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さて、前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)」では、ローマ街道(Via Romana)を紹介しましたが、今回は街道に関連して単独でローマ帝国内でのキリスト教の伝播について紹介します。ただ、単独にするにあたり大きく構成の見直しをしました。
キリスト教を知らない人への説明と当時の帝政期のローマの事情も加えたのですが、盛りだくさんになって大変な事に・・。2本分あるかも。
ローマ帝国の 帝政期、ローマ帝国はローマ建国の神々を棄ててキリスト教を国教に制定 しています。
キリスト教はこの帝政期に発生し成長拡大した宗教
なのです。
何より 短期間でキリスト教が地中海世界に広まったのは、ローマ街道の存在があったからこそ
です。
ローマ帝国の支配圏が広域に拡大。強いローマ帝国により地中海からは海賊が消え船の移動もスムーズに。陸路は道が整備され ローマ街道はその支配圏を編目のようにつないだ。国境さえも容易に越えられるようになった
ので、一般の旅行を安全に、しかも容易にした。 それはキリストの使徒(しと)らの伝導の助けとなった
のである。
今回写真にアヤソフィアのモザイク画も使用しています。1985年「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されたアヤソフィア(Ayasofya)はキリスト教の教会とイスラムのモスク時代を経て、トルコ共和国建国以降は博物館として存在。2006年からはキリスト教徒も正教会の信者もイスラム教徒も祈れる場所として仲良く存在していたのですが、現政権のエルドアン大統領は支持率upの為にアヤソフィアを完全モスク化して独占する話しが浮上し世界に衝撃が走っています。
ローマ帝国とキリスト教 の伝播 (キリスト教とは)
キリスト誕生を紀元
として造られた西暦
アヤソフィア(Ayasofya)問題
イエス・キリストの誕生
ペテロの墓所サン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)
新約聖書とキリスト教徒
異教徒に広がるキリスト教
ペンテコステの日の奇跡
使徒(apostolos)パウロの伝道
帝政期前半のローマ帝国
・帝政ローマを立て直し、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝
・キリスト教を認めた
コンスタンティヌス1世
ミラノ勅令後のキリスト教
キリスト誕生を紀元
として造られた西暦
現在の西暦(せいれき)と言う暦(こよみ)はイエス・キリストの誕生した年を元年として造られた紀年法となっている。
※ 正確に言うならイエス・キリストの生誕はもう少し前、BC7~BC4年の間らしいが・・。
西暦を案出したのは5世紀のローマの神学者ディオニシウス・エクシグウス(Dionysius Exiguus)(470年頃 ~544年頃)と言われている。彼は神学のみならず数学にも天文学にも精通した人物だったらしい。
キリスト紀元 A.D.(anno domini) は私もよく使用するが、 ラテン語で「主の年」を意味する略号 である。同じく 紀元前のB.C.(Before Chlist)は「キリスト以前」を示す略号 だったのである。
但し ゼロの概念が無かった時代なのでキリストの紀年法に紀元ゼロ年は存在しない。
紀元1年の前年は、紀元前1年。
負数で紀元前の年を1年ずつずらして対応しているので紀元前10年は西暦 ではマイナス9年となるそうだ。
※ 紀元0年は存在しないが 天文学では計算上不都合が生じるので西暦0年が存在する
。
因みに、キリスト紀元の使用開始は532年らしいが、欧州で使用され始めるのは10世紀頃。世界に広まるのは18世紀頃らしい。それはおそらくキリスト教の宣教活動に関係していると思われる。
イスタンブールのアヤソフィア、堂内後陣アプスの半円ドームに描かれたモザイク画 聖母子
イスラムの支配時代、アヤソフィアはあまりに立派であったので壊さずにモスクとして再利用されていた
。モザイク画は破壊されるか漆喰で塗り固められ一部が現在に残っている。
この黄金タイルの壁画も漆喰で塗り固められていた? 調べたがそれは解らなかった。
