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イランと日本には共通点が沢山ありますが、その内の一つが良く泣く国民性です。泣くことで自分の感情を表し、泣く相手を見て親近感を感じます。 とにかく、泣くことが好きな国民です。日本人もそうですよね。おしんが放映されましたが、 放送時間の5分前には、町から全ての自動車がなくなります。大袈裟なようですが、本当の話です。 90%以上の国民が見ていたと思います。おしんは、その他の中近東、東南アジアでも放映され、やはり人気番組であったようですが、、イランほどではなかったように思います。(その他のイランと日本の共通点)お客をもてなす習慣も良く似ています。お客の来る日は、奥さんは朝から腕によりを掛け食べ切れないほどのご馳走を作って最大限もてなします。こう言うとき欧米ではお客に対して、さしずめ、‘今日は、沢山の美味しい料理を用意しましたので、ゆっくり楽しんでください’というでしょうか。しかし、イランでは、朝から腕によりを掛けた食べきれないほどの料理を作ったにも関わらず、‘今日は何も有りませんが、ゆっくりして行って下さい’と言います。 遠慮を美徳とします。日本と同じですね。日本固有と思っていましたが、炬燵(コルシード)も日本と同じ面白い習慣です。中央アジア(アフガニスタンも含めたこの地域は、ペルシャ語を話し、言語も文化もイランと同じです)にも冬にコタツを使う同じ習慣がありますが、シルクロードで日本に持ち込まれたわけではありません。中国には炬燵が無いはずです。(一寸自信がありませんが、中国通の皆さんそうですよね?)
2004年07月31日
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(泥棒の知恵) イランの泥棒の有名な手口をご紹介します.1.お金が有りそうな豪華な家の前に駐車している車を失敬する.2-3日後に手紙と共に車を元の場所に戻しておく.手紙には、‘お宅の前を妊娠中の妻と一緒に通りかかったところ、妻が急に産気付き今にも生まれそうな自体になりました.悪いこととは知りながらちょうど車が有ったので、病院までお借りしました.無事に男の子が生まれました.お礼とお詫びのしるしに音楽会の切符を送らせて頂きます.人気の音楽会なので切符を送られた家族は家族全員で見に行きす.その間にその家に泥棒に入りすべての物を失敬するわけです.2.パーティーに呼ばれたときに、高価な絨毯の下に、コインを入れておく.後日、絨毯の洗濯屋になりすまして、其の家に電話をかけます.泥棒:‘奥さん、旦那さんから電話で絨毯の洗濯を頼まれましたので今伺います.’奥さん:‘家には沢山の絨毯がありますが、どれを洗濯して欲しいと、夫はいいましたか?’泥棒:‘絨毯の右隅に目印の為にコインを入れておいたと、旦那さんは言っていましたよ.’奥さん:‘コインは有りましたよ、この家で一番高価な絨毯でね.分かりました、取りに来てください。’3.泥棒ではありませんが、イランでは宝石、金は、空港から国外に持ち出せません.足にギブスをした男が空港の手荷物検査の係官に呼び止められました.係官:‘ギブスの中を検査します’男:‘骨折したので、ギブスをしています、何も入っていませよ’係官:‘駄目です、決まりなので、ギブスを壊して中を見せてください’この間、男は、時間をかけ飛行機の出発時間まで粘って中々ギブスの中を見せません.出発時間を過ぎた頃に、ギブスを壊して、中を見せましたが、勿論中には何も入っていません.係官は、飛行機に間に合わなかった事を丁重に男に謝りました.次の日、同じ飛行機を予約し、男は、ギブスの中に沢山の宝石と金を入れて空港に現れました.係官は、何も言わずに男を通しまた.
2004年07月30日
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インド人の仕事仲間から薦められて昨日からインド式呼吸法の5日間のセミナーを受講してきました。一日約3時間、合計15時間のコースです。心と体と感情の調和をもたらし、ストレスを和らげる為の呼吸法で、一種のセルフヒーリング法(自らを癒す方法)です。ストレスをなくし精神的な安定を促す方法として、特に欧米では、有名なようです。普通の深呼吸をしながら、意識を、周りの環境―自分の体―自分の思考-自分の感情の順に集中していく方法で、瞑想しながら呼吸をするような感じでした。一日目なので、昨日は簡単な呼吸だけでしたが、今日からかなりハードな内容になるらしいです。受講中は、1. 禁酒2. 肉・魚は食べてはいけない(ベジタリアン)3. 毎日水を2L飲むことと最後に言われ、ビックリ。2.3.はOKだけど、1.は無理かもと思っていたら、家に帰ってすっかり忘れて飲んでしまいました。まー、大丈夫でしょう。これから、‘気’を高めるような方法で呼吸をするので、アルコールは厳禁だそうです。
2004年07月29日
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イラクのテヘラン空爆により突然のテヘラン脱出を余儀なくされました。その時の様子です。テヘラン赴任当時はイラン・イラク戦争が始まっていましたが、テヘランは戦場になっていなかったので、赴任後1年経ってから家族の呼び寄せが出来ました。 所が、家族が来て約1年後の1985年3月12日にイラクはテヘランに始めて爆弾を落としました.テヘラン空爆の始まりです。その最初の爆弾が日本人の住む地域の我が家から2-300m先に落ちました.日本人家族全員がパニックとなりました。 テヘランの空爆は毎晩続き、空爆が激しくなるに従い、外国人は国外への脱出を始めました。 イラクの爆撃機が上空に飛来すると、灯火管制が引かれ、花火のような対空砲火が始まります。これが毎晩続いたため、一時家族全員をカスピ海に非難もさせました。 早くイランを脱出する手立てを考えないといけない状況でしたが、1985年3月19日の午後8時以降は、民間機も攻撃するとイラクが突然通告してきたため、19日前の外国籍飛行機は予約が取れない状況となりました。最悪の事態になりました。 たまたま、半年前から3月19日のルフトハンザで家族でヨーロッパに休暇で出る予定にしていましたが、ドイツ人、次はヨーロッパ人、アジア人も女性、子供が優先で、家族全員は乗せてもらえませんでした。 当時我社は、5家族で、家族含め20人くらいいましたが、どの飛行機も予約が取れず、バスをチャーターし、パキスタン経由で逃げる段取りをしていました。パキスタン国境は山賊が出る地域でしたが、そのリスクを覚悟で、バスの手当てもしていました。 ヨーリッパ各国は、自国民救出の為に救援機をテヘランに飛ばしましたが、JALがドバイまで来るとの話だけで(来てもイランからドバイまで行く手段は何もなし)結局日本政府は救援機を出しませんでした。 最悪の状況の中で、3月18日夜、突然大使館からトルコ航空が日本人のためにエアバスを2機テヘランに飛ばすとの情報が入りました。 翌朝の5時からトルコ航空事務所で並んで駐在員家族全員のチケットを入手しました。 当日は夕方6時発の飛行機でしたが、朝から家族全員がテヘラン空港で待機していました。空港は外国人で込み合い、本当にトルコ航空が来るのか、来ても乗れるのか、と半信半疑でしたが、トルコ航空は午後5時過ぎ頃到着しました。最後は問題なく全員搭乗出来、午後7時頃に離陸しました。あーこれで助かる、との心境でした。イランとトルコの国境を通過したのが、丁度イラクが民間機も攻撃すると言う、午後8時過ぎでした。あまりの劇的な脱出で、その時間も良く覚えています。 この劇的な脱出の様子は、今年1月のNHKのプロジェクトXで放映され、飛行機の中の僕の顔も写真で登場しました。詳しくは、プロジェクトXのHPでご覧下さい。
