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19日に続き、26日にインタビュー記事が掲載されて、その記事が到着した。「朝日求人情報:エー・ステージ」という求人欄に写真付きの大きなスペース。------------------------------ 図解力を磨こう 図解思考で、 仕事も未来もスッキリ明解! ライフプランも図解化すれば、将来が見えてくる 就職、仕事、ミスマッチ、、、、 まずは物事を3つにわけて考えることから 理解、疑問、批判、、、、-----------------------------------------------------
2006/03/31
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帰国したら執筆した雑誌が届いていた。「企業と人材」4月号は、産労総合研究所が出している「人と組織の力を高める人材開発情報誌」と銘打っている。主に、企業の人事部、教育研修部門などが読んでいるそうだ。今月号は、「公的資格取得援助制度の実態」の特集だった。この雑誌で4月号から「考える社員を育てる『図解思考』入門」という連載を書くことになった。第1回のタイトルは「図で考える人は仕事ができる 新しいOSの誕生」で、5ページというかなりの量。毎月の連載はいくつか持っていると締め切りと発刊とのスケジュールや意識の調整が難しい。終わったと思うとすぐに締め切りがやってくるので、書く内容をいつも念頭置いておかねばならないし、いざ書くときには前の号とのつながりも視野に置かねばならない。雑誌別に異なったテーマなので、切り替えも大切だ。最近は、何か心せわしい感じがある。ここしばらくは、雑誌連載の掛け持ちをどうやってしのぐかという自分にとっては新しい課題をもって過ごしてみたい。
2006/03/30
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東芝水電設備有限公司(Toshiba Hydro Power (Hangzhou)Co.,Ltd)の工場は杭州から車で1時間。途中見る景色はこの折江省の豊かさを示している。農民の家は3階建ての一戸建てが多く、豊かな土地であることを感じさせる。中堅幹部60人が講演会に現われた。当初は30人と聞いていた。通訳を交えての2時間半の講演のテーマは「図で考える人は仕事ができる ○△□↑の仕事術」である。CD-ROMに入れてある中国語の資料や、中国語の配布資料を見せながらの講演となった。熱心に聴いてくれた。「眠る人がいなかった」のは珍しいそうだ。中国人向けの講演では、社会阿体制や常識が違うので気を遣うことが多いが、なんとか終了。その後、猪俣社長は経営方針に関する図を白板に描きながら説明を行った。貢献と利益と配分の話だった。共産主義、国営企業、日本企業という中での企業や経営や仕事の話は理解してもらうのがなかなか難しいそうだ。日本での講演と同じようにアンケートをとった。どのような感想がくるか楽しみだ。終了後、大きな工場を見学。16万ヘーベ。昼食は、企業城下町の中に出て、社員がとるところで一緒にとる。そばは5元(75円)。靴磨きは1元(15円)。大都市では高級車だらけでマンションが次から次へ建っているが、地方の一角ではこのような状態。貧富の格差は物凄い。当初の計画にはなかったが、紹興(人口400万)が近いので車で見物をすることなった。紹興は魯迅のふるさとで一度行きたかったところだ。この町は偉人が出ることで有名。王義士、越王公せん、魯迅、周恩来、秋謹、、、。また紹興酒のふるさとでもある。魯迅故里を見物して、上海へ。「魯迅記念館」訪問記は別途。上海--杭州--紹興はとても豊かな土地だ。帰国後、統計にあたってみた。国家統計局は世帯収入が年収6万元(90万円)から50万元(750万円)を中産階級としており、その世帯数は人口の5%。2004年度時点で、年収10万元(150万円)以上の富裕層は、1位の杭州が64万人、2位の上海が38万人、3位の北京が50万人、4位の広州が14万人となっている。つまり杭州は中国で一番豊かな市ということになる。そして上海--杭州は最も豊かな地域である。訪れた見聞や実感が裏付けられた気がする。------------------------------------------------中国人は面子(メンツ)を重んじる、感じる。中国人や中国との付き合いはこの点を踏まえなければならない。また、中国は広く、かつ深いことを実感した。まさに「中国は世界である」とも感じる旅となった。
2006/03/29
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長春から杭州へ。杭州は南宋の都だったところ。メインルートではないのですいているだろうと思ったが、とんでもない。満席だった。高所得者が多いことを実感する。中国はどの空港も満杯で、大移動時代を迎えている。東方航空も南方航空も新鋭のエアバスである。空港の保安検査は厳しい。杭州は上海の隣の大都市。風光明媚な南国。人口は600万。中心だけでも300万。早速、東芝水電設備の事務所に向う。旧知の猪俣総経理(社長)と会う。国営企業を東芝が1年前に買収し赴任した。猪俣さんとは小学校・中学校・高等学校・大学と同じように進んだ仲だ。こういう形で再会できたのが嬉しい。事務所80人、工場900人。日本からは日航も全日空も就航しているというから往来者が多いのだろう。有名な西湖を案内してもらう。桜、梅、桃、牡丹、木蓮、白蓮、などが咲き誇る美しい公園。無料でもあり市民の憩いの場。「一番いい季節の一番いい時間」に訪れたことになるという。素晴らしい経験だった。西湖のほとりに建つ雷峰塔は5重の塔。有名な「白蛇伝」の舞台である。主人公の女性Bai Suzhenの物語。アプローチはエスカレータ、中にはエレベータで驚く。最上階で眺める夕方の景観は絶品である。夕食は西湖に面したレストランで歓談。杭州シャングリラホテル泊。
2006/03/28
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上海から長春空港に着くと寒くて体が震える。少し雪もあった。黄砂で天気が悪い。客員教授をしていて、私の名前の奨学金を出している吉林大学で、奨学金の貸与式を行う。7人の修士・博士課程の学生と昨年の奨学生、そして東北亜研究院の李院長や共産党幹部や、教授たちを前に、挨拶。-------------------------------------吉林大学に来始めてから3年目になる。この間の変化。まず、長春の新空港が完成し見違えるほどきれいになった。私自身についての変化。郷里の歴史に目を開いてくれた横松先生の死去。いかに故郷のことを知らなかったかがわかった。最近始めた人物記念館の旅。いかに日本のことを知らなかったかがわかった。その中で、玄洋社記念館を訪問して、いかに父のことを知らなかったかがわかった。そして中国に通うようになって、いかに中国のことを知らなかったかがわかった。色々な局面で、「互いに知らないこと」によって様々な問題が起こる。諸君も中国のこと、日本のことをよく学んで欲しい。---------------------------------------------------中国の対外政策に影響力のある吉林大学東北亜研究院。李院長によれば、東北アジアとは日本・中国・韓国・ロシア・北朝鮮を指しているが、シンポジウムを行うにも、どの言葉を使うかから問題になる。翻訳しあうようにすると大混乱する。果たして発言の趣旨が通じているのかどうか不安になる、とのこと。吉林大学はまたひとつ合併してさらに大きくなっていて、中国最大の大学。その後、友誼会館でパーティ。李院長、伊副院長(人口学)、朱副院長(ロシア専門)、沈助教授(日本近代史)、そしてエン先生などの大学側と、奨学生達とのパーティ。懐かしい白酒(パイチュウ)を飲みながら、歓談する。国連からの出張者もあり、朱先生は掛け持ちだった。沈先生は拙著「合意術」の翻訳をしたいとのことだった。そろそろ奨学生の一部が卒業し社会に出る。修士論文や博士論文を学習の成果としてもらうことにした。中国社会のことを人口学・世界経済・地域経済・比較文学・世界歴史などの面から論じた成果を読むのは楽しみだ。気持ちの良い学生たちが多い。一緒に写真。乾杯の前に必ず一言挨拶をする。中国の人は、こうやってコミュニケーションをとっているようだ。
