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七巻全巻ブックオフでいっきに買って半日で一気に読んでしまった。 映画『最終兵器彼女』を見たので、そうなるとやっぱり原作を読みたくなるということで、買ってきました。 やっぱり原作も切ないねえ。読んでて何回も涙出ちゃった。 デモね、もう一軒行ったゲームやさんで売ってたやつの方が安かった。ガーンちきしょうー。もう買っちゃったじゃないか。 原作のラストはやっぱりうわさどおり映画とは違ってまして、原作の後半の方に進んでくると映画とはテーマが違うような気がした。 だって最後には地球は、人類は、滅んでしまうんだ。 地球の人類の最後のアダムとイブの物語だったんだ。 それにしたって二人が本当に結ばれるのは七巻になってから。シュウジはちせが大人になるまで待ってたんだねえ。連載にして二年ストーリーのなかでも、一年くらいはかかってそうだし、途中二人だけで新婚さんのように暮らす日々も三週間近くあったわけで、その間もずーっとシュウジは我慢してたわけだから、すごいというか、かわいそうというか、かなりしんどかったんではないでしょうかね。 七巻で二人が再会するシーンで、ちせは、ハイヒールはいてるし、自衛隊の制服もタイトスカートだし、作者としてはちせが大人になったことを衣装で示してますけどね。ちせが大人になったんだってことがわかったからこそ、シュウジは初めてちせとの最後の一線を越えることをふみきれたようです。だって青年誌の連載だったので、二人の性交渉の描写はそのものずばり、何ページにもわたってすごく細かく丁寧にお互いの心情や感情や感覚に至るまで非常によく描写されているのですね。 あんまりにもちせが子供で幼くてシュウジはどうしても手が出せなかったようです。未経験の普通の男の子だったら、欲望に任せて、いっちゃったと思うんだけど、シュウジくんの場合ふゆみ先輩との経験がすでにありますので、そのあたりが違うんでしょうねぇ。 それで最初は自分に自信がなくて、謝ってばかり泣いてばかりのちせですが、兵器としてだけでなく、人間としても成長していくようです。 二人の恋のアドバイザーとして、シュウジの先輩ふゆみさんと、ふゆみさんのだんな様のテツさんが登場してくるわけですが。 お互いの恋が傷つけあうだけのものであることの辛さに、シュウジとの別れを決めたちせですが、戦場で自衛隊のテツに会い、テツによって恋は傷つけあうものなのだと教えられるのでした。テツさんがちせに大人になれと無言のうちに伝えているのが、デパートでちせにやたら大人っぽい服を着せようとするあたりなんだけど。 それで、五巻あたりから、戦闘でそれまで普段着だったちせは自衛隊の服を着るようになってくるあたりで戦闘員としての覚悟ができはじめているようだし、テツさんが選んだ大人っぽいドレスや、ハイヒールをはいていて、ああ、ちせは必死に大人になろうとしてるんだなあというのがせつせつと伝わって来るんだけどね。 そんでもって、今まで強くなりたいと言いながら泣いてばかりいたはずのちせがだんだん戦闘員として、上官として自分の立場ととか、なすべき仕事とか、自覚していくようになってくるのです。 一番最初の二人で逃げようとした時は、あえなく失敗してしまうけれど、六巻では、二人は駆け落ちというか逃亡に成功してわずか十数日間だけ、まるで新婚さんみたいに暮らすことが出来て、読者としては思わず良かったねと思うけれど、それだって働きながら、生活していく辛さをたっぷりと味わうことにもなるわけで、そして、ちせがだんだん壊れていってしまい、ちせを自衛隊に返さなければならなくなった時、やはり逃げられない現実を認めなければならないことをシュウジは自覚せざるをえない。 このお話の中で、シュウジって主人公のはずなのに、そして彼女のちせは兵器として苦しみながら、必死に戦っているというのに、シュウジはなーんにもしてないんですよねえ。本人もそのことはしっかり自覚してるしね。それでも、そんな状況の中でも、いらだちながらも、両親を思いやったり、好きでなくても、彼に助けを求めてくる女性達をやさしくいたわったり、自分のプライドもかなぐり捨てて、後輩のために土下座したり、確かに彼もまた、成長していて、大人になり始めているのですね。一人教室でワインをがぶ飲みしてるシュウジをみながら、シュウジが大人になったんだなあと思いました。 シュウジと結ばれた後、ちせは人類全ての母として、人類の責任を自分ひとりで背負う覚悟をするのですね。 兵器として、戦闘を繰り返しながら、自分の愛するものを守るための戦闘であっても、死ぬのが味方か敵のどちかかなのであって、どちらであろうと殺すことにかわりはないんだということにきずき始めます。 そして、兵器として悩んでいたちせですが、自衛隊のメンテナンスの人が言います。「人間は生み出すことと壊すことしか出来ないんだよ」と。だから、「殺人をしつづけてる兵器としてのちせもまた、人間そのものなんだ」と。 このとき既にちせは自分が人類を滅ぼす役目を背負っていることにきずいたんでしょうか。 リンゴを食べてしまったためにエデンをでて、地上に降りていかざるを得なかったアダムとイブ。 そして、また、イブつまりちせは、地に増えて、授けたはずの知恵を失い地球全てをこわそうとする人類全てをかたずけて、アダムつまりシュウジとともに、エデンへ帰っていったのでした。 でも、こんなことのないように最終戦争なんかが起きない事を祈るばかりです。 漫画(マンガ、まんが)、コミック、コミックスオベリスク スモールオベリスク 160cm 第一ビニール 05P19Dec15価格:925円(税込、送料別)
2006年06月30日
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管理画面の広告でみていたら、面白そうなので、やってみたんだけど、なかなかどうして、難しい。 しかも、最終的にはボルボを一台ゲットできるらしい。 別にボルボはいらないけど、宝探しゲームは面白いですね。 でもね本気で難しいんだよ。私は昨日頑張って「セントヘレナ島」まで行って、そこでさすがに挫折。どうしても、謎が解けない…。検索してみたら、他のブログでは結構みんな遊んでるじゃないの。 しかも、攻略サイトまがいの記事まであったしね。 でも、これはゲームといえども、懸賞ものなんだし、ネット上でこんな簡単にライバルに解き方教えちゃっていいんですか。と、おもったけど、あまりにも難しくてそんなこと言ってられません。 最後は正解者の中から、一名だけ日本代表が選ばれて、実在する島でリアルの宝探しをやるらしいです。そんな暇も体力も余裕もない私にはそんなは無理だけど、とりあえずネット上の宝探しケームだけでも、やると楽しいので、やってますが。 うーん。解き方読んできたのに、やっぱり答えが出ないよう。今日中にセントヘレナから抜け出せるかなあ。広告が消えた時のためにボルボトレジャーハントのサイトをリンクしておきましょう。すごい。楽天で、車まで買えるなんて知りませんでした。オンラインゲーム輸入車(車)ボルボトレジャーハントついでに日本ブログ村にもカテゴリー作ってみたんだけど、どうでしょ。ブログルポ投稿中の記事★ 『もののけ姫』★ 『地球幼年期の終わり』★ 映画原作の小説『博士の愛した数式』★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年06月29日
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宮崎駿の伝説的名作アニメです。若い頃せっせとNHKで視たんだわ。でも、その当時はパーフェクトに見られなかった。そして、今回YAHOO動画で全26話。みました。頑張って。26話っていうと、映画ビデオ6本分くらい。たいへんなんだよーなかなか。しかも、みられるのは今月末までなんだもの。 昔はただひたすら、面白いって思ってみてたけどね。だってコナンの人間とは思えないすごい運動能力。スーパーマンですね。ぜったい。 そんでもってインダストリアとかすごい印象に残ってますね。 しかも、今見直すと話の設定が2008年からはじまってるのよ。再来年じゃないですかもう未来でもなんでもない。ていうか、あとすこしで、未来少年コナンは過去の話になってしまう。SF小説とか、近未来小説とか今まさに時代が近づいてきちゃって、SFを追い越しちゃうんだよー。もっともコナンの話自体はその20年後なんだけどね。 それでっと、西暦2008年超磁力兵器による大地殻変動で地球の大陸の半分以上が海に沈み、人類の多くが死んだ。生き残ったわずかの人々の物語なのである。唯一残る科学技術によって動いているインダストリアで、レプカは、太陽エネルギーによる世界制覇をもくろんでいた。ってこんな地球でそんなことして意味あんのかな。インダストリアとは対照的に自力で農業生産による生活スタイルを復活したハイハーバー。で、このハイハーバーなかなか素敵なんですけどね。でもねその生活スタイルが十八世紀頃の設定。衣装とか、村の建物とか、村の自治の方法とか。この当時の生活スタイルが西洋にとっての理想なのかなあ。 まあ、SFなので、人間を否定するような科学を否定する。科学よりも、もっと自然に立ち返って素朴に人間らしく暮らそうってテーマかなあ。 地殻変動による地震から、ラストでは、インダストリアは沈んじゃうんだけどね。 それは人々が自らの意思で科学を捨てたというよりやむをえず捨てざるを得なかったような展開でして、もし、インダストリアが地震によって海に沈むことがなかったら、人々はインダストリアと科学を捨てただろうか。という疑問が残ります。 ハイハーバーに移住した人々はそのあと、コナンの生まれ育った「残され島」に移住していきます。ハイハーバーからはかなり遠いところです。このあたりを見てて、なんかかつてのヨーロッパの大航海時代みたいだなあと思ったのでした。ハイハーバーはすごく広そうだから、何もこんな遠くに移住しなくても、暮らしていけそうなんだけど、でも、今のうちに移住しとかないと他の人たちにいいとこ取られちゃうかもね。つまり、人類は滅亡寸前までいったけど、結局また、大航海時代のあたりから、歴史をやり直すつもりなのでしょうかね。 それで、そうやって開拓を続けていくとやっぱり、麦や農作物をたくさん取れるようにするにはどうすればいいかとか、考え始めればそれはつまりバイオテクノロジーってやつですよね。やっぱり科学技術は必要になってくるし、機会なんかもまた作られ始めちゃって、うーんやっぱりインダストリーな生活に変化してしまうだろうな。 SFとして科学や、機械を否定するようなテーマだったけど、やっぱり人間てこういう歴史の流れから、逃げられないものなんじゃないのかなあ。 だとしたら、やっぱり科学や機械文明を否定するより、それを上手く生かしつつ、人間らしさを失わないようなあり方こそが目指すべきものなんじゃないのでしょうか。 コナンたちはこれからどんな世界を地球上に作り上げていくだろう。アニメ(アニメーション)
2006年06月28日
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人間がんばれば何事もできるんだ。がんばればどんな願いだってかなうんだ。努力は大事だ。ってわけで、学校の成績表は努力に対して点がつけられ、前回よりいかに努力したかが評価される。うそ言っちゃいけないよ。 努力が評価される社会。 いやいや評価対象として努力に重きをおきすぎている社会。いや、学校世界。 努力は確かに必要さ。でもねどんな人間にだってその能力には限界がある。それを無視して自分の能力以上のことを目指そうとするのはちょっと違うんじゃないでしょうか。 夜も寝ないで勉強して目指す学校に受かる。すばらしい努力の成果じゃないか。でも、夜はちゃんと寝ても合格するやつはいるのさ。ていうより、夜寝る時間まで削って合格するやつがほしいわけじゃないよ、学校は。で、この寝る間も惜しんで勉強したやつにちょっとした差で、寝る間も惜しむほど勉強しなくても、ちゃんと受かるやつがほんとにピン差で負けちゃったりする。惜しいですね。 いい学校に入るのはいいことさ。でも、それはその寝る間も惜しんで入ったその人にとってだけであって、その子が入った分本当に能力値の高いやつが入りそびれたのだとしたら、それは社会的損失でなくてなんでしょうか。 上位の学校というものは生徒を教育するとともに優秀な人材に必要な知識を与えて社会に送り出すという社会的使命を持っているのであって、いい学校をでて、いい収入といい社会的地位を目指すためだけに自身の能力以上のものを望む個人的欲求にその席を多く占められてしまうことはあまりにも惜しいのではないですか。 本当は個人それぞれの資質にあった勉強をし、資質に合った能力に見合った仕事をし、出来ないやつできないなり、その人格も社会的意義も認められて安心して暮らしていけていいはずなのに、今の学校の先生たちって、テストの点数が悪いと生徒をしかり、勉強を強制し、勉強しなければ、人生の敗者みたいな言い方するけれどね。 勉強するって義務じゃなくて本来権利のはずなのに、最近の学校は学習内容もけずりとられ、暗記ばかりが要求される。でも、勉強って覚えてるかどうかチェックすること自体にそんなに意味があるのですか。授業時間を年に五回もつぶして、定期試験なんかやってるけれど、そんな暇あったら、もっと有意義な勉強いろいろ教えて欲しいですね。 覚えているかどうかではなくて、何を学んだか、何を学ぶことが出来るか、何を考えたかなんだけど、こんなこと言っても、理想論になっちゃうんだろうな。 努力が評価されるのは学校社会までであって、社会に出れば評価されるのは成果だ。がんばったんですといっても、成果が出なければ評価されることはない。 そしてマタ自己の能力の限界を正しく認識することなく、成果が出ないのは自分の努力が足りないからだと己を追い込んでいくような思考回路が出来上がっていれば自身の能力の成果を出そうとして、自身の能力以上の努力をしてしまうものかもしれない。 それがおのれを追い込み、あるいは現代社会のうつ病ゃ精神的破綻もまた、それは人間がまじめできちんとして努力するからではなく、自身の能力を正しく認識を出来ないゆえのものであって、まじめなのがいけないわけじゃないし、うつ病などにならないように自信を追い込まないように人間はちゃらんぽらんに適当にいい加減に手を抜いて生きることがいい訳でもない。 人は正しく努力し、まじめに生きていく方がいい。社会の規律を守ってきちんと暮らす方がいい。 そしてそのために人は己の能力を正しく認識できる力もまた、持っていた方がいいでしょう。 まじめなのが悪いんじゃないよ。自分の能力をちゃんと認識して自分のがんばれる範囲ないでがんばることが大事なことなんだよ。そして、また、自分のがんばれるところまではやっぱりちゃんとがんばって余裕をもって生きていくことも。 それは個人の能力差によって差別されない社会。がんばり過ぎない社会、がんばれるところまではがんばろうととする社会。 おまえらばかだから、社会にでたら、社会の底辺で苦労するぞ勉強しないとろくなやつにならないぞなんて言い方学校の先生にさせたくない。 能力が低くても、勉強できなくても、自分の努力で出来るところまで働けば、安心して暮らせる社会。が欲しいよね。 そして、上のほうの学校でたからっていい暮らしが待ってるとはかぎらない。そんなことはどうでもいいのです。高い能力を持っているのなら、その能力をきちんと社会のために使うために、学校も社会も会社も組織もあるのじゃないのですか。 人間
