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懐かしい本が文庫になっていることを新聞の書評で知った。 この本を読んでいた頃、中国関係の本を読みあさっていた。香港に関するものも読んだし、香港映画や中国映画もいろいろ見た。 あの頃は、中国に返還された後も大きな変化はないのではないかと思っていたのだが、甘かった。 こんなに悲惨に状況になるとは、 『かつての香港はこうだった」ということを知ることのできる本田。
2021.09.18
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ずいぶん前に買ったまますっかり忘れていた。本棚を片付けていたら出てきた。 書名通り漢字についての雑談だが、日本語についての話も多い。 日本語の発音の変遷にも詳しい。 こういう本を読むと、自分が頭が良くなったような気がするのが不思議だ。 常用漢字などというものは一般人は気にする必要がないというのは全く同意見。 ただ、「膨」の字が削られたことについて、一度目の変換で「膨脹」が出ず、二度目の変換で「膨張」が出ることについて、 常用漢字で「膨脹」と書けるのに、パソコンが二度目にしたから、文化審議会は社会一般に用いられていないとして削除したわけだ。(p115)と書いているが、これはパソコンのせいではないだろう。「脹」が当用漢字に入っていなかったから「張」が優先的に出てくるようにプログラムしてあっただけだろう。学習機能があるのだから、一度「膨脹」と変換すれば、以後は「膨脹」が先に出てくる。 パソコンの日本語入力は常用漢字以外は認めないというわけではない。「杜甫」も「李白」も常用漢字に収められていない字が使われているが問題なく変換できる。「りはく」は「李白」しか出てこない。 私のような読者にもわかるように親切でわかりやすい書き方をしているのですらすら読める。残念だったのは「愚不可及」が絶讃した言葉だというところ。(p211) 「その愚は及び得ない」という訳はついているが、それがどういう意味なのか説明がない。仕方がないので検索してみたが、どうも意味がわかりにくい。こういうは丁寧に意味を説明して欲しかった。
2020.12.03
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4コマ漫画で名言を解説しているのかと思ったら、そうではない。 見開き2ページで、右のページに4コマ漫画があり、わざと意味を取り違えたないようにしてある。 左のページにはちゃんとした解説と出典が書いてある。 作者は愛知大学の学生なのだそうだが、大学入学までに4年間の引きこもり期間があったらしい。 大学に入り、この本を出版するに至るまでが、文章で書かれているのだが、それがなかなか興味深い。 文章も上手い。 「蛍雪」のところで「灯油を買えなかったため」とあって「灯油」が気になったが、調べたら「灯火用の油」という意味がもともとの意味らしい。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2013.07.05
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中公新書。1992年1月。 再読。 二十年前に読んだものなので、これまたほとんど忘れている。 「フィクション」ではなく「フィクシオン」と表記するのは珍しい。 梁山泊の地理的な成立から、「水滸伝」の成立過程についての考察、好漢がどのように造形されてきたか、についての仮説、と多岐にわたる。 「一丈青」については、断定はしていないが、大胆な仮説を提示している。 もとは一つだった者が、扈三娘と段三娘に別れたのではないか、というのである。 九紋龍については覚えていた。九枚の鱗というのが説得力があると思う。 最後のところで、吉川幸次郎の「水滸伝」の訳について触れている。 けっしてけなしてはいない。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.04.14
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【送料無料】中国文学十二話 久しぶりに読み返した。 「著」となっているが、NHKのラジオ放送で話した内容を編者が整理したもの。 「詩経と楚辞」から「紅楼夢」まで時代順に、中国文学の古典について解説している。 奥野信太郎という人は古い人で、大正14年に森鴎外がある寺の碑文の解説をしたのを直接見ている。 「左伝と史記」では、話は日本文学に飛び、「源氏物語」は「史記」の影響を受けているという。どういう影響を受けたかというと、「源氏物語」というのも一つのサディズムの文学だと思います。あの中に現れてくる栄達、栄華というものは必ずその後に来る不幸とか、暗さというものの前提として描かれていて、これが『史記』と非常に共通のものを持っていると思います。と述べている。 驚くのは、この本は話すための原稿を元にしているのではなく、放送の速記をもとにしている、ということだ。原稿を用意せずに話したものらしい。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.03.27
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読みかけの本を持って行き、ホテルで旅のつれづれに読み終えた。 再々読か。 徐福以外は近代以降の人。 「亜細亜は一なり」は岡倉天心。 五浦のお墓に行ったこともあるし、六角堂も見た。 しかし、その六角堂は去年の津波で流されてしまった。 最も心に残るのは、「花岡紀行」である。 秋田県にあった花岡鉱山での事件。著者は、その鉱山にいた人たちの遺骨送還に携わっていたが、直接その現場に足を運んで感慨を新たにする。 初めて読んだ時には、「劉連仁」に驚いたものだった。 南方の温暖な土地ではなく、北海道で十三年間も逃亡生活を続けるというのは想像を絶する。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.03.17
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自分がどんな本を読んできたかと、過去を振り返る旅。 1991年5月25日第1刷発行。 中国人の「あの世」観、自ら訪れた北海と砂漠の思い出。南海へ対する意識の謎。 図式化したがる中国人と、図式の謎を解くのが大好きな著者の掛け合いのようでもある。 大韓航空機事件ことが出て来る。 いかに昔の本かわかる。 感心するのは、読者に「面白いと思わせよう」という工夫が感じられることだ。 なかなかできることではない。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.02.22
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副題は「絵入新聞『点石斎画報』の世界」。 前にも書いたが、最近、オークションを利用していろいろ処分している。 ほとんどが本。 本棚を整理していると、「こんな本も持っていたのか」と思うことが多い。 この本は、確かに読んだ記憶があるのだが、中身はすっかり忘れてしまっていた。 読み直してみて、思うのは、「時が経ったなあ」ということだ。 「世紀末」というのは、二十世紀末ではなく、十九世紀末。 訳は思い切った意訳。 最初に紹介されているのが、「バトル・フィールドをフォーカスせよ」というのだが、「フォーカスする」ということばの意味が、今の若い人にはわからないだろう。 昔「フォーカス」という写真週刊誌があったのだ。 中国人の「絵」に対する感覚については勉強になった。 表情を付けること、倒れる「瞬間」を切り取って描くこと、こういうことは伝統にはなかったそうだ。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.02.18
