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朝、突然の雪景色に驚く。大晦日の午前中、中津駅前のシネマで宮崎駿監督の新作「ハウルの動く城」を見る。今度の作品ももりだくさんの絵があり、動きも多い、そして美しい色彩がふんだんにあり、楽しく鑑賞した。物語のストーリーは展開が速く、かつ必然性がなにものがあるので、頭で理解しようとして見てはいけないのではないか。楽しむという心持で見るのがいいのだろう。動く城というアイデアも宮崎駿独特のものだろう。天才的表現者としては、手塚治虫のマンガ、宮崎駿のアニメということになるのだろう。さて、今からはテレビをみながら大晦日の行事をこなしていこうか。年内は、毎日、日誌を書くことができました。
2004/12/31
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福岡在住の知人がガンで亡くなったので、出かける。病院の院長夫人だった。若い頃から知っていたが、46歳とあまりにも若い死。何度も涙を誘われた。「がんばったんですよ」「人の悪口を言わない人で、みんなから好かれていました」と院長さんが語っていた。夜は、高校時代の仲間が集まってくれて飲み会。私を入れて6人。女性1名。焼肉を食べて、スナックに繰り出し、最後は中華で食事といういつものパターン。旧友との飲み会はいつも愉快で、懐かしくなる。
2004/12/30
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九州大分県中津市の実家に帰っています。夕刻から横松宗先生夫妻を母と訪ねる。横松先生は91才だが、この11月に家を新築し転居された。まずこのことに驚く。自宅は、1万五千冊の著書を収納し、応接間としても使える書庫を併設している。中国文学や福沢諭吉に関する著書が並んでいる。中津市の教育長をしている旧知の影木さんも加わって話に花が咲く。夕食は、駅前の中華に出かけるが、政治、経済、中国、短歌など話題は多岐にわたる。7時半以降はまた横松先生の自宅に戻り9時半まで愉快に過ごす。
2004/12/29
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今日は卒論11本を読んだ。最高の出来から最低の出来までのオンパレード。もう一回読んで来年11日には個人個人にアドバイスをする予定。今は卒論を審査する立場だが、学生時代には卒論を書いた経験はない。指導する学生から「卒論の書き方を教えてください」と時々言われるが、私の答えは「さあ、書いたことないからなあ」だ。そういうと学生は目を丸くする。(^^;)午後3時からは学長の年末のご挨拶。
2004/12/28
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顧客満足という考え方が広がってきた。その影響の一つだが「患者様」という言葉を使う製薬会社や病院が増えている。「様」をつけて尊敬を表すということなのだそうだが、違和感を覚えるのは私だけだろうか。その違和感は、「患者」という言葉の方にある。「患部のある者」というのが患者の意味だ。入院する人もそれぞれ職業を持っている。病院ではそれが「患者」という得体の知れない呼称で呼ばれてしまう。そういう話を大学病院の医者にしたら、最近では「ご病人様」という呼び方も出てきたというのであきれてしまった。こうなってくるとまさに病気だ。医療業界は、自らの責任でもっといい呼び方を発明すべきだろう。そういえば、ビジネスマンの頃、「さんづけ運動」をやったことがある。役職で呼ぶのは止めようという主旨だ。ところが、社内放送で「広報課、課長の○○さん」というのが聞こえてきたことがある。これは広報の○○課長」というよりもっと役職を強調する言い方だ。主旨を理解せずに、形だけを導入しようとするからおかしくなるという見本だ。巷ではこういう、とんちんかんな出来事に満ちている。おかしくもあり、悲しくもあり。今日は1万歩以上歩いた。
2004/12/27