もしかしたらこの聖母はイスラムの時代もそのまま残っていた可能性がある。
意外であるが イスラムにおけるマリアの地位は高い。コーランにも何度も登場し母として、女性として崇敬されていた? らしい
のだ。
因みにこれら修復にはアメリカン・エキスプレス社の資金援助もあったと言う。
下は聖母の図像がある天井
イスラム、モスクの説教壇ミンバルが下に置かれている。本来キリスト教では内陣に位置する場所。
アヤソフィア(Ayasofya)問題
アヤソフィア(Ayasofya)は最初キリスト教徒が建てた大聖堂であった。
コンスタンティヌス1世は330年、都をローマから東方の交易都市であったアナトリア半島のギリシアの植民都市ビュザンティオンに遷都
すると、そこに古代ローマの街と同じように街造りを進めた。
※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)
コンスタンティヌス1世は丘に広場やバシリカを建て給水施設(イェレバタン・サラユ )を建設。
ビュザンティオンのキリスト教の大聖堂として建設されたのがアヤソフィア(Aagia Sophia)
です。
献堂は帝の子、コンスタンティヌス2世によるもの。 建設は350年頃。360年2月献堂
。
※ 今の聖堂の形になるのは10世紀頃と考えられる。
一時は帝政期のローマの首都となったビュザンティオン( コンスタンチノープル、現トルコのイスタンブール)。 コンスタンチノープルがイスラムに陥落すると1453年大聖堂はイスラムのモスクに変わる 。
その後オスマン帝国の時代を経て、トルコ共和国が建国された時、建国の父であり初代大統領の アタチュルク (Atatürk) により1934年あらゆる祈りの場から外されここは博物館となった 。
キリスト教徒にとっても、ギリシャ正教会にとっても、イスラムにとってもコンスタンチノープルは聖都。それはアタチュルクの素晴らしい英断(えいだん)
であったと思う。今回の事態はそれを冒涜(ぼうとく)するもの。
そもそも2006年に祈りの解放をした事が問題。今回の一件は予見できたはず。
イスラムのモスクの形はこのアヤソフィアが原点になっていると言う。
イエス・キリストの誕生
キリスト紀元にかかっているのが帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスの時代
である。
そして 2代皇帝ティベリウスの時に成人し、活動し、十字架にかけられた
事になる。
イエス・キリストは死海近くのユダヤの地、ベツレヘムで生まれた。 父はヨセフ。母はマリア。聖書では聖母マリアは精霊により懐妊した事になっているのでヨセフは夫であるがキリストの父の扱いにはなっていない。
が、正統と言う意味では父ヨセフの血筋がダビデ・ソロモン王につながるのでイエス・キリストは正統なユダヤの王と言う位置づけになっているのである。
父ヨセフの本業は修道士であり、下界にいる時は大工をして暮らしていたと考えられる。母マリアも修道女であった。血筋を守ると言う意味で二人は婚約し結婚したのである。
※ イエス・キリストは突然宗教に目覚めたそこら辺のお兄さんでは無く、もともと戒律の厳しいユダヤ系の宗団の中にいたからこそ・・なのである。
以前「無原罪の御宿り日」の所で紹介しているが、 ローマ・カトリック内でもマリアの無原罪問題は長らく論争された教義の一つ。当然カトリックでは、イエス・キリストは神の子なので人間の両親から生まれたと解釈するのはタブー
である。
ではこの説はどこからか? 実はマタイによる福音書の冒頭「イエス・キリストの系譜」に血脈の事はしっかり書かれている。後は死海文書の研究と照合による史実? 「イエスのミステリー(NHK出版)」から。
バチカン美術館入口のプレゼピオ(Presepi) クリスマスシーズンのみです。
プレゼピオ(Presepi)はキリストの生誕の祝いの場景を現すフィギュア
。
キリストが生まれたのは12月25日。帝政ローマの国教となった時に決定された。
※ マタイとルカによる福音書にはキリストの誕生日の章はあるが季節も特定できない。
マギ(magi)の来訪が翌年1月6日。その日がイエスの洗礼を記念する日。公現祭・エピファニー(epiphany) と定められた。つまり 1月6日の公現祭までがキリスト生誕の祝い日
である。
