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夏の甲子園宮城大会決勝は、予想通り両雄の東北高校と仙台育英高校の激突となった。本日がその試合だったが、たまたま延長に入ってからテレビで観ることができた。200球以上投げ続けた驚異の体力、延長に入ってからの再三のピンチを切り抜ける冷静な精神力、低下した握力で投げる球の威力を減じさせない気力、そして再三見せる若者らしいけれんみのない笑顔、恐れず・怯まず仕事に立ち向かう気迫、など両高校生投手の雄姿に感動した。結局、0対0で15回まで行ってしまい、引き分け再試合となって、明日の午後1時から再びフルキャストスタジアムで試合が行われる。何度か采配ミスと思われることで、勝機を逃したとも感じた。明日は両投手は投げないのだろうから、控え投手の厚みで勝負が決まることになるのだろうか。一転、打撃戦になるような気がする。
2006/07/31
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28日のトヨタでの講演会の第二部は、プロジェクトXでも紹介された国選定保存技術保持者・玉鋼製造の木原明さんだったので、聞かせてもらった。いかにもたたきあげの職人という風貌の木原さんの話はトヨタの技術者の心を打ったようだ。タイトル:「たたら製鉄 技と精神(こころ)---誠実は美鋼を生む」。-------------------------------------------------------------------------日本刀は1000以上にわたって姿を変えることはない。また法隆寺た東大寺の釘もいまだに建物を支え続けている。これは、「玉鋼」(たまはがね)という不純物の少ない鉄をつくり出す「たたら製鉄」という日本古来の鉄ずくりの技術によるものだ。この製法は6世紀後半に奥出雲に出現し幕末まで1300年にわたって続いてきた。炉の中で木炭を焼き、砂鉄を加え銑鉄をつくる技術で、大地、自然、五感、技、精神がその基本である。この製法は、1901年の官営八幡製鉄所で洋鉄がつくられるようになり、和鋼和鉄の特徴を生かそうとした雲伯合資会社(のちに日立金属安来工場)が技術を伝承してきた。「たたら」は一に土、二に火、三に村下(職人)といわれている。その製法のカンドコロは現代技術ではできない。日本鉄鋼協会、通産省、日立金属が調査したが解明できなかった。この製法は、3日3晩の作業に耐える体力、感性、技能が必要だ。師匠の安部由蔵村下の言葉。1・自分の仕事を好きになれ2・親方に可愛がられる人になっれ3・親方に信頼され目を付けられる人になれ座右の銘は「誠実は美鋼を生む」である。 技術も大切であるが内面はそれに優る。従業員一人一人もものづくりにかける「真心」がより良い鋼をつくりだす。トヨタの技術者には、鉄を愛して、魂の入った車づくりをして欲しい。-----------------------------------------------------------------3日3晩の作業を行う木原さんは、8時間労働などでは本当に愛情のこもった技術はできるか?という疑問も発してトヨタ技術者の苦笑を誘った。愛情、真心、誠実、こういった心が素晴らしいものを生み出すという固い信念にこころを打たれた。日本の魂の健在を示す話だった。車づくりの技術者たちは、この職人たちの後継者でもある。懇親会で木原さんとご挨拶をしたが、そのとき「たたら」(「もののけ姫」でも出てくる)の後継者が10人ほど現われたというニュースを聞いて嬉しくなった。日本のお家芸である「ものづくり」の奥は深い。
2006/07/30
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名古屋を早朝たって、13時に大学に到着。4年生対象の総合研究の発表の最終チェックを行う。わがチームの研究テーマである「泉のスケートリンクの再興」のパワーポイントを用いて実際にプレゼンを行ってもらって、私がコメントをつけて、弱い部分の論理を補強する。14時半から15時半までの間で、15分のプレゼンテーションと質疑。ここ数日の学生たちの努力もあり、まあまあのパフォーマンスができたと思う。
2006/07/29
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27日 新幹線で21:26仙台発、23:08東京着28日 新幹線で08:04東京発 9;46名古屋着----- 名古屋から豊田市へ出迎えのセンチュリーで。 トヨタ会館の見学 10:55から約1時間 11:50 岡本一雄トヨタ自動車副社長(トヨタ技術会会長)から挨拶 12:00 昼食 12:40 講演会場確認 12:50-13:35 休憩 13:40-15:05 講演(講演と質疑) 15:25-16:50 木原明さんの講演を拝聴 17:00 小西委員長より挨拶 17:45 ホテルで指導教授たちと懇談 18:15-20:00 技術者の一日 懇親会 21:00 名古屋駅マリオットホテル着トヨタ会館パートナーロボット・i-UNITという一人乗り自動車を体験・コーポレートメッセージ・プリウス・アネハヅル・パワートレイン・燃料電池・ガソリンスタンドの無くなる日・4輪全てが動く車・福祉車両(ウエルキャブ)・安全は魚のように・衝突しても人は安全に・1000台をつぶす実験・人体モデル・予防安全・横滑りしないシステム・トヨタ生産方式・ジャストインタイム・人づくり・25万人の見学者(小学生は10万人)・工場は人が主役・CAD技術・リサイクルへの取り組み95%・ロボットによる三重奏・明日があるさ、、、。講演 会場には、トヨタの技術者や指導教授ら1000人。 第一部 久恒啓一 第二部 木原明(たたら製鉄玉鋼製造村下) 「たたら製鉄 技と精神--誠実は美鋼を生む」 たたら製鉄。日本古来(1300年前)から玉鋼をつくりそれが日本刀になる。 プロジェクトXにも出演。もらった名刺には(国無形文化財)とあった。 魂を揺さぶられるお話だった。懇親会の前に雑談 東大名誉教授(理化学研究所)、京都大大学院エネルギー科学研究科教授、 名古屋大学大学院情報科学研究科教授、名古屋大学大学院工学研究科教授らと楽しく懇親。 講師の木原さんとも名刺交換。懇親会 大学の先生たちやトヨタ社員(材料担当・ディーゼルエンジン開発者)と懇親 私の似顔絵をデザインした名刺と似顔絵のパネルをもらう シカゴ大学教授(化学)と懇談。-------29日 8時4分 名古屋発東京 9時55分 東京発仙台 11時37分 仙台着 13時 大学で4年生の総合研究発表リハーサル 14時半 発表会
2006/07/28
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夜は宮城大学初代学長の野田一夫先生のファンクラブが久しぶりに開かれた。50人ほどが紅陽グランドホテルに集まって、野田先生の講演を1時間ほど聴く。テーマは仙台だが、福岡との比較は面白かった。先生の79歳の誕生祝を兼ねての会だ。第一部の司会は、世話人の富田さん、第二部は事務局長の横野さん。最初の挨拶は世話人の新代表の加藤先生。東日本興業の青木さん、ITの野口正一先生、大崎市の柏倉さん、県会議員の遊佐さん、仙台市議の和歌子さんなど懐かしい顔がいっぱいだった。私も最後に挨拶を頼まれたので、野田先生にまつわるエピソード、最近のトッピックス、そしてアタマとカラダとココロをテーマに野田先生を語ってみた。終了後2次会があったが、私は翌日のトヨタでの講演のために9時26分の新幹線最終で東京へ。一泊して翌日名古屋へ向かった。世話人の皆さん、お手伝いいただいた皆さん、ありがとうございました。
2006/07/27