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秀英書房。 オークションに出すために本棚を整理していて、「何と、こんな本も持っていたのか」と驚いたものの一つ。 昭和52年11月発行。 「西遊記」の時代から二百年後、堕落した仏教の立て直しのため「真解」を求めて天竺へ向かう四人。 もちろん、それぞれ「西遊記」の四人にゆかりがある。 訳は思い切った意訳で、当時の時事ネタもちりばめられてあり、今となっては何が面白いのかわからないところもある。 しかし、「後西遊記」のあらましを知ることはできる。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.02.16
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オークションに出す本を整理しているうちに見つけて読み直してみた。 1997年10月初版。 語学の本ではあるが、20年以上前の中国文化を知ることができる。 一度読んだ本ではあるのだが、すっかり忘れてしまっている。 日本の法律用語の「輸贏《ゆえい》」という語にまつわるところが特に面白かった。漢語としても,「勝負」「勝敗」のほうが,はるかに由緒《ゆいしょ》正しいものです。(p114)「輸贏」は中国語としてはあまり古いものではないと記しましたが、私が知っていいるかぎりでは、唐代の白居易が最初に使った人です。(p115) 唐代などというものはつい最近なのである。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2012.02.03
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「中国の幽霊」東京大学出版会。1980年 まだ絶版ではないらしい。再読。 副題は「怪異を語る伝統」。 「幽霊」にまつわる話がどのように記録されてきたか、その歴史をたどりながら、文学へと発展していく過程を述べる。 堅苦しい本ではない。訳出されている話を読むだけでも十分面白い。 魂魄や冥界のイメージも、あやふやだったのがだんだん決まった形になってくる。 「身の毛のそばだつような恐怖感(p47)という表現は珍しい。 巻末に索引があり、読者への配慮がうかがえる。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2011.04.28
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中国医学はいかにつくられたか 中国医学の発達史であり、医書史でもある。 昔から伝わってきた文物もあれば最近発見された物による研究成果もある。 医学の歴史の面はおもしろいのだが、医書の歴史はよくわからなかった。 意外なことに、馬王堆などから発見された医書には、「灸療法の記載はあるけれども鍼療法はない(p41)」ということで、著者も驚いている。。 ではどのようにして鍼治療が発達したか、ということは本の中で説明されており、説得力がある。 なぜ「器官」「五官」という語を使うのかというと、官僚制になそられて物のあいだの関係や作用をとらえようとするのは、中国医学のいちじるしい特徴だといってよい。(p98)のだそうだ。 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2011.02.02
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この著者の本はずいぶん読んだ。 『西遊記』にとりつかれたかのように微に入り細をうがち研究を続けている。 「『西遊記』ABC」なら入門書だが、「XYZ」だから最終報告かと思ったらさにあらず。 数式の「XYZ」が未知数を表すのと同じで、まだわからないことについて書かれた本なのだ。 ここまで研究してもわからないことがあるのか。 全体としては三つの章からなる。 「登場人物とは何か」「「ならべる」世界」「「もぐりこむ」世界」。 そもそも「登場人物とは何か」ということを考えるということだけでも常人ではない。 ある文を、同音(厳密には同音ではないが)の字に置き換えたらどうなるか、ということから出発して、一見意味のない語の羅列に見えるところに隠された意味があることを発見するのだが、著者の考え通りだとすると、『西遊記』の作者(あるいは作者グループ)は、かなり綿密な計算の上に『西遊記』を成立させたことになる。 注の中に大陸書房の本が出てくる。 こういう本まで読んでいることに感心した。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.03.23
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再読。 例によってほとんど忘れている。 なんだか特に落ちもないような話も多いのだが、そこはそれ、「伝奇」はフィクションではなく、実際にあったことの記録ということになっているので、物語性を要求する方が間違っているわけだ。 「崑崙奴」「聶隠娘」「我来也」などは起伏があって面白い。特に「我来也」は良くできている。 伝奇ミステリの傑作である。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.05.19
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河出書房新社。1959.3.20。 駒田信二と言えば「水滸伝」の翻訳者。 「論語」は読んだことがあったが、墨子の本も書いているとは知らなかった。 「新・墨子物語」となっているが、物語仕立てではない。墨子というのがどういう人物だったのか、資料が少なすぎるから。 第1章「非戦論」は、魯迅の「非攻」の紹介に筆を費やしている。 ほかに、物語になるところがないのだ。 以下、「墨子の伝とその書」「愛と利の倫理(兼愛・交利)」「天と神の信仰(天志・明鬼)」「宿命論の否定(非命)」「実利主義(節用・節葬・非楽)」「賢人政治の主張(尚賢・尚同)」と「墨子」に即してその内容を紹介し、「議とその実践」「論理学的思惟」と続けている。 おおむね、墨子の主張の紹介・解説である。 墨子の立場というのがよく分かる。 「牧師の主張はあくまでも庶民の側にたっての発言であった。これに対して儒家の説くところは明らかに為政者の側に立っている。」(p126) のであるが、「墨子はそれを当の庶民階級に向かって発言したのではなかった。つまり、庶民階級をゆすぶり起こすことによって社会的矛盾を解こうとしたのではなく、もっぱら王公大人に呼びかけたのである。」(p128) 墨子の時代には、今日では「詭弁」と称されるような論理学が流行していたらしく、「論理学的思惟」でその一端が紹介されている。 「牛と数うれば則ち牛馬は二なり。牛馬を数うれば則ち牛馬は一なり。指《ゆび》を数うるに、五と指《さ》せば五は一なるが若し。」(p198) という具合で、「牛馬」というのは一つの概念であり、「牛馬」を指して「牛」あるいは「馬」よ言うことはできない、というように、概念を突き詰めて考えようとしている。 「狗は犬なり。而して狗を殺すは犬を殺しに非ざるなりとは、可なり。」「狗は犬なり。而して狗を殺してこれを犬を殺すと謂うは、可なり。」(p209)の解説によると、「狗とは犬の子である」ということだ。 「犬」と「狗」は同義かと思っていた。 上に引いたように、書き下し文が多い。現代語訳だけにしてくれたほうが読みやすいのに、と思っていたら、「あとがき」によると、故意にそうしているのである。 「どうやら少し堅苦しくなったもようである。その原因の一つは、原文を読み下してそのまま用いたところが多かったことにあるかも知れない。しかし私にはそれが是非とも必要に思われたのである。」 「このシリーズの発刊が予告されたころ、私は未知の数氏から手紙をもらった。それらは皆、できるだけ多く原文(読み下し文)を挿入するようにという注文であった。」 と言う。 書き下し文と「原文」が同一視されていた時代の産物なのである。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.06.11