※ 2017年12月「聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日」で聖母マリアの結婚と懐妊、人間の原罪についても書いています
リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日
※ マギ(magi)とキリストの誕生日については以下に
リンク マギ(magi)の正体
ペテロの墓所サン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)
バチカンのサン・ビエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)は
アヤソフィアより少し早く 326年頃
コンスタンティヌス1世(ローマ皇帝)によりローマの教会として建設
された。
聖ペテロの墓の上に建設された殉教者記念教会堂がサン・ビエトロ寺院
(Basilica di San Pietro in Vaticano)であり、現在それは、世界に13億人とも言われるカトリック信者を持つ カトリック教会と東方典礼カトリック教会の総本山
となっている。
聖堂ファサードの上にはキリストを中心とする聖人らが並ぶ。
下は堂内に置かれて居る使徒ペテロの座像。御利益? 唯一足が触れる像である。
天国の鍵を預けられたペテロ。鍵は彼のアトリビュート(象徴)となるアイテムである。
※ 天国とは死後に復活をかけた審判が行われた時にのみ開かれる天上世界である。鍵はその扉の鍵。
ペテロは最初の弟子なので使徒の中でも地位は高い。が、パウロ程に旅はほとんどしていないようだ。異教徒への布教も、あまり乗り気ではなかった? と読める所もある。
だが彼には天国の門の番人としての役割が与えられている。彼にはまだこれから大仕事が待っているのである。
下の写真はウィキメディアのヴァチカンからパノラマ写真を仮りてきましたサンピエトロ広場は広く人も多く正面全景の撮影は非常に難しい。うらやましい写真です。
アヤソフィア堂内のモザイク壁画、 デイシス(Deisis)のキリスト 1260年頃
デイシス(Deisis)は中央にキリスト。左手に聖書。右手が祝福する形をとる。
左側に聖母、右に洗礼者ヨハネを抱く絵画でビザンティンの代表的イコンのスタイル。正教会では聖像と呼ばれるもの。このデイシスのモザイク画は立体感も出ていて最高傑作と言われる一品。
イスラムの支配時代、この黄金タイルの壁画は漆喰で塗り固められていたと思われる。
下部が無いのは、痛みだけでなく、モザイク画の石はタリスマン(お守り)として売られていたからもあるのだろう。
もし、モスク化されたら、これらは隠されるようだ。
そもそも西側の資金を使って修復されてきたのに・・。
新約聖書とキリスト教徒
以前「死海文書」とクムラン宗団について紹介した事がある。
リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
そこでは文書の発見とクムラン宗団の存在についてしか紹介していないが、 イエス・キリストも彼の父ヨセフもそしてイエス・キリストの洗礼者であるヨハネもまたクムラン宗団の一員であったと解釈される
に至っている。
キリスト教がユダヤ教をベースにしているのは単にユダヤの地で生まれただけでは無く、分派したユダヤの教団の一員であったからだ。
イエス・キリストの足跡
以前も紹介していますが、カペナウム周辺のガリラヤ湖です。
カペナウムに住む 漁師シモン・ペトロとアンデレ兄弟
を最初の弟子とし彼らの家に滞在して説法していたらしい。
同じくガリラ湖で親子3人で漁師をしていた ゼベタイの子、ヤコブとヨハネ兄弟
は父(ゼベタイ)を残し弟子となる。彼らは イエス・キリストの最初の使徒である。初代教会ではシモン・ペトロとゼベタイの子ヨハネが中心的役割を担う事になる
。
キリスト亡き後に彼らは活躍するが迫害がひどくなり殉教(じゅんきょう)する。
シモン・ペトロ
は、キリスト教が公認された後に彼の墓の上にサン・ピエトロ寺院(Basilica di San Pietro in Vaticano)が建立。ローマ・カトリックの総本山となる。(前述紹介済み)
ゼベタイの子ヨハネ
は、キリスト亡き後、聖母マリアを託される。彼女をエフェソスに送り、自分は逮捕されて流刑地パトモス島で黙示録(もくじろく)を執筆。福音書記者ヨハネと同一と考えられている。