2006/03/27
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私は形象と色彩によって抜きさしできぬ煌くような象徴の世界を打ち立てたい私の絵画は、具体的な描写ではないが、自然のすべてが画因である。太陽、石、山脈、風、凍土、動植物などあらゆる自然のリズムや形象を極めて単純な記号のような原形にまで抽象して生気を蘇らせたいと希っている。壮大なる秩序とリズム。それは私が絵画に託している夢である。私は私の絵画を創りたいだけです。簡潔明快な形と鮮麗な色彩を好みます。形はあいまいさを許さず、色彩は交響を奏でる。色と形による荘厳なる絵画世界を夢見ています。特別なモチーフやテーマはない。テーマは完成してから決める。簡潔明瞭な形象と色彩の動き、画は、私が如何に生きたかという証に他ならない。私の絵は、純粋抽象の絵画であります。円や四角などの簡潔な形と、赤青紫黒などの鮮烈な色彩で構成されています。強靭で柔軟、晴朗な生気ある充実した空間を造形したいのですが、これは遠い夢のようです。常にパレットが濡れていなければ駄目だ、といのは私の信条であるが、私という凡才が生きぬく道は、それ以外にないと思っているからである。沸々たる静謐の世界日本画の代表的名作といえば、私は藤原隆信の源頼朝像、雪舟の慧可断ぴ図、それに宗達の作品を挙げる。結局、個展とは自分の仕事を自分でじっくりみつめる贅沢な催しである。制作は形から始められますが、その時点では、不思議にも色彩のことは私の念頭にありあせん。形の構成が進行して一応の段階に達するころ漠然と色彩が浮かんできます。カンバスに形が決定すると、いままで漠然としていた色彩が、にわかに確然として、丸や四角の形の中に飛び込んでくるのです。最初の色彩が着彩されると、色が色を呼ぶごとく画面いっぱいに色彩が競い合うものです。絵を描いていて一番心躍る歓びの時です。
2006/03/26
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マッカーサー率いる占領軍は軍国主義を財力で援護した財閥の解体と、天皇制を支えた皇族の特権剥奪の施策を断行した。明治天皇の第8皇女が婚嫁した朝香宮家も、免税特権の廃止によって経済的に困難に陥り広大な邸宅を手放さざるを得なくなった。そして日本国憲法の制度による初めての皇室会議で秩父宮、高松宮、三笠宮の直宮家以外の皇族は皇籍を離脱する。この旧・朝香家の邸宅であった土地と建物は、庭園美術館として現在では東京都が所有している。庭園美術館では、日本の近代美術の中でもう一度よく見なおすことによって、美術史自体の意味や構造が変わってもよいという見地から、数年に一度一人の芸術家をとりあげた展覧会を催している。この庭園美術館という優雅な名前の美術館で行われている宇治山哲平の作品展を観に行く。宇治山は○△□という形に鮮やかな色彩を載せた作品によって日本近代絵画史に独自の足跡を残した。1910年に大分県日田市で生れた宇治山は、50年にわたって絵を描き続けたが、50代になって色と形による独自の純粋抽象画へ突き進み、絵画の世界に新境地を開き、1986年に没する。晩年には「時間がない」と妻にくり返していたとビデオ「NHK日曜美術館 ◎△□ワールド 画家・宇治山哲平の仕事」の中で紹介されていた。宇治山は技法面からは、日本画から版画、そして油絵に進む。そして絵の対象は写生から抽象、そして純粋抽象へと進んでいる。根底には東洋写実の精神が流れている。日本の生んだ俵屋宗達、尾形光琳、抱一に象徴される日本的審美眼を土台に、古代オリエントや中国美術を愛した画家。一生のほとんどを故郷の日田で絵を描きながら過ごした。原色に彩られた作品を描き続けた宇治山は、晩年には、白の世界に憧れる。それは日田の底霧の色だった。あらゆる色彩を散りばめた「華厳」よりも、自由な美意識が清澄な白の世界を希っているのだろうか。宇治山の作品は現在では、私たちは赤坂のサントリーホールの入り口に大理石で描かれた「響」という大きな作品を観ることができる。1986年に完成したこの作品は、縦3.6m、横20.4mで、7カ国の大理石を用いている。この展覧にあわせて出版されたと思われる「宇治山哲平展---絵に遊び、絵に憩う」に、「華厳なる宇治山哲平----世界画ポリフォニック・カーニバル」と題して松岡正剛が文章を寄せている。51歳のときに師である福島繁太郎の死に接して「石の華」を描いた直後、劇的な変貌を遂げたと分析し、○△□と色彩をもって、すべての自身の感興をあらわそうという決断に踏み切ったとしている。「○△□による華厳世界」「密教の奥は実は華厳なのである。密教は華厳から生れた秘密の新生児なのである。禅の奥にも華厳が咲いていた」「華厳は密教を生み、曼荼羅という色彩形容とともに華麗な宗教表現を派生させている」「華厳でありたいと思うことは、こうした透体脱落を促進する曼荼羅世界を感じるということなのだ」「この画人はいつしか「世界画」というものに達したのである」華厳 爽 白華 やまとごころ 天華 あおによし 王朝 希 情 壮 煌万華などの感興を催すタイトルの作品を、古くて立派な3階建ての洋館の部屋部屋に展示されている作品を心躍らせながら順番に観ていく。原色と華やかな秩序が踊る「華厳」、日本の古代の世界を連想させる「あおによし」、色彩を押さえた「やまとごころ」、花火を連想させる「天華」、矢印が登場する「壮」、天空を想像させる「煌」、紫地に赤を中心とした形象の「王朝」、万華鏡の世界を髣髴とさせる「万華」、、、。宇治山はフランス語でマチエールという絵肌にこだわった。油絵具に水晶や方解石の粉末を混ぜて練りこんで使うという独特のマチエールを発明する。マチエールは絵画の土壌である。この土壌を育てていきながらやっと自分の絵が描けるようになる。このマチエールを手に入れて、その作品は飛翔を始める。こんな表現方法があったかと感じる形象と色彩の曼荼羅世界に見入ってしまった。「究極の写実の世界なのだ」と自ら語ったという純粋抽象の世界の面白さ。大らかなユーモア、平明な幸福感が感じられて、誰でも絵に見入ってしまうだろう。遺言でアトリエの公開をのぞんだということから、この展覧では遺品と未完の大作も公開されている。作品数は90点。湯布院の玉の湯からも「万華」が出品されていた。
2006/03/25
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近場にできたスポーツクラブに入会した。先週は珍しさも手伝って数回通ってみた。ボディ・コンシャスの老若男女がマシンで筋肉をつけたり、ランニングをしたり、プールで泳いだり、ヨガに挑戦したり、太極拳を試したり、、、、というように思い思いに時間を過ごしている。昼間は、中年女性と年配の夫婦、そしてプールは子供づれの主婦が多い。夕刻以降は、若い勤めを持っている女性たちが多い。今年は、暇を見つけては、このクラブで汗を流すことにしたい。
2006/03/24
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隔月刊雑誌「自分時間」での連載エッセイ「タイムコンシャス・ライフ」も今号で9回目になる。今回は定年後の過ごし方についてのエッセイで私のゴルフの師匠である64歳のTさんをテーマにした。ストレッチ、腹筋・背筋、インターネット株投資、ゴルフ、英会話、気、NHKラジオ英会話、海外ロングステイ、テニス、外貨預金、、、という生活ぶりを書いた。明らかに定年後の生活の一つのモデルだ。実はこのTさんにもモデルがあり、それは94歳になる父親だった。海外旅行は年数回、93歳になってからインターネット株取引を覚えてはまっているとか。先輩、父親、上司など自分の目指すモデルがあることが大切だと感じる。
2006/03/23
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先日、朝日新聞の関西本社版の「求人広告」のページにインタビューを受けた。その記事と写真が19日(日)に出ている。「図解力を磨こう 手を動かせば脳が動く、 脳が動けば仕事力がアップする 箇条書きや文章よりも「図」がわかりやすい 企業が求めるものは、自ら考えることができる人材」-------------------------------------------------------求人広告を見ると次のような広告が並んでいる。 「パート・アルバイト」 会計事務・事務補助・建設補助、、 「求人・中高齢者」 紳士服販売経験者・夫婦住込み管理人・保安管理組合員 分譲マンション中高年管理員・保安要員、、 「求人・病・医院」 ケアマネジャー・透析管理看護師・事務管理職、、、 美容専門学校正社員・不動産仲介業務・学校運営スタッフ・ コンベンション運営スタッフ・塾長・講師・総務経験者・秘書・ 営業正社員・ロサンゼルス勤務営業、、、