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河出書房新社1958.10.25 「物語」とついていても、小説のようなつくりではない。韓非子の思想を紹介する解説書。あとがきによれば、「韓非子」の主要部分はほとんど収載したという。 「怒りの孤独者」「支配者の道」「仁義か法術か」「戦国を生きるもの」「悲劇の公子」という章立て。 現実的ではない儒家の思想を攻撃し、法による政治を説く。 法術あっての仁義であり、正しい法治の中にこそ仁義があるのだ。 「民というのものはもともと、愛情に対してはつけあがり、威厳に対してはいうことをきくもの」(p125)なのだそうだ。 法術が重要だということは繰り返し述べられる。 「君臣の間には、仁義や人情の介在はゆるされない。それは天下の秩序を紊乱させる本である」「人君たる者は、賢明でなくともかまわず、また驕奢淫逸であっても差支えない。ただ法と術とがあれば、凡庸の人でもその任に当ることができる」(p194) あとがきで知ったこと。「韓非子」は最初は「韓子」といったのだが、韓愈と区別するために唐宋のころから「韓非子」と呼ばれるようになったのだそうだ。 教科書の漢文教材として読んだ話もあった。もともとは政治のあり方を説くための寓話なのだ。 秦の范雎に「はんすい」とルビが振っている。雎は「しょ」のはずだ。 韓非子の思想とは全く無関係のことだが、蟻塚の話が気になった。「蟻は、冬は山の南側、夏は山の北側にいるものだ。蟻塚は高さ一寸ほどだが、その下八尺ばかりのところに水があるはず。」(p110)という説の通りに、水を得たという故事が紹介されている。 また、「山にはつまずかずに、蟻塚《ありづか》につまずく」(p127)という言葉も出てくる。 蟻塚を作る蟻というのは、どんな蟻なんだろう。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.05.31
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プレジデント社。1989.4.26 プレジデント社ということで、中国の古典をビジネスに活かそうという内容なのかと思ったら、そういうわけではなく、「戦国策」の中からおもしろそうなエピソードを人物ごとにまとめ、面白い読み物として完成されている。 「人を動かし、人を活かす」ことよりも、どのように、国という組織を運営し、力をつけていくべきか、ということが書いてある。序章 戦国七雄「弱肉強食」の巻 戦国時代とはどのような時代だったのか、という概説。 正直なところ、ざっと読んで頭に入れられるような内容ではない。第一章 晋三分割「春秋終焉」の巻 趙襄子と智伯第二章 変法断行「秋霜烈日」の巻 商鞅による秦の近代化第三章 機略縦横「合従連衡」の巻 蘇秦の活躍。第四章 富国強兵「遠交近攻」の巻 蘇秦のライバルだった張儀の活躍と范雎。これも秦の強国化。第五章 人材活用「食客三千」の巻 有名な孟嘗君の話。第六章 名将激突「狂瀾怒涛」の巻 秦の名将・白起の悲劇。第七章 奇貨可居「天下統一」の巻 呂不韋と始皇帝 このように、秦が統一するまでを時代順に編集し直して読みやすくしてある。 これは著者の工夫である。 読み物として、第一章から読めばいい。 「隴」に「そう」(p46)、[金票](p47)に「びょう」とルビを振っているのは誤植か。 それぞれ「ろう」「ひょう」のはず。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.05.27
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河出書房新社。1958.5.25 図書館の本棚にシリーズで並んでいた「中国古典物語」から手に取ったのが、4巻目のこの本。 孟子の解説書かと思っていたら、小説仕立てで、想像をふくらませ、きっとこんなふうだったろう、と、読みやすくしている。 あとがきによれば、意識して「学問的な論議、考証には一切ふれていない」のだそうだ。 孟子と言えば王道だが、これは統治者は被統治者とはことなる、ということが前提となっている。「治者と被治者とを截然《さいぜん》とわけて、その共存を主張する孟子」(p168)と説明している。 孟子も、孔子のように、各地で理想を説き、弟子を育成する。 しかし、理想の王道政治が実現することはなかった。それは「天命」のためなのだという。(p205) 著者は、高校一年の時に「孟子」をならい、それがきっかけで生涯中国古典を読むことになったのだそうだが、一方的に肩入れする、ということはしていない。 告子との論争を紹介した後、孟子は告子を説得していない、「終始一貫、ただ性は善なりということを、相手が納得しようがしまいがおかまいなしにふりかざしている」(p214)と評している。 それでも、筆者は「未完成のままに性善説をふりかざす孟子の姿に、かえってすがすがしい親しみを感じるのである」(p213)と述べる。 人間孟子を身近に感じるほど、深く孟子を理解しているのだろう。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.04.26
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プレジデント社。1989.2.10 第1刷。1989.8.30第4刷 論語の各篇から「今なお意味を持ちつづけているような部分だけを重点的にピック・アップしてみた」もの。 「人間学」というよりも「処世術」と言う方が合っている。 現代語訳、書き下し文、原文、著者の簡単な解説の順に並んでいて、現代語訳だけ読みたい人には便利な作り。 訳文は自然な現代語になっていて、例えば、「学而篇」の冒頭は「習ったことを、折に触れておさらいし、しっかりと身につけていく。なんと喜ばしいことではないか。」という具合。 論語全体の半分ぐらいの分量はあるそうで、なじみのあるものもあればないのもある。 宮崎市定訳で通読したはずだが忘れている事が多い。 例えば、「陽貨篇」で二つ並んでいる、「性相近也、習相遠也。」(生まれながらの素質は大差はないが、その後の習慣で違いがでる)と「唯上知与下愚不移。」(能力の高い者と劣っている者との間には越えられない壁がある)など、こんなことも言っていたのか、と新知識のように思った。 自分と同様に士大夫の世界に生きようとする者の間には、生まれつきの差ではなく、努力による差がある、士大夫の世界を志す者と志さない者との間には壁がある、ということではなかろうか。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.04.11
