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大好きだった熊本の伯母が、闘病の末、91歳の生涯を閉じた。人の世の常だから、いつかはこの日を迎えることになると、覚悟はしていた。しかし、主のいなくなった伯母の家を訪れたとき、ふと、もうここには来る理由がなくなってしまったのだということに気付き、僕は途方に暮れた。今までの半生で、熊本に行くということは、すなわち伯母に会いに行くことだったのだ。生涯独り身を通し、贅沢とは無縁の質素な生活を送り、丹精込めて庭木を育てるのが好きだった。死の直前まで頭脳明晰で、体を苛む痛みをおくびにも出さず、遠方から見舞いに来た僕や、ずっと付き添って看病疲れの色が濃かった母を最後まで気遣っていた優しい伯母。僕は、あなたのような人になりたい。38年間、たくさんの素敵な思い出をありがとう。またね。
2010.10.31
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自転車通勤をするようになって以来、会社に持っていく鞄はメッセンジャーバッグが定番になっていたのだけれど、ある雨の日、どうせ今日は自転車には乗れないのだからと、思い付きで他の鞄にしたくなった。メッセンジャーバッグの欠点は、マジックテープで閉じられた上蓋を開く時に耳障りな剥離音がするところで、静かな場所ではかなり煩く、周囲を憚ることが多かったのだ。何か適当なものはないかと押入れの中を物色したところ、棚板の一番奥に、仕事で使えそうな茶色の鞄があるのが目に止まった。ダレスバッグだ。ちょっとくたびれたそれは、壁とダンボールとの間に挟まれ、窮屈そうに潰れていた。引っ張り出してみると、焦げ茶色の革の表面には無数の疵が付き、お世辞にも綺麗な状態ではない。取っ手のすぐ下には、油を垂らして出来たような、親指大の目立つ染みがあった。触ると、周りに比べそこだけ硬い。そのゴツゴツした感触を指先に感じた瞬間、不意に、忘れていた記憶が蘇った。長いこと思い出さなかった古傷にうっかり触れてしまったかのように、ひやりと背筋を緊張が走る。そうだ、これは油染みなどではない・・・。このダレスバッグを買ったのは、今から10年近く前のことである。当時、とにかく早く一人前になりたかった僕は、しかしどうすれば良いか分からず、日々をぼんやりとした焦燥の中で過ごしていた。そんな時、何気なく立ち寄った老舗の鞄屋で、仕事に使えそうな鞄を見ていたとき、目に止まったのがそのダレスバッグだった。そう広くない店内の、壁一面に並ぶ無数の鞄の中で、それだけは他とまったく違う引力を持っていた。僕が鞄から目を逸らすことが出来ずにいると、すぐに店員が寄ってきた。お客様、お目が高いですね。このバッグは限定品でして…それから色々と説明を受けた気がするが、何を言われたのか覚えていない。当時の自分には明らかに分不相応な値段だったが、まるで熱に浮かされたように、気が付くと分割払いで買っていた。持ち帰るあいだ汚れないようにと白い不織布のカバーを掛けられたそれは、まさに宝物そのものだった。一目惚れし、精一杯背伸びをして手に入れたダレスは、しかし、僕を洒脱な大人にはしてくれなかった。相変わらず仕事では精彩を欠き、私生活もうだつが上がらず、それまでと何一つ変わらなかった。その上、最初は壊れ物のように大切に扱っていたダレスに、ある時、大きな引っかき傷を付けてしまった。その瞬間から、鞄の扱いはどんどんぞんざいになっていき、蒸し暑い車のトランクに放り込んだまま何日も放置することすらあった。そしてついに、決定的な事件が起こる。ある夏の日、うだるような暑さの中で仕事の合間に食べたソフトクリームが、熱風に煽られて思った以上に早く溶け、ぼんやりしている間に鞄の上に滴ってしまったのだ。あっと思ったが、後の祭である。糖分をたっぷり含んだクリームは、柔らかい革の奥まで浸透し、濃い染みをかたち作った。ぬるま湯で拭き取ってみたりもしたが、二度と柔軟さが戻ることはなかった。形あるものを壊してしまったときの気分は、嫌なものである。その染みは自分の愚かさの証明のように存在を主張し、僕を責め立てた。見ないようにしても、ついそこにばかり目が行ってしまう。あんなに溺愛していたダレスを見ることが次第に辛くなり、とうとう使わなくなってしまったのだった。久しぶりに見たダレスは、最初に出会った時と変わらない魅力を湛えていた。無数の疵や、そしてあの忌まわしい染みもすっかり馴染み、風格すら漂わせていた。ひょっとすると、何年もクローゼットの奥で寝かされている間に、ゆっくりと革の熟成が進んだのかもしれない。改めて見ると、今更ながらにこのバッグの貴重さが理解できた。ダレスバッグと言えば、その多くは硬いブライドルレザーやそれに準じる丈夫な革で作られており、蓋を止めるストッパーには金属製の錠前まで付き、総じて格調高い造りになっているのが常だ。ところがこのダレスは、柔らかくしなやかなタンニンなめしのヌメ革をふんだんに使い、持ち主に寄り添うように形を変えた。また、実用性を重視したのだろう、留め金はシンプルな捻り金具のみで、すぐに物の出し入れが出来るように配慮されていた。焦げ茶の革のマットな風合いと、飾り気のないたたずまいが素朴で好ましかった。それは、久しぶりに再会した友人に対する印象が大きく変わってしまったのに似ていた。年を経て、出会った頃には分からなかった多くの美点に、ようやく気付いたようなものだ。今だったら、もう少し大事に使ってやれたのに。ほんの一瞬、掛け替えのないものを粗末にしてしまった苦い後悔が胸を刺した。あの頃、ダレスの疵や染みが許せなかったのは、未熟で疵だらけの自分が許せなかったからに他ならない。これからは、良き相棒として一緒に歳を重ねていこう。僕は自分によく似た鞄の蓋を開け、書類と少しの荷物を詰めた。