2006年06月27日
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国家による法規制が厳しいって言うのは情けないことだ。どんどん規制がきびしくなっていくとなるともっと情けない。それは国民の幼児化だからだ。 たとえばものすごく田舎の誰もいない交差点で、もちろん車も一切通らないわけだけど、そこで赤の信号をあなたは渡りますか。 確か、レイ・ブラッドベリだったと思うんだけど、『火星年代記』の中で火星に移住した人々が立てた住宅の中でこのとき既に移住者達はいなくなっているんだけど、機械だけがもういない住民のためにいろいろな家事サービスを続けている。最後は火事になってしまったかどうだったか覚えていないけれど。 時々このシーンを思い出しては考える。 もちろん誰もいない交差点の赤信号はわたる。都会でも、車や人がいないようなところなら渡る。それはルールを守ることが大事なのではないということだ。ルールは人のためにある。車もまた、人が使うものだ。 ところで、違法駐車取締りが始まってはや、一ヶ月弱だけど、近くの道路は相変わらず違法駐車の車が多い。たった一台止まっているだけで、その車線が前後数メートルがオシャカになる。その車一台のためのその車線が使えなくなり、走行車は車線変更しなければならなくなる。駐車料を惜しみ、時間を惜しみ、路線上に駐車を続けるということは人の時間と公共の場を個人の私用のために盗んでいるのと同じことだ。たった一台の車のために多くの人の時間が無駄遣いされ、公共の土地が使われる。それが泥棒でなくてなんですか。 宅急便は大変そうだなあと思うけれど、二人体制になれば荷物の積み下ろしの時間も半分ですむし、その分停車時間も減るだろうし、二人ドライバーがいれば運転中に休憩できるのだから、アイドリングスリープなども減るはず。あまりに今まで効率優先でありすぎたのかもしれない。相当激務の仕事なのだから、もう少し働く立場を思えばいっそ二人体制である方が肉体的にも楽だろうし、ワークシェアにもなろうというもの。けれど、現場の当事者さえもが二人体制は大変だと危機として受け取ってしまうほど、効率優先の社会の常識が浸透しきってしまっているということなのでしょうか。 違法駐車取締りだけでなく、これからいろいろなところで方規制がどんどん厳しくなっていくのだとしたら、それは怖いことだなあと思う。 たとえとしてはなんだけど、偏差値の低い学校学校ほど校則は厳しい。レベルが上がるほど校則は緩やかになっていく。生徒自身が自らの判断で行動するに任せることが充分にできるからだ。 国民の社会モラルの低下にしたがって国の規制はますます厳しくなっていくとしたら、日本という社会はどんどん幼児化していると言うことか。違法駐車を不条理として怒る人々の頭の中には、個人の都合しかないのだろう。もう、それだけで精一杯なのだろうか。今いろいろなものがどんどん民営化され、それはもう国民を子供扱いする気はないよということで、日本の社会の成熟を目指しているはずなのに、その一方でこんな風に規制が厳しくなっていくという現実はどういうことなのだろう。 税金による助成にばかり頼ろうとする社会システムもまた、未成熟な社会そのもの。税金を打ち切られると聞いた途端に騒ぎはじめる日本の社会は一向に成熟の兆しもないのですか。本来税金に頼らなくても、国民によって出来上がったシステムによって成り立つ社会、税金の要らない社会システムこそが、目指すものなのだと思うのに、税金を取り立てることにばかり躍起になり、それはまさに、未成熟な政府そのもの。わが子を育て終わって、独立していくわが子を見送ることが出来る日は、とてもじゃないけど、きそうにないなあ。 でも、私もこないだ成田のインターチェンジで安全ベルトをしてなかったためにおまわりさんにチェックされてくやしーと思ったし、今学校が義務教育で授業料かからない状態だけど、それがなくなったらめちゃくちゃ困るナーと思っているんだから、やっぱり他の人たちと変わらない。 社会、社会問題
2006年06月26日
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北海道のとある町の高校で出会った二人は恋に落ちました。ごく普通の二人はごく普通の恋をして、ごく普通のお付き合いをしていました。ただ一つ違っていたのは、彼女は…兵器、だったのです。注 この漢字は ↑ 変換ミスではありません。 素朴な高校生の男の子とおとなしくてとってもかわいい女の子の物語です。 高校生のカップルなんてもう私くらいの年になるとひたすらかわいい。しかも、久しぶりに泣いちゃったのでした。でも、若い人がみるとそれほどでもないかもね。若くていいなあ。交換ノートとか、手をつないで歩いてたりとか。ちっちゃなかわいいプレゼントあげたり、もらったり。何で自分なんか好きになったのとか、か、かわいいよとか、 ああああああもう、もう一度高校生やりたい。 でもね。恋物語であるからにはやっぱりそこにはちょっとした恋の障害なんてのもあるわけで、このお話の場合は、それが 女の子が最終兵器だった。 ということです。 って…ちょっとなんてもんじゃないじゃん。むちゃくちゃだよ。むちゃくちゃ。こんな設定あり という訳で自分が兵器であることに傷つき悩む彼女と 彼女が兵器であることをどう受け止めればいいか悩む彼氏。 恋が愛に変わるのは、 やっぱり相手の欠点をうけいれ、認め、欠点まで含めて相手を受け入れてあげるかどうかです。 相手の欠点や悩みを一緒になって悩み、それを全てひっくるめて相手を愛せるかどうかです。 平和だと思っていた日本はいつのまにか戦争を始めていて、そのために彼女は自衛隊によって兵器にされていたのでした。彼女が人殺しをするという事実を目の当たりにした時彼氏はそんな彼女に対して、恐怖と嫌悪感を抱く。当たり前なことです。それでも、それを乗り越えて彼女を愛せるかどうか、まさに男の度量がとわれるむちゃくちゃ厳しい設定です。たとえば奥さんがチョー売れっ子アイドルだった、三浦友和とか、神田正輝とか。結構覚悟がいったと思う。 でも、この話の彼氏シュウジなんてその比じゃないもんねえ。 普通は男が兵士になって女は戦場にいった男を待つ。あるいは、ばけます。助ける。殺人をして帰ってきた男を受け入れる。けれど、この話の場合その設定は見事に逆であります。ただ、こういう設定は私が見るのは既に三例目なので、それほど意外でも、目新しくもないのですが。まず、去年話題となった『ローレライ』ヒロインは潜水艦の中に隠すように積み込まれた兵器でした。それから、新海誠のアニメ『ほしのこえ』近未来、宇宙からの侵略者を倒すべく戦士となって宇宙のかなたへと旅立っていく恋人とメールでのやり取りだけしか出来ない主人公の少年の思い。二人の心情を切々とつづった物語でした。そして、この『最終兵器彼女』 多分今の時代だとそれほど意外な設定ではないのでしよう。 それで、自らの体を兵器にされ、十代の女の子のもろく弱い心でいったい戦闘なんて出来るのかどうか。どこまでもちこたえられるのか。彼女の恋の不安と兵器としてのアンバランスな心情が微妙に重なり、絡まりあって、とてもせつない物語でした。 戦争がでてくるけれど、反戦とか、兵器や作戦がどうとか、そんなことじゃない。 ただ、自分の意思とは別のところで兵器にされてしまい、戦いながらも、自分の存在に悩み、恋に悩むちせ。やがて、彼女が兵器であることを受け止め、愛し、戦争の現実にとまどうシュウジ。 これは物語なので、もちろん彼氏は彼女を受け入れて愛し合った後、ちせはしんでしまうのだけれど。 けれど、もし自分の身近で、人殺しをしてきた人間を、許し、受け入れることができるものなのでしょうか。 第二次大戦後、戦場から帰った夫を妻達はみんな待ちこがれ、受け入れ、生活を始めます。けれど、戦争という過酷な状況の中で、娼婦となったかつての恋人を彼氏は受け入れたでしょうか。 今戦場にかりだされ戻った夫を私は受け入れると思う。けれど、戦時中にわたしが生活のために身を売ったと知ったら、夫ははたしてどうするでしょう。 イマドキのフリーな倫理観では、そんなことはたいしたことでもないのかな。 男にとって女は、娼婦である場合と兵器である場合とどちらがよりたえられない存在なのだろう。 あれ、おかしい。話がどうしてこっちの方にいっちゃったのでしょうねぇ。 話の設定は彼女が兵器ってとこだったんだけどな。 この話の場合は彼女が殺人をしているというところより、彼女自身が兵器だったところです。 原作はたぶん、もっと深く突っ込んで問いかけていると思うんだけど、原作、読みたいな。 そして、シュウジがちせをうけいれて、二人の愛が再確認されたその後でもなお二人を苦しめたのは、国家の都合で、個人の幸せが、権利が、人格が、人生が、なし崩しにされてしまうことなのであるけれど、原作者はあくまで二人の恋とシュウジの男としての度量を描きたかったわけなので、ここまでテーマを重く受け取っていいものかどうか。とは思うけれど、やっばり話のポイントはそこにいってしまうものなので。 以下、今実際に地球上でおきている個人を無視した戦争という現実を、私も転載させていただこうと思うのです。 ぼくは2人の人間を殺した。AK47と呼ばれる小型武器で。小型武器とは、ぼくたち子どもでも扱える小さくて軽い武器のことだ。でも、この武器は僕らの国では作っていない。ぼくが使っていた武器は外国から入ってきたものだった。ぼくらのことをチャイルドソルジャー(子ども兵)と人は呼ぶ。小型武器を持って戦う兵士だからだ。でも、2年前までぼくはふつうの子どもだった。家族がいて友達がいて幸せに暮らしていた。ある日、大人の兵士が村にやってきてぼくを連れ去った。ぼくはその日から兵士になった。ぼくは人の殺し方を教え込まれ戦場で戦った。逃げようとした友達は大人の兵士に耳を切り落とされた。ぼくの目の前で友達が殺されていった。女の子は大人の兵士に乱暴された。怖かった。家に帰りたかった。お母さんに会いたかった。運よく、ぼくは大人の兵士がいないときに軍隊から逃げ出すことができた。村に帰ってきたが、友達は誰もいなかった。ぼくはみんなに「 人殺し 」といわれ学校ではいじめられた。家族や親戚からも怖がられ前みたいな幸せは戻ってこなかった。悲しかった。寂しかった。あるのは絶望だけだった・・・。ぼくは何度も死のうと思った。そして、何度も何度も自分自身に問いかけてみた。ぼくは何のために生まれてきたのか?ぼくはなぜ生きているのか?ぼくは生きる価値がはあるのか?ぼくにできることはあるのか?「もし、ぼくに何かできることがあるなら、ぼくには生きる意味がある 」ぼくはそう思った。ぼくに何ができるか?「ぼくとおなじ悲しみを、子どもたちに体験させたくない」ぼくはそう思った。ぼくには紛争の「悲しみ」を伝えることができる。ぼくには平和の「喜び」を伝えることができる。ぼくには、ぼくにしかできないことがある。今、ぼくは先生になってそのことを伝えていこうと思っている。ぼくの夢は学校の先生になること。むずかしいかもしれないけどあきらめずに夢を追っていきたい。『ぼくは13歳 職業、兵士。』の本のウガンダの子ども兵からのメッセージより 何か感じられた方、何か行動に移す人は100人に1人といわれます。転載でも何でも結構です。その1人になってくれますか?[転載ここまで] 哲0701のところから、コピーいただいてきました。 これもまた、バトンの一種かもしれない。 日本映画、邦画
2006年06月25日
