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政府・与党が策定を進めている追加景気対策に盛り込む「生活対策」の柱として、休日に全国の高速道路を1回1000円の定額で走り放題とする新たな料金割引案を検討していることが29日明らかになった。 ノンストップ自動料金収受システム(ETC)機器を装着している普通車が対象で、早ければ年内の実施を目指す。 料金割引案は、土・日曜、祝日に高速道路に1回入れば、走行距離にかかわらず1000円(1000円を下回る距離は実額)の定額とする。首都高速や阪神高速などは除く見通しだ。家族のレジャーなどで高速道路を利用しやすくする観光振興の効果が期待され、家計への「お得感」を強調することで消費拡大の効果も狙う。 政府・与党は必要な費用として約5000億円を充てることで最終調整しており、「生活対策」の目玉と位置づけたい考えだ。 福田内閣では考えられなかった政策では?さてどこへ行くか?それが問題だ。
2008.10.29
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とりあえずノートパソコンをネットに繋ぎました。
2008.10.28
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NHKの知るを楽しむ人生の歩き方、澤地久枝第1回声なき声を聞くを再放送で観ました。ミッドウェー海戦の日本兵捕虜32人帰還に対しアメリカ兵捕虜帰還なし、詳細な調査の結果、アメリカ兵パイロットの捕虜も確認されていますが帰還していない。自国の兵を大切にしない軍隊は他国の兵も大切にしない。ショックでした。 「昭和」という時代をテーマに、時代に翻弄されながらも、忘れられてきた無名の人々を描き続けてきた澤地さん。デビュー作の「妻たちの二・二六事件」では、自らつらい体験を持つ40代の人間として、死刑囚の残された妻たちと向き合い、またミッドウェー海戦をテーマにした「滄海よ眠れ」の取材では、記録資料にも残されていない日米全戦死者一人一人の足跡を追った。その事実発掘への執念、声なき声を聞く澤地さんの思いに迫る。 澤地久枝 1930年、東京都青山生まれ。作家。 54年、早稲田大学卒。中央公論社の編集部員、フリーとなり作家・五味川純平氏の助手を経て、70年、ノンフィンクション作家としてデビュー。72年に『妻たちの二・二六事件』刊行。その後も史実の蔭に隠れた人物への取材を重ね、昭和史にかかわるさまざまな事件や出来事について、独自の視点による歴史ドキュメンタリーを構築。『自決 こころの法廷』『好太郎と節子 宿縁のふたり』(NHK出版)、『発信する声』(かもがわ出版)などの著書もある。護憲を訴える市民グループ「九条の会」呼びかけ人の一人として、全国で講演などを行っている。
2008.10.27
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雨の中選挙に行って来ました。選挙は国民として参政権の行使だと思っているので今までに一度も棄権したことはありません。新人候補に清き1票を投票しましたが健闘及ばずでした。岡山市など都市部では優勢だったのですが・・・
2008.10.26
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自宅のパソコンがダウン、ノートンが邪魔をしてリカバリーも出来ません。困りました。
2008.10.25
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戌年の守護仏です。
2008.10.24
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こんな奉納済み?の御神体が裏に有りました。 江戸時代には相当数、こう云った類の社があったそうですが明治新政府が外国人に見られると恥ずかしいと禁止令を出したそうです。
2008.10.23
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奉納された御神体です。 子宝に恵まれるかどうかはいつの時代も人々の切実な願い、そんな願いがこう云った形になって信仰の対象になったのでしょう。
2008.10.22
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願い石、ふたりの手を載せて願い事をすると叶うそうです。柵原ふれあい鉱山公園、柵原鉱山資料館の前にありました。
2008.10.21
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平康頼 (たいら の やすより、生没年不詳)は平安時代後期の貴族。平頼季の子。検非違使となり、平判官と称した。 1177年、藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密議に参加。その酒席で瓶子(へいし)が倒れるのを「平氏が倒れた」と喜んでいた。密告によりことが漏れて康頼も捕縛される。俊寛、藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。(鹿ケ谷の陰謀)。 『平家物語』によると、信仰心の厚かった康頼は流罪にあたり出家入道した。京を懐かしむ日々の中で成経と康頼は千本の卒塔婆をつくり海に流すこと思い立つ。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。 1178年に赦免船が来て成経とともに赦免され京へ戻る。帰京後は仏教説話集『宝物集』を記し、1186年には源頼朝の推薦により阿波麻殖保司の職に就く。
