今から25年前の7月16日、ジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまり第35代大統領の息子が搭乗したパイパー・サラトガがマサチューセッツ州ビンヤード沖で墜落、同乗していた妻のキャロラインとその姉であるローレン・ベッセッテと共に死亡した。
その航空機は目的地であるマサチューセッツ州マーサズ・ビンヤード島へあと12キロメートルのあたりを飛行中で、パイパー・サラトガは自動操縦で飛んでいた可能性が高い。しかも、ケネディ・ジュニアは優秀なパイロットで、しかも几帳面で慎重だとCFI(公認飛行教官)に評価されている。
また、墜落した飛行機にはDVR300iというボイス・レコーダーが搭載されていて、音声に反応して動く仕掛けになっていた。直前の5分間を記録できるのだが、その装置には何も記録されていなかったという。また緊急時に位置を通報するELTを搭載していた。ELTが作動していれば、短時間で墜落現場を特定できたはずだが、墜落から発見までに5日間を要している。
墜落の直前、JFKジュニアは航空管制官に対し、着陸の指示を求めている。その管制官によると、落ち着いた声だった。パイパー・サラトガの機影がレーダーから消えたのはその2分後。航空機は毎分1400メートルという速度で海へダイブしている。近くの海にいた釣り人は島に向かって落ちる航空機に気付き、地元紙に伝えている。ELTが作動していなくても墜落現場はすぐにわかったはずだ。釣り人は爆発音が聞こえたとも証言しているのだが、この証言は封印された。
アメリカのNTSB(国家運輸安全委員会)は「夜間に水上を降下中にパイロットが飛行機を制御できなかった」とし、「事故の要因は煙霧と暗い夜だった」としているのだが、その日は視界が良く、別のパイロットは10マイルから12マイル(16キロメートルから19キロメートル)先の空港が見えたと報告している。
事故の翌年、2000年はアメリカ大統領を決める選挙があった。有力候補とされていたのは共和党のジョージ・W・ブッシュと民主党のアル・ゴアだったが、1999年の段階で最も人気があった人物はジョン・F・ケネディ・ジュニア。1999年前半に行われた世論調査ではブッシュとゴアが30%程度で拮抗していたのに対し、ケネディ・ジュニアは約35%だったのだ。
JFKジュニア本人は2000年の大統領選挙に立候補しないとしていたようだが、彼は1960年11月25日生まれで、投票日の2000年11月7日には39歳。2期後の2008年でも47歳だ。それまで上院議員を務め、2008年の大統領選挙に立候補する可能性は十分にあった。父親を誰が暗殺したのかを明らかにし、犯人を処罰すると決意しているJFKジュニアは犯行集団にとって危険な存在だ。(リー・ハーベイ・オズワルドの単独反抗説がありえないことは本ブログでも繰り返し書いてきたので、今回は割愛する。)
ところで、2000年の上院議員選挙では投票日の3週間前、ブッシュ・ジュニア陣営と対立関係にあったメル・カーナハンが飛行機事故で死んでいる。このカーナハンと議席を争っていたのがジョン・アシュクロフト。ジョージ・W・ブッシュ政権の司法長官だ。ちなみに、選挙では死亡していたカーナハンがアシュクロフトに勝っている。
2002年には中間選挙が行われたが、この段階でイラク攻撃に反対する政治家は極めて少なかった。例外的なひとりがミネソタ州選出のポール・ウェルストン上院議員だが、同議員は投票日の直前、2002年10月に飛行機事故で死んでいる。
「雪まじりの雨」という悪天候が原因だったと報道されたが、同じ頃に近くを飛行していたパイロットは事故を引き起こすような悪天候ではなかったと証言、しかも議員が乗っていた飛行機には防氷装置がついていた。しかも、その飛行機のパイロットは氷の付着を避けるため、飛行高度を1万フィートから4000フィートへ下降すると報告している。その高度では8キロメートル先まで見えたという。