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今、一年前に買ったリリーフランキーの東京タワーをやっとこさ読み出した所なんですけど結構グッと来ることは何度かあったんですがまだ泣けてないんですよね、大笑いは何度かしましたが(笑)、面白くです、僕こんな長時間本を読んだことありません。あのオカンは死んだ婆ちゃんに似ているし、もしかしたら最後で号泣するかもしれないでなんで泣けないのかなぁと思っていたんですけど、今までTVや本を読んで泣いたのって自分にリンクしている部分があったからなんですよ、至極当たり前なんですけどね。そのことに気づいてから僕はなんて自分のことしか考えてないんだと改めて気づかされて、知ってたんですけどね、本屋にいっても、自己啓発とか、性格分析の本に興味をそそられるし、でも生理的レベルでそうなんだなぁと思い知らされた感じで本を思い返してみて思い出したことがあって、僕は前に宗教の施設の本部に居たことがあったんですけど、いや決して怪しいところではないんでけど、と書けば書くほど怪しくなっていくんですけど(笑)、う~、危険なところではないです、はい。その時、人の病を治すための祈りを繰り返していたせいか感じたことがあって、みんなの前で感想の発表みたいな場があって言ったんですが「人を助けようとする心がそんな心を持てること自体が幸せなんだ」と言ったんですけどそれは多分、人のことに手が回る余裕があるから幸せだということでいったんだよなぁと思っていたんですがあの場所で感じて僕が言った言葉の意味は違っていて、僕の自分のことしか考えてない所と、東京タワーを読んでいて気づいたんでけど「自分という枠を超えられた状態、自分よりも大きな存在がいるとこと」で自分いう鎖が取れた状態のこと「一時でも自分を忘れられた幸せ」を感じていたと思うんですよそれは宗教でにわか仕込みで祈っていた僕でも感じられたことで、それはあの本に書かれたような親が子のために身を犠牲にすること、まごうことなき愛情、ジョジョのディオを崇拝していた狂信者達の気持ち、う~、この二つを一緒にしてしまうのはやっぱ抵抗感ありますが、村上龍の「シールド」に書かれたいたような?、自分の存在より大きなモノのところに居るする「安心」自分のことをを忘れられる幸せ、それは自分の人生に意味を見出したということなのかもしれない。う~、やっぱり親が子をというのとそれらは違うような気がしてきたなともかく、その行動がどうあれ、狂信者であれ、子への愛情であれ、正義のために悪を倒しに行く旅であれ、自分の存在よりも大きなモノに身を委ねるのは、自分を忘れられる何かがあるということは「幸せ」な状態なんだと思う。それが自分の奥底が納得いった場合、無理してないことが条件だけど漫画のカイジについて書くことは昔は、あの世界観に引き込まれていたんですよね、勝つべくして勝つみたいな、多分今もでもあの世界観には「救い」が無いなぁと思っていて男が凄い無理している感じ今はしていてあの世界観で勝っても負けても虚しいなぁと感じています。結局ああいう風に割り切ろうと思っても割り切れなかった、いくら真実を突いていて心揺さぶられても、あの世界観では僕は渇くだけのだと思った。
2007年03月15日
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僕は夜とか深夜人のいない時間帯に歩くのが好きで、それでカラダの会話しているという感じなんですが最近、地球の中心(地芯)をカラダと一緒に別々の存在として意識してやるといい感じだなぁと思ってて、それだけではダラケタ感じになるので頭の位置というか(天芯)も重要何だけどなんかこう、とっかかりはそれでいいんだけど、なんかもっとそれではもっと奥にはいけない感じがしていてカラダが自分と全く別の存在なら、カラダを意識して動かすのじゃなく、同調してみようと思って、全く別人として扱い、心臓の鼓動、血管の拡張感に同調する感じにしたんですよね自分の意識が届かなくて完全にカラダの部分ってそこだけだと思ったんで(風呂上りとか判りやすいと思うんですけど)そのうち、こう、自分の奥の方にあった柔らかな部分が顕在化してきて、なんかちょっと心が現れたような気がして、優しい気持ちになってちょっと感動してたんですねこれが自分だというような感じで凄く感傷的な気分でこの弱い部分をさらけ出したかったんだな、別に誰かじゃなくてまず自分自身に気づいてほしかったんだな、というより、自分で気づければそれでいいというか、誰かに表現しわかってもらう必要の無い「聖域」という感じでカラダ的にいえば、常に変化流動している生命活動を意識にあげることができた感じかななんかそこの部分は常に外圧をいうか、「外の環境」に抑えられてて、僕らが「外」の都合でいつもカラダを操作していて、ないがしろにされていた部分だと思うんんですよそれは部位でいえば体幹部の生命活動を司っている毛細血管みたいなそんなあいまいな部分でしか今は表現できないんですけど、腕を動かすときに腕そのものを動かす人が普通の人で、体幹部から動かすのが身体意識の高い人、それよりもっと奥の生命活動を司る部分それは自分の意識が届かない世界、「カラダが勝手に」の世界ちょっとこれが僕の今の限界みたいなので言いたいことを簡単に言うとカラダの奥に眠っているのは柔らかくて、弱いから外の環境によって、すぐに変化する優しい部分それを社会活動と直結させるのが僕ら意識側の役目なんじゃないかと思いました。
2007年02月19日
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まあこの話で僕が伝えたいことは、みんな違った世界で生きているということで、それは何というか概念的にそうだということではなくて、全くもって物理的(?)にというかとにかく徹頭徹尾そうだということでその「脳と心の洗い方」という本に「仮想化現実」という言葉が出てきまして、「冬ソナロケツアー」というのがあったじゃないですか、ドラマに夢中になった中高年のお嬢方がこぞって行っていたとされるツアー。きっと何にも知らない人からすると何も面白くないと思うんですよ、チラッと見たけど何にも無いところじゃなですか、多分それでもそこに行けばそのお嬢様方の脳内はヨン様が優しく微笑んでいる世界にいけるわけだすよ、つまりその物理的現実自体にもう物理以上の脳で意味づけされているから、そういう幸福感を味わえるわけですよこれは捨てられない彼との思い出の品とか、あの娘の縦笛とか、ブルセラで売っている女子高生のパンティー(笑)との対象が「今そこにある世界」に変わっただけということででその本に紹介されているのは、極端な言い方をすれば「今自分の五感で感じていること全て」をそういうもの幸福感を感じることで意味づけしようということで僕は今までこういう感じの本を読んでも、それは自分で自分を騙しているだけだと毛嫌いしていたんですけどこの本を読んで思ったのが社会や、世の中に洗脳された、脳で生きるか、自分の脳を自分で洗脳してしまうかの違いだけとも考えられるなぁと今書いていて思ってしまったんですけど(笑)今までの僕だったら本質を生きるという方向に悟りを開くみたいな方向に行くと思うんですよでも倉本さんに、(倉本さんが悟りの境地に立ったことがあるかどうか分からないですが(笑))悟りの境地に立って「石や木のように生きてもしょうがない」「山の奥で仙人達人になってどうするの」みたいな感じの言葉をDscで言われたんですが(しばらくhotmail開かないでおいたらメールデータ全部削除されてました)でここでまた「フィシャーキング」の話に戻りますその自分の世界にどっぷりつかった精神異常者のそうなってしまった原因というのが奥さんと二人でレストランで食事をして、幸福な時間を過ごしていたら突然男に銃で撃たれて奥さんが死んでしまったそのときのトラウマで結果的にそうなっていくんですけど犯人がそういう行動を引き起こした原因というのはラジオのDJの責任の無い適当な言葉でその時のDJというのがその事件が原因で強迫観念に侵されて心がすさんでいた主人公なんですよでまあ主人公(名前はジャック)がその精神異常者(名前はバリー)に罪滅ぼしのために色々と恋愛の世話を焼いていて、でまあココからが重要なんですけど、その恋が実った途端ジャックも人が違ったように変わるんですよ、病状も改善し、怠惰な生活をやめまたDJに復帰すると言い復帰する。まあここから一波乱、というかそのバリーの恋が実った途端一波乱起きているんですけどでまあココで言いたいのはジャックはバリーの人生が幸せの色で色づき始めた途端、自分の後ろめたさ、罪の意識と決着がつき自分自身が好転していったということでこれはジャック自身が納得したからに他ならないと思うんですよ。言ってなかったけどその事件では7人死亡しているんですよね、このことから単純に考えるとジャックの罪が許されたかというと許されてないわけで、その7人にも遺族はいるわけですからけどジャクの魂はバリーの恋を実らせたことで納得した実はこの後ジャクが取り戻した全てを捨てて、また納得を必要とする場面がまた訪れるわけですがでここで「自分自身の納得」というPQと繋がるわけですでね、そういう「自分の納得を一つ一つ重ねていくことがPQ人生なんだろうな」と僕は今納得をいうことの重要性を改めて納得したわけです。(笑)努力というのも納得の形の一つだと思うんですよね、ただそこには自分自身が思っている世間的見解というのが入っていて、PQノートにもあった「これだけやったからこのくらいだろう」というのを世間的見解を基準にした自分的見解で納得しているんじゃないかと思います。脱洗脳する段階で物理世界のみの観点に立ち悟っていることは重要であり、洗脳が解けたら世界を自分色に染め自分だけの納得を重ねていく
2007年02月13日
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あっ、そうそうあれです、あれ!苫米地秀人(とまべちひでと)さん、ややこしい名前ですね。こんな本を出している方の本の「脳と心の洗い方」という本を読んで、昨日「心の操作術」という本も手に入れたんですが、何というかPQにもリンクしているような気がしてですね、どこがどうと説明するのはややこしいんですが、本自体が何か読みづらくて、解釈の仕方が僕の納得行く形でなかなか落ちてこないんですがこの方は脳機能学者始め全日本気功会理事までざっと十数個の肩書きを持っている何やら凄そうな感じが全面に押し出ている人で「オウム信者の脱洗脳」で一時期マスコミにも名前が上がった人物らしいんですがまあ本の大まかな説明をすると「僕達は、まあ社会に洗脳されていて、そこを脱洗脳して、そして自分のイメージ通り自己改革できる」という自己啓発本なんですが最近、こういう深層心理の本にまた興味が出てきまして、色々読み漁っているんですがまあ、そんなことはどうでもいいんですが僕が興味が沸いたのは、その方法とかそんなことよりも、脳のシステムというか映画マトリックスの世界の原理が実際起こっている、まあそうなんかなぁと思っていたことが脳科学というメインストリートでメジャーなところからそうだと言われたのでちょっとショックというかPQが世の中のメインストリートに乗った時の一般人の反応を体験できたのかなぁと思ったんですけど要するに世界は自分の解釈しだいでそういう風に実感できるということで、それを臨場感を持って脳の記憶と機能とイメージを持って創作(妄想)すれば実際にそれが起こったことと変わらないという事が、脳科学という確かなところ(?)からはっきり言われて興味が沸いたということでで、昨日「フッシャーキング」という映画をみたんですよ、最初は何の映画かよくわからなくてただタイトルに魅かれたのと、おっロビンウィリィアム出てんじゃんみたいなノリだったんですけど、最初はなんかつまんなそうだなぁと思ってて完全暇つぶしだったんですけど・・・あっちなみにちゃんと脳科学の話と繋がってますよ、大丈夫ですよ(笑)えっと、そうまあ出てんの全員常識はずれなんですよ世の中的には、強迫観念に侵された主人公とレンタルベデオ屋を経営している”すすけた”感じの女主人、汚くいうと「アバズレ女」のカップルが、本当の精神異常者、とよく社会生活できてるなぁという感じの女性、この二人の前では、そのカップルきちんとしている常識人みたいな感じになって、ああ集団の中の役割分担ってこういう感じのことかなぁともおもったんですけどえ~話したいことはそんなことではなくて、その映画の中に精神異常のホームレスが出てきてですね、妖精の声が聞こえるだの、自分は聖杯を敵から取ることを神から任されているとか自分の妄想の世界を現実に持って来ている人がいるわけですけどでもまあカレの脳内で起こっていることは、その脳科学の見地から言えば現実に起こっていることとまあ変わらないわけですよね。幻覚とか幻聴とか言うけどかかっている本人の世界では全然幻じゃないわけですよつまり僕が感じている現実が誰がどう言ったって僕の現実なんです、本物の現実なんですでここで脳科学の本に移るんですが、その本で言われていることは、悟りの境地を立っている人以外みんな自分の現実の中で生きている、そしてその現実は社会から、親からそう思わされた現実である、ということだと思うんですよじゃあ常識人とされている人はどうなんだというと社会システムの必要性としてみんなが同じ現実に社会から洗脳されているということだと思うんですよ。だから同じ現実を共有できるそれ故にそれだけが現実と思い込んでいるもちろん全てがそうだとは言えないと思いますが、基本的には同じ設計図で作られた生体なんで、確かにある誰が現実でも変わらない「本質」というのがあると思います。はい、自分でも書いていてこんなに怪しくなってきてビックリしています(笑)(続く)