2006/03/22
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子どもの頃、祖父や祖母の時代の写真の貼ったアルバムを見ていて不思議に思ったことがあった。それは家族そろってのセピア色の写真がいくつもあったことである。何かあったら家族で写真館に行って写真を撮るという文化があったことに気がついて、父親に「うちも家族写真を撮ったらどうか」と提案したことがある。高校生の頃だったか。父は即座に「それはいい」と賛成して、それ以来実家では毎年、家族写真を撮っていた。その写真では、その時点での家族一人一人の健康状態、体の大きさ、そして兄弟の様子などがわかり、時間軸で並べてみると家族の歴史になっている。父が倒れたりして、いつの間にかその習慣はなくなったが、その伝統はいまも生きていて、我が家は年賀状として親族や親しい友人に出すものには、旅行時になどに家族4人で写ったその年の写真を使うことにしている。言葉で家族の様子を伝えるより、家族の状況を理解してもらうのにいいので評判はいい。この我が家の習慣も長い歴史を刻んでいる。今日は、息子の二十歳の成人の記念に近所の写真館で家族写真と本人の記念写真を撮った。前回は3年前の娘の二十歳の記念写真を撮った時だった。その時の写真が1年間その写真館に飾られているという話を聞いていたが、その大きな娘の写真をいただいた。きちんとした写真館で写したものと、持っていたデジカメ2台でたくさんのスナップ写真を撮った。少々高い買い物だが、家族の歴史を残すという意味では実は高くはないのかも知れない。それ以上の価値は確かにありそうだ。
2006/03/21
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「ほんとうの時代」(PHP)で連載を始めた「人物記念館を訪ねる旅--ほんものの日本人」も3月発売号で7回目になった。今回は、松本清張に取り組んだ。前回は樋口一葉、次回は遠藤周作を予定している。一人の人物を取り上げるごとに現場訪問と資料や作品の読み込みと考える時間が必要だが、ようやくリズムができてきつつあるところだ。字数が少ないので偉人の全生涯や作品を紹介するのが難しく、何を残すかに毎回苦慮する。また、その人の残した言葉を一つ選んでタイトルにしているのだが、これもなかなか一筋縄ではいかない。清張の場合は「疑いだね」という言葉を選んだ。体制、学問、権威、通説、大家、常識、こういうものに敢然と挑戦するこの作家の神髄を表す言葉だと思ったからだ。以下、一部抜粋。-----------------------42歳という遅い出発だったにもかかわらず、この量と質だから常に時間との戦いということを意識していたという。------------------------「けものみち」(久恒という刑事が出てくるが女の魅力にまどい転落するというあまりいい役柄ではなかった)--------------------------清張は「好奇心の根源とは?」との問いに、「疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」とビデオの中で語っている。------------------------小倉城の入り口に建つという絶好の位置取のこの記念館は松本清張の全生涯と全仕事を素晴らしいハードと様々な工夫を凝らしたソフトで凝縮して見せることに成功している。巨人・清張を記念するにふさわしい優れた記念館である。-----------------------------
2006/03/20
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日曜日は宮城県民会館で行われた2回目の襲名披露公演を聴く。新・正蔵は、林家三平の息子で、本名は海老名泰孝。1962年に東京根岸に生れている。昨年朝倉彫塑館を訪ねた折に通りかかった「三平堂」で育っている。正蔵は祖父の名跡である。県民会館は、ほぼ満席の盛況で落語人気の底堅さを感じた。春風亭小朝(義兄)と桂文珍の2人の芸が素晴らしかった。小朝は、「うまい!」。姉歯事件でよかったのは引きこもりがマンションから出てきたことだとか、小泉総理をネタにしたりした枕で笑わせた後は、コウモリ女の話で笑わせた。文珍は、出てきたところから拍手が多く人気の高さをうかがわせた。楽天、ライブドア、野村監督、みのもんたなどが枕で、ネコもしゃくしもマウス、よろしかったですか、1万円からいただきます、領収書の「上様ですか」には殿様じゃないぞ、中国人ウエイトレスの1日働いているという言葉には半日ですか(反日)、テレビのモスクワの天気などは必要ない、、、。ということで爆笑の連続だった。途中でWBCの日本・韓国戦の得点経過なども織り込んで入れた。「口上」という襲名披露のコーナーがあった。全国ツアーは67回目で、松本の68回で終了とのこと。ここでも江戸落語の小朝と上方落語の文珍の口上も愉快だった。会場全体で3本締めでお祝いをする。最後は、九代目林家正蔵の落語だったが、真面目な古典落語だったせいか、睡魔に襲われて十分に聞くことはできなかったのは残念だ。会場で買った本「九代正蔵襲名」(近代映画社)から。・名前の重さは歴史の重さ・残りの人生を賭けるべき仕事を目前にして、居住まいを正す心持です・こぶ平でいるより、正蔵になったほうが、より落語に近づけると思ったのです・落語というのは、「気」のものです・ちゃんとしたものを普通に遣れば面白い。それが芸というものです。おもしろくしようとするからつまらなくなる。(柳家小三治)・襲名というのは古典芸能ならではの本当に面白い仕組みである。我々は人が生まれ変わる瞬間をこの目で見ることが出来、同時にまた過去の名人たちが、一挙に蘇る様を想像できるのだから。(いとうせいこう)
2006/03/19
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今年は雪が多く、冬場は1回もゴルフができなかった。今日は師匠の富田さんとホームコースの泉パークタウンGCで1日楽しんだ。土曜日の今日は、雨の金曜日と日曜日の間の晴れ間で、気持ちが良かった。私は最悪のスコアだったが、富田さんは39という好スコアを出した。パターが素晴らしくワンパットの連続だった。まさに神がかりだった。富田さんによればここ数年、30台は出ていないとか。新しく買ったゼクシオの新型の大型ヘッドのドライバーの初打ちだったが、今日は成果は出なかった。写真左から、私、野田一夫先生、富田秀夫さん(ハワイのコオリナGCにて)
2006/03/18
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卒業式の日は、女子学生の服装のおかげで大学がもっともカラフルになる日だ。賑やかで和やかな雰囲気に溢れたキャンパスになる。開学以来丸9年経って、今回で6回目の学部卒業式で、大学院は4回目。今回309人の卒業生が世の中に出るが、累積では1814名にのぼる。既にそれぞれの方面で活躍が始まっている。馬渡学長は、近年の行き過ぎの資本主義の方向に対して、所得は世の中への寄与の対価として得るもので、一方的に利得を得ることは好ましくなく、それは互恵的なものであると強調した。村井知事は、師である松下幸之助さんの「悲観からは何も生れない」を引用し、希望を持てと述べた。毎回の事ながら、卒業式は厳粛な気持ちになる。謝恩会は大学の近くの仙台ロイヤルパークホテルで、学生たちと最後のお別れが賑やかに行われた。男子はスーツ姿だが、私のゼミの2人の女子留学生は、チャイナドレス姿だった。真紅のドレスと純白のドレスと、二人並ぶと紅白の一対のように見えた。皆の幸せな人生行路を願わずにはいられない。
2006/03/17
