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リンク先をのせました。アメリカ編を1度整理しなければ・・と思っていたのですが、イエローストーン国立公園と同様に開いて見たらカテゴリーの変更だけではすみませんでした。写真もなぜか変色? 入れ替えしたり、新たに足したりとグランドティートン国立公園もちょっと大変でした どうも思い立ったらやってしまわないと次に進めない性格故に長引いてしまってスミマセン m(_ _)m お勧めブログ・バックナンバー4 (グランドティートン国立公園 他)グランドティートン国立公園(Grand Teton National Park)1~8ワイオミングおまけ ジャクソンホールの幌馬車 1~2ワイオミングの動物シェーンの時代に見るアメリカ開拓史の事情ホームステッド法(Homestead Act)アメリカの国立公園トップ10の一つグランド・ティートン国立公園(Grand Teton National Park)は前回紹介しているイエローストーン国立公園のすぐ南に位置しているのでツアーであれば、だいたいセットで回るコースとなっています。ゲートとなるシティはワイオミング州ジャクソン(Jackson)。ジャクソンには空港もある。アメリカで唯一の国立公園内の空港だそうだ。1929年、国立公園に指定されたのは18番目と割りと古い方。見所は西部開拓史時代を描いた映画シェーンの世界感と、相反するロッキーのダイナミックな自然。広大な草原(Prairie)地帯は西部開拓史に想いはせてしまう所。そこにあたり前のようにある平原も、実は先人が苦労して切り開いた草原です。そしてバックにそびえる古代隆起してできた壮大なロッキー山脈。壮大ながらも今はほのぼのとする光景です。そして一度、山に入れば今度は大自然を身で感じるうっそうとした原生林のダイナミックな自然に遭遇。そこはトレッキング好きの方にお勧めです。ところで、西部開拓史と言うと、日本人からしたら西部劇で見た開拓民の苦労ですが、それは開拓民は正義で、彼らをいじめる悪いヤツラと言う構図。しかし、現実には先住民族であるアメリカンインディアンから土地を奪っての白人達移民の開拓は、映画シェーンのような白人同士の正義と悪との話とは全く別次元。開拓民の方はそれはそれなりの苦労をされたようですが、それよれも元々そこにいて土地を奪われた原住民であるアメリカ・インディアンの方が悲劇でした。(アメリカ史ではふれられていませんが・・。)2010年06月、「ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)」の中でそのあたりは少しふれているのですが、今回白人側がなぜ西部をめざしたのか?開拓移民に関する法律を最後にのせました。リンカーン大統領が署名した「ホームステッド法(Homestead Act)」です。リンク ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)ワイオミング州 グランドティートン国立公園(Grand Teton National Park) 1929年指定グランド・ティートン国立公園 1 (シェーンの世界) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 1 (シェーンの世界)グランド・ティートン国立公園 2 (スネーク・リバー) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 3 (スネーク・リバー・オーバールック)グランド・ティートン国立公園 3 (スネーク・リバー・オーバールック) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 3 (スネーク・リバー・オーバールック)oxbow bendグランド・ティートン国立公園 4 (ジャクソン・レイク界隈) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 4 (ジャクソン・レイク界隈)グランド・ティートン国立公園 5 (ジェニー・レイク) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 5 (ジェニー・レイク)グランド・ティートン国立公園 6 (ヒドゥンフォール) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 6 (ヒドゥンフォール)グランド・ティートン国立公園 7 (インスピレーション・ポイント) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 7 (インスピレーション・ポイント)グランド・ティートン国立公園 8 (シュワバッカー・ポイント) 2010年06月リンク グランド・ティートン国立公園 8 (シュワバッカー・ポイント)ワイオミング州 おまけジャクソンホールの幌馬車 1 2010年06月リンク ジャクソンホール(Jackson Hole)の幌馬車 1ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法) 2010年06月リンク ジャクソンホールの幌馬車 2 (インディアン強制移住法)幌馬車隊の目的は野外レストラン余興で襲う役割のインディァンの方々ワイオミングの動物ワイオミングの動物(エルクとプレーリードック) 2010年06月リンク ワイオミングの動物(エルクとプレーリードック)グリズリー・ベア(Grizzly bear) 2010年07月リンク イエローストーン グリズリー・ベア(Grizzly bear)シェーンの時代に見るアメリカ開拓史の事情前回触れた西部探検のルイス&クラーク探検隊がもたらした地理情報や地図は1840年代以降になって、西部方面への入植者を増やしていく。その理由の一つは人口の増加である。アメリカへの移住者が増えて土地が必要になったからだ。「自由な天地」と、人々は西に向かった。しかし、そこにもすでに先住民族のインディアンが住んでいた。当初政府は、そこに住んでいるインディアンの長達と交渉し、物々交換、あるいは金銭により土地の譲渡をしてもらう条約を作ったそうだ。(1785年、公有地法が制定)つまり、いったん買い上げ、国の公有地にしてから開拓民に分譲して払い下げる・・と言う形をとったのだ。※ オハイオなど一部、そうした形できちんと契約された土地の例は残っている。しかし、アメリカへの入植者が増えるとインディアンを人と思わない白人達も増えた。当初メイフラワー号で移民してきた者はインディアンに助けられて生き残れたのに・・。彼らを追い出して政府から土地を買うことも無く、自分の土地をかってに造り出す者が出てきた。開拓した者が権利をうる・・と言う考えに近い。まさに西部開拓の時代は無法地帯だったと言える。欧州の国ではかってに植民地としたアメリカの土地を売買。フランスよりアメリカはルイジアナを1500ドルで購入。もはやそこにはインディアン達の土地と言う概念が無い。さらに移民は続々やってきた。人があふれて未開の土地に続々人がやってくる。耕作すれば土地が得られる・・とかってに信じて・・。「入植した農民が5年間耕作すると無償で一定の土地が得られる法律」があったから?実は順番が違う。かってに開拓して居座った者達が土地をよこせと騒いだのだ。「居住しています。」