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アスペルガーの子供への対応が、比較的うまくいった例です。カズオ君は1年生のときから、「みんなとは違う」ことが理由でいじめにあうことが多かった子どもです。こだわりが強く、自分の世界に入ってしまうと、周りが目に入らなくなってしまいます。例えば休み時間に運動場で虫を見つけると、ずっとそれに興味が行ってしまい、授業に入ってもずっと「虫」の事を考えているので、活動のペースがどんと落ちます。また、先生が「授業中は立ち歩いてはいけません」と、ルールを提示すると、例外があることを全く認められないようで、用事があって少しでもたち歩いた子どもを非難してしまいます。楽しい事があると笑いすぎる、腹が立つと怒りすぎる。そんなカズオ君のアスペルガー傾向が引き起こす行動は、悲しいかな、いじめの材料になります。からかわれたときにパニックを起こし、奇声をあげることがさらに周りの子どもたちを調子づかせます。2年の時の担任は若い女の教師で、物事をかっちりやらない時がすまないタイプでした。カズオ君のアスペルガー的なイレギュラーな行動は、担任にはまったく理解されません。担任はこっぴどく叱る事で対処をしようとしますが、それは余計に混乱を招くだけです。母親は1年の時から、子供が阻害されている状況が気になって仕方がないようで、毎日、連絡帳に細かい字でびっしりと1ページの文章をよこしてきます。抗議・質問・不安・家での様子等々をこれでもかと書き綴ってこられます。この連絡帳攻撃に対応するだけでも、担任はへとへとです。行き詰ったお母さんは、とうとう自分で市の教育センターに相談を持ちかけます。市から学校にカウンセラーが派遣され、診断の結果、「かなり濃いアスペルガー障害の疑い」という判断が出されました。その後、母親・学校・カウンセラーの三者での相談を持ち、いくつかの対応策が講じられました。「むやみに叱っても意味がない」「ルールと現実との落差によって生じる不安をていねいに取り除く」「席を一番前へ」・・・細かい事も含めて、カズオ君が不適応を起こしている部分を減らすことを検討しました。いくつかの対策は的中し、カズオ君はずいぶん楽に学校生活が送れるようになりました。原因がアスペルガーである事が飲み込めてからは、担任のカズオ君に対する接し方も、頭ごなしに叱る事がなくなるなど、ずいぶん変化が見られました。カウンセラーは授業中や休み時間の教室での様子もつぶさに観察し、カズオ君への対応を若い担任にアドバイスし、担任もそれを素直に受け入れて、善処に励んでいました。同時に、母親にも大きく変化がありました。アスペルガーという「原因」がわかって、むしろほっとした様子でした。今まで自分の子どもが人と違っている事を客観的に見れずにいたのが、ずいぶん客観的に考えられるようになったようです。連絡帳を書く日は半分以下になり、文章も3~4行になりました。自分を知る、親が自分の子どもを知る、教師が児童を知る。この事例は本人がまだ2年生なので、「自分を知る」はありませんでしたが、周りが客観的に子供をとらえてあげる事によって、状況がずいぶん違ってくる事もあるのです。しかし、現実は、親が自分の子どもに障害があるとは思いたくないし、障害を指摘されるような事に極度に拒絶反応を示すケースも少なくありません。「○○君には、アスペルガー傾向があると思うのですが、一度、専門の先生に診てもらったら、いろいろな対処方法がわかってうまく適応ができるようになるかもしれませんよ」というような話を担任が切り出すことはまず無理です。保護者の反発を招き、泥沼のトラブルに発展する恐れがあるからです。-----------------------アスペルガー等の発達障害に限らず、学校はかつてはなかった「質と量」の子供の異常な状況に直面しており、明らかに学校だけの力では対応ができない状況が頻発しています。内科検診や歯科検診と同じように、子供の心や担任を第三機関が検診するシステムを確立していく必要を感じています。
Jan 27, 2008
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20代前半の教師のクラスにかなり濃いグレイのアスペルガー傾向がある女の子が転入してしまった事があります。転入の手続きの時にはほとんどだまっていたので、他の担任も彼女の特徴を見抜く事ができませんでした。仮に、アヤカと呼ぶことにします。一週間ぐらいしてから、アヤカが強いこだわりを持っていて、行動や思考が直線的であることがわかってきました。その頃にはもうクラスの中で浮き始めています。発言・行動もトンチンカン。自分の事をベラベラしゃべるかと思うと突然話を打ち切る。人の話は聞かない。授業中には「わかんなーい」と大声を上げてパニックになる。アスペルガーの子供は、同年齢の子供との関わりを、なかなかうまく持つことができません。