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あるブログ(アカデミック・リソース・ガイド)で、私のメルマガが紹介されていたのを発見した。このブログの発行者の岡本真さんが近々出す本「これからホームページをつくる研究者のために」の中で、私の図解Webも紹介される予定。このブログはインターネットの学術利用をテーマにした専門サイト「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」のブログ版で、新着・新発見リソース - 最新の学術サイトの紹介と批評をしている。学術サイトの研究家から、サイトやブログを評価をしてもらったのは、初めての経験である。------------------------------------------------------http://d.hatena.ne.jp/arg/20060715/1152932864)■[新着・新発見リソース][メールマガジン][個人サイト]久恒啓一のビジネスマン教授日記「今日も生涯の一日なり」、第400号に到達久恒啓一さんのメールマガジン「久恒啓一のビジネスマン教授日記『今日も生涯の一日なり』」が第400号に到達した(2006-06-19)。同誌は2000年5月8日に創刊され、当初は週1回、途中から週2回の発行となり、現在では配信部数が約8500にのぼるという。研究者が個人で発行するメールマガジンとしては、発行回数、発行部数ともに日本一である。6年以上に渡る久恒さんの継続的な努力には頭が下がる。---------------------------------------------------------◆2006-07-02(Sun): ホームページとは? -久恒啓一さんのホームページ観新着・新発見リソースで「久恒啓一のビジネスマン教授日記「今日も生涯の一日なり」、第400号に到達」と伝えたが、その第400号(2006-06-19)に久恒さんのホームページ観が記されている。非常に学ぶところが多いので、紹介したい。>>ホームページは、成長する自分史である。ホームページは、自己啓発のツールである。ホームページは、自分そのものである。ホームページは、人生の経営を考えさせる。ホームページは、サロンとリンクが重要である。ホームページは、自己表現の最高の道具である。ホームページは、ライフスタイルを一変させる。ホームページは、世界への窓口である。ホームページは、重層的な関係の中に浮かぶ開かれた自分そのものである。ホームページは、情報への感度を飛躍的に高める。ホームページは、豊かな時間を演出してくれる。ホームページは、コミュニケーション能力を高めてくれる。ホームページは、出会いと感動の宝庫である。ホームページは、巨大なデータベースである。ホームページは、巨大な渦巻きの中心である。ホームページは、どらえもんの「どこでもドア」である。ホームページは、生きる喜びを与えてくれる。ホームページは、家族の関係を豊かにする。
2006/07/26
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「Big Tomorrow」最新号でビジネスにおけるライバルとの付き合いが特集されている。一ヶ月ほど前に、インタビューを受けたが、その記事が届いた。一緒に、藤原和博さん(リクルートから杉並の中学校校長へ転身)が出ていた。この人とは同じグループにいてビジネスマン時代に遊んだ仲だ。 ライバルは社内より社外に持とう(異業種・異性、異分野、異質、) ライバルは10年ほど先輩にすべき(師匠・目標、シミュレーション、) 歴史上の人物をライバルにしよう(ビル・ゲイツはナポレオンをライバル視)私の着眼点は以上のようなところだ。このインタビューでは、歴史上の人物同士のライバル関係をたくさんの事例をあげて(後藤新平と原敬、一葉と紫式部、小泉純一郎と信長、中内功と龍馬、渋沢栄一と岩崎弥太郎、、、、、)論じたが、記事には生かされていなかった。
2006/07/25
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上野の不忍池に面した台東区池之端の横山大観記念館を訪ねる。7月のはじめに訪問したことがあるが休みだった。この記念館は、月・火・水が休みで、夏季休暇、年末年始は24日間、そして梅雨期も閉めている。この梅雨期にあたったというわけだ。京風数奇屋造りの自宅で横山大観の絵などの実物を展示するということなので、梅雨の時期には湿気を避けるなどの工夫が必要とのことだ。横山大観は1868年の明治元年に生まれ、1958年に没しているから90歳の長寿であった。元々は水戸藩士の長男として生まれたが、湯島小学校、府立一中を経て東京英学校時代に洋画家に出会い、19歳で画家になることを決心する。21歳で東京美術学校に入学し、生涯の恩師・岡倉天心校長に出会う。途中、天心とともに五浦で修行をするが、間断なく「無我」「屈原」「迷子」「正々流転」「紅葉」「不二」(大観ほど富士を描いた画家はいない)「などの日本画の名作を生涯描き続けた。41歳で新居を建て、途中8年ほど伊豆山にいた期間を除き、この地に住んだ。46歳のときに天心の遺志を継いで「伝統と個性を経緯とする応用・発達にあり。新しき古派運動」という創立の精神を持つ日本美術院を再興する。69歳では第1回の文化勲章を受章、亡くなったときには正三位勲一等旭日大綬章を受けている。天心とは4歳の違いであるが、大観は師の死後45年の間、日本画を描き続ける。廊下に飾ってある大観の写真は、和服姿で髭(ひげ)を生やしている。穏やかだが厳しさを秘めたいい顔をしている。最初の間は、「鉦鼓洞」(しょうこどう)という客間である。五浦時代に住んだ断崖の下で太平洋の波がチャポンチャポンと洗う洞窟の水音を水戸烈公が名づけた名前を借用したものである。大観は自ら鉦鼓洞主と号し印鑑にこの号を用いた。この客間から庭を眺める。敷地面積1380ヘーベ、建物延床面積は310ヘーベのこの屋敷は、京風数奇屋造りで、水と木と花と石を配した見事な日本庭園を持つ。池を中心に、オオシマザクラ、川ウツギ、ヤマブキ、ウメ(白梅)、モミジ、ツバキ、ガクアジサイ、サザンカキョウチクトウなどの花が咲く。この季節は、庭の緑が素晴らしい。無月燈籠と命名された燈籠(とうろう)が立っている。天心の詩「仲秋無月」からとったものだ。 夢の世の中、世の中、 泣いて笑って笑って泣いて、 残る涙が命の露よ、 何を頼りに松虫の 沈沈地露淋 沈沈地露淋 沈沈淋淋 沈ちろりん 月なき秋のやるせなやこの記念館では3ヶ月ごとに企画展を行っており、今は「人物を描く」というテーマだった。大観の描いた「屈原」「「迷子」「五柳先生」などが飾ってあった。廊下のふすまとその突き当りには、日本の自然を描いた作品が並べてあった。「春あい」「霖雨」「雪よ」「嶺風」などの名作、そして昭和4年に描いた「夜桜」、6年の「紅葉」などの屏風絵も素晴らしかった。金の上に墨を塗る手法である。安井曽太郎(1888-1955年)の「大観先生像」という絵が、晩年の顔を描いている。何でも「大観先生写生の会」(細川護立侯爵主催)が開かれ、安井、梅原龍三郎、小林古径などが思い思いに絵筆を振るった。本人はいやがったというが、大観の顔はまことに立派な顔だったらしい。一種の異相であった。大観は作品とともに風貌も有名だった。「先生のお顔くらい立派な顔貌はめったにないと思っている。厳格で、些かの俗味なく、端正にしてして重厚雄大な気宇を持たれるそのお顔はまさに美丈夫というべきである。、、まさに堂々たる風格と申すべきである」(堅山南風)「先生は、元来異相の巨人である。殊に毛髪、眼、鼻に一種の風格が窺われる」(松林桂月)2階の入り口には、大観と下村観山の和服姿の写真がある。「虎渓三笑」という大きな習作があった。普通は小下絵、拡大、本下絵という手順で絵を描くが、大観は、小下絵からいきなり本番となる。途中で構成が変化し、描き直しも多く、未完成の作品も多い。これを習作と呼んでいる。晩年の大観が炉辺で笑っている珍しい写真があった。屈託のない愉快そうな笑顔だった。このアトリエには「大観先生像と静子夫人像」もあったが、圧巻は「四時山水」という絵である。