2004年07月27日
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久しぶりに遊び仲間と一泊でゴルフ、温泉、宴会をやってきました。最近、やたらと癒し系のグッズが氾濫していますが、そのうたい文句ほどに本当に効果が有るのかどうかは、少し疑問があります。やはり’最高の癒し’は、仕事、普段の生活から自分を解放し、頭を空っぽにする事だと思います。少なくても僕にはこれが’最高の癒し’です。普段の仕事・生活から完全に場所を変え、遊びに集中する中で、新しい発見、新しいアイディアも出てきます。遊びでの体の疲れは、精神的には心地よいものです。毎月そう言う時間が持てるのが理想ですが、現実問題はそうも行かないので、少なくとも2-3ヶ月に一回は、実現したいと思っています。
2004年07月26日
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(キャビア)世界3大珍味は、ホアグラ、トリュフとキャビアですね。キャビアはカスピ海に生息するチョウザメから取れますが、イランが最大の産地です。イランに駐在していた時の日本へのお土産は何時もキャビアでした。今ネットで日本での値段を調べてみたら、3-5千円/30gが相場のようです。その値段に驚きです。当時(20年前)からイランにとってキャビアは貴重な外貨収入源であったので、その価格は全て政府が統制していましが、それでも空港の免税店で、500g缶で3千円くらいでした。会社の連中、銀座の飲み屋、家用と何時も500g缶を3缶お土産で買ってきていました。会社の飲み仲間と居酒屋で、銀座のクラブでホステスと、皆でスプーンでキャビアを豪快にすくって食べました。お土産としては好評でした。我が家の3人の息子も、キャビアを熱々のご飯に乗せて食べるのが好物でした。現在ではイランで買っても500gで1-2万円すると思います。当時の豪快なキャビアの一機食いはもう無理でしょう。キャビアには、チョウザメの大きさによって、3種類があります。ベルーガ:体重100-200kgの大チョウザメの大粒のキャビアオシェトラ:体重50-80kgのロシアチョウザメの金色の粒のキャビアセブリューガ:体重10-20kgの小型のチョウザメの小粒なキャビア勿論値段は、ベルーガが一番高いキャビアは同じカスピ海に面したロシアでも沢山取れますが、イラン産と違い殺菌してしまうので味は今一です。ロシア語で魚の卵を‘イクラ’と言いますが、鮭の卵は勿論イクラ、従ってキャビアの事もイクラといいます。日本語のイクラもロシア語が語源です。ところで、日本の3大珍味は、ウニ、海鼠腸(コノワタと読みます、なまこの内臓の塩辛)とからすみ(ぼらの卵の乾物)ですね。みんな酒の肴です。
2004年07月24日
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(テヘランの水)水道の水をそのまま飲める国は世界で殆ど有りません。唯一日本ではつい最近まで水道の水が数十年にわたり飲まれてました。しかし、最近は、ミネラルウオーターが氾濫し、その味に慣れた若い世代は、水道の水をそのまま飲む人は殆どいないでしょう。僕も最近はミネラルウオーターかスポーツドリンクしか飲まなくなりました。テヘランは、エルブルス山脈からの雪解け水とその水が地下に溜まった地下水が一年中豊富で、水道水がそのままミネラルウオーターです。各家庭では、水道水をそのまま冷蔵庫で冷やし、飲料水として飲んでいます。今や世界で唯一の水道から美味しい水が飲める国です。(イランの下水)イランでは、世界でも極めて珍しい方法で、下水処理をしています。全ての建物を建てる時にまず建て屋の広さとほぼ同じ大きさの縦穴を掘ります。普通の住居であれば、2-3m、ホテルのような大きな建物では、5-10mの竪穴を掘ります。これは、トイレの下水を溜めるための竪穴です。所謂‘肥溜め’です。水分だけが濾過されて地下に浸水し、固形物は穴の中に溜まっていく仕掛けです。乾燥している為に全然匂いはしません。しかも、固形物は、数十年経っても穴を埋め尽くすことはありません。 とても不思議です。テヘランのような大都市では、まるで‘肥溜めの’上に全ての建物が浮かんでいるようなものです。10年ほど前にテヘラン市内に地下鉄が出来ましたが、この一面の建屋の下の‘肥溜め’をどうやって避けて地下鉄を建設るのかと真剣に検討されたようです。
2004年07月23日
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暑い日が続きます。東京の一昨日の温度は観測史上初めてとの事でした。高温のアフリカ、中近東、インドの暑さも最近の東京の暑さにはかないません。*************************(ペルシャ絨毯)なんと言ってもイランの代表的で、世界的にも一番有名なものはペルシャ絨毯でしょうか。2,000年の歴史があり、イランの芸術が凝縮された、それでいて庶民的な匂いの強い、イラン人にとっては生活必需品です。イラン人の生活に欠かせないもので、イラン人は絨毯が無いと生きていけないと言っても過言ではないくらい生活に密着しています。高価な手織りの絨毯だけでなく、多くの家では機械織りの絨毯を使っています。裕福な家庭では高価なペルシャ絨毯が使われています。イラン人にとってペルシャ絨毯は富の象徴であり、憧れであり、また自国の伝統芸術としての自慢の存在です。テヘランのバザールに行くとイランのあらゆる種類のペルシャ絨毯が見れます。産地で有名なのは、イスハファン、ナイン、コム、タブリーズ、カシャン、等素材は、ウール、シルク、コルクウール(子羊の毛)、縦糸は通常コットンです。織り密度により品質が変わります。1cm四方に100目(ノット)が高級品の目安です。金額は、それこそピンキリで、同じ大きさでも、数万円から数千万円と幅があります。絵画と同じで、ペルシャ絨毯を見れば見るほどに目が肥えてくるので、より良い物に興味が移ります。駐在時、個人的に数百万円の絨毯を輸入し○越百貨店に卸したこともあります。当時は今の10倍以上の値段で売れていた頃で、アルバイトにしては儲けさせてもらいました。
2004年07月22日