ゼベタイの子ヤコブ
は殉教すると弟子らが彼の遺骸をパレスチナからなぜかスペインに運ぶ? そして彼の墓地の上に9世紀になってサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)が建立し巡礼地となる。(聖書でなく、外伝による。)
ヴァチカンの
ペトロの墓とサンティアゴのヤコブの墓の上の教会堂は、聖地エルサレムと並ぶキリスト教の3大巡礼地となっている
。
※ サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼路も扱っているので長編です。一部のみリンクのせます。
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)
リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
※ バチカンについてもあちこちで取り上げてますが・・。
リンク 天使と悪魔とヴァチカン
リンク ヴァチカンとシスティナ礼拝堂
※ 聖母マリアについて書いています。
リンク 聖母マリアの家とマリア崇敬
※ 以前キリストが主に説法してまわったガリラヤ湖を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」が合わさってできている。
「旧約聖書」は神との契約に従い歴史の中に生きてきたユダヤ民族の話し
がまとめられている。(預言書も含まれる。)ユダヤ教の唯一のテキストである。
イエス・キリストに関係するのは「新約聖書」の部分
である。 神の代理人である救済者イエス・キリストの教えと奇跡の話しを後世弟子らがまとめて編纂したものが「新約聖書」
なのである。
ザックリ言うと、 「新訳聖書」はイエス・キリストの言行を描く四つの「福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)
」
をメインとして
使徒ペトロとパウロのによる布教活動など初期のキリスト教史が描かれた「使徒言行録」。
使徒パウロが門徒らに送った「パウロの書簡」などから成っている。
つまり 使徒らによって書かれた「新訳聖書」の部分がキリスト教のテキスト
なのである。
実際、キリスト自体が生きて活動していた時間は非常に短い。推定で34歳くらいで亡くなっているので活動は10年ほど? 彼の教えに感銘し弟子となった使徒(しと)らがローマ帝国内に伝導した事によってキリスト教は世界宗教にまで発展して行った のである。
因みにキリストが磔刑にされて亡くなったエルサレムのゴルゴダの丘とされる所に 聖墳墓教会が建立されています。正直本当の場所かは定かで無い気がしますが、以下に紹介しています。
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
エルサレム聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)
Via Dolorosa(苦難の道)からの教会です。
全景写真が修復中で微妙なので下の写真はウィキメディアの 聖墳墓教会から借りてきました
堂の入り口です。
異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡
ここで、はっきりさせておきたいのは、 ユダヤ教徒であったキリストが当初説法したのは回りのユダヤ民族に向けて
であった。しかし、イエス・キリストが昇天し、使徒らが伝導を始めるとそれはユダヤ人以外の異民族にも広げられた。
むしろユダヤ人よりも抵抗が無い分、異教の者の方が受け入れやすかったと言う理由もあっただろう。が、最も それを可能にしたのは学識あるサウロ(後のパウロ)の加入であった。
※ ギリシャ名パウロ(Paulo)とヘブライ名サウロ(Saul)
「使徒言行録9サウロの回心」では「異邦人や王達、またイスラエルの子らに私の名前を伝える為に私が選んだ器である。」と イエス・キリスト自らサウロを宣教者として選んだ事が記されている。
※ 彼はユダヤ教のファリサイ派( Pharisaeus)に属し、当初キリスト教徒らを迫害していた人物であった。
グリーンの→がペンテコステ以降の信徒'(しんと)の移動? 伝道?
