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いじめが原因による自殺、職務の責任を負っての自殺、多額の負債を抱えての自殺などなど…原因は様々だが、一日あたり80人あまりの人間が、何らかの方法で自らの命を絶っている。一方、年間交通事故死者数はこのところ1万人を下回っているが、一日平均して30人が死んでいる計算。自殺者が交通事故死者を上回っているというのも不可解な事実である。警察庁発表の自殺に関する資料はこちら 交通事故死者数の推移はこちら ムラ社会であったはずの日本、コミュニティに所属する人間はお互いを大切にし、助け合うのが当たり前だった。もはやそんなコミュニティは崩壊してしまったのか。自分が困ったり悩んだりした時に、誰かが声をかけてくれたり、励ましたりしてくれるというのはありえないのだろうか。自殺する子供たち。彼ら/彼女たちは、いざという時に親や兄弟姉妹に助けを求めないのはなぜだろう。中高年(特に男性)の自殺も相変わらず多いが、管理職の世代も大きな責任を担わされているにもかかわらず、家族(特に妻)に相談しても無駄だと思うのだろうか。アメリカ先住民の社会ではいじめも自殺もないと聞く。コミュニティの結束が強いというところが大きい。お互い助け合えるし、相談しあえる人間が近くにいてくれるのは心強い。人間以外の動物は自殺しない。生きるのに疲れている犬や猫は見たことがないし、メスに嫌われたことを苦にして自殺したライオンなんていうのも見たことがない。動物たちは生きることそのものに必死で、本能はすべて生き延びるために働いているといっていい。人間はなぜ自殺するのか?江戸時代にはHARAKIRI(腹切り)の美学が存在していた。江戸時代に書かれた「葉隠(はがくれ)」という書物には「武士道といふは死ぬこととみつけたり」の下りがある。日本人には自決することの美学が早い時期から讃えられていたのだろうか。欧米人には理解しがたい「切腹」というセレモニーがかつて日本にあった。誰かに自分が腹を切る姿を見せることで、自身の誇りや名誉を訴えかけることができた。命の尊さよりも、恥を忍び、主君のために散るという美徳のイデオロギーを重んじてきたのが我々日本人の祖先なのだ。戦時中には国のために死ぬことを恐れない教育が施された。国が一丸となって戦うという空気の中、コミュニティの結束力は国のレベルで最強のものとなったに違いない。ゆえに自殺者はほとんどいなかったであろうと思われる。今日死ぬか明日死ぬか分からぬ危機的な状況の中では、誰もが必死になって生きようとする。生のエネルギーははかりしれぬものがあった。戦争が終わったあと、終戦の知らせを聞かされずに、孤島で20年も30年も生き延びた残留兵の横井さんや小野田さんらは見事なまでの生命力をアピールした。今の時代の自殺はおそらく「個の喪失」から来ているのではなかろうか。自分を「無」としてとらえ、存在そのものを抹消しようとする考え方が、いつのまにか我々の社会に浸透してしまったせいかも知れない。死ねばすべてから解放されるという考え方は決して好ましいとは言えない。残された人間には、自殺者に対する哀れみの感情以外何も残らないのが今の自殺だ。「死んで花実が咲くものか」与えられた命は全うしてこそ花実が咲くもの。決して自ら散らせるものではないのだ。
2006.10.31
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『2000本目を打った瞬間には感動しましたけど、その時考えたのは、次の打席が大事だということ。2001本目を打つことができたので、2002本目を打つことが次の目標になります。』~2000本安打達成の時のインタビューから~*****イチローが凄いと言われる所以(ゆえん)は、彼が非常に頭の切れる人間であるということ。そればかりか、彼は常に先を読むことができる(言い換えるなら先に起こることを十分に予測できる)という点で非凡であるということだろう。以前、愛知県西春日井郡西春町(現北名古屋市)というイチローの実家のある豊山町の隣町に住んでいた。豊山中学や愛工大名電でイチローを教えたという何人かの先生とあることがきっかけで話したことがあった。「真面目なだけでなく常に意欲的。何も話さなくてもこちらが考えていることが既に彼に理解されているような場面が多々あった」「理知的。野球をする人間にしては珍しい、哲学的な思想を内に秘めた生徒だった」「物事をじっくり考えるタイプ。頭の回転が速いせいか、他の生徒よりも行動が速かった。将棋や碁で何十手も先を読めるかのような力を秘めている」イチローについてそんなコメントをいつしか聞いたことがある。彼は今メジャーリーグで活躍しているが、仮に実業界やその他の世界にいたとしても何らかの活躍をして有名になっていたに違いない。寡黙ではあるが常に思想と主張を持ち、行動でアピールできるという点では素晴らしい人間性に満ちた御仁といわねばなるまい。ひとつ目標を達成した直後に、次の目標が持てる人こそ成功に一番近いところにいるという彼の考え方をぜひ見習いたいと思う。
2006.10.30
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スタートラインに立たされたランナーは孤独だ。何度同じような場面を経験しても、僕にはこの緊張感がある種の脅迫感を伴って、思わずその場から逃げ出したくなるような衝動に駆られてしまう。多くのランナーに囲まれながらも、ここから先頼れるのは自分一人だけなのだ。号砲一発!ランナーの一群が一斉に飛び出した。最適なポジション(位置)を得るために、右へ左へと、他のランナーの隙間を縫うようにして移動していく。注意していないと足を踏まれたり腕がぶつかったりするという危険を伴う。まもなく1キロ地点。ラップタイムを確かめ、ここまでのペースと自分のコンディションをチェックする。スタートしてからわずかの間に、自分自身が別空間にタイムスリップして、僕の意識も次第に別世界へとトランスポートさせられていくのが分かる。肉体と精神が別のレヴェルで動き始めているのだ。胸の鼓動は高鳴り、心拍数は既に180を越えている。2キロ地点を通過、レースはまだ始まったばかりだというのに…。オーヴァペースが原因か、練習不足か、僕は苦しみ、喘(あえ)ぎ、もがいている。その辛さは肉体だけのものなのか?持ちこたえろ!地面を激しくキックする二本の足。ピッチとストライドはなおも衰えない。歯を食いしばり、拳(こぶし)で乾いた空気を力いっぱい握り締める。僕の眼はただ前方をしっかりと見つめるだけだ。風を感じる。僕が風そのものに同化しようとしている。僕はこの日のために走ってきた。この日のために雨の日も風の日も雪の日も走り続けてきたのだ。ここで挫けてしまえば今までの努力がすべて水の泡だ。「行ける所まで行こう!ゴールはもうそこだ!」意識下にある僕がもう一人の僕にそう叫ぶ。5キロ地点。そろそろペースが安定してきたか。もう半分、まだ半分。“RACE AGAINST TIME” 時間との闘いはそう簡単には終わらない。7キロから8キロ辺りは精神的な中間地点でもある。この峠を越えれば、後は勢いで何とかなるからだ。次第にピッチは落ち、同時に腕振りも小さくなり、ストライドが縮まる。アゴが上がるとランニングフォームは崩れ、辛くて惨めな走りは避けられない。第三者の目にはきっと「可哀相(かわいそう)に…」と映ることだろう。だが、ちょっと待て。僕はまだ敗(ま)けた訳ではないのだ。ゴールまであと1キロ。ここまで来たら少なくとも一人ぐらいは抜かしてやろう。ピッチを上げてジワジワと前にいたランナーの後方にぴたっとつけ、並び、そして追い越していく。これを何度か繰り返せば、ゴール間際でタイムもいくらか短縮できる。だが、最後は集中力がものを言う。振り向くな、前を見よ。何か見えない力が、僕をゴールへと導いてくれるから…。
2006.10.29