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午前中は、国土交通省東北地方整備局での研究会に出席。営繕部を中心とした広報活動の改善について識者としてのアドバイスを要請されたので、提供情報と受け取る対象者のニーズとの関係、広報と宣伝との相違、戦略的広報の考え方、ホームページの意義と意味など多岐にわたって自説を展開しておいた。営繕は造営と修繕の略語とのことだが、メンテナンスとか他のわかりやすい言葉を使うことも必要だろう。河川や道路、港湾などの部署とは違い、地味な存在なので悩みもあるようだが、係長クラスが真面目に取り組もうとする姿には好感を持った。NPO仙台インターネット推進研究会代表や、NTTファシリティーズの課長さんが一緒だった。午後は、(社)東北地区用金庫協会の総会で講演をする。場所は紅陽グランドホテル。東北各県の信用金庫の理事長さんたち40人が相手だった。テーマは「考える信用金庫職員を育てる」。杜の都信用金庫、宮古信用金庫、米沢信用金庫、仙南信用金庫の理事長さんたちとは名刺交換しながら挨拶を交わす。皆さん面白がって聞いていただいたと思う。テーマと内容は理事長たちを直撃したようで、反応も多かった。終了後出席した懇親会でも楽しく談笑した。仕事に生かしてくれると嬉しい。また、いくつかの信金にも宮城大の学生が入っていることもわかった。
2006/03/16
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いつの頃からか、先生は私にしきりに「研究者になりなさい」と勧めるようになった。企業に勤めながら本を書いたりしている私の動きを見ておられてそう勧めていただいていた。その頃はそういうことができるのかどうか半信半疑で聞いていた。その後、四十代の半ばになった頃、思いがけず宮城県の県立大学創立に当たって声がかかり、平成九年に早期退職して仙台で宮城大学に奉職することになった。このことを先生はことのほか喜んでくれた。そして、折に触れて、教育・研究のことや大学での役職の心得や処世術について学長経験者としての有益なアドバイスをいくつもいただいた。平成十三年に父(久恒照智)が亡くなった時は、弔辞を読んでいただいたことも忘れられない。父の数少ない友人として、父のことをよく理解された弔事は本当にありがたく思い、その内容はすべて私のホームページに入れてあり、時折読んでいる。(http://www.hisatune.net/html/05-career/private/titi.htm)以下、その一部を引用する。----------------------------------そのうち久恒さんは、生来持っていた向学の意欲おさえがたく、私たちの集まりにも出て、八六年(昭和六一年)からは「福沢諭吉を英語で読む会」に参加するようになった。この会は、福沢先生の唯一人の孫(当時)の清岡瑛一氏が、福沢の著書を英訳したものを学ぶ会で、まず福沢の教育論を学び、ついでに女性論を終え、十五年を経た今日は『福翁自伝』を輪読している。久恒さんは、始めて間もなく加わっていたように思う。やがて、約二十人の仲間たちは、会合のあるごとに、久恒さんの博学と見識の深さにひきつけられるようになった。だが、不幸にして、中途で突然脳こうそくにかかり病の床に臥すこととなった。その後は、夫人の看護を受けていたが、ときどき夫人の介助によって私の家にも訪ねてくれていた。私達のことばは十分に聞きとってくれていたが、みずからは自由に話すことができなかったことが残念であった。久恒さんは、もともと多くの書物を読破されていながらも寡黙で、かつ文章を発表することもきわめてひかえ目であった。その中で、夫人も編集委員として協力している同人誌「邪馬台」に二度だけ文章を寄せている。その一つは七三号(八四年冬号)で、他は七九号(八六年夏号)であった。実はこの二つとも私の著書と論文に関する貴重な感想であった。その中には、中国文学中最も難解とされている魯迅についてのものもふくまれている。それは矛盾多きがゆえに、それだけ深い人間性をもつ久恒さんでなくては不可能のことであるといえる。ここに私自身の文章にふれることは、いささかおこがましくもあるが、久恒さんの評論を今改めて読み返してみて驚いたことは、私の文について語っているところが、そのままご本人自身を語っていることである。文中にはしばしば私のことばを引用してくれているが、それらは、一つづつ久恒さんの人間理解の深さと広さをもって私の文の意味を補ってくれているとさえいえる。しかも久恒さんを知っていなかったということを教えられたのである。「人生、一の知己を得れば足る」という諺がある。まことに人間にとって、己を知ってくれる友を得るほど尊いことはない。これからこそもっと深いお付合いをしてもっともっと互に啓発してもらいたいと念願していた矢先、かけがえのない友を失ったということは、何という悲しいことであろう。久恒さんが役所でどんな生活をしていたかは、私はほとんど知らない。だが、少し立ち入ったことにふれることを許してもらえば、職場の中では、久恒さんの人間性をほんとうに理解してくれる同僚は少なかったのではないかと想像される。それだけに、その余命を十分に花咲かせてもらいたかったと思うのは私だけであろうか。だが人間の運命というものは、予め考えていたシナリオ通りに進められるものではない。人びととの別れもまた同じであろう。とくに肝胆相照らす人との出会いは、それ自身すばらしいことだが、別れることは、それにも増して何と苦しいことであろう。------------------------------------------------------------------------平成十六年に、先生の九十歳の卒寿のお祝いの会が中津で催され、私も仙台から駆けつけた。そのとき先生は一時間ほどの講演をされて、その中で長寿の秘訣のようなものも話された。それは、仕事や人との交際を続けること、そして軽い運動と適度な飲酒というようなことだった。当日、新刊本「福沢諭吉 その発想のパラドックス」(梓書院)を参加者に配ったのには心底驚いてしまった。九十歳で著作を世に問うということの凄みを感じた。かくありたいものである。その記念講演で「丸山真男君らと一緒に研究会をやっていた」という君づけ発言があり、丸山氏よりも年上であるということも大変驚いた。丸山真男といえば日本の政治学の最高峰で、私自身すでに歴史上の人物として認識した。横松先生は、一九一三(大正二)年生まれだが、激動の二十世紀を生き抜き、平成の世の中のいま、高い峰にあって見晴らしよく歴史の流れをみているのだと感銘を受けた。当日のお祝いの会には中津の各界の名士が多数参加されて、その影響力の大きさを改めて感じることとなった。この会では思いがけず乾杯の挨拶を頼まれた。『人間の偉さは、人に与えた影響の大きさの総量で決まるのではないか。横松先生は、広く影響を与え、深く影響を与え、そして卒寿のお祝いの会が示すように今日まで長く影響を与え続けているから、もっとも偉い人である。先生が中津にずっと留まったことは先生ご自身にとっては良かったかどうかはわからない。しかし中津という町にとっては明らかに僥倖とでも言うべきことだった。今後もお元気で自伝の続編の「昭和から平成へ」を書いていただきたい』と挨拶をした。昨年(平成十七年)の秋に中津に帰る機会があった折、母とともに金谷の新居に先生を訪ねた。体調が思わしくないと聞いていたが、当日はややお疲れの様子はあったものの、いつものように話の輪に入ってくださり、夕刻になった帰り際には玄関の外までわざわざお見送りいただいた。それが最後のお別れという予感が私にはあった。先生ご自身もそのように感じておられたのではないだろうか。そして先生は十月に永眠された。私は仙台から弔電を打った。『横松先生のご逝去の報に接し、巨星墜つ、の感を深くしております。先日の帰省の折に、母ともども先生の謦咳(けいがい)に接することができましたが、今となっては最後のお別れができたとの想いがあふれております。奥様には、心からお悔やみを申し上げます。遠く仙台より先生のご冥福をお祈りいたします。』先生は私が中国東北部の吉林大学(長春市)の客員教授になるなど中国に関心が傾斜していくこと、福沢諭吉を中心に中津という町に関心が深まっていくことを喜んでおられたように感じている。先生はさまざまな文化活動を実践したが、素晴らしいのはそれぞれの分野に後継者を育て上げたことだろう。包容力があって暖かい人柄の先生の市民への教育活動は、「塾」のような趣きがある。先生に薫陶を受けた多くの「横松塾」の塾生の存在は、文化の香りを強みにすべき中津という町にとっては、かけがえのない大きな財産だろう。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」とは福沢諭吉の偉さを語った当時の人々の言葉だが、横松先生は同じような存在だったのではないか。私はここ一年以上、主として明治生まれで、明治から大正、昭和にかけて各界で活躍した人物を顕彰した人物記念館を訪ねる旅をしている。具体的には明治維新の前に生れた後藤新平から大正生まれの司馬遼太郎までというイメージだが、大分県では、朝倉文夫・瀧錬太郎・重光葵・広瀬武夫といった人物群である。全国各地を訪ねてみると、風土が育んだ人物を風化させることなく、その仕事や精神を地域の財産として残そうとする動きも多いように感じている。金谷の居宅の隣に建った先生の研究生活を支えた蔵書を収納した重厚な書庫は、中津の文化の光を消さないために、横松宗先生の点した松明(たいまつ)を引き継ぐための基地として残す手立てをいずれ考えるべきだろう。