ステファノの殉教以降がブルー
パウロの布教をレッド
でしるしたが、実際のパウロは、何度も各地を巡っている。
ペンテコステ以降
使徒言行録には、ペンテコスの日に起きた神の奇跡により信徒(しんと)らは突然異教の言葉が話せるようになったと言う話しがある。そして信徒らはエルサレムから方々に散り布教を始めたと言う
。
※ ペンテコステ(Pentecostes)聖霊降臨(せいれいこうりん)の日
復活したイエスは弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを予言。それはユダヤ教の春の収穫感謝祭の「五旬祭の日」であった。
キリスト教徒は以降ペンテコステの日を聖霊降臨(せいれいこうりん)の日として祭った。
ステファ
ノの殉教以降
ステファノ(Stefano)はギリシャ語を話すユダヤ人であり、キリスト教初の殉教者
であった。
彼の殉教の裏には 初期教会の中で起きていた「ヘブライスト」vs「ヘレニスト」の問題があったらしい
※
ヘブライ語(ユダヤ語)を話すユダヤ人がヘブライスト(Hebrew)
ユダヤ人であるがギリシャ語を話すステファノ(Stefano)はヘレニスト(Hellenist)でありギリシャ語を話すステファノがユダヤ教の批判をしたと密告? ファリサイ派は怒り石打ちの刑を執行。ステファノは殉教。
これ以降に迫害はひどくなり使徒らはフェニキア、キプロス,アンティオキアまで逃げた
。ギリシャ語を話せる者が助けて伝道活動もできたようだ。
※ 因みにステファノの刑の時にパウロが立ち会っていたらしい。つまりこの時点でパウロはまだキリスト教徒の天敵であった。
使徒(apostolos)パウロの伝道
パウロ(Paul)はローマの属州キリキアの州都タルソス生まれ(現トルコ)。ローマ市民権を持つファリサイ派のユダヤ人であった。
先に「使徒言行録9サウロの回心」で紹介した通り、 イエスの死後にキリスト教徒となった為に直弟子ではなく、12使徒からは外れているので狭義には使徒(しと)
(apostolos)
ではない。
しかし、パウロはギリシア語とヘブライ語を話し、読み書きができる ので漁師の初期メンバーより記録して残す事が可能。 教会や信徒(しんと)らの疑問に答える手紙などたくさん出し 新訳聖書にはパウロの書簡が「13書簡」採用 され貢献している。
パウロの功績は東地中海やバルカン半島にまで及ぶ異邦人の世界への率先した伝道の拡大 である。かなり奥地まで立ち寄って講話をし、教会を建て、書簡も使って指導している。
何よりイエスが救世主キリストであると言う信仰的理解と説明を成して 彼は一貫したキリスト教の教義を確立。各教会に指導している事だ。
4つの福音書が意味するのは4つの考えの違う団体があったから? と言う説もある。直接イエスから福音を聞いた使徒達の伝承では後にブレが生じる。
パウロは直接イエスに合っていないからこそ、真理と確信を求めたのかもしれない。
バウロはまだ未完全な初期キリスト教の基板を作ったと言える重要な人物なのである。
ところで、 回心以前のパウロはステファノの刑にもかかわるほどキリスト教徒の迫害をしていた為、
キ リスト教徒からはなかなか信用されず
、元のユダヤ教のフ ァリサイ派からは裏切り者として度々命を狙われていた
。
初期キリスト教徒の迫害は、ローマ帝国ではなく、ユダヤ教徒からの憎悪によるものが多かったようだ。
パウロを祀るローマのサンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)の像
ウィキメディアから借りてきた写真ですが、この写真に関してはの像の部分拡大の為に切り取りました。
パウロの布教については、初期2009年7月「
使徒パウロの布教とギリシャ正教会
」で紹介しています。この写真はその時にも使用しています。
リンク 使徒パウロの布教とギリシャ正教会
ローマの五大バジリカの一つであり、こちらもコンスタンティヌス1世により聖パウロの墓を祀るメモリアルとして創建された堂が前身。
キリスト教の波及はまさに聖地エルサレムからシナイを出て、エジプトへ、メソポタミアへ、そしてアナトリア半島からバルカン半島へと散った。
特に拠点となったのが
シリアのアンティオキア
である。
当時、ローマ帝国の第3の都市であった
アンティオキアには多くの異民族が住んでいた。キリスト教もこの中で受け入れられ異教徒の信者も増え教会ができ、さらに
ギリシア文化の影響を受けて発展している。
もともとパウロの出身は
キリキアの州都タルソスなので近いこの場所になじみもあったのかもしれない。 パウロは アンティオキアの教会
を拠点に伝道の旅に出ていく
。
キリスト教がエーゲ海域を中心に広まっている? と思ったのは地理的要因もさる事ながら、誰よりも伝道に力を入れたパウロ自身がギリシャ語を話せたと言う事が大きかったのだろう。
※
使徒言行録によればパウロは3回の大きな伝道の旅を行っている。