2007年02月13日
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お久しぶりです長いこと離れていたんですけど再開します、離れていた間身内の死などもありまして、今はまた無職状態で時間も余っているし書き込みを再開します。なんか書くネタがあったはずなんだけど、何だったか喪失してしまったんで最近僕の大腰筋がちぎれるほど笑って、地獄の苦しみを数分間味わったネタを紹介しますムーディ勝山さんです!どうぞこちらへ僕、これ好きです(笑)
2007年02月13日
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前回の続きになるんですけど、多分、夢とか憧れとか僕を持ちにくいのは前回に書いたようなことが原因のような気がします。自分が目指しているものが本当なのかどうか、目標、目的が確かなのかどうか、自分の中の衝動というか望みは実感としてわかるけど、今自分の目指しているものでそれが解消されるのかどうかの確かな感覚がないから、なかなか進めない。う~ん希望を抱く前に絶望していてそれで自分を守っている、これは前回の対人について書いたことと一緒だと思う。絶対的な感覚、これが僕の目指すものだという絶対的な感覚が欲しいけそ、でも半信半疑のままでも進むしかないのかもしれない
2006年10月19日
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最近改めて実感として思うのが人の「本音と建前」が僕の一番の人間不信の原因だなぁと思います。「本音と建前」を使い分ける人に心を開けないんですんね、やっぱり影では何を言われているかわからないという恐怖というべきなんでしょうけどそれと同じ理由で余りに健全過ぎる男性も信じられない。何というか「建前」だけの男性というか、「奇麗事」だけの男性というか結局自分は人「本音」を見ようとしすぎる癖があるというか、でも結局それは自分の推測の範囲しか出なくて、相手が答えを提示してくれるわけでもないから、疑って疑って終わってしまう僕が見ようとしている事、感じていることと、他人が感じていることはかなりズレがあるのかも知れないと最近思います。僕だけが他人の深くまで見ようとしているのかもしれない。それは他人の言動と態度の裏側を見ているということで、他人を信じていないということになるんでしょうが
2006年10月17日
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カラダとの対話というか、感覚をチェクする時脳から対話を始めた方がいいなぁと思う、自然な感じがする脳から緩ませ、カラダを意識してみる。脳は司令塔だから当たり前といっちゃ当たり前なんだけど、それと大腰筋あたりにも対話を向ける脳と大腰筋この二つが自由になれば身体的には楽なんじゃないかと思う。大腰筋を餅のような意識で掴めるとさらによい話は変わるけど、問題中毒完全版にも書かれてあったが、共同体への恨み、集団の中で疎外された経験を持つものがアウトサイダーとなるとあったが昨日あたりからそれを実感し始めている。「集団の中で個人を完全に発揮できなかったという思いでがあり、集団に恐怖し、嫌悪している」この逆が本当かも知れないがまあなんにせよ、これは僕個人が勝手にそういうことにしてしまっただけでなのかもしれないが昨日あたりから自分の中にある「根」の精神を根強く実感している。僕は多分PQ開発で「根」を忘れようとしていたんだと思う。忘れて毎日を楽しく過ごそうみたいな「根」を持っていたって自分が苦しくなるだけだし、争いの種になるだけだ、面倒の種になるだけだこれは一番最初に倉本さんのプログに書き込むとき同じようなことを書いたと思うけど。スピリチュアルな方向に進むとそういうのが無かったことにされがちで、多分僕が生きている理由があるとすれば、前に進もうとする意思の根源は復讐者としての意識だと思う例え共同体、集団の中で居場所をあてがわれたとしても、不快にしか思わないだろう。だからといって居場所を確保するために自分を強く主張し、今までの場を崩すことはしたくは無いそうすることによって誰かが嫌な思いをするならなおさらで、いや自信が無いだけだと思う、その人に代わって役割を引き受ける自信が、と言うよりも怯えているだけだ、他人の評価に書いてみて思ったけど、これはただの自惚れだな、僕の方がいいと決め付けている集団の中できちんと自分なりの繋がりを体現しながら、たった一人の自由を体現する。それが僕の理想だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・やっぱり独白調だ(笑)
2006年10月13日
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前回の実は時間の関係で途中までだったので追記させてもらいます。前回の感覚の話の追記としては、骨までというか骨が重力に地球に引っ張られるという感じでカラダの中で一番感じなければならない、感じやすいのは骨で骨の完全活用、出力0運動をするには、多分骨と地面を対等に感じることではないかと思います。ともに硬いものなので「カラダの外にあるもう一つの骨」というか、そういう感じで地面を捉える前回何故あのホームページを紹介したかというと、ああココにもう一人「倉本啓造」がいると思ったからと言えば大げさかもしれませんが、自分ひとりで苦しんで、あらゆる本を試して自分なりに解決法を見つけ出しそれを同じ苦しみを持っている人に与えることで収入を得ている。ああ倉本さんの人生パターンと一緒だなぁと思いました。もう一つの理由としては、恐怖のパターンの解体にもっと何か方法はないかとおもったからです。よくスピリチュアルの世界でもいわれていて、PQでも言っていたのは「捉われに気づくこと」ということですが、それに気づくだけではやっぱり物足りないんじゃないかという思いもあり、それだけでは恐怖のパターンの脱却ができないと感じているからです。あのホームページには、その「対人」に関してですが脱却の仕方のことが書かれてあり、参考になればと思い紹介しましたまあ、自分も同じ様な思いをしているということもありますが
2006年09月18日
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久しぶりにプログ書いてみたいと思います。ディランさんのプログでも地球の重力のことが書かれてあったと思いますが、身体内部を感じるということは具体的に言えば「重力を感じること」だと実感しています。何というか地球の奥底まで沈んでいく感覚、落ち続ける感覚倉本さんの言っていたことが少しわかったような気がします。「地に足が着いている」という感覚、骨以外の全てがもう地球の重力で落ち続けている。たわわに実ったぶどうのような感じで、内臓も筋肉も引力にひかれているから足がべっとり付いている、すなわち「骨で立つ」感覚が得られる。立つという行為を完全に骨に任せる、他の全てが落ち続けているから任せられる。まあそんな感じのことを実感しました。これはなんだか安心感がありますね、なんというか僕一人で全部やらなくていいというか、重力を通して地球を感じるというかこれを身体レベルじゃなく、自意識レベルで体得するということでバイブルにもあった「一つ上の高次元のレベルから解決する」というのが目指すべき目標かなで、話は変わりますがプログを紹介しますhttp://hamamotonaoki.fc2web.com/
2006年09月16日
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先日行われた亀田戦が話題になってますが僕も見てました。僕は基本的にはあれでもいいんじゃないかとおもうんですよね。試合はたしかに相手選手はダウンを取ったし、ダメージも薄かったような気もします。僕も亀田の敗戦だなぁと思ったし、まあ、ぶっちゃけ僕にとってどっちが強かろうとどっちでもいいんですよ亀田選手は最後までk0しようという気概がみえたし、僕はダメージ回復のためにクリンチする選手って嫌いなんですよね、(最後少ししましたが)だから見てて楽しめたし、最後の「親父のボクシングが世界に通用することを証明することができた」「親父ありがとう」の言葉には涙が出そうになったしそういう感動ストーリーを楽しめたまあそれで充分です。僕としては全部k0して三階級制覇をするというストーリーの方が良かったんですがう~ん、なんでこんなにこだわりがないかというと僕の見立てだと亀田の負け、もしくは引き分けかぁくらいだったんででも相手選手が勝ったという気もしないんですよね、まあ試合の判定では相手の勝ちだろうという気はしましたが基本的に試合は俺の方が勝ったというにはk0じゃないといけない気がするんですよねそれは相手の選手も同じで判定がおかしいというのはわかるけど、そこまで持ち込まない完全なk0決着で白黒はっきりさせろといことでね本当の勝敗については僕はk0以外に認めないといことで、判定に持ち込まれた時点でどっちもどっちだったといことでね。亀田は最後までk0を狙っていた分好感が持てたし、あの不遜な態度も世間をボクシングに注目させるためだというのをTVで言っていたんで、まあいいかなぁととりあえず僕は楽しめたし今度また再戦するならそうなったストーリーもおもしろそうだからヤレ、ヤレという感じだけどTBSの陰謀で勝たせたんだろうとなんだろうとレコ大より亀田の試合がおもしろいと思うし相手選手に失礼だとは思うけど、だったら亀田をk0して、TBSを陰謀を潰すというストーリーにしてくれたら、それはそれで面白そうだなと思うし僕は再戦して、どっちが勝ってもいいんでとにかくk0ではっきりさせて欲しいという気持ちです
2006年08月06日
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これって多分滑落の動きということになって、前に倉本さんが書いたことがあるような気がしないでもないけど、高岡先生の本にあったかもな0出力で歩く時の推進力の元は頭の重さだと思う。僕は肩というか、首が凝っているんですけど、それって首の筋肉が頭を支えているということでそれをウナにまで流すって前俺が書いたような気もするなまあそれが実感できたという話で腸腰筋郡を意識して動かすというは分かるけど、じゃあそのエネルギーの元はどこから来るのかというと、頭の重さで、首とか肩で支えることなく、背骨を通してその下の骨を通って重さの反発を地面から受けて、それがバイーンという感じで腸腰筋郡を動かすみたいなつまり頭の重さを地面にまで伝えてグラグラで潰れそうになる所を腸腰筋郡の部分を解放しバイーンと前に進む、滑落というか、頭の重さを推進力に変えるということだということに気づいたかなりベタな話だけど頭の重さを首や肩で支えること無いように意識しようというか、そういうことが発生している恐怖パターンを超えていこうということかな勘だけど頭を使って考えると肩こりが、いや恐怖や不安が肩と首には宿るのかなそんな気がする
2006年07月14日
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大体の職場で、その仕事には意味がありますよという夢を観させる存在っているじゃない個人的な主観の見方になるけど、くだらなく思っているのにもっとこうすればいいんじゃないか?こういう気持ちで行けばいいんじゃないか?とか、それには意味があるというか、こういう風にすれば楽しいでしょうとかいやいやその行為(仕事)自体に価値を感じられないんだよまあそれを言っちゃお終いじゃんということ何だけどまあ倉本さんも前に書いていた、厳然たる事実レベルの事柄とそれに対する意味づけということになるんでしょうが(写真とか、今は全然使ってないけどなんとなく持っているものとかね)だから仕事には自分の個人的な思いを満たされるものというのか必要になってくるフツウの仕事より給料がいいからとかそういうのでも全然0kだと思う。ただ世間ではこうだからとか、これが普通だからだとか、自分が望んでいることを実現できる自信が無いからとかで、なんとなく出来そうなこと、世間に許してもらえる範囲で生きていても楽しくは無いそんな生に魅力を感じない、そんなの死んでないだけだ出来るか、出来ないかの確率の問題でも、可能か、不可能かの可能性の問題でもない、自分の心の根っこの部分がそれを望んでいる。それはもうショウガナイ事、もう覚悟とかじゃなくて、諦めに近いどんなに頭の中で理屈をこねくり回しても自分の根っこの部分が納得しない。これは成功、失敗でもなく、この部分を納得させるまでやってみるしかないのかもしれない。どんなに不可能と呼ばれようが僕の心根っこが今それを望んでいる。そうやって生きれば完全燃焼できる人生に突入できる僕は倉本さんから、DSCの一番始めに「リーダー的役割」を果たして「理想的職場作り」を天職発想すべきと言われてたんだけどリーダーというのは基本的に「夢を見させる存在」だと思う、いまやっている仕事に夢を見させる、価値のあるものだと思わせる。まあきっと恋愛においてもそうだとおもう、「女性に夢を見させる」ホストがよく言う台詞ねだから冒頭に書いた自分がなんだか嫌っている存在になるということになり、奇麗事ばかりおっしゃるさわやか系になるということになるんだけど「うしおととら」という漫画の最後の最後の白面の者との戦いで白面が「我はどうしてああじゃないんだろう」「我はどうして黒いんだろう」という台詞に共感を覚えるそんなのは百万回くらい思ったことだろう。でもやっぱりそれじゃ人と人とはなかなか繋がれない、事実レベルだけでは繋がらない僕は心底さわやか系にはなれないと思う。もっと確信犯的に夢は夢だと割り切ってやっていくしかない。確信犯的なさわやか系になるのはまだ遠慮を覚える、メッキのような感じがする。自分がやっぱりうそ臭い人間のように感じる。冷酷さがまだ足らないのだろう。
