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トルストイの「アンナ・カレーニナ」三分の一まで進んだ。「ゆうせん」のモーツアルトの特集にチャンネルを合わせる。この本のBGMにぴったりなんだなコレが。ましてや小春日和の日差しを受けての午後のお茶、大福とコーヒーでゆーったり。休日、充実感が心と体じゅうにシミワタル、しみわたる。「オーラの泉」四日目の日記です。その本のタイトルは、中学の時の記憶、加藤諦三が良かった本としてあげていたもので、行き付けの図書館をウロウロしていたところ見つけた背表紙だった。あらすじをちらりちらり・・私が好まない不倫系?と少し警戒。少しずつ読み進めながら、この映画・・観たことある!と思い出した。飛行機の中で三本続けて観た時の一つで悲惨な結末。最後、高いところから飛び降りるというシーンで終了だった。子供の時に高いところから飛び降りるという回想シーンをあらわしながら、決断するかのように。ロシアの社交界に出入りする人々。中でも私の心を惹いたのは、優雅で美しい話し言葉である。職場の恵美さんは、夜寝る時に寝そべって読むのが大好きと言うので、昨日、それをしてみた。ふーん、しばらくこういう読み方ってしてなかったけど、冬は寒いから、こういうのもいいかも?ちょっと気にいった。主人公が堕落した直後の言い知れぬ恐怖感の描写を目にして・・ああ、これ聖書の創世記にもこういう場面が出てくるなと気づく。そう思って読めばあながち有害とは言えまい、ヨシ読み進めよう。と、私は昨日の彼女との関連をも見出していた。五つの代と書いてイツヨちゃんという友達のこと。彼女を身篭った母が、欲しくないと言って高いところから飛び降りたという話と、映画のシーンが重なった。彼女が「お父様」と称えていた父は美形で、もともとは裕福な家だった。妻以外の女性もいたらしかった。その頃の母親は、とても孤独で辛い時期だったのかもしれない。私は彼女に思いを注ぎ続ける。夕べ眠りに入る前、彼女との回想シーンを思い出しながら涙が出てきた。野垂れ死にしてなきゃいいけど、と老婆心。ふふっ、大丈夫だ。彼女は食神の人だから、彼女も言ってた。なぜか自分の口には、おいしいものが入るのだと。昨日、調べものをしていて、たまたま中国の「五行」というのを見つけた。彼女の名は、深い意味ある五行からきたものなのだと思う。休日前、甘いものを沢山買い込んでしまったが、食神は子供の星でもあるから味覚にすると甘味なのだなと思い笑った。甘味・・子供はまず、いっぱい抱き締められて愛されなければ。そればかりを続けると、しだいに子供役にも飽きてくるだろう。今年に入って、なぜかよく着てる薄茶のブラウス、それ、彼女がくれたものだった。高いものじゃないけど着やすい。彼女は私によく服を買ってくれた。あなたはいつも同じような色ばかりを選んで着るから、自分では決して選びそうもない色を選んできたと。グリーンのブラウスに薄いブルーのセーターなど。彼女のお喋りは、いつも一方的だったけど、またそれを聴いてみたくなった。またいつか会うこともあるだろうと思う。私の中で停止していた彼女の魂が、完全に息を吹き返した。
2006年01月29日
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「夜王」ベッキー扮する娘は、自分のもとを離れ出て行った母を捜しに日本に来た。公の場で離れたところでの再会設定。「あなたが私の母親なら子供のことを忘れてしまうか?」質問に対し母親役の黒田福美が言う。「もし私が母親なら毎日子供のことを思い忘れることは決してない」と。「オーラの泉」から3日目の日記です。その場面に、前回書いた日記がここに続いていると思った。昨日の朝、私は《食神・食神》の知人について思い浮かんだことを書いた。そのせいか、その日一日は彼女のことを考えたし、また新たな別な《食神・食神》の知人をも、さらに思いだしたりした。「オーラの泉」濱口から、私は身近な《食神・食神》探しに熱中する。音信不通の彼女というのはそっけないので、呼び名をつけたい。彼女の名はイツヨちゃん。五人兄弟姉妹のうちの五番目なの?とよく聞かれるのが、とてもイヤだと言っていた。本当にその通りなんだけどね。彼女は父の方は「お父様」と呼び、母は「かあちゃん」と呼んだ。男尊女卑の傾向が強い、韓国に近い南の島で生まれる。幼くして父が逝き、母は病弱だった。生活の柱となるべき長男である兄が失踪、行方不明になる。ただ一人の男兄弟だった。母は長い入院生活に入る。残された姉妹たちは、バラバラになり働きはじめる。働き口を探すためには、島を出て本土に渡らねばならない。彼女も中学卒業と同時に看護学校に行きながら、産婦人科に勤めた。同じ位の年齢の子たちが、そこに中絶にやってくるのをまじかに、いっぱいみてきたという。何やってんだコイツラ。食べていくのがやっとという16歳の彼女は冷めた目で生きてきたと思う。私が彼女と出会ったのは、それから10年後だった。初めて見た時の感想は綺麗・純粋・いい人・目がキラキラ、初対面から友達になった。横浜での出会いから5年は身近に付き合う。福島に行くというと、「ゆべし」を買ってこいという。すごくおいしいんだから一人で全部食べるのだと。おいしいものを食べている時がとても幸せなのと言う。だから、病院で一生懸命働いて、食べる時はおいしいもの好きなものを、高くてもかまわず買って食べるのが幸せなんだって。食べてる時が一番幸せそうでいい顔をしていた。それにその時の顔が一番きれいでもあった。私が結婚してから何度か手紙のやり取りもしたけど、お金を貸してくれの電話で次に会った時に返すからでそれきり音信不通。その頃私は海外移住するかも?と言ってたのだが実際は動かなかった。彼女は職や住居を転々としていた様子。音信不通となり8年が経つ。こうして書いてて大丈夫!繋がっていると思える。実に8年彼女のことを忘れた。たまに私を思い出せよと、向こうが思っているのだろう。《食神・食神》の彼女は仮傷官であり、私の傷官星と通じるものがあった。意識すると電話がかかって来るとか、夢を見たりとか。彼女が娘役で私が母親役だった。いつも彼女は私を旧姓で呼ぶ。いいだんなさんと一緒になったね、とても良くなった、人間が丸くなったよ、電話で話しててわかるもん。彼女は時に霊能者のような言い方をしたりもする。夕食後、買い物に行く。ああ、いっぱいおやつを買い物籠に入れちゃった。まっいっかー、おいしいものを買って仏様にお供え物にあげるから。私はいつも買わないものを、なぜだか多く籠に入れていた。フルーツケーキ・りんごのタルト・おせんべい・たいやき・大福・・あれっ?おかしいな?なんでこんなに?レジで並びながら、彼女のことが思い浮かんだ。おいしいものを食べるときの笑った顔。食神・・無意識においしいものを引き寄せてしまった。愛される子供の顔。そうだ、彼女は愛されなかった。自分のことを一番多く打ち明けた人が私だったかもしれない。なぜ、彼女の母親はこんなことを子供に話したのだろう。お腹に身篭った時ほんとは欲しくなかった、それで流れたらいいと高い所から飛んでみたりしたのだと母親そういったことがあるんだよと。それで母をよく思えなかったのだと。ある時が来て、わだかまりが取れたと言ってた。彼女と私は同級生で同い年。あなたは世間知らずだとよく言われた。こっちは年若い時から世の中の辛辣をなめ尽くして来た、この苦労はわかるまい、誰もわかりっこない、この寂しさ。世の中の人って醜いことばっかりなんだよ、いやんなるよ。そういう中で彼女は純真だったのだ。そんな彼女は好きになった人はいたのだろうか。なぜか、そんな話は一度もしたことがなかった。今はどうしているのか、いい人は見つけたのか。男っ気全くない人。この人結婚できるだろうか?結婚してもうまくやっていけるだろうか?どんな人であってもパートナーとなる親友という存在は絶対必要。彼女の食神を理解する人。「オーラの泉」で濱口に江原さんが言った。「せっかくこうして乗り越えたのだから変わらなければ」と。相方の有野が結婚してから、少し避けてきたでしょう。距離を置いてた、遠慮もしてた。独占力の強い濱口は、相方を自分だけのものにしておきたかった。それが結婚相手に取られたみたいで嫉妬していた。江原さんが言う。でも、それは前世から来ているのですと。その話は前回の日記どおり。それで思ったこと。子供の時に十分な愛情に満たされないと、次のステップに進めない。大人の常識とは、与えられたら与え返す。逆に与えたら、与え返されたい欲求もおこる。そして、次のステップが、報酬なくても無償で愛したい。親が子にかける愛など。そろそろお腹が空いてきた。誰に読んでもらおうとか考えず、ただ無性に心象スケッチしたかった。イツヨちゃん、始めに知人と書いてごめん。友達以上に深い話も通じ合えたというのに。私は冷たい人だよね。こうしてあなたのことを書けば、あなたの霊性はキャッチしていると思う。あなたが幸せになることを思っていくからね。
