全1075件 (1075件中 201-250件目)
< 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ... 22 >
3月11日(月)俳句入門(抜粋:後藤)(182)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(8)3,現代俳句の鑑賞(2)薔薇ばら呉れて聖書かしたる女かな 高浜虚子作者二十六歳のときの句。女が薔薇をくれて、男が聖書を貸したという句です。その後どうなるかは読者の想像にまかされています。「物語俳句」といえるでしょう。作者は翌年27歳の時、遠山に日の当りたる枯野かな を作っています。 (つづく)
2024.03.11
コメント(0)
3月10日(日)俳句入門(抜粋:後藤)(181)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(7)3,現代俳句の鑑賞(1)藤の花長うして雨ふらんとす 正岡子規藤の花の房が長々と垂れています。それを眺めていると、自然と空を眺め、その空の色が曇っていて、雨が降りそうに感じられるのです。単なる客観写生ではなく、主観をのぞかしています。茎右往左往菓子器のさくらんぼ 高浜虚子さくらんぼが菓子器に盛ってあるのを、おもしろく描写。「茎」を強調するために、頭に。「右往左往」という大胆な言葉、句の新しさを出しています。 (つづく)
2024.03.10
コメント(0)
3月9日(土)俳句入門(抜粋:後藤)(180)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(6)2,古句の鑑賞(6)寐よといふ寝覚めの夫や小夜(さよ)砧(ぎぬた) 炭 太祇目を覚ました夫が、夜なべの妻に「寝ないか」と言ったのでしょう。遠くで砧(布を打って柔らかくする木や石の台)を打つ音がしているという秋の句です。きぬぎぬの駕(かご)も過ぎけり煤払(すすばらい) 黒柳召波「煤払」は年の暮の季題。煤払いをしている目の前を、女と別れた朝帰りのかごが通って行ったというのです。なんともいえぬおかしみを感じる。 (つづく)
2024.03.09
コメント(0)
3月8日(金)俳句入門(抜粋:後藤)(179)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(5)2,古句の鑑賞(5)なんとけふの暑さはと石の塵を吹く 上島鬼貫この句には、「夕涼」という前書きがついています。「きょうの暑さはどうだ」と言いながら、石の塵を吹いて腰を下ろす動作を詠ったものです。曙や麦の葉末の春の霜 同上朝日かげさすや氷柱(つらら)の水車 同上鬼貫は、芭蕉と並んで名声がありました。芭蕉:さび、しおり 鬼貫:まこと日常のちょっとした動作を写実的に描いた、「偽らざる、たくまざる」を主張した鬼貫でした。 (つづく)
2024.03.08
コメント(0)
3月7日(木)俳句入門(抜粋:後藤)(178)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(4)2,古句の鑑賞(4)きりきりしやんとして咲く桔梗かな 一茶むまそうな雪がふうはりふはりかな 同大蛍ゆらりゆらりと通りけり 同一茶が有名になった理由の一つは、その句が俗で平易であった点です。一茶は人間としては欠点の多い、ごくふつうの人間でした。しかし、俗人としての生活感情を赤裸々に詠いあげ、独自な創作を行った点で、たぐいまれな芸術家と言っていいでしょう。鶯や下駄の歯につく小田の土 野沢凡兆凡兆は芭蕉の高弟。明快な観客描写の句を作った。鶯がくるころの季節感が出ています。春先の霜解け畦を歩いて行くと、下駄の歯に土がくっついて困る。 (つづく)
2024.03.07
コメント(0)
3月6日(水)俳句入門(抜粋:後藤)(177)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(3)2,古句の鑑賞(3)大名は濡れて通を炬燵かな 小林一茶一茶の生家は中山道沿いにあり、参勤交代の大名行列が家の前を通った。びしょ濡れで歩いて行く武士の行列を、炬燵で眺めている。権力に対する抵抗意識を感じます。ほちやほちやと雪にくるまふ在所かな 小林一茶「在所」、この場合は村の家々のこと。雪に埋もれた家々が、みんなそれぞれ明るい灯をともして煙をあげて適当にやっていると孤独の一茶は、ねたみの気持ちで詠ったのでしょう。 (つづく)
2024.03.06
コメント(0)
3月5日(火)俳句入門(抜粋:後藤)(176)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(2)2,古句の鑑賞(2)にほひある衣きぬも畳まず春の暮 与謝蕪村蕪村らしい浪漫的な一句。「にほひある衣」、みやびやかでなまめかしい。春宵のけだるいような、なやましい雰囲気を出しています。我を厭いとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす 与謝蕪村京都の裏長屋で貧乏暮らしをしていた青年蕪村です。貧乏生活の悲哀を詠っています。寒い夜、ことさら自分をきらって、あてつけに鍋を洗う音が隣家から聞こえるのです。 (つづく)
2024.03.05
コメント(0)
3月4日(月)俳句入門(抜粋:後藤)(175)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行付録 古今の俳句鑑賞(1)1,味わうということ 俳句を<鑑賞し味わう>ことはたのしく、句作上達のためにも必要です。鑑賞は、解釈ばかりでなく、批評も伴い、作法指導まで兼ねる場合もあります。2.古句の鑑賞(1)あら何ともなやきのふは過てふくと汁 松尾芭蕉「ああ、やれやれもう大丈夫。昨日一日びくびくしていたよ」ふぐ汁を食べた者が一日過ぎて、安心した気持ちを詠っています。芭蕉34,5歳の頃の作。このごろの句は明るい調子のものが多い。春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏 松尾芭蕉実に細かく観察した句、現代の写生句も顔負けです。具体的で日常的でありながら、底のほうから作者の心情がにじみ出ています。これを芭蕉は<軽み>といいました。『奥の細道』以後、指導方針に軽みを唱えました。晩年の俳句は、深刻な人生俳句から日常生活を詠う<ふだん着俳句>に変わったとみるべきでしょう。 (つづく)
