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テーマ: 老荘思想(128)
カテゴリ: 道家思想


Way to Huashan China
Photo by Denis Zeziukin
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  「吾〔わ〕が言〔げん〕は甚〔はなだ〕だ知り易〔やす〕く、
  甚〔はなは〕だ行〔おこな〕い易〔やす〕きも、
  天下〔てんか〕能〔よ〕く知〔し〕る莫〔な〕く、
  能〔よ〕く行〔おこな〕う莫〔な〕し。
  言〔げん〕に宗〔そう〕有〔あ〕り、事に君〔きみ〕有〔あ〕り。
  夫〔そ〕れ唯〔ただ〕知る無〔な〕しとす。
  是〔ここ〕を以〔もっ〕て我〔われ〕を知らず。
  我〔われ〕を知る希〔な〕ければ、則〔すなわ〕ち我〔われ〕は貴〔とうと〕し。
  是〔ここ〕を以て聖人は、褐〔かつ〕を被〔こうむ〕りて玉〔たま〕を懷〔いだ〕く。」


   吾言甚易知、甚易行、
   天下莫能知、莫能行。
   言有宗、事有君。
   夫唯無知、是以不我知。
   知我希、則我者貴。
   是以聖人、被褐懷玉。



   (The difficulty of being (rightly) known)

  the world who is able to know and able to practise them.
  There is an originating and all-comprehending (principle) in my words, and an
  authoritative law for the things (which I enforce). It is because they do not know these,
  that men do not know me.
  They who know me are few, and I am on that account (the more) to be prized. It is

  jade in his bosom.
   ( Daoism -> Dao De Jing




 「私の言うことは甚だ知り易く、甚だ行ない易い。
 それなのに、天下の人々で、私の言葉を能く理解し得る者、また行ない得る者はいない。
 およそ言葉には根本となる主旨があり、また物事には主宰者となるものがあって、
 しめくくりをつけるものである。
 (ところが、私の教えは無為自然であれというような教えなので、
 茫漠としてしめくくりがないように思われている。
 だから、世人が私の言葉を理解し得ず、行ない得ないのである。)
 そもそも、ただ私が自分を無知と見なして知ったか振りをせず、殊更に宗旨を立てて説かない、
 だから私の存在を知る者がいない。
 私の存在を知る者がいないということ、それはとりも直さず、私の貴い所以である。
 (道を見よ。道は誰にもその存在を示していないではないか。)
 だから(昔から言われている。)聖人は表面賤(いや)しい者のようにしていて
 (人目に立たず)内に宝玉のごとき尊い心を懐いている(と)。」

 (新釈漢文体系 7 『老子 荘子 上』P.117 明治書院発行)



 『私の言葉を理解し、それに従うのは難しくない。
  しかし、天下の誰もそれを理解し、従うことのできる者はいない。
  何故ならば、言葉は源から出ており、
  行為には行う人がいるからだ。
  これがわからないので、私を理解することはできない。
  私を理解できなければできないほど、私はますます価値あるものになる。
  だから、賢人はぼろぼろの衣服の下に貴重な宝物をかくしている。

   注釈

第六十七章 で説かれた慈しみ、倹約そして天下の先頭に立つことを望まないという
 根本的教えを理解するのは、それほど難しくない。
 老子はいう。「私の言葉を理解し、それに従うのは難しくない」。
 もし、自我を解放するならば、この教えに達するのは難しくない。
 すなわち、「道」を有した人に従って、減少を行い、荷物をおろして自我を解放していく。
 だから老子は、自分の教えは従いやすいのだ、という。
 自分の荷物をおろすということは、創造性や可能性の源に達することである。
 しかし、普通の人はこれがわからない。だから、人々は自分を理解できないのだと老子はいう。
 普通の人は打算的思考を捨てる必要があり、自分の荷物をふやす必要はない。
 そうすれば、「言葉は源からでており、行為には行う人がいる」という意味がわかる。
 このように、最高のものを捨て、知恵を投げうてば、百倍の利益を得る。
 博愛心を捨て、正義を除去すればお互いに愛することができる。
 これは儒教の教えとは異なっている。
  孔子は「人々が私を理解しなくとも私は怒らない。これは礼儀正しくないだろうか」
 といった。孔子を理解する方法は老子を理解するのとは違っている。
 孔子を理解するには、知的に理解し、その深みを蓄えることが必要である。
 それは道徳的行為において最高の尊敬をもった徳である。
 一方、老子を理解するには、知的、道徳的徳からまったく自由な方法による。
 それは知的蓄積や道徳的達成に関わらず、老子によって体験された瞑想的思考による非徳、
 非干渉を同じようにすることである。
 即時の直観によって達せられるこの同一体験は普通の人ではなかなか達せられない。
 「私を理解できなければできないほど、私はますます価値あるものとなる」。』

 (張鍾元 著 上野浩道 訳『老子の思想』P.295~296 講談社学術文庫)

  (つづく)





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Last updated  2020年10月16日 09時50分24秒


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