2006年06月19日
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僕は繋がりを求めているようで求めていなかった。繋がろうとすると窮屈になる、個人の想いが圧殺される、息苦しい。俺達仲間だろうとか、集団の中に入ると暗黙的にその集団の中で果たさなければならない義務というかそういうのが生まれる。それが鬱陶しい、個人として生きたいという欲求を抑えなくてはならない。それはきっとでも「当たり前」のことなのだろう。寂しいという感情を忘れるにはそうしなければならないきっとフツウはその集団の中にいても個人を失わずにいるには「自分の人生を」と望むなら、人は一人なんだということを徹底する、自分のルールの確定、その集団にいる理由、自分がココで生きている理由、を納得のいくまで明確にすること自分の本当と他人の本当では、人は本質同士では繋がれない。僕は心の底での望んでいたことは「僕の本当と他人の本当で繋がること」だったけどそれは人間という生物としては無理なことかもしれない繋がりたいのならその集団での義務は果たす、もっと言えば「その集団の中で愛を与える存在になる」それで繋がる、ただしそれが出来ない、個人の思いがどうしても消えない人は人のためではなく、自分のために生きたいと願うなら、自分のルールを明確化することそのルールままに正直にで生きようとすれば孤独になるだから繋がりたい、これは矛盾しているけど本心だそれならば愛すればいい、愛されたいのなら愛することだ優しくされたいな優しくすることだ僕は今までそのことが「結局人のため、あなたのため、と言っておきながら自分のためじゃないか」と心の中で嫌悪していた、奇麗事ばかりだと、結局自分のことしか考えてないとだから自分の本当と他人の本当で繋がりたかった、本当の繋がりとはそういうものだと信じていたというより、そういうのを望んでいた。人は一人なんだ、本質同士では繋がれないんだ、個人の想いを集団の中でも実現しようとするなら他人拘束や縛り、あらゆる問題中毒を解決しようとするなら「自意識の独立」が必要、それはきっと孤独を引き受けることだと思う。寂しさは人を愛することで消える、けど孤独は消えない
2006年06月06日
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最近PQ開発がおろそかになりがちだ、やらないといけない、自分にとっては重要なものだと分かっていても、面倒くさいし、最近はなんだか沈んだ気分だし、自分のダークサイドをどう処理していいか分からないといのもあるが、やっぱり寂しいという感情が大きい、これにつかまると動けない、行動不可の状態に陥る。やっぱり人生楽しんだもの勝ちだし、心から笑える最高のものにしたい、嘘でも偽善でもいいじゃないかとわかっているけどやっぱり見え透いて見えるからなぁそれにしても、やっぱタモさんはおもしろいなぁ、ああいう生き方がいいなぁ
2006年06月02日
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前回のプログの追記としては怪しげの言葉を使わず書くとしたらカラダをほったらかしの状態で(意識の介在をさせない状態)で観察者の目線に立てた(第3者の立場)ということなんだと思う。意識的にココを意識してというよりは、普段は徹底的にこの目線でいいんじゃないかなこの目線で観て、ああココが大事なんだなと自然と分かるみたいな意識の介在をさせない状態で自然と必要な筋肉だけを使う後こういう目線に立つことがPQ禅なんじゃないかと思う意識の介在が無いカラダを感じる
2006年05月24日
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「そこにあるカラダ」という前に書いたプログで、似たようなことを書いたんだけど、ずいぶん前から僕は普段どういう状態であるべきか、どういうことを意識すべきか?というのを考えていてPQでいう「自分の感覚に正直に」「本能と衝動に素直に」と言われても、そうやろうとしても「その感覚とか本能とか」をいまいち掴み取れてなかったんですけど瞑想のことを書かれた本の中に、「人間は肉体があって魂があると思っているけど、それは間違いで、魂があって肉体が存在している、肉体の中に魂があるのではなく、魂の中に肉体があるのだ」という言葉にピンときてある宗教の教えの「肉体は神様から借りたもの、いつか返さなければならない」という教えと、PQでいうところの、「カラダにはカラダの都合がある」という言葉を感覚として理解できたような気がする。やっぱり魂や精神なんてものは「肉体の中じゃなく、外にあるんだ」所が一番の理解のキッカケになった気がする。カラダを完璧に自分とは別の存在として捉えることができた、別の存在として感じているからこそ、カラダのことがよくわかる「カラダというのは、いろんな事を感じるための道具」という事に納得がいった「カラダが求めているものが実は一つだけで、快楽(抑圧からの解放も含み)のみ」なんだよね、で、それを今の社会状況の中いかに敵(不快なもの)を作らず実現するかカラダというのは魂の鏡で、今あなたはこんなものを求めていますよという信号を送るためのものという感じもする。う~ん段々話が怪しくなってきたので、これでお~しまい。
2006年05月23日
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僕は人はそれぞれであるべきだと思っている。ルールにこだわる人がいてもいい、熱血な人がいてもいい、自分だけの価値観を持つことはいいけどそれは「人に強要すべきではない」、大多数の人と違う価値観を持つ事は卑下されることでも、馬鹿にされることでも、見下されることでもない、もしそうされているとすれば、それはそいつ等が人と比べることでしか自分を確認できないからだそして、人間というのはそういうもので、人を介在してしか自分の価値を感じられない、誰かに認められ、誉められたい、他人の評価の中でしか自分の価値を感じられないからだ高い評価を得るために生きている、だから不可避的に人を見下し、馬鹿にできる低い評価を持つ人間が必要になる。自分は人より金を持っているから幸せのはずだ、女にモテルから幸せのはずだ、普通より上だから幸せなはずだ、誰かと一緒にいるから幸せなはずだ普通こういうのが「幸せ」ってはなっているから幸せなはずだ僕は自分に自信が無い、だから自分が正しいと思えることをしたい、間違っていると気づけば正せばいい、それだけだ誰かに教えられたこと、道徳、教理、普通、常識、それが本当にそうなのか?それが正しいのか?そもそも正しいって何だ?もし誰かが言ったことが100パーセント正しいとしても、僕にとってそれが重要なことなら僕は手放しにそれを信じられない、自分で確かめたい、それが正しいかどうか、「納得」が必要なんだ僕は自分自身であり続けたい、だからそれは僕にとってはどうなのか?を確かめたいし、自分自身であることを表現していきたいこうあるべきだ、あああるべきだと言われたくない、自分がどうあるべきか、どうありたいのか自分で決める僕はただ自分自身であり続け、それを表現したい、でも自分に自信が無いから、他人に胸を張って表現するために、それが正しいとどうか、本当にそう思っているかどうか、をきちんと確かめたい、例えそれが間違っていたとしても、自分が正しいと思えるものをやっていきたい、間違いに気づけばその都度正せばいいそれが自分の人生を自分で生きるということだと思うそしてそれは人に強要してはならない、自分の生き方で処理すべきだ僕が人にいうとしたら、「それぞれであるべきだ」ということだろう、だから人に何を言われようが必要以上に傷つくことは無い、自分を否定することも無い、何も誤魔化す必要はない、普通がどうあろうと自分が最高だと心から思えるものが最高だし、それが飽きたなと思えばやめればいい、こだわる必要なんて無い僕は人が怖かった、自分自身を表現してそれが傷つけられるのが怖かった、評価が怖かっただから正しさが必要だった、不用意に傷つかないだけの正しいと思えるものが、それは世間一般ではこうなっているじゃなく、こうなんだと自分の心から思える正しさが
2006年05月15日
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昨日TVで脳科学者が司会する番組があって、BSなんだけど、そこに荒川修作って人がゲストにいて、その人の考えに衝撃を受けたというか、なんか21世紀新しいことが生み出されている感じがしてその人は建築家なんだけど、「人間というのは有機体なんだから、今の直線ののみの幾何学的な建築はおかしい、人間の体には直線なんてどこにもないじゃない、建物を人間の体の延長として捉えた時、今までの建物は人間の可能性を限定し、感覚を麻痺させている」と要約するとこういう事を言っていて、つまり今までの世界にある建築物は全て間違っているで最終的にその人が目指すのは「死なないための住宅」ということなんだけど、その人が建てた建物は、人間の体の延長として建てられていて、三鷹にそれが住宅として分譲されているんだけど、感想としては、カラフルで言われてみれば人間の体内という感じもする。僕は住宅がそんなに人間に影響を及ばすのか?という疑問も残るし、この住宅に住めば、人間の感覚が目覚め、可能性が広がるというのも、本当か?という疑問も残る。けどその人が言っていた、ここからPQ的なんだけど「人間は五感というけどそんなもんじゃない、感覚は数百という数あるんで、この前、インドの医者かなんか(ここははっきり覚えていないが)ああ、あなたは腸の裏の感覚が鈍いですねといわれましたよ」とかに僕は自分の体の中を感じるのは「触覚」だと勝手に思っていてんだけど、こういう数百の感覚を目覚めさせるのがPQなんだよなぁと思い「赤ちゃんは生まれたときは、自由なのに(身体意識が高い)のに成長するに従ってそれが失われるそれは、その住んでいる環境、つまり住宅、街並みが人間にとって自然の形をしてないからで、感覚がおさえつけられているからなんだ、つまり有機体でアメーバーみたいであるはずの人間がこういう幾何学的な環境の中にいると本来の能力がおさえつけられるんだ、だから機械的な動きになり、その動きそのものは不自然なんだ」というのにこれは新たな問題中毒の定義なんじゃないかなと思った。住宅に対して霊とか波動とかの言葉を交えずにそもそもその形自体「我々有機体にとってすごくおかしいんだ」という言葉は結構衝撃で、それが正しいとすればこれは21世紀の新しい「価値創造」になると思う。その人は自分の住宅に2~4歳ぐらいの子供、90歳以上の老人、脳障害がある人を住まわせたいと言っていて、普通の人が24時間僕の作った住宅にいれば、哲学者か科学者になるといっていた僕が驚いたのはそれを実現させてしまったこと、世界の建築を全部否定するようなことを実現できたしまったこと、それが正しいかどうかは後何年かすれば分かるはずだその後すぐ、美しい歩き方みたいな番組が始まって、対極にある考え方だなぁとおかしかったんだけど
2006年05月15日
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ユニクロに服を買いに行った時、久しぶりに、自分の全身を鏡で見たら、なんかこう、インド修行僧みたいなカラダだった。で意図的にカラダに委ねて、感覚に沈み、頭の重さを解放し、表情を緩めたら、なんかこう、陰険な顔、気持ち悪い顔になっていた。ちょっとびっくりして、額にもうひとつ目がある感覚でやってみたらいい感じになったこれは、自分の中にのみ入り込んでいたから、こんな顔になったんだと思う。カラダに沈み、カラダに委ねるだけじゃなく、周りの世界を認識するといういう意識が必要だ
2006年05月11日