日本美術院創立50周年の80歳のときの作品で、長巻26.8mの巻きもの形式の絵である。巻頭には「一切の芸術派無窮をおふの姿に他ならず 芸術は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」という天心の詩を書いている。この作品は、春の日の出から冬の日没に終わる構成で、風景が四季の変化とともに一日の流れの中に表現されている。筑波山の春の日の出、富士山、比良山梅林、琵琶湖・竹生島、保津川、清水寺、京都市街、嵯峨野、若草山、高雄(京都)、黄璧山万福寺、宇治平等院、雨晴海岸(富山県)、立山連峰の冬の日没。全国の名景色を描きながら一日で季節を表現する構想が素晴らしい。日本美術院の再興院同人のリスト1階の廊下に張りだされていた。横山大観、小林古径、前田青邨、中村岳陵、川端龍子、栗山南風、奥村土牛、小倉遊亀、守尾多多志、片岡球子、岩橋英遠、福王寺法林、平山郁夫という名前をリストアップしてみた。驚くべきことにこれは文化勲章受章者である。日本画の世界に実に13人の巨匠を生んだことになる。平成10年に文化勲章を受章した平山郁夫は、東京芸大の学長、日本美術院の理事長を襲っている。そしてアジアの遺跡の修復・保護運動に情熱を傾けているが、天心の志を継ごうとしているように見える。大観の藝術に関する言葉を拾ってみよう。・藝術には眼で描く芸術と、心で描く芸術と、二つある。眼で描く芸術は技術が主になりたがり、 心で描く芸術は技術を従とする傾きがあります。・写生の真意は、、その物象の性格と環境と雰囲気とを研究探明してその裏にひそむ性霊を表現す るにある。・形から入って形を棄てよ・芸術は創造である。如何なる場合に於ても模倣は之を排斥せねばならぬ。・偉大な人が出た時に初めて偉大なる芸術が出来る。・気韻生動・富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くということだ。・人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくら ねばなりません。、、。世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるという わけです。、、、ただ一つ我は日本人であるという誇りをどこまでも堅持してもらいたい。
2006/07/24
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大相撲千秋楽の結びの横綱朝青龍と大関白鵬戦は、見応えのある力のこもった大一番だった。最後に体ごとのっかかって勝負を決めた姿も、お互いが死力を尽くしたことがわかる内容だった。両者の実力伯仲を強く印象付けた勝負だった。「龍鵬時代」の到来である。白鵬は横綱にしてもいいと思ったが、北の湖理事長と審判部の判断は見送りだった。最近は、魁皇のときもそうだったが、昇進については厳しい判断が多い気がする。明日の新聞の論調はどうだろうか?----------------------24日付け・日経新聞「青鵬時代」「龍鵬時代」・朝日新聞「青白時代」
2006/07/23
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横山大観記念館(東京都台東区池之端)を訪問。 明治・昭和時代の日本画家。戦災で焼失後1954年再建の京風数奇屋造りの自宅兼アトリエ。 作品300点や愛蔵した工芸品、古書画など900点を所蔵。画室には筆、筆洗いなどを展示。大仏次郎記念館(横浜市:港が見える丘公園)を訪問。 大正-昭和時代の作家。建物はれんが造りの洋風建築。原稿、創作ノート、蔵書などのほか 愛蔵品の猫の置物などのコレクションを展示。澤田美喜記念館(神奈県大磯)を訪問。 昭和時代後期の社会事業家。エリザベス・サンダース・ホームをひらく。 本人の遺品のほか、収集した隠れキリシタンの殉教者の資料など870点を展示。
2006/07/22
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先週はJAL時代の仲間との懇親会に出席した。30代前半の羽田の客室本部業務部時代の同年代の仲間だ。人事、労務、予算、人員計画などをそれぞれが担当していた懐かしいメンバーだ。この時の上司(課長)が傘下の有力航空企業の社長を退任するので久しぶりに集まった。次の企画も立ち上がった。月曜日は、整備本部事務系(労務担当)で、工場管理課入社同期で仲の良かった友人が仙台に来て懇親。彼はパリ、労務部、沖縄、香港(ホンコン)、人事などをまわった。新ポストでの仕事に私のアドバイスを求めにきて久しぶりに20代前半の日々も想いだしながら楽しく語り合った。先々週は、30代後半から40代のはじめに一緒に仕事をした広報部時代の仲間との懇親会にも出席した。先輩の有力関連会社の社長就任を機会に集まった。10月には、羽田と成田で2回の講演を依頼されている。整備本部の管理職が対象である。-----苦境にあるが、頑張って欲しいと思う。
2006/07/21
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情報共有の取り組みに改善点がある (国交省)社内の連絡が悪く必要な情報が入らなかったりするなどの問題点があった (北川一雄国交相)不具合情報の管理や部門間での共有が不十分だった (国交省への報告)規模拡大で(品質が)少しおろそかになっていた可能性はある (渡辺捷昭トヨタ社長)情報を総合的に管理する仕組みができていなかった会社の仕組みとしてより多くの品質情報を、より早くより有効に活用できるよう改善したい (渡辺捷昭トヨタ社長)世界中に生産拠点が増え、社内マネジメントで無理が出ているのではないか (経済ジャーナリスト・片山修)
2006/07/20
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「ほんとうの時代」8月号(発売中)の連載「人物記念館を訪ねる旅11」は、森鴎外を書いた。以下、一部(最後の部分)抜粋。-----------------------------------------------------------------鴎外に関する書物を200冊ほど集めた書棚があった。これらの本を、本棚のまえに座り込んで、いくつも読んでみた。「私は長いこと、本職の余暇にいろいろな文学活動もやってきたが、それをほめてくれる人はいなかった」と嘆く鴎外は、夕食後、暗い部屋で横になり12時に起き、午前2時まで、創作や翻訳に励んだ。鴎外の厳しい生き方には、もっと陽があたってもいいと思った。-------------------------------------------------------------------この号でみかけた言葉。 ふたつ よいこと さて ないものよ(河合隼雄) 演じることは、今も生きる目的です(三国連太郎) 私の興味は旧い日本(江戸の粋)に向けられてきた(徳大寺有恒) 病気になっても病人になるな(柴田高志)
2006/07/19
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NHKのディレクターでニューアカデミズムの仕掛け人だった浦達也さんが、新著を出した。1932年生れの著者は、振幅が極端に大きく特異な実体験と独自な立ち位置、そして複数の活動拠点(ジャーナリズムとアカデミズム)を持って活動してきた人物である。レトロ・フューチャーというキーワードを縦横に駆使しながら文明や時代を語ってきた。本書は敗戦から現在に至るまでの自分史を語りながら、同時代史を紡ごうという挑戦的な試みである。著者渾身の書。敗戦直後のヒロシマを舞台とした国策「特別科学学級」の経緯と実態、闇市を浮浪する不良少年、田舎と下町、NHKの悲劇、百花斉放の知の地殻変動、ニューアカ旋風と新人類ブーム、アカデミズムでの実験と卒倒、、、、。この本に出てくる同時代を生きた登場人物の名前を挙げてみよう。永井柳太郎、湯川秀樹、永井道雄、香月泰男、三島由紀夫、小林信彦、生田萬、中沢新一、寺山修司、太宰治、角川春樹、野村秋介、坪野哲久、木村哲人、西舘好子、小津安二郎、立花隆、樺美智子、浅沼稲次郎、島成郎、司馬遼太郎、福間健二、大島渚、蜷川幸夫、上田哲、島桂次、海老沢勝二、梅原猛、斉藤俊彦、河村雄次、増田通二、水野誠一、磯崎新、中井久夫、風間杜夫、糸井重里、南伸坊、栗本慎一郎、田中康夫、宮台真司、吉本隆明、埴輪雄高、浅田彰、佐橋滋、松田義幸、三浦雅士、川本三郎、山口昌男、小沢昭一、上野千鶴子、清水博、小田晋、岸田秀、公文俊平、中森明夫、井上リサ、伊藤俊治、内藤千佳、西本直人、、、、。本書の内容を簡単にまとめるよりも、人物の名前を連ねる方がメッセージ性が高いかもしれない。bk1http://www.bk1.co.jp/product/2692522