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秋の夜長の楽しみ方…まずはジャズのCDをBGMに、焼酎(最近は麦・芋・そばかな…)をロックで飲む。寒くなってきたらお湯割り、もしくは燗をして飲むのもいい。ジャズにはバーボンウイスキーかスコッチでしょ、とかブランデーって固定観念持っている人もいるんだけど、自分はなぜか焼酎が合いそうな気がする。キース・ジャレットの透明感あふれるピアノ、ビル・エヴァンスのしっとりした味わいのあるピアノもいい。ボリュームは大きすぎず小さすぎず。ジャズを聴きながら読書ってのも好きだった。ほろ酔い気分で聴くジャズがいい。耳から頭の中にダイレクトにメロディが、面白いくらいに転がり込んでくる。四分音符やら八分音符がわんさかわんさか踊りだす。酔いが回ってくるとかえって賑やかなのがいい。アニタ・オディの「A列車で行こう」やメル・トーメの「イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン」は自然に全身がスイングしてしまう。幼い頃父親が聞いていたジャズの魅力が、この年になってようやく分かり始めてきた。コーヒーや酒の味が分かるように、ジャズも一定の年齢になって聴くのがいいものなのだろうか。ニューヨークのブルーノートで初めて聴いたジョージ・ベンソン。ギターとヴォーカルが見事にマッチして、もはや芸術を超えた何か神の魔力にも似たものを感じた。それに狭いクラブの中が聴衆の熱気でムンムンしていたのを思い出す。アーティストと聴衆の息がぴったり合って、独自の空気を作り出していた。その時々の気分で聴きたい音楽も変わるもの。今宵はひとりの部屋で、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」を聴く。デビーという女性がどんな顔をしていたのか、どんな人だったのか僕には分からない。でも、ビルのピアノから、デビーの後ろ姿が目に浮かぶ。彼女はチラッと後ろを振り向きながら、ほのかに微笑みかける。麦焼酎の芳醇な香りが口の中に広がり、なぜか僕はデビーと恋に落ちる。どんな結末が待っているか予想もつかないけれど、酔いが回っている限りハッピーエンドは訪れないだろう。小雨降る窓の外には秋の匂いがした。そして僕は静かに眠りにつく。デビーはもちろん、もうそこにはいない。
2006.10.28
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「やる気3原則」すぐやる必ずやる確実にやる******「あとでできるからいいさ」「急がなくても大丈夫」「たぶんすると思う」「できるよな」そんな風にしてできずじまいになっていることが誰にもあるのではないだろうか。やるべきこと・やらなければならないことは、できるものなら即座に済ませてしまおう。ひとつ手を抜いたがために、あとに大きなマイナスの影響を及ぼすことがある。マイナス1がマイナス10やマイナス50にもなりかねないのだ。中途半端にやるのならやらない方がまし。やる以上はきっちりとした仕事をする。仕事の評価は自分がするのではない。他人が評価できるものでなければ決していい仕事とはいえない。日々心がけたい教訓である。(Photo:時間は待ってくれない…時計付きかたつむり)
2006.10.27
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<箸の持ち方>来春入試の検査項目に 長崎・佐世保の女子高 (毎日新聞)長崎県佐世保市の久田学園佐世保女子高校(久田順子校長)は、来春の入試で「箸(はし)の持ち方」を検査項目に取り入れることを決めた。生活習慣や、食べることに対する最低限のマナーが身についているかを見ることが狙い。合否判定に一定程度反映させる。内閣府食育推進室は「そういう出題例は聞いたことがない」と話している。来春募集する新1年生は普通科の40人。一般入試と推薦入試を実施するが、一般入試は「数学、国語、総合問題」、推薦入試は「面接、作文」に加えていずれも「箸の持ち方」を設けた。試験時間は3分程度。箸で豆をつまんで移動させるなどさせ、「持ち方が適切か」「スムーズに使いこなせているか」を試験官がチェックする。[毎日新聞10月26日] ********勤務している学校で、去年まで寮の仕事に関わっていて気づいたことだが、まともに箸とお茶碗を持って食べている生徒が意外にも少ない。お茶碗は左の親指と人差し指で端っこをつまむようにして支えている者がいたり。箸は2本まとめて、親指を除く4本の指で握っている。ごはん粒や豆などは当然のごとくつまめない。テーブルに肘をついて食べる者、お茶碗を持たずに食べる者、などなど。家では箸を使わずにフォークとスプーンだけで食べているとか…。家庭で親といっしょに食事をしていないということを象徴しているのかもしれない。「食育(しょくいく)」ということばをよく聞く。食事に関してもっと教えしつけて行こうという動きがいろんなところで見え始めてきている。コンビニの食事で済ませたり、お昼ご飯がポテトチップスとコーラだけといった、偏った食事が生活の乱れにつながっていると言うことは確かなこと。親が食事を作らない(作れない)という家庭もあるというのだから驚きである。箸と同様に鉛筆もまともに持てない者もいる。親指を除く4本の指でぎゅっと握りしめて書く生徒がいるのだ。漢字や英単語も覚えなければならないのだが、まず生活の基本となることを教えるのが何よりも大切だと思う。箸の持ち方を入試科目に出すのはきわめて異例かもしれない。しかし、そんな生活の基本中の基本は高校入試の場ではなく、幼稚園や保育園でやるべきことだとは思うが…。(イラスト:何が見えますか…?)
2006.10.26
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<奈良妊婦死亡>断った9病院の理由判明 医師不足背景に (毎日新聞)奈良県大淀町立大淀病院で妊婦が意識不明となり、搬送先の大阪府内の病院で死亡した問題で、受け入れの打診を受けた同府内17病院のうち、9病院の断った理由が25日、分かった。大半が「満床」や「処置中」などを理由にしており、病床数不足や医師不足が背景にあるとみられる。全国トップレベルの周産期医療を誇る大阪府でも高リスクの患者の受け入れが厳しい状況になっている実態が浮き彫りになった。緊急かつ高度な周産期医療に対応する同府の「産婦人科診療相互援助システム(OGCS)」加盟43病院のうち、受け入れを断った9病院に、理由などを聞いた。大阪市立総合医療センターは、9床ある新生児集中治療室(NICU)を、さらに臨時に1床増やして対応中だった。八尾市立病院も、6床あるNICUが全部ふさがっていた。満床を理由に断ったのは計5病院だった。また、ベルランド総合病院(堺市)は「リスクの高い妊婦の分娩(ぶんべん)が進行中だったことに加え、自宅待機の患者が帝王切開のため入院することになった」とし、高槻病院は「帝王切開の手術が重なっていた」――など、2病院が分娩中で態勢的に難しかったことを理由に挙げた。 このほか、済生会吹田病院(吹田市)は「麻酔医が院外で待機中だったため、対応に時間がかかると判断した」、千船病院(大阪市)は「子癇(しかん)発作と聞き、母胎の対応ができないと判断した」と説明した。妊婦は奈良県と大阪府の計19カ所の病院で受け入れを拒まれた。同府は、産婦人科医会を中心に87年からOGCSを運用。母体・胎児の集中治療管理室の空き状況の情報などを加盟病院が共有し、24時間態勢で高いリスクのある妊婦や胎児に対応している。しかし、OGCSを使って加盟病院に搬送された件数は、96年が963件だったのが、05年には1779件と2倍近く増え、対応に追われているのが実情だ。同府精神保健疾病対策課は「なぜ、これだけ受け入れ拒否が続いたのか、府としても検証しなければならない」と話している。 [毎日新聞10月25日] *******「町に住んでいると便利だな」、と思うのが当たり前なのだけど、こんな事件が起こった時には、「田舎の方がいいな」と思わざるを得なくなる。人口過密地帯で起こるもののひとつ、交通事故。名古屋に家があって三重県伊賀市に単身赴任してた頃、車で名古屋に帰るとやはり運転してて怖かったのは「事故」であった。4車線道路で道は広々としているけれど、方向指示器で合図を出さずにいきなり車線変更したり、方向転換する0.5秒くらい前に指示器を出したり、うしろにぴた~っとはりついて走ってきたり、やたらクラクションやビームランプで煽ってきたりするなんてのは怖いものがある。医療技術のレベルは上がっても、上記のような問題は東京や名古屋、大阪、横浜で必ず起こりうること。病院側も人の命は救いたいけれど、何人もの命を同時に救うことができないというのが現状なのだ。オーストラリアにはフライングドクターがいた。何百キロも離れた病院に飛行機やヘリコプターを救急車代わりにして患者を搬送するというものだ。亡くなった妊婦と彼女のお腹にいた赤ちゃんには気の毒だが、そんな発想で彼女を他府県の病院に送り届けられなかったのだろうか。先進国日本としては、まことにお粗末な顛末としか言いようがない。医師や病院の不足も解消せねばなるまいが、予測される緊急事態に対応できない場合をも予測したシステム作りが必要かと思われる。柔軟な発想に乏しい頭の固いお役人には、なかなか難しい問題ではあるが…。(イラスト:どっちが上?どっちが下?)
