アメリカのロイド・オースチン国防長官は下院軍事委員会の公聴会で追加資金の承認を議員に呼びかけた。ウクライナに対する600億ドルの新たな支援策が議会で通らないため、その資金がないとウクライナでロシアが勝利、NATOとロシアが直接軍事衝突すると主張している。アメリカの支援が続かなければ確実に負けると警告したというが、資金や武器弾薬を供給してもウクライナの敗北は決定的である。
短期的に見るとウクライナにおける戦闘は2013年11月から14年2月にかけてバラク・オバマ政権が仕掛けたクーデターから始まるが、その背景には1992年2月にDPG(国防計画指針)草案という形で作成された世界制覇プロジェクトがある。
その当時、すでに国防総省もネオコンに制圧されていた。国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。ふたりともネオコンだ。そのウォルフォウィッツが中心になって作成されたことから、DPGは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。
そのドクトリンではドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないとしているのだ。
しかし、当時の日本政府はアメリカの戦争マシーンに組み込まれることを嫌がる。細川護煕政権が国連中心主義を主張したのはそのためなのだが、そうした姿勢を見てネオコンは怒る。細川政権は1994年4月に倒され、95年2月にはウォルフォウィッツ・ドクトリンの基づく「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」をジョセイフ・ナイは発表した。
そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、それから10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃された。そして8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載される。
アメリカではソ連消滅後、有力メディアが旧ソ連圏に対する戦争を煽り始め、その流れに逆らったビル・クリントン大統領はスキャンダル攻勢にあった。
クリントン政権で戦争を抑える上で重要な役割を果たしていたのは国務長官だったクリストファー・ウォーレンだが、1997年1月にブレジンスキーの教え子でもあるマデリーン・オルブライトへ交代、彼女は98年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明する。
そして1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施、4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅が、また5月には中国大使館も爆撃された。この空爆を司令部はアメリカ大使館にあり、指揮していたのはブルガリア駐在大使だったリチャード・マイルズだと言われている。
2000年はアメリカ大統領選挙のある年だったが、1999年の段階で最も人気があった候補者は共和党のジョージ・W・ブッシュでも民主党のアル・ゴアでもなく、立候補を否定していたジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまりジョン・F・ケネディ大統領の息子だった。1999年前半に行われた世論調査ではブッシュとゴアが30%程度で拮抗していたのに対し、ケネディ・ジュニアは約35%だったのだ。
しかし、ケネディが大統領選挙に参加することはなかった。1999年7月、ケネディ・ジュニアを乗せ、マサチューセッツ州マーサズ・ビンヤード島へ向かっていたパイパー・サラトガが目的地へあと約12キロメートルの地点で墜落、ケネディ本人だけでなく、同乗していた妻のキャロラインとその姉、ローレン・ベッセッテも死亡している。
墜落地点から考えて自動操縦だった可能性が高く、操作ミスだった可能性は小さい。JFKジュニアが乗っていた飛行機にはDVR300iというボイス・レコーダーが搭載され、音声に反応して動き、直前の5分間を記録する仕掛けになっていたが、何も記録されていなかった。また緊急時に位置を通報するためにELTという装置も搭載していたが、墜落から発見までに5日間を要している。
2000年の上院議員選挙では投票日の3週間前、ブッシュ・ジュニア陣営と対立関係にあったメル・カーナハンが飛行機事故で死んでいる。このカーナハンと議席を争っていたのがジョン・アシュクロフト。ジョージ・W・ブッシュ政権の司法長官だ。ちなみに、選挙では死亡していたカーナハンがアシュクロフトに勝っている。
選挙の結果、大統領に選ばれたのはブッシュ・ジュニア。大統領に就任した2001年の9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、アメリカは侵略戦争を始める。
2002年には中間選挙が行われたが、この段階でイラク攻撃に反対する政治家は極めて少なかった。例外的なひとりがミネソタ州選出のポール・ウェルストン上院議員だが、そのウェストン議員は投票日の直前、2002年10月に飛行機事故で死んでいる。
メディアは「雪まじりの雨」という悪天候が原因だったと報道さしていたが、同じ頃に近くを飛行していたパイロットは事故を引き起こすような悪天候ではなかったと証言、しかも議員が乗っていた飛行機には防氷装置がついていた。しかも、その飛行機のパイロットは氷の付着を避けるため、飛行高度を1万フィートから4000フィートへ下降すると報告している。その高度では8キロメートル先まで見えたという。