2006/07/18
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東京都台東区西浅草の生涯学習センター内に台東区立中央図書館が入っている。その一角に池波正太郎記念文庫がある。同じ建物に樋口一葉記念館の新設工事に伴って一葉記念館の臨時展示室がある。前回ここを訪問した時は、池波正太郎記念文庫は休館日だったので、見ることはできなかった。池波正太郎(1923--1990年。六白金星)は、東京浅草で生まれ6歳で下谷の根岸小学校、西町小学校を経て兜町の株式仲買店に入店する。14歳で後の師である長谷川伸に出会っている。その後、旋盤機械工、兵隊などを経て、23歳で東京都職員になり下谷区役所に勤務する。この頃から戯曲や商業演劇の脚本を手がけていく。31歳で長谷川伸のすすめで小説を書き始め、37歳のときに実に5回目で直木賞を受賞する。その後は、時代小説、特に江戸時代の小説を書き、吉川英治文学賞、菊地寛賞などを総なめする活躍をする。代表作は、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅庵」の三大シリーズと「真田幸村」である。年譜を辿っていくと、物凄い仕事量であることがわかる。しかし、意外なことに、昼は江戸の市井に材をとった小説、夜は戦国時代もの、という一日に二役をこなしながら、「書けない、と思ったら、それこそ一行も書けないのだ」「その日その日に、先ず机に向かうとき、なんともいえぬ苦痛が襲いかかってくる。それを、なだめすかし、元気をふるい起し、一行二行と原稿用紙を埋めてゆくうち、いつしか、没入することができる」と書いているのは、名人でもそうなのかと安心する。生前の書斎をそのまま復元している空間がある。10畳の洋間の中で机と本棚を並べている。机の上には書きかけの原稿用紙が積んであり、その上に愛用の万年筆と校正用の色鉛筆が置いてある。原稿用紙をよくみると「鬼平犯科帳・雑記」というタイトルだった。万年筆で書いた原稿の消す部分は青鉛筆、行替えや文字空部分は赤鉛筆を使っていたことがわかる。仕事の武器である万年筆は40本ほども持っていて、書き出しと中盤は違うタッチの万年筆を使っていた。本人が座っている右側の板の上には電気スタンドがあり、左側にはお茶のセットと手帳、ペンなどが並べてある。後ろ側は書棚である。池波正太郎はこの空間で一日の大半の時間を過ごし、質の高い作品を量産したのである。そして驚くべきことに原稿の締切には遅れたことがない。年賀状を毎年自筆で1000枚書いていたそうで、その現物が展示されている。前年の春に刷りあがって、夏、秋、師走にかかえて宛名を書いていく。本人によれば人づきあいがよくなにので、せめて年賀状は自筆で書くことにしたとのことである。気分転換は音楽だったようだ。サマータイム、カラヤン、南太平洋、アニーよ銃をとれ、風林火山などがお気に入りだった。子どもの頃から絵を描くことが好きであり、晩年には「近年は、自分の本の装丁や挿絵も描けるようになった」と述懐している。風景画、人物画、猫などの動物画など実にうまい。小説以外のエッセイにもファンが多い。小説は読まないが、エッセイは殆ど読んでいるという女性もいるとか。膨大なエッセイ群を4つに分けて展示してある。一つは、「食」の世界である。この作家は時代小説の中の食事の描写がうまい。本人によれば季節感を出すための道具ということになるが、食いしん坊だったことがわかる。「むかしの味」「食卓のつぶやき」など。「いまが旬の浅蜊(あさり)の剥身(むきみ)と葱(ねぎ)の5分切を、薄味の出汁(だし)もたっぷりと煮て、これを土鍋(どなべ)ごともち出して来たおみねが、汁もろとも炊きたての飯へかけて、大治郎へ出した」。これが深川の人のいう「ぶっかけ」である。実にうまそうだ。「刺身の上にわさびをちょっと乗せて、それにお醤油をちょっとつけて食べればいいんだ」「てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくように食べていかなきゃ。てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ」二つ目は「映画」の世界である。「最後のジョン・ウエイン」「ラストシーンの夢追い」「スクリーンの四季」「回想のジャン・ギャバン」などが並べてあり、欧米の映画監督の似顔絵のシリーズも面白い。三つ目は「芝居」の世界である。新国劇の「牧野富太郎」「風林火山」「名寄岩」など。四つ目が「旅と人生」である。「旅は青空」「酒と肴と旅の空」「旅と自画像」など、、。旅に出ると文章は一枚も書けなかったらしいが、それは旅を楽しんでいたのだろう。仕事は仕事場でしかしないのだろう。物凄い趣味人であったことがわかる。「私の故郷は、誰がなんといっても浅草と上野なのである」と語った池波正太郎は、生涯この地を題材にした小説やエッセイを書きつづけた。台東区がそういう池波正太郎を顕彰する記念文庫をつくったのは当然といえば当然だ。「一生のうちに、自分の時間をどのようにつかったらよいのか、、、。それはまた、他人の人生を考えることになる」「原稿を早目に早目に仕あげておき、自分だけの時間をつくり、のんびりと街を歩いたり、好きな絵を描いたり、映画を観たりするために、つきあいの時間を減らすということだ」「約束も段取り・仕事も生活も段取りである。一日の生活の段取り。一ヶ月の仕事の段取り。一年の段取り。段取りと時間の関係は、二つにして一つである」山口瞳「池波さんは江戸に長逗留された」常磐新平「「男の作法」を、私はもっと若い頃に読みたかったと思う」「「池波正太郎の銀座日記」は日記文学雄傑作」「素晴らしい日本語で書かれてある」池波正太郎が愛した店はできるだけ訪問したいものである。 和食の「花ぶさ」(外神田)、蕎麦の「まつや」(神田)、天婦羅の「山の上」(神田)、ホットケーキがうまい「万惣」(神田)、喫茶の「アンデュラス」(浅草)、ドジョウの「前川」(駒形)、蕎麦の「並木藪」(雷門)、「御料理いまむら」(銀座)、寿司の「新富寿し」(銀座)、洋食の「煉瓦亭」(銀座)、鮨の「松鮨」(京都)
2006/07/17
