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小学校の修学旅行以来の金閣寺、実は二条城に行きたかったのですがバスを間違えて乗ってしまい金閣寺で降りました。 修学旅行で撮った金閣寺の写真を先生にとても褒められて写真コンクールに参加したり、それで写真が好きになったような気がします。 思い出の金閣寺。
2008.09.30
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主な内定企業はトヨタ自動車、トヨタ車体、ダイハツ、三菱ふそう、大阪住友セメント、石川島播磨、虹技、三井造船、東海ゴム、曙ブレーキ、放電精密、岡山県貨物、今仙電機、山崎製パン、クラレ、マルナカ、両備ホールディングス、JFEメカニカルです。
2008.09.29
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情報処理検定で休日出勤しました。今日の写真は大徳寺の千躰地蔵塚です。
2008.09.28
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信長のお墓が見たくて京都大徳寺に行って来ました。信長の菩提寺総見院はなんと拝観謝絶でした。がっかり・・・それでも気を取り直して大徳寺の拝観可能な僧院はすべて見学、石田三成の墓の所在も解りました。大仙院では尾関宗園和尚と握手、著書「新いま頑張らずにいつ頑張る!」を買い本にサインもして貰いました。 大徳寺の隣の健勲神社(たけいさおじんじゃ)に参拝、ここの祭神は織田信長、明治になっての新政府が顕彰の為に建てた神社でした。 国宝の二条城に行くつもりがバスを間違えて金閣寺へ行ってしまいました。金の次は銀と行きたかったのですが拝観時間に間に合いそうになかったのでバスで下鴨神社に移動、参拝して帰りました。
2008.09.27
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旧敦賀港駅舎のなかに大谷義継の肖像画がありました。 杉原千畝氏によって発給された命のビザでユダヤの方々がシベリア鉄道経由でここ敦賀に上陸したとは知りませんでした。杉原氏のような勇気ある日本人が居た事を誇りに思います。
2008.09.26
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「時の過ぎ行くままに」を久しぶりに聞きました。壊れたピアノで思い出の唄、片手で弾けたらカッコイイなと思いながら・・・沢田研二の曲の中では「時の過ぎ行くままに」が一番好きです。確か3億円強奪事件の犯人役でジュリーが主演していたテレビドラマの主題歌だったはずです。 「危険なふたり」も良かったです。還暦を迎えて尚唄い続けるパワーは流石です。
2008.09.25
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4月25日、越前国の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌26日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。これに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、本家である朝倉義景や、同じ一門衆である朝倉景鏡・朝倉景健らとの序列争いが背景にあり、景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もある。 このように当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江国の浅井長政が突然裏切り、織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃という危機にみまわれた。織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと朝倉記には記載があるが、信憑性に疑問が持たれており実際には不明。お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話が知られているが、俗説のようである。 通説ではこの時殿軍に自ら名乗りをあげたのが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)であったと言われている。しかし、実際は殿軍に摂津守護の池田勝正がいたため、秀吉が殿軍の大将だったとは考えにくい。勝正は信長の家臣団を率いても問題のない人物であるため、機動力の高い織田家馬廻衆に二匹両旗など朝倉軍に奪われた場合に将軍家の権威が失墜するおそれのあるものを持たせて逃がし、本隊を池田勝正が率いて撤退戦を行ったとみられている。 織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。 金ケ崎の退き陣オールスターキャスト 金ケ崎宮拝殿 延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられたが、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。 新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。 恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。 明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。 昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。 両端を紐で結んだ小豆袋の形のユニークなお守りが困難に勝つと受験生に特に人気だそうで私もひとつお土産に買いました。
2008.09.24
