガナもイルグンとスターン・ギャングを武装解除しようとはしなかった。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005) この虐殺を見て多くのアラブ系住民は恐怖のために逃げ出し、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後、1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。イスラエルとされた地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎなかった。 国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。そして同年5月14日にイスラエルの建国が宣言され、パレスチナ人に対する弾圧が始まる。現在、ガザで行われているパレスチナ人虐殺はその流れの中での出来事だ。
2024.03.03
ロシアのメディア、RTのマルガリータ・シモニャン編集長はドイツ空軍のインゴ・ゲルハルツ総監や作戦担当参謀次長のフランク・グレーフェ准将、そして連邦軍宇宙本部の2名による会話を録音した38分間の音声記録を公開した。会話は2月19日に行われたという。宇宙本部の人間が2月21日にウクライナを訪れ、ロシア本土への攻撃準備についても話し合ったとされている。 4名はクリミア半島とロシア本土を結ぶクリミア橋(ケルチ橋)の爆破について話し合っている。ドイツ国防省は会話がどのように記録されたかの調査を開始、ドイツ国内で録音を聞けないようにブロックしていることから音声は本物である可能性が高い。この話し合いは長距離ミサイル「タウルスKEPD 350」のウクライナへの供給に絡んで行われたものだ。 ウクライナ軍はアメリカ軍のP-8ポセイドンと連携してセバストポリを「スカルプ(イギリス版の名称はストーム・シャドウ)」で攻撃した経験がある。ドイツのオラフ・ショルツ首相はタウルスを提供すればシステムを動かすためにはドイツ兵を派遣しなければならないとしていたが、ストーム・シャドウとタウルスのシステムは大差がないとドイツ軍の幹部4名は指摘、フランスのダッソー・ラファール戦闘機を使えるという見方も示した。 しかし、イギリスやフランスがウクライナへミサイルを供給するにあたり、目標管制や目標管制の支援を行う要員を送り込んでいるとショルツは主張、米英両国が自国の兵士をウクライナへ送り込んでいることを示唆した。ウクライナにいるイギリスの専門家はストーム・シャドウを使ったロシア攻撃計画を支援しているともいう。 アメリカやイギリスからドイルは圧力を受けているようだが、ドイツ軍がウクライナ軍と直接関係することをドイツ側は回避しようとしている。ドイツ製兵器の使い方をウクライナ人に訓練したり作戦の立案に協力することは容認されたという。また、話し合いの中でゲルハルツはウクライナにいる「アメリカ訛りの私服の人びと」についても言及したようだ。 アメリカ/NATOがどのようにもがいてもウクライナの戦況を変え、ロシアを敗北させることができないという認識が広まっている。西側が打てる手は限られている。アメリカやイギリスの支配層は大陸で核戦争が勃発しても平気だろうが、大陸の人びとにとっては深刻な話だ。
2024.03.02
アメリカのロイド・オースチン国防長官は下院軍事委員会の公聴会で追加資金の承認を議員に呼びかけた。ウクライナに対する600億ドルの新たな支援策が議会で通らないため、その資金がないとウクライナでロシアが勝利、NATOとロシアが直接軍事衝突すると主張している。アメリカの支援が続かなければ確実に負けると警告したというが、資金や武器弾薬を供給してもウクライナの敗北は決定的である。 短期的に見るとウクライナにおける戦闘は2013年11月から14年2月にかけてバラク・オバマ政権が仕掛けたクーデターから始まるが、その背景には1992年2月にDPG(国防計画指針)草案という形で作成された世界制覇プロジェクトがある。 その当時、すでに国防総省もネオコンに制圧されていた。国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。ふたりともネオコンだ。そのウォルフォウィッツが中心になって作成されたことから、DPGは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 そのドクトリンではドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないとしているのだ。 しかし、当時の日本政府はアメリカの戦争マシーンに組み込まれることを嫌がる。細川護煕政権が国連中心主義を主張したのはそのためなのだが、そうした姿勢を見てネオコンは怒る。