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カラダのことが分かり、カラダに委ね、カラダに沈み、カラダで周りの世界を認識していると自意識の出来ることとは何だろうと思う。自意識(つまり僕)の出来ることは恐怖心の克服だけだろう、上記のような状態でいようとする、他人に対する恐怖心が僕を縛る。恐怖のパターンの解体のみが僕のできること。どうすれば頭ではなく感覚で「囚われ」に気づくことが出来るだろう。それは何度もやってみて「慣れる」しかないのかも知れない。フォトリーデングを提唱している人の本で「潜在意識であらゆる問題が解決できる」という本がある。書かれているのは「ストップサイン」(過去の人から言われたことや体験がその人を制限している)の解体、解放、感知、反応、確認からなる4ステップなんだかPQ開発に似ているなぁと思った。追記対話時間で背骨を鳴らし過ぎたせいか、前からズレていた第12脊椎?(みぞおちあたりの、腰方形筋が始まるあたり)に痛みがある、僕の背骨のズレは結構ひどく、背中から見て拘束背柱が逆S字になっている、ちゃんとした背骨が欲しい
2006年05月11日
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世界にはまあ常識とか普通とか「世界の物差し」があって、他者には「他者の物差し」があって、自分には「自分の物差し」があり、「自分の物差し」がはっきりすれば、他二つの物差しに合わせていける。物差し自体も変化可能だから気をつけなければならないんだけどまあ、分かりやすく言えば「人は人、自分は自分、世間は世間」ということで、これはだから自分の我を他の二つに通していいのよという言葉ではなく、だから自分が傷つく必要はないし、周りに合わせても自分が間違っているということにはならないということだろう自分は自分の自分は自分の範疇でやりなさいという意味のような気もする。こういう当たり前のことに当たり前に気づいていくんだなぁと最近思う。結局僕は誰かに言われてそうなんだと納得するより、自分でそうだったんだと納得するしかないのかもしれない。めんどくさい性分だ
2006年05月11日
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前のプログをもっと深く掘り下げてみると、結局自分の根幹にあるのは「存在の証明」のように思う。僕はずっと他人から、世界から「ないがしろ」にされてきた意識がずっとあって、それをずっと「恨み」に思っていたんだなぁと頭の中で聞こえるのは、お前なんてたいした奴じゃない、どうでもいい、価値なんてないんだ、そんな声で、まあ今までは感じないこと、気にしないこと、見ないことにしてんだけど、それはやはり無理だし、そんな世間の価値観を受け入れてきた自分もいたし「存在の証明」とは他人に必要とされることだと思う、もっと言えば世界につまり他人に世界に必要とされるもの、欲しがっているものを「与える」ことだと思う。そこで「ああ必要なんだ」と「ここにいてもいいんだ」という感覚がもてるただもうひとつの欲求もあって、それは個人として「突出した存在になること」、「進化しようという意思」みたいなもの僕はこれのみに焦点を置いていて、それが「存在の証明」に繋がるんだと思っていたけど、それは「他人にとって意味のある力でなくてはならない」、「無用な力」は意味をなさないもっと与えようと思うから、その人は進化するのかもしれない。赤ん坊には、「欲しがっているもの」を与えたほうがいい、その方が「泣かない」、いずれ自分でこれはいらないものなんだと気づくときがくるかもしれないし、こないかもしれない自分で気づくしかない二分化するのはどうかと思うけど、「人には欲しがっているもの」を与え「個人では今世界が必要としていると思えるもの、これが大切なんだと思えるもの」を表現するしかないのかもしれない。個人の思いと世の中のニーズがリンクする生き方それが一番いい個人が個人でいられる生き方、個人が個人であるがゆえに世界に必要とされる生き方
2006年05月11日
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また今日も同じ様なことを書くことになると思いますが、改めて実感したんで書いちゃいます。僕は小さい頃から、いてもいなくてもいいようなどうでもいい、もしくは害を与えているような存在で、生きていることが苦痛だったんだけれどもそれは必要とされてないと感じていたからだと思う。そりゃ、俺の息子だから必要とか、みんなと仲良くしなきゃいけないから必要とか、労働力として必要とか、色々あるわけだけど、僕のパーソナルな部分が必要とされているということはあまりなかった。僕もパーソナルな部分を表現してこなかった、というか言っちゃいけないような気がしていたし、そういうことは世の中からズレていて、そんなことを感じる自分がダメなような気がしていた。そしてなんだか自分がよく分からなくなっていったような気がする。自分が何を思っているのか分からない、言われてきた身の程に合わせながら苦しんでいた。生きている理由に悩んだりもした、でもいつも風化していった、苦しいんだけどなんとなく生きてこれた「誰かが僕のパーソナルな部分を本当に必要」であったならばそれだけで生きていける理由になる。必要とされないのは、本当に辛い、でもそれが能力や、肩書きのみが必要されても辛い。だからこそ、自分のパーソナルな部分を表現しないといけない、それは受け入れられないかも知れない、だからといって人当たりのいい自分を演じ続けても、それは自分じゃない。自分の個人の思いを表現し、自分であり続け、それが周りに必要とされる。それが僕の理想でもある。僕は人に対して必要なんだということ感じていてもは言わなかったし、素振りも見せないようにしていた。その人が僕を必要としてくれなかったら凄く傷つくし、僕が他人から必要とされているとは思えるだけの自身が無かった多分僕のその態度が多くの人を傷つけてきたんだと思う。個人として生きていくには、他人の隠された欲求を埋めていくだけの演技力が必要でそこで僕の存在は許されるのかもしれない演技、難しい
2006年05月06日
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パソコンに触っていない間、なんか色々書きたいことがあったんだけど、忘れちゃったなぁって感じで書きたいことが思い浮かばないんですが、分かったことを一つ、前にも「俺、集中力がないなぁ」ということを書いたと思うんですが、それが何故無いかというと、本を読んでいても、作業するにしても、なんか色々他のことが思い浮かんじゃうんですよねまあ、その行為自体がつまんないということも原因ではあると思うんですが、興味のある本を読んでいても、その本からの情報で喚起され、勝手に自分の空想に入っている時が多々ある。なんていうか、人生観レベルにおいてもそうだと思うんだけど、「確定」してないんだよね何もかも、自分の中で迷いがあるから、「弱い」、集中できない、まあ出来る人というのは基本的に「迷わない」と思うのねそれが世間一般をそのまま受け入れただけだとしても、それは強いなんたって世の中の大多数がそれに賛同しているわけだから、確信度も高い「バカヤロー、お前らがなんて思っているか知らないが、俺にとってコレが一番なんだよ」って思えるもの、思えるようになりたいなぁまあ、そうは言っても、やっぱ「誰か共感してほしいなぁ」という気持ちは消えないんだろうけどね
2006年04月23日
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パソコンが故障してしまってしばらく使えなくて、今日復活。ゆるゆるとPQプログを見て回ろうと思います。
2006年04月21日
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生まれてからずっと、ずっと、「暖かな温もり」に触れたかったんだということを再認識できた。一枚皮をめくれば、それを感じていたい、それが欲しいと泣きじゃくる子供がいた。何故今まで得られなかったのか?それは僕の「疑う」という身につけてしまった、基本的性質のせいだろう。「自分の存在への自信のなさ」故に身につけたもの「暖かな温もり」とは「女性の笑顔」だった。偽りの無い、造られていない「女性の笑顔」それが僕には「光」に思えた。と同時に自分が闇である事に気付いた。一時期それを手に入れることができた。僕だけに向けられる「偽りの無い笑顔」、僕は動けなくなるのを感じた。もう後は「どうでもいい」、だからこそ「全てを許すこと」ができた一時だけだったが今は泣きじゃくる子供に対して「ごめんな」としか言ってやれない。「疑う」ことが自分の足を引っ張ってはきたが、「疑う」ことで自分の中の本当に近づけたそれにもっと近づければ「どうしてあなたは今この世界に生きているの?」という疑問に100%の確信を持って答えることができれば僕にとって「世界のこと」などうでもいいことになるかもしれない
2006年04月04日
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僕の今までの十年は、自分の可能性を、存在を放棄し、逃げて、もう一度確かな自分をつかもうとした十年のような気がする。小さい頃からその傾向はあったが高校入学を決めてからの十年はその方向に人生が確定したというか、こんな自分にも出来そうな、お金のいい、安定している職業をという方向性やりたい、やりたくない、面白そう、面白くなさそうより、出来そうかどうか、お金がいいかどうかでやってきた。ジレンマを抱えながら、ブレーキがかかっているなか、なんとかアクセルをかけてやってきた。社会的状況下においても十年前と同じ、いや社会的評価が低いから結構きついと思うけど、十年前から始めてみよう。十年人から遅れをとった、もう一度十年前から始めてみよう。これから自分の年齢が僕の道を阻みことが多々あると思う。でも生きている、「生きるというのは死んでいないことを指すんじゃない」きっちり生きて、きっちり死ぬ。「僕は役者ですからね、僕にとって生きるとは、自分が何を感じ、何を思ったか表現すること、それが僕にとって生きるということ」by松田優作役者じゃなくても普通の人でも同じだと思う、自分が思ったことを、自分の存在を表現する、それが生きるをいうことただ自分の存在の核心と確信がつかめない限り、周りに振り回されたりして、それが難しくなる。
2006年04月03日
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努力、無意志力について、アホなことに結構勘違いしている部分があって、最終的に、努力感、無意志力で人生を送るというのが目標で、過程においては意志力、努力が必要だということ。僕は過程において努力と意志力を放棄していることが結構あるなぁということ身近なところではフォトリーデング、(最近はやってます)と高岡英夫氏関係の読書、コレは結構意志力がいる。というか、難しい気な事を頭に詰め込むのは得意ではない。でも過程においてそれが必要とするなら、苦手、とか何とか言うんじゃなくやるしかない。好き嫌いの判断と必要か必要でないかの判断、嫌いだからといって眼を逸らさずに、必要なさそうだな、と思っても、やってみてそれから判断、多分に僕は結構表層的な好き嫌いで物事を判断してしまうことが多く、嫌いなものを何が嫌いか、どこが嫌なのか、その事への徹底的理解なしで生きてきたような気がする、眼を逸らしてばかりいた。理解が出来れば「道が違うだけだ」という境地に立てると思う。努力というより我慢だなぁ好き嫌いの判断を保ちながら、自分に必要なことは努力して、目標到達まで状況的な事は我慢する。PQとはずいぶん違う感じになったけど、完全なPQ的生活をするまでは、意志力も努力も我慢も必要だということなのかもしれない。今日の一言何回か聞いているうちに、バンプの「ダンデライオン」に出てくる「太陽に良く似た姿」の正体がわかった、アレだ、最後に出てくる奴だ
2006年03月31日
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ガラクタを捨てるとは、自分自身に立ち戻るとは、どんどん自分自身が純化していくってことだよなぁとふっと思った。
2006年03月30日
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最近感情の起伏が激しくなってきている。泣いたり、笑ったり、希望を見出したり、絶望したり、そんなことを一日で行ったり来たりしている。元々小さなことで嬉しくなったり、絶望したりの要素を持ってはいたけどそれがだんだんと如実に現れてきた最近良く涙を流す、オーラの泉に出ていた「綾戸チエ」さんを見て声には出さずに号泣し、バンプオブチキンの「ハルジオン」「ダンテライオン」を聞いて泣き、デフテックを聞いて陽気になり、等を繰り返している。(デフティクはポジティブ過ぎる感があるが、夢を観る分にはちょうどいいなと思う)一番困るのが「寂しい」という感情、コレを多く抱えこむと動けなくなる、うずくまるしかなくなる。「寂しい」と死んでいくウサギの感覚がなんとなくわかる。問題はコレを発散する場が無い事にあると思う。僕は寝ると大概リセットされるのでなんとかやり過ごせてはいるが「代価行為」、「趣向」という用語だったか、何かをしたいけど出来ない場合代わりにその気持ちを別の行為に走らせる、簡単に言うとやけ酒、やけ食いの類か、そういうことを繰り返していたような気がする。恐怖は「理解」で超えていこう、恐怖しているものを理解しよう、観察しよう、眼を逸らさずにおこう。まずは眼に見える範囲のものから僕は自分自身を肯定したかっただと思う、でも否定される環境の中「変わらなきゃ、変わらなきゃ」とどこかで思ってきていて、ある時、やっぱり「周りがおかしい」と思い声高に叫んで見ても、あまり意味は無く、「人それぞれ別の道は歩いているんだな」とふっと思い、自分は自分の道を歩くだけでいいんだ、歩いてもいいんだと思い、はじめて「自分で自分を肯定できた気がする」欲しいものがあるなら自分の道の先で手に入れればいいそんな自分と周りの人とを繋ぐのが起業ということだろう。少し仕事の愚痴を言わせてもらうと、他の奴等の「自尊心」の奪い合いには疲れる、いちいちそれに乗っていたオレも馬鹿だ。ここは自分にとって「通りすぎる場所」いちいち小さなことに意地を張るのは馬鹿馬鹿しい。意地を張るならもっと大切なものに張るべきだ「いつも自分自身でいよう、誰よりも生命として正しくあろう」そのことに自尊心を持つべきだ。自分自身であり続け、なおかつ変わるという事は、妙なこだわり、ガラクタを捨てて続けるということかも知れない。今日の身体さん自分の手で自分の胸をつかむように押し当てると何故か安心する