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異世界のライトに出会う。 以下ネタバレしてますので、映画観賞済み、原作全巻読破の方のみお読みください。 やっぱり例によって例のごとく原作と違うシナリオが入る。これなら原作どおりに作った『ダヴィンチ・コード』の方がまし。 まあ別にね、映画は原作とは別物なんだから、変えたっていいよ。でも、あの結末はライトというキャラクターをデスノートの原作のストーリーの中とは全く別のものにしてしまった。こうなると、後編はかなりの変化を予測しなければならない。 前編、後編と最初から分けて作っているけれど、デスノート全作を映画化しようとすれば、第一部、前、後編、第二部、前、後編と四作くらいになっちゃうのは原作読んでる人なら知ってることですね。 でもねどこまで売れるかわからない段階で最初から、第一部なんてナルニアのようなことも出来ないしね。ただ、ラストにあんなエピソードいれちゃったら、この後の展開にかなり影響しちゃうと思うんですけどね。 自分の彼女をデスノートで殺しちゃうような血も涙もないライトって原作とは違う。 犯罪者といえど、かたっぱしから、殺していくのだから、いくら正義と平和のためでも、かなり非情な人間だと思うけどね。ライトにすればFBIだって本音は殺したくなかったわけで、彼にすれば、犯罪者悪人だけがターゲットであるはずなので。 それでも、ライトは家族に対しては、かなり気を使っている。自分がいない時に家族がノートを発見しないような策も講じているわけで、そのためにもし発見されそうになった場合はノートが消失してしまう仕掛け作りがなされていた。 第二部で父親が死にそうな状況でもかなり気を配っていたように思う。 さらに、ミサミサに対しても普段はかなり冷たい感じだけれど、彼女の生死がかかった状況では、彼女のために随分気を使い頭を使い彼女が助かるような工夫もしている。 そういう原作の中のライトを考えると、映画におけるライトのキャラクターはものすごく非情な人間であって、彼が殺す犯罪者達と変わらないように思う。あの設定では、今後の映画の中でのライトはストーリーが進むに連れて、原作とはかけ離れていくか、あるいは矛盾をきたし始めてしまうのではないのだろうか。 一見いかにもやさしげに見える藤岡竜也が自分のガールフレンドをデスノートによって殺したことのわかるラストにおいて、そのやさしげなキャラクターゆえになおさら、怖いものがあった。けれど、あんなふうな怖さのライトはやはり原作のライトとは違う。 監督も原作とは違うエピソードを入れることを考えた段階でかなりの冒険であることは覚悟したらしいのだが。 でも、映画化にあたって監督にはもっともっと原作を読み込んで欲しかったのである。 特に南空ナオミの設定で、彼女がかつてエルの下で働いていたという設定をわざわざつけているところで、原作者大場さんのかなり細かい配慮があるわけである。ただの婚約者でも良かったはずだし、せいぜいFBI捜査官だったという程度でいいはずである。それを言うなら殺されたレイ・ペンバーもFBI捜査官であったわけだけれど、彼もまたエルの指示によって動いている仕事なわけで、二人ともあくまでエルサイドの人間であることを設定することで、ライトの殺人と彼なりの正義のぎりぎりのボーダーを踏み外さないような配慮がなされていると言える。 このあたりのボーダーをライトが踏み外すかどうかでストーリーの展開やテーマに大きなずれが生じてしまうのではないか。 監督が原作にほれ込み、徹底的に分析、理解した上で作った作品か、あくまで依頼されてとりあえず何とか形だけ整え、ストーリーを追ったに過ぎない作品なのか。所詮やっつけ仕事では、雇われ社長の会社とおなじで、日本映画がいくら予算をかけ、宣伝しても、今ひとつ傑作が生まれにくいという状況を推し量りうるのはこのあたりであるのかもしれない。せっかくベストヒットの話題の原作の映画化というチャンスをえながら、表面的な理解だけで映画化してしまう今の日本映画の状況こそが映画界低迷の原点であり、これだけの作品の映画化というチャンスを得ながら、型どおりの仕事に終わってしまっているようで、残念でならない。いつか、話題作の映画化において、ファンの理解をはるかに超えるような理解、解釈による映画化作品を見せてほしいものである。 さて、これから、映画はどうなるでしょうねぇ。 ところでLちゃん。しゃがみ方がへた。もっとすっぽり体中が柔らかーい感じで、胎児のまま大きくなったようなのりでしゃがみずわりして欲しかったんですけど。エルはもっと体細くて軟弱なかんじ。かな。テニス上手いけどね。 だってうちの子供たち見てるとそんなポーズでどうしてご飯食べられるのという感じてテーブルで椅子の上で両膝たてた状態でご飯たべてるんだもの。 今までお行儀悪いということで注意してましたけど、エルちゃん見て、まっイッカーと言うことで、放任です。そんでもってそういう子供達を見てるから、デスノートのエルの描写がものすごくリアルに感じるのです。それにしても、あのエピソードからさっすると、うっかりすると、後半はかなり改変して、ニアの出番もなく、ラストまで話がいっちゃうかもね。そんでもって案外、エルのほうがかってしまうかもしれません。うーん。どうなるライト!! いろいろ書いたけど、とりあえず面白かったから、後半も楽しみです。映画「デスノート」について語る
2006年06月24日
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今週の読売ウィークリーのコラムを読んでいたら、いつの間にか猫ギターセンセーの記事を読んでいるような気分になってきて、「はっこれはブログじゃなかった。雑誌のコラムだったっけ。それじゃあえっと誰が書いてるんだ?」と思ってよく見たら、今話題の茂木健一郎だった。そうかこの人が茂木健一郎だったのかあと言うことで、猫ギターセンセーと茂木健一郎サンは同一人物なわけないか。 というわけで、そのコラムは夏目漱石の話から始まって、漱石先生がいかに自分の小説の中で自分を諧謔(かいぎゃくって読むんだって。なんだか難しい言葉だよねえ。でも、茂木センセーが書いてたから、そのまんま。私のボキャブラリーにはぜんぜんこんなのないわ)して書いているか、に始まってクリエーターはいかに自己批評が書けるかというくだりですっかり猫ギター先生のようなきになっちっゃてね、イヤいつも猫ギターセンセーがブログでこういうこと書いてるんだもの。 それで茂木センセーはなんと恐ろしくも大胆なことに自分が教えてる芸大の生徒達に授業でそれをやらせたんですね。もちろん自分の自虐文を最初の例文にしてるけどね。 そこまではまだいいとして、それを更にクラス全員の前で、それぞれ全員の作品を読ませたって言うんだから、ぎょえーーーーっていうか、私が生徒だったら、そういう時は休むか、おなか痛いとかいって逃げ出そうかなあ。 だってその授業ではシーンとなって、大爆笑があってその後、泣くやつまでいたって言うし、さらにその後生徒は呆然として立てなかったっていうんだから、やっぱり自分を人前でさらけ出すことって難しいし、大変なんだねえ。 しかも更にその上、こういうのをプロの作家にもやらせたいねえなんて言ってるんだから、プロでもなかなかできることじゃないのかぁ。だったら私に出来るわけないじゃん。よかった。よかった。てこともないか。 多分来年は先輩からの情報でこの授業はふけられるか、一時間目だけはずされるか、いっそ取るの止めるかも。それとも、あの授業はいいぞーという先輩達のお勧めで人気授業になるかもしれない。 最後の締めは、政治家オチでやっぱりそうなるのかーというコラムでした。 夏目漱石も既に古典です。ていうか、近代国語って新しい科目でも作ればいいのにと思う今日この頃。文部省の人読んでますかぁ。雑誌
2006年06月23日
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先日の遠足でトラブルがあったので、そのあたりが話題の中心になってしまった。 クラスの中の一つの班がちょっとした規則違反が見つかったために、班行動による見学中止になってしまったのです。結局その班はお土産すら買えず、駅で他の班が戻るまで待つしかなかったらしい。 その後、二日後に学校で担任からも注意が入り「こんな風にルール違反がでると、来年の修学旅行で班行動させられなくなるよ」と説教されてその班の子供達はかなりこたえたらしいのです。 とにかくその班の子供達の親御さんが、今回のことで子供がかなり心理的にダメージを受けたことを訴えていたのです。子供達は遠足から帰ってくるなり、泣きまくりだったとか。 先生にすれば遠足当日はそのままになっちゃって、その次の日は教師サイドに用があって、仕方なくその次の日になったらしいのですが、子供にすれば三日もかかって怒られるのはたまったもんじゃないということで、まあ、それもそうかなあと思わないでもないけどね。 たいしたことないと言えばたいしたことないし、この程度のことでここまで厳しくするのもどうかとお母さん達は訴えていました。 確かに今回のルール違反はたいしたことじゃないけどね。それと修学旅行のことを持ち出されたのがさらに混乱の元になっているようですね。 先生にすれば、全体のことを考え、トラブルなく、規律正しく、自分たちで責任のとれる行動ができるかどうか歯とても大事なことなわけで、それがひいては遠い関西という旅行先での行動にもつながってくるのです。そして、生徒になにかあったら、たいへんですから、引率する責任もあるし、ほんといえば班行動より、全体行動の方が監視もきいて先生にとっては楽なんだけど、それでは子供達の自立性や、責任感や、行動力、判断力が育たないわけで、だから、ある程度の大変さと危険性を覚悟の上で子供達に班行動をさせるわけで、内心ひやひやものだと思うのですけどね。 でも、親にすれば、この程度のことで楽しいはずの遠足がおじゃんになったということが、そしてわが子がビャンビャン泣いたことが納得いかないようで、保護者会はたっぷりと盛り上がりました。 ルール違反は確かにいけない。 しかも、この程度のことでと思えばなおさら。 でもねじゃあ自分が納得しない規則はやぶってもいいのですか。自分が納得しないことは守らなくてもいいのなら、それって何のためのルールですか。 それでも、お母さんの中には、「他にもやってる子がいたのに、何で自分だけこんな目にあうんだと言って、子供が怒っていた」と言うのですけど、何で、親が子供のこんな意見に同調しちゃうんだろう。 ルール自体が納得いかないのなら、改変してもいいとは思うけど、それはその後の話だと思うのですね。こんなルールでも、学校サイドが許し始めるときりがなくなっちゃうと思うんだけどね。 ところでこんな場合、親はどうすればいいかと言うと、わたしなんかだと、「ばかね。なんで、先生に見つかった段階でガム飲んじゃわなかったの。」と子供に言うと思う。今回話題のルール違反ていうのは、まあどうってことないことなんだけど、遠足の見学中に歩きながら、ガム噛んでたってだけのことなんですけどね。 「そういう時は口開けろと言われたら、あるいは見つかったその段階で、飲んじゃうのよ。証拠が無ければ向こうだってどうしようもないんだから。」と言うかもしれない。こういうのは現行犯ですからねえ。 まあ、悪知恵ってやつですね。悪知恵を親なんかが教えていいんでしょうかねえ。昔だったら、子供の中でがき大将が教えてくれたり、先輩が教えてくれたりしたんだと思うんだけど、いまどきそんなの期待できないし。 ルールを守るのは大切なことなんだけど、じゃあルールどうりにやってていいかというと必ずしもそうはいかないもの。ルールってのは最大公約数を基準にして作られているものなんだから、個別には事情的にかみ合わない場合だってあるわけで、だから、そういう時はルールといえども、くそまじめに守ってもいられないもの。戦後配給の食糧だけでいたら、ぜんぜん足らなくて死んじゃった人がいたように。多くの人が闇で食べ物を手に入れたり、買い出しに行ったりしたものだ。 でも、やっばり決まりは決まりなので、おおっぴらに破っちゃまずいものだ。それで、ルール違反をする時は見つからないようにやるんだよと親としては子供に教えなきゃならない。それは何も悪いことしなさいと教えてるわけじゃなくて、時と場合を的確に判断し周りのことを良く考えて行動するこつ、生きていくためのコツの伝授なんだろうかと考えてみたりしたのでした。学校の中では校則を守ってまじめに過ごしても、社会に出ればそれだけではすまない微妙な裏ルールや融通を利かせる気配り、配慮もまた必要になってくることを、親もまた知っているからだ。 それで、うちの娘の班も実はお土産に買ったお菓子を食べてたんだよと娘が言うのです。 それでも、一応見つからないように気を配り、場所を選定するくらいの知恵はあったらしい。見つからないようなところを選んで、さささーっと食べちゃってたらしいです。 あらあ、たのしそうねーと母は笑う。 おかあさんいいのーと娘が不可解そうだけどね。 いいのさ、そんな風にして生きる力をつけていくんだからね。 イマドキの遠足は楽しいためのものじゃないと私は思うわけです。生きる力をつけるための勉強の一端です。遠足は気晴らしで行くんじゃないんだな。でも今回、楽しく遠足が出来なかったことがお母さん達にとっては納得いかないわけで、私はこういう蜂蜜菓子のような甘ったるさたっぷりの母親だらけの保護者会にいつも胸焼けしそうになるんだけどねえ。うちの子がかわいそうのオンパレードなんだもんナ。こんな風に母親がかわいそうを振りまき始めた時、「何いっテンダーそんなに子供甘やかしてどうする!」と一喝してくれるのが男である父親の役目だと思うんだけど、イマドキのオトーサンたちは奥さんと一緒になって「うちの子がかわいそうだー」とか言って二人そろって仲良く校長室あたりに怒鳴り込んできたりするんだもんねえ。 まあそれはいいとして、うちの娘は「遠足イヤだあ、いきたくない。だって班の中に仲のいい子いないんだもん。風邪ひかないかな。お母さん遠足行くのやめちゃだめ?」とか言ってましたけどね。 「社会にでてから、自分とあわない人たちの中に入って働かなくちゃならないこともあるんだから、練習だと思っていきなさい。」と諭して行かせましたけれど、いざ、行ったら、結構楽しかったらしい。特にこっそりお菓子を食べたことなんかがねえ。規則破りは楽しいからなあ。 それにしても私なんかは人の中で上手にやるなんてぜんぜん苦手で、人間関係もへたくそで、責任感も協調性も無いのに、さもえらそうに子供に説教しなきゃなんなくて、そういうところが親ってやつのつらいところだな。 あー背中がむずむずしちゃうよぉ。中学生のパパママ
2006年06月22日
