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伊賀市 旧大山田地区炊村の遊歩道マップ全長3kmの炊村全体図です。平成七年(1995)からの炊村景観整備事業の遊歩道計画により設けられたようです。伊賀藤堂藩「三国地志」に「山田郡の粟田屋輔に淅井戸があり古きより大神社(伊勢神宮)に献上する米を炊く「かくし」所で在った。炊村の起源となる。」とあります。粟田屋敷はこの井泉の北側台地に在ったと思われます。清水淅井戸(しょうずこめかし井戸) 伊賀地方では清水をしょうずと発音します。こめ‐かし【米淅】米を洗うこと。米をとぐこと。伊勢神宮に献上する米を炊く(かしく)所で炊村の起源。かしき【▽炊き/×爨き】 の解説「かしぎ」とも飯をたくこと。また、その人・場所。清水(しょうず)と呼ばれて地区の名水池でした。落葉に埋もれて忘れられていた、涌き水池を、平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画により落葉等を渫(さら)えて復活されたようです。今では菖蒲が咲くこの様な池になっています。炊村 清水淅しょうずこめかし井戸 碑文「三国地誌「炊 按(しらべる)栗田屋鋪と云處に井泉あり俗に淅(こめかし)井戸と云是上古 大神宮へ献する所の御供米(おくまい)を炊く故に名くと云」とあり 近世この井泉は清水(しょうず)と呼ばれて地区の名水でした。しかし昭和四十六年よりの水田の基盤整備にともない整備除外地となり落葉に埋もれて忘れられていましたが、今回平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画により井泉を渫(さら)えるとともに小公園として周辺を整備するに炊村の地名発祥の井泉として顕彰して後世に語り伝えるためにここに由来を刻む。平成十年三月吉日 炊村」東側端に在る、祠石碑の東側この祠の間には四阿(あずまや)が設けられています。昭和四十六年よりの水田の基盤整備にともない整備除外地となり落葉に埋もれて忘れられていました。減反政策の犠牲となったということです。今回平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画により井泉を渫(さら)えるとともに小公園として周辺を整備し炊村の地名発祥の井泉としてこ顕彰して後世に伝えるために石碑が建立されたのが平成十年(1998)ということで三年経ています。炊 苗字の由来欠は人が背をかがめて口を開けてしゃがんだ様を表すので炊は火を吹き起こす様を表す。日本姓氏語源辞典によると炊(かしき)姓は、伊賀市炊村発祥とありますのでこの地の伊勢神宮へ献する御供米(おくまい)を炊く役職の家が発祥でごく少数の家が鈴鹿市におられるようですが伊賀市に十人おられるのがほとんどのようです。池の上に白い泡状のモリアオガエルの卵塊が木の枝にぶら下がっています。絶滅の恐れがあるとしてレッドデータブックに記載されているそうです。泡状の卵塊は外敵から守る役割があり、孵化したオタマジャクシは雨水などと一緒に池に落ちて成長します。
2023年05月30日
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伊賀市荒木の車塚古墳へハイキングに向かいました。登り坂コースとしては標高230m程度から出発し標高360mへ130m程頂上まで登り次の北の山方向へ向かい途中の丘まで(山と山の間の馬の鞍部と例えられる)40m程降りる行程です。その230m地点から少し登った地点からの登り坂「桜が丘団地」の東側にある山道を東北方向に登ります。 しばらく行くと右手に池があります。さらに進むと、道が細く急坂になってきます。急坂を距離250m高さ40m登った分かれ道の所で中部電力会社の黄色の鉄塔表示版があります。その黄色の鉄塔表示板の№86の方向、左側の坂道を進みます。その坂道早速迷いそうな道です。 この山道を上って行くと、左右に道が分かれるところに出ます。赤いテープを巻いた木を目印に右側の狭い坂道を行きます。このNo,86の鉄塔に出たら左上へ登ります。山頂に出るとNo,87鉄塔があります。No,87鉄塔の北側にこの鉄塔表示板があります。やや平坦なところを北側に進み、そのまま北側の稜線にそって下って行くと、溝のように掘られた奥に小高い部分があり、そこが前方部の端になります。車塚というので円墳が並んでいるように思っていましたが前方後円墳です。東側の面に「史蹟 車塚」と刻まれた石碑、後ろ側の窪みが盗掘跡の穴裏面には昭和十二年三重県ヨリ指定とあります。さらに、墳丘部分を北側に進むと大きな窪みがあり、後円部墳頂部の盗掘坑です。盗掘坑の東隣に「史蹟 車塚」銘の石柱が立てられ、大山田の地名が入っています。古墳の始まりの坂、前方後円墳の方の部分です。