2006年01月28日
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「オーラの泉」を見終えて一日たった今朝のこと。濱口優を後から何となく調べたら《食神・食神》の人らしいんですが。(四柱推命で《墓》もあり・・)研究してみようというほど、熱心に人に関心を持ってはいないのですが、一応メモだけしておいた。そのメモを一晩寝かせて・・今朝、こんなことを思ったわけです。私の知り合いにも、そういえばいました、《食神・食神》の人。なぜか、台所でふっと、その人たちの顔が浮かんでくる。一人は音信不通。もう一人はちょっと距離をおいている。その人たちは、濱口が言われたのと同じような人で・・一方的、わけわかんない、すっとんきょう、このヒト大丈夫?さらに言うと、何考えてんだろうこの人?付き合いづらい。何か、付き合ってても、ほんとうには深く交われない気がするため、距離をおかないと堪えられない。多分、その人のことを理解するのは多くの人が不可解。その人も、誰も自分のことをほんとうにはわかってくれないと思ってる等です。それで濱口を江原さんが読むには、むかし家が貧乏だったため、口減らしのため中国の稽古が厳しいらしい京劇に入った。甘えたい時に甘えられない。親の愛を受けないで育った。それをとても恨みに思っているという背景があった。(江原さんはそれを前生(前世?)と呼んでいて、現在を今生と言っている)それで濱口は子供の頃、母親にべったりの子だった。片時も離れない、いつも母の後ろにべったりつきまとう。《前生》で得られなかったものをこの《今生》では思いっきり取り返したいとばかりに、母の愛を独占したがった。「そうそう、そういう子やったのよ」と濱口、にやにや。(ちょっと泣けてくる)さらに濱口、彼女に「仕事とあたし、どっちが大事?あたしが大事なら、仕事に行くな」と言われて、仕事に穴をあけたことがあるという。一人でそれを補った相方の有野(偏官・偏官)は、そのことについて何も言わなかったという。ほんとは怒ってたけど、この人言っても無駄だと呆れていたのだ・・と江原さん。今は音信不通のその知人も、まさにそんな人だった。約束を安易にすっぽかす。その人を理解しがたかった。努力するが心から愛することをしにくかったのだ。何ていい加減な人なのかって偏官のあたしはそう思ってしまう。この人看護士なのに、仕事は大丈夫なのか?結婚してうまくやっていけるのか?と心配したり。人は表面では理解できない色々な要素を持っているのだなあ。その人の後ろのストーリーを知れば、許せたり理解を示せたりってしやすくなります。音信不通の彼女のことを何だか、慕わしく、幸せでいてくれよと祈る気持ちだ。距離をおいてるというもう一人の彼女のことも、かなり心の距離が縮まった。と、これは何ていいことなんだろう。自分の中の苦手な人リストが、この調子だとどんどん減っていきそうだ。心の《苦手》というガラクタがどんどん片付いていくぞ。と、私は、次にある人のことを思った。距離を置いていると書いた、もう一人の知人の《食神・食神》の形がある日、あの人に似てる!と驚いたことがあり。「金正日」理解しがたいといえばまさにこの人。拉致被害者5人が戻ってきた時の衝撃、こんな人生ってあるだろうかと。彼は世界中の人から理解されない。霊界からも罵声を浴びていることと思う。愛されないものの恨みが根源か。けれども、彼の魂も永遠に生きなければならないのだから、もうこの辺で方向転換しなければ。
2006年01月27日
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丸裸にされた濱口優・・女性がゲストの場合、涙がはらはら頬を伝うのだけど、今日は複雑怪奇なその人について語られた言葉が、何故か目を細めて笑えた。江原さんも三輪さんも、やはり目を細めていらっしゃったから。相手が話す言葉を、「そうなの」と肯定して受け留めるキャッチボールって、話をどんどん膨らませるな。アドバイスする側をどんどん話しやすくさせる。濱口、普段自分からオーラを出さない「少エネ・タイプ」なんだって。合理性の人なのね?自分もそのタイプだなと親近感。人の目をあまり気にしないタイプ、自分が強いのだね。もっと気を配ったらいいのにと、自分を時々説得にかかるけど、なにやら面倒臭いのですね、私。どうせ人はそれほど自分を気にしちゃいないのだからと。つい自分をラクにする法をとってしまう。濱口との共通点。誰もが、こいつどういう奴かつかめない、と思われてるという実際の中身を掘り出してもらう。褒め言葉はちょっぴり、なのにそうそうと受け留めながらも、決してプラス面でない部分をも笑いに変換していた。軽い気持ちで聴いていたわけじゃない。ちょっとはグサリときている。オーラがちょっとくすみましたね、と、江原さんが言ってたから。ホントのこと言われてグサリ、ぐっさり、グサッと心に刺さるようなことってある。そんな時、言葉を失ったりしちゃいけない。考え込んで、その場でダメージを受けてちゃいけない。彼みたいに言われた言葉を、取り合えずもう一度繰り返す。そして、もっとその部分を強調してみせる。そうすると、マイナスの面がちょっと面白く反映される。なんてバカなしょうもないやつと。そんなふうに軽く交わしてみせられたら、とてもラクだな。鑑定される内容と軽く付き合えたら。客観的に、自分と付き合いたい。江原さんの声がいい。福留さんの声に似てるなとよく思う。言葉もはっきり、しっかり、間の取り方の程よさ、表現する言葉も豊富だ。表情も豊かだし、顔も体つきも親しみやすい。ふわ~ん♪と人の心を掴む。ポイントの時だけ、真剣な顔つきをする。何かゲストに握らせて帰したい、今より良くなっていきなさいよと。衣装・ヘアメイク・・三輪さんの《洋》と、江原さんの《和》の陰陽のコントラストも好き。和服姿の江原さんを見てから好きになりましたから。服装も風水ですね。女性誌に映っていた洋服姿の江原さんは、私の意識に引っ掛からなかった。和服だと、ふっくら体型が親しみやすさ、信頼感、温かい人間性の相に好転する。いや、和服はその人そのものが、ずばりと出るのだ。善良な人は、その良い部分が引き出され強調される。その人の人柄が醸し出される。そして、二人の相手を尊重したしゃべり、相槌、譲り合い、調和のトークがその場の空気をふくよかなものにする。その陰陽は父母を顕わすのだな。このやりとりの中でゲストを生みかえる。数日前、話題の人の逮捕に激震が走った。新聞は連日そのことが中心になっている。逮捕されると、まず初めに安全確保のため素っ裸にされ検査を受けるという。堪えがたき屈辱感。木は繁り過ぎた。ばっさり切られた銀杏の木。その現象はいかにも辛いけど、もっと根がりっぱになるためだよ。私もゼロから裸から出直します。 ■始まる前のウォーミングアップ偏■もうすぐ始まる!「オーラの泉」最近、一番気合を入れて観てる番組です。始まる時間が夜の11時過ぎなので、うっかり寝てしまわないようにスタンバイしている。