2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全5件 (5件中 1-5件目)
1
また番組ネタなんだけど、東横インという全国に展開しているビジネスホテル?が、法である程度大きいホテルは障害者に対してのフォロー設備をしなければならないのに、建設時の検査の段階まで障害者向けの設備をしていて検査を過ぎると設備が取り壊されていたのが問題になっていたんだけど、(ご丁寧に図面も検査前、検査後の図面2枚用意して)これは許せんなと思って観ていたら、担当責任者も社長も結構あっさり認め、TVでは開き直ったとかいう風に報道されていて、でも話を聞くと「障害者が泊りにくることなんか「年に1回程度だったから」と言う発言でその事がほんとならまあ彼の言い分もわかるなと思ってしまった。彼に罪の意識などはなかったけど記者の追及に対して落ち込み「罪の意識について考えてきます」とのコメントを残した。彼が悪くないとは思わないけど、そこまでなんでそんな事をするんだ!という怒りもない。お上がそう決めても、現場の立場に立って「やっぱ障害者の利用者が年に一回程度ならそこまで障害者優先にしなくてもいいな」という判断もうなずけるし、障害者のことをまるで考えてないわけどもなく、多分「この程度でいいだろう」という判断のもとエレベーターは障害者用のボタンが取り付けられていた。彼の堂々とした発言を見て法に触れたかもしれないが、そこまで悪い事をしているという意識はないのを感じて「年に一回の利用者」というのは、ほんとかもと思ったし、それなら言い分も分かるなと思ってしまった。もちろん自分が障害者なら「なんだ馬鹿やろー、ふざけんな」と怒り心頭なのだろうが、なにが言いたいかと言うとそれは今の僕の仕事に対する態度にも言えることで「必要性あるな」と感じたことには気概が持てるけど、何でやっているだろうと思う事には気概が持てない。(まあ細かい作業レベルの話なんだけど)人から「あーだこーだ言われたくない」というのもあると思うけど、うん、これはこうで、こうだから、必要という体験、認識がないと、やる気が起きない。こういう不祥事繋がりで「ホリエモンの事件」の時に「お金で人の心が買えるなんてとんでもない発言だ」という報道を思い出た。「じゃあ金でいままでお前は動いた事が一回もないのか」と言いたかったし「ある程度真実じゃないか」とも思った。慰謝料だって和解金だって、まあコレだけもらったんなら許そうという話じゃないのか?「お金をもらった瞬間全く怒りが和らがなかったのか」「お金でお前の心は変化しなかったのか、それで買える、モノやおいしい食事で」その発言で子供達の影響が心配だと言っているのをみて、じゃあいちいちわざわざ、本に書いてあっただけの発言をTVで取り上げんなとも思ったそんな他人のいうことにいちいちぶれない、「自分の判断を持った子供になるほうが大切だし、あそこまでただ本に書いてあった発言に反応するのは「自分たちが事実と認めているからだろうと思う。追記頭からシャワーを浴びるのが凄く気持ちいい、頭蓋が解体されていく感覚がある。最近上半身が前以上に異様にくねくね動く、背骨がバキベキ鳴り連動で肋骨が広がっていく、背骨の可動域が少し広がるだけでも凄く気持ちいい。首の骨が今まで意識していたより長いのだと実感する事が出来た。頭蓋の奥の骨まで背骨として実感できた首のは背骨に頭蓋が掛かっている感じが大切だ
2006年01月31日
コメント(2)
昨日深夜のTVであるドキュメンタリー番組を観て半分しか観てないけど久々に心が震えた。脳性麻痺という障害を持った青年の事なんだけど、一番共感でき、一番最初に見た場面が中学の頃のいじめについて「絶対に、絶対にこいつ等を見返してやる」という気持ちを持っているという場面で、彼の脳性麻痺がどれくらいかというと、もう言葉もよく聞き取れない、、歩きかたも一発でそれとわかるゾンビみたいな歩き方、声を出すたびに顔面がくしゃくしゃになる、かなり重度のものなんだけど、その見返してやると思ったという気持ちは僕にとってはもう忘れかけていたもので、なんとなく示唆的だった。彼は今、従業員彼一人だけだけど自分で会社を創り、名刺に点字を打ち込むという仕事をしている。あともう一人の障害者を一緒にハンディ&キャップというマジシャンもやっている。たぶんその中学時代の思いを胸に秘め、その姿は僕が高校の時のコンクール?、あまり憶えていないがクラス対抗で出しものをするときに、あるクラスの生徒がたった一人で全校生徒と向かい合いブルーハーツの「リンダ、リンダ」をフルスロットルで歌いきったのを思い出した。