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(世界3大美人国)世界3大美人国の事を俗に3P国と言います。フィリピン(英語は、Phで始まります)、ペルーにペルシャ(イランの昔の呼び名)。フィリピン人は、スペインの植民地であった為、スペインとの混血が多く確かに美人が多い国です。ペルーも、スペイン人が移住してきた国なので、やはりスペイン人との混血が多い国です。(スペイン本国は、あまり美人の話題は聞きませんが)それに、イランです。確かに美人が多く驚きました。我社の事務所にも10人ほどの若いイラン人女性が居ましたが、みな例外なく美人でした。他の商社のイラン人女性も綺麗でした。あの有名なエリザベステイラーは、レバノン人ですが、イラン系のレバノン人です。イランは、アーリア系、アラブ系、アルメニア系と多民族の国なのでやはり混血が多いから美人も多いのでしょうか。(イスラム教と女性)厳格なイスラム教では、女性は夫以外の男性に素肌・髪の毛を見せることは、ご法度です。革命前のイランは、生活様式が西洋化されていたので、それほど厳格ではなく緩いイスラム社会でした。女性はミニスカートで外に出ることも可能でした。しかし、革命後のイランでは、厳格なイスラム原理主義が台頭し、外では、長袖、お尻の線が出ないようなだぶだぶのコート風のワンピース、頭にはヘジャッブと呼ばれるスカーフの着用が義務付けられました。ズボンはお尻の線が出るので、その上にコートのようなものを着ないといけません。外国人も例外ではなく、夏の暑い日は、女性の外出は一苦労です。女性の髪の毛、素肌、お尻の線は、男性の性衝動を挑発する、と言うことが理由です。化粧も同じ理由でご法度です。確かに一理はあるけれど、そこまでしなくても。だからイスラム教は誤解されるのです。但し、ご安心下さい、これは外での話しです。殆ど娯楽の無いイランでは、毎日何処の家で、ホームパーティーが開かれており、僕もイラン人の友人が多かったので、毎週2-3度は呼ばれていました。パーティーでは、日ごろの鬱憤を晴らすかのように、露出度の激しい女性達のストレスの発散場と化します。胸もあらわ、アンド、ミニスカートです。勿論こちらは大歓迎ですが、目のやり場に困ります。ただでさえセクシーな顔立ちの彼女達が挑発してきます。有ってはいけないはずのお酒も、ワイン、ウイスキー、ビール、ウオッカと全てそろっています。本音と建前、裏と表の差が激しい、イランの一面が良く伺えます。だから僕も7年も駐在出来たのですが。
2004年07月20日
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書くことが沢山有るので、どれから書いたらいいのか迷いますが、一番イランの生活が分かりやすい食べ物から書くことにします。(イランの食べ物)イランの朝は、イラン人の主食であるナン(土釜で小麦粉を焼いた薄いパン)を買い求めるイラン人の行列で始まります。ナンには10種類くらいありますが、一番ポピュラーなのが、タフツーンと言う味のあまりない一番薄いナンです。ナンは、イランの食事では欠かせないもので、肉(羊、鶏)、野菜、乳製品、何でもナンで包んで食べます。お米も主食ですが、ナンは必ず食卓に乗ります。マトンは、オーストラリア・ニュジーランドのマトンと違い、殆ど匂いは有りません。だから毎日食べても飽きません。一番ポピュラーな料理が、チェロ・キャバブでイラン人の大好物です。チェロはお米、キャバブは焼いた羊の肉で、お米の上にバターと肉をのせて食べます。クビデと言う羊のミンチを香辛料で味付けした肉もあります。生の玉ネギを食べるのも習慣で、レストランでは甘い玉ネギが必ず出されます。果物・野菜は、日本に有る物は、何でもあります。ヘンダワネー(スイカ)、ハラボデ(長いメロン)など、名前もユニークです。イランでは、キュウリが果物の仲間で、世界一美味しいキュウリが食べられます。死ぬ前にもう一度食べてみたい物の一つです。最近日本でも輸入されている、ざくろのジュースは殆どイラン産です。イランのざくろは馬鹿でかく、日本のマスクメロンくらいの大きさで、やわらかくなるまで手で揉み解し、小さな穴を開けてそこからジュースを飲みます。余談:胡瓜(キュウリ)、胡坐(あぐら)など、‘胡’の字の入ったものは全てイラン(ペルシャ)の意味で、イランが原産です。魚は、ペルシャ湾やカスピ海で取れますが、冷凍の輸送設備が不足しており、あまり新鮮なものは手に入りません。石油の取れるところでは、エビが取れると言いますが、イランでもエビの漁獲量は多く、殆どが輸出されています。イランの一番有名な食べ物に、世界3大珍味の‘キャビア’がありますが、これはまた別の機会に書きます。
2004年07月19日
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イランの国について少し説明しておきます。国土は日本の約4倍で、都市部以外は、その殆どが土漠(砂漠とは違い、植物が若干生えてはいるが、不毛に近い荒涼とした大地)、人口は5千万人以上で中東で一番人口の多い国。アラブ民族とは違い、アーリア系民族でドイツ人とルーツは同じです。言葉は、文字は右から書き出すアラビア文字を使いますが、アラビア語ではなくて、ペルシャ語(ファルシー)です。このペルシャ語が美しい言葉で、有名な詩人が多いわけです。国民の95%以上がシーア派のイスラム教徒。一般的にシーア派は、戦闘的で、スンニー派は、穏健と言われています。テヘランは、標高1,500mにあり、気候は、日本と同じく四季があります。夏は35度以上になりますが、乾燥している為日陰では涼しく、さしずめ軽井沢の感じです。冬は雪が降り、多い時は50cmくらいは積もります。イランは、一般的には灼熱の国のイメージがありますが、テヘランは緯度で言うと日本の仙台と同じです。テヘラン市内を見下ろすように、4千メートル級のエルブルス山脈が連なりますが、ここには上質の雪が降るので(パウダースノー)大きなスキー場があります。かっては、その雪質の良さから、日本のオリンピック選手が合宿したほどです。毎年スキーを楽しめました。このテヘランに7年間住みました。家族は駐在1年後に同行しましたが、イラクによるテヘラン空爆が激しくなり1年間生活をしただけで帰国を余儀なくされました。従って、単身生活6年でした。商社マンとしては、年齢的に一番の働き盛りでの駐在であったので、仕事、プライベートと中身の濃い7年間でした。僕にとっては、イランは第二の故郷です。
2004年07月18日
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リビヤから帰国後の約1年後にイランのテヘランに駐在となりました。またお酒の飲めない中近東の国です。灼熱の砂漠の国から、やはり革命で王制が倒されたお酒の飲めないイスラム教の国。お酒がないと思考能力の落ちる人に、再びの試練、これはもう会社の嫌がらせ以外の何物でもない。会社の幹部、上司を恨んで赴任しました。が、しかし、こんなに素晴らしい国が有ったのか?イラン・イラク戦争で危険な目には有ったけど、こんなに人生観を変えられた国が有ったのか。上司に感謝しました。結局7年駐在しました。色んなことが有りました、色んな経験をしました、色んな事を学びました、少しずつ書いていきます。
2004年07月17日
