イスラエル軍はガザに住む人びとを一掃しようとしている。つまり、民族浄化作戦を展開中なのだが、思惑通りには進んでいないようだ。非武装の女性や子ども、あるいは医療関係者やジャーナリストを虐殺しているが、ハマスを壊滅させることができていない。この苦境から脱するため、イスラエルは戦線を拡大しようとしている。
ガザの人びとはイスラエル軍の兵器で殺されているだけでなく、兵糧攻めによる餓死に追い込まれているが、彼はイスラエルによるパレスチナ人の大量虐殺を問題にしていない。そこでICCが行なっていることは「アリバイ工作」にすぎないという見方もある。
今回の大量殺戮劇は2023年4月1日から始まった。イスラエルの警察官がイスラム世界で第3番目の聖地だというアル・アクサ・モスクの入口でパレスチナ人男性を射殺したのである。
4月5日にはイスラエルの警官隊がそのモスクに突入し、ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/今年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃した。
そしてユダヤ教の「仮庵の祭り」(今年は9月29日から10月6日)に合わせ、10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。
そして10月7日、ハマス(イスラム抵抗運動)はイスラエルを陸海空から奇襲攻撃した。数百人の戦闘員がイスラエル領へ侵入したほか、ガザからイスラエルに向かって5000発以上のロケット弾でテルアビブの北まで攻撃した。
攻撃の際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされ、その後、犠牲者数は1200名に訂正される。ハマスは交渉に使うためイスラエル人を人質にすると考えられていたので、これだけの犠牲者が出たのは奇妙だったが、すぐにその理由が判明する。
イスラエルの新聞ハーレツによると 、イスラエル軍は侵入した武装グループを壊滅させるため、占拠された建物を人質もろとも砲撃、あるいは戦闘ヘリからの攻撃で破壊したという。イスラエル軍は自国民を殺害したということだ。 ハーレツの記事を補充した報道 もある。
イスラエル軍は自国の兵士が敵に囚われるのを嫌い、かつて、自軍を攻撃し傷つける代償を払ってでも、あらゆる手段で誘拐を阻止しなければならないという指令を出した。「ハンニバル指令」だ。1986年にレバノンでイスラエル軍の兵士が拘束され、捕虜交換に使われたことが理由だという。発想としては「生きて虜囚の辱を受けず」と似ている。昨年10月の攻撃ではイスラエル人が人質に取られることを阻止したかったと言われている。
もうひとつ興味深い話が伝えられていた。ハマスが使った武器はウクライナから手に入れたというのだ。アメリカ/NATOがウクライナへ大量に供給した兵器の約7割が闇市場へ流れていると言われているが、そうした武器だというのである。
奇妙な情報はまだある。ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所であり、その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが張り巡らされ、人が近づけば警報がなる。地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっているのだが、10月7日にハマスはイスラエルへ突入できた。しかも突入の数時間後、2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させている。
そうしたことから、ベンヤミン・ネタニヤフ政権とジョー・バイデン政権はハマスに攻撃させたのではないかと疑う人が少なくない。その攻撃を口実にしてガザのパレスチナ人を追い出すか皆殺しにする計画だったのではないかというのだ。
今回に限らず、イスラエルによるパレスチナ人虐殺にはイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国が協力してきた。そもそも「イスラエル建国」はイギリスのプロジェクトである。
イギリス政府は1838年、エルサレムに領事館を建設。その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査し、イギリスの首相を務めていたベンジャミン・ディズレーリは1875年にスエズ運河運河を買収した。その際に資金を提供したのは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設する第一歩と言われる書簡をアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ出したのは1917年11月のこと。これがイスラエルの建国に同意した「バルフォア宣言」だ。
イギリスは1920年から48年の間パレスチナを委任統治、ユダヤ人の入植を進めたが、1920年代に入るとパレスチナのアラブ系住民は入植の動きに対する反発を強める。
そうした動きを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用した。
この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立されたのだが、殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。そして1936年から39年にかけてパレスチナ人は蜂起。アラブ大反乱だ。
1938年以降、イギリス政府は10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣する一方、植民地のインドで警察組織を率いていたチャールズ・テガートをパレスチナへ派遣、収容所を建設する一方、残忍な取り調べ方法を訓練した。イギリス軍はパトロールの際、民間のパレスチナ人を強制的に同行させていたともいう。
反乱が終わるまでにアラブ系住民のうち成人男性の10パーセントがイギリス軍によって殺害、負傷、投獄、または追放された。植民地長官だったマルコム・マクドナルドは1939年5月、パレスチナには13の収容所があり、4816人が収容されていると議会で語っている。その結果、パレスチナ社会は荒廃した。
そしてシオニストはパレスチナからアラブ人を追い出すため、1948年4月4日に「ダーレット作戦」を始めるが、これは1936年から39年にかけて行われたパレスチナ人殲滅作戦の詰めだったという見方もある。1948年当時、イスラエルの「建国」を宣言したシオニストの武装組織に対して無防備な状態となっていた。
4月6日にはハガナ(後にイスラエル軍の母体になった)の副官、イェシュルン・シフがエルサレムでイルグン(シオニストのテロ組織)のモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャング(同)のヨシュア・ゼイトラーに会い、ハガナのカステル攻撃に協力できるかと打診。イルグンとスターン・ギャングは協力することになる。
まず、イルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲うが、この村が選ばれた理由はエルサレムに近く、攻撃しやすかったからだという。村の住民は石切で生活し、男が仕事で村にいない時を狙って攻撃するプラン。早朝ということで、残された女性や子どもは眠っていた。
襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、254名が殺されていた。そのうち145名が女性で、35名は妊婦だ。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この虐殺を見て多くのアラブ系住民は恐怖のために逃げ出し、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ避難、その後1年間で難民は71万から73万人に膨れ上がったと見られている。イスラエルとされた地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎない。いわゆる「ナクバ」だ。
国連総会で1948年12月に採択された決議194号はシオニストに追い出されたパレスチナ人が故郷に帰還することを認めているが、実現していない。イスラエル「建国」の議論はこの決議を認めるところから始めなければならない。