・・と言う既成事実を先に造ってから政府に訴えたのである。彼らの訴えのもと、リンカーン大統領はホームステッド法に署名した。それが新たな土地の規定である。※ エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)(1809年~1865年) 第16代アメリカ合衆国大統領ホームステッド法(Homestead Act) 1862年に制定アメリカ西部の未開発の土地、1 区画 160エーカー(約64.6ヘクタール 東京ドーム役14個分の土地)を無償で払い下げると言う自営農地法である。もちろん申請には条件がある。申請時に 21 歳以上敷地内に12× x14フィート(3.6×4.3m)以上の大きさの住居がある事が必須。建設後、自ら耕作した土地で最低 5 年間は農業を営んだという実績が必要。この法律により、さらに入植者が増えたのは言うまでも無い。最終的に、1862年~1986年の間に160万件が申請。その総面積は2億7,000万エーカー (1.097兆m2) アメリカの国土の10%に達しているそうだ。よく解らない広さだが、日本が2904個分くらいらしい (_ _ ??)/◇ワカラン・・とにかく途方もない広さの土地が無償で得られた・・と言う事です。次回アンテロープキャニオンなど国立公園でないけど景観の凄いアメリカを紹介して、お勧めはひとまず終わります。渡来人もう少しお待ち下さい m(_ _)m
2017年07月12日
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リンク先を追加しました。分類の項目に「アメリカの国立公園」を追加しました。それで検索がしやすくなるはずです。これからグランドティートンなど編集した時に変更ていく予定です。今回は過去に載せていたアメリカの国立公園のタイトルをまとめました。(過去にイエローストーン国立公園、グランドティートン国立公園、他幾つか紹介しているのです。)ちらほらアクセスのあるアメリカのイエローストーン国立公園は、全20回に渡っていました。自分でも驚き。3ヶ月にわたって分散して載せていたようです。長くなったのはイエローストーンが広大で、個性がたくさんある事。紹介写真も多くなりました。(そんな訳で今回も写真を探してくるのに手間取りました )でも、アメリカは歴史が浅いので、ほぼ語れる事はありません。写真中心なので安心してください。内容は7年前に遡りますが、国立公園の形態は変わっていないようなので今でも参考に使えるはずです。何しろイエローストーンは1807年に発見されてからすぐに保護政策がとられたからです。見た者が誰しも驚く自然の神秘がイエローストーンの魅力です。再度紹介するに当たって全20編を見直して、写真追加もしました。その為に載せるのが遅れてしまいました。全20はかなりきつかったです (--; ゲソ~ お勧めブログ・バックナンバー 3 (イエローストーン国立公園)アメリカの国立公園トップ10イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)ワイオミング州 イエローストーン国立公園 1872年指定ワイオミング州 1~20のリスト紹介前に・・。第3代大統領(1801年~1809年)トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)(1743年~1826年)の頃はまだアメリカは未開の土地がほとんどだった。(特に西方面は・・。)西部探検隊が組織されルイス&クラーク探検隊が1807年にイエローストーンを発見。その景観のすごさを伝えても当時の人々は信じなかったと言う。後に自然保護、そして国有化へと進む。そして1872年世界で初めての国立公園となった。その後アメリカでは国立公園が次々に指定され現在59件あるようです。その内のトップ10だけ紹介しておきます。アメリカの国立公園トップ101.イエローストーン (Yellowstone) ワイオミング州 1872年2.ヨセミテ (Yosemite) カリフォルニア 1890年3.グランド・キャニオン (Grand Canyon) アリゾナ州 1919年4.グレーシャー (Glacier) モンタナ州 1910年5.グランド・ティートン (Grand Teton) ワイオミング州 1929年 次回6.ザイオン (Zion) ユタ州 1919年7.ブライス・キャニオン (Bryce Canyon) ユタ州 1928年8.セコイア (Sequoia) カリフォルニア 1890年9.ロッキー・マウンテン (Rocky Mountain) コロラド州 1915年10.マウント・レーニア (Mount Rainier) ワシントン州 1899年イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)バックナンバー全20のタイトルを以下写真と共にのせました。イエローストーン国立公園 1 (分水嶺とアメリカバイソン) 2010年06月リンク イエローストーン国立公園 1 (分水嶺とアメリカバイソン)イエローストーン国立公園 2 (5つのエリア) 2010年06月リンク イエローストーン国立公園 2 (5つのエリア)イエローストーン・レイクマッドボルケーノ界隈からイエローストーン国立公園 3 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 3 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン)イエローストーン国立公園 4 (グランド・プリズマティック・スプリング) 2010年07月リンク エローストーン国立公園 4 (グランド・プリズマティック・スプリング)イエローストーン国立公園 5 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン景観) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 5 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン景観)ミッドウェイ・ガイザーベイスン Opal Pool ?Grand Prismatic Springイエローストーン国立公園 6 (アッパー・ガイザー・ベイスン) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 6 (アッパー・ガイザー・ベイスン)Old Faithful Geyserイエローストーン国立公園 7 (ガイザー・ヒル) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 7 (ガイザー・ヒル)イエローストーン国立公園 8 (ビーハイブ・ガイザー) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 8 (ビーハイブ・ガイザー)イエローストーン国立公園 9 (グランド・ガイザー近辺) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 9 (グランド・ガイザー近辺)Tortoise shell springイエローストーン国立公園 10 (ジャイアント・ガイザー) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 