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フカキョンのロリータがいまいち。 ロリータ少女とヤンキー少女という女の子の品種の対極にある二つのパターンである二人の友情を描いた物語。 全く対極の二人が仲良しというのが話のポイントだと思ってたんですけど、実際にはこの二人はそっくり。二人とも茶髪だし、しかも、二人ともそれぞれに、電車の中や人ごみの中で絶対目立つ、そして必ず回りの人たちがひくようなその道独特のファッションによってそれぞれの所属する分野を無言のうちに主張しているのである。 それゆえ、友達を作れず、人とのかかわりをうまくとれないという、その状況の中で、それぞれが見つけたその世界の中で自分なりの存在の主張をしようとする姿そのものなのである。 そういう意味でフカキョンのロリータはもの足りないというか、ロリータになりきっていない。ロリータファッションはしているのだが、ロリータの真実を語っていない。フカキョンのロリータはやけにきれいで、その立ち姿は美しすぎるのである。どうみても、服としてただ着ているだけであって、ロリータになりきっていない。ただ、言われたままにきているだけで、ロリータになりきっていないのである。だから、見ていてもきれいではあっても、ロリータファッションが訴えようとしているものを、フカキョンは演じ切れていないのである。 ロリータであれば、もっと姿勢は悪いのではないのかなと思うのだけれど、フカキョンはあまりにも姿勢がよすぎる。着こなしがきれい過ぎるのである。自分の居場所を見つけられず、自己の存在を上手く表現できない少女達が見つけた、女の子としての自分の存在価値を、過剰なまでに目立つであろう衣装によって主張しているのである。だから、少女たちの衣装の中の真実はとても遠慮がちで自信のないものであるはずで、そういう自信の無さ自己存在の希薄さをロリータという衣装を借りて主張しようとしているのだけれど、フカキョンの場合は彼女自身の存在感が有りすぎて、ある意味ファッションの方が彼女に着られてしまっている、負けてしまっているのである。映画としての美しさを優先することで、洗練されすぎてしまっている。たぶん、本当はもっとごてごてしたものなのではないのだろうか。 ロリータの異常なまでの衣装が下妻物語の最大のポイントであると思えるので、このやけにきれいですっきりしすぎているロリータ少女というのはたぶん、下妻物語の真実を語りきれていない。 それは、一見対極にみえるヤンキー少女の衣装と実は同質のものなのだろうと思う。上手く表現できない感情を、自分の衣装に縫いこんだ華美な刺繍によって代理表現しようとするイチコのヤンキーファッションは、ロリータと同じ行為なのだろう。だからこそ、全く異質なはずの二人がお互いの中に共通のものを感じ取って、接近していくのだろう。 しかし、映画の中でなぜイチコが全く自分に興味をしめさないモモコ(フカキョン)の家に頻繁に訪れるのか、その心情が語られていない。 それがただ面白おかしく描かれてしまっているだけのものとなってしまっていて、映画としては確かによくできているし、面白いし、フカキョンはかわいいし、最後のハッタリも気持ちいいのだけれど、そこに至るまでの二人の心理を描ききれていないのだろうなと、きれいすぎるフカキョンに違和感を感じながら観賞しました。 学校という規定された世界の中で表現できなかった自分という存在を、ロリータあるいはヤンキーというファッションによって始めてその方法を見つけ出し、自分と共通のものをもつ同胞との初めての出会いにより、意志の疎通自己表現の何たるかをお互いのかかわりの中で学び始めた二人は、やがてラストでは、今まで自分達を表現するためのツールとなっていたファッションを乗り越えて、初めて自分を主張するすべをみにつけることが出来たのである。 だから、イチコは族を抜けて、一人で生きることを決める。 意志の強い外見のファッションからは想像もつかないほど自分をはっきり打ち出していくモモコ像を描いている監督の解釈と私の下妻物語解釈はかなり違ってしまっているみたいですね。 あまりに悲惨な幼少期の中で、モモコはものを感じるという部分を閉ざし、何事にも無関心になることでその苦痛に耐えるすべを身につけている。そのモモコが唯一興味関心を示したのがロリータである。そして、趣味として持っていた刺繍という能力によって彼女はその存在を認められる。自分自身の価値存在を社会的に認知されるにいたって彼女はロリータによる自己表現から一歩進んで素直に好きなものを好きだとして、自分の中に素直に取り込むことになる。 下妻物語は、単なるコメディではなく、現代日本の若者の心理、その結果現れる、ファッション、自己表現としての暴走族の有り方を私達になんと上手く語ってくれている作品なのだろう。 日本映画、邦画
2006年06月21日
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一人で遊ぶのがこんなになさけないゲームは始めて だってたいがいのRPGゲームは主人公の他に何人かいて、複数でチーム作って戦うのにさ。ファイナルファンタジーの普通のシリーズだって基本的に三人なのにさ。このゲームはたった一人で並みいる敵をやっつけなくちゃいけないんだもの。寂しいよー いやね。ほんとはね、子供にたのめばマルチモードでもう一人登場して一緒に戦ってくれるんですけどね。でも、そのためにはゲームボーイアドバンスがなければならない。いくらなんでも、もうそんなもの買い足すほどの年じゃナーい。第一こんなゲーム一つのためにあんなもの買うなんて敵の術策にはまるみたいで悔しいじゃんかよ ゲームボーイアドバンスがないと複数プレイはできない。きいいいいい。悔しい。 おかげでどうしても、レベナ・テ・ラの宝箱が取れない。くうううぅぅぅ。 だから寂しく、一人でがんばるしかない。いや正確には二人です。というのは、一応一人だけどモーグリが一匹、サポートしてくれるので、一人と一匹の冒険の旅なのです。でも、戦闘にはほとんど役に立たないんだよね。それでも、がんばったのよ。なんとかかんとかクリアしたのよ。 なにしろこのゲームRPGじゃないんだよね。アクションアドベンチャーなんだよね。だから、モンスターと戦っただけじゃレベル上げできない。ボスをやっつけないとアーティファクトがとれない。だからなんども、なんども、ボスをやっつけて、アーティファクトを集めないとステータスが上がらない。 ダンジョン系に似てなくもないですね。宝箱アイテムはがんがん手に入るんだから。でも、制限があるからどんどん捨てなきゃならないし。とにかくラストボスクリアのためには魔法ステータスを上げることをぬかってはならないのだ。ところで攻略サイトでは、選ぶ職業として一番に錬金術師があげられていますが、実際には究極武器のレシピが手に入る頃には、同じくらいの強さの他の武器のレシピが手に入るし、究極武器を作るための材料を手に入れるのは結構大変です。その上ラストボス戦は魔法ステイタスがものを言うので、攻撃力を上げることを考えるより、魔力をあげるそして、防御力を上げることですね。私的にはアイテムやさんの方が便利でした。だって、アイテムが他のところより安いし、品揃えも抜群なのです。基本的にこのゲームはがんがん魔法を使って欲しいという感じで作られていましたね。それと、魔法のステイタスが低くても、魔石を三つ合成すると、ものすごく魔力があがるので、なかなか豪快でよかったのです。だから、基本的に魔法を駆使した攻略を作戦の基本にした方が面白いし、後半になるほど有利になると思う。もっとも、私は最初はリルティを選んで武力をあげるほうを選んじゃったんだよね。おかげでラストボス戦で苦労しました。魔力を挙げてもう一回別キャラでチャレンジしようかと思ってるところです。魔力をあげてトンベリを倒すのだー。 それでは、これから攻略を目指すかたはがんばってね。 絶対多人数の方が楽しいよぉファイナルファンタジー
2006年06月20日
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久しぶりに数学の授業を受けて、中学生に戻ったみたいで、楽しかった。 土曜日は中学校の公開授業で、しかも、今どきは一日のどの授業、どのクラスを見学してもかまわないので、いろいろ楽しいところですが、私は律儀に娘の授業を見に行ったのでした。公立は学校公開なので、保護者に限らず誰でも、覗いて、見学して、文句つけて、いや、感想言ってかまわないのです。 前回は社会と英語見たから、今回は数学にしよーっというわけで、数学の授業を見に行きました。 イマドキの学校は二クラス合同にして、それを三つに分けて、体育で空いた教室や特別室も使って、少人数制だったり、能力別編成だったり、公立ナリにいろいろと考えているみたいです。授業が始まって娘のクラスを覗いたら、娘がいなーい。よそのお母さんに聞いたりして、隣のクラスを覗いたら、そこにいたのでした。 少人数制なので、席が余っておりまして、先生様が「おかけになってご覧ください」とおっしゃってくださいましたので、私はアリガターク最後尾の席に座って見学しました。 何が辛いって根性と体力のない私には、たった一時間弱立ってるのも辛いので、授業参観は難行苦行でもあるんだな。 でも、今回は珍しく席に座る事が出来たので楽しく、快適に授業見学です。 ちょうど中二の一学期後半。数学はちょうど連立方程式です。そこに文字式が加わって、加減法と代入法で子供達が順繰りに解いていく。 黒板に書かれた問題を見ながら、私も一緒に考える。その後先生の説明も入って一緒にふんふんと聞きながら勉強です。なんだか、中学生に戻ったみたいで、面白かった。 最後の問題はx、y、a、b、四つの文字が入った四つの方程式を解いていく問題。ほうほうほうほう。段々問題がこみいってくる。こんな風に順を追って難しくなっていくんだ。よね。 ところで、最後の問題は、Yの数値を代入しなくても、解けるみたいだったんだけど、先生はその当り説明しないのかなあとか、ここで口出ししちゃいけないのかなあとか考えちゃったよ。 授業参観で外部者が授業に口出ししちゃまずいですね。 生徒は静かーに黙々と問題解いてましたけど。いやホント静か。全員前向いてきちーンと座って先生来るの待ってるんだもん。 いやいやいや、私も授業参加しちったよ。もう一回連立方程式勉強しました。 ところで方程式ってすごいよね。ルールをきちんと覚えてそのとおりに解けばちょっとくらいバカでも、ちゃんと答えが出るんだもんね。受験算数なんて頭使わないと解けなかったから、大変だったけど、中学の数学って結構楽だな。 大概の人が解けるようにきれいにシステム化されてるんだから、方程式ってすごいかも でも、解き方みてるとね、その子ナリの性格が解き方にもでててね、面白いのよ。もっと工夫すれば楽に解けるやり方あるはずなのに、習ったとおりにそのまま解いててちっょと融通きかなそうだなあとか。 暇だったから、当然生徒の様子もチェーック。って娘みてたら、右手がせっせと前後に動いてて、ケシゴムかけてるのばればれ。計算間違えまくってるっしょ。しょうがないなあ。 そんでもって午後は保護者会でした。 うちの長男が映画のエルに似てる(気がする)。うんちずわりでご飯食べるとことか、たってるときは、頭だけ前でてるとことか…。外でないから、色白のとことか。髪の毛も伸ばしてもっとそっくりにしよう♪中学校でも、デスノートの話題は盛り上がってるらしい。早く映画見たーい中学生のパパママ
2006年06月19日
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私の視力は未だに両方とも1.5なのに、うちの二人の子供達は中学入ってからこっちがんがん視力を落としてくれて、なんでだそりゃーもちろん夜更かしばっかりしているからさ。それで、今年も娘は健診で引っかかって緑色の紙を渡されて、眼科に行ったのでした。黒板もよく見えないし、いい加減めがねか、コンタクトだなあと思ったのにちょっくら医者の話は先にすすまない。しかも、こないだなんて、視力検査の結果が前回と全く違う。悪かったはずの方の目が良くなって、もう一方の方が悪くなってる。あれー視力って一度わるくなったら、もう戻らないはずなんじゃ。それで、薬をもらって、数週間後にはかり直してと言われていってみれば、じゃあ今度は精密検査だけど、急いでもしょうがないし、夏休みにでもしようとか言われて、いったいコンタクトはいつ出来るんじゃ私自身は目がいいので目のこととか、眼科のこととか、めがねのこととか、コンタクトのこととかとにかくよくわからん。んーーーーーーーーー。医者変えても同じかな
2006年06月18日
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二段のお弁当箱使ってますか。うちは最近、私の気分で、家にあった二段のお弁当箱を使い始めたんですけどね。このお弁当箱。主婦なら大概この手のものが入れこ式になってるの、知ってると思うんだけど。つまり、上のおかず用の部分がちょうどぴったり下のご飯用の方に入れることが出来る。だから、おべんとを食べ終わったら、おかずの部分をご飯を入れた方に入れてふたをすれば、カバンの中に占めるお弁当箱の体積はほぼ半分になる。帰りは軽くもなるし、場所もとらなくなる。こーんな風に二段のお弁当箱は便利にできているのだけれど。 先日長男にこの話をしてみた。「これ、上のやつを下に入れればほら、半分になるのよ。知ってた?」と聞いてみた。ぜんぜん予想だにしなかったそうです。「だってこれ物理だよ。数学の立体図形の実生活における実用なんだよ。形みただけで、想像つかない」と聞いてみた。だめみたい…。ちなみにダンナにも聞いてみたがやはり「ぜんぜん知らなかった」だそうだ。以前だんな様もこのおべんと箱使ってたんですよ。うーん。学校行って何勉強してるんでしょうね。同じ形同じ比率の二つの立体図形を毎日目の前にしてて、入れ子を想像しないんだろうか。 昔、私が子供の頃はよく新聞なんか使って折り紙で遊んだんだよな。折り紙で作る箱ってあるでしょ。それを新聞なんかで小さいものから大きいものまですこしづつ大きさを変えていーっぱい作るの。それを小さいものから順にふたして重ねていく。ロシアのマトリョーシカもこれなんだよね。思えば子供の頃、子供達にこういう遊びやってあげてなかった。うーん。ぬかった。ちっきしょー。日本の伝統文化的あそびのなかにもこーんなすばらしい教育グッズがあったじゃないか。 ちっこういうやつだけど、うちのはもちろんアンパンマンじゃないです。ミッフィーちゃんの方がいいや。男の子だから、こんなかわいいのは使ってない。メンズです。普通に。
2006年06月17日
