FLESH&BLOOD 二次創作小説:Rewrite The Stars 6
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄 1
火宵の月 芸能界転生パラレル二次創作小説:愛の華、咲く頃 2
火宵の月 ハーレクインパラレル二次創作小説:運命の花嫁 0
火宵の月 帝国オメガバースパラレル二次創作小説:炎の后 0
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻 10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士 2
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ 5
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て 5
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法 7
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁 12
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:幸せの魔法をあなたに 3
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は 10
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁 1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華 14
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う 2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女 0
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜 18
火宵の月 昼ドラ大奥風パラレル二次創作小説:茨の海に咲く華 2
火宵の月 転生航空風パラレル二次創作小説:青い龍の背に乗って 2
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊 1
火宵の月×薔薇王の葬列 クロスオーバー二次創作小説:薔薇と月 0
金カム×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:優しい炎 0
火宵の月×魔道祖師 クロスオーバー二次創作小説:椿と白木蓮 1
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月 10
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:それを愛と呼ぶなら 1
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華 1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母 13
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫 20
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黄金の楽園 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳥籠の花嫁 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:蒼き竜の花嫁 0
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん 6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥 7
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師 4
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国 1
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている 3
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚 2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥 27
火宵の月 転生昼ドラパラレル二次創作小説:それは、ワルツのように 1
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計 9
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師 1
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉 54
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~ 6
FLESH&BLOOD×黒執事 転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:碧の器 1
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華 0
火宵の月 現代ファンタジーパラレル二次創作小説:朧月の祈り~progress~ 1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:ガラスの靴なんて、いらない 2
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師 1
火宵の月 吸血鬼オメガバースパラレル二次創作小説:炎の中に咲く華 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黎明を告げる巫女 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:光の皇子闇の娘 0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:闇の巫女炎の神子 0
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く 1
火宵の月 昼ドラファンタジー転生パラレル二次創作小説:Ti Amo~愛の軌跡~ 0
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~ 3
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら 2
PEACEMAKER鐵 ファンタジーパラレル二次創作小説:勿忘草が咲く丘で 9
FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して 20
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:花びらの轍 0
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達 1
火宵の月 異世界軍事風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:奈落の花 2
FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔 6
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~ 1
火宵の月 千と千尋の神隠し風パラレル二次創作小説:われてもすえに・・ 0
薄桜鬼腐向け転生刑事パラレル二次創作小説 :警視庁の姫!!~螺旋の輪廻~ 15
FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて 10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう 8
FLESH&BLOOD 現代転生パラレル二次創作小説:◇マリーゴールドに恋して◇ 2
火宵の月×天愛クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー 0
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい 4
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魔道祖師×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想うは、あなたひとり 2
火宵の月×ハリー・ポッタークロスオーバーパラレル二次創作小説:闇を照らす光 0
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火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風パラレル二次創作小説:愛の名の下に 0
火宵の月 和風転生シンデレラファンタジーパラレル二次創作小説:炎の月に抱かれて 1
火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず 1
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師 1
薄桜鬼×天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿 1
火宵の月×薄桜鬼 和風ファンタジークロスオーバーパラレル二次創作小説:百合と鳳凰 2
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風昼ドラパラレル二次創作小説:砂塵の彼方 0
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「薫、合格おめでとう!」「ありがとう~!」その夜、土方家では薫の合格祝いのパーティーが行われた。「お姉ちゃんとは来月でお別れか・・さびしくなるなぁ。」「大丈夫よ。メール書くからさ。」「本当に?」「嘘吐かないわよ。」美輝子はそう言うと、薫の肩を叩いた。「お前ら二人に話があるんだが・・近々ここを引っ越そうと思うんだ。」「え、何処に?」「単身者専用のマンション。ここは老朽化が激しいし、色々と手狭になってきたからな。それに引越し先のマンションは薫の高校にも近いし。」「そう。お姉ちゃんの渡米に引越し・・息つく暇もないねぇ。」「そうだな。」 薫と美輝子は新生活への期待と不安で胸を膨らませながら、引越しの荷物を纏めたりした。そして漸く、美輝子が渡米する日の朝が来た。「美輝子、パスポート持ったか?」「うん、持ったよ。」「気をつけていけよ。途中まで送ってやるよ。」「サンキュ。」 歳三は美輝子とともに成田空港行きのターミナルバス乗り場へと向かうと、バスが到着するまで時間があった。「ミジュたちにもよろしくな。」「うん、わかった。パパも身体気をつけてね。」「ああ。」「メールは向こうの生活が落ち着いたらするね。住むところはもう決まってるけど、実際に住んでみないとわからないし。」「そうだな。」美輝子がミジュ達と一緒に住むのは、NYのマンハッタン近郊だということは聞いていたが、どんな所なのか歳三はよくわからなかった。「なぁ美輝子、お前は色々と俺や薫を支えてくれたよな。感謝してるよ。」「そんなこと言わないでよ。パパ、向こうであたし、頑張るからね。」美輝子がそう言って笑うと、バスが停まった。「それじゃぁ、行くね。」「ああ。元気でやれよ。」「わかりました。行ってきます!」 美輝子が乗ったバスが見えなくなるまで、歳三は彼女に手を振った。「お帰りなさい、パパ。」「ただいま。」「これから二人きりの生活になるけど、お姉ちゃんの分まで頑張るね。」「あぁ、そうしてくれると助かるよ。」 引越し先のマンションで薫と夕食を食べつつも、美輝子は今頃どうしているのだろうかと歳三はそう思いながら溜息を吐いた。それから数ヵ月後、クラスメイトと笑顔で映っている写真つきのメールが歳三と薫の元に届いた。「元気にしてるんだな、あいつ。」「うん。ねぇパパ、夏休みになったらお姉ちゃんのところに遊びに行っていい?ミジュお姉さんにも会いたいしさ。」「いいぜ、好きにしろ。」「やったぁ~!」「ただし、今度のテストで全科目80点以上取ったらな。」「ちぇ~、そんなことだろうと思ったよ!」「いちいちうるせぇんだよ、お前は!」食卓を囲みながらそう言い合う父と娘の姿を、千尋の遺影が何処か笑っているように見ていた。(完)にほんブログ村
2012年10月19日
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「へぇ、そうだったんだ。前から薄気味悪い人だと思ってたのよね。」美輝子はそう言ってコーヒーを飲んだ。「それよりもお姉ちゃん、荷造りはもう終わったの?」「うん。卒業式が終わったら、すぐに渡米するつもりよ。あたしが居なくなったら、パパのことをよろしく頼むわね。」「わかりました。」姉妹が互いに笑いあっていると、薫の携帯が鳴った。『もしもし、カオルちゃん?』『ミジュお姉さん?お久しぶりです。』『久しぶりね、カオルちゃん。ミキコちゃん、来年の春から一緒に暮らすことになるから、ご挨拶にね。』『そうですか、こちらこそ姉を宜しくお願いします。』『ええ。』通話を終わらせ、携帯を閉じた薫は、姉の方へと向き直った。「誰から?」「ミジュお姉さんからよ。電話だけだけど、挨拶を済ませておいたわ。」「そう。これから色々と忙しくなりそうだわ。」「そうね。お姉ちゃんと一緒に居られる時間は短いんだし。さてと、受験勉強に戻るとするか!」薫は溜息を吐くと、再び参考書とノートを開いて勉強を再開した。「ねぇ、この問題これで合ってるかな?」「うん、どうかしら・・大丈夫よ、これで合ってるわ。」「次の模試でいい点を取らないと、希望校の合格ラインに届くか届かないかの瀬戸際なのよ。」「あまり無理しないようにね。」「わかってるわ。お姉ちゃんみたいに器用じゃないけど、あたしはあたしなりに頑張るわ。」「その意気よ、薫!」 美輝子はそう言うと、妹の肩を叩いた。 冬休みが終わり三学期に突入してから、薫達三年生は受験と模試の日々を送っていた。「あたし、受かったのよ!」「え~、いいなぁ。」薫は溜息を吐きながら、先に志望校の合格が決まった友人の笑顔を羨ましそうに見ていた。「あんたのお姉ちゃん、何処の高校行くの?」「ああ、お姉ちゃんなら渡米して向こうで暮らす予定よ。」「ええ、そうだったの!?てっきり同じ高校に行くと思ってたわ!」「まさか。双子だからって同じ高校に通うなんてないわ。まぁ、明後日に受験を控えているから、気を抜かないようにしなくちゃ。」 数日後、薫は第一志望校の受験に臨んだ。「ただいま・・」「お帰りなさい、どうだった?」「かなり手ごたえあったよ。お姉ちゃんが家庭教師のお陰だよ。」「そう、よかった。」「荷造り、手伝うね。」「ありがとう。あそこのダンボールに変圧器を入れておいてね。向こうじゃ電圧が違うから、何個か持っていかないといけなくて。」「そうだよね。前々から疑問に思ったんだけど、お姉ちゃん英語喋れるの?」「馬鹿だねぇ、あんた。喋れるに決まってるじゃないの!それよりも薫、受験が終わったからって気を抜くんじゃないわよ!」「はいはい、わかってま~す!」 それからほどなくして、合格通知が薫の元に届いた。「入学金高いなぁ・・」「そんな事心配すんじゃねぇよ。」「パパ、ごめんね・・」「大丈夫だ。謝るんじゃねぇよ、薫。合格おめでとう。そういや、美輝子は?」「ああ、お姉ちゃんならケーキ買いに行った。」にほんブログ村
2012年10月19日
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『もしもし、お姉ちゃん?』「ちょと、待ってて・・」美輝子は携帯を握り締めたまま、そっとドアスコープから廊下を覗いた。すると、そこには誰も居なかった。「さっき、誰かがドアを叩いてたんだよね。」『げぇ、キモイ!』「あんたはもう寝なよ。明日早いんでしょ?」『うん・・お休み。』「お休み。」携帯を枕元に置き、美輝子はシーツに包まりながら眠りに就いた。 翌朝、彼女がシーツの中で寝返りを打っていると、突然外から物音がした。(何だろ?)ドアチェーンを掛けたままドアを少し開けて外の様子を窺った美輝子はクマのぬいぐるみが床に転がっていることに気づいた。それと同時に、廊下からコツコツと靴音が聞こえたような気がした。「土方さん、ご家族の方が来てるわよ。」「え、父がここに?」何の連絡もなしに、歳三が長野にやって来る筈がない。「そうよ、だから早くロビーに・・」「父はこのホテルの住所も知りませんし、長野に来るという連絡も受けてません。」「そう?」美輝子の言葉に、顧問は首を傾げた。「でもねぇ、昨夜フロントで電話を受けたときは、お父様の声に聞こえたように思えたけれど・・」「先生、父に一度確認を取っていただけますか?」「わかったわ。」顧問の姿がエレベーターの中へと消えてゆくのを見送った美輝子は、一旦部屋に戻って貴重品をポシェットに詰めると、朝食を取りに大広間へと向かった。「土方先輩、おはようございます。」「おはよう。」 大広間は超満員で、料理を取るにも一苦労だった。「ねぇ、どうしてこんなに混んでるの?」「何でも、大学のチアリーディング部が合宿で来てるそうです。それよりも先輩、昨日キャプテンから聞いたんですが、変な人はホテル内には居なかったそうです。」「そう。」「土方さん、やっぱり昨夜の電話、お父様からじゃなかったわ。」「そうですか。」顧問の言葉に、まだ内田が居るのではないかという恐怖に美輝子は包まれた。 合宿は無事終わり、荷物を纏めた美輝子は後輩達と一緒にバスで東京へと戻っていった。「ただいま。」「お帰りなさい。」「美輝子、大丈夫だったか?」「うん。でもなんだか不安で落ち着かない・・」「大丈夫だよ、あたし達がついてるから。」 その後何事もなく瞬く間に季節が過ぎ去り、あっという間に冬を迎えた。「あ~、こんなんで合格すんのかな?」「あんた、最初から諦めちゃ駄目だって。」受験勉強真っ最中に弱音を吐く薫の頭を、美輝子はそう言って小突いた。「お前ら、ちゃんと勉強しとけよ!」「わかったよ。」「行ってらっしゃーい!」 歳三は友人の結婚式に出席する為、数日間家を留守にした。(あいつら、大丈夫かな・・)「ねぇ、お姉ちゃん、あいつのことはどうなった?」「実はね、あの人警察に捕まったって。何でも、同じ大学のクラスメイトにストーカーしてたんだって。」にほんブログ村
2012年10月18日
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「ねぇ、どうしたの?」「いえ・・何でもありません。」 見る見る顔から血の気がひいてゆく美輝子の様子がおかしいことに気づいたキャプテンは、そう言って彼女に話しかけると、彼女はベッドに入って震え出した。「気分でも悪いの?」「ええ。」まさか、内田が合宿先まで来るなんて、思いもしなかった。一体どうやって、このホテルの場所を調べたのだろうか。「じゃぁ、気分が良くなったら下に降りてきてね。」「はい、わかりました・・」キャプテンが部屋から出て行くと、美輝子は携帯を開き自宅へと電話を掛けた。「え、あいつが長野に来た!?」「どうしたんだ?」「パパ、お姉ちゃんの合宿先のホテルにあいつが現れたって!」「何だって!?」内田が長野に居ることを知った歳三は、恐怖と驚愕で顔を強張らせた。「あいつ、何処から調べたんだろう、お姉ちゃん達が居るホテル。」「薫、美輝子のことは部活のメンバーが守ってくれる。心配するな。」「うん・・」 その夜、薫と歳三は一睡も出来ずに朝を迎えた。「おはよう・・」「美輝子はもう起きてるか?」「電話してみるね。」薫が姉の携帯に掛けると、コール音が何回した後に切れた。「駄目だ、繋がんない。」「まだ寝てるのかもしれないな・・」「そうだよね・・」薫はそう言ったものの、姉が内田に拉致されたのではないかという不安を抱きながら、塾へと向かった。「先輩、どうしたんですか?顔色悪いですよ?」「最近、団地に住んでいる大学生がお姉ちゃんにストーカーまがいのことしてさぁ。合宿先のホテルに訪ねて来たんだって。」「えっ、それ本当ですか?」「嘘なんか言っても仕方ないじゃん。」 夏期講習の一限目を受け、教室で薫はそう言って洋子を見た。「そうですよね。」「その大学生、この前お姉ちゃんを待ち伏せして、結婚しようって言われたんだよ?キモ過ぎない?」「めっちゃキモいですね、それ。大体、美輝子先輩はその人のことをなんとも思っちゃいないんでしょう?」「そうだよ。パパは滅茶苦茶怒ってさ、家に上がりこもうとしたそいつを木刀で殴りかかろうとしてたんだから!学校には連絡入れといたから、大丈夫だと思うけど・・」「警察に言った方がいいんじゃないんですか?」「う~ん、事件性がないと駄目じゃないの?」「取り敢えず、何でもいいから記録に取るんですよ。ICレコーダーとか携帯とかに会話を録音したりしないと。」「そうだね。パパにも話してみるよ。洋ちゃん、サンキュー。」「そうか・・大事になる前に、警察に行って話した方がいいな。」 帰宅した薫がそう言って歳三に洋子からのアドバイスを話すと、彼は溜息を吐きながら新聞を広げた。その時つけっ放しにしていたテレビから、ニュースが流れた。『今日午前8時過ぎ、板橋区のマンションの4階に住む女性が、死体で発見されました。室内には遺書があり、自殺した可能性が高いと・・』画面に死亡した女性の顔写真と氏名が映った瞬間、歳三は息を呑んだ。それは、愛美だった。「パパ、出来たよ。」「お、おう・・」歳三はそう言うと、テレビを消した。 一方長野で合宿中の美輝子は、暫く休んだら気分がよくなったので、部屋から出て部員達が集まっている大広間へと向かった。「もう、大丈夫なの?」「はい。少し休んだら気分がよくなりました。」「そう。あの人、ここには土方さんは居ないって言ったら、諦めて帰っていったよ。」「そうですか・・」内田が本当に東京に帰ってくれたらいいのだが―そう思いながら美輝子はビュッフェテーブルの方へと歩いていった。 部屋に戻った彼女は、自宅に電話を掛けると、薫が出た。『大丈夫、お姉ちゃん?』「うん、もう大丈夫。だから心配しないで早くあんたは・・」 薫にもう内田は東京に帰ったことを美輝子が伝えようとしたその時、ドアが激しく叩かれる音がした。にほんブログ村
