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「何の報いもない難儀な三年間をもつということはね、これは大した宝かも知れんと思っている」泥流に覆われた農地を、甦らせるために苦闘を続ける拓一。人類の罪があまりにも膨大で、その片付け作業は意味がないと思われるほど誰の目からみても絶望的な取り組みだった。でも、誰かがやらなければ、この先も泥流に覆われたままである。今日一日、泥流に覆われた木を一本動かせば、動かしただけのことはある。罪を取り払うことをあきらめてしまったら、罪はそのまま留まる。むしろ増える可能性はあっても、だまっていたら減りはしない。◇◇◇拓一と耕作の祖父母は泥流に飲み込まれて死んだ。人の為に生きた人格者であった。福島から北海道に開拓できてから貧乏して三十年にもわたって苦労を重ね開拓してきた土地。それらが泥流に覆われた。もはやこの地に一粒の米も実らないかもしれない。現実的にはそちらの可能性の方が強かった。それを拓一は、三年間報われない苦労であったとしても、祖父母の三十年の丹精をあきらめられないと土の開拓に汗する。まわりの反対をよそに、信じて打ち込んでいく。神様が苦労して創った天地世界に悪がはびこって、大洪水という天災によって義人ノア一家を除いて亡ぼしたという聖書の話を思い浮かべた。その拓一が思いを寄せている少女福子は、父の博打と酒による借金がかさんで売られた身となる。その父はシラフの昼間はおどおどした気の弱い男であるのに、ひとたび酒が入ると妻に対して殴る蹴るの暴力や癇癪がはじまる。娘を売ったのは、その父親の判断である。「どうして逃げなかったんだ」拓一が言う。それに対して福子が言う。「だって、親だもの」この場面は「泥流地帯」の方で繰り広げられた場面。納得が行かなかった。馬鹿な福子、私なら逃げるよ。この本を思い出した。「砂漠の女ディリー」父親が結婚市場でラクダ数等をくれるという男と十三歳の娘の結婚を決めてきた。娘に高値がついたと喜ぶ父。ある日、男が訪ねてきた。花嫁の顔が見たいと。男は60過ぎのおじいさんだった。父はラクダ数等と引き換えに十三歳の娘を六十過ぎの老人に嫁がせようとしていた。日々、食べることも保証されていない砂漠の遊牧民たちにとってラクダは生活を保証する財産であったが、娘は命がけで砂漠から足一つで逃げ出した。母が手助けした。後で母はどれほど父から殴る蹴るの怒りをかったかしれない。母もまた親の反対を押し切って結婚した経緯があった。が、親に背いた後の生涯は幸せが少しで、忍耐の方が多かった。娘は都会に出て社会的な名声を得た。好きな人と結婚し子ももうけた。が、幸せな家庭生活は長くは続かなかった。ソマリアで生まれたディリーというその人はナオミ・キャンベルとも仕事を共にした有名なファッションモデルとなったのだが、女性性器切除という忌まわしい風習によって苦悩した人でもある。その風習は間違いである。声を大にして叫ぶという運動を興した人でもある。やはり、これも原罪という宗教的な意味が絡んでいる。さて、「泥流地帯」の福子は、親から逃げ出さなかったのだが・・この現実はあまりに辛い。憤りを残したまま、「泥流地帯」は不完全燃焼のまま終わった。「続 泥流地帯」では、やっと希望が見え始めてくる。福子は廓で売れっ子になったことをいいことに、父の借金は膨れ上がり、一生働いても返せないくらいになっていた。廓から自由廃業を助ける公娼廃止運動の活動家の出現や、沼崎先生という医師の援助から、罪という泥沼から引き上げられる兆しを見せて終わっている。一生働いても返せない借金という後半部分のくだりに、借金=罪という方式が浮んだ。人は生まれた時にはすでに借金を背負って生まれ出ている。人はゼロから自分の人生を出発できるのではない。生まれながらにしてマイナスという罪の不安定な基盤から出発している。罪の泥流から人は一人では抜け出せない。救世主によって引き上げてもらわないことにはかなわない。拓一の田んぼに青い稲が出始めた。罪を支払う期間が終わったかのように。
2006年12月24日
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茶道の中にキリスト教精神が込められているというのは本当だろうか?そうかもしれない。とすると、茶道に対する見方はこれまでと大きく違ってくる。二畳、三畳、四畳半、六畳の茶室を掃き清める。床には掛け軸、置き物、花を活け、愛でる。そこは神様の祭壇の部分か。亭主と客の間には上下の隔たりはなく平等。悪いおもいを一切、茶会に持ち込んではならない。狭き門、ちいさなにじり口から、体をかがめて茶室に入っていく。大小の刀と、心の刀を置いて、入っていく。そこは天国の平安な世界がある。茶室とは、祈りの部屋である。◇◇◇数日ぶりでまた用紙に向っている。書くネタを考えたとき、・・思い浮かばない。読んだ本の感想文を書きながら、心の内を開けていく。タイトルにおける「その妻たち」を描いた部分が全体における前半部分にあたる。後半は、後の妻おりきがキリシタンになっていき、利休が秀吉の茶頭となり、側近として政治に関わり頂点に昇りつめ没するまでが描かれている。茶頭(さどう)という職は、茶の湯における師であり、「茶坊主」禅における僧にもあたるようだ。「オーラの泉」江原さんの前世が茶坊主だったというが、政治的にも関わっていたとされる、その地位、役どころの詳細を得たおもいである。面白いと思ったのは、利休が高めていった茶道の中に、キリシタンから影響を受けた部分が取り入れられていることである。広く利休の名が知れるほど、その地位や名声は頂点に上り詰めた。それを快く思わないものたちの妬み嫉妬が男たちの間で団結される。あげあしとりの策略、罠にはめられ追い込まれていく。時の権力者秀吉にでっちあげの噂を吹き込んで、癇癪を起こさせる。命乞いをすれば、死を免(まぬが)れたとされているが、あえて「ご機嫌取り」をしない選択を。妬み嫉妬されるところに、魔の手は侵入する。地位や名声、人にへつらわれ尊敬される心地よさ、成功の連続に、喜びすぎてはいけない。引き摺り落とそうと歯軋りするものの決意を強くするとは「呪い」に力を込めることである。悪は徒党を組む。人の妬み嫉妬を次々引き出し、一つの思いを大きく大きく膨らませていく。憎しみを増大させていく。その力は人を死へと、失脚へとおとしめていく。その報いをまた、呪ったものたちにも注がれるということを、まだその時は知らない。それが後半部分の男たちの妬み嫉妬である。後半は、「正妻」における妬み嫉妬の呪いが描かれている。その時代、力ある者の一夫多妻はまかり通っていた。能力ある男の印しとして公然と外に女を囲っていた時代の話だ。利休もまた、その男たちの一人であった。正妻お稲は、その多くを知っても心乱れることはなかった。が、夫の心、魂が「おりき」という女に奪われたという事実は、正妻という自分の立場を不安なものにさせた。その他の理由もありはしたが、夫の心を取り返せない、地位を奪われた不安は決定的なものとして、お稲を鬱病にし「呪い」に駆り立てた。利休とおりきの間に生まれた二人の子の生命力は弱々しく、正妻お稲の妬み嫉妬による「呪い」によってか、わずかに生きて、あっけない死を迎えことになる。その苦しみがきっかけで、おりきはキリシタンとなった。自分の罪、業が我が子にふりかかったとおもう。キリシタンは一夫一婦をよしとする。おりきは、お稲が亡くなるまでは利休と距離を持った。作者は、おりきという女を非常に美しい女性に描いた。しかも利発で聡明、夫の心を気分よくさせる気配り心配りのみごとさ。イメージがわかなかったが、先日の「オーラの泉」に出演されていた壇れいさんをみて、おりきのイメージと重なった。また、茶道の茶器のうつくしさ価値は、女性を顕わしている。美しさとは、内面と外面、両方に顕れるものなのである。正妻と妾、始めの女と後に登場する女。男の思いは、後に出会う方が現在進行形である。取り残された女、正妻という位置があるゆえに、また奪われた寂しさ苦しさは、どれほどの苦悩であることか。鬱病になり、妬み嫉妬、憎しみで心は暗く陰鬱となり、それが顔色や容貌にも表れるから、なおのこと夫は疎ましくなる。男の心は完全に冷えきる。正妻の呪いを受けて次々と我が子を失う妾の苦悩、いくら旦那様の心を注がれたとしても、人の心を踏み付けにした上で成り立つ関係、不倫の不安定さ、呵責はたえずまとわりついて離れない。一夫多妻の怨念は、男社会の人間関係に波及しているようである。罪のもともとは、男と女の夫婦の心が唯一絶対でありえるかどうかにかかっている。その前半を読んで、この世に生を受けている人は、正妻の腹から生まれたものという区分、妾の腹から生まれた区分に分けられるかもしれない。そんなことを思った。身近にお稲のような女性を知っている。彼女から妬み嫉妬憎しみを取り除けば、どれほど優秀な女性であり、尊敬を受ける女性かしれない。夫の浮気が彼女の長所を台無しにした。怨念という呪いを送り続けた。なぜか、女の子供が原因不明の病気、女じたいも幸福には決してなれない。晩年になって、ふいにその女の顔が見たくなった、タクシーを飛ばした。女は白ぶたのように変貌していた・・聡明な彼女の発言とは思えない表現。彼女もまた癌に犯された。心はすっかり魔の侵入を許した。猜疑心強く、子も夫も、彼女のもとから避難した。その夫は有名な食品会社のお偉いさんである。数年前、問題が発覚し企業は大きなダメージを受けた。社会的問題の背景には必ず淫乱がある。そこには妬み嫉妬憎しみ怨念がある。凡夫である人間は、その思いの支配から抜け出せない。利休の最後も、どれほど憎しみ怒りに襲われたことか。この世の常識とは全く違う価値観をもつキリシタンの教え。おりき「殿(秀吉)も所詮限られた命のお方。幾年か後には死なれるお方。けれども、デウス(天主)はこの世もあの世も統(す)べおさめられるお方にござります。それ故にりきは平安なのでござりまする」利休「なるほど。殿(秀吉)も所詮は亡びゆく身か。亡びゆく者に、わしは気に入られようとして、きゅうきゅうとしてきたのか。愚かなものよのう」愚かな人の思いは、その思いのまま霊界に行けば、その思いを乗り越えられないまま霊界でも思いの囚(とら)われは続くだろう。恨みを解いて欲しい人だらけだ。一人一人が神様という真の夫の愛にくるまれなければ。日中断食、断食が遺伝子の傷を修復する。私は祈る思いだ。一人一人の祖先に神様の愛を、教えを、お話してあげよう。