書きながら、気持ちの準備ウォーミングアップをしている、そうすると、なぜかいいものを取り込める気がしてる。先週の上原さくらさんに対して、江原さんが一番心配していたのは、これからの家庭、夫婦のことを訴えていたと思う。あなたが本当に真剣に変わろうとしないと・・そこを一番訴えたかったのではないかな?なんて、今日考えていた。お昼休み、図書館への返却のため、横断歩道を渡る道で。人はそんなに簡単に変われるだろうか?変わろうと思ったら、今までと同じスタイルの好調リズムの中では内面の変化や成長を起こせない。それで、時に思い通りにいかなくなること、ツイテナイなんてことがおこる。それは、きっと、ひとまわりその人が成長するのに欠かせない期間なんだ。だから、時に人は物事がうまくいかないと思うこともあるのだけど、それは、あとに、もっと大きな御褒美が待ってる。数分間の歩きで、一瞬に思い巡らせ、ひとり納得した。この一週間、江原さんのオーラを感じていた。「ぜんぶ言っちゃっていいかしら?」ことわりを入れながら、いいにくいことも言っていった。彼が、この番組を作る上で、どんなに霊的準備をしているかと思った。この一週間、私は大掃除をした。で、今、部屋はピカピカで空気が濃い、いい感触を肌で感じている。登場するゲストは何か、自分の中に共通するものがあるはず。はじまる前に祈ろう。この時間を通して何かを得ることができますように。*上原さくら(生・77/3/31)丁亥・胎(偏官)/癸卯・偏官・病(偏印)/丁巳・比肩・帝王(比肩)*濱口優(生・72/1/29)己未・冠帯(比肩)/辛丑・食神・墓(比肩)/辛亥・食神・胎(偏財)
2006年01月25日
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看板のサブ・タイトルを変更しました。昨年十月からのテーマは《ラマダン》でしたので、「日ノ出から日没まで飲マズ食ワズ*ラマダン(断食)報告*今の自分が大好き、楽しい♪」限られた行数いっぱいに、その時々の目標を上げてみます。新年になって、私の心を捉えているのが「ガラクタ捨てれば未来がひらける」という本。そしてもう一つ、お正月テレビ番組で初めて見た「オーラの泉」。女性誌で話題の江原さんのトークを聴き、はじめてこの本を理解できる気がしました。実は「ガラクタ捨てれば~」シリーズは二冊あり、日本では2002年に出版された「ガラクタ捨てれば自分が見える」(小学館文庫)という本が先で、10万部以上のベストセラーになったそうです。私は続編の方を先に読んだようです。大掃除がしたくなる本かと思いきや、こちらの続編はガラクタをやっつけ大掃除した後の、プロのセラピストが行うような専門的内容でした。読んでいる間、気になっていた江原さんと出会い、あっ!コレは繋がっているんだ!って思えたのです。それで《実践偏》として「ガラクタ捨てれば願いが叶う*スペース・クリアリング*ココを聖なる場所にする」というサプ・タイトルにしてみました。土曜休暇の晴れ日、ホカロンを腰に貼り、午後から3時間ノンストップで家事に集中しました。玄関・窓、開け布団干す。シーツ・大型タオルなどバンバン二層式洗濯機を回す。まずはトイレの克服だ。粉ヌカ石鹸使って磨く拭く。ドアを開け放ち外の風を入れる。玄関の床拭きだ、ピカピカ丁寧に。椅子カバー布類、外でパンパンはたく。ガガガガーっと掃除機で家中の埃をドンドン吸い込む。家中に寒気が吹き抜ける中で、小豆を入れた玄米ご飯を圧力釜でシューシュー炊く。炊けた蒸れた、まずは仏様にご飯をお供えする。チーン!チーン!チーン!思いっきり鳴らしてみました。この《りん》を鳴らすという行為はここ数年やったことがないばかりか、《りん》をしまっていた状態だった。「ガラクタ捨てれば~」の本を読んで、初めて活用する気を起こす。この本をペラペラめくり「音で清める」という項目が目に入った。部屋に流れる音楽BGMのことだろうかと興味がいった。音の良い《ベル》というのがしきりにでてくる。はじめに風鈴(ふうりん)が思い浮かんだ。今年の夏は風鈴を吊るしてみようかな。あっ!そうだ仏壇の《りん》を買ったのに使ってない!と気づく。取り出してみた。きれいな可愛らしい鐘の音。そうだ!これをもっと活用しよう。思えば小学二年から、朝お水を取り替え蝋燭に火をつけお線香を上げ、りんを鳴らし手を合わせて「行ってきます!」と言って学校に行ったものだった。母が仕事をするようになってから、そういうことが疎かになったのに気づく。それはどういうことなのか、子供ながらにこれではいけないのじゃないかと母に言う。「じゃあ、自分がやれば?」「ん、もう!」それから私の仕事になっていたのだ。その習慣がちょっと楽しかったりもした。ちょっといいことがあったからでもあった。《コンニャク》と言われたほどに、ノロマで無口でぽかんとしていた子供だったため、苛められっ子だった。それがその習慣の後、まわりが変わってきたのだ。それと、もう一つ。両目の下に、小さな脂肪のイボがあった。その習慣の後、しだいに消えてなくなった。そんなことから、手を合わせるのはいいことなのだと身を持って体験したのだ。で、母が仏壇に手を合わせる姿は、やはり全く記憶に無い。けれども今にして思えば母のお蔭と感謝しようと思う。子供時代において、重大な二つの問題を自ら克服し、道を切り開いていったのだから。なんて良き習慣だったことか。ちょっと、そのコがいじらしい。初心に帰らなければ、ならないですね。《ベル》の話から、こんな展開になろうとは。書くと、いつも気づきがおこる。書きながら、どんどん思いがけないことが解けてきたり、気づきを与えられる。最初に感じたのは小学五年、読書感想文を書いた時。書くって面白い!って思った。《ベル》のことを心に感じていた時、こんなシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)が起こった。「 わが友よ。われわれは今日も明日も困難に直面しているが、それでも私には夢があるといいたい 」黒人牧師の説教に《鐘》が頻繁に出てくる。1963年8月28日黒人公民権運動のワシントン大行進に参加した25万の人々に向けて、リンカーン記念堂前で行なわれたルーサー・キング牧師による演説“I have a dream.”(「私には夢がある」)に自由の鐘を鳴らそうではないかと。この場は十年前、足をのばしたことがある。自由の鐘・・虐げられた歴史の人々、魂がどこの国にもある。スペース・クリアリング(空間の浄化)・・個人の部屋から、家庭、国、世界のことを、このテーマを通して考えられたらよいと思う。■「私には夢がある。いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者たちの子孫と、かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルに向かい腰掛けるときがくるという夢を。私には夢がある。いつの日にか、私の4人の幼い子供たちが肌の色によってではなく、人となりそのものによって評価される国に住むときが来るという夢を。私の父が死んだ土地で、メイフラワーの清教徒達が誇りとした土地で、すべての山やまから自由の鐘を鳴らそうではないか。もしアメリカが偉大な国であるのなら、これは実現されなければならない。ニューハンプシャーの豊穣な丘の上から、自由の鐘を鳴らそうではないか。ニューヨークの稜々たる山やまから、自由の鐘を鳴らそうではないか。ペンシルベニアのアルゲニー高原から、自由の鐘を鳴らそうではないか。コロラドの雪を頂いたロッキー山脈から、自由の鐘を鳴らそうではないか。カリフォルニアの曲線の美しい丘から、自由の鐘を鳴らそうではないか。それらばかりではない。ジョージアの石ころだらけの山、テネシーの望楼のような山、そして、ミシシッピーの全ての丘から、自由の鐘を鳴らそうではないか!すべての山々から、自由の鐘を鳴らそうではないか! そして私たちが自由の鐘を鳴らす時、私たちがアメリカの全ての村、すべての教会、全ての州、全ての街から自由の鐘を鳴らすその時、全ての神の子、白人も黒人も、ユダヤ人も非ユダヤ人も、新教徒もカソリック教徒も、皆互いに手を取って古くからの黒人霊歌を歌うことができる日が近づくだろう。「自由だ、ついに自由だ、全能の神よ、感謝します。ついに我々は自由になったのだ」と。