2006年03月29日
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僕には協調性があまり無い。人との繋がりを感じてたいけど、繋がりたくない、それは多分に本当に自分が思っていることを言うと、うわべでは合わせていても、拒絶される、拒否される、好かれない、変な奴だと思われる、馬鹿にされると思っているからだ。自分の言っていることがわかって欲しい、けどそれは、かっこよくない、情けない、泣き言、ただの負け惜しみみたいだから、言わない、言えない、伝わらない。解って欲しいけど、嫌われる、引かれるから本当の自分は出さない、良いとされる自分を表現する、してしまう。けど、それでは窮屈だ、息が詰まる。だから他人と関わらない、自分が自分でいられるためにけどそれでは何もならない。案外社会的に「僕の変」は許される範囲なんじゃないかと最近思えてきた。これは変なんだと僕は思っていても、案外世間はそうではなく受け入れてくれるんじゃないか?(もちろん、引かれたり、拒絶はあると思うが)大段上にある社会的常識から見たら「変」かもしれないが、別に誰も解ってくれないといったレベルではないんじゃないか?表現してもいいんじゃないか?表現しないと伝わらないだろう。というか僕が思っている「変」って誰にでも持っている部分じゃないか?みんな必死に普通を演じているだけで、僕が言っていることは伝わるんじゃないか(そんなの子供の言う事だという批判は多くあると思うが)前のプログ書いた「茶の味」という映画は登場人物みんな変だけど、何もそれを否定しない、そういう映画は好きだな。みんなパッパラパーなんだけど、何もそれを否定しない世界。普通という幻想を打ち壊した世界、だんだんと世界はそういう方向になりつつあると思うけど、それのみでは社会は成り立たないか。他人と社会に迷惑をかけないある程度の基準がなくては、それさえクリアすれば、みんなパッパラパーでいいはずだ今日の戯言僕は悪感情を誤魔化すなといっているけど、やっぱり扱い方が難しい。感じると身体がドンドン固まるのを感じる。そんな感情を感じるたびに身体がバラバラになるようにしていきたい。もっと悪感情とされているものを本質的に理解し完全発揮していかないと
2006年03月17日
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多分今回のプログは倉本さんの言う事と重複になると思うのだが(というか、いつも本当に自分の言葉で書いているのかどうか自信はないのだが)PQというのを自分なりにもう一度捉えなおしてみようと思う。最初の頃は自分にPQって何?、結局何してんの?と自分に問いても答えられなかった。PQは人間的進化だと思っていた、その答えも間違ってはいないのだが、今の自分の結論は「PQとは人間としてもっと本質的に、もっと人間的になることだと思う」まず、目標を設定し(ターゲット偉人)自分の身体を知る、(フォトと身体との対話で)そして本質的(最も正しい使い方)で身体を使いこなす。それだけでも自分のこと(些細な程度だが本能的ルール)が明確化されてきて、自分らしくはなってくるのだが、コレだけでは一進一退、葛藤が生じるそれが問題中毒、それは他人の考えに、仕草に、社会としての常識、普通、道徳というものに影響されるということだ。(それはもう無意識レベルで、これはもう、家性、地域性、社会性、国民性ということにも繋がるだろう)そういったものと、自分の感覚、の間で起こるジレンマこういった社会の常識に疑問も持たずに通れたらどんなにいいものかと昔の僕なら思っていた、といか今でも少し思っている。上記したそれらに影響されずに生きていくには「冷酷」さが必要だ。この冷酷さと言うのは、他人に対してよりも自分に対してなんじゃないかと思う。問題中毒ノートにもあったが「他人に頼るのは一切やめる」「解ってもらおうという甘えを考えを捨てる」これは自分の基準が自分の身体からくるものでなければならない、(帰属させるべきは自分の身体感覚)とういう意味での「他人に頼るのは一切やめる、自分の中の偶像を叩き壊す)という意味だろう。僕はこの部分がまだまだだったと思うやはり誰かに解って欲しい、裏の思惑が無い誰かに優しくしてもらいたいけど、言葉だけはどこにも辿り着けない、誰にも伝わらない、生き方で示し、結果を出す(矢沢永吉的生き方)ことをしなければ前のプログにも書いたが解ってもらおうとするから、イザコザが生まれる。でもその思いは捨ててはならない、自分の生き方と、心底ハッピーになったその姿(結果)で解ってもらう。慈愛の欠如とは、何かしてもらったことに対して必要以上に負い目を感じない、(適度の感謝で終わる)冷酷さを保ったまま、自分の本能的ルールに殉じるということか他人の影響を自分に響かせない、自分を変えるのは自分の流れ、運命のみということでもそれを馬鹿正直に出すと社会生活に障害が出る。だから本当の事は言わない事(倉本さんは愛は嘘だと書いたが、僕には抵抗があるので、本当の事を言わない事で行こう)自分に100%正直に生きながら、社会とも周りの人とも良好な関係、繋がりがもてること。今日の戯言クレバの「愛自分博」を最近毎日聞いている、倉本さんが薦めたのがキッカケではあるのだが、なんとなく聞きたいから聞くという感じなんというか「ただただ自由で楽しい」感じがする、他のポジティブソングとと違って強制力がない感じ、だから毎日フルで聞けるのだと思う。でもラップだからか、歌いづらいし、歌が憶えにくい、だからこそ毎日聞けるのかも、それにカラオケで歌うのはかなり難しいし、恥ずかしい中でも「涙よ止まれ」は泣きそうになる。誰かにそんな事を言われたいなぁと思っている自分が発見できるあと、「この太陽は夜も輝く」という曲も聴いている。すごくいい曲だ、コレは口ずさみ覚えやすい、カラオケでも歌いやすそう「この太陽は夜も輝いて導く、幻が踊る街にさよならの鐘が鳴る」う~んPQ的だ、コレはおすすめです仕事で背骨をひねった、一番ズレがひどい肋骨のすぐ下の背骨だ、通常時でも痛いが、腰を回すともっと痛い。
2006年03月16日
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前、僕がやっていたというより、やるような流れになっていた(コレはマジで避けられなかったという意味です)宗教があって寂しかったからそこで知り合った女の子とこのまえ電話で話したんだけどその子は熱心に一年間布教活動をしていて3月で終わるらしいんだけど感想を聞いたら、凄く良かったらしくて「人を助けることで、わが身助かるってこういうことなんやなぁ」と感じたとか言っていてなんか凄く感動していて、幸せ感が伝わって、こっちも嬉しくなっていたんだけどまあその子に前から気になっていた「こういうことを思ってはいけないみたいな」教えがその宗教にはあるんだけど、それってどうよと聞いたわけその子が言うには「まあ思うは思うとけどその後お祈りでああこういうことを思ってしまいましたと懺悔するんだ」と「別に思うことは悪いとは教理には書いていない、ただ思ったらそれを払うことが大事なんだ」と言っていたんだけど(お祈りすると凄く落ち着くしね、僕も結構好きだった)で具体的は嫌なことがあったり、避けられなかったら、その中でもいい事を探すんだと言っていたわけで、「ああ、これはうざいことを、出来るだけうざく無いようにする」ということに似てるのかもなと思ったりして宗教というのは確定された社会の中で幸せに生きるには必要なものだったんだなぁと思いました。農民は農民、武士は武士、商人は商人と変わりなく繰り返し、それぞれが同じ生活を繰り返すでそれぞれの生活の中での不満を物事を変えることよりも考え方を変えるようにする際「宗教」というのは人を幸せに導くものだったんだなぁと思いました。多分に教会内部で働く人はそれでいいと思います。それは固定化されているから、それは変化する必要のない組織ならどこでも通用する幸せになれる方法かもしれないただ今は時代が違う、考え方ではなくて物事の方を変えられる、自分で何をすべきか選べる。社会が固定化されていない、けれどまだ江戸の感覚が残っている部分があり個人の思いに口を挟む宗教に変わる教理が必要だ、それは自分の存在、自分のダークな部分を完全昇華し全肯定できる、何一つ自分の中で押さえつける必要のないガイドラインPQとは感覚を深め、感情を深め、それらとどうやったら無理なく、仲良く、存在の全肯定で付き合えるかを思考と試行を繰り返すものなのかもしれない、それはどうすれば自分という存在が全肯定のまま社会と仲良くすることができるかと思考し試行することとも言える。本当は誰だって、憎んだりしたくないはずなんで、解りあいたいから、相手が解ってくれないから、憎む、争う
2006年03月11日
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今まで多分「どこか一生留まれる場所」「安定できる場所」を求めていたんだと思う。それは一気に最終的な「人生の答え」を求めるようなことで、多分その答えはなく「今はこうしたい」という答えでしかない。その連続の中で答えへの予測がついてゆくだから多分、形にこだわり、自分の感覚を圧殺してそこに留まろうとすることが幸せなんだと思うこと自体問題であり、不幸なんだ30までには自分の人生を確定させてみたいな思いなんて不要ガンガン取り入れ、自分のいいと感じた方へ走り、色んなことをやり死んでまえ、それが幸せたぶんに僕が就職しなかった、出来なかったのは自分の事が分からないまま何かを確定させる事が怖かったからだと思う。仕事が確定すること=一生やり続けなければならないと思っていた結婚=一生一緒にいなければならないと思っていた自分がいいと思えるもの、それがなんであろうと、社会的に無意味と思われるものでもガンガン取り入れ、ガンガン通りすぎ、ガンガン駆け抜け死んでしまう。その内人生の主戦場となるべきものが見えてくるかもしれないし、こないかもしれない、全てが「通りすぎていく」という感覚で生きるという幸せ留まろうとすることが問題変化させることの「不安」でも幸せ安定させることの「安心」でも不幸せ今日の身体さん前のプログで歩きの感覚のことを書いたが適切な表現をすると自分の股関節以下の骨に体重が流れるということだと思う。筋肉で支える必要がなく、地面に重さが骨を伝ってパーフェクトに流れるそのことで得られる地面からの反発が推進力になるということ足を後ろに流す際は内側ハムストリングスを意識は脱力する感覚で行うとただ意識しようとするより自然に足が内側に流れるもっと運命にダイブしようもっと人生をドライブさせよう、そして死んでしまおう
2006年03月11日