2007.11.20
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僕は小学校6年生の時、体格の良いガキから路上で背負い投げを食らい、以来何年も鞭打ちの症状に悩まされた。絶え間なく襲ってくる偏頭痛と首や肩の神経痛。一時は医者から、背骨をボルトで固定しなければならないとまで宣言されたが、幸いなことに地道な治療が奏功して、何とか生活に支障がなくなるまでに快復した。もっとも、一応健康体になった今でも、痛みは完全には治らず、もう一生付き合っていくものと半ば諦めている。そんな肩の凝る毎日が続いていたある日、職場のすぐ近くに、いつの間にかマッサージパーラーが出来ているのを発見した。足つぼコースから本格的な全身コースまで、メニューも豊富だ。たまたま仕事が立て込んでくたびれていたので、これ幸いと「全身一時間コース」を申し込んだ。若くてハンサムなお兄さんが笑顔で迎えてくれ、僕は施術台に横たわった。ところが、僕の身体をほぐし始めるや否や、お兄さんの表情が一変した。「…目を酷使されていませんか?」「最近生活が不規則でしょう」「若いのに、あちこちガタが来てますねえ」「内臓全般が弱ってますよ」ぎくぎくぎくΣ( ̄□ ̄;)。いちいち耳が痛い。特に足の裏を押された時は、絶叫したくなるほどの激痛が走り、脂汗を流しながら拷問に耐えなければならなかった。一時間後、僕は来た時よりもいっそう憔悴して、パーラーを後にした。お兄さんの「またお越しくださいませ~」という明るい声が恨めしかった。さて、マッサージを受けたい理由も人それぞれで、中には「滝川クリステルみたいな綺麗なお姉さんに優しく癒してもらいたい」などと考えるオジサンも多い。ある時、僕は仕事で業界関係の会合に出席するため、有馬温泉のホテルに宿泊した。その時同室したのが、闊達でいつも笑顔が絶えない、某居酒屋系全国チェーンの専務A氏と、温厚な人柄で知られる食品会社の社長T氏である。二人とも仲が良く、エンゾーはいつもお世話になりっぱなしだ。その夜、僕とA氏は温泉の気持ち良さについ長風呂し過ぎ、部屋に帰ってぐったりと横たわっていた。元気なのは風呂好きのT氏だけで、「別の岩風呂にも入って来る」と出て行ったっきり、まだ部屋に帰ってこない。すでに食事は済ませていたが、しかしまだ寝るには早い…そんな時、ふいにロマンスグレイA氏が僕にある『提案』を持ちかけた。「エンゾー君、君は温泉旅館でマッサージを頼んだ事はあるかい」「いえ、ないですね~」「よし、じゃあ今から頼もうよ。やっぱりさ、温泉といったらマッサージでしょ。エンゾー君もやってみてごらんよ」「はあ、そうですね…じゃあそうしましょうか」「早速フロントに電話してくれないか。Tちゃんもやるだろうから、若い子を三人寄越すように。マッサージは若い子じゃなくちゃね」「はいはい、そう言いますよ(^_^;」僕は、「若い子だからね!」と後ろで念を押すA氏の指示に従い、電話でマッサージをお願いした。が、あいにくその日は宿泊客が多く、マッサージは予約が殺到しており、3人一度には派遣出来ないとの返事。受話器を押さえ、振り向いてその旨を伝えると、A氏は勢い込んでこう言った。「じゃあ、俺が最初ね!こういう時は、最初に一番良い子が来るもんだ。で、次が君ね。Tちゃんは風呂から帰って来たらってことにしておこう」結局、15分おきに一人ずつマッサージ師が部屋を訪れるということで話はまとまった。さて、待つ事20分。予定より少し遅れて、最初のマッサージ師が到着した。「失礼しま~す」という明るい声と共に襖を開けて入ってきたのは、どう見ても5児の母といった風情の、たくましいおばさんである。それを見たA氏、僕が何か言うより早く、「さ、エンゾー君、生まれて初めての温泉マッサージをやってもらいたまえ。気持ちいいぞ~」と言って、あっさり身を翻した。見事なまでの変わり身の早さに感心しながら、まずは僕が揉んでもらう事になった。僕が布団に横たわってからしばらくすると、T氏が風呂から帰ってきた。「お、マッサージなんか呼んじゃって。いいねえ自分たちだけ」「いやいやTちゃん、ちゃんとTちゃんの分も呼んでるから」などと言ってるところへ、タイミング良く「失礼します」と二人目が登場。今度こそと身を乗り出すA氏の前に現れたのは、孫が8人はいそうなお婆さんだった。どうも、どんどん年齢層が高くなっていっている。僕は笑いを噛み殺した。当然のように、A氏はまたしても素早い転身を見せた。臨機応変の方針転換は、さすが(?)やり手の経営者である。「Tちゃん、ちょうど良かっただろ。君が帰ってくるのを見計らって呼んどいたんだよ。どうぞお先に」「あ、そうなの?悪いなあ。じゃあお先に」人を疑わないT氏は、素直に申し出を受けてマッサージを始めてもらった。その横で、A氏が「エンゾー君、ホントにフロントにはちゃんと言ったの?」などとブツブツ言っている。そして15分後。ようやく、A氏待望の最後のマッサージ師が到着した。三度目の正直となるか。「ごめんくださいませ」一瞬、部屋に沈黙が降りた。あの時の、鳩が豆鉄砲を食らったようなA氏の顔を、僕はいまだに忘れる事が出来ない。僕とT氏は、思わずマッサージも忘れ、お腹がよじれるほど笑い転げた。渋い声と共に現れたのは、滝川クリステルではなくて、頭が禿げ上がり痩せ細ったお爺さんだったのである。「効くなあ、やっぱりマッサージは男の人でなくっちゃ。力が要るからねえ」お爺さんの肘を背中に受けながら、A氏は、複雑な顔で負け惜しみを言った。(以前某所で書いたコラムに、加筆訂正したものです)
