2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全30件 (30件中 1-30件目)
1
1市6町が合併してできた大崎市での行政改革講演会で2回の講演を行った。午前は鹿島台、午後は岩出山。両方とも300名の市役所職員が出席。この企画は全職員(1300名)が2回出席することになっていて、1回目は講演、2回目は実習というプログラムである。鹿島台はその1回目、岩出山は2回目である。岩出山の方は「私の仕事」の図解という宿題を出していたので、それを4人職員同士で発表し、質疑をするという企画である。ほぼ全員が図を描いてきていた。そしてそのほとんどはパワーポイントを用いた図だった。1時間の職員同士のやり取りは活発であり、私も広い会場を何度も回りながら議論に参加し、アドバイスを行った。終了後は、質問をもらって私が答えるという時間をとった。最後に私の図解Webをみせて和やかな雰囲気の中で終了した。----------------鹿島台では1時間前に会場の鎌田記念ホール「ボルパル」に着いて、行革課と来週の行革推進委員会の打ち合わせをした後、草鞋(わらじ)村長・鎌田三之助展示室を案内してもらう。鎌田村長は1863年生まれで1950年に88歳の生涯を閉じている。鎌田三之助は15歳で上京し明示法律学校に入学、西園寺公望校長の舌で西欧文化の影響を受け、福沢諭吉の講義で「独立自尊」「自立自営」の言葉に感銘を受けている。5年後に帰国し父の代からの事業である品井沼の干拓に携わる。8年間の県会議員の後、39歳で衆議院議員に当選する。海外発展の可能性を唱えて43歳でメキシコに渡る。干拓事業が難航したため2年後に帰国し、46歳で鹿島台村長になる。そして38年間在任する。一切の報酬や旅費を断って、粗末な衣服を身につけ、腰に握り飯を提げ、わらじ履きで「勤倹・誠実・共同一致」を村是として村政に奔走した姿を、「今尊徳」、「わらじ村長」と親しみを込めて呼んだ。館内には、さまざまの資料展示やシアターもあったが時間がなくて次回の講演時にみることにしてざっと見て回った。つぎはぎだらけの衣服とわらじ、そしてその姿の写真が展示されている。講演終了後、鹿島台小学校に立ち寄って、干拓時の水門でつくった歴史的な左右の校門をみる。干拓で出来上がったこのまちは水害の町として数々の災害に襲われてきたが、水を太平洋に掃くためのトンネルが完成し、水害から免れることができた。そのトンネルの水門に使っていた木を校門に転用したのである。また銅像も見物した。-----------------午後の岩出山での講演終了後は、阿部東庵記念館を訪問する。この記念館は珍しく子孫による個人経営である。館長は阿部雄一郎さんで、天保3年生まれで明治44年没した東庵は曽祖父に当たる。明治維新は38歳の時だった。岩出山伊達藩の最後の藩医である東庵は、江戸での医学の修行を命ぜられるが長崎に行き蘭学を修める。帰途京都に寄り勤皇派の太田垣れん月や板倉弁之宗道に歌道や煎茶道を学んでいる。東庵は風流を解する知識人であったようで、この記念館には集めたものが数多く展示されている。軸物、屏風、短歌・連歌、医学関係、陶器、漆器、手紙、風景画、日時計など。明治38年の玉造郡医会規程という珍しいものがあった。医師会の料金表である。一日2円以上というようなものだったが、実際には貧乏人からは盆暮れに豆腐半ちょうが届けられたという。古い医者の家には必ずあるという「神農一対」は、薬草と八卦で病気を治すことが示されている。岩出山で小判の偽造が行われていたときに幕府から疑われ家老が切腹して落着したときの幕府目付けの戸川きん仙の「山如仁者静」という見事な書もあった。風景画では隅田川の花見があり、当時の様子が目に浮かぶ絵だった。この記念館の宅地は代々伊達家の家老屋敷である。庭は藩校である有備館の見事な庭園をつくった茶道家清水道竿が設計したものと言われている。この人物は、資料がなくて実相はなかなかわからなかったが、江戸から明治にかけてこの地で生きた知識人の関心のありかや当時の世相が見える。
2006/11/30
コメント(0)
ホテル白萩で宮城大学インターンシップの発表会が行われた。事業構想学部の5人の2年生の夏休みのあいだに行われたインターンシップの体験発表があり、その後今回のインターンシップでお世話になった企業の方々、学生、後援会、そして教員らの懇親会と続いた。5人の発表者のインターンシップ先は、日立キャピタル、仙台市民文化事業団、日建設計、オリンパスイメージング、アイリスオーヤマの5社。体験発表では私の担当した学生が発表することになっており注視したが、パワーポイントでつくった資料、堂々とした発表態度、自分の言葉で語る話しぶりなど、バランスもよくいいプレゼンだったのでひと安心。5人の発表は、文字型、図解型、写真型、デザイン型というよにわかれていた。事業計画学科は文字型と図解型、デザイン情報学科は文字型、写真型、デザイン型だった。2年生ではあるが、それぞれの学科の授業がすでに影響を与えているように感じた。2年生でのインターンシップは早いという声もあるが、彼らのその後の進路に大きな影響を与えているようで、2年生の秋以降の過ごし方が違ってくる。教育面では大きな効果があると思う。懇親会では、七十七銀行の須田さん、仙台トヨペットの田代さん、仙台みやぎNPOセンターの紅邑さんら旧知の人たちや、仙台市民文化事業団の菊地さんらと懇親の機会があった。また、後援会の会長さんや理事の方とも情報交換をする機会もあった。地元のインターンシップ先の企業には学生受け入れの手続き、教育、実務指導、そして今日の発表会への参加と辛抱強く付き合っていただいている。ありがたいことだ。
2006/11/29
コメント(0)
そろそろ年賀状の準備をする季節となった。昨年は12月13日に「年賀状廃止宣言!」をブログに書いて、メルマガとブログとHPを使って新年の挨拶をし、毎年出していた数百枚の年賀状は出さなかった。この宣言は当然のことながら事前にすべての人に届いたわけではなく、相変わらず多数の年賀状が届いた。今年はどうしようかともらった年賀状の束を眺めていたら、儀礼的なもの、メールアドレスを記してあるもの、偉い人やメディアからきたもの、というように分かれることがわかった。・儀礼的なものにはアクションはとらずにそのまま放置。返事は出さなくても影響なし。・メールアドレスを記してあるものは、メルマガで出す内容を別途一括して正月に送る。・偉い人やメディアには自筆で書いて出す。枚数は少ない。年賀状には、メールアドレスがあれば 知らせてもらうお願いを記しておく。これで来年はメルマガで対処できるようになる。今年はこういう方針でやってみようかと考えている。年賀状に住所や電話番号と並んで、メールアドレスやHPのURLを記すという習慣が広まってきているので、昨年とった方針を継続することができる環境になったのである。これで毎年、師走に無駄な労力をかける必要がなくなることになりそうである。(皆さんは、いかがですか?)