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新潮社。1988.9.10 出版時に話題になったので、書名は知っていたのだが、全く手に取ることがなかった。 孔子の人生を描いた小説なのだろうと思っていたが大違い。 かつて孔子の門弟であった人が、孔子の没後三十三年を経て、「孔子研究会」の会員を前にして講演する、という体裁になっていて、その門弟の言葉によって孔子像が描かれるという趣向。質疑応答もある。 第一章では、誰が語っているのか明らかにされず、第二章で本人の口から呼び名が語られる。(この人物は作者の創作かもしれない) 遠い昔のことだからといって、無理に古くさい表現をするようなことはしない。 孔子の率いていた集団を「教団」と表現し、講演の聞き手は、現代の研究会の会員と同じように思考し、「地球上」(p404)という言葉まで登場する。 作者のくせなのかどうか「させて頂く」が頻繁に出てくる。 また、「幹事」ではなく「監事」を使っている。意味の上では「幹事」の方がよさそうな気がするのだが。楽天ブログランキング←クリックしてください
2006.03.20
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「中国食物誌 中国料理あれこれ」(著者:周達生|出版社:創元社) 1976年3月10日・第1版第1刷発行。 この発行の年を見ればわかるように、1972年の国交回復からまだ間がない。 中国の内情がよくわからず、幻想を抱いている人が多かった。 そんな時代に書かれた本である。 周恩来の没年であり、冒頭に、 私は,この本を故 周恩来総理の霊 に捧げるという献辞がある。 内容は、書名の通り、多彩な中国料理で使われる、これまた多種多彩な食座をとりあげ、それがどのようなものか紹介したもの。 著者は料理研究家ではなく、動物生態学が専門。 和名や中国名だけでなく、しばしば学名も示している。 書きぶりは平易で、非常に誠実な印象を受ける。 原籍は福建省晋江県で、神戸の中国人家庭で生まれ育ったようだ。執筆時は、神戸中華同文学校に勤務している。 日本に住んでいても、立場は中国側に立っていて、「田中首相(一九七二年九月)を人民大会堂にお迎えしたとき」(p111)という表現がでてくる。 また、「南朝鮮を訪れた欧米人」(p198)という表記もある。 祖国に愛着を持つのはどの民族でも同じこと。 著者も深い愛情を持っているのだが、さすがに中国の従業員の態度は目に余ったらしい。「中国で買物をするときの従業員の応対ぶりは、日本流に言えば、きわめて愛想が悪い」(p202)と苦言を呈している。 食材については、丁寧に説明されても、やはり、知っているものはわかるが、知らないものはわからない。 およそ30年後の今読んでみると、料理の話よりも、時代を感じさせる言葉に目がいく。 たとえば、畜産・農業に触れて「一九六二年からの連続十年の豊作がもたらされ」(p30)とあるが、現実には、そんなことはなかったはず。しかし、。そういうことになっていた時代なのだ。 また、「孔子や孟子、あるいはその亜流儒学者どもの説いたことば」(p103)という「批林批孔」がまだ生きていた時代でもあった。 表記の面で一つ特徴がある。 中国語は<>で示し、中国音をカタカナでつけている。 食材や固有名詞だけでなく、「<焼《サオ》>、<煮《ツウ》>、<爆《パオ》>、<炒《ツァオ》>などの料理において」(p36)と、調理法にもルビがついている。 ここに挙げた例でわかるように、この本の中国語は捲舌音が脱落している。「zhi」「chi」「shi」がそれぞれ「zi」「ci」「si」になっている。 親切な本で巻末に索引があるのだが、中国のものは中国音で引くようになっているため、「茶」は「チ」のところではなく「ツ」のところを見ることになる。 新聞では金糸猴を孫悟空のモデルとすることが多いが、著者は「ベニガオザル」がモデルだと考えている。(p114) 大根の「千六本」は「<繊蘿蔔《シエンルオポー》>が、明の時代の音で「セン・ローフ」と読まれていたのがなまったのをあて字にしたもの」(p206) このことは、十数年前に初めて知ったが、すでに三十年前に知られていたことだったのだ。 リンゴの語源。 「中国から渡来した<林檎《リンチン》>(リンキン)が「リンキ」となったのであろうとされている」(p216) 「葯」という字が出てきた。(p231)。 「薬」の簡体字としてしかしらなかったが、「めしべの先端部分」という意味の字だったのだ。 紅茶の由来。 中国の茶葉をヨーロッパに運ぶ途中で発酵し……というのが起源だと思っていたが、それ以前から中国にはあったそうだ。(p246) 群馬県の「スネーク・センター」は陶々酒本舗が作ったものだそうだ(p80)。 行ったことはあるが、知らなかった。 誤植発見。 「淮南《ゆいなん》王劉安」(p173)の「ゆいなん」は「わいなん」の誤り。
2005.04.15
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中国の大盗賊・完全版 1989年に出た「中国の大盗賊」で削られていた部分を元に戻したもの。 以前の版も出たときにすぐ読んだ。 15年も立っているので、ほとんど忘れていて今回も最初から面白く読んだ。 削られていたのは主に「大盗賊」としての毛沢東を描いた部分。なるほど、毛沢東率いる中国共産党は、中国の盗賊の後継者であり、伝統にのっとって天下を手に入れたのだ。 まさに『水滸伝』の世界。 毛沢東の文才は高く評価し、政治家としてはほとんど罵倒している。中国共産党についても同じ。 そもそも、中国共産党は本来の共産主義とはかけはなれた存在なのだ。 しかし、著者は、中国自体に、マルクス主義を受け入れる素地があった。それは「経典」の必要だ、と述べている。 してみると、共産党が敗れ、国民党が政権を取ったとしても、何かが「経典」とされ、やはり同じような国になった可能性があるわけだ。 それにしても、毛沢東が天下を取る手助けをしたのがわが日本軍とはトホホである。 日本には「文武両道」という言葉があるが、中国にはない。(p269)というのは新知識だった。
2005.01.21
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漢字と中国人(著者:大島正二|出版社:岩波新書) 漢字の歴史ではない。 中国人が漢字をどのように研究してきたか、という文化史。 どの漢字がどういう意味なのか。 どう発音するのか。 どのようにしてできたのか。 どう書くのが正しいのか。 漢字を巡る疑問に、中国人自身がどのように取り組んできたかを述べている。 実はこの本、入門書として非常によくできている。 『爾雅』『説文解字』『韻鏡』など様々な義書、字書、韻書をとりあげ、それぞれ実物を示して、どのように見るかのということを教えてくれている。 中国人による漢字研究書の解説書なのである。 最後は、現代の簡体字、ローマ字表記についての話になるの。これは研究と言うより改革の話なのだが、こういうこともきちんと述べているところが「漢字と中国人」という書名に偽りなしなのである。 巻末には年表のほか、索引まで付いている。 懇切丁寧な本だ。
2004.12.15
