わたしのこだわりブログ(仮)

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2018年11月05日
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カテゴリ: 偉人・画家・聖人
​​​​今回は1度見たら忘れる事はない、極めて特異な世紀末(Fin de siècle)の画家、オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)(1872年~1898年)の紹介です。

最初の出会いは高校一年。その時記憶した絵は、今リビングに飾られている。

世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)

サロメ(Salomé)と私
オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)
サロメと首の主
​ビアズリーとジャポネズリー(Japonaiserie)​

サロメ(Salomé)と私

​​ I have kissed thy mouth, Iokanaan,
I have kissed thy mouth.
There was a itter taste on thy lips.
Was it the taste of  blood?
Nay; but perchance it was the taste of love
おまえの口に口づけしたよ。ヨカナーン
おまえの口に口づけしたよ。
おまえの唇は苦い味がした。
血の味か?
いや、たぶんそれは恋の味。
※ ​サロメは首の主にささやきながらその生首に口づけした。​
それは生前の首の主に「ソドムの娘、パピロンの娘」とののしられ、触れる事も許さなかったからだ。
それでもサロメは一瞬でヨカナーンを愛してしまった?

​これは ​オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)の戯曲「サロメ(Salomé)」(1893年)の作品の一説だ。​

ワイルドの聖書の物語に発した大胆な創作。とりわけその作品の挿絵には衝撃が走った。

高校一年の時の事だった。

作品の不謹慎さもさることながら、作品の中の主人公サロメをより、妖女にしたてた挿絵のサロメに魅入られたのは私だけではないだろう。

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挿絵の主はオーブリー・ビアズリー(Aubrey  Beardsley) (1872年~1898年)知る人ぞ知る鬼才だ。​

1度見たら忘れないほどに非常に個性的な絵を描く画家(イラストレーター)だ。

独特な怪異な彼の絵は、夢に見て怖いと思う人もいるかもしれない。

でも、怖く気持ち悪い中にも不思議と引きつける魔力を持っていて、私はそれを忘れる事ができなかった。そして、その想いにより、その作品を後年手に入れる事になる。

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新宿の小田急美術館でヴイクトリア&アルバート美術館所蔵のビアズリー展が開催された時だ。

​もっとも 25歳と言う若さで夭折した作家の肉筆画は無く、 ほぼほぼ古い本の一部を額装したものばかりの展示会であったと思う。​

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その絵が下「The Studio」Vol.1 No.1 である。

絵の部分10×20cmくらい。 リビングに飾っている。

.1893年、オスカー・ワイルドが「Salome」を発表すると、それに啓発されたビアズリーはかってにサロメを描き雑誌「The Studio」Vol.1 No.1  の創刊号に掲載。

​それにより 英語版のイラストには、ビアズリーのイラストが抜擢、採用される事になる 。​

そもそも「 ​サロメ」の初版は1893年2月にフランスで刊行されていた。​英語版の初版が刊行されたのは1894年2月。​​

しかもそれはフランス語で書かれた書を英訳して刊行されている。

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因みにその英訳をしたアルフレッド・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas)(1870年~1945年)がオスカー・ワイルドの同性の恋人であり、翌年1895年にその父親から告訴されオスカー・ワイルドは転落して行く事になる。

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I have kissed thy mouth, Iokanaan,

おまえの口に口づけしたよ。ヨカナーン

イラストの中でも、サロメを代表する挿絵がこの生首へのキスシーンであるが、マガジンに発表されたものと英語版とは微妙に違う。

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下は本の挿絵の「サロメと首」  現代版の英語の本の挿絵から撮影

まるで夢見がちな乙女のようにヨハネの首に想いを寄せるサロメ。

顔は怖いけど、スタジオ作品(「The Studio」Vol.1 No.1)よりは可愛いサロメがいる。

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プラトニックな嘆き

こちらは可愛らしサロメの純粋な愛。

でも拒否され、ののしられ、こばまれたが故?

後に憎悪に変わる。

ビアズリーの本からの撮影ですが、この絵は岩波文庫のサロメにも掲載されています。

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それにしても16歳の私は何を考えていたのでしょうね。

もっとも、ビアズリーのサロメだけでなく、後々ギュスターブ・モローの描いたサロメも手にい入れようとしていた私は、ビアズリーの絵よりもむしろ王女サロメのファンだったのかもしれない。

※ モローのサロメは美術館の人に止められて、代わりにオルフェゥスを購入。こちらは寝室に飾っている。因みにモローのサロメの方は幻想的で美しさが際立つ。モロー作品もいつか紹介したい。

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オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)

最初に言ってしまうが、短命な彼の肉筆画は見た事が無い。

もともと挿絵画家として世間に認知された彼の作品は、当時出版された本の中の印刷によるものくらいしか無い。

だから作品展と言っても、かつて印刷された古い本のページを切り取って、額装したものくらいしかお目にかかれないのである。

19世紀の本の発行数はそもそも多くは無い。加えて今現在どれだけの本が残っているのか?

