全1123件 (1123件中 151-200件目)
6月20日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(81)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日富田木歩(3)面影おもかげの囚とらはれ人に似て寒し大正九年作。前書き:「病床未だ離れがたき身の声風が手すさびに写真を撮りて」(注)声風:新井声風上眼づかいの丸刈り頭に、悲しい囚人の表情を連想したのか。足なえで家にこもったままの自分の境涯を、囚人によそえて思うこともおおかったのであろう。そう言えば顔つきまで囚人に似てきたという思いに、一抹の膚寒さを感じたのだ。自嘲もあり、自己憐憫の気味もこもっている。秋風の背戸せどからからと昼餉ひるげかな大正十年作。さりげない諷詠ぶりだが、生活の哀愁はにじみ出ている。侘しい昼餉だ。目刺しか畳鰯の匂いがしてきそうである。「秋風の」でちょっと休止するごとくして続いている。「背戸からからと」が索漠の感を深めている。二十七の短命、二十歳代にしてこのような特異な完成した境地を打ち立てた作家は、後に芝不器男があらわれるまではだれもいない。 (つづく)
2024.06.20
コメント(0)
6月19日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(80)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日富田木歩(2)かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花大正七年作。死に近い妹の咽喉の微かな喘ぎを、看護しながら聴き取っている。その仄かなはかない感じが、鳳仙花に通い合う。女の子は鳳仙花の花弁をもみつぶして爪を染めて遊んだ。妹の幼い時を思い浮かべているのだろう。情愛の滲む句。作者は、苦労した薄命の妹に愛情を注いでいた。宵よひひそと一夜いちや飾かざりの幣ぬさ裁たちぬ大正七年作。大晦日に鏡餅や締め飾りを飾ることは、一夜飾りと言って嫌います。なりわいに追われて暇がなかったのか、経済的な理由からか、大晦日の宵、ひそひそと飾りつけをしている。幣はお飾りに垂らす白紙である。生活に追い立てられている市井の貧家の年の暮れである。 (つづく)
2024.06.19
コメント(0)
6月18日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(79)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日富田木歩(1)我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮大正6年作。境涯の俳人。二歳にして躄(あしなえ)となる。小学校教育もろくに受けることが出来なかった。陰気な四畳半に、肺結核の高熱に苦しみ寝ている作者の暗い句。蜘蛛のふるまいに何か不気味なものの影を見ている。自己の運命をみつめ、死を予期した者の静かな忍従がある。自分の姿を客観視したこの句の態度が、いっそうこの句の背後に隠された作者の思いを浮かび出させる。己(おの)が影を踏みもどる児よ夕(ゆふ)蜻蛉(とんぼ)大正6年作。作者は、貧しい者、弱い者、不具なる者への愛情があふれる。幼い者への愛情も同様。夕日を背にして、自分の影を、影をと踏みながら、夢中になって歩いて来る児の姿。「夕蜻蛉」の配合によって、遊び戻りの児の動作に、何か童謡めいた情趣がただよってくる。 (つづく)
2024.06.18
コメント(0)
6月17日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(78)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日室生犀星(4)行ゆく春はるや版木はんぎにのこる手毬てまり唄うた前書き:「『加賀手毬唄集』を読む」「行春」の句の古雅なのに対して、この句は鄙びた味わいが深い。手毬唄・子守唄・田植歌などには、悲しい日本の庶民の心が呼吸いきづいている。そのようなものに犀星は非常に惹かれるものを持っている。 うすぐもり都のすみれ咲きにけり前書き:「澄江堂に」庭隅か土堤か道の端かに菫をみつけたのであろう。煤煙の都会に咲き出したけなげにも可憐な花であり、作者はそれを「都の菫」と言い取って興じた。その心の昂りが、詞友龍之介へこのささやかな発見を知らせることに、気持ちを誘ったのである。季節風の交代期特有の曇天であり、それが色のうすい「都の菫」の哀れをいっそう掻き立てる。 (つづく)
2024.06.17
コメント(0)
6月16日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(77)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日室生犀星(3)鯛の骨たたみにひろふ夜寒(よさむ)かな上十二音と「夜寒かな」との間に取ってくっつけたような感じはない。畳にキラリと光った鯛の小骨をめざとく見付けて拾うというささやかな動作であり、その小動作におけるひ冷りとする感じが、夜寒なのである。ゆきふるといひしばかりの人しづか女人に違いない。同座していて、「雪が降り出しました」とばかり言って、後は口数が少ないのである。音もなく降る雪がいっそう辺りの静かさを増す。そうして雪降る中に、匂うように女人の姿がある。 (つづく)
2024.06.16
コメント(0)
6月15日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(76)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日室生犀星(2)螢ほたるくさき人の手をかぐ夕明り これは女人の手であろうか。「螢くさき人の手」に、やはり異性を感じる。句の形としては緊密なものではないが、彼の異常感覚の詩的断章として惹かれる句。沓くつかけや秋日にのびる馬の顔前書き:「信濃仮宿」沓掛ののどかな高原風景。「秋日にのびる馬の顔」という誇張が、ユーモラスで、愛情がこもっている。秋の斜陽の感じであろうか。凸面鏡か何かで間延びのして滑稽な、だが悲しい馬の顔を見るような感じである。 (つづく)