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最近、すべてではないにしろココに書いていることが誰かが持っている人生観を自分の頭の中でこねくりまわして書いているだけのような気がする。今まではPQ的視点というのが実はよく分からなかったが、多分それは脳ではなく自分が全身で感じたことを自分の言葉で語る(それはPQレベルに応じて変わるだろう)という事だというのが心で理解できた。僕には多分世間でいう「理解力」というのが乏しいのかもしれない。相手の言っていることは分かるが、自分の心に納得しないとなかなか落とし込めない、落とし込めたと思っても本当の意味で分かっていない。どれだけ正しい真理を表明しても相手の認識力がそのレベルに達していない限り、完全に伝わる事はない。(宗教は脳にこうなっているから、この道が正しいからと完璧に落とし込ませて、身体が感じていることとの矛盾を、いやそれは私がまだ至らないためだと、苦行に走らせる)自分と目の前のいる世界との間には壁があるような気がする。リアルではない、バーチャルな感じが常にしていたようなそれは、自分の心を守るため、心の傷を減らすため、どこかゲームしている感覚で生きているのかもしれない。意識的に自分の身体意識の中に、眼に見える周りのものを通すとリアルになる。脳の中にある過去の記憶、習慣、思い込みに縛られ、今全身で感じていることがおろそかになっている気がする。全身で感じて、脳で吐き出す、身体が入力、脳が出力、ただ脳には小賢しいとらわれがあるもっともっと身体で感じよう、感じている事に身を委ね、小賢しいとらわれを取り除こう。変化を妨げるのは脳の中にある、問題中毒も脳の中にある。僕は多分疑り深いほうだと思う。自分勝手に思い込んで、真実はそれとは違っていた時のショックを無くすため、傷を無くすため、真実を知ろうとすること、それが「疑う」ということ今のこの社会の中で、普通に生きていて100%幸せですという顔をされると腹が立つ、それは多分僕がそれが嘘だと感じるからであろう子供頃はそういう人間が羨ましく思っていた、僕もそうなりたいと、でもそれは自分の感覚、感情を麻痺させることではないかと思う。女性はいいんだ、うそ臭くなければ、それは多分僕の中の母性愛の欠如、母の顔がいつもしかめっ面だったということから来ているのだと思う。今日の一言、二言身体との対話のなかでよく腹が脈打つのを感じる大腰筋の目覚めか?自分の身体を底から感じようとすると少し寒気が走る。昨日数時間だけ、水底の流れに身を任せること、運命に身を委ねることが母の胸に抱かれているようで凄く安心感があり、安らぎを感じるようになる平常時でも脚を一歩踏み出し進む時は腰から脱力するだけで進める筋出力がいらない、股関節の緊張がとれ、足首が地面の中に落ちてゆく感じ、地面の反発を受け進んでいる感じも時のある胸骨がバリバリ鳴るようになる、頚椎が左に歪んでいるためだろうが、左肋骨が開きにくい左肩包体の自由度が低い左肘が相変わらず鳴るのは、そのバランスをとるためのような気がする。
2006年03月07日
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僕は人の前で人の悪口、愚痴を言わないようにしているというより、なんか凄くかっこ悪いものと思ってるし、影で言われるのって一番自分が傷つくからだと思う。そういうのを言ってしまう場合、誰かに言わないと自分の中では収集付かない場合(本当に嫌な上司の愚痴)は言ってしまうけど、それが気持ちいいことも知っているけど「ああオレってカッコ悪いなぁ」と思ってしまう。あと、被害者意識が強いというか、自意識過剰というか、人が話していると自分の事を言っているんじゃないか、それも悪くと思ってしまう。相談することもないし、あまりされることもない、されることは好きで、なんか結構イイコトを言うらしい。まあ、毎日グジグジなにやら悩んでいるからね。人前で愚痴ることもないそれもカッコ悪いと思ってしまっている。まあ一人でぶちぶち愚痴っているけどね。人に何かを相談したり、愚痴ったり、辛い事、傷つくことがあった時「ねぇ~これどう思うぅ~」などやっている時、その人が解ってくれると思うから言ってるんであって解ってくれると嬉しいよね。でもどんなに解ると言われても、ああ、きっとホントは解ってないんだろうなと思ってしまう。なんかそれって当然だと思う、「所詮は他人事」というのは真理だと思うし、他人事で終わらせなきゃ大変だもの「人のことを自分のことみたいに受け止められない」から「相手の立場に立って考えなさい」という道徳があるんだろうし他人が持っている、同質、同量の同感情を感じ取ることなんて普通はできないよね(なんかこうエスパー的要素というか、そう、できるかどうか知らんがてぃんとんさんの彼女みたいな(笑))完全には解ってくれてないにしても、辛かったり、傷ついているときは、その相談している相手が真剣に聞いていてくれたり、同じように悩んでくれたり、悲しんでくれたり、泣いてくれたりすることが欲しいんだよね。ああ、自分って必要とされているんだな、愛されてるんだな、と感じれるからねそれで傷は癒えるにしても傷跡は残るよね、まあ大きく言うとトラウマという奴、言い方変えていうと、ストップサイン、心のブレーキ、恐怖のパターン、それらが残る、それは他人では治せない、アドバイス、フォロー、カウンセリングはできても、自分でかさぶたにして、自分ではがさないといけない。多分本当の意味で人に対して人ができる事は「誤魔化しなく自分の人生を完結させること」のみだと思う(矢沢永吉みたいな)その影響で人は変わっていくんじゃないかと思う。人の温もりを感じていたいと思って色々仮面をつけようと思ってきたけど、それが一番の優先事項になったらどうしようもないなと思うようになってきた。(まあうまい具合にはつけられないんですけどね)「人から愛される人間になりなさい」それが一番の優先事項であるのは問題中毒だと思う。それは結果でしょということであって強迫観念みたいにあってもしょうがないじゃん今日の一言子供のころから気になっていたけど腹筋の割れ目がさぁ、ズレてんだよね
2006年03月01日
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「笑い男」「電脳降下症」「村井ワクチン」「個別の11人」stand.alone.complex,yes,stand.alone.complexと訳のわからない「言葉」を並べてみて思ったのが「攻殻機動隊」はいいなというか、なんというか、ああいうなにやら難しげなものに結構弱かったりする自分がいまして、音楽もまた良くって「菅野よう子」さんという作曲家が担当しているんですけど、riseだったと思うけどこう自分の深くに自然に潜れるような感覚が好きですね電脳化された未来、それはすべての肉体の並列化、ゆえに個別化を望む、それ故の一つのカリスマに対する、数々の模倣、stand.alone.complex個別を主張するが故の没個性、並列化を義務付けられた機械達故の個性の獲得、stand.alone.complex結局、個性なんてものは、同じ環境、同じ教育、同じ経験をして並列化させても、おのずとその個人の中に現れるもので、逆に同じ体験、経験を積んだからこそ他者との違いがはっきり解るはずで、それでも個性がないと感じるのはきっと自分で自分の個を圧殺しているからだと思う。本来、普通の人なんてのは存在せず、みんな普通という幻想に合わせている普通の幸せ、普通の生活、普通の価値観、そしてその普通も時代とともに変化し続ける個性的を望むなんておかしな話で、色んな中毒を解決して、自分の望むように生きていれば、「僕にもよくわからないよ!、ただしっぽがそうしろと言うんだい」(あるねずみの言葉)てな感じで任せておけば、それはおのずと個性的になるっしょ個性は結果であって本来は目指す必要のないもの。そこんとこ僕も肝に銘じておこう今日の一言半膜様筋、半腱様筋っていいよね。
2006年02月28日
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ずっと書こうとしてたけど、なんとなく書かなかったネタが一つ。それは・・・マインドゲーム!!!!!!!というアニメの話アニメといっても絵は落書きに近い、(時々実写的にもなる)舞台は大阪、初恋の人(巨乳娘)の目の前でやくざ(声ほんこん)にケツの穴から弾丸撃たれて脳天直撃で死んでしまった西君(声今田コウジ)が5分の登場時間で100回くらい姿を変える神様を出し抜き、生き返り、自分に正直に生きることを決めた西君はヤクザ相手に、てんやわんや、しながらクジラに飲み込まれてしまう・・・という筋書きジェットコースターアニメ何が良かったか?それは西君の吹っ切れ方、と所々のキャラクターのセリフ西君「神様!!、何故僕等を造ったんですか!!!、たわむれで造ったんですか!!?」神様「お前等なんぞ100%たわむれで造ったんじゃ、ボケ、カス」と西君に暴行ここが一番いい、たわむれだったんですね神様クジラの中に30年住んでいるじじい「私、他人を踏みつけたかったです、もっとこう、踏みにじりたかったです、でもココにきました、ココ何もないで~す、ココ臭いで~す、でも私こう、歩く事できます、こう物つかむ事できます、感じること出来ます、楽しいで~す、あなた何もしないで寝てますかぁ~それともなにか感じて生きていますかぁ~」(声藤井隆)最後西君のセリフ「世の中にはビックリするくらい、エエ奴がおるかもしれんし、悪い奴もおるかもしれん、おれ、あの中で生きたいんや、あの世界の一員として、何かを感じながら生きたいんや」一番長いシーンがクジラからの脱出シーン30分くらい、水の上を走りっぱなし、電車を越え、飛行機を越え、戦車を越え、ようやく脱出、そこから最初にもあった、あらゆる登場人物の過去、未来?をこれまた最初のと二つ合わせれば30分を映しながら、エンドロールなんかこう「世の中のあらゆること(問題中毒)に、じゃかましんじゃ!!!ボケ」という殺意を見せてくれたような気がする。今日の一言大腿骨って骨盤より外側にあるんだって
2006年02月23日
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無駄を僕は恐れる、嫌いというよりも怖い。何か事を始める時は確実性の高い道を選ぶ、できそうなことをやる。何度も何度もチャレンジして、そして成功するんだというが、「何度も何度もチャレンジができない」「何度も何度も否定されということ」だから失敗から学びということなんだろうけど、それは正しいそれは解るそれは失敗を恐れないということじゃない「失敗を恐れるからこそ最善の道を模索しようとする」やってみないとわからない、それも解る、それは正しい、でも考えなしに突っ込む事じゃない、でも先の保障なんて存在しない。過度の無駄への恐怖は害でしかない。何もできない、何も動けない。人生を楽しむことができない。最終的には人生を楽しみたい無駄を恐れるからそうは出来ない。色んな経験自体無駄だと思っている、お金と確実性、安定に繋がること以外無駄だと思っている。その考えのためにどれだけ無駄を過ごしてきただろう。これが問題中毒、恐怖のパターン人生を楽しみたいといいながら楽しむこと自体に恐怖している。無駄を恐れすぎて、かなりの無駄をしている。確実性を求めるくせに、人にやり方まで指図されるのを嫌う、(効率的だと思われるのは受け入れる)自分で判断し、行動したい、束縛は嫌いだやってみようかなと思うことに一つの共通項を見つける。それは理解したいということ、それも人体、機械、心理、真理、多分に凄く根本に関わる事、原初的なこと?でも頭の理解は苦手だ、体験で理解するタイプだと思う。ならば100回の無駄は必要だろう。
2006年02月18日
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昨日腸方形筋、大腰筋を意識して歩いていて気づいた事が一つ、それは脚の指が真直ぐ出ていない事20度くらいの角度を持って出ている、そこで脚の指先を真直ぐ出してみる。すると「ああ外に倒れこむのが怖い、らせんの動きとはこういうことか」と今更ながら気付く。前進する事に力の集中しているのを感じる、サーカスの綱渡りをしているような感じ凄く不安定、フリークライムのまま歩いている様な感じ。今までは力を拡散させる事(脚先を広げること)で安定を得ていた。勘だけどこの歩行をやっていけば、一つ前のプログの様なことにはならずにすむかもしれない(力が拡散することなく、集中する)レーザーと呼ばれる身体感覚がわかる様になる。
2006年02月18日
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最近の夢は妙にリアルだ、まるでテレビを見ているみたい。それも夢という認識がなくて目が覚めた後、しばらく自分が何者なのか解らない覚めて始めて「ああ、あれは夢だったんだと気が付く」前のプログに書いたのは今朝見た夢のこと相変わらず自分という存在が出てくることがほぼない。空想の人物TVタレント、が一番多くその次に過去あったことのある人物、最後に自分という感じだ。最近はTVを見ている視聴者目線から制作サイド目線に変わった気がする。その現場に居るような感じがするだから抜け出しにくい。昨日見たもう一つの夢はバライティ番組みたいで(今までコレ系の夢が多かった気がする)おぎやはぎ、石塚英彦が出ていた。PQ開発前にも似たような事を書いたし重複になるかもしれないが、身体全体を自分のオーラで感じるということを深く、深く、もっと底の底までと願うと身体が瞬間的にビクッと反応するというかそうせざる終えない感じになる。身体が暴れたがっている感じ今まで「もっと深く、もっと精密に」と願ってきたけど精密は必要ないかもと思う。「深く、濃密に」そう感じているときは、凄く快感だ、自然に「もっと深く、もっと密に」と求めるようになる。その先には「生命の意思」を感じる。今まで言語化しようと思っていたけどもうそれは感じるだけでいいんだと思える様になっていった。一番の濃密さ、快感を覚えるところは頭蓋から仙骨までの背骨ラインとその周辺、そこをもっと、もっと解放したくなる。例えて言うなら「エバァが周りについている装甲みたいな拘束具をぶち壊して、咆哮する衝動」に似ている。腸方形筋は今まで背中側から感じようとしていたけど、お腹側から感じるようにすれば大腰筋の動きが良くわかるなと思った。昨日3~4年ぶりに少し走ってみた。大腰筋を意識して走ると脚がかなり長いものに感じるし歩幅も大きくなったと思う。ただ太もも前側の筋肉が痛くなった。コレは今までの生活で使っていなかったから少し使うだけでも痛くなったのか、それともまだまだ大腰筋の使い方がなっていないのかどっちだろう?
