10月7日にパレスチナの武装グループがイスラエルを陸海空から攻撃した頃、アメリカのジョー・バイデン大統領とイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は窮地に陥っていた。
アメリカはネオ・ナチを使い、ウクライナでロシア軍と戦っていたが、アメリカ側の敗北を隠しきれなくなっていた。スキャンダルまみれのバイデンにとって致命的だ。汚職事件で逮捕、起訴は免れないと言われていたネタニヤフも追い詰められていた。
しかし、ガザでの戦闘によってバイデンとネタニヤフは一息つくことができたとは言えない。バイデン政権とネタニヤフ政権は事前に攻撃計画を知っていた可能性が高いのだが、その後、イスラエルはパニックに陥っているとしか考えられないのだ。
冷静に考えれば、ハマスの攻撃を強調すべきなのだが、ガザで無差別攻撃を始め、1万人以上の市民をすでに殺したと見られている。そのうち約4割は子どもで、子どもの死体を写した写真、映像が世界へ発信されている。そうした情報が漏れることを防ぐため、インターネットを遮断したが、それでも漏れる。イスラエルがガザで住民を大量殺戮していることを世界の人は知った。
ネタニヤフはリクードの政治家だが、1970年代までイスラエルにおけるリクードやその主体になった政党の影響力は大きくなかった。リクードをイスラエルにおける政治の中心に押し出したのはアメリカのキリスト教福音主義者(聖書根本主義者)だ。
この宗派はアメリカを「神の国」、アメリカ軍を「神軍」だと信じていた。神軍であるアメリカ軍はベトナム戦争で簡単に勝てると考えていたのだが、勝てない。その実態を多くのアメリカ人は1968年1月のテト攻勢で知ることになった。ベトナム戦争に反対していたマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのは1968年4月4日。同年6月6日にはキングと親しかったロバート・ケネディも暗殺されている。
そうした時、福音主義者を引きつけたのがイスラエルだ。同国の軍隊は1967年6月5日から6日間でアラブ諸国の軍隊を蹴散らしてヨルダン川西岸とガザを占領、約43万9000人の新たなパレスチナ難民がヨルダン川東岸へ移動している。ちなみに、この時にゲリラ戦でイスラエル軍を苦しめたのがファタハである。
今回のガザ攻撃もネタニヤフ政権を支援しているキリスト教シオニストはネオコンとも結びついている。このネオコンが台頭したのは1970年代の半ば、ジェラルド・フォード政権の時代だ。
ネオコンは米英金融資本とも結びついているが、「ユダヤ人の国」の建設にも金融資本は重要な役割を果たした。1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送り、その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。
1920年代に入るとパレスチナでアラブ系住民の反発が強まり、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用することになった。隊員の多くは第1次世界大戦に従軍した後に失業した元イギリス兵で、違法な殺人、放火、略奪など残虐さで有名になった。イギリス政府はその働きを評価、パレスチナへ投入したのだ。