10 (ジャイアント・ガイザー)イエローストーン国立公園 11 (グロット・ガイザー) 2010年07月リンク イエローストーン国立公園 11 (グロット・ガイザー)Rocket GeyserGrotto Geyserイエローストーン国立公園 12 (モーニング・グローリー・ブール) 2010年09月リンク イエローストーン国立公園 12 (モーニング・グローリー・ブール)Morning Glory Poolイエローストーン国立公園 13 (イエローストーン湖) 2010年09月リンク イエローストーン国立公園 13 (イエローストーン湖)イエローストーン国立公園 14 (ヘイデンバレーとマッドボルケーノ) 2010年09月リンク イエローストーン国立公園 14 (ヘイデンバレーとマッドボルケーノ)イエローストーン国立公園 15 (キャニオンの眺め) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 15 (キャニオンの眺め)イエローストーン国立公園 16 (Lower FallsとUpper Falls) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 16 (Lower FallsとUpper Falls)イエローストーン国立公園 17 (マンモスホットスプリングス) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 17 (マンモスホットスプリングス)マンモスホットスプリングスイエローストーン国立公園 18 (テラスマウンテン)リンク イエローストーン国立公園 18 (テラスマウンテン)ミネルバテラスイエローストーン国立公園 19 (ミネルバテラス) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 19 (ミネルバテラス)イエローストーン国立公園 20 (ウエストサム) 2010年10月リンク イエローストーン国立公園 20 (ウエストサム)ウエストサムイエローストーンは北アメリカ大陸最大の火山地帯。その景色はわれわれ人間が想像しえなかったいろんな顔を持っていました。中心になるのはいろんなGeyser(間欠泉)とspring(温泉)です。日本には無いダイナミックな景観ばかりです。イエローストーンだけで大変な作業になりグランドティートン国立公園以下は次回にさせてもらいました。またまた次回に続きます。m(_ _)m
2017年07月06日
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リンク先入れました。さて、今回もお勧めブログ・バックナンバーを引き続き。今回は芸術家の話と、墓所ピックアップ、他 ですお勧めだけでは何なんで一緒に写真でも・・と、これが結構大変な作業となりました。何しろ写真の数が膨大で、どこにあったか探すのが大変。今回も写真をはさみましたが、今回は紹介していない写真を中心に載せました 写真だけでも楽しめるように・・。お勧めブログ・バックナンバー 2 (芸術家の話と、墓所、他)芸術家の話墓所ピックアップその他芸術家の話クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ) 2017年03月リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション) 2017年04月リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラー 2016年02月リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ) 2016年02月リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo) 2016年06月リンクジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)(1527年~1593年)ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス 2014年02月リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園) 2016年02月リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き) 2016年02月リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首 2017年12月リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé) 2018年11月リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン 2019年01月リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレンナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション 2016年02月リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクションナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection) 2018年03月リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)南仏、マントン市役所 婚礼の間 コクトーの壁画空間が狭いので壁画の全景は撮影しにくいのです。しかも灯りが間接照明なので薄暗いし・・。ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)自身が描いた壁画です。婚礼の間 天井画ジャン・コクトー(Jean Cocteau)の壁画から 2012年08月リンク ジャン・コクトー(Jean Cocteau)の壁画からマントン市庁舎のコクトー婚礼の間 2009年04月ニースのシャガール作品 2009年04月リンク ニースのシャガール作品墓所ピックアップバロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus) 2014年11月リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)ハプスブルグ家納骨堂 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)上、カール6世(Karl VI)(1685年~1740年)の棺下、マリア・テレジア夫婦の一緒の棺ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓 2018年06月リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂 2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降 2014年11月リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降二人分なので大きい ハプスブルグ家最大規模の最も豪奢な棺です。