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最後に仕事の事も触れておきます。駐在の目的は、某自動車メーカーの乗用車の拡販でした。駐在してから半年後に、リビヤ自動車輸入公団の幹部が、日本の各メーカーとの契約のために来日することになり、このミッションに同行し半年振りに一時帰国しました。(帰国当日の余談)ミッションは帝国ホテルに泊まるので、成田からホテルまで送り、この日は仕事が無いので、日本の上司、同僚と半年振りに銀座に繰り出しました。お酒は、どんなに強い人でも、数ヶ月飲まないと、許容量が極端に少なくなります。久しぶりの日本で、美味しい肴、美味しい日本酒を前に、全てを忘れて、ただ、食べ、飲みました。お開きになり、帝国ホテルに戻った途端に、ロビーでダウン。 意識はあるのに、腰が抜けて、立てません。 食べたものを吐きながら(汚くてすいません)ロビーに寝たまま動けません。 上を見ると、宿泊している親切そうな外人数人が、心配顔で顔を見下ろしていました。恥ずかしいけど、動けません。 最後は、ホテルの従業員と、同僚に担がれて部屋に入ることが出来ました。仕事の話に戻ります。このミッションの日本滞在中に、日本のメーカー3社と合計5万台の契約を締結しました。我々とは、某メーカーのシ○ック1万2千台、総額120億円の契約でした。僕の所属する自動車部始まって以来の大型契約となりました。日本滞在中は、お祝いのお酒の席が毎日のようにありましたが、初日の失態が頭を離れず、おとなしく飲みました。後日のことですが、この契約は、半分の6千台まで船積みしたあと、突然キャンセルとなり、生産済みの約3千台の在庫が残りました。この3千台の在庫を売る為に、リビヤ駐在の後ロンドンに6ヶ月長期滞在し、アフリカのナイジェリア、中近東のアラブ首長国連邦、イラン、イラク、などに売り歩く羽目になりました。この時のことは後日書きます。(リビヤならではの思い出)1.ローマ時代の遺跡が沢山有り、休日には遺跡めぐりが出来ました。カダフィの革命さえ無ければ、避暑地と観光の国としてもっと有名な国になっていたでしょう。2.トリポリーベンガジ間1,000kmを車で15時間掛けて走破しました。始めて本物の砂漠を見て、感動もしました。’砂漠の花’って知ってますか?砂の中にある石英が結晶化し花のような形になります。砂漠では、昼間は摂氏50-60度、夜は零下になります。この温度差で、この結晶が出来ます。持ち出し禁止ですが、沢山日本に持ち帰りました。3.雪とギブリ雪が降るのには驚きました。サハラ砂漠から吹く風に乗って春と秋に凄い砂塵が舞います。ギブリと言いますが、これが吹くと視界が無くなり、外は歩けません。家の中には細かな砂が入ってくるので、部屋の中は砂だらけとなります。まだまだ、リビヤで面白い経験はしましたが、これくらいにして、次のイラン駐在記に移ります。
2004年07月15日
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(密造酒)中近東で一番お酒の厳しい国は、サウジとリビヤです。中々手に入らないし、手に入っても見つかると刑務所行きです。イランも厳しい国ですが、何とか手に入ります。他の中近東は外国人には寛容で大体の国は手に入ります。タバコは止められてもお酒は止められない体質なので、リビヤでの生活は厳しい物がありました。そこで、100%果汁のグレープジュースを買い込みワインを造ることにしました。まず、ジュースを大きななべに入れて火にかけ、40度位まで暖めます。ジュース10リットルに対し、耳掻き一杯のイースト菌をなべに入れてかき回す。そのまま、室温で冷まし、冷めたらジュースのビンに移し変えて冷蔵庫で冷やす。5-7日経つと美味しいワインの出来上がりです。これで2年凌ぎました。この後のイラン時代は、ノンアコールのビールをやはりなべで暖めて、同じようにイースト菌で発行させてビールを造っていました。イランの場合は、密輸品のウイスキー、ビール、何でも手に入ったので、リビヤほどの苦労はありませんでしたが。何故かお酒の好きな人が、中近東駐在には多かったようです。
2004年07月14日
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(刑務所生活 2例)1.某商社の駐在員が外国為替法違反で逮捕され6ヶ月間刑務所に入れられました。在リビヤの某大使館に日本の乗用車を売り、その代金を手形で貰い、その手形が空港で見つかり逮捕されました。6ヶ月も刑務所に入れとくほどの罪ではないのに、恐ろしい国です。彼は、釈放され日本に帰国後に体験記の本を出したので読みましたが、想像を絶する刑務所の生活です。帰国後に体調を崩し会社を辞めました。一緒に刑務所にいた、ナイジェリア人は、持参していた風邪薬を麻薬と疑われ、25年間刑務所生活をしていたそうです。2.仕事で一緒に駐在していた、某自動車会社の整備士が、ベンガジ空港で逮捕され、1年半の刑務所生活を余儀なくされました。彼は、休暇でヨーロッパに遊びに行き、リビヤに帰ったときに、カメラのフィルムが残っていたので、空港で写真を撮りました。空港での写真は禁止されており、直ぐに警察が来てカメラの提示を求められ、そのままカメラを渡せば何事も無く、注意だけで済んだものを、何を血迷ったか、彼は、中のフィルムを抜いてしまいました。スパイ容疑の逮捕です。外務省ルート、国会議員ルート、様々なルートで釈放工作をしましたが1年以上経っても釈放の目処は立ちませんでした。時を同じくして、我々の仕事のリビヤ側の窓口である、自動車輸入公団の社長の甥が日本に留学し、東京の酒場で日本人と喧嘩になり傷害容疑で逮捕されました。最終的に、二つの事件が相殺される形で、1.5年後に釈放されました。運が良かったとしか言い様が有りません。スパイ容疑なので、この日本での事件が無ければ何年も刑務所生活になったことでしょう。3.どんな言いがかりで逮捕されるか分からない国なので、空港での手荷物検査では何時もビクビクでした。お酒が禁止の国なので、日本から粉末のお酒を良く持参しました。でも、今考えるとぞっとします。日本に粉末のお酒が有ること知っていますか?当時、愛知県の、佐○食品工業と言う会社が開発し、売り出していました。あまり美味しいものではありませんが、お酒の味はしました。あまり、売れなかったと思います。
2004年07月13日