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この一年間にたまった雑誌、いらなくなった書類、不必要なファイルなどをゴミ箱に放り込む。まだ途中なので少しだけすっきりした感じ。来年も仕事が多そうでもあり、大学だけでなく自宅でもしなければならない仕事もあるので、書斎の快適空間化は大事なテーマだ。私の書斎は公園に面しているので、とても気持ちがいい。基本的に公園に来る家族は幸せな人々なので、いい「気」が充満しているような感じがする。夕方からは、常磐木学園の東校舎落成記念パーティに出かける。理事長・校長の松良さんとは同年の仲間。シュトラウスホールでの演奏会も良かった。パーティでは教育関係のお偉方が多いようだった。教育長や仙台一高の校長、聖和学園理事長の市議会議長、東北工大の副学長、、、、、。
2004/12/26
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山形県の嵐湯という老舗の温泉宿にできた石湯という岩盤光線浴に行ったことがある。42-3度という適温の中、浴衣を着たまま天然鉱石の岩盤の上に寝ると一気に汗と老廃物が吹き出てくる。ミネラルウオーターを飲みながら数回入ると、体内脂肪率がはっきりと低下する。病みつきになりそうだったが、遠いのでそのままになってしまっていた。最近、近くに同じ技術を使った岩盤光線浴ができたというので、土曜日に行ってきた。マンションの一階を改装してつくうたものだった。15分入浴・5分休憩がワンセットで3回繰り返すと1時間になる。汗をたっぷり流して帰った。陸前落合駅の近く。仙台市青葉区落合2丁目6番8号。電話:022-391-7895
2004/12/25
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夜は、私とワイフ、大学生の娘と息子の4人でパーティ。昨年は息子の入試があったなあと思い出しながら会話が弾む。愛犬チョコラも食卓の周りを回っていた。そしてテレビで宮崎駿監督の「天空のラピタ」の物語を見ながら寝てしまう。
2004/12/24
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10時からインタビューアーという肩書きを持つ和泉育子先生と共著で書く本の打ち合わせ。和泉先生とは20年以上の長いお付き合い。今回は「人間関係」をテーマとした本で、私にとっては新しいジャンルになるかもしれない。13時からはNPO法人キャリア開発研究機構の理事会。萱森さん、喜多さん、山田さん、横野さん、そして事務局の鎌倉さん。信頼できるいい仲間たちだ。17時から、さくらの百貨店の行きつけの山浦さんがやっている紳士服店で冬用の洋服などを買う。仙台に来て以来、絵を書く芸術家である山浦さんの見立てで年2回買うというスタイルが定着している。見立てがしっかりしているので迷う時間はほとんどなくなった。今回は、ハーフコートとセーターを中心に購入。
2004/12/23
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21日(火曜日)の日経夕刊の一面特集「解を求めて--本当の私 どこのいる」で、宮城大学で97年から行ってきた「自分史を書く」授業が取り上げられた。大学での授業の紹介と板倉広和君のコメントが紹介されている。また、2面の「ジェネレーションY---私の解き方」で写真付きで私の「自分探しは自分ずくり」という一問一答が掲載されている。「授業で自分史を取り上げるきっかけ」「講座は盛況のようだが」「見つめ直すほどの経験をつんでいないのではないか」という問いに答えていくという記事だ。講義、評議会、臨時教授会を終えて、市内へ。知的生産の技術研究会仙台の例会と忘年会。今回のテーマは「親業」。メディアテークでの例会の後の忘年会では、岩手県からも参加者がいた。私のゴルフの先生の富田さんも初参加。
2004/12/22
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仕事が2倍はかどる!成績が大幅にアップする!一日が48時間になる! 少し大げさ気味だが、7ページを使った大きな特集。----------------------------------------------・手帳を見れば、仕事のデキ、不デキはここまでわかる!・2005年は久恒式手帳で仕事を3倍速く片づけよう!・4週間分を俯瞰してみよう・AM5-9時とPM5-9時を活用しよう・久恒式手帳をチームで共有して売り上げ倍増!・1日1時間は確実に浮かせる!・困った時のリスケジューリング法--------------------------------関心があれば、見てください。
2004/12/21