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多数決が正しいとは限らない。最近は日本の総理大臣も国民投票にしようという動きがありきすが、それはそれで怖いものがあるなあ、と素直に賛成できない私です。 昨日の昼間のテレビで見てました。今リメイクで『ポセイドン』やってますね。そのもともとの作品でいまから数十年前、今の『ダヴィンチ・コード』くらい騒がれた映画です。 豪華客船の転覆。豪華な客船が地獄に変わる。うーん。パニックアドベンチャーだよね。今見るとそんなに映像的な細工はないねえ。迷路のような船内を地道に進んでいく主人公達。 リーダーって辛いよね。どんなにがんばってもちょっとミスすると叩かれちゃうんだもの。 大体自分の命かかってるのにみんなそれぞれに勝手なこと言い放題。ま、ドラマだからね。みんないい子で素直にリーダーの言うこと聞いてたら、話が面白くならないものねえ。それでもね時間ないのによくこれだけみんなわがまま放題いうよなあ。 最初のシーンで船のパーサー(もう一人の牧師さんだったかも)が乗船客達に「このままここにとどまるように」と言います。主人公の牧師さんの「ここにこのままいたら危ない。船底目指して逃げよう」という必死の叫びに従う人たちはごく少数。ほかの人々はその場に残ってしまいます。 その次にドクターに従って船頭を目指している人たちに出会います。同じように主人公は船尾の機関室を目指す方が正しいと叫ぶのですが、誰も聞いてくれません。それどころか、主人公の牧師さんと一緒にここまで来た人たちまで、ドクターについていくほうがいいのではないかといい始めます。 一人でさっさと逃げた方が早いんじゃないのと思うんだけど、それでも、牧師さんは自分の考えを信じて機関室を目指します。途中水中でドアにはさまれて動けなくなったときに助けてもらってるから、やっぱり一人より大勢の方がいいかもね。機関室を目の前にして、三人目の死者が出てしまいます。妻を失った男の怒りに対して、とうとう牧師さんは最後の血路を開いた挙句、自身は自殺してしまうのです。民衆を導くリーダーの立場ってつらいよなあ。 最後は結局、機関室にたどり着いたこの数人だけが助け出されるのです。 つくづく多数決が正しいとは限らない。でも、牧師さんの訴えもパワー不足でしたかねえ。 パーサー、ドクター、牧師、この話の中では、三人の指導者が登場します。 一番指示を得たのはパーサーですが、彼に従った人々はあえなく死んでしまいます。次のドクターに従った人たちも結構いましたが、結局助からなかったようです。牧師さんの意見は今ひとつ説得力が薄いのですね。正しいのだけどね。彼に従いながらも信じきれない同行者達。 誰の意見が正しいのか、判断するのは難しい。自分が支持した後でも、牧師さんに対してなお信じきれずに、鞍替えしようかとか、自分を助けようとしてくれているにもかかわらず、反論してみたり、なかなかどうして迷いまくりですね。 多数決が正しいとは限らない。今までみんなが選んだからという基準で選んでいたのだとしたら、これからは何を信じて選んでいけばいいのでしょうねえ。自分で決めるしかないんだけどねえ、自分の決断自身も信じられないとどうしましょうかねえ。 『マイノリティ インフルエンス』という言葉を最近知りました。「1人が一貫して自信満々に意見を言い続けると、他のメンバーはそれに引きずられる」 ということなんだそうです。これからはこんな考え方も増えていくのでしょうか。多数決は正しいとは限らないけど、マイノリティでも、やたら自信ありげだからって信じていいってものでもないと思うんだけどね。 でも、この牧師さん、ちょっとこの自己主張が足りなかった。この頃はまだ人の支持を多く得られない意見というのは、そこにやっぱり遠慮があったのでしょうねえ。多数決が絶対だったこの頃はまだ、多数の賛同を得られないと、自分では正しいと思ってもやっぱり声を大にして主張し切れなかったのかもしれない。 今度の新しい『ポセイドン』は新作シナリオだそうですが、テーマは全然違うんでしょうか。 マイノリティインフルエンスがそろそろ市民権を得始めた今、『ポセイドンアドベンチャー』を作り直したら、助かる人は増えるでしょうか。 時間も限られる究極の状況で人々の支持を獲得するのは、政界で国民の支持を獲得するのと、どっちが大変なんでしょうね。 外国映画、洋画
2006年06月16日
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おもしろかった。そしてけちのつけようがないくらい全体のバランスがよかった。『花よりもなほ』公式サイト 岡田准一いい男だね。男前で。私もあんな美少年の息子欲しいなあ。彼氏と思わないところがみそです。道場のあととり息子のはずなのに剣術がさっぱりだめで、それなのに父親の敵討ちしなきゃならなくて、でも、やっぱり決断できなくて、そのあたりの微妙の気持ちがとてもよく伝わってきました。 あとは武士の未亡人役の宮沢りえちゃんもよかった。貧乏長屋に住んでるんだから、やっぱあのくらいやせてないとね。でも、やせてて、ほそいけれど、貧乏暮らしをしているけれど、それでも、武家の妻としての品格があって、にもかかわらず、貧乏人ばかりの長屋の中で浮いてなくてなじんでて、そのあたりすごく上手かった。 当時の『敵討ち』ってところがお話のテーマなんだけど、主人公は剣術も下手だし、第一自分自身はあんまりうらみとか怨恨とか抱えていないんですよね。本来は肉親を殺されて悔しい。そういう恨みの情をずーっとひきづりながら、あだ討ちをするわけなんだけど、この主人公は死に際の父親にあだ討ちしてくれるように言われて、どっちかっていうとしかたなくアダウチをしようとしている。見てるとどうも本人自身はそれほどやりたくないみたいだし、それほど恨みをかかえている様子もない。この当時の社会通念として、長男としてやむを得ずという状況になっていて、本人としてはどうしたものかなあと思ってるみたい。しかも父親とはそれほど愛情のある親子関係でもなかったみたいなのでなおさら。状況としてやらざるをえないけれど、自分としてはそんなに乗り気じゃないし、じゃどうすればいいのかなあと悩んでいくのですね。 その一方で、やはり夫を殺されあだ討ちをしなければならないはずの、未亡人の宮沢りえちゃん演じるところのおさえは、もうアダウチをすることに疑問を持ち始めている。アダウチをするためには恨みをもちつづけなければならないし、でも、どんな感情だって時間がたつと薄れていくもの。その感情を薄れさせないように維持していくというのは、どうしてどうして大変なんじゃないかと思うのですけどね。そんな感情の維持と恨みの感情を維持させるためにエネルギーを使い人生の時間を埋めていくことにおさえは、むなしさを感じ始めている。だから、いつまでも、アダウチにこだわってうらみつらみを維持していくよりもその感情をもっと別の意味のあるものに変えていきたいと彼女は言う。 敵を見つけて、けれど、敵の相手の日常を見ているとどうしても、それをぶつ壊すようなことをする気になれない主人公の青木宗左衛門は、偽装芝居をすることで自分のアダウチに決着をつけます。 アダウチを否定すると言うのは当時の時代の価値観ではありえないことなので、主人公達にするとコペルニクス的転換だったのじゃないのかなと思うんだけど、これは現代人が現代の価値観で、その価値観の変容を、江戸時代という設定を使って描いているものなので、なんと申しますか。 おりしも時代は元禄。このあと、まさに赤穂浪士の討ち入りがあるんだけど、長屋の人たちに言わせれば、そしてこれはまさに監督自身の言葉なんだろうけれど、「とっくに引退、隠居したじいさんの寝込みを襲うようなせこいこと」に過ぎない。 そのせこいことが、当時のマスコミによって美化されてしまったということだ。 赤穂浪士の話自体は、当時のお芝居に取り上げられ、そのシナリオのおかげで徹底的に吉良上野介は悪者という描かれ方をしてしまった。そのために、吉良が悪者扱いされてしまっているけれど、実際にはそれほど悪いやつでもなかったと言う説もあるわけで、芝居小屋って言うのは当時のマスコミそのものなんですね。マスコミってのは真実とは別のところで審議を決定しちゃうような怖いところがあるのはいつの時代も同じですねえと思うんだけどね。 それで、自分のアダウチにけりをつけたそのすぐ後に赤穂浪士の討ち入り事件でアダウチの価値がたかまっちっゃたりして、どうする主人公、とか思ったんだけど、たったひとり、プライドのために死ぬことよりもわが子に生き方を教えたいがために討ち入りに参加しなかった浪士が一人だけいて、アダウチなんかよりも、もっと未来のこと考えなさいよというメッセージなんでしょうね。 主人公宗左衛門のアダウチは敵の子供のちょっとした行動から、変化していく。まさに閉鎖された空間の中の呪いの感情は、全く新しい存在によって解放されるという結末なのである。 そこには「許し」というものがあって、でも、普通はなかなかわかっちゃいても出来ないことです。恨みを許しに変えると言う事は。 ところでこの話に出てくる長屋がすっごーく汚いんだよね。今までの時代劇の比じゃないんですよね。すごく汚い。ほんとにこんなとこ住んでるんですかというくらい汚い。今にも壊れそうなんだよね。実際話の中で大家さんは改築計画立ててるしね。そんでもって、この長屋に住んでる人たちも汚い。多分みんな着る物は一枚しかなくて、しかもほとんど洗濯なんかしない着たきりすずめなんだろうね。だって主人公からして汚いもの。それでもね、おさえさんなんかはまだきれいな格好してまして。だんなもいない未亡人がどんな収入で暮らしてるんだろうかとすごい不思議だったんだけどね。 ただ私は現代日本の異常なまでの清潔志向が嫌いでして。だから、この映画の中で長屋の人たちのスペシャルな汚さがかえって気持ちよかった。現代社会は異様にきれい好きで、ちっょとでもきたない格好しようものなら、大変でして。あるいはつぎはぎの服なんてイマドキありえないし、アイロンもかかってないだけでも、裏でどんなこと言われるかわからないような今のご時世が私はきらいでして、傲慢だなあと思うのです。いつも。 そして南米とか、今の先進国以外の国は今でも、この長屋のような暮らしの人たちがたくさんいるのに、ちっょと靴下に穴の開いてるのでも発見されようものなら、なんといわれるかわかったもんじゃないような現代日本の傲慢さが嫌いなんですよね。わずか数百年前は日本だってこんな暮らししてたんだよね。そういうこと忘れすぎてませんか。 で、この長屋の汚さが今までにないほどリアルでよかったんだけど、これはほんとにリアルなのか、リアルに見えるように描かれたリアルっぽくみえる表現に過ぎないものなのか。 監督によると、911事件がこの話を書くポイントだったそうですけどね。恨み、怒りの連鎖は断ち切ることは出来るのだろうか。と、監督は問うているわけです。 最初はちょっとした意識のずれに過ぎないものが、感情の応酬の繰り返しによってどんどん増幅されていく。その増えすぎた感情は、いったいどこでどうやって断ち切ればいいのか。 腹が立つからやり返す、自分の身を守る。 でも、そんなことどうでもいいじゃん、そんなことよりもっと別のことに夢中になろうよ、と主人公にそして、観客に問いかけるのは、おさえという女性です。新しい命を生み出すことの出来る女性だからこそ言える言葉なのでしょうか。 けれど、かたきの子供に手習いを教えたいと考えるに至った宗左衛門の心の中にもまた、生命とは別の、さらに新しいものを生み出すことの出来る何かが、芽生え始めていたのでしょうか。 花よりも なほ 美しき その 心かな 日本映画、邦画
2006年06月15日
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ここは、一応東京23区内なんだけど、私がお嫁に来た頃はまだ、あちらこちらに菜の花畑があって、のんびり散歩しながら、きれいだなって見てたんだけど、わずかニ、三年でみんな駐車場になっちゃったのです。おりしもバブル花盛りの頃。そしてその後、その駐車場は数年のうちにどんどんアパートに成り代わっていったのです。そして、車どおりの少なかった道路の交差点にある日信号が出来て、ありりと思っていたら、どんどん車が通るようになっていった。お店が少なくて不便だなと思っていたら、コンビニができて、そのうちもう一軒できて、おお!!と思っていたら、激安スーパーが我が家の斜め向かい窓から見えるところに出来たのです。便利だ便利だと思っていたら、お隣の桜の木は切られちゃうし、建売住宅はどんどん建っていくし、わずか数十年なのにこんなところにもちょっとした歴史が流れていくというか。菜の花畑がなつかしくて、何度思い出してみることか。でも、菜の花畑だったところに出来たアパートに住んでいる人はそんなこと想像もしてないだろうな。
2006年06月14日
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マンゴーファンの私としてはこの時期千疋屋のマンゴーパフェを食べに行かなければいけない。去年読売新聞のちょっとしたコラムを読んでいたら、著者が奥様の買い物に付き合って日本橋に行く。そのついでに奥様のご用命で千疋屋に寄る。奥様にするとこっちが目的だったらしいことを著者がすぐに察する。仲いいなあというのがよくわかりますね。それで、二人で千疋屋特製のマンゴーパフェとフルーツサンドをシェアして食べているんだよね。マンゴーパフェは絶対この時期じゃないと食べられないし、下手な喫茶店と違って千疋屋だから、パフェに入っているフルーツは絶対おいしい。ご夫婦仲良くマンゴーパフェをいただいてるこのコラムを読んでいたら私も無性に食べたくなって、「そうだイクスピアリにも千疋屋があったっけ」と思い出した。それまでイクスピアリには行っても千疋屋には入ろうと考えたことなんてなかった。日本橋よりイクスピアリのほうが車で行く分には近いし早い。というわけでだんな様に頼んで私もコラムのご夫婦のようにマンゴーパフェ食べに行きました。しかも、我が家の場合、二人とも食い意地がはっているので仲良くシェアなんてかったるいことやらない。それぞれにいただく。しかし、高いんだよー、これ。だって2100円ですからー。「年に一度の贅沢だよね」と言いながらばくばくといただく。上手い。それで、今年も食べに行ったのよ。去年と変わらず上手かった。わざわざイクスピアリまでマンゴーパフェが食べたくて行くんだな。ところでここのボンゴレスパゲッティも美味い。とにかくアサリがすごーくいっぱい入っていて、しかも、スープもたっぷり入っていて、まるでラーメンのような気がしてくるんだけど、食べても食べてもそう簡単にはなくならないほど
2006年06月13日
