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自殺した同級生への恐喝未遂容疑で私立滝川高(神戸市)3年の男子生徒(17)が逮捕された事件で、被害生徒が複数の同級生らの飲食代を負担させられるなどしていた疑いのあることが、関係者の話で分かった。同級生に物品を売りつけられていたことも判明し、県警は、被害生徒への嫌がらせが以前から、さまざまな形で行われていた可能性もあるとみて実態を捜査している。 学校側によると、被害生徒が2年だった昨年秋ごろ、被害生徒の机の上に粘土が置かれているのを担任教諭が見つけた。教諭は嫌がらせを疑ったが、被害生徒が「大丈夫です」と答えたため、それ以上せんさくしなかったという。 また学校近くの飲食店によると、被害生徒は3年になってから週に3、4回、お好み焼きを何枚も買っていた。店員が「何でいつもお金を出しているの。いじめられているんと違う?」と尋ねると、「そんなんと違うんです」と答えたという。 他にも県警の捜査で、金を要求していた4人以外の同級生が今春、被害生徒にブレスレットを売りつけ、代金4万円を催促していたことも判明。遺書らしきメモに、自分を中傷する書き込みがあるインターネットのサイトを見つけ悩んでいたという趣旨の記述があったことも分かった。 学校側は2年生時の担任の対応を「誤りではない」とし、「いじめはなかった」としている。毎日 神戸市須磨区の私立高校で今年7月、校舎から飛び降り自殺した同校3年の男子生徒=当時(18)=に、同級生の少年(17)らが金品を要求していた恐喝未遂事件で、男子生徒が残した遺書めいたメモの全容が21日、わかった。メモには、現金を要求されたようすや下半身がインターネットのホームページ(HP)に掲載されたことが触れられていた。 メモは「世界一の幸せ者でした」という書き出しで、金品を要求されていたことや、男子生徒の下半身の写真が掲載されたとされるHPについて記されていた。所々に日付をあらためる表現があり、数日かけて書かれたとみられる。 関係者などによると、メモはA4判3枚。2枚目までは手書きで、3枚目はパソコンで作成されていた。「世界一の幸せ者でした」という書き出しで、両親への感謝の言葉が記されていた。その後、「うそ1回で1万円といわれた。金がたまるいっぽう」「払われへん」などという金品要求を受けていたことを記載。 さらに、男子生徒の下半身の写真が掲載されたとされるHPについて、「自分がつくったものではない」などと記していた。これらの文章の間には「○日に続いて(書きます)」「しばらくして」など日付をあらためるような表現があり、数日にわたって書き上げたとみられる。 男子生徒に対する金品要求は今年春ごろからあったが、6月ごろから激化。「うそをついたから5万円払え。払わなければ何をされるか分からないぞ」などというメールが頻繁に送られるようになった。自殺前日の7月2日には携帯電話のメールアドレスを変更していることなどから、男子生徒が自殺する直前には金品要求がいっそう激しくなったとみられる。 こうしたことから県警は、金品要求の激化とともに男子生徒が自殺の意思を固めていった可能性が高いとみている。サンケイ 神戸市の私立高校で自殺した3年の男子生徒(18)に同級生の少年(17)が金を要求して逮捕された恐喝未遂事件で、自殺当日の弁当箱に、母親が入れたのとは別のおかずが詰め込まれていたことが20日、関係者の話で分かった。校長がこの話をすると、生徒の多くは「嫌いなおかずを誰かに入れられたのだろう。いじめではないか」とうわさしていたという。 生徒は7月3日午後2時ごろ、校舎の渡り廊下から飛び降り自殺した。 高校の関係者によると、遺品の弁当箱を家族が開けたところ、母親が入れていない別のおかずが詰め込まれていた。生徒へのいじめや嫌がらせとみられるこうした行為は昨秋から続いていたという。 高校によると、昨秋には、放課後、生徒の机の上に美術の授業で使う粘土が塊にして置かれていた。不自然に思った担任教師が声をかけたが、生徒は「大丈夫です」と答えたという。