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来年1月27日に理事長をしているNPO法人知的生産の技術研究会で講演をすることになった。貰ったテーマは「合意」。図解思考と定性分析の結婚としての合意学の姿が浮かび上がってくるかもしれない。取り組んできたプロジェクトや講演・研修でわかった現場のニーズを土台にして、合意の正体に挑んでみるか、という気持ちになった。「世間やマスコミからその都度、テーマをもらっていつの間にかここまできた」というようなコメントをする識者を新聞などで見てきたが、そういう感覚が少しわかるような気がする。もやもやとした空気の中に、石を投げ込むと一気に結晶ができるようなそういう感覚。今回は特に定性情報の処理についての考え方と手法を意識的に述べることになるだろう。
2004/12/20
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日曜日の夜は、宮城大学一期生で社会人留学生の蔡君が起こした会社ウインテックの忘年会に参加。蔡君は仙台を本拠地北京や韓国で手広く商売を行い、成功している。社員は10人ほどでITソフトの開発を行う若い会社だ。今年瀋陽の大学を出た中国人の若い社員も2人いた。「ざうお」は屋内の槽で泳いでいるタイやヒラメをお客さんが釣って、そこで料理して食べるという趣向。
2004/12/19
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十年余の看とり辛からむと友は言ふ独りになるはもっと恐ろし 久恒啓子『「風あり今日は』(平十六)所収。十年余の看病とあるが、作者によると昭和六十二年に夫が脳出欠、症状が意外に重く、右片麻痺、失語症となった。以来十五年間、看病の明け暮れだっという。その間、子供たちの協力で一年に一度、国内外を旅行してストレスを解消したという。その夫も亡くなり、三回忌をすませた。この辺で「前向きに歩き出そう」と、この歌集を編んだという。右は闘病中の歌。健気な妻の本音。 大岡 信朝、新聞を読んでいて偶然見つけてびっくりした!一番に母親に知らせることができた。大岡信の「折々のうた」は、朝日新聞の一面に毎日載っている。http://www.hisatune.net/html/05-career/private/05-1d.htm
2004/12/18
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12月16日は、第6部「解を求めて」-無二の友<無数の知人という見出しだったが、この毎日続く一面特集が話題らしい。若者の動き、悩みを追うシリーズものだ。この一面を受けて2面には「私の解き方」というコーナーがあり、識者がコメントを載せている。今回は、精神科医の斉藤環さんが「人との違い 恐れないで」というタイトルで語っている。来週には、若者が自分史を書く、という題材での記事が予定されており、講義の様子とともに、私のコメント(一問一答)が載る予定。
2004/12/17
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金曜日は講演を終えて、平河町のマツヤサロンでの寺島さんの講演会に出席する。今度出した本は「脳力のレッスンー正気の時代のために」。9/11からの3年間の雑誌「世界」での連載を中心にまとめたもの。パーティでは、学習院の川島先生(紀子さんの父君)と元国連の明石さんが挨拶をした。最終の新幹線で、仙台へ。
2004/12/16
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河北新報朝刊「紙面センサー」に執筆。OECDの15歳の国際調査結果比較をネタに持論の一部を展開してみた。2年生へのゼミ説明会、大学院授業、改革委員会。夜は、後援会(父兄)と大学幹部との懇親会と続く。
2004/12/15
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3年生のゼミで、グルーンツーリズムを専攻している韓国人留学生と話し合う。浜田廣介の「泣いた赤鬼」の物語は、都会人と農村人の交流の話としてもみれる。こういう童話は日本には多いと思う。童話を題材に考えてみたらどうか。また俳句は自然を観察して読むものだから、いわば環境問題に対する最大のソフトウエアともいえる。俳句や短歌の世界には、吟行という旅の形式があるが、農村の人々が俳句や短歌を読むことができるならば、都会の旅人句会などを催すことができる。グリーンツーリズムはこのような観点から考えてみると面白いのではないか。このようなアイデアやアドバイスを行った。毎日の生活や観察が発想の源になると改めて感じることとなった。専門や関心領域の異なる様々な学生と話しをしていると、知識が身につくのと同時に発想が豊かに広がっていく。これも教師という職業の醍醐味だろう。卒論の指導は、10人の4年生が集まり、最終発表と私の点検で終えた。おおかた、女子学生は問題が無く、男子学生はやや不安といった印象だ。昨日出してある学生を含めて11人が卒論を書く。今週末に締切。最後の頑張りを期待。