2024.03.04
コメント(0)
3月3日(日)俳句入門(抜粋:後藤)(174)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(45)2現代俳句の詠い方(38)慶弔を詠う(3) 床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る有る程の菊投げ入れよ棺の中 夏目漱石 次男広島にて敵の兵火に殪れ、三男南洋に戦死す菊一枝何れの墓に手向くべく 佐藤紅緑第一句:自分が病臥中で葬式に行けぬため、句を贈ったもの。「菊投げ入れよ」にかなしさを込めています。第二句:一度に重なった不幸、どうしてよいかわからない親の気持ちです。菊に心を託して効果をあげています。 (つづく)
2024.03.03
コメント(0)
3月2日(土)俳句入門(抜粋:後藤)(173)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(44)2現代俳句の詠い方(37)慶弔を詠う(2) 旭川よりはじめて男子を得しとのこと言いくる。返事に月の子はかぐや姫にはあらざりき 高浜虚子 高商卒業生に贈るこれよりは恋や事業や水温む 同 結婚祝七草に更に嫁菜を加えけり 同 碧悟桐追悼。碧悟桐とはよく親しみよく争いたりたとうれば独楽(こま)のはじける如くなり 同 第一句:女の子ではなかったことを「かぐや姫」とはなんとかわいらしい言い方でしょう。「月の子」という言い方で、いかに丸々としたいい子ができたか、を暗示しています。第二句:「恋や事業や」と一口に人生行路を言ったところが実にうまいと思います。第三句:「更に嫁菜」とは洒落ているわけですが、上品なユーモラスで、披露宴のスピーチに添えれば、拍手を受けるでしょう。第四句:虚子と碧悟桐は子規の高弟として争った仲です。この句はまさに終生のライバルに贈った弔句です。 (つづく)
2024.03.02
コメント(0)
3月1日(金)俳句入門(抜粋:後藤)(172)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(43)2現代俳句の詠い方(36)慶弔を詠う(1)慶弔について、俳句を贈ったり、応えたりすること、<贈答句>と呼びます。友田恭助戦死の報に接す死ぬものも生きのこるものも秋の風 久保田万太郎妻をうしなえる人にいてどけのなほとけかねてゐるところ 同旧師におくる竹馬やいろはにほへとちりぢりに 同第一句:新劇俳優友田恭助戦死のときの弔句。永遠の名句と言われている。第二句:まだ心残りだろうが…と、その人をやさしく慰めている気持ちがこもっています。第三句:技術的に絶妙です。「竹馬や」で幼いころからの友だちということがわかる。「いろはにほへと」で小学校時代のことがわかります。「ちりぢりに」で、自分たちの今の状態を言っています。 (つづく)
2024.03.01
コメント(0)
2月29日(木)俳句入門(抜粋:後藤)(171)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(42)2現代俳句の詠い方(35)心理を詠う(3)沙漠より来し如く昼寝醒めにけり 佐藤惣之助索漠たる顔、という表現を使いますが、そんな顔をして昼寝から覚めたのでしょう。ひどく疲れ、安眠出来ず、変な夢でも見ていたのかも知れません。実に考え及ばないものを持ってきて、しかもよくあっている点が、すばらしい。背き行く心を隔つ火鉢かな 嶋田青峰火鉢を中にして二人が向き合っています。火鉢を中にして二人が距離をおいています。物理的な距離がひらいてゆくわけはないのですが、心の距離は離れて行く一方だというのです。火鉢が隔てているというところが、俳句的なとらえ方といえます。喪服着て笑うてみたる落葉かな 石原八束喪服を着て笑う、この意外性が俳句の一つの特徴です。悲しいときの笑いこそ、悲しさを突き抜けた究極のものであるでしょう。人間心理の複雑さを詠っています。 (つづく)
2024.02.29
コメント(0)
2月28日(水)俳句入門(抜粋:後藤)(170)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(41)2現代俳句の詠い方(34)心理を詠う(2)待つことは嫌ひで楽し春の雪 大場美夜子「嫌ひで楽し」とはうまい言葉です。待たされて、いらいらするところですが、たまたま春の雪が降っていたのでしょう。複雑な心理を詠いだしてゐます。紅べに独楽ごまを女体鞭打つごとく打つ 沢井我来こまを回しながら勢いの弱ってきた独楽を、ひもでビシビシ打ってやることがあります。それが、女の体を鞭で打つようだというのです。扇風機それてゐる座にだまりをる 佐々木茂索扇風機を小道具に使って、巧みに心理描写をしています。自分の所に扇風機の風が少しもこない…、自分はその座でのけ者にされているように思っている気持ちを詠っています。 (つづく)
2024.02.28
コメント(0)
2月27日(火)俳句入門(抜粋:後藤)(169)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(40)2現代俳句の詠い方(33)心理を詠う(1)俳句では心理を詠めないといわれますが、俳句でも心理を詠えます。ただ、小説などとはおのずから形式が違うのです。葡萄の種吐き出して事を決しけり 高浜虚子襟巻を手にとりて行かねばならぬ 塚原麦生二句とも、なにかを決心した心理を詠っています。一句目:葡萄の種をパッと吐き出しながら決めた…。二句目:襟巻を手にとりながら、行かなければと心に言い聞かせた…。 (つづく)