※ 反感の多い土地でも、めげずに長期滞在している。
聖書にはパウロの宣教の旅のルート図も載っている。
下はパウロの伝道コースでの一つです。聖書から持ってきました。 陸路が赤 、 海路が青ライン です。
パウロが布教した当時はなかった ビュザンティオン(コンスタンテチノープル)をピンクの星で印ました
。
ビュザンティオンは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都となる場所です。
場所はボスポラス海峡 (Bosporus)の所。
キリスト教を認めたローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマを捨て、330年ビュザンティオン(コンスタンティノポリス)にキリスト教の都市を建設した理由がなんとなく解りました。
当時のキリスト教の中心地は確かにここのようです。
ところで、
イエスとその弟子らが布教していた頃の1~2世紀はローマ帝国の黄金期の時代
に重なる。
ローマ帝国の威力による(パワーバランス)は、奇しくも地中海沿岸含む欧州の平和と安定をもたらした。
冒頭ふれたように
短期間でキリスト教が地中海世界に広まったのは、ローマ街道の存在があったからこそ
です。
パウロは旅も多くしたが書簡で各地の教会を指導している
。
郵便の無かった時代、その書簡はパウロの弟子によって運ばれていたのである。
インターネットで超簡単に伝わる現在と比べると書簡の重みも違うでしょうね。
帝政期前半のローマ帝国
一応おさらいに古代ローマの政治体制の年代を入れておきます。
BC753?~BC509 王政期
BC509~BC27 共和政期
BC27年~AD395年~476~1453年 帝政期
※ 帝政期は節目の年も入れました。
アウグストゥスが初代皇帝として即位し、ローマ帝国はリニューアルされ帝政期
が始まる
。アウグストゥスは巧に元老院をまとめ元首政(Principatus)を開始。
BC27年~
共和制時代には ただの都市国家ローマであったが、帝政期の始まりは巨大な領土を得た大帝国である。
が、 帝政期前半、安泰とも思えたローマ帝国であるが、紀元後、3世紀までに度々内乱が勃発している
。
ローマ内戦(68年から70年)4皇帝の年
ローマ内戦(192年~197年)5皇帝の年ローマ
ローマ内戦(238年)6皇帝の年 軍人皇帝時代へ
それは帝政移行後も、軍事と政治の両方が皇帝に委ねられたからだ。
皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官
でもあった。 このシステムでは同時に2つの才能が要求された のである
。
実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。
しかし 領土が拡大して度々対外からの侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。終身の存在である皇帝を退位させる事は難しい。結果、クーデターや暗殺などによる交代が増えた
のである。
最初はアウグストゥスに始まるクラウディウスの家系がネロ帝で絶えた後に起きている。
ローマ内戦 (68年~70年) 4皇帝の年
地方の属州総督らがが帝位を争って内乱を起こし短い間に4人の皇帝が就いた。
ローマ内戦 (192年~197年) 5皇帝の年
この時もハドリアヌス帝やアントニヌス帝の家系アウレリウスが途絶えた時だ。しかも暗殺によって・・。そして3世紀の悲劇と呼ばれる6人も皇帝が交代すると言う異常事態が起きる。
ローマ内戦 (238年) 6皇帝の年
前皇帝を暗殺し、軍事力だけで帝位を強奪した蛮族出身のマクシミヌス・トラクス以降238年だけで6人の皇帝が出た。それを含む 253年~284年(31年間)、俗に軍人皇帝時代とも呼ばれ22人もの皇帝が誕生。
皇帝の権威は大きく失墜(しっつい)した
のである。
また、この時、彼ら ローマ人が帝国防衛を怠り、皇帝に就く事に執着して内乱を起こしていた間に東方からはササン朝ペルシャが、北方からはゴート人を始めとするゲルマン人が帝国領に侵略を始めガリアでは属州民の反乱も起きていた のである。
帝政ローマを立て直し、キリスト教徒を迫害したディオクレティアヌス帝
この侵略者と内政の騒乱と言う危機を納めたのがディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)(在位:284年~305年)である。
彼は属州民出身の軍人皇帝であったが良き指導者であった。
ディオクレティアヌスの政治改革を引き継いで 帝国の再統一を果したのが コンスタンティヌス1世 である。
コンスタンティヌス1世 はデ ィオクレティアヌスとは反対に 324年の戦いではキリスト教徒の力を利用して マクセンティウス(Maxentius)に 勝利。 コンスタンティヌス1世 の 軍隊はその時、キリスト軍となり勝利者としてローマに入場 。