2012年10月18日
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「久しぶりだね、美輝子ちゃん。」内田はそう言うと、ニィッと口端をあげて笑った。「実家に帰ったんじゃないんですか?」「ううん。それよりも美輝子ちゃん、折り入って君に話があるんだけど・・」「何の話ですか?」「僕と、結婚してくれない?」「は?」一体彼が何を言っているのか解らず、美輝子は思わず内田の顔を見てしまった。「いやぁ、君と初めて会ったときから、タイプだったんだよねぇ。だから、結婚しよう?」「何言ってるんですか?あなたとは結婚しません!」美輝子は恐怖を覚え、すばやく自転車に跨ると校門から出て行った。ちらりと後ろを振り返ると、内田が鬼のような形相を浮かべて自分の後を追いかけて走ってくるところだった。パニックになりかけながらも、美輝子は必死にペダルを漕ぎ、団地の駐輪場へと自転車を停めると、一気に階段を駆け上がった。「どうしたのお姉ちゃん、怖い顔して?」「さっき・・学校であいつを見たの。」「あいつって・・まさか内田?」水を差し出した薫がそう言って姉を見ると、彼女は静かに頷いた。「結婚しようって言われたの。あいつ何処かおかしいよ!」「落ち着いて、お姉ちゃん。パパにはあたしから話しておくから、お姉ちゃんは休んで。」「ありがとう。」水を一気に飲み干した美輝子は、そのまま部屋着に着替えて奥の和室に入った。「美輝子、どうしたんだ?あんなに慌てて・・」「パパ、ここに住んでる内田って大学生知ってるでしょ?あいつ、学校でお姉ちゃんのこと待ち伏せして結婚しようって言ったんだって。」「何だと、それは本当なのか?」歳三の眦が上がったとき、玄関のドアが誰かに激しく叩かれる音がした。「居るのはわかってんだよ、出てこいよ!」ドアの向こうで聞こえる怒声は、紛れもなく内田のものだった。「てめぇ、こんな時間に何の用だ!」歳三が木刀片手にドアを開けると、内田は突然しおらしくなった。「すいません、あの・・美輝子さんいらっしゃいませんか?」「てめぇ、娘に手を出したら承知しねぇぞ!警察にしょっぴかれる前に帰りやがれ!」「わかりました・・」ドアが閉まり、内田の足音が遠ざかってゆくのが聞こえると、歳三は漸く木刀を下ろした。「パパ・・」「あいつ、おかしいな。暫く美輝子を一人にさせるんじゃねぇぞ、わかったな?」「うん。でもさ、お姉ちゃん明後日には合宿なんだから、たぶん大丈夫だと思うよ?」「油断大敵だぞ、薫。学校側には俺がうまく説明しておく。お前も気をつけるんだぞ。」「わかった・・」 数日後の朝、美輝子が合宿先の長野へと旅立った後、一人で留守番をしていた薫の元に、また内田がやって来た。「薫ちゃん、お姉さんは?」「姉は部活の合宿に行ってます。」「何処なのか、聞いてない?」「知りません!あなたいい加減にしないと警察呼びますよ!?」「また来るから、じゃぁね。」 合宿先のホテルで美輝子は友人と部屋で寛いでいると、キャプテンが部屋に入ってきた。「土方さん、あなたに会いたいって人が・・」「誰ですか?」「さぁ、とにかくロビーに来てくれって・・大学生風の男の人。」キャプテンの言葉を聞いたとき、美輝子の背筋に鳥肌が立った。にほんブログ村
2012年10月18日
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翌日歳三が愛美のバイト先であるコンビニへと煙草を買いにいくと、そこには彼女の姿はなかった。居た堪れなくなって辞めていったのかなと思いながらも、彼が適当に雑誌類が置いてあるところから一冊引き抜いた週刊誌には、こんな見出しが載っていた。“新宿の惨劇を引き起こした女の現在”そこには目の部分はモザイクが入れられているものの、背格好で明らかに愛美とわかる顔写真が載っていた。 記事には愛美が事件後釈放され、最初の夫と離婚し実家から縁を切られたことや、再婚した夫とは再就職先を探している時に出会ったこと、その夫がバツイチ子持ちであること―愛美のプライベートを完全に侵害した記事には、こう結ばれてあった。“罪を憎んで人を憎まず・・そんな諺(ことわざ)が死語になりつつある現在、あなたは彼女が犯した罪を憎むべきか、それとも罪を犯したくせにのうのうと暮らしている彼女を憎むべきか・・どちらを選びますか?”「ねぇ、これ薫のお母さんのことだよね!」部室で休憩していた薫の前に、そう言ってチームメイトの一人が週刊誌を見せた。「そうだよ。」「あの女、近所のコンビニで働いてたんだ!全然気づかなかったなぁ~」「あたしも~!いつもアイス買いに行ってたのに、もう行けないや!」「大丈夫だよ、あの女あそこもう辞めたから。」薫はそう言うと、部室から出て行った。「ただいま。」「薫、愛美のことリークしたのお前だろう?」「ああ、週刊誌のこと?うん、あたしがリークしたよ。彼女、今何処に居るのかわからないだろうけど・・」冷蔵庫からアイスを取り出した薫はそう言って笑うと、歳三の前に座った。「パパ、あの女への復讐は完了したよ。だから彼女にはもう手を出さない。これでいいでしょ?」「薫・・」「汗かいたからシャワー先に浴びるね。」一方的にそう言うと、薫は歳三と目を合わせずに浴室へと消えていった。「本日の練習はこれで終了!」「お疲れ様でした~!」 美輝子が所属する新体操部の練習が終わったのは、夕方の6時半過ぎだった。「先輩、お疲れ様です!」「お疲れ~!」着替えを終えた後輩達が次々と部室から出て行き、美輝子は忘れ物がないかチェックしてから部室に鍵を掛け、駐輪場へと向かった。 夏休み中の駐輪場は、昼間でも人気がなかったが、夜となると暗闇に包まれている所為もあってか、何処か不気味な雰囲気を醸し出していた。早く帰ろうかと彼女が自分の自転車に鍵を挿し込んでそれに跨ろうとしたとき、誰かが美輝子の腕をぐいっと引っ張った。(な、なに?) 恐る恐る彼女が振り向くと、そこには実家に帰省しているはずの大学生・内田が立っていた。にほんブログ村
2012年10月18日
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「あ・・」「お前、ここで働いてんのか。」 コンビニでレジを売っている愛美の姿に歳三が気づいたとき、彼女は慌ててバックルームへと引っ込んでいった。「パパ、ここに居たんだ!」 部活帰りの薫がスナック菓子でいっぱいになったカゴを提げながら歳三のほうへと駆けてきた。「お前、それ全部食べるのか?」「そんな訳ないじゃん。それにしても、レジ混んでるね。」「ああ。」 丁度夕飯時で、コンビニにはサラリーマンや学生達でごった返しており、レジ前には長蛇の列が出来ていた。「あのレジ、開けてくれたらスムーズに出来るのに。ちょっと店員さん探してくるから、荷物番よろしく。」「ったく、親をこき使いやがって・・」歳三が舌打ちしながらレジの順番を待っていると、漸く列がゆっくりではあるが、動き始めた。ちらりとレジのほうへと見ると、二つしか開いていなかったレジがもう一つレジが開いていた。「お待たせ~」「家にお祖母ちゃんとミジュが来てるぞ。」「そう。じゃぁ早く帰らないとね!」レジ待ちの列はその後スムーズに進み、店内には歳三と薫の二人だけとなった。「すいません、これお願いしますね。」「あ、はい・・」愛美はなるべく歳三たちと目を合わせないように、レジを打った。「そういえば、息子さんを学校の前でお見かけしましたよ。」薫はわざとそう愛美に話を振ると、彼女はビクリと恐怖で身を震わせた。まるで、何かを恐れているかのように。「あんた、今旦那から家追い出されそうなんだって?いい気味だね、人殺しが当たり前の幸せな生活なんて送れないもんね?」愛美にしか聞こえない低い声で薫はそう言って笑うと清算を済ませ、レジ袋を彼女の手からひったくる様に受け取り店から出て行った。「薫、あれは・・」「言い過ぎだっていいたいの?パパの代わりに言ってあげたのよ。」「お前、あいつに何かしたのか?」「まぁね。あの女がしたことをネット上でバラしてやった。それに、あの女の実家周辺や旦那と暮らしている家の近所にもビラを撒いたよ。あの女がバイトする度に同じ事を繰り返したよ、こっちの仕業だってバレないようにね。」薫はそう言うと、口端を歪めて笑った。「パパはあの女のこと、憎くないの?」「それは・・」愛美のことを憎んでいない、恨んでないと言えば嘘になる。この8年間、彼女を殺したいほど憎かった。妻の命を奪っておきながら、のうのうと自由を満喫している彼女に対する憎しみを、歳三は密かに募らせていた。「だからあたしがパパの代わりにやってやったのよ、あの女への復讐を。あの女にはもう逃げ場はないのよ。」「薫・・」「ねぇ、夕飯どうする?あたし、ひいお祖母ちゃんが作ったトッポッギが食べたいなぁ!」先ほどまでの暗い表情とは打って変わって、薫は明るい声を出しながら歳三に微笑んだ。『ひいばあちゃん、会いたかった~』『あらぁ、こんなに大きくなって!』玄関に入るなり薫は清子に抱きつくと、清子も薫を抱き締めて頬ずりした。そんな二人の姿を見ながら、歳三は複雑な気持ちになった。にほんブログ村
2012年10月17日
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「あの・・僕は・・」「パパ、来てたの!」 男子中学生が口を開いて何かを言おうとしたとき、歳三の姿に気づいた薫が校門から出てきた。「お前、携帯忘れてたぞ。」「サンキュー。」薫はそう言って父から彼の背後に立っている男子中学生へと視線を移した。「あんた・・」彼の姿を見つけた途端、薫の顔から笑顔が消えた。「あの、僕はこれで・・」『あんた、一体何しに来たのよ!?』薫は逃げ出そうとする男子中学生の腕を掴みながら、早口の韓国語で彼を怒鳴った。『その花束を、母さんの墓前に供えようとしていたの!?よくもまぁ図々しい!』男子中学生の手から花束を奪った薫は、それで彼の顔を打ち据え始めた。 アスファルトの地面に無残にも潰れた菊の花びらと、花粉が舞い散った。『あんたの顔を見るのも嫌だけど、あんたの母さんのことをあたしは一度も許したつもりはないわ!』「ごめんなさい・・」韓国語が解らないが、怒りで歪んでいる薫の表情を見た彼は、何を言っているのかがわかっているかのようで、薫に対して謝罪の言葉を繰り返していた。『さっさと消えうせろ、この恥知らずが!』一気に捲くし立てる薫がただならぬ様子だと気づいた歳三は、二人の間に割って入った。『おい、一体どうしたんだ?』『パパ、こいつはママを殺した女の息子なのよ!ママの月命日にこいつがママのお墓参りに来てたわ!お姉ちゃんと二人で追い返してやったけど。』薫は鼻息を荒くさせながら、歳三を見た。『何だって?』『あの女が心神喪失で無罪放免になったことを知ってるわ!毎日あの女が自分がしでかしたことに罪悪感を持って苦しんでいるっていうなら許してあげてもよかったんだけど、あの女は自分の罪をすっかり忘れて、再婚して新しい家庭を築いているのよ!』薫はそう叫ぶと歳三の腕を振り解き、呆然と突っ立っている男子中学生の胸倉を掴んだ。『よく聞きなさいよ、あんたやあの女が生きている内は、あんた達を絶対に許さない。あんたは罪人の息子なのよ!』彼女はもう彼に触れるのが汚らわしいというかのように彼を突き飛ばすと、学校の中へと戻っていった。「ええ、薫がそんなことを?」「ああ。あんな顔をしたあいつを見たのは初めてだ。美輝子、薫が言っていたことは本当なのか?」「うん。もう忘れたいのよ、ママの事件は。時々思い出すけれど、そうしたってママが戻ってくるわけないでしょう?」美輝子の言葉は、歳三の胸にグサリと突き刺さった。「どうしたの?」「いや、お前の言うとおりだな。それより、もう準備は出来ているのか?」「ええ。荷造りは殆ど済ませたし、来年の4月までには渡米するつもり。向こうは9月から新学期が始まるから、早く慣れたくて。」「そうか。何だか寂しくなるな。」「パパ、家事が出来るからいいけど、薫と二人じゃ心配ね。あの子少しルーズなところがあるから、この部屋がゴミで埋まってないといいんだけど。」「それは心配するな。俺がちゃんと薫が家事をしているか、監視してやるからよ。」「そう、じゃぁ安心したわ。」美輝子はそう言ってノートパソコンの電源を落とすと、和室へと入っていった。(あんなに小さかった美輝子が、もう来年の春には居なくなっちまうなんてな・・)娘の成長を喜ぶとともに、彼女が自分の手の届かない場所へと行ってしまうことへの寂しさを、歳三は少し感じていた。 夏休みが始まり、そろそろ盆休みの時期に突入する頃、韓国からミジュと清子がやって来た。『ばあさん、元気にしてたか?』『ああ。来年はミキコが一緒に渡米してくれるから、寂しくはないよ。あの家はもう売っちまったしね。』『ミジュ、済まねぇな。赤の他人のお前に、ばあさんの世話をさせちまって。』『そんなこと、気にしないでください。わたしの両親は生まれてすぐに亡くなって施設で育ったんで、おばあさんのことを実の祖母だと思ってるんですよ。』『ほらね、この子が居るからあたしは安心だ。それよりもヨンイル、お前はまだ再婚しないのかい?』『よしてくれよ、独身に戻って自由を満喫してるってのに。』『何を言うんだい、お前はまだ若いじゃないか。』清子が執拗に再婚を勧めてくるので、歳三は煙草を買いに行くといって近くのコンビニへと向かった。 そこで彼は、意外な人物に会った。にほんブログ村
2012年10月17日
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「ちょっと、どうしたのよ!?」「お姉ちゃん、ゴキブリ~!」 薫が震えながら朝刊が置いてあるところを指しているのを見ると、そこには小豆大ほどのゴキブリが居た。美輝子は無言で近くにあったセロハンテープの台座で、それを殺した。「まったく、こんなもんで悲鳴上げないでよね!」「だって、怖かったんだもん~!」「おい、うるせぇぞ!」夜勤明けで疲れている歳三が、不機嫌な顔をしながら娘達を睨みつけた。「まったく、あたしが居なくなったらどうするのよ?ゴキブリ一匹も倒せないなんて・・」「嫌いなんだもん、仕方ないじゃん!」「ああもう、先が思いやられる・・」美輝子はそう言うと、溜息を吐いた。「美輝子、本当に渡米するのか?」「ええ。あたしは向こうでミジュさんたちと暮らすわ。」「そうか・・お前ぇがそう決めたんなら俺は何も言わねぇよ。ただ、親が居ないからって羽目をはずすなよ。」「わかってます。さてと、部活の時間だからもう行きます!」美輝子は愛用のレオタードと道具が詰まったスポーツバッグを肩に掛けると玄関から出て行った。「パパ、お姉ちゃんが居なくなって寂しくなるね?」「うるせぇ・・」「お姉ちゃんの代わりに、あたしが面倒見てあげるからそんなに落ち込まないでよ~!」「薫、今月分の小遣いはこの前渡したろ?まさかもう使っちまったんじゃねぇのか?」「あ、もうこんな時間だ、行ってきま~す!」「こら、ごまかすんじゃない!」歳三の顔色が変わったことに気づいた薫は、慌てて姉の後を追って玄関から出て行った。「ったく、薫のやつ、最近悪知恵が働きやがって・・一体誰に似たんだか・・」歳三は溜息を吐きながらもう一眠りしようとしたとき、テーブルに置いてあった薫の携帯が鳴った。「あいつ、携帯忘れてやがる・・」歳三は舌打ちすると、薫の携帯を手に取った。「もしもし?」『もしもし、あの・・土方さん、ですか?』「ああ、そうだが?それよりもてめぇ、何処のどいつだ?」『すいません、また掛け直します!』電話の相手は名乗りもせずに、一方的に切ってしまった。(ったく、手間かけさせやがって・・)煙草を一本吸った後、歳三は自転車に跨って薫の学校へと向かった。「あ~、携帯忘れたぁ!」「もう、薫またなの!?あんたってどこか抜けてるのよ!」同じ女子サッカー部の愛子がそう言って溜息を吐いた。「携帯忘れたって練習はちゃんとするもん!」「そうこなくっちゃ!」ユニフォームに着替えた薫は、愛子を部室に残して運動場へと向かった。「ったく薫のやつ・・携帯忘れるなんて一体何考えてやがる?」娘達が通う中学校の前まで来た歳三は、そうブツブツ言いながら自転車に跨りながら薫の姿を探した。 彼女は運動場で友人達とボールを追いかけていた。その姿が少しサマになっていたので、歳三は暫くの間運動場を見つめていた。「あの・・土方さんですか?」「ええ、土方はわたしですが、何か?」歳三が背後を振り向くと、そこには一人の男子中学生が立っていた。「俺に何か用か?」にほんブログ村
2012年10月17日
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夏休みに入り、美輝子は部活漬けの毎日を送り、成績が芳しくなかった薫は部活と塾の夏期講習で毎日目が死んだような顔をしていた。「あ~、塾やめたい・・」「そんなこと言わないの、せっかくパパがお金出してくれたんだから!」「はいはい、わかってますよ。お姉ちゃんは成績優秀だから、何処行っても大丈夫だよね?」「まぁね。あ~でも、あたし日本には居ないかな。」「え、どういうこと!?」「実はね・・」薫はこの時初めて、姉が米国へ留学することを知った。「ねぇ、一人で留学なんて心細くない?」「大丈夫よ。パパの学生時代の後輩の、ミジュおばさんと一緒に行くから。」「ああ、だったら安心か。でも韓国に居るひいお祖母ちゃんは?」「そっちも心配ないもん。ミジュおばさんと一緒に渡米するって。」「へぇ・・お姉ちゃん、そのことパパには話したの?」「話したよ、この前。まぁ案の定猛反対されたけどね。」そう言って涼しい顔をしながらパソコンに向かう美輝子だったが、昨夜留学のことを父に切り出したとき、彼と醜い口喧嘩をしてしまった。「俺は反対だぞ!」「何を根拠に反対するのか、教えてよ!」「お前まだ子供なんだから・・」「じゃぁ、パパだってあたしの歳のとき、一人で福岡に行ったじゃん!子供だからって、パパは簡単に諦めなかったんでしょ、違う?」「それとこれとは違う!」「だから、どう違うのか説明してよ!」結局父との会話は平行線を辿り、あれから美輝子は一言も口を利いていない。「ねぇ、パパと仲直りしたの?」「仲直りもなにも・・冷戦真っ只中よ。もう勝手に行こうかな。」「余りやけ起こしちゃ駄目だよ?」「わかってるわよ・・」「ねぇ、それよりここの問題教えてよ。何回この公式に当てはめようとしても解けないの。」「ちょっと貸して・・ばかねぇ、この公式よりも1ページ前に書いてある公式を使って解かないと。」「ああ、本当だ。どうしてあたしって、頭悪いんだろう?」「頭悪くないわよ、使い方を知らないだけ。」「酷~い!」薫と美輝子がそう言いながら談笑していると、薫の鞄に入れていた携帯が鳴った。「誰だろ、こんな時間に・・」鞄から携帯を取り出した薫は、見知らぬ番号から着信が来ていることに驚いた。「それ、ワン切りじゃない?着信拒否したら?」「そうする。」薫はその番号を着信拒否設定すると、鞄の中に携帯を放り込んだ。「あのさぁ、最近あの学生さん見ないよね?」「ああ、大学生の?今地元に帰ってんじゃないの?」夏休みに入ってから、内田の姿がバッタリと見かけなくなったので、双子達は彼が地元に帰省したのだと思い、ホッとしていた。「何かあの人、怖いっていうか、不気味っていうか・・」「得体が知れないっていうか・・」「薫、明日部活で早いんだから寝たら?洗濯物はあたしが取り込んでおくからさ。」「そう、サンキュー。」薫はそう言って鞄を肩に掛けると、奥の和室へと消えていった。 美輝子が洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、向かい側の棟の近くで何かが光るのを見た。それはまるで、建物の陰に隠れて誰かが煙草を吸っているような小さな火だった。なんだか薄気味悪くなった美輝子は、洗濯物を取り込んでベランダの窓に鍵を掛け、カーテンを閉めてから妹が寝ている和室へと向かった。 翌朝、美輝子が起きると、薫の悲鳴がリビングから聞こえた。にほんブログ村
2012年10月17日
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「土方さん、居るの~?」ドアの向こうから聞こえてきたのは、紛れもなく種田兄妹の母・裕子のものであった。(うわ、来た!)薫と美輝子は互いに顔を見合わせると、居留守を使った。「ねぇ土方さん、居るのぉ~!」物音ひとつ立てずに二人がじっとしていると、裕子はますますドアを激しく叩いた。「うるさいわねぇ、一体何の騒ぎよぉ?」隣の部屋のドアが開き、何かと自分達によくしてくれているタナカさんが裕子に話しかけた。「あらあ、すいません、土方さんは?」「土方さんは今日は夜勤よ。こんな夜遅くにいつまでも騒がないでよ、迷惑だわ!」タナカさんはピシャリと裕子にそう言って乱暴にドアを閉める音が聞こえた。「もう、また来ますからねぇ!」ドアの向こうで猫なで声が聞こえたかと思うと、裕子がミュールの音を響かせながら廊下から立ち去る音が聞こえた。「はぁ、助かった。」「だね。タナカさんが居なかったら、今頃どうなってたか・・」薫はキッチンの小窓を少し開けて完全に裕子が立ち去ったのかを確かめると、リビングに戻った。「じゃぁあたし、先にシャワー浴びてるね。」「どうぞお先に。あたしは読書感想文書くからさ。」「そう。」妹がシャワーを浴びに浴室へと消えた後、美輝子はノートパソコンを立ち上げた。「ただいま。」「お帰りなさい、パパ。遅かったわね。」「ああ。今夜はいろいろとあってな。」「ふぅん、そう。そういや、種田さんまた家の前に来て騒いでたよ。」「そうか・・あの人には一度はバシッと言ってやろうかと思ってたんだよ。」「じゃぁさっさとそうしてよ、パパ!あたし達あの人に生活を引っ掻き回されたら堪らないのよ!受験だって大会だって控えているし・・」「わかっているよ、明日保護者会で種田さんに言ってみるよ。」長女にそう言った歳三は、翌日の保護者会で裕子に会った。「土方さん、今度ご飯を作りに行きましょうか?」「いえ、結構です。種田さん、前々からお伝えしたいことがあるんですが、あなたとは結婚する気はありません。」「そんな・・」「では、失礼します。」もうこれ以上裕子と一緒に居たくないので、そそくさと歳三は彼女に背を向けて駐車場へと向かった。「お帰り、パパ。どうだった?」「ちゃんと言って来た。もうしつこく付きまとわれることはないだろうよ。」「そう、よかった。」「これで部活に専念できるわね。」「部活もいいけど、受験勉強はどうなってるのよ?あんたまた塾のテストで赤点取ったって聞いたわよ!」「もう、お姉ちゃんはうるさいなぁ。」薫はブスっとした顔をすると、自分が食べ終わった食器を流しへと持っていった。「夏休みでも忙しいなんて、嫌だわ。まぁ、退屈じゃないからいいけどさ。」「そういや、お前高校はどうするんだ?」「後で話すわ。」「ああ、わかった・・」歳三はこのとき、長女の言葉が妙にひっかかった。にほんブログ村
