JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.09.12
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カテゴリ: JINさんの農園
【綾瀬市歴史散歩 目次】


「バラ園」の案内板に従い、木製の階段を下る。



階段途中にあった「東屋」風の建物。



更に階段が続く。



そして「バラ園」へ。



バラの花は既にほぼ終わっていたが・・・。



「ロイヤルバシィーノ」



近づいて。



「トゥールーズロートレック(Toulouse Lautrec)」







「ビバリー(BeveIy)
豊かなニュアンスのピンク色とフルーティな香りに恵まれた品種。第さに強い。」



「ピース 四季咲大輪種」。



「ラセビリアーナ」



こちらが「バラ園」の正門。



9月の半ばからまた花が見られるとの案内が。



そして住宅街の道路には綾瀬市の雨水マンホール蓋が。
市の木「ヤマモミジ」を描いたマンホール蓋。



こちらは汚水マンホール蓋。
市の花「バラ」を描いたもの。



そして「目久尻川」。

一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れて
くるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。
一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々は
この河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、
この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。

あしらわれているのだと。



そしてこちら側にも大きな「城山公園」の駐車場があった。



こちらが、裏側(南側)の「城山公園」入口。



そしてこちらにも「城山公園案内図」が用意されていた。



「日本庭園」もこの奥にあった。



そして再び「桜の広場」に向かって竹林の中の階段を上って行った。



坂の先に「桜の広場」が見えて来た。



「桜の広場」のニ段下の遊歩道横にも「案内板」が。



「腰郭と竪堀
早川城跡西側の斜面からは、腰郭と呼ばれる防御施設が2ケ所発見されました。
腰郭とは、斜面を人工的に切り崩して平坦面を作り出したもので、敵の侵入を見張り、
いざ敵が攻めてきたときには、第一線の防御施設として機能していたものと考えられます。
早川城跡の西側斜面は、東や南側の斜面に比べ緩やかであり、外敵が侵入しやすい地形です。
このため、要所に腰郭を配して敵に備えています。早川城跡では、いずれの腰郭からも柱穴が
発見されており、小規模な建物が建てられていたようです。
竪堀とは、城郭の斜面に直交して掘られた堀のことをいいます。要所、要所にこうした竪堀を
設けることによって、敵の進入を防ぎ、より堅固な防御施設を作り上げています。
早川城跡では、北側堀切の両端部、及び南端部からこうした竪堀が発見されました。
南端部の竪堀内からは、当時の貨幣として使われた渡来銭(中国の銅銭)が出土しています」



歩いて来た竹林の道を見下ろす。



そして再び階段を上る。



ここが「桜の広場」の1周できる遊歩道。



東側にも城跡が拡がっていた。



遊歩道の反対側にも案内板が。



「1号柱穴列から出土した火舎片
平成三・四年度の発掘調査の結果、早川城の北西部の斜面に段切して作られた腰郭に
掘建柱建物の柱穴列がみつかりました。
柱穴は全部で5つで、その内の4つは直径が50cm・深さが70cmあり、建物の主柱用の穴で
あると思われます。早川城の関連施設の一つで、見張り小屋的機能をもった建物跡と思われます。この柱穴列の箇所より、かわらけとともに瓦質でできた火舎のロ縁部の破片(口径42cm)が
出土しました。火舎とは火鉢のことです。ロ縁の部分には二本の沈線の間に押印菊花文が
珠文帯がめぐっています。このうな特徴から一四世紀ごろ(鎌禽時代後期から室町時代の前期)作られたものと推定されます。中世の出土遺物が少ないなか、早川城の成立を解明していく上で
貴重なな遺物の一つです。」



「縄文時代の城山
早川城跡の発掘調査では、早川城が造られる以前の縄文時代や古代における生活の様子も
明らかになっています。台地平坦部からは約5,000年前にあたる縄文時代中期の竪穴住居址二軒が
発見されました。いずれの住居も使用後ごみ捨て場として利用されており、多量の土器や石器が
出土しています。出土した土器は「勝坂式土器」と呼ばれる、関東地方の縄文式土器の中で最も
装飾性に富んだ土器で、土器に施された文様から、縄文人の創造性の豊かさを知ることができます。
台地上にはさらに多数の竪穴住居址が存在するものと思われます。周辺には、早川天神森遺跡や
道場窪遺跡など、同時期の縄文時代のムラが隣接して作られており、当時、早川城一帯は、
豊かな自然に恵まれ縄文人にとってとても住みやすい場所であったことが想像されます」



「蓄霊之碑」。
「当綾瀬市は早くから県下でも有数な畜産都市としてその名声を博し 特に優良高座豚の産地
として知られ 現在では豚2万5千頭更に乳牛7百頭鶏17万羽の多きに達し農家経営に
寄与貢献していることは計り知れないものがあります
そこで幾多の畜霊の恩恵に思いをいたし永久にその霊を慰めるため会員並びに関係者の
特志により ここに その供養塔を建立したものであります」



斜面を下った場所には「遊具広場」があった。



斜面を利用した滑り台。





そしてここが東側の「城山公園」入口。
ここにも「早川城跡」案内板が。



再び「桜の広場」に戻るとあったのが「日時計」。



上部から見る。



「日本標準時を求めるには
緯度差による補正と均時差による補正が必要です。
日本標準時=投影された時刻ー経度による時間差ー均時差」と難しい内容が。
つまり
より正確な時刻を知るためには日時計の指す時刻を補正しなければならない。
と言うのは太陽が真南に来たからと言って必ずしも、(というよりいつもだが)12時になる
わけではない。原因の1つは経度の差である。東京と九州では東京の方が真南に来る時間が早い。
これは簡単に補正できる。複雑なのは地球の自転軸の公転面に対する傾きによるものと
地球の公転速度が一定でないことによるものであるようであったが・・・・。
「均時差」について勉強してみます。



そして、「早川城跡」の見学を終え、駐車場に戻り愛車に乗り込みホームセンターに向かう。
右手に「免許証交付窓口綾瀬出張所」があった。



そしてこの先の「綾瀬市役所前」交差点を右折。



そして「綾瀬中央通り」を南に進む。



そして行きつけのホームセンターに到着。



そして肥料と培養土を購入し帰宅の途についたのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・





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Last updated  2021.09.05 07:34:31
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