2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全9件 (9件中 1-9件目)
1
前回のプログの追記としては怪しげの言葉を使わず書くとしたらカラダをほったらかしの状態で(意識の介在をさせない状態)で観察者の目線に立てた(第3者の立場)ということなんだと思う。意識的にココを意識してというよりは、普段は徹底的にこの目線でいいんじゃないかなこの目線で観て、ああココが大事なんだなと自然と分かるみたいな意識の介在をさせない状態で自然と必要な筋肉だけを使う後こういう目線に立つことがPQ禅なんじゃないかと思う意識の介在が無いカラダを感じる
2006年05月24日
コメント(4)
「そこにあるカラダ」という前に書いたプログで、似たようなことを書いたんだけど、ずいぶん前から僕は普段どういう状態であるべきか、どういうことを意識すべきか?というのを考えていてPQでいう「自分の感覚に正直に」「本能と衝動に素直に」と言われても、そうやろうとしても「その感覚とか本能とか」をいまいち掴み取れてなかったんですけど瞑想のことを書かれた本の中に、「人間は肉体があって魂があると思っているけど、それは間違いで、魂があって肉体が存在している、肉体の中に魂があるのではなく、魂の中に肉体があるのだ」という言葉にピンときてある宗教の教えの「肉体は神様から借りたもの、いつか返さなければならない」という教えと、PQでいうところの、「カラダにはカラダの都合がある」という言葉を感覚として理解できたような気がする。やっぱり魂や精神なんてものは「肉体の中じゃなく、外にあるんだ」所が一番の理解のキッカケになった気がする。カラダを完璧に自分とは別の存在として捉えることができた、別の存在として感じているからこそ、カラダのことがよくわかる「カラダというのは、いろんな事を感じるための道具」という事に納得がいった「カラダが求めているものが実は一つだけで、快楽(抑圧からの解放も含み)のみ」なんだよね、で、それを今の社会状況の中いかに敵(不快なもの)を作らず実現するかカラダというのは魂の鏡で、今あなたはこんなものを求めていますよという信号を送るためのものという感じもする。う~ん段々話が怪しくなってきたので、これでお~しまい。
2006年05月23日
コメント(0)
僕は人はそれぞれであるべきだと思っている。ルールにこだわる人がいてもいい、熱血な人がいてもいい、自分だけの価値観を持つことはいいけどそれは「人に強要すべきではない」、大多数の人と違う価値観を持つ事は卑下されることでも、馬鹿にされることでも、見下されることでもない、もしそうされているとすれば、それはそいつ等が人と比べることでしか自分を確認できないからだそして、人間というのはそういうもので、人を介在してしか自分の価値を感じられない、誰かに認められ、誉められたい、他人の評価の中でしか自分の価値を感じられないからだ高い評価を得るために生きている、だから不可避的に人を見下し、馬鹿にできる低い評価を持つ人間が必要になる。自分は人より金を持っているから幸せのはずだ、女にモテルから幸せのはずだ、普通より上だから幸せなはずだ、誰かと一緒にいるから幸せなはずだ普通こういうのが「幸せ」ってはなっているから幸せなはずだ僕は自分に自信が無い、だから自分が正しいと思えることをしたい、間違っていると気づけば正せばいい、それだけだ誰かに教えられたこと、道徳、教理、普通、常識、それが本当にそうなのか?それが正しいのか?そもそも正しいって何だ?もし誰かが言ったことが100パーセント正しいとしても、僕にとってそれが重要なことなら僕は手放しにそれを信じられない、自分で確かめたい、それが正しいかどうか、「納得」が必要なんだ僕は自分自身であり続けたい、だからそれは僕にとってはどうなのか?を確かめたいし、自分自身であることを表現していきたいこうあるべきだ、あああるべきだと言われたくない、自分がどうあるべきか、どうありたいのか自分で決める僕はただ自分自身であり続け、それを表現したい、でも自分に自信が無いから、他人に胸を張って表現するために、それが正しいとどうか、本当にそう思っているかどうか、をきちんと確かめたい、例えそれが間違っていたとしても、自分が正しいと思えるものをやっていきたい、間違いに気づけばその都度正せばいいそれが自分の人生を自分で生きるということだと思うそしてそれは人に強要してはならない、自分の生き方で処理すべきだ僕が人にいうとしたら、「それぞれであるべきだ」ということだろう、だから人に何を言われようが必要以上に傷つくことは無い、自分を否定することも無い、何も誤魔化す必要はない、普通がどうあろうと自分が最高だと心から思えるものが最高だし、それが飽きたなと思えばやめればいい、こだわる必要なんて無い僕は人が怖かった、自分自身を表現してそれが傷つけられるのが怖かった、評価が怖かっただから正しさが必要だった、不用意に傷つかないだけの正しいと思えるものが、それは世間一般ではこうなっているじゃなく、こうなんだと自分の心から思える正しさが