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1973年、大学を卒業して社会人となった年に発表された小松左京「日本沈没」は上下巻あわせて400万部を超える空前のベストセラーになった。同じ年に公開された映画も記録的なヒットとなった。あるとき、「小松左京が第二部を考えている。それは世界各国で難民となった日本人の苦難の物語だ。これが本編である」と語っていたのを思いだす。その後「あまりに大きいテーマであり書けない」と発言していたが、33年後の2006年7月に続編小説「日本沈没 第二部」(小学館)が上梓された。小松左京と谷甲州の合作である。構想は小松だが、実際に書いたのはアジアに詳しい谷甲州である。2006年版封切り2日目に映画「日本沈没」を観た。夜9時20分からの映画を観たのだが、ほぼ満席だった。若い人も多かったし、昔観たと思われる中年夫婦も多かった。私自身は藤岡琢也主演の昔観た映画の記憶はほとんどなかった。今回はSMAPの草なぎ剛が好演していた。実際の地名と地震や津波の映像、国会議事堂、東京タワー、六本木ヒルズなどの倒壊シーンは迫力があった。印象に残ったのは、大地真央演ずる女性の文部科学大臣兼危機管理担当大臣の危機に立ち向かう決断力と凛々しい言動だった。大臣は災害研究チームと海外退避計画を指揮し、全力で立ち向かい、直感とイマジネーションを信条とするかつての夫である科学者田所雄介(確か原作のモデルは梅棹忠夫先生)とプロジェクトをなんとか成功におさめる。また、もう一人の女性主役の柴咲コウ演ずる東京消防庁のハイパーレスキュー隊員阿部玲子(阪神・淡路大震災でレスキュー隊に助けられる)は仕事への使命感で、恋人のクールな小野寺俊夫に影響を与え太平洋プレート切り離しという英雄的な行為に導いていく。小野寺の母で会津の酒造家を守る母、玲子の叔母でひょっとこの女将、そして駿河沖地震で家族を失った倉木美咲という少女、などこの映画の主人公は女性である。日本経済新聞の愛読欄である「私の履歴書」は、今月は原作者の小松左京である。既に就職をしてアトムという雑誌の編集を担当している年齢の頃の記述であるから、小説「日本沈没」についての思い出と今回の映画の狙いがそろそろ出てくる頃だろう。映画の話題が盛り上がることだろう。当然のことだが、メディアを使ったうまい演出である。昨今の不穏な国際情勢もあり、しばらくは「日本沈没」が話題の主役になるであろう。
2006/07/16
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1年生を対象とした今年の基礎ゼミの成果発表会が行われた。昨年のテーマは「楽天イーグルス」だったが、今年は「牛タン」である。4月からの3ケ月で仙台牛タン振興会からもらったテーマのの回答を競った。14グループ全部がパワーポイントを使ってのプレゼンだった。リピータ増加の提案(牛タンマーク)、牛タンキャバクラ(タンキャバ)、牛タンの日、牛タンスタンプカード、口コミ。女性向け新メニュー、レディスデー・健康効果PR,ヘルシー食ポスター(さらさら・もりもり)、新メニューの本物の試食、広告・牛タンマップの改善、もーたんのメディア活用、創作プロモションビデオの発表、牛タン祭り・牛タン検定、プロスポーツとのコラボレーション・屋台サービス、学校給食への導入・牛タンキャラバンカー、振興会事態の活性化提案・牛タンストリート、、。ゲストの牛タン振興会の反応。楽しい発想、ストレートな意見、大変勉強になった、勉強させられた、感心して聞いていた、具体的で明快な提案、きちんとした現状分析、調査の基本ができていた、アンケートもしっかりしていた、生かしていきたい、、、、。テレビ、新聞の取材が入っている。宮城テレビは来週月曜日夕方のニュースの特集で放映。立派なプレゼンテーションだった。1年生の7月の時点でこのレベルは高い水準である。数字・取材・アンケート・書籍などの「調査」がよくできていたこと、またメニューの実物の試食会・絵や音の入ったビデオ・キャラクターなどの「実物」提示があったこと、など牛タン振興のためのアイデアが満載だった。楽しいプレゼンで時間がたつのが速かった。私の指導したチームは、洋風メニューと新和風メニューの実物を実際につくり試食させたので、驚きの声があがった。今年の基礎ゼミは、「地域の課題」を解こうとする学部の方向がよくでたプロジェクトとなった。4年後の卒業時の姿が楽しみである。
2006/07/15
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東京丸の内の日本工業倶楽部での勉強会に出席した。場所は新装なった日本工業倶楽部の新会館である。古いビル当時にも何回か出入りしたことがあったが、新会館の内部の豪華さには感心した。5階建ての会館とその上に三菱信託銀行本店が乗っているという構造になっている。低層部は従来の会館デザイン構成を継承し、高層部は目立たないようにガラスを多用し空に溶け込むようなデザインである。会館の内部は、主要施設である大会堂と大食堂は外壁、内装ともに元の状態を保存。昔の姿を極力忠実に残す努力をしている。天井が極めて高く、レトロ調で、上品な雰囲気は素晴らしい。旧館は1920年(大正9年)11月に完成している。「雅にして堅」を旨とした建物で、正面玄関が広く、正面屋上には2つの人像が置かれ、坑夫の男性はハンマー、織女の女性は糸巻きを手にしている。これは当時の二大工業である石炭産業と紡績産業を意味していた。この会館は、第一次大戦による工業の発展、昭和の大恐慌、戦争、復興、経済成長の期間を通じて、経済界のドラマの舞台となった。日本工業倶楽部の初代理事長は三井の団琢磨である。1858年- 1932年(昭和7年)の団琢磨は、日本の明治・大正・昭和期の工学者、技術者、実業家である。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。炭鉱経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であった。三井合名会社理事長。三井本館前で右翼団体血盟団の菱沼五郎に狙撃され暗殺された。ウニの発生研究を大成した発生学者の團勝磨は息子(次男)、作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。実業家資料室には、実業家伝記 約3000冊(被伝記者1500人)会社・団体史 約1200冊がある。これも資料としての価値が高いようだ。日本工業倶楽部は、重要な経済問題、労働問題などに関して調査や建議を行って、第二次大戦後は経団連や日経連などの経済団体の設立にも協力している。建て替えにあたっては、日本都市学会が歴史検討委員会(伊藤滋教授)を設置し、保存、再現方法などについて検討を重ねている。
2006/07/14
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出光興産東北支店主催の販売店経営者対象に講演。ガソリンスタンド経営者やJA、出光の社員160人ほどが聞き手となった。会場は仙台駅前のホテルモントレーだった。講演に先立った昼食会では、出光の東北支店長、副支店長、担当課長、本社お客様センター所長、そして秋田と盛岡からみえた販売店の会代表の経営者と摂りながら懇親。「お客様のクレームに学ぶ」というテーマだったが、定性情報・図解思考・顧客視点をキーワードに1時間半しゃべった。テーマが「顧客満足」ということもあり、ビジネスマン時代の経験を交えての講演となった。出光興産は、「ほっと安心」「もっと活力」「きっと満足」を合言葉に、「お客様に安心を提供できる店作り」を目指している。具体的に、「4つの安心の提供」を続けること、高めることを活動の基本にしている。「ネットワークの安心」で増客、「応対の安心」で固定化、「価格の安心」と「技術の安心」で増収という安心のサイクルをまわすことで、出光ブランドをガソリン販売店(全国6000店)と一緒に作り上げていこうとしている。J・Dパワーが行った2005年サービスステーション顧客満足度調査のフルサービス部門で1位になっているのは、このシステムがよくできているからだろう。「営業時間や営業日の便利さと」「店舗内の照明の明るさ」が高い評価を受けているが、満足度に影響度が最も高い「スタッフ対応」に向上の余地があるという結果である。講演では特に女性経営者たちがうなずく姿が印象に残った。
2006/07/13