2006年12月24日
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昨日の朝、黒い服の話を書いたあと、Nさんが起きてきた。パジャマの上に黒地サテン風素材のジャンパーを着て部屋から出てきたのを見て、「あっ、神様の服!」と、その共時性に、神様が「へへ」と言っているようだ。 黒光りの素材の服に包まれると、人物じたいが浮き彫りに明瞭となる感を覚えていた。「千利休とその妻たち」(著・三浦綾子)ちょうど、利休が黒の茶碗を発案して出来あがったものを見て喜ぶ場面に遭遇していた。 23年前のお茶の稽古で、黒の茶碗でおうす頂いた場面が浮びあがる。黒に薄緑の抹茶はなんとも映える。五行によると、色は五通りとなる。色の三原色の赤青黄、プラス白黒。木火土金水、黒は水を顕わす。 少食と節制の人、Nさんの顔は澄んでいる。目も皮膚もスカッとしてる。仕事が終わってシャワーを浴びて夕ご飯の時の対面時、いつも感じる。この人ってほんとにすごい人だ。ある時、先にご飯を済ませてしまって、ぐだーっとしていた。 「えっ、よそおってくれないの?自分でやれって?」はっ?「寒い所から疲れて帰ってきたのに、自分でやれってかあ?」ん?Nさんが言うにはこうだ。男はご飯を、味噌汁を奥さんによそおってもらいたいのだ。 そこに喜びとか幸せ、安らぎ、癒しを感じるもの。りんごの皮をむいてもらい、とりわけてもらったりするのも、そういうことか。女の人のお酌をする意味を思い描いた。仏様にご飯をよそおって差し上げるの意味もこれか。(!) 仏様は供えたご飯を食べ消費するわけではない。仏様への食物のお供えの意味は、はやり人と人とのコミュニケーションに他ならない。生きている人間同士の食事の場も、気持ちのやりとりをするコミュニケーションのためでもある。 こんな簡単なことで、些細なことで喜んでくれるというのなら。はりきってしよう。朝、ご飯を炊いて仏様にお供えしてから出掛けた。一日とても癒された。気持ち良かった。書いているうちに、気が充実してくるのがわかる。 ◇◇◇ バス旅行では久々に顔を合わせる人もいて、咄嗟の言葉が「あ~ら、昔(10年前)と変わらない」「また、やせたんじゃない」「スタイルよくなったんじゃない」など。たまたま、今朝、美顔をして出掛けた為かもしれない。 顔がほっそり見えたのではないかと思う。それもあるが、日中飲み食いせずの新生活法のためもあるだろう。もはや3ヶ月が過ぎ行こうとしている。その影響はやはりあるのだろうな。水飲み法が違ってきた。 サプリメントの効果的な摂取の仕方が掴めてきた。摂り始めに比べて摂取量は1/6程度、経済的になったものだ。水少量を飲みながら食事の用意。食後に少量の玄米酵素。お腹の中で効果的に混ざり合う。 お腹に糠味噌タンクをつくっているイメージが沸く。材料を入れたあと、糠を少し足してやるの要領。その足す分の糠の役割が、玄米酵素のサプリメント。(またはビール酵母)一度に沢山を時々より、毎日ちょっとずつ。 白いコートを今年初めて着た感じが、去年の雰囲気とは違った気がした。水飲み法を変えたことの影響も大きい。5年前から1日水2リットルとはりきったが、その他のお茶や汁気も足すとオーバーしていたと思う。 今日の小旅行、お天気が良くて、いつも歩かない日差しの時間に歩いたり、緊張したり。一年に一回ずつ、これもまたサプリメントの効果かもしれない。毒出し促進法。精神タンクのエステ。汚れは出すべきときに出しておく。 帰りに図書館に寄った。紀野一義氏の著作数冊(「親鸞」など)、宮沢賢治「ひかりの素足」目を通す。「脳のなかの幽霊」「脳のなかの幽霊、ふたたび(見えてきた心のしくみ)」(著・ラマチャンドラン)を借りる。 母にパソコンで書いた日記風手紙を考えたのは去年の4月。ここのブログをはじめるきっかけ、意味づけ、動機づけとした。実現できなくきたが、その思いが熟成しつつある。私の日記の利点は神様と文字にするところ。 普段は忘れがちのところ、ここにきて、神様を口にすると、深い自分を取り戻せる。自分の存在意義があらたまる。やる気がおこる。生きる意欲。気づき、反省、一日のくぎりを整えられる。サプリメント効果。 神様を意識したいなら、親を意識しなければ、本当じゃないとくる。実体の生きている親に言葉がけをすることによって、見えない神様にもっと近づけると思うからだ。母親に語りかけるとは、神様への祈りに近づける。
2006年12月21日
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「人間ぬくぬくしはじめると、ろくな仕事はせぬ 追いつめられると 竜が玉を吐くように いのちを吐く」宗教家で美しい文を書く紀野一義さんの本を探してみようかと思い立つ。この短い詩は、23年前、私にある決断をさせた言葉だった。◇◇◇久々にいつもの精神的部屋に戻ってきた。気分。4日前、この日記再開と同時に私の運気は開きはじめていった。心がうれしい。補修授業、常にしんどく深く落ち込みつつも参加し続けてきたのだが・・昨夜は明るい気持ちで通せた。希望が見え始めて来た。3時間の続けざまの早い授業に誰かが言った。「頭がオーバーヒートしそうだ」皆もついていくのに必死の様子。私も遅れまいと、目をかーっと見開いて、血眼(ちまなこ)の顔の様相。背筋がピンと張る。それが、心地よかったりして。こんなふうに何かに真剣にキャッチしようと構えの姿勢も悪いもんじゃない。帰り道、夜風がきもちいい。ほのかな疲労感、じぶんにむけて「おつかれさま、頑張ったね、サポートありがとうございます」内なる人に向けてねぎらいの言葉が思いつく。仮眠から立ちあがり。今日はバスでの小旅行の日。楽しみにしていた。車窓から外を眺めつつ、ガス抜きが出来るこの一日は神様がくれたもの。今、出発に向けて心の準備を整えている。一昨日、H師に授業後、話しかけられた。話が終わったあとは、掃除当番だったのに、もう終わってた。「あなた、病は気からと思っているでしょう」というものだった。「そういう顔をしていたから」ああ、いつかの授業でそんな話が出て来ていたな。「それは間違いだよ。遺伝子にプログラムがあったんだよ」物理的説明が付け加えられた。ほんとにわかっている?という斜めに見る顔。私はガテンがいくものがあった。「氷点を旅する」三浦綾子さんの本を読んでいた時だったから。たしかに気の持ち様が問題で、女学校時代、綾子さんがリューマチで3ヶ月学校を休んだわけではない。教員時代を経て、気の持ち様が悪くて、13年間カリエスで寝たきりになった・・とは考えにくい。晩年のパーキンソンの病気も。神の前にこれほどの貢献をなした方であったのだから。DNAのプログラムという見方は納得がいくものがあった。「いま、うつになる人も多いですから」「それも遺伝子のプログラムから来ているものだよ」私はピンとくるものがあった。私の傷官星の病理の意味。(なるほど、プログラムによるものだった)私の家系図における、知り得る傷官星の人々、その人たちも、そのプログラムが、以前から準備されていた人生だった。誰のせいというものではない。病気、健康という概念は人間がつけたもの。ミツバチは良く、ゴキブリは悪い、その概念は人にとって有益かどうかの人間側から見た判断。良いとか、悪いとかの区別なく、彼らには彼らの生活がある。ヨブ記を読んだ話もした。昨日の授業で、薦められた本は「脳の中の幽霊」(脳学者ラマ・チャンドランともう一人との共著)腕にも霊があるのか?左腕を切り落とした人物が、もう無いはずの左腕の手先の痛みを訴えた。誰もその痛みを直せないという。ラマ・チャンドランが解決した。その人物を鏡の前に立たせた。右腕の手先を動かさせた。鏡に映った右手を、左手を動かすつもりで右手をみる、というもの。・・なぜか、その後、痛みが無くなったという。ちょっとメモしておこう。次に「紀野一義先生に会いに行った」という氏の命がけで1700いくつもの爆弾の芯を抜いたという偉業について語られた。爆弾の芯を抜くとは危険な目にあうことであり、まわりのものを遠くに避難させる。そこに一人の人がいた。「なぜ、避難しない?」「おまえだけ一人で死なせるわけにはいかない」というやりとり。男でも女でもおまえと一緒なら死んでもいいという人いますか?とH師。確か紀野一義氏とは仏教詩人ではなかったか。好きな詩が思い浮ぶ。「人間ぬくぬくしはじめると、ろくな仕事はせぬ 追いつめられると 竜が玉を吐くように いのちを吐く」宗教家で美しい文を書く紀野一義さんの詩、ということで「帝王学ノート」(著・伊藤肇・PHP文庫)に紹介されているため知った方だった。この本を今度H師に見せてみよう。話の中でH師のだいたいの年齢が掴めた。「排気ガスを家の中に出す、今のようなストーブが普及したのは昭和40年代後半からだった。昭和40年代、大学卒業した時は、石炭ストーブだった」65歳前後か。70代、80代、90代にも見えたのだが、この世の人間とは思えぬ顔と様相と感ずることがあったが。そのH師が、昨夜の補修授業に一瞬顔を覗かせた。黒いツヤツヤした革のコートに身を包んでいる姿に「生きてる人」と思えた。黒のツヤツヤの素材が人を若々しく、イキイキと、かっこよく見せた。私は、神様のことを思った。神様というと、おじいさんのイメージがある。その霊界に君臨する神様が、生きている体、若々しくイキイキとカッコイイ服をまとって地上に現れた。