2024.02.27
コメント(0)
2月26日(月)俳句入門(抜粋:後藤)(168)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(39)2現代俳句の詠い方(32)ユーモアを詠う(5)鞭振つて星殖やしゆく騎馬乙女 西場栄光皿の上に秋刀魚の焼くる音移す 授本黙子一句目、さながら乙女が魔術師のように、鞭を振って星を殖やすという機知が面白い。二句目、焼けた秋刀魚を皿に移すのではなく、「音を移す」という機知です。メロン掬(すく)ふに吃水線をやや冒す 鈴木栄子あまりにおいしいので、皮の部分まで少し掘るようにして食べたのです。皮の部分を線を吃水線と言ったところに機知があります。平凡な内容が機知によっておもしろくなります。稲負うて短き足を短くす 斉藤正雄うずたかく背負った稲で、ことさら短い足がいっそう短くみえるという機知、これが一句を面白くしています。 (つづく)
2024.02.26
コメント(0)
2月25日(日)俳句入門(抜粋:後藤)(167)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(38)2現代俳句の詠い方(31)ユーモアを詠う(4)地震かやお風呂場にゐて裸なり 嶋田摩耶子裸であわてるところにユーモアがあります。この句は無季の句となります。風呂場の裸は四季に問いませんので。雛菓子をとくと眺めて買はずゆく 今井つる女駄菓子屋の菓子を「とくと眺めて」結局買わなかった。その人を眺めている者にとっては、そこはかとないおかしみを覚えます。「とくと眺めて」というが効いています風鈴の舌ひらひらとまつりかな 久保田万太郎風鈴一つを使って祭りを詠っています。さすが万太郎です。風鈴の「舌ひらひら」という機知のきいた言葉一つで、この句は決まっています。 (つづく)
2024.02.25
コメント(0)
2月24日(土)俳句入門(抜粋:後藤)(166)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(37)2現代俳句の詠い方(30)ユーモアを詠う(3)初いちご仏にあげず奪いあふ 大栗淑子種薯の残りを蒸して客に出す 大我長太失恋と盲腸をして春耕す 相田のり子三句とも、やっていること自体は、むしろまじめなものです。しかし、読む側にとっては、本人がまじめであればあるほど、おかしさがつのってきます。三句とも気取らず率直に詠いだしてゐるところがよいと思います。 (つづく)
2024.02.24
コメント(0)
2月23日(金)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(19)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より5.自己表現と先蹤性(2) 虚として居住地の東京がみられている、ということをはじめに言ったが、虚としてみられているのは、東京だけではない。現実のすべてが一塊として虚の様相をたたえてみえる。「鳥葬の國」という一連があり、一圧巻である。二グレン風にいえば、エロースの旅である。それなのに、ここには淡々たるチベット風俗の句が、さらりさらりと、五・七・五のひびきに従って閉じ込められていく。旅のモチーフの濃厚さと、句の表情の淡白さと。この矛盾には、ユートピアの一つが、非ユートピアへと移行するさびしさもあろう。しかし、鳥葬といふ暗がりに蟻地獄馬市の糶(せ)られ残りが嘶(いなな)くよには、流され白鳥の残響がある。「補陀落といふまぼろし」の果てに、次のユートピアが、夏雲のようにせり上がって来るのを、わたしたちは期待すべきなのであろう。 (この項終り)
2024.02.23
コメント(0)
2月23日(金)俳句入門(抜粋:後藤)(165)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(36)2現代俳句の詠い方(29)ユーモアを詠う(2)鏡餅昆布が黒き舌垂らす 山口誓子鏡餅少し歪みて目出度けれ 徳川夢声二首とも正月らしさを打ち破っている点がおもしろいのです。一首目:昆布を黒い舌と見立てた機知。二首目:歪んでいるところがめでたいとするところ。恋猫の太郎と花子畦に逢ふ 伊藤紫水作者が勝手に猫に太郎とか花子とか名付けている。「畦に逢ふ」ですから、農村のラブ・ロマンス。 (つづく)
2024.02.23
コメント(0)
2月22日(木)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(18)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より5.自己表現と先蹤性(1)わたしたちは――あるいは、若い俳人たちは、といいかえてもいいのだが、春樹氏の句業を一つの先蹤として、一歩一歩をふみしめることができるであろうか。 もしも、自己表現が、ちかづきがたい典型としてではなく、親しみやすい類型としてそこにあるならば、それも可能であろう。わたしには、きわめてきびしい、一指向としてだけ、春樹氏の句業がみえている。これほど個の内側へとひきつけられた句業はないのだ。 (つづく)
2024.02.22
コメント(0)
2月22日(木)俳句入門(抜粋:後藤)(164)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(35)2現代俳句の詠い方(28)ユーモアを詠う(1)俳諧の「諧」は、おかしみとかこっけいという意味で、本来は、そうしたものを詠っていました。それを、芭蕉や子規に否定されました。サガンの言葉:「わたしが友人に求める最もだいせつな美点はユーモアである。」「ユーモアをもつための第一段階は自分自身をあざわらうことである。」チャップリンの言葉:「ユーモアとは、一見正常に見える行為の中に見出される微妙なずれである。ユーモアがあればこそ、人生の有為転変も、比較的軽く乗り切れるのである。」俳句のせかいでも、これからはユーモアを大切に開拓してゆきたい。 (つづく)