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昨日は午後から凄い雷と雨で一騒動。我が家の愛犬は雷が大の嫌いで、庭から網戸を破り家の中に.早速専用の檻の中に入れておとなしくなりました.大型犬なので家人がいないときに雷が鳴ると、手当たり次第に物を壊し、大変な被害です.鉄製のお隣との塀も何度か壊されました.今日は快晴で温度も31度ですごし易い日でした.************************(IBM) アラブの国で仕事をする日本のビジネスマンの間で有名な言葉、合言葉は、IBMです。 I は、インシャーラB は、ブックラM は、マレッシュ の頭文字です。 アラビア語のその意味は、 インシャーラ: 神の思し召しの通りブックラ: 明日マレッシュ: 気にするな どういうことかと言うと、欧米、日本では通常、仕事上の面談にはアポイントを取り、大体時間通りに訪問し面談します。 所が、アラブでは、アポイントは同じようにとりますが、まず時間通りに来る事は有り得ません。1時間、2時間ひどい時には4-5時間待たせることは日常茶飯事です。その日のうちに会えるのは良い方で、明日、明後日に変更になることも始終です。 時間通りに来ない彼らの言い訳は、1.神の思し召しの通り: 時間通りに来れないのは、自分の理由ではなくて、神様がそうしたから、2.今日は時間が無いから、明日にしましょう3.気にしない、気にしないと言う事になります。 もともと中東の国は、石油が出る前は、砂漠の遊牧民でした。交通手段はらくだ、道の無い砂漠、厳しい気候、の中で時間通りに来れるのが奇跡に近い環境でした。この習慣に腹を立てていたら中東では、仕事が出来ません。 でもこの習慣に慣れ、腹が立たなくなるまで6ヶ月くらいは掛かります。困ったことに、アラブから日本に帰国すると、逆の習慣になれるのにまた6ヶ月掛かります。
2004年07月12日
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(赴任、ベンガジ空港) ロンドンのガトヴィック空港からリビアのベンガジまでは約5時間、日本人の居ない遥か彼方の地に一人で行くことへの寂しさがこみ上げてきたのを覚えています。 ベンガジ空港には、夜の9時くらいに着きました。この空港は、世界でも他に例が無い、入国申請書を現地語(アラビア語)で書かせる空港です。外国人は誰もアラビア語が分からないので、空港には代書やがおり、英語で書いたものを翻訳してくれます。面倒な空港です。 カダフィがかってアメリカに行ったときに、入国審査書を英語で書かせられた(当たり前)事を理由に、自分の国ではそれに習って、アラビアア語で書かせる様にしたとの事。なんとも迷惑でふざけた話です。ベンガジ空港は、かって赤軍派にのっとられた日航機が人質解放後に爆破・炎上した空港です。リビヤは、かってパレスチナ、赤軍、まど世界の革命分子の軍事訓練の聖地でした。 (ベンガジのホテル) ホテルは、’オマル・ハイヤーム’と言うベンガジで一番有名なホテルに約1年滞在しました。ある日会社の上司より、一冊の岩波文庫の詩集が送られて来ました。 ペルシャ詩人に造詣の深いその上司より、オマル・ハイヤームが詩人の名前であることを聞きました。オマル・ハイヤームは、その後駐在したイランの有名な詩人で、彼の代表的な詩集である、’ルバイアート’(四行詩)が岩波文庫で翻訳本が出ていたのです。 読んで大変感激しました。太宰を彷彿する刹那的な内容の詩です、確か300円くらいの薄い詩集です、興味のある人は是非。 彼は、その後に駐在したイランのハーフェズ、フェルドーシーと並ぶペルシャ3大詩人の一人です。ハーフェズ、フェルドシーについてはまた後で書きます。
2004年07月11日
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今日は久しぶりに友人と会い、旧交を温めました。沢山の元気を貰えました。気分を良くして日記の再開です。*************************(リビヤ赴任前の準備)リビヤへの赴任が決まって赴任の準備をしていたところ、 ある日会社の中近東の大ベテランに呼ばれました。どんな話しと思ったら、赴任前から髭を伸ばしなさい、と言うアドバイスでした。 理由は、アラブでは、男は、結婚には高額の結納金を払わないといけない。お金の無い男は、仕方なく同性愛に走る。同性愛は、イスラム教では重罪で、露見すると死刑も含む覚悟がいる。日本人は、若く見られるし、髭の無いのは同性愛OKの合図でもある。一度狙われると、重罪覚悟で狙うので、必死で来るので、危険。従って、同性愛者に狙われないように、髭を生やしなさい。と言う、アドバイスでした。 勿論、直ぐに生やし始めました。それ以来、20年以上はやしています。 実際には、アラブ人は、男同士外で手を繋いで歩く習慣があり、一見、同性愛に見えるけれど、重罪であればわざわざ外で手を繋ぐことは無いわけで、どうやら先輩のジョークで有ったようです。赴任してそれが分かりました。髭を生やすきっかけにはなりましたが。でも、中近東でも、この後に赴任したイランでもホモにまつわる小話とか、ジョークは沢山有ります。実際にホモが多いのかも知れません。僕は、特に興味が無いのでそれ以上深く調査しませんでしたが。
2004年07月10日
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始めての海外駐在は、アフリカのリビヤでした。某自動車メーカーの乗用車の輸出を推進する為に、2年間駐在しました。リビヤと言っても知っている人は少ないでしょう。最近のイラク情勢をきっかけに、アメリカの軍事力特にネオコンの実力行使に怯えたのか、核の放棄を宣言した国。カラフィ大佐の名前は知っているひとがいるかも知れません。まず、簡単にリビヤの国の説明をしておきます。1969年にイドリス国王を無血革命で倒しカダフィ大佐が国家元首に就任した。1969年までは王国で、ヨーロッパの金持ちの避暑地であった。国土の90%が砂漠(サハラ砂漠)で、気候は地中海に面した温暖な気候。四季があり、アフリカなのに冬には雪が降ります。人口は、200万人ほど。良質の石油産出国で、税金ゼロ、医療費、教育費は無料と言う超お金持ちの国です。首都は、トリポリ。 今は知りませんが、僕の駐在当時は、第二の都市のベンガジと毎年首都が入れ替わると言う変な制度でした。北アフリカの4ヶ国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア)を、マグレブ4カ国と呼び、4カ国ともイスラム教のアラブ諸国です。人種はアラブ人、土着のベルベル人(白人)、黒人とそれらの混血で構成されています。ローマ時代の遺跡の数は、イタリアを凌ぐほどで、世界遺産にも沢山指定されています。このリビアで色々なことが有りました。少しずつ書いていきます。
2004年07月09日