2006年05月15日
コメント(0)
昨日TVで脳科学者が司会する番組があって、BSなんだけど、そこに荒川修作って人がゲストにいて、その人の考えに衝撃を受けたというか、なんか21世紀新しいことが生み出されている感じがしてその人は建築家なんだけど、「人間というのは有機体なんだから、今の直線ののみの幾何学的な建築はおかしい、人間の体には直線なんてどこにもないじゃない、建物を人間の体の延長として捉えた時、今までの建物は人間の可能性を限定し、感覚を麻痺させている」と要約するとこういう事を言っていて、つまり今までの世界にある建築物は全て間違っているで最終的にその人が目指すのは「死なないための住宅」ということなんだけど、その人が建てた建物は、人間の体の延長として建てられていて、三鷹にそれが住宅として分譲されているんだけど、感想としては、カラフルで言われてみれば人間の体内という感じもする。僕は住宅がそんなに人間に影響を及ばすのか?という疑問も残るし、この住宅に住めば、人間の感覚が目覚め、可能性が広がるというのも、本当か?という疑問も残る。けどその人が言っていた、ここからPQ的なんだけど「人間は五感というけどそんなもんじゃない、感覚は数百という数あるんで、この前、インドの医者かなんか(ここははっきり覚えていないが)ああ、あなたは腸の裏の感覚が鈍いですねといわれましたよ」とかに僕は自分の体の中を感じるのは「触覚」だと勝手に思っていてんだけど、こういう数百の感覚を目覚めさせるのがPQなんだよなぁと思い「赤ちゃんは生まれたときは、自由なのに(身体意識が高い)のに成長するに従ってそれが失われるそれは、その住んでいる環境、つまり住宅、街並みが人間にとって自然の形をしてないからで、感覚がおさえつけられているからなんだ、つまり有機体でアメーバーみたいであるはずの人間がこういう幾何学的な環境の中にいると本来の能力がおさえつけられるんだ、だから機械的な動きになり、その動きそのものは不自然なんだ」というのにこれは新たな問題中毒の定義なんじゃないかなと思った。住宅に対して霊とか波動とかの言葉を交えずにそもそもその形自体「我々有機体にとってすごくおかしいんだ」という言葉は結構衝撃で、それが正しいとすればこれは21世紀の新しい「価値創造」になると思う。その人は自分の住宅に2~4歳ぐらいの子供、90歳以上の老人、脳障害がある人を住まわせたいと言っていて、普通の人が24時間僕の作った住宅にいれば、哲学者か科学者になるといっていた僕が驚いたのはそれを実現させてしまったこと、世界の建築を全部否定するようなことを実現できたしまったこと、それが正しいかどうかは後何年かすれば分かるはずだその後すぐ、美しい歩き方みたいな番組が始まって、対極にある考え方だなぁとおかしかったんだけど
2006年05月15日
コメント(0)
ユニクロに服を買いに行った時、久しぶりに、自分の全身を鏡で見たら、なんかこう、インド修行僧みたいなカラダだった。で意図的にカラダに委ねて、感覚に沈み、頭の重さを解放し、表情を緩めたら、なんかこう、陰険な顔、気持ち悪い顔になっていた。ちょっとびっくりして、額にもうひとつ目がある感覚でやってみたらいい感じになったこれは、自分の中にのみ入り込んでいたから、こんな顔になったんだと思う。カラダに沈み、カラダに委ねるだけじゃなく、周りの世界を認識するといういう意識が必要だ
2006年05月11日
コメント(2)
カラダのことが分かり、カラダに委ね、カラダに沈み、カラダで周りの世界を認識していると自意識の出来ることとは何だろうと思う。自意識(つまり僕)の出来ることは恐怖心の克服だけだろう、上記のような状態でいようとする、他人に対する恐怖心が僕を縛る。恐怖のパターンの解体のみが僕のできること。どうすれば頭ではなく感覚で「囚われ」に気づくことが出来るだろう。それは何度もやってみて「慣れる」しかないのかも知れない。フォトリーデングを提唱している人の本で「潜在意識であらゆる問題が解決できる」という本がある。書かれているのは「ストップサイン」(過去の人から言われたことや体験がその人を制限している)の解体、解放、感知、反応、確認からなる4ステップなんだかPQ開発に似ているなぁと思った。追記対話時間で背骨を鳴らし過ぎたせいか、前からズレていた第12脊椎?(みぞおちあたりの、腰方形筋が始まるあたり)に痛みがある、僕の背骨のズレは結構ひどく、背中から見て拘束背柱が逆S字になっている、ちゃんとした背骨が欲しい
2006年05月11日