2006/03/15
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大分県中津市の「文化総合誌」を標榜するこの同人誌(季刊)は創刊以来この号で158号を迎える。30年にわたってこの地の文化の発展を導いてきた。内容は豊富で、評論、ノンフィクション、翻訳、詩、漢詩、旅行記、随筆、研究、川柳、短歌、俳句、連句、創作などが毎号を飾っている。故郷の匂いがするので、毎号読んでいる。今回届いたのは、昨年92歳で亡くなった横松宗先生の追悼号だ。32名の人たちからの追悼文が載っている。読んでみて改めて横松先生の偉さを感じた。私は「宿命を使命にかえて」というタイトルで8頁の長い追悼文を書いた。以下、2回に分けて転載し、いつでも自分で読めるようにしておきたい。----------------------宿命を使命にかえて横松宗先生と初めてお会いしたのは英国のロンドンだった。昭和五三年か四年だった。当時私(昭和二五年まれ)は日本航空の派遣員としてロンドンヒースロー空港に勤務していた。私はまだ二十代だった。あれから既に四半世紀以上の時間が経っているから、当時の先生は六十代の後半だったことになる。中津在住の父や母からの情報で横松先生の学識や人柄については既に知識があったから、初対面という感じはしなかった。郊外のウインザー城を案内したり、ロンドンで観劇や食事をしたりして、当時の英国事情や私が関心を持っていることをお話した記憶がある。夜になって食事を済ませた後、私のボロ車が動かなくなって、先生に押してもらう羽目に陥った。「航空会社にいるのに自動車の整備が悪い、あれで腰が悪くなった」とおっしゃっていたと後で聞いて申し訳なく思った。帰国後、ほぼ同時期に結婚した私と弟の中津での披露宴にお招きした時、先生からは「なんだか、恩師になったような気がするなあ」との言葉をかけてもらった。東京勤務の私は年に数回、帰省する折、父や母と一緒に横松先生ご夫妻を訪問することが決まりのようになっていった。父はなかなか語り合う知己を持てない人だったが、横松先生とは肝胆相照らす仲だったようだ。一度父が「横松先生が、お宅のお子さんは気宇壮大でいいですなあと言ってたぞ」と愉快そうに伝えてくれたことがあって、恐縮したおぼえがある。毎度、訪問する度に、中津の歴史、中国や魯迅研究のこと、時事問題に対する考え、人物論、福沢諭吉論などを聞いて、その学識とものを見る眼に、私は自然に熟成するように尊敬の念を抱くようになった。私は高校卒業と同時に中津を出ているから、中津という町のことは何も知らなかった。先生との交流の中から、福沢諭吉への関心が湧いて福沢諭吉協会にも入ったり、多くの偉人の出た郷里・中津という町の不思議さなどに目が開かれていった。このことはいくら感謝してもし過ぎることはないと思っている。先生は「大正から昭和へ---恐慌と戦争の中を生きて」(河出書房)という自伝を昭和六四年に上梓された。私は「魯迅--民族の教師」(河出書房新社)という先生の著作も読んで、四半世紀以上の歴史を持つ中津の優れた同人誌「邪馬台」百一号に「福沢・魯迅そして横松」という小論を書いた。以下、その一部を引用する。--------------------------------------------------------------------横松は福沢を高く評価する一方で、その限界にも言及している。しかし、明治という時代の中で生きる福沢の限界には優しい目で対応している。横松は批判的精神の旺盛な人物であるが、本人が背負う組織などの制約や生きる時代の空気、時節の中にある限界などには暖かい目を向けている。福沢の場合も時代の子である部分、後世において批判の対象となった言説、行動などについては、それもある程度仕方のないものとして容認する度量を持っている。横松が福沢にひかれたのは、福沢は学者は政権に従属すべきではなく、むしろ政治の指導と診断に当たるべきだという信念をもっていたことに共感を覚えたからであろう。横松は、権力というものに常に深い懐疑を持っている立場を補強する考えを、福沢の著作に見出したからである。そういう意味では横松は自分の人生を福沢に重ね合わせているといえよう。福沢にとっての中津への郷土愛と較べると、横松の場合はその深さが深刻であることは間違いないであろう。十七、八才まで中津で育ったという点では同じだが、生涯を通して七回しか中津に帰ることのなかった福沢と、その後四十年以上にわたって郷土の政治、思想、文芸、教育などにかかわった横松とは愛憎の深さが違うと思う。自分を育てた郷土への愛着とそしてそれ以上に自分を絡めとっている郷土への憎悪の量はケタ違いにおおきいと推測できる。その横松は郷里から脱出できない横松自身の生き方の回答を、福沢や魯迅の著作や実践に求めようとしたのだと思う。横松がこの本の中で指摘している福沢の原点ともいうべき「郷土愛のパラドックス」は、より以上に横松に当てはまるキーワードなのである。また、横松は自身の思想形成に大きく影響を与えた二人の巨人、福沢と魯迅の共通点を『魯迅--民族の教師』(河出書房新社)の中で次のように指摘している。魯迅の故郷である紹興と中津は社会環境が酷似していた。水田工作の田園的風景に囲まれた旧い城下町。そしてその中で、封建的人間関係の強く残っている旧い街並み等など。魯迅にとっての紹興はふる里であり中国そのものであったのと同じように、福沢にとって中津はふる里であるが、それはまた日本そのものであったのである。そういった育った社会環境に加えてさらにふたりの共通点として合理的科学精神をあげている。それは個人の自覚、個人の確立に大いに関係がある。また官僚主義反対という点でも両者は符節を合している。まさに魯迅と福沢は横松の鏡である。横松の自伝『大正から昭和へ』(河出書房新社)には、『福沢諭吉 中津からの出発』(朝日新聞社)で述べている福沢論を説く鍵があるように思う。中津の山国川と金谷の土手、白堤防、水源地を愛する横松、気分のふさいだ時など、寸暇をみて金谷の土手のクローバーの上に仰臥する若き横松。こういった環境は私たちの時代(筆者は昭和二五年生まれ)とはすっかり変わってしまったと聞いてはいるが、同郷の私にも同じような体験がある。この本には実際に中津で育った者として望郷の思いを強くする記述がちりばめられている。この『大正から昭和へ』は、大正デモクラシー、軍部の台頭、太平洋戦争などが横松の人生とオーバーラップしており、まさに生きた大正史、昭和史という内容になっている。驚くべきことにこの本には書物や歴史の中に登場する偉人・賢人・豪傑などがきらめくように多数登場する。歴史上の人物が横松の人生行路にぞくぞくと現れてくる。この書を読み終えて、私は大正から昭和の時代を横松という一人の知性と一緒に旅した気持ちになった。読者としての私は、横松を通して中津を中心に歴史の中を紀行しているという感慨を持った。歴史というものは本来こういう学び方をすべきものだろう。大正から昭和にかけての激動期に、これだけのひとかどの人物達に会いまくった横松には感嘆するのみだが、本人も言っているように「何でもみてやろう」という野次馬精神が旺盛な人である。書物で考え方を知るだけでなく、実際にその人に会うことによって理解をきわめようとする好奇心多き態度は参考になる。自分と異質の人物、はるかに優れた人物と会い続けるには多大なエネルギーが必要であるから、その総量も横松の場合多いのであろう。