2006年02月17日
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カズユキはつぶやいていた「カキタ君は人の弱い所を探している、なんでだろう?、不安なのかな?人が怖いのかな・・その他エトセトラ、エトセトラ」「カキタくんって誰」赤くなっていく空に向かってつぶやいていたカズユキにその様子をそばでみていたキヨミが話しかけた。カズユキは突然のことに驚き、戸惑っていた。「カズユキは何かやりたいことある?」突然の質問に戸惑いながらも考えているカズユキそして話そうとする次の瞬間キヨミがさえぎる「私は看護婦になりたい、看護士になりたい、カレーライスになりたい」キヨミとはなかなか息が合わないなと感じた次の瞬間の言葉だった。(看護士、看護婦、カレーライス?人に貢献したい、奉仕したいということなのかな・・みんなのカレーライス・・・なんかエロいな)カズユキがスケベな妄想を巡らすなか場面は保健室に移るそこには8人の男女がいた、カズユキ、キヨミ、オオタ先生、カズキ先生、キョウコ、トモキ、カズマ、モトコオオタ先生が寝ているベットを取り囲む形でみんないる。「みんなでココだけの学校を創りましょう。」キヨミの発案だった。女子は全員了承ずみのようだ。それを聞いてカズマはオオタ先生の顔を見た。オオタ先生はある悩みから人とも接触を極力さけて生きてきた。「ちょとオレ出てくわ」その場から離れようとするオオタ「待って、あなたが予知夢に悩んでいることは知っているわ」そうオオタの予知夢ではもう何人もの親しい人が死んでいた、予知夢なのだからオオタのせいではないのだが、オオタはそうは思わなかった「それが何?、私はあなたと一緒に居たいの。」カズユキとキヨミカズユキはキヨミから送られた作文を読んでいた。さっきの保険室でそれぞれの女子がそれぞれの男子に渡したものだった。個人に渡すのだから手紙ともいえるのだが、それは原稿用紙に書かれていたし、ココだけの学校ということだから作文だ。三年三組、広瀬清美「私は人との間に絆を創るのが好き、なんか楽しい橋を架けるみたい」読み終わり清美の顔を観るとこっちを見つめ微笑んでいた。キョウコとトモキトモキは背が低いし坊主頭でキョウコと比べれば高校生と小学生くらいの差があった。ふたりを観ても誰も恋人同士とは思わなかった。お姉さんに連れられている弟、そんな感じだった。それでもふたりは付き合っていた、キスをするときトモキは何故かキョウコの鼻の頭にする、それはキョウコには自分に対する劣等感からくるものではないかとすこし不安だった三年三組、岸田響子「トモキは私の顔を観てキレイだとつぶやいていたね、知っているよでもトモキだって素敵だよ」それを読んだトモキはやっぱりキョウコの鼻にキスをした。キョウコは不満そうだったがトモキは劣等感からでなく、意地悪でしているだけだった。カズマとモトコ作文を読んだカズマはモトコに「君は僕の青春だ」と言った。「何故?」とモトコが聞く。カズマはモトコの右脚のすねの傷を指差した。カズマには幼稚園の頃モテテいた。カズマの後には女の子が蟻のように7~8人付いて来ていた。ある時カズマはジャングルジムで遊んでいた、そのときも女の子が後ろから付いてきていて、カズマを先頭に鉄棒に腰をかけただけの不安定な状態で後ろから女の子が一列に並ぶ状態になったその時カズマはバランスを崩し後ろに倒れたカズマの後頭部が後ろの子の頭に当たるその子の倒れるドミノの様にそれは続き、最後の子まで続いた。結構大きな事故となった。カズマは幼いながらにその事をトラウマに思いその次の日には引越しをしていった。今でもそれは変わらなかったカズマはその時、右脚すねを前の鉄棒に当てて怪我していた。他の子は頭だけだった唯一後ろに誰も支えが居なかった最後の子だけはカズマと同じ様に右脚すねを怪我していた。その事をモトコに話す。カズマは直感的に傷を見た瞬間からモトコがその子だと気が付いた。その話を聞いてモトコはカズマから離れていった。「その子は私じゃない」そういい残して・・・
2006年02月17日
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元祖天才バカボンのアニメはおもしろいなぁ(平成じゃない奴ね)と最近思うようになった。赤塚不二夫のアニメ作品の中で一番おもろい。作品ごとの回のテーマはあっても、固定的文脈がない、次の展開が読めない放送事故かと思われる展開もある。あの動画自体も好きだなぁ最初の放送を見て「おっ」と思ったのがパパがすごく小さいこと2等身弱くらいしかない、今のはじめちゃんと一緒くらいだ。いつの間にか背は伸びているがちょっと首の筋肉力を入れ、頭を揺らすだけで首の骨がバキベキと鳴るようになった。首の自由度が増したということだろうでもあんまり背骨鳴らすと軟骨がすり減ると気がするな、軟骨補強する食材がなんかあったような気がするな肩こりも減ったような気がするな。それにしても倉本さんとつくばさんが薦めていたあの「能の本」は秀逸だったな
2006年02月15日
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昨日仕事で発注をし忘れるというミスを犯した。(ただのボタンの押し忘れ)ミス事態の影響は少ないのだが(そういう場合でも発注先が勝手に送ってくれるらしい)その原因が普段とは違った環境で発注したこといつも発注するときは部屋に自分一人だけという状況なのだがその時は違っていて、仕事終わった女の子が二人話していた。一人ならまだ大丈夫、ただ二人以上になると苦手だ。なんか必要以上に仕事モードになってしまった。余裕がなくなってしまった。終わりで後発注ボタンを押す段階ではもうその部屋には居たくなく、すぐに逃げ出したかった、その心理がミスを誘ったそれが情けない、ただそれだけのことでこころが揺れたことが、必要以上に防備してしまった、自分をカッコ良く見せることに意識しすぎて失敗してまう男と同じ心理状態だ。こういうことは昔からある、プレッシャーに負けてしまうというか、状況に飲まれてしまう、自分で自分が保てなくなる、オドオドしていると良く言われた、そういう自分にホント腹が立つ、自分は自分、人は人という風に出来ていない、集団の影響を受けやすい、気持ちの圧迫を行動で紛らわそうとする、そこに逃げ込んでしまう、だから視野が狭くなり、次の行動、全体を見失う。自分を飾らない丸裸で生きている人が一番強いと思う。一切にポーズがない、悪ぶる必要も、カッコつける必要もない、ポーズをつけることが主体じゃなく、自分が自分であることが主体その上でポーズをつける時はつける。根元で自分があるようにある、その上で必要ならば、仮面をつける自己肯定感の上で成り立つ心理。自己肯定感、子供の時から欠けていたもの
2006年02月02日
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左足のヒラメ筋が凄く痛い、前にあった、今年の正月仕事で10時間立ち仕事をやった時、左足のヒラメ筋がしゃがむ事が出来ないくらい痛かった。前プログにも書いたけど僕は左半身の筋肉量が右に比べて多い徐々に均一になってきている感はあるが、それは膝下の筋肉にもいえることで、昔から右はほっそりしているのに、左のヒラメ筋肉は大きい、触るとボコって出ている感じそれはやはり、足に長さに左右差があるからだろう。右は足の骨を棒のように使って歩く事が出来る、でも左は右より長いから右の脱力系の歩き方を基準にすると少し曲げる必要がある、つまり筋肉を使うという事、そういえば膝がカックンとなるのはいつも左足のような気がする。腰を回すと時々左膝がパキッと鳴る、やはり負担を掛けていたんだろう。今日から足の左右差を無くす運動を重点的に行おうと思う。最近左肘が前ほどはっきりと鳴らなくなってきた。肋骨の自由度が増してきたおかげかも知れない。お尻の小尻になり、左右差も少なくなってきている。
2006年02月02日
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また番組ネタなんだけど、東横インという全国に展開しているビジネスホテル?が、法である程度大きいホテルは障害者に対してのフォロー設備をしなければならないのに、建設時の検査の段階まで障害者向けの設備をしていて検査を過ぎると設備が取り壊されていたのが問題になっていたんだけど、(ご丁寧に図面も検査前、検査後の図面2枚用意して)これは許せんなと思って観ていたら、担当責任者も社長も結構あっさり認め、TVでは開き直ったとかいう風に報道されていて、でも話を聞くと「障害者が泊りにくることなんか「年に1回程度だったから」と言う発言でその事がほんとならまあ彼の言い分もわかるなと思ってしまった。彼に罪の意識などはなかったけど記者の追及に対して落ち込み「罪の意識について考えてきます」とのコメントを残した。彼が悪くないとは思わないけど、そこまでなんでそんな事をするんだ!という怒りもない。お上がそう決めても、現場の立場に立って「やっぱ障害者の利用者が年に一回程度ならそこまで障害者優先にしなくてもいいな」という判断もうなずけるし、障害者のことをまるで考えてないわけどもなく、多分「この程度でいいだろう」という判断のもとエレベーターは障害者用のボタンが取り付けられていた。彼の堂々とした発言を見て法に触れたかもしれないが、そこまで悪い事をしているという意識はないのを感じて「年に一回の利用者」というのは、ほんとかもと思ったし、それなら言い分も分かるなと思ってしまった。もちろん自分が障害者なら「なんだ馬鹿やろー、ふざけんな」と怒り心頭なのだろうが、なにが言いたいかと言うとそれは今の僕の仕事に対する態度にも言えることで「必要性あるな」と感じたことには気概が持てるけど、何でやっているだろうと思う事には気概が持てない。(まあ細かい作業レベルの話なんだけど)人から「あーだこーだ言われたくない」というのもあると思うけど、うん、これはこうで、こうだから、必要という体験、認識がないと、やる気が起きない。こういう不祥事繋がりで「ホリエモンの事件」の時に「お金で人の心が買えるなんてとんでもない発言だ」という報道を思い出た。「じゃあ金でいままでお前は動いた事が一回もないのか」と言いたかったし「ある程度真実じゃないか」とも思った。慰謝料だって和解金だって、まあコレだけもらったんなら許そうという話じゃないのか?「お金をもらった瞬間全く怒りが和らがなかったのか」「お金でお前の心は変化しなかったのか、それで買える、モノやおいしい食事で」その発言で子供達の影響が心配だと言っているのをみて、じゃあいちいちわざわざ、本に書いてあっただけの発言をTVで取り上げんなとも思ったそんな他人のいうことにいちいちぶれない、「自分の判断を持った子供になるほうが大切だし、あそこまでただ本に書いてあった発言に反応するのは「自分たちが事実と認めているからだろうと思う。追記頭からシャワーを浴びるのが凄く気持ちいい、頭蓋が解体されていく感覚がある。最近上半身が前以上に異様にくねくね動く、背骨がバキベキ鳴り連動で肋骨が広がっていく、背骨の可動域が少し広がるだけでも凄く気持ちいい。首の骨が今まで意識していたより長いのだと実感する事が出来た。頭蓋の奥の骨まで背骨として実感できた首のは背骨に頭蓋が掛かっている感じが大切だ