2006.10.25
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若くていろんな可能性を持っているはずなのに、すぐに妥協してしまう。面倒くさがり屋で、何かにつけて楽をしたがる。やらなくていいことは極力やらない。最低限のことしかやろうとしない。根気がないからすぐあきらめる。努力することをしないから、「まあいいや」で済ませてしまう。好きなことには熱心に取り組めるが、嫌いなことはあえて避けてしまう。辛いことには耐えられない。嫌なこと・辛いことに直面したらまず逃げることを考える。義務なんてどうでもいい。皆がやらなければならないことがあっても誰かがやるだろうから自分はやらない。********すべてがそういうわけではないが、今の日本の若者はこんなことばで象徴されるのではないだろうか。「根性」「闘魂」「忍耐」「努力」そんな言葉はもう過去の遺物なのだろうか。精神論はもう古いということなのか。親の教育力が衰えているという話を聞いた。誰かが教えなければならないことが教えられずに来たわけではないのだろうけど、何かがおかしい、狂っている、と思う。今まで常識であったはずのものがだんだん常識からずれてしまってきている、そんな気がしてならない。10年後、20年後、このひずみがもっともっと大きくなっていくような気がする。今いる大人も子供も、このことについてどれだけ危機感を抱いているのだろう。すべてがすべて「まあいいか」で済ませてしまうのだろうか。そうあっては欲しくない。一教師として未来を担う若者を育てるのが使命でもある。一教師として正しいことを伝えるべき義務がある。変えられるものは変えていこう。「日本の未来は…ウォウォウ ウォウォウ」ってな歌があったっけ…。明るい未来をつくるためには今という時間が大切なのだから。(Photo:何かおかしい、どこか変だ)
2006.10.24
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1991年に10年来の夢であった北米大陸横断自転車旅行を実現し、その3年後の1994年、アラスカ北極圏横断+カナダ横断、1994年から1995年にかけてニュージーランド一周、オーストラリア横断自転車旅行を終えた。今あらためて考える。次の自分の夢はなんだろうか…?いくつかプランはある。1)残されたアフリカ大陸、ヨーロッパ、中南米、アジアを自転車で走破する。2)北米大陸横断5000キロランニング3)日本縦断3000キロランニングの旅3)は長期の休みを利用して(なかなか休めないのだ…)何回かに分けて実行することも可能。1)と2)はやはり仕事を持っていると実現は難しい。定年退職してからそれだけの体力が残っているかどうかはあやしい。やるなら気力・体力が充実した時期であるべきだ。しばらく100キロマラソンも遠ざかっていた。最後に走ったのが4年前。まずこの年末、自主企画で100キロランを走ってみようと思う。2年前だったか、「ピースラン」と称して、青山町(現伊賀市)~伊勢神宮~熱田神宮160キロ走を企画したものの、積雪と寒さと膝の痛みでスタートから伊勢神宮までの60キロで中断してしまった経験がある。以前京都駅から大阪駅までの50キロを走ったことがあったが、これを往復するというのもいいかも知れない。片道コースなら伊賀市~名古屋も大体100キロはあるだろうか。「ピースラン」では、積雪のあとどろどろに解けた雪のおかげで、靴の中が氷水でべたべた状態になって非常に辛い目にあった。できれば乾いた道で走りたいものだが…。こういうのはやはり計画を立てている時が一番楽しい。現実の場面ではほとんどが辛いことばかりなのだけど…。さあ、どんな年末になるだろうか…?(Photo: Honolulu Marathon 1993, Hawaii)
2006.10.23
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30年前は16歳、高校一年生だった。30年後は76歳、今の父や母の年代になる。20年前は26歳、教師3年目、マラソンにも取り組んでいた。20年後は66歳、定年退職してのんびりと旅を楽しんでいるだろうか。10年前は36歳、冒険旅行を終えて結婚、子供も生まれていた。10年後は56歳、定年を前にいろいろと考えていることだろう。気持ちだけはまだ少年のまま。肉体だけが老いていってるのであろうか。体力も多少衰えはしたけれど100キロを走れといわれればまだ走れる。自転車でアメリカ横断をしろといわれれば明日にでも出発できる自信はある。夢も目標も希望もある。僕はまだ若い。決して「もう年だ」なんて思いたくもない。ただ、もう子供ではないのだから、46歳という年齢にふさわしい生き方はしようと思う。青春とは心の持ち方。肉体は衰えたとしても、心も魂もまだ衰えてはいない。46歳には、46歳なりの青春があるってことだ。サミュエル・ウルマン「青春という名の詩」(Photo:グランド・ティートン国立公園 アメリカ・ワイオミング州 1991年)
2006.10.22
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45歳最後の1日もあと1時間と少々。明日から46歳。どういう偶然か知らないが、自分はシアトル・マリナーズのイチローと同じ誕生日。年収は何倍も違うのだけれど、何かしらきっと共通点があるのだろうか。もう数年で50代になるなんて、全く信じられないのだけど、あくまでも現実なのだ。アラスカやカナダ・ユーコンを走っていたあの頃の気持ちに似ている。先には熊も出てくるだろうし、ラフロードを進まなければ前には行けない。ここまで来たらあとに引き返すこともできない。何があろうともとにかく前進なのだ。誇り高き戦士のように、潔く一途な生き方を。あきらめない、くじけない、間違いや失敗を恐れない。正々堂々と、恥じることのない自分を生きよう。(Photo: Vagabond号と筆者 1992年)
2006.10.21
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地平線の向こうにはいつも未来があった旅人は時には登り屋(Hill Climber)となりまたある時には地平線を追いかける人(Horizon Chaser)となりまた別のある時には峠師(Pass Hunter)となったしかしその正体は夢追い人(Dreamer)常に夢を追いかけてひとつやふたつ夢をかなえただけでは気が済まない永遠に果てることのない夢を見続けながら追い求める人夢がある限り坂を登り峠を越え地平線を追いかけるやがてその果てには宇宙と世界の終わりがあって時間も空間も存在しない過去も未来も現在もない生や死さえもありえない全てが始まり全てが終わる場所が存在するそこでは全てがひとつになり永遠が今一瞬に凝縮されるそんな理想郷に向かって今僕は一分一秒を生きている今日が始まれば昨日は終わる明日が来れば今日は終わる自分という人間の中に宇宙が存在し永遠という時間が秘められている明日に向かって今日を生きる過去は消せないけれど未来は空白のキャンバス今という時間を思い通りに描けばいいのだから(Photo:ナラボー平原 西オーストラリア 1995年)
2006.10.20