2024.06.15
コメント(0)
6月14日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(75)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日室生犀星(1)青梅の臀しりうつくしくそろひけり前書き:「金沢」(金沢は犀星の郷里)。彼の俳句も決して洗練されたものではないが、一種の鄙びた抒情を奏でる。彼の詩的感覚の断章として不思議な光輝を持っている。この句は彼の静物画。「臀うつくしくそろひけり」と言って、青梅の艶々しいなめらか感触を巧みに描き出している。「尻」という漢字を用いなかったのも、小粒な梅の実の臀から赤ん坊の臀のしなやかさを連想しているかもしれない。わらんべの洟はなもわかばを映しけり彼は幼きものの友でもある。洟が若葉を映すわけもないから、これは二本垂らした悪童の青洟の誇張であるが、洟が悪童を荘厳しているような感じがするから不思議である。 (つづく)
2024.06.14
コメント(0)
6月13日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(74)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日芥川龍之介(4)咳せきひとつ赤子のしたる夜寒かな詞書:妻子は夙つとに眠り、われひとり机に向ひつつ「咳ひとつ」といきなり言ったのが、いかにも大事件のようだ。赤子の咳一つにすぎないが、親にとっては大事件に違いない。ひやりとするような不安と驚きがでているのが、おもしろい。水洟みずばなや鼻の先だけ暮れ残る鼻に托して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、おそろしい句である。彼の生涯の句の絶唱というべきであろう。 (つづく)
2024.06.13
コメント(0)
後藤瑞義入選句(よみうり文芸) 葉桜を打つ雨粒となりにけり 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月12日 入選 橋本榮治 選)
2024.06.12
コメント(0)
6月12日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(73)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日芥川龍之介(3)初秋の蝗いなごつかめば柔やはらかき即物的な生々しさがある。智巧的な「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」などよりすぐれている。竹の芽も茜あかねさしたる彼岸かな詞書き:「小閑を得たるうれしさに」売文生活のいそがしさからしばらく解放されて、漫然と庭さきなどに眼をやったときと、勝手に解釈しておく。これは竹の葉の芽であろう。「茜さし」は、夕日の当った景色と見る。彼岸の日に、ことに夕日に思いを寄せるのは、日本人の伝統的感情である。茜さした夕刻の竹の芽を、彼岸の句としてふさわしい景とする発見には、伝統的な背景がある。この句はうれしさの句。 (つづく)
2024.06.12
コメント(0)
6月10日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(71)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(8)木がらしや目刺めざしにのこる海のいろ大正七年作。言水の句「凩の果はありけり海の音」が意識下にあったのではないかと思う。もちろん感覚はずっと近代的で、鋭くなっている。凩の季節は新目刺の出初めるころ、鮮やかな目刺しの膚の青さに、したたるような深い海の色を感じたのである。「目刺にのこる海のいろ」は鋭い把握である。元日や手を洗ひをる夕ごころ大正十年作。何も手をひどく汚すほどの仕事を元日からやったわけではない。年の瀬は過ぎて行ったのであるが、その元日もたちまち夕べとなってしまったのである。そのような微かな哀愁が、この句を陰翳深いものにしている。 (つづく)
2024.06.10
コメント(0)
6月9日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(70)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(7)一ト木立和田(わだ)塚(づか)くらきしぐれかな和田合戦の跡に義盛以下一族の墓があり、和田塚と言っている。塚の所在を示す一(ひと)叢(むら)の木立を、かきくらし時雨(しぐれ)が過ぎていくのである。さす傘(かさ)も卯(う)の花腐(はなくた)しもちおもり「卯の花腐し」:五月ごろ降る風雨の名。この句は「さす傘も持ち重り」という平凡な言葉に、「卯の花腐し」という長い名詞を入れて、巧みに句に曲節を生じさせた。この言葉の語感から長雨の感じがある。長雨に伴う倦怠は日本文学の伝統的な詩情である。 (つづく)
2024.06.09
コメント(0)
6月8日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(69)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(6)秋の雲みづひきぐさにとほきかな水引草は蓼に似て、水引のような感じがある。まことにか細いはかない感じの秋草である。その水引草と秋の雲とにほのかに匂い合うものを感じたのだ。感性のデリカシーの極致である。水引草に遠くはかなくほのかな一片の雲が浮いているのである。蕎麦そばよりも湯葉ゆばの香のまづ秋の雨前書き:「いまはむかし」麻生永坂の更科でも想いだしているのであろうか。食生活の不自由だった時代における回想である。おかめ蕎麦に湯葉がうかしてあるのだろう。今はおかめ蕎麦といっても、湯葉のいれてないことが多いが、女の島田のように結んだ湯葉の形から「おかめ」の名があるのだと注意があった。蕎麦のほのかな匂いより、さらにほのかなのが湯葉の匂いだ。蕎麦のほのかな匂いより、さらにほのかなのが湯葉の匂いだ。 (つづく)