2006年12月19日
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「また夜中起きてる。早く寝て。二日連ちゃんで遅刻は恥かしいよ」目を覚ましたNさん時計みて言う。昨日初めて遅刻した。寝坊。が、遅刻届けの理由欄には「家の急用で」。セイタカアワダチソウのお茶っ葉&花を薬缶(やかん)で煮出す。 酵素が壊れないように弱火で短く。H師の講義で「エントロピー増大の法則、その増大を水が食い止める」小便の排泄は大事とも。人の老化も、水が体を初期化する。排泄の毒だしもそのエントロピー増大を食い止める。このお茶もしかり。 生理も毒だしとして大事という。空亡がありがたいと言ってた人がいた。今の月、このあたし真っ最中。これから数年、そういう中に入っていく。おそれまい。喫茶店で1時間ぼーっとする、そんな時間は必要。それが、ここでこうして書く時間。 ◇◇◇ ここのところ楽天フォームから日記を書くと、せっかく書き上げたものが飛んでしまい跡形もなく消えてしまうショックに耐えかねている。もう同じことは書けないし書きたくない。それでメールの下書きに書いたものを貼り付けでアップすることにした。それしかない。ここの場から作るとすると飛ぶおそれがない。 また、おもいきりボードをたたける。このところ気遣いして繊細に打っていた。けど、本当はめちゃくちゃ感情的にたたきつけたい。これでスピードアップができる。私の手先は解放され、自由を得たよう。日中思い浮かぶ・・しばらくトラックバック、掲示板、コメント欄をストップさせてみては?そうしている人たちの気持ちがわかってきた。 初めての試みを開始する。スタジオブースって、こんなかんじか。ミキサーを操作している人たちの顔が分厚い窓越しに見える。顔色が気になる。人は評判を気にするものだ。人の顔色をうかがうものだ。無意識にパソコンの向こう側の人の反応を気にしている。しかし、今は本番ではなく穴蔵にこもっていたい時だ。 12月、1月と辛酉生まれの自分にとっては、この時期空亡月なため、女性の体でいうと生理の時期といったところだ。毒出しをする。初期化する。毒出しとは断食に通ずる。食べ続けている間は消化に忙しく、排泄するひまがない。出す能力にストップをかける。たくさん出るべきところが少ししか出せない。 毒だし、排泄、出すのに専念できる機会を十分に活かせない。だから、できるだけのものをひっそりと断っていこう。コーヒーも今しばらくはお休みする。今年10月初めに収穫した「セイタカアワダチソウ」のお茶を入れてみた。煎茶のような色、味は南米でよく飲んだマテ茶とかコカ茶の味に近いとおもう。 今年のお茶の出来は上々である。学校裏庭で収穫したものは品質良好、背が高い上、一つのものに蕾がぎっしりついたものばかりを取ってきた。洗浄も乾燥もしっかりしたため、缶に納めた蕾と葉が押し花のようないい色を見せてくれている。来年の収穫は必ず9月の蕾の初期の頃に決行すること。 しばし、水洗浄のあと日に干すと花が咲いてしまうのだ。花が咲いてはそこに酵素が取られてしまう。蕾の中には酵素がギッシリ詰まっている。キッチンにコーヒーがあれば、決して私の舌は薬草茶を嗜好する気持ちが沸いてこない。舌がコーヒーに親しむと、他のものが入ってこれない。しばらくは好きなもの断ちを。 一つの日記に文字数を考える。4000字以内として、原稿用紙に10枚くらいを目安にしてみる。日干・辛のあたしにとって書く時間は、この時間帯でも良いのか。今、時計は午前1時半。午後11時から午前1時迄は・・戊子/印綬・長生(傷官) 午前1時から3時迄は・・己丑/偏印・養(偏印) んんー、この時間帯は印星で悪くない。 けど空亡時間だった。んんー、と突然(!)閃きが!吐き出す時間帯であるからして。自分自身の排泄にはなり得る。得策ではある。自分にとっちゃあ。らくがきノートと考えれば、自身の精神は初期化され、想念は解放される。時間は一つの日記に対して1時間としよう。だいだい喫茶店に行くと1時間はお茶を飲んでぼんやりするんだろう。 そんな時間にしてみてもいい。その間にその薬草茶を一杯は飲むとする。この3行ちょっとの文のかたまりを10~12個くらい書いてみるとするか。明日は福島へ小旅行。去年は9月くらいに行った。その帰り道、私は本でみた「セイタカアワダチソウ」の花を探し当てたのだ。そこから、そのお茶による浄化が始まることとなった。
2006年12月18日
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H師は自らの講義に酩酊し「どう?感動的でしょう」と目を輝かせる。H師は三浦綾子さんの映し絵のごとく。全く異性というにおいさえない無臭の人。その出会う原因であったかもしれない原型の人、三浦綾子さん・・この人は、私の救い主とも言える。(はたと今思った)彼女の本は、私の今かかえている問題の根本(勉強嫌い、出来が悪い)を覆してくれるかもしれない予感。夏の大掃除&物捨て作業の合間に読んだ「氷点」がきっかけで、私の小説読みが始まった。図書館の在庫は全集がおもだったので、その分厚いハードカバーを手に取るようになって、今、5冊目が終わろうとしている。(全部で20巻前後)1ページが2段になっているものが、1冊につき600ページ。それを2週間に1冊のペースで読めているではないか。この計算でいくと、三浦綾子さんが生涯に書いた作品の全てを、来年の7月くらいには読み終えることなる。学校で勉強が出来る人たちは、合間を縫って読書している間、本など読んでる人は皆無である。だいたい休憩時間は、飲み食い喫煙おしゃべり情報交換が常である。私はその情報交換が足りないのだけど、本と対話している。私には熱中できる本がある。道が開けたも同然だ。喜びと希望の貯蔵庫(図書館)を市が(神様が)私に提供してくれた。しかも、ただで。三浦綾子さんの全集との出会いによって、(5冊も読めたおかげで)だいぶ読書力がついてきた。がっしりとした単行本だったため、ゴールまで(全作品を読みきる迄)たどりつくのに、あと何冊と目に見えている。これが、文庫本で分厚く、何冊にもわかれていたなら、全部といっても検討がつかず、きっと挫折していた。これまでの決して短くない人生で、小説は数えるくらいしか読んでこなかった自分。なのに、今、読む時期が巡ってきているという幸せを、この喜ぶをどう表現したらいいだろう。神様、ありがとう。あなたは私に友達をくれた。それでだ。このたび、学校の教材をたくさん買った。が、この三ヶ月、ほとんど目を通しておらず、この人はいったいやる気があるんだろうか。何を考えているんだろうか。これを身につけて飯を食っていこうという本気が感じられない。他の人たちが、真剣に取り組んでいるのは、これらを身につけて、よーし、これで飯を食っていくぞという意気込みではないか。(私は、そもそも昔から生活感がなかった。今もお金を数えるのが苦手。お札を今年、数回しか触っていない。(うつ病と称して)それらを担当してくれる人が側にいるから生きていられるようなもの)それでだ、あるとき、おもった。1冊300ページの問題集になかなか手がつけられなかった。(家に帰ってから、そんな興味の沸かない本と対面したくなかった)だが、あたしは全集の1冊600ページの細かい文字を2週間で、生活の合間に、熱中して読み込んでいるではないか。「わかっても、わからなくても、1ページずつ丹念に目を通してみようか」自分に働きかけた。「じゃあ、やってみる」だんだん、目に入ってくるようになった。理解も進むようになってきた。しめた!勉強の癖、ペースが掴めてきた。すぐに問題が解ける人、頭のいい人をうらやむでない。今、試験に向けて必死こいて勉強してる人はすごいけど、その後、活用しなければ、知識も技能もさびれてしまう。私は、亀のように、ゆっくりで、不器用なため、人一倍の努力を要するけれど、これらを繰り返しおこなって「活用」する人になるぞ。静かでひそかな決意。といって、いくら勉強をしたとて、神様を知らないようでは、何の意味があろうか。神様を知ってこそ、それ以外で得た知識技能が、意味あって役にたつのでないか。「岩に立つ」神様と共に仕事をしているという喜び、これは何ともいえないねという鈴本新吉さん。勉強の合間に1分でも祈ろう。ここで、書くことは神様とのやりとりに通じている。10代の時、一度だけ行ったキリスト教のイベントで、前に立つ人が言った一言は、今でも覚えている。どんなにたくさんの本を読んだとしても、1冊の聖書にまさるものはない・・だったか。(聖書は、たくさんの書物を読んだ以上の価値があるという内容だと思う)読書嫌いの私は(ははあ、いいことを聞いた。これ1冊読むだけでいいんだな)本を読むとは、これは、絶対、自発的でなければならない。人の一生懸命のすすめの言葉がかえってやる気をくじくことがある。自分でさえ、自分をプッシュできない。自分の内なるところから求める気持ちが出てこなければ、1ページもすすまない。