2012年10月16日
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「ねぇ、何読んでんの?」ピザを注文した薫が再び姉が居るリビングへと向かうと、彼女は文庫本を読んでいた。「ああ、これ?適当に本棚から抜き出してきたんだよ。読書感想文早く済ませようかと思ってさ。」「へぇ。あたしどうしようかなぁ~」「何でもいいって言ってたよ、漫画以外なら。」「最近気になる本あるんだけど、まだ文庫化されてないんだよねぇ。」「お小遣い、まだ残ってるんでしょ?それで買えばいいじゃん。あたしも丁度新しい参考書欲しかったからさぁ。」美輝子がそう言って文庫本から顔を上げたとき、ドアチャイムが鳴った。「あれ、もう来たのかな?」薫がドアを開けると、そこには二年の女子サッカー部員・種田洋子が立っていた。「あら、どうしたの洋ちゃん?」「土方先輩に、折り入ってお話があるんですが・・今宜しいでしょうか?」洋子はちらりと美輝子の様子を窺いながら、そう言って部屋に上がろうかどうか迷っているようだった。「いいよ、あたしは別に。」「そうですか、じゃぁお邪魔します。」洋子はそう言って薫達に頭を下げると、玄関で靴を脱いだ。「で、話って何?」「実は、兄のことなんですけど・・」洋子の兄・博は美輝子達と同じクラスに居て、何かと二人にちょっかいを掛けてきた。「あんたの兄貴がどうかしたの?」「先輩達がお付き合いしている人が居ないかどうか、聞いて来てくれって言われたんですけど・・」「居ないよ、そんなの。部活でクソ忙しいんだから、恋愛にうつつを抜かしている暇ないの!」「そうですか。」「あ、先に謝っておくけどさぁ、あんたの兄貴とは付き合えないから!」薫の言葉に、洋子は少し落胆したかのような表情を浮かべた。「話はそれだけ?」「あとひとつあるんですけれど、母のことなんです。」「ああ、あんたのお袋さんのことね・・」洋子が母親について話し出したとき、薫は急に疲れきったかのような表情を浮かべた。 洋子と博の家は母子家庭で、彼らの母・裕子は保護者会で歳三に会ってからというものの、一方的に熱烈なアプローチを歳三にしてきているのだった。「お見合いをされたと聞いて、母が烈火の如く怒っていました。“土方さんの心を癒せるのはわたしだけなのに!”って。」「ふ~ん、そうなんだ。」洋子の言葉に相槌を打っていた薫の目は死んでいた。「それじゃぁ、わたしこれで失礼します。」「大丈夫、もう暗いけど?」「家が近いんで。」洋子がぺこりと二人に向かって頭を下げ、玄関から出ようとしたとき、再びドアチャイムが鳴った。「すいません、ピザです~!」「あ、は~い!」薫はそそくさとダイニングテーブルの上に置いてある財布を手に取り、ドアを開けてピザを受け取った。「じゃぁ、また部活でね、洋ちゃん!」「失礼しました!」ドア越しに洋子に手を振りながら、薫はピザの代金を払うとドアチェーンを掛けてドアを閉めた。「ねぇ、さっきの話本気なのかな・・」「さぁね。もし本気だとしたらうちに押しかけてくるかも・・」二人がピザを頬張っているとき、再びドアチャイムが鳴り、誰かがドアを叩いている音が聞こえた。にほんブログ村
2012年10月16日
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一学期の期末テストの結果が出たが、薫はほぼ全滅だった。「あ~、これで受験は絶望的だわ・・」「塾の夏期講習行き、決定だね。」ちらりと妹の成績表を見ながら、美輝子はさっさと鞄に荷物を詰め終わった。「お姉ちゃんは夏休みどうすんの?部活漬け?」「そうかもね。宿題は読書感想文と社会の作文だけじゃん。」「でも塾は毎日宿題あるんだよね・・あ~、もう終わったよあたし!」「元気だしなよ~!」妹の肩をポンポンと叩きながら、美輝子は教室から出て行った。 学校から一歩出ると、灼熱の太陽が容赦なく彼女の白い肌を刺した。日焼けしないように毎日日焼け止めを塗っているが、部活の後は汗で全て流れ落ちてしまう。新体操部の練習は体育館内で行うので、蒸し風呂状態の体育館で何時間も練習すると、熱中症で倒れそうになるのだ。 女子サッカー部に所属している薫は、最近肌が小麦色に焼けてきていた。屋外のグラウンドで毎日駆け回っていれば自然とそうなるのだが、同級生の中で薫のように焼けている女子生徒は居ないので、なぜか物珍しがられた。「あら、みきちゃん。」早く家に帰りたいあまりに、美輝子が自転車のペダルを漕いで団地の入り口へとさしかかっていると、お節介婆のシノダさんが彼女に近づいてきた。「こんにちは。」「ねぇ、あなたのお父さんのことなんだけど・・」「急いでいるんで、失礼します!」シノダさんに捕まったら一時間も太陽の下に突っ立っている羽目になるとわかっていた美輝子は、脱兎の如く彼女の元から逃げ出した。 駐輪場に自転車を停め、部屋のドアに鍵を差し込んで中に入ると、美輝子は溜息を吐いてクーラーをつけた。明日から夏休みだが、薫は早速女子サッカー部の練習で夕方まで帰らないし、父は夜勤だ。 ピザでも取ろうかと美輝子がそう思いながらテレビをつけると、この前観ていて途中で寝てしまった2時間ドラマの再放送がやっていた。冷蔵庫からコーラのペットボトルと、数日前に開けたポテトチップスを食べながらテレビの前に座って美輝子が2時間ドラマを観ていると、突然ドアのチャイムが鳴った。(誰かなぁ?)シノダさんだったら嫌だなと思いながら彼女がドアスコープで外を覗くと、誰もいなかった。悪戯だと思った美輝子が再びテレビの前に座ると、またチャイムが鳴った。(何なのよ、もう!)美輝子が苛立ちながらドアチェーンを掛けてドアを半開きにすると、そこには最近引っ越してきた大学生・内山悟が立っていた。「みきちゃん、こんにちは。」「ああ、どうも。何かご用ですか?」「あのさぁ、中で話したいんだけど、開けてくれないかなぁ?」悟がニィッと笑いながらそう言った時、美輝子は無言でドアを閉めた。その後彼がチャイムをしつこく鳴らしたが、美輝子は無視した。部活で忙しくなる前にさっさと宿題を済ませようと、彼女は適当に自分の本棚から一冊の文庫本を取り出してそれを読み始めた。「ただいまぁ~!」夕方6時頃、茹でたこのように真っ赤な顔をした薫がリビングに入るなり、床に倒れこんだ。「お帰り~。夕飯ピザ頼んどいたよ。」「ラッキー!お姉ちゃん、なにお母さんのパソコン使ってんの?」「韓国の友達にメールしてんの。」「ふぅん。最近帰ってないけどさぁ、ひいお祖母ちゃん元気にしてるかなぁ?」薫はそう言うと、冷蔵庫からアイスクリームのカップを取り出し、カレー用のスプーンでそれを食べ始めた。にほんブログ村
2012年10月15日
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「よぉ、お二人さん。」種田はニヤニヤしながら薫達に話しかけたが、彼女たちは彼の脇を通り過ぎていった。「ねぇ、さっきのはヤバイんじゃない?」「そんなこと知らないわよ。それよりもあんたの今学期のテストの方が心配だわ。」「美輝子ったら、そればっかり!」双子達が駐輪場で自転車を停めて下足箱で上履きに履き替えていると、誰かが彼らの背後を通り過ぎていった。「おはよう。」「おはよう。」 教室に入ると、クラスメイトの何人かが二人に挨拶を返した。「ねぇ土方さん、今日は数学が一時間目にあるのよ!」「え~、そうなの!」テスト勉強を一ヶ月前からしていた美輝子は、いつもテスト直前になって泣きつくクラスメイトにそう生返事をすると、鞄からノートを取り出した。「お姉ちゃんはいつも余裕たっぷりなんだから。」「あんたが余裕なさ過ぎるのよ。」「だって部活が忙しいんだもん、仕方ないじゃん。」薫は女子サッカー部に入っており、中間テスト終了後に行われる選抜テストのことばかり考えていたので、勉強が疎かになるのも当然だった。「まぁ、あんたの実力なら大丈夫だって。」「そうはいかないわよ。今年の一年は結構凄い子が揃ってるのよ。」「あたしだってこのテストが終われば、大会に向けて練習漬けの日々を送るんだから。」美輝子はノートを閉じて鞄に直すと、溜息を吐いた。彼女は新体操部に所属しており、10月に大きな大会があった。「受験生なのに選抜テストに大会なんて、忙しいったらないわ!」「全くよね!」二人が声を揃えてそう言った時、試験開始のチャイムが鳴った。「あ~、疲れたぁ!」「一日目でそんな事言ってどうすんのよ。これが終わったら夏休みだよ、あと少しだから頑張ろう?」「そうは言ってもさぁ、全然わかんないし!」理科の参考書を小一時間睨んでいた薫は、諦めたかのようにそれを閉じた。「あんたって途中ですぐ諦めるんだから。」「お姉ちゃんとは頭の出来が違うんだもん、しょうがないじゃん!」クーラーが利いた部屋で薫はそう愚痴ると、コーラを一口飲んだ。「ねぇ、パパ今日遅いんだっけ?」「うん。何でも、お見合いだってさ。」「お見合いぃ!?」姉の言葉を聞いた薫は、コーラを吹き出しそうになった。 一方、歳三は都内某所の一流フレンチレストランで、水を飲みながら向かいの椅子に座る振袖姿の女性を見ていた。千尋と死別してから8年、父娘3人の暮らしで満足していた歳三の元に突然見合い話が来たのは、団地のお節介おばさんことシノダさんだった。「土方さん、あなたまだ若いんだから、再婚しないと!」「いえ、俺は・・」「駄目よ、これか女親が必要になる年頃なんだから!」半ば押し切られるような形で、歳三はシノダさんと一緒にレストランに来てしまったのであった。「あの・・土方さんには、娘さんが・・」「おりますが、それが何か?」「いえ、別に・・」「まぁ、ごめんなさいね。亜里沙ったら緊張しちゃって、駄目ねぇ。」振袖姿の女性の隣に座っていた中年女性は、そう言って女性を肘で突いた。 亜里沙という見合い相手は、去年お嬢様大学を卒業して、一流企業に勤めているOLである。「ねぇ土方さん、うちの娘はお花やお茶が趣味で、お免状も取っておりますのよ。それに、来年は日舞を習う予定なんですの。」「はぁ、そうですか・・」勝手に娘の趣味を話し出す母親の言葉を聞きながら、亜里沙は娘達と趣味が合わないなと歳三は思った。 娘達は身体を動かすことが大好きで、初めて二人がした習い事はサッカーと体操教室だったし、中学でも運動部に所属している。「うちの娘達はスポーツが大好きでね、クラブでは新体操部と女子サッカー部に所属してるんですよ。」「まぁ、活発なお嬢様達をお持ちでいらっしゃること・・」 女性の言葉の端々に、少し毒が含まれていることに歳三は気づいた。「ああ、もうこんな時間だ。急用を思い出したので失礼します。」「え、ちょっと、土方さん!?」 突然席を立った歳三に慌てるシノダさんたちをレストランに残して、彼はタクシーを拾って自宅へと向かった。にほんブログ村
2012年10月15日
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「土方さん、遅いわねぇ・・」「そうねぇ・・」「やっぱり、PTAとか途中で面倒くさくて放り出したんじゃない?」 PTAの会合がもうすぐ始まるというのに、千尋が来ないことに痺れを切らしたPTA役員をしている保護者たちは、口々に勝手なことを言いながら壁時計を見ていた。「みなさん、本日の会合は中止とさせていただきます。」「中止ですって?」PTA会長の橋田が教室に入ってきてそう言うと、役員達がざわつき始めた。「何かあったんですか?」「実は・・土方さんが数時間前に新宿駅構内で女性に刺され、搬送先の病院で死亡しました。」「え・・」あまりにも突然すぎる千尋の訃報を受け、誰も言葉を発しなかった。「それで?土方さんは・・」「今ご主人が病院に付き添っております。通夜・告別式の日時はわかり次第後連絡いたしますので、どうか皆さん、本日はお帰りになってください。」 学校から出てきた保護者たちは、みな一様に蒼褪めた顔をしていた。一方、歳三は霊安室で変わり果てた妻の遺体と対面した。「妻です、間違いありません・・」歳三はそう言うと、千尋の顔に被せられていた白い布をそっと取り去ると、彼女を抱き締めて嗚咽した。まさかこんなに突然に、千尋が自分達の前から去ってしまうことなんて思いもしなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、わけがわからなかった。「先輩!」「ミジュ・・」霊安室の外で娘達の世話をしていたミジュは、憔悴しきった歳三の顔を見て絶句した。「チヒロさん、数時間前にお昼を食べていたんですよ・・なのにどうして・・」「俺だってわからねぇよ。薫達は?」「寝ていますよ。さっきはショックで泣き叫んでいましたけど・・先輩、疲れたでしょう?お休みになってください。」「悪ぃな。」ミジュの言葉に甘えてすぐにでも家に帰って横になりたかったが、千尋の親戚に連絡をしなければならないし、葬儀の手配をしなければならない。「土方さんですか?」「ええ。」「警察の者です。実は、奥様を殺害した容疑者が数時間前に自首されました。」「そうですか・・」「あなたに会いたいとおっしゃってるんですが・・どうされますか?」「いいえ。」歳三がそう言うと、警官はそそくさと病院から去っていった。「ねぇ、ママはもう帰ってこないの?」「ああ。これからはパパと3人で頑張ろう。」「うん・・」薫と美輝子はまだ母を恋しがって泣いていたが、父が自分達のために悲しみを押し殺そうとしていることに気づき、我慢した。 千尋を刺殺した愛美は裁判で心神喪失状態と認められ、無罪となった。暫く歳三たちの周辺にマスコミが松脂のようにべったりとくっついていたが、それも3ヵ月も過ぎると収まっていった。 それから季節が幾度も移り変わり、8年もの歳月が流れていった。「じゃぁ、行ってきます!」「おう、気をつけて行くんだぞ。」中学3年生となった美輝子と薫は、急いで朝食を食べ終えると、自転車に跨り学校へと向かっていった。「お姉ちゃん、今日からテストだね。」「あんたもしかして、また勉強してなかったの?」「だってあたし、本番には強いもん。」「言い訳しない!」双子達が仲良く自転車を漕いでいると、交差点の前で彼女達はクラス委員の種田に会った。にほんブログ村
2012年10月15日
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「お久しぶりね、ミジュさん。元気にしていた?」「ええ。ソウルから東京に引っ越してまだ一ヶ月しか経ちませんけど、社員の独身寮に入っているので、住むところには困りません。」「そう。そこでも調理師をしているの?」「ええ。」千尋はミジュがホテルの厨房で働き始めたことを知った。「ねぇ、どうしてソウルからここに?」「実は、クビというか、事実上左遷されたんですよ、副支配人に。」「そんな・・」ミジュがソンジュにソウル本社から飛ばされたことを知り、千尋は憤りを感じた。「一体どうして、そんなことになったの?」「何でも人員整理だとか。わたしは向こうでは副料理長だったし、半年前に行われた料理大会でも優勝したのに・・副支配人は真っ先にわたしを切りました。」ミジュはそう言って悔しそうに唇を噛むと、コーヒーを一口飲んだ。「酷い人ね、あなたが仕事を頑張って、努力をしたら副料理長になったっていうのに・・その功績を認めないなんて。」「料理長は副支配人に抗議されましたが、聞く耳を持ってくれなくて・・」「社長は?副支配人が独断で人事権を行使するなんて、許されないことでしょう?」「最近、ソウルでは何かがおかしくなりかけているんです。社長は健在なんですが、副支配人が力を持ちすぎているような気がして・・」「そう。」もっとミジュからソウル本社のことを詳しく聞きたかった千尋だったが、バイトの時間が迫ってきたので、彼女に携帯のメールアドレスを書いたメモを渡して、カフェから去っていった。(ソウル本社で何かがおかしくなりかけている・・この前ソウルに行ったとき、あの人がいろいろとわたし達を詮索していることに、何か関係があるのかも・・) バイト先へと向かう電車の中で、千尋はソンジュが不審な行動を取るのを少し推理してみた。 彼が何かと自分たちを詮索してくるのは、歳三が社長に目を掛けて貰っているからではないだろうか。いずれ彼女は、自分の右腕として歳三をソウル本社へと戻すつもりで居ることをひそかに嗅ぎ付け、虎視眈々と彼を追い落とそうとしているのだ。だから、あんなFAXを学校に送りつけたのだ。どこまでも卑劣で陰湿なのか。千尋はソンジュへの怒りに震えていると、車内のアナウンスがバイト先の最寄り駅を告げた。 彼女はさっとバッグのストラップを握り締めて席から立つと、扉の前へと立った。ほどなくして電車はプラットホームへと滑り込み、扉が開いた瞬間どっと乗客たちが次々と電車から降りていった。 千尋はバッグの中から定期を取り出し、改札を抜けようとすると、突然誰かにバッグを掴まれた。(なに・・?)くるりと彼女が振り向くと、そこには愛美が立っていた。青森の寒村で会った頃の彼女は、一寸の隙なく最先端のファッションにミを包んでいたが、今目の前に立っている彼女はヨレヨレのトレーナーと、ケミカルウォッシュのジーンズを着ていた。「お久しぶりねぇ。」愛美はそう言って、ニィッと不気味に口端を上げた。彼女は何か光るものをバッグから取り出し、突然千尋にぶつかった。にほんブログ村
2012年10月15日
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「土方さん、ちょっと宜しいですか?」「ええ、構いませんが。」 参観日が無事終わり、千尋が一旦着替えをしてバイト先へと向かおうと帰宅しようとしたとき、薫達の担任が彼女を呼び止めた。「何でしょうか?」「あの、あなたのことで保護者の方々の間で妙な噂が立っているようなんです?」「あの噂なら事実無根です。急いでおりますので・・」「あなたが以前ブログで書かれた噂とは違うものが、広まっているのです。土方さん、どうか保護者懇親会に出席なさってくださいませんか?」「わかりました。」やけに担任の言葉が気になった千尋は、バイト先に急用が出来て休むことになったと連絡した後、保護者懇親会に出席した。「それで、噂というのは?」「実は・・今朝学校にこんなFAXが届いたんです。」担任はそう言うと、一枚のFAXを千尋に見せた。そこには、歳三とソンヒが仲良く写っている写真が貼り付けられ、2人は不倫関係にあると書かれていた。「こんなもの、一体誰が?」「匿名のものなので、どなたかは・・」「まさか、あの方ですか?」千尋の言葉に、担任は気まずそうな顔をした。「吉田さんと今回のこととは関係ありません。それよりも土方さん、最近保護者の方から不満が出ているんですよ。」「不満?」千尋がそう言って片眉を上げると、一人の保護者が椅子から立ち上がった。「土方さん、お仕事が忙しいのはわかるけれど、もう少しPTAに参加して貰えないかしら?」最近ファミレスのバイトのほかに、ネットショップを立ち上げた千尋は仕事と家事、育児で忙しく、PTAにまで手が回らなかった。「私たち、育児や家事をしながらPTAの仕事もこなしているんですよ。でも今の人数では限界なんです。一度ご主人と話し合っていただいて、PTAに参加して貰える様に言ってくださらないかしら?」千尋が他の保護者たちを見ると、みな一様に頷いていた。「PTAかぁ・・最近職場で謹慎食らったから、ちょうどいいや。」「職場で謹慎って・・確か、ヤクザの息子絡みで問題起こしたことと関係があると?」「ああ。社長は悪くないと言ってくれたんだが、相手が相手だからな。」「そう・・」夫が職場で謹慎処分になったことや、また新たな噂が町内に広がりつつあることに、千尋は不安を隠せなかった。 千尋はその夜、溜息を吐きながらノートパソコンの電源を入れてネットショップへと接続すると、一通のメールが届いていた。(誰からやろか?)何気なく千尋がメールを開くと、宛先人は歳三の学生時代の後輩・ミジュからだった。“チヒロさん、お久しぶりです。最近日本に来ることになりました。”ミジュが日本に来ることを初めて知った千尋は、すかさず彼女のメールに返信した。“そう、驚いたわ。最近忙しくて会えないけれど、明日は時間があるの。あなたさえよければ、お茶でも飲みながらいろいろと話したいわ。”千尋は「送信」ボタンを押し、仕事に打ち込んだ。 翌朝、彼女がノートパソコンの電源を入れてメールを確認すると、ミジュからのメールが来ていた。“わたしも大丈夫ですよ。仕事が午前中に終わるので。” その日の昼、都内のカフェで、千尋はミジュと久しぶりに会った。にほんブログ村
2012年10月14日
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「お前、俺が誰かわかって言ってるんやろうなぁ、ああ!?」「ええ、存じ上げております。」歳三は男の恫喝に怯まず、そう言って彼を見た。「確か大野先生のお知り合いの方とお聞きしております。あいにく当ホテルは満室でして・・」「そんなことわかってるわ、アホ!一つ位空室を作れって言うてんねや!」フロンドデスクを蹴るのに飽き足りた男は、今度はデスクを拳で叩いた。男の要求は余りにも理不尽で、周囲の客やスタッフ達は歳三が男の要求にどう答えるのか戦々恐々と見守っていた。「申し訳ありませんがお客様、他のホテルに空きの部屋があるか問い合わせいたしますが、それで宜しいでしょうか?」あくまで低姿勢な態度を男に取った歳三は、ちらりと横目で彼の様子を見た。「ねぇ、いつまでこうしとるん?ジロジロ見られて恥ずかしいやないの。」男の連れである、いかにも水商売風の女がそう言って口を尖らせると、男は舌打ちして小声でそうしてくれと歳三に言った。「かしこまりました。あちらで少々お待ちくださいませ。」 結局、他のホテルで空室が見つかり、男の名を聞いて予約手続きを済ませ、歳三は彼らを送り出したのだが、その後が大変だった。“フロント事件”があった数日後、甘粕のデスクに、男の父親から抗議の電話が来たのだった。『あんた、うちの倅をホテルに泊めへんかったやろ?どうなるかわかってるんかいな!』野太くドスの利いた関西弁で捲くし立てられ、甘粕は通話が終わるまでひたすら相手に謝っていた。「そうですよ、土方さんは何も悪くありません。満室だっていうのに無理やり空きを作れだなんて、無茶にもほどがあります!」千夏の意見に賛同して甘粕に抗議したのは、ドアマンの鈴木だった。「だがなぁ・・」「一体これは何の騒ぎだ?」オフィスにスタッフが集まっていることに気づいた社長の酒田は、そう言って甘粕を見た。「社長、実は・・」甘粕が酒田に事の次第を説明すると、彼は低い声で唸った後歳三を見た。「今回のことは、君に非がない。だが、大野先生が君の辞職を要求しているから、一筋縄ではいかんな。だから土方君、君には済まないが、当分の間謹慎処分ということでいいだろうか?」「ええ、構いません。」「今日は午前中で帰りなさい。後のことはわたしがどうにかするから。」「すいません、社長の手を煩わせてしまって・・」「いいんだ。」酒田に頭を下げると、歳三はフロントデスクへと戻っていった。 一方、薫と美輝子は昼休みが終わり、授業が始まっても千尋がいつ来るのかわからずにチラチラと背後を見ていた。「どうしたの、土方さん?」「何でもありません。」(ママ、遅いなぁ・・)薫が国語の教科書を読んでいると、千尋が入ってきた。綺麗な訪問着を着て、髪を美しくセットしたその姿は、同級生たちの母親の中でも美しかった。「あれ、お前の母ちゃん?」「そうだよ。」左隣に座っていた男子が薫の言葉を聞くなり、ジロジロと千尋を見た。薫の視線に気づいた千尋が手を振ると、彼女は嬉しそうに笑って教壇の方へと向き直った。「じゃぁ次、土方さん。」「はい!」薫は元気よく椅子から立ち上がった。にほんブログ村