2024.06.08
コメント(0)
6月7日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(68)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(5)秋の暮汐しおにぎやかにあぐるなり前書き:「柳橋」絃歌のぞめる欄干の下には、汐がたっぷり上ってきて岸を打っているのである。秋彼岸前後は、もっとも汐の干満のはげしい時だ。秋の夕暮れの景色を描いて、寂中一抹の賑わいを点じ出した。紅燈が映えて、金波銀波を賑やかに上げているのである。あきくさをごつたにつかね供へけり前書き:「友田恭助七回忌」友田恭助・田村秋子夫妻を中心に文学座結成の計画が、友田の応召で破れ、彼は呉淞クリークで戦死した。「ごつたにつかね」に作者はあふれる哀悼の情をこめたのである。 (つづく)
2024.06.07
コメント(0)
6月6日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(67)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(4)枯野はも縁の下までつゞきをり前書き:「病む」庭の縁近くまで草や芝が枯れている。それは垣根を越えて遠い枯野の延長なのだ。病臥の句だから、「縁の下」というのが自分のすぐ体の下に在る感じである。枯野の上にでも寝ているような錯覚。「夢は枯野をかけめぐる」(芭蕉)を思う。一茶には「戸口までつひと枯込む野原かな」がある。雨車軸しやじくをながす如く切子きりこかな「切子」は「切きり籠こ燈どう籠ろう」。盆会にさげて用いる。薄い白紙が貼ってあるから、すぐ「雨の気が通う」。そこに雨と切子との配合における「移り」が生まれる。ことにこの雨は車軸を流す夜の豪雨である。上の七五の勢いのいい破調を、しごくさりげないふうに「切子かな」と結んだのが万太郎調である。 (つづく)
2024.06.06
コメント(0)
後藤瑞義入選句(よみうり文芸)地に落ちてなほ上向ける椿かな 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月五日 入選 橋本榮治 選)
2024.06.05
コメント(0)
6月5日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(66)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(3)しらぎくの夕影ふくみそめしかな菊の盛り上がった花の感じに、「ふくみそめし」はぴったした措辞である。そこらに立ちこめてきた夕影を、白菊の白が何となく吸い取ってゆくような感じだ。双六すごろくの賽さいに雪の気けかよひけり双六の賽の白く冷たい感触と、外に降っている雪の白さ、冷たさと、相通うような感じを受け取った。正月のお降さがり、何かひやりとした感じの句である。 (つづく)
2024.06.05
コメント(0)
6月4日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(65)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(2)鶏頭に秋の日のいろきまりけり前書き:なし晴雲定めなかった秋の日が、地上に深紅の鶏頭を得て、ぴたりと光度が定まったと言う感じである。「物の見えたる光」を即座に言い止めた句。あきかぜのふきぬけゆくや人の中無造作のようで、凡ではない。にぎやかな人通りか何かの中を、秋風が吹き抜けてゆくのであろう。春風ではこの句はしんでしまうから不思議である。秋の蕭条たる気分を、人界の中に感じ取ったのである。 (つづく)
2024.06.04
コメント(0)
6月3日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(64)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日久保田万太郎(1)したゝかに水をうちたる夕ざくら前書き:「日暮里渡辺町に住みて」「したゝかに」が万太郎調である。この言葉で、この句が生きています。地面に水をうったのであって、桜の樹ではない。夕桜が影を落としている家の前の道路にたっぷりと打ち水して、桜の花がいっそう清楚な感じを際立たせた。落花も地面に散り敷いているであろう。新涼(しんりょう)の身にそふ灯(ほ)影(かげ)ありにけり前置き:「祭のあとのさみしさは」「新涼の」で小休止がある。初秋の涼気を覚える夕刻、ふと独りの自分にそう灯影を見出した。自分の影に、孤独の淋しさを見出したのである。つぶやきが口をついた感じ。下町っ子の作者、祭りがいちばん郷愁を憶えるらしい。 (つづく)
2024.06.03
コメント(0)
6月2日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(63)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(8)一点の雲のそゝげる余寒よかんかなただ一片の雲に余寒の情を読み取ったのである。膚に触れる余寒の感覚を象徴するかのように、空には一点の雲があるのである。単純であるが鋭い感覚である。「そゝげる」と言ったのが大変利いている。何か荒涼とした、また寒むざむとしたものを、北国の空の一片の雲に感じとったのである。淋しさや花さへ上ぐる滑莧すべりひゆ滑莧は戦時中食料として摘まれた野草である。初五で大づかみに句の内包する情熱を決定して、次の七五で景情を決定するのだ。「花さへ上ぐる」という言葉がやはり可憐で捨てがたい。 (つづく)