2006年12月16日
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「日本人の遺伝子を調べてみると、そのDNAは朝鮮半島からきている。弥生人の多くは、圧倒的に朝鮮半島からきたもの。日本の東と西では遺伝子がまた違うんだね。あたしの顔は目が窪んでて、ぎょろっとしてインドネシア系から来た顔だ」とはH師。と、その顔と姿が、おばあさんバージョンと重なった。(こういう顔と姿のおばあさんって、いるよな)H師の目・・「あっ!」知っている女性の誰かと重なった。あっ、この女性は・・。「!三浦綾子さんだ」晩年の綾子さんの顔とスタイル、写真から想像する動作など・・ピタリと一致した。それと、H師はもしかして本当にすごい。臭いがしないのだ。臭気。講義の中で「人間から発する有害ガス」の話があり。(ホーレン草、ニンジンからも毒ガス出てるとか)「人間が密集するところで気分悪くなる人がいる。それは人から発散される毒ガスにやられているのだ」と。とたんに人が密集した教室内が息苦しく感じ始めた。前に座っている、団塊の世代の男性二人から、臭いがしてきた。くさい。じわじわあーっと、うなじから発散してくるような気配。「おまえ、気づいたな」と、毒ガスが攻撃してきてるよう。その二人は「泥流地帯」を読んだ時、拓一と耕作とイメージしたことがあった。両者とも若い時からどんなに勉強が出来た人達だったろう。人間的にも秀でたものを感じていた。が、近頃、私の勉強の遅れから、気持ち的にも距離が生じてきている。原因は私が発する、人のモチベーション、やる気を削ぐ発言だったり。それは私の毒ガスだった。その人たちは、これまでの思考と経験があるので、H師の風変わりなところに若干の偏見を持って、斜めに構えて受講している様子。が、その二人もまた、それなりの生き方をしてきた一角の人物なので、合い入れない適度な距離を保って、気を使いながら接しているようにも感じ受ける。まあ、それはいいとして、臭いや毒ガスの話は実感するところである。H師には、その臭いが、今のところ臭(にお)って来ていない。二度程、質問などで接近して話したことがあったが、その時は外だったからか。後ろの後ろの席の人が寝息をたててズーズーしている。後ろを振りかえった。後ろの人たちも、笑って見せたりした。その居眠りの「気」が、時々、前の方に流れてくるのはどうしたものか。それも毒ガスの一種かもしれない。(その毒ガスにやられない方法を後で考えてみることにする)話をまた、もとに戻すとする。H師と三浦綾子さんの重なり。なんとも面白い。今朝、眠りかけの時、はじめて発見したことだった。以前、似たことがあった。台所で作業しながら、ある受講の返事で係の人に電話をしなければならないというときのこと。そんなにやる気があるわけではないのだけど、どうしようと考えていた。その人を前にすると、なぜか簡単に断れない。いや、断りたくない気がおこったりする。と、私には周期的に思い出す顔の人がいた。20年も前に少しだけ接触のあった人で、顔は皮膚病でかなり崩れていたにもかかわらず、心の善い人を顕わす、その目が輝く人だったが、名前は覚えていない。と、やせっぽっちのその若い女の子と、今、電話しなければならない少しふっくらとした係りの女性と、その目と目が頭の中で重なった一瞬があった。(二人は同一人物である!)「まちがいない」と踏んだ。電話した。涙の再会を確認しあった。もちろん、その人の顔が見たくて受講を申し込んだ。彼女も・・ヨブだったんだなあ・・その皮膚はなめらかだった。H師の目・・なぜか、この人を初めに見た時から、「なかなかの人物」私の奥から声がした。私は、心の中でその人の精霊のような奥深いところに向けて頭を下げた。その顔をみた時から、(この人の授業、おもしろそう)と思ったものだ。数ヶ月前、日記に別な人と勘違いされて、声をかけてきた先生がいた・・ということを書いた。それは、H師だった。会話は長く続いた。楽しかった。めげてた状況から脱した一段階ともなった。今、また、二段階目も、この人が救ってくれたようだ。三浦綾子さんが「原像」とすれば、今、出会っている先生は「像」である。その過程は「写像」である。(関数=写像の授業の応用)「原像、写像、像、これらは物理学の基本である。宗教でもバックボーンがあるだろう」(次につづく)
2006年12月16日
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このところ陣取っている家の中心、柱に寄りかかれる場所(和室入り口部分)、ここに座ると非常におちついて物ごとが出来るようになった。自分にとって、いい場所というのが、家の中にあるものである。まだ、発掘できてなかったりもする。地下の水脈にも関係するかどうかはわからない。今月初めから、私の運気は空亡、大殺界に入った。いずれも、これまでのように物ごとは運ばないという、注意を暗示する。それで、私の体は引越しすることとあいなった。思えば、この後ろ柱部分で、今年の半ば、大掃除&物捨てにいそしんだ時、この柱の寄りかかりながら、休憩し、本も読み、片付けの段取りを思案したものだった。と、この場所で疲れた時、体を横にしてやすめてみたら・・これまた、ぐっすり眠れるのである。今も、木枕を使っての眠りから覚めたところだ。眠りに入る前、目を閉じ、昨日学校で先生の授業で面白かったことなどを振り返っていた。その先生が映像に登場する。その先生は、いったい何歳であるか?60代にも見え、多分70代前後ではと検討をつけてみるが、80代にも、はてまた90代にも見えなくもない。近頃、人を見る時、その人が男性なら、もう一つ、女性の像も見えるのである。その先生をH師と名づけてみる。その人も、男性でありながら、私には、もう一つ、その人の母親バージョンの風景が重なってみえる。だいたい、男性は母親バージョンの形が重なる。H師は、例題として自分の生活空間や家庭環境など、自身の周辺背景を授業の合間にぽつりぽつりと語ってくれた。「子供の時、非常に貧乏して育った。おやじは外の女の所に通ってね、金を家に入れない。母親が土方して、わたしらを育ててくれた。その当時、女性の事務職なんてものはなくてね、だいたい、働くとすると、土方と決まっていた」うわあっ!いい話だ。えっ、なんで?ちょうど、私が今、読んでる小説の背景に関連するもので。三浦綾子さんの「岩に立つ」の鈴本新吉(モデルは鈴木新吉さん)も母親の半土方で育ってきた。外に女は、「千利休とその妻たち」に通じる。何か、H師が、物語の中に出てくる人物と重なる要素あり。また、「続・泥流地帯」の後半にヨブ紀が記されていると思ったら、授業の中でアトピーやステロイドの話に関連して「旧約聖書のヨブ紀を誰か読んだことある?」ときた。当然、反応は誰も答えず、無言。H師の簡単な説明は、ちょっとピントが外れてるかも?とも思ったが、いや、三浦綾子さんの小説の解説としては合ってるような気もした。読み直して確認した方がいいかもしれない。「人は『悪いことをしたから罰として不幸が起こった』と責めるが、物理的にみても関係ないんだね」などとH師は言っていた。ああ、そこが、ヨブ紀のオチなのかもしれない。綾子さん小説で作者が言いたかったことも。私がヨブ紀がどういう内容かと聞かれたら、こういう風に説明するだろうと思う。神様の前にサタンが来て、全き善き正しき人物とあなたは言うが、それは幸せな環境に恵まれているからだと。もし、あなたが与えた多くの富をことごとく奪い取ったなら、あなたを呪うであろうと。なら、好きなようにするがよいと神は言った。ただ、命だけは取ってはならないと。ある時、ヨブは何も悪いこともしてないのに、突然大きな不幸にことごとく見舞われた。財産、子供らを失い、挙句の果てに皮膚病でかきむしるという日々となった。友人、妻さえも、神を呪えと言う。が、ヨブは神を呪う言葉を発しなかった。はだかで生まれたのだから、はだかで死ぬのに何の文句があろうか。善きことも、悪しきことも、全ては神に与えられたもの。全てのものを無くしたといっても、もともとは神からきたものであるのだから、何を文句を言うことがあろうか。神はそのヨブの姿に感動し、皮膚病をもとに戻したばかりか、これまで以上の富と幸せを与えたという話。だから、不平不満を言ってはいけないという教訓・・と覚えていたのだが。・・どうも、それだけでは足りなかったようだ。「悪いことをしたから、バチがあたった」人はそう責めがちだが、そうではないのだということを、綾子さんは「続・泥流地帯」「岩に立つ」でも、力を込めて訴えている。(ああ、病気の人を責めてはいけないというのは、そういう意味であったか)腑に落ちてきた。
2006年12月16日
