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トタンがせんべい食べて春の日の夕暮れは静かですアンダースローされた灰が蒼ざめて春の日の夕暮れは静かです吁!案山子はないか―あるまい馬嘶くか―嘶きもしまいただただ月の光のスメランとするままに従順なのは 春の日の夕暮れかポトポトと野の中に伽藍は紅く荷馬車の車輪 油を失い私が歴史的現実に物を云えば嘲る嘲る 空と山とが瓦が一枚 はぐれましたこれから春の日の夕暮れは無言ながら 前進します自らの 静動脈の中へです中也の初期詩篇ですから、やっぱりちゃんと書いておこうと、本をひっぱりだして来ました。ついでに、友川かずきの『俺の裡で鳴り止まないもの』を真似しながら、坂本弘道のノコギリのようなバイオリンの音を脳みその中に聞きつつ、今日の晩も食事は11時を過ぎそうなので、変換間違いのないようにゆっくり打ってみました。主人や息子の遅い日はこれ幸いに本に没頭したいのですが、網走五郎さんの本はまだ届きません。
2008.01.09
トタンがセンベイ食べて・・・だったっけ馬嘶くか・・・嘶くまい中也にそんな詩があったけど、あの歴史的旧家の大きな雨戸が、通りもしない窓を抜けて隣の家のトタン屋根の上に寝ていたのはどんな日の事だったのかしらんと、日溜りのなか、考えた。あれはどういう奇蹟か、ちっとも話しては下さらなかったから、時折思い出してしまう。中也の詩は春のなんとかいう詩だったと思うのだけど、犀星にも「はる」という詩があって、あれは本当に好きだった。「おれが詩をいつも書いていると、永遠がやって」くるのだけど、それはとても素早い奴で、掴まえられないのだ。十いくつかの頃、本を読んでると、時折、机の前を永遠が通るのを感じて、その時はハッとして額をあげるだけだったのだけど、その数年後にこの詩をみつけて、机の前で永遠を掴まえる真似をしてみたりした事があったのだった。私が唯一残そうと思ってる一枚の紙の一番最後にその「永遠」は書いた。「それを掴まえられるところに私は来たでしょうか?それはまだまだ遠いでしょうか?」なんて。あれからでも十年はたってしまった。子供の頃は綺麗な「志」みたいなものが自分の中にあったような気がしていたけれど、永遠がそこにあるって事は、志もそこに内包されちゃってるわけだから・・・。ま、いいか~。暖かさが笑みを運んでくる午後、山を眺める。こころざしおとろえし日は いかにせましな手にふるき筆をとりもち あたらしき紙をくりのべとおき日のうたのひとふし情感のうせしなきがらしたためつかつは踊しつかかる日の日のくるるまで こころざしおとろえし日は いかにせましな 冬の日の黄なるやちまた つつましく人住む小路 ゆきゆきてふと海を見つ 波のこえひびかう卓に 甘からぬ酒をふくみつ かかる日の日のくるるまで -三好達治-
2008.01.09
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