2024.02.22
コメント(0)
2月21日(水)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(17)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より4.観念性とユートピア(4)炉明りや鯛(たひ)の眼(まなこ)を箸にせよ (『流され王』)であったり、炉明りを雪野(ゆきの)に頒つ道の神であったりする、一種の近世古典的な句の姿を、どう見るかという疑問が出てくるだろう。これらは、今はほろびた日常性――常民のかっていとなんでいた生活や、かって礼拝していた神の記憶に捧げられている。みすごされがちだが、この、古人の生活風俗への関心というあたりに、実は、ユートピア指向が、単にユートピア指向としてそびえ立つのではなくて、まず、第一には、習俗的な日常――といっても、今は亡びたり亡びかけたりしている意味では、日常を超え、日常を否定した上で成り立つ、一種観念的な<日常性>――を媒介させているということである。これが、春樹氏のような、どちらかといえば、短歌的資質とおもわれる文芸者が、一点集中、一気に四冊の俳句集を成していった、心理のメカニズムにも、ひそんでいるだろう。 そうすると、ここで、いろいろとろんじてきた<旅>のモチーフと、反日常的日常性としての歳時記の世界との、この二つが、垂直に交わり、その交点のところに、春樹氏が立って居る。立ちながら揺れている。そういう構図がみえてくるのであるが、これをしも、一人の現代人の「自己表現」のいみじき類型とぢて、今、言い切っておいていいかどうかは、すこし時間をかけて考えてみたくもおもおうのである。 (つづく)
2024.02.21
コメント(0)
2月21日(水)俳句入門(抜粋:後藤)(163)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(34)2現代俳句の詠い方(27)農民を詠う(3)汽車降りし人が見てゆく籾をまく 江川秀峰農村も都市化しています。通勤人に見られて、今年も稲作の準備を始めています。百姓をやめたい気持ちとがんばりたいきもちがからみ合っています。春の星馬のくるぶし湯もて拭く 本宮 純髪に触るみごもり牛の息白し 中沢貞子二句とも、家畜に対する農民の愛情を詠っています。第一句は「湯もて拭く」に農民の心がこもっています。第二句「髪に触る」という微妙な感覚が女らしいやさしさを感じさせ、牛と人との気持ちの交流を感じさせます。 (つづく)
2024.02.21
コメント(0)
2月20日(火)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(16)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より4.観念性とユートピア(3) ちょっとふれそこねているが、たとえば、さきに言った『流され王』の白鳥陵の連作などでも、左義長であるとか、小正月であるとかいった、今はほとんどほろびようとしている歳時記の句がいくつも並んでいる。それは、時代としては、近世への接近であって、古代への回帰とはちがうけれども、俳人春樹氏をかんがえれば、これもまた、祖先がえりの一つのかたちと知られる。そこで、そのような俳句の、小さくこまかく歳時の行事へと入り込んでいく精神のありかた、例えば、炉明りや鯛(たひ)の眼(まなこ)を箸にせよ (『流され王』)であったり、炉明りを雪野(ゆきの)に頒つ道の神であったりする、一種の近世古典的な句の姿を、どう見るかという疑問が出てくるだろう。 (つづく)
2024.02.20
コメント(0)
2月20日(火)俳句入門(抜粋:後藤)(162)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(33)2現代俳句の詠い方(26)農民を詠う(2)耕牛に言ひし言葉を我にも言ふ 今瀬とく田を鋤く牛を、叱咤し励ましています。実は、その言葉は自分を励ます言葉でもあるのです。売りし豚送り冷たき足踏みす 矢萩 勝買主(のトラック)にやっと豚を(積んで)送り出したあと、寒くもあって足踏みをし、自分の気持ちをまぎらします。「足踏みす」という言葉は実感がなければ出てこないでしょう。牛の桶洗ひ勤労感謝の日 越智河南子勤労を感謝されているのかどうかわからない農民が、勤労感謝の日も牛の桶を洗っています。この句の裏にはなにかわずかながら抗議のような気持を感じます。 (つづく)
2024.02.20
コメント(0)
2月19日(月)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(15)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より4.観念性とユートピア(2) 補陀落は、ユートピアであろう。那智の瀧は、今度は、逆に、永遠なる海の上からながめられているのだが、そこには、ユートピアーーどこにもない光輝の里――が、眺められている。現実の瀧は、補陀落の瀧は鋼はがねの音すなりであったり、全山の滴りあつめ一の瀧であったりするのであろう。しかし、この二つの感覚的な所在としての瀧すらも、「鋼の音」とか「滴りあつめ」とか、きこえない音をきき、見えないものを観ることによって作り出された超感覚的な――いわば、直観によってつかみ出された世界の瀧なのである。 (つづく)
2024.02.19
コメント(0)