いじめのターゲットになってしまうまでにそう時間はかかりませんでした。周りの教師は、この若い教師にとってアヤカはかなり厳しい児童であると思いましたが、もうすでにクラス分けはしてしまって、後に引けません。周りの教師は1年間、一生懸命にアヤカと若い教師を支援しました。授業中に入り込む、授業を交換するなどもして、なるべく多くの目で見るようにしました。しかし、アヤカのことがかなり影響し、学級は半ば崩壊状態に。アヤカの両親からの担任への抗議は1年中続きました。せめて前の学校からの情報があれば、と、思いました。後で親から聞くと、前の学校でもかなり厳しい状況であったようです。担任・教頭・校長と、いじめ問題の対応で相当な苦慮があったとのこと。前の学校の担任が何も知らせてくれない事は正直手痛かったです。子供たちの状況がかなり悪くなっている今日、一人の子どもの影響だけでも、学級崩壊が引き起こされる事はあります。私たち教員が転出入のときにきちんと情報交換をするシステムを持たないといけないことを、痛感しました。2~3週間後に送られてくる指導要録という形式化した情報のみを届ける今のシステムでは、十分な引継ぎはできません。転出入のときのみではなく、私たちはもう少し子供たちのことを知るシステムを持つべきなのではないかと思います。実は、アヤカがアスペルガーであるかどうかも、わからないままなのです。そういった障害に詳しい職員がたまたまいたというだけで、その教師を中心にいろいろと調べてみたら、「どうも、アスペルガーではないか」という程度の判断なのです。専門家の診断が欲しいところです。とはいえ、専門家を呼んで判断することは、両親の許可をがなく勝手にやるとたいへんなトラブルになる可能性があります。許可を得て診断しても、「うちの子がおかしいと言うのですか!いじめはうちの子のせいだというのですか?」と、親が診断に対するやりきれなさを、教師に「怒り」の形で向けてくると言うケースも聞いたことがあります。しかし、というか、だからこそ、私は、学校と言うシステムの中に、子供たちが持つ傾向・特徴を判断するシステムが必要だと思うのです。自分を知る、親が自分の子どもを知る、教師が児童を知る。これが当たり前になれば、もう少し気分が楽になるのではないでしょうか。「知る事」を、「烙印を押す事」と捉えてしまうのではなく、これから自分がどう生きていくのか、どうやってお互いが支えあえばよいのかを考えるスタートとして、捉えるべきだと思うのです。 こんなふうに言うと、必ず「それは差別につながる」といった類の批判をされてしまいます。もちろん、慎重な議論が必要で、きちんとしたシステムや社会的なコンセンサスを作り出すことは前提だと思います。-----------------------そもそも私は、「アスペルガー」を、「アスペルガー障害」と呼ぶことも、どうかと思います。「障害」という強い(=つらい=親が受け入れがたい)表現を用いる必要があるのかとも思います。「アスペルガー傾向」で十分ではないかと。「麺類好きな傾向」と同じ様な感じで。互いの傾向(=良い・悪い面を含めた個性)を認め合える社会を作るのです。もし、知能的・体力的・性格的に完璧な人間がいたとすると、ほとんどの人はその人に比べれば何かしらが劣っている事になります。だから、いちいちそれを「障害」と言ってしまわなくてもいいと思います。劣っていると考えるのではなく、人間なんてほとんどみんな不完全であり、不完全さが違っているのだと。ただし、「埋められる差」~「かなり埋めにくい差」、というグラデーションがあり、社会適応が難しい方もおられることに関しては配慮が必要であると。そして、いかに差があっても、それはそれで、大切な存在であり、その「差」に合わせて、お互いが支えあい、豊かに生きていく方法を考えていければ・・・と思っています。 こんなふうに言うと、今度は実際に厳しい「障害」と対峙している方から、「簡単に言うなよ!そんなの理想!」と、お叱りを受けそうですが・・・
Jan 19, 2008
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教師という職業柄、障害についての研修を受けることや、障害のある子供に接する機会は多いです。いくら研修を受けても、よくわからない部分は多いのですが・・・。障害のある子供といっても、それこそ千差万別、色々な子供がいます。その子がどれくらい白いのか黒いのか、どちらなのかよくわかりません。プロの方でも診断を下しにくい子供がけっこう多く、障害には幅の広いグレーゾーンが存在していると思います。私自身もけっこう濃い灰色の位置にいるように思います。LDの話を聞くと、自分はLD、ADHDの話を聞くと自分はADHD、アスペルガーの話を聞くと自分はアスペルガーのような気になります。中でもアスペルガーの傾向が強いように思います。私のアスペルガー傾向というのは・・・■人の気持ちが動的、つまり、その場その場ではわかりにくい。