2008.10.20
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吉備の中山山頂に、大吉備津彦命御陵 宮内庁管理地がある。吉備津彦命は、桃太郎の鬼退治などで有名な、大和から吉備の国を服従させるために派遣された将軍(四道将軍)といわれ有名である。吉備津彦命を祭った神社は、このふもとに、本殿が国宝の吉備津神社がある。
2008.10.19
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私が教師になって初めて担任をした卒業生の子息が来ていてちょっと吃驚しましたが嬉しかったです。
2008.10.18
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石材屋さんの前にありました。親子の招き猫、可愛いでしょう。
2008.10.17
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懐かしい、子供の頃の原風景(昭和30年代)
2008.10.16
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柵原ふれあい鉱山公園(柵原鉱山資料館) 岡山県美咲町吉ヶ原(展示種類・主な展示品)鉱山採掘現場再現、昭和30年代街並、くらし再現、片上鉄道列車展示。1階には昭和30年代街並や、くらしを再現。地下には鉱山採掘現場をバーチャルに再現。(特色)大正、昭和と繁栄した鉱山、採掘、運搬風景の再現。鉱石、乗客を輸送した片上鉄道列車11両の動態、保存、昭和30年代の自転車屋、マーケット、社宅等の街並みの再現。資料館 高校生以上 小学生以上料金 大人 500円 小人 300円団体料金(15名以上) 大人 400円 小人 240円開館時間 午前9時~午後5時まで(入館は午後4時30分まで)休館日 毎週月曜日(祝祭日の場合は翌日) 12月28日~1月4日まで(交通)JR津山線津山駅/吉ヶ原行きバス30分/吉ヶ原下車 中国自動車道津山IC/車25分 山陽自動車道和気IC/車40分(駐車場)普通車50台 バス5台美咲町吉ヶ原394-2 TEL0868-62-7155
2008.10.15
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廃線になってしまった片上鉄道 吉ケ原駅が保存され車両もあります。シートの破れが時代を感じさせます。
2008.10.14
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田倉牛神社は古代易道思想と共に疫除神として渡来したと伝えられています。 ご神体は石で彫刻された牛で、まわりには信仰によって奉納された備前焼の牛馬像が無数に積まれ、その数は十万・二十万ともいわれて、それが神座となっています。飼牛の病気平癒を祈願する人も多いが、昭和の初期頃からは、次第に一般的な五穀豊穣・家内安全・結婚・就職・入試・交通安全・商売繁盛などと時代の流れとともに祈願の対象が変化しています。 三月・五月・九月の五日は大祭であり、他の月の五日は小祭です。特に正月五日は初詣ということで近郊からの参拝客で境内が埋め尽くされています。 お参りをされ、ご祈願される方はまず備前焼の牛一頭をお供えします。そして、ご神霊前にうず高く積まれました既願者の供えられた牛を一頭だけ借りて帰ります。大願成就のあかつきには借りた牛の他にもう一頭の牛を添えてお礼参りをする習わしがあります。
2008.10.13
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岡山県立備作高等学校の背後に聳える茶臼山(標高約180メートル)の上に在り前は吉井川に沿える周匝平野、後は津山川を隔てて飯岡平野を望み、景観は非常に勝れている。本丸は東南に向って広い楕円形をなし、二の丸はその西続きの山頂に、とりでは津山川に臨む大仙山の上に在り、他に出丸・太鼓丸・空堀・井戸・小池・土塁などの跡が遺り、当時として相当の防備を持つ代表的な山城である。 戦国の昔、安芸の国より佐佐部亦次郎が改築を行い、天神山城主浦上宗景に属して勢をに振ったが、子の勘斎貞利に至り、宗景を亡ぼした宇喜多直家方の延原弾正を撃ち破ったことにより、天正七年三月直家に攻められて、城と運命を共にしたのである。なお津山川に面した一ノ谷には勘斎の子の千千代の墓が在る。この地は美作国と備前国を結ぶ交通の要路であり、国境の要所であるため、歴史上、重要な場所であった。 城の築城時期は不明であるが、概ね中世、享禄・天文の頃に築かれたものと推察される城郭の形態は連郭式と呼ばれ、二つの尾根上に総延長約八百メートルにわたって土壇築成と削り出しによって城郭施設が構築されており、現在も比較的に良好な状態で遺存している基調な城址である。 天正七年笹部勘斎討死落城より約半世紀寛永九年岡山藩主池田光政が鳥取より転封に当り、国老池田伊賀守長明が配され周匝他二万二千石賜り当地に館を築いて以来、初代より七代まで代々藩主の墓所である。 本丸跡にある三階建て天守は模擬天守、こんな架空の城を建てる必要があるのかどうか?