2004/12/14
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月曜日は、講義が2つ、ゼミが1つということで、朝から夕方まで忙しい。自分史を書く授業、プレゼンの技術の授業とも佳境に入ってきた。終了後、東京からソフト開発の会社が見えて、相談。辻井喬の「父の肖像」を毎夜少しづつ読み続けている。大隈重信、後藤新平、文人など時代をつくってきた人物が次々に登場する。この「父」は堤義明、堤清二の父である西武グループの創始者だ。辻井喬は昭和2年生まれの堤清二のペンネーム。
2004/12/13
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夕方、近所の仙台ロイヤルパークホテルで堺正章のトークショーに出かけた。200人の会が2回予定されている。ほとんどが女性で、年配者が多い。ゴルフ仲間の斉藤整骨院の院長夫妻とご挨拶。マチャアキは語りがうまく、笑いの渦だった。・姿勢がいい・スーツにしわがない・声にメリハリがある・料理に詳しい・気配りが上手・話術がうまい健康のためウオーキングと褒めることを推薦。最後は、隠し芸のシャンペングラスを山なりにして、テーブルクロスを引き抜く芸を披露。
2004/12/12
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朝は、童話作家であった高畠町の浜田広介記念館を訪問。斜めの変わった大屋根をかぶった記念館。この町は童話の里づくりを目指している。1973年に80歳で没した日本のアンデルセンと呼ばれたひろすけは、生涯1000編に及ぶ童話を書いた。ひろすけ童話賞というのがあって、ねじめ正一(まいごのことり)やさだまさし(おばあちゃんのおにぎり)が近年受賞している。和歌、俳句、絵、新体詩など若いときから多彩な才能を開花。童話五十余年 立ち止まり 振り返り またも行く 一筋の道だったこれは昭和47年の言葉だ。お伽話から、芸術性の豊かな児童文学としての童話への変化を主張した。「童話は自己を表現するにふさわしいもの」と「椋鳥の夢」の自序に書いてある。藤村はよき理解者だった。帰郷のたびのどう九回を楽しみにしていた。古賀正雄の歌の歌詞にも採用されているというエピソードも。独立までは、実業之日本社で「幼年の友」という雑誌も編集している編集者だった。今年、ヤンキースの松井秀樹選手がニューヨークで日本の3歳から14歳までの子どもたちに童話を読んで聞かせたというニュースがあったが、この童話とはひろすけの「泣いた赤鬼」だったのだ。この童話は子どもの頃に読んだ記憶がある。追加:隣接した「ひろすけホール」を覗く。天井を除いては床からすべて木の小ホールで、ちょうどママさんたちのピュア・グレースという合唱団が練習をしていた。ゴスペルの歌声を座って聴いた。150席くらいの感じのいいホール。地域の交流施設としての役割を果たしていると感じた。午後1時から3時まで、米沢市のすこやかセンターで山形県男女共同参画室主催の講演会で講演。50人くらいの市民。「ライフプランづくりをとおして自分の生き方を考えよう」というテーマ。ほとんどは女性だった。子どもをセンター内の託児所の預けて講演を聞くお母さんや、子どもを抱えて聞くお母さんの姿もあった。熱心に聴いていただいた。米沢から東北自動車道に出て、仙台へ。
2004/12/11