2024.06.02
コメント(0)
6月1日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(62)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(7)雉子きじ啼なくや月の輪のごと高嶺たかね雪ゆき「月の輪のごと」は美しい。円形の輪状に高嶺の雪が残っている。「雉子啼くや」も深山にあることを思わせる。乗のり鞍くらのかなた春しゅん星せいかぎりなし「春星かぎりなし」は、高地の空気の清澄さが表現されている。数限りない春星のまたたきを背に負った乗鞍の偉容を、目に浮べればよい。悠久なものへの思慕の情がこもっている。 (つづく)
2024.06.01
コメント(0)
5月31日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(61)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(6)国二つ呼び交(か)ひ落す雪崩(なだれ)かな国境の谷間へ大きく谺しながら雪崩のおちる雄壮な景。普羅の本領は、山嶽俳句において発揮される。浅間(あさま)なる照り降りきびし田植(たうゑ)笠(がさ)浅間は作者のもっとも愛する山の一つ。三つの母音aを含むその名からして明るい。「決して憂鬱な姿でなく、また憂鬱な周囲をもたぬ」と言う。表面は単純な客観写生の句であるが、浅間の裾に抱かれた静かな美しい山村への愛隣の心は、「田植笠」という触目をとらえた座五の中にこもっている。「照り降りきびし」とは高原の天候の変化をよくとらえている。 (つづく)
2024.05.31
コメント(0)
5月30日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(60)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(5)駒こまケ嶽凍いてて巌いはほを落しけり木曾駒でなく、甲斐駒を詠んだ。凍てた山容を形容するに、巌の落花する響きをもってしている。もちろんそれが聞こえるはずもなく、比喩と誇張とをもって、山の偉容を詠嘆したのである。奥おく白根しらねかの世の雪をかがやかす白根三山の遠望である。「かの世の雪をかがやかす」がやはり美しい強い言葉である。概念的の言葉であるが、不思議に生きているのは、強い感動に裏打ちされているからである。「奥白根」は、普羅の造語、「奥日光」などという場合に準じて言ったのであろう。 (つづく)
2024.05.30
コメント(0)
5月29日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(59)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(4)茅かや枯れてみづがき山は蒼天に入る「茅」は、茅ケ嶽の略称。固有名詞を二つ(「茅ケ嶽と瑞牆山」)も用いながら、強い気魄で一句として統一をもたらした。「茅枯れて」の近景、「蒼天に入る」の遠景を打ち重ねて、雄渾な山景を描き出している。霜つよし蓮華れんげとひらく八やつケ嶽円錐火山をなしている八ケ嶽の山容を「蓮華とひらく」と形容した。一つ一つの雪の嶽がさながら白い花弁に当たる。イメージが直接的で、強い感動がじかにぶつかってくる。それに「霜つよし」という初五の裸の言葉が響き合う。きびしく美しい霜日和である。 (つづく)
2024.05.29
コメント(0)
5月28日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(58)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(3)山吹や根雪(ねゆき)の上の飛騨(ひだ)の径(みち)昭和六年作。根雪とは永い間融けずに残っている雪で、固い。根雪の上が人の足跡で踏み固められて、おのずからの径が通じている。「根雪の上の飛騨の径」という「の」を打ち重ねた用法がおもしろい。彌陀(みだ)ケ原漾(ただよ)ふばかり春の雪春雪に覆われた彌陀ケ原が縹緲として作者の視界にひらけてきたのであって、驚きのこもった詠嘆である。おそらく富士から見た遠景ではないかと思う。彌陀ケ原をみたことがなくとも、「彌陀ケ原漾ふばかり」という十二字の持つ美しさは、誰にも感得できる。「春の雪」の座五に心にくいまでの作句の練れを感ずる。「春の雪」の点睛があって句が立体的な彫りの深いものになる。 (つづく)
2024.05.28
コメント(0)
5月27日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(57)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(2)春雪しゆんせつの暫しばらく降るや海の上単純な景色を単純に言い取ったのだが、それでいて捨てがたい。海の上を音もなく降る春雪…何の奇もないが、何となく人の気をそそる。「海の上」というさりげない結びが利いている。雪解ゆきげ川かは名山けづる響かな「名山けづる」とは気負った表現である。「響かな」という座五が非常に力強い格調を持っている。「名山けづる」が「響きかな」によって、不自然に感じない。雪解時の滔々たる推量の押し流される雄壮な響きをとらえたもの。 (つづく)
2024.05.27
コメント(0)