2012年10月14日
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電話の相手は、歳三の職場であるロイヤル・ホテル東京からだった。「はい・・わかりました・・はい。」歳三はそう言ってメモ用紙片手に、彼は上司と何か話しをしていた。「どうしたの?」「ああ、昨日いろいろと問題があって・・明日出勤することになっちまったんだ。」「そう。じゃぁうちが一人で行くしかなかね。」「ああ、悪いな。」「仕方なかよ、仕事やもん。」 翌日、千尋は娘達に歳三が仕事で参観日に来られないことを話すと、彼女達は泣いて抗議した。「絶対に来てくれるっていったのに!」「パパの馬鹿~!」「そんなこと言わないの!パパだってあんた達のところに行きたいと思ってるんよ!でもお仕事だから行かれんの!」千尋が数分間娘達を説得すると、漸く彼女達は泣き止んだ。「ママが来るけん、それまでちゃんと良い子にしとるんよ、わかった?」「うん、わかった・・」娘達を玄関先で送り出すと、千尋は夫婦の寝室となっている四畳間へと向かった。そこの押入れにある収納箱には、千尋が中洲時代に着ていた着物が大切に入れられていた。(参観日やから、余り派手なものは控えようかな・・)そう思いながら着物を包んでいる和紙を解くと、青地に流水の柄が施された訪問着と、白い帯が出てきた。「これでいいかな。」着物を着るのは久しぶりなので、ちゃんと寸法が合っているかどうか不安だったが、それは杞憂に終わった。 一方、薫と美輝子の参観日に来られなくなってしまった歳三は、フロントデスクで仕事をしていた。「土方さん、宿泊部長がお呼びです。」「わかりました。」同僚に仕事を頼み、歳三がオフィスへと向かうと、宿泊支配人の甘粕(あまがす)がねっとりとした嫌な目つきで彼を見た。「君、今回の問題でどうすべきなのかわかってるね?」「さぁ、わかりかねます。」「とぼけるのもいい加減にしたまえ!」甘粕は苛立ったように、テーブルの端を左手でコツコツと叩いた。その仕草は彼が切れる寸前に取る行動であることを、歳三は気づいた。「まさか、わたしに辞職しろと・・ホテルを辞めろとおっしゃいませんよね?」「な・・それは・・」歳三が直々にソウル本社から派遣され、尚且つ社長自身がヘッドハンティングした人物だということを、甘粕は知っていた。「支配人、今回のことはお客様にも非があったのですから、許していただいてはどうでしょうか?」甘粕と歳三との間に割って入ったのは、フロントオフィスマネージャーの竹中千夏だった。「だがな・・先方は土方君の辞職と謝罪を要求しているんだ。」「土方は接客になんら落ち度はありませんでしたし、クレームをつけてきたのは先方じゃないですか?」千夏の鋭い指摘に、甘粕は怒りで顔を赤くして黙り込んだ。 事の起こりは、歳三がまだこのホテルに勤め始めて間もない、4月初旬のことだった。ある大物代議士の友人である暴力団関係者の息子の宿泊を、歳三が断ったことから、このホテルの存在を脅かすかのような大騒動に発展してしまったのだ。「おい、俺は客やぞ!このホテルは客を選ぶんか!」「そういう意味で申し上げたつもりではございません。ただ今部屋に空きがございませんので・・」「ふざけんなや!」 自分の恫喝に怯まず毅然とした態度を取る歳三に苛立ち、彼はフロントデスクを蹴り始めたのである。にほんブログ村
2012年10月13日
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ソウルから帰ってから、歳三達にはいつもの日常が待っていた。 千尋は自分を誹謗中傷する連中から次第に距離を置き始め、毎日届く嫌がらせのメールや手紙、コメントを無視して毅然とした態度を取っていた。その結果、彼女に対する嫌がらせは減ってゆき、スーパーで彼女の陰口を叩いていた主婦達が普通に彼女に対して挨拶するようになっていた。「へぇ、よかったじゃねぇか。」「こっちが無視してれば、相手は飽きるんよ。ねぇ、最近うち働こうと思うんやけど。」「働くって、そりゃどうしてだ?」「家庭を守るのは大切やけど、家に四六時中居ると息が詰まるんよ。それに子供たちもあまり手がかからなくなったし・・」「わかった。お前ぇの好きにしろ。」「ありがとう、歳兄ちゃん!」千尋はそう言うと歳三に抱きついた。 歳三からパートを許された千尋は、早速近所のファミレスでパートを始めた。「いらっしゃいませ!」中洲でホステスとして働いていた千尋は、接客業が好きだったので、入ってから数日の内にすべての仕事を覚えた。「土方さん、凄いわねぇ。」「いえ、前にこういうバイトしてたんで・・」「そう。だから飲み込みが早いのねぇ。まぁあたし、これが初めてのバイトなのよぉ。」土方家が住んでいる団地の反対側にある住宅街の中に住んでいるナカジマさんと、千尋は親しくなった。「しょうがないですよ、みんながみんな、ベテランじゃないですし。」「それもそうよねぇ。子供の学費の為にも働かなくちゃって思ってねぇ。でも立ち仕事って腰にこない?」「ええ。来ますねぇ。」千尋がナカジマさんと喋っていると、チーフスタッフのサイタさんが彼女たちを睨みつけた。「ちょっとそこ、喋ってないで4番テーブル片付けてよ!」「わかりました。」夕飯の時間帯となると徐々に客が増えてゆき、千尋達はバタバタとホールを走り回った。「あ~、疲れた。」「お疲れ様です。」従業員控え室で私服に着替えた千尋は、そう言ってストレッチをしているナカジマさんに声をかけると、一足先に店から出て行った。 自転車に跨って店から団地へと向かっている途中、娘達が遊ぶ公園の前を通りかかると、近くのベンチにぽつんと誰かが座っているのが見えた。誰だろうと千尋は思いながら横目でちらりとベンチに座っている人物を見ると、それは愛美だった。(愛美さんが、どうしてここに?)彼女にいろいろと嫌がらせされたことを突然思い出し、千尋は彼女に気づかれないようにペダルを踏んで団地へと急いだ。「ただいま~」「お帰り。大丈夫か?」「もう疲れてクタクタ。ご飯は?」「俺が作ったよ。久しぶりに外で働いたご感想は?」「まあ悪くなかね。中洲の高級クラブよりはいいもん。」「そうか。そういえば、明日だったけ、薫達の授業参観。」「どうする?都合つく?」「大丈夫だ。」歳三がそういいながら缶ビールのプルタブを引っ張っていると、携帯がけたたましく鳴った。にほんブログ村
2012年10月13日
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数時間後、軽い熱中症にかかっていた千尋は点滴治療だけで退院できた。「よかったな、大事に至らなくて。」「うん、心配かけてごめんね。」妻を気遣いながらも、歳三はソンジュとの約束を思い出し、彼女が見ていないところで溜息を吐いた。『ヨンイル、夕食はどうするんだい?』『外で友人と会う約束があるんだ。適当に食べてくるよ。』『そうかい、気をつけて行っておいで。』清子に適当な嘘を吐くと、歳三はソンジュとの待ち合わせ場所である江南のクラブへと向かった。『ヨンイル、あなたまた来たの?』店に入ると、華やかなドレスを身に纏ったソンヒが歳三を見ていた。『お前、まだここで働いているのか?』『いいえ。もう今日で辞めるのよ。今からママに挨拶しにいくところ。今後は父の傍に居たいの。』『そうか。』歳三とソンヒが喋っていると、ソンジュが店にやってきたところだった。『これは、これは。渦中の人物が二人して何をしているんだ?』『ただ世間話をしていただけだ。それで、話ってのはなんだ?』『ちょうど良い。君も来て貰おう。』不安そうな表情を浮かべているソンヒの手を、歳三はそっと握った。 3人は奥の部屋に入り、しばらく黙っていた。最初に口火を切ったのはソンジュだった。『君は彼と不倫をしていたね?』『いいえ。彼とは大学時代に付き合っていましたが、彼とは別れましたし、よりを戻す気はありません。』ソンジュの問いにソンヒは毅然とした様子でそう答えたが、彼はどうやら納得いかなかったようだった。『それじゃぁ、これはどう説明するんです?』彼はそう言うと、千尋に渡そうとしていた封筒を取り出し、その中身をぶちまけた。そこには、歳三とソンヒが仲睦まじく食事をしている写真や、キスをしている写真が入っていた。『これでシラを切り通せるとでも?』『ふん、バカバカしいわ!こんなの昔の写真じゃない!あなた、一体何のつもりなの?』ソンヒはそう言って立ち上がると、ソンジュを睨みつけた。『ただの退屈しのぎですよ。』『最低ね、あなた。』ソンヒは憤慨した様子で部屋から出て行った。歳三はじろりとソンジュを睨みつけると、彼女の後を追って部屋から出て行った。『ヨンイル、あの人は変よ。気をつけて。』『ああ。』 クラブを出た歳三は、学生時代によく通っていた食堂でビビンバを食べながら、ソンジュが何故自分を陥れようとしているのかがわからなかった。彼とはロイヤル・ホテルで働いていた時から互いに反目しあっていた。あまり彼と関わり合いになりたくなかった歳三は、日本へと戻る際形式的な挨拶だけで済ませてその後連絡も一切しなかった。だがソンジュの方は、執拗に自分のことを追いかけている。気味が悪い―歳三はぶるりと身を震わせて、残りのビビンバを掻き込んだ。『じゃぁ、今度会うときは秋夕(チュソク)だね。』『ああ、それまで元気でいてくれよ。』『わかってるよ。』 とうとう日本へと帰る日の朝、歳三はそう言うと祖母を抱き締めて彼女との別れを惜しんだ。『おばあちゃん、また来るからね!』『元気でね!』美輝子と薫は目に涙をためながら、それぞれ清子に抱きついた。『お祖母様、短い間でしたがお世話になりました。』『身体に気をつけるんだよ、チヒロ。』『ええ。』清子と別れ、4人は空港へと向かうタクシーに乗り込んだ。 GW最終日とあってか、国際線の出発ターミナルは日本人観光客でごった返していた。「ねぇママ、夏休みにまた来るよね?」「勿論よ。それまでにお勉強頑張ろうね!」千尋が夫と娘達と楽しそうに話をしながら出発ゲートへと向かっていると、藩=ソンジュが彼らの前に姿を現した。『奇遇ですね、どちらへ?』『日本に戻るんです。』『わたしは仕事でシドニーに行くんです。ではこれで。』ソンジュは歳三とすれ違いざまに、こう彼の耳元に呟いた。『お前なんか、簡単に捻りつぶしてやる・・』明らかに挑発ともとれる言葉に、歳三は彼に掴みかかろうとしたが、千尋が歳三の腕を掴んで止めた。「相手にするだけ無駄よ、行きましょう。」千尋はそう言うと娘達と手を繋ぎ、歳三とともに出発ゲートの中へと入っていった。「さっきは助かったぜ。」「あんな人は相手にしないほうがいいの。さてと、もうすぐ出発の時間だから急がないと。」「ああ。」空港内のフードコートで昼食を取った歳三たちは、成田行きの便の搭乗口へと向かった。 ハン=ソンジュが何をたくらんでいるのかは知らないが、自分の家族を脅かすものは決して許さないと、歳三は千尋の隣の席に腰を下ろしながらそう思った。にほんブログ村
2012年10月13日
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何度かのコール音の後、歳三は通話ボタンを押した。『何の用だ?』『君の奥さんを勝手に連れ出したことは悪く思っているよ。』『てめぇ、ふざけんな!』歳三が突然廊下で叫んだので、待合室で待っていた患者やその家族がじろじろと訝しげに彼を見ながら通り過ぎていった。彼は人気のない中庭へと向かうと、若干低い声で再びソンジュと話し始めた。『千尋に何をした?』『君の不倫に関することを、彼女に話そうと思っただけだ。』『俺は不倫なんかしてねぇよ。』『そうかな?じゃぁあのキム=ソンヒが働いているクラブで、今夜8時に会おう。』『ああ、わかったよ。』歳三が携帯の通話ボタンを押して上着のポケットに入れて病院の中へと戻ると、途中で彼は誰かとぶつかった。『あ、すいません!お怪我ありませんか?』『いいえ。ではこれで。』歳三はそう言ってぶつかった女性に頭を下げると、千尋の病室へと戻っていった。『きれいな人だったなぁ・・』一人取り残された女性は、歳三の背中を見つめながらしばらくそこに突っ立っていた。その時、バッグの中に入っていた彼女の携帯がけたたましく鳴った。『もしもし・・』『ユジン、あんた病院に居るの?』『居るわよ。』『早く彼に会って来なさい!』『わかったわよ、うるさいな!』そう言った女性は、母親からの着信を切ると、携帯の電源を切ってバッグの中へと入れた。 彼女―ユジンがここに来たのは、数日前に仲違いした恋人・ソジュンと仲直りしろと母親にうるさくせっつかれたからだった。ソジュンとユジンの母親は、結婚適齢期となっても誰とも交際しない娘と息子の現状に嘆き、見合いを無理やりさせて彼らを引き合わせたのだった。だがユジンは優柔不断で浮気者のソジュンが嫌いで、彼との結婚など考えられなかった。しかし、ユジンの父親で、ハンガングループの会長であるセジョンがソジュンを気に入っている為、彼と結婚せざる終えない状況に陥っている。(もう、帰ろうかな・・)ユジンはソジュンの姿を探すのを諦めて病院から出て行こうとしたとき、彼が一人の女性と仲睦まじい様子で歩いている姿を目撃してしまった。彼女はすぐ傍にあった自販機の陰に隠れ、二人の会話に聞き耳を立てていた。『ねぇ、あの子とはいつ別れるの?』『もうすぐだから待ってよ。』『そればかりね。そんなこと言ってたら、お腹が大きくなってしまうわ。』女性はそう言うと、愛おしそうに下腹部を擦った。それを見たユジンは、ショックを受けた。彼は自分以外の女性を妊娠させ、まんまと自分と結婚するつもりでいたのだ!『この人間の屑!』自然とユジンは身体が動き、幼い頃習っていたボクシングを思い出し、ソジュンのふざけた面に強烈なカウンターパンチを食らわせてやった。『あんたなんか最低!』 ユジンは彼らに涙を見せぬよう、さっと彼らに背を向けて病院から出て行った。にほんブログ村
2012年10月13日
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一方、ソンヒは歳三が父・テジュンを保護したときき、彼の祖母の家へと向かった。『父は何処に?』『今ヨンイルが風呂に入れてるよ。あんたの父さん、酷い生活をしてきたようだね。』清子はそう言ってじろりとソンヒを睨んだ。『お前はあたしのことよりも、父親の身を案ずるべきだろうが!』『すいません・・』『あたしに謝るな。あたしにはヨンイル達が居るが、お前の父さんにはお前だけだ。あの男は嫌なやつだが、あんたの父親であることは変わりないんだからね。』清子は言いたい事だけ言うと、腰をさすりながら寝室から出て行った。その時、歳三とテジュンが風呂から出てきた。『パパ!』『ソンヒ・・ソンヒなのか?』テジュンはそう言ってゆっくりとソンヒに近づいていった。『パパ、ごめんなさい!わたし、パパのことを今まで放っておいて・・すまないことをしたと思ってるわ!』ソンヒは父親に対する申し訳なさと罪悪感で涙を流しながら、テジュンに抱きついた。『いいんだよ、ソンヒ・・お前にはいろいろと酷いことばかり言ってきた。天罰を受けて当然なんだ、わたしは・・』『パパぁ~!』熱い抱擁を交わすキム父娘の姿に、歳三は安堵の表情を浮かべていた。『ここに知り合いが食堂を出してるから、そこで働け。店の二階に空いている部屋がある。風呂やトイレ付だから、地下鉄のホームで寝るよりマシだろう。』『ありがとうございます、感謝します。』そう言って頭を下げるソンヒを見て、清子は照れくさそうに頭を掻いた。『これから親子仲良く暮らすんだよ。』 ソンヒたちの姿が見えなくなると、清子は溜息を吐いて床に腰を下ろした。『もうあいつらには手を貸さなくていいだろうね。それよりもチヒロは遅いねぇ・・』『携帯にかけても出ないんだ。もしかして事故に巻き込まれたんじゃ・・』歳三がそう言ったとき、机に置いていた電話がけたたましく鳴った。『もしもし?』『もしもし、こちらソウル市立病院です。チヒロさんのご家族ですか?』『はい。チヒロはわたしの妻です。』『実は、奥様が熱中症で倒れられまして・・』 数分後、歳三は娘たちと清子を連れて、千尋が搬送された病院へと向かった。『先生、チヒロは大丈夫なんですか?』『ええ。幸い通行人がすぐに通報してくれて、大事には至りませんでした。』『妻に、会えますか?』『ええ。』一般病棟のベッドで、千尋は病院着を纏いぐったりとした様子で寝ていた。「千尋、起きろ。」歳三がそっと千尋の頬を叩くと、彼女はゆっくりと目を開けた。「ごめんなさい、心配かけて・・」「いいんだよ、お前が無事で。」「携帯、どこかに落としちゃって・・」「また新しいのを買えばいい。退院したら、デパートで誰か拾っている人が居るだろうから、探してみよう。」「うん・・」妻が無事であることにほっと胸を撫で下ろした歳三は、携帯が鳴っていることに気づき病室から出た。かけて来た相手は、ハン=ソンジュだった。にほんブログ村
2012年10月13日
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『ソウルに居たときは主人が大変お世話になりました。』 千尋は余りソンジュに良い感情を持っていなかったが、ソウルで歳三が何かと彼に世話になったので、挨拶だけしようと思い、そう言って彼に頭を下げると、彼は突然笑った。『どうかなさいました?』『いえ・・普通嫌いな相手に挨拶するのは珍しいなと思って。それが日本人らしさですね。』そう揶揄(やゆ)されて、千尋は少しムッとした。(やっぱりこの人、好かん!)挨拶なんてするんじゃなかった―千尋はそう思いながら早くこの場から立ち去りたかった。『では、わたしはこれで。』くるりと背を向けて立ち去ろうとする千尋の手を、ソンジュは突然掴んだ。(な、何!?)『ちょっと付き合えますか?』『何するんですか、離してください!』突然大声を上げた千尋に、周りの客は何事かと彼らの方を振り向いた。『少し話したいことがあるんです。』『一体何の話ですか?ここでは言えない様なこと?』『まぁ、そうですね。』ソンジュはそう言って口端をあげてニヤリと笑うと、強引に千尋をその場から連れ去っていった。 エレベーターに乗ったソンジュは地下駐車場へと向かい、助手席に無理やり千尋を座らせると車を発進させた。『何処へつれていくんです?』『静かに話ができるところです。』いまいち彼のことが信用できない千尋は、夫に電話をかけようとして携帯を取り出そうとしたが、バッグの中になかった。もしかして、さっきデパートの中で落としてしまったのだろうか。『どうしました?』『携帯を落としてしまいました・・』『そうですか。わたしには関係のないことですが。』千尋はソンジュの言葉が少し癪に障った。 数分後、ソンジュが運転する車はソウル市内にあるカフェの駐車場に停まった。『コーヒーを。』店員に飲み物を注文すると、ソンジュは千尋の方に向き直った。『手短に用件を言ってください。』『あなた、ご主人と学生時代付き合っていたキム=ソンヒをご存知ですか?』『ええ、以前に会ったことがありますが、それが何か?』『あなたのご主人は、彼女と浮気をしていますよ。』ソンジュの言葉を、千尋は鼻で笑った。『馬鹿なこと言わないで!うちの人が浮気するわけないでしょ!』『あなたはご主人のことを信頼しきってるんですね。』ソンジュはそう言ってニヤリと笑うと、一枚の封筒を取り出した。『その中にご主人の浮気の証拠が入ってます。』『こんなものには興味はないわ。』『へぇ、そうですか。』『あなたは非常に不愉快な方ね!』千尋は自分のコーヒー代をテーブルに叩きつけると、カフェから出て行った。(さっきのデパートに戻って、携帯を探さなきゃ・・) 初夏にしては眩しい日差しが千尋の全身を射し、彼女は突然めまいに襲われて倒れてしまった。にほんブログ村
2012年10月13日
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『父の会社が倒産したのは、あなたと別れて何年か経った後よ。それからはもう、地獄だったわ。』コーヒーを飲みながら、ソンヒは当時のことをポツリポツリと話し始めた。『父は金策に駆けずり回り、碌に睡眠や食事も取らない日々を送っていたわ。その無理が祟って、父は倒れてしまったの。』『それで、旦那はどうしたんだ?』『夫はわたしの実家が破産寸前だと知ると、一方的に離婚届を送ってすぐに別れたわ。他に女が居て、更に子供まで居たって聞いたときは、怒りを通り越して呆れたわ。わたしと結婚したのは、金が欲しかったからだって。』没落した両班の令嬢は、そう言って自嘲気味に笑った。『それで、これからどうするんだ?』『借金を返すだけよ。できるだけ早くね。親戚はみんな縁を切ったから、わたしが自分の身体で稼ぐしかないのよ。』『そうか。親父さんをどうして捨てたんだ?』『父はあの通り、プライドの高い人でね・・それは身体が不自由になっても変わらなかったのよ。最初の内は我慢していたんだけれど、もう限界で・・』ソンヒはそう言葉を切ると、コーヒーを飲んだ。『親父さんが行きそうなところはあるのか?』『いいえ。あの人とはもう連絡を絶っていて、今どこにいるのかさえわからないわ。ヨンイル、わたしもう行かなくちゃ。』ソンヒはさっと椅子から立ち上がると、コーヒーショップから出ていった。 家へと帰る地下鉄の中で、歳三はソンヒ父娘を取り巻く厳しい状況に驚くとともに、ソンヒの父・テジュンが今どこにいるのかが気になって仕方がなかった。乗り換えの為電車から降りて向かいのホームへと歳三が移動していると、突然罵声が切符売り場付近から聞こえた。何事かと歳三が人だかりの出来ている場所へと向かうと、そこには数人の若者達が一人の老人を取り囲んで罵声を浴びせていた。『おい、なめてんじゃねぇぞジジイ!』『さっさと金よこせよ!』『おい、てめぇら何してんだ!』歳三が慌てて彼らの間に割って入ると、地下鉄の職員が警笛を鳴らしながら彼らの方へとやって来た。『大丈夫ですか?』歳三は地面に倒れているホームレスを抱き起こそうとしたとき、そのホームレスがテジュンであることに気づいた。 眼鏡は壊れ、服はボロボロで所々すえた臭いがしていた。昔自信に満ちあふれ、デザイナーブランドのスーツを着こなしていたエリートビジネスマンであった彼の姿は、その面影すら残っていなかった。『き、君は・・』『歩けますか?すぐに病院に連れて行きますからね。』テジュンの肩に手を回し、彼を支えながら歳三はソウル市内の病院へと向かった。『軽い打撲だけで、命に別状はありませんよ。ご家族の方ですか?』『いいえ、知り合いです。』一瞬病院に置いて帰ろうかと思った歳三だったが、テジュンを見捨てておけずに家へと連れて帰った。『あんた、なんて姿だい!』玄関先で変わり果てたテジュンの姿を見た清子は、思わずもやしを放り出しそうになった。『ばあさん、テジュンさんを風呂に入れてもいいか?』『わかったよ。一体どこでこの人を拾ったんだい?』『地下鉄の構内でだよ。風呂に入れた後、少し休ませないと。』テジュンを歳三が風呂に入れている間、ソンヒがやって来た。『ヨンイル、まだ居るかしら?』『あぁソンヒ、丁度良かった!さっきあんたの父さんをヨンイルが連れて来たよ!』『まぁ、何ですって!?』ソンヒの目が、驚きで大きく見開かれた。 その頃、千尋はソウル市内にあるデパートで娘の同級生達へのお土産などを買っていた。(あれ、歳三さんにいいわね。) ふと紳士服コーナーを通り過ぎた千尋は、ショーウィンドウに展示されているスーツを見てその値段を確かめたが、余りにも高すぎて諦めた。娘達の教育にこれから金がかかるというのに、あんなに高級なスーツを買う余裕はうちにはない。彼女がデパートを後にしようとした時、誰かとぶつかった。『あ、すいません・・』『大丈夫ですか?』ぶつかった男に謝ろうとしたとき、相手が夫の前の職場の上司であるハン=ソンジュであることに気づいた。『お久しぶりです、副支配人。』『誰かと思ったら、チェさんの奥さんじゃありませんか?』ソンジュは何を思ったのか、そう言って笑った。にほんブログ村
