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きのう僕は、今年で89歳を数える伯母を訪ねた。田舎の温泉へ、卒寿を祝う小旅行に出かけるためだ。忙しさにかまけ、年に2~3度しか訪ねない薄情な甥を、一人暮らしの伯母はいつも満面の笑みで迎えてくれる。
ここ1年でめっきり足が弱った伯母だったが、子供のように天真爛漫で朗らかな性格と明晰な記憶力は、今も昔も変わりがない。今回の旅では、日頃の不義理の罪滅ぼしをしようとあちこち引っ張りまわす僕に良く付き合い、文句も言わずにいくつかの観光地を見て回った。どっちがホストか分かったものではない。
山奥の温泉旅館では、紫色の羽織を着せた姿で、セルフタイマーを使って一緒に記念写真を撮った。それから、ちょっとしたサプライズのつもりで、朱泥の急須をプレゼントした。以前伯母の家を訪ねた時、取っ手が欠けた急須を不便そうに使っていたことを思い出したからだ。
箱を開け、中から急須が出てきたとき、伯母は顔をくしゃくしゃにしてはしゃぎ、何度も僕に礼を言った。予想以上に喜んでもらえたことに、僕は大きな満足を感じた。
その夜、なぜか僕は暗闇の中で飛び起きた。時計を見ると、午前4時。早春の空に、まだ太陽の昇る気配はない。布団に入ってから4時間しか経っていなかったが、頭の芯が冴えて眠れなかった。なんの脈絡もなく、ある不安が胸をよぎったのだ。
(おばぁは、あと何回朝を迎えられるだろうか)
89歳。当たり前だが、来年は90歳である。一日一日、人生の幕引きに向かって余生を過ごしていく彼女に、少なくとも30年後の未来はない。そう考えたら、喉の奥が熱くなって胸が締め付けられた。
人の世に絶対はないし、若いからと言って明日も生きられるとは限らない。若者の一日と老人の一日に差はなく、みな等しく歳をとっていく。よしんば差があるとして、無為に過ごすか有意義な時間にするか。そんなことは分かっている。
しかし、それでも伯母の一日と僕の一日が同じだとは、到底思えなかった。伯母にとって、残された日々は少なく、そして限りなく貴重だ。訪ねる人もなく、ひっそりと暮らす伯母の寂寥を思ったとき、僕は大切な人を忘れて暮らすことの愚かさに身が震えた。彼女の孤独は、とりもなおさず僕自身の孤独なのだ。
一泊旅行から帰って伯母を家に送り届けた時、家がずいぶん傷んでいることに改めて気づいた。そうだ、来月は障子の張り替えに来よう。そして、明るい部屋で春を迎えてもらおう。
また、来るからね。そう胸に誓って、伯母の家を後にした。
バックミラーの中で、伯母は小さくなるまで手を振っていた。
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