5月26日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(56)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(1)春更ふけて諸鳥もろとりなくや雲の上普羅は蛇笏とともに現代俳句を代表する一人。彼の主観的な強さが感じ取ることが出来ます。それは、中七の「諸鳥なくや」に彼の情感の深さがこもっているからです。春深い山奥で小鳥たちの群鳴を聴いたのである。晩春から夏にかけて日本の鳥は営巣期にはいり、さまざまの音色で囀る。その小鳥たちへの愛隣の情、言って見れば宗教的ともいえるような心の陰翳がここにはそこはかとなくただよっている。それがこの句の生命。「雲の上」と突き放したような結びもいい。春尽きて山みな甲斐かひに走りけり惜春の句。甲斐に近い信濃にいて、縦走する山々の尾根を眺めている。山はみな夏に向かおうとする生き生きした姿を見せている。この句の調子には、普羅らしい響きがこもっている。大景をすかっと言い下して、強い気魄がこもっています。 (つづく)
2024.05.26
コメント(0)
5月25日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(55)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(8)鳴きわたる鶯うぐひすも杖も雨の中遺詠(昭和二十三年以降)より。淡々として凝滞のない晩年の心境をうかがうことができる。病中の庭に杖にすがって、鶯の囀りを聞きとめたのである。「鳴きわたる」におおらかな感情がこもっている。「鶯も杖も」と言ったのが、無造作のようで、なかなか味わい深い。ことに「杖も」の三字が。この句の生活的な味わいが深くしみ出して来た。寒かん雁がんのほろりとなくや藁わら砧きぬた遺詠(昭和二十三年以降)より。寒雁が一声二声、声を落として過ぎて行った。あとは農家で藁砧を打つ音が休みなしに聞えてくるだけ。雁の鳴く声を、「ほろりとなくや」のような形容は誰もしなかった。地上に声を落として行った感じである。その地上にはひっそりと冬ごもる農家のなりわいがあるのだ。声が重さのあるものとして、藁砧の上へおちてきたような感じ、乾いた冬空からの一滴のしずくのように。 (つづく)
2024.05.25
コメント(0)
5月24日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(54)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(7)大いなる花の菫すみれに夜明け来きし昭和十六年作。花のたたえた紫色に訪れた夜明けのほの明りが意識される。おおきな菫をぽっかり浮出させた朝の光に、この病者は一抹の心のなぐさめを見出している。蜘蛛くも消えて只大空の相模灘さがみなだ昭和二十六年作。昨日までありどころに蜘蛛の姿を求めようとしてさまよった所在ない病者の眼が、その一点の黒を見失って、ただ虚空と融け合った輝かしい夏の海を見出した空虚さ。取り残されたのはうつろな空間ばかりではない。心の大きな空洞がぽっかりと埒もなく取り残されているのだ。裏にはやはり病者の心理が鋭く働いていると思える。 (つづく)
2024.05.24
コメント(0)
5月23日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(53)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(6)晴天せいてんや白き五ご弁べんの梨の花昭和十一年作。「童心」、子供にかえるとは愚にかえること。この淡々たる叙法の中に一種大家の風格というべきものがにじみ出ている。日夜病床に親しむ作者は、野心も俗情もなく、触目する風物と天真に戯れている。それは一つ到り着いた境涯に違いない。この作品も、淡白な上にも淡泊な句。晴れた空の色をバックにして、そこに融け入るような梨の花。「白き五弁の」とは梨の花の形容語。あたりまえの形容だから、晴天の梨の花をかえってくっきりと、五つの弁や蕊までもあらわに描き出す。鮎あゆの背せに一抹いちまつの朱のありしごとし昭和十一年作。あっさりと、楚々たる鮎の姿を描き出した。それも「あるごとし」ではないのだから、いっそうはかない表現、あるかなきかのはかない朱を点じた。淡彩ながら、鋭い色彩感覚である。 (つづく)
2024.05.23
コメント(0)
5月22日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(52)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(5)もろもろの木に降る春の霙みぞれかな昭和九年作。これは、前の作(「瑠璃鳥去つて月の鏡のかゝりけり」)よりいっそう淡い感じの句。この「春の霙」には、作者のあでやかな色彩感覚が名残をとどめている。平淡な叙法だが、大家の風韻がどことなくにじみ出ている。雪に来て美事みごとな鳥のだまり居をる昭和九年作。こういう一見無造作の句には、やはり作者の「童心」ともいうべきものが現れている。「美事な」という形容、「だまり居る」という打ち止め、あまりにも明けっぴろげな稚拙さである。 (つづく)
2024.05.22
コメント(0)
5月21日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(51)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(4)戸の口にすりっぱ赤し雁(かり)の秋大正八年作。戸の口にぬぎすてられたスリッパの赤。あざやかな赤が眼を射る。赤いスリッパはやはり女性のものであろう。洋風の小住宅の上を雁の声が通る。庭には雁来紅やコスモスなど、秋の草花が咲く乱れているかもしれません。瑠璃鳥(るり)去つて月の鏡のかゝりけり大正五年作。色彩の鮮やかな瑠璃鳥が去って虚ろな空間を、鏡のような満月が占めた。淡々とした愛惜の情も、澄み切った満月の光に吸い取られてでもいくようだ。目もあやなこの句の色彩美と、水のような淡淡しい心境とが、同時にこの句にたゆたっている。 (つづく)
2024.05.21
コメント(0)