車塚と言われているので円墳が二つ並んでいるのかと思っていましたが前方後円墳でした。しかし前方の部分が余り広がりが無く帆立貝形古墳と呼ばれる古墳かも知れません。 荒木車塚古墳と呼ばれているこの古墳は全長約93mの前方後円墳で、2段に築成されている。墳丘には葺石とともに埴輪が巡らされており、円筒・朝顔形・楯形・家形の埴輪が採集されています。本格的な発掘調査は未実施ですが古墳時代でも前期後半、後円部の盗掘坑にあった埴輪から4世紀後半築造と推定されています。車塚古墳は伊賀の須知荒木神社の須智稲置説があります。荒木車塚古墳は数々の逸話がある古墳ですが、近代まで後円部の盗掘坑の中では旱天(かんてん、ひでり)に際し祈雨の焚き上げが行われてきた場所です。
2023年05月29日
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伊賀市高尾 千方窟ウォーキングに行きました。「太平記」に朝廷に謀反を起こした藤原千方が立てこもったといわれる砦跡が柱状節理状の岩が屏風のように並んで窟となっている天然の要塞があります。砦跡には千方将軍を「千方明神」として祀る小さな祠もあります。高尾地区市民センターから出発した角にあるマップ看板、ここから距離約1,2kmですが登り坂ばかりでとてもそんな距離の疲れ方ではありませんでした。舗装された道を登ると地道に入る看板があります、後から思うとこの舗装された道の方が脚にこたえました。数百メートル行くと分かれ道があり日本遺産、忍の里 伊賀、甲賀 道標千方窟への入口として千方明社の鳥居があります。2015年に創設された制度、日本遺産に2017年に追加承認された、日本遺産「忍びの里 伊賀、甲賀 リアル忍者を求めて」の看板この看板自体は2023年3月に創設されたそうです。『太平記』によると、天智天皇の時代、時の豪族藤原千方は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき)です。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になります。また、この四鬼は忍者の原型であるともされます。千方城郭への東門跡看板裏門とされていますので西に正門が在ったのでしょうか、そもそも城というイメージされるものではなくせいぜい砦跡とされるものでしょう。千方窟の柱状節理群、この場所を砦として立て篭もり戦ったとされる場所です。藤原千方は平将門討伐で功を成した藤原秀郷(ひでさと10世紀前半)の孫、という説があります、とすると、10世紀後半から11世紀前半の人ということになり、実在の人物となります。秀郷は近江三上山に潜む巨大な百足を退治する側の武将としても知られていますが、その孫であるはずの千方が、逆に退治される側の鬼に与した武将としてその名が知られています。藤原千方達を退散させた紀朝雄(きのともお)の和歌が正面の岩に昭和四年(1929)に刻まれました。紀朝雄が鬼たちに対して、たった一首の和歌を詠んだだけで、鬼たちを退散させたという、 その歌というのが、「草も木も 我が大君の国なれば いづくか鬼の 棲なるべし」というもので、 直訳すれば、「草も木も、全てこの世のものは天皇が治めているのだ。鬼の居場所など、どこにあるというのだ」ということでしょうか。その脇に藤原千方を祀った祠。大門跡とされる場所、やはり東を正門としていたようです。しかし後年設定されたものでしょうから、日が登る東を正門、西を裏門とする定説に従ったのでしょう。ここから柱状摂理群の上部に登りました。厩(うまや)跡です、この様な山上で馬を飼っていたのでしょうか。因みに一緒に歩いていた女の人は厠(かわや)跡と読んでいました。一番上部にこの看板があります。風穴です。覗くと柱状摂理の上の切り込み状の六角形が見えます。柱状節理はマグマが冷えて固まったものです。冷えて収縮する時、アルファベットの「Y」のような形の割れ目が出来、それぞれの割れ目がちょうど120度で交わり形成されるので六角形の柱が出来ることがほとんどです。柱の直径は3メートルから数センチメートルまで様々で、高さは30メートルのものもあります。この風穴がここから名張市まで通じていて、そこから奥伊勢での藤原千方伝説が遺ります。しかしこの高尾地区の千方伝承会の方はこの地で亡くなった説を説かれていました。「太平記」は軍紀物語としての側面があり藤原千方を天智天皇の時代(7世紀)の人とされている記述がありますが、8世紀に記された日本書紀には記述がありません。やはり平安時代の11世紀の人だと思われます。千方伝承会の方は藤原千方は重い課税を批判して朝廷と争ったとして朝敵とは着せられた汚名であるとされていました。
2023年05月29日
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