※「The Studio」Vol.1 No.1 の絵はもう手に入らないらしい。

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​​ 父方から工芸家としての才能を母方から音楽や美術など芸術に対する本格的な教育を受けて育ったビアズリーは確かに芸術に対してマルチな才能を有していた。
特に絵に関して、 彼を画家へと薦めたのはラファエル前派を代表する画家エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年) だったと言う。​​

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なるほど、ビアズリーとラファエル前派の関係はここから始まり、ウィリアム・モリスとの接点もここにあったわけである。

※ モリスとバーンジョーンズはオックスフォード大学時代の友人らしい。

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ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)は、産業革命期のイギリスで、失われつつあった中世のクラフトマンシップを再興しようと活動したデザイナー である。
特にテキスタイルで知られていると思うが ​彼の美しい本の装丁は、ビアズリーの作品の中にもその影響が見える。​​

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トリスタンとイゾルデ

トリストラム卿を看病する麗しのイゾルデ


​ウィリアム・モリスの影響がみられる挿絵
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星産業革命とモリスが提唱したクラフトマンシップの工芸デザインが世紀末のイギリスで花開く頃、文芸の方も中世を題材にした物語が次々発表される。

「サロメ」しかり、「アーサー王伝」、「トリスタンとイゾルデ」、「タンホイザー」などビアズリーの才能はその中で見いだされたのである。

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世紀末に好まれたのもまたロマン主義的モチーフである。中世へのあこがれや回帰的な意味もあったのかもしれないが、ハッキリ言えるのは、明らかに文化文明が市民全体に降りてきている事。

アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)自体は、まだ特別な金持ちのものでしか無かったけれど、文芸は市民の中で確実に消化されてきていた。

ラファエル前派の作品はやりはまだ金持ちの物。でもビアズリーの作品は市民に寄り添った所にあったのは間違いない。

だから時にアイロニー(皮肉)を込めた卑猥な作品も多々描いているし、下のような作品も描いている。

ゴルフをたしなむ婦人  私の所持している作品


ゴルフってそんな昔からあったのね。と思って購入した作品を額装。

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ビアズリーはアーサー王の挿絵もしているが、この頃はラファエル前派的な挿絵である。

独特な悪魔的な彼の絵は独自の感性で描かれ、サロメの中で特に発揮されている。(オスカーワイルド自身は気に入らなかったらしいが・・。)

作品を食ったとも言える衝撃の彼の挿絵は 私ばかりか、あらゆる読者に強い印象に与えたに違い無い。.

サロメと首の主

サロメ(Salomé)は旧約聖書の中で幼児虐殺をしてユダヤの王の誕生を阻止しようとしたヘロデ王の娘 である。​

娘のサロメに邪(よこしま)な目を向ける王の求めでサロメは踊りを披露させられる。

その褒美に、王さえも幽閉する事しかできなかった荒野の修道士であり予言者であるヨカナーンの首を落とす事を求めたのである。

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生前のヨカナーンと一目惚れするサロメ

まさにエキゾチック(Exotic)と言う形容詞が当てはまる。

実は ちょっとばかり日本的に描いているらしい。

いわゆるジャポネズリー(Japonaiserie)と言う作品 なのだ。

これこそイギリスで起きたアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)がそもそも日本の影響を多分に受けたジャポニスム(Japonisme)が根底にあった事に関係している。

星サロメが首を落とさせてまで求め、​​​​焦がれた首の主、 ヨカナーンとは、実は洗礼者ヨハネの事 。​​

※ バプテスマのヨハネ(John the Baptist)(BC2年頃 ~36年頃).

以前聖母子像を紹介した事があるが、幼児キリストと一緒にいる子供こそが、実は ​荒野で修行するキリストの先輩修道士であり、キリストに水の洗礼を施したヨハネなのである。​

それ故、彼は「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる事になる。

​※  2017年12月「聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)」

リンク ​ 聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)
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ところで、異常なサロメの愛情を見たヘロデ王は恐れおののく事になる。

サロメの為にヨハネを殺してしまった事に後悔したのだ。

結果、ヘロデ王はサロメをも殺してしまうのである。

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サロメの死

こちらは可愛らしいサロメである。

実は挿絵のテイストが違うのではないか? と言うほど主人公サロメの顔は変わっている。

老婆になったり、性格の悪そうな女の顔になったり、上のように普通に若く美しい女性であったり・・と。まるで別人のように異なる。

内面と言う仮面を被っている・・と言う見方もできるが、本当のサロメの顔はどれ?