2006年01月31日
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昨日深夜のTVであるドキュメンタリー番組を観て半分しか観てないけど久々に心が震えた。脳性麻痺という障害を持った青年の事なんだけど、一番共感でき、一番最初に見た場面が中学の頃のいじめについて「絶対に、絶対にこいつ等を見返してやる」という気持ちを持っているという場面で、彼の脳性麻痺がどれくらいかというと、もう言葉もよく聞き取れない、、歩きかたも一発でそれとわかるゾンビみたいな歩き方、声を出すたびに顔面がくしゃくしゃになる、かなり重度のものなんだけど、その見返してやると思ったという気持ちは僕にとってはもう忘れかけていたもので、なんとなく示唆的だった。彼は今、従業員彼一人だけだけど自分で会社を創り、名刺に点字を打ち込むという仕事をしている。あともう一人の障害者を一緒にハンディ&キャップというマジシャンもやっている。たぶんその中学時代の思いを胸に秘め、その姿は僕が高校の時のコンクール?、あまり憶えていないがクラス対抗で出しものをするときに、あるクラスの生徒がたった一人で全校生徒と向かい合いブルーハーツの「リンダ、リンダ」をフルスロットルで歌いきったのを思い出した。その時僕は感動し、クラスが一緒の奴にそいつの事を聞いたら、「あいつは馬鹿だ」と言ったので、僕は普段あまり発言はしないタイプだったが「いや、凄い事だ」と思わず反論した。どちらにもいえるのは「自尊心を失わなかったこと」だと思う。マジックをやっている時の彼のファッションからも分かるんだけど、脳性麻痺だろうがなんだろうが「自分を卑下していない」障害者の保障が一割減ることの説明会の時に彼は終わった後市の職員を捕まえて抗議して、去り際に「障害者不公平法バンザイ!!」と怒りを込め皮肉を言って去った。決して失わなかった自尊心の表れが番組の最後に「もう一度生まれ変わっても脳性麻痺として生まれてこの障害を楽しみたい」と言った言葉に震えたのと同時に理解が出来なかった。それは世界がもしも「百人の村だったら」に出てくるこんな最悪の状況で何であんなに笑えるんだろうと思った時との不思議さと同じだった。僕の小学校三年くらいからいじめもあったし「辛いは辛いがTV、漫画、妄想、弟をはけ口になんとか誤魔化していく」学生時代がずっとあった。「自尊心が損失した」その事自体から逃げていた。そのままでいても「周りが認めてくれること」もときたまあった。この時からか?「自分が生きているという感」がしなくなっていった。「別に今死んでもいいし、でも生きてもいいし」と寿命を他者(神)が決めることになんの抵抗もなかった、あがくほど生きたいとは思わなかった。自分という存在が喪失していく感覚。多分障害者の彼はその事を決して誤魔化さなかった。怒りや、憎悪をしょうがない、持っていてもきついだけと思っていも投げ出さなかった。現実直視を避ける問題中毒は今も僕に根付いていると思う。彼のマジックは正直言ってなんてことはない「誰にでもできる手品」だ。その事を象徴するかのように、老人ホームでは同情感、老婆心からか好評そうだが、小学校での反応は悪く、画面にも伝わっていた。名刺だって大体が必要性というよりも同情から買っている様に思う(個人的には点字名刺は僕はイイ人ですよというアピールにもなるから結構買う所は買うんじゃないかと思うけど)彼が社会的に役に立つか、立たないかといえば立たないだろう、けど彼が彼自身であることに大きく意味はある。その生き方に意味がある。何人か社会的に自立をしている障害者とあったことがあるが一様に彼等は「プライドが高い」ように思える。それが無意味な自己主張に繋がっている人もいたけど別の障害者の特集番組で障害者の犯罪についてやっていて、刑務所にすぐ戻ってくる事が問題にされていたけど、「周りから自尊心を汚されてそれを受け入れてしまうか、それらをすべて否定して悔しさをばねにするか」でこんなに違うのかと思った。
2006年01月30日
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前のプログで買った本を久しぶりに読んだと書いたけど、往々にしてそんな感じが自分にはある気がする。本を買ってもすぐには読み込まないし一度読んだ本はほぼ二度と読まない。多分自分も共感、納得できるものじゃないと読み進められない。自分で解らないものは読まない。高岡英夫氏の「センター~」「スタンマックス~」も買っては見たけど全部読んでない。ちなみに究極の身体も全部は読んだと思うけど読み込んでいない。新しいゲームソフトを買って攻略本も買って最初は熱を上げるけどどんなに頑張ってもやっても終盤でやめてしまう。ゲームクリアしたことがない。なんかね話は全然飛ぶんだけど、やっぱ人間「生きているという実感」が欲しくて色々やるんだなとふっと思ったよ。漫画シガテラであった主人公が「風呂屋まで走るけど意味はない、ただ今日も生きてたんだという実感が欲しくて」というのがあらゆる意味でいえると思う。それは人間が生存の危険が減った現代において、ほぼあらゆることの理由なんじゃないかと思う。何もしないのってかなり苦痛じゃないですか、何かをして自分の存在を確かめたがるわけじゃないですかそれは人を傷つけることだったり、助けることだったり、あんま意味ないなと感じていても、むやみに働くことだったり、そこに家族のためだとか、世間一般でそうなんだとかの大儀名文が入ったりして倉本氏の今の生活をPQ開発者じゃない人がしたら結構辛いと思いますよ。何か意味のない事でも何かしたがる。それは行動することが人間の本能でもあるし、同じことの繰り返しは飽きると言うことでもあるし、でも何より「生きている実感が欲しい」だと思う。PQ人だからこそ、何もしなくてもそこにあるだけで、そこにある身体を感じるだけで「生きている実感」がある。そこに少しでも飽きればもっと深く身体を感じるようにする。それが出来るだからぶっちゃけ他者はそんなに必要ない。自分は自分他人は他人の冷酷さがどんな関係において持てる。僕は実家に居てアルバイトやっているだけだから今社会的に見たらクズみたいな生活をしていると思いますよ。見下されてもしょうがないし、軽蔑されてもしょうがない。それは認めます、事実そうだから。でもなんか世間に対してカッコがつくとか、そこに入れば安心だからとかの理由のみで人生決めたくない。結局「ポーズのみ、カッコのみ」は嫌だなと思うんですよね。「明日も今と同じ生活送るためだけの人生にしたくない」だから今と同じ生活の人生を自分で決定した人はその生活に意味を見出すか幸せを見出すか、無理やり意味と幸せを見出そうとしている」コレはみんな同じで、だから恋愛とか苦行とかしたがると思うんですがこれはみんなにじゃなく結構自分に言っているですよね。やっぱ社会的にこのままじゃいけないって思いますもん。焦りますもん。でも焦って考えなしにやったって主観的な幸せ感は持てないとも思いますしね。PQ開発で身体の存在の実存が深まっていくと「世間に対する遠慮」がなくなり、生きる実感にいちいち他者を必要としない。これが最近ほんのちょっとで確定的じゃないけどわかりつつある。もっと僕が僕になっていく感覚がある。僕が僕であることが前提条件でないと社会的成功も、誰かとも特別な関係も意味はないし価値はないんだなと思います。追記メキシカンギターのあのジャカジャカンとした音楽がやっぱ好きだなと再認識し、ダンス、踊りとかいいよなとも思うようになるなんか生命を感じる
2006年01月26日
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ずいぶん前に購入し、しばらく読んでなかった「動く骨」という本を読みそこにある「体幹内操法」が前よりも実感できていることに気付く。この本は前にトヨタのエンジニアをしていた人が書いた本で全部力学的に身体を解説している。今の僕にとっては高岡英夫氏の本よりはわかりやすい。実感があるということ。眼球の動かし方解説で普通の人は余計な力で動かしているが、眼球の後ろには数本の筋肉があり、それを後ろに引くことで眼球を回すのが本来のやり方であるとか(例えば右を向く場合右の筋肉線を後ろに引く)あと、頭と胸部と骨盤に三つの球があるとイメージし、それを左右に交差させる線で繋ぐ、その線を引くと連動的に球が回り、より効率的になる。とか(かなり説明べたで、ちゃんと伝えきりないけど簡単に説明するとそんな感じ)言っていることはね、高岡英夫氏よりは深くないけど、(コレは高岡式でいうとフリークライムのことだなとかが散りばめられている)だからこそ解りやすい。意識するのが比較的簡単だと思う。精神的、意識的なことは省いて、運動そのものに絞っているから簡単。よりそれら三つの球を意識する運動も紹介しているし、組織分化に結構いいんじゃないかと思う体操も紹介している。PQ初めての人は初歩としてやってみるといいと思う。最終的には高岡英夫氏の深さを目指すべきだとはおもうけどさっきネットで調べてちょと面白かったのがこの本を書いたひとも「運動脳力開発研究所」というのをやっていてセミナーがあり、なにやらフリークライムを体得するための器具を販売しているということ、高岡英夫氏とやっていることが一緒だな。
2006年01月26日
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