2012年10月13日
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『実はね、父があなたに会いたがっているのよ。』『お前の親父さんが?』ソンヒの言葉を聞いた歳三は、大学時代の苦い思い出が脳裏を過ぎった。 当時、歳三はソンヒと交際しており、将来は結婚を考えていた。しかし、ソンヒの父・テジュンは二人の交際を許さず、ソンヒに財閥の御曹司との縁談を持ってきた。『君の家と私の家では、家柄が違う。我が家は両班(リャンバン)(注*1)、君の家は賤民(せんみん)の出だ。仮にも両班の血をひく娘が、賤民の血をひく息子と結ばれるなど、我が国ではあってはならないことなのだよ。』ソンヒの家に挨拶に言った時、テジュンにそう侮辱されたことは忘れもしなかった。ソンヒとは自然消滅し、テジュンとはあの日以来会ってもいない。そのテジュンが、どうして今更自分に会いたがる理由がわからなかった。『誇り高い両班の家長様が、賤民の俺に会いたくはないんじゃないか?』過去のことを多少皮肉りながら歳三がそう言うと、ソンヒは溜息を吐いた。『あの時、父はどうかしていたのよ。会社も大変な時期だったし・・でもあなたと最後に会ってから脳梗塞になって、右半身が麻痺して言語障害が出てしまって、今は特養老人ホームに居るのよ。』ソンヒの言葉は、俄かに信じられないものだった。 あの自信に満ち溢れ、平気で他人を傷つけていた傲慢な男が病によって身体の自由を奪われてしまうなど、想像もつかないことだった。『言っとくが、俺は親父さんには会わねぇ。ソンヒ、お前とはもう終わったんだ。』『そう・・ではわたしはこれで失礼するわ。』ソンヒはそう言うと、そそくさと清子の家から出て行った。『ばあさん、倒れたことどうして言ってくれなかったんだ?』『ごめんよぉ、あんた達に心配を掛けさせたくなくてね。ソウルには何日居るんだい?』『明後日には帰るよ。本当はこっちに戻って暮らしたいけれど、東京のホテルで働き始めたばかりだからな。』『そうかい。じゃぁ明日、爺さんの墓参りでも行こうかねぇ。』そう言った清子の顔は、何処か悲しそうだった。 翌日、歳三達は清子の夫・ナムジュンの墓がある束草(ソクチョ)へと向かった。『あなた、可愛い孫と曾孫達が来ましたよ。さぁヨンイル、うちの人に挨拶しておくれ。』清子にそう言われ、歳三は娘たちと墓に眠るナムジュンに挨拶をした。『ねぇヨンイル、あんた今度はいつ帰ってくるんだい?』『そうだなぁ、秋夕(チュソク)(注*2)には帰ってくるよ。』墓参りの後、家族で寄った定食屋でクッパを食べながら歳三がそう言うと、清子はため息を吐いた。『そういえば、昨日家に来たソンヒだけどね、あの子の家、今大変なんだよ。昔は羽振りは良かったけれど、リーマンショックで会社が倒産してねぇ。旦那からは離婚されて、一人で父親を養うためにルームサロン(注*3)で働いているんだよ。』『あのソンヒがルームサロンで?』歳三はお嬢様育ちであったソンヒがいくら父親を養うとはいえルームサロンで働くなど、どのような思いを抱えながら生きているのだろう。『何処のルームサロンだ?』『そうだねぇ・・確か、江南(カンナム)あたりだったと思うよ。』 清子から渡されたソンヒの名刺を頼りに、歳三は彼女が働いているルームサロン『スター』へと向かった。『いらっしゃいませ。』彼が店に入ると、50代前半と思しきママが笑顔で彼に近づいてきた。『ここでソンヒって子は働いてないか?』『ああ、あの子ならパク室長の部屋に居ますよ。ここのお得意さまでねぇ、よく指名してくださるんですよ。』『ありがとう。』歳三がソンヒと客が居る個室のドアを叩いて中へと入ると、そこにはパク室長の体にしなだれかかるソンヒの姿があった。『ヨンイル、どうしてここへ?』『少し話をしよう。』ソンヒの腕を掴んで彼女を店の外へと連れ出した歳三は、彼女を睨んだ。『どうして俺に何も言ってくれなかったんだ!』『これはわたしの家の問題よ。あなたには関係のないことよ。』『じゃぁ親父さんが特養老人ホームに居るってのも嘘だったのか!?』『ええ・・そうよ。わたしは、わたしは父を捨てたのよ・・』 ソンヒはそう言うと、俯いた。『わかるように話してくれねぇか?』『わかったわ。ここじゃなんだから、あそこで話しましょう。』 数分後、コーヒーショップで向かい合わせに座ったソンヒは深呼吸した後、自分達の身に起こった出来事を話し始めた。注*1 朝鮮王朝時代の貴族階級のこと。注*2 韓国の旧暦8月15日に伴う祭日。注*3 ホステス付のクラブで、店外での性的サービスも含む。にほんブログ村
2012年10月13日
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「ねぇ、どうしてそんな子と遊んでるの?うちでゲームしようって言ったじゃん!」薫と遊んでいた数人のクラスメイト達は、突然そう言った女児を一斉に見た。「どうしてって、薫ちゃんと遊んでいる方が楽しいもん。」「そうそう。だっていつもゲームしようって言っても、あたし達に触らせてくれないじゃん。」「薫ちゃんと遊んでいる方が楽しいもん!」クラスメイト達の言葉を聞いた女児は地団駄を踏むと、公園から出て行った。「薫ちゃん、気にしなくていいからね?」「うん・・」女児が去った後暫く気まずい空気が薫達の間で流れていたが、彼女達は再び楽しく遊び始めた。もう心配ないだろうと思った歳三は彼女達に声を掛けずに、スーパーで買い物を済ませて帰宅し、昼食を作った。「千尋、飯できたぞ。」「ありがとう。」千尋がノートパソコンの電源を落としたのは、昼の1時を回った頃だった。「一体この時間まで何してたんだ?またブログに何か書いてたのか?」「うん、色々とね。薫はどうだった?」「公園で仲良く友達と遊んでたぞ。もう心配ないな。」「そうやね、美輝子にも友達ができたようやし。問題はあの女ね。」「また吉田さんのことか。飯食ってるときくらい彼女のことは忘れろよ。」「でも許せんのよ、あの女!徹底的に潰してやらんと気が済まん!」千尋はそう言って醜く顔を歪ませながら、テーブルを拳で叩いた。「なぁ千尋、ビラに書いてあることは確かに酷いけど、お前が彼女と同じ土俵に上がって泥仕合までするってのはどうかと思うぞ?冷静になって考えたら、向こうがお前を中傷したんだから、その証拠を集めて告訴した方がいいんじゃねぇのか?」「そうかもしれん。」夫の言葉に怒りで我を忘れていた千尋は、吉田夫人への怒りが収まった。「少し怒りで周りが見えなくなっとった。ありがとう。」「いや、いいんだよ。それよりももうすぐGWだろ?婆さん家にでも行くか?」「いいね。最後に行ったのは旧正月以来のときだし。」 4月下旬、歳三達は久しぶりに清子の元へと訪れた。『元気そうだね、二人とも。もう誰にもいじめられていないかい?』『うん!』『ちょっと待っててね。今からお昼を作るからね。』清子がキッチンへと消えていった後、外の方で何か音がしたので歳三が玄関先に向かうと、そこには花束を持ったソンヒが立っていた。『ソンヒ、どうしてお前ここを知ってるんだ?』『どうしてって・・あなたのお祖母様にはよくしていただいているもの。快気祝いに来たのよ、いけない?』ソンヒはそう言うと、にっこりと笑った。『快気祝い?何のことだ?』『あら、知らないの?じゃあ教えてあげるわ、ヨンイル。この前、あなたのお祖母様仕事中に倒れたのよ。』初めて祖母が倒れたことを知った歳三は、その衝撃を受け暫くその場に立ち尽くしていた。「トシ兄ちゃん・・」千尋が玄関先に現れ、歳三とソンヒを交互に見た。『お久しぶりです。』『あら、お久しぶりね。てっきりヨンイル一人だと思っていたから・・』笑顔でそう話すソンヒとは対照的に、千尋の表情は硬かった。『それで?一体何をしに来られたんですか?』『何をしにって・・お祖母様の快気祝いに決まっているじゃないの。もしかして、あなたもお祖母様が倒れたこと、知らなかったの?』ソンヒは勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべながら、千尋と歳三を交互に見た。 数分後、気まずい空気の中で歳三達は清子とソンヒを囲みながら昼食を食べていた。(突然やってきて、一体何するつもり?)にほんブログ村にほんブログ村
2012年10月13日
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「おはようございます。」「おはようございます。」 千尋が団地の自治会に出席すると、同じ棟に住む数人の主婦達が彼女の方に駆け寄ってきた。「ねぇ土方さん、ブログに書かれていることは本当なの?」「ええ。」「でも吉田さん、かなり怒っていたみたいよ。名誉毀損であなたを訴えるって!」「名誉毀損って・・先にあっちがわたしを中傷してきたんじゃない!冗談じゃないわ!」「それはそうだけど・・」千尋の剣幕に主婦達はたじろぎ、その後自治会が終わるまで何も言わなかった。「あ~、もう腹立つ!」「どうしたんだ、千尋?」帰宅するなりノートパソコンを起動した千尋が浮かべている顔を見て、歳三は何か起きたのだなと解った。「吉田夫人、うちが書いたブログの内容を見て名誉毀損で訴えるって!向こうが先に仕掛けてきたっていうのに!」「おい、落ち着けよ。感情的になったって仕方ねぇだろ?」「でも・・」千尋がブログのコメント欄を見ると、そこには彼女に対する励ましのコメントで溢れていた。「向こうがどうこう言おうが、うちは絶対に負けない!」「少し散歩してくるから、その間に頭を冷やしておけよ。」千尋にそんな事を言っても無駄だと知りながらも、歳三はそう言うと部屋から出て行った。 (ったく、どうなってんだか・・)歳三が団地内を歩くと、各所にある掲示板に千尋を中傷するビラが所狭しと貼られていた。“土方千尋は中洲でホステスをしていた頃、ヤクザの男と付き合い、妊娠した子どもを中絶した。”“千尋の母親はヤクザの愛人で、時折団地に来ては金の無心に来ては騒ぎを起こす。”ビラに書かれている内容はどれも事実無根のものだ。吉田夫人は一体何をしたいのだろうか。歳三は団地内のビラを一枚残らず剥がしまわった。『パパ。』『どうした、薫?』最近家に籠もり、塞ぎこんでいた薫が、自転車に乗りながら歳三の方へと向かってきた。『今日ね、みんなと公園で遊ぶんだ。』『そうか。あれからどうだ?みんなと仲良くなった?』『わたしをいじめてる子達とは、仲良くしてる。じゃぁ行ってくるね。』『気をつけろよ!』去り際自分に手を振った時に浮かべた娘の笑顔を見て、歳三は少し沈みがちだった気分が少し明るくなった。「ただいま。」「お帰りなさい。それ、どうしたと?」「掲示板に貼られてたから、剥がしてきた。薫は公園で友達と遊ぶってさ。」「ふぅん。心配してたけど、仲良くやっているようで良かった。千尋、昼はどうする?お前は疲れているようだし、俺が簡単に作るよ。」「ありがとう。」歳三が冷蔵庫を開けると、そこには余り食材が残っていなかった。「スーパーに行ってくる。」「気をつけてね。」 歳三が駐輪場で自転車に跨り近所のスーパーへと行こうとすると、薫が数人のクラスメイト達と公園で遊んでいた。暫く様子を見ていると、ブランコの方から1人の女児が薫達の方へと走ってきた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年10月13日
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「ねぇ、あの人じゃない?」「ああ、土方さんのところの・・」「大人しそうな顔をしてやるわねぇ。」 スーパーでカートを押しながら買い物をしていると、精肉売り場で同じ団地に住む主婦達がヒソヒソと自分を見て話しているのを見た千尋は、彼女達の方へと向かった。「あの、わたしに何か用ですか?」「え・・」「さっき向こうでお話しているのを見ましたので、どうしてわたしに直接話さずにこそこそしてるんだろうと思いまして・・」「大したお話では・・」「そうですか。でも、わたしにとって大したお話にはみえませんでしたけど?」のらりくらりと話題を必死で変えようとする主婦達に、千尋はしつこく食い下がった。「そうですか・・あの、近くのお店でお茶しません?ここでは人目がありますし。」「解りました。」根負けした主婦達は、千尋をスーパーの近くにあるカフェへと連れていった。「あのね、土方さん、こんなことは言いたくないけど・・」「あなたについて変な噂があるのよ。」「変な噂って、どんな噂ですか?」「ええ。昔水商売をしていてヤクザと付き合って、妊娠した男の子を中絶したとか、薬の売人をしてたとか・・それって、本当のことなの?」何処からそんな根拠のない噂が流れているのかは知らないが、千尋はそれを聞いた瞬間腸が煮えくり返った。「確かに昔水商売していたことは事実ですが、噂は事実無根です。一体誰がそんな噂を流したんですか?」「そ、それは・・」「隠さないといけないくらい、あなた方にとってその人は大切な方なのですか?それで皆さん、わたしを団地から追い出そうと?」千尋がそう言って主婦達を睨みつけると、彼女達はいちように項垂れた。「はぁ~い、どなた?」「土方です。至急奥様とお話したいことがございまして。」「暫くお待ちくださいませ。」閑静な高級住宅街の中に、その邸宅はあった。千尋がインターホンを鳴らしてそう言うと、家政婦と思しき女性が数分後に玄関先に現れた。「申し訳ございませんが、奥様はただいま外出中で・・」「そうですか?先ほど二階の窓が開いて誰かの話し声が聞こえましたけれど?」千尋の言葉に家政婦は顔を赤くして、彼女を女主人の元へと案内した。「初めまして、土方千尋と申します。」「あら、あなたがわざわざこちらにいらっしゃるなんて。あなた、お茶をお出しして。」 客間に通された千尋は、噂を流した張本人・吉田夫人とソファで向かい合うように腰を下ろした。「単刀直入に申し上げますが、わたしについて噂を流したのは奥様、あなたですか?」「まぁ何を根拠にそんな事をおっしゃっておられるの?」険しい視線を送る千尋に対し、吉田夫人は悠然と彼女にそう言い放ち、優雅に紅茶を一口飲んだ。「警察庁のキャリアを夫に持たれる奥様が、あらぬ噂を立ててわたしを中傷するなど、嘆かわしいことですこと。」千尋はそう言うと、バッグから一枚のビラを取り出し、吉田夫人の眼前に突きつけた。「このビラに見覚えがおありでしょう?」「さぁ、何のことだか・・」「あなたがそうシラを切るつもりなら、わたしも黙っていられません。」 吉田邸を辞した千尋は帰宅するなり、ノートパソコンを起動させた。(絶対に許さない、あの女・・)千尋は思いの丈を、自分のブログに綴った。その反響は、すぐにあった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年10月13日
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「もう帰ろうぜ。これ以上ここに居たって時間の無駄だ。」「そうやね。」 千尋と歳三はクラス会の会場となっているホテルから出て、駅で電車を待ちながら今日は無駄足だったと思っていた。「あんな様子を見るかぎり、親が言っていることを子どもが真似してるんだな。」「そうかもしれんね。何のためのクラス会だったのかわからんかった。」千尋がそう言って溜息を吐くと、電車がプラットホームに滑り込んできた。夕方のラッシュアワーを過ぎているからか、車内は空いていた。「なぁ、今朝あの爺さんにゴミ捨て場で“お前は在日か?”って尋ねられたんだよ。」「あのお爺さんって、西田さんのお舅さん?あの人に何か言われたと?」「まぁな。余り思い出したくないことを色々とな。」歳三はそう言うと、それ以上千尋には話してくれなかった。「千尋、ママ友関係はどうだ?」「あんまり良くないな。ソウルに居た頃はみんな育児サークルで知り合って、幼稚園に娘達が入ってからも気さくに話し合えた人たちが多かったけど、ここでは既存のママ友グループに入っていくのが少し躊躇(ためら)うかなぁ。トシ兄ちゃんは?」「俺も似たようなもんかな。東京のホテルではフロント業務よりも事務仕事がメインになってさ、上司はどちらかというと利益追求主義っぽいんだよ。」「ハン副支配人みたいな?」「まぁ、そうだな。でも反りが合わねぇっといっても、私情を職場に持ち込んじゃならねぇ。」「そうやね。学生の頃は嫌いな子が居ても無視したりしても良かったけど、社会人は終わりがないけん、嫌いな人が居ても私情を挟まんように付き合わないと。そこが難しいところなんやけど・・」「この前ネットで読んだんだが、一番転職するきっかけになったのは、“職場の人間関係”なんだと。いくら給料が良くても、人間関係が最悪じゃぁ、逃げ出したくもなるだろうよ。」夫の話を聞きながら、千尋は中洲でホステスをしていた頃を思い出した。 水商売の世界は上下関係が厳しい縦社会で、新人だった頃、ママに命じられたのは店のトイレ掃除や雑用ばかりで、先輩ホステスからの嫌がらせも酷かった。よほど根性が据わっていなかったら、店から尻尾を巻いて逃げていたのかもしれないが、千尋は何とか耐えてナンバーワンになるまで努力した。 人一倍負けず嫌いだった千尋は、自分をいじめている連中を見返してやるという気持ちで先輩ホステスの技を盗み、接客スキルを磨いた。努力した分、店で一目置かれる存在となったし、先輩ホステス達も千尋をいじめたりすることはしなかった。今思えば、あの高級クラブでの経験が人生の糧となっている。「うちも中洲時代、先輩のお姉さん達から、“役立たずは出て行け”とか言われたし、散々酷いことされたよ。でも挫けんかったんよ。お金を稼ぐ為にプライドを殺して必死に働いたよ。」「プライドよりも生活の方が大切だもんな。俺もお前達を食わせる為ならなんだってやるさ。」 娘達のいじめという、先が見えない戦いに、千尋と歳三は二人で挑むことを決意した。「おはようございます。」クラス会の翌朝、千尋がゴミを出しに行くと、ゴミ捨て場で井戸端会議をしている主婦達がいたので、彼女は大きな声で挨拶した。すると彼女達はそれぞれ互いの顔を見合わせると、そそくさとその場から立ち去ってしまった。(何やろか・・)突然無視されるようなことをした覚えは千尋にはない。先日まで挨拶を返してくれたのに、一体何があったのか。「どうした、千尋?」「さっき奥さん達に挨拶したら、無視されたんよ。」「気にすんな。じゃぁ行ってくる。」「行ってらっしゃい。」 歳三と玄関先でキスして彼を送り出した千尋は、買い物をしにスーパーへと向かった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年10月13日