2006年01月22日
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「オーラの泉」見逃したくない番組。オダギリジョーがメッタ斬りにされた。美輪さん、江原さんのお顔も険し気で恐い。彼、泣きそうな子供の顔になる。でも、反発したり、フンなんて思わずに、その言葉を素直に受け止めていた。心の状況が、顔の表情に変化を顕わす。そこに、心が打たれた。皆の前で、自分の背景を全否定されたら、自分だったらとっても辛いし、下を向きたくなるし、その場から立ち去りたくなる、ふてくされたくなるもん。なのに、斬られるままに、受け入れようとしたし、そこに希望を持とうと発想を切り替えていた。彼は何てえらい子なんだろう。そういういい子は応援しちゃうぞお!って神様も、良い霊の方々も、そう思うに違いないね。日頃、特に気を留めていなかった私も、彼の今後を応援したく思ったし、どうこの言葉を生かしていくのかをチェックしてみたいって思ったもの。素直に人の言うこと聞く子って発展するね。マイナス思考を克服する《食事法》と《呼吸法》のアドバイス。薄味の美味しくなさそうなという食事法、鼻から吸って腹にため、背筋を伸ばして口から長く吐き出していくという呼吸法。それと、部屋の中のガラクタを捨てること。ちょうど、昨日からそれにちなんだ本を読み始めていた。「ガラクタ捨てれば未来がひらける」(著/カレン・キングストン)読んでると、体の空気が浄化されていくようなの。多分、血液のサラサラがおこっている。ところで、昨日のオダギリジョーさん、ちゃんと捨てなさいと言われたもの、執着捨てて、バッサリ捨ててね。そこからだよ。そしたら、あなたはどんどん発展していくよ。なんだか私も発展していきそうな気になるよ。あなたの姿は、私の姿だよ。すごくいい波動を持った番組と感じて、最近見始めた「オーラの泉」。だからこそ、美輪さんと江原さんの関係に悪いものが入らないようにって思ったの。だって、これからも参加して行きたいんだもん。
2006年01月12日
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「チャングムの誓い」の主題歌「オナラ」を歌っているのは、日頃からパンソリで声を鍛えているという十代の少女三人だ。歌声の魂になぜだか涙が沸いた。パンソリは腹から大きな声をはりあげる。練習するのに、山で三時間熱中することもあるという。宮廷に上がった女性は王に献身する「王の女」を意味するとして、普通の結婚はできない立場という。作曲家は、この歌は十代の女性でなければならないとして、イメージに合う歌い手を見つけられずに、あきらめる寸前だったという。彼女たちの容姿は至って普通。ドラマでいえば、目立たない脇役だ。人は人に見出されて、評価を受けると自信を得る。が、いつしか人は調子にのりやすい。(子役の子を見て心配になった)日頃からチヤホヤされていない、傲慢さ自分のない、無垢の美しさ。彼女たちの歌で、昔ながらの韓国のパンソリのイメージが変わる。恨(ハン)の悲し過ぎや、受け留められない重苦しさとかでなく、清さ・潔さ・決意・まっさらさ、その時代の女性達が自発的に仕えた出家者のように思わせた。■潜龍(せんりゅう)とは、深い水の底、暗闇にじっと潜んでいる龍のこと。龍は千年の間、地に潜み、天の時が来るのを待って徳を養うといわれている。夜に眠れば体力は蘇り元気は復活、翌日に活動するエネルギーを養う。冬を通りすぎてこそ新しい春が来る。潜龍とは成長の発端、始まりの段階。世に出るにはまだ早く、計画を練る時・温める時・耐える時。焦らず事を起こさない。しかし、用いられない、認められない、恵まれない時があることは幸福である。■不遇に耐え、じっくりと力を蓄え、土壌をしっかりと固められる潜龍の時は、認められてはかえって困る時期である。「潜」は、まだ現象化されない潜在的なものという意味で、「現象」に対して「潜象」という。潜龍の段階は、いずれ表に現れ出るための想像、想念、思考などの内面的な蓄積、貯蔵をしていく時。また「潜心」「潜思」といって静かに心を落ち着けて、物事に没頭することをいう。純粋に深く集中することができるのは、この潜龍の時だけである。■世の中の最下層にいる時は、多くのことを観察し、力を養うことができる。「人を見る目」の素養になる、人情の機微を知る時期。世の中に認められ、それなりの立場になると、人は本心を見せてくれなくなるもの。認められない時は風当たりも強い分、うそいつわりのない、人の心根に触れることができる。完成された種になる時。構想を充分にあたためる。単なる思いつきではない、実現可能なまでの明らかさが、大地を震わせるような陽気を発して、変化を起こすのだ。■潜龍の時に抱いた志は、世に出て現実と向き合うと、どうしても制約の壁にぶつかり小さくなる。目の前に見えることや環境に負けないためにも、なるべく大きく明確に描くことが肝心。どのくらいそのイメージをリアルに明らかに描くかにより、自分が何者になるかが変わってくる。志を大きく持つこと。これが変化の始まりであり、成長の進化の元。すべてのものごとは極まった瞬間に変化する。「窮まれば変ず」・・ものごとは極まった瞬間に、新たな変化の兆しが生じる。 (■部分はリーダーの易経より参考・抜粋)
2006年01月10日
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*大きく考えよ。大きく考えれば、あなたはきっと大きな体験をするでしょう。《マーフィー》朝目覚めたら、一番の体の善行として、水を口に含むことを考える。朝一番に水を飲むと、決して便秘をしないし何事もスムーズに向かうからだ。が、しかし仏壇のお水を優先してないことに気づくとき、心に呵責が生ずる。と、すぐにお水を新しくして差し上げると、気持ちがすーっとおさまる。疎かにしていたことを反省。物事が表面的生活になると後回しになったり、うっかり忘れたり。水の乾きは、警告である。朝目覚めたら、一番の心身の善行として、仏壇にお水を差し上げます。と、書きながら、これで良いのか・・と考える。!神様にお水を差し上げよう。朝陽が差し込む窓辺に。■水に向かって「愛」を語りかけ凍らせた時は綺麗な雪の結晶を見せるという。クラシックの名曲を聞かせた時も、同様だという。逆に、愛のない美しくない言葉を投げかけた時は崩れた形になってしまうのだとか。西洋では、万物の背後には四大元素<水、土、火、風>という四つの力が働いているとの哲学が生まれ、東洋では、世界は五行<木、火、土、金、水>で構成され、《元素》は連動しているとされる。人間は古来いわれているように<水、土、空気>でできているのだ。■《水五訓》とは・・・・・・ 一、「自ら活動し他を動かしむるは水なり」・・・・・・ 二、「常に己の進路を求めて止まらざるは水なり」・・・・・・三、「障害に逢ひて激しく其勢を百倍し得るは水なり」・・・・・・ 四、「自ら潔らかにして他の汚を洗ひ清濁併せ容るるの量あるは水なり」・・・・・・ 五、「洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変し霰(あられ)となり凝ては玲瓏(れいろう/美しく澄みきっている様子)たる鏡となり其性を失はざるは水なり」・・・・・・■水は人間の体重の約六〇%を占めている。人間の身体は、酸素・炭素・水素・窒素・カルシウム・マグネシウム・リン・マンガン・鉄・コバルト・銅・亜鉛・ホウ素・アルミニウムなどの《元素》で構成。