「シシィとゲルストナーのスミレ菓子」で紹介されているシシィ(Sissi)の棺です。「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3」で紹介していました。ヨーゼフ2世は聖職者の横行を止める? 葬儀の簡素令を出した。これ以降棺は質素な時代に突入。名入の墓石が造られる事も一時は禁止された。モーツァルトの遺体が消えたのはそんな時代だったからです。「モーツァルトの墓地がうやむやになった諸事情」については「シュテファン寺院(Stephansdom) 2」で紹介しています。シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所) 2016年07月リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 2015年07月リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓 2016年10月リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所) 2010年03月リンク スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所) 写真追加スペイン、アンダルシアのセビーリャ大聖堂にあるコロンブスの棺大きな棺・・を考えていて思いだしました。ちょっとユニークなタイプです。しかもかついでいるのはカスティリア王国、アラゴン王国、レオン王国、ナヴァラ王国の四王国を象徴する4人の王様です。彼は死後、ずっとたってからセビーリャに戻ってきました。堂内が非常に暗くて撮影は難しい所です。前にのせた分は画像がイマイチなので悪しからず・・。さて、日本ですが・・。信長の墓所と呼ばれる寺を3つ紹介。なぜ信長の遺骸が消えたのか? 検証してみました。本能寺の事情から見る発見です。信長の墓所 1 (本能寺) 2015年06月リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院) 2015年06月リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺) 2015年06月リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)信長の墓所 4 (消えた信長公) 2015年07月リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓 2015年07月リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉の墓所(豊国廟) 2015年05月リンク 秀吉の墓所(豊国廟)豊国神社(とよくにじんじゃ) 1 2015年05月リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康) 2015年05月リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎 2019年01月リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎
2017年06月29日
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Break Time(一休み)昨日いきなり「梅雨明けしました」宣言。やっぱり今年も後出しジャンケンのような結末だったな・・。今日の夕刻、外から大きなカミナリ音が聞こえ雨が降った。雨が上がると空は午前中と違うスッキリした青空に大きな入道雲が・・。本当の梅雨明けは今だったのではないか?コレクター(Collector)の物欲コレクション(Collection)の始まり世に物をコレクションをしている人は多いと思う。それはゴミのような物から高価な物まで幅が広く、あるいは形あるものから、形の無い物まで含むと、果てしない数のコレクションが存在するのだろう。先日テレビで自分の剃った顎髭(あごひげ)を毎年ビンに詰めてコレクションしている人を見て驚いた。が、自分もよくいろいろな物をコレクションしてきたので、灰のようになった顎髭の残骸コレクションを見て驚きはしたけど笑えはしなかった。コレクションする・・と言う事はその人にそれなりの思い入れがあっての事だと思うので、他の人にとってゴミでも、当人にしてみればかけがえのない宝だったりするのが理解できるからだ。もちろんオカルト的な動物の生体の一部コレクションなどは問題外であるが・・。ところで、私のコレクション好きは親譲りである。両親は一般的な切手、コインをそこそこ集め、次にコケシをコレクションした。コケシは元祖Japanese figureである。普通の人は知らないだろうが、ジャンルがあり、人間国宝が結構いるのだ。両親は有名な工人さんの作品を山の中まで訪ねてわずか1年足らずで150以上集めていた。私の、と言うより私達兄弟のフィギュア好きはそこに端を発しているのだろう。しかし、コケシを好んで集めたい者は兄弟の中にはいない。みんなツボが異なるからだ。一度こんな話をした事がある。両親が死んだらこのコケシは誰が譲り受けるのか?私はいらない。長男もいらない。従ってコケシを買う時に山の中まで親と同行していた一番下の弟が押しつけられる事になった。「何で僕が・・」と、言う弟に「その筋で売ればコケシはコレクターがいるので価値があるよ。」と言ってみた。実際コケシ・マニアはいるのだ。毎月コケシの会があり、オークションも行われている。でも、私達兄弟はその趣味はツボではない。両親のコケシはゴミにこそされないけれど、いつかどこかに分散され行く運命なのは明白だ。高価な価値ある骨董品のコレクションももらった人が趣味で無ければ売られてしまう。コレクションとは悲しいかな一代限りで終わるのがたいていの運命である。そう言う意味で考えれば「コレクションはその人の生きた証」・・と言う大それた考えにも及ぶのかもしれない。人間死ぬ時に物欲があってはならない。そうであっては死にきれないだろう。たいていの人は死ぬ時にコレクションの事など全く頭に浮かばずに果てるだろう事が予想される。どんなに大事だ・・と思っていてもそれが自分の一大事には及ばないからだ。そう考えるとコレクションとは「集めた瞬間にこそ最大の意味があり、集めるまでの軌跡を楽しむ」と言う行為自体につきるのだろう。ともあれ、コレクションと言う行為は、人間の持つ物欲が分かりやすく外に示された形なのだろう。長々語ってしまったが・・。コレクション(Collection)の始まり最近私がコレクションをしよう・・と言う気になった物を紹介。手の平に小さく乗るサイズハロウィーン仕様のフランケンとドラキュラ最初の一つは振り返れば20年以上前。その時はただカワイイ・・だけの一つ。右のミイラみたいに包帯でぐるぐるにされたアヒルくんが第一号。なぜか心が惹かれた。奇跡は最近にわかにおきた。ハワイの田舎(ノースショア)で偶然見つけたアヒルちゃん。(一部姪にあげてしまったが・・。)そこに5月にロンドンで見つけた衛兵のアヒルちゃんが加わった。衛兵姿のアヒルちゃんは帽子が外れるようになっている。ケースにも入っていた。だから今までのアヒルちゃんとは格段に値段が違う。他のと違ってチャーミングなのはその瞳。これはもう集めるしかないでしょ・・。とアヒルが言っている気がする。因みに、ロンドンではあちこちでアヒルが売られていた。上の衛兵はウエストミンスター寺院だったが、ロンドン塔では、ロンドン塔の衛兵の姿のものがあったし、タワー・ブリジでもいろいろ・・。アヒルが売られる理由が何かあるのだろうか?そう言えば上野のツタンカーメン展にもスフィンクス型のアヒルがいたっけ・・。ただ、私がこだわったのは、その造りと手の平に小さく乗る絶妙なサイズ。他のは手の平からこぼれそうな大きいなサイズのうえ造りがとても粗悪。コレクションにはこだわりは欠かせないのだ・・。おまけ上はアンパンマンシリーズの指人形サイズのソフビ昔、小さかった甥と姪が遊びに来るのでいろいろ買い集めていたものの一部。ポケモンとデジモンは甥に引き取られて行ったが、アンパンマンは残された。これは私的なコレクションの部類には入らないが・・。