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やっとうちの長男がいなくなった。やった天下泰平。これで、この一週間は優雅に過ごせるって言うものさ。弁当も作んなくていいし。 いやあ。でも、弁当作るより何より何が大変って朝起こすのが大変。毎朝何回長男に「おきろー」と叫んでいることか。しかも、お弁当つくりながら、朝ご飯作りながらですからね。二回の声かけでおきてくればいいほう。五回くらい読んでも起きないことあるもんね。疲れる。疲れる。いい加減目覚まし買おうかと思うんだけど、目覚ましくらいじゃ起きないな。だって四回遅刻すると学校から呼び出しがかかるし、あまりに遅刻が多いと留年しかねないし、幸いそんなことまだないですけどね。だから、この一週間は天国です。 でも、出発するまではもう気疲れではらはら。ノー天気ナ長男が飛行機に乗り遅れないかどうか心配で心配でさすがにこればっかりはほっときゃいいかってわけにもいかなくてしかも、母がいくら心配しても、本人はいたってのんきだし。それでも、何度も言って、友達のお誘いも会って結構早めに出発してくれました。ちゃんと飛行機のれたかな。しかも、雨だしナ。当日の朝何位心配で心配で眠れませんでした。いくのは長男なのにそこまで気を使うこともないだろうとは思うんだけど、それでも、気になってうーん、親ってばかみたい。 ところでダンナが「最近イライラする」って言うんで「何で」って聞いたら、「会社にどうにもいうこと聞かない奴がいてね」とかいうんで、「冗談じゃないよ、私なんてこの十七年間、言っても言っても聞かない長男とむちゃくちゃ頑固者の娘と、土日の休みもなくずーっとかかわって子育てしてんですけどね。」特に小さい頃の長男がいかに手のかかるやつだったかもちろんダンナも知ってるけどさあ。 マンゴーパフェとボンゴレロッソをおなか1杯食べたばかりのだんな様は少しだけ納得して少しだけ、気がすんだらしい。 一週間したらイライラのもとだって帰ってくるんだぜ。でも、今頃どうしてるか心配な母です。はい。高等学校(高校)
2006年06月12日
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1杯のお茶が戦争を呼ぶ。 実録アヘン戦争 陳舜臣 中央公論新社 おもしろかったあ。 アヘン戦争って戦争で勝つために中国の兵隊や国民の体力を落とすためにイギリスが中国人にアヘンをやらせたっていうことかと思ってたのですけど、ぜんぜん違ってたみたい。なにしろ、学校の歴史の授業じゃこのあたりの事情なんて詳しくやらないもの。 でも、この本わかりやすくて、面白かった。近代導入部の中国がよくわかりました。 アヘン戦争ってとにかく細かいことは知らなかったけれど、イギリスが悪いと思っていました。実際そうなんだけど、でも、読み進めていくと中国という国の政治自体が腐ってます。これじゃイギリスにガタガタにされても仕方なかったかも。当時もあの有名な科挙はあったんですね。中国中の多くの優秀な人材がみんなあの試験に受かるために一生をつぶしてしまう。ナーンてもったいない。しかも、選考基準が字の上手さだったりしてる。こんなことやってたら、国が腐るのも外国からいいようにされちゃうのも無理ないでしょうね。それでも、そんな国でも、優秀な人材はいたんですね。そうして皇帝に取り立てられて大臣として、アヘン戦争のスタートポイントになる広州に向かう。その名前が林そくじょ。それでも、男の嫉妬って怖い。こんな優秀な人材が国のために必死に戦っているのに、皇帝の周りの側近たちは自分の保身しか考えない。そして、林ソクジョは解任されてしまう。自分が一度信じた男を周りのちょっとした発言でころころ変えるこの皇帝も皇帝だと思いますけどね。自分の決定に自信持ってない証拠だよね。 この当時イギリスは西の、中国は東の、それぞれトップ大国だったわけで、その、東西のトップ大国同士の激突でも、あったんですね。 それぞれがそれぞれに自分の国が世界で一番えらいんだと思っていて、だから、お互いに譲らないし、相手の立場も考えないし、自分の都合だけを押し付けあおうとする。読んでいると今の日本とアメリカの関係に似ていなくもないなあと思ったのです。 急速な産業革命と技術発展により、世界へと進出し、植民地化や、貿易を進めるヨーロッパ社会。紅茶が好きでお茶っぱが欲しいイギリスは中国からたくさんのお茶を輸入します。けれど、そのお茶と同等にイギリスから輸入したいと思うようなものが中国側にはない。貿易の不均衡を是正するためにイギリスはアヘンを中国に売りつけ始めます。アヘンは麻薬ですから、当然中国政府は、アヘンの輸入にストップをかけようとします。アヘンを売りつけたいイギリスとそれを阻止したい中国との戦争がアヘン戦争なのです。 自分達はやらないそんな人体によくないものを他国にならへいきで売りつけようとするイギリスは、狂牛病の牛肉を売りつけようとしているアメリカとそっくりです。農薬をたっぷりつけたグレープフルーツとかもね。アメリカ本国では、もちろんこんな果物は出回っていないはず。自分達が口にしたくないものを圧力をかけて他国に売りつけようとするアメリカ、そして、イギリス。そっくりでしょ。 今の日本は、この時の中国のような横柄さはないと思うけれど、そして、いろいろと外国製品を買おうとはしているけれど、貿易の不均衡を調整するのはなかなか難しそうです。そして、わが身が一番かわいくて私腹を肥やすのに一生懸命な日本の今の政治家とこの時の中国の側近達もそっくりです。 今の日本がこの時の中国のようにアヘン戦争ならぬ、『狂牛ビーフ戦争』になったりしないのかなっと思わず想像してしまった。今の日本はもちろんこの時の中国とは違って技術力もあるし相手国の事情も状況もよくわかっているんでしょうが。 西洋の世界進出は避けられなかったのかとか、ここまで押し付けがましく貿易をしようとするイギリスが悪いのか、世界状況にうとすぎる中国が悪いのか、うーん、結論はでにくいのです。 でも、こんな小競り合いや、いさかいや、戦争を潜り抜けてやっと、現在の世界レベルの倫理観、道徳観、ルールが作り出されてきたんでしょうね。この当時はまだまだ自国の利益最優先なのもしかたない部分もありでしょうかと。 今の日本もアメリカももっと成長して欲しいです。 とにかく小説ではないので、作家の都合で真実が変更してあったりということもなく、史実が史実のまま書いてあったし、とてもわかりやすく書いてあって勉強になりました。歴史
2006年06月11日
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テレビで毎日村上さんのあのぎょろ目が見られる。見るたびにぎょろぎょろしてるナー落っこちないのかなあとかとにかくそこにひたすら視線が行くんだけど、さすがに捕まっちゃいましたね。 ニュースを見てると、村上さんのアップを流しながら、ニュースの解説者やコメンテーターが村上さんのことをいかに悪いやつかということを延々としゃべっていて、「あーうるさい!!こいつが悪いやつかどうかなんて私が自分で決めるんだから、少しだまっちょれ。あんた達がどう思ってるかはよくわかったから、もう結構なんだから、黙ってなさい。」と思うんだけど、音声消すとニュースの内容も聞けないし。最近のテレビのコメンテーターさん達の発言の底のなさといい加減さと無知無教養ぶりにうんざりしている今日この頃。 「だって聞いちゃったんだもん。」とか、村上さんがいってたけどね。あれって普通の人がどっかそこらの証券会社で隣の人たちの会話を聞いて、それを元に買ったって別に罪にはならないんだろうな。当たり前だけど。 でも、あーんな人があーんな人たちとうっかりおしゃべりすると、あーんな風に捕まっちゃうんだわね。本人曰く、「ロジック」だそうだけど、要するにつまりそれって日本語に直せば「いいがかり」だよね。やくざですか?いえいえとんでもない。由緒正しき日本の検察だそうですね。 インサイダーかどうかなんて捕まえるためのこじ付けで、ようはとりあえず捕まえてそれから本気で有罪になりそうな罪をでっち上げるか、探し出すかなんだろうな。とにかくこれで村上さんは捕まえたし、村上ファンドはなくなりそうだし、お国にすればめでたしめでたしなのでしょうか。 多分、ライブドアの宮内君がしゃべったことから、話は始まってるんだろうけど、この宮内ってにーちゃん。ホリエモンが出てきたとたんにホリエモンの悪口はたっぷりしゃべるし、とにかく昔は一緒に働いてたやつをいかに落とそうかといろいろ考えているような感じがして私はドーもこいつが一番嫌い。なーんか釈然としない。もし、私が社長とか、お偉いさんだったら、こいつだけはゼーったい雇いたくない。かつての同胞を仲たがいしたからって悪口いいまくるやつなんて信用できないもの。 かつて同僚だったはずのホリエモンとその側近達の異様なまでの仲の悪さは一体なんでなのかそのあたりに事件のポイントがあるような気がしないでもない。このあたりがみょーにひっかかるというか、不思議というか、違和感があるというか。なんでだ。 ホリエモンや村上ファンドのやってたことが結局、アメリカの投機筋を通して日本のお金をアメリカに流していたことになるのだそうだけど、本当ですか。この人たちを抑えることで、なんとかなったのかな。でも、それを言うなら他にも、この二人ほど派手じゃないけど、同じようなことやってる人たちっているんじゃないのかな。 悪いことなんて結構みんないろいろやってるものだけど、ちょっとしたきっかけで捕まっちゃうんだよね。 『取締役島耕作』にでてくる中国の闇の大ボスだって島耕作を怒らせなきゃ、あと十年は生きてたかもしれないのになあ。 なーんてことを考えてしまった。 人を怒らせちゃいけませんね。 捕まっちゃった村上さんとこのあとのホリエモンはどうなるのかな。楽しみー。あ、楽しみなんて不謹慎ですね。でも、興味津々です。 でもね、この二人頭いいよね。今の時代ってこういう頭のいい人たちがみんな一生懸命勉強した挙句、結局亜流の世界に流れていく。なんだか勿体ないよねえ。これだけの人材がもっと社会の役に立つことにもっと生産的な仕事につけたら、随分いいのになあと思うんだけど。みんな若い頃は、自分はこれから日本社会の中ですごい仕事をするんだって思いながら、勉強して、学校を出て社会に出て行く。けれど、日本という国の中には見えない厚い壁があって、社会の中枢に入り込んでいくのは容易じゃないみたい。過酷な受験勉強を潜り抜けて、学校をでて、社会に入れば下積みのような地道な仕事がまっている。そういう個人の力では、どうにもならないような日本社会の中の不文律が能力のある人たちのやる気をつぶし続けているようで、そんな日本社会の現実がこんな写し絵を描き出してしまったんだろうか、と考えてみたりする。ベルリンの壁が崩壊したように日本の中にあるこの壁もいつかみんなでぶちやぶれないのかな。と思う。ニュースから
2006年06月10日
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最初のシーンでいきなり、館長が壁にかかった名画をはずしにかかります。防犯装置を作動させるためなんだけど、ルーブル程の美術館の館長を引き受ける人がこんなことするかあ だってすごい名画なんだよ。世界資産レベルのものすごく高くてものすごく価値のある名画をはずしちゃうなんて。しかも、銃弾はとんでくるし。名画が、名画がぁ、傷ついたらどうするんだよ。さっさと館長やめろよ、だれだよこんなやつ館長にしたの…と、館長の命より、名画の方を心配していたわたしです。ハイ。 誰でも、一番大切なものはやっぱり自分のそばに置きたがるものですが、ま、そのあたりがまさにこの話のポイントなわけですね。自分がいつもいる場所に隠しておくのが一番いいに決まってますからね。 この話、ルーブルが舞台なのにルーブルの全景ってあまり出てきません。なぜかいつもあのピラミッドばかりが映る。なーんかやけにピラミッドばかり映してるよなあと思っていたら、結局つまりこれって伏線だったわけだ。ルーブル美術館自体は非常に古い歴史のある建物なのですが、あのピラミッドの部分はごく最近作られたものなのです。私が二十年前にパリに行ったときはまだ、あんなものなかった。これから作る予定なんですよーと旅行会社の現地係員の人に聞いた覚えがあります。というわけで、あのピラミッドはこのニ十年くらいのつまり、ついこないだ増築した部分なんですね。このことがまさにこの話のポイント。聖杯の保存に不安を覚えた館長がこの増築の時にナーイスタイミングってことでうまく、聖杯をルーブルの地下に隠すことに成功したわけでしょう。しかも、この秘密を知る人は少ない。下手すると、このことを知るのは、館長だけだったかも知れません。実際には、運んだり、設置したりした段階でそれをやった工事の人は知ってても不思議じゃないと思うんですけどね。よくそういうピラミッド建造の秘密をしってるやつって殺されちっゃたりするじゃん。そういうことはやらなかったんでしょうかね。 ま、それはいいとして、自分だけが知ってる秘密って自分が死んだら、あとどうしようとか私も日頃心配してるんだけど。いや別に埋蔵金隠してるとか、浮気してるとかじゃないけどね。でも私一人で管理してる我が家のいろいろの事務なんかを、いきなり私が死んだら、家族は困らないかなと心配してます。それで、この館長もいきなり死んじゃうことになって、なんとか聖杯の秘密を後世に誰かに伝えないとならないわけだ。で、とっさに浮かんだのがそのときたまたまパリに来ていたラングドンだったのですね。ほかにパリ在住の適任者はいなかったんですかねえ。あのルーブルのピラミッドはパリの人たちなら当然ごく最近のものだと知ってるわけだし、とするともっと察しがいいかもね。 でも、本当に自分(館長)が残したメッセージにラングドンがきづいてくれるかどうか、謎ですね。かけですね。誰にも知られないまま、ルーブルの地下に眠り続けたかもしれないし。この館長さんみたいな謎解きを残せるほどの頭脳を持ってる自信がない場合は、今のうちになんか手立てを打っておいたほうがいいと思うけど、えっそんな必要全然ない?そりゃーよかったですね。 こんなティーシャツどう ちょっと恥ずかしいかぁ。
2006年06月09日