2月19日(月)俳句入門(抜粋:後藤)(161)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(32)2現代俳句の詠い方(25)農民を詠う(1)農の手の農具の如しさくら餅 鈴木吾暁子硬くなった手のひらと桜餅の配合が妙です。農作業の中では、その手を農具の一つとして数えていいほど重要な位置を占めています。出稼ら駅に雪沓ゆきぐつ捨てて発つ 青柳桂子出稼ぎや故郷の赤い羽根つけて 田崎 実農業が廃れ、出稼ぎ収入がなければ生活が成り立たぬ人たちが全農家の多数を占めています。家からはいてきた雪沓をぬぎ捨てて列車で去る夫を見送る妻、故郷の村で買った赤い羽根をそのまま胸につけて、都会の出稼地へ行く農民、生々しい現実を詠っています。 (つづく)
2024.02.19
コメント(0)
2月18日(日)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(14)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より4.観念性とユートピア(1) 『補陀落の径』には「補陀落の瀧」がある。補陀落の語は、わたしにはなじまないものの一つで、この句集の「『補陀落』由来」をよんでも、知識として以上の感想が湧かない。それなら、この句集の読者としては失格といえば、そんなことはないと信じている。「補陀落の瀧」を読んで興をそそられるのは、そのいちじるしい観念性である。俳句がここまで、実感とか事物とかを超越しまっていいのか、という危ぶみの声を、ゆったりとしりめに置きながら、春樹氏の瀧は、流れ落ちる。 (つづく)
2024.02.18
コメント(0)
2月18日(日)俳句入門(抜粋:後藤)(160)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(31)2現代俳句の詠い方(24)サラリーマンを詠う(2)秋一日声出さざりき閑職に 田川飛旅子閑職につかされてしまった作者。仕事がないので、上司からも下からも声のかからぬ日々。じっと時間の過ぎるのをまっている作者。「声出さざりき」がうまい表現です。朝の鵙もず指パンちぎり口食らふ 嶋田洋一いそがしい都会のサラリーマンです。朝の食事をするその指その口の持ち主自身も、巨大な資本機構の一部となっています。反射的な動きを繰り返す。現代の機械文明を風刺している、チャップリンの『モダンタイムズ』を思い出します。目が覚めてこの世の雪が降つてゐし 加倉井秋をこの句はサラリーマンの句ではないかもしれません。「寝るほど楽はなかりけり」、そうした蒲団のなかで目覚めた作者。ただ雪が降っているのではなく、「この世の雪」が降っているというのです。それでは、目覚める前は、この世でなく夢の世界に…ぬくぬくしていたのでしょう。たとえば、サラリーマンなら、この雪のなかを働きに出て行かなければならない…、そんな現実を思います。 (つづく)
2024.02.18
コメント(0)
2月17日(土)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(13)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(8)羽曳野(はびきの)の流され白鳥(スワン)瞑(めつむ)れば風花の流され王ぞ羽曳野は風花や日本武尊(やまとたける)の丘に佇(た)つ羽曳野の睡(ねむ)りの深き鴨の陳 「流され王」「流され白鳥」の「流され」とは、どこから、どこへ流離なのであろう。むろん、それは「故郷=ふるきくに」から「異郷=どこにもない理想郷」への流離である。それは、(今までの文脈をたどればわかるように)永遠への旅が、この流離の本質である。それと同時に、「瞑れば」と瞑目して作者が思いうかべているのは、父のイメージであろうし、父から追われて流れていく白鳥の伝説的なイメージにほかなるまい。 だから、春樹氏が、「流され王」というとき、それは、まちがいなく、日本武尊なのであるが、運命としては、父と子のオイディプス型の関係幻想が、ここに揺曳していて、かならず、そこから唄口がしめって来ているのを忘れてはならない。 (つづく)
2024.02.17
コメント(0)
2月17日(土)俳句入門(抜粋:後藤)(159)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(30)2現代俳句の詠い方(23)サラリーマンを詠う(1)異動あるか妙に埃が気になる午後 高橋由紀夫異動はサラリーマンにとって一番大事なことですし、楽しみでもあります。気持ちが落ち着かず、「埃が気になる」…サラリーマンの心理をよく表しています。「異動」は春の季題。顔は笑つて御用納めの乾杯です 守田椰子夫「顔は笑って」というのは、心は笑っていないのです。周囲にあわせないとならない、サラリーマンのつらいところです。作者にとって快適な職場ではないようです。口語が内容を生かしています。朝の蝉今日はいいことあるんぢゃないか 湯原芳山毎日平凡に、何事もなく過ぎてゆきます。朝の出勤前、「今日はなにかいいことがないかな、もしかしたらあるんじゃないかしら。」そんなことをふっと思ったのでしょう。 (つづく)
2024.02.17
コメント(0)
2月16日(金)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(12)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(7)朽ち舟のいづくに翔(た)つや冬銀河 (巻首句) 巻首句の、どこか呟きに似た渋い印象は、おそらく、今言ったようなモチーフのからみ具合によるものであろう。それならば、一連のなかにみられる、次のような<唄>(これは、わたしの見るところでは、古代片歌的といってもよく、短歌のかたちへとひろがっていく詩の断片ともみえるが)は、どうなのであろう。羽曳野(はびきの)の流され白鳥(スワン)瞑(めつむ)れば風花の流され王ぞ羽曳野は風花や日本武尊(やまとたける)の丘に佇(た)つ羽曳野の睡(ねむ)りの深き鴨の陳 ことごとく、短歌の上の句として通用する。ことごとく、ここに下の句を用意せよ、とわたしによびかける。(昨年『短歌』にわたしが発表した「流され王の恋唄」を参照されたい。)しかるに、春樹氏は、五・七・五まで言った、あとは、羽曳野に散る風花の行くヘ、すべてをゆだねて、沈黙する。また、ふたたび、五・七・五の呟きがおこる。そして、また、そこで途切れる。 (つづく)