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しゃべってしゃべってしゃべりまくる。苦しかったら、神様に心で言おう。声に出しても言おう。泣きたかったら、そうしよう。おもいっきり泣けばいいじゃないか。おちこんでいるんだと。自信を失いそうなんだと。・・あっ、そういえば、Nさんに泣きごとを言った。Nさんはこう言った「あなたはよくやってる」「今日もよく頑張った。隣の部屋は寒いから、ここで勉強したらいいよ」と。私は部屋づくりを工夫し始めた。空気を汚さないようにファンヒーターを極力使わず、コタツを工夫した中に湯たんぽと圧力釜を熱したものを入れ、柱を背もたれにする私が座る場所が決まった。今、書いている場所。勉強がはかどるようになった。「Nさんの近くでやってたら、だんだん理解できるようになってきた」と、相手を気分よくさせる言葉を言ってみたりしたが、なるほど、そんな気がする。「だろう」「はい」・・やっぱり、一番近くにいる人に神様は顕れるかのようだ。きっとそうなんだろう。今朝、久々に見送りをした。ドアを開けて、長いこと見送っていた。空を見た。雲の模様に目をやりながら、こころのもやが吹っ切れたような気がした。新しい空気も玄関から入れられた。今日もNさんの顔はスッキリ。いつも、いい目をして、私を見てくれる。たとえ、こちらの状況が良くも悪くも、なんて変わらない人なんだろう。最高の人だ。・・やっぱり、書くって、いいことなんだ。反省に導き、気づきを与え、神様が答をもくれる。私は、今朝、ここに書きながら、一つ私の傷官性の病理の問題を解いた(あるいは解決した)気がした。その改善方法。人が、もともと生まれながらにして背負ってきた宿題を、一つずつ解いていくこと。食べたり飲んだりしながらの生活で、人がしていくべきことの一つであるということを。かつて、私がもっとも不快と思った精神的うつ症状は、初期の頃のNさんとの関係だったことを見送りしながら思い出した。手紙を無視し続け、電話にも出なかった数年間が、・・あったらしい。過去世のことのように、切り離された世界のことのようだ。その時、私は自分の中でこういっていた。地獄的思いに襲われると。どうも、魂と魂の問題のようだった。その心は、今、自分の心には決して再現できないのだ。その暗黒の心の状景は、ある時点からピタリと止んだのだ。そして、今は一番の仲良しになった。私は一番嫌いに思ったことがある人と、なんと、一番親しくなったのだ。自分にとっては世界中で一番の存在。感動が、その人からコンコンと沸いてくる気さえする。なんで、そんないい人だということに気づかず、何年もなしのつぶてを通したものか。無視し続けたなんて・・。Nさんの車が見えなくなったところで、私は神様をおもった。Nさんの前に、神様に対して、もっとずっとずっと長い間、無視してきた期間があったことをおもった。こちらが、どんな態度をとっても、神様は変わらない目で見続けてくれたのだ。
2006年12月16日
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町子さんの姪っ子よしみが、ママに黙ってピアノの稽古をさぼった。ママは、よしみの気持ちを見ないで、押しつけになってきていた。が、よしみの気持ちはピアノより野球の方により気持ちが強くなってきていた。どうしても同じ時間、野球の方に参加したく、けれどママにそれを言えば叱られると思い、言えなかったのだ。◇◇◇この場を2週間留守にした。いつも書く部屋にもいかず、新しい場をあたためていた。今日は、授業が面白い!と思って、めずらしく教材をロッカーに入れずに持ち帰ってきた。気の合う先生の授業に巡り会えたのだ。勉強がつまらないと嘆きの日々だったが、どうやら新しい兆しを感じはじめた。夕方、おでんの鍋の準備が整って、後は玄米ご飯の圧力釜のぽっちが下がるのを待つのみ・・と、小説「千利休とその妻たち」の続きに目を通していたら、電話がかかってきた。「ああ、おかあさん」・・なかなか電話がつながらなかったとのこと。(11/9父の長兄お悔やみの話)が、年賀状はふつう通りとのこと。「で、私の病いが(これこれこういうわけで)精神的うつなもんで、年賀状は今年も書けないので宜しく。(皆にも言っといて、噂ばなししといてのニュアンス)」もう何回も言ってることなので、向こうは全く深刻でなく明るい。ところで、近頃学校の勉強もさんざんで、いよいよ追い込まれて、やらずにはおれない状況になった。けれど気持ちが負けてるから(面白いとおもえないから)、追いつけないでいた。それもあってキツカッタ。精神的うつとは親しき人には、時々発し伝えている「Iメッセージ」であるが、まだ伝えてない人もいる。が、自分の身を守るため、精神の自己防衛のための、大切な自己主張である。(この人はこういう精神的特徴がある人なので何卒失礼なことが多いのですが、理解してやって下さい)親しき人にはあらかじめ伝えておくことにより、音信不通や、いいにくい断りなど、多めにみてもらえるという、私の心身を守る作戦である。堺正彰の前の奥さんの突拍子もない発言は理解できるし、共通の要素を私も若干持っている。年末の食べ物の贈り物・・がダメ。(激痛が走る)社交辞令でお礼の電話・・がダメ。(感謝の言葉を発するのが苦痛)今年は来ないように・・この気持ちを察してくれと、時々念ずるおもい。最近は年賀状がダメになってきた。(特に人から来る家族写真・・これはラジオでも「不快」とある人が言っていたが同感)精神的うつ・・というと、Nさんは笑うけど。こう書いてみると、やはり、その言葉を使うしか、私の無作法を許してもらい、理解してもらう方法はないかと思う。ここでも、時々コメントの返事やメールの返事が書けなくなるときがある。その時は、そういう激痛が走ってるときと理解して頂ければ、私の精神がどれだけやすまるかしれない。それは、相手がどうのでなく、自分自身の問題。そして、私の傷官星、霊界に通じるアンテナは悪くすると、体と精神に刃物を入れるため、がまんして、無理にその場を繕うことを好まない。本当に、リアルでは付き合いにくい人そのもの。よほど、気の合った人としか、親密になれない。(けれど、この性質、病名を表明することで、範囲は広められる。どんな人とでもという可能性も生まれてくる)母親でも気をつかうと以前言ってたので。(結婚できたのが奇跡的である。Nさんは、四柱推命でも専門家をうならせたほど、私にとって相性の合う人・・神様に感謝)さて、自分に関するこの傾向を追求したとき、自分自身を分析してみると・・自己中心、邪心、罪なる血統、究極的には淫乱の血統というところに行き付く。(が、極めて近い原因は、私が蒔いた種、マイナス的ものの見方とマイナス発言、それに原因していると自覚する。そうであるゆえ、お詫び申し上げたい。許して下さい・・心の声)・・なぜか話は「芋たこなんきん」に戻る。よしみは「いやだ」という自分の気持ちをはっきり言えなかった。その理由と本音をうまく表現できず、彼女の心は塞がっていた。思っていることを言わないため、ママは、強くおしすすめることを相手のためと思い、どんどんプッシュしてくる。二人は噛み合わなくなってくる。よしみは一時的にがまんして、ママのいうことをきいていたが・・がまんできない時がきた。町子さん夫婦が言う。「親子の前に夫婦や。夫婦がまず、相手のことが理解できる迄、しゃべってしゃべってしゃべりまくることや」こういうセリフのオチまで思い出すなんて・・。今、おもったこと・・贈り物が届いたら、これからははっきり言おう「もう贈らないで欲しい」と。かどがたたない、やんわりとしたセリフも考えよう。「Iメッセージ」を伝えないと、せっかくの人との大事な関係を壊してしまう。それと、人との関係の前に、まず、神様との関係を。私は祈ることをすっかり忘れていたのだ。
2006年12月15日
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学校での勉強は身が入っていない。まだ、おもしろいと思えないでいるので、無理強いしてない。「芋たこなんきん」で、小学生・次男が「作家の子なのに0点」とからかわれる。小学生・長男が漢字練習の特訓をする場面。「特訓ってなに?」「こいつ、努力が足りんで、いつまでたっても漢字0点なんや。そやから、わいが特訓してやってんねん」「本人のやる気がないと無理ちゃう?」長男が、さか上がりできるようになったのは、努力もしたが、その前に、なんとしてでも出来るようになりたいと思ったからとちゃう?と、おばちゃん・町子さんは言う。本人のやる気が出るまで待つ、見守るという町子さんの考え方。勇気づけられた思い。(無理して資格試験を一月に受けるのをキッパリ延期することにした私)それで、あき時間はのびのびと本を読んでいる。丁度、「続・泥流地帯」は、そのあき時間を豊かに埋めてくれるのだ。日中、飲み食いをしない私は、女性達のキャッキャした賑わいの中にも混じらない。話が尽きると、家庭内の愚痴や不満を声に出すことも。家の外で、発散していると思うかもしれない。が、実は、その発言は、不満の芽を成長させている。近頃、食が細くなった。これまでの量を食べるのに難儀。体質、胃の容量に変化が起きてきているようす。と、届いた予約本は「不食の人」(著・山田鷹夫)。忘年会の誘い。断る。「飲まないので」に対して、「あたしも飲まないよ」と、二人声をあげる。次にどういったらいいものか・・「食べないので」と言った。ああ、これじゃ、すすめられない・・納得してくれた。(食が細く、あまり食べない人にこの会費は高いものね)どうやら、わかってくれたようだ。外食じたいを、もう数年していない。外でお茶を飲むこともない。そして、ここでの学校が始まってから、ここの人たちの前で飲み食いをしたことが一度もないので、その場の空気に溶け込んでいるとはいえない。けれど、マイペースの自分は正直で自然体だ。一時間ごとの休憩時間、多くの人が喫煙場にたむろし、お茶を飲み談笑。私は、その間、遠い距離のキレイなお手洗いに、階段を駆け登って走る。