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ためらわない 迷わない何をいわれても まわりのすべてのこと気にしないでそこから見ていて あのやさしい眼で 走りたい 君のこと 感じながらいつまでも ときめいていて 遠くを見ていたい変わらないものが どこかにあるはず小田和正「ためらわない 迷わない」 (アルバム“Oh!Yeah!”から)(Photo: ワナカに向かう峠道にて:ニュージーランド南島1995年)
2006.10.19
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*特集:衝撃の映像!!~スポーツ編*スポーツは時としてスピード、スリル、危険、驚愕を伴うもの。「衝撃の映像」10のシーンを面白画像でお楽しみ下さい!1)ノックアウトの瞬間!2)転倒!復帰!3)頭突き!?4)パンチ炸裂5)万引きの瞬間!6)世界最速!7)絶体絶命!!8)奇跡のジャンプ!9)魔球!?10)挑発(写真:事故現場での記念撮影…なんてしてる場合じゃないですね)
2006.10.18
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*クマ異変* 人を怖がらなくなり頻繁に出没 (毎日新聞)クマのよく出る年だ。里にも頻繁に現れ、17日は滋賀県長浜市の民家の倉庫に侵入、大捕物となった。木の実の不作が原因との見方もあるが「本当のところは分からない」と専門家たち。昨年の3倍ものクマが捕獲された長野県に見る、クマの異変とは。【藤原章生】「捕らえたのを見ると、やせたツキノワグマじゃない。結構太くでかいクマが里まで下りてくる。これは、我々の間でも不気味なミステリーなんです」。信州ツキノワグマ研究会代表、林秀剛(ひでたけ)さん(70)は、クマの出没が多い原因を突き止められずにいる。林さんは90年代半ば、生ゴミを狙い山小屋に群がるクマの対策を考えようと研究会を始め、04年に非営利組織(NPO)登録した。長野県内での今年4月から9月末までのクマの捕獲は398頭で、昨年同時期に比べ3倍に上る。県内のクマが冬眠前の秋に主に食べるのはドングリ、つまりミズナラやコナラの実だ。東北では主にブナの実となる。クマは初夏に交尾し、秋に十分に食いだめしないと、冬眠中に流産しやすくなる。「昨年は木の実が豊作だったため、例年よりクマの出産率が高まった」と林さんはみる。今秋は木の実が不作のため、クマがエサを求め里に下り、人と遭遇する機会が増えていると多くの専門家は指摘する。だがこれは単なる「通説」という見方もある。長野県生活環境部自然保護チームの担当者は「木の実不作説は幾つかの推測の一つ」と話す。木の実の季節に入る前の8月末時点でも、県内でのクマの目撃は1953件と昨年同期910件の約2・1倍を記録したからだ。このうち里での目撃は、昨年の536件に対し今年は1236件と2.3倍に増えている。つまり、木の実のなる前から、クマは里に出没しているのだ。クマが人間を恐れなくなったという説も強い。日本の狩猟者数は50万人いた70年代をピークに急激に減り、00年時点では約20万人になっている。しかも全狩猟者の4割が60代以上という。「銃声や人に追われたことのないクマが多く、一方で餌付けする人もおり、クマが人を怖がらなくなった」と林さんは言う。また、旧来の村が廃れ、「クマにとって山と里の境界があいまいになり始めているのでは」(同県担当者)との見方や、クマの通り道だった場所が別荘地となり、クマとの遭遇が増えている面もある。関西野生生物研究所の川道武男さん(62)は「日本の森林システムの変化がじわじわと野生動物の生態に影響を与えており、今年だけの話ではない」と語る。「造林地の多くが枝打ちや間伐もされず放置されている。この結果、造林地は暗く、森の低層植物を食べるシカやイノシシなどのエサ場も減り、農業被害は年々深刻になっている」それを踏まえ川道さんは「日本の農業、林業、自然保護など全体を見すえ、野生動物との共生という未来像を考えねば、解決は望めない」と警告する。 [毎日新聞10月17日] ********9月19日当ブログの「熊に罪はない」でも書いたのだが、今年は熊に関するニュースがかなり多い。「熊による被害」と各ニュースは扱っているが、熊にとっては「人間による被害」とでも言うべきか。残酷なのは、頭をナタでかち割られた熊のニュース。熊も自分の命を守るために人間と戦わざるを得ない状況になったら当然抗戦する。当たり前のことである。人間がやみくもに乱開発したがために、熊もエサ不足で困っている。人里に接近しなければ食べ物が得られないのだから仕方ない。熊との共存はなかなか難しい問題かもしれないが、無制限にハンターが撃ち殺していけば、必ずや個体数は激減する。絶滅したニホンオオカミの二の舞いを踏むことになる。殺さなくても住むような対処法を考えていかねばなるまい。
2006.10.17
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16日午後10時半ごろに部屋のパソコンの前に座り作業を始めたのですが、気がつけば(パソコンのキーボードの上に両手を置いたまま意識を失っていたらしい)もう日付が変わって深夜1時20分。忙しい月曜日でした。休む間もなく走り回って、一日の終わりにやっと深呼吸できたって感じ。最近、夕食を作り始めるのが午後9時くらい。食べて片づけが終わるともう10時前。楽天ブログのお気に入りの皆さんのところを一通り訪ねてから自分のブログを更新します。職場でこの作業をやっておけば比較的楽なのですが、自宅に帰ってからやろうとすると、いつも今日のようなありさま。以前寮の仕事をしている時に、寮監室のソファの上でノートパソコンを膝の上に置いたまま座って朝を迎えたことが何度かありました。冬場などは寒いのですが、ノートパソコン全体が温かくって気持ちよく眠れたことも。時にめちゃくちゃ熱くなるのですが…(笑)。寝相がいいのか、ノートパソコンを落とすことなく、同じ姿勢のまま眠りこける。これはひとつの特技といっていいのでしょうか。夕食で缶ビール2本飲んだのがいけなかったのかな。まぶたの前に睡魔がやってきて、瞬間に意識のみ連れ去られる。北朝鮮のスパイに拉致される時に、頭から頭陀袋(ずだぶくろ)かぶされるらしいですが、まさにそんな感じ。気がつけば北朝鮮行きの船の中…。そんなの嫌ですよね。同じ日本人でそんな経験をされた方には気の毒でしたが…。疲れをためないうちに休まないと…。皆さん、お疲れ様でした。明日も皆さんにとって、私にとってもいい一日でありますように…。(イラスト:「ライダー心模様」…天神橋5丁目さん、G-ベイブさんらバイクマニアに捧ぐ)
2006.10.16