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土曜日に米沢市で講演があるので、早めにでかける。午後、山形県の上山市の斉藤茂吉記念館を訪問。上山は茂吉の生まれ故郷。仙山線の斉藤茂吉記念館前という駅がある。新潟から来たという老人と話しを交わす。茂吉56歳の時の自作短歌朗詠コーナーがあり、茂吉の生前の声を聴いた。最後の歌は「いつしかも日がしづみゆき うつせみの われもおのづからきはまるらしも」。茂吉の名前は、長男茂太、次男宗吉(北杜夫)に分けられたのだろう。昭和26年に文化勲章受賞、28年に70歳で死亡、ということは私が生まれた年にはまだ存命だったということだ。テレビの番組で茂太、北杜夫が父茂吉を語るコーナーがあり、茂太は「蔵王のイメージが頭の中にあった」、北杜夫は「一生懸命生きた男だった。解剖したときには体はボロボロだった」。蔵王の頂上には茂吉の歌碑がある。茂吉の故郷を想うイメージには蔵王、最上川、出羽三山があった。日本初の脳病院であった青山脳病院の跡継ぎ探しで、目にとまった少年茂吉は徒歩で仙台に行き、そこから東京に向かったとのことだ。32歳の時に19歳の輝子と結婚。この輝子は猛妻として有名で南極探検旅行、エベレスト登山などを敢行。北杜夫に「楡家の人々」という長編小説があり、読んだ記憶があるがこれはこの脳病院の物語。東京では、伊藤左千夫に短歌の師事。医学と文学との長い葛藤が始まる。「赤光」という名前の処女歌集が高く評価された。芥川龍之介が茂吉の評価者だった。暮らしがあれば歌が生まれる。アララギを継げ編集発行人に。歌集を並べてみたり、年表を眺めてみると創作意欲の大きさに感嘆せざるを得ない。「ぼうぼうとしたるこころの中にいて 、、、、」。一高では漱石に英語を習う。友人が多いのが印象的だった。柿本人麻呂の研究に没頭し、昭和8年秋から始め、9年11月に総論編、15年12月に雑纂編、全15巻4千ページ。原稿用紙の文字は几帳面な性格が現れている。書が優れており近代文人の中でも有名、絵もうまい。茂吉は歌集と歌論と随筆を書いた。遺品としてカンカン帽子、ムギワラ帽、リュックサック、メガネがあったが、このカンカン帽は最上川のほとりに座る茂吉がかぶっていたものだろう。茂吉の後を継いだ代表的歌人の中に、柴生田稔という名前があった。この人は日航時代の上司の父親で、葬儀に行ったことを想い出した。斉藤茂吉文学賞があり、馬場あき子や佐々木幸綱の名前があった。面白いのは、茂吉は次男北杜夫が昆虫などの動物学や文学活動は認めず、医学の道を勧めたことだ。しかし杜夫もまた文学の道へいくことになる。南陽市の結城豊太郎記念館。江戸の旧薩摩藩邸を移築した門をくぐる。大蔵大臣、拓務大臣、日銀総裁をつとめた。「ふるさとは国の本なり」といい、人づくりに力を注ぐ。中学時代に家族銀行を提案し、話題になるなど早くから金融に興味を持っていた。採用が無いのに当時の高橋是清副総裁に直談判して入行。経世済民が原義の経済に関心を持つ人物だった。請われて安田財閥に入り、大安田銀行の創建。興銀総裁、商工中金創立なども行った。高等文官試験に通っていたが、経済金融を学ぶため日銀を選ぶ。実務よりも諸学国の視察に重点を置き、現状把握を通して未来に向かって想像性を養ったとある。山形中学、二高、東大。故郷の赤湯には、上下水道を引き、風也塾を設立し若者を運指導、臨雲文庫を設立し万巻の書を寄付し図書館とした。修身・斉家・治郷という言葉を用い、郷学という言葉も使った。吉田松陰を尊敬。20歳年下の東洋学・人間学の権威である安岡正篤を亡年の交わりと称して師事したという。安岡先生の本は私もたくさん読んでいるので親しみを感じた。1951年に75歳で死去。宿泊は赤湯温泉の瀧波という老舗旅館。庄屋の建物を再興。石をくり抜いた風呂。この旅館の朝食が凄かった。大きな部屋に6代続く大きな臼と釜を使った勇壮なもちつきを従業員が行い、つきたての6種類のもちを宿泊者全員が揃っていただく。雑煮、きなこ、じんだ、、、。このときにかかっていた花笠音頭を聞いていると、会津若松、尾花沢、、などの山形の地名が順番に出てくる。追加:山形県の上山市の斉藤茂吉記念館を訪問。上山は茂吉の生まれ故郷。仙山線の斉藤茂吉記念館前という駅がある。新潟から来たという老人と話しを交わす。茂吉56歳の時の自作短歌朗詠コーナーがあり、茂吉の生前の声を聴いた。最後の歌は「いつしかも日がしづみゆき うつせみの われもおのづからきはまるらしも」。茂吉の名前は、長男茂太、次男宗吉(北杜夫)に分けられたのだろう。昭和26年に文化勲章受賞、28年に70歳で死亡、ということは私が生まれた年にはまだ存命だったということになる。テレビの番組で茂太、北杜夫が父茂吉を語るコーナーがあり、茂太は「蔵王のイメージが頭の中にあった」、北杜夫は「一生懸命生きた男だった。解剖したときには体はボロボロだった」。蔵王の頂上には茂吉の歌碑がある。茂吉の故郷を想うイメージには蔵王、最上川、出羽三山があった。日本初の脳病院であった青山脳病院の跡継ぎ探しで、目にとまった少年茂吉は徒歩で仙台に行き、そこから東京に向かったとのことだ。