その意味で横松の学問は書斎主義と現場主義を兼ね備えているのが特徴であると思う。自分より優れた国はないという不遜さが見えかくれする国家としての精神の鎖国、知的怠惰にも警鐘を鳴らし続ける横松の原点には、このような精神と行動がある。また、同時代の人物だけでなく、ありとあらゆる書物をひもとき過去の時代の偉人や思想家と対話し、エッセンスをコンパクトに説明してくれている点もこの本の価値を高めている。横松は自分の信念と相反することに煩悶をいだきつつ、しかしその中で自身の考え方を通していこうとする。常に自分の環境を利用、活用し知識を増やし、本来あるべき姿を模索し続けている。横松は中国大陸においては侵略者の側に結果的に手を貸すことになるのだが、福沢の晩年における朝鮮、中国への強硬姿勢、日清戦争への支援などの行動は、時代の背景や空気、限界を考慮すべきであるといっている。福沢の脱亜論の弁護は、自身の弁護でもある。同人誌の使命は商業ベースをはみ出したものの中にいい質のものがあり、そういうものを育てることにあると横松は自伝『大正から昭和へ』の中で語っている。横松が四半世紀の歴史を持ち百号を迎えた地元の同人誌『邪馬台』に力を入れているのもうなづける。このすぐれた同人誌への関わり方は横松の中津への関わりかたの一つの象徴でもある。また、横松は、数年おきにあらわれる飛躍のチャンスを自分以外の要因のため見送ってきた。可能性をひたすら捨て続けた人生であったといえよう。まことに無念であろうと思うと同時に、その環境の中でもくさることなく精進、努力した点は見習いたい点だ。それは人間・横松宗の特徴でもある。「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした。」と横松は自伝の中でその真情を吐露しているが、ここに横松の壮絶ともいえる心構えが見て取れる。人間の一生は短い。しかし、その人間の書いた文章の寿命は長い。その寿命を信じて横松はこのような表現をしたのであろう。書物を著す目的は、人のためではない。自分の疑問点を晴らすため、自分と対話するため、自分を説得しあるいは自分で納得するために書くのである。私は『魯迅』『大正から昭和へ』『福沢諭吉 中津からの出発』という三つの横松の著作を読む中で改めてそういう思いを強くした。今大きく地殻変動を起こしつつある世界、ひとり繁栄の極みにありながら歴史への参画にためらいを見せている日本、そのような状況の中で「福沢が生きていたら大正、昭和(そして平成)を何と見たか」という横松の問いは、いまこそ大きな意味を持つのである。――――――――――――――――――――――――――――――この小論を先生が読まれて「自分をこれほど理解してくれた人はいなかった」と、当時住んでいた千葉の家に電話までもらったことも思い出深い。以下、続く、、、。
2006/03/15
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古川市のグランド平成で今年度最後の審議会(会長をしている。二期目)に出席。テーマは「平成17年度産業部農業振興課所管事務・事業に関する評価」だ。所管の13事業について評価(事前評価)と評判(関係者インタビュー)をあわせた総合評価を検討した。この仕組みは一期目の審議会でつくったもの。「正確性を追求したものではない。不完全なもの」「近似値である」「市民の解りやすさとシステムの簡易性」がモットーだ。生産振興対策は稲作・畜産・園芸の3分野で構成されている。結果は以下のとおり。政策のプライオリティづけを行って、財政悪化に対応しようとする考え方だ。1位:園芸作物銘柄確立対策事業 4.8(5点満点)2位:水田農業構造改革事業 4.73位:畜産総合対策推進事業 4.54位:農業高齢者肉用牛貸付事業 4.35位:青果物価安定生産対策事業 4.36位:家畜防疫事業 4.17位:農作物安定生産対策事業 4.08位:経営改善支援体制整備事業 4.09位:地域食材普及推進事業 3.910位:地域農業整備促進事業 3.811位:環境保全型農業推進事業 3.712位:森林管理経費 3.513位:特産農産物普及支援事業 3.2審議終了後、「経営所得安定対策等大綱」、つまり「売れるコづくり」を目指したコメ政策改革推進対策の担い手支援(認定農業者・集落農業・生産組織)の概要の説明と質疑を行った。その骨子は「諸外国との生産条件格差是正対策と収入変動による影響緩和対策」。またWTOは生産の拡大に直接結びつかない政府による支払い以外は削減対象とするという方針をとっていること、その中身は「公的備蓄・災害救済・経営所得安定対策・地域政策」というもの。つまり貿易歪曲的な効果がまったくないか最小限であり、且つ、生産に関係しない所得支持(直接支払い等)は削減の対象外。生産制限計画に関するものや個別品目に対する支払いはWTOの理念(free/fair/global)にもとづき削減対象とするという方針。
2006/03/14
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13日の朝刊。仙台市長選、宮城県知事選をテーマに各候補者のマニフェストを図解し、候補の政策の優劣を論じたゼミ生の報告書が記事になった。見出しは以下。「昨年の仙台市長選、知事選」「勝因はマニフェスト」「宮城大久恒ゼミ」「公約を図解化 各候補分析」「梅原氏 バランス良し 村井氏」「宮城大顧客満足ゼミの学生が作成した梅原市長の政策目標の図解」の写真。
2006/03/13
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後期の入学試験の日。少々寒かったが、天気はよく混乱はなかった。入学試験関係は、推薦入試、留学生・社会人特別入試、大学入試センター試験、一般選抜前期試験、一般選抜後期試験とあり、今回の後期で終り。毎回、教員総出で行う大きなプロジェクトだ。来年度、4月4日の入学式ではどんな新入生が現われるだろうか、楽しみだ。
2006/03/12
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東中野のテラハウスで理事長をしているNPO法人知的生産の技術研究会の理事会と総会が行われた。理事会では、昨年度の全体活動状況の確認、10の地方支部の活動状況報告、本年度の活動方針が討議された。総会では昨年度の活動報告と会計報告が承認され、本年度の方針と予算を討議してもらった。そして永年会員の表彰や新入会員の紹介が行われた。今回の総会では、研究会発足当初からの会員である笹崎さんが知研が自分の人生や自己啓発にいかに役に立ったかの発言や新たな提案があり、多くの会員からも転機となったなど同様の感謝の言葉や励ましの言葉をいただいた。笹崎さんは大学生で今年就職する息子も連れてきていて入会させるとのことだった。また、団塊の世代の会員からも積極的な発言が多かった。長い間、この研究会をやってきたことの意味や意義を改めて感じる素晴らしい総会となって、気持ちが高揚するのを意識した。35年前ほど前からやっている八木会長も喜びもひとしおだったろうと推察する。
2006/03/11