2007.09.09
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僕は昔から、確率論が苦手だった。例えば、10枚のうち1枚だけ当たりの入ったくじがあったとして、最初の1枚も最後の1枚も、当る確率は等しく1/10というのが世間の常識だが、僕はいまだに納得できずにいる。絶対に空クジがありえない最初の一人と、空クジの可能性がある二人目以降では、どう考えてもチャンスが同等とは思えないからだ。きのう僕は、今年で89歳を数える伯母を訪ねた。田舎の温泉へ、卒寿を祝う小旅行に出かけるためだ。忙しさにかまけ、年に2~3度しか訪ねない薄情な甥を、一人暮らしの伯母はいつも満面の笑みで迎えてくれる。ここ1年でめっきり足が弱った伯母だったが、子供のように天真爛漫で朗らかな性格と明晰な記憶力は、今も昔も変わりがない。今回の旅では、日頃の不義理の罪滅ぼしをしようとあちこち引っ張りまわす僕に良く付き合い、文句も言わずにいくつかの観光地を見て回った。どっちがホストか分かったものではない。山奥の温泉旅館では、紫色の羽織を着せた姿で、セルフタイマーを使って一緒に記念写真を撮った。それから、ちょっとしたサプライズのつもりで、朱泥の急須をプレゼントした。以前伯母の家を訪ねた時、取っ手が欠けた急須を不便そうに使っていたことを思い出したからだ。箱を開け、中から急須が出てきたとき、伯母は顔をくしゃくしゃにしてはしゃぎ、何度も僕に礼を言った。予想以上に喜んでもらえたことに、僕は大きな満足を感じた。その夜、なぜか僕は暗闇の中で飛び起きた。時計を見ると、午前4時。早春の空に、まだ太陽の昇る気配はない。布団に入ってから4時間しか経っていなかったが、頭の芯が冴えて眠れなかった。なんの脈絡もなく、ある不安が胸をよぎったのだ。(おばぁは、あと何回朝を迎えられるだろうか)89歳。当たり前だが、来年は90歳である。一日一日、人生の幕引きに向かって余生を過ごしていく彼女に、少なくとも30年後の未来はない。そう考えたら、喉の奥が熱くなって胸が締め付けられた。人の世に絶対はないし、若いからと言って明日も生きられるとは限らない。若者の一日と老人の一日に差はなく、みな等しく歳をとっていく。よしんば差があるとして、無為に過ごすか有意義な時間にするか。そんなことは分かっている。しかし、それでも伯母の一日と僕の一日が同じだとは、到底思えなかった。伯母にとって、残された日々は少なく、そして限りなく貴重だ。訪ねる人もなく、ひっそりと暮らす伯母の寂寥を思ったとき、僕は大切な人を忘れて暮らすことの愚かさに身が震えた。彼女の孤独は、とりもなおさず僕自身の孤独なのだ。一泊旅行から帰って伯母を家に送り届けた時、家がずいぶん傷んでいることに改めて気づいた。そうだ、来月は障子の張り替えに来よう。そして、明るい部屋で春を迎えてもらおう。また、来るからね。そう胸に誓って、伯母の家を後にした。バックミラーの中で、伯母は小さくなるまで手を振っていた。
2007.03.04
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エンゾーがあまり面白くない少年時代を送っていたことは、以前書いた。特に中学・高校は、エンゾーにとって暗黒時代とも言うべき6年間で、天秤に掛けるならば間違いなく苦痛の方が勝っていた。例えばここに、それを象徴する「証拠品」がある。高校の卒業アルバムだ。エンゾーは、浪人が決定して某大手予備校に行かなければならなくなったとき、学生証の発行のために、なんと卒業アルバムのクラス写真から自分の欄を切り取って、予備校に提出した。だから、エンゾーの所有するアルバムには、永久に自分の写真が載っていない。 ひるがえって、いちばん多感だった十代後半の自分が記録として残っていないことに寂しさを覚えるようになったのは、実はつい最近のことだ。これは一つには、自分の両親のそういう姿を見ることが出来ないことに不満を覚えたのが大きい。どんな人にでも、子供だった時代はある。大人になり、恋をして、家庭を築き、やがて子供が出来る。その瞬間から、人生は次の世代のものになる。そんなわが子に「君が生まれるまでには、ささやかにして壮大な、こんなドラマがあったんだよ」と、バトンを渡すまでのランナーの走りっぷりを見せてやれないことは、少し…いや大いに残念な話だ。それだけではない。後ろを振り返ってばかりいるのは良くないけれど、時には追憶に浸る時間があってもいい。自然に任せて忘れるのも悪くはないが、忘れられない楽しい思い出が多すぎても、損はしないだろう。 「自分を撮るのは恥ずかしい」なんて言っていられない。これからは、もっとたくさん生きた証を残そう。今からでも遅くはない。
2005.03.27