共同学校側がようやく「いじめ」のあったことを認めた私立高校と伏せてあるが、報道番組のぼかした学校の遠景写真や情報などで「滝川高校」というのは一目瞭然、実名を出してやる、この学校に通う一部の生徒が人を死に追いやったのだいじめ自体は去年から続いており、激化したのが今年春ごろからのようだ現在逮捕された少年はひとり、メールにより金品の恐喝をしていたとのことだが、こいつは財務大臣と呼ばれ、集金役でしかないこの後ろにこいつを介して「いじめ」を指示していたカスがいるのだHPでは自殺した少年が服を脱がされていく動画や下半身の写真などがアップされていた、さらに頭をモヒカンにされ、飲食の代金もすべて支払わされており、その金を工面するために学校で禁止されていたバイトもしていたことがわかっている弁当の中は嫌いなおかずに変えられていたと報じてあるが、消しゴムの粉や唾液等が詰め込まれていたという情報も出てきているニュース文面の最後、遺品の弁当箱には母親が作ったおかずが入っていないという状況は、今までもおかずはいじめ加害者により取り替えられていたのだろうが、被害者少年はそれを捨てて持ち帰り、母親には食べたよと伝えていたのではないか彼が自殺した日のみ、手付かずのおかずが詰まった弁当箱が帰ってきたそれを見て、母親ははじめて自分の子供がいじめにあっていたことを知ったのだろう・・・なんとも不憫な話である被害者少年の遺書には加害者少年を名指しで非難する内容は無かったと報じられている、また両親に対する感謝の言葉ではじまっていることからして、性格的にやさしい子だったのだろうだからこそ、学校側の毅然とした態度が求められるのだが、ここにきてようやく「いじめ」の存在を認め、コロッと態度を変えるあたり、どいつもこいつも対応力ゼロ、生徒指導ってなんのためにあるんだろうね?名目だけでいいなら、バカでもできるさ、そのまんまバカ生徒指導顧問被害者が自殺したのは今年7月だ、事件が明るみになり騒がれ始めたのが「今」、そう9月下旬、自殺後はいじめを否定し続け、財務大臣役の同級生が逮捕されてから一転、いじめを認めた学校側に自浄能力が皆無だということはよくわかったであろう事件の詳細が続報されることを待ちつつ、この事件を注目しています 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月23日
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総裁選が行われているのにも関らず、こういうことを書くのも 何だが、もう少し先の展望を予想して書いてみようと思ふ 23日に投票により自民党新総裁が決定し、国会で首班指名され組閣をする その後、所信表明演説を行い、それに対し与野党の代表質問が行われる 代表質問後、話し合い解散となる可能性もある(これが一番早い解散) しかし、現在、自民党は支持率が低い状態なので、 なるべく長く内閣を持たせようとするであろう 新内閣の課題である、テロ特措法を新内閣において新しく出しなおす ということをやらざるを得ない、なぜなら十一月までに現行のテロ特措法を延長 することは不可能だからだ、そこでインド洋上で給油給水のみできるという法案 (国会の承認なし)を出すこととなろう、この法案が参議院で否決されれば、 衆議院で三分の二以上で再可決という形で押し通す、となれば 閣議で民主党は参議院で内閣に対する問責決議を出す、衆議院では信任 決議を出して対抗する 衆議院のほうが優位性があるが、この状態でほぼ相殺される しかし、このような現象が起きた場合、参議院ですべての与党が出した法案を 野党側は否決する、参議院の第一党は民主党であり自民公明法案はすべて否決 される、こうして手詰まりになってくる このためある時期で解散総選挙を迫られることとなる 自民党としては来年度予算を通しておきたいという思惑があるので 一月二月までは解散をしない方針をとるであろう そうなると解散は「春」になる公算が高い これから起こるであろう解散総選挙は、テロ特措法が絡む十一月、 予算成立が絡む一月二月、そこを越えても春あたり・・・ もしこれが外れるなら、テロ特措法において自民と民主が擦り寄った場合 のみ、つまり民主が自民の案に賛成し、参議院を通過したときであろう 当たるも八卦当たらぬも八卦、外れても慶次への誹謗中傷はしないように 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月22日
