わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年07月16日
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カテゴリ: 私のお気に入り

聖母(マドンナ)の画家として名高いラファエロは、37年間の生涯に50枚の聖母像を残しています。

今日は素敵な聖母子像を中心にラファエロを少し紹介します。

ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi) (1483年4月6日~1520年4月6日)
盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家

ラファエロの類い希なる才能は、彼の気品ある優雅な身のこなしに似ていたようです。
思いやりが深く、いつも取り巻きを従えており、ヴァザーリは「画家と言うより王侯にふさわしい」と彼の暮らしぶりについて語っています。

彼の絵と同様の優美さは、彼の生い立ち、父(ジョヴァンニ・サンティ)が宮廷画家であった事に起因しているのは間違いないでしょう。
幼少の頃から父により絵画の教育を受けた事はもとより、宮廷人との社交術をも教えられたのだと思います。元来おとなしい性格に加えて、宮廷人の洗練された物腰を身に付け流儀を心得た気品さえある美少年は、才能にも恵まれ、短い生涯ながらも宮廷人と友情をもわかち合い、庇護されるべき、愛されるべき存在であったようです。そして、加えるなら女性好きだった・・・。(女性に母を見ていたのかもしれないが・・・。)

下は 、「大公の聖母」(1504頃)  フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵
ラファエロ 2
21才のラファエロがフィレンツェに出て来たばかりの時に描いた初期の聖母像です。
聖母子をとりまく暗闇が作品全体に静謐(せいひつ)さ、穏やかさを与えていますが、当初は風景が描かれていたとも言われています。

下は 「草原の聖母」(1506年)
ラファエロ 聖母子 2
8才の時に母親が亡くなり、11才の時に父を亡くしています。当時の慣習、「乳母制度」を使わず、母の愛情で育ったラファエロにとって悲しさは大きかったものと思われます。母への思慕がこうした聖母子に映されているのは間違いないでしょう。

下は 「ひわの聖母(1507年)  ウフィッツィ美術館所蔵
ラファエロの聖母子 1
ピラミッド型の構図はレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を物語っています。ひわ(鳥)はキリストの受難の象徴です。この頃、これら安らぎに満ちた構図の聖母子像が多く描かれています。どれもすばらしいものばかりです。大抵は、貴族の依頼で描かれたものです。

ラファエロ21才(1504年)の時、フィレンツェに拠点を移し、ペルージャやウルビーノで残した頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式の影響を受けています。また、フラ・バルトロメオからも色彩や衣服のひだの描写の面で影響を受けており、ラファエロの画風は特にバルトロメオとの出会い以降変化しているのだとされています。

ラファエロのローマ時代が始まります。この経験は彼にとっては名声を得ただけでなく、大いなる財産となりますが、彼の早すぎる死の前には貴重な大作の制作時間だったのかもしれません・・。
1508年(25才)、教皇ユリウス2世に招かれてローマに渡っています。それは教皇が自分の使用するいくつかの部屋に絵を描いてもらいたかったからとされ、後に「ラファエロの間」とよばれる部屋となります。部屋は描かれた絵画の名を取り、、「ヘリオドロスの間」、「ボルゴの火事の間」、「セニャアトゥーラの間」、「コンスタンティーの皇帝の間」
とも呼ばれ、バチカンに行ったら見逃せない場所の一つとなっています。
「セニャアトゥーラの間」は、大切な書類の署名と捺印(セニャアトゥーラ)が行われるの事に由来する名です。フレスコで天井画と壁画を手がけ「アテナイの学堂」は前にも紹介)
ルネッサンス時代の哲学思想と古代の思想をキリスト教思想に合わせようとする努力をあらわしているとされています。
「火災の間」(1514年)も手がけていますが、多忙にして「ボルゴの火災」以外は弟子の手によるもので、ラファエロの手がけた間と言うには品格が下がりすぎていると言われています。

下は、多忙だったローマ時代に描かれた 「小椅子の聖母」」(1514年)
フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵
写真に入らないので削れていますが、トンドと言われる円形の絵画となっています。
ラファエロ 1
「火災の間」の制作時期とかぶっています。ラファエロ31~32才の円熟期にローマで描かれたこの作品は、ローマでの壁画制作を通じて磨かれた構成力に現れています。
フィレンツェ時代に描き続けた聖母像の集大成はローマの経験で完成されたといえるかもしれません。

聖母マリアに気高さを、幼児キリストに頼もしさを、不安げながらも讃え見守る幼児期の洗礼者ヨハネの図は私の大好きな聖母子ですこの「小椅子の聖母」は画家の死後にトスカーナ大公に買い取られているそうです。彼が最後まで所有していたのは何故か?
16世紀半ばまでメディチ家に所有された後、1800年前後にナポレオンの戦利品としてパリに渡っているそうで、ある意味数奇な運命に思えますが、この絵が見る人の心をとらえて放さないからなのかもしれません。
今あるピッテイ宮の美術館に戻るのは1912年です。
(欲しいけれど手に入れられる絵ではないから、自分で模写して立派な額縁に入れて飾っています。それも私のこだわりですかね・・。)

1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしていますが、1520年、誕生日と同日に37歳の若さで亡くなってしまいました。
もし、もう少し長く生きて作品を残してくれていたら、私達はもっと穏やかで、幸せな絵に出会えたかもしれません。






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Last updated  2009年07月16日 23時13分04秒
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