細川政権は1994年4月に倒され、95年2月にはウォルフォウィッツ・ドクトリンの基づく「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」をジョセイフ・ナイは発表した。 そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、それから10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃された。そして8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載される。 アメリカではソ連消滅後、有力メディアが旧ソ連圏に対する戦争を煽り始め、その流れに逆らったビル・クリントン大統領はスキャンダル攻勢にあった。 クリントン政権で戦争を抑える上で重要な役割を果たしていたのは国務長官だったクリストファー・ウォーレンだが、1997年1月にブレジンスキーの教え子でもあるマデリーン・オルブライトへ交代、彼女は98年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明する。 そして1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施、4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅が、また5月には中国大使館も爆撃された。この空爆を司令部はアメリカ大使館にあり、指揮していたのはブルガリア駐在大使だったリチャード・マイルズだと言われている。 2000年はアメリカ大統領選挙のある年だったが、1999年の段階で最も人気があった候補者は共和党のジョージ・W・ブッシュでも民主党のアル・ゴアでもなく、立候補を否定していたジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまりジョン・F・ケネディ大統領の息子だった。1999年前半に行われた世論調査ではブッシュとゴアが30%程度で拮抗していたのに対し、ケネディ・ジュニアは約35%だったのだ。 しかし、ケネディが大統領選挙に参加することはなかった。1999年7月、ケネディ・ジュニアを乗せ、マサチューセッツ州マーサズ・ビンヤード島へ向かっていたパイパー・サラトガが目的地へあと約12キロメートルの地点で墜落、ケネディ本人だけでなく、同乗していた妻のキャロラインとその姉、ローレン・ベッセッテも死亡している。 墜落地点から考えて自動操縦だった可能性が高く、操作ミスだった可能性は小さい。JFKジュニアが乗っていた飛行機にはDVR300iというボイス・レコーダーが搭載され、音声に反応して動き、直前の5分間を記録する仕掛けになっていたが、何も記録されていなかった。また緊急時に位置を通報するためにELTという装置も搭載していたが、墜落から発見までに5日間を要している。 2000年の上院議員選挙では投票日の3週間前、ブッシュ・ジュニア陣営と対立関係にあったメル・カーナハンが飛行機事故で死んでいる。このカーナハンと議席を争っていたのがジョン・アシュクロフト。ジョージ・W・ブッシュ政権の司法長官だ。ちなみに、選挙では死亡していたカーナハンがアシュクロフトに勝っている。 選挙の結果、大統領に選ばれたのはブッシュ・ジュニア。大統領に就任した2001年の9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、アメリカは侵略戦争を始める。 2002年には中間選挙が行われたが、この段階でイラク攻撃に反対する政治家は極めて少なかった。例外的なひとりがミネソタ州選出のポール・ウェルストン上院議員だが、そのウェストン議員は投票日の直前、2002年10月に飛行機事故で死んでいる。 メディアは「雪まじりの雨」という悪天候が原因だったと報道さしていたが、同じ頃に近くを飛行していたパイロットは事故を引き起こすような悪天候ではなかったと証言、しかも議員が乗っていた飛行機には防氷装置がついていた。しかも、その飛行機のパイロットは氷の付着を避けるため、飛行高度を1万フィートから4000フィートへ下降すると報告している。その高度では8キロメートル先まで見えたという。 ブッシュ政権はアメリカ主導軍を使い、2003年3月にイラクを先制攻撃してサダム・フセイン体制を破壊し、100万人を超すと見られるイラク人を殺している。この数字は複数の調査でほぼ一致している。 例えば、アメリカのジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると2003年の開戦から06年7月までに約65万人のイラク人が殺されたという。