2008.10.12
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下鴨神社、ここも世界遺産に登録されていました。 それぞれの干支の社もあり、私も生まれ年の社を参拝しました。
2008.10.11
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敦賀駅前のメーテルです。
2008.10.10
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山門は金毛閣(きんもうかく)といわれ、千利休がその上層を増築し、自身の木像を安置したことが秀吉の逆鱗にふれ、切腹を命じられる理由のひとつになったことは有名である。 この山門 金毛閣の上層部に安置された千利休の木像は、秀吉の命令で即刻運び出され、戻橋で磔になった。現在、この山門 金毛閣にはその木像のレプリカが安置されているそうですが拝観謝絶。 なんとオリジナルの木像も現存しており、裏千家で保存されている。 レプリカで良いから観たい。 信長の茶頭として頭角を現した利休は信長と同じ大徳寺に埋葬される事を望んだとか? 辞世の句は 人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
2008.10.09
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迫力満点の龍の絵でした。 現在、携帯の待受け画面に使用中です。 石庭 裏庭は苔庭です。
2008.10.08
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NHK大河ドラマ太閤記の緒形拳演ずる秀吉が大好きでした。 明るくて素朴で人誑しの秀吉その者でした。 あのなんともいえぬ秀吉の笑顔が脳裏に焼き付いています。 高橋幸治さんの信長が本能寺で光秀に討たれた知らせを備中高松で聞き、涙するシーンが忘れられません。私が歴史好きになったきっかけは間違いなく緒形拳主演のNHK大河ドラマ太閤記です。 冥福をお祈りいたします。
2008.10.07
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身近な所に勾玉好きが居ました。同僚のH先生、自ら勾玉を制作していました。H先生の力作(制作と途中を含む)です。勾玉談義に花が・・・楽しいですね。
2008.10.06
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大徳寺、龍源院には秀吉と家康が伏見城で碁を打った時の碁盤と碁笥が残っています。金森長近が秀吉から拝領したそうです。豊臣の桐、徳川の葵、両方の家紋入りです。
2008.10.05
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祭りじゃ!!! パリに留学、美容師の大会で優勝したこともあり今は美容院を経営している卒業生のI君が講演をしてくれました。私が担任をしていたので講演を聴きながら熱いものが込み上げて来ました。立派になった卒業生を観るのはとても嬉しくて誇らしい。
2008.10.04
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今は浄土真宗真願寺の境内に礎石が残っているだけで石垣などの遺構は残っていません。 1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り敦賀城を築城した。しかし頼隆は九州征伐中に病死したため、1589年(天正17年)には秀吉家臣団でも知将の呼び声高い大谷吉継が5万7000石で敦賀城に入城した。 吉継は善政をしき領民からも愛されたが、1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。 その後は結城秀康によって代官が派遣されていたが、1616年(元和2年)に一国一城令により、敦賀城は廃城された。小浜酒井家によって支藩の敦賀酒井家(敦賀藩)が敦賀に置かれたが、陣屋は旧敦賀城跡地には建てられず旧金ヶ崎城ちかくの鞠山に建てられた。
2008.10.03
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墓所 - 本堂庭園には三斎公とガラシャ夫人の墓塔となっている春日灯籠がある。この燈籠は三斎が生前こよなく愛し,自ら墓標に指定したといわれる。また、本堂裏手には非公開の墓地があり、三斎公とガラシャの嫡男で追放された細川忠隆こと長岡休無や、出雲阿国、名古屋山三郎の墓がある。
2008.10.02
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今日から後期開始、始業式の前にミラノの国際カートレースに招待された生徒の壮行式があった。イタリアから招待されるなんて凄い、実力を出し切って良いレースをして欲しい。 私の勤務校には総合学科に自動車系列があるので自動車好きな生徒が集まる。モトクロスのレースに出場したり、自動車整備部ではソーラーカーレースやゼロハンカーレースなどに積極的に参加している。
2008.10.01
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