マクセンティウスもまたキリスト教徒への迫害を続けた1人であった為、 キリスト教徒と反キリストの戦いとなった のである。
※ 2018年12月「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中、「ラ
バルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で紹介しています。
リンク クリスマス(Christmas)のルーツ
そもそ もデ
ィオ
クレティアヌスが起こした迫害の時でも、迫害には差があり、
コンスタンティヌス1世 の領地ガリア、ブリタニアではたいした迫害も起きていないし殉教者も出なかったらしい。
AD313年、 コンスタンティヌス1世は 信教の自由を認めるミラノ勅令を発布 。(キリスト教が公認された)
※ コンスタンティヌス帝とミラノ勅令(Edictum Mediolanense)したについても2018年12月「クリスマス(Christmas)のルーツ」で紹介しています。
また、2014年09月「サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)」で書いています。
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)
官僚制を整備し、文官と武官を分離。彼は地中海世界で最も信頼される貨幣として流通する ソリドゥス(Solidus)金貨を発行
。
※ 11世紀後頃から金貨の純度が悪化。信頼は低下して消えていく。
さらに330年には皇帝コンスタンティヌス1世はローマをすて 首都を東方(現トルコ)のコンスタンティノポリスに移転。
コンスタンティノポリスはキリスト教の街として発展する。
キリスト教に好意的なコンスタンティヌス1世のご機嫌とりの為に周囲はキリスト教に改宗していく。それは都市や村落単位でもそうだったらしい。
アヤソフィアのモザイク画から
右にコンスタンチノープルの街を献上するコンスタンティヌス1世
左にアヤソフィアを献堂するユスティニアヌス1世
南西の入り口のティンバヌムに描かれているがもしモスク化したら隠される図かも・・。
コンスタンティヌス1世は死の間際にを洗礼を受けコンスタンティノポリスでキリスト教徒として葬儀が行われ、13人目の使徒として扱われ埋葬されたそうだ。
(後にすぐ列聖されたらしい。)
※ キリスト教の聖人として正式に認定されたと言う事。
キリスト教をローマ帝国の国教に押し上げた業績が評価されたのだ。
が、これがローマの元老院との軋轢を生む。後継者争いで帝国はまた分裂する。
※ コンスタンティヌス帝と東のリキニウス帝が共同で発令したミラノ勅令(ちょくれい)は「信仰の自由を保障する」と言うものでキリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世の時代。
アヤソフィァのインペリアル・ゲートのモザイク画
皇帝だけが利用できた教会の正面入口のティンバヌムのモザイク
右のメダリオンが大天使ガブリエル
左のメダリオンが聖母マリア
キリストに礼拝を行う皇帝が誰なのが謎。レオ6世またはその息子コンスタンティヌス7世説があり、ややレオ6世より。私的には光背(aureola)が就いているのでコンスタンティヌス1世ではないかとも思う。
光背(aureola)は、普通なら聖人として列聖されている人物が付けるもの。だが、東ローマでは、テオドシウス帝にしてもなぜか皇帝の頭に光背(aureolaを付けたがる傾向がある。
モスクになったらこれも隠されますね。
ミラノ勅令後のキリスト教
とにかく帝政期にキリスト教は誕生し、確立された。
キリスト教がローマ帝国の国教に認定されるには各宗派のすり合わせが必要。共通の統一教義が不可欠であり、それがが皇帝の元に造られまとめられた
。
325年5月に開催された第1ニカイア公会議はキリスト教史における最初の全教会規模の大会議となる。
一歩間違えればキリスト教会の大分裂、これはなかなか大変な会議であったと思う。失敗すれば
コンスタンティヌス1世も破滅? ストレスはいかに?
因みに、 数多くできたキリスト教の分派の中には、かなり離れた解釈をする所もありここで正統か? 異端か? ふるいにかけられ排斥された教派もある 。
もしキリスト教がローマの国教になっていなければ、ここまでしっかりキリスト教の教義は後世に残され確立されてはなかっただろう
。
ところで「信仰の自由を保障する」ミラノ勅令の時点では、キリスト教が国教になったわけではなかったが、キリスト教徒は「マウントをとった」感にあふれていた。
迫害は逆転。キリスト教徒がキリスト教徒以外に向けての迫害を始めた
のである。
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