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南北1300m、東西700mに及ぶ広大な敷地といえば・・・ 京都御苑 1331年、光厳天皇がここで即位し御所とした後、1392年の南北朝合一により 皇居と定まり、明治遷都までの約500年もの間、天皇はここに住まわれた 1947年、京都御苑は新宿御苑、皇居外苑とともに国民公園として指定された では中に入ろう・・・ 堺町御門をくぐり、左へ向かうと厳島神社、拾翠亭がある 平清盛が母のために安芸の厳島神社を勧請したのが始まりであり、兵庫の 築島から、この地に移されたとされている、写真を見て?って思った人 そう、唐破風形の鳥居笠木なのよ、珍しいでしょ 五摂家のひとつ、九条家の遺構である「拾翠亭」はいまから200年ほど前 茶室として建てられた、一般公開は毎週金土曜・・・・・残念 藤原鎌足を祖とする九条家は明治時代も道隆が明治天皇の左大臣に、娘が 大正天皇の皇后になられている さて、旧九条家をあとにして、その北にあるのが、「宗像神社」 こちらは藤原冬嗣が795年に宗像神(宗像大社)を勧請したのがはじまり ここには紫宸殿の左近の桜があったのだが、植え替えられたようだ 本殿にて参拝、宗像さんは交通の神、旅の無事を祈願した・・・ さあ、ここから「京都御所」を目指す・・・ 建礼門前大通りのど真ん中を歩き、建礼門へ向かう・・・ 広いから、ちょっと歩いたくらいでは近づかない・・・そこで これが京都御所正門、「建礼門」、特別な行事以外は開かない・・・ 慶次が来ているんだから開けろよ・・・ 京都御所の東門、「建春門」、それにしても広い広い広い 西門側に向かうと、清水谷家跡地に樹齢300年の「清水谷家の椋」がある ここで「蛤御門の変」の際、来島又兵衛が討死したといわれている 天明の大火の際に初めて門が開いたことから貝が火にあぶられ口開く様子 に喩え、蛤御門と名づけられたこの門において1864年に事件が起きた 前年の8月18日の政変により、薩摩会津連合により京都より追放されていた 長州藩、尊皇攘夷を第一とする積極派と慎重派が牽制しあっていたが、6月 の池田屋事件により、慎重派の高杉晋作、桂小五郎らを抑え、積極派が挙兵 久坂玄瑞や来島又兵衛らは薩摩会津藩らにより鎮圧され戦死した・・・ このときの激戦の様子を語るように、門には弾痕が残っている(写すの忘れた) 幕府は朝廷に発砲したという理由で、第一次長州征伐を開始することとなる 久坂は高杉と松下村塾の竜虎といわれた若き天才、残念なことに久坂玄瑞25歳 高杉晋作28歳、松下村塾生みの親、吉田松陰29歳、長州の、いや、未来の日本 の大黒柱は相次いで30に満たない年齢で亡くなっている・・・ そんな幕末の遺構を眺めながら、北へ歩く・・・ 宮内庁京都事務所、一条邸跡を抜け、五摂家のひとつ近衛家邸跡に向かう ここは春に来るべき場所だ、なぜなら枝垂れ桜の名所だから・・・ 池もあり、栄華がしのばれる・・・んなわけがない・・・蚊が多すぎ! 見上げると、太陽が真上を通過中のようだ、そろそろ帰るか ここからぐるっとまわって御苑内を歩けば京都迎賓館、大宮御所があるが、 どちらかというと国民公園の色が強いかなあ、ゲートボール場とかあるし だから 今出川御門側から出て帰ることに決めた、この日、早朝5時すぎより活動して いたし、眠くて眠くて仕方なかった~、あと暑さも強烈になってきたし 今度行くときは、御所などが一般公開されているときに行こうと思ふ すべてに「菊」がほどこされていた京都御苑よ、また会おう! それにしても疲れた、京都駅から京都御苑まで歩き、さらに御苑内を歩き回り・・・さすがにバテましたな 古い記事だけど読む?昭和天皇エピソード 昭和天皇エピソード2今上天皇エピソード今上天皇エピソード2 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月18日