その時僕は感動し、クラスが一緒の奴にそいつの事を聞いたら、「あいつは馬鹿だ」と言ったので、僕は普段あまり発言はしないタイプだったが「いや、凄い事だ」と思わず反論した。どちらにもいえるのは「自尊心を失わなかったこと」だと思う。マジックをやっている時の彼のファッションからも分かるんだけど、脳性麻痺だろうがなんだろうが「自分を卑下していない」障害者の保障が一割減ることの説明会の時に彼は終わった後市の職員を捕まえて抗議して、去り際に「障害者不公平法バンザイ!!」と怒りを込め皮肉を言って去った。決して失わなかった自尊心の表れが番組の最後に「もう一度生まれ変わっても脳性麻痺として生まれてこの障害を楽しみたい」と言った言葉に震えたのと同時に理解が出来なかった。それは世界がもしも「百人の村だったら」に出てくるこんな最悪の状況で何であんなに笑えるんだろうと思った時との不思議さと同じだった。僕の小学校三年くらいからいじめもあったし「辛いは辛いがTV、漫画、妄想、弟をはけ口になんとか誤魔化していく」学生時代がずっとあった。「自尊心が損失した」その事自体から逃げていた。そのままでいても「周りが認めてくれること」もときたまあった。この時からか?「自分が生きているという感」がしなくなっていった。「別に今死んでもいいし、でも生きてもいいし」と寿命を他者(神)が決めることになんの抵抗もなかった、あがくほど生きたいとは思わなかった。自分という存在が喪失していく感覚。多分障害者の彼はその事を決して誤魔化さなかった。怒りや、憎悪をしょうがない、持っていてもきついだけと思っていも投げ出さなかった。現実直視を避ける問題中毒は今も僕に根付いていると思う。彼のマジックは正直言ってなんてことはない「誰にでもできる手品」だ。その事を象徴するかのように、老人ホームでは同情感、老婆心からか好評そうだが、小学校での反応は悪く、画面にも伝わっていた。名刺だって大体が必要性というよりも同情から買っている様に思う(個人的には点字名刺は僕はイイ人ですよというアピールにもなるから結構買う所は買うんじゃないかと思うけど)彼が社会的に役に立つか、立たないかといえば立たないだろう、けど彼が彼自身であることに大きく意味はある。その生き方に意味がある。何人か社会的に自立をしている障害者とあったことがあるが一様に彼等は「プライドが高い」ように思える。それが無意味な自己主張に繋がっている人もいたけど別の障害者の特集番組で障害者の犯罪についてやっていて、刑務所にすぐ戻ってくる事が問題にされていたけど、「周りから自尊心を汚されてそれを受け入れてしまうか、それらをすべて否定して悔しさをばねにするか」でこんなに違うのかと思った。
2006年01月30日
コメント(0)
前のプログで買った本を久しぶりに読んだと書いたけど、往々にしてそんな感じが自分にはある気がする。本を買ってもすぐには読み込まないし一度読んだ本はほぼ二度と読まない。多分自分も共感、納得できるものじゃないと読み進められない。自分で解らないものは読まない。高岡英夫氏の「センター~」「スタンマックス~」も買っては見たけど全部読んでない。ちなみに究極の身体も全部は読んだと思うけど読み込んでいない。新しいゲームソフトを買って攻略本も買って最初は熱を上げるけどどんなに頑張ってもやっても終盤でやめてしまう。ゲームクリアしたことがない。なんかね話は全然飛ぶんだけど、やっぱ人間「生きているという実感」が欲しくて色々やるんだなとふっと思ったよ。漫画シガテラであった主人公が「風呂屋まで走るけど意味はない、ただ今日も生きてたんだという実感が欲しくて」というのがあらゆる意味でいえると思う。それは人間が生存の危険が減った現代において、ほぼあらゆることの理由なんじゃないかと思う。何もしないのってかなり苦痛じゃないですか、何かをして自分の存在を確かめたがるわけじゃないですかそれは人を傷つけることだったり、助けることだったり、あんま意味ないなと感じていても、むやみに働くことだったり、そこに家族のためだとか、世間一般でそうなんだとかの大儀名文が入ったりして倉本氏の今の生活をPQ開発者じゃない人がしたら結構辛いと思いますよ。何か意味のない事でも何かしたがる。それは行動することが人間の本能でもあるし、同じことの繰り返しは飽きると言うことでもあるし、でも何より「生きている実感が欲しい」だと思う。PQ人だからこそ、何もしなくてもそこにあるだけで、そこにある身体を感じるだけで「生きている実感」がある。そこに少しでも飽きればもっと深く身体を感じるようにする。それが出来るだからぶっちゃけ他者はそんなに必要ない。