わたしのこだわりブログ(仮)

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2018年08月25日
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​​​​​ラストにBack numberを入れました。

​​​平安が続いた江戸時代には、いろんな文化が花開いている。
お洒落、なんて物が庶民にまで降りて来たのもこの頃だろう。
今まで、文化芸能は貴族のもの、それが戦国武将が活躍する時代になると武士の装いにもフォーマルが誕生。刀装具(とうそうぐ)や提げ物(さげもの)もこだわりが現れる。
特に、刀剣の鍔(つば)や目貫(めぬき)、笄(こうがい)など装剣金具に至っては繊細で凝った物が造られ始め、印籠や根付けなども江戸初期は武士や富裕な商人のお洒落アイテムであった。

​そんな高級な持ち物でのお洒落はマネできないが 江戸初期に若者らから始まった一風変わったお洒落スタイルがある。それが傾き(かぶき)ファッション である。​

ルーツは出雲の阿国(いずものおくに)が始めた「かぶき踊り 」にあるらしい。
歌舞伎のルーツとも言われる出雲の阿国(いずものおくに)(1572年(元亀3年?) ~没年不詳)は実は女性。その女性が男装して歌や舞を舞ったのがそもそもなのである。​

江戸初期、出雲の阿国以来女性の歌舞伎が流行する。しかし、これは特に遊女の品定めに利用されたらしく、風紀が乱れるからと禁止された。
そして、代わりに現れたのが少年による「かぶき踊り」だったそうだ。
ところが、これまた今度は美少年(若衆)目当てに男色が増えて風紀が乱れると禁止された。

​​が、そのファッション事態は江戸の街の、 今で言うイケイケの若者の間に広まった ようだ。
傾く(かぶく)と形容されるファッションがそれである。
傾く(かぶく)は、後々、歌舞伎に転じるようだが、そもそもは出雲の阿国(いずものおくに)の「しなり」ポーズを真似た所から発している らしい。​​

必須アイテムは刀。そして髪は長髪。
決して月代(さかやき)はせず、前髪も残して曲げを結う
※ 月代(さかやき)とは、武士のたしなみ。頭頂部を剃る事。実は兜(かぶと)の蒸れ防止だったとも・・。​

​​​ちょっと女性のカッコ。いや、もともとは出雲の阿国(いずものおくに)のイケテル姿を真似したカッコだったのだろう。
着衣も小袖の上に黒の袖無しを重ね着 するなど本当に当世の若者ファッションに発想は近い気がする。
​​ アイテムは刀。 これ は戦う為ではなく、小道具​ である。 刀に寄りかかったり、担いでポーズを取って見せたり、この姿がカッコ良いんじゃないか? と研究している様が見える 。​​​
当然、大人達はそんな若者らを嘆いたそうだが・・。​​

つくづく、今も昔も、案外変わらないのが若者の真理なんだなーと感心した次第である。


​さて、今​回で「東京クルーズ・隅田川ラインと水門」は終わりです。​​普通のクルーズ船案内のつもりが、内容が濃くなり、クルーズからかけ離れて「隅田川の紹介」になってしまった気がしますが・・
何より隅田川は歴史が深い。一朝一夕に語れない所だと改めて実感しました。
またポイントを絞って紹介するチャンスがあるかもしれませんが・・。

ところで、昨今は少し無理して忙しかったので、休憩兼ねて少しお休みし、今後はネタが思い浮かんだ時、内容を短くして、ちょこっとずつ、月1回(無理して2回)くらい掲載できればと考えています。
年内には昨年中断したクリスマス関係も書かねばならないので、何回かは載せられると思いますが・・。とりあえずいつもごひいきしていただき感謝しております。
過去ログも近年5年内のものは、内容も充実しているので読んでいただければ幸いです。m(_ _)m