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東鳩の「オールレーズン」という古いお菓子をご存知だろうか。エンゾー、これが大好物である。ところが、東鳩の業績悪化に伴い、かつてスーパーのお菓子コーナーには必ずと言っていいほど並んでいた、キャラメルコーンやオールレーズンといった往年の名駄菓子(?)たちは、いつしか店頭から姿を消していった。いまや、競争の激しいコンビニの棚で、これらのお菓子を見かけることはほとんどない。 ところが、最近ひょんなことから、郊外にある昔ながらの小さなスーパーで、生まれ変わったオールレーズンを発見した。 パッケージはシンプルになっているが、中身は、まごう事なき往年のオールレーズンそのもの。(相変わらずうまい!)しかしその時。エンゾーの頭の中で、誰かが囁いた。「いいのか?今や福岡で、オールレーズンを売っているのはこの店だけかも知れないぞ(おいおい)。いや、そうに違いない(違います)。ここでオールレーズンの売り上げがショボかったら、きっと店主は『やっぱカルビーのポテトチップスみたいには売れねえなあ。…置くのやめるか』と思うに決まっている。そんな憂慮すべき事態は、何が何でも阻止しなければ!!」 暴走する妄想に駆られて、エンゾーは一度に棚から4袋も掴み、レジへと走った。「こ、これ下さい!」「…全部で630円になります」 怪訝そうな店主の視線に目もくれず、エンゾーはこみ上げる達成感に酔いしれていたのであった。大人買いって気持ちがいいなあ。 オールレーズン、お前を死なせはしないぜ。P.S.画像で三袋しか写っていないのは、我慢できずに一袋食べたから。
2004.12.05
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歯磨きを使ったら、キャップをしなさい。固まってるって。お客さんが来た時、恥ずかしいだろ。ドレッシングは振ってから使うもんです。ぜんぜん振らないから、後半はオイルしか残ってないでしょうが。「ちゃんと振れ」と注意したら、申し訳程度に1~2回降りながら「男のくせに細かいねえ」と言うな。マヨネーズの封印を、半分だけ剥いで使うのはやめれ。おかげで、キャップも注ぎ口もマヨネーズでネトネトだ。おまけに、やっぱりちゃんと蓋を閉めないから、いつもマヨネーズが黄色く固まっておるではないか。腐ったモノを食わせるのも勘弁して欲しい。それを食ってお腹を壊したら、「そのくらいで調子が悪くなんて、ひ弱だねえ」と責任転嫁するな。ましてや「戦時中はそんなものすらなかったのに、今の若いのは贅沢だ」と逆ギレすんな。急ぎの仕事に行く直前になって、「ついでに○○まで乗せてって」と必ず便乗するな。言ってから車に乗るまでに、あなたは必ず30分以上かかるでしょうが。そのくせ断ると、「親不孝もんが!」と説教をたれるし。こっちは時間がないっちゅ-の。あ、あと、裏番組の事を「裏ビデオ」というのはやめなさい。 ハハよ・・・あなたのような大雑把な人は、私の周りにはあなたしかいないよ(-"-;)。歳相応に、もう少し枯れてくれ。
2004.10.26
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今日は、ちょっとまじめなお話。病気になった人が、望むような「名医」に巡り合うにはどうすればいいのか。そういうお話です。あなたは、たとえばひどくお腹が痛くなったとき、どうしますか?市販薬で様子を見る。これが一般的でしょうね。でも、痛みがあまりにも長引いたら、次にどんな行動をとるでしょうか。近所の行きつけのお医者さんに行くでしょうか、あるいは大学病院の胃腸科に赴くかもしれませんね。 でも、果たしてそれは本当に正しい選択なのか。実はウイルス性の病気で、胃腸科ではなく内科の範疇だったかもしれません。それを素人が判断できるでしょうか。答えはNOです。しかしこういうケースで、ミスマッチに気付いている人がいます。それは、診察した担当の医師です。これはどうも、自分の専門分野ではない。医者というものは、専門外の疾病については意外なほど知りません。なので、門外漢が診察しても、誤診や見落としなどの医療過誤が起こる可能性が高いのです。では、彼が適切だと判断する分野の医師に患者を紹介すればいいのですが、医療の現場で、そういう仕組みがうまく機能することは、あまりありません。現場で働く医師のコネクションと言うのは、一般人が想像する以上に頼りなく、非常に閉じられた世界なのです。さらに患者の視点からいうと、最初に見てもらった先生に全幅の信頼を寄せて、最後まで面倒を見てもらおうとすることが多いです。一度人間関係が出来上がってしまうと、なかなか病院や担当を替えられるものではありません。セカンドオピニオンを実行している人は、いまだに少数派です。 さて、ではこういう問題を解決するにはどうすればいいでしょうか。様々な症状を呈する患者を、適切な医者に結びつける「コーディネーター」がいれば、うまくいくはずです。 しかし実際には、そういうコーディネイト能力を持った人物がそう簡単に見つかるはずもなく、これは現実的ではない。ここに、初めて「インターネット」という切り札が現れます。HPの名は、「クリスタル・ネット」。 システムとしては、こうです。まず、具合の悪くなった患者が、クリスタルネットにアクセスします。そこで、あらかじめ用意された問診表に、ガイドに沿って答えていき、自分の症状を書き込みます。 ネットの向こう側には、その地域で医療活動をしているあらゆる病院の医師たちが待ち構えています。