5月20日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(50)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(3)秋風や模様もやうのちがふ皿さら二つ大正三年作。前書き:「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去って仮の宿りをなす」「模様のちがふ皿二つ」とはデリケートな情感を託したもの。小さな卓袱台(ちゃぶだい)模様のそろわない皿二つを置いた殺風景な、落魄(らくはく)した男の独り暮しを想像出来る。模様の違う(おそらくは大きさも違う)皿二つを、秋風との配合のうえに想いうかべるだけでよい。けさ秋の一いち帆はん生みぬ中の海大正三年作。出雲・伯耆にある鹹水湖で、日本海につながっている。立秋の日の朝を「今朝の秋」と言い、つづめて「けさ秋」と用いた。「けさ秋の」で小休止。米子あたりの海辺に立って眺めていると、中の海の沖合に白い帆船が一つ見えて来た。その清々しさ、爽やかさに、秋の気を感じ取った。中の海が秋気に感じて一帆を生んだように感じた。広々とした中の海に一つの帆船を見出した新鮮な感嘆の情がこもっている。 (つづく)
2024.05.20
コメント(0)
5月19日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(49)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(2)蔓つる踏んで一山いちざんの露動きけり大正二年作。吉野時代の句。あたりの草木を揺り動かしたざわめきを、「一山の露動きけり」と言い取った。誇張した表現に、作者の驚きはよく表現されている。動揺する主体として、草木に置く露を持って来たのがよい。露は秋の季語。草木の色付いた山の全容が、この一語によって豁然とひらけてくる。筑紫つくし路ぢはあれちのぎくに野分かな「あれちのぎく」とは学者の与えた通名。野菊に似て花の色の褪せた繁殖力の旺盛な雑草。雑草の味の無い通名を持ってきて一句に仕立てたのもおもしろい。「筑紫路は」と打ち出したことによって、調子に屈節が生じ、句柄がおおらかになった。 (つづく)
2024.05.19
コメント(0)
5月18日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(48)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日原 石鼎(1)頂上や殊に野菊の吹かれ居り大正元年作。丘の頂上に咲き乱れた秋草の中で、ことに野菊の美しい色彩が目に立って風に吹かれている景。「頂上や」と無造作に置かれた初五、いかにも軽く、無造作に言い出した感じで、半ば切れながらも下の句に自然につながっていく。その軽さが「居り」という軽い結びに呼応している。「殊に」というのも、いかにも素人くさい。一句の持つ自由さ、しなやかさは、風にそよぐ野菊の風情にいかにも釣り合っている。花影くわえい婆娑ばさと踏むべくありぬ岨そばの月大正二年作。吉野山時代の句。豪華に咲き盛った桜花の量感を、月夜の岨道に落ちたその影を描くことによってみごとにとらえている。重々しい措辞と相まって、盛り上がったヴォリュームを感じさせる。「婆裟」の語は、舞いめぐるさま、乱れうごくさまなどの意味がある。作者は音感の上から字を当て用いたものであろう。影の形容であり、踏めば影でもばさと音のしそうな物量的な感じがある。 (つづく)
2024.05.18
コメント(0)
5月16日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(46)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(8)おとのして夜風のこぼす零余子ぬかこかな昭和八年作。静かな夜、風とともにバラバラという可憐な音をきいた。夜風が零余子をこぼしているとは、作者の判断であり、夜の闇に描き出す一つのイメージ。現実にあったのは一つのもの音。音は現実のものであるが、それ自身としては抽象的なもの。描かれた情景は想像裡のものであるが、具象的。瞬間的な交錯の上に、立体的感銘がある。山の童この木莵づくとらへたる鬨ときあげぬ山のわらべと言っても、単数でなく複数であろう。みみずくを捕えて、歓喜のあまり、鬨の声を挙げた。山村の悪童たちの無邪気な歓声に、作者も素直にひきこまれた。山村風景の一齣として、ユーモアにも富み、感情の躍動も如実に伝わってくる。 (つづく)
2024.05.16
コメント(0)
5月15日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(45)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(7)くろがねの秋の風鈴鳴りにけり昭和八年作。時機をたがえて存在するもののすさまじさが、「くろがね」の一語にみごとに象徴化されている。鉄錆びた、釣り忘れた風鈴の音に、深まる秋情を感じ取っている。その金属性の音に、蕭条たる秋気がこもっている。閑かさはあきつのくぐる樹むらかな昭和八年作。「あきつのくぐる樹むら」に、作者は一瞬のしじまを見とめた。間髪を入れぬと形容してもよい。静寂があたりを領している。その閑さは、白昼の日に映えて音もなく舞い澄む蜻蛉の動作によって点睛を得ている。さし交わす枝枝に触れんばかりにして、蜻蛉が出入りする。冒頭大きく「閑かさは」と断定したのがよい。 (つづく)
2024.05.15
コメント(0)
5月14日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(44)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(6)わらんべのおぼるるばかり初湯かな昭和六年作。諧謔味がある。端厳な氏の句のなかには、このような句は少ないでしょう。だが、「わらんべ」と言い、「おぼるるばかり」と言い、格調は決して軽くない。作者の心の弾みがそのまま調子に現れている。秋たつや川瀬にまじる風のおと昭和六年作。いつもきいている川瀬の音の中に、さわやかな秋の初風の音を聞き取っている。「川瀬にまじる風の音」という句の清涼な味わいが、立秋の句を生かしている。「川瀬にまじる」と言って、しかもかえって何物にもまぎれぬ秋風そのものの実体は的確にとらえられている。 (つづく)