​東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)​

​江戸時代のファッション
金のビルとオブジェ​
吾妻橋(あずまばし)
​源森川水門(げんもりかわすいもん)
隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)
言問橋(ことといばし)
隅田公園と桜橋​(さくらばし)
白鬚橋(しらひげばし)
​歌川広重「隅田川水神の森真崎」​
隅田川の総鎮守 ​水神の森

今回でクルーズは終章。やっと浅草の吾妻橋(あずまばし)まで来ました。
吾妻橋の上流に向かって左岸(西)に隅田川ライン・クルーズの浅草乗船場があり、登りの終着駅になっています。
しかし、上流に向かう時は、サービス?  
スカイツリーを他の角度から眺めるようにとの配慮かな?
東武伊勢崎線の鉄橋を越え、次の言問橋(ことといばし)手前まで航行してからUターンして浅草の乗船場まで戻るのです。

そんな訳で取りあえず吾妻橋を越えます。

アサヒビールタワー(左)とスーパードライホール(右)

金のビルと金の巨大オブジェ
この角度のアサヒビールタワーが一番泡っぽく見える。
​もともと隅田川の吾妻橋のたもとにあった工場跡地の再開発で1989年に建造完成されたのが、 壁面はビールのジョッキを、最上部は白い泡をイメージした アサヒビール株式会社の吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)である。​

そして隣の金の巨大オブジエは?
​隣接するスーパードライホール(1989年竣工)である。 屋上にのった奇妙なモニュメントは、燃え盛る炎を形象した「フラムドール(flamme d'or)( 黄金の炎)」と呼ばれるものらしい。
チューブを絞ったかのような物に見えますが、炎の揺らぎの形らしい。
アサヒビーの燃える心を象徴したと言うオブジエだそうだ。

フランスのデザイナー、フィリップ・スタルク(Philippe Starck)(1949年~ )による設計で一応、聖火台をイメージしたものらしい。ぽっa

でも、なんで横倒しなのでしょうね。建築許可の問題ですかね?

吾妻橋(あずまばし)

向こうに見えるのが東武伊勢崎線。右岸、次の駅が「とうきょうスカイツリー駅」

地上、浅草側からの吾妻橋。左に見切れているのが、隅田川ライン・クルーズのチケット売り場。
スカイツリーまで近いように見えて、ここから歩いて15分くらいかかります。
上流側からの吾妻橋

下はスカイツリー、フロア450からの吾妻橋から東武伊勢崎鉄橋までの写真です。
東武伊勢崎線のラインに沿って運河のような北十間川(きたじっけんがわ)が隅田川に合流。水門は源森川水門。
水門の左隣に見えるビルが墨田区役所である。
区役所の対岸が隅田公園と、東京隅田クルーズの浅草乗船場。

下はさらに地域を拡大。上の方に浅草寺。その右方向に花屋敷がある。
左、吾妻橋のすぐ北に浅草寺山門の雷門(かみなりもん)を→しました。
下は拡大写真。浅草寺(せんそうじ)と花屋敷(はなやしき)

花屋敷(はなやしき)は都会の遊園地です。

東京隅田クルーズの浅草乗船場。
すぐ上が隅田公園で、桜の時期は桜越のスカイツリーの写真が撮れます。
右は墨田区役所。(公園から

浅草乗船場からの写真

東武伊勢崎線の鉄橋 左が浅草。右がスカイツリー駅方面

鉄橋手前に北十間川(きたじっけんがわ)の隅田川、合流点。

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源森川水門(げんもりかわすいもん)

形式 公鋼製ローラーゲート水門
寸法 幅11m 高さ7.5m
開閉速度 常時0.5m/min  急降下地2.0/min
扉体自重 43.75t
竣工 1994年(平成4年)

北十間川(きたじっけんがわ)の隅田川、合流点の水門が源森川水門(げんもりかわすいもん)?
その理由は、今でこそ北十間川(きたじっけんがわ)となっているが、かつて、合流のこのあたりは源森川or源兵衛堀と言ったそうだ。
因みに北十間川(きたじっけんがわ)の由来は、川幅 十間から来ているらしい。

隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)
別名 東武花川戸鉄道橋(とうぶはなかわとてつどうきょう)

構造形式 複線中路カンチレバーワーレントラス(3径間)
鋼材重量910(重量トン)
橋長 166m
幅員 不明
着工 昭和2年
竣工 昭和6年


言問橋(ことといばし)

「言問(こととい)」という橋の名は平安の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)(825年~880年)の詠んだ、歌に因んでいると言うが、優雅な歌とは真逆に 1945年(昭和20年)の東京大空襲の時は橋の上で多くの人が焼夷弾で亡くなったと言う惨劇の歴史もある橋だそうだ。

構造形式 三径間ゲルバー鈑桁橋
橋長 238.7m
幅員 22.0m
着工 1925年(大正14年)
竣工 1928年(昭和3年)

クルーズではここでUターンして浅草の乗船場に戻るのですが、スカイツリーからの写真があるので少し延長して橋を紹介。

スカイツリーからの左、言問橋(ことといばし)と右のクロスが桜橋(さくらばし)。

​​​隅田公園と桜橋​(さくらばし)
右側が上流。上が浅草側なのであるが、不思議にもと、 隅田公園が言問橋両岸に分かれている。​
​つまり台東区浅草側の隅田公園と、下の右岸、墨田区向島の隅田公園に分かれているのである。

そもそも隅田公園は、関東大震災(1923年)の復興事業の一環により、計画された日本さくら名所100選に選定される桜の名所だそうだ。約700本の桜の樹があるらしい。
※ 隅田川両岸の桜並木は、古くは八代将軍 徳川吉宗(1684年~1751年)の計らいで花見の為に植えられたと言う歴史を持つ。

​その 両岸の隅田公園を結ぶ隅田川唯一の歩行者専用橋が、桜橋(さくらばし) なのである。​
両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ橋は、X字形の特異な形をした橋で、1985年に完成。
花見シーズンには、多くの人で賑わうと言う。
総工費、28億3000万円。台東区、墨田区の折半だそうだ。

​下はパブリックドメインになっていたので参考にウィキメディアから借りてきた桜橋の写真です。​

墨田区側の隅田公園



さらに上流の左、桜橋(さくらばし)と右、白鬚橋(しらひげばし)

写真上方に横切る荒川が見えている。
そこで合流するのかと思いきや、隅田川は荒川手前で左にカーブ。荒川に併走するようにくねりながら常磐線の鉄橋をくぐり、千住汐入大橋をくぐりさらに登る。
星前回紹介したが、千住大橋は徳川家康の時代(1594年)に架けられた隅田川最初の橋。​​
​​​1657年(明暦3年)の明暦の大火以前は隅田川を渡り江戸市中に入る橋はこれしかなかったのである。

​​ブルーのラインが荒川(あらかわ) ピンクノラインが隅田川(すみだがわ) 桜橋の次が白鬚橋(しらひげばし)。そして次が水神橋で、その次が千住汐入大橋と続く。
※ 水神大橋の手前の森が、かつての「水神の森」。現、東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)。

白鬚橋(しらひげばし)
千住大橋が完成して主だった街道筋が移されるまではここから渡し船に乗って、隅田川を渡っていたらしい。
創架は1914年(大正3年)、基金を募って資本金を作って住人により架けられた橋が最初らしい。

先ほど言問橋で触れた、在原業平が詠んだ歌(伊勢物語「東下り・すみだ河」)は、実はここの渡しだったとされている。
※ 白鬚橋下流のところに渡舟場があった。

下はやはりハブリックドメインになっていたのでウィキメディアから借りてきた白鬚橋です。

橋の名は橋の手前、東岸にある「白鬚神社」(現在は東向島白鬚神社)に因むらしい。

構造形式 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋
橋長 168.8m
幅員 22.1m
着工 1928年(昭和3年)
竣工 1931年(昭和6年)