2006/11/28
コメント(5)
今、28日の午前5時過ぎだ。前日の27日の日記を書こうとして題材を考えていたら、新聞が届いた音がした。我が家は日経、朝日、河北の3紙を購読している。このうち、日経と朝日がまず最初に届く。日経をひらいて3面をみたら、日本実業出版社から出した「鳥の目」手帳術の広告が掲載されていた。27日のブログに28日の新聞を話題にするのもおかしい感じもするが、これも一興だろう。全5段の広告で26冊ほど紹介されているが、「そうじ力」で自分磨き(舛田光洋)が大きく、その次の扱いだった。他は、「走りながら考える仕事術!」(平野友郎)、「幸せ成功力を日増しに高めるEQノート」(野口嘉則)が続いている、ビジネス・アドバイザーを名乗る出版社だけに実務者に役立つ本が多い。会社法、経理、決算書、数字、マーケッティング、営業、経済、就職活動、熟年離婚、などの本が並んでいる。この出版社は15年ほど前に一人で書いたデビュー作「図解の技術」でお世話になって、それ以来久しぶりのお付き合いである。この出版社の月刊雑誌「ビジネス・データ」へ今やっている連載「ファシリテーションの技術」がきっかけとなって、編集長から頼まれて手帳の季節に間に合うように出したものだ。本の広告は新聞の2面と3面がメーンである。新聞の置き方と目線の関係で、2面よりも3面のほうにまず目が行くので、効果は2面の方がやや高いという感じがするが、こういうことは広告料に反映されているだろうか、知りたいところだ。2面の全5段広告(これも業界用語だが記事の5段分を下の広告で全部埋めること)では、出版社の力の入れ方は広告の大きさで表されているが、その場合もどこに置くかが大事だろう。右端が一番いい場所であることは間違いない。今回は、売れている「そうじ力」が大きくかつ右端だからイチオシである。全5段広告は大手の出版社が毎日のように入れ替わりでとっているが、その半分の広告も多い。今回は2面では「ぎょうせいの出版案内」と「東京大学出版会」がスペースを半分づつ分け合っている。「ぎょうせい」は「シリーズ地方財政の構造改革と運営」、東京大学出版会は「憲法の理性」がイチオシである。1面の広告は8つの会社が同じ大きさで競っている。業界用語では確か「8つ切り」とか言っていた。「弘文堂」「山川出版社」「税務経理協会」「日本経団連出版」「金融財政事情研究会」「民事法研究会」「ダイヤモンド社」「小学館」の8社が1冊から4冊までを紹介している。この1面はさすがに新聞の看板であり記事がメーンであるため、3段となっており本の広告はやや遠慮した形だ。最近、新聞の本の広告は効いているのかという議論がある。読者層が異なっているからそれぞれの新聞の読者層と本のテーマをあわせて打っている出版社も多いようだ。今後は、新聞や雑誌を中心とした広告とネットを活用した広告の組み合わせの戦略、スペースを買いとって打つ広告と、記事の中に出してもらう広報との組み合わせの戦略などが出版社には必要となってくるだろう。著者としても関心を持ち続けるべきテーマだろう。今日の広告はどのくらい効くかな?
2006/11/27
コメント(5)
先週日曜日から今週の日曜日までで、会員になっているスポーツクラブのヨガに4回通った。日曜日、木曜日(勤労感謝の日)、土曜日、日曜日(本日)である。吐くことから始まる呼吸法、足の指から始まるストレッチ、アニメーターの動きを追う精神の集中、、、。時間は丁度1時間だ。体をゆっくりと動かすのだが、気合を入れてやらないと、なかなか難しい動きも多い。やはり体が硬く、思うように伸びない。まわりをみると体にぴったりした服装をしている女性たちは、体が柔らかく上手だ。私も定期的に通うと柔らかくなるのだろうかと、少し不安を覚える。しかし終わってみると、体が軽くなった感じがして気分はいい。まあ、目標は高くしないで、分相応に4回通ったことでよしとしようか。昨日、ヨガ用の服装を買いにスポーツショップに行ったら、女性用はあったのだが、男用は特にない、というつれない返事だった。男は適当にTシャツでも着たらいいのさ、というような店員の応対だったが、何とかナイキの上下をそろえてはみた。まずは形から入ろうか。これもまじめに通うという自分に対する宣言でもあるということだ。曜日によって来ている層が微妙に違うようだが、ほとんどが女性であり男性はごく少ない。男性は中年以上が多く、一様にみんな体が硬そうなのをみると、仲間のような気がしてくるから不思議である。
2006/11/26
コメント(4)
脚本家の内館牧子さんは、相撲の世界を描いた「ひらり」などのテレビドラマなどを書いた売れっ子である。2000年から横綱審議会委員を務めたし、マスコミにもよく登場する。その内館さんが2003年から大相撲研究のため東北大学大学院に入学し2006年に卒業するまでを描いたエッセーのタイトルが「養老院より大学院」(講談社)である。実に魅力的なタイトルで、思わず買って一気に読んでしまった。仙台が生んだ大横綱・谷風梶之助の銅像と腕を組む白いスーツ姿、毎日通った広瀬川にかかる大橋でポーズをとったストライプのシャツ姿、緑の美しい定禅寺通りでいたずらっぽい流し目で黒いTシャツに赤い花模様で飾った上着を羽織る姿、学食でクラスメートと定食を食べながら相談している姿、図書館でステップ台を椅子代わりにしながら資料を読んでいる姿、川内キャンパスで受験日に座ったベンチで当時を懐かしむ姿、キャンパスに棲む野良猫に餌をやるコート姿、入試を受けた階段教室で手を頬に当てながら感慨にふける姿、雪の片平キャンパスでを手にしながら厚いコートを着て立っている姿、などが冒頭に写真で掲載されている。写真のどの顔も笑っているのがこの人らしいし、また仙台での大学院生生活を十分に堪能した様子が伝わってくる。「人生、出たとこ勝負」が座右の銘の内館牧子さんは、54歳で東北大学の大学院生になった。文学研究科人間科学専攻宗教学専攻分野に所属し、研究テーマは大相撲である。女人禁制の伝統のある大相撲の土俵上で優勝者に大阪府知事杯を授与したいという太田房江知事の主張に、きちんと反論する根拠を得るために勉強したいというのが本当の目的だった。仙台に住みながら東京にもでかける生活は3年に及ぶ。仕事がなくなる恐怖に耐えて、この間、仕事はほとんど断った。そして3年間の成績は、宗教人類学関係の科目、など全てがA(優)であるのも素晴らしい。単位をとればいいということでなく、真面目に勉強に打ち込んだ証拠である。大学院での講義の面白さや研究指導の教授たちの人間的な味わい、マスコミで知る大学生とは異なる若者像への驚きとその仲間たちとの屈折した交流、四季折々に豊かな表情をみせる仙台の魅力の数々、そして思いがけず相撲部監督に就任する前後の熱い物語など、社会人大学院生としてキャンパスに存在する異物感をベースにしたユーモアと50代半ばの成熟した女性としての鋭い観察眼で書いた文章はさわやかで、読者を楽しませてくれる。3年間の大学院生生活で失ったものは、結局は何もなかったというのが内館さんの総括だ。では得たものは何か。それは「相撲史と大相撲の面白さ、魅力を一人でも多くの人に伝えたい」というライフワークが決まったことだ。そしていつか博士課程でも学ぼうという未来へ向けての展望。これが修士論文を書き終えて57歳になって到達した地点である。内館牧子さんは、長期にわたる目標を心に描きながら、「でたとこ勝負」で毎回勝負をしていくことだろう。そしてどのような足跡を後に残すのだろうか、楽しみである。
2006/11/25
コメント(0)