2024.05.14
コメント(0)
5月13日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(43)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(5)ひたひたと寒かん九くの水や厨くりや甕がめ昭和三年作。「寒九」は、寒に入って九日目、服薬に特効ありという。厨の甕に満々とたたえた寒九の水を想像しただけで、清冽の感がみなぎる。一甕の水に、大自然の流転の相が集約されている。をりとりてはらりとおもきすすきかな昭和五年作。「はらりとおもき」に、一本の薄の穂の豊かさ、艶やかさ、みごとさを表現尽している。ただ折り取った一本の薄の重さが詠われているのにすぎないが、作者の感動は全身的、生命的で、その一瞬の歓喜は絶対的。 (つづく)
2024.05.13
コメント(0)
5月12日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(42)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(4)秋雨や田上たがみのすすき二穂三穂昭和二年作。「田上」は、田のほとりの意。刈り入れも近い田の畦に、痩せたススキが二、三本穂が出ていて、秋雨に冷たく打たれている。「田上のすすき」と言っただけで、そのひょろりとして貧弱な、うちすてられた哀れな姿が目に浮ぶ。生命の機微に参入するのに、一草一木で足りるのが俳句。刈るほどにやまかぜのたつ晩稲おくてかな昭和三年作。晩稲刈るころと言えば、風も冷たい。この句には山村の晩秋のもつ哀愁がある。晩稲の収穫をすませば、山村は冬に入る。この句の背後に、無慈悲な重苦しい冬が、近づいてくる足音を感じる。日の暮れに追われる農夫の心は、同時に近づく冬に追われる心でもあった。晩稲をそよがす夕べの山風に、冷酷な自然の無関心の姿を感じ取っている。それがこの句に、ある寂寥と不安とをもたらす。 (つづく)
2024.05.12
コメント(0)
5月11日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(42)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(3)伯母逝ゆいてかるき悼いたみや若わか楓かへで大正四年作。「かるき悼み」と言ったのがおもしろい。深く悼まないというわけではないが、その人の死が残る者に悔いを残さない往生であったことがおもわれるのである。人の死に逢うことも、言ってみれば日常茶飯事であるという感慨がある。若楓の候の明るさが、このような静かな追悼の心によく映発している。秋の草まつたく濡れぬ山の雨大正十二年作。びしょ濡れに濡れ切った山の秋草の形容である。咲き乱れた千草の濡れそぼつさまが、この一句で新鮮に、また力強く表現されている。蛇笏の野性味があらわれている。 (つづく)
2024.05.11
コメント(0)
5月10日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(41)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日飯田蛇笏(2)伯母逝ゆいてかるき悼いたみや若わか楓かへで大正四年作。「かるき悼み」と言ったのがおもしろい。深く悼まないというわけではないが、その人の死が残る者に悔いを残さない往生であったことがおもわれるのである。人の死に逢うことも、言ってみれば日常茶飯事であるという感慨がある。若楓の候の明るさが、このような静かな追悼の心によく映発している。秋の草まつたく濡れぬ山の雨大正十二年作。びしょ濡れに濡れ切った山の秋草の形容である。咲き乱れた千草の濡れそぼつさまが、この一句で新鮮に、また力強く表現されている。蛇笏の野性味があらわれている。 (つづく)
2024.05.10
コメント(0)
5月9日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(39)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日渡辺水巴(6)うすめても花の匂の葛湯くずゆかなうすい葛湯に匂う塩漬けの桜の花のほのかな感じを詠んで、いかにも淡淡と清楚な気に充ちている。大病後は好きな酒も止められただろうし、せめてもの甘味も手にはいらぬ不自由な時代だった。「うすめても」と言ったのがあわれに物悲しいのである。飯田蛇笏(1)芋の露連山影を正しうす大正三年作(作者数え年三十歳の時の句)俳句の持つ格調の高さ、正しさにおいて、彼の右に出づる者は見当らない。秋の山容を表現して遺憾がないと言うべきであろう。「影を正しうす」とは、また彼自身の心の姿でもあったのである。 (つづく)
2024.05.09
コメント(0)
5月8日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(38)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日渡辺水巴(5)寂寞じやくまくと湯たん婆ばに足をそろへけり老いの感慨がしっとりと打ち出されている。湯たんぽの大きさが想像される。次いでじっとそろえた行儀のよい足が…。昭和二十年の早春の作。誰しも死の間近にあるのを感じていた時。老いの命が、小さな湯たんぽから足の裏へ伝わるほのかなぬくみに取りすがっている。そのささやかな恵みへの感謝の気持ち、さらに寂しい諦観の気持ちが、この句を成した。四阿あづまやや此処に春ゆく木瓜ぼけ二輪前書き:「矢野氏邸園」四阿のほとりにゆくりなく見つけた可憐な二輪の木瓜に、行く春の寂しい姿をはっきりと見とめたのである。「此処に春ゆく」の表現に、発見の驚きが打ち出されている。木瓜はとくに草木瓜ならずとも可憐な灌木であり、地に咲くものであるから、「此処に」と言って、大地を匂わしすぎて行った春の名残を二輪の花にとどめている場所の感じがよく打ち出されている。 (つづく)