その中から、「これは自分のジャンルだ」と判断した医師たちが、個別に患者に診断書を返送します。 帰ってきた何通かの診断書メールを読んだ後で、患者は始めて、「じゃあ、この病院のこの先生に診てもらおう!」と決めます。つまり、まず最初に医師が患者を選択し、しかるのちに、今度は患者が医師を選択するのです。 このシステムは、セカンドオピニオンの推進にも役立ちます。すなわち、患者が受診してみたものの納得できないと感じた場合は、すぐに原点に立ち戻って、次の医師の下へいけるわけです。面倒な紹介状や、一般人には分からない、病院同士の派閥やしがらみなどの壁は、ここには存在しません。 「クリスタル・ネット」のクリスタルとは、「優秀で良心的な医師」一人ひとりを指します。その、一人ではすべてを解決できないスペシャリストたちを結ぶ壮大なネットワークが、クリスタル。ネットです。この構想は、日本のある都市で、ひそかに進められています。 昨日、このプロジェクトを推進している中心人物に話を聞く機会がありました。システムとしてはすばらしいのですが、それをどうやって大勢の人に認知してもらうのかと言う点で、まだ突破口を見つけられないでいました。彼自身が医師であり、激務の合間にほとんどボランティアで活動しているので、予算も暇もありません。そこでエンゾーが提案したのが「ブログの活用」です。毎日ものすごい数の人々が集まる優秀なブロガーのページで、一斉にクリスタルネットのことを告知してもらえば、一気に(ゴッゴルのように(笑))全国的に情報が広がるはずです。現在、彼を中心にクリスタルネットに登録してくれた医師の数、およそ700人。少なくとも1000人規模にならないと、このシステムはうまく行かないであろうと言うのが、彼の考えです。何年後にこの話が実現するのか分かりませんが、その時は、ここを訪れてくださっている皆さんの「口コミ」の力をお借りしたいと思います。よろしくお願い致します。
2004.10.22
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もう間もなく十月を迎えようとしているが、今日は久しぶりに、夏日に逆戻りしたような暑さだった。 子供のころから、一番好きな季節は夏だった。クワガタに憧れながら蝉で我慢した虫捕り、抜け殻集め、汚い公園での水遊び。狭い縁側で、種まみれになりながら食べたスイカ。塩を掛けると甘みが増すという理解不能な大人の理屈が大嫌いだった。幼い日の思い出の中でも、強烈な色彩を放っているのは、どれも夏の記憶だ。しかし、単に生命力が溢れる季節と言う以外にも、夏には魅力があった様な気がする。何か特別なものを見つけるかもしれない、誰かに出会うかもしれない、どこか遠くに行くかもしれない。そういう「何かが起こりそうな予感」に、夏休みは満ち溢れていた。だからこそ、あんなに光り輝いて見えたのだと、今なら分かる。2学期の始業式には、一番長い夏休みの短さを恨めしく思っていた。ツクツクボウシが鳴き始めると、夏がスルリと身をかわして逃げていくのを感じたものだ。そのもやもやした切なさだけは、いい大人になった今でも、不思議と変わらない。 今日の空には、遠ざかる夏を懐かしむかのように、見事な入道雲が立ち上っていた。真夏の間には、忙しさにかまけて空を見上げる事もしなかったくせに、今頃になって、何も起こらなかった夏を嘆くなんて、人間と言うのも勝手なものだ。
2004.09.26
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「犬は『飼う』だけど、猫は『暮らす』なんだよねえ」北海道に住んでいるとき、ある女性からそう説明された事がある。とんかつ屋を営むその夫婦には、子供が無かった。その代わり、家には一匹の、巨大な猫が住んでいた。名前は、「新之助」。床の上に横たわっている新之助は、手足の生えた暖かい枕のようだった。実際、親戚の子供たちは新之助を見ると抱き枕のように扱いたがり、その体重ゆえに逃げる事もかなわない彼は、極めて迷惑そうな顔をしつつも、されるがままになっていた。額に入った縦縞の模様が、ちょうど眉間に寄せたしわのようで、仏頂面がユーモラスだった。あるとき、新之助のもとに新しい家族がやってきた。その猫は、眩しいほどの真っ白な毛皮に包まれていた。ちょうど真冬だった事もあり、あまり捻らず「ユキ」と名づけられた。すると、不思議な事が起こった。それまで唯我独尊で生きてきた新之助が、にわかに父性に目覚めたのだ。まだ小さなユキを守り、細やかに面倒を見た。ユキもそんな彼になついて、どこへ行くにも後ろを付いて回った。ある寒い朝、主人が雪掻きの為に、ちょっと玄関のドアを開けている隙に、身軽なユキはポンと階段を越え、家の外に出た。輝くような白い体毛が、昨夜から降り続いた雪と溶け合って、ほんの一瞬、その姿を眩ませた。道路を通り掛かった車は、あっけなく小さな体を破壊した。その日から、新之助は食事を食べなくなった。起きている間中ほとんど鳴き続け、ユキの姿を探した。いつもユキが隠れている本棚と壁の隙間を、何百回も覗き込んだ。彼がユキの不在を悟ったのは、実に一ヵ月後の事だった。じっと窓の外を見る背中は、いつの間にかふた周りも小さくなっていた。 去年、7年ぶりに北海道を訪ねた。生きていれば、もはや猫又の部類であることを知りつつも、淡い期待を抱いて、新之助のいる家のドアを叩いた。新之助は、やはりいなかった。そして、彼と「暮らして」いた、奥さんもいなくなっていた。今も一人で店を続けているご主人と、4時間近く思い出話に興じたが、奥さんと新之助の行方については、ついに聞かずじまいだった。僕は、必ずまた来る事を約束して、店を後にした。キジ猫を見ると、新之助を思い出す。