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「モノを書く」というテーマでの講演だった。ベ平連などの活動で小田実らと一緒に活動をしているなど、小中陽太郎先生は随分と昔から活躍されているし、ラフでおしゃれな服装だったので何歳なのだろうかと思った。1934年(昭和9年)生まれだからまだ70代の初めだった。話を聞いて思ったのは、小中先生はまだ現役のジャーナリストだったということだった。現在の肩書きは、日本ペンクラブ理事長、中部大学人文学部教授、メディア教育センター長。・何を書くのか。必然性が必要。それは職業が最大の納得性を提供できる。・なぜ今書くのか。自分の人生の関係が納得できるか。・師弟関係(弟子入りせよ)・応募・懸賞(トライせよ。下読みする人達がきちんと読んでくれる)・同人誌でも何でもとにかく自分で書くことが大事だ。記録し続けることがモノ書きの条件。どのようにして食うかとはまた別。書きたいもので食うことは難しい。職業上の技術は永遠である。・NHK出身だから映像に拘っている。・DVDを使った紹介。本の映像と音楽の組み合わせ。2次会で久しぶりにご挨拶。-------------------------------------------------------------以下、小中陽太郎先生の公式ホームページから転載。1934(昭和9)年、神戸市に生まれる。父は大分県臼杵市、母は兵庫県神戸市出身。幼時上海に育つ(上海の思い出や戦時中の特異な療養生活、NHKを経てベ平連に至る半生を、母の手記や日記を織り込んで小説『ラメール母』にまとめ、2004年6月平原社から上梓)。 1958年、東京大学フランス文学科を卒業、NHKテレビディレクターとなる。この間の経緯については『愛と別れ』(河出書房)、『王国の芸人たち』(講談社)、『不思議な箱のテレビ考』(駸駸堂)などに詳述。 ベトナム戦争中は、小田実らとベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)を結成。その後、東京のホテルから拉致された金大中氏の救出にかかわる(『私のなかのベトナム戦争』サンケイ出版)。その間、歴史、市民運動、教育問題などを題材にノンフィクションを発表する。初期の作品に『天誅組始末記』(大和書房)、『小説内申書裁判』(サンケイ出版)、『ぼくは人びとに会った』(日本評論社)などがある。さらに「11PM」などのバラエティー番組で軽妙な話術を披露し、野坂昭如らと「酔狂連」と称して昭和元禄の一翼をになう。 1983~4年フルブライト交換教授として、ニューヨーク市立大学ブルックリン校などで日本について講義する。のちフルブライト同窓会総会委員長。1990年、ニューヨーク市主催のフィランソロピー(社会貢献)のシンポジウムで、カーター大統領と共にキーノートスピーカー(基調講演)をつとめる。 源氏物語のコミック版を翻訳し(The Illustrated Tale of Genji, 新人物往来社)、これをもとに日米の文化比較を試みる(『異文化・非言語・グローバルコミュニケーション』平原社〉。翻訳では『エヴァの日記』(現在、岩波ライブラリー)、『蟻』『蟻の時代』(森隆と共訳、角川文庫)などがある。 日本ペンクラブでは梅原猛会長のもと専務理事として諫早湾締め切りなどに行動する。国際ペンでは日本代表として1999年のワルシャワ大会などに参加。 現在、テレビのコメンテーターとして論陣をはり、今年15年目の西日本放送「おはようホットライン」のキャスターをつとめる。市民の立場にたつ歯に衣着せぬ政治批判や21世紀の経営者の倫理を訴えて経営問題の講演も多い。他方、「スマステーション」で香取慎吾のゲストコメンテーターなど、幅広い活躍をつづけている。 また、アジア・キリスト教協議会議長、『信徒の友』編集委員長として活動、『こんなに面白い聖書の話』(青春出版社)、『今こそ平和を実現する』(日本基督教団出版局)などで正義を求める。 代表作である『青春の夢―風葉と喬太郎』(平原社)は、「昭和思想史の記念碑的作品」(加藤周一)と評価され、明治の戯作者小栗風葉とその甥小栗喬太郎(ドイツ共産党日本人党員)の運命を日本近代の歩みとともに描き切ったと称賛されている。
2006/03/10
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客員教授をしている中国・長春の吉林大学に3月末に行く予定で、今はスケジュールを調整している段階だ。その前後に杭州の日本企業での講演も入るかもしれない。日本企業に勤務する中国人管理職向けとということだが、配布資料を日本語で済ませるか、中国語にするか考えている。通訳の使い方、翻訳を誰かに頼むか、既に中国語で出版している拙著の内容を使うという方法もある。さてどうするか。
2006/03/09
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午前中は、ゼミ生の進級問題でバタバタ昼休みは、来年度の2年生のインターンシップに関する会議午後は、13時から、臨時学科会14時半からは、臨時教授会16時40分からは、臨時大学院教授会17時半からは、研究室で書類整理、学生と面談19時からは、今年度で定年の先生と他大学に移る先生の学部の送別会に参加
2006/03/08
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2003年に出した「図解で考える 40代からのライフデザイン」(講談社プラスアルファ新書)の韓国での翻訳出版の書籍が届いた。新書版ではなく、通常の単行本と同じ大きさだ。ハングル文字なので何が書いてあるか全くわからない。わかるところを探すと。表紙にある「Make a life plan with diagram in the forties」という解説風の英語と、著者名に括弧して私の名前が日本語で書いてある部分のみだ。中国や台湾での翻訳出版は、漢字なので内容もある程度はわかるが、ハングル文字はアプローチを拒否された感じになる。韓国では翻訳中の本は後7冊ほどあり、この本を皮切りに翻訳本が次々と届く年になるだろう。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/ichiran.htm#honyaku
2006/03/07
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久しぶりのハワイだが、不動産バブルと交通渋滞が印象的だった。アメリカの景気がずっといいので、本土からの旅行者や滞在者が多く、物件は不足気味。同行した友人がロングステイのコンドミニアムの見学をしようとしたところ、お客が多く要望に応えられないかもしれないとの返事だった。またワイキキでマンションの価格を聞くと、2ベッド(100mくらい)で5000-6000万円もするとのこと。12月の統計では、ハワイには65万人(昨年対比5.5%UP)が訪れて、そのうちアメリカ国内からは45万人(5.7%UP)、外国からは20万人(4.9%UP)そのうち14万人(1.9%UP)が日本人だった。また12月11日に行われたハワイ・ホノルルマラソントレディス・デイ・ウオークは、参加者の総消費額は1億ドルに達し、州税は440万ドルにのぼっている。26426人(4.5%UP)の参加者のち日本人は82%。日本人は他の地域の参加者より一日あたり100ドル多く消費するという数字も見かけた。交通渋滞は凄まじい。郊外からワイキキに通う4車線の道路も朝5時半からラッシュが始まり、延々と続く。まさに地獄だとのこと。人口は確実に増加しているのだが、公共交通機関がないのが原因である。今年中にモノレールか電車かの建設を決めるだろうとのことだった。この面では「天国に来たら地獄だった」ということだ。しかし、そうはいってもハワイは高齢者のパラダイスだと改めて感じる。天候、海、ショッピング、レストラン、、、。滞在中、ビジネスマン時代の同期入社のY君とその家族に偶然会った。地方の支店長を終えて本社に戻ったところ、脳梗塞で倒れ退社したと聞いていたが、割と元気だった。6日の夕刻、成田に到着。仙台へ。
2006/03/06
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休暇を数日とってハワイで遊ぶ。2回ほどゴルフを楽しんだ。-------------------------------------------------------コオリナゴルフクラブ 先週、日本の星・宮里藍や横峰さくら(11位)が参加した雨リア女子ツアーのフィーリズ・オープンが開催されたコースである。コオリナはてんとう虫の意味。一緒に仙台から行った私の師匠の富田さんと、向こうで合流した野田先生と会社経営をしている先生の3男の豊さんの4人でプレー。海に近く、コースを回っていると入江や小さなヨットハーバーを見かける。家々がコースに迫っていてミスをすると打ち込みそうになる。こういった家々は8000万円とか1億円するとのことだ。コースの周りには日本では見かけないヤシの木が立っている。美しいこのコースはJALが開発して持っていたが、その後マリオットが所有する。電動カートにはすべてGPSが付いており、コースの全体像とピンまでの距離が示されていて安心感がある。英語と日本語の両方の表示がある。アウトを終わって売店で食べ物を買うと、ハムと米を海苔でまいたおむすびがあり、おいしく食べた。藍ちゃんがダブルボギーをたちた18番ホールを終えると強烈な雨が降ってきた。間一髪だった。靴は日本から持っていったが、貸しクラブを借りる。