イギリスのORBは2007年夏までに94万6000名から112万人が死亡、またNGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。 ネオコンは1980年代からフセイン体制を倒し、イランとシリアを分断しようとしていた。そのフセイン体制をペルシャ湾岸の産油国を守る防波堤と考えていた勢力、例えばジョージ・H・W・ブッシュやジェームズ・ベイカーらとネオコンは対立、イラン・コントラ事件が発覚する一因になった。 結局、イラクではフセインを排除したものの、親イスラエル体制を樹立することには失敗。そこで次のオバマ政権は2010年8月にPSD-11を承認してムスリム同胞団を使った体制転覆作戦を始動させる。そして始まるのが「アラブの春」だ。 その流れの中でアメリカ、イギリス、フランスを含む国々は2011年春からリビアやシリアに対する軍事侵略を始めた。この戦術はオバマの師にあたるズビグネフ・ブレジンスキーが1970年代に始めたものだ。 リビアに対する攻撃は2011年2月に始まり、3月には国連の安全保障理事会がアメリカなどの要請を受けて飛行禁止空域の導入を承認、5月にはNATO軍機が空爆を開始する。そして10月にムアンマル・アル・カダフィは惨殺された。 その間、地上ではアル・カイダ系武装集団のLIFGがNATO軍と連携して動いていたのだが、その事実が明らかになってしまう。例えば、反カダフィの武装勢力が拠点にしていたベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられた。 イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは2005年7月、アル・カイダはCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだと指摘している。アラビア語でアル・カイダは「ベース」を意味、データベースの訳語としても使われる。 一般的にアル・カイダのリーダーだと言われ、イコンとして扱われていた人物がオサマ・ビン・ラディン。そのビン・ラディンを2011年5月、アメリカ海軍の特殊部隊が殺害したとオバマ大統領は発表している。 2012年からオバマ政権はシリア侵略に集中、リビアから戦闘員や武器をNATO軍がシリアへ運び、軍事支援を強化するのだが、そうした行為を正当化するためにシリア政府を悪魔化するための偽情報を流した。 ところがシリア軍は手強く、アル・カイダ系武装勢力では倒せない。そこでオバマ政権は支援を強化するのだが、アメリカ軍の情報機関DIAは、オバマ政権が支援している武装勢力の危険性を指摘する。その主力はサラフィ主義者やムスリム同胞団で、アル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)といったタグをつけているとする報告を2012年8月にホワイトハウスへ提出したのだ。オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフィ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。2012年当時のDIA局長はマイケル・フリン中将だ。 この警告は2014年にダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)という形で現実なった。この武装勢力は同年の1月にイラクのファルージャで「イスラム首長国」の建国を宣言、6月にモスルを制圧する。その際にトヨタ製小型トラック「ハイラックス」の新車を連ねた「パレード」を行い、その様子を撮影した写真が世界に伝えられ、広く知られるようになった。 アメリカの軍や情報機関は偵察衛星、通信傍受、人間による情報活動などで武装集団の動きを知っていたはず。つまりパレードは格好の攻撃対象だが、そうした展開にはなっていない。ダーイッシュが売り出された後、フリンDIA局長は退役に追い込まれた。 オバマ政権は「残虐なダーイッシュ」を口実に使い、シリアへアメリカ/NATO軍を直接投入しようと目論み、戦争体制を整える。2015年2月に国務長官をチャック・ヘイゲルからアシュトン・カーターへ、9月に統合参謀本部議長をマーティン・デンプシーからジョセフ・ダンフォードへ交代させたのだ。 ヘイゲルは戦争に慎重な立場で、デンプシーはサラフィ主義者やムスリム同胞団を危険だと考えていた。それに対し、カーターやダンフォードは好戦派だ。 統合参謀本部議長が交代になった数日後の9月30日にロシアはシリア政府の要請で軍事介入、ダーイッシュなど武装勢力の支配地域は急速に縮小していく。