構成分子は<水>、生体高分子として糖質・脂質・たんぱく質・核酸無機物質(ナトリウム・カリウム・塩素など)や有機物質(たんぱく質・グルコースなど)を含んだ体液として存在。体液は細胞外液と細胞内液に分けられ、その大部分は細胞内液と細胞を取り巻く間質液である。*賢ければ、ぼけよ。孔子午前中の空気の中で、情報整理に熱中していた。多くのものを捨て片付けが出来てスッキリ。そんな中、否定的な批判的文を目にして思った。私のようなものに何の正しい判断ができようか。その奥ふかいところに、私には解釈不可能な、何か深い意味が隠されているかもしれないではないかと。「渾沌」とは、お水を差し上げたい!と閃いた神様を象徴していると考えると楽しい。迅速、機敏の意味を持つ「シュク」と「忽」はこの世の判断基準では有望格であるが、もう一つの意味は短いという時間をあらわす。身体が生存する命の有効期間は目に見える世界。その逆は目に見えぬ世界だ。 ■「南海の帝を「シュク」と為(な)し、北海の帝を「忽」(こつ)と為(な)す」これらの名前には寓意がある。「シュク」「忽」はいずれも迅速の意味で、すばやく機敏なことから人間的有為(ゆうい/将来大きな仕事をしそうな才能を持っているように思われる様子)をたとえている。「渾沌」は未分化の総合態で自然にたとえている。人間的な有為の賢しら(さかしら/分かったふりをして・りこうそうにふるまうこと)が、自然の純朴を破壊することを象徴的に説いている。(解釈・金谷治)■中央の帝の渾沌は、大変おおらかな親分であったが、コントンとして、ただもやもやと丸く鎮座しているのみで、目も口もない。お世話になった南海の帝と北海の帝とは、恩に報いたいと相談した。「わしらには、目耳鼻口と七つの穴があるおかげで、見たり聞いたり、かいだり食べたりすることが出来る。が、渾沌様には一つの穴もない。ひとつお礼のしるしに、お顔に七つの穴をあけて進ぜよう。」二人はノミとツチとを携えて訪問した。そして毎日一つずつ、せっせと渾沌に穴をあけてあげた。■ところがなんたることぞ、渾沌は日増しに衰えて、七つの穴のそろった七日目の朝、プッツリとこと切れてしまった。渾沌はコントンとして自適しているところにその本領があったのだ。いたずらに五感を悩ませる耳目鼻口などを与えられては、迷惑どころか、ノイローゼにたえかねて死んでしまったのである。耳の穴が二、目と鼻の穴も各二つ、口が一つ、計、七穴となる。人間の賢しらな小細工は、しばしば物本来の姿をぶち壊して、ぶざまな残骸をさらすことになりかねない。(解釈・藤堂明保)
2006年01月08日
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*幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。《ジイド》昨日の日記の誤字を一つ直そうと編集を始めたら、どんどん文の片付けがはじまってしまった。部屋の模様替えの時もそんな調子になる。それで、《渾沌》について書いていたら、彼に妙に魅力を感じてしまった。彼はどんな人なんだろうって。確か、目も口も鼻も耳もないとか、あなたは何者なのか。余計なことをしなければ、《渾沌》はこれまでどおり彼らを手厚くもてなしてくれたのに。小賢しい考えや既成概念での発想は、《渾沌》においては通用しない思いであるばかりでなく迷惑なものとなってしまいました。私はこの話を日常の出勤通路を歩く時、いつも考えています。私の家と、最寄駅の間の中心点にコンパスをおいて円を描いてみます。勿論、頭の中でですが。そうしますと、家と駅は、円形上の南と北に対立して位置しています。駅への道は、本当に円のように、右回りにも左回りにもあります。その間に大きな河川が流れています。その大きな河川は《渾沌》のようにも思えます。右側を歩いて行っても、左側を歩いて行っても渡れるように、大きな橋がそれぞれの場所に架かっています。その大きな橋を渡って、私の日常は運営されています。その橋も《渾沌》のようであり、また《渾沌》のもてなしのようにも思われます。日々私をもてなしてくれているというのに、お礼の気持ちも思いつきませんでした。おおくをあたりまえの顔で生きているけど・・。私はあたりまえの日常に尽くされているけれど、陰で尽くされた誠意というものに、気づきもせずに。からだは裕福すぎ、こころは無知で乏しかったのです。家から河川、橋までの間に、円の真ん中を歩くことになる道も最近発見しました。実は、それが一番の近道だったことも、この地に十二年住んでやっと知ったことでした。私は、遠回りのせせこましい商店街どおりを、左周りの曲線道を最良の道と思い、ずっと踏み締めてきたのでした。去年のラマダン断食月、西に陽が沈む前の強烈な夕陽に惹き付けられて、いつも歩かない反対側の曲線道を歩いて、家に帰りました。そちらは道幅が広いためか、空が大きく目に入るのです。帰り道、そちらに足が向く時、いつも月がくっきりと出ていて紺碧の空を眺めながら歩きました。それから、朝もその道を。右回りの曲線を、時計回りで一日を出発するようになったのです。雪が降るようになり、風が強く吹きつけるようになって、真ん中の道を冒険してみたくなりました。おもいがけず最短距離で、橋にたどりつけました。私は、三通りの道を気分で選び行き来します。真ん中の道を歩く時、なぜか落ち着いた良い気分になります。昔ながらの蔵のあるような古民家の道は、思索するおだやかな気持ちになるため、特に心が向き歩きたがります。その道を歩く時、《渾沌》のことのことを考えます。自分の考えが必ずしも正しいわけではないのだと思いながら。■「南海の帝をシュクと為(な)し、北海の帝を忽(こつ)と為す」・・いずれも迅速の意味、すばやく機敏なこと。極めて短い時間、束の間(つかのま)、あっというほどのわずかな時間をあらわす。<シュクの意>・・小さく細かくちじむの意を含む。<忽(コツ)の意>・・心がそこに存在せず、はっきりしないまま見すごしていること・たちまち・いつのまにか・うっかりしている間にの意。それに対し「渾沌」は未分化の総合態で自然にたとえている。 ■この人間の束の間の生命を象徴するかのごとき、シュクという名の南の海の支配者と、忽という名の北の海の支配者とが、ある時、その遙かなる海の果てから、世界の真中・・渾沌の支配する国で、ゆくりなくも一緒にめぐりあった。「渾沌」とは、大いなる無秩序、あらゆる矛盾と対立をさながら一つに包む実在世界そのものを象徴する言葉にほかならない。訪れてきたシュクと忽の二人を、渾沌は心から歓待した。■<渾(コン)の意>・・軍は勹(とりかこむ)+車で、並べてまるくまとめること。渾は<水+音符軍>で、全体がまるくまとまり、とけあっていること。ごたまぜになっているさま。分化せずに全体が一つにとけあっていること。ぜんぶひっくるめて。<屯(トン)の意>・・水+音符屯(トン/ずっしり)混沌とは、万物が形をなさず、もやもやとしたさま。宇宙・万物のはじめの状態をいう。混とは、まるくまとまるの意。■シュクと忽とは、束の間の生命を渾沌の国 ・・心知の概念的認識を超え、分別の価値的偏見を忘れた実在そのものの世界に歓喜した。そして渾沌の心からなる歓待・・生命の饗宴に感激したシュクと忽は、この渾沌の行為に報いたいと思った。いろいろ相談した二人が、やっと思いついた名案とは・・そうだ!人間には七つのあな、目耳口鼻があって、美しい色を視、妙なる音を聴き、美味い食物を食い、安らかに呼吸する。■ところが、この渾沌だけには一つもあながない。そうだ!せめてもの恩返しに、ひとつ七つのあなをほってやろう。二人は力を合わせて、せっせと渾沌の体にノミを揮(ふる)い始めた。最初の日に一つ、次の日にまた一つ、その次の日にさらに一つ・・七日目にやっと七つのあながほりあがった。けれども、目と耳と口と鼻の七つのあなをととのえて、やっと人間らしくなった渾沌は、よく見ると、もはや空しい屍と化していた。 (■部分は『荘子』(朝日新聞社・中国古典選)より参考・抜粋)
2006年01月06日