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今頃ハリーさんは、高知県で行われている四万十川100キロマラソンの中間地点を過ぎた頃だろうか。初めての100キロマラソン、「何が何でも完走」という気持ちは誰にもある。力みすぎてオーヴァーペースになってやしないかという不安…。自分が走るわけではないのに妙に気になってしまう。今朝のロードワークは15キロ。ハリーさんが100キロスタートする午前5時半に合わせて自分もスタートした。気持ちだけはスタートラインに立って、100キロの一部を疑似体験する。一粒の星砂さんが、自分のお気に入りのデイヴィッド・サンボーンを紹介してくれていた。サキソフォン(サックス)をこれだけ鳴かせられるアーティストはいない。音符の一つ一つが文字になり、言葉になり、聴く者の耳に到達する。久々にCDを取り出して"Hide Away"を聴いてみる。サックスはもはや楽器ではなく魂と心を持った生き物になる。まろやかでメロウな音色にしばし酔い痴れる。ロードバイクマニアのG-ベイブさんや天神橋5丁目さんらの頭の中にはやはり自転車のことが浮かんでいるのだろう。自転車を中心に、ペダルと人生が回転している人たちだから、次はどのコースを攻めようかとあれこれ考えているのだろうか。今日は自分もロードバイクで外遊することにした。アップダウンが激しい道だけど、いつも車で走るのとは違うフィーリングを楽しめるからいい。デイヴィッド・サンボーンのうなるようなサックスをBGMに走ってみる。胸がキュンと締め付けられるような気持ちで、全身が痺れてしまいそう。ペースを上げても、ピッチを速くしてもちっとも苦しくない。ハートレートモニターが180をオーヴァーしても、まるで自分の体じゃないみたい。まもなく峠だ。ダウンヒル。勢いに乗って駆け出そう、疾風(はやて)のごとく…。僕の体は空気に同化し、風に溶け込んでいく。風の言葉は歌になり…木々のざわめきと対話し始める。一陣の風は、光を友として、やがて漆黒の闇へと消えていく…。(イラスト:「炎のランナー」*ハリーさんに捧ぐ)
2006.10.15
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ランナーなら皆知っている走ることが大地とのコミュニケーションであるということを
2006.10.14
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いつの頃からか、僕達は放課後、通用門のそばで待ち合わせをして、夕暮れの河川敷の道を一緒に駅まで歩くようになっていた。太陽が西に傾き始めると次第に川の流れがオレンジ色に染まっていく。橋のたもとにたたずんで、二人でそんな光景をじっと眺めている時間が僕は好きだった。わずか20分ばかりのことだったが、ゆっくりとしたペースで、僕達はほぼ毎日同じ道を歩き続けた。僕は彼女にそれほど多くのことを語らなかった。彼女もまた彼女で、慎重に言葉を選びながら、必要なだけの言葉を僕と交わすようにしていた。彼女の横顔を見ながらいつも僕は、その一瞬が永遠に続くものだと確信していた。永遠に僕は彼女のことを思い続けようと決めていたし、彼女のことを忘れてしまうなんて絶対にありえないことだとも思っていた。あの時の僕達はそれだけ純粋で汚れなど知らない存在だったのだ。僕達に見える世界はあまりにもちっぽけで狭いものだった。それゆえに、大人というものがみなずる賢くていい加減な存在に思えたのかも知れない。何よりも僕達が恐れていたのは大人になってしまうことだった。永遠に無垢で無邪気な17歳のままでいられるものならそうしたかったのだ。29年という歳月が一体何を意味するのか、今もって僕にはよく分からない。気がつけば僕は一人の大人になっていて、この29年間で失われてきたもののことをあれこれ考えている。「どうして僕はこんなにも早く大人になってしまったのだろう?」まるで行き場を失った野良犬のように、僕は自分のいるべき場所を求めてさまよい続けている。どこに行こうとも、今の僕自身には何ら変化はないというのに…。機会があるごとに学生時代の友人達と、ありふれた幸福と不幸についてお互いの持論をぶつけ合う。みんな限られた時間の中で、仕事や家庭、趣味にベストを尽くしている。どんな状況であれ、誰もが日々を生き抜いていくことに必死なのだ。17歳の頃にはなかった様々な葛藤や苦労が今怒涛(どとう)のごとく押し寄せている。そこから逃げることなどできはしない。あるがままに「今」という時間を受け入れること。我々にできるのはきっとそういうことなのだ。あの時の彼女が中学時代の先輩という男性と結婚して、二人の子供がいるということを,友人から聞いて知った。もう20年も昔の話だ。友人から話を聞かされるまで、僕はすっかり彼女のことなんて忘れてしまっていた。時は流れ、僕を取り巻くすべてのものが変わってしまった。あの頃、彼女と二人で歩いた道を思い出しながら、近くの堤防を時々一人で走っている。夕暮れ時、川の流れがオレンジ色に染まるのを見る。しかし、悲しいことだけれど、もうその色は僕の目には、あの時ほど鮮やかに映ることはない。永遠に17歳のままでいられるのなら、僕は夕陽を背に、もう一度あの道を歩いてみようと思う。もし、永遠に17歳の自分でいられるのであれば…。
2006.10.13
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午前5時、ランニングシューズを履いて福井市の街に出る。午前2時ごろまで営業している飲食店があったりして、朝帰りの人々もいるようだ。ゴミ拾いをしているボランティアのおじさんたちも活躍している。朝が得意というよりも、根っから朝が好きな人間たちが、世の中には少なからずいるということだろう。朝1時間走っただけで泊まっているホテル周辺の地理はほぼ完璧。これも旅を通じて身につけることができた特殊な能力なのかもしれない。ほんの数時間その町にいるだけで、その町で生まれ育ったかのような風貌と化してしまう。地元民よりも地元民らしく振舞うこともできる能力。風景に溶け込んでしまうかのように、ごくあっさりすっきりとその町に吸収されてしまうのだ。町の機能の一部でも果たせるのならなおいいのだろうけれど…。たいていの場合、旅人は人当たりがいい。どんな町に行っても順応力を持っているがために、毛嫌いされることが少ない。経験から学ぶことの大切さ…すぐに仲間を作る方法や、瞬間的に町の概観を知るテクニックなどを本能的に身につけている。旅人が旅人であるための条件を常にクリアするためには、変化に敏感であること。ごくわずかの変化を捉え、それを的確に分析し、その変化にどう対応すべきか即刻答えを出せること。「旅人」という人種・民族を神様は特に作らなかったかも知れない。だが、個人的には、「旅人」というジャンル分けができて、紛れもなく自分自身がそこに属しているのだと信じている。
2006.10.12
