アメリカの私的権力はフィリピンを再び従属国にしようと必死だが、その大きな理由は中国侵略にあるだろう。日本列島、琉球諸島、そして台湾へ至る弧状の島々をアメリカはユーラシア大陸の東側を侵略するラインにしたが、その南側にあるのがフィリピン。南シナ海を支配するため、フィリピンを押さえたいだろう。
アメリカ-スペイン戦争で勝利したアメリカはラテン・アメリカだけでなくフィリピンを1898年から植民地化、中国を侵略するための拠点になった。その際にアメリカ軍が行った先住民虐殺は悪名高い。
当時、中国はイギリスの侵略を受けていた。技術革新で生産力をイギリスは高めたが、大量生産した製品が中国で売れず、貿易収支は大幅な赤字になる。経済力でイギリスは中国に太刀打ちできなかった。
しかし、「産業革命」で軍事力は進歩し、それを利用してアヘンの密売、押し売りを始める。それを中国側は取り締まり、1840年に戦争が勃発する。それがアヘン戦争。42年まで続いた。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争を引き起こされた。アヘンは「大英帝国」を支える重要な商品で、その取り引きによる売り上げはイギリス全体の15%から20%に達したと推計されている。(Carl A. Trocki, “Opium, Empire, and the Global Political Economy,” Routledge, 1999)
1565年からアメリカの支配が始まるまで、フィリピンはスペインの植民地だった。豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出した1587年より前に日本人はスペイン人とルソン島で戦っている。1596年にスペイン軍がカンボジアへ遠征したが、その時には少なからぬ日本人傭兵が参加していた。
秀吉は1592年と97年、2度にわたって朝鮮半島を軍事侵略(文禄慶長の役)しているが、98年に死亡、日本軍は朝鮮半島から撤退する。その背後ではイエズス会の動きがあったようだ。その後、プロテスタントのオランダやイギリスがやって来る。
イエズス会は1540年にローマ教皇の認可を受けて設立された修道会で、その会士だったフランシスコ・ザビエルは49年に鹿児島へ上陸している。その後、イエズス会は日本の内乱(戦国時代)で一部の大名を軍事的に支援する一方、奴隷貿易にも関係していた。(ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社、2021年)
その当時の日本は戦国時代の終盤だったこともあり、その戦闘能力を見て軍事的に制圧することは断念したようで、懐柔工作にでた。豊臣秀吉だけでなく織田信長も「明国征服」を考えていたが、そうした構想を持つようになった一因はイエズス会にあったようだ。(平田新著『戦国日本と大航海時代』中公新書、2018年)
朝鮮半島から日本軍が撤退した翌年、スペインのマニラ提督は国王へ宛てた軍務報告の中で、日本の兵士が稼ぎ場を求めて朝鮮半島からルソンへ来るのではないかと書いている。朝鮮半島での戦争とは関係なく、ルソンには日雇い労働者や傭兵として日本人がいたことも警戒感を募らせる一因になっていた。マニラ提督が国王へ出した報告によると、「日本人は、この地方において、もっとも好戦的な人民」だという。(藤木久志著『雑兵たちの戦場』朝日新聞、2005年)
その当時、アジアを侵略していたヨーロッパ諸国は日本を傭兵、つまり戦闘奴隷の供給地としてだけでなく、平坦基地としても使っていたのだが、徳川秀忠は人身売買、武器輸出、海賊行為を禁止、ヨーロッパ諸国を混乱させた。ヨーロッパ諸国にとって日本との連携はアジアを侵略する上で大きな意味があったと言えるだろう。
その徳川体制は1867年に「大政奉還」で消滅、イギリスやアメリカを後ろ盾とする明治体制へ移行した。そして琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進む。
この流れはイギリスの長期戦略に合致している。その後、こうした関係は揺らぐが、第2次世界大戦後に修復された。つまり、現在の日本はアメリカの平坦拠点。傭兵の供給地にもなりそうだ。