2004.06.14
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私ことエンゾーは、昔から、ある誤解を受けた。「エンゾー君って、秀才っぽいよね」「そーそー、あたま良かったし」えーっと、一体何の話だ(・_・?)仮に小学生がチーパッパと学習塾に通って、ほんの少し先走って方程式が解けたりしたからといって、それを秀才とは誰も呼ぶまい。例えば初等教育では、なぜか卒業の時期になると「卒業文集」などを作りたがるが、「遠足が楽しかった」とか「友達がいっぱい出来て良かった」などホノボノした作文 が大半を占める中、「洗面台のボールに水をためて栓を抜くと、必ず左回りに(右だったっけ?)渦を巻いて流れ出ていく。これは、地球が自転していて日本が北半球にあるからで、南半球では逆の現象が起こる。僕は将来はロケットを作りたい云々」と、恐ろしく高等な話を書いた奴がいた。繰り返すが、小6で、である。秀才とはこういう人間のことを言うのであり、彼はそのまますくすくと育って、今では名古屋で人工衛星なんぞを造っている。僕の周りにいた人間が、僕のことを「お利巧さん」と誤解したのは、単に私が「ええかっこしい」だったからに過ぎない。幼い頃の僕は、甘やかされた一人っ子ゆえの「さびしんぼうの目立ちたがり屋」で、親や先生の愛情を得ようと、必死に優等生をやっていた。ところが「勉強の出来るものわかりの良い子」というのは、演じ続けるにはなかなか骨が折れる役柄で、中学卒業まではなんとか持ちこたえたものの、受験で進学校に合格した時点で、ついに燃え尽きてしまった。いきなり難解になった高校の学習内容は、勉強する動機が不純な僕にとって、すでに我慢の限度を超えていたのである。ごく自然な成り行きで、中学までは何とか「クラスで2~3番」で行けた成績が、一気に学年最低まで落っこちた。いま思い出してもすがすがしいくらいの転落ぶりだった。人生15年にして、僕ははじめての挫折感を味わった。ある時は、学年でたった一人、留年の危機にさらされ、英語の追試を受けた。3歳のころから10年間も習った英会話は、受験勉強に関して何の役にも立たなかった。ある時は、担任だったY氏のもとに親子ともども呼びつけられ、「お前は俺の教師人生の中で、最悪のノータリンだ」と決め付けられたが、一体どこで育て方を間違えたのかと酸欠のキンギョのように口をパクパクさせている母親の隣で、僕は今晩の夕飯にありつけるかどうかを心配していた。またある時は、数学教師M氏に学年一不勉強な生徒として目をつけられ、授業のたびに集中攻撃を受けた。例えば彼は、一つの数式と、その答えを1番から3番まで黒板に書き、笑顔で僕にこう言った。「さてエンゾー君、どうせそのままでは分からないだろうから、君の為にわざわざ正解を一つ入れておきました。確率は3分の1です。どれが正解でしょう」「・・・え~・・・、あ~・・・い、1か3」大爆笑が巻き起こった。正解は2番だった。嘲笑にさらされる僕の中で、彼が不倶戴天の敵としての地位を固めることになったのは言うまでもない。そんな訳で、勉強に関してはまったく情熱を失ってしまった僕だったが、それでもめげずに学校に登校し続けられたのは、好きなことがあったからだ。文章を書くことである。僕は、好きな女の子が所属していると言う、これまた不純な動機で、文芸部に入った。他に楽しみがない学校生活で、僕は何かにとり憑かれたように「小説っぽいもの」を書いて書いて書きまくった。書いている間だけは充足感があった。おかげで原稿用紙がぜんぜん怖くなくなり、20枚や30枚は鼻歌交じりでこなせるようになった。一度などは、一番前の席に座っていたにもかかわらず、授業中に講義そっちのけで小説を書いていて、怒った生物の先生に机を蹴っ飛ばされたが、それでもまったく懲りなかった。学校一ダンディーだったG先生、あの時はごめんなさい。許してね。ちなみに文芸部は漫画研究会と仲が良く、僕は自分が書いたヘボな小説に、漫研の女の子から挿絵をつけてもらっていた。当時から非凡な才能を発揮していた彼女は、その後上京して、つぶれたパンダのようなキャラクターを考案し一世を風靡することになるが、それはまた別の話である。さて、あれほど文章作りに没頭できたのは、僕の書いた作品ともいえない作品が、どういう訳か、駄作なりに受けが良かったからだ。国語が好きだった僕は、ある時、教科書に載っていた中島敦の名作「山月記」をいたく気に入り、授業がまだ半ばのころに、全文を暗記してしまった。のろのろと進む授業はとても退屈だったので、山月記に登場する二人の主人公を、常日ごろから僕のアイデンティティーを脅かしつづける担任のY氏と数学担当のM氏に置き換え、「二人はホモだった」というストーリーを捏造してノートの切れ端に書き綴り、山月記のパロディーとしてこっそり回覧した。これが大受けで、件の紙片は瞬く間にクラス中を巡り、僕はリクエストに応じて次々と続編を書き、ホッチギスでまとめられた走り書きの原稿は、とうとう他のクラスにまで飛び火した。三日後、授業中にこれを読んでいた別のクラスのある生徒が、笑いを噛み殺すのに失敗して吹き出してしまったことで、このお下品な怪文書はようやく当人たちの知るところとなった。