2024.05.08
コメント(0)
5月7日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(37)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日渡辺水巴(4)ふるゝものを切る隈くま笹ざさや冬の山すかっと言い切ったみごとさがある。かたまつて薄き光の菫すみれかな「かたまつて薄き光の」といかにも可憐な言い取りようである。なんの技巧もなく言い取られている。だがこれだけで、一かたまりの菫の姿がみごとに浮び上がってくる。かたまった薄色の菫という平凡なありようが、これほど美しく、ほのかに、また暖かく言い取られたということは、驚異に価するものである。 (つづく)
2024.05.07
コメント(0)
5月6日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(36)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日渡辺水巴(3)てのひらに落花とまらぬ月夜かなここでは、手ひらが大写しに描き出されている。舞台で言う型が決まった時のうっとりとさせるような形式美に似通ったものを持っている。手にふれんばかりにちらちら落ちる花片を「落花とまらぬ」ときっぱり言い切ったところ、美しいかげりである。年の夜やもの枯れやまぬ風の音除夜の風音。「もの枯れやまぬ」というずばりとした言い方は水巴の独壇場。断定の美しさを、水巴は持っている。この句の緊張し切った調子は、何か積極的な不安と苦悩とを奏で出している。俳句は水巴にとって、束の間の生命の輝きを見とめ聴きとめる手段であった。 (つづく)
2024.05.06
コメント(0)
5月5日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(35)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日渡辺水巴(2)さみだれのさゞなみ明り松の花十和田湖での作。前書き:「蓬莱の嶋」即興感偶の句でありながら、しかも調子高く陰翳深く、生命の息づきをおのずからにして秘めている。「さざなみ明り」とは美しい言葉だが、かきくらし降る雨景に、ほんのり白い波の花が松の花より白くとでも言った具合に、眼前に立ってはくずれている光景が眼に浮ぶ。ひとすぢの秋風なりし蚊遣(かやり)香立ちのぼる蚊遣のけむりのかすかな揺れに、秋風の姿をとらえたのである。立秋のころのいかにも秋の到来を感じさせる一抹の涼風で、「秋きぬと目にはさやかに見えねども」といったあれだ。ふとした身辺の動きに、はっきりとさやかに秋風を見たのである。 (つづく)
2024.05.05
コメント(0)
5月4日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(34)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日渡辺水巴(1)雲に明けて月夜あとなし秋の風水巴は、秋・冬の句が多く、夜や夜明けの句が多い。これは水巴の一つの特徴。ちぎれ飛ぶ東の空の雲に、まず夜明けの光は訪れる。昨夜賞した爽やかな月夜の面影は跡方もないが、作者の眼底にははっきり焼き付いて、今も明かな良夜のイメージを二重映しに夜明けの空に想い描かせる。「あけて」「あとなし」「あきのかぜ」の偶然成した頭韻も、爽やかで快い。天渺々べうべう笑ひたくなりし花野かな前書き:「大震直後より半歳大阪郊外豊中村の延寿壮に仮寓す」これは明るい笑いではない。この句の背後には、一瞬にして故郷を焼き、無に帰した者の、あきらめとも自嘲ともつかぬ感慨があるようだ。そしてこの句に感銘した私の気持ちには、国敗れ家財四散して流離するわが身へのいとおしみがあった。人間の笑いとは思えない高い乾いた声が虚空のどこからか聞こえてくるような気持に引きずり込まれる。現実を転じて架空の三昧境を創り出すのが水巴の独特の唯美主義であり、秋桜子の飽くまでも現実的な唯美主義と対照をなす。 (つづく)
2024.05.04
コメント(0)
5月3日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(33)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日村上鬼城(5)今朝けさ秋あきや見入る鏡に親の顔「今朝秋」は、「今朝の秋」、正確には立秋の日の朝。鏡に映した自分の顔に、幼いころ見馴れた亡き父の面影を認めた驚き。「見入る」に驚きがこもっている。獅子舞や花の下影濃きところ獅子舞がことさら花の群がり咲いた下を選んで舞っているところに、鬼城はやはり人生的な哀れを感じているのであろう。これは鬼城の俳句の身上である。 (つづく)
2024.05.03
コメント(0)
5月2日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(32)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日村上鬼城(4)ゆさゆさと大枝ゆるゝ桜かな一本の桜大樹のいかにも鷹揚な姿態を無造作にとらえている。このようなこだわりのないゆったりした風景のとらえ方は、やはり一茶から来ているようだ。たとえば「大蛍ゆらりゆらりと通りけり」といったような。この一茶の一面を伝えたのが鬼城の句の世界だと言えるだろう。鷹(たか)のつらきびしく老いて哀れなり「きびしく老いて」という表現が鋭い把握だと思う。「きびしく老いて」というのが適切な老人もよくいるものだ。眼光の鋭い一徹な面構えのままに、どうしようもない老残の影が哀れなのである。 (つづく)
2024.05.02
コメント(0)
全1123件 (1123件中 151-200件目)