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文藝春秋特別版8月臨時増刊号に「代表的日本人100人を選ぶ」という特別企画がある。1908年の内村鑑三「代表的日本人」に範をとったものだが、そこでは「わが国民の長所を外の世界に知らせる」ために、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人をあげていた。百年後の今回は、選者は作家の杉本苑子、お茶の水女子大学の藤原正彦、作家の半藤一利、評論家の松本健一の4人。日本人が理想とする人間像、美しき生き方を示すことが目的である。9つのジャンルの中で選ばれた100人の中で、主として近代以降の人々をピックアップしてみた。こういう人たちの足跡は訪ねてみたい。----------------------------------------------------------日本人の生き方に影響を与えた人々 明治天皇・乃木希典・小泉ハ雲・新渡戸稲造・鈴木大拙・ 石川啄木・宮沢賢治・昭和天皇・司馬遼太郎改革者 嘉納治五郎・柳田国男・岩波茂雄・石原莞爾英雄 西郷隆盛・山本五十六文化の創造者 森鴎外・夏目漱石・正岡子規・西田幾太郎・斉藤茂吉・折口信夫・谷崎潤一郎・ 小津安二郎・黒澤明・三島由紀夫・手塚治虫・武満徹輝く女性たち 津田梅子・与謝野晶子・美空ひばり科学者・教育者 佐久間象山・福沢諭吉・北里柴三郎・内村鑑三・高木貞治・岡潔・湯川秀樹経済人 渋沢栄一・松下幸之助・本田宗一郎・井深大近代を創った人々 勝海舟・大久保利通・井上毅・後藤新平・中江兆民・岡倉天心・東郷平八郎・ 児玉源太郎・原敬・吉田茂・石橋湛山宗教者 なし------------------------------------------------------------------------
2006/07/12
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最近、フリーペーパーをよく見かけるようになった。東京では「R25」という駅に置いてある若者向けのフリーペーパーが人気で、発売と同時にすぐに無くなってしまうという。現在、日本全体では1200誌あり、総発行部数は2億3千万部に達しているといわれてる。読者が金を払うことなく情報を入手できるのがフリーペーパーなのだが、そういうことができるのは広告収入のおかげである。既存雑誌の販売不振を尻目に、フリーペーパーは快調に部数を伸ばし続けている。300万坪(1000ヘクタール)の泉パークタウンという三菱地所の大型開発(想定人口5万人。1970年から開発中。現在25000人)の中に、私の勤務する宮城大学があり、このタウンに私も住んでいる。この泉パークタウンでも、最近フリーペーパーが発行された。「My Town 泉」というタイトルで、泉パークタウンを楽しむフリーマガジンがコンセプトだ。最近開設されたパークバスの関係のニュース、介護付き居室を備えた高級ホテル仕様のマンション案内、タウンの歴史探訪、健康エッセイ、巻頭での人物インタビュー、タウン内の活動グループ紹介などが盛り込まれている。発行部数は2万3千部。隔月刊。オール4色刷り。16ページ。A4版。地域限定・集中配布。5月に出た創刊号の表紙は、泉パークタウン寺岡地区在住の歌手・さとう宗幸さんだった。ムネさんは地元の名士で、タウン内にあるゴルフ場のメンバーでもありよくコンペで優勝している。この街にはいろいろな分野の有名人が住んでいるので、毎回そういう人々が登場する予定とのこと。今日この雑誌からエッセイの連載依頼があった。現在いくつかの雑誌で連載もしているがビジネス寄りのテーマが多いので、今回は「生活」よりのテーマでやってみようかなあ。
2006/07/11
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ビジネスプレゼンテーション1年生中心にプレゼンテーションの実践を中心とした授業を展開している。プレゼンをせざるを得ないとき、「逃げる」「苦痛を感じながらする」「仕事ならやむを得ないと思ってする」「自ら進んでする」と4つのタイプのうち、いずれかを自分で判断してもらうということを毎回やってきた。第1回授業の4月10日は、逃げる6・苦痛63・仕事28・自ら2という結果だった。授業の目標は、各自それぞれワンランクアップである(「自ら」をのぞく)5月15日には、逃げる2・苦痛30・仕事63・自ら10となる。6月5日には、逃げる2・苦痛19・仕事68・自ら3となる。7月10日の最終回(13回目)では、逃げる2・苦痛6・仕事91・自ら8の結果になった。当初一番多かった「苦痛」という段階の学生のほぼ全員は「仕事」にランクアップしたということになる。「逃げる」という段階だった学生もほとんどは「苦痛」の段階にアップしている。この結果は私も満足できるものだった。授業やゼミや学内活動、学外のプロジェクトなどで彼らは躊躇することなく発言ができるようになっているから、今後の活躍が楽しみである。ビジネス情報論この講義は2年生を中心とした図解コミュニケーションをテーマとした実践型の授業である。最終回は、質問や感想を受けながら復習も兼ねて考え方を整理する授業となった。10数回の図解の実習を経ると、頭の中に思考回路ができてくる。彼らは考えるための武器を手にしたことになる。その武器を縦横に使ってそれぞれの関心分野や活動分野で生かして欲しいものだ。
2006/07/10
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今回の旅でまわったところ。 上野公園---西郷さん像(高村光雲作) 不忍池-----鴎外の「雁」に登場。周囲1.7km。 鈴本演芸場--落語・漫才。池波正太郎もよく通った 湯島天神----泉鏡花「婦系図」の「湯島の境内」で有名 旧岩崎邸庭園--三菱創業の岩崎家 東大本郷キャンパス---安田講堂 三四郎池---漱石の小説「三四郎」 菊富士ホテル跡--坂口安吾・竹久夢二・宇野千代らが常連 赤心館跡--------石川啄木が下宿 樋口一葉旧居跡・井戸---本郷4丁目。18歳から21歳 太平館(旧蓋平館)--啄木ゆかりの下宿 池波正太郎記念文庫---西浅草の台東区生涯学習センター内
2006/07/09
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土佐藩の回漕業務を一任されていた岩崎弥太郎は、廃藩置県後、九十九商会を買い受け1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開する。三菱は土佐藩山内家の家紋「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものである。三菱商会は、明治10年の西南戦争の軍事輸送を担当したことのあり大いに飛躍する。郵便汽船三菱会社と改名し、渋沢栄一や井上馨らのつくった共同運輸と争った後に対等合併して1885年に日本郵船が設立された。弥太郎は庭が好きだった。柳沢吉保のつくった駒込の12万坪の六義園を伝統的な庭として購入する。また理想の庭として、江東区の清澄庭園買い、修復する。そして三菱総本家の本部として越後高田藩榊原家が所有していた湯島4丁目と池之端1丁目にまたがる小高い1万5千坪を購入した。弥太郎は明治11年からこの地に住んだが、18年に50歳で死去する。2代目の岩崎弥ノ助の後を継いだ岩崎久弥(弥太郎の長男)は1896年に現在の洋館などを建設する。久弥は20代前半をアメリカペンシルバニア大学で学んだ後、28歳で三菱合資の社長となる。29歳で保科寧子と結婚。そして30歳の時に、イギリス人ジョサイア・コンドル(1852-1920年)に命じて洋館の建設に着手し、1896年に完成する。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、上野国立博物館、長崎グラバー邸などを設計した東大建築学科の初代教授である。門下には東京駅をつくった辰野金吾などが輩出する。日本びいきであったコンドルは40歳のときに36歳の日本舞踊師匠のくめと結婚し、67歳で死ぬまで日本に在住する。久弥とコンドルがつくった現在の旧岩崎邸は、三菱の迎賓館だった。地下1階、地上2階の531ヘーベのルネッサンス風の見事な木造洋館である。洋館とつながっている和館は当時は550坪に及んだが、現在は一部(100坪)しか残っていない。この邸宅には70人が働いていた。久弥には男3人、女3人の子どもがあった。