著名な経営コンサルタントの波頭亮さんから「プロフェッショナル原論」(ちくま新書)という新著をいただいた。表紙の裏には「自由と誇り」という言葉と本人のサインがしてある。自己決定と自尊こそがプロフェッショナルの神髄であるということだろう。この本を読んで考えたのは、プロフェッショナルの論理と倫理ということである。まず、プロフェッショナルの論理とはいかなるものであろうか。プロフェッショナルとは、職業形態として「高度な知識と技術によってクライアントの依頼事項を適えるインディペンデントな職業」と定義されている。そして厳しい掟を遵守しながら公益への奉仕を使命とするものである。具体的な職業のイメージとしては、医者、弁護士、会計士、建築家、経営コンサルタントなどを指している。これらの職業の魅力は、仕事を選べる自由と一人で仕事ができる安心という基本的な価値であり、自尊の念を持ちつつ社会からの敬意を得ることができる高次の価値も持っている。実際に仕事をする場面では、5つの掟があると筆者は言う。顧客利益第一(全てはクライアントのために)、成果指向(結果が全て)、品質追求(本気で最高を目指す)、価値主義(コストは問わない)、全権意識(全て決め、全てやり、全て負う)である。プロフェッショナルは、資格の認定と品質の監督と権益の確保のためギルド(協会)を結成して、プロフェッショナル業界特有のファームという組織で仕事をする。出資者が経営者となり合議制によるコンセンサスで意思決定が行われる。彼らのは自ら営業はしないし報酬は個人の格に時間単価をかけたものである。その仕事ぶりは極めてハードであり、その行動特性は行動的で意欲的で個人主義的で論理的である。またプロフェッショナルの倫理については次のようにある。このような高度な仕事であるがゆえに、仕事はブラックボックスとなっており、そこには特権もあるが、安逸に流れる危険性も常に潜んでいる。その職業特性から不正や手抜き、不祥事や事件を引き起こしてしまいやすい職業でもある。現在のように経済価値が他の価値を抑えて突出してしまった日本社会では、そういった誘惑に駆られることも多い。耐震構造偽装事件やライブドア粉飾決算事件などのプロフェッショナルが起した事件は、こういった文脈の中で発生した。現在のプロフェッショナルも経済至上主義の進行の中で、彼らの価値であった自由と安心がなかなか確保できなくなってきている。このような中でプロフェッショナルはどのようにすべきだろうか。「プロフェッショナルはさらに自らの職能を磨き、プロフェッショナルの掟を一層厳しく守るのみ」という明快かつシンプルな答えを筆者は用意している。高が知れているカネと引き換えに、自由と誇りを売るべきではない。不当な要求を断固退ける勇気と職能を持ったものが大きく長く活躍している。プロフェッショナリズムをまっとうすることによって人生とキャリアの成功を目指すべきである。公益に奉仕する喜びと充足感、仕事を通じて得る自尊の念と自由、そうした非経済的価値によって人は最高の幸せを享受することができるというモデルになれる。プロフェッショナル達へのこのような励ましの言葉で終わっている。プロフェッショナル達の考えや行動、苦悩が見えた気がするし、経営コンサルタントらしく処方は明快で説得力がある。この本を読んで私が感じたことは二つある。一つは「自由と誇り」についてである。これは論理に属すことだろう。自由と誇りは高度な職能を持つプロフェッショナルに限らず、程度の差はあれどのような職業においても、目指すべき指針ではないかということだ。組織の内部においても昇進に連れて仕事を選ぶ自由は増してくるし、それに伴って誇りも増えてくる。突き詰めるとプロフェッショナルに到達するのではあろうが、誰しも仕事の中で自由と誇りを持つことを目指すべきだろう。もう一つは「非経済価値」についてである。これは倫理に属すことだろう。カネが唯一の社会的評価の尺度になりつつある現在、そしてその行き着く先が品格のない社会であるという流れの中で、経済価値にかわるものとして自己実現や人間を磨くという修養の考え方、家族という価値の再構築、そして仕事を通じて組織と社会に貢献するという生き方などを本気になって考えるべきときだろう。波頭亮さんは、プロフェッショナリズムというテーマを語りながら、現代人の生き方について一石を投じたと解したい。この快著は大いに話題にのぼるだろう。
2006/11/24
コメント(0)
入試の季節が始まった。まず、22日の水曜日は推薦入試と帰国子女の入試だった。事業構想学部では、今年から推薦入試に全国枠を設けた。今後は、センター入試、大学院入試、前期入試、後期入試と続いていく。他に、学内では卒業論文や修士論文の指導が佳境に入る時期でもあるので、気が抜けない。
2006/11/23
コメント(0)
NHKBS放送の夜9時からの1時間半の番組を観た。シンセサイザー富田勲は63年前に疎開先の愛知県で鳳来寺山を訪れる。そのとき聞いた「仏法僧」(コノハズク)の「ブッポーソー」の鳴声に魅せられる。この番組は仏法僧をテーマとした曲が出来上がる過程を追いながら、有名になったこの鳴声がすり鉢状になっている鳳来寺山の空間の構造からきていることを明らかにしていく。多くの人が仏法僧の鳴声の素晴らしさを語っていく。リール状の録音機で声を録音していた人も紹介される。富田勲の人生に深く影響を与えているのは、6歳の時父に連れられて行った北京郊外の天檀公園の「回音壁」での体験である。ある一点に立っていると城壁の中で発するすべての音が集まってくるような感じがする不思議な場所がある。ここは今では北京の名所になっており、私も行った記憶がある。この体験が富田を長い音響の旅に連れ出すことになった。番組では1976年のアメリカRCAレコードから出した「The Planets」が米ビルボードクラシカル・チャート1位になった様子や若く野心的な風貌の富田の映像や当時の家族写真も紹介された。NHK大河ドラマの「花の生涯」などのテーマ曲や、「新日本紀行」の素晴らしいテーマ曲などの調べも懐かしい。今回のシンフォニーは、尺八の藤原道山、琵琶の坂田美子、パーカッション梯郁夫、鳳来寺小学校と庭野小学校の生徒たちが、この山のあちこちに散在してそれぞれの楽器を鳴らし、コーラスをして、富田の指揮のもと、雄大なハーモニーを奏でるという壮大な挑戦である。尺八の妙なる音、琵琶の音色など個別に聴く音も素晴らしい。仏法僧が再びこの地に戻って鳴いて欲しいという願いをこめた音楽や歌声が聴こえてくる。途中雨が降り出したりなどのハプニングはあったが、一体感のある音の響きがこの山を覆う。厳かさも漂う演奏を静かに聴いたが、番組の最後に仏法僧の鳴き声が響く。コーラスに参加した少年たちが、どこから聞こえてくるのかなとあたりをみまわしているところで終わる。本当に鳥が現れたのかは謎に包まれたまま終わるという趣向である。うちでは家族4人が揃ってこの番組を観たのだが、音楽をやる息子は「富田先生の目は少年のように輝いていた」「音楽と音響に対するこだわりは凄い」と感心していた。残念ながらわが家は5.1chサラウンドなどこのサウンドをそのまま聴けるような仕掛けがないが、富田先生の新しい挑戦の素晴らしさは実感できた。ドナウ川での舟やヘリコプターを動員した超立体音響、シドニー湾でのオーストラリア建国200年祭、ドナウ川での花火とピアノのイベントコンサート、比叡山延暦寺での源氏物語幻想交響絵巻など私の記憶にあるものだけでも、スケールの大きさに圧倒される。世界や日本の歴史を刻んだ舞台の選定、そして現在の世界で用いることのできる優れた才能と技術の大いなる結集。富田勲の創りあげたトミタサウンドは、富田自身の構想力と実行力によって成立していると思う。今週の月曜日に旧知の富田勲先生からこの番組を観て欲しいとメールがあった。自分は70代になったが、耳はまだいいのでこの世界に没頭しています、という内容が添えてあった。富田先生とは10数年のお付き合いになった。最近は毎年一度は秩父の小池という蕎麦屋で大吟醸と蕎麦を堪能する会でご一緒するのだが、思い返せばまだきちんとした場所で富田サウンドを堪能したことがないことに改めて気がついた。来年は必ず富田先生の仕事とじかに接しようと決心した。
2006/11/22
コメント(6)
落語の伝説的な名人・古今亭志ん生のCDを買って時どき聞いていたら、家内の方がはまってしまって、寝室ではいろいろな落語家の語りを聴きながら眠りに入るし、くるまの中ではいつも志ん朝の落語が流れてくる。志ん生の落語はゆったりした名人芸で聴いていていい気持ちになる。野田一夫先生が大学生の頃、大学の講義のあまりのつまらなさ、ばかばかしさに絶望して、一時寄席通いをしたときに、志ん生を聴いて「こんなに日本語を上手にあやつることができるのか」と感嘆したという話をしてくれたことがある。その影響だろうか、野田先生の講演や講義には必ず「落ち」のようなフレーズが含まれていて、同じ話でも何度聞いても可笑しくなってしまう。あの名人芸の話術は落語なのだ。この志ん生の長男が馬生で、次男が志ん朝である。芸風は兄の馬生が継いだが、志ん朝は独特の語り口で多くのファンを獲得し、志ん生はこの由緒ある名跡を次男に継がせたがっていたという。車の中で久しぶりに大きな音にして聴いてみたら、確かにうまい。テンポが軽快で、歯切れがよく、声色の使い方で何人もの人物を描くことができる。CDは実演を撮っているのだが、お客が何度もどっと笑うから、こちらも大きな声で笑ってしまう。ここまで書いていたら、この志ん朝に会ったことがあるのを思い出した。まだ20代でJALの派遣員でロンドンのヒースロー空港に勤務していた頃、日本から来る重要人物の乗り継ぎなどのお世話をするという業務に人手が足りない時駆りだされることがあった。