コメント(0)
世界にはまあ常識とか普通とか「世界の物差し」があって、他者には「他者の物差し」があって、自分には「自分の物差し」があり、「自分の物差し」がはっきりすれば、他二つの物差しに合わせていける。物差し自体も変化可能だから気をつけなければならないんだけどまあ、分かりやすく言えば「人は人、自分は自分、世間は世間」ということで、これはだから自分の我を他の二つに通していいのよという言葉ではなく、だから自分が傷つく必要はないし、周りに合わせても自分が間違っているということにはならないということだろう自分は自分の自分は自分の範疇でやりなさいという意味のような気もする。こういう当たり前のことに当たり前に気づいていくんだなぁと最近思う。結局僕は誰かに言われてそうなんだと納得するより、自分でそうだったんだと納得するしかないのかもしれない。めんどくさい性分だ
2006年05月11日
コメント(0)
前のプログをもっと深く掘り下げてみると、結局自分の根幹にあるのは「存在の証明」のように思う。僕はずっと他人から、世界から「ないがしろ」にされてきた意識がずっとあって、それをずっと「恨み」に思っていたんだなぁと頭の中で聞こえるのは、お前なんてたいした奴じゃない、どうでもいい、価値なんてないんだ、そんな声で、まあ今までは感じないこと、気にしないこと、見ないことにしてんだけど、それはやはり無理だし、そんな世間の価値観を受け入れてきた自分もいたし「存在の証明」とは他人に必要とされることだと思う、もっと言えば世界につまり他人に世界に必要とされるもの、欲しがっているものを「与える」ことだと思う。そこで「ああ必要なんだ」と「ここにいてもいいんだ」という感覚がもてるただもうひとつの欲求もあって、それは個人として「突出した存在になること」、「進化しようという意思」みたいなもの僕はこれのみに焦点を置いていて、それが「存在の証明」に繋がるんだと思っていたけど、それは「他人にとって意味のある力でなくてはならない」、「無用な力」は意味をなさないもっと与えようと思うから、その人は進化するのかもしれない。赤ん坊には、「欲しがっているもの」を与えたほうがいい、その方が「泣かない」、いずれ自分でこれはいらないものなんだと気づくときがくるかもしれないし、こないかもしれない自分で気づくしかない二分化するのはどうかと思うけど、「人には欲しがっているもの」を与え「個人では今世界が必要としていると思えるもの、これが大切なんだと思えるもの」を表現するしかないのかもしれない。個人の思いと世の中のニーズがリンクする生き方それが一番いい個人が個人でいられる生き方、個人が個人であるがゆえに世界に必要とされる生き方
2006年05月11日
コメント(1)
また今日も同じ様なことを書くことになると思いますが、改めて実感したんで書いちゃいます。僕は小さい頃から、いてもいなくてもいいようなどうでもいい、もしくは害を与えているような存在で、生きていることが苦痛だったんだけれどもそれは必要とされてないと感じていたからだと思う。そりゃ、俺の息子だから必要とか、みんなと仲良くしなきゃいけないから必要とか、労働力として必要とか、色々あるわけだけど、僕のパーソナルな部分が必要とされているということはあまりなかった。僕もパーソナルな部分を表現してこなかった、というか言っちゃいけないような気がしていたし、そういうことは世の中からズレていて、そんなことを感じる自分がダメなような気がしていた。そしてなんだか自分がよく分からなくなっていったような気がする。自分が何を思っているのか分からない、言われてきた身の程に合わせながら苦しんでいた。生きている理由に悩んだりもした、でもいつも風化していった、苦しいんだけどなんとなく生きてこれた「誰かが僕のパーソナルな部分を本当に必要」であったならばそれだけで生きていける理由になる。必要とされないのは、本当に辛い、でもそれが能力や、肩書きのみが必要されても辛い。だからこそ、自分のパーソナルな部分を表現しないといけない、それは受け入れられないかも知れない、だからといって人当たりのいい自分を演じ続けても、それは自分じゃない。自分の個人の思いを表現し、自分であり続け、それが周りに必要とされる。それが僕の理想でもある。僕は人に対して必要なんだということ感じていてもは言わなかったし、素振りも見せないようにしていた。その人が僕を必要としてくれなかったら凄く傷つくし、僕が他人から必要とされているとは思えるだけの自身が無かった多分僕のその態度が多くの人を傷つけてきたんだと思う。個人として生きていくには、他人の隠された欲求を埋めていくだけの演技力が必要でそこで僕の存在は許されるのかもしれない演技、難しい
2006年05月06日
コメント(1)
全9件 (9件中 1-9件目)
1