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北陸道総鎮守府、気比神宮 伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治二十八年に宮幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より贈封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(七六六)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。延元元年(一三三六)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(一五七〇)四月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長十九年(一六一四)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。 朝倉方に付き信長に焼きされたとは知りませんでした。 地元では「おけいさん」の愛称で親しまれています。 亀の口から出ているのが気比の長命水です。私も飲みました。
2008.09.23
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日蓮宗のお寺妙顕寺、ここは越前朝倉攻めの時の信長が本陣を置いた寺です。 新しい門が再建されていました。
2008.09.22
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敦賀市(敦賀市栄新町11-20)にある永賞寺境内に天正17(1589)年から慶長5(1600)年まで敦賀城主であった大谷吉継の供養塔との伝承を持つ慶長14(1609)年造立の層塔がありました。 とっても軽い感じの住職さん?でした。吉継のイメージと合わなかったので次の日が供養祭だったのですがもう1泊せずに帰りました。みなとつるが山車会館の方に大谷吉継ファンが大勢集まると聴いていたので少し残念な気もしましたが・・・
2008.09.21
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敦賀市の八幡神社には大谷刑部吉継寄進の灯篭が現存していました。また神社附属の博物館には敦賀城の焼け跡から発掘された茶壷も現存。三成との茶会のエピソードが有名な吉継、敦賀城でも茶を嗜んで居た事でしょう。 八幡神社の奥様には掃除中にも関わらず博物館を案内して頂き、またお茶の接待までして頂き本当に嬉しかったです。歩き疲れて居た所だったので喉に沁み込むお茶でした。
2008.09.20
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昨日、友遠方より来る、三重県のS大学のI先生が来校。 割烹味膳(岡山市柳町1丁目)で食事、美味しい料理に舌鼓を打ちながら話の花が咲きました。 デジカメを持参していなかったので美味しい料理の画像がないのが残念です。 割烹味膳のシェフ兼オーナーは私の教え子、3年間担任をしたN君です。 N君が卒業した頃はまだ男女共学ではなくて男子校、黒い学生服が制服でした。在学中から自分の店を持つのが夢で魚をさばく練習になるからとスーパーの鮮魚部門でアルバイトする徹底ぶり。卒業後、日本料理店に就職、34歳で念願のオーナーシェフになりました。
2008.09.19
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安土城天主 信長の館は、1992年 スペイン・セビリア万国博覧会の日本館メイン展示に出展されました、安土城最上部5・6階部分を、万博終了後、安土町が譲りうけ新たに復元された部分を含め、保存・展示している。安土城は、1579年(天正7年)、織田信長の命により建てられた。世界で最初の木造高層建築といわれ、高さ約46メートルの壮大で絢爛豪華な様は、ヨーロッパにまで紹介されました。しかし、わずか3年で焼失し、「幻の名城」と呼ばれてきました。近年になり、「天主指図」が発見され、愛知産業大学長内藤昌氏の説に基づき、内部の狩野永徳が描いたといわれる金碧障壁画とともに、原寸大に復元された。 安土城は天下布武の象徴であり、天主5階・6階部分は、日本の宗教・思想を統一した「天道思想」を表現したものです。天下統一にかけた信長の強い意志を見ることができる。
2008.09.18
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先日訪問した滋賀県立安土城考古博物館です。 この建物の裏に安土城天主信長の館があります。背後の山が六角氏の居城観音寺城跡です。安土城の天主をイメージして建築された中央に吹き抜けのある建物とコスモス畑、秋の気配が感じられて良い雰囲気だと思いませんか?
2008.09.17
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第1次攻撃隊発進と云った処でしょうか?採用内定通知が来ると笑顔の花が咲くのですが・・・さて今年はどうかな?
2008.09.16
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安土駅に隣接した場所にある安土城郭資料館、20分の1の安土城が展示してあり、入館すると係りの人が電動で2分割して城の内部が解るような展示になっています。 ここでは信長検定初級に挑戦、20問19問正解でした。 信長が居るのが解りますか?
2008.09.15