2013年07月07日
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昨日は、1日出かけていたので遅くなり、その上夜中にメンテナンスに引っかかり、今日も1日来客で・・・丸1日飛ばしてしまったそれにしても久しぶりのメンテナンス被害(全部すっとんだ)・・なぜ事前に警告してくれないのか・・。に、してもよく邪魔が入る回である。さて、残していたモンマルトルを終了するのに、それだけで何なので、ベル・エポックに関連して昔の絵はがきも載せました。モンマルトル 8 (ベル・エポックとアール・ヌーボー)フランス(France)、パリ(paris)モンマルトル(Montmartre)ベル・エポック(Belle Epoque)アール・ヌーボー(Art Nouveau)モンマルトル下山中腹のアパートの人は大変ですね。モンマルトルから扇状に広がる界隈(ピガール等)は、ストリップ・ショーや怪しい店やホテルのならぶ危険な地帯なのです。乗車時間は5分やそこら・・。登りの駅は行列です。近代的なフニクラーレは、モンマルトルに似合わない? 古い物の中に新しい物が混在してもうまく融合してしまうのは、パリ・マジックだと思う1.6ユーロ(135円計算で216円くらい)並んで登るか・・歩いて登るか・・。ムーラン・ルージュの前にあるブランシュの駅は、アールヌーボー期の代表する建築家エクトール・ギマール(1867年~1942年)の手掛けたメトロ入り口の装飾が今も残っています。アール・ヌーボーとベル・エポックモンマルトルの最盛期は、ベル・エポックの時代に重なります。ベル・エポック(Belle Epoque)直訳すると「(古き)良き時代」。それは、「昔は良かった・・・」と言う懐かしみの表現です。1900年の弟5回パリ万国博覧会が開かれた頃のフランスは、産業や文化など世界の頂点に君臨していた時代です。国力も増して、景気も良く、世界の中でもパリの街が最も華やかに輝いていた時代だったようです。特にパリから発信された文化は最新の誰もがあこがれる物ばかりで、それにあやかろうとパリを目指した者も多かったはず・・。サラ・ベルナールはその時代に生きたフランスのトップ・スターの舞台女優で、彼女の舞台と1900年の弟5回パリ万国博覧会を見る為にパリに来た観光客は多かったと言います。彼女自身アール・ヌーボーのファンで、彼女のコレクションは美術館行きの品ぱかり・・。彼女の波瀾の人生は次回に・・。アール・ヌーボー(Art Nouveau)アール・ヌーボーは、広義には1895年~第一次世界大戦前までのフランスの世紀末美術様式を指しています。先程、モンマルトルの最盛期は、ベル・エポックの時代に重なる・・・と紹介しましたが、ベル・エポックの時代に最も流行ったのが、世紀末様式であるアール・ヌーボーの様式でした。この美術様式は、自然の植物や花、生物の人間、虫、蝶、爬虫類等の有機的フォルムをモチーフにした装飾で飾られていて、分野はガラスアート等のオブジェ、アクセサリー、家具等の装飾小物からポスター、そしてギマールのような建築の世界にまで波及して一代ブームとなった様式です。その名の由来は、1895年にサミュエル・ビングが現代美術のギャラリーでタイトルとした「アール・ヌーボー(新しい芸術)」からきており、そこでそれら装飾のオブジェが紹介された事から、そのスタイルを称してアールヌーボーと呼ばれる事になったようです。「美術様式」とは言え、アール・ヌーボーの様式はモンマルトルの画家達には何ら関わりはありません。先程紹介したようにメトロなどパリの建築にアール・ヌーボーの装飾は徐々に現れてきていますが、アール・ヌーボーは職人の技が結集された上に成立する庶民には届かないとても高価な品(もともと美術品)なのです。(ポスト・カード以外は・・・。)モンマルトルはこれで終わりますが、次回引き続きアール・ヌーボーのポストカードを少し紹介します。リンク アール・ヌーボーのポスト・カードback numberリンク モンマルトル 1 (聖人と丘)リンク モンマルトル 2 (サクレ・クール寺院)リンク モンマルトル 3 (風車とカフェとキャバレー)リンク モンマルトル 4 (テルトル広場とモンマルトルの芸術家)リンク モンマルトル 5 (ユトリロ 1 恋多きユトリロの母)リンク モンマルトル 6 (ユトリロ 2 モンマルトルを描いた画家)リンク モンマルトル 7 (フニクラーレ 1)モンマルトル 8 (ベル・エポックとアール・ヌーボー)
2010年04月18日
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タイトルの両者に関係はありませんBreak Time (一休み)昨日は疲れて・・・どうにも思考が回らないので寝てしまいました実は、昼間から姪と一緒に原宿のジャニーズ・ショップに行き、その後、日比谷に行って軽食をしてから夜の部で滝沢歌舞伎を観に行ってたのですジャニーズ・ショップも初入店してきましたジャニーズ・ショップ・・と言うより春休みなので原宿自体も超混みで、外で入場規制があり、30分くらいならんでから入店しました。(整理券出ないだけましらしいけど・・。)店内も混み混みで身動きできず、レジもならんで20分? 待ったかも・・。商品の95パーセントは写真です。1枚150円。購入は壁に貼ってある写真のNoを見て用紙に記入するのですが、片面400で800番まであるので数字はすごく小さいのです。しかも人混みで写真も良く見えないし・・。とにかくものすごい繁盛でした。「外国の女の子達がジャニーズ目当てに来日している。男の子達は秋葉原のおたく文化にあこがれてフィギュア等を買い求めに来日している。」・・等と良く聞きますが、これらは確かに日本にしかないカルチャー(文化)なのです。滝沢君のステージも、ジャニーズの身体能力を駆使した超ステージで、確かに新しい日本ならではの文化を発信しているのをつくづく感じました。ある番組で、日本経済を救うのは、「イケメンとジャニーズ」か? と言っていましたが、確かに、彼らが救世主になるかもしれない・・・。それだけ彼らの生んだ文化は新しく、他の世界には無く、元気があって、何より頑張っている。これだけ要素がそろっているのだから、もっと誇って日本からそれらを発信して行ったらいいのに・・。本当に滝沢君のステージは凄かった近くて、臨場感もあるし、とにかく魅せてくれる。(しかも出演者はみんな美形だし・・。)歌舞伎・・とは言い難いけど・・。