人とのコミュニケーションがうまくとれない。「人の気持ちがわからないので、空気を読まずにやってしまう」あるいは、「わかっちゃいるけど空気を読まずにやってしまう」このブログでも、ついつい暴論をアップしてしまい、あわてて削除していることがあります。削除・訂正前に見てしまった方、不快な思いをされているかもしれません。この場を借りて、お詫びいたします(汗汗)。いや、今アップしているものも、本当は不適切な文章が多いかも知れません。まだこうして書くことはましなのですが、しゃべるときにはさらに暴論になりやすいです。■こだわりが強い。やろうと思ったことは、やってしまう。いったんスイッチが入ると途中でやめられなくなる。この間も数独(パズルゲーム)にはまってしまい、寝ることを忘れていました。ゲームなどでも、やりだしたら止まりません。こういった点はアスペルガー的ではないかと思います。そしてそうれは社会生活を営むには実に不都合です。 それでも、まあ、なんとか、自分に対する病識があるので、▼人の気持ちはゆっくりなら考えられるから、ゆっくり考えよう▼なるべくしゃべる前に息を飲み込んで一度考えてから話そう▼書いたものは1日寝かせてまた読むようにしよう▼ゲームはいっさいやめておこうなどと、自分のアスペルがー傾向を自分でフォローしようとしています。・・・まあ、周りにすればできてないと思っているかもしれません(苦笑)。そして、自己フォローにもよく失敗します。「わかっちゃいるけどやめられない」のです。とは言うものの、私はまだ、グレイです。黒やほぼ黒に近いダークグレイの方は、本当に困っています。私の苦労など、「なんてことはない」と、言われてしまいそうな事例がたくさんあります。次回エントリーは、そのあたりを。
Jan 12, 2008
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KY(空気読めない)と言う言葉が流行することは、まあ、わからんでもないです。安倍さんのあの妙な自身に溢れた突き進み方を見ていると、私も「安倍さんってKY?」と、非難してみたくなる気持ちになります。空気を読めないこと、読まないことは、罪である場合も確かにあると思います。子供たちの中にも困った「KY傾向」は、広がりつつあります。クラスのムード、グループのムードをぶち壊すKY発言には、よくうんざりさせられることがあります。例えば、学級会で、クラスでお楽しみ会をしようという意見が挙がっていると言うのに、「エエー」「はあぁ?」と、平気で個人的感情を表に出してしまう子供。例えば、級友がけんかや怪我をするなどのトラブルがあり、クラスが沈んでいるときに、「ニャハハハ」と、全然関係のないところで笑ってしまう子供。子供たちの「KY度」 は確実に増えているし、それが人間関係を壊していることは確かです。「おいおい、空気読めよ!」と、言いたくなることはしばしばです。と、同時に、「KY過敏性」もまた、困った問題です。(KY過敏症1)空気を読むことに必死になり過ぎる人の顔色を見て、空気を読むことばかりを優先し、自分らしさを出せなくなってしまう。そのせいで、お互いが空気を読みあうように牽制するムードが生まれ、気遣い・気苦労が増えてしまう。(KY過敏症2)空気を読まない人、読めない人をはじこうとする「子供らしさを残したストレートな子供」や「個性が強すぎる子供」は空気を読む力が乏しいことが多く、「KY」と非難されてしまうことが多いです。そうして、空気が読めないことが原因でいじめられているために余計にコミュニケーションが阻害され、さらに空気が読めなくなる悪循環に陥りやすいです。そして、この「KY」は、アスペルガーといわれる発達障害を持つ子供に多く見られる傾向です。「KY」が「悪」とみなされる最近の雰囲気はアスペルガー傾向を持つ子供(大人も)にとってまさに、アゲインストなのです。KYであることに、そう過敏になることもないのではないか・・・というような気がしています。
Jan 7, 2008
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モンスターペアレント!? 諸富祥彦 モンスターペアレント関連本は、昨年の間に数冊出ているようです。この本の副題は「親バカとカ親は紙一重」と衝撃的ですが、内容はずいぶんマイルドです(笑)。そもそも諸富教授は道徳関係の著書にも多く関わってこられていて、どちらかというと人格者というイメージです。私は、著者の諸富教授と同年齢なので、親近感を抱いてしまいます。私がこのブログで書き綴ってきたことと共通している部分も多く、うなずける事ばかりです。 このあたりの世代(1960年前半生まれ)が持っている感覚にある程度共通しているものがあるのではないかとも思いました。大学教授がこのようにきちんとした形で本に書かれているということは、実に意味があると思います。