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とある交差点から東山区方面を写真におさめた、あの山はなんだろう? てくてく歩いていく・・・ 「行人」 下京区を越えるあたりに高島屋、阪急デパートがある、こんな建物 つまんねえとばかりにズンズン歩く・・・ バテる・・・ 京都市役所前にて休憩・・・チラッ ん?・・・ん! ということで次の訪問場所は、「本能寺」 (写真は総門) 1587年に秀吉の命にて、いまの地に本能寺は移転された、現在の京都市役所 あたりも敷地として与えられていたようで、かなり広大な寺院だ 創建は応永22(1415)年、日降上人を開基とする法華宗の寺であり、本堂は 再建ながら、室町時代の特徴をよくあらわしている、現在の本堂は昭和の再建 四条西洞院にあった本能寺に信長が宿泊したのは天正10年5月29日のこと 軍勢の集結を待ち、6月1日に茶会をひらく信長・・・同日、「敵は本能寺に あり」と、主君討ちの炎をたぎらせ、明智光秀の軍勢13000は丹羽亀山城を 出発し、翌日早朝、本能寺を取り囲んだ 信長が物音に気づき様子を探りに 行かせると、「紋は桔梗(光秀の家紋)」との報告が入り、「是非に及ばず」 と信長は自ら弓をとり応戦 ラストは小姓である森蘭丸に火を放たせ、自刃したといわれる 本能寺は種子島にも末寺があり、布教していたので、この本能寺には 多くの鉄砲や火薬が隠されていたようだ、さらに最近の発掘では堀や 土塀が施されていたことがわかり、それなりの城砦機能を持っていた のである、まして東国、西国と信長の近くに敵はおらず、安心して 本能寺に宿泊したのであろう、そうでなければ、誰かが信長を安心する ような手はずを整え、光秀を操ってこのような謀反を起こさせたと推理 するのが妥当ではなかろうか? みなさんはどう思いますか? 山門の横には日蓮上人の像がある、南無妙法蓮華経~ 日蓮は「立正安国論」を幕府に送り、法華経を立てよと執拗に求めているこの政治に関ろうとする姿勢は現在、「創価学会」が引き継いでいる 本堂、早朝であったからか、人はやけに少なかった 本能寺前の商店街通りも閉めている店がほとんどで、がら~ん この写真を撮っているあたりに、臥牛石なるものが存在する 臥せた牛に見えないこともない・・・ 法華経信者の加藤清正が寄進したとされている・・・あくまで噂 寺の人が言ってたから間違いない、あくまで噂・・・もう一回 近所の加藤さんだったらどうすんだよ、ここまでたいそうに奉戴してさ 本能寺はとにもかくにも「火事」に悩まされた、そんなこともあり、 本能寺の「能」の字の「ヒ」の部分は「去」という字に似せてある 火よ去れということ・・・であるか本能寺を後にし、慶次はさらに歩く・・・ここまで来ると、目指す場所はただひとつ・・・次回、旅行日記最終回、おたのしみに~ 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月15日
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ということで、「京都編」のはじまり~とりあえず、歩いて面白いところを見つけたら入ることにした・・・ 烏丸通りを五条方面に、5分ほど歩くと見えてくる、「東本願寺」慶長7年、家康は教如に京都本願寺の東へ寺地を寄進し、翌年、教如は家康より寄進された寺地へ、常陸の妙安寺から親鸞六十歳、帰洛の折、別れを悲しむ成然房に「我がを懐かしく思う時は、この像を見給え」と、形見として残した宗祖の木像を迎え、御堂を建立して安置。 こうして東本願寺は別立する。