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安土からJR東海道線に乗って米原へ、米原でJR北陸線に乗り換えて敦賀へ前日の夜に到着、敦賀のホテルに一泊、部屋は10階建ての10階だったので夜景が綺麗でした。 ホテルから近い気比の松原に徒歩で移動中、大谷吉継ゆかりの寺、来迎寺を発見、来迎寺は時宗の総本山で由緒あるお寺です。来迎寺のなんと中門と書院は吉継の敦賀城から移築した建物でした。 御墓掃除を檀家さんとしていた住職さんに「岡山から来ました。大谷吉継のファンです。」と告げると書院の吉継の間を見せて呉れました。障子の下部の絵は吉継時代の敦賀城からの伝来品で素晴らしいものでした。 敦賀に行けば吉継の敦賀城跡くらいはあるだろうと想いながら本命は気比神社だったのですが敦賀城の吉継の間に入室、当時の障子絵を拝観できるとは思ってもみなかっただけに感激してしまいました。
2008.09.14
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天下布武の夢の跡、安土城址へ行って来ました。 今回は気ままなひとり旅なのでJRを利用、運転しなくて良いから楽ですね。 安土駅で下車、駅前には信長の銅像があり出迎えて呉れます。 駅に隣接された安土町城郭資料館で安土城の20分の1の模型を見学、信長検定初級に挑戦、20問中19問正解でしたが1問間違えてしまい満点ならず、無念じゃ!!!それでもコースターを賞品に頂きました。 駅前のレンタサイクルを借りていざ出陣、信長の安土城へ、学生時代に一度訪れていますが発掘が進み、秀吉、利家の屋敷跡が整備されていました。大手門付近に関所門が新設されていて入場には500円也が必要です。まっすぐ伸びる大手道の石段を登っていると何箇所か石仏の掲示版があり、石段に使われた地蔵仏がありました。比叡山を焼き討ちにした男、信長らしいと云えば云えますが正直、ちょっとやりすぎのような気がしました。快晴で30度近い気温だったせいもありますが天守閣のあった頂上まで登るのに青息吐息、こんなに体力が落ちているとは・・・こんなことではインカの空中都市マチュピチュ訪問など夢のまた夢、基礎体力を付けなければと改めて思いました。 天守閣のあった頂上から琵琶湖を望む景色は学生時代と同じでした。
2008.09.13
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岡山人の気質を一言でいうと、金銭感覚の鋭い真面目な理数系です。加えて勤勉で真面目で、流行にも振り回されないタイプが多いようです。 岡山は、奈良時代は鍬、平安時代は刀を作ってきた地域で、昔からもの作りが盛んだったため、理知的、理論的な性格が形成されたようです。岡山は気候が温暖で土地も肥えていて、経済的には豊かだったのですが、江戸時代は外様大名であったため、幕府に睨まれないように質素な暮らしをしてきた歴史があります。さらに大阪とのつながりが強かったために、鋭い金銭感覚が養われたのでしょう。現在でも、月賦より現金で買うし、財布のひもが固いため、「岡山で成功すれば、全国どこでも成功する」といわれるぐらいなのです。 ただし、北部の美作は人情があり、温和で誠実な人が多く見受けられます。 yahoo縁結び 理想の結婚 相相マップより うーん、当たっているようなそうでもないような・・・複雑な想いです。
2008.09.12
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就職試験の面接練習、ハキハキ答えられる生徒も居ればそうでない生徒も・・・想定外の質問に困りましたと目で訴えるけど沈黙は面接では駄目、きちんと言葉で答えなければ・・・。 練習あるのみ何事も経験です。
2008.09.11
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ガット・ウルグアイラウンドで日本国内の高い米価を維持する為にミニマムアクセス(最低輸入機会)を受け入れ外米を輸入している農水省だがカビが生えていたり、農薬が残留している事故米を買わされて農水行政のプロとして恥ずかしくないのだろうか?品質のチェックはどうなっているのだろうか? コメは利用方法によって価格が極端に変わる特殊な農産物。たとえば主食用として流通する場合はトンあたり30万円から35万円ほどですが、これがせんべいや焼酎原料などの加工用米として流通する場合には5万円、工業用のりとして販売する場合は高くても1万円。通常は品質の悪いコメを加工用米や工業用に回すのだが、業者としては工業用として安く買い入れたコメを、焼酎原料などとして売ったり、混ぜたりすると、それだけで莫大な利益となる。それだけ旨味の多い商品。事故米の処分にも最新の注意を払うべきだったろう。 それにしても利益さえ出せればやり放題、国民の健康の事など露ほども考えぬ経営者の倫理欠如には開いた口が塞がらない。無責任蔓延の日本列島をどうにかしなければ・・・。
2008.09.10
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ポッカコーポレーションは2008年9月8日、「ポッカレモン100」など同社のレモン製品が、収穫後に防カビ剤を利用しているにも関わらず、使用していないと不適切な表示をしていたため、該当商品を自主回収すると発表した。 回収対象となっているのは、「300mlポッカレモン100」(賞味期限が2009年4月4日までのもの)、増量品を含む「450mlポッカレモン100」(同2009年4月25日までのもの)、「600mlポッカ焼酎用レモン」(同2009年4月18日までのもの)、「1Lポッカ業務用レモン パルプリッチ」(同2008年12月5日までのもの)の4点。後日、製品代金を定額小為替にて返金する。 同社は、製品に含まれている防カビ剤のイマザリルは微量で、製品の安全性には問題がないと説明している。なお現在は正しい表示に改定した製品を出荷している。 先日買ったばかりのポッカレモンに防カビ剤が混入していたなんて・・・それにしても同社の防カビ剤は微量で安全性に問題はない、正しい表示?防カビ剤が微量混入しているを表示した製品を臆面もなく出荷している姿勢は如何なものか。 こんないい加減な会社の製品は不買じゃ。
2008.09.09