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*すべての日がそれぞれの贈り物をもっている。─マルティアリス白のヒヤシンスの花は一月四日の誕生花なのだそうです。花言葉は《心静かな愛》《控え目な愛らしさ》・・もうすぐお花屋さんの店先に鉢植えになっているものが並ぶ頃です。ちょっと、かがんで、鼻を近づけてみます。初めて癒された花の香り。今まで感じたこともなかった花の匂いの刺激。鉢植えを一つ買って、お部屋に置いておきます。出掛けて、家に戻った時、「ただいまーあ!」と部屋に入ると、「おかえりなさーい!」と花の香りが出迎えてくれる。また、そんな季節がやってきたのです。■一陰一陽之(これ)を道と謂(い)う・・「陰陽は対立しあい、変化して万象は止むことなく循環する。これを道という」・・「一陰一陽」には対立するという意味と、陰陽はかわるがわる自在に転化するという意味がある。陰陽は天と地、男と女、進と退というように、対立する二つの性質に分かれ、たがいに反発しながらも克服・統一・交じり合おうとするを《道》という。より高次の発展と結論として、膨大なエネルギーを発し、万象を生み出すとしている。■夏と冬は対立しながら、その力を転化させ、四季は巡る。冬が極まれば、春、夏へと向かい、夏が極まれば秋が来てまた冬へと向かう。陰陽は分けてしまえば単純かつ明快ですが、善と悪、優と劣を判断しようとすると、固定されたものではないことに気づく。正を突き詰めれば邪にも転換し、邪を突き詰めていくと、正にも転換する。陰陽に分かれたる前の、万物の始まりとする太極は、混沌とした宇宙ということになる。陰陽の根本である混沌とは・・。■南海の帝を<しゅく>といい、北海の帝を忽<こつ>といい、中央の帝を渾沌<こんとん>といった。<しゅく>と<こつ>はときどき渾沌の地で出あい、渾沌はいつも手厚く彼らをもてなした。二人はその渾沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれにも〔目と耳と鼻と口との〕七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この渾沌だけにはそれがない。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。 「荘子」応帝王篇(岩波文庫)余計なことをしなければ、《渾沌》はこれまでどおり手厚くもてなしてくれたのに。小賢しい考えや既成概念での発想は、《渾沌》においては迷惑なものでした。ところで、私の家は南にあり、最寄駅は北にあります。その間(駅近く)に大きな河川が流れています。大きな橋を渡って、私の日常は運営されています。橋は、日々私をもてなしてくれています。お礼を思う気持ちも思いつきませんでした。また、家と駅は円形上に対立して位置しています。道は右回りにも、左回りにもあります。橋は二つ存在しています。家から橋までの間に、円の真ん中の道も最近発見しました。私は、三通りの道を気分で選び行き来します。最近、真ん中の道を歩く時、落ち着いた良い気分になるので気にいっています。その道を歩く時、この話を、《渾沌》のことを思います。純朴な、自然発想で進まなくては。 (■部分はリーダーの易経より参考・抜粋)
2006年01月06日
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*音楽は精神の中から、日常の生活の塵埃を除去する。《バッハ》今日も、本の書き写し作業を日課のようにしてみた。一冊の本が、これで気分よく返却できます。心に悔いなし、負い目なし。ただ、そのまんま書き写すのではなく、ある自分が決めた文字数内におさまるように、枝葉を伐採しながら、自分がわかる言葉に直したり、切り貼り、組立て、入れ替えなどして、心の蔵に残していく。文章力が少しずつ良くなっていったら楽しいな。日々、喜び。書く作業を終えて思ったこと。明るい心を持つことなんだなと。自分の良心にそむかない。自分の良心と信頼関係を持つこと。つまり、悪いことをしない。大きなことには誰もつまずかない。小さなことに注意を払う。小さなことを人は誰でも疎かにしがちだから。プチいいことをしよう!と思った。人の目、人の評価を気にせずに。部屋の空気はクラシック音楽が心の状態を静かに保ってくれる。■人間にとって気分・気持ちの暗いということほどいけないことはない。国の空気、社会の雰囲気が暗いと不安になる。個人で言えば気分・気持ちである。「なんとなく憂鬱な空気、それも世の中、人間に反感を持ち、これを憎悪するような不快な空気が、現代のアメリカ社会を包んでいる」現代のアメリカ社会の雰囲気を嫌って孤島に渡り、詩作や読書に耽ったアメリカの詩人、ジェファーズの言葉。■木の枝葉が茂ると暗くなるから昧(まい)に通じる。曖昧(あいまい)とは、態度や物事がはっきりしないこと・怪しくて疑わしいこと・いかがわしいこと。不昧(ふまい)とは、 道理にくらくないこと・聡明なこと・物欲などに心がくらまされないこと。「諸事、筋を通して、曖昧や暗いことを排して明るくしてゆかねばならぬ、不昧にもってゆかねばならぬ」不昧(ふまい)とは不昧(くらまさず)の意。■老人「いったい大修行をした者は因果の支配を受けないものなのか」と訊ねた。すると百丈和尚は言下に「不昧因果だ<因果を昧(くら)まさずだ>」と答えた。何をしても因果に支配されないというのではない。善因善果、悪因悪果、良いことをすれば良い結果があり、悪いことをすれば悪い結果があるのは当然で、因果にはちゃんと法則がある。その法則を《くらまさないようにする》のが修行である。■これまでの成績が悪かったことなど、いまさら悔やむ必要はない。よく省(かえり)みて、つまらぬことを省(はぶ)いてゆく。そこで初めて、また新しい仕事ができる。省みてつまらない雑草を刈り取って、開拓を進めてゆく。人間にとって「省」<かえりみてはぶく>ということは本当に大事なこと。木でも同じことで、枝葉末節の繁茂が一番いけない。そこで剪定をし無駄な枝葉をはぶくわけです。■「六中観」― 味わえば味わうほど、用うれば用うるほど、繰り返せば繰り返すほど、滋味津々(じみ‐しんしん/ 豊かで深い精神的な味わいに興味しんしん)たるものがある。活学を興して活人をつくる、これより他に道はない。それまでは混迷の時代は続くだろう。では具体的にいかに実践するか、その時に一番役に立つ六中観とは・・以下六つ。■「忙中 閑有り」― 閑(ひま)ができたら勉強しよう、などと考えてもだめ。閑のある人はたいていあくびをして呆(ほう)けたようになっている。閑というものは忙中にある。またそれでなければ本当の閑ではない。閑という字は、門を入ると木立があって、しずかでしーんとしている、という字ですから、何もないのではない、心の落ち着いてしずかなさまが閑なのです。■「苦中 楽有り」― 苦・楽は相対的なもの、苦の中に楽があり、楽の中に苦がある。お茶でも、あの苦いタンニンの中にあるカテキンが甘いという。人間も苦しんで学ぶところに楽がある。「死中 活有り」― もうどうにもゆけなくなったところに本当の活きる道がある。「壷中 天有り」― 俗世間の中に生活しながら、その中にあって本当の自分だけの世界、別世界を持つ、またそれを求めてゆく。■「意中 人有り」― 恋人も意中の人に違いないが、人間は何につけても意中に人を持っていることが大切。事業をやる時はなおさらのこと、私生活でも病気をした場合はどの医者にかかるとか、困った時はどの友達に相談するとか、いつでも意中に人の準備がなければいけない。「腹中 書有り」― 腹の中に書がある、信念・哲学を持っている。平たく言うならば、愛読書を持っているということ。以上六つ。 (■箇所は干支の活学(著・安岡正篤)より抜粋)本に貼った付箋をようやくはずし終えた。書き記しまとめてこそ、深い意味が読み取れたというもの。多少なりとも自分のものに取り込めたという感想を持った。渡辺昇一の読書法にこのようなことが書いてあったかと思い起こす。赤線を引くとか、これはという文章を書き留めるとかいうもの。人と深く対しているようだ。返却寸前の書き残しておきたい次の本がある。人は本である。いや本は人である。