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毎日茹だる様な暑さで閉口します。人の倍いは汗をかく体質なので夏は苦手です。今年こそは、何処か涼しい山間部に避暑に行こう。そうだ、日本酒の地酒にはまっているので、酒蔵訪問を兼ねた避暑を計画しよう。*******************(チェコでの出来事)日本の治安の良さは、世界でも類を見ないほどです。海外では、日本とは比べられないほど治安が良くありません、従って、悪人が沢山います。’人を見たら泥棒と思え’は、海外では真実です。子供でも騙されないような単純な手口にはまった間抜けな話をします。今まで恥ずかしくて誰にも言わなかった(言えなかった)ことを、ここで白状します。ワルシャワからプラハまでは確か飛行機で一時間半くらいであったと思います。着いたのは寒い夜でした。空港のタクシーをつかまえ、ホテルまでたのみました。道すがら話の好きな運転手が色々話しかけてきます。’何処から着ましたか?’’チェコは初めてですか?’’私は、日本人が好きです、友達もいます’など、など、’日本人には、親切にしたいので銀行より有利な率でドルをチェコの通貨に替えてあげましょう’いかにも人の良さそうな運転手なので、タクシー代、夕食代に取り合えず必要な100ドルを替えてもらうことにしました。車を止めて、暗い車内で100ドル相当の現地通貨を貰いました。運転手に礼を言って、ホテルでタクシーを降りました。その晩、ホテルのレストランで夕食を取りました。支払いをしようとしたら、レストランの従業員は首をかしげ不審そうに僕を見つめて、僕の腕を取り奥の部屋に連れて行くではないですか。電話で警察を呼び、取調べとなりました。そこで始めて、タクシーの運ちゃんに騙された事を悟ったのです。幸いドルの現金を持っていたので、騙されたことを説明し、ドルを払って、無罪放免となりました。そのお金、誰が見てもおもちゃのお金と言うことが分かるくらいチャチな紙幣、にもかかわらず疑いもしなかった自分が情けない。100ドル損をしたことよりも自分の甘さに自己嫌悪、暫く凹んでいました。(海外で被害に合わない様に教えておきます)海外では、お金持ちと見られている日本人への、窃盗、強盗事件が沢山有ります。ポピュラーな手口を紹介しておきます。1.一人が、ケチャップ・マヨネーズまどを後ろからかける。もう一人が、汚れていますよと、親切に教えてくれる。汚れを拭く為に、スーツケースなどの手荷物を下に置いたとたんに、もう一人の誰かが、そのスーツケースを奪う。これが一番ポピュラーな手口で何人もの日本人が騙されています。2.空港のチェックイン・カウンターで手続きをしている時に、カウンターの下にある、物を置けるスペースにうっかり現金・パスポートの入ったポシェットなどを置くと、手続きに気を取られている隙に誰かに取られます。僕も未遂の経験が有ります。ウイーンの空港で、カウンターの中の人間ともめている間に、うっかりポシェットをカウンターの棚に置いてしまった。偶然、運良く、ポシェットに伸びた人の手が目に入ったので、’こらぁー’英語で’What are you doing?' と叫んで未遂に終わりました。慌てて逃げていった人物は、アジア系の男でした。(ボヘミアングラス)話題はがらっと変わります。チェコと言えば、やはりボヘミアングラスですね。5-6世紀からボヘミア地方で発達したと言われています。何故か引かれる美しさがあり、始めての出張で沢山買い込みました。スーツケースに入れると割れる可能性があるので、手荷物で運びました。クリスタルガラスは、その重量の60%の鉛を含んでいます、だから指で弾いた時に’キーン’と言うあの金属音が鳴るんです。したがって、重いんです。重いと同時に、空港の金属探知機に反応するので、その都度中身を出して検査員に見せなければなりません。日本に帰るまで、重さと金属探知機の煩わしさに閉口しました。************************東欧は、取り合えずこれで終了します。ハンガリー、スロベニアは、またの機会にします。次回からは、始めての駐在地のアフリカのリビアの話です。
2004年07月08日
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この日記に今までの海外での経験を、思い出しながら書いていますが、こうやって文字に書くことは、改めて過去の場面が鮮明に思い出され、新しい発見もあります。商社では毎日メールを数百本は書いていましたが、何も残っていません。こうして、思い出して文字で纏めてみるのも新鮮です。***********************(東欧編ー2)ポーランド、チェコでは、緊急な仕事は無く、駐在員と事務所での打ち合わせが中心であったので、仕事以外の話題に留めます。ブカレストから空路ワルシャワに夕方到着。(エキサイティングな始めての経験)シャワーを浴びて、ホテルのレストランで、同席したドイツ人と食事をしながら色々話をしていた。食事の手を止めて何気なく顔を上げると、数名の女性が窓際に立っており、皆一斉にこちらを見つめているではないか。全員若い金髪のポーランド美人。その内の飛び切りの美人と目が合った。聞こえないが、何かこちらに向かって話しかけている。見ると、こちらに向かって歩いてくるではないか。ドキッ、我々のテーブルの空いている席に座り、僕に向かって、'Are you free at this evening?'えー、頭は真っ白、突然の事で、目はパチクリ、咄嗟に、'I am sorry, but I will be busy at this evening.'勿論夕方は何も用事が無く暇だったのに。諦めた彼女は、壁際に戻っていった。一緒にいたドイツ人曰く、これはワルシャワのレストラン、バーでは、一般的な光景で、外国人と仲良くなりたい若いポーランド女性が、外国人のいるホテルやレストランにたむろしているとの事。勿論ドルの価値が高いので、ドルも欲しいらしいが。後で分かった事だが、黒髪の日本人は、金髪のポーランド女性にもてるらしい。滞在中レストラン、バーには何度か行ったが、それらの女性と目を合わせると、しつこく付きまとわれるので、目を合わせないようにした、と言う記憶が有ります?ベルリンの壁崩壊後(1990年)、何度か再びワルシャワを訪問しましたが、ポーランドも豊かな国に変貌し、始めての出張で経験した、あのエキサイティングな情景は、殆ど無くなっていました。あれは、黒髪の日本人がもてたのではなく、単に彼女たちが貧しかっただけのようです。(日本人が金髪の女性に持てるわけが無いじゃん)(真面目なお話)ポーランドとは、ポーランド語で、ポー(平らな)ランド(土地)と言う意味の通り、山・丘が殆ど無く、見渡す限りの平らな国です。第二次大戦では、ドイツとソ連の戦場となり、ワルシャワは、東京同様全てが破壊されました。ユダヤ人が多かったので、ワルシャワの南方のアウシュビッシュでのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と言う、人類史上最悪の悲劇が有った事は、あまりにも有名です。ホロコーストは、さまざまな映画になっていますが、最近では’戦場のピアニスト’がありました。主人公の息子が今九州に住んでいますよね。(他に有名な人、もの)音楽家ショパン物理学者キューリー夫人バチカンのローマ法王パウロ2世琥珀(虫などの化石を内包した松脂の化石) 安くて、良質な琥珀が沢山あります、お土産に最適馬肉(日本にもかなり輸出されています) 熊本の馬肉、長野の馬肉と言って、日ごろ東京で食べ ている馬肉は、ポーランド産?かも**************************次は、チェコ、この出張では、行きませんでしたが、その後行った、ハンガリー、スロベニア、セルビア、(両国とも旧ユーゴズラビア)についても加えます、
2004年07月06日