32歳の時に19歳の輝子と結婚。この輝子は猛妻として有名で南極探検旅行、エベレスト登山などを敢行。北杜夫に「楡家の人々」という長編小説があり、読んだ記憶があるがこれはこの脳病院の物語。東京では、伊藤左千夫に短歌の師事。医学と文学との長い葛藤が始まる。「赤光」という名前の処女歌集が高く評価された。芥川龍之介が茂吉の評価者だった。暮らしがあれば歌が生まれる。アララギを継げ編集発行人に。歌集を並べてみたり、年表を眺めてみると創作意欲の大きさに感嘆せざるを得ない。「ぼうぼうとしたるこころの中にいて 、、、、」。一高では漱石に英語を習う。友人が多いのが印象的だった。柿本人麻呂の研究に没頭し、昭和8年秋から始め、9年11月に総論編、15年12月に雑纂編、全15巻4千ページ。原稿用紙の文字は几帳面な性格が現れている。書が優れており近代文人の中でも有名、絵もうまい。茂吉は歌集と歌論と随筆を書いた。
2004/12/10
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午後は、最高裁判所で講演。皇居に面した威容を誇る建物である最高裁判所。タクシーも中には入れない。石畳を登っていく。中に入ると宗教的な雰囲気に威圧される。事務棟の中の長い廊下を案内の職員とともに抜けていく。刑事局、審議官室などの部屋が並んでいる。中堅の事務官を対象とした研修。講義や演習で、短い時間だったが、私の考えをよく分かってもらったという感じを受けた。午前中は、丸ビルで、中部電力の講演の打ち合わせ、そのあと出版社と打ち合わせ。
2004/12/09
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午後は、授業と会議の連続で午後9時頃までかかったが、朝は東北開発研究センターの地域ブランド研究会(委員長)の会合だった。小布施町の取材報告の後、議論に入る。平成の大合併と地域ブランドを組み合わせることが、時代性をとらえた展開になると思う。そういう意味では、合併に揺れる湯布院町や自立を選択した小布施を選んだのはよかった。どちらの町も旦那衆の中に、素晴らしい人材がいたことが、成功につながった。報告書は来年3月の完成の予定。終了後、委員の古川市農業課長の柏倉課長と話しながら大学へ。古川市では、来年に国道協議会で講演することが決まっている。ここ2日ほど、河北新報に「食の古川 安心特区構想」の記事が出ている。これも柏倉課長と一緒にやったプロジェクトの延長だ。そういえば、古川市の農業審議会の会長職も2期連続でやっている。腹の据わった優れた行政マンだ。すっかり友人になってしまった。
2004/12/08
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大学の近所にある高森東中学校の中学1年生6人が大学の研究室を訪ねてきた。男女3人ずつだ。研究室に並ぶ本や新聞記事やファイルを見てもらってから、質問を受ける。中学1年生は、発育の関係で男の子は小学生の延長のように見える。「なぜこの職業を選んだか」「楽しいこと」「辛いこと」「中学生へのアドバイス」、、、、。終了後、好きな本を1冊選んであげることにしたら、サインを頼まれた。それぞれ違う本を選んだので、交換して読んで欲しい。今日・明日中に、ホームページの「久恒サロン」に書き込むことを宿題として解散。さて、どのような感想を書き込んでくれるか、楽しみだ。
2004/12/07
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2限目の「知的生産の技術」で初代学長の野田先生をお招きした。すでに伝説上の人物の迫力ある講義に学生は圧倒された。アンケートをみるとインパクトを受けた様子がよくわかる。私は野田先生が毎週親しい仲間に書き続けている「ラポー」と私のメルマガとの比較と教訓を得ようとして聴いた。ラポーは、葉書、27字X27行の729文字、数千人の読者、ワンテーマ主義、10数年の継続、高い知的レベルの読者層。「ビジネスマン教授日記」は、メルマガ、長さは自由、9千人の読者、網羅的、週2回、、、。IT時代のメリットを使った配信。テーマを選んで書き込むこともいいかもしれない。
2004/12/06