日中断食には「走る」がポイント、いつしか体が覚えた。今は、一日二リットルの水がうまく飲めず難儀。無理して飲まなくていいにしている。体の気持ちを聞いて様子をみている。コーヒーも薄めのアメリカンになった。そういうわけで、外での時間、私には独りの空間があるわけだ。これも、貴重なことなんではないだろうか?と、さっき思った。非常に意味あることなんではと、思われた。三浦綾子さん小説の感想文・・その続きをどこまでも、追求している私なのだ。本の熱中、興味は読了すれば、じきに色褪せるし、関心事は、他に移る。三浦綾子さんの小説の深みは、≪聖書≫と≪神の心情≫にある。そこを探求できる点だ。しかも、この人の小説の内容は、クリスチャンの人も、仏教徒の人も、イスラームの人も、無宗教の人も、それぞれが、それぞれの範囲でわかる話なのだ。共通の話題ともなる。また、この人の小説を読みたくない人もいる。時があるので、それはそれでよいのだ。(無理して読まなくても)それで、昨日、独り空間の時、こういうインスピレーションがきた。神様は、特に女性の不貞を嫌われる。厳しく忌み嫌う。「うわあっ」と顔をそむけられる。心の思いが「正しい夫」からソレルことじたいを嫌う。その間のカラの心の空間に、「正しくない夫」が入り込む、魔が入り込む瞬間をつくる、女性の心を「だらしない」と嫌われる。そういう状景が、なにかしら、シャーマン資質のある綾子さんに訴えるものがあったのではないだろうか。綾子さんは、原罪が、「決定的な淫乱罪と、そのおもい」にあると、知っておいでのようだ。それを、断定的な言葉では言っていない。キリスト教の宗派の中では、「善悪知るの実」とか「りんごの果実」の意味、捉え方がまちまちであったりするから。けれども私にはわかった。「旧約聖書」では光世さんとの会話で、「どうしていちじくの葉で下部を隠したのかしら」「その部分で問題があったんだろう」というような表現をするに留めている。が、どの小説を読んでも、男女の愛の醜さ、もしくは美しさ真実の愛と純真を追求している。私は、ふっと、解けていった気がしたのだ。陽子の中に住む純真、気高き精神は、神の心情をあらわす。陽子は、殺人犯の子と聞いたときショックを受け絶望した。が、不義による裏切りの子と知ったとき、憤(いきどお)りと、激しき怒りを感じたのである。まったき正しき人であるなら、不正に憤ることは、正常な心ではないか。怒るべき場面で、怒りを感じたというのは道理に合うことである。「許しの神」というけれど、神様は何でもかんでも即座にパッと、「許す」と反応するのだろうか?許すに至るまでの神の心情があるのではないだろうか。神様は、世の中の不義と淫乱に怒って、洪水を起こしたことがあった。「ノアの箱舟」・・「泥流地帯」に、その状景を今、おもってみる。神に一番近いノアという人物をたててやりなおそうとされた。そのノアに相当する人物が、「拓一と耕作」の兄弟である。話がそれたが、神様の心情に時間性があるということを言いたい。陽子の「不義への怒り」は神様の性質から来たものである。自殺するものの行く霊界は地獄だという。殺人罪と淫乱罪では、この世ではともかく、霊界では淫乱罪の方が重い罪とされているとも聞く。その霊界の法則はともかくとして。陽子が、殺人犯の父よりも、不義と裏切りの母をより疎(うと)んだ。これは、何かなあ、とおもっていたら、ああ、これは、神様の気持ちがそうなんだなあ、神様が、「殺人する姿」より、「不義と裏切りのその心」をごらんになって、より多く苦しみ、泣かれたのだなあ・・というおもいがきた。陽子がどうのという現象は、さほど問題ではなく、神様をこのヒロインに投影されたのではなかったか。それで、こういうおもいが次にきた。陽子の心が「北島さん」から「お兄さん」への変心。それを伝えた直後、北島さんの右足損傷という事故が起こる。婚約の約束をした相手を葬って、「心変わり」するの意味は何であるか。それは、母を疎んだ「裏切りの心」そのものであり、母と同じことを陽子はおこなったいた。女性の心がうつろうとき、いつも同時に、「正しき夫」もしくは「正しき子」に忌まわしい事態が発生する。右足を神様は奪い取った。右は神様を表す。陽子は気づいたのかもしれない。「正しき夫」は北島さんだったということを。同じ「裏切り」を行った自分の行動に、母と同じ、罪の血統を見、悟ったのかもしれない。自分が、北島の足をもいだのだと、咄嗟におもったからだったかもしれない。それは、表向きの自分の弟のせいで、申し訳なかったという「同情心」とは別のものである。自分のために、北島さんの足になる、それしか、道を見出せなかったのかもしれぬ。私は陽子の変心の経路1、「北島さん」2、「お兄さん」3、「北島さん」で、どの段階が嫌だったかというと、「北島さんから、やっぱりお兄さんだった」というのを、自殺未遂後、どうどうと表明するあたりから、ふてぶてしさを感じていた。(不義なる子を疎んで、母親を恨んでる子は、結婚なんかしないで、出家せい)と、おもったから。戸籍上、実子になっている陽子は、霊的にみたら、兄・徹とは、同じ辻口家の守護を受けている兄妹なのだ。近親の結合という忌み嫌われている方向性である。話がとんだ方向に入ってしまったが、陽子は、その後、北島の右足のない不自由な姿を見ながら、自分の罪をみる(罪を自覚する)ことになったのではないだろうか。・・きのう、そうかんじたのである。
2006年12月05日
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「銃口」・・韓日問題の原因になっている、過去の辛い出来事を掘り起こした題材らしい。かなり重たい内容に突入しそうだ。事前にあらすじを知っておけば、臨む姿勢と心の準備ができるというもの。次回の課題図書は「銃口」らしい。もんさんの「泥流地帯」と「銃口」が良かったという書き込みに触発されて、最低それだけは読んでみようかと思った。昨日からの読書は「続・泥流地帯」に入った。続いて「千利休の妻たち」「岩にたつ」(第九巻)が待っている。全集の分厚いものが貸し出されているが、読みやすいと感じてる。20冊ほどの全集を眺めて、順繰りに読んでみようかという、目標を持って臨んでいるので、先の楽しみを希望に思うようになったかもしれない。■これから先の楽しみがある。感想集会の場で、ネットをみて参加された方との会話で、「まだ私、作品ちょっとしか読んでないんですよ」と言ったら30前後の女性の方が、「いいですねえ!」ですって。「えっ?どうして?」「私、全部、読み切ってしまいましたから。けっこう読み返しをする方なんです。まだ、少ししか読んでないのなら、これから先の楽しみがありますから(笑)」この一言に、あとから希望を感ずるようになった。これから、何の本でも新鮮な出会いが待っている。というほど、小説というものを読んでこなかったもので。本との出会いにも時があるか。今回、私が求めていたテーマは、「陽子の心変わりについての意味」。解説者の口からは語られなかった。その方は、まだその意味を、深く求めてはいないのだろうと思った。■人は甘えられる人がほしい私は、そこに大きなポイントがあると見ている。60代の品のいいクリスチャン女性からのコメントからの気づき。「人は時に甘えたくなるもの。それが、生きて行くうえで支えになったりする。けれど、なかなか、神様に甘えられない。甘える人が欲しいもの」と、聞いて、陽子の心が、≪北原さんからお兄さんに心が傾いた理由≫は、こういうことも、あるのかな?と、思ったのは、家に帰ってから。「人は甘えられる人が欲しい」という言葉は、60代の方が言われると、なるほど、説得力がある。その後、夕飯食べて、寝て起きてと、時を過ごしていたら、「ああ、私の目の前には、確かに甘えられる人がいる。その人には、本音が言える、わがままがいえる、素で接っせられる、バカを見せられる。親から離れてみて、「甘えられる人」とは、目の前にいる方だけに他ならない。なんだか、感謝としあわせな思いに、しみじみ浸ってみたりした。(今、ふっと、おもう。ああ、神様だって、そうなんだよなあ。神様だって、甘える人が欲しいんだなあ。信頼できる人を求めているということだ。冠も座布団もはずして膝枕になってくれる人)(けれど、上の陽子の変心の解明はまだ未解決。さらなる≪お兄さんから北原さんへの変心≫の意味はまだわからない。多分、北原さんの足の犠牲と(陽子に関連する殺人・不倫という家系的に、直接関係のない人の犠牲)、イエス様の十字架の贖罪、などの意味があるのだろうか?が、それも、とってつけたようで、まだ響いてはこない。60代の方が、さらに言う。「陽子は、殺人犯の父の子だった方が、まだいいと思ったのよねえ。不義の子として生まれたことの方をより重く捉えた。(夫を)裏切った母は許せない、許しがたいと・・」殺人者の父の方がまだ良かった。裏切った母の罪は赦せない・・という言葉を聞いて、罪の一番、大きな、決定的なことが、わかった気がした。■一番の罪がわかった。「目の前にいる、一番近い人を裏切ること」人の一番の決定的な罪・・それは、「今、一番近い人を裏切ること」・・これ、なんだなと、おもった。神様が一番嫌がること。神様が、「うわあっ」っと顔をそむけたくなること。神様は、<思いの罪の芽>じたいを、そもそも疎んでいる。心に不法者侵入を許しているから、<思いの罪の芽>は育って大きくなってしまう。そして、結果的に、決定的不義を犯す。神様を目の前の「正しき夫」とした場合、心によそ者が侵入していることを許している時とは、「正しき夫」のことを忘れている時間といえる。だから、夏枝が、よそ者に「愛の告白」という刺激的な空気を楽しんでいるともとれる、その時間、「正しき夫」を忘れ、「正しき子」を失った。まるで、罰であるかのように。その瞬時の間に、「魔」が侵入したのだ。その女の心に「魔」を侵入させる条件を成立させてしまったのだ。このようなトリック、小説における技法を、綾子さんのいくつかの小説で見てとらえた。短編「喪失」においてもしかり。(妻の決定的な不義の後、まもなく元気だった夫が脳梗塞で虫の息になる結末)