「おひがしさん」と呼ばれる東本願寺(大谷派)もいいが、やはり見るなら 西本願寺(本願寺派)、正式名称「本願寺」かもしれない・・・親鸞聖人像が安置されている1636年に建立された御影堂は、現在「寛政の大修復」寛政12年(1800年)以来2回目の「平成大修復」を行っている。写真奥が御影堂、ショベルカーも入り、本格的な大工事では、ここで問題、次の写真「太鼓楼」にゆかりの深い武闘集団は 1865年に新撰組は隊士増加にともないここに屯所を移転する、策士である土方の案であった。 西本願寺は勤皇派ひいきだったのだが、敷地内に屯所を置かれ、来る日も来る日も大筒を撃ち調練する新撰組に参り、不動堂への屯所移転をすすめ、その資金の半分を出すこととなる、土方はしめしめと思ったに違いない、ちなみに先にも書いたが東本願寺が家康の庇護を受けていたことに対し、本願寺は対抗し、勤皇派をひいきしたのであった なんとも華麗で荘厳な「阿弥陀堂門」をくぐり中へ・・・ 目の前にあらわれる巨大な建物、「阿弥陀堂」は東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル(御影堂はさらに大きい)の本堂でありご本尊「阿弥陀如来」を安置している 中は広い!広い!さらに天井が高く、風がしっかり吹き抜けるため、涼しいのだ しかし、この本堂も四度の火事にあい、現在の姿は明治時代に再建されたもの、少し残念である 「総門」、堀川通りを隔て建てられている、本来は奥の「御影堂」が見えるのだが、ごらんのとおり、平成の大修復の垂れ幕等で隠れてしまっている門から撮影方向へは仏壇具屋さんが並んでおり、ひとつの城下町のようだ本願寺は戦国時代、戦国大名と肩を並べるほどの強大な勢力となるこれは親鸞よりも蓮如の影響が強いであろう、彼の地道でありながらフィクサーの側面をも持つ布教活動は民衆に反権力のパワーを与え、一揆という形で成就する、もちろん蓮如がこれを望んだわけではないがある意味、領主への反抗一揆は社会革命と呼んでもいいもので、これは日本における本格的な革命の時期だったといえるかもしれない明治維新は単なる武士同士の主権争いでしかないと慶次は考えているこの後、信長との死闘を経ることになるが、武力では負けなかった彼らも正親町天皇の勅命を引き出した信長の策には屈することとなる最初に紹介した、徳川家康が徳川時代に教如に土地を寄進したことは、前例を糧に、大きな勢力になる前に分派させたほうが得策と考えた家康の巧妙なトリックであり、これにまんまとのってしまった本願寺は、東と西に分派し、幕末は幕府側と勤皇派にわかれることとなる・・・おっしゃれ~~~な「本願寺」マーク 明治に名字必称となったことで、両本願寺とも親鸞の墳墓の地である大谷を名字とし、ふたつの大谷家はともに伯爵を授けられ華族に列した、以上京都日記は、まだつづく・・・ 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月13日
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広島を出発して岡山を越える、あたりは暗く、今日中に行けるところまで行こうと電車に揺られ♪揺られて♪イスタンブール~♪乗り換えもわからず、東上することのみを考えて駅名を眺め、「姫路」行きに飛び乗った、ところが途中「三石」という駅で乗り換え発生、ここで約30分後発の電車を待つこととなったこの駅、無人駅でかなり小さい、30分もじっとしていられないと思い改札を出て、コンビニでも行くかと思ったのだが、目の前が山・・・そして山道に沿うように民家が存在するも、街灯が少なく暗~い道に迷ったら大変だと思い、駅でボケーッと待つことにした、「すげえな、目の前に山かよ」と眺めていたら、ちょうどその上に「さそり座」が!