​​歌川広重「隅田川水神の森 真崎​​」
白鬚橋の西岸に石浜神社があり、東岸には東白鬚公園が隅田川の堤にそって次の水神橋まで連なっている。(現住所で言えば墨田区堤通。)
それはかつて、歌川広重が名所江戸百景の一つ「隅田川水神の森真崎(すみだがわすいじんのもりまさき)」を描いた場所である

歌川広重 1856年(安政3年)絵に見えるのは筑波山だそうだ。

実はこの絵が東岸から描いたものか? 西岸から描いた物か? 今一つハッキリしなかった。
何しろタイトルが「「隅田川水神の森真崎」となっているので東岸の水神様から描いたものだと考えられているふしがある。
しかし、いくら隅田川が蛇行しようとも、​​​筑波山が正面にあるのだから、やはり方位的に​ この絵は西岸から東岸の水神の森の方角を描いたと解釈した方が良い。
つまり、​この絵は普通に武蔵野国から下総国を見た図と言う解釈で良いと思う。​​​

星絵を描く立場で言うと、デザイン的に筑波山の位置を多少ずらしている可能性はある。バランスの関係で・・。必ずしも真実を紹介する必要が無いのもまた浮世絵の世界観であるし・・。

では、そうなると​ 手前の鳥居は何か?​
​これこそ、 真崎(真先)にあった「真先稲荷神社」 であり、絵は、その手前のかつての石浜城跡の丘あたりから描いたのではないかと想像できる。​
※ 真先稲荷神社(豊受姫神)は1926年(大正15年)に石浜神社に併合。現在、境内社になっている。
※ 隅田川西岸一帯がかつての真先(まさき)。今は南千住3丁目あたり。かつて隅田川の眺望を楽しむ場所としても知られたそうだ。

隅田川の総鎮守 ​水神の森
絵の対岸の向島方面が、現在の東白鬚公園(ひがししらひげこうえん)になっている。住所では墨田区堤通(つつみどおり)。かつては隅田村。
​東京都神社庁に所属する、現、隅田川神社が「水神様」である。​
※ 明治5年(1872年?)、「水神」から「隅田川神社」に名称変更されている。
※ 明治政府による宗教政策については、以前八坂庚申堂のところで書いています。
​2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」維新政府の宗教改革(振り回された神社)
​リンク ​ 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)

​​古くは「水神宮」または「浮島の宮」と呼ばれた 隅田川神社の歴史は源頼朝(みなもとのよりとも)(1147年~1199年)の関東下向、挙兵の際、1180年(治承4年)この地に到り、水神の霊験に感じて水神社の社殿を造営したと伝わるそうだ。

小高い丘の上の宮は増水でも沈む事がなかった事で「浮島」とも呼ばれた事、またこのあたりが交通の要所(往古の街道筋)で、渡舟場があった事などから隅田川流域の船主の信仰を集め、後々船頭や荷船仲間に広く深く信仰されて隅田川の総鎮守となったようだ。
震災・戦災にも焼失を免れた森も戦後の開発で消えてしまった。現在の社殿は幕末(1858年、1864年)の二度の建設によるもの。場所も100mほど移動。
昔の面影は全くないらしい。

荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、かつては隅田川の落ち口(終点)だったそうです。
つまり、昔はここから海(江戸湾)。今はかなり上流だけど、ここらが入江だったらしいのです。
「江戸」の語源は、ここの「江の口」から由来しているとの説もあるそうですよ。

隅田川の総鎮守の水神様にたどりつくとは、当初思ってもいませんでした。また、最初の東京湾入り江にたどり着き・・。落ちもよろしいかと・・。スマイル
​「東京クルーズ・隅田川ラインと水門」終わりにしたいと思います。​

ちょっとお待たせしてすみませんでした。m(_ _)m

Back number
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史
リンク ​
東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋まで
リンク ​ 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)
    東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)​






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Last updated  2022年02月07日 15時39分10秒
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