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中国怪奇小説集(著者:岡本綺堂|出版社:光文社文庫) 「青蛙堂奇談」(『影を踏まれた女』所収)と同じように、一人ずつ話すという趣向。 六朝の『捜神記』から清の『閲微草堂筆記』まで時代順に並ぶ。 岡本綺堂の広範な読書量の一端を窺うことができる。 岡本経一の解説によると、初版は1930年、総ルビ付で出たという。 その時のルビによるものなのか、「[門<虫]」を「みん」、「姚」を「ちょう」と読ませるなど、本来の音読みとは違う読みがほどこしてあるものが目立つ。 『夷堅志』の「餅を買う女」は、女の霊が水飴を買いに来る話とオダマキ型の合体。 『池北偶談』の「[口+斗]蛇」の[口+斗]は「叫」の誤植ではないだろうか。 『子不語』の「狗熊」の「虎[亡+おおざと]」の[亡+おおざと]は「邱」の誤植か。
2004.04.11
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本と中国と日本人と(著者:高島俊男|出版社:ちくま文庫) その昔、雑誌「東方」に連載されたものをもとにまとめた本で、『独断! 中国関係名著案内』と重なる部分もある。 書評であったり、著者のエピソードを語るものであったりして、語り口に工夫があり、いずれもおもしろく読める。自分も読んでみようという気になるのも多いが、読む気にならないのもある。それでも、紹介する文章自体はおもしろいのだが、著者の芸のすぐれていることがわかる。 読者に対して親切な作りで、各編の末尾に、読者が知らないのではないかと思うようなことがらについて、【ことば、ことがら】というコーナーをつくって説明している。 例えば、「花形記者から権助に」(p134)の「権助】とは何だろうと思っていると、ちゃんと説明している。 あとがきによると、中国が変化したので内容が時機遅れになったものは割愛したそうだが、そういうのも全部収録し、詳細な索引を付けて出して欲しいものだ。 日本において、どのように中国が語られていたか、という貴重な記録になったはずだ。
2004.03.18
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纏足(著者:馮驥才/納村公子|出版社:小学館・小学館文庫) 原題は「三寸金蓮」。纏足そのものである。 戈金蓮の少女時代から、名高い纏足の持ち主として知られ、そして死ぬまで。 侍女も重要な登場人物で、『紅楼夢』のようでもあるが、電灯を組んだものなのだろう。 纏足に関する蘊蓄が傾けられ、纏足を中心とした小説ではあるのだが、中国文明の消長として纏足をとりあげているのであり、秦末民初という変革期を舞台に、伝統文化と外来文化の衝突、そして、人間がどのようにその衝突に翻弄されるかが描かれている。 纏足をやめればいいというものではないし、纏足を続ければいいというものではない。 どちらかがいい、などという単純なことではないのだ。 伝統はそう簡単に消えはしないし、外来のものはすぐには血となり肉となるということはない。 作者のあとがきで知って驚いたが、中国では一九九八年まで、纏足専用の靴が製造されていたという。 訳文はこなれていて工夫が感じられる。 最近の風潮に染まった表現として、「武人は外と戦うべき、文人は内なる敵と戦うべきと言われますが」(p17)というのがあった。終止形「べし」と使うべきところが「べき」になっている。 驚いたことに、表紙イラストは原作者、本文イラストは翻訳者。才人なのである。
2002.11.02
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華国風味(著者:青木正児|出版社:岩波文庫) 出版されたばかりの頃、買ってはみたが歯が立たず、少し読んで放り出してあったのを読み直してみた。 文体は軽い読み物調なのだが、次から次によりどころを挙げて考証していくので、知識のない読者としては難解に感じてしまう。 「日に曝(さら)し乾かしてから粉をこさぎ取るのである」(p31)の「こさぎとる」や、「砂糖は多い目が佳(よ)く」(p33)の「多い目」は、は耳慣れない言葉だが、方言だろうか。 下関に生まれ、京都に長く住んだ。 博学多識で驚くが、大正十三年の北京滞在中、王国維を訪ねて茶菓の饗応を受けたというのにも驚いた。(p99) これまでの思いこみをくつがえされたのは、米飯に関するところ。 「南方、江蘇・浙江(せっこう)あたりには粘気のある良質の米を産出する」が、「北人は、かえってそれを好まない」(p110)という。 北方の米は、粘り気がないから手で食べることができ、箸では食べにくいから匙で食べたのではないか、米飯を食べるのに箸を使うようになったのは、南方の米を食べる風習から生まれたのではないか、というのである。 チャーハンやお粥には南方のぱらぱらの米が適しているので、南方の米は粘り気がないものと思いこんでいた。 それにしては、十年以上前に中国を旅行したときは、北方の米の方が日本の米に近いと感じたが。東北地方に日本の米が持ち込まれて変わったのだろうか。 古今の様々な食べ物が登場するが、家庭で簡単に作れるものは少ない。 その中で、最後の「陶然亭」に出てくるものだけは作れる。「浅草海苔を一枚炙(あぶ)り、揉(も)んで小皿に入れ、花鰹(はながつお)を一撮(ひとつま)みつまみ込んで醤油をかけ、擦山葵(すりわさび)を比較的多量に副(そ)えて、燗酒(かんざけ)と共に差出した」(p195) 著者が人に聞いた話の中に出てくる。華国の風味ではないのだが。実際に試してみたところ、たしかに酒の肴としてはすぐれている。少量の肴で大量の酒を飲みたい人にはぴったり。 現在岩波文庫版は品切れ。ワイド版が出ている。
2002.09.18
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金瓶梅 天下第一の奇書( 著者:日下翠|出版社:中公新書) 『金瓶梅』についての研究書。書誌学的なことは第七章であっさり触れているだけで、内容の分析がほとんど。 『金瓶梅』の特徴は、その細々とした描写にあることをのべ、物語の内容については、登場する主な女性、西門慶、応伯爵と章が立て、そこで紹介している。 一度、平凡社版で読んだことがあるのだが、ほとんど忘れていた。 何を着ているか、何を食べているか、どんな化粧をしているか。そういう日常的な細部の描写が細かいことをとりあげ、それを楽しんでいるように感じた。 なるほど、こういう点に注目すれば面白いのか、とは思ったが、そういう楽しみ方はできそうにない。 なぜこの筆者はこういう読み方ができるのだろう、と思いながら読んでいたが、「終わりに」でやっと謎が解けた。筆者は女性だったのだ。途中で気がつかなかった自分の鈍さにあきれてしまった。 第六章「お父様と呼ぶ女たち」は、『金瓶梅』に描かれた家庭をもとに、現代にも通じる、中国人の意識を分析している。独身女性が奇異の目でみられ、社会的に不利な立場に置かれていることは初めて知った。また、保護と抑圧とは表裏一体のものである、という考えには、なるほどと思った。 中国人論で最も印象に残ったのは、「さすらいの一匹狼の中国人なんて、まったく冗談みたいなものではないか」(p211)という一文である。なるほど、中国には木枯らし紋次郎は存在できないらしい。「渡り鳥」の旭はどうだろう。小説などでは、青幇や蛇頭など、何かというと中国の組織がとりあげられるが、組織無しではいられないのだ。
2002.07.07