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今日は、事情が有って休んでいたジムに2ヶ月ぶりに行ってきました。やはり汗をかくのは気持ちが良い。今年の9月でまる5年、良くぞ続いたものです。今や生活の一部となり、ジムで汗をかかないと仕事の効率も上がりません。**************************東欧編ー1)トルコに2週間滞在し、次の目的地は、ルーマニア、ポーランド、チェコです。イスタンブールから空路ルーマニアのブカレストに入りました。怖い事件(夜中の強盗事件)、開き直り事件(1人で10人に対決した始めての商談)に遭遇しました。(余談)ソ連邦崩壊後、ロシアも西側ヨーロッパの一員となり、東欧と言う言葉がなくなりました。今は、英語で、Central Europe 中欧と言います。でもここでは、馴染みのある東欧にします。通常、海外出張には、現地の駐在員が空港まで出迎えに来ますが、我が上司は、僕の勉強と経験の為と、空港での出迎えを駐在員に勝手に断ってしまいました。ホテルの名前だけを頼りに、言葉の通じない国で、路面電車、タクシーを乗り継いで何とかホテルに到着。次の朝、駐在員同行で、お客に行くと思っていたら、他の緊急な用事が出来たので、一人で行ってくれと、お客までの列車の切符と帰りのブカレストまでの航空券を渡されました。経験と言え何と冷たい事か。行き先は、列車で5時間の工業都市のティムショワラ(あのチャウセスク夫婦が処刑された都市)です。列車の席は、4人のコンパートメント(個室)で、同乗者は、妙齢の美しいルーマニア女性と彼女の友達のアフリカの黒人留学生の青年。(当時ルーマニアは、アフリカの社会主義国から沢山の留学生を受け入れていた)どんな話をしたのかは忘れたが、一人身には、時間を潰せる格好の同乗者でした。ティムショワラのホテルに着いて、食事をして、お酒を飲んだ後、緊張の疲れからぐっすり眠りについた。夜中の2時頃、誰かのドアのノックで目を覚ます。まだ海外に免疫が無い若かれしころで、何の疑いも無くドアを開けてしまった。突然、2メートルは有ろうかと言う長身の黒人が二人部屋に入り、マネー、マネーと叫び始めた。頭は真っ白になりかけたが、咄嗟に持っていた現金の殆どの2百ドルを渡し、残りはトラベラーズ・チェックである事を告げて、帰ってもらった。やばかった。何で、部屋に外国人がいるのかが分かったのか不思議で有ったが、良く考えたところ、列車の同乗者にホテルの名前を話したことを思い出した。多分あの時の黒人青年が、友達に話したのだろう。海外では、自分以外は、誰も信用してはいけないと言う教訓を、初めての海外出張で早くも学びました。次の朝、先方の機械公団の人が出迎えに来てくれ、公団の商談室に連れて行かれました。着いてビックリ、2-3人の営業の担当者との面談を想像していたが、10名ほどの技術者がすでに待機しているではないか。それも、電気、機械、建築、とあらゆる分野の専門家です。英語での海外での商談は始めて、技術の知識はまだ不十分、どうしようか、でも、逃げ出すわけには行かない、どうにでもなれ、と最後は開き直りです。何とか商談を終えることが出来ましたが、自分の英語が何処まで通じたのかは今だ不明。帰国後、結局その商談は成立しませんでした。(ルーマニア雑学)1.吸血鬼ドラキュラ15世紀ルーマニアのトランシルバニアにいた公爵がドラキュラのモデル言われている。串刺しの処刑で有名な公爵でした。 ニンニクが大敵だったのは何故だろう。知っている人がいれば教えて下さい。2.室伏浩司母親は、ルーマニアの陸上投てきの元オリンピックの選手。 アジアの鉄人と呼ばれた父親とオリンピックで知り合い結婚。アテネ五輪では是非金メダルを取って欲しいですね。3.ラテン民族ルーマニアの語源は、ROMANで、ローマ帝国がドナウ川に沿って東を征服した時の最東地。 従って、フランスと同じラテン民族なので、いたって陽気な連中です。4.ジプシーかってのユダヤ人のように定住地を持たず、文字も持たない流浪の民ジプシー。ヨーロッパに多く住んでいますが、ルーマニアが一番多いようです。もともと、11世紀にインド北部から旅立ち、何世紀にも渡って、苦難な歴史を歩み続けました。ジプシー音楽は有名ですね。 でも、歴史的に虐げられ、貧しい為、ヨーロッパの観光地で日本人観光客がよく狙われる集団での引ったくりは殆どこのジプシーです。ヨーロッパでは気をつけて下さい。***********************次回は、ポーランド、チェコです。
2004年07月05日
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日記と言うものを今まで書いた習慣が無いので、何時まで続くのか自信は無いけれど、人に見られて、人からコメントをもらえるこの日記は、3日坊主にはならない予感がする。************************(トルコ編ー2)初めての海外出張の洗礼は、食事でした。トルコは、イスラム教の国。主食はお米とナンですが、肉は羊です。トルコ料理は、フランス料理、中華料理と並ぶ世界3大料理の一つに数えられる美味しい料理で、トルコの家庭料理を食べさせるレストランで、毎日楽しんでいました。が、ある日突然、あの羊の匂いを嗅ぐと途端に食欲が無くなりました。それ以来トルコを出るまで毎日スパッゲティーだけでした。同じような経験は、韓国に出張した時に、あの美味しい焼肉を毎日食べていたら、やはりある日突然、肉の匂いを嗅ぐと途端に食べれなくなりました。まったく、同じ経験です。(トルコ雑学)1.トルコ風呂トルコには公衆浴場が沢山有ります。レスラー並の屈強な男が垢すりをしてくれます。日本のトルコ風呂の名前の由来は、このトルコの公衆浴場から来たのでしょう。しかし、トルコのイメージが悪くなるとして、10年ほど前にトルコ政府からクレームが付き、ソープランドと名前が変わりました。2.チャイハネトルコ人はお茶が好きで、毎日10杯以上は飲みます。あちこちに喫茶店があり、チャイ(お茶)ハネ(場所)と言います。お茶の語源は、この地域の言葉チャイで、チャイから英語のティー、中国語のチャ、日本語の’お茶’となりました。3.ロイ・ジェームス懐かしい名前です。僕くらいの年代の人しか知らない名前でしょうか。父親が戦前に日本にイスラム教を広める為にトルコから来日しました。その時に建てたモスクは、今でも東京の渋谷区にあります。ロイ・ジェームスは、日本で生まれ、六大学の明治の野球部出身。E.H.エリック、岡田真澄などと昭和のテレビ・ラジオで活躍した、変な外人の奔りです。4.加藤卓男多治見市の陶芸家にして、美濃焼の人間国宝。ペルシャのラスター彩を現代に復元した唯一の陶芸家。トルコとの文化交流に貢献し、トプカプ宮殿でラスター彩の陶芸展示会を開催。5.その他土産物は、絨毯、革製品等が一般的。絨毯は、ペルシャ絨毯にはかなわないけれど、絹の絨毯は中々味がある。革製品は、日本に持って帰ると、羊の臭いが抜けないので買わない方が良い。トルコは取り合えず、これくらいにして。次の目的地、東欧(ルーマニア、ポーランド、チェコ)に飛びます。初めての海外出張 東欧編ー1) (PM 09:11)今日は事情があって休んでいたジムに2ヶ月ぶりに行って来ました。やっぱり汗をかくのは気持ちが良い。今年の9月でまる5年、良くぞ続いたものです。今や生活の一部となり、ジムで汗をかかないと仕事の能率も上がりません。***************************東欧編ー1)トルコに約2週間滞在し、次の目的地は、ルーマニア、ポーランド、チェコです。