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死して欲や邪鬼が消え、無防備になったこの顔は、乙女サロメである。この姿だったなら、ヨカナーンも心を動かしたかもしれない。(厳格な修道士だからあり得ないけどね。)

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ビアズリーの作品は、その毒々しさが魅力であるのは解るが、先ほど触れたように後半はシンプルに可愛い女性もたくさん描いている。下は、私のお気に入り作品の一つであり、所持している作品。

ヴィーナスとタンホイザーの口絵から「ヴイーナスと境界神」

反射、がありバックを修正しました。最初に載せた時と色が変わった。もっと地は白いです。

拡大作品は買ってきたコピーから。

上の絵はヴイーナス山の入口に立つヴィーナス。

そこは人の住む現実の世界ではない異世界にある。

境界神はその境に建つ門なのだろう。

ビアズリーはワーグナーを敬愛していたらしい。1895年ワーグナーの祖国ドイツに滞在中に「ヴィーナスとタンホイザー」とその挿絵を執筆。

家で本を見ながら、この絵も欲しい・・と再び美術館に行って手にいれた作品を額装。こちらは寝室に飾っています。

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ヴィーナスとタンホイザーの話しは以前「ルードビッヒ2世の執務室」の所で紹介しています。 

2018年3月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3  ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」

リンク ​ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー

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イゾルデ  ステュデオ誌1895年10月号付録  写真は買ってきたコピーから。



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​ビアズリーとジャポネズリー(Japonaiserie)​

ビアズリーがちょっと日本を意識して描いた絵。

サロメ 黒いケープ


浮世絵の美人画のフォルムを意識した作品?

孔雀(くじゃく)の裳裾​(もすそ)


サロメの母ヘロデアスと兵隊

※ 裳裾(もすそ)とは女性の礼服のローブの事。トレーン(train)とも。
孔雀は日本には本来いない鳥だからちょっとアジアとチャンポンになっているが、構図はやはり浮世絵の美人画。
特にこの孔雀のローブは着物にヒントが有ったりして・・。

私の所持している3点、全て傾向が違う。

傾向としては、初期はラファエル前派的な絵、そしてサロメの時に見る ジャポネズリー(Japonaiserie)の取り入れられた絵。そして後半のサヴォイ誌に見るロマンティックな絵。

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代表作として語られるのがワイルドのサロメである故、ビアズリーと言えば毒々しさが印象の画家のイメージでまとまってしまう。が、流行の日本が意識された作品がまさにこの時代である。

何しろこの頃イギリスでは日本ブーム。ジャポニスム(Japonisme)が流行っていた時代である。

最も、ほとんどの者は日本をよく知らなかったらしくワイルドなど「日本は幻の国だ」とも言っていたらしいくらい知識は皆に無かったらしい。

あるのはもっぱら浮世絵情報である。

ゴッホはもろに油絵で浮世絵風な絵を描いたが、ビアズリーは浮世絵のフォルムや構図をちょっとだけ戴いて自分の作品を生み出した。先ほども書いたが、ちょっとだけ日本がビアズリーの ジャポネズリー(Japonaiserie)作品なのである。

そこがアーサー王を描いた頃の作品との転換点になる。

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サヴォイ2号 リマの聖女ローズ昇天 1896年

​​​

アーサー・シモンズの招きで「サヴォイ」誌の美術編集者となり創刊に参加。
初版はクリスマスカードで聖母子を描き、2号で「リマの聖女ローズ昇天」を描いている。
ちょっとマンガチックですけど普通にロマンチックな絵です。

サロメの時のような毒々しさは無くなっています。

1667年、ローマ教皇クレメンス9世により列福され、1671年にクレメンス10世により最初のアメリカ大陸初の聖人として、列聖されたペルー生まれの聖女。

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世紀末のイギリスでは外せない画家(イラストレーター)ですが、「サロメ」と一体視された所が多く、ワイルドの転落の影響を受けて巻き添えで社会から廃絶されてイギリスを出ている。

​フランス、ベルギー、ドイツなど周り、最後は南フランスの マントン(Menton)で 1898年3月16日、結核のため逝去。亡くなる直前には聖徒伝を読みふけっていたらしい。


25歳で逝くなんて早すぎです。号泣​もっと作品を見たかった。
それにしてもマントンに行った事はあるけど全然知りませんでした。

​※  以前「マントン(Menton)での思い出​」を書いてます。   おわり

関連 back number
リンク ​ ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)​






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Last updated  2022年01月17日 03時50分06秒
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