上司の総務マネジャーから「落語の志ん朝さんが見えるからお手伝いをしてくれ」といわれて、空港のゲートでお迎えした。当時、落語界には2人の有望新人がいて、一人は立川談志で、もう一人が古今亭志ん朝だった。乗り継ぎの時間が少しあったので空港内のカフェでミルクティーを2人で飲みながら歓談した。当時のイギリスは労働党のキャラハン政権で、ストライキが頻発する異様な雰囲気だった。英国病などが盛んに論じられた頃だった。イギリス人は働かない、そういう印象を日本人は持っていた。直後の選挙で保守党のサッチャーが首相になるのだが、労働者天国の時代にまだ若い志ん朝さんを空港でもてなしたのである。カフェではゆったりした時間が流れていた。当時はフライトナンバーは0から9までの数字を組み合わせて表示するのが一般的だった。黒字に白い数字だったか逆だったか忘れたが、しょちゅうクルクルとボードが回っている状態だった。正式の名前ももちろんあるのだが私たち職員は、それを「パタパタ」と呼んでいた。常にボードがパタパタ回っていたからだ。ブレザー姿の志ん朝さんは人懐っこい顔をしていて、あまり気を使わなくても自然体で接することができた。そのとき彼は突然こういったのだ。遠くで動いているパタパタを指で指しながら「この空港で一番働いているのは、あれかもしれませんね」と。こちらも思わず噴出してしまった。「一本取られた」という感じだった。親しみを持ったと同時に、この着眼点は只者ではないと感心した。その後、しばらく志ん朝さんの成長する姿をメディアで関心を持って眺めていた記憶がある。志ん朝さんは確か10年ほど前(?)に比較的若く亡くなったが落語界の至宝だっただけに惜しむ人が多い。一度会っていることを久しぶりに思い出したら、風貌が目に浮かんできて名人芸の落語がまた面白くなってくる。しばらくは落語を聴くことにしよう。
2006/11/21
コメント(3)
NPO法人知的生産の技術研究会で話した内容のテープ起しの修正が終わった。この中で、海外旅行について触れたところがあるので、一部引用してみる。---------------------------------------------------私は学生時代に梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」を読んでマルクシズムの呪縛から逃れることができました。それ以来、一生かけて世界を旅し、梅棹史観を確認する旅をしようと考えていました。就職して以来30-40ヶ国を旅していますが、それを「文明の生態史観の旅」と呼んでいます。ご存知のように梅棹先生の「文明の生態史観」は旧大陸つまりユーラシア大陸を楕円形で別図のように表しています。楕円形の真ん中を上から下にナナメに大きく帯のようにきっているのが砂漠地帯です。上の方はゴビの砂漠で、中東を横切って下のほうはアフリカのサハラ砂漠です。この砂漠地帯は海から遠いために雲になった水蒸気が到達する前に蒸発してしまいますから、雨が降らず、砂や岩石の砂漠になります。この砂漠の周辺に草原地帯があり、その外側の肥沃な土地にいくつかの古代文明が興隆しました。楕円図の中の砂漠地帯の外側は1、2、3、4と東西南北の4つに分けられていますが、1が中国世界、2がインド世界、3が地中海・イスラム世界、4がロシア世界です。しかしこの草原地帯は凶暴な暴力の発生装置で、これらの古代文明を脅かし続けたので、これらの古代文明は成熟する前に破壊され、滅亡し、また新しい国家を築く。この繰り返しだから、これらの文明は内部から成熟するということがなかった。一方、この四つの世界から隔離されている東と西の端っこに二つの世界があります。東の端が日本です。西の端が西ヨーロッパです。この二つの地域は暴力による破壊から免れたが故に(例えば日本は元寇を神風によって撃退した)、同時並行的に内部的な要因によって文明が成熟するという幸運を得ました。したがって、日本と西ヨーロッパは同じ型の文明である。ひとつの特徴をあげれば封建時代をともに経ている。他の4地域の文明とはまったくちがう同種の文明であるが故に、互いに遠く隔たっていても似ているところが多い文明である。したがって日本はアジアではない。ヨーロッパの親戚だというのが梅棹先生の理論です。その後、この史観は進歩を遂げ、西ヨーロッパは新大陸であるアメリカ東海岸に進出する。そして日本はアメリカ西海岸にとりつく。一方西ヨーロッパは、喜望峰をまわってインド洋にまで力を伸ばしてくる。日本は東南アジアに進出し日本人町をつくった。そのまま日本が発展していけば、アメリカ中央部のロッキー山脈のあたりで日英の陸上決戦が行われたであろう。またインド洋では日英の海上決戦が行われたはずである。勝敗はわからない。しかし歴史はそうならなかった。その原因は日本が鎖国という奇妙なことをやったからだ。どうですか。この壮大な文明史観!私は海外に縁がある日本航空に入りました。仕事をしながらこの考え方を確かめるために世界をひろく見てきてやろうと計画しました。下宿の部屋に世界の白地図を壁に貼り、折に触れて訪ねた国を赤鉛筆で塗りつぶしていきました。一都市でも行ったら、その国全部を行ったことにするという原則をたてていました。(笑い)。後輩が私の部屋にきて「まさか全部行くつもりじゃないでしょうね」というので、「もちろん、そのつもりだ」と答えると驚いていましたね。ソ連という国は地図の真ん中にあるので、モスクワを何とか理由をつけて訪ねたあと全部赤く塗りました。(笑い)これが私の海外旅行の方法です。
2006/11/20
コメント(2)
10時過ぎまで、原稿の修正や授業準備をした後、会員になっているスポーツクラブに家内と一緒に久しぶりに出かける。11時からヘルシー・ヨガというプログラムに初めて参加する。呼吸法とストレッチを中心に1時間ほどみっちり体を伸ばす。すっきりした体形のインストラクターの女性の指示にあわせて、足の指のケア、足首の回し、体側の伸ばし、首を柔らかくする運動などに何とかついていくと、あっという間に予定の1時間が経った。やはり女性が多いが、働き盛りとおぼしき男性たちも一緒に汗を流している。終わってみると体が少し柔らかくなったような気がして気分がいい。いいプログラムなのでできるだけ参加したい。その後プールに入るが、久しぶりなので300メートルほど泳いで終了する。最近、ゴルフ仲間が体調不良なので、ゴルフをする機会が減り運動不足だったため、仕事中心の生活になってしまっていたことに改めて気がついた。今から迎える冬の季節は、スポーツクラブ通いで、ヨガ、スイミング、ウオーキングなどの組み合わせで、乗り切ることにしようか。
2006/11/19
コメント(5)
井上ひさしさんが館長をつとめる仙台文学館で18日から「仙台の作家たち」が始まった。ここ5-6年、仙台に関係する作家たちがブレークすることが多くなった。伊坂幸太郎、熊谷達也、佐伯一麦、瀬名秀明、三浦明博らは仙台在住だ。また、縁のある作家も多い。伊集院静(1950年生まれ)、恩田睦(1964年)、小池真理子(1952年)、佐藤賢一(1968年)、若合春侑(1958年)など。企画展で、それぞれの作家に、もし作家になっていなかったら、何をしていましたかという問いに対する答えがあって面白かった。1971年生まれの伊坂幸太郎は「勤勉なエンジニア」1958年まれの熊谷達也は「ロードレーサー」1959年生れの佐伯一麦は「船舶無線通信士」1968年生れの瀬名秀明は「自然科学者」1959年生れの三浦明博は「反抗的な会社員」井上ひさしがつくった「女性作家の年譜」が面白かった。野上弥生子、岡本かの子、宇野千代、林芙美子、宮本百合子、佐多稲子、円地文子らが年表の中で、同時代を生きている姿が見えてきた。昼食は藤沢周平の世界展から始まった「海坂藩の食卓」(庄内の味わい)をレストラン「杜の小径」で注文する。1000円・棒鱈(鱈を乾燥させて作られた棒鱈をじっくり時間をかけて骨までやわらかく煮込んだ酒田の代 表的な一品)・おぎそば(酒田独自のごっつおのひとつ。そばの実の歯ざわりを生かしたさわやかな味)・米(庄内の生え抜き)・民田なすの漬物・みょうがも甘酢漬け(三屋清佐衛門残実録にも登場)・いかとわかめの酢みそ和え(酒田沖飛島、いかの水揚げが多い)・青菜のおひたし(上には菊を乗せ、食欲をそそる一品)---------------------------------オープニングイベントは、山形在住の文芸評論家・池上冬樹(1955年生まれ)さんと仙台在住の「別冊東北学」編集の土方正志さんの対談だった。テーマは「仙台の文学が熱い」。・仙台という小説の舞台は手垢がついていない。・都会と田舎がコンパクトにまとまった街・一時は、文学は高橋克彦のいる盛岡と山形が中心だったが、今は仙台。 熊谷・佐伯は孤立していた・お互いに刺激を受けている。相乗効果。・東北大の存在は大きい・仙台は通り過ぎる街だったが、定着した人が活躍してきた・仙台は住んでよし、書いてよし・今は東京に住む必要がない作家の裏話も多く楽しめた。終了後、池上冬樹さんの「ヒーローたちの荒野」(チャンドラー、ロスマクドナルドから、エルロイ、馳星周まで、現代の主人公たちはどうあるべきを読み解く新ハードボイルド論)と土方正志さんの「てつびん物語」(阪神・淡路大震災から10年。闘いつづけた。おばちゃんの日々)を買い、挨拶してサインをもらう。