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論語の人間学 人間と知恵とを語り尽くす(著者:守屋洋|出版社:プレジデント社) 論語の解説書といえば解説書なのだが、出版元がプレジデント社であることからも分かるように、サラリーマン向けの本なのである。 普通の論語入門書ではあるのだが、論語の中から、サラリーマン社会に役に立ちそうなものを選び、現代社会にもこういう点はそのまま通用するのではないか、と説くという面がある。 例えば、「子曰、不在其位、不謀其政。」を解釈した後で、「たとえば課長のポストにあるときは……」と説く。 参考にした書籍の中に宮崎市定『論語の新研究』があり、論語にひんぱんに現れる「君子は」という文は、「諸君はこうしてほしい」という意味だという解説もあるが、基本的には、伝統的な解釈にのっとっている。 論語の、さわりだけ読むにはちょうどいい本だ。
2002.03.20
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漢字と日本人(著者:高島俊男|出版社:文春新書) 「漢字と日本語」ではなく「漢字と日本人」。日本人の意識を問題にしているのである。日本語の言葉の主体が音(おん)ではなく漢字になってしまっていることがこの本を読むとよく分かる。 国語改革は過去との文化的断絶であった。失敗だったことはあきらかだが取り返しがつかない。仮名遣いにしろ、字体変更にせよ、いいかげんである。 著者の憤りが行間からあふれ出している。 たとえば、「文字は過去の日本人と現在の日本人とをつなぐものであるのだが、こうした人たちはそんなことはすこしも意に介しない。いま文字を使う人、それも官庁や会社の実務で使う人のことだけを念頭において文字を管理している。文化資産としての文字をJISの手から解き放つことが緊急の課題である。」というところに、よくあらわれている。 JIS規格については、収録する字の選定、字体の設定、いずれにも確かに問題がある。しかし、情報の共有という目的のためには何らかの規格が必要なわけだし、漢字や日本語の専門家に規格設定をまかせたら、何年たってもまとまらない。JIS規格というのは、便宜的なものでしかないのだからそう割り切ってつきあうしかないのではないのではないだろうか。 主張だけが書いてある本ではない。漢字と日本語の関係がわかりやすく具体的な例を挙げながら説明されている。 知らなかったことばかりで、ほうほうそうだったのか、と思いながら読んだ。呉音が朝鮮経由で伝わったことも、国語審議会が、漢字使用をやめることを目的として設置されたことも知らなかった。 江戸時代の和製漢語は耳で聞けば分かるが、明治以降のものは同音異義語が多く、漢字を見なくては分からないというのも初めて知った。
2002.02.26
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(著者:宮崎市定/礪波護|出版社:岩波書店) 『現代語訳 論語』で、なぜそのように訳したのか、その理由が詳しく述べられている論文集。 1は、論語の読み方についての、著者の考え。 2は、孔子とはどのような人物であった。 3は、論語を読んだ人たちの紹介と、それに対する見解。 とくに1がわかりやすい。論語について述べているだけでなく、自分の研究姿勢を明確にしている。 例えば、「どうもいままでは解釈さえつけばあとは構わぬ。文章として捉える努力が払われない。特に文勢、文章の勢いのリズムに無頓着過ぎたのではないか。」(p130)という批判には説得力がある。 また、1で述べられているエピソードが面白い。 濱田耕作という考古学の先生がこう言ったというのである。「西洋の横文字の本は読めばよくわかる。だから読んでいるとだんだん頭がよくなるような気がする。いや、読まないでも横文字の本を書棚へ並べて、それを見ているだけでも、何だか頭がよくなる気がする。ところが漢文というものは実に分からないものだ。漢文は読めば読むほどわからなくなる。それを無理にわかろうと思って読むと頭が悪くなる。その証拠には支那の学問をしている学者というのはたいてい頭が悪い。お前たちはそうなるな」(p35) これは、最後の「「論語読み」の楽しみ」でも述べられている。 よほど印象に残っているらしい。
2001.10.03
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漢字を語る(著者:水上静夫|出版社:大修館書店) 漢字については、目次にも「字音」が先行、とあるように、字形よりも音を重視している。 漢字の成立に関して、「単なる仮借(かしゃ)の使用である」(p55)とあって驚いたが、後で、六書の説明を説明しており、転注については、今までに読んだ本の中で最もわかりやすかった。 それによれば、「転注」とは、意味は変わっていないのに異なる発音が生まれたときに、新しい字形が作られる、ということで、字形は違っても意味は同じである、ということだ。 わかりやすいところもあれば、わかりにくいところもある。 踊り字のところで、『詩経』の「適彼楽土」という句は、それぞれの字の後に踊り字があったと考えれば詩意が明らかになる、と述べているのだが(p196)、この部分、なぜそうなるのか理解できない。 また、枕詞の「あおによし」の考察で、「ナラ」が朝鮮語で都や国を表す語だったためだ、と述べているのだが、これは、上代や中古の文学の専門家ならずとも、知っていることではなかろうか。 さらに、ハングルで表記しているところが、そこだけ横書きになっている。ハングルは縦書きもできるのだから、縦書きのままの方がわかりやすかった。 「北辰」は「北極」であって「北極星」ではない(p94)など、総じて、漢学というものにたいしては否定的で、きちんと字義や正しい解釈をわきまえていない、と嘆くことが多い。 説得力のある本ではあるのだが、すべて著者が正しいかどうかは疑問が残る。 「文」という字の字源として、「本義は襟元で衣服が交錯して美しい意である」と述べているが、胸の入れ墨と説く本もある。 漢字に興味のある人は、阿辻哲次などの本もあわせて読んだ方がいい。
2001.05.01
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三蔵法師(著者:中野美代子|出版社:中公文庫) 三蔵法師といっても何人もいるが、著者が取り上げているのはもちろん玄奘である。 その誕生から死までを追っているのだが、伝記というわけではなく、玄奘がどのような人物で何をしたのかということを探りながら、中国においてどのように玄奘の人物像が作られてきたか、ということを探っている。 玄奘に関する記録がみな事実とは考えられないが、そう記録されている、ということが重要なのだ。 文章はわかりやすく、当然のことながら、『西遊記』との関連についても触れていて、『西遊記』が仏教の論理だけでなく道教の論理を取り入れていることを再認識した。
2000.08.23
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現代語訳論語(著者:宮崎市定|出版社:岩波書店) 書名通り、宮崎市定による、『論語』の現代語訳。 原典の本文を検討し直し、「こう言っているはずだ」という先入観を排し、無理なく解釈している。 これまでの、漢文学者や中国文学者による伝統的な解釈とは異なるものも多い。そして、なぜ、こう解釈するのか、という説明には説得力がある。 その代表が「君子」の訳だ。 例えば、「君子求諸己小人求諸人」を「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」と訓読はするが、訳は、「諸君は凡てこの成否を自分自身の責任だと覚悟して欲しい云々」と訳す。これまでの訳なら、「君子はこれこれこうすものだ」と訳すのが普通のはず。「君子」は「諸君子」のことである、と考えてこのように訳している。 今日伝わる『論語』の本文に誤りがある、という指摘もある。 『論語』全体を通して考えれば、ここはこうでなくてはならない、というのである。それもまた、時節を有利にするための牽強付会ではなく、「自分の頭でものを考えるというのはこう言うことか」と、蒙を啓かれる思いがする。 名著である。 これは、「宮崎市定全集」第4巻の一部であるという。該当の巻を前編読み通したい、という気になる。