アメリカ主導軍と違い、ロシア軍は本当にダーイッシュやアル・カイダ系武装勢力を攻撃したのだ。 シリアでの戦闘でロシア軍は戦闘能力や兵器の優秀さを世界に示し、歴史の流れを変えた。アメリカを憎悪しながら沈黙していた国々がロシアの周辺に集まり始めた。そしてウクライナでもロシア軍は戦闘能力や兵器の優秀さを示し、アメリカ/NATO軍は惨めな姿を晒すことになったのである。 そうした中、ニューヨーク・タイムズ紙は、CIAがウクライナ領内、ロシアとの国境に近い地域に12の秘密基地を作っていたと伝えているのだが、特に驚くような話は含まれていなかったが、明らかな偽情報も含まれていたことが指摘されている。CIAの優秀さとロシアの邪悪さを宣伝することが目的だと見られている。米英を中心とした支配システムを維持するため、アメリカ/NATO軍は凄いと人びとに思わせなければならない。
2024.03.02
ドイツのオラフ・シュルツ首相はウクライナへ長距離ミサイル「タウルスKEPD 350」を提供しないとしている。このミサイルはドイツ/スウェーデンのタリウス・システムズが製造している空中発射型の巡航ミサイルで、射程距離は500キロメートル、最大速度はマッハ0.95。そのシステムを動かすためにはドイツ兵を派遣しなければならず、そうしたことをドイツ政府は行えないとしている。しかもウクライナでアメリカ/NATOは負け戦だ。 要員を派遣する必要性を示すため、シュルツはイギリスやフランスのケースを口にした。英仏両国はミサイルを供給するにあたり、目標管制や目標管制の支援を行う要員を送り込んでいると説明しているのだ。つまりイギリスやフランスは目標管制や目標管制支援のために自国の兵士をウクライナへ送り込んでいるということになる。こうしたことは常識だが、イギリス下院の国防委員会で委員長を務めていたビアス・エルウッドはシュルツの発言を批判した。 本ブログでも書いてきたことだが、アメリカ/NATOは兵士や情報機関員をウクライナへ送り込んでいる。兵器の操作だけでなく、軍事情報を提供し、最前線で戦闘に参加している兵士もいるようだ。フランスのル・フィガロ紙のジョージ・マルブルノは、ウクライナでアメリカ陸軍の特殊部隊デルタ・フォース(第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊)やイギリス陸軍のSAS(特殊空挺部隊)も戦闘に参加しいるとしていた。ポーランドやバルト諸国からも戦闘員が入っていると言われている。 今年1月16日にロシア軍が軍事施設とともに破壊した旧ハリコフ・パレス・ホテルは情報機関や軍関係者が利用していたと言われている。攻撃を受けた当時、この建物には200人近くの外国人傭兵が滞在、相当数の死傷者が出たという。その際にフランス人傭兵約60名が死亡、20人以上が医療施設に搬送されたと伝えられている。その日、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は40発のスカルプ巡航ミサイルと「数百発の爆弾」をキエフに送ると約束している。 もしドイツがタウルスをウクライナへ供給した場合、オペレーターを派遣することになるだろうが、やはりフランスの場合と同じようにロシア軍から攻撃される可能性が高い。 アメリカの世界制覇戦争はソ連が1991年12月に消滅した直後から始まり、ウクライナでは2004年から05年にかけて実行されたのが「オレンジ革命」で新自由主義政権を成立させた。その「革命」を指揮していたのはアメリカ政府で、現地の拠点はアメリカ大使館だが、政権転覆工作を指揮するのはCIAの破壊工作部門である。 新自由主義は富を外国の巨大資本やその手先に集中させ、国民を貧困化させるが、そうした事実を知ったウクライナの有権者はビクトル・ヤヌコビッチを選ぶ。そこでアメリカのバラク・オバマ政権は2014年2月にクーデターを成功させたのだが、それを指揮していたのはネオコンであり、CIAが暗躍していた。 そのクーデターではネオ・ナチが実働部隊として利用されたが、そのメンバーは2004年からバルト3国にあるNATOの訓練施設で軍事訓練を受けていたと伝えられている。またポーランドの外務省は2013年9月にクーデター派の86人を大学の交換学生を装って招待、ワルシャワ郊外にある警察の訓練センターで4週間にわたり、暴動の訓練を受けたとも報道されていた。 そうした訓練だけでなく、オバマ政権はCIAやFBIの専門家数十名を顧問として送り込み、傭兵会社「アカデミ(旧社名はブラックウォーター)」の戦闘員約400名もウクライナ東部の作戦に参加させていた。2015年からはCIAがウクライナ軍の特殊部隊をアメリカの南部で訓練している。
2024.03.01
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