2006/11/18
コメント(0)
11月から手帳の季節が始まった。毎年300万冊を売り上げている能率手帳は、手帳界のベストセラーかつロングセラーで1951年の発売以来、圧倒的な支持を得ている。生産管理技術の導入をはかるため海外視察にいく、持ち帰った手帳を参考につくられ、1949年に能率協会会員の企業に、お歳暮として無料で配られたことがきっかけだ。評判がよく、有料でもいので分けて欲しいとの要請が相次ぎ、1951年に商品として発売したものである。この手帳の特徴は「時間目盛り」を入れたことで、それ以降日本人ビジネスマンは「時間を守る」「約束を守る」、そして「仕事の能率をあげる」ことになったといわれている。もう一つの特徴はサイズにある。当時の官製はがきを挟んでおけば、いつでも書けるという配慮からあの大きさに決められた。やや大きいが、上着やズボンのポケットにはいることもあって、人気がでた。そして差し替え可能なアドレス帳、右ページの日記欄など多種多様な使い勝手も評価が高かった。もう一つ忘れてならないのは、書き込むことを追求して特別につくられた紙質を用意したことだ。鉛筆から万年筆までのあらゆる筆記具に対応している。ところで、今月日本実業出版社から出した、「必ず目標を実現する「鳥の目」手帳術」のスタートは順調との報告が出版社から入った。紀伊国屋書店の和書デイリーベスト10や日本実業出版社のベスト10などにも顔を出している。先日、ある人から「「鳥目」(とりめ)の手帳術とはどういうものですか?」との質問を受けた。その人は、ビタミンD(?)が不足すると夜間に目が見えにくくなる「鳥目」だと思ったそうで、こちらも驚いた。同じ鳥でも空から地上を見晴らす「鳥の目」、つまり鳥瞰のことを言っているので、誤解なく、、、。(^^:)
2006/11/17
コメント(0)
私の住む宮城県の主な人物記念館は回ったが、調べるとまだまだある。それぞれの町で全国的に後世まで名前が知れ渡っているほどでもないが、地元やその家族や縁者たちが人物の業績や偉さを顕彰した建物は意外に多い。最近わかっただけでも、鹿島台の鎌田三之助、岩出山の阿部東庵、小牛田の千葉亀雄、塩釜の長井勝一、鳴子の渋沢要、村田の三宅義信(重量挙げ)などがある。今も語り継がれている「わらじ村長」の異名がある鎌田三之助、子孫が事跡を護る阿部東庵、漫画の長井勝一、オリンピックの勇姿が目に浮かぶ重量あげの三宅義信、など。今月末には、大崎市での講演の前後に、鎌田三之助記念ホールと阿部東庵を記念した場所を訪ねる予定にしているので楽しみだ。まだまだあるのではないだろうか。
2006/11/16
コメント(0)
15回にわって「ほんとうの時代」に連載してきた「人物記念館を訪ねる旅」も12月号で最終回を迎える。今回は日本画の再興を果たした横山大観を取り上げている。大観は明治元年生まれで、1958年に90歳で没しているから、まだ最近の人という感じがする。短い時間であるが、私と同じ時代の空気を吸っているということに驚く。一般的に画家は長寿が多い。北斎も90歳、ピカソも90代前半、熊谷守一もたしか90歳だった。創造的な仕事に没頭するとストレスが少なくなるということだろうか。大観は、「創造、心、人間、人物、日本人」などの言葉をよく使った。技術の習得よりも人物の練磨が大切だという。ちなみに大観は顔が立派で有名だった。その風格のある顔を描く写生会まで開かれていた。人物もやはり顔に出るということだろうか。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「芸術は創造である。如何なる場合に於ても模倣は之を排斥せねばならぬ。」「藝術には眼で描く芸術と、心で描く芸術と、二つある。眼で描く芸術は技術が主になりたがり、心で描く芸術は技術を従とする傾きがあります。」「人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくらねばなりません。、、。世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるというわけです。、、、ただ一つ我は日本人であるという誇りをどこまでも堅持してもらいたい。」大観の絵は私たちに日本人であることを強く想起させる。大観の日本画の再興という息の長い仕事は日本と日本人の再生が目的だったのではないだろうか。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006/11/15
コメント(0)
東京から若い女性記者がみえてパソコン雑誌の取材を受けた。図解を描くソフトとして、いくつかのソフトを比較して解説して欲しいという注文である。「VISIOでマスターする図考プレゼン 実践の極意」という本を出していて、図解ソフトである「図解マスター」を開発したことから、白羽の矢がたった。ワード、エクセル、パワーポイント、VISIO、アイデアマスター、図解マスターを俎上に乗せてそれぞれの長所や特徴について実例をあげながら語ってみた。また、なぜ図解なのかという視点も強調しておいた。今回あらためてパソコン関係の雑誌を見たが、いつまでもハード機器の解説や新商品の説明だけでは、将来性が乏しいのではないだろうかという印象を受けた。パソコン関係のメーカーの広告で経営が成り立っているのだろうが、機器の仕様などの説明にこだわり過ぎているのではないだろうか。読む層が違うのかもしれないが、パソコン関係の雑誌には、使う側がどのように使えて生活が便利になるか、仕事がスムーズに流れるか、こういうポイントに応えてもらいたいと思う。どのような記事になるか楽しみだ。
2006/11/14
コメント(2)
随分と昔に、「流動性知能と結晶性知能」という研究がアメリカの新聞に載って話題になったことがあった。流動性知能とは脳の機敏さで25歳くらいがピークとなり、後はだらだらと低下していく。しかし結晶性知能は経験から学んだ知識を活かす脳であり、こちらは年齢が上昇することによってあがっていく。トータルでは中年から老年になってもほぼ横ばいで推移する。こういう理論だった記憶がある。ダイヤモンド社から出た「いくつになっても脳は若返る」(ジーン・D・コーエン著)の翻訳書を読んだら、そのことが書いてあった。この本では結晶性知能とは「学校生活や日常生活から学んで蓄えられた情報や語彙を指しています。また問題解決に応用される技能や知識も含まれます」と説明してある。脳については次のように記している。・経験や学習に応じて、脳は自ら変化を続ける・新しい神経細胞が、生涯にわたって生成され続ける・感情を司る脳回路は、年齢とともに成熟し、バランスがよくなる・年長者は、若年者よりも脳の多くの場所を同時に使うこの本はリタイヤした高齢者に1000時間以上の対面インタビューを行ってきた著者の報告であるから、事例が豊富でリアリティがある。リタイヤメントした人たちの大半は新たな峠を登ろうとする人たちだったそうだ。その年長者に対して次のようなアドバイスをしている。・お金のプランに加えて、時間のプランを用意する。・バランスのよい社会的ポートフォリオをつくる。・長くやると、はまっていく。・定期的に、長く活動を続ける。・親友づくり。・恩返し。・学習活動は健康と自立を強化する。・回想録、自伝、家族史を執筆する。また、いくつか目についた言葉を拾ってみた。・年齢を重ねるほど、奇抜な問題を解決する能力や創造性が身につく。・創造性が健康をつくる。・芸術活動が病気を予防する。・コントロール感が免疫システムを強化する。最先端の脳科学の研究成果と精神科医としての35年の臨床経験が結びついた、後半生の創造的なライフスタイルを提案する書物であるが、高齢者だけでなく働き盛りの人にも勇気を与える内容だ。
2006/11/13
コメント(0)