2024.02.16
コメント(0)
2月16日(金)俳句入門(抜粋:後藤)(158)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(29)2現代俳句の詠い方(22)老人を詠う(2)父老いて尚も接木す哀れなり 光明治子「接ぎ木」は、仕事(農業)としてやっているのでしょう。ですから、かなりの労働です。若い者は都会に就職して、父母農業をやっているのでしょう。それを娘さんが気の毒に思っているのでしょう。ダンサーの移り香寒く帰りけり 中村武志はなやかな雰囲気のなか、ダンサーなどと踊ったのでしょうか。夜もふけて、寒い街を帰宅する作者、女の「移り香」が残っているような気がします。歓楽の後のわびしさ、「寒く帰りけり」に老人のわびしさが出ています。腑甲斐なき脛ひつぱたく手も枯木 富安風生年とって、足が弱くなった。そのふがいなさに、自分の脛をひっぱたいたが、たたいたほうの手も枯木のようだというのです。「手も枯木」という比喩に俳句的なおもしらさが出ています。 (つづく)
2024.02.16
コメント(0)
2月15日(木)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(11)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(6)永遠指向に対立する循環運動指向。朽ち舟のいづくに翔たつや冬銀河 先に言いかけていた、この連作の巻首句のもつもうひとつの永遠とは、いうまでもなく、「冬銀河」の銀河である。天にながれる星の河の、これもまたひょっとすると、その岸に星の「朽舟」を半ば沈めているかも知れないのだが、それはそれとして、ここには、天と地の二つの「水系」が対比され並置かれている。銀河は、しかし、「河」でありながら、それ自体宇宙の部分なのであり、いっそここには、作者の視線の及ぶかぎり、はっきりと天空へ指して延びる、もう一つの永遠指向――すなわち、垂直方向の上昇のイメージが、かっきりと造型されているといっていいのかも知れない。 (つづく)
2024.02.15
コメント(0)
2月15日(木)俳句入門(抜粋:後藤)(157)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(28)2現代俳句の詠い方(21)老人を詠う(1)老人の日は老人の顔をせむ 中村春逸九月十五日は「敬老の日」です。ふだんたいしたこともしないくせに、その日だけワーワー騒ぐ感じです。親切にしてくれるのは、有難いと思って、今日一日老人の顔をしている作者なのでしょう。痛烈な風刺の精神もあります。としよりは餅食べそれを嚥(の)み下す 山畑祿郎たんたんとただありのままに詠んでいます。そこには虚勢も哀れみもありません。「としよりは」と老人全体のこととして詠っています。そこには、誤嚥も問題もあるかもしれません。味噌つくる母一芸に老いにけり 佐々木 淳昔から自家製のみそを作り、代々の主婦がそれを受け継いできているのです。作者の母はことさらそれが上手で、任されているのでしょう。「一芸に」という言葉で、母のなみなみならぬ自慢の腕前が察せられます。 (つづく)
2024.02.15
コメント(0)
2月14日(水)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(10)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(5) もっとも、こういうからといってわたしは、「日常性」の闇を否定しているのではない。わたし自身は、春樹氏とは対象点にあるぐらいへだたった文芸指向をもっているので――だから、余計に、春樹俳句の中枢がみえるようにおもえるのだが――「朽舟のいづくに翔つや冬銀河」というとき、朽ちてしまった舟を、かつてあやつって生きていた小家族といった<住居>のイメージさえうかんでくる。かれら小家族は、「いづくに翔つや」といわれても、いかんともしがたい一点へと――生活の一拠点へと繋留されていて、そのモチーフは、あくまで、<永遠=無限への指向モチーフではなくて>地上の循環運動なのである。 (つづく)
2024.02.14
コメント(0)
2月14日(水)俳句入門(抜粋:後藤)(156)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(27)2現代俳句の詠い方(20)子供を詠う(2)入学の吾子のつむじにつき行けり 嶋田洋一吾子ですから、幼い子をイメージします。小学生くらいか。入学式に向う吾子の頭のつむじに気付きます。吾子がなんとなく逞しく思えて、後からついていく感じです。桃の如く肥えて可愛や目口鼻 正岡子規かわいらしい子供を見ている感情が、あふれるような句です。写生を唱えた子規、「目口鼻」と具体的に言ったところがきいています。あかんぼのもの言ひたげや甘茶仏 榎本冬一郎仏生会:甘茶を花御堂の中の誕生仏に小さな柄杓でかける行事。仏生会は釈迦が生れた四月八日に行います。作者は赤ん坊をだいて見にいったのでしょう。その赤ん坊をよく観察して、「もの言ひたげや」という言葉が出たのでしょう。ジャケツ著し子のつむじ毛のちょんと立ち 松本たかしジャケツを頭からすっぽりかぶって着たのでしょうか。そのため、「つむじ毛がちょんと立ち」ということになります。子供の愛らしさ、それを眺めている作者の慈眼を感じます。 (つづく)
2024.02.14
コメント(0)