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出張で福井県に来ています。中部私学教育研修会が明日と明後日の二日間こちらであって、今は福井駅前のアパホテルから更新中。街の中だけどすごく静かです。人口がそんなに多くないのか、繁華街もすごくひっそりとしていて不思議なくらい。三重県伊賀市から約3時間。京都からサンダーバード31号(本当はサンダーバードは5号までなんですね…このネタが分かる人は40代かな…?)、そう「雷鳥」と呼ばれる北陸方面行きの特急でここまで来ました。電車に乗ること自体めったにないのですが、特急に乗った経験なんてまだ今まで数えるほどしかありません。電車の旅は好きですが、新幹線に乗った経験もごくわずか、のぞみ号にはまだ一度も乗ったことがないのです。車内で村上春樹の「アフターダーク」を30分程度で読んで、あとは眠ってました。昼食をとって伊賀市を出てきましたが、その時間かなり激しく降っていた雨もいつの間にか止んで、福井につく頃には夕焼けの空がとてもきれいでした。明日も晴れのようです。同僚のM先生が同行してて、ホテルについた後夕食をいっしょに食べ、自分は散歩がてら街をぶらり散策してきました。実は明日のランニングコースを考えていたのです。近くに公園があるようなのでその周辺を走るつもりです。もちろん起床はいつも通り4時40分。まだ暗いだろうけど…。旅先でホテルに泊まるのもごくまれなこと。第一、自分の金でホテルに泊まることなんてまずない。これまでたくさん旅はしてきたけれど、その大半は野宿。テントの中で寝袋暮らし。国内を野宿して旅してた時も、駅やバス停の待合室でも寝たし、スーパーやホテルの軒先でも寝たし、北海道では無人駅のホームでも寝たし(寝返り打って線路に落ちはしないかと心配だった)、市民公園や農家の納屋や倉庫でも寝た。海外ではつぶれて廃屋と化したレストランのフロアで寝たりもした。どこででも寝ることができるのは、ある意味では、神様が与えてくれた特殊な才能(能力?)だろうか?街を歩きながら、遅くまで開いているスーパーでビールやら酎ハイやら買ってきて部屋で飲んでます。酔いが回って非常に気持ちがいい状態。痛みや苦痛を伴わないのだとしたらこのままあの世に行ってもいいかな…(ってか、まだ早い!)。出張先まで仕事を持ってきてしまった。でもまったくやる気NOTHINGです。酔っ払ってこのまま意識を失ない朝を迎えるのかしらん。それはあまりにももったいない。生徒には「やらないといけないことはやらないといけない」と教えています。そう、義務は果たすべきもの。そう言っている本人がいい加減やってては説得力ありませんね。いろいろと考えた挙句、もうひと仕事することにします。(PHOTO:秋の日の夕暮れ、愛車VAGABOND号=アメリカ横断直後の1991年に手に入れたマグネシウムフレームのマウンテンバイク、乗り出してからかれこれ15年にもなる)
2006.10.11
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1991年10月9日(日本時間10日)、米ニューヨーク、マンハッタンの南端、バッテリーパークの前にたどり着いた。海の上にぽつんと浮かぶのは自由の女神像、距離が離れているので小さいけれど、形ははっきりと見えている。同年6月1日、カリフォルニア州ロス・アンジェルスをスタート、131日かけて1万1627キロの轍(わだち)をこの大陸に残し、この日その勤めを終えた。「もう走らなくてもいい」という安堵感よりはむしろ、「もう終わってしまったのか」という物足りなさを感じながらも、旅を終えた達成感がじわじわと自分の中に膨らみ始めていた。あれから15年。時は流れた。いや、自分自身にとって、時間は流れることなく蓄積されていったというべきだろうか。古いアルバムの写真を眺めれば、そこだけ時間が止まってしまったかのような錯覚を感じる。写真の中の過去の自分は、カメラのレンズの向こうにある未来という時間をじっと見つめていた。レンズの向こう側で待っているであろう未来の自分自身を想像していたに違いない。今、そのレンズの向こう側の世界にいる僕は、過去に存在していたであろう自分に思いを馳せる。あの日、あの時、あの場所で、僕は一体何を思っていたのだろうか?「今」という、過去と未来をつなぐ時間だけが確かなもの。「今」という時間しか生きることができない者の宿命として、「今」の自分を精一杯生きるべきなのだろう。次の瞬間には自分はもう存在しない(存在できない)かも知れない。儚(はかな)くも脆(もろ)いひとつの命を完全燃焼させることが自分の使命なのだ。ひとつ夢はかなえたけれど、それですべてを終わらせたくはない。貪欲な夢追い人の夢はまだこれからも膨らみ続けるだろう。夢は決して見るだけのものではない。すべての夢はかなえられるためにある。(Photo: 自由の女神像)"Dream Is Still Alive"
2006.10.10
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北朝鮮が核実験を行ったというニュースを知りました。許せません!!何を考えてんだか知らないけど、いい加減にしなさい!!真のリーダーなら、国民が平和で健康で幸せな暮らしができるようにまず考えるべきでしょ?金さん、分かってんの?国際社会のルールが分からない人は、今すぐリーダーをやめなさい!!以上、怒りを込めて2度目の更新終了。(Photo: 戦車はこの先通行禁止です)
2006.10.09
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【最近のニュースから】「小中高生の体力低下続く、朝食抜きの影響明らか」朝食を食べなかったり、テレビを見る時間が長かったりする子供の体力は相対的に低いことが8日、文部科学省から公表された2005年度「体力・運動能力調査」結果で明らかになった。また、小中高生の体力は1985年をピークに低下傾向が続いていたが、今回の調査でもこの傾向に歯止めはかからなかった。調査は05年5月~10月、6歳から79歳の男女計約7万4000人を対象に実施。同時に、朝食の有無やテレビの視聴時間、睡眠時間などの生活習慣についてアンケート調査をした。今回は特に、6歳(小1)から17歳(高3)に注目し、持久力を測る20メートルシャトルランの結果について、生活習慣との関係を分析した。 (読売新聞) - 10月8日21時9分更新*******ゆとり教育が始まってから、子供たちの学力が低下した。低下したのは学力だけではなかった。体力・気力・生きる力、いろんな力が低下しているのだ。責任は親にある、教師にある、大人にある、と思う。子供に力をつけてやるのは大人の仕事。ライオンが子ライオンに獲物の捕まえ方を教えてやり、自分で獲物を捕らえられるようになれば、それは自立できたことの証。自分で獲物を捕まえられないライオンは死を選ぶしかない。早い話が、今の子供たちは恵まれすぎているのだ。何一つ苦労せず、食べ物もお金ももらえてそれをよしとしている社会のありさま。何かをやらせてみて「無理だったらやめておきなさい」という教育と、「やれるまでとことんやってみなさい」という教育と、どちらが強い人間を育てるだろうか。子供は頑張ろうとする、頑張ってできたことが大きな経験になる、自信になる。簡単にあきらめさせてしまえば、すぐあきらめてしまう人間ができることになる。忍耐、根性という言葉が死語になりつつある。我慢する生き方はもう古いと唱えられる大人もいる。教師が生徒に無理をさせると親がまず文句を言ってきたりする。それで生きる力は身につくだろうか。子供が自殺する。親は「いじめがあった」と学校を責める。確かにいじめは良くないことである。強く生きていくことを教えられなかった親は責任を問われないのだろうか。体育の日、元は1964年の東京オリンピック開催にちなんで10月10日に設けられたもの。「ハッピーマンデー」が導入されてからは10月の第2月曜日に移行した。ハッピーマンデー、聞こえはいいがあまりハッピーでもない今の時代。いい汗をかいてさわやかな気分になろう。(Photo:鍛えれば君もスーパーマンになれる!!)