ホテルではNHKが入るので、情報入手という意味では日本にいるのとあまり変わらない。朝、7時頃のホテルを出て黄海上の島につくった巨大な空港へ向かう。空港では余ったお金で韓国海苔とキムチを買ったが、飛行機に乗る直前に八木さんが現われて、韓国の人からのお土産だということで、海苔をたくさんもらった。復路は、10時10分に仁川空港を飛び立って、仙台到着は12時15分だったから、2時間のフライトだった。随分と近い。自宅に戻って休んだ後、大学に出かけて明日の講義の準備と事務処理を少し。ソフトバンクの携帯電話の海外ローミングサービスで、韓国滞在中も日本とはやり取りができたのだが、今回はパソコンにつなぐリールや用意していた電源を取るリール、アダプターを忘れたりしてブログへの書き込みができなかったため、今一気に3日分書いているため、雑な報告になってしまった。反省。
2006/11/12
コメント(0)
ソウルから50キロ北上し、北朝鮮との休戦ラインに向かう。途中、案内していただいた会社の社長さんにさまざまな話をうかがう。韓国独立に力を注いだ日本人の話、ハングル一辺倒から漢字も含めた教育への変化、農村の疲弊、人件費の高騰政策による国際競争力の減退、半島の不安定さと国際化との関係、司馬遼太郎が韓国でも人気が高いこと、韓国内部の思想対立の激化の様子、北朝鮮の様子、徴兵制の現在の議論、、、、、。イムジン川を挟んだ非武装地帯が目に入る。戦争記念公園は今は平和公園という名前になっていた。韓国を救ったトルーマン大統領の銅像、非武装地帯の模型、平和センター、米軍参戦記念碑、望拝檀、離散家族へ向けたメッセージが貼り付けてある場所などを見学する。戦争状態がまだ継続中であることを強く感じる。この社長さんの車では、軍歌が流れている。鶴田浩二の歌声も多い。「父よ、あなたは強かった」「月月火水木金金」「かわいスーちゃん」「ラバウル小唄」など、久しぶりに聞いた。この人の青春時代は日本の軍歌しかなかったのだという。世界に誇る軍歌の日本の名曲は、「軍艦マーチ」と「空の神兵」だそうだ。昼食は、韓国料理。牛タン、麺、スープ。白菜、ダイコン、キュウリなどのキムチはただである。白凡金九記念館を訪問する。日本から見ると重光葵上海公使に爆弾を投げつけた事件を首謀した人物である。大韓民国の上海臨時政府主席で、南北統一政府樹立に力を尽くしたが1949年に暗殺される。初代大統領の李承晩大統領のライバル。「金九自叙伝 白凡逸志」(平凡社東洋文庫234)を買って読もう。政治的な意図もあるようだが、立派な記念館である。入場料は無料だった。社長さんの会社であるアプリケーション開発の会社を訪問し、女性の常務と懇談。従業員は20数人で日本の会社が主な取引先だ。次にもう一つのテレコムなどの請求書の発送代行を行う会社の工場を見学する。こちらは40人。月間1000万通の請求書を発送するのだそうだ。巨大なと一途ペーパー状のロールがあった。夕食は、日式のレストラン。自分史と俳句が話題になった。俳句は今やハイクと呼ばれて世界中で詠まれていることを紹介する。韓国では高齢者の生き方のモデルが見あたらないとのことで、日本の高齢者の人生の過ごし方に興味があるようだ。 韓国ではメモをたくさんとった。これをもとに文章にまとめたい。今回は第一報。
2006/11/11
コメント(0)
13時15分発のアシアナ航空で仙台から2時間半で韓国の仁川国際空港に到着。10分遅れで成田から着いた八木哲郎(NPO法人知的生産の技術研究会会長)さんを迎えて、一緒にソウルに向かう。ホリデイ・インで部屋に入り、夕食は韓国の70代の前半の4人の方と八木さんと私で一緒に摂った。大学の名誉教授、財団の理事長、企業のオーナー社長、大会社を退職した論客。4人とも韓国併合時代の教育を受けていて、素晴らしく日本語がうまい。また日本人として(かつて日本人だった時代がある)の教養も深く、それぞれの立場からの観察には感心した。この4人は中学校時代の同級生の仲間だそうで、たまたま2人が八木さんとは中国・天津時代の幼馴染だったことから、縁がでくたものだ。「知的生産の技術」に関心を示し、韓国でも研究したいというようなことだった。八木さんが書いた自分史がきっかけでこの仲間たちの間でブームになっているそうだ。日本併合時代、解放、朝鮮戦争、経済発展、IMF管理、など時代に翻弄されてきた世代だけに、ものを観る目は深い。サムソンの労使紛争、自分史、日本の若者と漫画、韓日の落差、ナレッジマネジメント、図解などとてもレベルの高い知的な会話が成り立つグループだった。
2006/11/10
コメント(0)
大崎市行政改革講演会で講演を2回行った。テーマは「説得型行政から納得型行政への転換を!--大崎市行政改革と図解コミュニケション」。年来の行政に関する私の考えと現在進行形の大崎市行革推進委員会の行革理念の説明、そして自分の仕事の図解という宿題を出した。この宿題は来月の2回目の講演会の時に材料として持ってきてもらう。その図は、市民がわかるように自分の仕事を図解してもらう、家族がわかるようにつくってもらう、行政方言(行政独特の言葉や言い回し)をできるだけ使わない、という注文を出しておいた。1市6町が合併してこの4月に発足した大崎市は広いので、合計7回の講演となる。ほぼ全員が2回づつ受講するという大きなプロジェクトだ。市職員全員を対象とした講演を頼まれたので、得がたい機会なので、実習を含めてみよう、私の仕事図を描いてもらおうという提案をして市が乗ってきたので実現した。10時からは、岩出山の文化会館で300名ほどの受講者だった。主として岩出山支庁と鳴子支庁の職員を対象とした講演。昼食は古川に移動し「蔵」という観光スポットで副市長、新総務部長、行革課長と打ち合わせをしながら食事を摂る。13時半からは、人数が多く施設がないので近くの小学校の体育館を借りて、古川にある本庁の職員を中心とした400名の職員を対象とした講演となった。大崎市職員の行政改革に関するベクトルを合わせるのが目的だが、副産物である「私の仕事図」が部長級まで含めて1300枚ほど集まるのも市の大きな財産になるはずだ。今後行革や組織の見直しなどに大いに役立つことになるだろう。
2006/11/09
コメント(1)
昨日から丸一年一緒に仕事をしてきた秘書が一ヶ月ほど休むことになった。その間、大学院で学ぶ女性の中国人留学生が4日間(午前中が中心)、宮城大学卒業生で主婦をしている韓国人留学生が1日、というスケジュールで補佐をしてくれる。研究室はしばらく日中韓の共同体となる。私の研究室は仕事のスピードが速く、対外的な折衝もあるため、秘書も微妙な判断を日常的にしなければならないことが多い。このため、ボスである私と秘書の息の合い方、コミュニケーションのとり方が仕事の質と量に大いに影響する。こういう阿吽(あうん)の呼吸ができるようになるまでには、時間と互いの労力、そして失敗の歴史が必要である。どのような案件にもベストな対応というものがある。いつもどうするのが一番良いか、良かったか、そしてなぜうまくいかなかったか、その原因は何か、ということを考え、話し合うようにしている。毎日起こる失敗事例の研究と教訓、そこから得られる細かな改善の積み重ねを習慣にしなければならない。また自分のやっていることの一つひとつについての把握と分析もできていなくては、秘書に渡す部分を確定できない。そしてその作業や仕事の持つ意味や影響などについて情報を共有する必要もある。秘書の理解の程度が甘ければずれた資料をつくったり、さがすことになってしまう。秘書を雇ったがなかなかうまくいかないというのは、ボス自身が自分のやっていることについて本当はわかっていないということになる。究極の目標は、秘書の判断が私の判断と同じになることである。日常的な判断をそつなくやってもらえることである。そうすると物事が極めてスムースに進むことになる。だから、秘書を雇った人の最大の仕事は、毎日の教育ということになる。日常の中でのちょとした事件に遭遇したときはチャンスなので、そのことを題材に話し合うことが大事だ。この日常の教育で考え方が統一されていく。これは一緒に階段を一段一段昇っていくという感覚だ。しだいに一体感が高まっていく。この過程で仕事の部分もしだいにまかせられるようになってくる。これはななかなか面倒なことだが、おろそかにすると自分でやった方が速く確実だということになって、いつまでたってもちっとも楽にならない。ボスの側にも長い目と根気が必要である。作業と仕事のある部分は秘書がしてくれて、ボスは自分にしかできない仕事にできるだけ時間を多く割くような構えを常に整えていく、磨いていくことが大切である。ここ一ヶ月、どのような事件が起こるだろうか?