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「千尋、どうしたんだよ?お前ぇらしくねぇぞ?」「うちの質問に答えてよ!」自分に触れようとする歳三の手を、千尋は邪険に振り払った。「何で黙っとったと、そげなこと!うちがいじめられてたこと知っとった癖に!」彼女が何に対して怒っているのか、歳三は解った。娘がいじめられているのを見て、彼女はその中に昔いじめられていた自分の姿を重ね合わせていたのだ。だから、歳三が昔したことが許せないのだ。「千尋、そいつにはすまねぇと思ってる。」「その人、トシ兄ちゃんの事許さんって言うとったよ。それだけは伝えて欲しいって言っとった。」千尋は徐々に落ち着きを取り戻すと、溜息を吐いてソファから立ち上がった。「今夜は別々に寝よう。睡眠を充分に取ってからまた話し合おう。」「ああ。」感情的になったまま話し合っても意味はない。 一旦互いに頭を冷やしてから娘達のことを話し合うことに決め、歳三はその夜リビングのソファで寝た。 寝返りを打つ度に、高校時代に自分がいじめに加担していた過去を思い出しては悪夢にうなされた。あの時は妙に粋がって世間を舐め切っていたクソガキだった。悪い仲間とつるんでは煙草を吸ったり、ポストや自販機を金属バッドで壊してはそれが格好いいと勘違いしていた。個人では善悪の判断が簡単につくのだが、集団となるとその判断が麻痺してしまう。そんな中、歳三達のクラスに一人の生徒が東京から転校してきた。家が金持ちで、それを鼻にかけた少し嫌な奴だったので、それが面白くなかった歳三達は彼を寄って集って暴言を吐いたり殴る蹴るの暴行をしたり、腕に煙草の火を押し付けて根性焼きをしたりと、今思えば酷いことばかりしてきた。 千尋と結婚し、双子の親となり、その娘達が学校でいじめに遭っていることを知ったとき、初めて歳三は今まで背を向けてきた忌まわしい過去と向き合うことを決めたのだった。(逃げてきゃ何も変わらねぇ。過去と向き合わなければ、何も解決しねぇんだ。)「おはよう、トシ兄ちゃん。」「おはよう。」翌朝、千尋が寝室から出てきた。「ごめんね、昨夜は少し興奮して変な事言っちゃった。」「いや、いいんだ。それよりも美輝子達のことを考えよう。あいつらをこれからどうするか・・」「どうするかって?」「日本語を教えるか、それとも学校以外の居場所を作らせようか・・」「そうやねぇ、習い事はあの子達がやりたいって言い出したら習わせよう。それよりもまず、相手の親御さんと一度話してみた方がいいかもしれん。」「そうだな。」歳三は千尋とともに今日行われるクラスの保護者会に出席することにした。「あら土方さん、こんにちは。そちらの方は旦那さん?」「ええ。」千尋は美輝子と同じクラスのゆみちゃんママを歳三に紹介した。「初めまして。」「千尋さんにはいつもお世話になってるわ。それよりもご主人、在日なんですって?」「ええ、それがどうかしましたか?」「どうしてお子さんを朝鮮学校には通わせないの?」「主人は日本国籍を持っておりますから。そうだよね?」ゆみちゃんママの質問に一瞬言葉が詰まった歳三に、千尋がすかさず助け船を出した。「まぁ、そうだったの。事情も知らないでごめんなさいねぇ。」ゆみちゃんママは悪びれもなくそう言って笑ったが、歳三の顔は引きつったままだった。「気にせんで・・」「あぁ・・」保護者同士の親睦を目的としたクラス会だったが、ゆみちゃんママ以外誰も歳三達に話しかけてこなかった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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「え?娘達が何ですって?」「美輝子ちゃんと薫ちゃんは、クラスメイトとほとんど話もせずに、一人で本ばかり読んでいます。たまに薫ちゃんが隣のクラスから来ますが・・」「そんな・・」それぞれの担任から聞いた話によると、娘達はクラス内で誰とも話さず、休憩時間から放課後までいつも一緒に居るという。「娘達はつい先月まで韓国で暮らしており、日本語が全く話せないんです。それが原因だと・・」「いいえ、それが違うようなんです。実は・・」担任は更に、美輝子と薫に執拗な嫌がらせをしている女子児童の存在を歳三たちに告げた。「それは、いじめですか?」「いいえ。本人達に聞いてみると、ただ単にからかっただけだと言っているのですが・・そうは見えなくて。」「そうですか。帰ったら娘達に聞いてみます。」「お忙しい中、わざわざ来ていただきありがとうございます。」職員室から出て行った歳三達は、娘達の様子を見に彼女達が居る教室へと向かった。丁度休み時間を迎え、教室ではそれぞれ友達とおしゃべりしたり、遊んだりしているクラスメイト達の中で、美輝子は一人机に座って本を読んでいた。歳三が美輝子に声を掛けようとしたとき、数人の女子児童達が彼女を取り囲んだ。「あんた、いつ韓国に帰るの?」「ここに居たら迷惑なんだけど!」「何で朝鮮学校に行かないの?」彼女達に罵られ、美輝子は俯いたまま何も言わない。「無視してんじゃねぇよ!」「ムカつくな!」苛立った様子で彼女達は美輝子の机を蹴ると、校庭へと出て行った。「あの餓鬼共、俺が・・」「やめときって。親が手を出したらもっと酷くなるだけよ。」「じゃぁお前はあいつがいじめられてるの黙って見てるだけでいいのかよ!?」歳三がそう千尋を怒鳴りつけると、廊下に居た児童達が何事かと彼らの方を見た。「もう行こう。」「うん・・」歳三たちの不安が的中し、娘達がクラス内で孤立していることを知った二人は、学校を出て近くの喫茶店へと向かった。「家では日本語を話すべきだったのかな・・そうしてなかったから、美輝子はあんな目に・・」「それは違うと思う。うちだって経験あるけど、自分達と違う・・たとえば片親家庭だったり、ハーフだったり、太ってたりとか色々と理由を付けたりしていじめたりするんよ。いじめをしてる子は、それがいじめだってことに気づいとらんの。ただ遊んでやってるだけって感覚だから、罪の意識も何もない。何年か経って再会したとき、うちをいじめてた子達がなれなれしく話しかけて来たとき、そいつら殺してやろうかと思ったくらい憎かった。」そう言ったときの千尋は、いじめっ子たちに対する憎しみに捉われているかのようだった。「なぁ千尋・・」「どうせ“昔のことは忘れろ”とか言うつもり?そんなに簡単に割り切れるものやないんよ。」千尋はそう言って歳三の手から煙草を一本奪うと、それを口に咥えて火をつけた。「トシ兄ちゃんは“いじめた側”の人間やからうちらの気持ちなんかわからないんよ!」「千尋、一体何言い出すんだよ?」歳三は千尋の異変に気づき、彼女の手から煙草を奪おうとすると、彼女は突然笑い出した。「ねぇトシ兄ちゃん、高校のときトシ兄ちゃんと同じクラスやった人と偶然スーパーで会ったんよ。そん時、トシ兄ちゃんがその人に根性焼きしたって聞いて驚いたわ。」「千尋・・」「トシ兄ちゃんはどんな気持ちで根性焼きしたと?答えてよ。」千尋がそう言って歳三を見た目は、尋常ではなかった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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団地に歳三達が越して来て一週間が過ぎた。 千尋は近所のママ達と顔見知りになったものの、彼女達は昔ながらの付き合いがある所為か、いつの間にかママ会をしていても話題についてゆけず千尋は取り残されてしまうことが度々あった。歳三も東京のホテルで働き始めたものの、ソウルのときとは勝手が違い、職場の人間関係に悩んでいた。「あ~、疲れた。」「うちもよ。うち以外のママさん達は中高の同窓生が多いけん、どう付き合っていったらわからんわ。」夕食の後、歳三と千尋はそれぞれ愚痴をこぼしながら晩酌をしていた。 ソウルに居た頃、千尋はママ友とは良い関係を築いていたし、近所に住む者同士で色々と情報交換を盛んにし合っていたから、派閥などという面倒くさいものは一切なかったので気楽だった。だがここでは、団地に住む主婦達と、一戸建ての家に住む主婦達との間で幾つかグループが別れており、複雑になっていた。「まぁ昔ながらの関係に新参者が入るとなると、相当苦労するって話だよ。それよりも俺は美輝子達のことが心配だ。うまくやっていけるかどうか・・」歳三はそう言って煙草の箱とライターを持つと、ベランダへと向かった。「あ、またあそこのご主人、煙草吸ってるわよ。」 向かいの棟に住んでいる西田家の主婦・のぞみはそう言いながらベランダで煙草を吸っている歳三を双眼鏡で見た。「あそこの主人は、確か在日だったな?」のぞみの父・隆俊は忌々しそうにそう娘に尋ねたが、彼女は首を傾げただけだった。「さぁ、解らないわ。でもそれがわたし達に何か関係あるの?」「あいつらが越してくることなど、以前は考えられんかった。早く出て行ってくれると助かるんだが。」「お父さん・・」父親が侮蔑をあらわにした表情を浮かべているのを見て、のぞみは身震いした。「おはようございます。」「おはようございます。」翌朝、のぞみがゴミを出しに行くと、歳三が集積場でゴミを出すところだった。出勤途中なのか、彼はスーツを着ていた。「これからお仕事ですか?」「ええ。こちらにはもう慣れましたか?」「いいえ、あんまり・・」「のぞみ、何をしている!そいつとは口を利くな!」歳三がそう言って苦笑しているとき、彼の背後から鋭い声が聞こえた。振り向くと、そこには憤怒の形相をした隆俊が立っていた。「お前は在日だそうだな?国籍は何処だ?」「国籍は日本ですが、それがどうかしましたか?」突然見ず知らずの老人に居丈高に詰問され、歳三は不快感をあらわにしながら彼を見た。「嘘を吐け、本当のことを言え!」「お父さん、やめてよみっともない!ごめんなさいね、父が失礼なことを・・」のぞみは慌てて歳三に謝ったが、彼は気にしていないといった様子で首を横に振った。「それでは、もう時間ですので・・」「お気をつけて・・」「のぞみ、あいつとは口を利くなと言っただろうが!」背後で老人の怒声を聞きながら、歳三は内心腸が煮えくり返っていた。突然見ず知らずの老人に怒鳴られ、罵倒された。一体自分が何をしたというのか。やり場のない怒りを抱えながら歳三が出勤すると、上司が自分の席へと向かってくるのが見え、彼は上司に向かって頭を下げた。「おはようございます、課長。」「土方君、この書類三時までに仕上げておいてね。」「解りました。」ソウルではフロント業務を担当していたが、ここでは主にデスクワーク中心で、一日中パソコンを見つめている所為か、歳三は最近目の疲れを感じるようになってきた。あの老人への怒りを、仕事に打ち込むことによって歳三は忘れようとした。 そんな中、娘達の担任から学校に呼び出された歳三と千尋は、そこで驚愕の事実を知った。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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歳三たちは日本で暮らすことになり、彼らはそれまで清子と韓屋で暮らしていたが、日本での新居は所謂団地と呼ばれるところだった。引越しの準備で慌しく、一段落した後に歳三と千尋は近所へと挨拶回りに行った。「初めまして、本日こちらに引っ越してきた土方です。これから何かとご迷惑お掛けしますが、宜しくお願いします。」「ええ、こちらこそ宜しくね。」階下の住人達の元へと挨拶回りすると、大抵の住民達は歳三達を歓迎してくれた。だがー「ここが最後やね。」「ああ。」千尋と歳三は『西田』と表札がかかったドアをノックした。「はぁ~い。」間延びした声が奥から聞こえたかと思うと、ドアが開いて玄関先に一人の主婦が現れた。「初めまして、今日こちらに引っ越してきた土方ですけれど・・」「ああ、土方さん?どうも宜しくね。」主婦はそう言うと、歳三たちの鼻先でドアを閉めた。「うち、何か悪いことしたんやろか?」「気にすんなって。」歳三は千尋をそう励ますと、部屋へと戻った。「来週にはこれを提出しなくちゃならねぇのか・・ああ、頭が痛くなるぜ。」「本当やねぇ。」双子の娘達の小学校入学関連の書類に目を通し、歳三たちは溜息を吐きながらそれらに記入した。「ランドセルはいつ届くって?」「明後日届くってメールが入っとったよ。それよりも二人とも、これから大丈夫やろうか?」「まぁ、それは入学してからでねぇとわからねぇよ。これからお互い色々と忙しくなるな。」「うん・・」 数日後、千尋が注文したランドセルが届き、真新しいランドセルを背負って嬉しそうにはしゃぐ美輝子と薫の写真を、歳三は納めた。『入学式に遅れるぞ。』『うん、わかった!』入学式の朝、真新しいランドセルと可愛いワンピースを着た娘達の手をひきながら、歳三と千尋は小学校の門をくぐった。「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。どうぞ実りある六年間を過ごしてくださいね。」入学式が終わり、美輝子と薫はそれぞれの教室に移動した。『クラスが違うなんて、残念だね。』『大丈夫、遊びに行くから。』美輝子はそう言って妹を励ますと、教室へと入っていった。自分の席を見つけて彼女は腰を下ろして教室中を見渡すと、幼稚園の頃から知り合いらしき数人の児童達が楽しく談笑していた。それもその筈、美輝子以外この教室に居る児童達は家が隣近所で家族ぐるみの付き合いをしているところが多かったのだから。誰も自分に話しかけてこないので、美輝子は先ほど配られた教科書を開いた。もちろんそれは全て日本語で書かれており、今までハングルの教材を使っていた美輝子にとって何が書いてあるのかさっぱりだった。これからどうしようかー美輝子は溜息を吐きながら、国語の教科書を閉じた。薫もまた、不安を抱えながら溜息を吐き、窓の外を眺めていた。 娘達が寝静まるのを待って、歳三達は彼らの持ち物にそれぞれ名前を書いた。「あの子達、大丈夫やろうか?入学式が終わってから様子が変だし・・」「いじめってのは表面化しねぇし、今はネットがあるから陰湿極まりねぇ。千尋、ママ会はいつだ?」「明後日の四時に学校だって。服はどうしようかな?」「そういう細かいところに女は拘るからなぁ。面倒くせぇったらねぇな。」「まぁそういうところを大事にしないと、これからここでやっていけんわ。じゃぁおやすみ。」「ああ、おやすみ。」千尋は夫より一足先に寝室で休んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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「おはよう、歳三さん。」「おはよう。」土方家の朝が、いつものように始まった。「ねぇ、美輝子達は?」「ああ、あいつらならまだ寝てる。」千尋は歳三の言葉を聞くと、表へと飛び出して子ども部屋へと向かった。『美輝子、薫、起きなさい!』『ママ、まだ眠いよぉ~』布団を引き剥がされ、美輝子は眠い目を擦りながら千尋を見た。『いつまでも寝てるんじゃないの!さっさと着替えてご飯食べなさい!』『何よ、ケチ~!』美輝子と薫は文句を言いながら、着替えを済ませて朝食を食べた。 来年の春に小学校入学を控えている二人は、ソウル市内でもハイレベルの幼稚園に通っており、そこでは英語の授業が行われていた。『ねぇママ、パパは今日何時に帰ってくるの?』『今日は早く帰れると思うから、お前達ちゃんと待ってるんだぞ。』『はぁ~い。』千尋が作った朝食を美味そうに頬張る娘達の姿を、歳三は嬉しそうに見ていた。『ねぇパパ、明日の発表会には来てくれる?』『もちろん行くさ。』父娘の会話を聞きながら、歳三は子煩悩なパパになったなと千尋は思った。 娘達が生まれてから、中学時代にヤンキーとしてとがっていた頃の面影は全くなかった。両親の離婚による精神的ショックにより、非行に走り、何度も警察沙汰を起こしたという話を、千尋は恵津子から聞いた。歳三が父親っ子だったということを知り、それ故に父親の所業を未だに許せないのだろう、歳三と隼人との関係は改善する様子は全く見られなかった。「ねぇ歳三さん、隼人さんとのことやけど・・」「あいつとは何も話すことはねぇ。それよりも千尋、後で話があるんだが・・」「話?」千尋がそう言って歳三を見ると、彼は深刻そうな表情を浮かべた。 娘達を幼稚園に送った後、千尋は幼稚園の近くのカフェへと向かい、そこで歳三から日本に戻ることを知らされた。「日本に戻るって・・どういうこと?」「社長から東京のホテルで働いてみないかって言われてな・・お前と話し合ってから決めようと思ってたんだが・・」「わたしは別にいいけど・・子ども達はどうするの?今の友達とも別れたくないだろうし・・それ以前にあの子達、日本語が話せないし。」「そこなんだよなぁ、問題は。」 韓国で生まれ育った美輝子と薫は、当然日本語は全く話せず、家庭内では韓国語を使っている。その所為で日本の学校に馴染めるかどうか、千尋と歳三は不安を抱いていた。「あいつらには後で話しておく。」「うん・・」 その夜、歳三が日本へと引っ越すことを告げると、案の定二人は反対した。『いや、韓国を離れたくない!』『ウギョンと一緒の学校に行く~!』『お父さんの仕事の都合なんだから、我慢なさい。』千尋がどれだけ二人を宥めても、彼らは結局泣き疲れて眠ってしまった。「こんな様子じゃあ、どうなるんだか・・」「ホントやね・・」千尋はそう言って溜息を吐いた。 それからは引越しの準備で色々と忙しく、歳三達は休む暇もなかった。『そうなの、日本に戻ることになったのね?』『ええ。余り乗り気じゃないけど、夫の仕事の都合ですもの、仕方がないわ。』同じ幼稚園のママ友達とお茶をしながら、千尋は彼女達に日本行きを告げた。『あなたが居なくなると寂しいわ。』『わたしも皆さんと会えなくなると寂しいわ。』『日本に行ってもわたし達のこと、忘れないでね。』『ええ。』 歳三達が日本へと戻る日が、刻々と近づいていった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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その女性とは、歳三は面識があった。大学時代、一時期付き合っていたソンヒだった。『ソンヒ、久しぶりだな。一体どうしてここへ?』『父が経営している会社の創立記念パーティーに出席する為に来たのよ。あなたは?』『あぁ、俺はここで働いてんだ。双子の娘達を養わなきゃいけないからな。』『そうなの・・あなた、結婚しているのね。』ソンヒは歳三の左手薬指に嵌められた結婚指輪を見つめながら溜息を吐いた。『また会いましょう、ヨンイル。』『お、おう・・』ソンヒは颯爽とフロントから去っていった。この時、まだ歳三は嵐の中に居ることに気づかずにいた。「ただいま。」「お帰り。どうしたん、浮かない顔して?」「いや・・それよりも薫と美輝子は?」「今寝てるよ。」「そうか。」 歳三が子ども部屋に入ると、娘達は天使のような寝顔を浮かべながら寝ている姿を微笑みながら見ていた。千尋と夫婦となり、娘達が生まれ、歳三はこの幸せな生活があれば金なんて要らないと思った。「お前達の為に、頑張るからな。」そう言って歳三は娘達の頬にキスをすると、子ども部屋から出て行った。 それから8ヶ月が過ぎ、美輝子と薫は1歳の誕生日を迎えた。韓国では満一歳の祝い、トルチャンチを盛大に祝う習慣があり、二人のトルチャンチ会場は歳三の勤務先であるロイヤル・ホテルの格式高い宴会場で開かれた。『今日はおめでとう、チェさん。娘さん達は可愛いわねぇ。』『ありがとうございます、社長。』『この子達を見ていると、別れた孫達を思い出すわ。』スヨンの顔が、少し曇ったのを歳三は見逃さなかった。『お孫さんとは、お会いになっておられないのですか?』『ええ。広い家にはわたしと家政婦さん以外、誰も居ないのよ。だから正直言うと、あなたが羨ましいわ。』スヨンの言葉に、歳三は目を丸くした。 彼女には金や権力、この世を思い通りに出来るものを全て持っている。だがそれだけで生きていくことは、寂しいものなのだろう。『社長、キム会長がお呼びです。』『そう、すぐ行くわ。』スヨンはそう言うと、ソンジュとともに宴会場から出て行った。「さてと、もう帰ろうか。」「そうやね。」娘達を抱きながら、歳三と千尋がパーティー会場から出て行こうとしたとき、ソンヒが二人の前に現れた。『ヨンイル、そちらの方があなたの奥さんかしら?』ソンヒはそう言って千尋を見た。『初めまして、わたしはキム=ソンヒ。あなたの旦那様とは学生時代に付き合っていたの。』『え・・』ソンヒの言葉を聞き、千尋は驚きで目を丸くしながら彼女を見た。『ソンヒ、一体どういうつもりだ?』『あら、いいでしょう?ねぇヨンイル、食事でもしない?』『駄目だ。』ソンヒの脇を通り抜け、歳三は千尋と共にホテルから出て行った。 秋も終わりかける頃、外の空気が急に冷えてきたように千尋は感じた。「また冬が来るね。」「ああ。」歳三は美輝子の頬をそっと撫でると、彼女は目を開けて彼にこう言った。「パ・・パ・・」「千尋、聞いたか?こいつ喋ったぞ?」「美輝子、しゃべったのねぇ。」帰宅するタクシーの中で、歳三は親としての喜びを噛み締めていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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千尋は起き上がろうとしたが、何故か身体が全く動かない。『どちら様ですか?』清子が部屋から出てきて、来客に応対している声が聞こえた。暫く横になって耳を澄ませていると、突然清子の怒鳴り声と、女性の悲鳴が聞こえた。 千尋が慌てて外に出ると、そこでは清子が女性の髪を掴んで罵倒していた。『この人でなしが!うちのチェヨンを何処にやった!』『お祖母さん、一体何があったんです?その人は誰なんですか?』千尋が清子と女性との間に割って入ろうとしたとき、女性が外へと逃げようとした。『逃がすもんか!』鬼のような形相を浮かべながら、清子はそう叫ぶと女性のコートの裾を掴んだ。 数分後、千尋と清子は居間で女性と対峙していた。『それで、あなたはこの家に何のご用で?』『実は、うちの娘がお宅のお子さんを誘拐して・・』女性が口火を切ったとたん、清子は彼女に茶を掛けた。『お前の盗人の娘は何処に居るんだ、さっさと連れて来い!』暴れて怒り狂う清子を必死に千尋は押さえながら、女性の話を聞いた。『それで、娘は・・美輝子は無事なんですか?』『ええ。さっき娘に連絡を入れたんですが、もうじき来る筈かと・・』女性がそう言った時、赤ん坊を抱いた若い女性が家に入ってきた。『ママ・・』『ヨンス、こっちへいらっしゃい!』女性は居間から出て、娘に駆け寄ると、彼女は腕に抱いている赤ん坊―千尋の娘・美輝子の寝顔を見つめていた。『ママ、本当にこの子を返さないといけないの?』『当たり前でしょう!さぁ、わたしと一緒に謝るのよ!』『でも・・』母娘が玄関先で言い争っていると、清子がつかつかと女性の娘・ヨンスに近づくなり、彼女の頬を張った。『この盗人め、よくもうちの孫娘を奪ったな!』完全に頭に血が上った清子は、ヨンスの腕から美輝子を奪い取ると、彼女を罵倒した。『人様の子を奪うなんて、お前は親からどんな教育を受けてきたんだ!いいか、お前をタダではおかないから、覚悟しておけ!』ヨンスは地面にくずおれると、泣き叫んだ。『嘘泣きをしても無駄だ。お前達をあたしは許すわけにはいかないからな!わかったらさっさと出て行け!』『今回のことは大変申し訳ないと思っております。どうか・・』清子は弁解する母娘に向かって冷水を浴びせ、家から追い出した。『チヒロ、あんたの娘が戻ってきたよ。』清子の腕に抱かれた美輝子を見た千尋は、娘が無事であることを確かめると涙を流した。『歳三さんに連絡してきます。』美輝子を抱きながら子ども部屋に入った千尋は歳三の携帯にかけたが、なかなか繋がらなかった。(どうしたんだろう・・) 一方、歳三は夜勤が回ってきて、一日中フロントデスクに立っていた所為なのか、足が疲れてきたので一旦休憩を取ることにした。「もしもし、千尋?」『歳三さん、美輝子が帰ってきたよ。』「それ、本当か?」『うん。今忙しいから帰ってくるのは無理やと思うけど、報告だけしとくね。』「わかった、ありがとう。」歳三が携帯をポケットに入れると、ミジュが休憩室に入ってきた。「どうしたんですか、先輩?嬉しそうですね?」「ああ。美輝子が帰ってきたんだよ。元気だそうだ。」「良かったですね。」「良かったよ、本当に。さっさと仕事を終わらせて家に帰るとするか。」歳三がそう言いながらフロントデスクへと戻ると、一人の女性客がホテルに入ってきた。『いらっしゃいませ。』『あなたが、チェ=ヨンイルさん?』女性はそう言うと、ゆっくりとブランド物のサングラスを取った。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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『仕事中に何処へ行くんだ?』