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断事観三昧この文字は明治時代チベットに潜入旅行した河口慧海が、その記録をチベット旅行記として記載した中にある文字です。この文字が使われる場面は、絶体絶命の状態でどのように判断すれば良いか考えても答えが出ないときに行っておられる方法です。座禅を組み、無我の境地において、選択を判断すると言う方法のようです。右へ行くのか、左へいくのか、どちらかは死が待っている状態において慧海師は何度もその絶対絶命のピンチを切り抜けています。正直命が10個あっても足りないくらいの、無茶な事を成し遂げられた方のようです。
2020.07.29
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この一連のウダーナは、ある領域のことを述べているのだがこの領域は、知覚不能それが在ると断言することは、問題があるように思えるしかし、もしそうであるなら 可能性として人はとんでもない事になるただ想定している、ただ理解している というだけとは到底思えない
2020.07.23
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これがあると言ってしまうと、どうもおかしいことになってしまう。またこれが無いと言ってしまっても、どうもうまくいかない扱うのに困る全てのものがあるのだけど、そのあるものにへばりつくようにあるとでも言うかこう言ってしまうのもどうかと思える。なぜ世界はあるのかと言う問題がそこには存在している。それでも書いてみるならこの世界を一次元の世界(直線)とするなら、この領域はこの次元の世界に垂直に立ち上がった存在しているみたいな別次元の存在しかしその接点は、その直線の世界と点で結びついている みたいなもしそのものが、この世界に現れるなら、今あるものが無くなったその瞬間にだけ現れる、しかしながら、それを知覚したときはもはや無いというか近づくことはできるが、絶対に到達できないしかしながら、それに近づくことはできる。常にあるのだから、あるものが消滅することは常に起こっているので、ずっとそれを連続的に追っていけば良いがどちらにせよ、変なことしかかけないというか、文字にすることがどうも適切で無い性質のもの
2020.07.22
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仏教では不死という文言が出てくる
2020.07.20
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これは説一切有部が伝承したウダーナ(感興のことば)とおもわれる。内容については、現在の南方上座部が伝承するパーリー経典にも、バラバラに散らばっているが対応する言葉が存在している。この経典は、韻文ではなく散文の簡潔な文章で伝承されており、古い形を持っているものと推定される。このウダーナを見ていると、その内容は般若心経が言おうとしていることと全く同じことをいっているとしか見えないある不思議な領域のことを指し示している。しかしその領域は知覚できないがこれが最も重要だと推定できる。このウダーナは上座部と大乗をつなぐものである。この意味するところは重大であり、この世界にはもう一つの見えない構造を内包しているしかしこれを取り出して見せることはできない(困った)代物である。
2020.07.19
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ウダーナD比丘たちよ、私はその場所を知っている。そこには支えとなる地面もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなくこの世もなく、あの世もなく、太陽も月もなくまさにそこは(何かに)支えられているところではなく、寄りかかられているところでもない。ここで比丘たちよ、私は(そこに)来ることも説かず、行くことも、留まることも、死ぬことも、生まれることも(説か)ない。それこそが苦しみの終わりである。ウダーナE地面も水も火も風も入ってこないところ、そこでは明るい(光も)輝かず、そこには暗闇もない。そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者であるバラモンは、聖者たることを自ら知り形あるものから、形なきものから、すべての苦しみから解放される。ウダーナF究極に到達し、恐れるものなく、驕慢もなく、後悔もなく生存の矢を断ち切った人彼にとっては(これがもはや輪廻しない)最後のからだである。
2020.07.19
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生じたもの、現れたもの、生起したもの、作られたもの、常住でないもの老いと死が積み重なったもの、迷妄を性質として壊滅するもの、食物を原因として生じるもの、そのようなものは楽しむに適さない。そのようなものを離れることは、思弁(思考)の領域を離れた静寂なる境地であり苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり、安楽である。
2020.07.19
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比丘たちよ生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの形成されたのではないもの、生起したのではないものがある。(さらに一方)生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものがある。比丘たちよもし生じたのではないもの、生起したのではないものがないならば、『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものを離れること(出離)がある』と私は説かないであろう。ところが比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、形成されたのではないもの、正規したのではないものがあるからだから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものを離れることがある』と私は説く。
2020.07.19
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ギルギットは上座部最大の部派である説一切有部の有力な拠点があった場所で、インドの北西部からパキスタンの部分を地盤としていた。ウダーナA依存するものがあれば、動揺がある。動揺があれば、愛着がある。愛着があれば、安らぎがない。安らぎがなければ、来ることや行くことがある。来ることや行くことがあれば、将来、死ぬことや生まれることがある。将来、死ぬことや生まれることがあれば、すなわち将来、生、老、病、死、憂い、悲しみ苦しみ、悩み、不安が生じる。このようにして、あらゆる苦しみの大きな集まりが生じるのである。依存するものがなければ、動揺はない。動揺がなければ、愛着はない。愛着がなければ、安らぎ(軽安)がある。安らぎがあれば、来ることや行くことがない。来ることや行くことがなければ、すなわち将来、生、老、病、死、憂い、悲しみ、苦しみ悩み、不安が消滅する。このようにして、あらゆる苦しみの大きな集まりが消滅する。
2020.07.18
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意識が実在しないならこれによってある<私>というものも、居ないことになるそんな馬鹿なと私がいることは私が一番よく知っているしかし、もしそうであるならこの<私>というものは生きるとか死ぬとかいうものとは種類の異なる話になってくる無我(わたしはいない) 仏教ではこんなことを言っている不死(死なない)これもそうなってしまう。根本からひどい勘違いをしていることになるから瞑想特に呼吸瞑想をするということは、これを確認する手段のように思える。この問題は非常に困難な作業であり、わかりにくいただいろいろな作業(瞑想)をつづけていると、どうもそうらしいと思えるところがある
2020.07.13
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布施という事が徳目の一つとありますが、なぜそうなんだろうか?
2020.07.05
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