2006年01月05日
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*誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。宮沢賢治日常生活の中で、ああ、コレ書きたいなと思いつくこと、思い浮かぶことがあったりする。あまりに些細なことだったりすると、文章にするほどでもないと思えば、忘れ去ったり、興味が失せてしまったり。時はどんどん過ぎてゆくから。小さなウエスト・バックでも締めてネタ帳でも持ち歩こうかと、思いついたことがある。宮沢賢治は、雪の降る自然の中に身をおき刺激を受けながら、手帳に言葉を記したという。中学の数回きりしか記憶のない朗読クラブの、顧問の国語の先生が言っていたから。『雨ニモ負ケズ』暗記してたけど、手を挙げて朗読できなかった。勇気がなかった。「玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」やっとその意味がわかった。彼が一日に玄米四合食べていたということ。夫の母方の実家は、賢治が生きた地域に近い農家である。まだ祖父の生存していた子供の頃、一度だけ稲刈を手伝ったという話を聞いた。村の山奥にある家は、ぽつんぽつんと数軒あるきりで、森になっている農家だ。その時のご飯風景、少しの野菜と山盛りの白飯だったようだ。しきりにご飯のお替りを祖母がすすめるのだが、商店街での暮らしに慣れている少年の夫はおかずがないのにと、思ったという。東北地方の農家で早死にが多いことの原因に、白飯の消費量の多さがあげられているという。栄養管理士の話。なるほど、おかずがないのだから白飯四合もわかる。賢治は玄米四合だったけど。自然に刺激を受けて詩にするように、私も心に刺激を受けたこと書き留めたい出会った言葉を書き記すのも、心に充実を生むと感じている。書くと心が満たされる。でも昨年は、自分から発する言葉じたいが少ないため、時々しか書けなかった。今年はコレ!《書き写すこと》刺激を受けたこと、書き残しておきたいことを。■朝起きた時と夜寝る前に必ず真向法をやります。インドの礼拝は五体投地礼といって、両足を投げ出して、額を膝につけるようにして拝む。長井津という人は実業界で若くして金儲けに成功したが、四十代に脳溢血で半身不随になった。大いに悔いて―治りたいという気持ちもあったが、懺悔の気持ちの方が強かったそうだ。■ところが熱心にやっているうちに、次第に手足が自由に動くようになって、五体投地礼ができるようになるとともに、いつか半身不随も消滅して、元の自由な身体になったという。最初これを礼拝体操と言っていたが、ある時明治神宮に参拝したところ、真っ向から霊感を得たので、それから名を「真向法」と改めたとのこと。■「親不孝をして相済みません」と言って、仏壇の前で真向法をやれと奨めている。私自身、許されるかぎり仏壇の前でやっている。真向法の四つの型の中でも、正座して体を後ろに倒し、頭の上で合掌する運動は難しい。真向法は身体の持ち方を本然に返して、日常生活からの汚染・悪習慣から是正する最も良い方法である。■汚染を受けるのは身体ばかりではない。心が受ける汚染をできるだけ慎むようにする。愚論に類するものは読まぬようにすると共に、心が浄化されるような書を読む。特に朝、一時間と言わぬ、三十分でよい。昔の人も枕上、馬上、厠上の読書。その時に受けるインスピレーションはとうてい書斎の中で得られるものではない。<■部分は干支の活学(著・安岡正篤)より抜粋>
2006年01月04日
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*行動だよ。何もしないで、ある日突然潜在能力はあらわれはしない。勝沼精蔵(解剖学者)平日は朝と昼、一日に三十分は走る習慣、薄着で走る昼どきに、風の冷たさに震え上がったことがある。ぬくぬくしたこれまでのものをはらうという、一種のお祓いの意味があるのかなと。お正月のお祓い作法、江原さんの記事を読んだ後思ったこと。夕べは夜通し、毛布にくるまりながら書き写した。それが意外に楽しかった。朝方、窓を開けようとしたが凍っていて開かず、結露がツララと化していた。洗濯ものが外に干せない。その後、強風でベランダの植木が倒れ、空の灯油タンクが転がる。風が街を祓い清めた午後、目が覚めた。わあーい!いいお天気。薄着のまま窓を開け放し洗濯物を外に出す。窓・玄関ドア・トイレドアも、全てを開け放つ。圧力釜で玄米を炊く。かじかむ手を時々蒸気にあてて温める。ビュンビュン掃除機をかける。コタツをセットしなおす。やっぱりお部屋の空気はこうでなくちゃ。洗濯物を取り込んだ。部屋の片付けが済み、戸締りをすると、まもなく陽は雲に隠れた。わずかな陽気だった。「丙」(ひのえ)とは陽気が囲いの中に入るという意味があるらしい。■元来干支(えと)=十干・十二支は、生命あるいはエネルギーの、生長収蔵すなわち変化の過程を系統的に分類したものである。昨年の干「乙」(きのと)は、草木の芽が新しい陽気に逢うて古い殻を破って頭を出した一昨年の干「甲」(きのえ)が、外の寒気の抵抗のために真っ直ぐに伸びられなくて曲折している姿である。■今年の干「丙」(ひのえ)は干支の学問から言うと、一昨年、昨年の陽気が一段とはっきり発展することである。乙より進んで陽気の発展した象。丙は(あきらか・強い)を意味するが、文字学的に言うと、一は思い切って伸びる陽気を表し、次にカコイを表し、「入」という字を書いている。陽気が囲いの中に入る。■つまり物事は盛んに、なりっぱなしということはない、ということをこの字は表している。物盛んなれば衰うる理で、陽気がすでに隠れ始めることを意味する。生命・創造の働きというものは、無限の循環である。例えば、我々の生命力が伸びて成長するということは、同時にこれは老衰するということに通じる。■丙は昨年の乙に較べて陽気があきらかに伸びるのであるが、しかしもうその時すでにこの陽気が囲いの中に入るわけで、また入れなければいけない。つまり盛んな陽気がだんだん内に入ってゆくことを表している。物は盛んな時に必ず衰える兆しを含んでいる。盛んになったからといって有頂天になることはもっとも愚である。■しかし反対に衰えるということは、やがてまた盛んになるという生の未来を含んでいるのであるから、衰えたからといって落胆するのは道を知らざる者のことである。人間、老いるということを多く嘆くのであるが、決してそうではない。老いたら老いたで楽しみもあれば、また力もある。■干の「丙」は、一とカコイと入から成っている。上の一は昨年の「乙」を承けて、陽気、活動が一段と伸びることを表し、カコイは左右に張りめぐらした形、入はそのカコイの中に入ることを示している。つまり丙は、陽気、活動が一段と伸張して、それぞれの域内に入ることを意味している。■言い換えれば丙は「それぞれの分野において、ぐずぐずすることなく、積極的に活発にやってゆかなければならぬ」ということを教えている。そこで丙には<さかん>という意味があり、<あきらか・明るい>という意味もある。それを五行思想、自然現象で言うと、火が一番燃え広がるゆえ「ひのえ」という。■丙年は物事がみんな明らかになってわかってくる。今までいい加減にしておいた物事がはっきりしてくる。好むと好まざるとにかかわらず、今までのようなただウヤムヤではいけない。そこで行動的にならざるを得ない。人間、物事があきらかにわかってくると、心配するようになる。よくわかるとは同時に心配なことでもある。■丙の字の上の一は陽気がぐんと伸び切る姿で、昨年乙年が陰気が強く、伸び悩んでいた陽気が、丙の年にはぐっと伸び切ることを示している。生命・エネルギーが盛んになり、高まることを意味する。しかし循環の原理により、その陽気が窮まるとカコイの中に陽気が入って、やがて陰気が生ずる気運となるのである。■壮年のエネルギーが熟年となり、やがて老衰に向かうがごとくである。丙年は昨年に比して物事が盛んになり、伸張、エネルギーが強く燃焼発展することを示す。丙年は事業においても積極的に進展させ得る年であるが、有頂天になって喜んでいては、カコイの中に陽気が入るように、衰弱を来たすことを忘れてはならない。