デカヘッドのドライバーはよくあたった。今年買ったニューゼクシオの460CCを試すのが楽しみになってきた。今年は雪にたたられてまったくプレーしていないわりには私としては満足のいくスコアだった。記念にハットタイプの帽子を買う。----------------------カポレイ・ゴルフクラブ 向日葵(ひまわり)がモチーフのゴルフ場。10番から出たのだが、水を満々と湛えた池と手入れの行き届いた緑が実に美しい。富田さんはティーグランドからの景色を見て「今まで経験したゴルフ場の中で最高です」と感激している。このコースはオーナーも総支配人も日本人だった。当然のことながら日本人ゴルファーが多い。この日は富田さんと二人でゆっくりプレーをする。全てのホールが、グリーンとティーショットしたボールの落下地点をティーグラウンドから確認できるし、アンジュレーションのある手入れの行き届いたパスパラム芝のグリーンも素晴らしい。5つの池が目を楽しませてくれる。1994年にオープン。1996年から2001年まで米LPGAハワイアンレディーズオープンが開催されたコースでもあり、オアフ島のベストコースの一つだ。全カートに最新鋭の日米両語表示GPSシステムがついており、距離が正確に表示されるし、画面も美しい。景色に見とれて戦闘意欲がわかずアウトは少し叩いたが、インは持ち直した。こちらの貸しクラブはキャラウエーの通常の大きさのクラブであり、昨日ほどは調子はあがらなかったが、まあまあこんなものだろう。しかしコースの美しさは十分に満喫した。ここでも帰りにキャップタイプの帽子を買う。
2006/03/05
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ミズーリは米国最後の戦艦。第二次大戦中は太平洋を中心に活動。硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行う。この戦艦は昭和20年8月29日、東京湾で降伏文書調印式が行われたことで有名だ。マッカーサー元帥率いる連合国に対し、日本側は重光葵全権率いる日本政府代表団との間での調印式である。ミズーリ号の降伏文書には、政府代表重光葵と日本皇軍代表梅津美治郎代表のサインがあった。当時、重光は外相、梅津は参謀総長だった。この二人とも大分県人である。重光は国東町、梅津は中津出身。マッカーサーのサインの後には、米国、中国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表のサインがみえる。2番目は中国だった。あの戦争は太平洋戦争でもあったが、大東亜戦争でもあったのだ。真珠湾攻撃より10年前の1931年には満州事変が起こっていた。日本は中国にも負けたのだ。降伏文書(instrument of surrender)には、We hereby proclaim the unconditional surrender、、、とある。艦上にある降伏調印式等の様子がわかる椅子の配置や降伏文書の掲示など、日本降伏時の様子には興味をもってみた。昭和25年にはミズーリは朝鮮戦争に出動し、昭和30年に最初の退役。昭和61年には470億円をかけて搭載した最新兵器を備え、平成3年にはなんと湾岸戦争にも出動。1月17日には最初のトマホークミサイルを発射している。平成4年に退役、平成11年、戦艦歴史博物館としてホノルルで一般公開される。この戦艦の命はずいぶんと長い。全長270m、最大幅33m、58,000トンのミズーリの中を周回する。まるで迷路のようだ。射程距離37kmの口径40.6インチの主砲はさすがに迫力がある。
2006/03/04
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久しぶりのハワイ。アリゾナ記念館は訪問したことはあるが、観光客が多く混んでいて沈没した船を跨ぐように建てられてた独特のデザインの記念館は見れなかったが、今回は見学ができた。まず美しく整った庭園と噴水のある中庭を囲むように建てられたアリゾナ記念館見学センターを観る。戦艦アリゾナは1941年12月7日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃で沈んでいる。オーディオサービスがあり、日本語で館内の掲示物の解説をしてくれる。アリゾナ号模型、攻撃模様などがあるが、この真珠湾攻撃の指揮をとった山本五十六大将と攻撃隊の南雲忠一中将の写真が貼ってあった。ハーバードで学びワシントン駐在経験がある山本はアメリカ人とその戦い方を熟知しており、工業力の底力もし知っていたとある。そして山本は当初は日米開戦に反対であったが、陸軍に牛耳られていた政府の圧力に抗しきれずに、遂に真珠湾奇襲作戦の強力な指導者となったと買った解説書にも書いてあった。山本五十六大将にはやや同情的な書き方だった。真珠湾攻撃の様子をまとめた映画を観た後、桟橋から船に乗り込み、アリゾナ記念館に向かう。アメリカ人がほとんどで日本人はいない。戦艦アリゾナの沈没した艦体の上にまたがったデザインであ建物に移る。中央が下がっており、両端があがっている。中央は敗北による気力の喪失、両端は勝利による気力の上昇を示している。アリゾナの遺体の回収はあまりにも大きな危険が伴ったため断念され、艦体の引き上げ作業も中止となり、1177名の乗組員のうち1102名は未だに艦内にある。そのため真珠湾攻撃で命を奪われた全将兵を弔う記念碑となった。中央部分からはアリゾナ号の砲台跡が海面に出ている姿を見ることができる。エントランスの反対側には戦没者の全氏名が掲載されたプレートをみることができる。訪れるアメリカ人のカメラはソニーなど日本製が多いのは時間の経過を感じさせる。
2006/03/03
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「ビジネスデータ」の連載ーー3月号に掲載---------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーー手帳の電話番号簿を眺めてみると、仕事の関係者や友人たちの勤務先・名前・電話番号・e-mailアドレスなどがずらっとアイウエオ順に機械的に並んでいる。この表を見ていると、様々な想念が頭をよぎる。この人とは長い付き合いだなあ、あの人とはここしばらくは疎遠になっている、この会社の業績はあまりよくないと新聞に出ていた、、、、。自分は自分をめぐる人々と多彩な関係を結びながら生活をしているのだと思い当たる。中略問題解決とは、問題をめぐる人々との関係の再構築といった面がある。先手をとって、悪い関係をゼロの関係に、ゼロの関係をプラスの関係に、良い関係をさらに良くしていくことが求められる。しかし人や組織との関係は同列ではない。太い関係と細い関係、貸しと借り、自分との相性の良さ・悪さなど様々である。人間は様々な「関係の糸」の中に浮かんでいる存在なのである。中略この関係の糸はしばらく放っておくとだんだん細くなってしまう、またコミュニケーションをとればとるほど細かった糸がしだいに太くなっていくという性質を持っている。そして、この糸は生きていて、その太さ、色彩、強度などが常時変化しているという性質もある。私たちはそういう複雑な関係の糸をたぐったり、緩めたりしながら日々何とかその時点での安定を保っている。これは、人と人の関係、組織と組織との関係、国家と国家との関係(外交)も同じである。後略
2006/03/02
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日本経済新聞社は本紙(日本経済新聞)のほかに、日経マーケッティングジャーナル(日経流通新聞)と日経産業新聞を出している。本紙は愛読紙だが、時折この2つの新聞を手にすることがある。日経MJは世の中のトレンド分析に優れており、日経産業の方は新製品情報が豊富である。日経産業新聞には「ビジネススキル」面があり、日々の仕事や自己研鑽に役立つノウハウなどをわかりやすく紹介している。明日3月2日(木)には「図解」に着目した大きな記事が出る予定だ。東京で取材を受けたが、取材時につくった図解メモやスケジュール表などが掲載されることになっている。どのような記事に仕上がるのか楽しみだ。
2006/03/01
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