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強風の中、ゴルフに興ずる。西仙台カントリークラブで9時52分からワンラウンド。野田一夫先生と私、そして私たちのゴルフの先生である富田さん、それから吉田さん。富田さんは宮城リコーの前社長、吉田さんは現社長。風雨でできないのではないかと案じていたが、何とか天気は持ちこたえた。途中で大きな二重の虹がかかっていて、本当にきれいだった。私は東コース(前半)は、46。後半の中コースは51。計97とこれで4回連続90台後半だった。最近はどちらかがボギーペースだが、どちらかが崩れるということが多い。富田さんに言わせると「だんだん力が入ってくるから」とのことだ。ゆっくり、軽く持ち上げて、打つ時に腰を入れて打つということを今日も忘れていて、途中で思い出した。富田さんは87で私より10打良かった。終了後、4人で懇談。
2004/12/05
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「図で読み解く!ドラッカー理論」(かんき出版)の翻訳出版の申し込みがきた。中国、韓国、台湾という東アジアでこの本も入れると、私の本の翻訳は、来年には10冊ほどが予定されている。「図解」の世界も国際化の時代を迎えつつある。中国・吉林大学から客員教授に招聘されたのもこの流れの一貫ということになる。来年1月の知研の講演会の依頼を受けた。『「合意学」入門』というテーマではどうだろうか。時間があるので組み立てを考えてみたい。
2004/12/04
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東京での国土交通省のヒートアイランド研究会の会合を終えて、仙台へ。北川元三重県知事を囲む小人数の会(宮城総研主宰)。政界、官界、経済界、言論界から20人ほどのメンバー。野田先生が司会。16時から18時まで。北川・野田一夫先生の門下生の端っこにいる・県議、国会議員、県知事をやってきた・理論無き実行は暴挙、実行なき理論は空虚・規則と原則。原則に戻れ・パーティマニフェストとローカルマニフェスト・三位一体改革の過程で、闘う知事会になった・2000年4月の地方分権法までは、首長や行政の仕事の80%は機関委任事務という国の下請けだった。上下関係から対等協力関係に変わった・TAX EATER からTAX PAYERへ・アメリカでは市役所は公的なNPOという感じ・今は国に甘えている首長がほとんど・人に頼った改革よりも、システムとプロセスで改革。大衆運動、ムーブメントを起こしたい・行政におけるPRとIR・北京の蝶々のはばたきがニューヨークのハリケーンを起こす。三重県庁6000蝶々を育て、県民180万人の蝶々を目指した。・皆さんも蝶々になって欲しい私からは、三重県庁での数回の講演の感想として、知事を尊敬する職員が多い、元気な職員が多いという感想を述べた。そして若者の政治意識が低いというのはウソで、公約を図にする授業を行うと選挙権のある学生が100%投票に行ったという事実を説明。そしてマニフェストに図解を噛み合わせれば運動は成功するだろうといいうアドバイスをした。北川さんからは「素晴らしい意見です。新しい学問ですね」とのコメントをもらった。終了後、北川さんからマニフェスト運動での協力依頼があった。北川さんには、笑顔の中に、情熱とゆとりを感じた。
2004/12/03
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来年に予定している本の準備をした。いくつもの出版プロジェクトが同時に走っているので、時々は整理が必要だ。資料収集、印刷、目次チェック、分担、連絡など、、、、。これで整理がついたので、進み方が速くなるだろう。
2004/12/02
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10月から河北新報の「紙面センサー」という記事を引き受けている。表現しなければならない、という意識が働くと、毎日の記事をみる(読む)アンテナが高くなってくる。また、自宅で他にとっている日本経済新聞と朝日新聞をみる目も変わってくる。総合型スポーツクラブを地元の泉パークタウンでつくるプロジェクトが進行中だ。今日は、仙台市のスポーツ振興課長らが見えて、構想段階からアドバイスをしている関係で学長に紹介し大学との連携をすすめることになった。東北大学経済学部の高田先生が見えて、一緒に本をつくる話。後は、講義・学科会・教授会・学長との懇談会。
2004/12/01
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