男子は小学校高学年からは寮生活を送らせ、自力生活を身に付けさせる厳格は教育を行った。女子は自宅で手塩にかけて慈しんだという。明治時代は男子と女子は別の考えで教育を行っている。男子は自力で生きていかざるを得ないため厳しく教育する。そして社会を登って行け。女子は誰と結婚するかわからないから贅沢を経験させる。貧しい暮らしをすることになっても、贅沢とはどの程度のいものか知っていれば対処できる。このような考えであったと聞いたことがある。小泉信三の著書だったか。旧岩崎邸は、洋館、和館、撞球(ビリヤード)室、庭園で構成されている重要文化財である。関東大震災が起こったとき、久弥は邸宅を大開放し2000人以上の難民を1ヶ月以上にわたって世話をしている。久弥は地味で堅実な人物であった。慶応義塾で福沢諭吉の指導を受けた影響もあるだろう。1924年にはアジア学研究のために東洋文庫を設立するなどさまざまな社会貢献を行っている。清澄庭園、六義園も東京市に寄付する。1947年の財閥解体政策を受けて、久弥は千葉県成田市富里のすえひろ牧場に住み、昭和30年に90歳で亡くなるまで住んだ。久弥の財閥解体時にとったあっさりとした行動や人生観は、弥太郎のライバルであった渋沢栄一の孫の渋沢敬三に通じる感じもする。久弥の長女美喜は後に外交官・澤田廉三(外務次官)と結婚する。この澤田美喜は大磯のエリザベスサンダースホームで進駐軍と日本女性の間に生まれた混血児の世話に後半生を捧げる。2000人を超える孤児を育て、仲立ちとなってアメリカへ養子を出した子どもは500人を超える。美喜の息子の澤田久雄(ソプラノ歌手)は由紀さおりの姉の安田祥子の夫である。また、弥太郎の二人の娘、雅子幣原喜重郎首相、春路は加藤高明首相である。この二人は三菱の婿だったのだ。今回の旅は、上野の不忍池に面したホテルに泊まったが、直ぐ隣は日本画家・横山大観の自宅だった。この記念館はあいにく休みだった。その裏手を数分歩いていくと旧岩崎邸庭園に出る。この旧岩崎邸の横を通っている「無縁坂」は、森鴎外の名作「雁」の舞台でもあった。あのお屋敷の前にガス燈がたっていて、夕方に青白い光がほのかにぼうっとついておりましたと、画家の木本大果が後に回想している。
2006/07/08
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JAL広報部時代に一緒に仕事をした仲間の会が久しぶりに開かれた。関連会社の社長就任、ホテル総支配人就任、ベトナムハノイ支店からの帰還、社会貢献組織への出向などを機会に集まったのは30人ほど。3時間ほど話に花が咲いた。整備本部での講演依頼もあった。時間が経っているから仕事も様々だ。以下、貰った名刺を並べてみる。JALツアーズ代表取締役社長ホテルJALシティ田町総支配人JALセールス国内営業部長日本航空インターナショナル整備本部整備企画室部長日本航空インターナショナルオペレーションコントロール部スケジュール統制室副統制者JALナビア福岡代表取締役社長日本航空インターナショナル成田整備事業部品質管理部長日本航空旅客営業企画部客室サービス企画キャビンスーパーアドバイザーNPO法人世界の子どもにワクチンを・日本委員会事務局長JALビジネス人材サポート室シニアコーディネータージャルパックTSS推進部次長ジャルパック企画総務部次長
2006/07/07
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市町村アカデミーという総務省所管の行政マンの研修所が幕張にある。正式には全国市町村職員中央研修所という。立派な建物と素晴らしい環境である。全国の市町村職員はこの研修所で行政マンとしてのキャリアを磨いていく。かなり以前からこの研修所の講師を年に数回のペースで頼まれている。今回は、係長・課長補佐クラスが中心のプログラムで、「合意の技術」が」テーマだった。午後1時から5時までの4時間。定性情報・図解思考・顧客視点というキーワードを用いて講義をした後、定性情報の分析の実習を行った。和気藹々の楽しい雰囲気の実習となった。秋にもこのフォーローアップ研修を頼まれていたが、スケジュールがあわずにこれは断った。
2006/07/06
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ビジネスモデル論は、先週は88名、今週は99名の出席だった。アンケートを読むと、セコム飯田亮、ユニクロ柳井正、パソナ南部靖之のそれぞれの人物に興味と共感と尊敬の念を持った人がほぼ同じくらいいるという結果となった。商品や広告、アルバイトなどで知っているので、「身近な大企業」というのが学生のこれらの企業に対する印象である。以下、受講者のアンケートの中に出てきた、3人の事業家の言葉など。事業家とは社会の問題を解決する存在である。アイデアは熟成させてから絞る。恐怖の5分間。経営者と事業化の違い。否定して肯定しなおす。5年ごとを節目として伸びつづける竹のように生きる。経験と発想を大切に。勉強は自由な発想を拘束する。人から学ぶ。会社とは脆い存在だ。運がいいと思い込まないと運に乗れない。組織の遺伝子。
2006/07/05
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明日の2回目の「ビジネスモデル論」の準備をしている。初回は主として後藤新平論だったが、今回は現代の事業家を取り上げる。講義のテーマは「優れたビジネスモデルと事業家のキャリアデザイン」である。2004年に日経ベンチャー誌で「久恒啓一の名経営者解剖論」という連載をしたときに取り上げた3人の事業家を論じる。各事業家の本社ビルでのインタビューを思い出しながら準備をしている。それぞれのビジネスモデルの説明と本人のキャリアデザインの解説を図で行う予定。セコム創業者の飯田亮さん。資本金663億円・社員1万2800人。売上高3130億・経常利益709億円!グループ155社39634人。37期連続増収増益。全ての分野が黒字経営。ガードマン。本社:渋谷区神宮。東京が俯瞰できる高層ビル最上階。社会システム産業というビジネスモデル。本場ヨーロッパに行かなかった。勉強しない・真似しない。予算制度なし・公正な人事評価。組織の遺伝子(国家防衛・地域安全)パソナ創業者の南部靖之さん。パナソニック・ソニー・南部の頭文字がパソナ。資本金82億・売上1302億・従業員1219人。野田一夫生(引越し時)・人材派遣・大手町の本社でインタビュー・神宮でテニス。書生っぽさ。事業家は社会の問題点を解決する存在。ユニクロ創業者の柳井正さん。資本金102億・売上4449億・経常利益723億。国体からオリンピック出場(1兆円企業)へ。2010年目標。経営チームは3つ必要(米・欧・亜)。人材育成がテーマ。社会運動。革命家・宗教家のにおい。。ユニクロモデルに10年。大田区蒲田本社。物静かな完璧主義者・分析家。海外:2006年秋NYCソーホー旗艦店。2005年秋の韓国・香港は好調。
2006/07/04