心臓部のアンタレスが真っ赤に燃えている、さらに上を眺めると・・・おおぉ~、星がこんなにたくさん見えるなんて山に行くと星がよく見えるというが、こういう思ってもみなかったシチュエーションであれだけの星が見れたことは驚きだった(このとき9時30分ごろ)後発の電車に乗って「姫路」で乗り換え、「新大阪」、「京都」を目指す、ここからはJR神戸線だ、幸運なことに新快速に乗車でき、あっという間に「神戸駅」、ここは降りてじっくり見たかった都市だったけど、もう10時をまわり真っ暗で何も見えない、好きな都市のひとつ神戸さん、さようなら「三宮」、「芦屋」、「尼崎」を過ぎ、やっと「大阪」、これなら「京都」より先まで行けるかも、JR京都線で「京都」までGOGO「京都駅」到着が23時30分をまわっていた・・・ここでギブアップということで、次回は「京都編、少ししかないけどね」誰じゃ、旅日記がつまらんとか言う奴は!! 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月12日
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がたごとがたごと電車に揺られ揺られて約7時間、やってきましたひろしまとにもかくにも連日猛暑、そういうニュースは聞いていたが、九州より暑かったなあ、湿気が高いのだろうか? うだるような暑さとはここ 駅前から路面電車に乗った、一律150円で地の果てまで連れて行ってくれるたくさんのせみが大声で鳴き続けるなか、厳然と建ちほこる負の世界遺産「広島県産業奨励館」、現在の原爆ドームルーズベルトの後任として大統領になったH・トルーマンは原爆を日本に落としたくてたまらなかった、完成した原爆を日本に落とせば間違いなくジャップは降伏すると彼の日記には記録があり、さらにソ連参戦は7月の時点で決まっており、その前に原爆で日本の息の根をとめるとトルーマンは意気揚々と原爆という兵器の完成を喜んでいた1945年8月6日、テニアン島をエノラ・ゲイを含む計4機のB-29は上空から見るとT字型で目標にしやすい投下ポイントである「相生橋」に飛び立った8時15分、「リトルボーイ」投下、ほぼ産業奨励館の真上で炸裂 人工的につくられた「太陽」の熱はあらゆるものを溶かす、人間は影だけを残し、蒸発してしまった、奨励館も無残な姿に変わり果てた・・・そしてこのとき、原爆投下の報告を聞き、戦艦オーガスタ上でうれしさのあまり小躍りしているひとりの男がいた、合衆国大統領トルーマンである1958年に完成した「原爆の子の像」は、原爆で亡くなったある女性の同級生が募金活動を行い、慰霊目的の石碑として建てたものだ、後ろには常に千羽鶴が山のようにかけてある、それにしてもここで4年前に起きた関学大学生による放火事件は悲しかったな (折鶴放火事件)ここからまっすぐ資料館のほうへ歩いていくと、原爆慰霊碑がある、この日も多くのひとが訪れ、慰霊碑前は献花と水がたくさん置かれていた慶次も水を地面のまわりに軽く降りかけ、線香をあげてきた、後ろにはためく日の丸ごくろうさんこの慰霊碑と原爆ドームの中間あたりに原爆供養塔がある、これはこの地域一帯で亡くなった人を慰める塔だ、広島はほぼ壊滅状態に陥ってしまったためここにいくつもの焼け焦げた遺体が運ばれ火葬したという、その後平和公園をつくるために工事がはじまると、地面から何体もの人骨が出てきたため、この遺骨も慰めるために供養塔に納められた、いまでも慰霊祭はおこなわれている下の写真は、原爆投下ポイントとなった「相生橋」、路面電車が走っている相生橋の下に流れる元安川は宮島へ向かう水上バスが出航しているいまではこのような美しい夕明けを水面に漂わせる元安川も、あのときは多くの焼け焦げた遺体や焼け爛れた人々が熱さを逃れるために飛び込み、死体の山だったようだ、なぜだか、そっと手をあわせてしまった1995年に史跡に認定され、翌年はユネスコ世界遺産の登録が決定した原爆ドーム、このときのユネスコ遺産登録に猛烈に反対した国がアメリカ賛否保留を貫いた国が中国であるアメリカ国内ではいまでも原爆が米国民だけでなく日本人をはじめとする世界の人々を救った(ロバート・ジョゼフ)とする珍説がまかり通っている中国は加害者である日本が被害者面するなということのようだ本当に、こんなバカ二大国家に挟まれている地理的状況はなんとかならんかいまでは旧産業奨励館も、まわりの建物の巨大化から小さくなったが、しかし、存在意義は大きいこの後、広島駅を出発し、岡山に着いたのが2時間後、隣接している県なのにそんなにかかるのね~、もうあたりは真っ暗になっていました 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月09日