担任のY氏が原稿を握り締め、「これを書いた奴ぁ、誰だ!」と青筋立てて教室に怒鳴り込んできたが、学年が変わるその日まで、ついに犯人が発覚することはなかった。その後、僕は2年間の浪人生活を経て、かろうじて大学に進学し、それから4年の間、九州から遠く離れた北海道で過ごすことになる。誰にも邪魔されることなく、もはや受験勉強からもうるさい親や先生からも解放され、それまでの人生の中で、僕は生まれて初めて、一人静かに考える時間を得た。「自分が、一体いつ頃から、どういう理由で勉強嫌いになったのか」長い間僕を苦しめてきた・・・今となってはほろ苦い・・・謎が解けたのは、実に大学3年生になってからのことである。そのとき初めて、僕は「自分のために、自分らしく生きること」という、ごくごく当たり前のことに思い至り、それまで経験したことのない開放感を感じると同時に、いたずらに空費した20年間を思い起こして、狭いアパートの部屋の中で、ぽろぽろと20年分泣いた。 幸いな事に、その後は父親と死別したりしながらも、良き出会いに助けられて、至って幸せに暮らしている。あれだけケチョンケチョンな少年時代を過ごしながらも、ここまで持ち直せたのは、一重に支援してくれた方々のお陰である。照れ臭いので面と向かっては言えないが、ここでこっそりお礼を言いたい。ありがとう、そしてこれからもよろしく。 (注:以前書いたエッセイに、加筆・訂正したものです)
2004.06.12
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今日の朝日新聞の朝刊に、面白い記事がありました。題して「科学の壁」。日本には、いつの間にか「文系」「理系」というカテゴリーが出来てしまった。文系と呼ばれる人には、理系の話を受け入れがたい雰囲気が蔓延している。難しい話として、はじめから理解に抵抗がある。しかし、現実には科学は日々進歩していて、みんなそれを享受して生きているわけで、最低限の理解や興味は必要なはずで、それを阻んでいるのが前述した「科学の壁」である。科学者は、いつも「どうやったら興味を持ってもらえるか、分かりやすく科学を解説できるか」、つまり「壁」を低くすることに苦心する…そういった話だったと記憶しています。(うろ覚え(^_^;)これって、結構大事な話だなあと思います。いまや、仕組みをまったく分からないまま結果だけを利用している科学技術や工業製品だらけですよね。携帯電話の仕組みを正確に説明できる人に、未だかつて会ったことがありません(^_^;。しかし一方で、それに疑問を持ってなにがしかの行動を起こすかと言われると、それもまたあまりしないような気もします。そんなことしなくても、生きていけるし。例えば、生活IQって言葉があります。これは、日常生活を営む上で知っておいた方がいいと思われる知識についての蓄積を表すもので、日本人は、先進国であるにもかかわらず、この数値が非常に低いのだそうです。生活IQを測定するための設問はどういうものかというと、例えば熱射病と日射病はどう違っているかとか、そのときのそれぞれの対処方法とか、電子レンジの中に金属を入れたらどうなるかとか、蜂の巣の近くを青い服でうろついたら危ないかどうかとか、そういった「日常誰にでも起こりうる場面で、適切な行動をとるための知識」のことです。これは、微分積分が出来るとか歴史の年表を暗記しているとかといった知識とは、だいぶ趣が違います。生活IQが高い人って、たぶん好奇心が強くて、興味の対象がすごく広いんでしょうね。つまり、どうもキーワードは「興味」ではないかと。なんにでも興味を示し、自分の中に疑問を発生させ、それを調べてみようとする力って、一日や二日で沸いて出てくるものではなくて、小さい頃からの環境に大きく左右されると思います。例えば、僕の古い友人に人工衛星を作っているやつがいますが、彼の凄いところは小学生のときに、すでに「将来宇宙関係の仕事をしたい」と思い定めていたというところ。小学校の卒業文集では「地球の自転の方向と、洗面所で流れていく水が作る渦の向きの関係」について書いていました。今考えても、恐ろしく興味の対象が他の人と違ってましたね~(^_^;。怖いくらい。そういうことに興味を持てるようになったのは、図書館の司書をしていた母親や、ユニークな先生の影響が強かったのではないかと推測できます。その頃に接する大人の影響力って、やはりすごく大きいんですね。円周率を「およそ3」にする前に、日本の教育界はもう少し違うことをするべきだった。 子供が色々なことに興味や疑問を持つことを邪魔しない世の中を、ささやかながら作っていってあげたいものです。そのとき「科学の壁」は、今より少しは低くなっているかもしれません。
2004.05.05