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トヨタ自動車のエンジニアが二人が豊田市から研究室に見えた。彼らの名刺には「愛知県豊田市トヨタ町1番地」と書いてあった。7月末に予定している講演の打ち合わせが目的である。3万人以上の技術者で構成されているトヨタ技術会での講演だが、過去数年の講演者のリストを見ると、「職人学」の岡野雅行、「失敗学」の畑中洋太郎、そして「カミオカンデ」でノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊、という錚々たるメンバーだったので驚いた。そして、受講者は技術者、経営者を中心に7-8百人というから相当大型の講演会である。私ともう一人の講師は日本刀を作っている方で、NHKのプロジェクトXでも取り上げられた人物だそうだ。トヨタの社員とは今まであまり縁がなかったので興味があり、現在の一番大きな課題は何か、などこちらも聞きたかったことをいくつか質問したので、少し様子はわかった。月曜日の「ビジネス情報論」という講義では、本日の来訪にあわせて先週と今週はトヨタの人材育成をテーマとした図解に取り組んでいたから、できあがったほやほやの学生が描いた図解40枚ほどを見ながら話が弾んだ。資料に関する学生たちの鋭い指摘に世界のトヨタもタジタジだった。二人の技術者は30代の名古屋工業大学出身の技術者で、率直にモノを言う姿に好感を持った。大学を少し案内したが、ドーム状の本館の中央にあいた巨大な空間と90段の階段に感心してくれた。彼らはきっちりした打ち合わせを行っていったが、トヨタ会館の見学、懇親会などあらかじめ案内者や挨拶するお偉方の名前、そしてスケジュールが分刻みでが決まっていて遺漏がない感じがした。トヨタの仕事振りの一端を覗いたようだ。中部国際空港株式会社トップ、NHK理事、郵政民営化会社のトップ、首都高速道路社長、などトヨタ出身者には需要が多い。トヨタは日本の産業界全体を天下りの対象としている感もある。会社が栄えるということは素晴らしいことである。
2006/07/03
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草野心平(1903-1988年)という名前は、この人物記念館めぐりではよくでてくる名前である。高村光太郎の高村山荘の入り口の書が草野心平の書いたものであったし、宮沢賢治の発見者としても名前が残っている。またこの人の書いた詩として私が唯一覚えていたのは、「ゴッホにはならずに、世界のMunaktaになった」という棟方志功を語った詩である。----------------------------鍛冶屋の息子は相槌の火花を散らしながらわだばゴッホになる裁判所の給仕をやり貉の仲間と徒党を組んでわだばゴッホになるとわめいたゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかしゴッホにはならずに世界のMunakataになった古稀の彼はつないだ和紙で鉢巻きをし板にすれすれの独眼のそして近視の眼鏡をぎらつかせ彫る棟方志功を彫りつける----------------------------同時代の様々な人たちがこの詩人と縁を持っている、このことに興味がいつの間にか湧いてくる。草野心平記念文学館は、福島県いわき市小川町に独特の雰囲気を湛えて建っている。1903年生れの草野心平の生涯を暗いドームの中で7つの時代に分けて、代表的な詩集や直筆の詩の原稿、そして写真、映像などで紹介している。野生児の激しさをもった天衣無縫な少年時代、中国・嶺南大学(中山大学)に留学して広東で勉強し同人誌「銅鑼」を創刊した青春時代、放浪と貧困の連続の中で詩集「第百階級」を書いた疾風怒涛の二十代、詩誌「歴程」の創刊、詩集「母岩」「蛙」「絶景」「富士山」「大百道」を出して中国南京政府に協力した30代の開花の時代、東京での居酒屋「火の車」の開業と詩集「日本砂漠」「牡丹圏」「定本蛙」を立て続けに出版し読売文学賞を受賞した蘇生の時代、各賞の選考委員や日本ペンクラブ理事、日本現代詩人協会会長などをつとめながら詩集を出版する爛熟の時代、晩年の13年間に12冊の年次詩集を刊行した生の充溢期。この詩人は、詩もいいが、人物としても興味深い。国内だけで転居32回、様々な商売を手がけ居酒屋「火の車」を開業し包丁を握り奥の四畳半で健筆をふるった。間口一間半、14席のこの居酒屋のお品書きを自ら命名している。悪魔のこまぎれは酢だこ、白は冷や奴、天はと特級酒、耳は一級酒、鬼は焼酎、麦はビール、炎はウイスキー、泉はハイボールなど、詩人としての才能を発揮して名前をつけているのも愉快である。ここでは、文学者仲間との怒号と議論、客との喧嘩などもあり、心平の戦後蘇生期を語るときに欠かせない場所である。文学館には、この居酒屋がつくってあって見学者の目を楽しませてくれる。そして当時の車や電車の音や人々の声などが聞こえてくるという凝った趣向など臨場感あふれた空間展示である。石ころコレクションの展示がある。友人たちが世界各地から石ころを土産に持ってきてくれたものである。遠藤周作はサマルカンドの石、武田泰淳はサハラの石、団伊球磨は北京、植村直己はエベレストとグリーンランド、吉田直哉はアマゾンといった具合だ。晩年の動きを見ていると、詩人としての仕事以外にプロデューサーとしての才能を十分に発揮しているように見える。世話好きで人から親しまれる人柄であったようだ。心平は友人・知人が多い。詩人、小説家、評論家、画家、音楽家、彫刻家、写真家、冒険家など、様々な個性豊かな人たちをひきつけている。彼は、有能なオルガナイザーだったのだ。友人たちの草野心平評が人となりを伝えているようなので紹介しておきたい。埴谷雄高「天衣無縫な東洋的大人」那珂太郎「正直さと動物的直観力」中村稔「才能を見出す天才の人」高内壮介「人間を放下させる一人のあらえびす」河上徹太郎「得意な風格を持つ国際人」大岡信「司祭」入沢康夫「片方で、すごく豪放磊落ででたらめで暴れ者で酔っ払いだというイメージがあり、片方では、すごい営利で繊細で宇宙のいちばん深いところまで根がおりているという感がある」文学館を入って正面の窓ガラスに詩が書き込まれている。空に詩が浮かんでいるようにみえるしゃれた趣向である。その詩のタイトルは「猛烈な天」だった。 血染めの天の。 はげしい放射にやられながら。 飛び上がるやうに自分はここまで歩いてきました。 帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。 仮令無頼であるにしても眼玉につながる三千年。 その突端にこそ自分はたちます。 半分なきながら立ってゐます。 ぎらつき注ぐ。 血染めの天。 三千年の突端の。 なんたるはげしいしづけさでせう。「第百階級」の「秋の夜の会話」 (第百階級とは末端階級としての蛙のこと) さむいね。 ああさむいね。 虫がないているね。 ああ虫がないているね。 もうすぐ土の中だね。 土の中はいただね。 痩せたね。 君もずゐぶん痩せたね。 どこがこんなに切ないんだろうね。 腹だろうかね。 腹とったら死ぬだろうね。 死にたかあないね。 さむいね。 ああ虫がないているね。帰り際に、停めてあったタクシーの運転手が写真を撮ってくれた。その人はこの文学館のお客を案内しているといって、「大岡信先生が見えているんですよ」と教えてくれた。館内から出てきて車に乗ったのは、「折々のうた」の大岡信その人だった。
2006/07/02
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月刊ビジネス・データ7月号に巻頭コラム連載「ファシリテーションの技術」の8回目の執筆記事。今回は、「考えることの正体」がテーマ。この雑誌の他のコラムとエッセイは、森永卓郎の「豊かに生きる経済戦略」、南雄三の「旅でスケッチ!」、大谷昭宏の「世の中の深層心理学」など。この雑誌は会員制なので店頭では見かけない。企業の人事部などが買って社内でまわすのが普通。24回の連載予定だから今号で三分の一を終えたところだ。またこの号では、「全国コラボ・ビジネス(産学官連携の現場を行く)」で宮城県仙台市の記事。「地域の発展に向けインターンシップを拡充する」というテーマで宮城大学第一期生の渡辺一馬(株)デュナミス社長のインタビュー記事。この中で私も少し紹介されている。----------------「企業と人材」7月号に「考える社員を育てるための図解思考入門」の連載4回目の記事。今回は「私の仕事を図解する2」。この雑誌の他の連載テーマは「部下を持つ人のプレゼン道場」「サービス業のための新時代の非正社員活用術!」、「海外版・人材開発情報ウオッチング」など、企業の人事部や教育部門向けのテーマが多い。今号の特集は「職場の元気」である。6回の連載予定なので、あと2回。
2006/07/01
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