2月13日(火)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(9)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(4)…西行流の遁世が、俳人すべての夢であるわけではない。だから、わたしのみるところでは、角川春樹という俳人は、その点、おそろしいまでに、特殊な俳人である。(からつづく)つまり、俳句を書いていて「日常性」の闇の部分には、ほとんど賭けるものがないという生き方。書き方。『カエサルの地』には、また、いくつかはあった<愛>の夢や、家族のほのかなかおりは、第二、第三と句集がすすむにつれて――ということは、一年ごとにということだが、消去されていく。さきに、居住地としての「東京」の欠如態ということを言ったが、この線の指向を強化し純化していけば、この帰結は、当然のことなのである。ただ、弱い人は、――そして、身辺雑務や結社内人間関係にだけとらわれている俳句人には、この指向を、ここまで押しすすめることはできない。 (つづく)
2024.02.13
コメント(0)
2月13日(火)俳句入門(抜粋:後藤)(155)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(26)2現代俳句の詠い方(19)子供を詠う(1)すず虫や宿題の子の足に鳴く 鈴木玉枝「宿題」を夢中にしている子でしょうか。宿題は学校の宿題かあるいは塾の宿題か…などと色々考えます。勉強、勉強と頑張っている子供の足下に鳴く鈴虫にほっとしている作者でしょうか。すねている吾子へどんぐりころがしぬ 浅見ひろみすねている子供の機嫌をとろうと、どんぐりをころがしてやったのでしょう。親子の心の機微を詠って巧みな句です。吾子を抱く夫(つま)籾(もみ)の粒こぼしけり 小出美智子子供を小道具に使い夫を詠った句です。ご主人は農業をやっている。幼子を抱いたとき、体のどこからか籾粒が畳にこぼれたのです。 (つづく)
2024.02.13
コメント(0)
2月12日(月)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(8)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(3)朽ち舟のいづくに翔(た)つや冬銀河…現実に、なんども、自ら作った舟にのって海を渡ったことのある作者の冒険者としての伝聞を知っているが、その伝聞をここへかさねてもいいのだろう。(よりつづき) 俳句は、春樹氏にとって、その生(ヴィー)のもっとも純粋な象徴だからである。俳句という型式は、近世において、しばしば旅という動機によって賦活されたから、旅と句は、まるで一体のようにみえることがあるけれど、実は、西行流の遁世が、俳人すべての夢であるわけではない。だから、わたしのみるところでは、角川春樹という俳人は、その点、おそろしいまでに、特殊な俳人である。 (つづく)
2024.02.12
コメント(0)
2月12日(月)俳句入門(抜粋:後藤)(154)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(25)2現代俳句の詠い方(18)女性を詠う(3)朝顔に寝みだれ髪の櫛落ちぬ 高橋淡路女少し演技過剰という難点がありますが、あまり若くない中年女性の妖しい雰囲気をたたえた句といえるでしょう。メーデーの厨くりやに瓶のくもり拭く 花谷和子新緑の中、メーデーの日デモ行進をしているであろう群集、それに反して作者は独り台所で働いています。主婦業にどっしりと腰を下ろした逞しさ、「くもり拭く」に誠実な気持ちがあらわれています。まだ生まれぬ子が見えてくる毛糸編む 石田かずみ お腹が大きくなってきた、生れて来るこのために毛糸を編んでいます。いつしかまるまるとかわいい赤んぼの顔が浮かんできたのでしょう。「子が見えてくる」という表現がうまいと思います。 (つづく)
2024.02.12
コメント(0)
2月11日(日)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(7)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(2)朽ち舟のいづくに翔たつや冬銀河 大体、この巻首の作品からして、派手というより地味である。地味ではあるが、モチーフはきわめてあきらかである。二つの永遠指向が、句のなかにその座を競い合っているからである。その一つは、水に乗って、<彼方へ>――川から海へと伝っていく水路の彼方へと指している。しかも、その舟は、朽ちていて、舟としての機能を喪失している。その機能不全の舟に向って、作者は「いづくに翔つや」と問いかけている。わたしたちは、現実に、なんども、自ら作った舟にのって海を渡ったことのある作者の冒険者としての伝聞を知っているが、その伝聞をここへかさねてもいいのだろう。 (つづく)
2024.02.11
コメント(0)
2月11日(日)俳句入門(抜粋:後藤)(153)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(24)2現代俳句の詠い方(17)女性を詠う(2)嬰児(みどりご)を抱けば毛糸のかたまりよ 山口波津女「毛糸のかたまり」という言葉の発見がすばらしい。母性愛の歌です。卯の花の十円買ひや春の雪 鈴木真砂女卯の花、つまりオカラを十円だけ買ってきて、おかずを作るということです。独り暮しの女性のつましさと合理性が詠われています。喪主といふ妻の終(つい)の座秋袷(あわせ) 岡本 眸夫が死ぬと、その死亡通知の未亡人の名の上に喪主という字が書かれます。作者の諦観を感じます。 (つづく)
2024.02.11
コメント(0)
2月10日(土)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」(6)角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より3.永遠指向のこと(1) かって、山口誓子を論じたときにもそう感じたが、俳句は、短歌よりは、短歌よりもはるかに、モチーフ(作品のまんなかに在る方向性)のはっきりした詩型だとおもわれる。 白鳥(しらとり)や永遠(とは)の見えると海が言ふ これは『カエサルの地』の佳句だが、永遠性、それも水平方向の永遠指向の明らかなもので、われわれの心性のなかにある<海>のイメージに合致する。それなら「白鳥」はなにかといえば、これはその海をこえて行く無限指向の飛翔を象徴している。この「白鳥(スワン)」が、『流され王』の「白鳥」に、また日本武尊伝説にまでふくらんでいくのは、春樹氏の性格や、文芸への特異なかかわりかたからすれば、当然のことのように思える。 「流され王」という連作や「白鳥(スワン)塚」の一連をよむ人は、その印象の以外に暗く、沈鬱なのを驚くかも知れない。 (つづく)