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8月17日早朝にチェックアウト、鈍行にて帰途に着く・・・小倉を過ぎ下関、この時点でもう3時間は電車に乗っているそういえば小倉近くでスペースシャトルを発見した、どうやら「スペースワールド」っていうアトラクション施設のようだここから中国地方ほ縦断するわけだが、いつもは新幹線乗車のため山しか見えない 今回は山陽本線で景色を楽しんだ瀬戸内海沿いを運行しているので、慶次の大好きな海がずーっと見える途中、橋があったが、あれを渡ると四国なのかなあ・・・余談だが、電車内や駅のアナウンス、あれって地元の方言で話せばいいのになあ、標準語でアナウンスされても、情緒がでない途中、乗り換え乗り継ぎをしながら東へ東へ、とにかく東へ宮島の厳島神社に惹かれながらも、ここは心を鬼にして東へ時計は3時になろうとしている、しかしここは降りなければならない次回、「広島編」です*普通に街中で話しているひとたちや、道を聞いたときに返ってくる言葉の イントネーションって情緒が出ます、方言って大切にして欲しいなあ 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月07日
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”あなたは神を信じますか?” 今回は九州番外編として、ちょっとしたエピソードをご紹介 とある場所を夕刻に歩いていると、後方より二人の若い(25くらい) 異国人が自転車にて接近してくる、キキーッ 異A「あの、少し時間をいただけますか?」 慶次「ん??? 道ならわからないよ」 異A「いえ、学生さんでしょうか?」 慶次「そんなわけないじゃん、社会人」 異A「そうですか、どうして仕事をしているのでしょうか」 慶次「そんなもん、食うために決まってんじゃん」 異A「では、なぜ生きているのだと考えたりしたことはありますか」 慶次「・・・」 異A「この世には真理というものがあると思ったことはありませんか」 慶次「・・・、ところで君たちだぁれ?」 異A「私たちは神の言葉をみなさんに伝えようとしています」 慶次「(バッジを見ながら)キリスト教の布教活動?」 異A「はい、キリスト教はご存知でしょうか?」 慶次「知らん、私は神道だもん 神道わかる?」 異A「はい、八百万の神ですね」 慶次「そう、キリスト教は一神教だね、偶像崇拝しないんだよね」 異A「はい、もし興味がありましたらこちらへ(小さなパンフを貰う)」 慶次「ふ~ん・・・ん??? モルモンの書?」 異A「私たちは神のお告げをみなさんに伝え、人生の真理を・・・」 慶次「神のお告げって誰が聞けるのさ きみは聞こえるの? 長老さん」 異A「私はまだ聞こえません、でも教会にはいますよ」 慶次「その預言者の言を信じる根拠はなんだろうね モースのように 海を割るところでも見せてくれるのかな」 異A「神は天におられ、預言者の言葉を私たちは正しく伝え・・・」 慶次「言葉を正しく伝えるためには、正しく理解しなくちゃ駄目でしょ」 異A「・・・予言者が伝える真理を勉強することは・・・」 慶次「預言者?? モルモン書が?? ところで仕事はしてるの?」 異A「いえ、していません 私たちは布教だけをしています」 慶次「(収入はどこからくるのだろうなあ)そう・・・」 異A「生きる真理を知れば、楽しく活き活きとした人生をおくれますね」 慶次「仕事の終わったあとに風呂に入りビールを飲む、好きな人と食事 に行く、休みの日に少しだけ遅く起きる これも幸せじゃないの?」 