惜しむらくはステージの構成に手作り感が見えた事。もう少しプロの演出家を使って構成したらラスベガスもいけるかもしれない・・等と思ったのだった・・。観客の年齢層は高く、かなりのお年寄りの方々(おじさん)も多かったですよ。もう一言加えるなら、ショーの流れは早く、本物の歌舞伎より時間の動きが速い。能楽のゆったりさは、室町当時の時間の流れなのだと言っていたのを思い出して、歌舞伎が江戸時代の時間の流れなら、滝沢歌舞伎はまさしく現代の時間の流れの現れなのだ・・と思ったりもした。良い経験でしたねで、ジャニーズの写真はかってに使えないので、別の写真を・・。スケールの違うパリの広告写真は2004年6月にパリで撮影した写真なので、現在はもちろんありません。フランス、パリのシャンゼリゼ通りジョルジュ サンク駅の所にある、ヴィトンの本店だったと思います。コトビルorビステンorアルゼールとサイズで名前の変わるアタッシュ型のハード・ラゲージのトラベル・バック(旅行鞄)モノグラム柄の定番です。一番大きなアルゼールがサイズ (幅×高さ×マチ): 80cm x 52cm x 26cm現在 740250円(税込み) それも広告のスケールがもはやショーウィンドと言う広告媒体を飛び出し外壁までも使ったディスプレイには驚きです。不景気な今はちょっと考えられない光景ですね。ダミエ柄のトラベル・バック(旅行鞄)張りぼてにしてもリアルです。ルイ・ヴィトン パリ本店店内は、日本と違ってかってに入れません。入り口にガードマンもいて、先ず、何語で応対をするか聞かれます。それによって待ち時間が異なります。当然買いものをするのが前提で案内されるので、必要な場所のみ案内されます。あちこちかってに店内を見てまわれないのがこの本店です。「見るだけ」は、多分できないと思います。もちろん見てやめる事は可能ですが・・。冷やかしだけはゴメン・・といった堅いガードがあり、そこに入店するだけでもけっこうプレッシャーですよ。
2010年04月07日
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Break Time (一休み)訳ありで、キャンセルが出たので、コルテオ(Corteo)見てきました。ものすごく良かったです。お奨めのエンターテイメント・ショーです演出家によれば、コルテオ(Corteo)は、「葬列」と言う意味なのだそうです。全体のイメージはこんな感じです。(シャガールの絵画的なイメージもあります。馬も出てくるし・・・鳥も出て来るし・・・。)前から2列目のベストポジションでしたが、撮影は難しいので、写真はパンフを使っています。シースルーの幕に描かれた絵と薄暗がりが、すぐに世界に引き込んでくれます。サーカスと言うより舞台劇の要素が大きく、それがパフォーマンスをより高尚な物に変えている気がします。一人のクラウン(道化)が死の床で、自分の人生をふりかえり自分の葬儀を想像しながら、自分の愛した女を想い、友を想い、子供の頃の楽しい思い出が蘇り・・・それらが幻想的な空中パフォーマンスとなって表現されたり、ジュニア・ベッドがトランポリンであったり、天使が飛び交う空間で、非現実な夢の世界観が現実にパフォーマンスされて目の前で展開されて行くのです。主役のクラウンが天使にベットごと空にあげられ、この後、彼のかつての恋人達が、大きなシャンデリア3基を使って空中スペクタクルを展開してくれます。ステージも円形で、初期本来のテントを設営したサーカスのようにステージが双方から見られるような造りになっており、その中の限られた舞台を見事に使い切るだけでなく、その上の空間演出、さらに客席内と客席の上空まで舞台にして、人間業とは思えない究極のパフォーマンスをものすごい勢いで、次々繰り出して、魅せてくれました。スゴーイと思いながら最後まで見入ってしまった一品です。行って良かった
2009年11月09日
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SMAPの木村君の素敵なCMが最近流れている。のりの良いディープパープルの曲で木村拓哉君の魅力がとても良く出ていると思う。曲のリズムと相まって、アップテンポで展開していく木村君の動きと場面展開の素早さは、「やっぱりキムタクは素敵・・。」と再認識してしまう良い出来である。そんなアップテンポなCMは終盤になって、がらっと転換、パソコンでメール確認する木村君・・。「タマホームの玉木(タマちゃん)です。」からのメールを見て固まる・・。再びディープパープルの曲「BURN」が替え歌で「タマホーム・・タマホーム」と流れて衝撃のラストを飾るのだ。インパクトも強く、とても良い出来のCMだし、曲も最高のセレクトではあるのだが・・。思わず笑えるのはディープパープルのこの曲のタイトルが「BURN」である事だ。BURNは火が「燃える」,(炉などで)「火が燃えている」、(物が)「焼ける」、「焼けど」と言う意味を持つ。ディープパープルのこの曲は日本では「紫の炎」とタイトルして発売されているが、このCMを見て、聞いていると(あくまで私だけと思うが・・、)「燃えろ」、「燃えろ」と聞こえてしまい、「タマホーム炎上」を彷彿させて思わず・・笑える・・のです。Deep Purple 「BURN」ディープ・パープル(Deep Purple)は、1968年にイギリスで結成されたハードロックバンドですが、ボーカルチェンジがけっこうあり、この「BURN」は、第3期(1973年~1975年)のグループ結成にあたります。4000人以上ともいわれる応募者の中から、当時はまったく無名だったデヴィッド・カヴァーディルが選ばれスタートし、このメンバーによる初のアルバム「紫の炎」(1974年2月)、が発売。(ウキペディアより) 後にリッチー・ブラックモアが「納得して制作できた」とコメントしたとするアルバムでパープル解散以降もすたれる事無く唄い続けられている名曲です。学生時代にミュージックショップでアルバイトをしていた時、手当たり次第に曲をかけていて、発見した私のお気に入りのディープパープルの一品でした。世代ではなかったのですが、「QUEEN」、「TOTO」、「EAGLES」、「DOOBIE BROTHERS」等もこのアルバイト時代に見つけて気に入ってたロックミュージックです。なつかしいかも・・・とCM見ながら当時を思い出す(記憶のフタを開ける)のも音楽の旋律の持つマジックかもしれませんね。魅惑的な怪しいバイクところで、今日は関連映像もないので、いつか紹介しようと思っていたラスベガスで見つけた怪しい魅力のバイクを紹介します。寺沢武一さんの漫画作品「COBRA」に出てきそうな「レディー」型のバイクです。ラスベガスのHOTEL PIRATESのカジノ・コーナーにありました。「COBRA」みたいですよね。バイク型のレディー・アーマロイドですか?素晴らしい彫金です。当然一点物でしょうね・・。映画か何かで使われたのかな?実際に走るかは不明ですが素敵!!!今日はディープパープルからロックな気分で・・・。
2009年07月17日