2006.10.09
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ここ忍者の里、三重県伊賀市(旧上野市)で毎年11月最終の日曜日に上野シティマラソンが行われている。今年で6回目の出場。最初の2回はハーフに出場していたが、ここ4年ばかり教え子たちと出る機会が続いて10キロの部に参加している。19年前に10キロのベストタイム35分12秒が出て、その直後のフルマラソン(ホノルルと篠山マラソン)で2回続いて2時間52分台が出た。今思えばあの頃が自分にとって絶頂期で、マラソン黄金時代でもあった。無理をせずにこつこつ練習していればフル2時間40分台、10キロ34分台も出せたはず。1990年は節目の年であった。6月に阿蘇カルデラ100キロマラソン(第一回)に参加。9時間17分で完走。7月にはびわ湖アイアンマン(水泳3.9キロ、自転車180.2キロ、マラソン42.2キロ)を完走。8月始めに京都から東京560キロを11日かけて炎天下を走る。23個も足のマメがつぶれ、体がガタガタになるまで走った。この無理がしばらく後を引き、自律神経失調症あるいは慢性疲労症候群になる。「オーヴァートレーニング症候群ですよ」スポーツクラブのあるインストラクターからはそう言われた。練習量を減らしたものの、すっきりしない。朝起きてすごくだるいけど、トレーニングして汗をかくと普通に戻る。でもじっとしているとやはり体が重くなる。運動しないとまともにならない体になってしまったのだ。鍼に行ったり、カイロプラクティック通いしたり、整骨院、整体、マッサージなどありとあらゆる治療を受け、ある月には5万円近く医療費がかかったことも…。12月のホノルルマラソンも申し込みをしたので練習をしないと…と思いつつ、ほとんど練習せずに3時間10分程度で何とか完走はする。そのあとはしばらく自嘲。翌1991年の3月にいったん教職を離れ、6月に自転車でアメリカ横断旅行に旅たつ。マイペースで旅をしている内に何とか体も元に戻ってきたようだった。アメリカ横断を終えた翌年また講師として教壇に復活、2年働き、再び旅の空へ。アラスカ~カナダ横断、ニュージーランド1周、オーストラリア横断、そして結婚。夫となり父となる。単身赴任生活が続き、仕事に追われて家庭を顧みず、結婚生活が破綻。4年前からまた一人暮らしが再開。砂漠や平原でひとりキャンプする人間には孤独が似合うのだろう。黙々と走り続けるのが好きだ。映画「フォレスト・ガンプ」のフォレストが大陸を走って横断していたように。意味もなくわけも分からずただ走り続ける。運命を風にまかせて走り続けるまでだ。ゴールはない。既にスタートしてしまった人生、行き着くところまで走り切ろう。それが、この世で自分に与えられた使命だから…。Cast your fate to the wind.(運命を風にまかせて)最近お気に入りの言葉…。「なるようになれ」ではなく、風が自分を導いてくれるのだと信じて、導かれるままに走り続けるということ。(Photo: Honolulu Marathon 1987)
2006.10.08
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今年はピースマークとラスタカラーが流行するらしい。津(三重県の県庁所在地)に出る機会があって、サティのアジアやアフリカの民芸品などを扱うエスニックショップに入ってみた。ピースマークのキーホルダーとペンダントがあったので買って帰ることにした。アメリカで反戦運動が行われていた60~70年代に流行した「ピースマーク」が、今また復活の兆し。街を歩く若者たちのTシャツやアクセサリーなどにこのマークがあしらわれている。一説には平和のシンボル「鳩」の足と言われているが、それはどうやら俗説だそうだ。*「ピースマーク」についてはコチラエチオピアの国旗に使われている緑と黄色・赤の3色がラスタカラーと呼ばれているが、「ラスタファリズム」がラスタの語源だということを知った。こちらもレゲエのふるさとジャマイカの歴史に関わっている。「反戦」「平和」という政治的なイデオロギーを抜きにして、若者たちはファッション感覚でいろんなシンボルをとらえる傾向にあるが、歴史的・政治的な背景もやはり学ぶべきことであろうと個人的には考えている。戦後61年を過ぎた今も世界中で紛争やテロが絶えない。差別や偏見、いじめなどは至る所で起こっている。実に愚かしいことである。本当の意味での平和は、人々が個々の欲望を捨て、ひとつになろうという気持ちが生まれた時に誕生するのだと思う。神様はどうして人間の世界を平和にしてくれないのであろうか。平和とは、人間が自ら苦労して努力して得られるものであるから価値があるのであろうか。*世界平和のために
2006.10.07
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今日から3連休という方も多いのではないでしょうか。私メは今日で第2学期の中間考査が終了。ほとんど終わってない6クラス分の採点と提出されたノートチェックに終われることでしょう。顧問をしている硬式テニス部の大会も近いため、この3連休も連日練習が続きます。机の上に詰まれた仕事の山は、そのままストレスの材料でしょうか?いえいえ、そんなことはございません。ありがたく仕事させていただいてますよ。雨が続いていてしばらく走れなかったけど、今朝は5時前にスタートして12キロのジョグ。走らないでいつもと同じ量を食べてると、そのまんま体重になるというのがやはり自分も中年であると言う証(あかし)。食べた分だけ運動する、運動したらその分は食べる、を実行しないとダメなんですね。体育の日がハッピーマンデーに変わってもうどれくらいたつのでしょう?先月18日の月曜日に仕事場から銀行行ったらしまってたので、「なんで?なんで?」って思ってたらハッピーマンデーに変わった「敬老の日」でした。みなさん、体にいいことしましょう。そこのパソコンいじってるあなた、ひとり部屋でくすぶってちゃだめですよ。(ってか自分もですねェ…【笑】)(Photo: 関西サイクルスポーツセンター「変り種自転車コーナー」1984年)
2006.10.07
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全力でのぞめば不可能なんてことは何もないWith all your mightNothing is impossible(Photo: 向かい風の中、カナダ大平原を走る 1994年 二度目の北米大陸横断中…追い風なら時速30キロ、向かい風なら時速10キロが精一杯 )
2006.10.06
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「ある~日 森の~な~か 熊さ~んに であ~った♪」これは合成画像ですが、アラスカやカナダを自転車で走ってて、これくらいの距離(約30メートル)でグリズリーベア(灰色熊)に出会いましたよ。熊は四本足で走ると時速50キロは出せるそうですから、40キロも荷物を積んだ時速15キロでちんたら走ってる自転車は熊と競争しても勝てっこないのです…。(本日2回目の更新…中間テスト2日目。採点しないといけないのに…)
2006.10.05
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夢から覚めた夢を見ていた時、僕はまだベッドの中だった。それが夢だと気づくまでにそんなに時間がかからなかったが、それさえも夢であることに気づくまでには相当時間がかかってしまった。なぜなら、この時、僕はトータルで9つの夢を同時に見ていたからだ。ひとつずつ夢から覚めていくのは困難な作業でもあった。夢のまた夢のまた夢の…。下手をすると、夢をひとつ飛ばして目覚めてしまうことにもなりかねない。7番目の夢を飛ばして6番目の夢から目覚めても、結局のところ、永遠に夢から目覚められなくなってしまう。どんなに時間がかかっても、ひとつずつ、確実に目覚めていく必要があるということなのだ。話を最初に戻そう。僕は夢NO.1を見ていた(分かりやすいように番号をつけよう)。夢NO.1の中で僕は夢NO.2を見ていた。その夢NO.2の中にいた僕は、夢NO.3を見ている真っ最中だった。夢NO.3は、当然のように夢NO.4に含まれる。かようにして、夢NO.9の中に夢NO.8からNO.1までがうまく納まっていたのだ。ロシアの人形のおもちゃ「マトリューシカ」のように、人形の中から次から次に同じような人形が出てくる。それは奇妙なことではあるが、自分にとっては別に珍しいことでも何でもない。箱を開ければ箱が出てきて、さらにその箱の中には箱…。3番目の箱を開けるためには、必ず4番目の箱を開けなくてはならない。一番最後の箱にたどり着く頃には、かなりの体力を消耗することになる。9つの夢から覚めるのも同じだ。自分自身で数えていなければ、それが何番目の夢かなんて誰にも分からないのだから。てっきり現実だと思っていたものが、実は夢であったということにずいぶん時間が経ってから気づくことだってよくある話。今こうやって夢について語っているけれど、これだって現実なのかどうか怪しいものだ。現実の自分をしばしば見失うことがある。夢の中にいる時間が長ければ長いほど、現実の自分は現実味を失って夢の中を彷徨い続ける。時に夢が現実以上にリアルなものとなる。夢の奥深くに入っていけばいくほど、夢は現実と区別できないくらいリアルさを増していく。実際に夢の中の方が居心地がいい場合も多々ある。うっかり自分がいくつ夢を見ていたか数え忘れることがある。そうなれば状況はいっそう深刻だ。永遠に現実に戻れないまま、夢の中で一生を終えてしまうことになる。誰かに起こしてもらっても、本当の自分自身は夢の中。飼い主不在の犬のように、一人では何もできず、どこにも行けない。意志を持たぬ人間のまま、夢遊病患者同然になってしまう。ああ、こうしている間にも睡魔が襲ってくる。すべての夢から目覚めたはずだったが、よくよく考えると、今2番目と3番目の夢の間にいて、また3番目の夢に逆戻りしつつある。いや、3番目と4番目だったか?4番目と5番目…?夢の中で眠ってしまうのが一番怖い。夢の中での死も同じ。脳は夢と現実との区別ができなくなってしまうのだ。ああ…眠い…。これは夢なのか現実なのか?夢だとしたら一体何番目だったのか…?…そこで、僕の意識は途切れた…。