自分は自分他人は他人の冷酷さがどんな関係において持てる。僕は実家に居てアルバイトやっているだけだから今社会的に見たらクズみたいな生活をしていると思いますよ。見下されてもしょうがないし、軽蔑されてもしょうがない。それは認めます、事実そうだから。でもなんか世間に対してカッコがつくとか、そこに入れば安心だからとかの理由のみで人生決めたくない。結局「ポーズのみ、カッコのみ」は嫌だなと思うんですよね。「明日も今と同じ生活送るためだけの人生にしたくない」だから今と同じ生活の人生を自分で決定した人はその生活に意味を見出すか幸せを見出すか、無理やり意味と幸せを見出そうとしている」コレはみんな同じで、だから恋愛とか苦行とかしたがると思うんですがこれはみんなにじゃなく結構自分に言っているですよね。やっぱ社会的にこのままじゃいけないって思いますもん。焦りますもん。でも焦って考えなしにやったって主観的な幸せ感は持てないとも思いますしね。PQ開発で身体の存在の実存が深まっていくと「世間に対する遠慮」がなくなり、生きる実感にいちいち他者を必要としない。これが最近ほんのちょっとで確定的じゃないけどわかりつつある。もっと僕が僕になっていく感覚がある。僕が僕であることが前提条件でないと社会的成功も、誰かとも特別な関係も意味はないし価値はないんだなと思います。追記メキシカンギターのあのジャカジャカンとした音楽がやっぱ好きだなと再認識し、ダンス、踊りとかいいよなとも思うようになるなんか生命を感じる
2006年01月26日
コメント(0)
ずいぶん前に購入し、しばらく読んでなかった「動く骨」という本を読みそこにある「体幹内操法」が前よりも実感できていることに気付く。この本は前にトヨタのエンジニアをしていた人が書いた本で全部力学的に身体を解説している。今の僕にとっては高岡英夫氏の本よりはわかりやすい。実感があるということ。眼球の動かし方解説で普通の人は余計な力で動かしているが、眼球の後ろには数本の筋肉があり、それを後ろに引くことで眼球を回すのが本来のやり方であるとか(例えば右を向く場合右の筋肉線を後ろに引く)あと、頭と胸部と骨盤に三つの球があるとイメージし、それを左右に交差させる線で繋ぐ、その線を引くと連動的に球が回り、より効率的になる。とか(かなり説明べたで、ちゃんと伝えきりないけど簡単に説明するとそんな感じ)言っていることはね、高岡英夫氏よりは深くないけど、(コレは高岡式でいうとフリークライムのことだなとかが散りばめられている)だからこそ解りやすい。意識するのが比較的簡単だと思う。精神的、意識的なことは省いて、運動そのものに絞っているから簡単。よりそれら三つの球を意識する運動も紹介しているし、組織分化に結構いいんじゃないかと思う体操も紹介している。PQ初めての人は初歩としてやってみるといいと思う。最終的には高岡英夫氏の深さを目指すべきだとはおもうけどさっきネットで調べてちょと面白かったのがこの本を書いたひとも「運動脳力開発研究所」というのをやっていてセミナーがあり、なにやらフリークライムを体得するための器具を販売しているということ、高岡英夫氏とやっていることが一緒だな。
2006年01月26日
コメント(0)
皆さん久しぶりです。しばらく、パソコンから離れていたんですがPQ開発はやっていましたよやっていて感じたことについてバァ~と書きたいと思います。倉本氏が左右非対称をプログで書いた少し前に、自分の身体の左右の重さが全然違うなと風呂に入っているとき感じました。本当のセンターは右よりあるべきだという意見のレベルまで実感がないんで反論はできないけど、自分の身体は左の方が重いと思う。なにが重いかというと筋肉の総量が左の方が多い、それは左肩、左背中、左尻、左腿、左ふくらはぎ、どれも右に比べて重い、左脚のほうが長く感じるだからと言ってセンターは左よりに感じるわけでもなく右よりのほうがしっくりはくる。何で左が重いか色々理由を挙げてみた。直接的理由は、単純に左筋肉ばかりを使っているからだと思うそれは鳩胸で心臓が完全に左にあることも関係していると思うし、背骨の歪みも関係しているだろう、後大腿骨が左のほうが長く感じることも関係していると思う。右よりのセンターを中央に戻したくて左を無意識的に使い重くしたとも考えられる。まあ結論は今は出ない。(一度レントゲン検査でもするか)追記最近風呂に入ると肩から首、後頭部に掛けてシャワーを浴びるのがむちゃくちゃ気持ちいい事に気がついた。
2006年01月25日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1

![]()