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聖母(マドンナ)の画家として名高いラファエロは、37年間の生涯に50枚の聖母像を残しています。彼の描く聖母が「神の母」の輝きと同時に、人間的な母の愛を彷彿させる普遍的な美に満ちている。と言われ「ラファエロは夢の中に現れる聖母に霊感を得て、聖母子像を描いている。」と言う伝説まで生まれたそうです。今日は素敵な聖母子像を中心にラファエロを少し紹介します。ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi) (1483年4月6日~1520年4月6日)盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家ラファエロの類い希なる才能は、彼の気品ある優雅な身のこなしに似ていたようです。思いやりが深く、いつも取り巻きを従えており、ヴァザーリは「画家と言うより王侯にふさわしい」と彼の暮らしぶりについて語っています。彼の絵と同様の優美さは、彼の生い立ち、父(ジョヴァンニ・サンティ)が宮廷画家であった事に起因しているのは間違いないでしょう。幼少の頃から父により絵画の教育を受けた事はもとより、宮廷人との社交術をも教えられたのだと思います。元来おとなしい性格に加えて、宮廷人の洗練された物腰を身に付け流儀を心得た気品さえある美少年は、才能にも恵まれ、短い生涯ながらも宮廷人と友情をもわかち合い、庇護されるべき、愛されるべき存在であったようです。そして、加えるなら女性好きだった・・・。(女性に母を見ていたのかもしれないが・・・。)下は、「大公の聖母」(1504頃) フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵21才のラファエロがフィレンツェに出て来たばかりの時に描いた初期の聖母像です。聖母子をとりまく暗闇が作品全体に静謐(せいひつ)さ、穏やかさを与えていますが、当初は風景が描かれていたとも言われています。下は「草原の聖母」(1506年)8才の時に母親が亡くなり、11才の時に父を亡くしています。当時の慣習、「乳母制度」を使わず、母の愛情で育ったラファエロにとって悲しさは大きかったものと思われます。母への思慕がこうした聖母子に映されているのは間違いないでしょう。下は「ひわの聖母(1507年) ウフィッツィ美術館所蔵ピラミッド型の構図はレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を物語っています。ひわ(鳥)はキリストの受難の象徴です。この頃、これら安らぎに満ちた構図の聖母子像が多く描かれています。どれもすばらしいものばかりです。大抵は、貴族の依頼で描かれたものです。ラファエロ21才(1504年)の時、フィレンツェに拠点を移し、ペルージャやウルビーノで残した頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式の影響を受けています。また、フラ・バルトロメオからも色彩や衣服のひだの描写の面で影響を受けており、ラファエロの画風は特にバルトロメオとの出会い以降変化しているのだとされています。ラファエロのローマ時代が始まります。この経験は彼にとっては名声を得ただけでなく、大いなる財産となりますが、彼の早すぎる死の前には貴重な大作の制作時間だったのかもしれません・・。1508年(25才)、教皇ユリウス2世に招かれてローマに渡っています。それは教皇が自分の使用するいくつかの部屋に絵を描いてもらいたかったからとされ、後に「ラファエロの間」とよばれる部屋となります。部屋は描かれた絵画の名を取り、、「ヘリオドロスの間」、「ボルゴの火事の間」、「セニャアトゥーラの間」、「コンスタンティーの皇帝の間」とも呼ばれ、バチカンに行ったら見逃せない場所の一つとなっています。「セニャアトゥーラの間」は、大切な書類の署名と捺印(セニャアトゥーラ)が行われるの事に由来する名です。フレスコで天井画と壁画を手がけ「アテナイの学堂」は前にも紹介)ルネッサンス時代の哲学思想と古代の思想をキリスト教思想に合わせようとする努力をあらわしているとされています。「火災の間」(1514年)も手がけていますが、多忙にして「ボルゴの火災」以外は弟子の手によるもので、ラファエロの手がけた間と言うには品格が下がりすぎていると言われています。下は、多忙だったローマ時代に描かれた「小椅子の聖母」」(1514年)フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵写真に入らないので削れていますが、トンドと言われる円形の絵画となっています。「火災の間」の制作時期とかぶっています。ラファエロ31~32才の円熟期にローマで描かれたこの作品は、ローマでの壁画制作を通じて磨かれた構成力に現れています。フィレンツェ時代に描き続けた聖母像の集大成はローマの経験で完成されたといえるかもしれません。聖母マリアに気高さを、幼児キリストに頼もしさを、不安げながらも讃え見守る幼児期の洗礼者ヨハネの図は私の大好きな聖母子ですこの「小椅子の聖母」は画家の死後にトスカーナ大公に買い取られているそうです。彼が最後まで所有していたのは何故か? 16世紀半ばまでメディチ家に所有された後、1800年前後にナポレオンの戦利品としてパリに渡っているそうで、ある意味数奇な運命に思えますが、この絵が見る人の心をとらえて放さないからなのかもしれません。今あるピッテイ宮の美術館に戻るのは1912年です。(欲しいけれど手に入れられる絵ではないから、自分で模写して立派な額縁に入れて飾っています。それも私のこだわりですかね・・。)1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしていますが、1520年、誕生日と同日に37歳の若さで亡くなってしまいました。もし、もう少し長く生きて作品を残してくれていたら、私達はもっと穏やかで、幸せな絵に出会えたかもしれません。
2009年07月16日
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高級ステーキの中に「シャトーブリアン]と呼ばれる料理があります。それは、ヒレ肉の最高部位の部分(稀少)を選んで調理されたとても贅沢なステーキの一つです。(シャトーブリアンを注文すると、テーブルサイドでパフォーマンスするレストランもあります。)基本、シャトーブリアンは肉の部位の名前です。肉は、細長い形状をしたヒレのうち、中央部の最も厚みのある一部分の部位で、その名は18世紀のフランスの政治家であり作家であるルネ・ド・シャトーブリアンから由来しています。(彼が好んでこの部位を調理させた事が理由らしい。)ヒレの特徴である柔らかさやキメ細やかさが一段と高まる部位で、1頭から数キロしか取れないうちのヒレのさらにその一部で、究極の稀少部位の最高級牛肉です。お肉の食べ方はやはりステーキであり、料理名も「シャトーブリアン」と呼ばれます。今日は肉の話がしたかったのではありません。私のお気に入りの絵画の一枚を紹介するのに、ルネ・ド・シャトーブリアンが出てくるからです。ルネ・ド・シャトーブリアン(Francois-Rene de Chateaubriand)(1768~1848)フランスの政治家であり、ロマン派の作家です。1789年のフランス革命時代に彼は北アメリカに逃れ旅行し、革命後にフランスに戻ってからは作家活動をします。「キリスト教精髄」、「ナッチェス族」、「アタラ」、「ルネ」等ロマン主義的傾向の作品は革命後の宗教復活の気運に乗ってナポレオンからも賞賛されたそうです。ナポレオンにより教皇庁大使参事官となった時期もありましたがナポレオンをネロ(キリスト教徒を迫害したローマの暴君)に例えた批判を書き、パリから追放されたりしています。