一介の教師である私がブログでぐだぐだ拙文を書いても、ただの愚痴に過ぎません。こういう方に、がんばってほしいです。私のブログを読んで共感する部分がある方には、特に読んでいただきたいと思います。-------------------------------- 諸富氏が著作の中で、松田聖子や「オレたち、ひょうきん族」に言及されている辺りは、「そうだよなあ」とうなずけるものがあります。今の親世代(我々)以降は、メディアに影響され、踊らされながら育ったことが特徴だと思います。第3章「日本の親はなぜ“劣化”したのか」の中で、困った親を(1)放任型(2)支配型(3)家来型(4)不平不満型、と、4つのタイプに分類されています。確かに、今の世代の親に共通する部分です。まとめの部分では、昔のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」に理想像を求めたり、「親バカ」を認めた上で「バカ親」にならないようにする心がけについて述べられています。このブログで紹介してきたなぜ日本人は劣化したか や 「悲鳴をあげる学校」 などと同じく、しっかりと現状認識を促すと言う意味で、この本も5つ星だと思います。
Jan 6, 2008
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あけましてオメデトウございます。 年がまたがってしまっても、空気読まずに重いネタを続けます。そもそも、空気読むって、そんなに大事なんだろかと思うこの頃です。先日、毎日新聞で小栗旬君が、「空気読むってことば、嫌い」というような発言をしていました。なかなか、いい奴かも(笑)。昨年はこのブログがきっかけになって、雑誌やテレビに出ることができました。こうしてたいへん偏って書いているのも、学校の惨状を世の中に伝える(=病識を共有する)のが目的です。今年も懲りずに書いていきます。さてーーーー。 香山リカさんは、「なぜ日本人は劣化したか」の中で、まず、「劣化している」という病識を持った上で、たとえすべての「劣化」は食い止められないにしても、どの「劣化」はよしとし、どれはなんとしてでも阻止しなければならないのか。その選別だけでも、明日にではなく今日いますぐに、私たちは始めなければならないのだ。と述べられています。本当にそうだと思います。私の小学校教師という仕事の中で、とにかく選別しているのは「漢字」です。このブログに詳しく私の一教師としての実践を載せるつもりはあまりないのですが、前回のエントリーからの流れもあるので書きます。学力もひどい劣化です。高学年にもなれば子供たちはまさに多臓器不全状態、教科書に書いてあることがろくに分からない状態で、ひどい学校ではまず教科書の漢字にルビを打つことから授業を始めなければなりません。2・3年の訓読みができないわけですから、たとえば「車が横転した」と書かれていても(3年レベル)、それがどういう状態なのか、わからないわけです。つまり、「車が横転した」が「車が**した」に見えているわけです。しかし、もし、とりあえず「よこ」「ころぶ」と、訓読みができれば、「おうてん」とは読めなくても、なんとか意味はつかめるわけです。それが可能になるためにも、「さかのぼり学習」が必要になってきます。「さかのぼり学習」を進めるには(1)まず、子供がどこでつまづいているのか、を把握する。(2)そして、そのつまづきにどういう教材(方法)が効果的なのかを考える。(3)その上で、その教材(方法)を実施していく時間や労力を捻出する。というような手順が必要です。しかし、これが、なかなかできないのです。香山さんの言葉を借りると、漢字の読みができないなどという劣化は、「なんとしてでも阻止しなければならない劣化」であるはずです。ところが漢字の力さえつけられていない教師(学校)は少なくないのではないでしょうか。私も若い頃はなかなかできませんでした。たかが漢字であるはずなのに、できない。(3)を確保するすることが難しいため、(1)(2)もあきらめてしまいがちです。それをここ数年、こだわってやってみた結果、なんとかできるようになってきました。1年も経たずに、前年度のテストの正答率を45%から82%にまで上昇させることに成功しました。前の担任の積み残しを相当解消することができたのです。漢字ができるようになってくると、不思議と国語や社会の学力にも、上昇気流が生まれてきました。できることは、やる(選別)。 できることから、やる(効率化)。できるまで、やる(努力と継続)。そして、できたことを上手に人に伝える(情報の共有)。この姿勢をどれだけ個々のポジションで、グランドビジョンをしっかり持って進めていく人が増えてくれば、クラス・学校・教育界もずいぶん違ったものになってくると思います。今年は、どこまで、いけるのでしょうか?
Jan 3, 2008
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