イスタンブ-ルから空路ルーマニアのブカレストに入りました。怖い事件(夜中の強盗事件)、開き直り事件(1人で10人に対決した初めての商談)に遭遇しました。(余談)ソ連邦崩壊後、ロシアも西側ヨーロッパの一員となり、東欧と言う言葉がなくなりました。今は、英語で、Central Europe 中欧と言います。でもここでは、馴染みのある東欧にします。通常、海外出張には、現地の駐在員が空港まで出迎えに来ますが、我が上司は、僕の勉強と経験の為と、空港での出迎えを、駐在員に勝手に断ってしまいました。ホテルの名前だけを頼りに、言葉の通じない国で、路面電車、タクシーを乗り継いで何とかホテルに到着。次の朝、駐在員同行で、お客に行くと思っていたら、他の緊急な用事が有るので、一人で言ってくれと、お客までの列車の切符と帰りのブカレストまでの航空券を渡されました。経験とは言え何と冷たい事か。行き先は、列車で5時間の工業都市のティムショワラ(あのチャウセスク夫婦が処刑された所です)。列車の席は、4人のコンパートメント(個室)で、同乗者は、妙齢の美しいルーマニア女性と彼女の友達と言うアフリカ出身の黒人留学生の青年。(当時ルーマニアは、アフリカの社会主義国から沢山の留学生を受け入れていた)どんな話をしたのかは忘れたが、一人旅の身には、時間を潰せる格好の同乗者でした。ホテルに付いて、食事をし、部屋でお酒を飲んだあと、緊張の疲れからぐっすり寝ました。夜中の2時頃、誰かがドアをノックする音。まだ海外に免疫力が無い若かれしころで、何の疑いも持たずにドアを開けてしまった。突然、2メートルは有ろうかと言う長身の黒人が2人部屋に入り、マネー、マネーと叫んでいる。頭は真っ白になりかけたが、持っていた現金の殆どの2百ドルを渡し、残りはトラベラーズ・チェックで有る事を告げて、帰ってもらった。やばかった。何で、部屋に外国人がいるのが分かったのか、不思議であったが、良く考えたところ、列車での同乗者にホテルの名前を話していたことを思い出した。多分あの時の黒人青年が、友達に話したのだろう。海外では、自分以外は、誰も信用してはいけない教訓を、初めての海外出張で早くも学びました。次の朝は、先方の機械公団の人が出迎えに来てくれ、公団の商談室に連れて行かれました。着いてビックリ、2-3人の営業の担当者との面談と想像していたが、10名ほどの技術者がすでに待機しているではないですか。それも電気、機械、建築、とあらゆる分野の専門家です。英語での海外での商談は初めて、技術面の知もともと、11世紀にインド北部から旅立ち、何世紀にも渡り、苦難な歴史を歩み続けた。ジプシー音楽は、中々魅力的です。でも、歴史的に虐げられており、貧しいため、ヨーロッパの観光地で日本人観光客が狙われる、集団での引ったくりは殆どこのジプシーです。 気を付けてください。次回は、ポーランド、チェコです。
2004年07月04日
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何事も続けることに意味があります。継続は、力なり。仕事は、独立して5年。独立後健康維持を目的に始めたジムは、もう直ぐ5年。もう一つ続いている大事なことも、もう直ぐ4年。何事も長く続ければ、喜び、悲しみ、苦しみ、葛藤の連続。でも、それらは全て人生そのもの。苦しみ、悲しみの中に、本当の自分が良く見えてくる。この日記も継続あるのみ。***********************(トルコ編ー1)入社後、4年間は名古屋支社勤務で、国内商売の勉強。その後、東京に転勤となり、機械の輸出部門に配属となった。約1年後、上司より突然、トルコ、東欧への1ヶ月の出張を命じられた。初めての海外出張と言うことで、緊張の連続であったためか、20数年たった今でも昨日の事の様に良く覚えている。羽田から、フランクフルト経由でイスタンブールに到着、長い初めての旅だった。仕事は、トルコ電力庁向けの変電設備の入札で、現地で入札書類作成、入札の実施。某電気会社の課長と担当者も同行。結果は、ドイツ企業が一番札、我々は二番札で、東京に帰国した後も交渉が続いたが、最終的にドイツ企業が受注し、初めて自分が担当した大型案件は、あえなく敗北。イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの境に位置する、両方の文化が混在する、エキゾチックでエキサイティングな町です。町の真ん中にボスポラク海峡が流れ、海峡沿いに勇姿を誇るブルーモスクとトプカプ宮殿。ボスポラス海峡に架かる橋の上から見る、日の落ちる夕方のブルーモスクとトプカプ宮殿は、絶景です。トプカプ宮殿は、博物館になっており、オスマントルコ時代に集められた財宝が沢山有ります。世界一のダイヤモンド、エメラルド、中国陶磁器、等 世界的にも有名な財宝が多く見られます。その後何度か、イスタンブールを訪れました。僕の好きな町の一つです。この時から6-7年後には、イラン・イラク戦争当時、駐在していたテヘランから、トルコ航空の救援機で、テヘランを脱出し、イスタンブールに無事に避難しました。この時の模様が先日のNHKのプロジェクトXで放映されましたが、将来この日記に書きます。トルコでの食事など、身近な話題を次回書きます。
2004年07月03日
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友人が今年このHPを立ち上げ日記を書き出したのを見て、驚きました。あっという間に同業社を中心にネトワークの輪が広がるんですね。これは面白いと思い、自分のHP立ち上げに興味を持ったところ、その友人の励ましもあったので早速今日からスタートです。僕は日記と言うより、20数年に渡る商社時代の海外生活での色々な出来事を書き留め、自分自身の半生を振り返ると共に、海外に興味を持たれる方のささやかな参考になればと思い、海外での出来事を中心に書いて行きたいと思ってます.まず、簡単な自己紹介をしておきます.生まれは東京、年齢は不詳、家族は、妻・息子3人と犬のラブ、東京の某私立大学理工学部卒業後、海外生活を夢見て某商社に入社、機械・プラント・自動車関連の仕事に携わったため、先進国の駐在ではなく、アフリカの某国に2年、中近東の某国に7年、アジアの某国に2年、計11年の駐在生活でした。20年間で訪れた国は、約50ヶ国。海外生活では、様々な出来事に遭遇し、日本では出来ないであろう様々な経験もしました.どんなに厳しい環境でも、海外での生活をより楽しく、充実したものにするには、まずその国の歴史に興味を持ち、その国の人間を好きになることです。(努力はしても好きになれなかった国は沢山有りますが)また、海外生活のもう一つの良い面は、海外に長く住めば住むほど、日本のこと(良い面、悪い面の両面)が、より見えて来る事です.そんな日記調のHPですが、次回より、商社に入り始めて海外出張した、トルコ、ルーマニア、ポーランド、チェコ(当時はチェコスロバキア)から書いていきます.
2004年07月02日
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