2006.10.05
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旅の始まりはいつもワクワクドキドキどんな人に出会うだろうどんなハプニングがあるのだろう旅の計画を立てている時が一番胸がときめくちょうど初めてのデートでデートでしゃべるセリフとか行く場所をあらかじめ計画しておくのにも似ている初めて訪ねる土地では自分はよそ者なのかも知れないでも昔からその土地にいたかのようなふりをして地元民になった気持ちで街を闊歩するその土地のことばを知りその土地で一番おいしい物を食べる銭湯に入って隣にいたおじいさんに何気なく話しかけ、その土地の昔話を聞くたった10分話を聞く間にも何十年かその土地にいたかのような気持ちになる市民公園の一角にテントを張れば地元の子供たちがやってきて「何してるの?」そこから友達になることもできる「大きくなったら僕も旅に出る」そのひとことが自分のエネルギーにもなる愛と平和の使者(メッセンジャー)そんなたいそうなものではないけれど僕は何か大きな力に動かされるようにして旅を続ける一本の道をたどることが旅人の仕事一本の道にまつわるドラマを演じればそれでいい旅人の心は走る街から街へ(Photo:阿蘇山草千里 九州一周ツアー1983年)
2006.10.04
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ゆったり まったりどんな風に過ごしても同じ24時間慌てても 急いでも あせっても あくせくしてものんびりしてても くつろいでても だらだらしてても のらりくらりしてても一日という時間には何ら変わりはないどうせならQuality of Life(人生の質)を高めるためにたっぷり時間を使ってみようよ好きな音楽を聴くもよし美しい風景や絵画を見るもよしお気に入りの小説を読むもよしおいしい物を食べるもよし生きていることの真髄を心から喜べる時間ゆったり まったり何ものからも束縛を受けず完璧に解き放たれた自由な時間ゆったり まったり人生は一度限り*****(Photo:美幌峠 北海道1周ツーリング 1982年)
2006.10.03
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気がつけば46回目の誕生日まであと20日。クールでお茶目なバツイチ中年オヤジは今日も「全力」で頑張っている。朝目覚めて小雨が降っていたけど、ウインドブレーカをまといいつものコースを走った。そう寒くもなく、むしろ霧雨のような雨が心地よく感じられた。中間考査まであと2日。昨日の夜集中して頑張ったおかげで、5種類のテストの内4種類がほぼ完成。今日は7時間目まで授業があった。7時間中5コマ(5クラス)の授業。「ふぅ~~~」7時間目が終わった後、ため息をついたまましばらく職員室の自分の席の所で身動きできないくらい疲れていた。そこへ6年生(高校3年生)のある男子生徒が進路相談へ。「先生、自己推薦書書いたんで見てもらえますか?」この時期はAO入試や公募推薦入試で忙しい時期なのだ。「ちょっとコーヒー一杯だけ飲ませて」そう言ってインスタントコーヒーを作り、彼の書いた文章に目を通す。あれこれとアドヴァイスしたあと、今度は別の男子生徒がまた大学の資料を持って現れる。「先生、志願書できたんで見て下さい」試験問題を作ろうとパソコンの前に座るや否やこれである。「あいよ」さっと点検して問題がないことを確認、そして返却。「あと切手をここに貼って、必要な書類を全部この封筒に入れて、家の人に書留速達で送ってもらったらOKだから…」さあ、やっとテスト問題の作成にかかれる。時計を見ればもう6時すぎ。時間内に仕事が終わるということはまずありえない。かと言って、仕事を持って帰った日には、たいてい持って帰っただけで終わることがしばしば。夕食にビール2本飲んでひっくり返ってしまうのがオチ。ブログを書きながらパソコンを前にして座椅子でうとうとしてしまうことも珍しいことではない。朝4時45分に一日が始まり、深夜0時ごろまで一日は続く。次の日にできることでも、やれるものならその日の内に終わらせておきたいこともたくさんある。時間をうまく使えるように、いろいろと工夫も必要なのだ。未来を背負って立つ若者を育てている、そんな自覚と責任を持って日々の職務に当たっている。自分自身が義務を果たせる人間でなくてはならない。(Photo:かぼちゃのある風景4 重さ約20キロのお化けかぼちゃ)
2006.10.02
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昔々、といっても40年ばかり前のことだが、子供たち(特に男の子)にとってのたまり場となったのは駄菓子屋だった。ゲームセンターもコンビにもまだ存在しなかった頃、たいていおばさんかおばあさんが一人で店をやっていて、20~30円もあれば1~2時間は暇をつぶせたものである。店員と客の間にほとんどコミュニケーションが存在しないコンビニとは違って、駄菓子屋では店のおばさんとのコミュニケーションの中にも、社会的かつ教育的な要素があった。「おばちゃん、10円で~」*注:当時は10円でたこ焼きが5つ買えた。今となっては不思議だが、この駄菓子屋に入るのに、まず先払いをしていたということ。10円分遊んで使い終わったら店のおばさんが知らせてくれるというシステム。駄菓子やとはいえ、そこは単なるお菓子を売る店というだけではなく、エンターテインメントのためのスペース、今で言うところのアミューズメントパークに近い存在だった。とはいえそれは「デジタル」という言葉さえ知らなかった時代。そういえば生まれて初めてデジタル時計を買ってもらったのは中学を卒業したあたりだったか、今でこそ100円ショップでも売っている品物だが、当時としてはアナログ時計よりも何千円も高かったのを覚えている。駄菓子屋というところには神秘的なイメージがいつもあった。そう広くない店の中に、様々なおもちゃやらお菓子やらが詰まっていて、幼い子供にしてみれば宝箱のような、あるいは今の子供にとってはディズニーランドにも相当するような、摩訶不思議な世界だったのだ。銀玉の鉄砲やコマ、メンコ(関西では「べったん」と呼んでいた)、ヨーヨーなど、おもちゃそのものを扱うにもそれなりのテクニックが必要なものも多かった。それゆえに手先の器用な子供もたくさんいたはずだ。子供の遊びが変わり始めたのはいつの頃からだろう?住宅地がどんどん増えて子供たちの遊ぶ場所がなくなり、一方で子供たちは過熱する受験戦争のため塾通いで忙しくなり始め、ひとりゲームで遊ぶ子供が増えて行った。少子化が進む中で、子供たちには自分自身の部屋(名目上は「勉強部屋」)が与えられ、そこにはテレビ、ビデオ、電話が備え付けられているのは当たり前。孤立する子供が目立ち始め、同時に引きこもり現象も加速していった。ニート予備軍もこういった背景から生まれて来たに違いない。下町から駄菓子屋は消え去り、ゲームセンターやコンビニが子供のたまり場となる。「正義の味方(昔のヒーローは、登場する際には必ず自分の名前の前にこの肩書きをつけていたような気がする)」を主人公にした番組やスポ根(スポーツ根性)ものの漫画やテレビドラマが流行していた昭和40年代には、正義と邪悪の間にははっきりとした境界線が引かれていた。多くの子供が正義というものについて、はっきりとした価値基準を持っていたからこそ、ヒーローたちは勧善懲悪のために日夜闘いつづけたのである。悪は滅び、必ず最後には正義が勝つという構図である。勧善懲悪(かんぜんちょうあく)…善きを勧め悪を懲らしめる、今の若者には耳になじみがないかも知れないけれど、なかなか響きのいい言葉ではないか。21世紀に入り、あれからわずか40年余りの間に、この国は変わってしまったのだ。もはや古き良き時代は過ぎ去り、ヒーローも消え失せた。何が正しくて何が間違っているのか、明確な基準すら分からなくなってしまっている。大人にとっても子供にとってもそれは同じなのだろう。我々日本人は、何を心の糧として生きていくべきなのか。未来をよりよきものにしていくためには、過去から学ばなければならないことはいくらでもあるはず。1億3千万人の価値観がどこかで変わらなければ、未来は暗澹(あんたん)とした泥沼の中に消えていくしかない。
2006.10.01
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