『今日は早退すると、イ主任からお許しを得ました。なのでこれで失礼致します。』歳三がそう言ってソンジュの脇を通り過ぎようとすると、彼は歳三の手を掴んだ。『娘さんが行方不明なのはわかるが、業務に支障がでないようにしてくれ。』『お言葉ですが、上の空でフロントに立っている俺は邪魔でしかありません。それではこれで失礼致します。』ソンジュの手を振り払うと、歳三は更衣室へと向かった。『イ主任、少しお話が。』フロントデスクでイ主任が業務をしていると、ソンジュが彼に話しかけてきた。『お話とはなんでしょうか、副支配人?』『あなたは公私の区別をわきまえられる方だと思ってましたが、今回のことには失望いたしました。部下の私的な事情でその我が儘を通すだなんて・・』『副支配人、わたしは業務に支障が出ないよう、チョさんに早退を許したのです。あなたはホテルの利益を上げることに躍起になっていますが、利益を上げるばかりではホテル本来のものが失われますよ。』そう言ってソンジュを見つめるイ主任の目は険しかった。 イ主任は40年間、このホテルに勤めてきたから様々な人間模様をフロントを通して見てきた。ホテルは元より、仕事は人間が作り上げるものだ。利益をやたらと追求するソンジュのやり方に、彼は真正面から異を唱えた。『君、一体何を言っているのか判っているのか?』『ええ、わかっておりますとも。わたしが今回のことで解雇されるとしたら本望です。』ソンジュは怒りで顔を赤く染めながら、フロントデスクから去っていった。その足で彼は、社長室へと向かった。『社長、宜しいでしょうか?』『入って。』 社長室のドアを開けてソンジュが入ると、スヨンはパソコンから顔を上げた。『チョさんの件で、お話したいことがあるのですが。』『副支配人、あなたはもっと従業員のことを考えないとね。』そう言ったスヨンの目は、険しかった。『社長もチョさんの肩を持つんですか?』『肩を持つ、持たないの前ではなくて、もっと人の気持ちを慮ったらどうなのかと言っているの。あなたは利益ばかり追求するけれど、それだけではホテルは成り立たないのよ。』『失礼します。』社長室を後にしたソンジェは、舌打ちしながら廊下を歩いていた。何故みな歳三の肩を持つのか―ソンジェはエリートの自分ではなく経営も接客も素人の歳三ばかりをイ主任や社長が気に入っているのかが解らなかった。 ソンジェは裕福な家庭で育ち、何不自由ない暮らしを幼少時から送ってきた。その所為なのか、他人が自分に傅くのは当たり前だと思い、家事や自分の身の回りの世話をしてくれる家政婦や、勉強を教えてくれる家庭教師に感謝の念など抱いたことは一度もなかった。その傲慢さは成人しても変わらなかった。『いつか痛い目に遭わせてやる、チェ=ヨンイル・・』ソンジェは口端を歪めて笑った。 一方調理場では、ミジュが歳三の身を案じていた。『ねぇミジュ、ヨンイルさんとはどんな関係なの?』『どんな関係って、ただの大学時代の先輩と後輩よ。』同僚の詮索に淡々と応じながら、ミジュは作業を進めた。『本当に?あやしいわねぇ?』『そこ、何話してる!さっさと仕事しろ!』料理長に怒鳴られ、同僚は溜息をつきながら自分の持ち場へと戻っていった。(詮索好きな人は何処にでも居るのね・・) 千尋は病院から帰った後、自室で横になって休んでいた。そろそろ夕飯の支度をしようかと思っていたとき、玄関の扉が誰かに激しく叩かれた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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翌日、ミジュが出勤すると、歳三が暗い顔をしてロビーのほうへと歩いているのを見かけて彼女は声を掛けた。「先輩、どうしたんですか?」「ミジュ、おはよう。ちょっといいか?」「いいですよ、まだ時間ありますし。」 休憩室でミジュは、歳三の娘・美輝子が行方不明になったことを知った。「警察には通報したし、警察署で捜索届も出した。でも全然向こうから連絡がないんだ。」歳三はそう言って煙草を口に咥え、火をつけた。目の下には黒い隈が縁取り、碌に睡眠を取っていないように見えた。「これからどうするんですか?」「さぁな、警察から連絡が来るのを待つしかねぇよ。」「ネットで娘さんの写真を載せて情報を集めたらどうですか?事件が起きない限り、警察は簡単に動かないと思いますよ?」「そうだなぁ・・でも俺が持っているパソコン、ハングルには対応してねぇんだ。それに勉強して少しは読めるようになったけど・・」「それならわたしに任せてくださいよ、先輩。ジャーナリストを目指していた大学時代の経験がありますから。」「ありがとう、ミジュ。」「先輩、奥さんのほうは大丈夫なんですか?」「いや・・」 長女・美輝子が突然居なくなり、千尋は半狂乱になって彼女を何時間も捜し歩いた。長女が居なくなって数日経ち、その間千尋は警察署に何度も来ては長女を探すように警官に訴えていた。『どうして娘を捜してくれないんです?今この瞬間にも娘は死んでいるのかもしれないんですよ!?』千尋がそう警官に食って掛かると、彼は溜息を吐いてこう言った。『奥さん、お気持ちはわかりますが、今は慎重に動くしかないんです。』『そんな・・』 絶望に包まれながら、千尋は警察署から出た。『また警察署に行ってたのかい?』千尋が帰宅すると、清子がそう言ってキッチンから顔を出した。『ええ、でもいつも同じ答えしか返ってきませんでした。』『そうかい・・』子ども部屋から薫の泣き声が聞こえ、千尋は彼女に母乳を与えようとしたが、その時異変に気づいた。 いつも溢れ出ては余るほどの母乳が、今日に限って一滴も出てこないのだ。それでも薫の口に乳首を吸わせようとした千尋だったが、彼女は泣くばかりで乳首を吸おうともしなかった。『どうしたんだい?』『おっぱいが出ないんです。』泣きじゃくる我が子を抱き締めながら、千尋はそう言って溜息を吐いた。『一緒に病院に行こう。ヨンイルにはあたしが連絡するから。』 清子に連れられ近所の産婦人科に向かった千尋は、母乳が出ないのはストレスが原因だと医師から告げられた。『暫く様子を見ましょう。』『大丈夫、あの子は生きてるよ。』『そうですよね・・』 休憩時間が終わりかけの頃、歳三は清子から千尋の母乳がストレスで出なくなったと連絡を受けた。『そうか・・わかった・・』携帯を閉じた歳三は、溜息を吐いて椅子に座った。今すぐにでも家に飛んで帰りたい気持ちを抑えて、歳三はフロントへと戻っていった。 今日は二組のカップルの結婚式があるので、彼らの親族が集まり、フロント前は大変混雑していた。歳三は慣れた手つきでフロント業務を次々とこなしながら、妻のことが気になって仕方がなかった。『チェさん、今日は早く上がりなさい。後はわたし達だけで大丈夫だから。』『すいません・・』歳三がイ主任に頭を下げてフロントを後にすると、ソンジュが彼の前に立ちはだかった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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『もうすぐ双子の100日祝いをしないとね。』『ええ、そうですね。でも全然準備していなくて・・』千尋はそう言って清子と話しながら夕飯を作っていると、外で誰かが扉を叩く音が聞こえた。『わたしが出ます。』千尋は手をさっと水で洗うと、サンダルを履いて外へと出た。『今開けます。』扉の閂を開けた千尋は、そこで一人の男性が立っていることに気づいた。『あの、どちらさまですか?』千尋が声を掛けると、男性はくるりと千尋の方へと振り向いた。『すいません、わたしはハン=ソンジュと申します。ヒジカタトシゾウさんの奥様でいらっしゃいますか?』『ええ、そうですが。それが何か?』『実はご主人の勤務態度のことで、少しお話ししたいことがございまして・・今、宜しいでしょうか?』千尋がソンジュにどう答えようか考えていると、子ども部屋から娘達の泣き声が聞こえた。『すいません、今ちょっと手が離せないものでして。失礼します。』『いえ、こちらこそ。またの機会に伺います。』ソンジュは千尋に頭を下げ、元来た道を戻っていった。『じゃぁ先輩、また明日。』『あぁ、またな。』 バス停の前でミジュを別れた歳三は、自宅へと向かっていった。その途中で、ソンジュが坂道を下りてくるところを見た。『随分と仲が良いんだな?』『あんたには関係ねぇだろう、他人のあら探しが趣味なのか、エリートさんよ?』歳三の言葉に、ソンジュの顔が怒りで赤くなったが、歳三はそんな彼を無視して自宅へと向かった。「ただいま。」「お帰り。さっき副支配人が来たけど、どうしたと?」「何もねぇよ。それよりも娘達は?」「ぐっすり眠っとうよ。お祖母ちゃんが100日祝いをどうするのかって聞いてきたんよ。」「もうそんな時期か・・お宮参りする前にこっちに来ちゃったからなぁ。今から準備するのは大変だよなぁ。」「お祖母ちゃんが写真館を予約しとるって言っとったよ。」「そうか。」歳三はそう言うと、双子達の寝顔を見つめた。「なぁ千尋、俺は仕事が忙しくて家に帰るのが遅くなるから、お前のことが心配だ。」ホテルのフロントスタッフは想像以上に激務で、中には理不尽な要求をするクレーマーも居る。そのクレーム処理でしばしば出勤時間が延びてしまうことがあり、漸く終わった頃には全身の筋肉が悲鳴を上げていた。「うちのことは心配せんでよか。それよりもシャワー浴びてきたら?ご飯にするけん。」「ああ、わかった。」歳三は子ども部屋から出て、浴室に入った。凝り固まった筋肉に温水シャワーを浴びると、リラックスしたような気がした。『ヨンイル、大変だよ!』『どうしたんだ、祖母ちゃん?』浴室から出た歳三は、血相を変えて自分の方へと駆け寄ってきた清子を見た。『チェヨンが・・美輝子が居なくなったんだ!』『何だって!?』『あたしと千尋ちゃんが夕飯の支度をしにチッキンに籠もってるときに、子ども部屋のドアがいつの間にか開いてて・・あの子が居なくなってたんだよ!』『警察にすぐ通報しろ!まだ近くに居るはずだ!』 美輝子を探しに、歳三たちは手分けして近所を探したが、誰も彼女の姿を見た者はいなかった。 まだ冬の寒さが厳しいこの時期に、生後2ヶ月半の赤ん坊が外に放置されたらどうなるか。 歳三は最悪の事態が何度も頭の中を過ぎった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年08月04日
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(あ~、疲れた。) 勤務初日は何のトラブルもなく無事に終わり、歳三は更衣室で凝った肩を回しながら溜息を吐いた。「先輩、お疲れ様です。」「お疲れ。これから帰るのか?」「ええ。長時間の立ち仕事は疲れますね。」「ああ。家帰って風呂に入りたいぜ。」歳三はホテルの前でミジュと別れると、タクシーに乗って帰った。「お帰り。どうやった、初日は?」「まぁまぁだな、風呂に入ってくる。」「そう。」歳三が浴室へと入るのを見送ると、千尋は彼が脱いだシャツを洗濯籠に入れた。『ヨンイルは帰ったのかい?』『ええ、疲れたとかでお風呂に入っています。』『そうかい。初日だから疲れたんだろうさ。』清子はそう言って千尋を見た。「トシ兄ちゃん、お仕事お疲れ様。」「おお、ありがとよ。」歳三はそう言うと、千尋に笑った。「フロントの仕事はどうやった?」「まだ慣れねぇな。ああ、ミジュも同じホテルに就職してたぜ。とはいっても、あっちは調理師だからな。」「そう。スタッフの方はどうやった?」「主任のイ先輩は厳しいが、公平な方なんだ。彼の下で色々と仕事を覚えないとな。」「そうなん。これからが頑張り時やね。」「あぁ。」「千尋、こっちでの生活は慣れたか?」「まだ慣れないかな。でも住めば都っていうけんね。」「そうだな。お休み、千尋。」 ホテルで歳三が働き始めてから一週間が過ぎ、漸く仕事も慣れ始めてきた。そんな中、歳三はフロントスタッフのハン=ソンジュに声を掛けられた。『チェさん、少し話しませんか?』『ええ・・』ソンジュに屋上へと呼び出された歳三は彼が自分に何の用だろうかと思いながら屋上へと向かった。『お話とはなんでしょうか?』『チェさん、あなた本当の名前はヒジカタトシゾウっていうんでしょう?』『どうしてそんな事をあなたが知っているんですか、ハンさん?』『どうしてって・・事務室であなたの履歴書を見たんですよ。社長じきじきにスカウトされたからといって、素性不明な人間じゃないことを確かめないと気が済まないんです、僕は。』そう言うとソンジュは歳三の肩を軽く叩いた。『まぁ、イ主任は公私を区別なさる方ですからね。でも僕は違いますから。』『ふん、言ってくれるじゃねぇか。』歳三はソンジュの言葉を鼻で笑うと、屋上を後にした。 初日から慣れない接客業で緊張の連続だった歳三が唯一安らげるのは、休憩時間にミジュとコーヒーを飲む時だった。「お前、ハン=ソンジュのこと何か知ってるか?」「ええ。何でも、コロンビア大卒だそうですよ。」「へぇ、だからあんなに偉そうなんだな。」「まぁイ主任はハン先輩に手を焼いているそうです。エリートでプライドが高いからなのかなぁ・・」「一概には言えねぇだろう。」歳三がそう言ってコーヒーを飲んで腕時計を見ると、もうすぐランチタイムが終わりそうだった。「じゃぁな、ミジュ。」「先輩、ファイト!」「おう。」ミジュと歳三のそんな遣り取りを、ソンジュは遠巻きに眺めていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『それにしても、ホテルに就職することは決めたのかい?』『ええ。明日にでも社長に返事をしてきます。』『そうかい。暫く忙しくなるね。』清子はそう言って茶を飲んでいると、隼人が家に入ってきた。『お母さん、ただいま帰りました。』『お帰り。』隼人が頻繁に清子の家を訪ねてくることを、歳三は不審に思い始めていた。香苗と二人の子ども達の元に帰らなくてもよいのか―歳三はそう思いながらも、隼人を見た。「親父、最近ここに入り浸ってるようじゃねぇか?あの人の元には帰らなくてもいいのか?」「ああ、そのことだが、離婚したんだよ、彼女とは。」「そうか。」「子ども達の親権は彼女が取ってね、養育費は要らないから別れてくれとだけ言われた。」自分達を捨て、香苗と不倫した挙句、その結婚まで駄目になってしまうとは。隼人はよほど結婚運がないらしい。「恵津子はどうしている?」「お袋ならぴんぴんしてるさ。ま、あんたには関係のないことだけどな。」「そうか・・女っていうのは、逞しいもんだな。それに比べて男は感傷を引きずるものだ。」「よく言うぜ。」歳三はそう言うと、缶ビールのプルタブを開けた。「これからホテルで働くことになるんだって?大変そうだな。」「まぁ、接客業に突いては素人だからな。生まれ変わるつもりでがんばるさ。」この国で生きてゆこうと心に決めた歳三は、ビールを美味そうに飲んだ。 翌日、歳三はロイヤル・ホテルを訪れ、スヨンにホテルで働くことを話した。「そう・・あなたならそうすると思ったわ。これから宜しくね、ヨンイルさん。」「宜しくお願いします、社長。」歳三がそう言って頭を下げると、スヨンは彼に微笑んだ。『ねぇ、聞いた?今日から新しい人が入ってくるんだって?』『噂だと、社長じきじきにスカウトしたらしいわよ!』『どんな優秀な人なのかしら、今から楽しみだわ!』朝礼時間となったホテルでは、今日から新しく入ってくるスタッフの事で皆噂していた。『皆さん、今日から皆さんと一緒に働くことになったチェ=ヨンイルさんです。』『チェ=ヨンイルです、宜しくお願いします。』歳三がそう言ってスタッフ達に挨拶すると、女性スタッフ達は嬉しそうな顔をしていた。『じゃぁヨンイルさん、今日からフロント業務について頂戴。仕事は主任のイさんから教わって。』『解りました。』フロントスタッフの主任・イ=ジョンシクは、厳しそうだが親切そうな男だった。『接客業の経験はないと聞いたよ。一から接客業を学ぶには、フロントが一番だ。お客様と一番接する場所だからね。』『はい・・』『そう固くならなくてもいいよ。誰でもはじめは素人だからね。』ジョンシクはそう言うと、歳三ににっこりと笑った。彼にフロント業務を教わりながら、ランチタイムを迎えた歳三は溜息を吐きながら煙草を吸った。(慣れねぇな、接客業ってのは・・)「あ~、疲れたなぁ・・」歳三が吸い終わった煙草を吸殻に揉み消すと、壁にもたれかかった。「大変そうですね、先輩。」「ミジュ、どうしてここに?」「わたしもこのホテルに就職したんです。といっても、調理部の方ですが。」調理師の制服を着たミジュは、そう言って歳三に微笑んだ。「そうか。俺はフロントの方だよ。」「色々と忙しいので、これからお互いがんばりましょうね。」「ああ。」ホテルでミジュと再会し、歳三は少し疲れが吹き飛んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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彼女が経営するロイヤル・ホテルは、韓国で五指に入るほどの名門ホテルであったのだが、その経営が大きく傾いたのはあのリーマンショック後だった。 スヨンは何とか経営を立て直したものの、彼女が資金繰りに奔走している間に長男・ヨンナムが地方のホテルへと移り、その際ソウル本社のスタッフを引き抜いてしまい、その所為で深刻な人手不足となってしまったのだという。『そうですか、そんな事が・・息子さんとは連絡を?』『取ってはいないわ。今にして思えば、わたしはあの子の事を甘やかしてしまったのかもしれない。母子家庭で、離婚してしまって寂しい思いをさせてしまたっという負い目を感じていたからね。』スヨンはそう言って溜息を吐くと、柚子茶を飲んだ。『どう、ヨンイルさん。うちのホテルで働いてみない?』『急にそのようなことをおっしゃられても・・わたしは何の資格もありませんし、接客業は全くの素人です。却って皆さんのご迷惑になるのでは?』『誰だってはじめは素人よ。わたしだってホテルの経営を学んでいる時は右も左もわからなかった。ロイヤル・ホテルを大きく育てたのはひとえにわたしが努力したから。ヨンイルさん、すぐにとは言わないわ。あなたのような優秀な人材をわたしは欲しているのよ。』歳三はスヨンの言葉に感銘を受けながらも、自分がホテルマンとして働けるかどうか不安を抱いていた。『暫くの間、考える時間をくださいませんか?』『そう。じゃぁ一週間後、またこちらに伺うわ。その時はあなたの返事を待っているわ。』スヨンはそう言って立ち上がると、意志の強い瞳で歳三を見た。『お忙しい中、わざわざ来ていただきありがとうございました。』『あなたに会えて嬉しかったわ、ヨンイルさん。次はホテルで会いましょう。』スヨンが差し出した右手を握った歳三は、玄関先で彼女を見送った。「トシ兄ちゃん、今の話受けると?」家の中に戻ると、千尋がそう言って歳三を見た。「あぁ、受けようかと思ってる。だが俺がホテルマンなんて務まるかな?」「トシ兄ちゃんなら大丈夫よ、自信持って。」千尋は迷う夫の背中を押した。四日間の日程を終え、千尋と歳三は一旦日本に帰国することになった。「そうですか・・韓国で暮らすことになったんですか。そりゃぁ、急なお話ですねぇ。」「申し訳ありません、まだこちらに来て日が浅いのに。」歳三がそう言って頭を下げると、校長は渋い顔をしていた。「ま、もう決まったことなんだから仕方ないでしょうね。こっちは新しい先生を探しますから。」校長はもう歳三と関わりたくないといった口調でそう言うと茶を飲んだ。「どうやったと?」「あっさりと韓国行きを許してくれたよ。あの校長は初めから反りが合わなかったけど、まぁこれで良かったかな。」ベランダで煙草を吸いながら、歳三はそう呟くと溜息を吐いた。「これからやねぇ、韓国で暮らすことになるのは。」「ああ。お前にはまた苦労させるな、千尋。」「何言うとうと。うちはいつでもトシ兄ちゃんの味方やから。」千尋はそう言うと、歳三に抱きついた。 引越しの準備はあっという間に終わり、マンションの部屋を引き払った後、千尋は美津子に挨拶に行った。「そう、気をつけてね。」「うん。美津子さんも、元気な赤ちゃん産んでね。」「ありがとう。」美津子と別れ、千尋がエントランスへと向かうと、そこにはベビーカーを押していた歳三が待っていた。「そろそろ行くか?」「うん。」 こうして二人は日本を離れ、韓国で暮らすこととなった。『お帰り、待ってたよ。長旅で疲れただろう?お風呂沸いてるから入りな。』『はい。』 再び清子の家を訪れた二人に、彼女は温かい風呂とご馳走を用意して待っていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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(馬鹿だなぁ、わたし・・勝手に先輩の奥さんに嫉妬しちゃって。) バスを待ちながら、ミジュはそう思いながら自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。歳三本人の前で、結婚したかったと告白するなんて無駄なことなのに。もう彼は自分のものでもないのだから、そんな事を言ったって彼が動揺するだけなのに。そんな事を解っていたのに、何故か口に突いて出てしまった。ミジュが溜息を吐くと、丁度バスがやって来た。空いている席へと座ると、突然爪先が痛くなった。なんだろうと思い、彼女がパンプスを脱ぐと、爪先が血で真っ赤になっていた。朝から休む暇もなく慣れないパンプスで歩き回っていた所為だろうか、ふくらはぎも筋肉痛で痛かった。 家に帰ったらまず先に風呂で足のマッサージをしなければ―ミジュはそう思いながら外の景色を眺めていた。『ミジュはもう帰ったのかい?』『あぁ。それよりも来週、一旦日本に戻ります。引越しの手続きとかをしなくてはならないので。』『そうかい。色々と忙しくなるね。』『すぐ戻ってきますから。おやすみなさい。』歳三はそう言って夫婦の寝室へと入ると、先に千尋が布団で休んでいた。彼女は清子から家事や法事の準備など、色々と仕込まれて疲れてしまったのか、歳三が寝室に入っても起きる気配が全くなかった。彼は溜息を吐いて、千尋の隣に布団を敷いて寝た。 翌朝早く、彼は外でけたたましく鳴る車のクラクションで目を覚ました。『お祖母さん、誰か来たんですか?』『さぁね。それよりもヨンイル、朝食が出来ているからチヒロを起こしておいで。』清子は少し曲がった腰を叩きながらキッチンへと向かった。 一体こんな朝早くから誰だろうと、歳三が扉を開けると、そこにはあのボランティアの青年が立っていた。『どうしたんですか、こんな朝早くに?』『いえ、実は・・』青年が何かを言おうと口を開いたとき、車のドアが開いて1人の女性が降りてきた。