2006/11/08
コメント(0)
昨年宮城大学に学部新設があり、現在の事業構想学部、看護学部に加えて食産業学部が隊列に加わった。長い歴史を持つ県立の農業短大が農業からフードビジネスを中心とした学部に衣替えしてできた学部である。この学部は私のいる大和キャンパスから車で40分ほどの場所にできたので、両キャンパスのコミュニケーションはなかなか難しい面がある。大学全体の会議は大和キャンパス行われるため、太白キャンパスの教員はそのたびに出かけなければならないのは気の毒でもある。私の所管する総合情報センター(図書館と情報ネットワーク関係)の2つの会議--センター会議と運営会議--も原則は大和キャンパスで会議を毎月行っている。10月にはコンピュータラボが正式にオープンしたので、その見学も兼ねて11月のセンター会議(事務局とセンター長・副センター長らの会議)を太白キャンパスで行った。新キャンパスはまだ工事中で、事務局棟はまだ完成していないのでプレハブだった。全部が終わるのは今年度末の予定だそうだ。通常の会議を1時間ほどで終えて、図書館、コンピュタラボ、研究室、実験室、講義教室、食堂、多目的ホールなどを案内してもらった。行われていた授業の様子は、廊下の覗き穴から見えるようになってた。5階建ての屋上では、三角形の特徴のある太白山をまじかに見ることができ、反対側では太平洋が見える、素晴らしい景観だ。
2006/11/07
コメント(0)
夜は仙台市青年文化センターで行われた演劇を観る。「疾風る」は「はせる」と読む。人権弁護士として最近話題にとりあげられている宮城県出身の布施辰治(1880--1953)の生涯を描いた作品である。布施辰治は戦前は朝鮮人の独立運動を擁護したり、法廷侮辱罪で下獄したり、戦後は三鷹事件の弁護団長などで活躍した。出身の石巻文化センターに布施を顕彰したコーナーがあり訪ねたことがある。演劇にみる布施は、まさに疾風のように人のため世のために次から次へと仕事をしていく。人柄は朴訥で陽気だが、権力に対する厳しい言論は迫力がある。布施役の木村純一の演技も達者で、いかにもこのような人物だっただろうなという姿を見事に演じている。最後の演説も胸を打つものだった。会場は大きかったが、この一般には無名の人物の劇であるのに、意外に観客は多かった。パンフレットの広告は仙台の法律事務所がほとんだった。劇の内容もそうだったが、憲法をまもろうという人たちが駆けつけたという雰囲気だった。下記は布施辰治コーナーを訪問した時のコメントから。----------------------------------------------------------2年ほど前に、河北新報で布施辰治という名前を見かけた。私にとっては懐かしい名前である。高校2年生のとき、岩波新書の「ある弁護士の生涯」という本を読んで、布施辰治という人物の生き方に感動した。私はこの時点で進路に決断を下した。法学部に行って弁護士になろうと決心したのである。このときの姿を母は「朝の厨に貧しき人のため弁護士になると吾子は告げに来」と短歌に詠んでくれている。私はその後法学部に進む。しかし、結果的には弁護士にはなれなかったが、この人物と書物が人生の進路に影響を与えたことは間違いない。--中略この代表者は、大局的見地から日韓両国の教科書に布施辰治の偉業を載せるべきだとも提言している。東アジアの緊張緩和のためにも、この布施辰治という人物の行った業績をもっと多くの人に知ってもらうべきだと感じた。日韓関係が必ずしもよくない中、この布施辰治の功績はもっと輝かせるべきだろう。
2006/11/06
コメント(0)
子規庵は総坪数55坪、建坪24坪の一軒家である。南向きの庭があり、子規の天地であったこの庭には子規の愛した様々な木や花が咲いている。座敷として使っていた8畳間から病間としていた奥の6畳間が続き、その6畳間のガラス戸の先は、糸瓜(へちま)棚になっている。このガラス戸は、陽がさし、外が見えるという当時としては珍しいもので、高浜虚子が子規のためフランスから輸入したものである。子規は肺結核だったのだが、この菌が脊髄に入りカリエスという難病になる。子規の座机が6畳間にある。子規の左脚は曲がったままで伸びなかったので、立て膝を入れる部分がくり抜かれていた。代表作の一つである「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を見ることができる。この庵に子規は、母八重と妹律と住んだ。八重は83歳まで、律は73歳までこの家で住んだ。この3人の墓は田端にあって、子規の左右に母と妹が並んでいる。根岸は、上野の山の根っこにあり川に近かったことからついた名前である。根岸は当時の高級別荘地でおめかけさんが多く住んでおり、子規は「妻よりもめかけが多し 夕涼み」という句も残している。上野の山は水はけがよく、鶯(うぐいす)が鳴声を競い合ったところでもあり、鶯谷とも呼ばれていた。根岸に近い根津には遊郭があってそのあとに寄席ができて、子規はよく通ったらしい。親友であった漱石と子規は寄席で出会ってそれがきっかけで仲良くなった。庭に出て草花を愛でてその先に、子規文庫という土蔵があった。昭和2年に正倉院方式でつくったもので、戦災を免れている。考えてみれば子規は寝たきりであったにもかかわらず、食べたいものを食べる生活をしている。これはおじさんの加藤琢という人物のお陰である。加藤は外交官や貴族院議員を歴任している。この加藤が「日本」の社主であった「くが褐南」と友人だったこともあってこの新聞社に採用される。給料は15円から30円、そして子規があこがれていた40円までになっている。40円は学士の月給だったそうだ。この加藤の息子の加藤忠三郎は後に妹律の養子に入る。この経緯を司馬遼太郎は、「人々の足あと」(?)という小説に書いている。加藤はまた原敬とも同級生であった。子規の年表をたどってみると、17歳で東大予備門に入る。ここでは、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同級となる。21歳で鎌倉で喀血、このころベースボールに熱中する。そういえば上野の森には子規記念球場があったことを思い出した。22歳で漱石との交遊が始まる。23歳で文科大学哲学学科入学。25歳日本新聞社入社、27歳「小日本」編集責任者、28歳日清戦争従軍記者。このとき、従軍中の森鴎外を訪問、松山の漱石の下宿で50日を過ごす。29歳子規庵で句会、カリエスの手術。33歳「日本」に「叙事文」を連載し、写生文を提唱。34歳「墨汁一滴」の連載を開始、35歳「病状六尺」を連載、そして死去。短く不幸な生涯であるが、同時代の人々への感化、その間になした仕事は大きな影響を後世に与え続けているのが素晴らしい。子規は必死に生きようとしたのだった。帰宅後、子規庵で購入してきた「墨汁一滴」を読んでみる。食べ物の薀蓄、歌に関する知識、人物胆、俳句、万葉集賛歌、闘病の苦しさ、少年時代の思い出、漱石のこと、試験の話など、優れた批評精神と好奇心のおもむくまま豊かな精神生活を感じさせる文章が並んでる。テーマ、スタイルなどが多彩にひろがっていて、子規の世界を堪能させてくれる。随筆に現われる子規は実に魅力的である。この書のもととなったのは新聞「日本」に164回にわたって連載されたもので、闘病生活の中、途中4日休んだだけである。「こは長きも二十行を限りとし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし」との言葉もあった。これは私たちがやっているブログそのものだと気がついた。現代のブロガーは、子規の随筆に学ぶべきである。