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実りの秋、30度を越す残暑が続く岡山ですが稲田では黄金色に稲穂が実っています。休耕田に耕作放棄と難題山積みの日本農業ですが頑張って欲しいです。地産地消、岡山産の農産物を買って農業再生に少しでも協力しなければ・・・。黄金色に実る稲穂は日本の原風景、心が落ち着きます。写真は吉備中央町、吉川の稲田です。
2008.09.08
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福田首相の唐突な辞任劇、内閣改造して間もないというのに首相の座を自ら投げだした。昨年の9月にも同じような事があった。安倍首相の突然の辞任劇だ。安倍前首相は参院選敗北の責任を取って辞任する方法もあったのに内閣改造を断行、政権運営に意欲を見せながら唐突に辞任した。 2世議員でお坊ちゃま君だからひ弱いのだとのマスコミは囃すが果たしてそうだろうか?政権与党、自民党の総裁がこんなひ弱で無責任なリーダーで良いのか?こんな無責任なリーダーを総裁にする自民党に衆院選挙で与党の地位を与えたのは誰だ。 福田首相も安倍首相も首相になって何をやりたいのか、この国をどうしたいのかメッセージが伝わってこない。国民に説明がないまま政権を投げ出してしまった。自らの信念に従った政治構想を国民に解り易く説明し、民主党が反対なら解散総選挙に打って出て国民に信を問えば良い。選挙で負ければ下野するのみ。 今日の山陽新聞に近衛内閣を彷彿させる福田首相の政権投げ出し劇と云う記事が載っていた。無責任なリーダーを頂いたばかりに日本は第二次大戦で国民は塗炭の苦しみを味わったのだ。次回の衆院選挙ではこの点を熟慮した上で投票しなければならない。
2008.09.07
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狭い神社の参道の登り口で後輪が縁石を擦ってしまい、タイヤにざっくりと大穴が開いてしまいました。 予備タイヤに履き替えてブリジストンのタイヤ館で新しいタイヤに交換、2万円弱の出費となりました。 写真は後輪に装着したスペアタイヤです。
2008.09.06
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岡山県立博物館(後楽園入場門前にある)に行って来ました。 特別展示「日本刀-赤羽刀と備前の名刀-」今日が開催初日、一番槍を付けるべく勤務時間終了後直ちに愛車オデッセイを駆って後楽園へ、閉館時間が18時なので十分見学する事が出来ました。 特に目を引いたのが上杉謙信の愛刀「山鳥毛」関東管領上杉家から贈られた備前一文字、無銘ですが刃文が山鳥の羽毛に似ているので「山鳥毛」の号といわれます。備前福岡一文字派盛期の大作であり、身幅が広く、腰反りが高く、猪首鋒(いくびきつさき)が堂々としています。鍛えは板目、淡く乱れ映りが立 ち、刃文は重花(じゅうか)調の大丁子乱れを焼き、足・葉(よう)がしきりに入っています。無銘で、作者は明らかでないものの、備前福岡一文字派の中でも最高の技倆(ぎりょう)を持った刀工の作と思われます。 赤羽刀とは昭和20(1945)年9月、当時日本を占領していた連合国軍(GHQ)は、日本の武装解除の一環として全国に刀剣など武器類の提出を命じました。 こうして接収された数十万口の刀剣類は、当時赤羽(東京都北区)にあったアメリカ軍の兵器倉庫に集積されました。これらは,のちに日本に返還されましたが、関係者のあいだでは「赤羽刀」と総称されて、長らく公開が切望されていた刀剣類です。 さて,その赤羽刀は昭和22(1947)年、関係者の努力によって、美術的価値の高いもの約5500口が日本に返還されました。その後、元所有者への返還が始まりましたが、4500口を越える刀剣類が所有者不明のまま東京国立博物館の収蔵庫で保管されてきました。ところが戦後50年にあたる平成7(1995)年、「接収刀剣類の処理に関する法律」が成立し、国で保管されていた多くの赤羽刀が、全国の公立博物館等に無償譲与され広く公開・活用されることになりました。 写真は県立博物館、正面玄関です。
2008.09.05
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全員合格してくれたら良いのですが・・・
2008.09.04
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例年参加している日経ストックリーグにチーム登録をしました。500万円の所持金をバーチャルで運用、株式投資を模擬体験します。対象は中学、高校、大学に在籍している者で3名以上参加で1チームになります。運用成績を競うだけではなくどうしてその銘柄に投資したのかをレポートし、そのレポートを専門家が評価し最優秀が決まります。最優秀賞には図書券10万円と副賞としてニューヨーク研修旅行(もちろんウォール街の見学付き)あり。
2008.09.03
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豊かな暮らしの授業、私の担当は資産運用。「社会人になってお金とどう付き合えば良いのか」がテーマです。 写真は先日血洗いの滝を訪れる前に参詣した波多神社、本山寺の手前にありました。
2008.09.02
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全校集会でインターンシップで2年生が頑張ったので求人票を3種類貰った事を全校に披露、3年生も負けずに16日解禁の就職試験で頑張るように檄を飛ばしました。 午後からは履歴書の志望の動機を添削して欲しいと行列が出来ました。 写真はシンフォニーホールの中にある岡山観光プラザの売店にあった作州泥天神です。津山まで行かなくても岡山で買えるんです。知りませんでした。
2008.09.01
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