2000.06.30
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中国の知嚢(下巻)(著者:村山吉広|出版社:中央公論新社) 『中国の知嚢』の続刊。 「孫子」「韓非子」「孟子」を取り上げ、あとは雑話。 あとがきによると、もとは読売新聞社から書き下ろしで出版したものだった。 文章は平易でわかりやすいのだが、二冊目となると気になる点がいろいろ出てくる。 たとえば、「日本の農民が「大金持ち」であることは、農村へ行って彼らの住んでいる家屋敷を見れば、すぐにわかることだ。終戦前後は闇米で都会人をさんざん泣かせた上、戦後は政府の手厚い補助金制作で幾重にも恩典を受けて生きて来ている。」(p117) などと書いている。そんなに農家がいいものなら、誰もが農家になることを目指しそうなものだが、現実には、後継者不足に悩んでいるようにしか見えないのはなぜだ。 そうかと思うと、「しかし「教育評論家」はこういう場合でも、「学校側の日頃の対応に果たして問題はなかったか?」などと、意味のわからぬことを言い、生徒の肩をもとうとしている」(p77)と言っておきながら、「孟子」を取り上げたところでは、「他人を責めるのではなく、自分の徳が足らなかったか、自分の借り方が上手でなかったか、自分の態度に落ち度はなかったかと自己反省する。」(p123)と、教育評論家と同じようなことを言っている。 著者は革新政党が嫌いなようで、「偏向した思想や現実に対する甘えは禁物である。また同時に県尉に弱いという事大主義も禁物である。ヘーゲルが言った、マルクスが言ったと言って恐れ入っていてはいけない。彼らはもはや過去の人である。」(p43)とまで言っているが、そんなことを言ったら孔子や孟子はどうなるのだ。マルクスどころではないはるかはるか過去の人だ。古典を学ぶ意義など無くなってしまうではないか。 全編を通じて、古人の言葉が現代でも通用すると言っているのに。 ただ、著者のあげる現代社会における事例というのが具体的でなく、現実感がないので説得力に欠けるところもある。 やはり、二千年も時を隔てているものを、現代にあてはめるのは、難しいのだろう。 むしろ、孔子や孟子の論理は、これこのように現代人とは異なっているのだぞ、ということを説く本を読んでみたいものだ。 著者は一九二九年生まれ。この本が最初に出版されたのは一九七五年で、五十六歳なのだが、「耳ざわりのよい猫ナデ声の政治ではなくて」(p84)と書いている。「耳ざわり」は「耳障り」で聞いた感触がよくないことなのだが、こういう人でも勘違いしているんだなあ。 また、巌流島の佐々木小次郎が若者だと思っているあたり(p37)、吉川英治の『宮本武蔵』がそのまま事実だと思っているらしい。
2000.06.07
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中国の知嚢(上巻)(著者:村山吉広|出版社:中央公論新社) 中国の古典にある名言や故事を紹介し、それが現代社会でも通用するものであると解説している。 論語、老荘、史記など出典はさまざま。 文章は平易でわかりやすい。 たいていのものは、ほかの本で読んだことがあるもののはずなのに、初めて知ったような気になる事柄が多い。情けない。 一つのシリーズとして書かれたものではないようで、章によって長さが違う。初出が書いてあれば、どういう意図で書かれたのかを知る手がかりになるのだが、それがない。 引用は、原文そのままではなく、書き下し文風の文で、仮名はカタカナ。「君子(くんし)ハ器(き)ナラズ」といったぐあい。 あとがきに、「ところどころに「書き下し文」が登場するが、これは原文のリズムをなつかしみ、あるいはいつくしむ人々のためである。」とあってちょっと驚いた。 書き下し文のリズムは、それなりに、耳に心地よいものではあるのだが、原文とは違うものだろう。 著者は中国哲学、中国文学の専門家だそうだが、訓読したものが原文と同じに感じられるらしい。おそらく、漢字だけが並んでいる原文を見ても、それが書き下し文として頭の中に入ってくるのだろう。
2000.06.03
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浮生六記 浮生夢のごとし(著者:沈復/松枝茂夫|出版社:岩波書店・岩波文庫) 清代の随筆。 妻との情愛が大きな感動を与える。 決して裕福ではないのに、季節季節にそれなりに楽しみ、風雅をともとして生きる、という生き方がありのままに描かれている。作り物ではなく、現実であるために、より強い印象を残すのだ。 六巻のうち二巻は失われていて、特に琉球に遊んだ巻がないのが残念。
1999.11.12
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中国帝王図(著者:田中芳樹/皇なつき|出版社:講談社文庫) 中国の歴代の皇帝・王のうち二十数人の画と説明文。説明は個人だけでなくその王朝の歴史にもふれているので、人名辞典よりわかりやすい。 絵については、うまいなあ、と思うがそれ以上はわからない。 晋の恵王の賈后など、醜女ということなのに、絵を見ると美女に見える。 醜男はかけても、醜女に書くのはむずかしいのだろうか。
1999.02.20
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漢字ワードボックス(著者:高田時雄/阿辻哲次|出版社:大修館書店) 「秀才」「文化」「玄関」といった、日常使われている漢語について、その来歴を簡単に紹介した本。 「しにか」に連載されていたもので、いくつかは既に読んだはずなのにほとんどおぼえていない。 知っていたものもあれば知らなかったものもあるが、全体として軽い読み物と書かれているので、何となく流して読めてしまう。 ただ、連載している時は一つ一つを読むのだからいいのだが、こうして本にまとめると、本題に入る前の、「ワインブームが数年前にあったかと思えば今度はビールのブームで」といった枕がちょっとくどく感じられてしまうのが残念。
1998.11.16
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西洋人の見た十六~十八世紀の中国女性(著者:矢沢利彦|出版社:東方書店) タイトルがちょっと散文的。「十六~十八世紀」ではなく「明清」でもよかったのでは。 当時の中国女性の生活、社会的地位などを中国の資料によってではなく、宣教師として中国にいた西洋人の目を通して考察しているのが新鮮。とにかく、女性が男と一緒にいることができないというのが徹底していて、そのために布教がしにくかったというのは興味深い。
1998.08.23
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上海1930年(著者:尾崎秀樹|出版社:岩波新書) 著者の兄である尾崎秀実(おざきほつみ)を中心に、一九三〇年の上海で出会った人々を描いた本。ゾルゲ事件の真相を究明する、などという姿勢はない。 よく調べて書いていると思うが、一部に、 「半封建的、半植民地的な矛盾が鋭角に突出している上海の地」(51ページ) というような、一見イメージとしてはわかるような、実態はよく分からない表現が見られるのが残念。文芸評論からしからぬ、新聞記者のような、言葉の中身を吟味しない表現だ。 それにしてもこの本のタイトル、表紙と奥付には「上海1930年」とあるが、背表紙では「上海一九三〇年」となっている。「1930」と「一九三〇」では、私には異なる表記法に思えるのだが、著者はどう思っているのだろうか。文中では、本文が縦書きなので一九三〇年となっている。古本で探す