2006年12月04日
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「氷点」解説&感想を書きとって・・それを清書しながら、おもいついたこと。これらを時々、ここにメッセージを下さる「もん」さんと共に、わかちあいたいとおもう。≪・・辻口啓造という男(重要なる登場人物)について。解説者が言われるには・・(以後、解説者の言葉は≪≫でくくる)「辻」の中に入っている「十」はイエス様の十字架をあらわす。その隣のしんにょうは、道をあらわす。(十字架の道)続いて辻口の「口」は十字架への道の入り口。(物語の結末は、イエスキリストの十字架へ向けてすすめられる暗示)啓造の「啓」は啓示をあらわす。「造」は新しく造られる。造りかえられる。を象徴。ヒロインの陽子は、日の光・・光のように生きられるの意・・≫名前や言葉の意味を知るのに、分解を試みる方法を、時々韓国小説に見つける私。60代の品の良いおばさまが言われるには、札幌の高級住宅街に「辻口」という姓は密集しているようだ。辻口姓のお医者さまの奥様が、その方の知り合いにいらっしゃるとか。・・私としては、そちらの話にリアリティを感じたが、両方とも、いい話だな、率直におもった。≪「氷点」「続・氷点」最後に締めるため、重要人物をもって締めている≫≪「続・氷点」での重要人物、順子の登場・・かつて陽子が、殺人者の娘と思われていた本物の人物。陽子が出来なかったことを実現した人物。陽子は自殺しようとしたが、順子は自殺しなかった。しようとしなかった。順子の自殺を越えた生き方。綾子さん、先に(執筆の構想のはじめに)遺書を設定。その後、遺書にいたるまでをうめた。朗読の会を、東京のあるところでおこなっている。ある人が、この遺書の朗読の際、涙で読めなくなった。NTTの「現在使われていません」コールの声の方は中村さんという方。その方がクリスチャンで、大変な三浦ファン。東京の三浦文学朗読の会で、講師を担当している。(へえー、これ、おもしろそうと思った。中村さんの声での朗読、聞いてみたいかも?私)解説者が言うには・・幼い時、いじめられた人は、将来影響を与える人になっている。(馬小屋で生まれたイエス、捨て子のモーセ)いじめられている人にアドバイス、あなたの将来はいいよ。解説者も小二から中二、いじめにあう。いじめのとき、相手を許せなかった。中三でキリスト知って(「塩狩峠」読んだとき)許せないおもい・・消えた。許すことでき、愛することできるように。いじめる側の事情も考えるようになった。そうせずには(人をいじめずには)生きていけない事情があったのでは?いじめの側のその人は家庭において寂しかった、母親に甘えられなかった。父がトラック運転手で留守が多く、母は商店のきりもりで子供をかまってあげる余裕がなく。陽子、母親からいじめを受ける。陽子「私はたとえ、いじめられようと、こんなことをされても、胸をはって生きていける」(卒業答辞をすりかえられたとき)・・なぜなら、それは、私の≪外≫のことですから。私の≪内≫の問題ではない。陽子の自殺の動機・・自分の存在事態が悪。自分が存在することによって悪臭を放ち、悪影響を及ぼす。他者からは、いくらいじめられても、それに決して屈しない。それは、自分の外側の問題だから。けれど、自分の存在事態が罪の子、罪の結果の存在と知ったとき、問題は自身の≪内側≫にあったのだ。(解説者:だから外側のことで死ぬ人、死ぬ資格なし。・・けれども、神はそのような罪人においても、愛あるものに変えて、もちいようとしている)遺書における北原への手紙で、綾子さん、「原罪」の話に言及。(段段に話を進めていって、結局その事を話題にする)たとえ、殺人者の子でなかったとしても、先祖の罪の血が流れている。(アダムの罪まで遡る)「続・氷点」文庫P151くらいで順子「(殺人者の実の)父を一時は責めた。が、相沢の父母(養父母)から、キリストの贖罪を知った」キリストなしでは、決して許せない。(解説者:クリスチャンも、ふっとさびしくおもうこともある・・でも、大丈夫・・となる)陽子には「責める心」がある。実母である三井恵子に対する、許せないおもい。「氷点」では陽子の持っている罪は「点」であった。罪の可能性。「続・氷点」では、陽子のもっている罪なるものは「点」ではないことがわかる。「点」ではなく、「流氷のような大きなもの、人を責める心、許せない心。「続・氷点」P157くらい、順子、父への憎しみ消えた。(許せない心・・消えた?)陽子「順子さんは父を許せた。・・私にはできない・・母を許すこと」キリストの贖罪は・・許すことができる。神と人にわびることができるすがすがしさ。「続・氷点」P216~P217河原であやまる場面・・順子「(父が)誰を殺したのか、知らなかったのです・・私をどのようにでもなさってください。父の罪をも、つぐなって生きようと、思ってきました」たとえ両親に罪がないとしても(殺人者でなかったとしても)、祖父の代における、戦争を犯した罪はどう捉えるのか。そのことは「銃口」で言及。殺人者の父の罪というなら、戦争における殺人者の罪は、どう考えるか。綾子さん、韓国へは一度も行かなかった。行けない。行けなかった。韓国側からの授賞式で招待を受けていたが。行く資格がない。行けば地べたを這いつくばることになる。(解説者:韓国に行って自殺したくなった。それだけ罪を犯している)綾子さん、「銃口」を書く際、「日本人を責める書き方はしたくない」と言われた。実は「氷点」(戦後の物語)・・戦争問題扱っていた。啓造と、佐石・・戦争に行った人として書かれたいた。(私、気づかなかったけど)日本人の原罪ともいえる戦争、殺人の罪。P216~217順子「(キリストの贖罪によって)父の罪をおわびしたい、許しを頂きたいと思ってきたの」啓造「わびたら、どんなにすがすがしいだろう」神と人の前にわびる心。順子の姿を通して、教会、行ってみようと思った。教会入れた。(「氷点」では教会に入れなかったが、「続・氷点」では入れた)P221~225「今日は○○さんに証して頂きましょう」証とは体験談。P224(自分を正しいと思う、人を見下げる)さかいひろこという女性の話。■執筆秘話・・モデルは綾子さんの初代秘書(宮嶋裕子(ゆうこ)さんの旧姓ながいざか裕子をもじって)綾子さん、秘書の方に「何かいい証ない?」そのときのことを書いたそうだ。■(陽子がなかなか許せなかった実母・三井恵子の存在・・まさに、めぐみの人。※憎むべき人がいるのはしあわせ。いやな人がいると、みがかれる。かわれる。まわり→いい人ばかり→変われない。まわりに、摩擦する人いないと、そういう人がいないと、人は変われない。P293順子の出現では・・まだ途中段階にある。次なる人として、恵子を出現させる。(解説者:いじめられっこに今、感謝。で、ないと、クリスチャンになってなかった。マイナスたっぷり与えてくれた人に感謝)■三井弥吉(恵子の夫)からの手紙。妻を責める資格ない、自分の罪の自覚が書かれている。人を許せるかどうか、啓造は陽子に手紙を渡す。誰かを責めているときは、余裕がある。自分の罪の自覚でいっぱいのとき、余裕がない。それだけでいっぱい。啓造も夏枝も、互いに相手を許せない。自分の罪の自覚がない。この夫婦が乗り越えられなかったものを越えた夫婦がいた。啓造(戦争・殺人)と夏枝(おもいの不倫)に対して、それを越えた夫婦として、三井弥吉(戦争・殺人)と三井恵子(決定的不倫・子を捨てる)の夫婦。この夫婦は、互いが罪を自覚し、罪を負って苦しんでいたため、心の内はそれでいっぱい、相手を責める余裕がなかった。■燃える流氷は、最後の結束。(何かの目的に向っておおぜいの人が統一行動を取るように心を固めること)流氷は神様の演出。シナリオ・・もともとの綾子さんの構想ではない。クライマックスの燃える流氷・・罪をあらわす。(氷点はこおりの点にすぎない。氷山の一角しか、わかっていない)綾子さんの取材秘話によると・・取材旅行に行ったその日は4月4日、夫・光世氏の誕生日。ふつうはないはずのことが・・あった。(時期的に見られないはずの、燃える流氷)ガチガチの罪を、キリストの贖罪によって罪がとける。(人間の贖罪)・・罪がとけ・・あつくなる・・。陽子、母に電話。あやまろうとする。神の平安が陽子に与えられ。愛が与えられた。神の平安とは、自分が最も罪深い・・なのに、イエスに受け入れられた時に感ずるもの≫解説者の話は終わった。これに関する感想はまたあとで。
2006年12月03日