ナポレオン没落後はブルボン王家を支持し、ルイ18世の命でプロイセン大使、イギリス大使、外務大臣と歴任し、ウィーン体制下の政治家(1822~1824)として活躍します。ウイーン体制とは王政復古(革命前の状態に戻す)の体制です。しかし、1830年の7月革命では再び文学生活に戻り、回想録「墓の彼方からの回想」、「歴史試論」を書き7月王政を批判1848年のウィーン体制崩壊の革命の中亡くなります。彼の活動は政治家としてではなく、王政復古や新体制の揺れる狭間で流行したロマン主義の中の活動家(作家)として評価があります。ロマン主義はひとまず置いて、彼のアメリカ旅行をヒントに書き上げた小説「アタラ」を描いたGirodet(1767~1824)の作品を紹介。(ルーブル美術館所蔵)「アタラ」は、アメリカ先住民の悲しく終わった恋の話です。「長老シャクタスが養子ルネに若き日の恋を物語る。シャクタスは、首長の娘(混血児アタラ)と相愛の仲となり、彼女とともに荒野に逃れるが、アタラはキリスト教徒で純潔の誓いをたてていたため、シャクタスへの愛とこの誓いとの間で悩み、毒を仰いで死ぬ。」(一部引用)当時の古典的文学の時代にあって批評家たちの間に賛否両論の大論争を巻き起こしたと言われますが、その文体の叙情的かつ絵画的な美しさで、後のロマン派への道を開く先駆的な作品として評価されたそうです。(ウキペディアより)画家は本物のアメリカン・インディアンを知らなかったので、彼のイメージで描いた作品でしょう。でも、ロマンチックで素敵な絵です。絵から小説の情景が逆に伝わってくるようです。(ルーブルへ行くと必ず見に行く作品です。)私にはシャトーブリアンはお肉より作家のイメージの方がありますね。
2009年05月08日
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ルネッサンスの時代にベネチアで活躍した画家をベネチア派と言います。ヤーコボ・ベリーニ(1400~1470)ジヨバンニ・ベリーニ(1429~1507)ヤーコボ長男ジェンティーレ・ベリーニ(1430~1516)ヤーコボの次男ビットーレ・カルパッチョ(1455~1525)パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)ティントレット(1518~1594)ジョルジョーネ(1478~1510)ジョバンニ・ベリーニの弟子ティツィアーノ(1490~1576)ジョルジョーネの弟子の名があげられます。誰か一人くらいは聞いた事があるのでは?彼らの絵はドゥカーレ宮殿始め街の教会、アカデミア美術館に行けば見ることができます。この中でも特にルネッサンス最盛期のイタリア絵画の巨匠中の巨匠がティツィアーノです。日本ではあまり知られていないようですが、ベネチアの人にとってティツィアーノはベネチアが産んだ最も偉大な画家です。実際当時のヨーロッパ中の王侯貴族がティツィアーノの作品を欲しがったと言われています。(長生きしたので作品も多い)私はティツィアーノと彼の師匠であったジョルジョーネの絵が大好きです。作品を紹介したいのですが、美術館での撮影はできないので、作品集の本を撮影してしまいました。実物と印刷の色が若干異なるかもしれませんが、参考にして下さい。ジョルジョーネ 読書する聖母 テンペラ画 オクスフォード アシュモレアン美術館Aテンペラなので、ジョルジョーネらしいぼかしはないが、穏やかな時間の流れを感じさせる。聖母子画を得意とする師匠ベリーニの影響か? 少ないカラーの中でも美しい色合いで魅了される。構図はラファエロ的か?ジョルジョーネ 笛を持つ羊飼い ロンドン ハンプトン・コート王室コレクションB甘美でメランコリックでさえある羊飼いの少年。ジョルジョーネらしくて好きだ。ジョルジョーネは1510年32歳くらいの若さでペストで亡くなっています。だから作品も少ないです。ジョルジョーネとティツィアーノの 眠れるヴイーナス ドレスデン国立絵画館C共作だが、幻想的で、かつ気品を感じる。「感覚性と理想性が絶妙の調和を示している」と言われています。ジョルジョーネの代表作の一つです。ティツィアーノ 海から上がるヴィーナス サザーランド公爵コレクション?Dジョルジョーネはすでに没しているが、ジョルジョーネの形態を踏襲しているような初期ティツィアーノの作品。彼の描いた裸婦像の中で「最も豊麗な魅力にに溢れている」と言われている。この作品は好きだ。(油絵で模写した事がある。)ティツィアーノ ダナエ プラド美術館E多くの画家がダナエを描くが、私はレンブラントのダナエよりこちらの方が好きです。ゼウスが妻の目を忍び、黄金の雨と言う仮の姿で女性の所に忍んでいく情景です。この作品はスペインのフェリペ皇太子の為に描いたポエジア(詩想画)の一つらしいです。(要するに裸婦像を部屋にたくさん飾りたかったようです。)ベネチアのアカデミア美術館にティツィアーノの「マリアの宮詣で」という大作があり、(壁画のようだった?)圧巻です。ベネチアに行ったら是非行って見てきて下さい。街の教会にもかなり飾られていますが、所蔵されている絵画を見るのには船であちこち教会をまわらなければなりません。実際ベネチア派の絵画とは言え世界中に散逸しているので、ごく一部しか見られませんが・・。(私がベネチアに行った時は、たまたまティツィアーノ展がサンマルコの広場で開かれていて、とてもラッキーでした。)絵画は理屈でなく、見て好きかどうかですが、年々自分の「好き」の幅が広がっている気がします。前は嫌いだった印象画も今はそれなりに好きですし、キュビズムやフォービズムなど前は絶対駄目でしたが、理解できるようになってきた感じがします。好みが変わったわけではなく、自分の中でそれらを理解する能力(見識)ができたからなのかな? と思うこの頃です。
2009年05月03日
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誤字修正して写真追加しました。Break Time (一休み)パパイア(Papaya)めずらしいパパイアの花を発見。パパイア(papaya)パパイア科パパイア属。メイシコ原産の常緑小高木。パパイアは種子植物の中でも、被子植物に分類されるそうです。花と呼ばれる生殖器官の特殊化が進んで、胚珠が心皮にくるまれ、子房の中に収まり、心皮はそのまま発育して果実となるそうだ。※ それに対して、裸子植物の方は、胚珠が子房にくるまれていないので、果実を作らないと言う事です。それにしてもこんなにタネが入っているなんて・・。レモンかライムをかけて食べるのがお勧めパパイア(Papaya)が大好きです。やはりハワイ産の大きくて熟れたのが一番美味しい。現地で食べるのは気候との関係か? 日本で食べる物とは別物に感じます。ハワイでは温暖なカフクのパパイアが最高級品で、御値段も他産と少し違うのです。気付いた事があります。実は、幹に直接付く。一度付いたところには2度と生えず花は新たに成長した幹に付くようですつまり、どんどん上の幹へ幹へと実は付けていく。下はまだ低木。だんだん実は高い位置に。もはや普通のキャタツでは収穫できません。沖縄やフィリピン、タイでは野菜として料理に使われていますが、ハワイのパパイアとは種類が異なるようです。因みに、青パパイアのサラダはタイ料理の店でハワイでも出されていますが、フルーツのパパイアとはやはり別物ですね。
2009年05月03日
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