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私はブロガーではあっても、アフィリエイターのつもりはないんだけれど、それでも、宣伝したくなるくらいよかったのがこれ。水出しコーヒー用のポットです。別に楽天で買ったわけじゃなくて、買ったのはイトーヨーカドーでした。確か1500円くらいだったと思う。でも、楽天でしらべたら、楽天でも、売ってるじゃないですか。しかもお値段1000円前後とお安い。もっとも、送料かかるから、結局同じでしょうか。 水出し専用とお湯だしもできる2パターンあるんですけどね。我が家で買ったのは、お湯だしも出来る方。とにかくこれ、普通にフィルターがついているだけなのだが、なぜだか、普通のものより性能がいい。コーヒーのうまみはでるのだが、あくとか苦味とか変な味はこのフィルターを通れないらしい。 なぜなのだろう。ナノテクですかイマドキの科学技術はすごいからね。とにかくおいしいコーヒー飲めりゃそれでいいのさ。 かつては我が家も電気コーヒーメーカー使ってたのですが、途中から、スターバックスのコーヒーポットを使い始めた。でも、これあんまりおいしいコーヒーができない。というところでくだんのコーヒーポットを使ってみたところ、スゴークおいしいのでびっくりしましたのです。特にうちのダンナはコーヒー大好きですからね。休日には朝1杯、昼1杯、おやつに1杯、夜1杯は飲んでなのですからね。 私もコーヒーは好きだけど、胃を悪くしてからは紅茶党でありますが、時々飲んでみる中でこのハリオのコーヒーポットはなかなかいい。 これから、夏になるし、朝からアイスコーヒー作るのはメンドーだし、夜作って冷やしておくのもめんどーだし、普通のコーヒーは入れてから時間がたつと味も落ちる…らしい。実はよく知らないけど。 でも、これは水出しなので、夜寝る前に水とコーヒー入れとくと、朝には飲み頃の冷たいコーヒーが出来ているのさ。 で、うちのダンナは飲みきれない分はペットボトルに入れて会社に持っていってます。安上がりでいいです。
2006年06月08日
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うちの長男もいよいよ来週が修学旅行で、沖縄の天気がやたら気になる今日この頃でございます。沖縄の天気はどうでしょうか。特に来週なんかどうでしょうか。梅雨はあけたんでしょうか。まだだろうなあ。台風来てませんか。もう、心配で有ります。それじゃなくても、今朝長男がいきなり、「のどが痛い」とか言い出して、「スワ!風邪か?」っとひやひやさせられているところ。そしたら、ダンナが「来週沖縄だし、休ませた方がいいんじゃない。」などとバカなことを言い出す始末。ばかいっちゃいけませんぜ。たかが修学旅行のために学校やすんでどうするよ。しかも、熱あるわけでなし。調子悪かったら、旅行なんてやめりゃーいいんです。たかが沖縄くらいいつでも、いけます。どうせ、修学旅行とかいいながら、石垣島で三日間もアウトドアーマリンスポーツ三昧なんですからね。どう見たって遊び。無理していかないでうちで遊んでるなり、みんなが旅行の間に、学校行って自習したっていいんですから。そうすりゃ期末の点も上がろうってものだわよ。そうだ、高1の授業にでも、混ぜてもらって去年危なかった数2Bでも、復習するとナイスかもしれない。と、思っていたら、風邪薬ポケットに入れて学校行っちゃいましたけどね。 風邪ひくと、持病が悪化するからねーはらはらします。なにしろ、去年なんか林間学校の日の朝、立ちくらみ起こして駅で倒れて、センセーから、「まだ来てませんけどどうしましたか。」なんて、電話かかってきちゃったくらいだしね。今度なんて、飛行機ですから、去年みたいに待っててなんかくれないだろうし。もっとも、飛行機なんて、めったに予定どうりの時間にに飛び立ったことなんてないけどね。 東京はまだも入梅してない。それでも、五月はまるで梅雨かってほどとーってもよく雨が降りました。今年は例年になく寒い。沖縄もなにやら天気割るそうだし、八重山の天気はどうなんでショーね。それと、那覇の天気もどうなんでショーね。沖縄の皆様うちの息子がお邪魔したさいは、よろしくお願いします。なんていっても、どいつがそうだかなんてわっかんないよなー。 明日当り、荷物作んないとね。センセーは自分でやらせなさいとか、いうけど、むりでしょう。すごい荷物になりそうだわねー。 風邪どうしたかなー。それにしてもいいよな。私の時なんて、京都ですよ。京都。今のコウコウセーは贅沢だよな。私も行きたいよおー。とにかく無事に帰ってきますように。こないだも、事故あったもんね。いやその前に無事に出発できますように。
2006年06月07日
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なにやら六月から法律が変わった。うっかり道路に駐車できないらしい。先週は毎朝テレビのワイドショーはこのニュースがメインだった。タイヘンダータイヘンダーと騒いでいました。うちのダンナも早くから、騒いでいました。でも、今日は村上さんと児童水死事件でいっぱいであります。六月に入って一斉とりしまりで、万年渋滞の道路から渋滞がなくなったそうですが、今週はどうなんでしょうね。 でも、私は個人的に大賛成であります。確かに宅急便とか、お仕事でとめざるを得ないところは大変だろうと思います。でも、私用で、とめようと思えば有料の時間単位の駐車場にとめられる、あるいはとめるべきはずの人が、結構路上駐車を平気でし続けている状況も多い。私の知り合いにも、とりしまられたらどうしようとひやひやしながら、それでも、路上駐車をする人が多い。「有料のところにとめれば?」と言ってもいやな顔をされたりする。私にすれば理解できない。わずかとはいえない額かもしれないけれど、それでも、ものすごく高いわけでもない駐車料をケチって取り締まりにひやひやしながら、路上駐車を続ける人たちの感覚が理解できない。我が家ではほとんどそんなことはしない。大体駐車場にとめてます。そういうきちんとお金を払って駐車しているまじめでまともな人間が馬鹿を見るような、今までの世の中の暗黙の了解のような状態を、今回の法律でびしーっと締めてくれたらホントにいいよと思うのです。 我が家の前にも以前引っ越したばかりの人が毎日のように止めていきました。確かに人通りも車どおりも少ないところですが、それでも、火事などの災害が合った時、このような駐車の為に消防車などが速やかな作業をすることをどれほど妨げるか知れません。しかも、たまたま一日だけならいざしらず、毎日となると、そこまでするならきちんと月極めの駐車場を借りてとめて欲しいと思います。この車は今はなくなりましたけれど。 今のところは重要地点をメインに取り締まられているようですが、車どおりの少ないところで、毎日のようにとめるのは止めて欲しいです。駐車場じゃないんですから。本当にこんな場所でも、迷惑であることにかわりはありません。 ところで、路上駐車を減らすには当然駐車場の増加が必要なわけですが、そして、事実今増え始めているようですが、このことを考える上で、問題なのが、駐車料のことです。 なんだかんだ言っても、駐車料というのはいつもとめなければならないとなると結構バカにならない金額です。もう少し安くならないものかと思いませんか。思いますよね。じゃぁ、何で高いのかっと言うと、駐車場にかかる税金が高いからです。駐車場は更地ですから、固定資産税がなかなどうして結構高いのです。住宅地でもなければ畑でもなく、何も建物も立っていないわけですから、とても高く計算されます。この固定資産税を駐車場として経営しようとしている場合に特別に安くしてくれれば、更に駐車場も増えるし、駐車料を安くすることも出来ます。そうすれば、取締りをしなくても、みんなもう少しきちんと駐車場に止めるようになるはずだと思うのですが。固定資産税として取り立てた税金で違法駐車取締りの経費に使うぐらいなら、いっそ固定資産税を安くして、そして違法駐車取締りの手間と経費減らした方がぜったい、いいと思うよ。 ところで、この違法駐車取締りの民営化って言うのは、団塊の世代の定年退職者の新しい就職先として政府がひねり出した案なんでしょうかねえ。人件費ばかりがかかりそうだよね。 ところで更に腹が立つのはうちのそばの公園の横に車を止めてエンジンかけたままクーラーか暖房入れて、昼寝している、営業のドライバーさんたちだ。おかけでこの当り空気悪いのです。この近所はみんな子供が喘息なんです。車とめてても、ドライバーは乗ってるんだから、違法取締りにはならないんだろうけれど、こんなのさっさと何とかして欲しい。こういうのは多分我が家の近所だけじゃなく、車で営業しているサラリーマンやタクシーのドライバーもいろんなところで、やってると思うんですけど、こういうのが東京の空気を悪くしている原因の一つ。会社で昼寝が無理なら、昼寝用のお店でも出来ませんかね。とにかくアイドリングスリープは止めてください。こういうのドライバー乗ってても取り締まって欲しいんですけど。 とにかくがんがん取り締まって東京の空気と環境よくして欲しい。喘息患者のためにも、そして他のいろんな東京都民の健康のためにも、日本全国の日本国民のためにもお願いしたいです。そうすれば、医療費負担も減ると思いますよ。 がんばれ、違法駐車取締り。 ちなみに宅急便とか、ほんとに仕事で数分とめざるを得ない車に対しては、もう少しなんとかしてあげてくださいね。 プジョー パーキングサインプレート我が家にはこれのBMW版があるよ。うちの車がベムベなわけじゃないけどね。
2006年06月06日
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『ニューワールド』のジョンスミス。『シンレッドライン』のスタロフ大佐。 私の目にはこの二人は似ている。どちらもやさしい。そして、やさしすぎる。 このやさしすぎるということがどんな意味をもつのか。目の前のかわいそうを断ち切れないのだ。男の人というのはその先の結果を考えて、目の前のかわいそうを断ち切らなければならないような、そんな決断をしなければならない場面にしばしば出会うものだ。けれど、スタロフ大佐は、太平洋戦争の全体の流れよりも、今目の前にいる部下の命の方を優先しててしまう。今部下を行かせれば死んでしまう。そのことを踏み切れない。 ジョンスミスもまた、自分のために故郷を追われてしまったポカホンタスへの罪悪感が大きい。たとえ人質扱いであろうと彼のために故郷を追われてきたボカホンタスを、自身の感情をのりこえ、ボカホンタスを受け入れることが、どうしても出来なかったのだろうか。彼がポカホンタスを置いて、イギリス本国の命令に従ってアメリカを離れる時、自分を待ち続けてしまうかもしれないことを思って死んだことにしたのか。あるいは、ポカホンタスを危ない冒険の旅に連れ出すことが忍びなかったのか。イギリスからの命令を断ることが出来なかったのか。それとも、断ることはできたかもしれないのか。ちょっとわからないけれど。 このやさし過ぎる男というのは、テレンスマリックその人なのだろうか。彼は自分の映画の中に優しすぎる男を描いてみせる。 それはテレンスマリック自身そのものの姿なのだろうか。 目の前のかわいそうを断ち切れないそのやさしさは、しばしば男性社会の中で、彼に生きにくさを味あわせてきただろう。彼は人生の中で自身の優しさをどう扱えばいいのか悩み続けてきたのだろうか。この手の優しさは男社会の中では、かなりしんどいものなのではないかと思う。 目の前のやさしさをたちきることのできる普通の男性であれば、この手の悩みにであうことはない。だから、この手の悩みをその映画に映し出すことも出来ない。 男が優しすぎるということがどんな意味を持つのか。そのやさしさは否定されるものなのか、肯定できるものなのか。テレススマリックは自らの映画の中で問う。 男が目の前のかわいそうを断ち切れないやさしさは捨てなければいけないものなのか。持ち続けてもいいものなのか。必要以上にやさしすぎる自分は間違っているのだろうか。 彼の映画『シンレッドライン』の中で、ウィットという非常にビビットな感性を持つ青年が登場する。たぶん、主役。彼は戦闘から逃れるために、戦争という苦痛からのがれるために、しばしば脱走する。けれど、脱走して訪れる島民の村の中で、辛いのは戦場だけではないこと、平和な世界であろうとも、争いや病気やそのほかいろいろのことがあって、生きるというそのこと自体が辛いのだということに思いいたる。彼はただの歩兵だから、スタロフのように上官として部下の生死にかかわるような決断を迫られることはない。それでも、そのやさしさや感性はスタロフと同じように戦場における疑問と苦痛を伴いうるものだ。けれどそののち、同僚のために自らの命を犠牲にして、日本兵に殺されてしまう。ウイットは逃げるのをやめたのだろうか。 『ニューワールド』の中でも、ジョンスミスは自身の罪悪感とやさしさからポカホンタスの愛を受け止めることを止めた。けれどその事が間違いだったことに、後年イギリスでポカホンタスと再会することで、ジョンスミスは気づくことになる。目の前のかわいそうという感情を振り切ってその先のことを考えて行動を決めることが必要とされることに、気づくことになったのだろうと思う。 自身のやさしさに人生の中で迷ったテレンスマリックが出した一つの答えなのだろうか。 先のことを考えて今目の前にある感情を切れ捨てなければならないという男性得意の感情とは別に、まず、先のことより何より目の前にあるものをかわいそうだとして最優先させる女性得意の感情もまた決して悪いものではないだろうと思う。どちらが悪いということではなく、どちらもまた必要なモノなのだろうと思う。 しかし、この男女それぞれ独特の感情への対し方というものは、お互いになかなか理解しにくいものがあって、それがしばしば、男女の、恋人同士の、夫婦の、意識のずれを生み、、あるいはケンカとなり、別れを、いさかいを導いてしまうものだ。 最近話題になる熟年離婚もまた、そのあたりのことで、今病気で辛いしんどい状態の自分を置いて、仕事に行ってしまう夫に対しては冷たい、家族のことはどうでもいいのかと思うけれど、男にすれば妻は病気で辛そうではあるけれども、病気はいつか治るものだし、それよりも今仕事を投げ出せば、仕事を失いこの後の家族の食い扶持を稼ぐことができなくなり、家族を路頭に迷わせることになるかもしれないことの方が優先されることになるのだろう。男性は目の前の妻のかわいそうな状況よりもその先のことを考えて仕事に出てしまうのだろうけれど、妻にすれば会社の状況など想像できるものでもないし、たかだか一日休むくらいで、仕事がなくなるとも思えないのだから、それで、仕事を優先させる夫というのはただ家族や妻のことも考えずに仕事ばかりする冷たい男にしか見えないだろう。 男性的感覚と女性的感覚は相容れないというか、一つの人間が両方の要素をもつのは不可能だからこそ、男女に振り分けられているのだろうと思う。そして、それはどちらが良い悪いということではなくて、どちらも必要な感情なのだと、思う。 先のことを考えればふりきったほうがいいように思えるものでも、今現在のかわいそうだという感情を優先させた方が結果的によい場合もまた、ありうることがあるもので、今だんだんに会社でも、家族や家庭の事情を考慮して、男性社員を全て仕事優先の生活に追い込まないような仕事のあり方を模索しはじめてもいる。 テレンスマリックはたぶん、やさしすぎる男であろうと思うのだけれど、彼は答えをだせたのだろうか。 ところで『シンレッドライン』の中にでてくる、指揮官のトール中尉。この人はまさに男らしい男なのだけど、戦場では兵士の命より、戦闘の結果や、名誉や勲章が優先されてはいるのだけれど、(まさに男)、戦闘中自分の命令に逆らったスタロフに対して除隊を促し、その際に勲章や名誉を考慮し、除隊にされるスタロフの立場も慮って、気を配ってあげる当り、結構やさしいじゃないかと私は思ったのだけれど、なんか間違ってるかなあ。確かに戦争最優先だけれど、タバコをすいながら物思いにふけるトール中尉を見ていると、結構いい男じゃないかと思ってしまった。彼もまた戦争のために目の前のものを切り捨てながら、決して何も感じていないわけではなく、本当はやはり、心に痛みを感じているのだろうと思う。決して冷たい男なわけでも、自分勝手なわけでもないのだろうと思う。その痛みを心の奥にしまいこみながら、自身の役目をこなそうとしているのだろうか。いかにも男らしい男の中の男ってやつですかねえ。