2006/11/05
コメント(0)
浅草の吾妻橋から隅田川ラインと呼ばれるコースで隅田川を下る。吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋と続く、形の変化と色の多彩さを堪能する。後藤新平が震災復興の目玉のひとつにあげたように「隅田川を橋の博物館にする」という構想が実現していると感じた。大川端リバーシティの高層マンション群、読売新聞など有名企業のビル群、聖路加タワーなど隅田川から両脇の東京の各地を眺めるのも興味が尽きない。汐留に近い浜離宮に到着。浜離宮は徳川将軍家の庭園で「浜御殿」と呼ばれていたが、明治維新後は皇室の離宮となり、「浜離宮」と名前を変えている。海水を引き入れた潮入りの池と2つの鴨場がある。この庭園の緑を背景に汐留の超高層ビル群の眺めは現代の日本を象徴している。両国の江戸東京博物館で開催されている「江戸の誘惑」は、ボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展である。版画ではなく、注文に応じて描いた一点だけの作品である。ビゲローコレクションと呼ばれる5万5千点の浮世絵版画と700点の肉筆浮世絵コレクションのうち、80点の肉筆浮世絵が海を渡ってきた。葛飾北斎、勝川春草、宮川長春、鈴木春信、歌川豊春、北尾重政、鳥居清長などの浮世絵が一挙に公開されていて目を楽しませてくれる。このコレクションをボストン美術館に寄贈したウイリアム・ビゲロー(1850-1926年)は、ハーバード大で医学を学び、パリでパスツールに学ぶ。1881年にモースの講義を聞き、日本に滞在し、フェノロサと知り合う。モース、フェノロサ、岡倉天心とビゲローの並ぶ写真があった。1996年にこのコレクションの日本からの調査団が編成される。今回の開催はその成果の披露でもある。「江戸の四季」。「浮世の華」。「歌舞礼賛」。「古典への憧れ」と整理された浮世絵は素晴らしい。豊かな江戸の生活風俗が目に浮かぶようだ。日本人のコレクションでないのが残念だが、系統的に蒐集し保存してくれたアメリカ人のビゲローに感謝しなければならないかもしれないと思いなおす。浅草寺でおまいりをしたあと、浅草演芸ホールで落語に興ずる。春風亭一朝、古今亭志ん五、そして真打は林家正雀の「鰍沢」だった。二泊三日の東京下町紀行を堪能した。
2006/11/04
コメント(2)
朝、ホテルで温泉に入った後、散策にでる。お寺の多い谷中を通り抜け、日暮里から根岸に出る。根岸には、正岡子規(1867-1902年)が34歳で死去した家がある。そこは中村不折記念館の前にあった。以前この記念館を訪ねたときには、ここに子規庵があることには気がつかなかったのだ。親友漱石、そして森おう外、伊藤左千夫、長塚節、高浜虚子らが頻繁に訪れた家である。句会を行った8畳間、その奥の座机がある6畳間、6畳間の前にあるへちま棚、子規の世界すべてであった庭、土蔵の子規文庫などを見学。庭で休んでいたらえらく物知りな老人がいて子規に関する知識を授けてくれた。この子規庵のガイドをやっていたそうだ。その老人に紹介されて、近所の「笹の雪」という豆富料理屋で昼食。 朝顔の入谷 根岸のささの雪 うつくしき根岸の春や ささの雪と、子規が詠んだ料理屋である。「うぐいす御膳」と豆富ワインを注文する。新装成った「一葉記念館」は一葉記念公園と一体となっている。前回は建て替え中で台東区立図書館内の展示物をみた。この記念館は11月1日にオープンしたばかりだ。3階には「たけくらべ」の原稿があった。流れるような字である。急いで書いたのであろう。2階にはこの一葉記念館ができるまでの経緯が述べてある。この竜泉というまちの住民の努力の結晶である。上野の森にある東京芸術大学の一角に、黒田(清輝)記念室がある。日本近代洋画の父である黒田清輝(1866-1924年)の、代表作「湖畔」には目を引きつけられた。湖畔でうちわを持ち物思いにふける美女の姿を描いた傑作である。まろやかで迫力があり美しい。夜は、神楽坂で食事をした。 (それぞれの記念館の詳細は別途、報告予定)
2006/11/03
コメント(0)
上野駅から徒歩10分、上野動物園の裏手に森鴎外旧居跡がある。現在は水月ホテル鴎外荘というホテルになっているので、今回の東京での宿泊はここにしてみた。このホテルから千駄木方面にのぼっていくと鴎外記念本郷図書館や夏目漱石旧居跡、谷中方面に歩いていくと朝倉彫塑館がある。根津から東大の方向には立原道雄記念館、竹久夢二美術館があり、そして湯島の方に下っていくと、横山大観記念館、旧岩崎邸庭園などが散在している。このホテルは、森鴎外(1862-1922年)が28歳で海軍中将赤松則良の長女赤松登志子と結婚して根岸から移ってきた平屋と庭を囲って建物を配している。この平屋が鴎外荘と呼ばれている家で、文壇処女作「舞姫」を書いた場所である。玄関から入ると、15畳・10畳・10畳の三間がふすまで区切ることができる大きな空間に入る。鴎外の書いた舞姫の出だしの文章があったが、ここには「森鴎外林太郎著」と記されていた。この家で鴎外は陸軍の軍務の傍ら、「うたかたの記」、「浮舟」、新体詩集「於母影」を書き、於母影の印税50円で「しがらみ草子」という文芸雑誌も発刊している。ここには、幸田露伴、内田魯庵などの友人が訪れたが、女中が客に時間を聞かれ「もう十二時過ぎです」とこたえると鴎外は「なぜ十二時を過ぎたばかりですといわぬ」と叱ったというエピソードが残っていた。文学の友人たちとの交流は鴎外にとて大事な時間であったことを物語っている。奥の間から左に折れると、洋風の客間があり、立派なテーブルとやや重い椅子が並べてある。更に廊下を行くと蔵があり、ここには鴎外関係の資料などが展示されている。このホテルの中村菊吉という社長が鴎外旧居を残す手だてを考えたのだそうだ。鴎外荘は現在では、夜は宴会場として賑わっていた。鴎外関係では、本郷区立図書館の鴎外記念室、愛知県の明治村にある家をみたことになる。明治村に移築された建物は、鴎外が住み、後に夏目漱石が住んだという曰くつきの家だった。この界隈にあった夏目漱石旧居とは、実は森鴎外旧居でもあったのだ。水月ホテル鴎外荘は中高年の客だらけだが、結構混んでいる。部屋には難点があるが、総檜づくりの浴室を持つ気持ちのいい温泉があり、鴎外荘とあわせてなかなか風情があり気に入った。
2006/11/02
コメント(1)
グーグルのメールサービスを使ってから、迷惑メールを遮断することができて、ストレスから解放された。今度は、グーグルの「翻訳」サービスを使ってみた。多彩な種類の言語同士の翻訳が簡単にできる。中国語から日本語にいきなり翻訳するのではなくて、中国語を英語に直し、その英語を日本語に翻訳するというプロセスを通じて、中国語の文書の概要がつかめるという仕組みである。無料なので精度はあまり高くはないが、なんとかわかる程度には使えるようだ。便利な世の中になったものである。私の著書も、韓国、中国、台湾で多数翻訳出版されているので、インターネットを通じて、ホームページの書き込みなどで反響を調べるのにも役立ちそうだ。グーグルは徹底的に使い倒してみようか。
2006/11/01
コメント(2)
全30件 (30件中 1-30件目)
1

![]()
![]()