2006年01月04日
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*人間はときどき、努めて頭を空っぽにしなければだめだ。五島慶太出勤路に銀杏並木があります。去年の初冬すっかり落葉し終えた直後の事、少しの枝を残し、幹からばっさり切り取られている姿を、ある日気づきました。ちょっと可愛そう、それといきなりなので、髪の切りたての時のように、ちょっとぶかっこう。でもその意味を知ってるよと思いつつ。前回に引き続き「干支の活学」(著・安岡正篤)からの抜粋と、辞書での意味の確認作業。重複する内容も多々有り。平成十八年の干支は丙戌(へいじゅつ/ひのえ・いぬ)です。今回、ここでは《戌》についての箇所を抜粋し、少々手を加えまとめました。干は幹、支は枝で、生命・創造・造化を表します。戌は戊(ぼ)に「一」が加わったもので、戊が茂(しげる)を意味するように戌も茂と同義ですが、それに一陽を示す「一」がついているのです。草木茂る中に陽気を蔵するもので、また裁成の意味があります。■戌の字義・・戌は十二支の十一番に当たり、音は「じゅつ」、訓は「いぬ」である。いぬの年・いぬの月・いぬの刻(午後八時)を表す。いぬの月は陰暦の九月(陽暦では十月)である。この月は草木が繁茂、老熟し、万物が稔(みの)る月、やがて陽気は地下に入るが、まだ一陽を残している月である。繁茂成熟した樹々は日当たりも悪く風通しもよくないので、いわゆる樹の五衰を起こす。■ご‐すい【五衰】とは・・<仏語。天人の死に際して現れるという五種の衰えの相。経説により差異があり、涅槃経(ねはんぎよう)では、衣装にあかがつく、頭上の花冠がしぼむ、からだが臭くなる、脇の下に汗が流れる、本来いるべき座にいることを楽しまないの五相で、天人の五衰の意> 懐が蒸れ、虫がついて、梢(うら)止まりを起こし根上がり(裾上がり)し、やがて梢枯れ(うらがれ)となる。■こ‐ずえ/うら【梢】とは・・<木の末の意。木の幹や枝の先。木の先端>これを防ぐには戌削(じゅつさく)と言って、不要な枝葉を切り払う必要がある。つまり剪定(せんてい)を行って樹を裁整するのである。こうすることによって、根の疲れが癒され根固めをすることができ、翌年の一段の生長が期待される。戌削して不用な枝葉を払うといっても、来年の生長に必要な枝葉は残しておかねばならない。■これが一陽である。不要な枝葉を払ってさっぱりした樹の姿は美しい。一説に戌は刃物で秋の稔った植物を刈り取り、一束にする。あるいは倉に納めて、閂(かんぬき)をかける字ともいう。いずれにしても、戌の年は思いきった大整理をする年である。簡素の美に徹する年である。家事においても、会社の経営、官庁の行政においても、余分な贅肉を切り取り、無駄な支出を節約しなければならない。
2006年01月04日
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*ただ はつらつとした活動によってのみ、不愉快なことは克服される。ゲーテ干支の活学(著・安岡正篤)・・図書館で予約して借りたものの、何度も中断し、読み切るのが難しかった。途中のまま返却するのは悔しく、三度も延長した。図書館通いを始め、読書が習慣付いて、まだ一年と少し。なので、どうしても読み切ってから返却したかった。この本が今年始めの考察材料になってくれようとは。下記の内容は、書き留めたかった抜粋箇所のまとめです。借りた本のため、赤線を引くわけにはいかず、付箋を用意して、電車の中でも心惹かれたページに貼りつけていきました。書き写し作業と辞書引き作業でしたが、写していくと難しい言葉遣いも、紐解けてくるような気がしてきました。どうぞ今年が見えてきますように。■干支とは・・生命あるいはエネルギーの発生・成長・発展・収縮の循環過程を分類・約説した経験哲学。「干」とは・・生命・潜在エネルギーの発展段階における内外対応の原理を十種類に分類。「支」とは・・生命・細胞の分裂から次第に生体を組織・構成・成長、やがて老衰、ご破算になり、また元の細胞・核に還(かえ)る―これを十二種類に分類。■干支とは・・干は幹、支は枝、生命の発生から順次変換して、その終末・含蓄に至るまでの過程を、干は十段階、支は十二段階に解説して、これを組み合わせ六十種類に分類。だから六十番目に元に還ってくる。年にすれば六十年目に還る。(還暦)月にすれば六十ヶ月、即ち五年目、日にすれば六十日目に還ってくる。■私たちの生活はとかくマンネリズムに陥りやすい、即ち因習に堕しやすい。肉体的にも、精神的にも機能が麻痺してくる。そこで、意気ばかりでなく、あらゆる点において常に新たにする、維新・一新することが必要。月だと六十ヶ月、五年も間があるのだから、自然その間に停滞・沈滞・頽廃(たいはい)が起こる。■さらに六十年も経てば、身心共に強健な人でも、相当の沈滞・疲労は免れない。大いに維新する必要あり。万物みな固まる秋になっても、えびだけは固まらず殻を脱ぐという。えびが殻を脱がなくなったらそれは死の時。「六十にして六十化す」とは、えびの如く常に生命的であり、新鮮であり、進化してやまぬということ。■そもそも人間の飲食というものは、その人間が住み慣れたところにできる、季節のものを摂取するのがもっともよい。これは西洋の医学・生理学などの一つの結論である。東洋医学では昔から主張されてきたこと。何千年か前のことを、また何千年か経って証明した。一種の真理の再発見というか、真理そのものは変わらない。■オーストリアの学者であり、精神病理の大家フランクル教授の言葉より。『現代の人々の最も重大な誤りの一つは、むやみに享楽や幸福を追求することである。いかに生きるかということは、いかに楽しむかということであり、それを人間の幸福と考えて、要求してやまない。苦労とか犠牲とかいうものをまったく知らない。■~しかし本当の幸福、楽しみはさようなものの中にはない。長い目でみているとことごとく逆になる。人間の真の楽しみ、真の幸福は、むしろ進んで自己をなにものかに捧げ、なにものかの犠牲にすることによって得られる。こんなささやかな、つまらない問題になんの意義があるか、そんなことをしたってろくなことはない、■~などとせっかくの善事を馬鹿にして、行わないことが多いが、その人間の行うことがどんなにささやかに見えても、それがどんなに大きな影響があるか、これは量り知るべからざるものがある』」という。(論理学の法則)因果応報の神秘な理を諄諄(じゅんじゅん/よく分かるように筋道を立てて言うことの意)として説く。■戌の意味・・戌は戊に一を加えたもので茂(も)と同義語。すなわち枝葉末節が茂って、日当たりが悪くなり、風が通らなくなることで、末梢的煩瑣、過剰を表す文字。枝葉が茂ると木が傷む。そこで植木屋は思い切ってこれを刈り込んで、剪定をして、風通し・日当たりをよくし、根固めをする。そうして初めて木が生きる。■~これはまだ木にそれだけの生気が残っているからで、中の「一」はその陽気を表している。それを生かしてゆけばまだまだ続くということ。戌の年とは、「思い切ってあらゆる停滞・沈滞・怠慢を一掃して、溌剌たる状況に持っていく。思い切って枝葉末節・煩瑣(はんさ/わずらわしさの意)を刈り取って、簡易化する。
2006年01月03日
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