『あなたが、チェ=ヨンイルさん?』『はい、そうですが、あなたは?』歳三は女性とは何処かで会ったような気がした。『初めまして。わたしはチェ=スヨン。以前ホテルをご利用なさったでしょう?』『あぁ、あの時の・・たいしたお礼も出来ずに申し訳ないです。』歳三がそう言って女性に頭を下げると、彼女は首を横に振った。『いえ、いいのよ。それよりも今お時間あるかしら?』『はい。あの、朝食はお済みでしょうか?』『いいえ。そうね、出来ればご家族と一緒にお話を聞いて貰いたいの。』『そうですか、ではこちらへ。』歳三はそう言ってチェ=スヨンを家の中へと案内した。『ヨンイル、この方は?』『この前ホテルでトラブルに遭った時助けてくださった方だよ。』『まぁ、そうかい。少しお待ちくださいね。』清子はスヨンににっこりと笑うと、キッチンへと引っ込んでいった。 数分後、千尋と歳三はスヨンと食卓を囲みながら、彼女の話を聞いていた。『突然で悪いんだけれど、うちのスタッフが家庭の事情で辞めてしまってね。あなたさえ良ければうちのホテルで働いてくれないかしら?』『あなたの、ホテルでですか?』『ええ。』突然振って湧いたような話に、歳三は驚いていた。彼がふと隣に座っている千尋を見ると、彼女も目を丸くしていた。『あの・・それは一体どういうことなのでしょうか?わたし達にわかるように説明していただけないでしょうか。』『実はね、今うちのホテルは人手不足でね。というのも、うちの息子がホテルを辞める際、スタッフを大量に引き抜いていってしまった所為なのよ。』 スヨンはそう言うと、ホテルの苦しい経営状況を話し始めた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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「ただいま。」「お帰りなさい。あら、お客様?」歳三がミジュを連れて祖母の家に入ると、千尋がそう言って彼女を見た。「こいつは大学の後輩のミジュだ。ミジュ、紹介するよ。俺の妻の、千尋だ。」「初めまして。」ミジュはそう日本語で挨拶すると、千尋に頭を下げた。「へぇ、ミジュさん今就活中なの。」「えぇ、でも状況はあまり芳しくないです。大卒で資格を取っていても、恩だからっていう理由で内定がひとつも取れません。」ビール片手に愚痴を吐いたミジュは、チャプチェを頬張った。「そう・・」「それと比べて兄は引く手あまたで、母は何かとわたしと兄を比べるんです。何だか女に生まれてきたのが損だなぁって思うんです。」「そんな事はないと思うわよ?男なんか、奥さんが居ないと洗濯物も満足にたためやしない人だって居るんだから。その点、うちの旦那は良く家事や育児をしてくれてるわ。」「え、千尋さんお子さんいらっしゃるんですか?」「ええ。3ヶ月前に双子を出産したばかりなの。色々と大変だけれど、旦那が協力してくれるから助かるわ。」「先輩なら、良いパパになれそうだって、サークル内で噂してましたよ。ねぇ先輩?」「そういうこともあったな。ミジュ、お前あれからテニスはやってるのか?」「全然してません。就職活動に忙しくてラケット握る時間がないんです。」「そうか。もうすぐ旧正月だが、お前実家に帰るのか?」「どうしようか考え中です。帰ったら見合いしろとか言われそうだし。先輩は?」「あぁ、実はこっちで暮らすことになったんだ。暫く娘達の幼稚園探しとかで色々と忙しくなりそうだよ。」「そうですか。先輩はいいなぁ、こんなに綺麗な奥さんと可愛いお子さん達に囲まれて。それに比べてわたしなんか彼氏が居ないんだもの・・」「まぁそんなに焦ることないわよ。ミジュさんはいくつなの?」「23です。周りの友人達はもう結婚してるんです。千尋さんは?」「う~ん、高校卒業して2年しか経ってないから・・20歳かな。」「双子のママに見えませんねぇ。」「そうかしら、最近寝不足気味で肌荒れしてるのよ。」千尋は同年代のミジュと意気投合したのか、彼女と雑談して盛り上がっていた。『ミジュ、以前は暗い子だったのに明るくなったね。』『ええ、俺も驚きましたよ。』歳三はそう言って大学時代、キャンパス内でどこか浮いていた存在のミジュを思い出した。成績優秀だった彼女だが、余り人付き合いが得意ではなく、講義の時やランチタイムの時など、歳三が覚えている限り、彼女はいつも独りだった。サークル内では仲の良い友人同士で盛り上がってはいたものの、余り派手で目立つタイプではなかった。だが今の彼女は、まるで人が変わったかのように明るくなったし、昔のように溜息を吐くこともなくなった。「じゃぁ、わたしはこれで。ご馳走様でした。」夕食後、ミジュはそう言って立ち上がると、千尋達に頭を下げた。「千尋、彼女をバス停まで送っていく。」「そう、気をつけてくださいね。」千尋はにっこりと歳三に微笑むと、洗い物をしにキッチンへと向かった。「すいません、送って貰っちゃって・・」「いいんだよ。就職活動がんばれよ、ミジュ。」「ありがとうございます、先輩。」そう言ったミジュは、何処か泣きそうな顔をしていた。「どうした?」「とことんついてないですね、わたし。もう少し先輩と会っていたら、先輩と結婚できてたのに。」ミジュは無理に笑ったが、頬が引きつってしまった。「ミジュ?」「ごめんなさい・・」ミジュはそう言うと、歳三に背を向けてバス停へと走り去っていった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『疲れたろう。』『ええ。それにしても外は寒いのに、中は暖かいですね。』『まぁ、オンドル(床暖房)が敷いてあるからね。風邪ひかないように柚子茶でもお飲みよ。』『ではお言葉に甘えて、いただきます。』清子が淹れてくれた柚子茶を、千尋は一口飲むと身体が温まった。『もうキムチは大体漬け終わったから、後はゆっくり休んだほうがいいね。じゃぁあたしは部屋で休んでるから、何かあったら呼んどくれ。』清子はそう言って立ち上がると、自分の部屋へと向かった。 千尋は柚子茶を飲みながら、テレビをつけた。丁度ドラマの時間帯だったらしく、何かの連続ドラマが放送されていた。暫く千尋がドラマを観ていると、誰かが戸を叩く音が聞こえ、彼女は部屋から出て外へと向かった。『どなた?』『こんにちは。おばさんは居ますか?』玄関の扉を開けた千尋の前に立っていたのは、大学生と思しき青年だった。『あの、あなたは?』『あぁ、すいません。俺はユン=ギョランっていいます。大学のボランティアサークルで一人暮らしのお年寄りにお弁当を届けています。』『そうですか、少々お待ち下さい。』千尋はそう言うと、家の中へと入った。『どうしたんだい?』『すいません、外にユン=ギョランという方がお見えです。』『そうかい。じゃぁ行ってくるよ。』清子はそう言って部屋から出て行った。千尋が飲み終わった湯?みを洗っていると、歳三からの着信があった。「もしもし、トシ兄ちゃん?」『千尋、今何処だ?』「お祖母様の家よ。トシ兄ちゃんは今何しとうと?」『今から会社の面接を受けるんだ。』「そう・・頑張ってね。」『終わり次第、そっちに行くからな。』歳三との通話を終えた千尋がキッチンで水を飲んでいると、清子が入ってきた。『誰からだったんだい?』『歳三さんからです。今から面接を受けるって。終わり次第、こちらに来られるそうです。』『そうかい。丁度弁当が届いたから、昼にしようか。』『ええ・・』弁当は豪華なものだった。『これからは長く付き合っていくんだから、お互いに妥協しなきゃいけないときがあるよ。ヨンイルは、あんたのことを愛している。』『そうですね。』千尋はそう言うと、ナムルを食べた。 一方、面接を終えた歳三は寒さに身を震わせながら清子の家へとバスで向かっていた。大学時代、こうして毎日バスに乗っていたなと思いながら、歳三は外の景色を眺めた。すると、次のバス停で1人の女性が乗ってきて、歳三の方へとやって来た。『先輩、お久しぶりです。』窓から視線をふと外すと、1人の女性が自分に微笑んでいた。(誰だ?)『あの、どちら様ですか?』『イ=ミジュです。先輩の1年後輩の。』その名には記憶があった。確か大学時代、所属していたテニスサークルでやたら熱心だった後輩が居た。『ミジュか、久しぶりだな。今日はどうして?』『就職の面接の帰りです。先輩もですか?』『ああ。これから祖母の家に向かうところなんだ。もしよければ、君も来るかい?』『いいんですか?』(そろそろ帰ってくる頃かな・・)千尋がそう思っていると、外から扉が開く音がした。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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韓国で暮らすと歳三は決めたものの、今すぐという訳にはいかなかった。仕事のこともあるし、何よりも千尋達と住む家を探さなければならなかった。「家はわたし名義のマンションがあるから、そこに住めばいい。セキュリティ対策も万全だからな。一度見に行ってみるか?」「わかったよ。」 訪韓3日目は、隼人名義のマンションの下見と、周辺の生活情報を収集することで費やされた。マンションの立地は地下鉄の駅に近く、歩いて5分ともかからないところに大型スーパーや児童館などがあり、好条件だった。「どうする?他に候補があるなら、そこも見てみないか?」「あぁ、そうだな。」千尋と共に歳三は、他に住みたいと思っていたマンションの下見をしたが、どれも余り条件が良くなかった。「どうする?お義父さんのマンションに決める?」「あぁ。あんなに良い条件のマンションはどんなに探してもないからな。」 こうして、新居はすぐに決まった。「トシ、住むところが決まったのはいいが、子ども達のことはどうするんだ?幼稚園はもう探したのか?」「まだだ。娘達はまだ生後3ヶ月だから、気楽に探すよ。」「甘いな。ここの地区の幼稚園探しは早めにしないと入園が決まらないぞ。」「ふぅん、そうなのか・・でも探そうたって、どう探せばいいんだ?」「出来るだけスクールバスで送迎してくれるようなところがいい。それに英語教育がある所だ。」「英語教育だって?冗談言うなよ、親父。あいつら英語どころか日本語も喋る時期じゃねぇんだぜ?」「この国では、小学生でも語学留学するのが当たり前なんだ、トシ。そのための準備だよ。それに、生まれてすぐに予約をしないとなかなか良い条件の幼稚園には入れない。遅れを取ったら終わりだ。」「ったく、気が抜けねぇよ・・」歳三は韓国で生活するにおいて、早めに行動することが大事だと思い知らされた。「取り敢えず、この書類に一旦目を通して、契約書にサインをしてくれ。」「ああ、わかった・・」歳三は隼人から渡された書類に目を通したが、ハングルで書かれていて全く読めなかった。「なんだよ、これ?日本語の書類はないのか?」「トシ、今からでも遅くないから、韓国語を学べ。お前や千尋ちゃんは韓国語を話せることは出来るが、読み書きが出来ないとなると色々と不便だ。」「なんだか気が遠くなりそうだぜ・・」「そうだ、これだけは言っておかないとな。今の時期のソウルは寒いから、体調管理に気をつけること。」隼人からのアドバイスを歳三はメモを取りながら、千尋と娘達の教育について話し合った。「観光ならいいけど、実際暮らすとなると大変なんやね。」「ああ。でも乗り越えないといけない試練なんだそうだ。」「一度決めたことやから、途中で投げ出すことはできんしね。一緒にがんばろう。」「ああ。」歳三は千尋を抱き締めると、少し勇気が湧いた。『そうかい、ヨンイル達がここで暮らすことになったのかい。』『ええ。でも二人にはまだまだ慣れないことが多いでしょう。お母さん、千尋ちゃんに法事のことを色々と教えてやってくださいね。』『わかってるよ。あの子は娘同然だからね。退院次第、家事を仕込んでやるともさ。』清子はそう言って屈託のない笑顔を浮かべた。数日後、退院した清子は早速千尋にキムチの漬け方を教えた。『白菜はよく洗って、中が黒くなっていないか見るんだ。漬けるときはちゃんとゴム手袋をつけな。決して目を擦るんじゃないよ。』『はい、わかりましたお祖母様。』『まだまだ解らないことが多いだろうけれど、慣れれば大丈夫だ。』 清子に教わりながら、千尋はキムチを漬け、終わる頃には額に汗が滲んでいた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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“肌荒れしたせいで今日の予定がキャンセルになったから金を払え”という女性グループの理不尽すぎる要求を、千尋は呑むわけにはいかなかった。「お言葉ですが、昨夜は何時にお休みになられたのですか?」「昨夜は遅くまで飲んでたわ。それがあんたに関係あるっていうの?」「確かにうちの子の夜泣きで、皆さんにご迷惑をお掛けしたと思いますが、お金を払うつもりは全くありません。」千尋がそう言って女性達を見ると、リーダー格と思しき女は般若のような形相を浮かべると、彼女の胸倉を掴んだ。「何なのその態度、人に迷惑掛けておきながら反省が全く見られないわ!少しばかり痛い目を見ないとわからないようね!」そう女性が千尋を怒鳴りつけて手を振り上げようとした時、レストランに1人の女性が入ってきた。「お客様、何かございましたか?」千尋が振り向くと、そこにはシックなパンツスーツを着こなした中年女性が立っていた。身なりからして、このホテルの社長らしい。「どうもこうもないわ、あたし達はあの女の餓鬼の所為で肌荒れしたんだから、この女が金を払って当然なのよ!」リーダー格の女が一方的に女性に対して苦情を捲くし立てると、彼女は黙ってそれを聞いていた。「お話はよくわかりました。」女性の言葉に、リーダー格の女性は一瞬勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。だが―「お客様のお荷物は既にロビーに届いておりますので、すぐさまチェックアウトされますよう、お願い申し上げます。」「なんですって!?」リーダー格の女性は怒りで白目を剥かんばかりに女性を睨みつけた。「あんた、客商売を舐めてるの!?」「舐めてなどおりませんわ。ただ当ホテルと致しましては、あなた方のような品性下劣な人にご利用して欲しくないとはっきりと申し上げているのです。」怒り狂うリーダー格の女性を前に、彼女は毅然とした態度でそう言った。「いくらなんでも、あんまりじゃないの~?」別のテーブルで女性客がわざとらしく大声でそう言うと、周囲の客達が賛同の声を上げた。「子どもの夜泣きで一番疲れてるのは母親なのにさぁ、本人が謝ってるのにお金集るなんてサイテー。」「美人なのにやることはチンピラ並みじゃん。」非難の声を一斉に浴びせられ、女性達は怒りで顔を赤くしながらレストランから出て行った。「ありがとうございます、助けてくださって・・」「今回は災難でしたね。お客様は引き続き当ホテルをご利用ください。」千尋に笑顔を向けた女性は、颯爽とレストランから出て行った。「千尋、大丈夫だったか!?」女性が去った後、歳三が血相を変えてテーブルに戻ってきた。「うん、もう大丈夫。あの女の人が助けてくれた。」「そうか。朝から嫌な思いしちまったから、今日は楽しい思い出作りしような!」歳三はそう言うと、千尋に微笑んだ。 韓国滞在2日目、歳三と千尋は観光名所を巡ったりして楽しい思い出を作った。「千尋、これからどうする?」「どうするって?」「このまま日本に帰るか、韓国で暮らすか・・お前はどうしたい?」「トシ兄ちゃんはどうしたいと?お祖母さんと一緒に暮らしたいと?」千尋の言葉を聞いて歳三は暫く考え込んだ後、こう彼女に言った。「出来ることなら、俺はここで暮らしたいんだ。お前達と一緒に。」そう言った歳三の瞳は、真剣そのものだった。「・・そうか、ここで暮らすことを決めたのか。」「ああ。」千尋達をホテルに残し、歳三は屋台で隼人と飲んでいた。「何だかわたしがお前にそうさせたのかもしれないと思ってしまうよ、トシ。」「俺が選んだんだ。千尋も解ってくれているさ。」歳三はそう言うと、焼酎を一口飲んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『お加減はいかがですか?』『少しよくなったよ。それよりもヨンイル、これからはこっちに住むんだろう?』『それは・・』歳三がそう言葉を濁すと、清子は少し残念そうな顔をした。『急に韓国で暮らせと言われても無理だろうねぇ。でもあたしは生きている内に曾孫達の花嫁姿を見たいんだよ、わかるだろう?』『お祖母さん・・』歳三は、清子のやせ細った手を握った。その手は若くして未亡人となり、行商をしながら一人息子を立派に育て上げた苦労が刻まれていた。『お母さん、お母さんの世話は僕がします。ですから歳三を日本へ帰らせてください。』『でもねぇ・・』清子はてっきり歳三が自分と暮らしてくれるものだと思い込み、そうではないことを知って落胆した。『すいません、お祖母さん。日本に帰るまでお見舞いに行きますから。』歳三は清子に頭を下げると、娘達と千尋を連れて病院を後にした。「疲れただろう。」「うん。それよりもトシ兄ちゃん、こっちには住むの?」「それはまだ考え中だ。それよりも千尋、夕飯はどうする?外で何か食べるか?」「ホテルのレストランで食べようか。」二人は夕食をホテルのレストランで取る事にした。 夕飯時とあってか、彼らが入ったビュッフェレストランはほぼ満席状態で、客は日本人観光客が多かった。千尋が料理を皿に載せてテーブルに戻ると、薫が空腹を訴えてぐずっているところだった。「お腹空いたんだね、今ミルクあげるからね。」ママバックの中から哺乳瓶を取り出すと、薫は美味しそうにミルクを飲んだ。歳三は料理を取りに行っているのか、居なかった。「薫にミルクはやったのか?」「うん、トシ兄ちゃんは?」「ああ、美輝子のおむつが濡れてたから、トイレで替えてきたんだよ。男子トイレにはおむつ交換台が少なくて困ったよ。」そう言った歳三の顔が何処か疲れているように見えた。「ホント、今日は疲れたね。明日どうすると?」「そうだなぁ、もう婆さんの見舞いも済んだし・・ソウル観光でもするか?」「うん・・」夜になっても双子達は3時間おきに泣き、その度に歳三と千尋は彼らのおむつを替えたり、ミルクをやってゲップさせたりした。 朝食を取る為に双子達を連れてビュッフェレストランへと向かった千尋と歳三は、数人の女性グループが何やら自分達についてひそひそ囁いていることに気づいた。「気にすんな。」「うん・・」歳三が料理を取りにテーブルに離れたとき、女性達が千尋の方へとやって来た。「あのう、今よろしいですか?」「はい、何でしょう?」千尋がそう言って女性達を見ると、彼女の中で背が高い女性がすっと前に出てきた。「昨夜お宅のお子さんの所為で煩くて眠れなかったのよ。その所為で肌荒れしちゃったじゃない、どうしてくれるのよ!」 女性がそう声を張り上げると、レストランの客達が一斉に千尋達の方を見た。「それは申し訳ありませんでした。」「今日は色々と予定が詰まってるのに、肌荒れの所為で外出もできないわ!この落とし前、どうつけてくれるわけ!?」 流行のヘアメイクを施し、最新のファッションに身を包んだ女性はかなりの美人だったが、その口から出る言葉はまるで何処かのチンピラと同じような、粗暴なものだった。「そのようなことをおっしゃられても・・」「金払えって言ってんのよ、わかんないの!?」にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『ミオン、何しに来た?』『何って、イルジュンを預かってくれたお礼を言いに来たのよ。まさか、ここで門前払いっていうわけないわよね?』ミオンがそう言うと、歳三は舌打ちして彼女を中に入れた。『イルジュン、前はわがままで手がつけられなかったのに、今ではまるで別人のようになっていたわ。あなたのお陰かしら。』コーヒーを一口飲みながら、ミオンはそう言って歳三を見た。『お前があいつを散々甘やかしていたから、あんな生意気な餓鬼になっちまったんだ。一体今までお前ぇはあいつをどんな風に育てたんだ?』『シングルマザーで子どもを育てながら仕事を両立させるのは大変なのよ。パパやママも、孫には甘いのよ。』ミオンの、まるで周りが悪いと言わんばかりの言葉に、歳三は溜息を吐いた。『それで?もう話は済んだのか?』『いいえ、まだあるわ。実はパパに頼んであなたを会社に雇って貰うようにしたのよ。』 ミオンの言葉に、歳三は眉を顰(ひそ)めた。『ミオン、言っとくが俺はお前の世話になるつもりはない。』『そう、それは残念ね。ああ、あなたにはもう奥さんが居るものね。』ミオンはちらりと千尋を見ると、コーヒーをまた一口飲んだ。『じゃぁね、ヨンイル。またソウルで会いましょう。』ミオンはイルジュンを連れ、部屋から出て行った。「トシ兄ちゃん・・」千尋が心配そうな顔をして歳三を見た。「安心しろ、千尋。俺達はずっと日本で暮らすんだ。何も心配することはねぇよ。」「うん・・」千尋は歳三に抱き締められながらも、まだ一抹の不安を抱いていた。 クリスマスが終わり、年末年始は東京の土方家で過ごす予定だったが、急遽隼人から清子が倒れたという連絡があり、歳三達はソウルへと向かうことになった。「大丈夫なん、お祖母様?かなりのご高齢やと聞いたけど・・」「大丈夫さ。それよりも千尋、お前のほうが心配だ。」乳飲み子を二人抱えての海外旅行は、千尋にとって緊張とストレスを感じる3時間半の旅だった。双子達は気圧の変化で耳が痛いのか、仁川(インチョン)空港に着くまで泣き通しだった。トイレでおむつを替えるのも、歳三とそれぞれ交代で行くことになり、座席で休む暇がないほど忙しかった。「やっと着いたな。」「うん・・」歳三と千尋は疲れ切った顔をしながら、双子を抱っこして荷物が出てくるのを待った。 歳三たちの荷物が出てきたのは最後だった。双子用のベビーカーに娘達を乗せ、歳三達が到着口へと向かうと、そこには隼人の姿があった。「すまないね、二人とも。車を外で待たせているから、行こうか。」「はい・・」空港から出ると、冬の冷風が容赦なく5人にふきつけてきて、千尋は寒さで震えた。「見舞いをしたらさっさと帰るからな。」「そんな事を言うな、トシ。お前にとっては久しぶりのソウルじゃないか。」隼人がそう言って車のエンジンを掛けると、駐車場から出て行った。 車は仁川空港を瞬く間に離れ、ソウル中心部へと入っていった。「婆さんが入院してる病院は何処だ?」「もうすぐ着くよ。」数分後、歳三達は清子が入院している病院に着いた。「ここだよ。」隼人が二人を病室に案内すると、清子がちょうどベッドから起き上がるところだった。『来てくれたのかい、嬉しいよ。』清子はそう言うと、歳三と千尋に微笑んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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