2024.02.10
コメント(0)
2月14日(水)俳句入門(抜粋:後藤)(156)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(27)2現代俳句の詠い方(20)子供を詠う(2)入学の吾子のつむじにつき行けり 嶋田洋一吾子ですから、幼い子をイメージします。小学生くらいか。入学式に向う吾子の頭のつむじに気付きます。吾子がなんとなく逞しく思えて、後からついていく感じです。桃の如く肥えて可愛や目口鼻 正岡子規かわいらしい子供を見ている感情が、あふれるような句です。写生を唱えた子規、「目口鼻」と具体的に言ったところがきいています。あかんぼのもの言ひたげや甘茶仏 榎本冬一郎仏生会:甘茶を花御堂の中の誕生仏に小さな柄杓でかける行事。仏生会は釈迦が生れた四月八日に行います。作者は赤ん坊をだいて見にいったのでしょう。その赤ん坊をよく観察して、「もの言ひたげや」という言葉が出たのでしょう。ジャケツ著し子のつむじ毛のちょんと立ち 松本たかしジャケツを頭からすっぽりかぶって着たのでしょうか。そのため、「つむじ毛がちょんと立ち」ということになります。子供の愛らしさ、それを眺めている作者の慈眼を感じます。 (つづく)
2024.02.10
コメント(0)
2月9日(金)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より2.旅とエロース(3) 第三にエロースは、自己中心の愛である。「惜しみなく奪う愛」である。(以上、由木康『私のパスカル体験』第一章「パスカルにおける愛の問題」による) 白桃の剥(む)けば乳房の硬きかな 灰皿にルージュ残れる戻り梅雨 夕牡丹華やぐ齢を迎へけり こういう句を拾うことができる。「餅食へば蝉の声湧く木地部落」があって、「年いよよ座りたるまま夕牡丹」が来るから、これは職人のだれかの老いを歌ったものkぁとも思われる。「華やぐ年」とは、結局のところ、自己へかえってくる愛なのであろう。 (つづく)
2024.02.09
コメント(0)
2月9日(金)俳句入門(抜粋:後藤)(151)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(22)2現代俳句の詠い方(15)青春を詠う(3)夏蜜柑酸(す)っぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子男上位の社会に抵抗している作品。古い写生の時代には見られなかった作品。また、俳句に詠うことなどなかった。爽やかに人の目と会ふときめきよ 伊坂静江この句の清純さに目をみはります。「爽やかに」という季題の使い方が、一層この句を引きたてる。 (つづく)
2024.02.09
コメント(0)
2月8日(木)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より2.旅とエロース(3)エロースとは、第一に、上昇的な愛を意味している。人間の魂が、感覚的な美にふれて、そのかがやきに魅せられ、エクスタシス(忘我・恍惚)を経験し、つばさを得て、より高い世界へと昇っていく。このような、高きを目指す上昇的な愛が、エロースの第一の特質である。 第二にエロースは、価値あるものへの愛である。「価値あるものとは、天上のイデアが地上の世界に投げかけている影である。」ここから「補陀落の径」を連想するのは容易であるが、後の叙述にゆずる。 (つづく)
2024.02.08
コメント(0)
2月8日(木)俳句入門(抜粋:後藤)(150)(作り方と上達法) 著者:嶋田洋一 昭和53年6月3日発行第三章 現代生活と俳句(21)2現代俳句の詠い方(14)青春を詠う(2)摘みし木に凭(もた)れて蜜柑山の恋 鷹羽狩行「摘みし木に」ですから今日収穫の蜜柑の籠を傍らに置いた若い男女でしょうか。蜜柑の木にもたれて恋を語り合っているのでしょう。人妻と堕ちて薪割る必死なり 鎌田矩夫不健康ともいえる恋のようです。「必死なり」は、なんとか活路を切り開こうとしている努力の表現でしょうか。花いばら髪ふれあひてめざめあふ 鬼頭文子この句の舞台には、二人おります。男女でしょう。それは、「春のめざめ」でしょう。「花いばら」が俳句としては即(つ)きすぎの感がありますが、雰囲気は申し分ないでしょう。 (つづく)
2024.02.08
コメント(0)
2月7日(水)旅と自己表現 岡井隆鑑賞:角川春樹句集「補陀落の径」角川雑誌「短歌」(昭和60年3月号)より2.旅とエロース(2) 『カエサルの地』は、回顧すると、エロスの匂いのたなびいていた句集であった。この匂いとひびきは、最新刊の『補陀落の径』には、ほとんどない<ようにみえる>。それだけに、このモチーフを、追求してみたい。表面は、かくれたようにみえて、実は、そこに、<ヘレニズム起源の>エロスの衝動がうごいているのかも知れないのだ。 『カエサルの地』のなかから「蜩」の章をえらぶことにする。高原の蜻蛉(あきつ)は空を従へり この句からはじまる。空を従ってくるトンボの群。一群のトンボといえども、その従属をよろこぶ、男性原理がここにはある。 たまたま眼にふれた「エロース」の解釈をここへ挿入して置いて、以下の分析のたすけとしたい。スエーデンの神学者アンダース・エグレンの『エロースとアガペー』の紹介文から、要点を抄出する。 (つづく)
2024.02.07
コメント(0)
全1075件 (1075件中 201-250件目)