2006年06月05日
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もちろん見てきました。ね。ネタバレしてるかも。ていうか、見た人にしかわからない話です。 日本の皇室は二千年以上の歴史があるそうで。しかも、世界で唯一の男系で、世界で一番長いとか。ま、そうは言っても、本当に続いているか真実は誰にもわからない。もしかしてどこかでいれかえてたり、本当は他の男の子供なのに、天皇の子供として生まれて次の天皇になっちっゃたりしてる場合ってあるかもよ。源氏物語だって桐壺帝の奥さんが生んだ子供が天皇になってるけど、実は不義の子供であるわけですからね。でも、この子供は実は光源氏の子供なので、一応天皇家の男子の血統はちゃんと引き継いでますけどね。こーんなスキャンダルな内容で当時朝廷内が大騒ぎになったりしなかったのかなあ。だって皇統にかかわることなんだし。でも、所詮お話だけどね。 最近天皇家のお世継ぎ問題で大騒ぎでこーんなに長く続いている王家は世界でも、日本くらいらしくて、ヨーロッパの王家なんてのは大体どこもたいして続いてないし、しょっちゅう血筋が入れ替わったりもしてるし、そういうことを考えると、今回の話って実はそういうあたりがポイントじゃないですか。ヨーロッパにすると日本みたいに長く続いている王家がないのってちっょと悔しい。とするとなんかないかなあと考えてみたとして、キリストあたりが一番説得力と品格ありですかね。キリストと古代の王家の血を引く現代まで続いている血統が合ったらナとか。 皇室もつまり、日本の神道という宗教の教祖様なわけでして、宗教的にも日本をまとめて政治的位置でも、全ての要素をみたしている家系なわけですよね。 となると、ヨーロッパ世界の宗教であるキリスト教の教祖様であるイエスキリストの血をひきつぎ、でも、キリスト様は所詮一般庶民なので、じゃ古代王家の血も入れたいということでマグダラのマリアは古代の王家の皇女様だったってことにして、それと、ちゃんと結婚してないと私生児になっちゃうから、結婚してたことにして、で、キリストのまわりで唯一の女性がマグダラのマリアだから、このあたりを持ってくるのが一番説得力あるよね。いきなり今までにどこにも話の出たことのない女性を出してくるより、リアルだしね。となると、マグダラノマリアが娼婦じゃまずいですからね。普通の女性で、なおかつ奥さんだったってのが一番いいでしょう。 西洋は日本より男系にこだわってないし、男系だとほんとに自分の子か実のところわからないけれど、女性が代々血統を継いで行けば、目の前で実際自分の体から出てくる分、女系の方が確実性はあるでしょうね。でも女系の場合引き継がれるのはXの遺伝子なので、イエスの遺伝子自体は伝えられていないかもしれないんですけどね。それでも血はつながってるし、イエスの子孫であることに変わりないはず。という話だから、女性の子宮に話がこだわりを見せてくるわけだ。うーーーん。 というようなことを映画を見て考えました。この映画の話題性としてキリスト教がどうのこうのと取りざたされてますけどね。万世一系の遺伝子あるいは血統がヨーロッパにも欲しい。なんて考えたんじゃないのかな…なんてのはやっばり下世話なかんぐりでしょうかねえ。えっへっへ。 【ダヴィンチ 最後の晩餐】 あなたの部屋にも「最後の晩餐」を飾ろう
2006年06月04日
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こんなに自然の風景の美しい戦争映画は初めてです。人は自然の中から生まれ、自然の一部のはずなのに、自然を破壊する。その島に住む人々のことも、自然のほかの生命のことも考えずに、爆撃を繰り返し、自分達の都合だけで戦争を繰り返す。人間はいつの間にこんなに傲慢になったのだろう。 自然に、神に、与えられた自分の命を与えられた分だけまっとうして、自然に穏やかに死の時を迎えたいと願い脱走を繰り返すウィット。 戦場の恐怖を愛する妻のためだと、妻との日々の記憶を繰り返し思い浮かべることで紛らわそうとするベル。 この戦闘の結果がこの後のアメリカ軍全体の戦況に大きく影響することがわかっていながら、目の前で自分の部下達を殺すことになる命令を決断できずに戸惑う隊長スタロフ。 恐怖のあまり、胃痛をおこして最前線で立ち上がることもできない一歩兵。 兵達の体調や安全などよりも自分の出世と名誉や勲章のことしか頭にない指揮官。 南の美しい海、抜けるような青空。丘をわたる風の音。撫でるように渡っていく風にゆれる戦場の中の丘の草。まるで草いきれの匂ってきそうな草原。戦士達はその中を銃をかかえて、突撃していく。 ガダルカナルは太平洋上の小さな島にすぎないのだけれど、この島に飛行場を作り、この島を抑えることでその後の戦況に大きく影響する要所なのである。本国の作戦司令室の中にいる参謀達には、その島にいる島民のことも、そのほかにも多くの命があることも、自然の美しい景観があることも、もちろん思い及ばない。 ところでアメリカ軍が必死に突撃を進め、日本軍のトーチカを落とし次々に襲ってくる日本兵を倒していく時、なんと私は思わず心情的にアメリカ兵の味方をしてしまった。日本人だって言うのに、日本兵が来た時、「危ない!早く撃ち殺せ!」と思ってしまいました。これはアメリカの映画で、アメリカ軍側の話なので、見ている側はアメリカ兵に感情移入してしまうのですね。アメリカ人がアメリカ軍サイドにたってみている分には当たり前なのだけれど、自分は日本人だっていうのについ、アメリカ側にはいりこんでいる自分がいて、愕然としてしまったのです。つくづく怖いよね。 戦場でいつ死ぬかわからない恐怖。人を殺した事で傷ついていく兵士達の心。けれど、一番怖いのはそういう恐怖や、痛みに慣れてしまうことだ。人は慣れるものだ。繰り返しつづく戦闘の中でいつか、戦う恐怖も人を殺す痛みも感じなくなってしまうかもしれないという、そのことこそが最も恐ろしいことなのだろう。 戦場の兵士は指揮官達にとっては武器の一部、ただの戦争のための道具にすぎない。戦場で兵士達の一人一人は自分が人として扱われていないことに絶望する。自分達はただの雑草にすぎない。ただの土くれにすぎない。自分たちは既に人でなく、それでも、なお、戦うのはなぜだ。 戦いの恐怖を妻を思うことで紛らわせてきた、妻のためと思うことで必死に絶えてきた、その妻は愛していたはずの夫がそばにいない寂しさゆえに他の男の下へ走る。それでは、いままで自分が妻のためと戦ってきたものはなんだったのだ。お笑いだ。自分はこの戦闘はなんだったのだ。 そしてまた、兵士達はガダルカナル島から、更に次の戦場に運ばれていく。四角い箱のような輸送ボートに詰め込まれている兵士達は、まるでただの荷物にしかみえない。 空と海ばかりが美しい。『シンレッドライン』その1もお読みください。
2006年06月03日
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おいしいカップ焼きそば レシピ 1、カップ焼きそばを買ってくる。わたしは「UFO」が好きですが、昔実家にいた頃は母は、いつもペヤングを買って来ていた。母の好みというより、いつも特売だったのが、ペヤングだったんだと思う。ほかに昔バゴーンなんてのがあったけど、あんまりおいしくなかった。今でもあるかしら。2、お湯を沸かし、包装をあけて、お湯を指定の位置まで入れ、3分間待つ。3、3分たったら、同封されていたソースを入れていただく。青海苔もあったら入れてね。4、旨いですか 注 お湯を捨ててはいけません。ラーメンのようにソース味のスープのはいったスープ焼きそばなんですね。これ。 てねー。焼きそばなのにお湯捨てないんだよー。私が結婚する前、実家にいた頃、うちの兄貴がやってたのよー。既に大学生か社会人だったはずだけど、どうもこの頃の流行だったんだと思うんですけどね。カップ焼きそば食べる時はいつもこうやって食べてたんだよね。本人は上手いと言ってたんだけどね。横目で見ながら、結局私は真似したことはないです。スープやきそばってどんな味 誰かやってみる気あります 自分もそうやって食べてるぞーって人います うーん。どうしても私はやる気にならない。 ちなみにうちの兄貴はいまでも、こうやって食べてるんだろーか。おーい。うまいかーバゴーンまだあるみたい。でも、それ以外にもいろいろ種類増えましたねえ。今日のお昼は焼きそばたべよーっと。
2006年06月02日
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古典文学『とはずがたり』の漫画化です。『源氏物語』などの名作は大和和紀さんの『あさきゆめみし』で、有名ですが、『とはずがたり』ともなるとあまり知っている人は少ないでしょうね。 主人公は後深草院の寵姫、『二条』です。時代は鎌倉時代初期。まだ第一巻ですので、幼い頃から「若紫」のように後深草院の元で育てられた二条は14才となり、裳着の儀(いまでいう成人式です)を終えて成人したのを待っていたように後深草院のものとなってしまいます。そして、こののち、後深草院と亀山帝(院の弟)との抗争が南北朝の戦いへとなっていくわけで、ラブラブの恋愛物語と歴史ものの二面性を持つ物語ですね。 古文というと嫌われる度合いの高い科目で、なんだか日本語でありながら日本語ではないよくわからない科目であり、さらにわからない古語を暗記させられるいやーな科目というイメージがあります。しかーし、実はほとんどの有名な古典文学は恋物語がほとんどで、読んでいくと今の道徳観では想像もつかないような男女間の恋が語られています。「いやーいいんですかい。こんなことやってて」と、思うような展開が多いんですから、本当は面白いんですけどね。学校でも、そういう話をやればもう少し生徒もくらいついてくると思うんだけど、一番楽しい肝心なところをセンセーは授業で説明しないんだモノナ。だって、突然ゴーカン同然で手籠めにするは、姉妹だろうと両方奥さんにするは、愛人はぞろぞろいて同居してるは、愛人なのに主従関係だったり、目当ての姫君を落とすためにその侍女とまずは肉体関係結んでたり、古典文学の世界って美しい恋物語っていうより実際にはもうめちゃくちゃなんですけどね。そんなことばっかりやってるから、儒教なんかで、いろいろ道徳とかいい始めないとならなかったんでしょうねえ。 というわけで、このお話では、後深草院は自分の閨(寝室のことだな)の教育係だった大納言典侍(だいなごんのすけ)が、初恋で、でも所詮結婚とかできるわけでもなく、大納言典侍の娘だというだけで、二条を自分の寵姫にする。母子両方と関係してるわけで、今の感覚でいえばそんなのあり?ってかんじですけど、この頃はこんなことはごろごろあったのですよねぇ。 しかも、後深草院から二条の父親に「あんたの娘早く頂戴ね」って話があって、父親の方は準備万端整えておく。なににも知らない二条は突然実家の自分の寝室に後深草院がやって来るわけですね。 この当時は今みたいに戸籍とかないから、戸籍での入籍がイコール結婚になるわけでもないし、盛大な結婚式なんてやるわけでもないから、男女の肉体関係が成立した段階でイコール結婚なんですね。それでも、一応三日間連続して女のところへ通い続けないといけないわけなんですけどね。そうしないとただのお遊びって事で終わりになっちっゃて婚姻にならないらしい。 で、初日はショックを受けた二条の拒否で婚姻は成立しない。しかも、この当時夜をともにした男女というのは明け方の別れの折に歌を取り交わすのが通例なんですけど、そのとき書いた二条の歌を院に届ける前に父親が読んでるんですね。だから、二人の間になんにもなかったのが親にばればれ。もうプライバシーもへったくれもあったもんじゃないですね。さすがに二日目ともなるとそうもいかないので院も強硬手段にでるわけで、このあたり、『源氏物語』で、源氏が若紫を奥さんにするあたりと同じです。 ところで、このあと、源氏は後ろ盾の全くない若紫をきちんと結婚という形をとって奥さんにするのですが、後深草院と二条の場合は公式な婚姻にならない。二条の父親は将来大臣になる可能性を持っていたのですが、この時はまだ大臣になっていないために、二条は正式な入内という形をとれないまま、女房として院の後宮にはいることになります。愛人関係がそのままイコール主従関係ってどういうこと? このあたりも現代人には理解をこえてるんだけどね。二条は女房として院に雇用されている形で後宮にいて、にもかかわらず、夜は院と寝室をともにするわけです。ほれてるほれてるといいながら、二条の扱いが結構いいかげんでして、なぜに?と思うわけだけど、この当時の院は政治的権力もあまりなくて、父親の帝の寵愛をうけて元皇子としてやりたい放題好きなように生きてた光源氏とは、やはり微妙に立場とか、奮える権力に限度もあったんでしょうかねえ。 それでもね、かなーり院の寵愛をうけている二条ですが、このあと二巻では初恋の相手との浮気がはじまるらしい。そして、ますます歴史的にも話が展開しそうで、楽しみな二巻ですね。うっふっふ。
2006年06月01日
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