異A「そのような楽しみではなく もっと崇高な目的を知ることが・・・」 慶次「真理は多面的だといった人がいる、釈迦だ、長老さんの見ている真理 と私の見ている真理は同じかもしれないけど、反射角によって見え方が 違うわけ、見え方って変だな 捉え方っていったほうがいいか 」 異A「そのために預言者の話を聞いて 真の意味を理解すればいいのでは」 慶次「だから その預言者を信用する手段はあるのかい?」 異A「・・・・・・ 」 慶次「・・・・・・ 」 彼らは決して慶次をだましてどうこうしようとした感じではなかった、モル モンの書を信じているようであった(ただ、明確に理解しているかは疑問) この後、彼らは布教活動にいそしみ、慶次はただただ遊ぶのであった *もらったパンフレットで彼らの団体を調べてみたら、モルモン教だった 団体名は、「末日聖徒イエス・キリスト教会」、バリバリのホルモンやん 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月03日
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長崎の街は写真のように山に囲まれている、このため広島より被害が小さく済んだのだが、原子爆弾の威力は広島のそれを上回っており、もし平坦な街並みだったら、被害はもっと大きかった平和公園は最寄の駅は、「浦上駅」、慶次は間違えて長崎駅で降りた長崎駅から平和公園へ向かい、まず爆心地公園に入ったここには原爆落下中心碑や浦上天主堂遺壁がある、もちろん無料写真は中心碑、昭和20年8月9日午前11時2分、テニアンから飛び立ったボックスカーは原爆を手動投下、ファットマンはこの碑の真上約500メートルの位置で炸裂し、一瞬にしてひとつの街を破滅させた・・・ここには下の川が流れていて、側壁は原爆投下時の頃の地層がそのまま残されている、それにしても暑い・・・いや熱い・・・長崎爆心地公園を抜け、「平和公園」へこの日、空は晴れ渡り、暑い一日となった、階段を上ると・・・ この「平和の泉」は被爆し、体中が燃えるように熱くて苦しんだ人々の「水を・・・」という悲しき嘆願に応え、慰霊の意味も添えてつくられた広島の「繰り返しません過ちは」という言葉よりも、長崎の石碑の言葉のほうが慶次は胸にグッときた平和の泉の向こう側に見える像は、「平和記念像」、天を指す右手は原爆を水平に伸ばした左手は平和を、軽く瞑った目は死者の冥福を祈っているこの日も多くの人々が来訪していて、水や花が添えられていたしかし、慶次は象徴的ではあるが被爆後10年ほどして建てられたこの像に献花することが腑に落ちない、グルッとあたりを見回すと数十メートル横に「原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」というものがあった(写真は勘弁)、いまだにここをさまよっている魂の鎮魂を思い、献花し、手を合わせる*ここでは無縁死没者の名前が掲載されていて、関係者が名乗り出ることを 願っている、このときは何も感じなかったが、後日HPを見て、書かれて あることに少し違和感を感じた。 そこには、「誰もが抵抗なく参拝できるようにするためにも、無宗教形式 となっています」とあり、いかにも靖国と対比するかのような印象を受けた 長崎、広島ともに、こういう政治的思想的な側面は排除して欲しいものだ。次の2枚の写真は「平和記念像」を境にした写真、山に囲まれているのが一目瞭然である、特有の地形を持ったがために原爆投下目標となった長崎 ここに来ると、この暑い中、深々と顔が隠れるような大きな帽子をかぶり長袖の方々が献花している姿が多く見られた、雰囲気からして原爆症の方々だということはすぐに理解できたあのひとたちにとって、昭和20年の出来事はまだ続いているリアルな歴史、まだ生を受ける以前から、運命づけられた原爆との戦いなのだ最後に、慶次は平和の鐘を明日への希望と死者への鎮魂のために鳴らした余談だが、長崎ちゃんぽんは絶品!! *写真は8月16日撮影 一 夢 庵 風 流 日 記
2007年09月01日
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