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2026.08.04
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 アメリカ軍は81年前の8月、原子爆弾で広島と長崎を破壊、多くの人を殺害した。8月6日にはウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島へ、また8月9日にはプルトニウム型原爆「ファット・マン」を長崎へ投下した。原爆投下から数ヶ月で広島は9万から16万6000人、長崎は6万から8万人が死亡、その約半数は投下当日に亡くなったと推定されている。被爆者はその後も癌などの発症に苦しんできた。

 8月8日にはソ連が日本に対して宣戦布告、日本が占領していた中国東北部や千島列島などへ攻め込んできたが、これはその年の2月にクリミアのヤルタ近くでアメリカ、イギリス、ソ連の首脳によって行われた会談での取り決めに基づくものだ。

 ヤルタ会談にアメリカの代表として参加したフランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月12日に急死するが、その時、アメリカ海軍のジェームズ・ランビー大尉に率いられた部隊がベルリンから西へ約130キロメートルの地点にある施設で約1100トンのウラニウム鉱石を発見したとする話がある。(Simon Dustan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

 ユニオン・ミニエール社が1940年にコンゴで採掘したウラニウム鉱石約1200トンをドイツは手に入れ、そのうちフランス海軍の兵器工場に保管されていた31トンはすでにアメリカ軍が回収してテネシー州オークリッジの施設へ運んでいたが、残りは行方不明になっていた。それが発見されたということだ。(前掲書)

 原爆の開発は1940年2月にイギリスのバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づ木、MAUD(ウラン爆発の軍事応用)委員会が設立されたところから始まる。

 同委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会談、アメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったという。

 1941年10月にルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可し、イギリスとの共同開発が始まった。1942年にはレスリー・グローブス准将(当時)の指揮下、「マンハッタン計画」が発足。グローブスは1944年、マンハッタン計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。ドイツや日本の核兵器開発を危惧したわけではないということになる。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 広島と長崎への原爆投下を許可したのは大統領に就任してまもないハリー・トルーマンである。アメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日のことだ。日本が「ポツダム宣言」にどう反応するかを見ずにトルーマンは原爆投下による市民虐殺を決めたわけである。

 投下決定の8日前、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。その翌日から始まるポツダム会談を意識しての実験だった。当初の実験予定日は7月18日と21日の間だったが、トルーマンの意向で会談の前日に早めたという。7月26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月に入って原爆が投下された。

 日本では1945年8月15日に天皇の声明が放送された。「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれているものだ。その半月後の8月30日、グルーブス中将に対してローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえでソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。ただ、その当時、アメリカはこれだけの原発を持っていなかった。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 1955年頃になるとアメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)、57年になるとアメリカ軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 そして1957年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 そのころからアレゲーニー山脈の中、ウエストバージニア州のグリーンブライア・ホテルの地下に「地下司令部」が建設されている。いわゆるグリーンブライア・バンカーだ。1959年に国防総省が中心になって着工、62年に完成している。

 1950年代に沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収されて軍事基地化が推し進められ、今でも島民を苦しめている。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。こうした基地化はアメリカの先制核攻撃計画と無関係ではない。「核の傘」など戯言だ。

 ​ テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、 統合参謀本部 のライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイなど好戦派は、1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だったという ​。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを発射するしかない。そこでソ連はキューバへ中距離ミサイルを運び込み、キューバ危機になる。1962年10月のことだ。この危機を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。

 1992年2月に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づいてアメリカのネオコンはアメリカが唯一の超大国で無敵だと信じ、世界制覇プロジェクトを開始、2001年9月11日から侵略戦争を本格化させた。そして今、ロシア、イラン、中国と戦争を始め、負けつつある。現在の世界情勢は当時より危険であり、核戦争が始まる危険性が高まっている。










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最終更新日  2026.08.04 00:00:04


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