1998.08.03
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『西遊記』の神話学 孫悟空の謎(著者:入谷仙介|出版社:中公新書) 『西遊記』が世界各地の神話と共通する内容を持っていることを明らかにし、ヨーロッパの神話の影響があるのではないかと述べているが、それは途中から混入してきたものであって、根元テーマは「死と再生」であるという。 『西遊記』は読んだが、忘れていることが多かった。 旅の途中、妖怪に襲われては撃退するということのくり返しで、エピソードの順番などいくらでも入れ替えがきくように思っていたが、次第に孫悟空の性格が変化し、三蔵を導くまでになっていくわけで、エピソードの配列にも深い意味があるように思えてきた。 しかし、孫悟空と猪八戒については深く論じているのに、沙悟浄については明確にしていない。猪八戒と表裏一体のものではあるらしいのだが、不思議な存在だ。古本で探す
1998.07.06
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食前食後 漢方の話(著者:邱永漢|出版社:中公文庫) 1960年から2年半にわたって執筆したもの。内容もさることがながら、当時の社会状況がわかって面白い。 何と当時の日本では、干し椎茸が外貨獲得のナンバー1だったのだ。 80ページには「こういった方面で更に大きな発見がなされるとしたら、それは日本でなくて中共で行われるかもしれないように思う」とある。日中国交回復以前は「中共」と呼ばれていた実例。 118ページには「茄子は原産地がインドと考えられ、シナ大陸、日本には早くから伝来した」とある。このころはまだ「シナ」という言い方にうるさくなかったんだね。日活アクションにもよく「三国人」という言い方が出てくるし。 ただ、99ページで「魚翅」に「チーチイ」とルビが振ってあり、へえ、香港か台湾では「魚」が「チー」となるのか、と思ったら、次のページで「鯊魚」に「サーイー」とルビが振ってある。最初の「チーチイ」は「イーチイ」の誤植なのだろう。
1998.06.21
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李白と杜甫(著者:高島俊男|出版社:講談社) 高島さんが最初に書いた本。東大の助手時代ということだが、文章はやや諧謔みが少ないだけで、ほとんど今と変わっていない。 李白と杜甫という、二人の詩人の生涯とその作品の鑑賞が主な内容だが、対照的な性格の二人がともに天才詩人として名を残してはいるものの、いずれも貧窮のうちに生涯を終えることになってしまったというのが心に残る。特に、杜甫が、親戚に預けていた妻子のもとへ尋ねていくと、末の子が餓死していたというのはあまりにも悲惨だ。 李白の就いた役職の性質など、初めて知った。わかりやすくて内容も深い。どうしてこういう書き方ができるのだろう。尊敬に値する。
1998.02.18
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爆裂中国語(著者:ジェームズ・J.ワン/もりゆみ|出版社:日経BP社) 中国語のスラング、罵倒の言葉、性に関する語などを紹介し、例文も挙げている。まず、普通の中国語の教科書には見られないようなものがほとんど。 ある程度中国語の知識がある人を対象にしているはずなのに、最後に四声の説明があるのが妙だ。また、第1章で四声を「イントネーション」と言っているが、これは「アクセント」だろう。「彼の話す標準中国語はなまりがきつくて」というのも妙だ。「標準中国語」などという言い方はあまり聞かない。「普通話」としたほうがよほどわかりやすい。原著は英語で書かれており、訳者は英文科を出た人。当然、中国語が分かる人に見てもらっているとは思うのだが、これではどういう読者を想定しているのか分からない。
1998.02.12
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ことばの文化背景 中国語51話(著者:上野恵司|出版社:白帝社) もともと北京語には「在」が存在しなかった話など興味深い。 専門的に詳しく書いてあるわけではなく、読みやすい。 簡体字の説明で、「文字を部屋にたとえるなら,“机”はずっと空き部屋であったわけです。そこへいつのまにやら“機”の字が住みついてしまい,それを革命後,文字改革委員会の審査報告を受けて,中国政府が正当な住人として認めたというわけです。」(P139)というのがうまい。 「私にも多少そういう傾向がありますが、背もたれのない腰掛けをいすと呼ぶことにこだわりを覚える人があるかもしれません。」の「こだわり」は、本来の意味なのだろうが、今や、かえってひっかかりを感じるようになってしまった。著者は1939年生まれ。古本で探す
1998.01.08
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漢字の字源(著者:阿辻哲次|出版社:講談社・講談社現代新書) わかりやすく面白い。テーマごとに、雑談風に話がつながっていく。 「家」は豚小屋かと思っていたが、犠牲としての豚を捧げる神聖な場所であった。 最後の、藤堂明保説への疑問も冷静で納得できる。古本で探す
1997.10.22
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魯迅 阿Q中国の革命(著者:片山智行|出版社:中公新書) 独自の視点を持つと言うより、魯迅の概説書。 やはり幻灯事件は半ば創作か。
1997.07.09
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中国漢字と日本漢字(著者:志田唯史|出版社:ベストセラーズ・ワニ文庫) 漢字の比較ではなく、漢字語(漢語)の比較である。 知らない単語がほとんどなので、ほうなるほど、中国語ではそう言うのか、と思うものが多いが、特に役に立ったかと言われると疑問。 カタカナで中国語読みを示しているが、ianを「ヤン」と読んでいるのが不思議。たとえば、「導演」を「ダオヤン」、「研究」を「ヤンジュウ」としているなど。また、「愛死」を「アイシー」としているが(P146)、監修者は、気がつかなかったのだろうか。
1997.04.30
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中国語らくらく講座(著者:葉千栄|出版社:日本実業出版社) 日本人にとって中国語というのはいかに学びやすいものであるかということから始まって、今日の、中国語教授法の問題までふれている。 おおむね納得できるが、成長してから外国語として中国語を学ぶ場合には、ネイティブの人の考えるほど簡単なものではないと思う。 声調など発音が不正確でも通じるというのは、納得できるし、文法説明が適切ではないというのも納得できる。もっと簡単に説明した方がわかりやすいが、分析的に説明することを好むのは教える側だけではなく、習う方にもそういう傾向があると思う。
1997.04.09
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