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「お客様は神様です」とは、言うまでもなく某演歌歌手の名言であるが、最近レストランなんかに行くと、横柄な「神様」が増えているように感じる。店員にオーダーする時もぞんざいな口調で、ちょっとの事にガミガミ文句を言う人も少なくない。端から見ていて、嫌な気分になる。いわゆる「クレーマー」ってやつだ。もちろん、なってない応対をする店員は多い。なにがしかのサービスを受けに行って、それを受けられなければ腹が立つのは、ごく普通の反応だと思う。しかしである。「お客様」であれば何を言っても許されるという勘違いをしている人が、あまりにも多いように感じるのは、僕だけだろうか。ニコンで「お客様相談窓口」に数十年勤めたベテランが書いた『社長を出せ!』と言う本が、去年飛ぶように売れた。「お客様相談窓口」といえば、要はクレーム処理班である。難敵を相手に百戦百勝を誇る著者が、今までに経験した様々なクレーマーとの戦いを紹介し、解決に至るまでの道筋を説いていて、すべてノンフィクションなだけに生々しい説得力がある。良いなと思ったのはその基本姿勢で、対クレーマー用の特殊なノウハウを駆使すると言うのではなく、あくまでも「どんなお客様でも、本気であたれば分かって頂ける」という、ある意味非常に泥臭い精神論に立脚しているところが極めて健全で、尊敬に値する。「常識」を盾にチクチクと相手を追い詰めるクレーマーは、不快を通り越して滑稽ですらある。言うべき事は言った方が良いかもしれないが、わざわざそんな機会を探し回る人生は貧しいし、クレームなんて一生言わないでいいのなら、それに越した事はない。「ならぬ堪忍、するが堪忍」という言葉が風化してしまうアメリカ型の子供っぽい訴訟社会が、もうすぐそこまで来ているのを感じる。 お客様を神様として扱うのは、お店の人だけで十分。お客の立場にいる人は、常に肝に銘じておくべきだ。 「お客様は人間です」
2004.03.25
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僕は、自他ともに認める「物フェチ」である。とにかく、手の込んだ「モノ」を見ると、手にとって「なでなで」せずにはいられなくなる。ほとんど危ない人だ。そんな僕が最近思うことは、「一生モノ」と呼べるようなものが減ったなあと言う事。通称ソニータイマーの例を挙げるまでもなく、現代の工業製品は、おおよそ10年で壊れるように作られている。「そりゃ企業なんだから、買い替え需要を考えたら仕方のない事じゃん」ごもっともだが、だからと言って納得できるものではなく、だいたい10年足らずで物が壊れ始めたのは、実はここ20年くらいの話であって、昔はもっとなんでも耐久性があった。その証拠に、30~40年前の工業製品は、未だ現役のものが少なくない。よしんば壊れたとしても、メカニカルなものはちょっとした部品交換やオーバーホールで、すぐに元気になる。製品の耐久性がなくなってきた最大の理由は、もちろん電子化の影響である。緻密で気が遠くなるような職人技は、生産性が悪い。その部分をコストダウンするにあたり、一番手っ取り早かったのが電子化だ。その結果、モノは大量にかつ安価に作ることができるようになり、我々の生活は豊かになったように見え、かくて職人とその技は死に絶えた。また、中にはパソコンのように、モノと言うよりシステムそのものの進化のスピードが速すぎるものもあって、「一生モノ」というカテゴリーからは最も遠い存在になっている。このあいだ、ジーンズでも買うかと思って店に入ったら、まるで古着のようなデニムがずらりと並んでいた。最近良くある、加工品だ。「ストーンウォッシュ加工」やら「ダメージ加工」やらで、わざわざ新品をくたくたにして、風合いを出したものだ。手が込んでいる分、フツーに綺麗なものより高い。なんとなく釈然としなくて、何も買わずに店を出た。そう言えば、ストーンウォッシュされたデニムを見ていて思い出した事がある。僕が大学生のころ、ZIPPOライターが大好きな友人がいた。ある日、彼がまだぴかぴかの新品のZIPPOにヤスリを当てているのを見て驚いた。「ちょっとちょっと、なにやってんの??」「いやさ、ZIPPOって真鍮製だから、使い込むと角のところのメッキがはがれてきて、地金が見えてきてかっこいいんだよ。だけど、それだといつになるか分からないから、削って地金を出してるわけ」それから30分もしないで、彼の言う「かっこいい」ZIPPOは完成した。ところが、次に会った時、彼はそれとは別のZIPPOを持っていた。「あれ?こないだのZIPPOは?」「ああ、あれ?うん・・・なんかさ、やっぱりうまく味が出なかったんだよね。イマイチ使い込んだ感じにならなくてさ。捨てちゃったわ」思うに、壊れ易いものがまかり通るようになったのは、企業の姿勢のせいばかりではない。僕らが「待つ」ことが出来なくなったからである。なんでも結果が出るまでにはある程度の時間が掛かるのに、子供の頃から教えられるのは「最初からベストな成果を出す事」であり、子供はそのまま大きくなって、町はお利巧でせっかちな人間であふれ返る事になる。「100年もつ物は高くて当たり前」という常識が消えてしまったのも、一生モノが消えてしまった原因の一つだ。こう言うと、「消費者が自ら大量消費の道を選んだからではないか」と反論する人もいるかもしれない。しかし例えば、自転車は一生モノだった時代が、ほんの80年前までは確かにあったのだ。今では、7980円で使い捨てだ。それ自体は悪いとは言わないが、それだけでは人生つまらない。ゆっくりとした時間を掛けてしか良いものにならないものが、世の中にはたくさんある。美味しい料理。大事な人との関係。大きな森。イイ感じのデニム。ZIPPOのライター。失われた英知と技術を復活させ、「一生モノ」という言葉が力を取り戻す世の中が、この先やってくるだろうか。そんな世界を、子供には残したい。
2004.01.18
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