ブッシュ政権はアメリカ主導軍を使い、2003年3月にイラクを先制攻撃してサダム・フセイン体制を破壊し、100万人を超すと見られるイラク人を殺している。この数字は複数の調査でほぼ一致している。
例えば、アメリカのジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると2003年の開戦から06年7月までに約65万人のイラク人が殺されたという。イギリスのORBは2007年夏までに94万6000名から112万人が死亡、またNGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。
ネオコンは1980年代からフセイン体制を倒し、イランとシリアを分断しようとしていた。そのフセイン体制をペルシャ湾岸の産油国を守る防波堤と考えていた勢力、例えばジョージ・H・W・ブッシュやジェームズ・ベイカーらとネオコンは対立、イラン・コントラ事件が発覚する一因になった。
結局、イラクではフセインを排除したものの、親イスラエル体制を樹立することには失敗。そこで次のオバマ政権は2010年8月にPSD-11を承認してムスリム同胞団を使った体制転覆作戦を始動させる。そして始まるのが「アラブの春」だ。
その流れの中でアメリカ、イギリス、フランスを含む国々は2011年春からリビアやシリアに対する軍事侵略を始めた。この戦術はオバマの師にあたるズビグネフ・ブレジンスキーが1970年代に始めたものだ。
リビアに対する攻撃は2011年2月に始まり、3月には国連の安全保障理事会がアメリカなどの要請を受けて飛行禁止空域の導入を承認、5月にはNATO軍機が空爆を開始する。そして10月にムアンマル・アル・カダフィは惨殺された。
その間、地上ではアル・カイダ系武装集団のLIFGがNATO軍と連携して動いていたのだが、その事実が明らかになってしまう。例えば、 反カダフィの武装勢力が拠点にしていたベンガジでは裁判所の建物にアル・カイダの旗が掲げられた 。
イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックは2005年7月、アル・カイダはCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだと指摘している 。アラビア語でアル・カイダは「ベース」を意味、データベースの訳語としても使われる。
一般的にアル・カイダのリーダーだと言われ、イコンとして扱われていた人物がオサマ・ビン・ラディン。そのビン・ラディンを2011年5月、アメリカ海軍の特殊部隊が殺害したとオバマ大統領は発表している。
2012年からオバマ政権はシリア侵略に集中、リビアから戦闘員や武器をNATO軍がシリアへ運び、軍事支援を強化するのだが、そうした行為を正当化するためにシリア政府を悪魔化するための偽情報を流した。
ところがシリア軍は手強く、アル・カイダ系武装勢力では倒せない。そこでオバマ政権は支援を強化するのだが、アメリカ軍の情報機関 DIAは、オバマ政権が支援している武装勢力の危険性を指摘する。その主力はサラフィ主義者やムスリム同胞団で、アル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)といったタグをつけているとする報告を2012年8月にホワイトハウスへ提出した のだ。オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフィ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。2012年当時のDIA局長はマイケル・フリン中将だ。
この警告は2014年にダーイッシュ(IS、ISIS、ISILなどとも表記)という形で現実なった。この武装勢力は同年の1月にイラクのファルージャで「イスラム首長国」の建国を宣言、6月にモスルを制圧する。その際にトヨタ製小型トラック「ハイラックス」の新車を連ねた「パレード」を行い、その様子を撮影した写真が世界に伝えられ、広く知られるようになった。
アメリカの軍や情報機関は偵察衛星、通信傍受、人間による情報活動などで武装集団の動きを知っていたはず。つまりパレードは格好の攻撃対象だが、そうした展開にはなっていない。ダーイッシュが売り出された後、フリンDIA局長は退役に追い込まれた。
オバマ政権は「残虐なダーイッシュ」を口実に使い、シリアへアメリカ/NATO軍を直接投入しようと目論み、戦争体制を整える。2015年2月に国務長官をチャック・ヘイゲルからアシュトン・カーターへ、9月に統合参謀本部議長をマーティン・デンプシーからジョセフ・ダンフォードへ交代させたのだ。
ヘイゲルは戦争に慎重な立場で、デンプシーはサラフィ主義者やムスリム同胞団を危険だと考えていた。それに対し、カーターやダンフォードは好戦派だ。
統合参謀本部議長が交代になった数日後の9月30日にロシアはシリア政府の要請で軍事介入、ダーイッシュなど武装勢力の支配地域は急速に縮小していく。アメリカ主導軍と違い、ロシア軍は本当にダーイッシュやアル・カイダ系武装勢力を攻撃したのだ。
シリアでの戦闘でロシア軍は戦闘能力や兵器の優秀さを世界に示し、歴史の流れを変えた。アメリカを憎悪しながら沈黙していた国々がロシアの周辺に集まり始めた。そしてウクライナでもロシア軍は戦闘能力や兵器の優秀さを示し、アメリカ/NATO軍は惨めな姿を晒すことになったのである。
そうした中、 ニューヨーク・タイムズ紙は、CIAがウクライナ領内、ロシアとの国境に近い地域に12の秘密基地を作っていたと伝えている のだが、特に驚くような話は含まれていなかったが、明らかな偽情報も含まれていたことが指摘されている。CIAの優秀さとロシアの邪悪さを宣伝することが目的だと見られている。米英を中心とした支配システムを維持するため、アメリカ/NATO軍は凄いと人びとに思わせなければならない。