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日中、夢をみることもなく、ぐーっすり深い眠りにおちていた。近頃、睡眠が小刻みに少しずつしかとらなくても大丈夫と、むやみに起きていた。が、近頃、おもうのは、夜中12時くらいから3時くらいまでは、起きていてもあまり成果がないので、やはり寝ておけ・・と、おもう。暗くなった気配を感じつつ、がばっと起き上がる。着る、ふとんをたたむ、水を含む、りんご食べる、暖をとるのに湯タンポのお湯をやかんであたためる。久々に玄米酵素の粉をぬるめの水で解いて食べる。床に目につくゴミを拾い上げる。ところどころを拭き上げる。自分の目に映る範囲に、日頃から整然をつくる。(お気に入りページに入っている)ハヌルさんの部屋掃除に関することが書かれていたページを読んでから、部屋の整然づくりが身についてきた。Nさん、きのうは疲れがピークにきていたようで、シャワーも浴びず寝てしまったようだ。私が、その部屋に行ったときには、どうも、部屋が体内から発散されているガスに充満されていたようだ。と、Nさん、トイレに立ち上がった。(!今だ、イソゲ)ベランダの窓を開け放す。(うえっ!こんなに寒いのに。かまわん、かまわん)布団を一枚ずつ、窓の外に向けてパンパン。枕も、カバーも、パンパンはたく。部屋の換気、空気の入れ替えだ。Nさん、部屋に戻ってきた。「まだ、開けてるの?」という声が聞こえたときには、すでに夜具を整えて眠りかけていた。その時間は起き出す朝の時間だったようだ。Nさん、今日も仕事だったのか。あたしを食べさせるために、出かけていった。(ありがとう)昨日は、知らない空間に出かけていって、二時間ほど過ごしたため、少し、私の霊性は疲れていた。聖書を人より多く読んだ文学少年だった人の「氷点」解説とか、60代くらいのおばさまの感想。その場所まで、駅から長らく歩いた。いつもより、たくさん歩けて、よい運動ができた。時間内に、本の返却と新たな本の貸出し受けられた。土曜日の図書館は午後6時迄と知る。どうりで、夕方時間になって、係の人たちの顔が険しくなっていた。時間内に早く仕事をおさめようと。私も迷惑かけないように、さっさと家路に急いだ。さて、「氷点」解説、ノートに書いた内容を日記本文にあげるのは、いかがなものか。人が読み取った感想なわけであって。そうだ!それを聞いた私が、どう思ったか、それを書けばいいのだとおもった。感想文というのは、書きながら、思いつきがおこるものなのだ。おもいつきの導き。神様は、どういう解説をされるかということをおもったとき、意外なコメントをされるような気がした。また、感想を語られた人たちのポロッ、ポロッとこぼれる中にヒントがある気がしたりする。
2006年12月03日
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書いた文が消えてしまう・・ということが度々あり。後ろのお方が、「この文、却下」ダメだしされているんだな。納得もし、けど、もう同じこと二度と書けない、惜しく思うこともあり。最近は、ソフトタッチを心掛けている。タイピングでキーボードに指が触れる時、タッチが強い場合も、文が飛んでしまうことがあるから。「氷点」初めの場面で、村井が帰った応接間。夏枝が弾くショパン、(不倫なるおもい)感情の昂(たか)ぶりで弾いたピアノの弦が切れてしまう(その時、娘が殺害された)・・それを思い出した。それは教訓、努めて冷静に冷静に。おりこうさんのノートPC、すでに私の体の一つ、家臣である。かわいがっているので、よく協力してくれてる。学校にある最新のPCは、変な力がいる、馴染まない。人の臓器の移植・・「これは、してはならないことなのです」ある人がピシリと話の中でひとこと言われた。話は、すでに別なことに移っている。けど、そのキッパリとした断定に、「なぜ?」と思った記憶があり。全体の、その他の話は全く覚えておらず。その一言だけが頭に残った。と、これは16年程前のある日の断片。頭に引っ掛かっていた、疑問。・・それは、宗教的意味合いなのだろうか?霊的なことがよくわかる人は、もしかすると答を知っているのかもしれない。本人知らぬ間の臓器移植の問題があがっているが、少し前、夫婦間における納得し決意済みの臓器移植から、夫婦間の人間関係に問題が起こってきたというテレビの特集をみた。その時、その意味することはよくわからなかったが・・。つきのせさんのこのページ にヒントがあるかも?・・そのページを何度も読みに行った。それで、今、思う。体の部分は、私の家臣と考えてみたら?どんなもんだろう。代々その家に仕えてきた譜代の家臣。馬に乗る人が、ピシリと手綱(たづな)をあやつる。馬は乗り手の心のままに、足となって動いてくれる。ここ数日、こんなことにハッとしていた。木枕で「一時間だけ仮眠しよう」と心で言い、薪を1/4に割ったカーブの部分に布を被せ、うなじの部分にあてて寝る。寝つくまで、大正型の湯たんぽを腰にあてるも同じく。わずかな時間の指圧効果となって、時間どおりに起きれる。深く眠れる。目覚め、爽快。一日総計わずかな睡眠でも、体がもってくれてること発見。体のツボ、適度に押されると、気持ちいい、疲れやコリがとれたり。そういう部分を担当している守護の霊なる存在が・・もしや、関係してないだろうか?ふと、思いついた。とりわけ、首の後ろのうなじ部分から霊が出入りすると聞いて、お風呂のとき、丁寧に洗おうか、とおもったことがあった。西式健康法で知った木枕は、霊の出入りの重要な部分を、効果的にサポートしてくれる。うなじ・・というと、髪を切るとき、「後ろの髪の生え際、ぎりぎりにまっすぐにお願いします」なんて、いつからか、言うようになった。それが、一番似合うと、ある日、思い込んだようだ。首の後ろに髪が伸びて覆い被さると、気分が、確かに、鬱蒼するような。適度な温度の湯たんぽを、腰にあてると体が元気になってくる。椎間板ヘルニアをやったことがある。なぜ、腰が悪くなったのか?・・そのことも、その部分の、担当者の霊と、なにか関係するのでは?・・今、書きながら思った。(木火土金水の五行がある。木は脳、火は心臓、土は胃腸、金は手足、水は生殖器・・日中の土木の授業を聞きながら、頭は別のことを考え、ノートに五行の絵を書いていた、おとといのことを思い出している)今はもう、決して行かないが、食べ放題のランチに行って、食べ過ぎた時のこと。体から声がしたような気がしたのだ。工場長というふうのおじさん・・眉を八の字にした、マンガ風の顔としゃべり。「お嬢様・・すこし・・おかんがえになっていただけませんか・・かれらは、いちにちじゅう、やすみなく、はたらきづめで、へとへとです」「アラジン」に出てくる魔法のランプから出てくる大男ジンの風体である。ランプを磨いた者に忠実に仕える家臣、僕(しもべ)である。魔法のランプが不用になったとき、ジンは最後、仕えることから解放され、自由な身となるのだったか。ああ、それを、私をサポートする胃腸の守りの霊とするなら・・私の体(寿命)が終わったら、彼も解放されて、自由になる?ご主人の私が、もし、高い所に行けたなら・・彼も、それなりのところに行って、良い待遇とか自由を与えられる?書きながら、なんだか、どんどん、おもいつく。たのしい。なんで、こういう思考が巡っただろうか?三浦作品の分析をしようと、うつらうつらしていた。本日返却予定の全集に入っている「喪失」という短編もの。(1978年「小説宝石」七月号。中短編小説集「毒麦の季」に収録)30代後半の常識ある妻の話。胃潰瘍の痛みと不安から、胃癌死を予想する。自分が死んだら夫は若い妻をもらうのだと思うと耐えがたい。死んだ自分はみじめだ。・・いっそのこと死ぬ前に、夫を裏切ろうか・・妄想という悪霊につかまる。おもいは、実体化する。一度だけ、不倫。ことを起こしてから、目が覚めるような出来事が起こる。ぴんぴんしていた夫が突然の脳溢血。重態、意識不明の知らせが入るところで幕引きとなる。(ああ、なんという話なんだろう。ガクン・・あたしゃ、うなだれた。なんじゃあ、この短編は)あたしはこう分析した。・・悪霊は、人の口から、そそのかす言葉をしゃべらせる。常識ある妻は、「とんでもない」とすぐに受け入れるのではない。魔は、ひそやかに、潜在意識に入り込み。もぐりこんだ、しめしめ。彼女の意識にちょびちょび働きかける。同時進行で、魔は、人、環境、時間、場面と、巧みな設定をし始める。さて、決定的な、ことが終わった。魔が、せせら笑う、嘲笑、・・「あんたも、やっぱり、まむしの子か・・へっへ(あざけりの目)」人をつかって、侮蔑の笑みの演出。恥辱。不倫・・自殺行為だった。不倫は、自殺行為である。このことが、はっきりわかった気がした。これから、死ぬかもしれない、というその人は、これまでは貞淑な常識妻だったのに。死ぬかもしれない最後に、汚点をつくった。と、その代価は、夫の脳の血流ストップに反映された。脳の部分とは、その人の先祖とか、遺伝子を顕わす部分ではないのか。夫の脳をサポートしている遺伝子に関係する霊が、ぶち切れた。「それは、あんまりだろ!」女への抗議、じわじわ責めたてる、傷つける。ひねくれた霊の仕業を読み取れないと。あぶないことは、いっぱいだ。霊には、霊の、見えない人間関係が交錯している。人は、まず、はじめに、悪霊の存在を知らないと。はっきり。何が、不幸の原因なのかを知らないと。女は、そうやって、妻としての貞操を喪失。信頼を喪失。夫だけでなく。人のまわりには、おおくの見えない観客がいるんだろう。観客の霊たちのあざけりに、これまでの好成績も、信頼も、面目も、まるつぶれだ。不倫なる、堕落の映像を、男と女と、二人だけが、知ってるんじゃない。実は、多くの観客が息を凝らして鑑賞しているのをお忘れでないよ。
2006年12月02日
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